一
「
鸚鵡さん、しばらくね……」
と
真紅へ、ほんのりと
霞をかけて、新しい火の
※[#「火+發」、123-4]と移る、
棟瓦が
夕舂日を
噛んだ
状なる
瓦斯暖炉の前へ、
長椅子を
斜に、ト
裳を
床。
上草履の
爪前細く
※娜[#「女+島」の「山」に代えて「衣」、123-5]に腰を掛けた、年若き夫人が、博多の
伊達巻した
平常着に、お
召の
紺の
雨絣の羽織ばかり、
繕はず、
等閑に
引被けた、
其の姿は、
敷詰めた
絨氈の
浮出でた
綾もなく、
袖を投げた椅子の手の、緑の深さにも
押沈められて、消えもやせむと淡かつた。けれども、美しさは、
夜の雲に暗く
梢を
蔽はれながら、もみぢの枝の
裏透くばかり、
友染の
紅ちら/\と、
櫛巻の黒髪の
濡色の
露も
滴る、天井高き山の
端に、電燈の影白うして、
揺めく如き暖炉の
焔は、世に隠れたる
山姫の
錦を照らす
松明かと
冴ゆ。
博士が
旅行をした
後に、
交際ぎらひで、
籠勝ちな、
此の夫人が留守した家は、まだ
宵の
間も、実際
蔦の中に
所在の
知るゝ
山家の如き、
窓明。
広い
住居の近所も遠し。
久しぶりで、
恁うして火を置かせたまゝ、気に入りの小間使さへ遠ざけて、ハタと
扉を
閉した音が、
谺するまで響いたのであつた。
夫人は、さて
唯一人、壁に寄せた
塗棚に
据置いた、
籠の中なる、
雪衣の
鸚鵡と、
差向ひに居るのである。
「御機嫌よう、ほゝゝ、」
と
莟を含んだ
趣して、鸚鵡の雪に
照添ふ唇……
籠は上に、棚の
丈稍高ければ、
打仰ぐやうにした、
眉の優しさ。
鬢の毛はひた/\と、羽織の
襟に着きながら、肩も
頸も細かつた。
「まあ、
挨拶もしないで、……
黙然さん。お澄ましですこと。……あゝ、此の
間、
鳩にばツかり構つて居たから、お前さん、
一寸お
冠が曲りましたね。」
此の
五日六日、
心持煩はしければとて、客にも
逢はず、二階の
一室に籠りツ
切、で、
寝起の
隙には、裏庭の松の
梢高き、城のもの見のやうな窓から、雲と水色の空とを
観ながら、
徒然にさしまねいて、
蒼空を舞ふ
遠方の
伽藍の鳩を呼んだ。――真白なのは、
掌へ、
紫なるは、かへして、指環の
紅玉の輝く
甲へ、
朱鷺色と黄の
脚して、軽く来て
留るまでに
馴れたのであつた。
「それ/\、お冠の通り、
嘴が曲つて来ました。目をくる/\……でも、
矢張り
可愛いねえ。」
と
艶麗に
打傾き、
「其の替り、今ね、寝ながら本を読んで居て、面白い事があつたから、お話をして上げようと思つて、
故々遊びに来たんぢやないか。途中が寒かつたよ。」
と、
犇と合はせた、
両袖堅く
緊つたが、
溢るゝ
蹴出し柔かに、
褄が
一靡き落着いて、胸を
反らして、顔を引き、
「
否、まだ出して上げません。……お話を聞かなくツちや……でないと袖を
啣へたり、乗つたり、
悪戯をして
邪魔なんですもの。
お聞きなさいよ。
可いかい、お聞きなさいよ。
まあ、ねえ。
座敷は――こんな
貸家建ぢやありません。壁も、床も、皆
彩色した石を敷いた、
明放した二階の大広間、
客室なんです。
外面の、
印度洋に向いた方の、大理石の
廻り
縁には、
軒から掛けて、
床へ敷く……水晶の
簾に、星の数々
鏤めたやうな、ぎやまんの
燈籠が、十五、
晃々点いて並んで居ます。
草花の絵の
蝋燭が、月の
桂の透くやうに。」
と
襟を
圧へた、指の先。
二
引合はせ、又
袖を当て、
「
丁ど、まだ
灯を入れたばかりの
暮方でね、……其の
高楼から
瞰下ろされる
港口の
町通には、
焼酎売だの、雑貨屋だの、
油売だの、肉屋だのが、皆
黒人に荷車を
曳かせて、……
商人は、
各自に、ちやるめらを吹く、さゝらを
摺る、
鈴を鳴らしたり、小太鼓を打つたり、
宛然お
神楽のやうなんですがね、
家が
大いから、遠くに聞えて、夜中の、あの魔もののお
囃子見たやうよ、……そして車に着いた
商人の、一人々々、
穂長の
槍を
支いたり、
担いだりして
行く形が、ぞろ/\影のやうに黒いのに、
椰子の
樹の茂つた上へ、どんよりと黄色に出た、月の
明で、
白刃ばかりが、
閃々、と
稲妻のやうに
行交はす。
其の向うは、
鰐の泳ぐ、
可恐い
大河よ。……
水上は
幾千里だか分らない、
天竺のね、
流沙河の
末だとさ、河幅が三里の上、深さは
何百尋か分りません。
船のある事……
帆柱に
巻着いた赤い雲は、夕日の
余波で、鰐の口へ血の晩御飯を
注込むんだわね。
時は十二月なんだけれど、五月のお節句の、
此は
鯉、
其は金銀の糸の翼、輝く
虹を
手鞠にして投げたやうに、空を舞つて居た
孔雀も、
最う庭へ帰つて居るの……
燻占めはせぬけれど、棚に飼つた
麝香猫の強い
薫が
芬とする……
同やうに
吹通しの、裏は、川筋を一つ向うに、夜中は
尾長猿が、キツキと鳴き、カラ/\カラと
安達ヶ
原の
鳴子のやうな、
黄金蛇の声がする。
椰子、
檳榔子の生え茂つた山に添つて、城のやうに
築上げた、
煉瓦造がづらりと並んで、
矢間を切つた黒い窓から、
弩の口がづん、と出て、幾つも幾つも
仰向けに、星を
呑まうとして居るのよ……
和蘭人の
館なんです。
其の
一の、
和蘭館の貴公子と、其の父親の二人が客で。
卓子の青い鉢、青い皿を囲んで
向合つた、
唐人の夫婦が二人。別に、肩には
更紗を
投掛け、腰に長剣を
捲いた、目の鋭い、
裸の
筋骨の
引緊つた、威風の
凜々とした男は、島の王様のやうなものなの……
周囲に、
可いほど
間を置いて、
黒人の召使が三人で、
謹んで給仕に附いて居る所。」
と
俯目に、
睫毛濃く、
黒棚の
一ツの
仕劃を見た。
袖口白く手を
伸べて、
「あゝ、一人
此処に居たよ。」
と言ふ。
天窓の大きな、
頤のしやくれた、
如法玩弄の
焼ものの、ペロリと舌で、
西瓜喰ふ
黒人の人形が、ト赤い目で、
額で
睨んで、灰色の
下唇を
反らして
突立つ。
「……余り
謹んでは居ないわね……
一寸、お話の中へ出ておいで。」
と手を掛けると、ぶるりとした、
貧乏動ぎと云ふ
胴揺りで、ふてくされにぐら/\と
拗身に震ふ……はつと思ふと、左の足が
股のつけもとから、ぽきりと折れて、ポンと
尻持を
支いた
体に、
踵の黒いのを
真向きに見せて、一本ストンと
投出した、……
恰も
可、
他の人形など
一所に並んだ、中に
交つて、
其処に、木彫にうまごやしを
萌黄で
描いた、舶来ものの靴が
片隻。
で、肩を持たれたまゝ、右の
跛の
黒どのは、夫人の
白魚の細い指に、ぶらりと
掛つて、
一ツ、ト前のめりに泳いだつけ、
臀を
揺つた
珍な形で、けろりとしたもの、西瓜をがぶり。
熟と
視て、
「まあ……」
離すと、
可いことに、あたり近所の、
我朝の
姉様を
仰向に
抱込んで、
引くりかへりさうで
危いから、不気味らしくも手からは落さず……
「島か、
光か、
払を掛けて――お待ちよ、
否、
然う/\……
矢張これは、此の話の中で、
鰐に片足
食切られたと云ふ土人か。人殺しをして、山へ
遁げて、
大木の
梢へ
攀ぢて、枝から枝へ、
千仭の
谷を伝はる
処を、
捕吏の役人に鉄砲で
射られた人だよ。
ねえ
鸚鵡さん。」
と、足を
継いで、
籠の
傍へ
立掛けた。
鸚鵡の目こそ輝いた。
三
「あんな顔をして、」
と夫人は声を沈めたが、
打仰ぐやうに籠を
覗いた。
「お前さん、お
知己ぢやありませんか。
尤も御先祖の頃だらうけれど――其の
黒人も……
和蘭陀人も。」
で、木彫の、小さな、
護謨細工のやうに柔かに
襞の入つた、靴をも取つて籠の前に
差置いて、
「此のね、可愛らしいのが、其の時の、
和蘭陀館の貴公子ですよ。御覧、――お待ちなさいよ。
恁うして並べたら、何だか、もの足りないから。」
フト夫人は椅子を立つたが、前に挟んだ
伊達巻の端をキウと
緊めた。
絨氈を運ぶ上靴は、雪に
南天の
実の赤きを行く……
書棚を
覗いて奥を見て、
抽出す論語の第一巻――
邸は、置場所のある所とさへ言へば、廊下の
通口も二階の
上下も、ぎつしりと東西の書もつの
揃つた、
硝子戸に
突当つて其から曲る、……本箱の
五ツ
七ツが家の五丁目七丁目で、
縦横に通ずるので。……こゝの此の書棚の上には、花は
丁ど
挿してなかつた、――
手附の大形の
花籠と並べて、
白木の
桐の、軸ものの箱が
三ツばかり。其の真中の
蓋の上に……
恁う
仰々しく
言出すと、
仇の
髑髏か、毒薬の
瓶か、と驚かれよう、
真個の事を言ひませう、さしたる儀でない、
紫の
切を掛けたなりで、一
尺三
寸、
一口の
白鞘ものの刀がある。
と
黒目勝な、意味の深い、
活々とした
瞳に映ると、何思ひけむ、紫ぐるみ、本に添へて、すらすらと持つて椅子に帰つた。
其だけで、身の悩ましき人は
吻と息する。
「さあ、此の本が、
唐土の人……揃つたわね、主人も、客も。
而して
鰐の晩飯時分、
孔雀のやうな
玉の
燈籠の
裡で、
御馳走を会食して居る……
一寸、其の
高楼を
何処だと思ひます……
印度の中のね、
蕃蛇剌馬……
船着の貿易所、――お前さんが御存じだよ、私よりか、」
と
打微笑み、
「
主人は、
支那の
福州の
大商賈で、客は、其も、
和蘭陀の
富豪父子と、此の島の
酋長なんですがね、こゝでね、
皆がね、たゞ
一ツ、其だけに
就いて繰返して話して居たのは、――此のね、酋長の手から買取つて、和蘭陀の、其の貴公子が、此の
家へ贈りものにした――
然うね、お前さんの、あの、御先祖と云ふと
年寄染みます、其の時分は
少いのよ。出が王様の城だから、姫君の
鸚鵡が
一羽。
全身
緋色なんだつて。……
此が、
哥太寛と云ふ、
此家の
主人たち夫婦の秘蔵娘で、今年十八に成る、
哥鬱賢と云うてね、島第一の美しい人のものに成つたの。和蘭陀の公子は
本望でせう……実は其が望みだつたらしいから――
鸚鵡は多年
馴らしてあつて、土地の言語は
固よりだし、
瓜哇、
勃泥亜の
訛から、
馬尼剌、
錫蘭、
沢山は
未だなかつた、
英吉利の語も使つて、其は……
怜悧な娘をはじめ、誰にも、よく解るのに、
一ツ人の
聞馴れない、不思議な
言語があつたんです。
以前の持主、二度目のはお
取次、一人も仕込んだ覚えはないから、其の人たちは無論の事、港へ出入る、国々島々のものに尋ねても、まるつきし通じない、
希有な文句を歌ふんですがね、
検べて見ると、其が何なの、此の内へ来てから、はじまつたと分つたんです。
何かの折の御馳走に、
哥太寛が、――今夜だわね――其の人たちを
高楼に
招いて、話の折に、又其の事を
言出して、
鸚鵡の口真似もしたけれども、分らない文句は、鳥の声とばツかし聞えて、
傍で聞く
黒人たちも、妙な
顔色で居る所……ね……
其処へですよ、奥深く居て顔は見せない、娘の
哥鬱賢から、
が一人
使者で出ました……」
四
「
差出がましうござんすが、お座興にもと存じて、お客様の前ながら、申上げます、とお嬢様、
御口上。――内に、
日本と云ふ、
草毟の若い人が
居りませう……ふと思ひ着きました。あのものをお召し遊ばし、鸚鵡の
謎をお問合はせなさいましては
如何でせうか、と其の
が
陳べたんです。
鸚鵡は、
尤も、お嬢さんが
片時も
傍を離さないから、席へ出ては居なかつたの。
でね、此を聞くと、人の
好い、気の優しい、哥太寛の
御新姐が、おゝ、と云つて、
袖を
開く……主人もはた、と手を
拍つて、」
とて、夫人は椅子なる袖に寄せた、
白鞘を軽く
圧へながら、
「
先刻より御覧に入れた、此なる
剣、と哥太寛の云つたのが、――
卓子の上に置いた、
蝋塗、
鮫鞘巻、
縁頭、
目貫も
揃つて、金銀造りの
脇差なんです――此の日本の
剣と
一所に、
泯汰脳の
土蛮が船に積んで、売りに参つた日本人を、三年
前に
買取つて、現に
下僕として使ひまする。が、
傍へも寄せぬ
下働の
漢なれば、
剣は
此処にありながら、其の事とも存ぜなんだ。……
成程、呼べ、と給仕を
遣つて、鸚鵡を此へ、と急いで嬢に、で、
を立たせたのよ。
たゞ
玉の
緒のしるしばかり、髪は糸で結んでも、
胡沙吹く風は肩に乱れた、身は
痩せ、顔は
窶れけれども、目鼻立ちの
凜として、
口許の
緊つたのは、
服装は
何うでも
日本の
若草。
黒人の給仕に導かれて、
燈籠の影へ
顕れたつけね――主人の用に
商売ものを運ぶ節は、
盗賊の用心に
屹と持つ……
穂長の
槍をねえ、こんな場所へは出つけないから、
突立てたまゝで居るんぢやありませんか。
和蘭陀のは騒がなかつたが、
蕃蛇剌馬の
酋長は、帯を
手繰つて、長剣の
柄へ手を掛けました。……此のお
夥間です……人の
売買をする
連中は……まあね、槍は給仕が、此も
慌てて受取つたつて。
静かに進んで礼をする時、
牡丹に
八ツ
橋を
架けたやうに、花の中を廻り
繞つて、奥へ続いた
高楼の廊下づたひに、
黒女の
が
前後に三人
属いて、
浅緑の
衣に同じ
裳をした……
面は、雪の
香が沈む……
銀の
櫛照々と、両方の
鬢に十二枚の
黄金の
簪、玉の
瓔珞はら/\と、お嬢さん。
耳鉗、
腕釧も細い姿に、
抜出るらしく
鏘々として……あの、さら/\と
歩行く。
母親が
曲を立つて、花の中で迎へた
処で、哥鬱賢は
立停まつて、
而して……桃の花の
重つて、影も
染まる緋色の
鸚鵡は、お嬢さんの肩から翼、
飜然と母親の手に
留まる。其を持つて、
卓子に帰つて来る
間に、お嬢さんの姿は、
の
三ツの黒い中に隠れたんです。
鸚鵡は誰にも
馴染だわね。
卓子の
其処へ、
花片の翼を両方、
燃立つやうに。」
と云ふ。声さへ、其の色。
暖炉の
瓦斯は
颯々と
霜夜に
冴えて、一層
殷紅に、
且つ
鮮麗なるものであつた。
「影を映した時でした……其の
間に
早や用の
趣を言ひ聞かされた、髪の長い、日本の若い人の、
熟と見るのと、
瞳を合せたやうだつたつて……
若い人の、
窶れ顔に、血の色が
颯と
上つて、――国々島々、方々が、いづれもお分りのないとある、
唯一句、不思議な、短かい、鸚鵡の声と申すのを、
私が先へ申して見ませう……もしや?……
――港で待つよ――
と、
恁う申すのではござりませぬか、と言ひも
未だ果てなかつたに、島の
毒蛇の
呼吸を消して、
椰子の峰、
鰐の
流、
蕃蛇剌馬の黄色な月も晴れ渡る、世にも
朗かな
涼しい声して、
――港で待つよ――
と、
羽を
靡かして、其の
緋鸚鵡が、高らかに歌つたんです。
釵の
揺ぐ
気勢は、
彼方に、お嬢さんの方にして……
卓子の其の
周囲は、
却つて
寂然となりました。
たゞ、
和蘭陀の貴公子の、
先刻から娘に通はす
碧を
湛へた目の美しさ。
はじめて鸚鵡に見返して、此の言葉よ、此の言葉よ!日本、と
真前に云ひましたとさ。」
五
「
真個、其の
言に違はないもんですから、主人も、客も、座を正して、其のいはれを聞かうと云つたの。
――港で待つよ――
深夜に、
可恐い
黄金蛇の、カラ/\と
這ふ時は、
[#「、」は底本では「、、」]土蛮でさへ、誰も皆耳を
塞ぐ……其の時には
何うか知らない……そんな
果敢い、一生
奴隷に買はれた身だのに、一度も泣いた事を見ないと云ふ、日本の其の
少い人は、今
其の鸚鵡の
一言を聞くか聞かないに、
槍をそばめた手も恥かしい、ばつたり
床に、
俯向けに倒れて
潸々と泣くんです。
お嬢さんは、
伸上るやうに見えたの。
涙を払つて――唯今の
鸚鵡の声は、
私が日本の地を
吹流されて、
恁うした身に成ります、其の船出の夜中に、
歴然と聞きました……
十二一重に緋の
袴を召させられた、百人一首と云ふ歌の本においで遊ばす、
貴方方にはお解りあるまい、尊い姫君の絵姿に、
面影の
肖させられた
御方から、お声がかりがありました、其の言葉に違ひありませぬ。いま
赫耀とした鳥の翼を見ますると、
射らるゝやうに其の緋の袴が目に見えたのでこさります。――と此から話したの――其の時のは、船の
女神さまのお姿だつたんです。
若い人は
筑前の
出生、博多の
孫一と云ふ
水主でね、十九の年、……七年前、福岡藩の米を積んだ、千六百
石の
大船に、
乗組の
人数、船頭とも二十人、
宝暦午の
年十月六日に、
伊勢丸と云ふ其の
新造の
乗初です。
先づは
滞りなく大阪へ――それから
豊前へ廻つて、
中津の米を江戸へ積んで、江戸から奥州へ渡つて、又青森から津軽藩の米を
託つて、一度品川まで戻つた
処、
更めて津軽の材木を積むために、奥州へ
下つたんです――其の内、年号は
明和と成る……元年
申の七月八日、材木を
積済まして、
立火の
小泊から帆を
開いて、順風に沖へ走り出した時、一
人、
櫓から
倒に落ちて死んだのがあつたんです、此があやかしの
憑いたはじめなのよ。
南部の
才浦と云ふ
処で、
七日ばかり
風待をして居た内に、
長八と云ふ若い男が、
船宿小宿の娘と
馴染んで、
明日は
出帆、と云ふ前の晩、手に手を取つて、行方も知れず……
一寸……
駈落をして
了つたんだわ!」
ふと
蓮葉に、ものを言つて、夫人はすつと立つて、
対丈に、
黒人の
西瓜を避けつゝ、鸚鵡の
籠をコト/\と
音信れた。
「
何う?多分
其の我まゝな駈落ものの、……私は子孫だ、と思ふんだがね。……御覧の通りだからね、」
と、
霜の
冷い色して、
「でも、駈落ちをしたお
庇で、無事に
生命を助かつたんです。思つた同士は、
道行きに限るのねえ。」
と力なささうに、疲れたらしく、
立姿のなり、
黒棚に、柔かな
袖を掛けたのである。
「あとの大勢つたら、其のあくる日から、火の雨、火の風、火の
浪に
吹放されて、西へ――西へ――毎日々々、百日と六日の
間、鳥の影一つ見えない
大灘を漂うて、お米を二
升に水一
斗の
薄粥で、二十人の一日の
生命を
繋いだのも、はじめの内。くまびきさへ
釣れないもの、長い
間に漁したのは、
二尋ばかりの
鱶が一
疋。さ、其を食べた
所為でせう、お
腹の皮が
蒼白く、
鱶のやうにだぶだぶして、手足は
海松の枝の枯れたやうになつて、
漸つと見着けたのが
鬼ヶ
島、――魔界だわね。
然うして
地を見てからも、島の
周囲に、底から生えて、
幹ばかりも五
丈、八丈、すく/\と水から出た、名も知れない樹が邪魔に成つて、船を着ける事が出来ないで、海の中の森の
間を、潮あかりに、月も日もなく、
夜昼七日流れたつて言ふんですもの……
其の時分、大きな
海鼠の
二尺許りなのを取つて食べて、毒に当つて、死なないまでに、こはれごはれの船の中で、
七顛八倒の
苦痛をしたつて言ふよ。……まあ、どんな、
心持だつたらうね。渇くのは
尚ほ
辛くつて、雨のない日の続く時は
帆布を拡げて、
夜露を受けて、
皆が口をつけて吸つたんだつて――大概唇は破れて血が出て、――助かつた此の話の
孫一は、
余り激しく吸つたため、前歯二つ
反つて居たとさ。……
お聞き、島へ着くと、
元船を
乗棄てて、
魔国とこゝを覚悟して、
死装束に、髪を
撫着け、衣類を
着換へ、羽織を着て、
紐を結んで、てん/″\が
一腰づゝ
嗜みの
脇差をさして
上陸つたけれど、
飢渇ゑた上、毒に当つて、足腰も立たないものを
何うしませう?……」
六
「三百人ばかり、
山手から
黒煙を揚げて、
羽蟻のやうに渦巻いて来た、
黒人の
槍の
石突で、浜に倒れて、
呻吟き悩む一人々々が、胴、腹、腰、背、コツ/\と
突かれて、
生死を
験されながら、
抵抗も成らず
裸にされて、懐中ものまで
剥取られた上、
親船、
端舟も、
斧で、ばら/\に
摧かれて、
帆綱、
帆柱、離れた釘は、
可忌い
禁厭、
可恐い
呪詛の用に、
皆奪られて
了つたんです。……
あとは残らず
牛馬扱ひ。それ、草を
毟れ、
馬鈴薯を掘れ、貝を突け、で、焦げつくやうな炎天、
夜は
毒蛇の
霧、
毒虫の
靄の中を、
鞭打ち鞭打ち、こき使はれて、
三月、
半歳、一年と云ふ
中には、大方死んで、あと二三人だけ残つたのが一人々々、牛小屋から
掴み出されて、
果しも知らない海の上を、
二十日目に島一つ、五十日目に島一つ、離れ/″\に方々へ売られて
奴隷に成りました。
孫一も其の一人だつたの……此の人はね、乳も涙も
漲り落ちる
黒女の
俘囚と
一所に、島々を
目見得に廻つて、其の
間には、日本、日本で、見世ものの小屋に置かれた事もあつた。一度
何処か方角も知れない島へ、船が
水汲に寄つた時、浜つゞきの
椰子の樹の奥に、
恁うね、透かすと、一人、コトン/\と、
寂しく
粟を
搗いて居た
亡者があつてね、其が
夥間の一人だつたのが分つたから、声を掛けると、
黒人が
突倒して、船は其のまゝ
朱色の海へ、ぶく/\と出たんだとさ……可哀相ねえ。
まだ
可哀なのはね、
一所に
連廻はられた
黒女なのよ。又何とか云ふ
可恐い島でね、人が死ぬ、と
家属のものが、其の首は大事に
蔵つて、他人の首を
活きながら切つて、死人の首へ
継合はせて、其を
埋めると云ふ
習慣があつて、
工面のいゝのは、
平常から
首代の人間を
放飼に飼つて置く。日本ぢや身がはりの首と云ふ武士道とかがあつたけれど、其の島ぢや
遁げると
不可いからつて、足を縛つて、首から掛けて、
股の
間へ鉄の
分銅を
釣るんだつて……
其処へ、あの、黒い、乳の膨れた女は買はれたんだよ。
孫一は、天の助けか、其の土地では売れなくつて――とう/\
蕃蛇剌馬で
方が附いた――
と云ふ訳なの……
話は此なんだよ。」
夫人は小さな吐息した。
「
其のね、ね。
可悲い、
可恐い、滅亡の運命が、人たちの身に、
暴風雨と成つて、天地とともに
崩掛らうとする前の
夜、……風はよし、
凪はよし……船出の祝ひに酒盛したあと、船中残らず、ぐつすりと寝込んで居た、仙台の
小淵の港で――
霜の月に
独り
覚めた、年十九の孫一の目に――思ひも掛けない、
艫の
間の
神龕の前に、
凍つた竜宮の
几帳と思ふ、
白気が
一筋月に透いて、向うへ大波が
畝るのが、
累つて
凄く映る。其の蔭に、
端麗さも
端麗に、
神々しさも神々しい、緋の
袴の姫が、お
一方、孫一を一目見なすつて、
――港で待つよ――
と其の
一言。すらりと
背後向かるゝ黒髪のたけ、
帆柱より長く
靡くと思ふと、袴の
裳が波を
摺つて、月の前を、さら/\と、かけ波の
沫の玉を散らしながら、
衝と
港口へ飛んで消えるのを見ました……あつと思ふと夢は
覚めたが、月明りに霜の
薄煙りがあるばかり、船の中に、尊い
香の
薫が残つたと。……
此の船中に話したがね、船頭はじめ――
白痴め、
婦に誘はれて、
駈落の真似がしたいのか――で、船は人ぐるみ、
然うして奈落へ
逆に
落込んだんです。
まあ、何と言はれても、美しい人の言ふことに、従へば
可かつたものをね。
七年
幾月の其の日はじめて、世界を代へた
天竺の
蕃蛇剌馬の
黄昏に、緋の色した
鸚鵡の口から、同じ
言を聞いたので、身を
投臥して泣いた、と言ひます。
微妙き
姫神、余りの事の霊威に
打れて、一座皆
跪いて、東の空を拝みました。
言ふにも及ばない事、
奴隷の恥も、
苦みも、孫一は、其の座で
解けて、娘の
哥鬱賢が
贐した其の鸚鵡を肩に
据ゑて。」
と
籠を
開ける、と
飜然と来た、が、此は純白
雪の如きが、嬉しさに、
颯と
揚羽の、
羽裏の色は淡く黄に、
嘴は
珊瑚の
薄紅。
「
哥太寛も
餞別しました、金銀づくりの
脇差を、片手に、」と、
肱を張つたが、
撓々と成つて、
紫の
切も乱るゝまゝに、
弛き博多の
伊達巻へ。
肩を斜めに前へ落すと、
袖の上へ、
腕が
辷つた、……月が投げたるダリヤの
大輪、
白々と、揺れながら
戯れかゝる、
羽交の下を、軽く手に受け、
清しい目を、
熟と合はせて、
「……あら嬉しや!
三千日の夜あけ方、
和蘭陀の
黒船に、
旭を載せた
鸚鵡の緋の色。めでたく
筑前へ帰つたんです――
お聞きよ此を! 今、現在、私のために、
荒浪に漂つて、
蕃蛇剌馬に辛苦すると同じやうな
少い人があつたらね、――お前は何と云ふの!何と言ふの?
私は、其が聞きたいの、聞きたいの、聞きたいの、……たとへばだよ……お前さんの
一言で、運命が
極ると云つたら、」
と、息切れのする
瞼が
颯と、気を込めた手に力が入つて、鸚鵡の胸を
圧したと思ふ、
嘴を
いて
開けて、カツキと
噛んだ小指の
一節。
「あ、」と離すと、爪を
袖口に
縋りながら、
胸毛を
倒に
仰向きかゝつた、鸚鵡の翼に、
垂々と
鮮血。
振離すと、
床まで落ちず、宙ではらりと、影を乱して、
黒棚に、バツと乗る、と
驚駭に
衝と
退つて、夫人がひたと
遁構への
扉に
凭れた時であつた。
呀!
西瓜は投げぬが、がつくり動いて、ベツカツコ、と目を
剥く拍子に、前へのめらうとした
黒人の其の
土人形が、
勢余つて、どたりと
仰状。ト木彫のあの、
和蘭陀靴は、スポンと裏を見せて
引顛返る。……
煽をくつて、論語は、ばら/\と暖炉に映つて、
赫と朱を
注ぎながら、
頁を
開く。
雪なす鸚鵡は、見る/\全身、美しい血に
染つたが、目を眠るばかり
恍惚と成つて、
朗かに歌つたのである。
――港で待つよ――
時に
立窘みつゝ、
白鞘に思はず手を掛けて、以ての
外かな、
怪異なるものどもの
挙動を
屹と
視た夫人が、忘れたやうに、
柄をしなやかに袖に
捲いて、するりと帯に落して、片手におくれ毛を払ひもあへず……
頷いて……
莞爾した。