甲乙

泉鏡花





 先刻さっきは、小さな女中の案内で、雨の晴間を宿の畑へ、家内と葱を抜きに行った。……料理番に頼んで、晩にはこれで味噌汁をこしらえて貰うつもりである。生玉子を割って、つは吸ものにし、且つはおじやと言う、上等のライスカレエを手鍋であつらえる。……腹ぐあいの悪い時だし、秋雨もこう毎日降続ふりつづいて、そぞろ寒い晩にはこれが何より甘味うまい。
 畑の次手ついでに、目の覚めるような真紅まっかたでの花と、かやつりそうと、豆粒ほどな青い桔梗ききょうとを摘んで帰って、硝子杯コップを借りて卓子台ちゃぶだいに活けた。
 ……いま、また女中が、表二階の演技場で、万歳まんざいがはじまるから、と云って誘いに来た。――毎日雨ばかり続くから、宿でも浴客、就中なかんずく、逗留客にたいくつさせまい心づかいであろう。
 私はちょうど寝ころんで、メリメエの、(チュルジス夫人)を読んでいた処だ。真個ほんとうはこの作家のものなどは、机に向って拝見をすべきであろうが、温泉宿の昼間、掻巻かいまきを掛けて、じだらくで失礼をしていても、たれ叱言こごとをいわない処がありがたい。
 が、この名作家に対しても、田舎まわりの万歳芝居は少々はばかる。……で、家内だけ、いくらかお義理を持参で。――ただし煙草たばこをのませない都会の劇の義理けんぶつに切符をおしつけられたような気味の悪いものではない。出来秋できあきの村芝居とおなじ野趣に対して、私も少からず興味を感ずる。――家内はいそいそと出て行った。
 どれ、寝てばかりもおられまい。もう二十日過はつかすぎだし少し稼ごう。――そのシャルル九世くせい年代記を、わが文化の版、三馬さんばの浮世風呂にかさねて袋棚にさしおいた。――この度胸でないと仕事は出来ない。――さて新しい知己(その人は昨日この宿を立ったが)秋庭俊之あきばとしゆき君の話を記そう。……
 中へ出る人物は、芸妓げいしゃが二人、それと湘南の盛場さかりばを片わきへ離れた、あし浦辺うらべの料理茶屋の娘……と云うと、どうも十七八、二十はたちぐらいまでの若々しいのに聞えるので、一寸ちょっと工合が悪い。二十四五の中年増ちゅうどしまで、内証ないしょうは知らず、表立った男がないのである。京阪地かみがたには、こんな婦人を呼ぶのにいのがある。(とうはん)とか言う。……これだと料理屋、待合まちあいなどの娘で、円髷まるまげった三十そこらのでも、差支さしつかえぬ。むかしは江戸にも相応ふさわしいのがあった、娘分むすめぶんと云うのである。で、また仮に娘分として、名はお由紀ゆきと云うのと、秋庭君とである。
 それから、――影のような、幻のような、絵にも、彫刻にも似て、神のような、魔のような、幽霊かとも思われる。……歌の、ははきのような二人ふたりおんながある。
 時は今年の真夏だ。――
 これから秋庭君の直話じきわほとんどそのままであると云ってい。


「――さあ、あれは明治何年頃でありましょうか。……新橋の芸妓げいしゃで、人気と言えば、いつもおなじ事のようでございますが、絵端書えはがきや三面記事で評判でありました。一対の名妓が、罪障消滅ざいしょうしょうめつのためだと言います。芸妓の罪障は、女郎の堅気も、女はおなじものと見えまして、一念発起、で、廻国かいこくの巡礼に出る。板橋から中仙道なかせんどう、わざと木曾の山路のさびしい中を辿たどって伊勢大和めぐり、四国まで遍路をする。……おいも笠も、用意をしたと、毎日のように発心ほっしんから、支度したく、見送人のそれぞれまで、続けて新聞が報道して、えらい騒ぎがありました。笈摺おいずる菅笠すげがさと言えば、きまった巡礼の扮装いでたちで、絵本のも、芝居で見るのも、実際と同じ姿でございます。……もしこれが間違って、たとい不図ふとした記事、また風説うわさのあやまりにもせよ、高尚なり、意気なり、婀娜あだなり、帯、小袖をそのままで、東京をふッと木曾へ行く。……と言う事であったとしますと、私の身体からだはその時、どうなっていたか分りません。
 おその上、四国遍路に出る、その一人が円髷まるまげで、一人が銀杏返いちょうがえしだったのでありますと、私は立処たちどころしゃくを振って飛出とびだしたかも知れません。ただし途中で、桟道さんばし踏辷ふみすべるやら、御嶽おんたけおろしに吹飛ふきとばされるやら、それは分らなかったのです。
 御存じとは思いますが、川越喜多院かわごえきたいんには、擂粉木すりこぎ立掛たてかけて置かないと云う仕来しきたりがあります。縦にして置くと変事がある。むかし、あの寺の大僧正が、信州の戸隠とがくしまで空中を飛んだ時に、屋の棟を、宙へ離れて行く。その師の坊の姿を見ると、ちょうど台所で味噌をっていた小坊主が、擂粉木を縦に持ったまま、破風はふから飛出とびだして雲に続いた。これは行力ぎょうりきが足りないで、二荒山ふたらやまおっこちたと言うのです。
 私にしても、おなじ運命かも知れません。別嬪べっぴんが二人、木曾街道を、ふだらくや岸打つ浪と、流れて行く。岨道そばみちの森の上から、杓を持った金釦きんぼたん団栗どんぐりころげに落ちてのめったら、余程よっぽど……妙なものが出来たろうと思います。
 と荒唐無稽に過ぎるようですが、真実まったくで、母可懐なつかしく、妹恋しく、唯心もそら憧憬あこがれて、ゆかりある女と言えば、日とも月とも思う年頃では、全くりかねなかったのでございます。――幼いうちから、みなしごだった私は、その頃は、本郷の叔父のうちに世話になって、――大学へ通っていました。……文科です。
 さいわいですか、如何いかがだか、単に巡礼とばかりで、その芸妓たちの風俗から、円髷と銀杏返と云う事を見出さなかったばかりに、胸を削るようなおもいばかりで済みました。
 もとより、円髷と銀杏返と、一人ずつ、別々に離れた場合は、私に取って何事もないのです。――申すまでもない事で、円髷と銀杏返を見るたびに、杓を持って追掛おいかけるのでは、色情狂いろきちがいを通り越して、人間離れがします、大道中だいどうなかで尻尾を振る犬とへだたりはありません。
 それに、私が言う不思議なおんなは、いつも、円髷に結った方は、品がよく、高尚で、面長おもながで、そして背がすらりと高い。色は澄んで、滑らかに白いのです。銀杏返の方は、そんなでもなく、少し桃色がさして、顔もふっくりと、中肉……が小肥こぶとりして、と肩幅もあり、較べて背が低い。この方が、三つ四つ、さよう、……どうかすると五つぐらい年紀下とししたで。しまのきものを着ている。円髷のは、小紋か、無地かと思う薄色うすいろの小袖です。
 思いもかけない時、――何処と言って、場所、時を定めず、私の身に取って、彗星ほうきぼしのように、スッとこの二人の並んだ姿の、あらわれるのを見ます時の、その心持と云ってはありません。凄いとも、美しいとも、ゆかしいとも、さみしいとも、心細いとも、可恐おそろしいとも、また貴いとも、何とも形容が出来ないのです。
 唯今も申した通り、一人ずつ別に――二人を離して見れば何でもありません。並んで、すっと来るのを、ふと居る処を、あるいは送るのを見ます時にばかり、その心持がしますのです。」
 著者はこれを聞きながら、思わず相対さしむかっていて、さかずきを控えた。
 ――こう聞くと、唯その二人立並たちならんだ折のみでない。二人を別々に離しても、円髷まるまげの女には円髷の女、銀杏返の女には銀杏返いちょうがえしの女が、ほか一体ひとつずつ影のように――色あり縞ある――影のように、一人ずつ附いて並んで、……いや、二人、三人、五人、七人、おなじようなのが、ふらふらと並んで見えるように聞き取られて、何となく悚然ぞっとした。


「はじめて、その二人のおんなを見ましたのは、私が八つ九つぐらいの時、故郷の生家で。……母親の若くてなくなりました一周忌の頃、山からも、川からも、空からも、町にみぞれの降りくれる、暗い、さみしい、寒い真夜中、小学校の友だちと二人で見ました。――なまけものの節季せっきばたらきとか言って、試験の支度したくに、徹夜で勉強をして、ある地誌略ちしりゃくを読んでいました。――白山はくさんは北陸道第一の高山にして、郡の東南隅とうなんぐうひいで、越前えちぜん美濃みの飛騨ひだまたがる。三峰さんぽうあり、南を別山べつざんとし、北を大汝嶽おおなんじだけとし、中央を御前峰ごぜんがみねとす。……うしろ剣峰けんがみねあり、そのさま五剣ごけんううるが如し、皆四時しじ雪をいただく。山中に千仞瀑せんじんだきあり。御前峰の絶壁にかかる。美女坂びじょざかよりはるかるべし。しかれども唯飛流ひりゅうの白雲のうちよりおつるを見るのみ、真に奇観なり。この美登利池みどりがいけ千歳谷せんざいだに――と、びしょびしょと冷く読んでいると、しばらく降止ふりやんで、ひっそりしていたのが急にぱらぱらとあられになった。霰……横の古襖の破目やぶれめで真暗な天井から、ぽっと燈明あかりが映ります。寒さにすくんで鼠も鳴かない、人ッ子の居ない二階の、階子段はしごだんの上へ、すっとその二人のおんなが立ちました。縞の銀杏返の方のが硝子台がらすだいすすけた洋燈ランプを持っています。ここで、いささかでも作意があれば、青い蝋燭と言いたいのですが、洋燈ランプです。洋燈ランプのそのです、その燈で、円髷のおんなの薄色の衣紋えもんも帯も判然はっきりと見えました。あッと思うと、トントン、トントンとしずか跫音あしおととともに階子段を下りて来る。キャッと云って飛上とびあがった友だちと一所いっしょに、すぐ納戸の、父の寝ている所へ二人でころがり込みました。これが第一時の出現で、小児こどもで邪気のない時の事ですから、これは時々、人に話した事がありますが。
 翌年でしたか、また秋のくれ方に、母のない子は、かえるがなくから帰ろ、で、一度別れた友だちを、おさみしさに誘いたくって、町を左隣家ひだりどなりの格子戸の前まで行くと、このしもた屋は、前町まえまち大商人おおあきんど控屋ひかえやで、およそ十人ぐらいは一側ひとかわに並んで通ることの出来る、広い土間が、おも屋まで突抜つきぬけていると言うのですが、その土間と、いま申した我家の階子段とは、暗い壁一重ひとえになっていました。
 おさない時は、だから、よく階子の中段に腰を掛けて、壁越に、その土間を歩行あるく跫音や、ものいう人声を聞いて、それをあの何年何月のあいだか、何処までも何処までもほり抜くと、土一皮つちひとかわしたに人声がして、遠くでにわとりの鳴くのが聞えたと言う、別の世界の話声が髣髴ほうふつとして土間から漏れる。……小児こどもごころに、うちの階子段は、お伽話のあやしい山の、そのまま薄暗い坂でした。――そこが、いまの隣家となりの格子戸から、を一つかまちに置いて、おおきな穴のようにと見えました。――その口へ、円髷まるまげおんながふっと立つ。同時に並んでいた銀杏返いちょうがえしのが、腰を消して、一寸ちょっと足もとの土間へ俯向うつむきました。これは、畳を通るのに、駒下駄こまげたを脱いで、手に持つのだ、と見る、と……そのしもた家へ、入るのではなくて、人の居ない通抜とおりぬけに、この格子戸へ出ようとするのだ、何故か、そう思うと、急に可恐おそろしくなって、一度、むこうへ駈出かけだして、また夢中で、我家へ遁込にげこんでしまいました。
 二年ばかり経ってからです。父のために、しきりに後妻を勧めるものがあって、城下から六七里離れた、合歓ねむの浜――と言う、……いい名ですが、土地では、眠そうな目をしたり、坐睡いねむりをひやかす時に(それ、ねむの浜からおむかえが。)と言います。ために夢見る里のような気がします。が、村に桃の林があって、浜の白砂しらすなへ影がさす、いつも合歓の花が咲いたようだと言うのだそうです。その浜の、一向寺いっこうでらの坊さんの姪が相談の後妻になるので、父に連れられて行きました。生れてから三里以上歩行あるいたのは、またその時がはじめてです。おっかさんが出来ると云うので、いくらめられても、大きな草鞋わらじで、松並木を駈けました。いおりのような小寺で、方丈の濡縁ぬれえんの下へ、すぐにしずかな浪が来ました。もっともそのあいだに拾うほどの浜はあります。――途中建場茶屋たてばぢゃやで夕飯は済みました――寺へ着いたのは、もう夜分、初夏はつなつの宵なのです。行燈あんどんを中にして、父と坊さんと何か話している。とんびずわりの足を、チクチク蚊がくいます、行儀よくじっとしてはいられないから、そこは小児こどもで、はきものとも言わないで縁からすぐに浜へ出ました。……雪国の癖に、もう暑い。まるッきり風がありません。池か、湖かと思う渚を、小児ばかり歩行いていました。が、月は裏山に照りながら海には一面にぼうもやかかって、粗い貝も見つからないので、所在なくて、背丈に倍ぐらいな磯馴松そなれまつ凭懸よりかかって、入海いりうみの空、遠く遥々はるばるはてしも知れない浪を見て、何だか心細さに涙ぐんだ目に、高く浮いて小船が一そう――渚から、さまで遠くない処に、その靄の中に、影のようなおんなが二人――船はすらすらと寄りました。
 ふなべりに手首を少し片肱かたひじをもたせて、じっと私をたのが円髷のおんなです、横に並んで銀杏返のが、手で浪をいていました。その時船はぎんの色して、浜はさっと桃色に見えた。合歓ねむの花の月夜です。――(やあおとっさん――彼処あすこおっかさんと、よその姉さんが。……)――後々のちのち私は、何故、あの時、その船へ飛込とびこまなかったろうと思う事が度々たびたびあります。世をはかなむ時、病にくるしんだ時、恋に離れた時です。……無論、船に入ろうとすれば、海に溺れたに相違ない。――彼処に母さんと、よその姉さんが、――そう言って濡縁に飛びついたのは、まだ死なない運命だったろう、と思います。
 言うまでもありませんが、後妻のことは、其処でやめになりました。
 可厭いやな、邪慳じゃけんらしい、小母さんが行燈あんどんの影に来て坐っていましたもの。……」
 俊之君は、話しかけて、少時しばらくおもいにふけったようであった。
「……その後、時を定めず、場所をえらばず、ともするとその二人の姿を見た事があるのです。何となく、これは前世から、私に附纏つきまとっている、女体じょたいの星のように思われます。――いえ、それも、世俗になずみ、所帯に煩わしく、家内もあるようになってからは、つい、忘れがち……と言うよりも、思出おもいださない事さえ稀で、たまに夢にて、ああ、また(あの夢か。)と、思うようになりました。
 ――ところが、この八月の事です――
 寺と海とが離れたように、を抜いてお話しましょう。が、桃のうつる白妙しろたえの合歓の浜のようでなく、途中は渺茫びょうぼうたる沙漠のようで。……」


「東京駅で、少し早めに待合まちあわして。……つれはまだかと、待合室からプラットホオムを出口の方へかかった処で、私はハッと思いました。……まだ朝のうちだが、実に暑い。息苦しいほどで、この日中が思遣おもいやられる。――海岸へ行くにしても、途中がどんなだろう。見合せた方がよかった、と逡巡しりごみをしたくらいですから、頭脳あたまがどうかしていはしないかと、あやぶみました。
 あの、いきれを挙げる……むッとした人混雑ひとごみの中へ――円髷まるまげのと、銀杏返いちょうがえしのと、二人のおんなが夢のように、しかもうすもので、水際立って、寄って来ました。(あら。)と莞爾にっこりして、(お早う。)と若い方が言うと、年上の上品なのは、一寸ちょっと俯目ふしめうなずくようにして、挨拶しました。」
 ――先刻さっきは、唯、芸妓げいしゃが二人、と著者はしるした。――俊之君は、「年増と若いの。」と云って話したのである。が、ここに記しつつ思うのに、どうも、どっちも――これからのちも――それだと、少なくとも、著者がこの話についてうけた印象に相当しない。あらためて仮に姉と、妹としようと思う。……
「私は目が覚めたように、いや、龍宮から東京駅へ浮いて出た気がしました。同時に、どやどや往来ゆききする人脚ひとあしに乱れて二人は、もう並んではいません。私と軽いともえになって、立停たちどまりましたので。……何の秘密も、不思議もない。――これが約束をした当日の同伴つれなので。……実は昨夜、或場所で、余りの暑さだから、何処かいき抜きに、そんなに遠くない処へ一晩どまりで、と姉の方から話が出たので、かろう、翌日あしたにも、と酒のいきおいで云ったものの、用もたたまっていますし、さあ、どうしようか、と受けた杯をよどまして、――四五日経ってからの方が都合はいのだがと、煮切にえきらない。……姉さんは温和おだやかだから、ええええ御都合のいい時で結構。で、杯洗はいせんへ、それなり流れようとした処へ、(何の話?……)と、おくれて来た妹が、いきなり、(明日あしたい、明日になさい、明日になさい、ああこう云ってると、またお流れになる。)そこで約束がきまって、出掛ける事になったのです。――昨夜ゆうべの今朝ですもの、その二人を、不思議に思うのがかえって不思議なくらいで。いや自然のこのみは妙なものだ、すらりとした姉の方が、細長い信玄袋を提げて、肩幅の広い、背の低い方が、ポコンと四角張って、胴の膨れた鞄を持っている、と、ふとおかしく思うほど、幻は現実に、お伽の坊やは、芸妓づれのいやな小父さんになりましたよ。
 乗込のりこんでから、またどうか云う工合で、女たちが二人並ぶか、それを此方こっちから見る、と云ったふうになると、髪の形ばかりでも、菩提樹ぼだいじゅか、石榴ざくろの花に、女の顔した鳥が、腰掛けた如くに見えて、再び夢心に引入ひきいれられもしたのでありましょうけれど、なかなか、そんな事を云っていられる混雑方こんざつかたではなかったのです。
 折からの日曜で、海岸へ一日がえりが、むらがかかいきおいだから、汽車の中は、さながら野天のでんの蒸風呂へ、衣服きものを着てつかったようなありさまで。……それでも、当初はな乗った時は、一つ二つ、席の空いたのがありました。クションは、あの二人ずつ腰を掛けるあつらえので、私は肥満でっぷりした大柄の、洋服着た紳士のわき、内側へ、どうやら腰が掛けられました。ちょうど、椅子を開いて向合むかいあいに一つ空席あきがありましたので、推されながら、この真中ほどへ来た女たちが、
(姉さん。)
(まあ、お前さん。)
 と譲合ゆずりあいながら、その円髷まるまげの方が、とにかく、其処へ掛けようとすると、
(一人居るんです。)と言った、一人居た、茶と鼠の合の子の、麻らしい……詰襟つめえりの洋服を着た、痩せたが、骨組のしっかりした、浅黒い男が、席を片腕で叩くのです。叩きながら上着を脱いで、そのあいた処へねました。――さいわい斜違はすかいのクションへ、姉は掛ける事が出来ましたし、それと背中合せに、妹も落着いたんです。御存じの通り、よっかかりが高いのですから、その銀杏返いちょうがえしは、髪も低い……一寸ちょっと雛箱へ、空色天鵝絨びろうどの蓋をした形に、此方こっちから見えなくなる。姉の円髷ばかり、端正きちんとして、とおりを隔てて向合むかいあったので、これは弱った――目顔めがお串戯じょうだんも言えない。――たかだか目的地まで三時間に足りないのだけれど、退屈だなと思いましたが、どうして、退屈などと云う贅沢は言っていられない、品川でまた一もみ揉込もみこんだので、苦しいのが先に立ちます。その時も、手で突張つっぱったり、指で弾いたり、拳で席をはたいたり、(人が居るです、――一人居るですよ。)その、貴下あなた……白襯衣しろしゃつ君の努力と云ってはなかった。誰にも掛けさせまいとする。……大方その同伴つれは、列車の何処かに知合とでも話しているか、後架はばかりにでも行ってるのであろうが、まだ、出て来ません。このこみ合う中で、それとも一人占めにしようとするのか知ら、しからんと思ううちに、汽車が大森駅へ入った時です。白襯衣君が、肩をそびやかして突立つったって、窓から半身はんしん乗出のりだしたと思うと、真赤な洋傘こうもりが一本、矢のように窓からスポリと飛込とびこんだ。白襯衣君がパッとうけて、血の点滴したたるばかりに腕へめて抱きましたが、色の道には、あの、スパルタの勇士のおもむきがありましたよ。汽車がまだとまらないうち早業はやわざでしてなあ。」
 俊之君は、ほっと一息をいて言った。
敏捷すばやい事……たちま雪崩なだれ込む乗客の真前まんまえに大手を振って、ふわふわと入って来たのは、巾着きんちゃくひだの青い帽子を仰向あおむけにかぶった、膝切ひざきりの洋服扮装いでたちの女で、ひじに南京玉のピカピカしたオペラバックと云う奴を釣って、溢出はみだしそうなちちおさえて、その片手を――振るのではない、洋傘こうもりを投げたはずみがついて、惰力が留まらなかったものと考えられます。おきまりの、もううにもならないと云ったおおきな尻をどしんと置くのだが、扱いつけていると見えて、軽妙に、ポンと、そのおおきな浮袋で、クションへ叩きつけると、赤い洋傘こうもりが股へ挟まったようにさばける、そいつを一蹴ひとけりけって黄色な靴足袋くつたびを膝でよじって両脚を重ねるのをキッカケに、ゴム靴の爪さきと、洋傘こうもりの柄をつつく手がトントンと刻んで動く、と一所いっしょに、片肱を白襯衣しろしゃつの肩へ掛けて、円々まるまるしいあごを頬杖でもたせかけて、何と、危く乳首だけ両方へかくれた、一面にはだけた胸をずうずうとゆすって、(おお、辛度しんど。)とわざとらしい京弁で甘ったれて、それから饒舌しゃべる。のべつに饒舌る……黄色い歯の上下に動くのと、猪首いくびを巾着帽子のふちつつくのと同時なんです。
 二の腕から、えりは勿論、胸の下までべた塗の白粉おしろいで、大切な女のはだえを、厚化粧で見せてくれる。……それだけでも感謝しなければなりません。あまつさえ貴い血まで見せた、その貴下あなた、いきれを吹きそうな鳩尾みずおちのむき出た処に、ぽちぽちぽちとのみのくった痕がある。
 ――川崎を越す時分には、だらりと、むく毛の生えたくびを垂れて、白襯衣君の肩へ眉毛まで押着けて、坐睡いねむりをはじめたのですが、俯向けじゃあ寝勝手ねがってが悪いと見えて、ぐらぐら首をゆするうちに、男の肩へ、はす仰向あおのざまにぐたりとなった。どうも始末に悪いのは、高く崩れる裾ですが、よくしたもので、うつつに、その蚤の痕をごしごし引掻ひっか次手ついでに、膝をじ合わせては、ポカリと他人ひとの目の前へ靴の底を蹴上けあげるのです。
 男の方は、その重量おもみで、窓際へ推曲おしゆがめられて、身体からだ弓形ゆみなりえて納まっている。はじめは肩を抱込だきこんで、手を女の背中へまわしていました。……はだいきれと、よっかかりの天鵝絨びろうどで、長くは暑さにたまりますまい。やがて、魚を仰向けにしたような、ぶくりとした下腹の上で涼ませながら、汽車の動揺に調子を取って口笛です。
 娑婆しゃばはこのくらいにして送りたい、うらやましいの何のと申して。
 私は目の遣場やりばに困りました。往来のかよいも、ぎっしり詰って、まるで隙間がないのです。現に私の頭の上には、緋手絡ひてがら大円髷おおまるまげ押被おしかぶさって、この奥さんもそろそろ中腰になって、坐睡いねむりをはじめたのです。こくりこくりと遣るのに耳へも頬へもばらばらとおくれ毛がかかって来る。……びんのおくれ毛がかかるのを、とやかく言っては罰の当った話ですが、どうも小唄や小本こほんにあるように、これがヒヤリと参りません。べとべとと汗ばんで、一条ひとすじかかるともうとします。ただし、色白で一寸ちょっと、きれいな奥さんでしたが、えらい子持だ。中を隔てられて、むこうに、海軍帽子の小児こどもを二人抱いて押されている、脊のひょろりとしたのが主人らしい。その旦那の分と、奥さん自身のと、――私は所在なさに、勘定をしましたが、小児こどもの分を合わせて洋傘こうもり九本は……どうです。
 さあ、事ここに及んで、――現実の密度が濃くなっては、円髷まるまげ銀杏返いちょうがえしの夢の姿などは、余りに影が薄すぎる。……消えて幽霊になってしまったかも知れません。
清涼薬きつけ……)
 と、むこうで、一寸ちょっとはしゃいだ、お転婆てんばらしい、その銀杏返の声がすると、ちらりと瞳が動く時、顔が半分無理に覗いて、フフンと口許で笑いながら、こう手が、よっかかりを越して、姉の円髷の横へつたわって、白く下りると、その紙づつみを姉が受けて、子持の奥さんの肩の上から、
清涼薬きつけですって。……ぞお暑い事で。……)
 と、腹の上で揺れてる手を流眄ながしめに見て、身を引きました。
 私は苦笑をしながら、ついぞ食べつけない、レモン入りの砂糖をめました。――如何いかが、この動作で、その二人のおんながやっと影をあらわし得た気がなさりはしませんか。
 時に、おなじくその赤い蝙蝠こうもり――の比翼の形を目と鼻のさきにしながら、私と隣合った年配の紳士は、世に恐らく達人と云って可い、いや、聖人と言いたいほどで。――何故と云うと、この紳士は大森を出てから、つがいの蝙蝠が鎌倉で、赤い翼をして下りた時まで、眠り続けてねむっていました。……
 真個ほんとうに寝ていたのかと思うと、そうでありません。つがいが飛んだのを見ると、あきらかまなこを活かして、棚のパナマ帽を取って、フッと埃を窓の外へはじきながら、
(御窮屈でございましたろう……御迷惑で。)
 澄まして挨拶をされて、吃驚びっくりして、
(いや。どうつかまつりまして。)
 と面くらうひまに、ステッキ脇挟わきばさんで悠然と下車しましたから。」
 俊之君は、ここで更に居坐いずまいを直して続けた。……


「お話のいたしようで、どうお取りになったか知れないのでありますが、私は紳士に敬意を表するとともに、赤い蝙蝠こうもりにも、年児としごの奥さんにも感謝します。決して敵意は持ちません。そのいずれの感化であったかは自分にも分りません。が、とに角、その晩、二人のおんなと、一ツ蚊帳に……りたけ離れて寝ましたから。
 ――さあ、何時頃だったでしょう――二度めに、ふと寝苦しい暑さから、汗もねばねばとして目の覚めましたのは。――夜中も、その沈み切った底だったと思います。うつうつしながらぬかせるように鬱陶うっとうしい、羽虫と蚊の声がいんこもって、大蚊帳の上から圧附おしつけるようで息苦しい。
 蚊帳は広い、おおきいのです。廻縁まわりえんの角座敷の十五畳一杯に釣って、四五ヶ所つりを取ってまだずるり――と中だるみがして、三つ敷いたとこの上へおおいかかって、縁へ裾がこぼれている。私には珍しいほどのほとん諸侯道具だいみょうどうぐで。……余り世間では知りませんが、旅宿やどが江戸時代からの旧家だと聞いて来たし、名所だし、料理旅籠はたごだししますから、いずれ由緒あるものと思われる、従って古いのです。その上、一面に嬰児あかごほどの穴だらけで、干潟の蟹の巣のように、ただ一側ひとかわだけにも五十破れがあるのです。勿論一々ひとつびとつつぎを当てた。……古麻ふるあさに濃淡が出来て、こうまたたきをするばかり無数に取巻く。……この大痘痕おおあばたばけものの顔が一つ天井から抜出ぬけだしたとなると、可恐おそろしさのために一里ひとさと滅びようと言ったありさまなんです。――ここで一寸ちょっと念のために申しますが、この旅籠屋も、昨年の震災をまぬかれなかったのに、しかも一棟ひとむねけて、人死ひとじにさえ二三人あったのです――蚊帳は火の粉をかぶったか、また、山を荒して、畑に及ぶと云う野鼠が群り襲い、当時、壁も襖も防ぎようのなかったのうちへ押入って、散々に喰散らしたのかとも思われる。
 女中が二人で、宵にこの蚊帳を釣った時、
(まあ。)
 とうっかりしたように姉が云うと、
(お気の毒だわね。)
 と思わず妹も。……この両方ふたかただって、おなじく手拭浴衣一枚で、生命をたすかって、この蚊帳を板にした同然な、節穴と隙間だらけのバラックに住んでいるのに、それでさえそう言った。

 ――実は、海岸も大分片よった処ですから、唯聞いたばかり、絵で見たばかりで様子を知らない。――宿が潰れた上、焚けて人死があった事は、途中自動車の運転手に聞いて、はじめて知ったのです。
(――それは少し心配だな。)
 二人のおんなも、黙って顔を見合せました。
 可恐おそろしい崖崩れがそのままになっていて、自動車が大揺れにあおった処で。……またそれがために様子を聞きたくもなったのでした。
 運転手は悍馬かんば乗鎮のりしずめるが如くに腰を切って、昂然こうぜんとして、
きたる……九月一日、十一時五十八分までは大丈夫請合います。)
 と笑って言った。――(八月十日頃の事ですが)――
 畜生、巫山戯ふざけている。私は……一昨々年――家内をなくしたのでございますが、つれがそれだったらこういうめた口は利きますまい。いや、これに対しても、いまさらよそうちへとも言いたくなし、もっと其家そこをよしては、今頃間貸まがしをする農家ぐらいなものでしょうから。
(構わない、九月一日まで逗留だ。)
 と擬勢ぎせいを示した。自動車は次第に動揺が烈しくなって乗込のりこみました。入江に渡した村はずれの土橋などは危なかしいものでした。
 場所は逗子から葉山を通って秋谷あきや立石たていしへ行くあいだの浦なんです。が、思ったとは大変な相違で、第一土橋と云う、その土橋の下にまるで水がありません、……約束では、海の波がしずかにこの下を通って、志した水戸屋みなとやと云うのの庭へ、おおきな池に流れて、縁前えんさきをすぐに漁船が漕ぐ。あし青簾あおすの筈なんです。ところが、孰方どっちを向いても一面の泥田、沼ともいわず底が浅い。どぶをたたきつけた同然に炎天に湧いたのがしおで焼けて、がさがさして、焦げています。……あの遠くの雲が海か知らんと思うばかりです。干潟と云うよりほろびた沼です。気の利いた蛙なんか疾くに引越して、のたり、のたりと蚯蚓みみず雨乞あまごいに出そうな汐筋しおすじの窪地を、列を造って船虫がはいまわる……その上を、羽虫の大群おおむれが、随所に固って濛々もうもうと、舞っているのが炎天に火薬の煙のように見えました。
 半ばひしゃげたままの藤棚の方から、すくすくとこの屋台をおこして支えた、突支棒つっかいぼう丸太越まるたごしに、三人広縁に立って三方に、この干からびた大沼を見た時は、何だか焼原やけはらの東京が恋しくなった。
 贅沢だとお叱んなさい。私たちは海へ涼みに出掛けたのです。
(海には汐の満干まんかんがあるよ、いまに汐がさすと一面の水になる。)
 折角せっかくたのしみにして、嬉しがって来た女連おんなれんに、気の毒らしくって、私が言訳いいわけらしくそう言いますと、
ぞようござんしょうねお月夜だったら。)
 姉の言った事はおだやかです。
 ねものの妹のをお聞きなさい。
(雪が降るといい景色だわね。)
 真実ほんとうの事で。……これは決して皮肉でも何でもありません。成程ここへ雪が降れば、雪舟せっしゅう炭団たどんを描いたようになりましょう。
 それも、まだ座敷がきまったと言うのではなかったので。……ここの座敷には、蜜柑みかんの皮だの、キャラメルの箱だのが散ばって、小児こどもづれの客が、三崎へ行く途中、昼食ちゅうじきでもして行ったあとをそのままらしい。障子はもとより開放あけはなしてありました。古襖がたてつけの悪いままで、その絵の寒山拾得かんざんじっとくが、私たちをゆびさして囁き合っているていで、おまけに、手から抜出ぬけだした同然に箒が一本立掛たてかけてあります。
 串戯じょうだんにも、これじゃ居たたまらないわけなんですが、ちっとも気にならなかったのは、――先刻さっき広い、冠木門かぶきもんを入った時――前庭を見越したむこうの縁で、手をついた優しいおんなを見たためです。……すぐその縁には、山林局の見廻りでもあろうかと思う官吏風の洋装したのが、高い沓脱石くつぬぎいしを踏んで腰を掛けて、盆にビイルびんを乗せていました。またこの形は、水戸屋がむかしの茶屋旅籠のままらしくて面白し……で、玄関とも言わず、迎えられたまま、そのわきから、すぐ縁側へ通ったのですが、優しいひとが、客を嬉しそうに見て、
(お暑うございましたでしょう、まあ、ようこそ、――一寸ちょっとお休み遊ばして。)
 と、すぐその障子の影へ入れる、とすぐ靴の紐をかがっていた洋装のが、ガチリと釣銭を衣兜かくし掴込つかみこんで、がっしりした洋傘こうもりいて出て行く。……いまのおんな門外もんそとまで、それを送ると、入違いに女中が、端近はしぢかへ茶盆を持って出て、座蒲団をと云った工合で?……うしろに古物こぶつ衝立ついたてが立って、山鳥やまどりの剥製が覗いている。――処へ、三人茶盆を中にして坐った様子は、いまに本堂で、志す精霊しょうりょうの読経が始りそうで何とももって陰気な処へ、じとじと汗になるからたまりません……そこで、掃除の済まない座敷を、のそのそして、――右の廻縁へ立った始末で。……こう塩辛い、大沼をながめるうちに、山下の向う岸に、泥を食って沈んだ小船の、ふなばたがささらになって、鯉ならまだしも、朝日奈あさひな取組合とっくみあったわにあごかと思うのを見つけたのも悲惨です。
 山出しの女中が来て、どうぞお二階へ、――助かった、ここで翌朝あすまで辛抱するのかと断念あきらめていたのに。――いや、階子段はしごだんは、いま来た三崎街道よりずッと広い、見事なものです。三人撒いたように、ふらふらと上ると、上り口のまた広々とした板敷を、縁側へ廻る処で、白地の手拭の姉さんかぶりで、高箒たかぼうきを片手にたすきがけで、刻足きざみあしに出て行逢ゆきあったのがその優しいおんなで、一寸ちょっと手拭を取って会釈しながら、軽くすり抜けてトントンと、堅い段を下りて行くのが、あわただしい中にも、如何いかにもしとやかで跫音あしおとやわらこうございました。
 何とも容子ようすのいい、何処かさみしいが、目鼻だちのきりりとした、帯腰おびごしがしまっていて、そしてなまめかしい、なり恰好は女中らしいが、すてきな年増だ。二十六七か、と思ったのが――この水戸屋の娘分――お由紀さんと言うのだとあとで分りました。

 ――また、奇異みょうなものを見ました――
 貴下あなたには、矢張やっぱ唐突だしぬけに聞えましょうが、私には度々の事で。……何かと申すと――例の怪しい二人のおんなの姿です。――私が湯から上りますと、二人はもう持参の浴衣に着換きかえていて、おきまりの伊達巻だてまきで、湯殿へります、一人が市松で一人が独鈷とっこ……それもい、……姉の方の脱いだ明石あかしが、沖合の白波に向いた欄干てすりに、はりから衣紋竹えもんだけで釣って掛けてさぼしてある。すそにかくして、薄い紫のぼかしになった蹴出けだしのあるのが、すらすらさばくように、海から吹く風にそよいでいました。――午後二時さがりだったと思います。真日中まひなかで、土橋にも浜道にも、人一人通りません。が、さすがに少し風が出ました。汗が引いてスッと涼しい。――とその蹴出しの下に脱いで揃えた白足袋が、蓮……蓮には済まないが、思うまま言わして下さい。……白蓮華びゃくれんげつぼみのように見えました。同時に、横の襖に、それは欄間らんまに釣って掛けた、妹の方の明石あかしの下に、また一絞ひとしぼりにして朱鷺色ときいろ錦紗きんしゃのあるのが一輪の薄紅い蓮華に見えます。――東京駅を出て、汽車で赤蝙蝠あかこうもりに襲われた、のちこの時まで、(ああ、涼しい。)と思えたのは、自動車で来る途中、山谷戸やまやとの、路傍に蓮田はすたがあって、白いのが二三輪、ひでりにも露を含んで、紅蓮こうれんが一輪、むこうに交って咲いたのを見た時ばかりであったからです。
 また涼しい風がさっと来ました。うすものは風よりも軽い……姉の明石が、竹をすべると、さらりと落ちたが、畳まれもしないで、あおった襟をしめ加減に、ほっそりとなって、脇あけもれながら、フッと宙を浮いて行く。……あ、あ、と思ううちに、妹のが誘われて、こう並んでひらひらと行く。後ののすそかえったと見る時、ガタリと云って羅の抜けたあとへ衣紋竹が落ちました。一つはくすぐられるように、一つは抱くようにと、見るうちに、とこわきへ横に靡いて両方すそを流したのです。
 私は悚然ぞっとした。
 ばかりではありません。ここで覚めるのかと思う夢でない所を見ると、これが空蝉うつせみになって、二人は、裏の松山へ、湯どのから消失きえうせたのではなかろうか――仰山ぎょうさんなようであるが真個まったく……勝手を知った湯殿の外までそっと様子を見に行ったくらいです。おんなの事で、勿論戸は閉めてある。妹の方の笑声が湯気にこもって、姉がしずかに小桶を使う。その白い、かがめた背筋と、桃色になった湯の中ののあたりが、さもしい事だが、想像されて。……ただし、紅白の蓮華が浴する、と自讃して後架こうかの前から急に跫音あしおとを立てて、二階の見霽みはらしへ帰りました。
 や、二人の羅が、もとの通り、もとの処にかかっている、もっとも女中が来て、掛け直したと思えば、それまでなんですが、まだ希有けうな気がしたのです。
 けれども、午飯ひるのおあつらえが持出されて、湯上りの二人と向合う、こちのあらいが氷に乗って、小蝦こえびと胡瓜が揉合もみあった処を見れば無事なものです。しかも女連おんなれんはビイルを飲む。ビイルを飲む仏もなし、鬼もない。おまけに、(冷蔵庫じゃないわね。)そ、そんな幽霊があるもんじゃありません。
 いわんや、三人、そこへ、ころころと昼寝なんぞは、その上、客も、芸妓もない、姉も妹も、叔母さんも、更に人間も、何にもない。
 暮方くれがた、またひったりと蒸伏むしふせる夕凪ゆうなぎになりました。が、折からうっすりと、入江の出岬でさきから覗いて来る上汐あげしおに勇気づいて、土地で一番景色のいい、名所の丘だと云うのを、女中に教わって、三人で出掛けました。もう土橋の下まで汐が来ました。路々みちみち唐黍とうきび畑も、おいらんそうも、そよりともしないで、ただねばりつくほどの暑さではありましたが、煙草たばこを買えば(私が。)(あれさ、こまかいのが私の方に。)と女同士……東京子とうきょうっこは小遣を使います。野掛け気分で、ぶらぶら七八町出掛けまして、地震で崩れたままのあぶなかしい石段を、藪だの墓だのの間を抜けて、幾蜿いくうねりかして、頂上へ――誰も居ません。葭簀張よしずばりの茶店が一軒、色の黒いしなびた婆さんが一人、真黒な犬を一匹、膝にひきつけていて、じろりと、犬と一所いっしょに私たちをながめましたっけ。……
 この婆さんに、可厭いやな事を聞きました。――
 ……此処で、姉の方が、隻手かたて床几しょうぎについて、少し反身そりみに、浴衣腰を長くのんびりと掛けて、ほんのり夕靄ゆうもやを視めている。崖縁がけぶちの台つきの遠目金とおめがねの六尺ばかりなのに妹が立掛たちかかった処は、誰も言うた事ですが、広重ひろしげの絵をそのままの風情でしたが――婆の言う事で、変な気になりました。
 目の下の水田みずたへはかりが降りるのだそうです。向うの森の山寺には、くれつの鐘が鳴ると言う。その釣鐘堂も崩れました。右の空には富士が見える。それは唯深い息づきもしない靄です。沖も赤く焼けていて、白帆の影もなし、折から星一つ見えません。
(御覧じゃい、あないにの、どす黒くへりを取った水際から、三たんも五たんと、沖の方へさ汐のとこへ、貝、蟹の穴からや、にょきにょきとあしが生えましたぞい。あの……蘆がつくようでは、この浦は、はや近うちに、干上っておかになるぞいの。そうもござりましょ。……去年の大地震で、海の底が一体いったいに三尺がとこ上りましての、家々の土地面つちじめんが三尺たたら踏んで落込おちこみましたもの、の。いま、さいて来た汐も、あれ、御覧じゃい。……海鼠なまこが這うようにちょろちょろと、蘆間あしまをあとへ引きますぞいの。村中が心を合せて、泥浚どろさらいをせぬ事には、ここの浦は、いまのに干潟になって、やがて、ただ茫々ぼうぼうと蘆ばかりになるぞいの。……)
 何だか独言ひとりごとのように言って聞かせて、錆茶釜さびちゃがましゃがんで、ぶつぶつるたびに、黒犬の背中をさすると、犬が、うううう、ぐうぐうと遣る。変に、犬の腹から声を揉出もみだすようで、あ、あの婆さんの、時々ニヤリとする歯が犬に似ている。薄暮合うすくれあいに、じっとしている犬の不気味さを、私は始めて知りました。……
(――旦那様方が泊らっしゃった、水戸屋がの、一番に海へ沈んだぞいの。)
 靄の下に、また電燈の光を漏らさない、料理旅籠はたごは、古家ふるいえいらかを黒く、亜鉛トタン屋根が三面にうっすりと光って、あらぬ月の影を宿したように見えながら、えんひさしも、すぐあの蛇のような土橋に、庭に吸われて、小さな藤棚のげようとする方へ、おおきく傾いているのでした。
(……その時は、この山の下からの、土橋の、あの入江がや、もし……一面の海でござったがの、ごうと沖も空も鳴って来ると、大地も波も、一斉いちどきあおるように揺れたと思わっしゃりまし。……あの水戸屋の屋根がの、ぐしゃぐしゃと、骨離れの、柱離れでひしゃげての――私らは、この時雨しぐれの松の……)
 と言いました。字の傘のように高く立って、枝が一本折れて、崖へ傾いているをゆびさして、
(松の根に這いすがって見ましたがの、潰れた屋のむねの瓦の上へ、いっちさきに、何処の犬やら、白い犬が乗りましたぞい。乾してあった浴衣が、人間のように、ぱッぱッと欄干てすりから飛出とびだして、潟の中へへばりつく。もうその時は、沖まで汐がたぞいの。ありゃ海がさかさまになって裏返ったと思いましたよ。その白犬がの、狂気きちがいになったかの、沖の方へ、世界のはてまでと駈出かけだすと思う時、水戸屋のいぬいの隅へ、屋根へ抜けて黄色な雲が立ちますとの、赤旗がめらめらとからんで、真黒な煙がもんもんと天井まで上りました。男衆も女衆も、その火を消すに、帳場から、何から、家中うちじゅうきりもりをしてござった彼家あのいえのお祖母様ばばさまが死なしゃった。人の生命いのちを、火よりさきへ助ければいものと、村方むらかたでは言うぞいの。お祖母様が雛児ひよこのように抱いてござった小児こども衆も二人、一所いっしょに死んだぞの。やもめつづきの家で、後家御ごけご一昨年おととしなくならした……娘さんが一人で、や、一気に家を装立もりたてていさっしゃりますよ。姉さんじゃ。弟どのは、東京の学校さ入っていさっしゃるで。……地震の時は留守じゃったで、評判のようないは姉娘でござりますよ。――うちとおのれは助かっても、老人としより小児をころいてはのうのう黒犬を、のう、黒犬や――)……
 勝手にしろ。殺したのではない、死んだのである。その場合に、おしに打たれ、火に包まれたものと進退をともにするのは、助けるのではない、自殺をするのだ、と思いました。……私は可厭いやな事を聞いた、しかし、祖母と小さい弟妹を死なせて水戸屋を背負って生残いきのこったと言う娘分、――あの優しいおんなたしかにと、この時直覚的に知りましたが――どんなに心苦しいか……この狭い土地で、ぞ肩身が狭かろう。――胸のせまるまで、いとしく、可憐あわれになったのです。
(可厭な婆さん……)
(黒犬が憑いてるようね。犬もばばあのようだったよ。)
 石段を下りかかって、二人がそう云った時、ふと見返ると、坂の下口したぐち伸掛のしかかって覗いていました。こんな時は、――鹿は贅沢だ。むしろ虎の方がい。つぶてを取って投げようとするのを二人にめられて……幾つも新しい墓がある――墓を見ながら下りたんです。
 時に――(見たいわね。)妹なぞもそう言ったのですが、お由紀さんは、それきり姿を見せなかったのです。
 大分話が前後あとさきになりました。

 ところで、真夜中に寝苦しい目の覚めた時です。が、娘分に対しても決して不足を言うんじゃあない。……蚊帳のこの古いのも、穴だらけなのも、一層いっそうお由紀さんの万事最惜いとしさを思わせるのですけれども、それにしても凄まじい、――先刻さっきも申したひどつぎです。隣室となりには八畳間が二つ並んで、上下だだうちに、その晩はまた一組も客がないのです。この辺に限らず、何処でも地方は電燈が暗うございますから、顔の前に点いていても、畳の目がやっと見える、それも蚊帳の天井に光っておればまだしも、このに羽虫のたかる事夥多おびただしい。何しろ、三方取巻いた泥沼に群れたのが蒸込むしこむのだからたまりません。微細こまかい奴は蚊帳の目をこぼれて、むらむら降懸ふりかかるものですから、当初はな一旦寝たのが、起上おきあがって、妹が働いて、線を手繰たぐって、次のへ電燈を持って行ったので、それなり一枚けてあります。その襖越しにぼんやりとあかりが届く、蚊帳のなかの薄暗さをお察し下さい。――鹿を連れた仙人の襖の南画も、婆と黒犬の形に見える。……ああ、このうちがぐわしゃぐわしゃと潰れていぬいの隅から火が出た、三人の生命いのちはりの下で焼けたのだと思うと、色合と言い、皺といい、一面の穴と言い、何だか、ドス黒い沼の底に、私たち倒れているような気がしてなりません。
(ああ、これは尋常事ただごとでない。)
 一体いったい小児こどもの時から、三十年近くのあいだ――ふと思い寄らず、二人のおんなの姿が、私の身の周囲へあらわれて、目に遮る時と云うと、いいにしろ、悪いにしろ、それが境遇なり、生活なりの一転機となるのが、これまでに例をたがえず、約束なのです。とに角、私の小さい身体からだ一つに取って、一時期をかくする、大切な場合なのです。
(これは、尋常事でない。……)
 私は形に出る……この運命の映絵うつしえに誘われていま不思議な処へ来た――ここで一生を終るのではないか、死ぬのかも知れない。
 枕も髪も影になって、蒸暑さにくつ脱ぎながら、行儀よく組違くみちがえた、すんなりと伸びた浴衣の裾をれて、しっとりと置いた姉の白々とした足ばかりがの加減に浮いて見える。白い指をすッすッと刻んで、瞳をふうわりと浮いて軽い。あの白蓮華をまた思いました。
 取縋とりすがって未来を尋ねようか、前世の事を聞こうか。――
 と、このほうは、私の隣に寝ている。むこうへ、一嵩ひとかさ一寸ちょっと低く妹が寝ていました。
 ……三分……五分……
 紅い蓮華がちらちらと咲いた。かすかに見えて、手首ばかり、夢で蝶を追うようなのが、どうやら此方こっちを招くらしい。……
 ――抱きしめて、未来を尋ねようか。前世の事を聞こうか。――
 招く方へは寄易よりやすい。
 私は、貴方、巻莨まきたばこの火を消しました。
 その時です。ぱちぱちと音のするばかり、大蚊帳の継穴つぎあなが、何百か、ありッたけの目になりました。――蚊帳の目が目になった、――いえ、それが一つびとつ人間の目なんです。――お分りになりにくうございましょうから。……一斉いちどきに、その何十人かの目が目ばかり出してじっと覗いたのです。※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはる、またたく、ひとみが動く。……馬鹿々々しいが真個まったくです。※(「目+爭」、第3水準1-88-85)る、瞬く、瞳が動く。……生々なまなまとして覗いています。暗い、低い、大天井ばかりを余して、蚊帳の四方は残らず目です。
 私はすくんでしまいました。
 いや、すくんでばかりはおられません。仰向けに胸へ緊乎しっかと手を組んで、両眼りょうがん押睡おしつむって、気を鎮めようとしたのです。
 三分……五分――十分――
 魔は通って過ぎたろうと、堅く目を開きますと、――鹿と仙人が、ばばと黒犬に見える、――その隣室となりの襖際と寝床の裾――皆が沖の方を枕にしました――裾の、袋戸棚との間が、もう一ヶ所かよいで、裏階子うらばしごへ出る、一人立ひとりだちの口で。表二階の縁と、広く続いて、両方に通口かよいぐちのあるのが、何だか宵から、暗くてさびしゅうございました。――いま、その裏階子の口の狭い処にぼッと人影がして色の白いおんなが立ちました。私は驚きません。それは円髷まるまげの方で……すぐ銀杏返いちょうがえしのが出る、出て二人並ぶと同時に膝をついて、駒下駄を持つだろう。小児こどもの時見たのと同じようだ。で、蚊帳から雨戸を宙に抜けて、海の空へ通るのだろうと思いました。私の身に、二人のおんなの必要な時は、床柱とこばしらの中から洋燈ランプを持って出て来た事さえありますから。」……
「ははあ。」
 著者は思わずひじを堅くして聞いたのであった。


「――ところがそのおんなは一人きりで、薄いお納戸色の帯に、かすかな裾模様が、すッとあしの葉のように映りました。すぐ背を伸ばせば届きます。立って、ふわふわと、りかかるようにして、ひったりと蚊帳に顔をつけた。ああ、覗く。……ありたけの目が、その一ところへ寄って、爛々らんらんとして燃えて大蛇おろちの如し……とハッとするまに、目がない、鼻もない、何にもない、艶々つやつやとして乱れたままの黒髪の黒い中に、ぺろりと白いのっぺらぼう。――」
「…………」
 著者は黙って息を呑んで聞いた。
「うう、と殺されそうな声を呑むと、私は、この場合、おんな二人、生命いのちを預る……私は、むくと起きて、しにみに覚悟して、蚊帳をねた、その時、横ゆれになびいて、あとへさがったそのおんなが、気にされてざまに板敷を、ふらふらとあと退ずさりに退すさるのを夢中で引捉ひっとらえようとしました。胸へ届きそうな私の手が、すべるが早いか、何とも申しようのない事は、そのおんなは三四尺ひらりとくうへ飛んで、宙へあがった。白百合が裂けたように釣られた両足の指がって震えて、素足です。藍、浅葱、朱鷺色ときいろと、鹿子かのこと、しぼりと、紫の匹田ひったと、ありたけの扱帯しごき、腰紐を一つなぎに、夜の虹が化けたように、おんなの下から腰にまつわり、裾にからんで。……下に膝をついた私の肩に流れました。雪なす両のかいなは、よれて一条ひとすじになって、裏欄干うららんかんの梁につるした扱帯の結目むすびめ、ちょうど緋鹿子の端を血に巻いてすがっている。顔を背けよう背けようと横仰向けに振って、よじって伸ばす白い咽喉のどが、傷々いたいたしく伸びて、蒼褪あおざめる頬の色が見る見るうちに、その咽喉へくまを薄くにじませて、身悶みもだえをするたびに、踏処ふみどころのない、つぼまった蹴出けだしが乱れました。凄いとも、美しいとも、あわれとも、……踏台が置いてある。目鼻のない、のっぺらぼうと見えたのは、白地の手拭てぬぐいで、顔の半ば目かくしをしていたのです。」
 俊之君は、やや、声せわしく語った。此処でほっと一息した。
「いま、これを処置するのに、人の妻であろうと、妾であろうと、娘であろうと、私は抱取だきとらなければなりません。
 私は綺麗なばけものを、横抱きに膝に抱いて助けました。声を殺して、
(何をなさる。)
 扱帯しごきで両膝はゆわえていました。けれども、首をくくるのに、目隠をするのは可訝おかしい。気だけも顔を隠そうとしたのかと思う。いや、そうでないのです。それに、実は死のうとしたのではない。私からげようとしたので、目を隠したのは、見まい見せまいじゃあない。蚊帳を覗くためだったのだから余程よっぽど変です。」


「前後のいきさつで、大抵お察しでありましょう。それはお由紀さんでございました。

 申憎もうしにくうございますけれども、――今しがた、貴方の御令閨ごれいけいのお介添かいぞえで――湯殿へ参っております、あの女なのです。

 これでは……その時の私と、由紀とのうけこたえに、女のものいいが交りましては、お申憎うございますから、わけだけを、手取早てっとりばやく。……
 由紀は、人の身の血も汐も引くかと思う、干潟に崩家くずれやを守りつつ、日も月も暗くなりました。……村の口の、里の蔭言かげごと、目も心も真暗になりますと、先達せんだって頃から、神棚、仏壇の前に坐って、目を閉じて拝む時、そのたびに、こう俯向うつむく……と、もののしまが、我が膝が、影のようにうっすりと浮いて見えます。それが毎日のように度重たびかさなると段々だんだん判然はっきり見える。姿見のない処に、自分の顔が映るようで、向うが影か、自分が影か、何とも言えない心細い、さびしい気がしたのだそうです。かすり那様そんなでない、しまの方が、余計にきっぱりとしたのが、次第に、おなじまで、映る事になったと言います。ただ、神仏の前にぬかずく時、――ほかには何の仔細もなかった。
 ところが当日、私たちの着きますのが、もう土橋のさきから分ったと言うのです。それは別に気にもめなかった。黄昏たそがれに三人で、時雨しぐれの松の見霽みはらしへ出掛けるのを、縁の柱で、悄乎しょんぼりと、藤棚越に伸上のびあがって見ていると、二人に連れられて、私の行くのが、山ではなしに、干潟を沖へ出て、それきり帰らない心持がしてならなかった。無事に山へ行きました。――が、遠目金とおめがねを覗くのも、一人が腰を掛けたのも、――台所へ引込ひっこんでまでもよく分る。それとともに、犬婆さんが、由紀の身について饒舌しゃべるのさえ聞えるようで。……それがために身を恥じて、皆の床の世話もしなかった。きまりの悪い、蚊帳の所為せいばかりではないと言います。夜の進むに従って、私たちの一挙一動がよく知れた。……

 三人が一寝入ひとねいりしたでしょう、うとうととして一度目を覚ます、その時でした。妹の方が、電燈を手繰たぐって隣の室へ運んでいたのは。――(大変な虫ですよ)と姉は寝ながらものうそうに団扇うちわを動かす。のみと蚊で……私もかゆい。身体中からだじゅう、くわッといきって、たまらない、と蚊帳を飛出とびだして、電燈の行ったお隣へ両腕をまくって、むずむず掻きながら、うっかり入ると、したたかなものを見ました。頭から足のさきまで、とろりと白いあぶらのかかったはり切れそうなはだなんです。蚤をふるって脱いでいたので。……電燈の下へ立派に立って、アハハと笑いました。(抱くと怪我をしてよ。……夏虫さん――)(いや、どうも、弱った。)と襖の陰へ、晩に押して置いた卓子台ちゃぶだいの前へ、くったりと小さくなる。(生憎あいにく、薬が。)と姉が言うと(香水をつけて上げましょう、かゆいのが直るわよ。……)と一気にその膚で押して出て、(どうせお目に掛けたんだ、暑さしのぎ。ほほほほ。)袋戸棚から探って取った小罎を持って、胸の乳、かおってひったりと、(これ、ここも、ここも、ここも。)虫のあとへ、ひやひやと罎の口で接吻キッスをさせた。

 ああ、この時は弱ったそうです。……由紀は仏間に一人、蚊帳に起きて端正きちんと坐って、そして目をつぶって、さきから俯向いて一人居たのだそうですが、二階の暗がりに、その有様が、下の奥から、歴々ありありと透いて見えたのですから。――年はけても処女なんです。どうしていいか分らない。あっちへげ、此方こっちけ、ただ人の居ない処を、壁に、柱に、袖をふせて、顔をかくしたと言うじゃありませんか。
 私は冷い汗を流した、汗と一所いっしょてのひらに血がにじんだ。――帯も髪も乱れながら、両膝を緊乎しっかりゆわえている由紀を、板の間に抱いたまま、手を離そうにも、かぶりをふり、頭をって、目を結えたのをはずしませんから、見くびって、したたかくい込んでいた蚊の奴が、血をふいてぼとりと落ちたのです。
 私は冷くなって恥じました。けれども、その妹も、並んだ姉も、ただの女、ただの芸妓に、私が扱い得なかったことは、お察し下さるだろうと存じます。

 ――かゆさは、香水で立処たちどころに去りましたが、息がつまる、余り暑いから、立って雨戸を一枚りました。(おお涼しい。)いきおいに乗じて、妹は縁の真正面へ、蚊帳の黒雲を分けたように、乳を白く立ったのですが、ごろごろごろ、がたん。間遠まどおに荷車の音が、深夜の寂寞せきばくを破ったので、ハッとかくれて、籐椅子とういすに涼んだ私の蔭に立ちました。この音は妙に凄うございました。片輪車かたわぐるま変化へんげが通るようで、そのがたんと門にすれた時は、鬼が乗込のりこ気勢けはいがしました。
 姉がうっとりした声で、(ああ、私はねむい。……お寝よ、いいからさ。)(沢山たんとおっしゃいよ。)余り夜が深い。何だか、美しい化鳥けちょうと化鳥が囁いているように聞えた。(あ、ふくろうが鳴いている。)唯一つ、はるかに、先刻さっきの山の、時雨しぐれの松のあたりで聞えました。

 この、梟が鳴き、荷車の消えて行く音を聞いた時、由紀は、その車について、戸外おもて出了でっちまおうと思ったと言います。しかし気がついた。いま外へ出れば、枝を探り、水を慕って、きっと自殺をするに違いない。……それが可恐おそろしい。由紀はまだ死にたくない未練があると思ったそうです。――真個まったくです、その時戸を出たらば魔にられたに相違ありません。
 私たちも凄かった。――岬も、も、潟も、山も、峰の松も、名所一つずつ一ヶ所一体の魔がりょうしているように見えたのですから。(天狗様でしょうか、鬼でしょうか、わたいたちとはお宗旨違いだわね。引込ひっこみましょう可恐こわいから。)居かわって私の膝にうしろ向きにかけていた銀杏返いちょうがえしが言ったのです。

 由紀は残らず知っていました。

 それからは、私も余程よっぽど寝苦しかったと見えます――先にお話しした二度めに目を覚ましますまで、ものの一時間とはなかったそうで――由紀の下階したからとおして見たのでは――余り判明はっきり見えるので、由紀は自分で恐ろしくなって、これは発狂するのではないかと思った。それとも、唯、心で見る迷いで、大蚊帳のなかの模様は実際とまるで違っているかも知れない。それならば、まよいだけで、気が違うのではないであろう。どっちかたしかめるのは、自分で一度二階へ上って様子を見なければ分らない。が深く堅く目をつぶっていると思いつつ……それが病気で、真個ほんとうは薄目を明けているのかもはかられない、と、身だしなみを、恥かしくないまでに、坐ってカタカタと箪笥をあけて、きものを着かえて、それから手拭てぬぐいで目をゆわえて、二階へ上ったのだそうですが、数ある段を、一歩ひとあしも誤らず、すらすらと上りながら、気がとがめて、二三度下りたり、上ったり、……また幾度いくたび、手で探っても、三重みえにも折った手拭はちゃんと顔半分おおうている。……いよいよ蚊帳を覗くとなると、余りの事に、それがこの病気の峠で、どんな風に、ひきつけるか、気を失うか、倒れるかも分らない。その時醜くないようにと、両膝をくくったから、くくったままで、蚊帳まで寄って来るのです、あいだは近いけれども、それでは忍んでは歩行あるけますまい。……扱帯しごきつないで、それにすがって、道成寺どうじょうじのつくりもののように、ふらふらと幽霊だちに、爪立つまだった釣身つりみになって覗いたのだそうです。私に追われて、あれとげる時、――ただたよりだったのですから、その扱帯しごき引手繰ひきたぐって、飛退とびのこうとしたはずみに、腰が宙に浮きました。
 浅間あさましい、……きまりが悪い。……由紀は、いまは活きていられない。――こうしていても、貴方(とはじめて顔を振向けて、)私のだいている顔も手も皆見える。これが私を殺すのです――と云って、置処おきどころのなさそうな顔をそむける。猿轡さるぐつわとか云うものより見ても可哀あわれなその面縛めんばくした罪のありさまに、
(心配なさる事はない。私が見えないようにして上げる。)
 と云って、目隠めかくしの上を二処ふたところ吸って吸いました。
 貴下あなた、慰めるにしても、気休めを言うにしても、何と云う、馬鹿な、可忌いまわしい、呪詛のろった事を云ったものでしょう。
 手拭は取れました。
(あれ、お二方ふたかたが。)
 と俯向く処を、今度はまともに睫毛まつげを吸った。――そのお二方ですが、由紀が、唯、はばかったばかりではなかったので。すらすらと表二階の縁のはしへ、歴々ありありと、円髷まるまげ銀杏返いちょうがえしの顔が白く、目をぱっちりと並んで出ました。由紀を抱きかくしながらうずくまって見た時、銀杏返の方が莞爾にっこりすると、円髷のが、うなずきを含んで眉を伏せた、ト顔も消えて、きものばかり、昼間見た風のうすものになって、スーッと、肩をかさねて、階子段はしごだんへ沈み、しずみ、トントントンと音がしました。
 二人のそのおんなの姿は、いつも用が済むと、何処かへ行ってしまうのが例なのです。
 しかし、姉も妹も、すやすやと蚊帳に寝ていた事は言うまでもありますまい。
 ただ不思議な事は、東京へ帰りましてからも、その後時々逢いますが、勝手々々で、一人だったり、三人だったり、姉と妹と二人揃って立った場合に出会わなかったのでございます。
 ――少々金の都合も出来ました。いよいよ決心をして先月……十月……再び水戸屋を訪ねました時、自動車タキシイ杜戸もりと、大くずれ、秋谷を越えて、傍道わきみちへかかる。……あすこだったと思う、紅蓮こうれん一茎ひとえだ白蓮華びゃくれんげの咲いた枯田かれたのへりに、何の草か、幻の露の秋草のあぜを前にして、崖の大巌おおいわに抱かれたように、巌窟いわむろこもったように、悄乎しょんぼりと一人、淡くたたずんだおんなを見ました。
(やあ、水戸屋の姉さんが。)
 と運転手が言いました。
 ひらりと下りますと、
(旦那様――)
 知らせもしないのに、今日来るのを知って、出迎でむかえに出たと云って、手にすがって、あつい涙で泣きました。今度は、すずしい目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)ひらいても、露のみあふれて、私の顔は見えない。……
 由紀は、急な眼病で、目が見えなくなりました。
 ――結婚はまだしませんが、所帯万事引受ひきうけて、心ばかりは、なぐさめの保養に出ました。――途中から、御厚情を頂きます。
 ……ああ、帰って来ました。……御令閨ごれいけいが手をお取り下すって、」
 と廊下を見つつ涙ぐんで。
「髪も、化粧も、て頂いて……あの、きれいな、美しい、あわれな……嬉しそうな。」
 と言いかけて、無邪気に、握拳にぎりこぶしで目をおさえて、かれ落涙らくるいしたのである。
 涙はともに誘われた。が、聞えるスリッパの跫音あしおとにも、その(二人ふたりおんな)にも、著者に取っては、何の不思議も、奇蹟もほとんど神秘らしい思いでのないのが、ものたりない。……





底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房
   2006(平成18)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二卷」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
初出:「女性」
   1925(大正14)年1月号
※「拵える」に対するルビの「こしら」と「あつら」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「きのえきのと」となっています。
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2017年8月25日作成
2017年9月8日修正
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