河伯令嬢

泉鏡花




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――心中見た見た、並木の下で
     しかも皓歯しらはと前髪で――


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 北国金沢は、元禄に北枝ほくし、牧童などがあって、俳諧に縁が浅くない。――つい近頃たのが、文政三年の春。……春とは云っても、あのあたりは冬籠ふゆごもりの雪の中で、可心――という俳人が手づくろいに古屏風ふるびょうぶの張替をしようとして――(北枝編――卯辰うたつ集)――が、屏風の下張りに残っていたのを発見して、……およそ百歳ももとせいにしえをなつかしむままに、と序して、丁寧に書きとった写本がある。
 卯辰は、いまも山よりの町の名で、北枝が住んでいた処らしい。
 可心の写本によると、奥の細道に、そんな記事は見えないが、
おきなにぞ蚊帳つり草を習ひける   北枝
 野田山のふもとを翁にともないて、と前がきしたのが見える。北方の逸士は、芭蕉を案内して、その金沢の郊外を歩行あるいたのである。また……
 丸岡にて翁にわかれはべりし時扇に書いてたまはる。
もの書いて扇子おうぎへぎ分くる別哉わかれかな   芭蕉
 本人が「給わる」とその集に記したのだから間違いはあるまい。奥の細道では、
ものかいて扇子ひきさくなごり哉
である。引裂くなどという景気は旅費の懐都合もあり、元来、翁の本領ではないらしい……それから、
石山の石より白し秋の霜   芭蕉
 那谷寺なたでらにおけるこの句が、
石山の石より白し秋の風
 となっている。そうして、同じ那谷に同行した山中温泉の少年粂之助くめのすけあらたに弟子になって、桃妖とうようと称したのに対しての吟らしい。
湯のわかれ今宵は肌の寒からむ   芭蕉
 おなじく桃妖に与えたものである。芭蕉じいさん……性的に少し怪しい。……
山中や菊は手折らじ湯の匂ひ
 この句は、芭蕉がしたためたのを見た、と北枝が記しているから、
山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ
 世に知られたのは、後に推敲すいこう訂正したものであろう、あるいは猿簑さるみのを編む頃か。
 その猿簑に、
たこきれて白嶺しらねたけを行方かな   桃妖
 温泉の美少年の句は――北枝の集だと、
糸切れて凧は白嶺を行方かな
 になっている。そのいずれか是なるを知らない。が、白山を白嶺と云う……白嶺ヶ嶽と云わないのは事実である。
 これは、ただ、その地方に、由来、俳諧の道にたずさわったものの少くない事を言いたいのに過ぎない。……ところが、思いがけず、前記の可心が、この編に顔を出す事になった。
 私は――小山夏吉さん。(以下、「さん」を失礼する。俳人ではない。人となりは後に言おうと思う。)と炬燵こたつに一酌して相対した。

「――昨年、能登のとの外浦を、奥へ入ろうと歩行あるきました時、まだほんの入口ですが、羽咋はぐい郡の大笹の宿で、――可心という金沢の俳人の(能登路の記)というのを偶然読みました。
 寝床の枕頭まくらもと、袋戸棚にあったのです。色紙短冊などもあるからちと見るように、と宿の亭主が云ったものですから――」
 小山夏吉が話したのである。
「……宿へ着いたのは、まだ日のたかいうちだったのです。下座敷の十畳、次に六畳の離れづくりで、広い縁は、滑るくらい拭込ふきこんでありました。庭前にわさきには、枝ぶりのいい、おおきな松の樹が一本、で、ちっとも、もの欲しそうにこしらえた処がありません。飛々に石を置いた向うは、四ツ目に組んだ竹垣で、垣に青薄あおすすき生添はえそって、葉の間から蚕豆そらまめの花が客を珍らしそうにのぞく。……ずッと一面の耕地水田で、その遠くにも、近くにも、取りまわした山々のすそかけて、海と思うあたりまで、ひとつずつ蛙が鳴きますばかり、時々この二階から吹くように、峰をおろす風が、庭前にわさきの松のこずえに、さっと鳴って渡るのです。
 ――今でも覚えていますが、日の暮にも夜分にも、ほとんど人声が聞こえません。足音一つ響かないくらい、それはしずかなものでした。それで、これが温泉宿……いや鉱泉宿です。一時ひとしきり世の中がラジウムばやりだった頃、つきものがしたようににぎわったのだそうですが、汽車に遠い山入りの辺鄙へんぴで、ことに和倉の有名なのがある国です。近ごろでは、まあ精々在方の人たちの遊び場所、しかも田植時にかかって、がらんとしていると聞いて、かえって望む処と、わざと外浜の海づたいから、二里ばかりも山へ入込んで泊ったのです。別に目立った景色もありません、一筋道の里で、川が、米町よねまち川が、村の中を、すぐ宿の前を流れますが、谿河たにがわながら玉を切るの、水晶を刻むのと、黒い石、青いいわを削り添えて形容するようなながれではありません。長さ五間ばかり、こうすかすと、渡る裏へ橋げたまで草の生乱れた土橋から、宿の玄関へ立ったのでしたっけ。――(さあ、どうぞ。)が、小手さきの早業で、例のスリッパを、ちょいと突直すんじゃない、うちの女房かみさんが、たすきをはずしながら、土間にある下駄を穿いて、こちらへ――と前庭を一まわり、地境じざかい茱萸ぐみの樹の赤くぽつぽつ色づいた下を。それでも小砂利を敷いたつぼの広い中に、縞笹しまざさがきれいらしく、すいすいとが伸びて、その真青まっさおな蔭に、昼見る蛍の朱の映るのは紅羅がんびの花のつぼみです。本屋おもや続きの濡縁に添って、小さな杜若かきつばたの咲いた姿が、白く光る雲の下に、あかるく、しっとりと露を切る。……木戸の釘は錆びついて、抜くと、蝶番ちょうつがいが、がったり外れる。一つ撓直ためなおして、扉を開けるのですから、出会がしらに、水鶏くいなでもお辞儀をしそうな、この奥庭に、松風で。……ですから、私は嬉しくなって、どこを見物しないでも、翌日も一日、ゆっくり逗留とうりゅうの事と思ったのです。
 それに、とにかく、大笹鉱泉と看板を上げただけに、湯は透通ります。西の縁づたいに、竹に石燈籠いしどうろうをあしらった、本屋の土蔵の裏を、ずッと段を下りてくのですが、人懐ひとなつこい可愛い雀が、ばらばら飛んだり踊ったり、横に人の顔を見たり、その影が、湯の中まで、竹の葉と一所に映るのでした。
 ――夜、寝床に入りますまで、二階屋の上下うえした、客は私一人、あまり閑静しずか過ぎて寝られませんから、枕頭へ手を伸ばして……亭主の云った、袋戸棚を。で、さぞほこりだろうと思うのが、きちんとしている。上包うわづつみして一束、色紙、短冊。……俳句、歌よりも、一体、何と言いますか、かむりづけ、くつづけ、狂歌のようなのが多い、そのなかに――(能登路の記)――があったのです。大分古びがついていた。仮綴かりとじの表紙を開けると、題に並べて、(大笹村、川裳明神かわすそみょうじん縁起。)としてあります。
 川裳明神……
 わたしはハッと思いました。」


「――川裳明神縁起。――この紀行中では、人が呼んで、御坊々々と言いますし、可心は坊さんかと、読みながら思いましたが、そうではない。いかにも、気がつくとその頃の俳諧の修行者しゅぎょうじゃは、年紀としにかかわらず頭を丸めていたのです――道理こそ、可心が、大木の松の幽寂に二本、すっくり立った処で、岐路わかれみちの左右に迷って、人少ひとずくなな一軒屋で、孫を抱いた六十あまりの婆さんにみちを聞くと、いきなり奥へ入って、一銭いちもんもって出た……(いやとよ、老女)と、最明寺で書いていますが、報謝に預るのではない、ただ路を聞くのだ、と云うと、魂消たまげた気の毒な顔をして、くどくどわびをいいながら、そのまま、跣足はだしで、雨の中を、びたびた、二町ばかりも道案内をしてくれた。この老女の志、(現世に利益、未来に冥福めいふくあれ、)と手にした数珠をんで、別れて帰るその後影を拝んだという……宗匠と、行脚あんぎゃの坊さんと、容子ようすがそっくりだった事も分りますし、跣足はだしで路しるべをしたお婆さんの志、その後姿うしろつきも、尊いほどにしのばれます。――折からのざんざぶりで、一人旅の山道に、雨宿りをする蔭もない。……ただ松の下で、行李こうりを解いて、雨合羽あまがっぱ引絡ひきまとううちも、そでを絞ったというのですが。――これは、可心法師が、末森の古戦場――今浜から、所口(七尾)を目的めあてに、高畑をさしてく途中です。
 何でもその頃は、芭蕉の流れをむものが、奥の細道を辿たどるのは、エルサレムの宮殿、近代の学者たちの洋行で、奥州めぐりを済まさないと、一人前の宗匠とは言われない。加賀近国では、よし、それまでになくても、内外うちそと能登の浦づたいをしないと、幅が利かなかったらしいのです。今からだと夢のようです。
 はじめ、河北潟かほくがたを渡って――可心は、あの湖を舟で渡った。――高松で一夜宿いちやどまり、国境になりますな。それから末松の方へ、能登浦、第一歩の草鞋わらじを踏むと、すぐその浜に、北海へそそぐ川尻が三筋あって、渡船がない。橋はもとよりで、土地のものは瀬にれて、勘でわたるかららちが明く。勿論、深くはない、が底に夥多おびただしく藻が茂って、これに足をからまれて時々旅人がおぼれるので。――可心は馬を雇って、びくびくものでわたったが、その第三の川は、最も海に近いだけに、ゆるいながれも、押し寄せる荒海の波と相争って、あおられ、まるる水草は、たちまち、馬腹に怪しき雲のくありさま。幾万すじともなき、青い炎、黒い蛇が、旧暦五月、白い日の、川波にさかさまに映って、くらも人ももうとする。笠馬士まご轡頭くつわをしっかと取って、(やあ、黒よ、観音様念じるだ。しっかりよ。)と云うのを聞いて、雲をかいかとあやぶ竹杖たけづえを宙に取って、真俯伏まうつぶしになって、思わずお題目をとなえたと書いています。
 旅行は、どうして、楽なものではなかったのです。可心にとって、能登路のこの第一歩の危懼あぶなっかしさが、……――実はしんをなす事になるんです。」
 と言って、小山夏吉は一息した。
「やがて道端の茶店へ休むと――薄曇りの雲を浴びて背戸の映山紅つつじ真紅まっかだった。つい一句をしたためて、もの優しい茶屋の女房に差出すと、渋茶をくんで飲んでいる馬士まごが、おらがにも是非一枚いちめえ。で、……その短冊をやたらに幾度も頂いた。(おかし。)と云って、宗匠ちょっと得意ですよ。――道中がちと前後しました。――可心法師は、それから徒歩かちで、二本松で雨に悩み、みちに迷い、なさけあるお婆さんに導かれてのち、とぼとぼと高畑まで辿たどり着く。その夜、旅のお侍と俳談をする処があります。翌日は快晴。しかし昨日きのう、道に迷った難儀に懲りて、宿から、すぐ馬を雇って出ると、曳出ひきだした時は、五十四五の親仁おやじが手綱を取って、十二三の小僧が鞍傍くらわきについていた。寂しい道だし、一人でもつれ難有ありがたいと喜んだのに、宿はずれの並木へかかると、やっこが綱に代って、親仁は啣煙管くわえぎせるで、うしろ手を組んで、てくりてくりと澄まして帰る。……前後に人脚はまるでなし。……(これ、兄や、こなた馬はけるかの、大丈夫じゃろうかの。わしは初旅じゃ。その上馬に乗るも今度がはじめてじゃ。それにの、耳はよう聞えずの。……頼んだぞ。)いかにも心細そうです。読んでいて段々分りましたが、筆談でないと通じないほどでもないが、余程耳がうといらしい。……あるいはそんな事で、世捨人同様に、――俳諧はそのせめてもの心遣こころやりだったのかも知れません。勿論、独身らしいのです。寸人豆馬すんじんとうばと言いますが、豆ほどの小僧と、馬に木茸きくらげの坊さん一人。これが秋の暮だと、一里塚で消えちまいます、五月の陽炎かげろうを乗ってきます。
 お婆さんが道祖神さえのかみの化身なら、この子供には、こんがら童子の憑移のりうつったように、路も馬も渉取はかどり、正午頃ひるごろには早く所口へ着きました。可心は穴水の大庄屋、林水とか云う俳友を便たよって行くので。……ここから七里、海上のわたしだそうです。
 ここの茶店の女房も、(ものやさしく取りはやして)――このやさしくを女扁に、花、やさし[#「女+花」、U+5A72、257-2]。――という字があててある。……ちょっと今昔の感がありましょう。――(女ばかりか草さえ菜さえ能登はやさしや土までも――俗謡の趣はこれなんめり。)と調子が乗って、はやり唄まで記した処は、御坊、ここで一杯きこしめしたかも知れない。……
 亭主が、これも、まめまめしく、方々聞合わせてくれたのだけれども、あいにく便船がなく、別仕立の渡船で、御坊一人十もんめならばと云う、その時の相場に、辟易へきえきして、一晩泊る事にきめると、居心のいい大きな旅籠はたごを世話しました。(私の大笹の宿という形があります。)その宿に、一人、越中の氷見ひみの若い男の、商用で逗留とうりゅう中、茶の湯の稽古けいこをしているのに、茶をもてなされたと記してあります。商用で逗留中、若い男が茶の湯の稽古――その頃の人気が思われます。しかし、何だかうら寂しい。
 翌日は、の時ばかりに、乗合六人、石動山せきどうざんのお札くばりの山伏が交って、二人船頭で、帆を立てました。石崎、和倉、奥の原、舟尾、田鶴浜、白浜を左に、能登島を正面に、このあたりの佳景いわむ方なし。で、海上左右十町には足りまいと思う、大蛇おろちとなえる処を過ぎると、今度は可恐おそろしく広い海。……能登島の鼻と、長浦の間、今のみつヶ口の瀬戸でしょう。その大海へ出る頃から、(波やや高く、風加わり、たちまち霧しぶき立つと見れば、船頭たち、驚破すわ白山よりおろすとて、巻落す帆の、きしむ音骨を裂く。ただ一人おわしたる、いずくの里の女性にょしょうやらむ、髪高等に結いなして、姿も、いうにやさしきが、いと様子あしく打悩み、白芥子しらげし一重ひとえの散らむず風情。……
 むかし義経卿をはじめ、十三人の山伏の、わにの口の安宅あたかをのがれ、倶利伽羅くりからの竜の背を越えて、四十八瀬に日を数えつつ、直江の津のぬしなき舟、朝の嵐にただよって、佐渡の島にもとどまらず、白山のたけの風の激しさに、能登国珠洲すずヶ岬へふきはなされたまいし時、いま一度陸にうけて、ともかくもなさせ給えとて、北のかたくれないはかまに、からのかがみを取添えて、八大竜王に参らせらると、つたえ聞く、その面影ものあたり。)……とこの趣が書いてあります。
 ――佐渡にも留めず、吹放った、それは外海。この紀事の七尾湾も一手ひとての風にしぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、258-7]を飛ばす、霊山の威を思うとともに、いまも吹きしむおもいがして、――大笹のの宿に、ゾッと寒くなりました。それだのに掻巻かいまきねて、写本を持ったなり、起直ったんです、私は……」
 小山夏吉の眉に、陰がした。
「……紀行に、前申した、川裳明神縁起とあるのでしょう。可心の無事はもとよりですが、ここでこの船に別条が起って、白芥子しらげしの花が散るのではないか。そのゆうなる姿を、明神に祭ったのではないだろうか、とはっとしました。私の聞き知った、川裳明神は女神めがみですから。……ところで(船中には、一人坊主を忌むとて、出家一にんのみ立交る時は、海神のたたりありと聞けば、の美女の心、いかばかりか、おその上にいたみなむ。坊主には候わず、出家にははんべらじ。と、波風のまぎれに声高に申ししが、……船助かりしあとにては、婦人のかおよきにつけ、あだ心ありて言いけむように、色めかしくも聞えてあたりはずかし。)と云うので、の葉とばかり浮き沈む中で、つんぼ同然の可心が、何慰めのことばも聞き得ないで、かえって人の気を安めようと、一人、うおのように口を開けて、張って(坊主でない、坊主でない。)とわめいた様子が可哀あわれに見えます。
 穴水の俳友の住居すまいは、千石のやしきかまえで、大分ねんごろにもてなされた。かこい網の見物に(われは坊主頭に顱巻はちまきして)と、おおい気競きおう処もあって――(いわしさばあじなどの幾千ともなく水底みずそこを網にひるがえるありさま、夕陽ゆうひに紫の波を飜して、銀の大坩炉おおるつぼに溶くるに異ならず。)――人気がよくて魚も沢山だったんでしょう。磯端いそばたで、日くれ方、ちょっと釣をすると、はちめ(甘鯛の子)、阿羅魚あらうおかれいが見る見るうちに、……などはうらやましい。
 七日ばかり居たのです。
 これまでは、内浦で、それからは半島の真中まんなかを間道ごえに横切って、――輪島街道。あの外浦を加賀へ帰ろうという段取になると、路がけわしくって馬が立たない。駕籠かごは……四本竹に板を渡したほどなのがあるにはある、けれども、田植時でき手がない。……大庄屋の家の屈強な若いものが、荷物と案内を兼ねて、そこでおかしいのは、(遣りきれなくなったらおぶさりたまえ。)と云う俳友の深切です。出発の朝、空模様が悪いのを見て、雨が降ったら途中から必ず引返ひっかえせ、と心づけています。道は余程難儀らしい……」
 小山夏吉は、炬燵蒲団こたつぶとんを指で辿たどりつつ言った。


 読者よ、小山夏吉は続けて言う。
「何、私の大笹どまりの旅行なぞ、七尾行の汽車で、羽咋はぐいで下りて、一の宮の気多けた神社に参詣さんけいを済ませましてから、外浦へ出たまでの事ですが、それだって、線路を半道離れますと、車も、馬も、もう思うようには行きません。あれを、柴垣しばがき※(「けものへん+丸」、第4水準2-80-29)くるみだに、大島、と伝って、高浜で泊るつもりの処を、鉱泉があると聞いて、大笹へ入ったので。はじめから歩行あるくつもりではありましたが、景色のいい処ほど、道は難渋です。
 ついでに……その高浜から海岸を安部屋あべやへ行く間に、川があります。海へそそぐ川尻の処は、私はまだ通らなかったうちですが、大笹の宿の前を流れる米町川の末になります。現に寝床へさらさらと音がします。――その川尻を渡って、安部屋から、百浦ももうら志加浦しがうら赤住あかずみ……この赤住を……可心の紀行には赤垣とあやまっています――福浦、生神いきがみ七海ななうみ。それから富来とぎ増穂ますほ剣地つるぎじ、藤浜、黒島――外浜を段々奥へ、次第に、いわは荒く、波はおどろになって、たいらは奇に、奇はけわしくなるのだそうで。……可心はこの黒島へ出たのです、穴水から。間になしの木坂の絶所を越えて門前村、総持寺(現今、別院)を通って黒島へ、――それから今言いました外浜を逆に辿たどって、――一の宮へまいって、もとの河北潟を金沢へ帰ろうとしたのです。黒島へ一晩、富来へ二晩、大笹に近い、高浜へ一晩。……ただ、その朝の暴風雨あらしと、米町川のながれの末が、可心のために、――女神の縁起になりました。
 まだ、途中の、梨の木坂を越えるあたりから降出したらしいのですが、さすが引返すでもなかった。家数四五軒、わびしい山間やまあいの村で、弁当を使った時、雨をしのいで、の子の縁に立掛けた板戸に、(この家の裏で鳴いたり時鳥ほととぎす。……)と旅人の楽書らくがきがあるのを見て、つい矢立を取って、(このあたり四方八方時鳥、可心。)鳴いているらしく思われます。やがて、総持寺に参詣して、(高塔の上やひと声時鳥、可心。)これはちょっとおまけらしい。雨の中に、門前の茶店へ休んで、土地の酒造さけづくりの豪家に俳友があるのを訪ねようと、様子を聞けば大病だという。式台まで見舞うのもかえって人騒ひとさわがせ、主人に取次もしようなら、遠来の客、ただ一泊だけもと気あつかいをされようと、遠慮して、道案内を返し、一人、しょぼしょぼ、濡れて出て、黒島道へかかろうとする、横筋の小川のあぜをつたって来て、横ざまに出会でっくわした男がある。……おおきく、酒、とかいた番傘をさしていると、紀行の中にあるのです――

 一杯、頂きましょう。
 もう一杯。……もう一杯。
 息つぎを、というほどの、私の話振はなしぶりではありませんけれど、私に取って、これからは少々いきおいをかりませんと、でないと、お話しにくい事がありますから。……」


「羽織は着たが、大番傘のその男、足駄穿あしだばき尻端折しりっぱしょりで、出会頭であいがしらに、これはと、頬被ほおかぶりを取った顔を見ると、したり、可心が金沢で見知越みしりごしの、いま尋ねようとして、見合わせた酒造家の、これは兄ごで、見舞に行った帰途かえりだというのです。この男の住居すまいが黒島で、そこへその晩泊りますが、心あての俳友は大病、思いがけないその兄の内へともなわれる……何となく人間の離合集散に、不思議な隠約があるように思われて。――私は宿で、床の上で、しばらく俯向うつむいて、庭の松風を聞いていました。――
 可恐おそろしい荒海らしい、削立ったいわが、すくすく見えて、沖は白波のただ打累うちかさなる、日本海は暗いようです。黒島を立って、剣地、増穂――富来の、これも俳友の家に着いた。むかし、渤海ぼっかいの船が息をついた港だ、と言います。また格別の景色で。……近い処に増穂のあるのは、貝の名から出たのだそうで、浜のなぎさは美しい。……
 金石かないわの浜では見られません。桜貝、阿古屋貝あこやがい撫子貝なでしこがい貝寄かいよせの風が桃の花片はなびらとともに吹くなどという事は、竜宮を疑わないものにも、私ども夢のように思われたもので。
 可心も讃嘆しています。半日拾いくらした。これが重荷になった――故郷ふるさとへ土産に、と書いています。
 このあたりに、荒城あらき狭屋さやとなえて、底の知れない断崖きりぎし巌穴いわあながあると云って、義経の事がまた出ました。
 のがれられない……因縁です。」
 小山夏吉は、半ば独言つぶやいて嘆息して、にがそうに猪口ちょこした手がふるえた。

 小山夏吉はさびし微笑ほほえんだ。
「ははは、泣くよりわらいで。……富来に、判官ほうがんどのが詠じたと言伝えて、(義経が身のさび刀とぎに来て荒城のさやに入るぞおかしき。)北の方が、竜王の供料にと、くれないはかまを沈めた、白山がだけの風に、すずの岬へただよった時、狭屋へこもっての歌だ、というのです。悪い洒落しゃれです。それに、弁慶にあわびを取らせたから、鮑は富来の名物だ、と言います。多分七つ道具から思いついたものだろう、と可心もこれには弱っている。……
 富来を立つ時、荷かつぎを雇うと、すたすた、せかせか、女の癖に、途方もなく足が早い。おくれまいとすると、駆出すばかりで。浜には、栄螺さざえを起す男も見え、いわしを拾うわらべも居る。……しおの松の枝ぶり一つにも杖を留めようとする風流人には、此奴こいつあてつけに意地の悪いほど、とっとっとく。そうでしょう、駄賃を稼ぐための職業婦人がつんぼの坊さんの杖つきのの字に附合っていられるはずはない。あえぎ喘ぎ、遣切れなくなって、二里ばかりで、荷かつぎを断りました。御坊が自分で、荷を背負しょって、これから註文通り景色をめ賞め歩行あるき出したは可いが、荷が重い。……弱った、弱った、とまた弱っている。……
 福浦のあたりは、浜ひろがりに、石山の下を綺麗な水が流れて、女まじりに里人が能登縮のとちぢみをさらしていて、その間々あいあいくどからは、塩を焼く煙がなびく。小松原には、昼顔の花が一面に咲いて、なぎさの浪の千種ちぐさの貝にひるがえるのが、彩色した胡蝶ちょうちょうの群がる風情。何とも言えない、と書いている下から、背負しょい重りのする荷は一歩ひとあしずつ重量めかたかかる、草臥くたびれはする、汗にはなる。荷かつぎに続いて息せいた時分から、もう咽喉のどの渇きに堪えない。……どこか茶店をと思うのに、本街道は、元来、上の石山を切って通るので、浜際は、ものずき歩行あるくのだから、仕事をしている、布さらし、塩焼に、一杯無心する便宜はありません。いくら俳諧師だといって、昼顔の露は吸えず、切ない息をいて、ぐったりした坊さんが、辛うじて……赤住まで来ると、村は山際にあるのですが、藁葺わらぶき小家こやが一つ。伏屋貝ふせやがいかと浜道へこぼれていて、朽ちて崩れた外流そとながしに――見ると、杜若かきつばたの真の瑠璃色るりいろが、濡色に咲いて二三輪。……
 可心は、そこを書くための用意だかどうだか、それまでの記事のうちに、一ヶ処も杜若を記していません。
 ――その癖、ほんの片浦を見ました。私の目にも。――」
 小山夏吉は、炬燵こたつに居直って言うのである。
「湖、沼、池の多い土地ですから、菖蒲あやめ杜若かきつばたが到る処に咲いています。――今このふすまへでも、障子へでも、二条ふたすじばかり水の形をいて、紫の花をあしらえば、何村、どの里……それで様子がよく分るほどに思うのです。――大笹の宿しゅくへ入っても、中庭の縁に添って咲いていたと申しましたっけ。

 ――杜若の花を小褄こづまに、欠盥かけだらいで洗濯をしている、束ね髪で、窶々やつやつしいが、(その姿のゆうにやさしく、色の清げに美しさは、古井戸を且つおおいしの花の雪をもあざむきぬ。……たぐいなき艶色えんしょくさきの日七尾の海の渡船にて見参らせし女性にょしょうにも勝りて)……と云って……(さるにても、この若き女房、心かたくなに、なさけつめたく、言わむ方なき邪慳じゃけんにて、)とのっけに遣ッつけたから、読んでいて吃驚びっくりすると、(茶を一つ給われかし、御無心)と頼んだのに、
(茶屋はあちらに。)――
 と云って断ったのです。耳が聞えないんですから、その女は前途ゆくてへ指さしでもしたらしい。……(いや、われらは城下のものにて、今度このたび、浦々を見物いたし、またこれよりは滝谷たきだに妙成寺みょうせいじへ、参詣をいたすもの、見受け申せば、我等と同じ日蓮宗の御様子なり。かどのお札をさえ見掛けての御難題、坊主に茶一つ恵み給うも功徳なるべし、わけて、この通り耳もうとし、独旅ひとりたび辿々たどたどしさもあわれまれよ。)と痩法師やせほうしが杖にすがって、珠数までみながら、ずッと寄ると――ついと退く。……端折はしょった白脛しらはぎを、卯の花に、はらはらと消し、真白まっしろい手を、って押退おしのけるようにしたのです。芋を石にする似非えせ大師、むか腹を立って、洗濯もの黒くなれと、真黒まっくろ呪詛のろって出た!……
(ああ、われこそは心かたくなに、なさけなく邪慳無道であったずれ。耳うときものの人十倍、心のひがむを、やまいなりとて、神にも人にも許さるべしや。)とおッつけ、慚愧ざんき後悔をするのです。
 能登では、産婦のまだ七十五日を過ぎないものを、(あの姉さんは、まだ小屋のうち、)と言う習慣ならわしのあるくらい、黒島の赤神しゃくじん赤神様あかがみさまと申して荒神あらがみで、きびしく不浄を嫌わるる。やしろまわりでは産小屋うぶごやを別に立てて、引籠ひきこもる。それまではなくても、浦浜一体にその荒神を恐れました。また霊験のあらたかさ。可心は、黒島でうけた御符おふだを、道中安全、と頭陀袋ずだぶくろにさしていた。
 とんでもない。……女が洗っていたのは、色のついた、うつ木の雪の一枚だったと言うのです。
 振返って、一睨ひとにらみ。杜若かきつばたの色も、青い虫ほどに小さくなった、小高い道に、小川が一条ひとすじ流れる。板の橋がかかった石段の上に、廻縁まわりえんのきれいなのが高く見えた。――橋の上に、兄弟らしい男の子が、二人遊んでいたので、もしやと心頼みに、茶を一つ、そのよし頼むと、すぐに石段を駈上かけあがり縁を廻ったと思えば、十歳とおばかりの兄の方が、早く薄べりを縁に敷いた。そこへ杖を飛ばしたそうです。七十ぐらいの柔和なお婆さんが煙草盆たばこぼんを出してくれて、すぐに煎茶せんちゃを振舞い、しかも、嫁が朝のこしらえたと、小豆餡あずきあんの草団子を馳走した。その風味のよさ、嫁ごというのも、容色きりょうも心も奥ゆかしい、と戴いています。が、この嬉しさにつけても思う、前刻さっきの女の邪慳じゃけんさは、さすがに、離れた土地ではないから、可心も何にも言わなかった。その事が後に分ります。……この一構ひとかまえは、村の庄屋で。……端近へは姿も見えぬ、奥深い床の間と、あの砂浜の井戸端と、花は別れて咲きました。が、いずれ菖蒲あやめ杜若かきつばた。……二人は邑知潟おうちがたみぎわに、二本ふたもとのうつくしい姉妹きょうだいであったんです。
 長話はしたが、何にも知らずに……可心は再び杖をいて、それから二三町坂を上ると、成程、ちょっとした茶店もあった。……とまりを急いで、……高浜の宿しゅくへ着きました。
 可心はまだ川を渡らない。川を渡る、そこが……すぐ大笹の宿の前を流れて米町川の海にそそぐ処なんです。百年前の可心は、いまその紀行で、――鉱泉宿の真夜中の松を渡る風にさえ、さらさらと私の寝床に近づきました。」
 小山夏吉は杯を取った。
「高浜では、可心に相宿がありました。……七歳ななつばかりの男の子を連れた、五十近い親仁おやじで、加賀の金石の港から、その日漁船の便で、海上十六七里――当所まで。これさえ可なり冒険で。これからは浪が荒いから、外浜を徒歩かちで輪島へく。この子の姉を尋ねて、と云う。――日曜に、洋服を着た子の手をひいたのでないと、父親の、子をつれた旅は、いずれ遊山ではありません。何となく、貧乏くさいわびしいものです。私などもおぼえがあります。親仁は問わずがたりに、姉娘は、輪島で遊女のつとめをする事。この高浜は、盆前から夏一杯、入船出船で繁昌はんじょうし、一浦ひとうら富貴ふっきする。……その頃には、七尾から山ごしで。輪島からは海の上を、追立てられ、漕流こぎながされて、出稼ぎの売色つとめに出る事。中にも船で漂うのは、あわれにかなしく、浅ましい……からだの丈夫で売盛うれさかるものにはない、弱い女が流される。(姉めも、病身じゃによって、)と蜘蛛くもの巣だらけのすす行燈あんどんにしょんぼりして、突伏つッぷして居睡いねむ小児こどもの蚊を追いながら、打語る。……と御坊は縁起で云うのですが。

 ――場所と言い、境遇と言い、それがそのまま、私の、恋の、お優さんの――」
 小山夏吉は肩を落して、両手を炬燵こたつにさし入れた。
「電燈が暗くなったようです。……目のせいか知れません。何ですか、小さな紫が、電燈のまわりをちらちらします。

 大雨大風になりました。
 可心が、翌日、朝がけに志す、滝谷の妙成寺は、そこからわずか二里足らずですが、間道にかかるという。例の荷はあり、宵の間に荷かつぎを頼んで置いたが、この暴風雨あらしでは出立出来ようかと、寝られない夢に悩んだ。風は、いよいよ強い、しかし雨は小降になって、朝飯の時、もう人足が来て待っていると、宿で言うので。
 杖と並んで、草鞋わらじ穿く時、さきへ宿のものの運んだ桐油包とうゆづつみの荷を、早く背負しょって、髪を引きしめた手拭てぬぐいを取って、さっまぶたを染めて、すくむかと思うほど、内端うちわにおじぎをしたおんなを見ると、継はぎの足袋に草鞋ばかり、白々としたはぎばかり、袖に杜若かきつばたの影もささず、着流したみのの花の雪はこぼれないが、見紛みまがうものですか。引束ねた黒髪には、雨のまま水も垂りそうな……昨日きのう邪慳じゃけんな女です。
 御坊は、たちまち、むっとして――突立つったって、すたすた出ました。
 ここがなさけない。つんぼひがみで、昨日悩まされた、はじめの足疾あしばやな女に対するむか腹立も、かれこれ一斉いっとき打撞ぶつかって、何を……天気は悪し、名所の見どころもないのだから、とっとっ、すたすた、つんつん聾が先へ立って。合羽かっぱを吹きなぐりに、大跨おおまた蹈出ふみだした。
 ――ああ、坊さんの仏頂面が、こっちを向いて歩行あるいて来ます。」
 小山夏吉は串戯じょうだんらしいが、深く、眉をひそめたのである。
「従って、対手あいてを不機嫌にした、自分を知って、偶然にその人に雇われて賃銭を取る辛さは、蓑もあら蓑の、毛が針となって肉を刺す。……撫肩なでがたに重荷に背負って加賀笠を片手に、うなだれて行くほっそり白い頸脚えりあしも、歴然ありあり目に見えて、可傷いた々々しい。
 声を掛けて、呼掛けて、しかも聾に、おおきな声で、おんなの口から言訳の出来る事らしくは思われない。……吹降ふきぶりですから、御坊の頭陀袋ずだぶくろに、今朝は、赤神しゃくじん形像すがたあらわれていなかった事は、無論です。
 家並を二町ほど離れて来ると、前に十一二間幅の川が、一天地押包んだ巌山いわやまの懐から海へそそいでいる。……

(翌日、私が川裳明神へまいろうとして、大笹の宿しゅくの土橋を渡ろうと、渡りかけて、足がすくみました。そこは、おなじ米町川の上流なんですから。――)

 その海へ落口おちぐちが、どっと濁って、ながれが留まった。一方、海からは荒浪がどんどんとッつける。ちょうどその相激する処に、砂山の白いのが築洲つきすのようになって、向う岸へかかったのです。白砂だから濡れても白い。……かささぎの橋とも、白瑪瑙しろめのうの欄干とも、風のすさまじく、真水と潮の戦う中に、夢見たような、――これは可恐おそろしい誘惑でした。
 暴風雨あらしのために、一夜に出来た砂堤すなどてなんです。お断りするまでもありませんが、打って寄せる浪の力で砂をき上げる、川も増水のいきおいで、砂を流し流し、浪にかれて、相逆あいさからってそこに砂を装上もりあげる。能登には地勢上、これで出来た、大沼小沼が、海岸にはいくらもあります。――河北潟も同一おなじでしょう。がそれは千年! 五百年、五十年、日月の築いた一種の橋立です。

 いきなり渡ってたまるものですか。
 つんぼひがみの向腹立むかっぱらたちが、何おのれで、わたりをききも、尋ねもせず、足疾あしばやにずかずかと踏掛ふんがけて、二三間ひょこひょこ発奮はずんで伝わったと思うと、左の足が、ずぶずぶと砂に潜った。あッと抜くと、右の方がざくりと潜る。わあと※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがきに※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)く、檜木笠ひのきがさを、高浪が横なぐりになぐりつけて、ヒイと引く息に潮を浴びせた。
 杖はいたずらに空に震えて、細い塔婆が倒れそうです。白い手がその杖にかかると、川の方へぐいとき、痩法師やせほうしの手首を取ったすくいなさけに、足は抜けた。が、御坊はもう腰を切って、踏立てない。……魔の沼へ落込むのにおびえたから、尻を餅について、草鞋わらじをばちゃばちゃと、蠅の脚でねる所へ、浪が、浪が、どぶん――
「お助け。――」
 波がどぶん。
 目も口も鼻も一時いっときにまたしおめた。
「お助け――」
 なみがどぶーん。
「お助け――」
 耳は聾だ。
「助けてくれ――」
 川の方へ、引こう引こうとしていた、そのうつくしい女の、やさしい眉がきっとしまると、みのを入れちがいに砂堤すなどてに乗って、海の方から御坊の背中を力一杯どんとした。ずるずるずると、可心は川の方へ摺落ずりおちて、丘の中途で留まった。この分なら、川へ落ちたって水を飲むまでで生命いのちには別条はないのに。ああ、入替った、うつくしい人の雪なす足は、たちまち砂へ深くうまったんです。……
 ほっと一息つく間もない、吹煽ふきあおらるる北海の荒浪が、どーん、どーんと、ただ一処ひとところのごとく打上げる。……歌麿の絵のあまでも、かくのごとくんばおぼれます。二打ち三打ち、くずるる潮の黒髪を洗うたびに、顔の色が、しだいに蒼白そうはくにあせて、いまかえって雲を破った朝日の光に、濡蓑は、さっ朱鷺色ときいろに薄く燃えながら――昨日きのう坊さんを払ったように、目口にそそぐ浪を払い払いする手が、乱れた乳のあたりに萎々なえなえとなると、ひとつ寝の枕に、つんとねたように、砂のふすまに肩をかえて、包みたそうに蓑の片袖を横顔にと引いた姿態なりで、羽衣の翼は折れたんです。
 可心は、川の方の砂堤すなどての腹にへばりついて、美しい人の棄てた小笠を頭陀袋ずだぶくろの胸に敷き、おのが檜木笠を頸窪ぼんのくぼにへしつぶして、手足を張りすがったまま、ただあれあれ、あっと云う間だった、と言うのです。

 ――三年って、顔色がんしょく憔悴しょうすいし、形容は脱落した、今度はまったくの墨染の聾坊主が、金沢の町人たちに送られながら、新しいむしろの縦に長い、箱包を背負しょって、高浜へ入って来ました。……川口かわぐちに船を揃えて出迎えた人数の中には、穴水の大庄屋、林水。黒島の正右衛門。……病気が治って、その弟の正之助。その他、俳友知縁がこぞったのです。可心法師の大願によって、当時、北国の名工が丹精をぬきんでた、それが明神の神像でした。美しい人の面影です。――
 村へ、はじめて女神像じょしんぞうを据えたのは、あの草団子のまわり縁で。……その家の吉之助というのの女房、すなわち女神の妹は、勿論、あねが遭難の時、まっさきに跣足はだしけつけたそうですが、
(あれ、あれ、お祝の口紅を。からだがきれいになって。)
 と、云って泣いたそうです。
 姉が日雇に雇われるとは知らなかった。……中たがいをしたのでも何でもない。選んだ夫の貧しい境遇に、安処して、妹の嫁入さきから所帯の補助たすけがえんじなかった。あの時、――橋で中よく遊んでいた男子おとこのこたち、かえって、その弟の方が、あねさんの子だったそうです。
 この妹が、りんとしていた。土地の便宜上、米町川の上流、大笹に地を選んで、とにかく、在家を土蔵ぐるみ、白壁づくりに、仮屋を合せて、女神像をそこへ祭って、可心は一生堂守で身を終る覚悟であった処。……
(お心はお察し申しますが、一つ棟にお住いの事は、姉がどう思うか、分りかねます。御僧あなたをお好き申して助けましたか。可厭いやで助けましたか。私には分りませんから。)
 妹がきっぱり云った。
 可心は、ワッと声を上げて泣いたそうです。
 そこで、可心一代は、ずッと川下へいおりを結んで、そこから、朝夕、堂に通って、かしずいて果てた、と言います。
 この庵のあとはありません。
 時に不思議な縁で、その妹の子が、十七の年、川尻で――同じ場所です――釣をしていて、不意に波にさらわれました。およぎは出来たが、川水の落口で、激浪にまれて、まさにおぼれようとした時、おおきな魚に抱かれたと思って、浅瀬へ刎出はねだされて助かった。その時、艶麗えんれい、竜女のごとき、おばさんの姿を幻にたために、大笹の可心寺へ駈込かけこんで出家した。これが二代の堂守です。ところが、さいわい、なお子があったのに、世を譲って、あの妹も、おなじ寺へ籠って、やがて世を捨てました。
 川裳明神の像は、浪を開いた大魚に乗った立像だそうです。
 寺は日蓮宗です。ですが、女神の供物は精進ではない。その折のみのにちなんだのが、ばらみの、横みの、びんみの、かもじの類、活毛いきげさえまじって、女が備える、黒髪が取りつつんですごいようです。船、錨、――ともづながそのまま竜の形になったのなど、絵馬が掛かっていて、中にも多いのは、むかしの燈台、大ハイカラな燈明台のも交っています。
 ――これは、翌日、大笹の宿で、主人あるじを呼んで、それから聞いた事をある処は補いましたし、……のちとはいわず、私が見た事も交りました。」……


「……この女神めがみの信仰は、いつ頃か、北国に大分流布して、……越前の方はどうか知りませんが、加賀越中には、処々法華宗の寺に祭ってあります。いずれも端麗な女体です。
 多くは、川裳かわすそを、すぐにかわうそにして、河の神だとも思っていて、――実は、私が、むしろその方だったのです。――恐縮しなければなりません。
 魔女だと言う。――実は私の魂のあり所だと思う、……加賀、金石かないわ街道の並木にあります叢祠ほこらすがたなぞは、この女神が、真夏の月夜に、近いあたりの瓜畠うりばたけ――甜瓜まくわのです――露の畠へ、十七ばかりの綺麗な娘で涼みに出なすった。それを、村のあぶれものの悪少狡児わるもの六人というのがやにわに瓜番の小屋へ担ぎあげて無礼をした、――三年とたず六人とも、ばたばたと死んだために、懺悔ざんげ滅罪抜苦功徳のためとして、小さな石地蔵が六体、……ちょうど、義経の――北国おちの時、足弱の卿の君がおくれたのを、のびあがりのびあがりここで待ったという――(人待石)の土手下に……」
 小山夏吉の顔は暗かった。
「海の方をななめに向いて立っています。私はここで、生死しょうしの境の事を言わねばならなくなりました――一杯下さい……」
 炬燵こたついわのように見えた。
 はじめよりして、判官ほうがん殿の北国の浦づたいの探訪のたびに、色の変るまでだった、夏吉の心がうなずかれた。
「――能登路の可心は、ひがみで心得違いをしたにしろ、憎いと思った女の、あやまって生命いのちを失ったのにさえ、半生を香華こうげの料に捧げました。……
(――これは縁起に話しましたが――)
 私なんぞ、まったく、この身体からだ溝石どぶいしにして、這面しゃつらへ、一鑿ひとのみ、目鼻も口も、削りかけの地蔵にして、その六地蔵の下座の端へ、もう一個ひとつ、真桑瓜を横噛よこかじりにした処を、さらしものにされていのです。――事実、また、瓜を食って渇命をつないでいるのですから。」
 と自棄やけに笑った。が、よいもさめ行く、おもての色とともに澄切った瞳すずしく、深く思情おもいを沈めたうちに、高き哲人の風格がある。
 ここはかれについて言うべき機会らしい。小山夏吉は工人にして、飾職かざりしょくの上手である。金属の彫工、細工人。このわざは、絵画、彫刻のごとく、はしけやけき芸術ほど人に知られない。鋳金家、蒔絵師まきえしなどこそ、且つ世に聞こゆれ。しかも仕事の上では、美術家たちの知らぬはない、小山夏吉は、飾職の名家である。しかも、その細工になる瓜の製作は、ほとんど一種の奇蹟である。
 自らかれあざけった。
「――瓜を食って生きている――」
 いま芸術を論ずる場合ではないのだから、渠の手腕についてはあえて話すまい。が、その作品のうちで、瓜――甜瓜まくわうりが讃美される。露骨に言えば、しきりに註文され、よく売れる。思うままの地金を使って、実物のおおきさ、姫瓜、烏瓜ぐらいなのから、小さなのは蚕豆そらまめなるまで、品には、床の置もの、香炉こうろ香合こうごう、釣香炉、手奩てばこたぐい。黄金の無垢むくで、かんざしの玉をきざんだのもある。地金は多くは銀だが、青銅も、朧銀しぶいちも、烏金しゃくどうも……真黒まっくろな瓜も面白い。皆、甜瓜まくわを二つに割って、印籠づくりの立上り霊妙に、そのと、ふたとが、すっと風を吸って、ぴたりと合って、むくりと一個ひとつ、瓜が据る。肉取ししどり、平象嵌ひらぞうがん毛彫けぼり、浮彫、筋彫、石め、たがねは自由だから、つるも、葉も、あるいは花もこれに添う。玉の露もちりばむ。
 いずれも打出しもので、中はつぎのないくりぬきを、表の金質に好配して、黄金きんまた銀の薄金うすがねを覆輪に取って、しっくりと張るのだが、朱肉入、おごった印章入、宝玉の手奩にも、また巻煙草入まきたばこいれにも、使う人の勝手で異議はない。灰皿にも用いよう。がねがわくば、竜涎りゅうぜん蘆薈ろかい留奇とめきの名香。緑玉エメラルド、真珠、紅玉ルビイらせたい。某国なにがし――公使の、その一品ひとしなおくりものに使ってから、相伝えて、外国の註文が少くない。
 ただ、ここに不思議な事がある。一度手に入れた顧客かいて、またもちぬしが、人づてに、あるいは自分に、一度必ず品を返す。――返して、礼を厚うして、ふたと実のいずれか、瓜のうつろの処へ、ただもう一鏨ひとたがね、何ものにても、手がほしいと言うのである。ほかの芸術における美術家の見識は知らない。小山夏吉は快くこれを諾して、情景しなに適し、景に応じ、時々の心のままに、水草、藻の花、すすきの葉、桔梗ききょうの花。鈴虫松虫もちょっと留まろうし、ささがにも遊ばせる。あるいは単に署名する。客はいずれも大満足をするのである。
 外国へ渡ったのは、仏蘭西フランスからと、伊太利イタリイ、それから白耳義ベルギイ西班牙スペインから、公私おのおのその持ぬしから、おなじ事を求めて、一度ずつ瓜を返したのには、小山夏吉も舌をまいて一驚をきっしたそうである。妙に白耳義が贔屓ひいきで、西班牙がすきな男だから、瓜のうつろへ、一つには蛍を、くびあかがねに色を凝らして、烏金しゃくどう烏羽玉うばたまの羽を開き、黄金きんと青金で光の影をぼかした。一つには、銀象嵌ぎんぞうがん吉丁虫たまむしを、と言っていた。
 こう陳列すると、一並べ並べただけでも、工賃作料したたかにして、堂々たる玄関がまえの先生らしいが、そうでない。挙げたのは二十幾年かの間の折にふれた作なのである。第一、一家を構えていない。妻子も何も持たぬ。仕事は子がいから仕込まれた、――これは名だたる師匠の細工場に籠ってして、懐中ふところのある間は諸国旅行ばかりして漂泊さすら歩行あるく。
 一向に美術家でない。錺屋かざりや、錺職をもって安んじているのだから、丼に蝦蟇口がまぐち突込つっこんで、印半纏しるしばんてんさそうな処を、この男にして妙な事には、古背広にゲエトルをしめ、草鞋穿わらじばきで、たがね鉄鎚かなづち幾挺いくちょうか、安革鞄やすかばんはすにかけ、どうかするとヘルメット帽などを頂き、繻子しゅす大洋傘おおこうもりをついて山野を渡る。土木の小官吏、山林見廻りの役人か、何省おやといの技師という風采ふうさいで、お役人あつかいには苦笑するまでも、技師と間違えられると、先生、陰気にひそひそと嬉しがって、茶代を発奮はずむ。曰く、技師と云える職は、端的に数字にひとしい。世をいつわらざるものだ、と信ずるからである、と云うのである。
(――夜話の唯今ただいまなども、玄関の方にはくだんのヘルメットと、大洋傘があるかも知れない。)
 が、甜瓜まくわは――「瓜を食ってきている。」――かれことばとともに、唐草の炬燵こたつの上に、黄に熟したると、半ば青きと、葉とともに転がった。


 小山夏吉はあらためてことばを継いだ。――
「あの、金石街道の、――(人待石)に、私は――その一日あるひ、昼と夜と、二度ぐったりとなって、休みました。八月の半ば、暑さの絶頂で、畠には瓜がさかんの時だったんです。年は十七です。
 昼の時は、まだ私という少年こどもも、その生命いのち日南ひなたで、暑さに苦しい中に、陽気も元気もありました。身の上の事について、金石に他家よその部屋借をして、避暑かたがた勉強をしている、小学校から兄弟のように仲よくした年上の友だちに相談をして行ったんですから。あるいは希望のぞみが達しられるかも知れないと思ったので。
 つまり、友だちが暑中休暇後に上京する――貧乏な大学生で――その旅費の幾分をいて、一所に連れて出てもらいたかったので。……
 ――父のなくなった翌年あくるとし、祖母と二人、その日の糧にもくるしんでいた折から。
 何、ところが、大学生も、御多分にれず、窮迫していて、暑中休暇は、いいの体裁。東京の下宿に居るより、故郷の海岸で自炊をした方が一夏だけも幾干いくら蹴出けだせようという苦しがりで、とても相談の成立ちっこはありません。友だちは自炊をしている……だから、茄子なすびを煮て晩飯を食わしてくれたんですが、いや、下地が黒い処へ、海水で色揚げをしたから、その色といったら茄子のようで、ですから、これだって身の皮をいでくれたほどの深切です。何しろ、ひどい空腹すきはらの処へ、素的に旨味うまそうだから、ふうふう蒸気いきの上る処を、がつがつして、加減なしに、突然いきなり頬張ると、アチチも何もない、吐出せばまだ可いのに、かつえているので、ほとんど本能のいきおい、といった工合ぐあいで、呑込むと、焼火箸やけひばし突込つっこむように、咽喉のどを貫いて、ぐいぐいと胃壁を刺して下って行く。……打倒ぶったおれました。息もけません。きりきりと腹が疼出いたみだして止りません。友だちが、笑いながら、心配して、冷飯を粥に煮てくれました。けれども、それも、もう通らない。……ひどい目に逢いました。
 横腹よこっぱらを抱えて、しょんぼりと家へ帰るのに、送って来た友だちと別れてから、町はずれで、卵塔場の破垣やれがきの竹を拾って、松並木を――少年こどもでも、こうなると、杖にすがらないと歩行あるけません。きりきり激しくいたみます。松によっかかったり、すすきの根へしゃがんだり……杖を力にして、その(人待石)の処へ来て、たまらなくなって、どたりと腰を落しました。幹が横に、おおきく枝を張った、一里塚のような松の古木の下に、いい月夜でしたが、松葉ほどの色艶いろつやもない、わらすべ同然になって休みました。ああ、そこいらに落散っている馬の草鞋わらじの方が、余程いきおいがよく見えます。
 道をはさんで、入口に清水のく、藤棚のかかった茶店があって、(六地蔵は、後に直ぐそのわきに立ったのですが、)――低く草の蔭に硝子ビイドロすだれが透いて、二つ三つ藍色あいいろの浪をいた提灯ちょうちんともれて、にぎやかなような、陰気なような、化けるような、時々高笑たかわらいをする村の若衆わかいしゅの声もしていたのが、やがて、寂然ひっそりとして、月ばかり、田畑が薄く光って来ました。
 あとまだ一里あまり、この身体からだ引摺ひきずって帰った処で、井戸の水さえ近頃は濁って悪臭くさし……七十を越えた祖母ばあさんが、血を吸う蚊の中に蚊帳もなしに倒れて、と思うと、疼む腹から絞るようにひとりでに涙が出て、人影もないから、しくしくと両手を顔にあてて泣いていました。
(どうなすったの。)
 花の咲くのに音はしません。……いつの間にか、つい耳許みみもとに、若い、やさしい声が聞こえて、
(おなかいたいんですか。)
 少年こどもたち、病気を見舞うのに、別に、ほかに言葉はないので……こう云ってくれたのを、夢か、と顔を上げて見ると、浅葱あさぎきれで、結綿ゆいわたに結った、すずしい、色の白い……私とおなじ年紀としごろの、ああ、それも夢のような――この日、午後四時頃のまだ日盛ひざかりに――きにここで休んだ時――一足おくれて、金沢の城下の方から、女たち七人ばかりを、頭痛膏ずつうこうった邪慳じゃけんらしい大年増と、でっくりふとった膏親爺あぶらおやじと、軽薄けいはくらしい若いものと、誰が見ても、人買が買出した様子なのが、この炎天だから、白鵞はくがかもも、豚も羊も、一度水を打って、いきをよくし、ここの清水で、息を継がせて、更に港へ追立おったてた……
 ……更に追って行く。その時、金石の海から、河北潟へ、瞬く間に立蔽たちおおう、黒漆こくしつ屏風びょうぶ一万枚、電光いなびかりを開いて、風に流す竜巻たつまき馳掛はせかけた、その余波なごりが、松並木へも、大粒な雨ともろともに、ばらばらと、ふな沙魚はぜなどを降らせました。
 竜巻がまだ真暗まっくらな、雲の下へ、浴衣の袖、裾、消々きえぎえに、冥土めいどのように追立てられる女たちの、これはひとり、白鷺しらさぎひなかとも見紛みまごうた、世にも美しい娘なんです。」
 彫玉の技師は一息した。
「……出稼でかせぎ娼妓しょうぎ一群ひとむれが竜巻の下に松並木を追われて行く。……これだけの事は、今までにも、話した事がありましたから、一度、もう、……貴下あなたの耳に入れたかも知れません。」
 君待て、仏国のわけしりが言ったと聞く。
「再びする談話を、快く聞くの女には、
 なんじ、愛されたるなり。」
 筆者は、別の意味だが、同じ心で聞入った。……
「朝顔のかんざしをさしていました。――
(――病気じゃないんです。僕はもう駄目なんです、死にたいんです。)
 事実、そのやさしい、恍惚うっとりした、そして、弱々しいうちに、目もとのりんとした顔を見ると、腹のいたいのは忘れましたが。
(まあ。)
 娘はじっと顔を見ました。
(私も死にたいの。)
 竜巻のために、港を出る汽船に故障が出来た。――(前刻さっき友だちと浜へ出て見た、そういえば、沖合一里ばかりの処に、黒い波に泡沫あぶくを立てて、さめが腹を赤く出していた、小さな汽船がそれなんです。)――日暮方の出帆が出来なくなった。雑用ぞうよう宿のついえに、不機嫌な旦那に、按摩あんまをさせられたり、あおがせられたり。濁った生簀いけすの、茶色の蚊帳でまれて寝たが、もう一度、うまれた家の影が見たさに、忍んでここまで来たのだ、と言います。
 弥生やよいの頃は、金石街道のこの判官石ほうがんいしの処から、ここばかりから、ほとんど仙境のように、桃色の雲、一刷ひとはけ、桜のたなびくのが見えると、土地で言います。――町のその山の手が、娘のうまれた場所なのです。
(私は、うちにお父さんと、おじいさんが。)
(僕は祖母おばあさん一人……)
(死んで、あの、幽霊になって、お手つだいした方が、……ええ、その方がましだと思ってよ。)
(ほんとうです。死んだ方が可い。)
 娘は、紅麻べにあさ肌襦袢はだじゅばんの袖なしで、ほんの手拭てぬぐいで包んだ容子ようすに、雪のような胸をふっくりさして、浴衣の肌を脱いで、袖を扱帯しごきに挟んでいました。急いで来て暑かったんでしょう。破蚊帳やれがやから抜出したので、帯もしめない。その緋鹿の子の扱帯が、白鷺に鮮血なまちの流れるようです。
(こんなにして死ぬと……検死の時、まるで裸にされるんですって――)
可厭いやだなあ。)
(手だの足だの、ひっくりかえされるんですって。……この石の上でしょうか、草の中でしょうか。私、お湯に入るのもきまりが悪かった。――でも、そうやって検死されるのを、死ねば……あの、空から、お振袖を着て見ているから可いわ。私お裁縫しごとが少し出来ます、貴方あなたにも、ちゃんと衣服きものを着せますよ、おはかまもはかせましょうね。)
 私は一刻いっときも早く、すみやかに死にたくなった。
 その扱帯をことづかって――娘が、一結び輪にしたのを、引絞りながら、松の幹をよじ上ったいきおいのよさといったら。……それでも、往還の路へ向かない、瓜畠の方の太い枝へ、真中まんなかへ掛けて、両方へ、幻の袖のような輪を垂らした。つづく下枝の節の処へ、構わない、足がかさなるまでも一所に踏掛けて、人形の首を、藁苞わらづとにさして、打交ぶっちがえた形に、両方からのぞいて、咽喉のどめて、同時に踏はずして、ぶらんこに釣下ろうという謀反むほんでしてなあ。
 用意が出来て、一旦ずり下りて、それから誘って、こう、はすおおきな幹ですから、私が先へ、順に上へったのですが、結綿ゆいわたの島田へ、べったりと男の足を継いだようで変です。娘の方も、華奢きゃしゃな、やわらかい肩を押上げても、それだと、爪さきがまだ、石の上を離れないで、勝手が悪い。
 そこで、めた足場、枝の節へ立てるまで、娘をおぶう事になりました。
 一度、向合った。
(まだ、名を知らない。)
(私、ゆう。)
(ゆう、勇。)
(あら、可哀相に、おてんばじゃありません。※(「にんべん」、第4水準2-1-21)にんべんの。)
(……ああ、お優さん。)
(はい。)
(僕は、夏吉。)
(あれ、いいお名――御紋着もんつきも、が似合うでしょうね。)
 お優さんは、肌襦袢をくくった細いひもで、腰をしめて、
(汗があってよ、……堪忍ね。)
 襟を、合わせたんですが、その時、夕顔の大輪の白い花を、二つうつむけに、ちらちらと月の光が透きました。乳の下を、乳の下を。
(や、おおきありが。)
(あれ、黒子ほくろよ。)
 月影に、色が桃色の珊瑚さんごになった。
 膝をめて、――起身たちみの娘に肩を貸す、この意気、紺絣こんがすり緋縅ひおどしで、しんのごとき名将には、勿体ないようですが、北のかた引抱ひっかかえたいきおいかった、が、いかに思っても、十七の娘をおぶって木登りをした経験は、誰方どなたもおありになりますまい。松の上へ……登れたかって?……飛んでもない。ちょっとって上れそうでも、なかなか腰がせません。二度も三度も折重おりかさなって、り落ちて、しまいには、私がどしんと尻餅をくと、お優さんは肩にすがった手をえたように解いて、色っぽくはだけたつまと、男の空脛からすねが二本、少し離れて、名所の石にひしゃげました。
 溜息ためいきいてる、草のしげみを、ばさり、がさがさと、つい、そこに黒くいて、月夜に何だか薄く動く。あ、とお優さんは、なまめかしい色を乱してすそを縮めました。おや、※(「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84)もぐらか、田鼠たねずみか。――透かして見ると、ぴちぴちねるのが尾のようで……とにかく、長くないのだから、安心して、ひッつかまえると、
(お魚よ、お魚よ。)
ふなのようだ。)
 てのひらには、余るくらいなのが、しかもえらひれ、一面に泥まみれで、あの、菖蒲しょうぶの根が魚になったという話にそっくりです。
 これで首くくりは見合わせて、二人とも生きる事になりました。ちょっと、おめでたい。
 両方でを寄せるうちに、松の根を草がくれの、並木下の小流こながれから刎出はねだしたものではない。昼間、竜巻の時、魚が降った、あの中の一ぴきで、河北潟から巻落されたに違いない。昼から今に到るまで、雲から落ちながらさえ、うお生命いのちを保つ。そうしてこの水音をしたって、路の向うから千里百里のおもいをして、砂を分けて来たのであろう。それまでにしてうおさえきる。……ここは魚売が浜から城下へ往来ゆききをしますから、それが落したのかも分りませんが、思う存分の方へ引きつけて、お優さんも、おなじ意見で。
 早速、草を分けて、水へ入れてやりました。が、天から降った、それほどの逸物いちもつだから、竜の性を帯びたらしい、非常ないきおいで水をねると、葉うらに留まった、秋近い蛍の驚いて、はらはらと飛ぶ光に、うろこがきらきらと青く光りました。
(食べれば可かったなあ、彼奴あいつ。――ああ、お腹が空いて動くことも出来ない。僕は――)
(まあ、可哀相に、あんなに苦労したお魚を……)
 その癖、冷い汗が流れるほど、腹が空いて、へとへとだと、お優さんも言うんでしょう。……

 父は――同じ錺職かざりしょくだったんですが、さかんな時分、二三人居た弟子のうちに、どこか村の夜祭に行って、いい月夜に、広々とした畑を歩行あるいて、あちらにも茅屋かややが一つ、こちらにも茅屋が一つ。その屋根に狐が居たとか、遠くできぬたが聞えたとか。つまり畑へ入って瓜を盗んで食ううちに、あたり一面の水になって、膝まで来て、胴へついて、素裸すっぱだかになって、ものを背負しょって、どうとか……って、話をするのを、小児こどもの時、うとうと寝ながら聞いて、面白くってたまらない。あの話を――と云って、よくその職人にねだったものです。

 ただ悪戯いたずらにさえうれしい処を、うしろに瓜畑があります。――路近い処には一個ひとつっていませんから、二人して、ずッと畑を奥へ忍ぶと、もこもこと月影を吸って、そこにも、ここにも、銀とも、金とも、紫とも、皆薄青い覆輪して、葉がくれの墨絵もおもしろい。月夜に瓜畑へ入らないではこの形は分りません。いや、お優さんと一所でなくては。――一個ひとつてのひらにのせました。が夜露で、ひやりとして、玉のくつ珊瑚さんごの枕を据えたようです。雲の形が葉をひろげて、うすく、すいすいと飛ぶ蛍は、瓜の筋に銀象嵌ぎんぞうがんをするのです。この瓜に、朝顔の白い花がぱっと咲いた……結綿ゆいわたを重そうに、娘も膝にたもとを折って、その上へ一顆ひとつのせました。いきなり歯を当てると、むし歯になると不可いけないと、私のためにかんざしの柄を刺して、それから、皮を取って、裂目を入れて、ふたつに分けて、とろとろと唇が触ったか、触らない中に――
 いまの※(「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84)もぐら田鼠たねずみの形を、およそ三百倍したほどな、黒い影が二つ三つ五つ六つ、瓜畑の中へ、むくむくといて、波を立てて、うねって起きた。
(泥棒。)
(どッ、泥棒。)
 とわめくや否や、狼のように人立じんりつして、引包ひッつつんでとびかかった。
(あれえ。)
阿魔あまっちょは、番小屋へかつげ。)
(この野郎。)
(二才め。)
 私は仰向あおむけに撲飛はりとばされた。
(身もんだえしやがると、棒しばりにして、俺等おらっちの小便をしっかけるぞ。)
(村のお規則きまりだい。)
(堪忍して、堪忍して……)
 娘の声は、十二本の足の真黒まっくろ可恐おそろしけものの背に、白い手を空にして聞こえました。
 瓜番小屋は、ああ、ああ血の池に掛けた、桟敷のように、くろがねが煙りながら宙に浮く。……知らなかった。――き近い処にあったのです。

(きれいな黒子だな、こんな処に、よう。)――
 私の目からは血が流れた。瓜は皆真紅まっかになって、葉ごとに黒い浪打つ中を、体は、ただ地をって転がった。
心中見た見た、並木の下で、
しかも皓歯しらはと前髪で。……
心中見た、見た、並木の下で、
しかも皓歯……
 番小屋の中から、優しく、細い、澄んだ声で、お優さんの、澄まして唄うのが聞こえました。」
 小山夏吉は、声がせまって、はらはらと落涙した。
「お聞きになって、どう、お考えなさるでしょう?
 私には、その時、三つだけ、する事がありました。……
 首をくくる事、第一。すぐわきの茶店へ放火する、家を焼いて、村のものを驚かす事、第二。第三は飛込んで引縛ひっくくられて小便を、これだけはどうも不可いけない……どいつも私に二嵩ふたかさぐらい、村角力むらずもうらしいのも交って、六人居ます。
 間に合う、合わないは別として、私は第二の手段を選ぶのが、後に思うと、娘に対する義務ではなかったかと思うのです。わずかに復讐の意義をかねて。――ええ、火の用意は、と言うんですか?……煙草のために燐寸マッチがありました。それでなくても、黒くなった畑の上に、松の枝に、扱帯しごきの輪が、燃えて動いているんです。そればかりでも家は焼けるのに、卑怯ひきょうな奴で、放火つけびが出来ない。第一の事を、と松に這寄った時、お優さんの唄が聞こえましたのは――発狂したのでしょうのに――
(――この通りあきらめました。死なないでお帰りなさい――)
 そう言ってくれるのだと、身勝手ばかり考えて、
松の根もとにいちごが見える、
お前末代わしゃ一期いちご。……
一期末代添おうとしたに、
松も苺も、もう見えぬ――  ――とまた唄う。
 ええ、その苺というあかい実も、火をつけて、火をつけて、とうつくしい、怜悧りこうな娘が教えたのかも知れないのに……耳をふさぎ、目をつむって、転んだか、つまずいたか、手足は血だらけになって、夜のしらしらあけに、我が家で、バッタリ倒れたんです。
 並木で人の死んだ風説うわさはきかない。……
 翌月、不意の補助たすけがあって、東京へ出ました。」
(すぐにある技芸学校を出たあとを、あらためて名匠の内弟子に入ったのである。)
「やっと一人だちで故郷へ帰る事が出来て、やがて十年前に、ぜん申したわけで六地蔵があすこへ立ったと聞きました頃には、もう山桜の霞の家も消えている……お優さんの行方は知れません。生命いのちはあったのでしょう。いずれ追手がかかったのでしょう。おなじように、かつがれて、連れ戻されて、鱗の落ちた魚、毛のあかはだになった鳥は、下積に船に積まれて、北海の浪にただよったのでしょう。けれども、汽車は、越前の三国、敦賀つるが。能登の富来、輪島。越中の氷見、魚津。佐渡。また越後の糸魚川いといがわ能生のう、直江津――そのどこへ売られたのか、捜しようがなかったのです。
 六人が、六条むすじ、皆赤い蛇に悩まさるる、熱の譫言うわごとを叫んだという、その、渠等かれらに懲罰をたまわった姫神を、川裳明神と聞いて、怪しからんことには――前刻さっきも申した事ですが、私もかわおそだと思って、その化身にされたのを、お優さんのために、大不平だった。松の枝の緋鹿子ひがのこを、六人して、六条に引裂いて、……畜、畜生めら。腕に巻いたり、首に掛けたり、腹巻はまだしも、股に結んでもてあそびなぞしていやがった。払ってきよめて、あすこのほこらに納めたと聞いてさえ、なぜか、扉を開けようとはしませんでした。赤い蛇を恐れたのではないのです。――私は実は、めぐり合って、しめ殺されたい。
 殺されて、そうして、彼奴等きゃつらよりなお醜い瓜かじりのほっかけ地蔵を並べれば可いんです。」
 小山夏吉の旅行癖が――諸君によくお分りになったと思う。
「――大笹の宿で、しかも、この、大笹村にある……思いかけず、その姫神の縁起に逢った。私は、直ぐに先祖の系図を見る真剣さと、うまれぬさきの世の履歴を読む好奇心と、いや、それよりも、恋人にめぐり逢う道しるべの地図を見る心の時めきで、読む手が思わず震えました。
 川裳明神の縁起――可心、のぶる。……」


「大笹の宿のその夜、可心の能登紀行で、川裳明神の本地が釈然としました。ひざまずかなければなりません。私は寝られません。
 なぜか、庭の松の樹を、一度見ないでは、どうしても気が済まなくなりました。ぐりつけられるように。……金石街道でお優さんと死のうとした、並木の松に、形がそっくりに見えて忍耐がまんがならないのです。――

 勝手は心得ていましたから、雨戸を開けました。庭の松が、ただ慄然ぞっとするほど、その人待石の松と枝振は同じらしい。が、どの枝にも首をくく扱帯しごきは燃えてはおりません。寝そびれた上に、もうこうなっては、葉がくれに、紅いのがぶら下っていようも知れないと、跣足はだしでも出る処を、庭下駄があったんです。
 暗夜やみだか、月夜だか、覚えていません。が、松の樹はすやすやと息を立てて、寝姿かと思うしずかさで、何だか、足音を立てるのも気の毒らしい。三度ばかり、こんもりと高い根を廻りましたが何にも見えません。茫然ぼうぜんと、腕組をして空をながめて立った、二階の棟はずれをのぞいて、ふくろおおきく翼をひろげた形で、またおなじような松が雲の中に見えるんです。心をかれて、うっかりして木戸を出ました。土が白い色して、杜若かきつばたの花、紅羅がんぴつぼみも、色をおぼろに美しい。茱萸ぐみの樹を出ますと、真夜中の川が流れます。紀行を思うと、渡るのがあぶなっかしい。生えた草もまた白い。土橋の上に、ふと二個ふたつ向合った白いものが見えました。や、女だ! これは。……いくら田舎娘だって、まだ泳ぐには。――思わず、私が立停たちどまると、向合むかいあったのが両方から寄って、橋の真中まんなかへ並んで立ちました。その時莞爾にっこり笑ったように見えたんですが、すたすたと橋を向うへ行く。跣足はだしです。よく見ると、まるの裸体はだか……いや、そうでない。あだ白い脚は膝の上、ほとんどつけ根へ露呈あらわなのですが、段々瞳がまると、真紅まっか紅羅がんぴの花をかんざしにして、柳条笹しまざさのようなの入った薄いきもの、――で青いんだの、赤いんだの、茱萸ぐみの実が玉のごとく飾ってある。――またしきりに鳴く――蛙の皮の疣々いぼいぼのようでもあります。そうして、一飛ひとッとびずつ大跨おおまた歩行あるくのが、何ですか舶来の踊子が、ホテルで戸惑とまどいをしたか、銀座の夜中に迷子になった様子で。その癖、髪の色は黒い、ざらざらとさばいたおさげらしい。そのぶら下った毛の中に、両方の、目が光る。……ああ、あとびっしゃりをする。……そうでないと、目が背中へつくわけがない、と吃驚びっくりしました。しかし一体、どっちが背だか腹だか、はだけた胸も腹も、のっぺらぼうで、人間としての皮の縫目が分りません。
 少し上流の方へつたわって行くと、向う左へ切れた、畝道あぜみちの出口へ、おなじものが、ふらふらと歩行あるいて来て、三個みッつになった。三個が、手足を突張つっぱらかして、箸の折れたように、踊るふりで行くと、ばちゃばちゃと音がして、水からまた一個ひとり這上はいあがった。またその前途ゆくてに、道の両側にしゃがんで待ったらしいのが、ぽんと二個ふたつ立つと、六個むたりも揃って一列になりました。逆に川下へ飛ぶ、ぴかりぴかりと一つおおおな蛍の灯に、みんな脊が低い。もっとも、ずッと遠くなったのだから、そのわけかも知れませんが、三尺二尺、五寸ぐらいに、川べりの田舎道はるかになると、ざあと雨の音がして、ながれの片側、真暗まっくらおおき竹藪たけやぶのざわざわと動いて真暗な処で、フッと吸われて消えました。
 ほんとうに降って来た。私は、いつか橋を渡っていたのです。――
 小雨に、じっとりとなった、と思ったのは、冷い寝汗で。……私はハッと目が覚めました。」


「翌朝おもいのほか寝過ごして、朝湯で少しはっきりして、朝飯あさはんを取ります頃は、からりと上天気。もう十時頃で、田舎はのんきですから、しらしらあけもおんなじに、清々すがすがしく、朗かに雀たちが高囀たかさえずりで遊んでいます。蛙も鳴きます。旅籠はたご主人あるじに、可心寺の聞きたしをして――(女神じょしんは、まったくきておいでなさる。幽寂しんとした時、ふと御堂みどうの中で、チリンと、かすかな音のするのは、かんざしが揺れるので、その時は髪をでつけなさるのだそうで。)と聞く時分から、テケテケテン、テトドンドンと、村のどこかで……遠い小学校の小児こども諸声もろごえに交って、しずかえて、松葉が飛歩行とびあるくような太神楽だいかぐらの声が聞えて、それが、こだまに響きました。
 おお! ここに居る。――ながれに添って、かみの方へ三町ばかり、商家あきないやも四五軒、どれも片側の藁葺わらぶきを見て通ると、一軒荒物屋らしいのの、横縁のはじへ、煙草盆を持出して、六十ばかりの親仁おやじが一人。つのぶちの目金めがねで、じっと――別に見るものはなし、人通ひとどおりもほとんどないのですから、すぐ分った、鉢前のおおきく茂った南天燭なんてんの花を――(実はさぞ目覚めざましかろう)――悠然として見ていた。ほかに、目に着いたものはなかったのですが……宿で教えられた寺の入口の竹藪たけやぶが、ついそこに。……川はななめに曲って、いわけわしくなり、道も狭く、前途ゆくては、もう田畝たんぼになります。――その藪の前の日向ひなたに、ぼったらやきの荷にひさしを掛けたほどな屋台を置いて、おお! ここに居る。太神楽が、黒木綿の五紋いつつもんの着流しで鳥打帽をかぶった男と、久留米絣くるめがすりにセルのはかまを裾長に穿流はきながした男と、頬杖を突合って休んだのを見ました。端初はな、夢に見た藪にそっくりだ、と妙な気がした処へ、この太神楽で陽気になった。そのまますれ違って通ったのです。
 向って、たらたらとあがる坂を、可なり引込ひっこんで、どっしりしたかやの山門が見えます。一方はその藪畳みで、一方は、ぐっとがけくぼんで、じとじとした一面の茗荷畑みょうがばたけ水溜みずたまりには杜若かきつばたが咲いていました。上り口をちょっと入った処に、茶の詰襟の服で、護謨ゴムのぼろ靴を穿いて、ぐたぐたのパナマを被った男が、ばちてのひらたたきながら、用ありそうに立っている。処へ、私が上りかかると出会がしらに、横溝よこどぶまたいで、藪からぬっくりと、あらわれたのは、でっぷりとふとった坊主頭で、鼠木綿を尻高々と端折はしょって、跣足はだしくわをついた。……(これがうつくしい伯母さんのために出家したおいだと、墨染の袖に、その杜若の花ともあるべき処を)茗荷みょうがつかみ添えた、真竹の子の長いやつを、五六本ぶら下げていましたが、
(じゃあ、米一升でどうじゃい。)
 すぐこう云うと、詰襟が、
(さあ、それですがね。)
(銭、五貫より、その方が割じゃぜい――はっはっはっ。ひえまじりじゃろうが、白米一升、どないにしても七十銭じゃ。割じゃろがい。はっはっはっ。)
 泥足をねながら、肩をゆすって、大きに御機嫌。
 給金しんしょう談判かけあいでした。ずんずん通り抜けて、寺内へ入ると、正面がずッと高縁たかえんで、障子が閉って、茅葺かやぶきですが本堂らしい。左が一段高く、そこの樹林の中をくぐると、並んではいますが棟が別で、落葉のままにかわらが見えます。きざはしあがると、成程、絵馬が沢山に、正面の明神の額の下に、格子にも、桟にも、女の髪の毛が房々とかかっています。紙で巻いたり、水引で結んだり、で引いて見ましたが、扉は錠が下りています。にじとばり、雲の天蓋てんがいの暗い奥に、高く壇をついて、仏壇、廚子ずしらしいのが幕を絞って見えますが、すぐにすがたが拝まれると思ったのは早計でした。第一女神じょしんでおいでなさる。まず拝して、絵馬をて、しばらく居ました。とにかく、廚裡くりへ案内して、拝見……を願おうと……それにしても、竹の子上人は納所なっしょなのかしら、法体ほったいした寺男かしら。……
 女神のかんざしの音を、わざとでなく聞こうとして、しばらくうっかりしたものと見えます。なぜというに、いま、樹立こだちの中を出ますと、高縁の突端とっぱしに薄汚れたが白綸子しろりんず大蒲団おおぶとんを敷込んで、柱を背中に、酒やけの胸はだけで、大胡坐おおあぐらいたのはやぶの中の大入道。……納所どころか、当山の大和尚。火鉢を引寄せ、すねの前へ、一升徳利を据えて、驚きましたなあ――茶碗酒です。
 門内の広庭には、太神楽が、ほかにもう二人。五人と揃って、屋台を取巻いて、立ったり、しゃがんだり、中には赤手拭をちょっと頭にのせたのも居て、――これは酒じゃない、大土瓶から、茶をがぶがぶ、丼の古沢庵ひねたくあん横噛よこかじりでってると、破れかかった廚裡くりの戸口に、霜げた年とった寺男が手を組んで考えたつらで居る処。
 けたけたけたと、和尚が化笑ばけわらい唐突だしぬけに遣ったから、私は肩をすぼめて、山門を出た。
 何と、こんな中へ開扉かいひが頼まれますものですか。
 なお驚いたのは、前刻さっきの爺さんが同じ処で、まだじっ南天燭なんてんの枝ぶりを見ていた事です。――一度宿へ帰って出直そうとそこまで引返したのですが、考えました。そちこちひるすぎだ、帰れば都合でぜんも出そうし、かたがた面倒だ。一曲か二曲か、太神楽のおさまるまで、とまた寺の方へ。――
 テンドンドン、テケレンと、囃子はやしがはじまる。少し坂を上って、こう、すかしますと、向うななめにずッと覗込のぞきこむ、生垣と、門の工合ぐあいで、赤い頭ばかりがまりのように、ぴょんぴょんと、垣の上へ飛ぶのと――柱を前へ乗出した和尚の肩の処が半分見える。いま和尚の肩と、柱の裏の壁らしく暗い間に、世を忍ぶ風情で、※娜なよなよ[#「女+島」の「山」に代えて「衣」、U+5B1D、297-14]と、それも肩から上ぐらい、あとは和尚の身体からだにかくれた、おんなが見えます。
 はっと思った。
 髪は艶々つやつやと黒く、色は白いと思うのが、すごいほど美しい。
 が、近づけません、いや、寄って行けない。せめて一人、小児こどもでも、そこらに居てくれればいのですが、小学校の声ばかりまたはるかに響くんです。私ただ一人……それに食べものが出ている……四十面を下げたものが、そこへ顔が出せますか。
 殊に、い女、と思うほど、ここにうそうそ居て、この顔が見えよう。覗くのさえ気がさしますから、思切って、村はずれの田畝たんぼまで、一息に離れました。

 蛙がよく鳴いています。その水田の方へ、なわてへ切れて、蛙が、中でも、ことこところころ、よく鳴頻なきしきってる田のへりへ腰を落し、ゆっくり煙草を吹かして、まずあの南天老人をめました。
 ――しばらくして、ここを、二人ばかり人が通る。……屋台を崩して、衣装葛籠つづららしいのと一所に、荷車に積んで、三人で、それはなわての本道を行きます。太神楽も、なかなか大仕掛おおじかけなものですな。私の居たなわてへ入って来たその二人は、紋着もんつきのと、セルのはかまで。……田畝の向うに一村ひとむら藁屋わらやが並んでいる、そこへ捷径ちかみちをする、……先乗さきのりとか云うんでしょう。
 私は、笑いながら、
(お寺の、美人はいかがでした。)
 対手あいてが道化ものだから、このくらいな事は可い、と思った。
別嬪べっぴん? お寺に。)
 とセルが言うと、
(弁天様があるのかね。)
 と紋着が生真面目きまじめです。
 私はまごついた。
(いいや、和尚の、かみさんだか、……何ですかね。)
(ははは、御串戯ごじょうだんもんだ。)
(別嬪が居て御覧ごろうじろ、米一升のかわりに引攫ひっさらっちまう。)
 と笑いながら、さっさときます。
 はぐらかすとは思えません。――はてな、それでは、いま見たのは。――何にしても太神楽は、もう済んだのですから、すぐに可心寺へ出向くはずの処を、少々居迷ったのは、前刻さっきから田の上を、ひょいひょいとる蛙連中が、大小――どうもおかしい。……りはじめの瓜に似ている。……こんな事はありません。泳ぐ形は、そんなでもないが、ひょんと構えたり、腹を見せて仰向あおむけに反った奴などは、そのままです。瓜の嬰児あかんぼが踊っている。……それに、私は踏込んで見る気はありませんでしたが、この二三枚を除いたほかは、つづく畠で、気のせいか、一面に瓜が造ってあるようです。蛙どもは、ひょんひょんと飛ぶ。すいすい泳ぐ。ばちゃりとねる。どうもおかしい。そのうちに、隣のじとじとした廃畑すたればたから、あぜうつりに出て来る蛙を見ると、頭に三筋ばかり長い髪の毛を引掛ひっかけていているのです。おや、また来るのも曳いている。五六ぴき――八九疋。――こっちの田からも飛込んでまた引いて出る。すらすらと長い髪の毛です。じっると、水底みなそこに澄ました蛙は、黒いほどに、一束ねにしてかついでいます。処々に、まだこんなに、蝌蚪おたまじゃくしがと思うのは、みんな、ほぐれた女のかみのけで。……
 女神の堂に、あんなに、ばらみの、たぼみのが有ったのを見ない前だと、これだけでも薄気味が悪かったでしょうのに。――そんな気はちっともなかった――ただ、あぜどなりの廃畑すたればたをよく見ると、畳五枚ばかりの真中まんなかに、焼棄やきすての灰が、いっぱい湿って、よどんで、竹の燃えさしが半ば朽ちて、ばらばらに倒れたり、うもれたりしています。……流灌頂ながれかんちょう――虫送り、虫追、風邪の神のおくりあと、どれも気味のいいものではない。いや、野墓、――野三昧のざんまい、火葬のあと……悚然ぞっとすると同時に、昨夕ゆうべの白い踊子を思い出した。さながらこの蛙に似ている。あっけに取られた時でした。
(やあ――やあ――やあ――)
 と山裾の方から、野良声を掛けて、背後うしろあぜを伝って来た、くわをさげた爺さんが、
(やあ、お前様めえさまいけましねえ。いけましねえ。)
 慌てて挨拶あいさつした。
(どうも済まない。)
(やあ、はい、びさっしゃる事は何にもねえだがね、そこに久しく立っているとぎゃくを煩らうだあかンな、取憑とッつかれるでな。)
(ええ、どうしてだい。)
(何、お前様。)
 と、はんの樹から出て来ながら、ひょい、とあとへ飛退とびすさった。
菜売なうりがそこで焼死んだてばよ。)
(焼死んだ。)
 こっちも退すさった。
(菜売?……ッて)
(おおよ。一昨年おととしずらい。菜売の年増女さ、身体からだあ役に立たなくなったちで、そこな瓜番小屋へ夜番に出したわ。――我が身で火をつけて、小屋ぐるみ押焦おっこげたあだ。真夜中での、――そん時は、はい、お月様も赤かったよ。)」
 …………………………


「……女神じょしんの殿堂の扉の下にやがてひざまずいた私は、それから廚裡くりの方へ行こうとしました。
 あの――山門を入った正面の高縁の障子が開いたままになっていましたから、廚裡へもまわらないで、すぐに廊下を一つ、女神堂へ参ったのですが、扉はしまっていました。――
 この開扉を頼むのと、もう一つ、急に住職の意を得たい事が出来たのです。
 唐花からはなの絵天井から、壁、柱へ、あやにしきと、薄暗く輝くなかに、他国ではちょっと知りますまい。以前、あのあたりの寺子屋で、武家も、町家も、妙齢としごろの娘たちが、綺麗な縮緬ちりめんの細工ものを、神前仏前へ奉献する習慣ならわしがあって、裁縫の練習なり、それに手習てならいのよく出来る祈願だったと言います。四季の花はもとよりで、人形の着もの、守袋、巾着きんちゃくもありましょう、そんなものを一条ひとすじの房につないで、柱、天井から掛けるので。祝って、千成せんなり百成ひゃくなりと言いました。絢爛けんらん薬玉くすだまを幾すじつらねたようです。城主たちの夫人、姫、奥女中などのには金銀珠玉をちりばめたのも少くありません。
 女神の前にも、幾条かつらなってかかっていた。山の奥の幽なる中に、五色のつたを見るおもいがあります。ここに、りもの、栗、蜜柑みかん、柿、柘榴ざくろなどと、かぶら、人参、花を添えたつるの藤豆、小さな西瓜すいか、紫の茄子なすび。色がいいから紅茸べにたけなどと、二房一組――色糸の手鞠てまりさえ随分糸の乱れたのに、就中なかんずく蒼然そうぜんと古色を帯びて、しかも精巧目を驚かすのがあって、――中に、可愛い娘のてのひらほどの甜瓜まくわが、一顆ひとつ
 嬉しくなって、私が視入みいった事は申すまでもありますまい。
 黄に薄藍うすあいの影がさす、藍田らんでんの珠玉とか、やわらかく刻んで、ほんのりとあたたかいように見えます、障子ごしに日が薄くすんです。
 立って手を伸ばすと、届く。そっと手で触ると……動く。……動く瓜の中に、ふと、何かあるんです。」
「――中に――」
 筆者は思わず問返した。
「中に何だかあるんです。チリン、チリンと真綿にくるまった、微妙な鈴のような音がしました。ああ、女神のかんざしの深秘に響くというのは、これだと想って、私は全身、かッとほてりました。」
 ここに聞くものは悚然ぞっとした。
「中はうつろで、きれ仕立ですから、瓜の合せ目は直ぐ分りました。が、これは封のあるも同然。神の料のものなんです。参詣人が勝手にはのぞけません。
 ――真先まっさきにこれを一つと思ったんです。もう堂の中に居るのですから、不躾ぶしつけ廚裡くりへ向って、おおきな声は出せません。本堂には祖師の壇があります。ここで呼立てるのも失礼だと思いますから、入った高縁の処、畳数を向うへ長く縦に見取って、奥の方へ、御免下さい、願います、願います、とやったが一向に通じない。弱った、和尚、あのいきおいで、寝込みはしないか。廚裡へ行く板戸はしまっていて、ふと、壁についた真向うの障子の外へ、何だか、ちらりと人影がしたようで、それなり消えましたから……あの美しい女が。……
 あるいは人に隠れたのかも知れない。しかし帰れません。思切って、ずかずかと立入って、障子を開けますと、百日紅さるすべりが、ちらちらと咲いている。ここを右へ、折れ曲りになって、七八間、ひさしはあるが、かこいのない、吹抜けの橋廊下が見えます。暗い奥に、いおりが一つ。背後うしろは森で、すぐに、そこに、墓が、卒塔婆そとばが、と見る目と一所に、庵の小窓に、少し乱れた円髷まるまげの顔がのぞいて、白々と、ああ、藤の花が散り澄ますと思う、窓下の葉蘭はらんに沈んで、水の装上もりあがった水盤に映ったのは、撫肩なでがたなびいた浴衣の薄い模様です。襟うらにあかいのがちらりと覗いて、よりかかったさまに頬杖して半ばねむるようにしていました。ああ、寝着ねまきで居る……あの裾の下に、酒くさい大坊主が踏反ふんぞって。……
 私は慇懃いんぎんに礼をしました。
 瞳を上げる、鼻筋が冷く通って、片頬かたほにはらはらとかかる、軽いおくれ毛を撫でながら、しずかひらきを出ました。水盤の前に、寂しく立つ。黒繻子くろじゅすと打合せらしい帯を緩くして、……しかし寝ていたのではありません。迎えるように、こっちから橋に進んで――象嵌ぞうがんなどを職にします――話して、瓜の事を頼みました。
 やさしい声で、
(和尚様は留守でございます。けれど、明神様へ……私から。)
(是非どうぞ。)
 前刻さっきは、あの柱の蔭に、と思って、
(太神楽はいかがでした。)
(まあ、違いますよ、私は見はいたしません。)
(ええ、それでは。)
(明神様の御像おすがたを、和尚さんが抱いて出たのでございます。お慰みに、と云って、私は出はいたしません。明神様も、御迷惑だったでしょう。)
貴女あなたは。)
(私は可厭いやですわ――それに御厄介になっております居候なんですから。)
 瓜の中が解ったら、あるいはこの意味も、どうした事か、解るかも知れない。
(これでございますね。)
 御廚子みずしの前に、深く蝋燭ろうそくを点じ、捧げてのち、女はくれないふさに手を掛けた。あかしをうけると、その姿は濃くなった。
(よく出来ていますこと。)
(ああ、そうして取れますか。)
 自分の顔のあおくなるまで、女のさしのばした雪白のかいなに、やや差寄って言いました。
(畠のだと、貴方あなたの方が取るのがお上手でしょうけれど……)
 微笑にっこりする。
(ええ。)
(これは、このつるの結びめでほどけます。私なぞも、真似をしてこしらえましたから存じております。――まあ、貴女あなたが。)
 と云って、廚子を拝んで、
(お気にめして、時々お持ち遊ばすそうで、ちっともほこりがついていません。――あすこへ……明るい処へ参りましょう。お仕事の事で御覧になりますなら、その方がよく見えます。)
 消えるようになって、すらすらと出ました、障子際へ。明けると、荒れたが、庭づくりで、石の崩れた、古いおおきな池が、すぐこの濡縁に近く、はすは浮葉を敷き、杜若かきつばたは葉がくれに咲いている。……御堂の外格子――あの、前刻さっききざはしから差覗さしのぞいた処はただ、黒髪の暗いすだれだったんですがな。
(どうぞ、貴女あなたが明けて――お見せ下さい。)
 さし向った、その膝に近づきました。
(お菓子でしょうか、よく合っておりますこと。)
 私へ、斜めに、瓜を重いように、しなやかに取って、据えて、二つに分けると、魚が一尾ひとつ、きらりと光り、チンチンチンとうろこが鳴るとひとしく、ひらりと池の水へ落ちました。
 あ、あ、あ、あの池の向うの、おおきな松の幹を、結綿ゆいわたの娘と、折重おりかさなって、かすり単衣ひとえの少年が這っている。こっちで、ひしと女に寄ろうとする、私の膝が石のようにしびれたと思うと、対向むこうで松の幹を、少年がずるずるとすべって落ちた。
 落ちると同時に、その向うの縁に、旅の男が、円髷まるまげの麗人と向合っているのが見える。
 そこには、瓜が二つに割れて、ここの松の空なる枝には、緋鹿子ひがのこの輪がかかりました。……御堂も、池も、ぐるぐると廻ったんです。
 見る見る野の末に黒雲がかかると、黒髪の影の池の中で、一つ、かたかたと鳴くに連れて、あたりの蛙の一斉いっときに、声を合わせるのが、
松の根本にいちごが見える…………
 あの当時ときの唄にそのままです。
 飛びついて抱こうとする手がこわばって動かない。化鳥けちょうのごとく飛びかかった、緋の扱帯しごきくうつかんで、自分の咽喉のどめようとするのを、じっとおさえて留めました。女の袖が肩を抱くと、さし寄せた頬にかかっておくれ毛が、ゆれて、なびいて、そこいらの、みの毛ばら毛、かもじも一所に、あたりは真暗まっくらになりました。
(連れてって下さい、お優さん、冥途めいどへでもどこへでも。)
(お帰りなさい――私が一所に参りますから。)
 その時、甘い露に……唇が濡れました。息を返したんです。大笹の宿の亭主が、余り帰りの遅いのを見に来て、花桶はなおけの水をそそいだんだそうです。
(……私が一所に参りますから。)
 で、――お優さんは、この炬燵こたつの、ここに居ます。」
 筆者は炬燵からとびしさった。

「しかし、この頃に、大笹へ参って、骨を拾って帰ろうと思います。
 あの時、農家の爺さんが(菜売)の年増女だと、言ったでしょう。瓜番の小屋へ自分で火をつけたのは尋常ただごととは思わなかったが。……ただ菜売とだけ存じました。――この頃土地の人に聞くと、それは、夏場だけ、よそから来て、を売る女の事だと言います。それだと、お優さんの、骨は、可心寺の無縁ですから。」
   附記。
 その後、大笹から音信たよりがあった――(知人はその行をあやぶんだが、小山夏吉は日をかず能登へ立った)――錦の影であろう、廚子ずしにはじめて神像を見た時は、薄い桃色に映った、実は胡粉ごふんだそうである、等身の女神像は肩に白いみのを掛けて、それが羽衣に拝まれる。もすそを据えた大魚は、ややつらが奇怪で、鯉だか、ますだか、亀だか、蛇だか、人間の顔だか分らない。魚尾は波がしらにねている。黒髪のかんざしに、小さな黄金きんふなが飾ってある。時に鏘々しょうしょうとして響くのはこの音で、女神がくしけずると、またあらためて、人に聞いた――それに、この像には、起居たちいがある。たとえば扉の帳をとざす、その時、誦経者ずきょうしゃの手に従うて、像の丈の隠るるに連れて、魚の背に膝が着くというのである。が、小山夏吉の目にも、同じ場合にその気勢けはいを感じた。波を枕に、肱枕ひじまくらをさるるであろう。蓑の白い袖が時として、垂れて錦帳きんちょうをこぼれなどする。
 不思議な発条仕掛ばねじかけがあるのではないか、と言う。
 まことや、文化よりして、慶応の頃まで生存した、加賀大野港おおのみなとに一代の怪人、工匠にして科学者であった。――町人だから姓はない、大野浜の弁吉の作だそうである。
 三味線さみせんただ一ちょうを携えていずこよりともなく浜づたいに流れて来て、大野の浜にとどまった。しきりに城下を往来したが、医をよくし、巫術ふじゅつ、火術を知り、その頃にして、人に写真を示した。製図にたくみに、機械にくわしい。醤油のエッセンスにて火をともし、草と砂糖を調じて鉱山用のドンドロを合せたなどは、ほんの人寄せの前芸に過ぎない。その技工の妙を伝聞して、当時の藩主の命じて刻ましめた、美しき小人の木彫は、坐容立礼、進退を自由にした。余りにそのきたるがごとく、目に微笑をさえ含んで、澄まし返った小憎こにくらしさに、藩主が扇子をもってポンと一つ頭を打つや、さっと立って、据腰すえごしに、やにわに小刀ちいさがたなに手を掛けて、百万石をのけらした。ちょっと弁吉の悪戯いたずらだというのである。三聖酢をなむる図を浮彫にした如意にょいがある。見ると、ひげも、眉も浮出ているが手を触ると、何にもない、木理ぼくり滑かなること白膏はっこうのごとし。――その理、測るべからず。ひそかに西洋に往来することを知って、かれはばかるものは切支丹キリシタンだとささやいた。
 ――とんび(鶴ではない)を造って乗って、二階から飛んでその行く処を知らない。
 好んで、風人とまじわったから、――可心は、この怪工に知を得て、女神の像は成ったのである。
 また希有けぶなのは、このあたり(大笹)では、蛙が、女神にささげ物の、みの、かもじを授けると、小さな河童かっぱの形になる。しかしてあるものは妖艶ようえんな少女に化ける。裸体に蓑をかけたのが、玉を編んでまとったようで、人の目にはうすものに似て透いて肉が甘い。脚ははぎのあたりまでほとんどあらわである。月おぼろに、ともしびくらきなど、高浜、あべ屋、福浦のあたりまで、少からず男を悩すというのである。
 小山夏吉の手紙は、この意味を――

「おもいの外、瓜吉(渾名あだなをいう)は暢気のんきだぜ。」
 皆云っていたが、小山夏吉は帰らない。
 なお手紙によると、再び可心寺にもうでた時は、和尚は、あれからすぐに亡くなって、檀を開くのに、村の人たちが立会った。――無住だった――というから。
 お優さんの骨――ばかりでなく、霊に添って、奥のいおりを畠に、瓜を造っているのだろう。本懐であろう。
 蛙の唄をききながら、その化けた不良性らしいの女等を眷属けんぞくにして。……
 あとでも、時々、瓜は市場に出た。が、今は他のものを器具うつわでない。瓜はそのまま天来の瓜である。従って名実ともにたがねは冴えた、とその道のものは云った。が惜しいかな――去年の冬、厳寒に身をいたんで、血をいて、雪にくれないの瓜を刻んだ。
昭和二(一九二七)年五月





底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
   1942(昭和17)年6月22日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。
みつヶ口」「一ヶ処」
2011年7月4日作成
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●表記について

「女+花」、U+5A72    257-2
「さんずい+散」、U+6F75    258-7
「女+島」の「山」に代えて「衣」、U+5B1D    297-14


●図書カード