先刻は、小さな女中の案内で、雨の晴間を宿の畑へ、家内と葱を抜きに行った。……料理番に頼んで、晩にはこれで味噌汁を
拵えて貰うつもりである。生玉子を割って、
且つは吸ものにし、且つはおじやと言う、上等のライスカレエを手鍋で
拵える。……腹ぐあいの悪い時だし、秋雨もこう毎日
降続いて、そぞろ寒い晩にはこれが何より
甘味い。
畑の
次手に、目の覚めるような
真紅な
蓼の花と、かやつり
草と、豆粒ほどな青い
桔梗とを摘んで帰って、
硝子杯を借りて
卓子台に活けた。
……いま、また女中が、表二階の演技場で、
万歳がはじまるから、と云って誘いに来た。――毎日雨ばかり続くから、宿でも浴客、
就中、逗留客にたいくつさせまい心づかいであろう。
私はちょうど寝ころんで、メリメエの、(チュルジス夫人)を読んでいた処だ。
真個はこの作家のものなどは、机に向って拝見をすべきであろうが、温泉宿の昼間、
掻巻を掛けて、じだらくで失礼をしていても、
誰も
叱言をいわない処がありがたい。
が、この名作家に対しても、田舎まわりの万歳芝居は少々
憚る。……で、家内だけ、いくらかお義理を持参で。――ただし
煙草をのませない都会の劇の義理
見ぶつに切符を
押つけられたような気味の悪いものではない。
出来秋の村芝居とおなじ野趣に対して、私も少からず興味を感ずる。――家内はいそいそと出て行った。
どれ、寝てばかりもおられまい。もう
二十日過だし少し稼ごう。――そのシャルル
九世年代記を、わが文化の版、
三馬の浮世風呂にかさねて袋棚にさしおいた。――この度胸でないと仕事は出来ない。――さて新しい知己(その人は昨日この宿を立ったが)
秋庭俊之君の話を記そう。……
中へ出る人物は、
芸妓が二人、それと湘南の
盛場を片わきへ離れた、
蘆の
浦辺の料理茶屋の娘……と云うと、どうも十七八、
二十ぐらいまでの若々しいのに聞えるので、
一寸工合が悪い。二十四五の
中年増で、
内証は知らず、表立った男がないのである。
京阪地には、こんな婦人を呼ぶのに
可いのがある。(とうはん)とか言う。……これだと料理屋、
待合などの娘で、
円髷に
結った三十そこらのでも、
差支えぬ。むかしは江戸にも
相応しいのがあった、
娘分と云うのである。で、また仮に娘分として、名はお
由紀と云うのと、秋庭君とである。
それから、――影のような、幻のような、絵にも、彫刻にも似て、神のような、魔のような、幽霊かとも思われる。……歌の、ははき
木のような
二人の
婦がある。
時は今年の真夏だ。――
これから秋庭君の
直話を
殆どそのままであると云って
可い。
「――さあ、あれは明治何年頃でありましょうか。……新橋の
芸妓で、人気と言えば、いつもおなじ事のようでございますが、
絵端書や三面記事で評判でありました。一対の名妓が、
罪障消滅のためだと言います。芸妓の罪障は、女郎の堅気も、女はおなじものと見えまして、一念発起、で、
廻国の巡礼に出る。板橋から
中仙道、わざと木曾の山路の
寂しい中を
辿って伊勢大和めぐり、四国まで遍路をする。……
笈も笠も、用意をしたと、毎日のように
発心から、
支度、見送人のそれぞれまで、続けて新聞が報道して、えらい騒ぎがありました。
笈摺菅笠と言えば、
極った巡礼の
扮装で、絵本のも、芝居で見るのも、実際と同じ姿でございます。……もしこれが間違って、たとい
不図した記事、また
風説のあやまりにもせよ、高尚なり、意気なり、
婀娜なり、帯、小袖をそのままで、東京をふッと木曾へ行く。……と言う事であったとしますと、私の
身体はその時、どうなっていたか分りません。
尚おその上、四国遍路に出る、その一人が
円髷で、一人が
銀杏返だったのでありますと、私は
立処に
杓を振って
飛出したかも知れません。ただし途中で、
桟道を
踏辷るやら、
御嶽おろしに
吹飛されるやら、それは分らなかったのです。
御存じとは思いますが、
川越喜多院には、
擂粉木を
立掛けて置かないと云う
仕来りがあります。縦にして置くと変事がある。むかし、あの寺の大僧正が、信州の
戸隠まで空中を飛んだ時に、屋の棟を、宙へ離れて行く。その師の坊の姿を見ると、ちょうど台所で味噌を
摺っていた小坊主が、擂粉木を縦に持ったまま、
破風から
飛出して雲に続いた。これは
行力が足りないで、
二荒山へ
落こちたと言うのです。
私にしても、おなじ運命かも知れません。
別嬪が二人、木曾街道を、ふだらくや岸打つ浪と、流れて行く。
岨道の森の上から、杓を持った
金釦が
団栗ころげに落ちてのめったら、
余程……妙なものが出来たろうと思います。
些と荒唐無稽に過ぎるようですが、
真実で、母
可懐く、妹恋しく、唯心も
空に
憧憬れて、ゆかりある女と言えば、日とも月とも思う年頃では、全く
遣りかねなかったのでございます。――幼いうちから、
孤だった私は、その頃は、本郷の叔父のうちに世話になって、――大学へ通っていました。……文科です。
幸ですか、
如何だか、単に巡礼とばかりで、その芸妓たちの風俗から、円髷と銀杏返と云う事を見出さなかったばかりに、胸を削るような
思ばかりで済みました。
もとより、円髷と銀杏返と、一人ずつ、別々に離れた場合は、私に取って何事もないのです。――申すまでもない事で、円髷と銀杏返を見るたびに、杓を持って
追掛けるのでは、
色情狂を通り越して、人間離れがします、
大道中で尻尾を振る犬と
隔りはありません。
それに、私が言う不思議な
婦は、いつも、円髷に結った方は、品がよく、高尚で、
面長で、そして背がすらりと高い。色は澄んで、滑らかに白いのです。銀杏返の方は、そんなでもなく、少し桃色がさして、顔もふっくりと、中肉……が
小肥りして、
些と肩幅もあり、較べて背が低い。この方が、三つ四つ、さよう、……どうかすると五つぐらい
年紀下で。
縞のきものを着ている。円髷のは、小紋か、無地かと思う
薄色の小袖です。
思いもかけない時、――何処と言って、場所、時を定めず、私の身に取って、
彗星のように、スッとこの二人の並んだ姿の、
顕れるのを見ます時の、その心持と云ってはありません。凄いとも、美しいとも、
床しいとも、
寂しいとも、心細いとも、
可恐いとも、また貴いとも、何とも形容が出来ないのです。
唯今も申した通り、一人ずつ別に――二人を離して見れば何でもありません。並んで、すっと来るのを、ふと居る処を、
或は送るのを見ます時にばかり、その心持がしますのです。」
著者はこれを聞きながら、思わず
相対っていて、
杯を控えた。
――こう聞くと、唯その二人
立並んだ折のみでない。二人を別々に離しても、
円髷の女には円髷の女、銀杏返の女には
銀杏返の女が、
他に
一体ずつ影のように――色あり縞ある――影のように、一人ずつ附いて並んで、……いや、二人、三人、五人、七人、おなじようなのが、ふらふらと並んで見えるように聞き取られて、何となく
悚然した。
「はじめて、その二人の
婦を見ましたのは、私が八つ九つぐらいの時、故郷の生家で。……母親の若くてなくなりました一周忌の頃、山からも、川からも、空からも、町に
霙の降りくれる、暗い、
寂しい、寒い真夜中、小学校の友だちと二人で見ました。――なまけものの
節季ばたらきとか言って、試験の
支度に、徹夜で勉強をして、ある
地誌略を読んでいました。――
白山は北陸道第一の高山にして、郡の
東南隅に
秀で、
越前、
美濃、
飛騨に
跨る。
三峰あり、南を
別山とし、北を
大汝嶽とし、中央を
御前峰とす。……
後に
剣峰あり、その
状、
五剣を
植るが如し、皆
四時雪を
戴く。山中に
千仞瀑あり。御前峰の絶壁に
懸る。
美女坂より
遥に
看るべし。しかれども唯
飛流の白雲の
中より
落るを見るのみ、真に奇観なり。この
他美登利池、
千歳谷――と、びしょびしょと冷く読んでいると、しばらく
降止んで、ひっそりしていたのが急にぱらぱらと
霰になった。霰……横の古襖の
破目で真暗な天井から、ぽっと
燈明が映ります。寒さにすくんで鼠も鳴かない、人ッ子の居ない二階の、
階子段の上へ、すっとその二人の
婦が立ちました。縞の銀杏返の方のが
硝子台の
煤けた
洋燈を持っています。ここで、
聊でも作意があれば、青い蝋燭と言いたいのですが、
洋燈です。
洋燈のその
燈です、その燈で、円髷の
婦の薄色の
衣紋も帯も
判然と見えました。あッと思うと、トントン、トントンと
静な
跫音とともに階子段を下りて来る。キャッと云って
飛上った友だちと
一所に、すぐ納戸の、父の寝ている所へ二人で
転り込みました。これが第一時の出現で、
小児で邪気のない時の事ですから、これは時々、人に話した事がありますが。
翌年でしたか、また秋のくれ方に、母のない子は、
蛙がなくから帰ろ、で、一度別れた友だちを、
尚おさみしさに誘いたくって、町を
左隣家の格子戸の前まで行くと、このしもた屋は、
前町の
大商人の
控屋で、
凡そ十人ぐらいは
一側に並んで通ることの出来る、広い土間が、おも屋まで
突抜けていると言うのですが、その土間と、いま申した我家の階子段とは、暗い壁
一重になっていました。
稚い時は、だから、よく階子の中段に腰を掛けて、壁越に、その土間を
歩行く跫音や、ものいう人声を聞いて、それをあの何年何月の
間か、何処までも何処までもほり抜くと、
土一皮下に人声がして、遠くで
鶏の鳴くのが聞えたと言う、別の世界の話声が
髣髴として土間から漏れる。……
小児ごころに、
内の階子段は、お伽話の
怪い山の、そのまま薄暗い坂でした。――そこが、いまの
隣家の格子戸から、
間を一つ
框に置いて、
大な穴のように
偶と見えました。――その口へ、
円髷の
婦がふっと立つ。同時に並んでいた
銀杏返のが、腰を消して、
一寸足もとの土間へ
俯向きました。これは、畳を通るのに、
駒下駄を脱いで、手に持つのだ、と見る、と……そのしもた家へ、入るのではなくて、人の居ない
間を
通抜けに、この格子戸へ出ようとするのだ、何故か、そう思うと、急に
可恐くなって、一度、むこうへ
駈出して、また夢中で、我家へ
遁込んで
了いました。
二年ばかり経ってからです。父のために、
頻に後妻を勧めるものがあって、城下から六七里離れた、
合歓の浜――と言う、……いい名ですが、土地では、眠そうな目をしたり、
坐睡をひやかす時に(それ、ねむの浜からお
迎が。)と言います。ために夢見る里のような気がします。が、村に桃の林があって、浜の
白砂へ影がさす、いつも合歓の花が咲いたようだと言うのだそうです。その浜の、
一向寺の坊さんの姪が相談の後妻になるので、父に連れられて行きました。生れてから三里以上
歩行いたのは、またその時がはじめてです。
母さんが出来ると云うので、いくら
留められても、大きな
草鞋で、松並木を駈けました。
庵のような小寺で、方丈の
濡縁の下へ、すぐに
静な浪が来ました。
尤もその
間に拾うほどの浜はあります。――途中
建場茶屋で夕飯は済みました――寺へ着いたのは、もう夜分、
初夏の宵なのです。
行燈を中にして、父と坊さんと何か話している。とんびずわりの足を、チクチク蚊がくいます、行儀よくじっとしてはいられないから、そこは
小児で、はきものとも言わないで縁からすぐに浜へ出ました。……雪国の癖に、もう暑い。まるッ
切風がありません。池か、湖かと思う渚を、小児ばかり歩行いていました。が、月は裏山に照りながら海には一面に
茫と
靄が
掛って、粗い貝も見つからないので、所在なくて、背丈に倍ぐらいな
磯馴松に
凭懸って、
入海の空、遠く
遥々と
果しも知れない浪を見て、何だか心細さに涙ぐんだ目に、高く浮いて小船が一
艘――渚から、さまで遠くない処に、その靄の中に、影のような
婦が二人――船はすらすらと寄りました。
舷に手首を少し
片肱をもたせて、じっと私を
視たのが円髷の
婦です、横に並んで銀杏返のが、手で浪を
掻いていました。その時船は
銀の色して、浜は
颯と桃色に見えた。
合歓の花の月夜です。――(やあ
父さん――
彼処に
母さんと、よその姉さんが。……)――
後々私は、何故、あの時、その船へ
飛込まなかったろうと思う事が
度々あります。世を
儚む時、病に
困んだ時、恋に離れた時です。……無論、船に入ろうとすれば、海に溺れたに相違ない。――彼処に母さんと、よその姉さんが、――そう言って濡縁に飛びついたのは、まだ死なない運命だったろう、と思います。
言うまでもありませんが、後妻のことは、其処でやめになりました。
可厭な、
邪慳らしい、小母さんが
行燈の影に来て坐っていましたもの。……」
俊之君は、話しかけて、
少時思にふけったようであった。
「……その後、時を定めず、場所を
択ばず、ともするとその二人の姿を見た事があるのです。何となく、これは前世から、私に
附纏っている、
女体の星のように思われます。――いえ、それも、世俗になずみ、所帯に煩わしく、家内もあるようになってからは、つい、忘れ
勝……と言うよりも、
思出さない事さえ稀で、
偶に夢に
視て、ああ、また(あの夢か。)と、思うようになりました。
――
処が、この八月の事です――
寺と海とが離れたように、
間を抜いてお話しましょう。が、桃のうつる
白妙の合歓の浜のようでなく、途中は
渺茫たる沙漠のようで。……」
「東京駅で、少し早めに
待合わして。……つれはまだかと、待合室からプラットホオムを出口の方へ
掛った処で、私はハッと思いました。……まだ朝のうちだが、実に暑い。息苦しいほどで、この日中が
思遣られる。――海岸へ行くにしても、途中がどんなだろう。見合せた方がよかった、と
逡巡をしたくらいですから、
頭脳がどうかしていはしないかと、
危みました。
あの、いきれを挙げる……むッとした
人混雑の中へ――
円髷のと、
銀杏返のと、二人の
婦が夢のように、しかも
羅で、水際立って、寄って来ました。(あら。)と
莞爾して、(お早う。)と若い方が言うと、年上の上品なのは、
一寸俯目に
頷くようにして、挨拶しました。」
――
先刻は、唯、
芸妓が二人、と著者は
記した。――俊之君は、「年増と若いの。」と云って話したのである。が、ここに記しつつ思うのに、どうも、どっちも――これから
後も――それだと、少なくとも、著者がこの話についてうけた印象に相当しない。
更めて仮に姉と、妹としようと思う。……
「私は目が覚めたように、いや、龍宮から東京駅へ浮いて出た気がしました。同時に、どやどや
往来する
人脚に乱れて二人は、もう並んではいません。私と軽い
巴になって、
立停りましたので。……何の秘密も、不思議もない。――これが約束をした当日の
同伴なので。……実は昨夜、或場所で、余りの暑さだから、何処かいき抜きに、そんなに遠くない処へ一晩どまりで、と姉の方から話が出たので、
可かろう、
翌日にも、と酒の
勢で云ったものの、用もたたまっていますし、さあ、どうしようか、と受けた杯を
淀まして、――四五日経ってからの方が都合は
可いのだがと、
煮切らない。……姉さんは
温和だから、ええええ御都合のいい時で結構。で、
杯洗へ、それなり流れようとした処へ、(何の話?……)と、おくれて来た妹が、いきなり、(
明日が
可い、明日になさい、明日になさい、ああこう云ってると、またお流れになる。)そこで約束が
極って、出掛ける事になったのです。――
昨夜の今朝ですもの、その二人を、不思議に思うのが
却って不思議なくらいで。いや自然の
好は妙なものだ、すらりとした姉の方が、細長い信玄袋を提げて、肩幅の広い、背の低い方が、ポコンと四角張って、胴の膨れた鞄を持っている、と、ふとおかしく思うほど、幻は現実に、お伽の坊やは、芸妓づれのいやな小父さんになりましたよ。
乗込んでから、またどうか云う工合で、女たちが二人並ぶか、それを
此方から見る、と云った
風になると、髪の形ばかりでも、
菩提樹か、
石榴の花に、女の顔した鳥が、腰掛けた如くに見えて、再び夢心に
引入れられもしたのでありましょうけれど、なかなか、そんな事を云っていられる
混雑方ではなかったのです。
折からの日曜で、海岸へ一日がえりが、
群り
掛る
勢だから、汽車の中は、さながら
野天の蒸風呂へ、
衣服を着て
浸ったようなありさまで。……それでも、
当初乗った時は、一つ二つ、席の空いたのがありました。クションは、あの二人ずつ腰を掛ける
誂ので、私は
肥満した大柄の、洋服着た紳士の
傍、内側へ、どうやら腰が掛けられました。ちょうど、椅子を開いて
向合に一つ
空席がありましたので、推されながら、この真中ほどへ来た女たちが、
(姉さん。)
(まあ、お前さん。)
と
譲合いながら、その
円髷の方が、とに
角、其処へ掛けようとすると、
(一人居るんです。)と言った、一人居た、茶と鼠の合の子の、麻らしい……
詰襟の洋服を着た、痩せたが、骨組のしっかりした、浅黒い男が、席を片腕で叩くのです。叩きながら上着を脱いで、そのあいた処へ
刎ねました。――さいわい
斜違のクションへ、姉は掛ける事が出来ましたし、それと背中合せに、妹も落着いたんです。御存じの通り、よっかかりが高いのですから、その
銀杏返は、髪も低い……
一寸雛箱へ、空色
天鵝絨の蓋をした形に、
此方から見えなくなる。姉の円髷ばかり、
端正として、
通を隔てて
向合ったので、これは弱った――
目顔で
串戯も言えない。――たかだか目的地まで三時間に足りないのだけれど、退屈だなと思いましたが、どうして、退屈などと云う贅沢は言っていられない、品川でまた一もみ
揉込んだので、苦しいのが先に立ちます。その時も、手で
突張ったり、指で弾いたり、拳で席を
払いたり、(人が居るです、――一人居るですよ。)その、
貴下……
白襯衣君の努力と云ってはなかった。誰にも掛けさせまいとする。……大方その
同伴は、列車の何処かに知合とでも話しているか、
後架にでも行ってるのであろうが、まだ、出て来ません。このこみ合う中で、それとも一人占めにしようとするのか知ら、
些と
怪しからんと思ううちに、汽車が大森駅へ入った時です。白襯衣君が、肩を
聳やかして
突立って、窓から
半身を
乗出したと思うと、真赤な
洋傘が一本、矢のように窓からスポリと
飛込んだ。白襯衣君がパッとうけて、血の
点滴るばかりに腕へ
留めて抱きましたが、色の道には、あの、スパルタの勇士の
趣がありましたよ。汽車がまだ
留らない
間の
早業でしてなあ。」
俊之君は、
吻と一息を
吐いて言った。
「
敏捷い事……
忽ち
雪崩れ込む乗客の
真前に大手を振って、ふわふわと入って来たのは、
巾着ひだの青い帽子を
仰向けに
被った、
膝切の洋服
扮装の女で、
肱に南京玉のピカピカしたオペラバックと云う奴を釣って、
溢出しそうな
乳を
圧えて、その片手を――振るのではない、
洋傘を投げたはずみがついて、惰力が留まらなかったものと考えられます。お
定りの、もう
何うにもならないと云った
大な尻をどしんと置くのだが、扱いつけていると見えて、軽妙に、ポンと、その
大な浮袋で、クションへ叩きつけると、赤い
洋傘が股へ挟まったように
捌ける、そいつを
一蹴けって黄色な
靴足袋を膝でよじって両脚を重ねるのをキッカケに、ゴム靴の爪さきと、
洋傘の柄をつつく手がトントンと刻んで動く、と
一所に、片肱を
白襯衣の肩へ掛けて、
円々しい
頤を頬杖で
凭せかけて、何と、危く乳首だけ両方へかくれた、一面に
寛けた胸をずうずうと
揺って、(おお、
辛度。)と
故とらしい京弁で甘ったれて、それから
饒舌る。のべつに饒舌る……黄色い歯の上下に動くのと、
猪首を巾着帽子の
縁で
突くのと同時なんです。
二の腕から、
頸は勿論、胸の下までべた塗の
白粉で、大切な女の
膚を、厚化粧で見せてくれる。……それだけでも感謝しなければなりません。
剰え貴い血まで見せた、その
貴下、いきれを吹きそうな
鳩尾のむき出た処に、ぽちぽちぽちと
蚤のくった痕がある。
――川崎を越す時分には、だらりと、むく毛の生えた
頸を垂れて、白襯衣君の肩へ眉毛まで押着けて、
坐睡をはじめたのですが、俯向けじゃあ
寝勝手が悪いと見えて、ぐらぐら首を
揺るうちに、男の肩へ、
斜に
仰向け
状にぐたりとなった。どうも始末に悪いのは、高く崩れる裾ですが、よくしたもので、
現に、その蚤の痕をごしごし
引掻く
次手に、膝を
捩じ合わせては、ポカリと
他人の目の前へ靴の底を
蹴上げるのです。
男の方は、その
重量で、窓際へ
推曲められて、
身体を
弓形に
堪えて納まっている。はじめは肩を
抱込んで、手を女の背中へまわしていました。……
膚いきれと、よっかかりの
天鵝絨で、長くは暑さに
堪りますまい。やがて、魚を仰向けにしたような、ぶくりとした下腹の上で涼ませながら、汽車の動揺に調子を取って口笛です。
娑婆はこのくらいにして送りたい、
羨しいの何のと申して。
私は目の
遣場に困りました。往来の
通も、ぎっしり詰って、まるで隙間がないのです。現に私の頭の上には、
緋手絡の
大円髷が
押被さって、この奥さんもそろそろ中腰になって、
坐睡をはじめたのです。こくりこくりと遣るのに耳へも頬へもばらばらとおくれ毛が
掛って来る。……
鬢のおくれ毛が
掛るのを、とや
角言っては罰の当った話ですが、どうも小唄や
小本にあるように、これがヒヤリと参りません。べとべとと汗ばんで、
一条かかると
濛とします。ただし、色白で
一寸、きれいな奥さんでしたが、えらい子持だ。中を隔てられて、むこうに、海軍帽子の
小児を二人抱いて押されている、脊のひょろりとしたのが主人らしい。その旦那の分と、奥さん自身のと、――私は所在なさに、勘定をしましたが、
小児の分を合わせて
洋傘九本は……どうです。
さあ、事ここに及んで、――現実の密度が濃くなっては、
円髷と
銀杏返の夢の姿などは、余りに影が薄すぎる。……消えて幽霊になって
了ったかも知れません。
(
清涼薬……)
と、むこうで、
一寸噪いだ、お
転婆らしい、その銀杏返の声がすると、ちらりと瞳が動く時、顔が半分無理に覗いて、フフンと口許で笑いながら、こう手が、よっかかりを越して、姉の円髷の横へ
伝って、白く下りると、その紙づつみを姉が受けて、子持の奥さんの肩の上から、
(
清涼薬ですって。……
嘸ぞお暑い事で。……)
と、腹の上で揺れてる手を
流眄に見て、身を引きました。
私は苦笑をしながら、ついぞ食べつけない、レモン入りの砂糖を
舐めました。――
如何、この動作で、その二人の
婦がやっと影を
顕わし得た気がなさりはしませんか。
時に、おなじくその赤い
蝙蝠――の比翼の形を目と鼻の
前にしながら、私と隣合った年配の紳士は、世に恐らく達人と云って可い、いや、聖人と言いたいほどで。――何故と云うと、この紳士は大森を出てから、つがいの蝙蝠が鎌倉で、赤い翼を
伸して下りた時まで、眠り続けて
睡っていました。……
真個に寝ていたのかと思うと、そうでありません。つがいが飛んだのを見ると、
明に
眼を活かして、棚のパナマ帽を取って、フッと埃を窓の外へ
弾きながら、
(御窮屈でございましたろう……御迷惑で。)
澄まして挨拶をされて、
吃驚して、
(いや。どう
仕りまして。)
と面くらう
隙に、
杖を
脇挟んで悠然と下車しましたから。」
俊之君は、ここで更に
居坐を直して続けた。……
「お話のいたしようで、どうお取りになったか知れないのでありますが、私は紳士に敬意を表するとともに、赤い
蝙蝠にも、
年児の奥さんにも感謝します。決して敵意は持ちません。そのいずれの感化であったかは自分にも分りません。が、とに角、その晩、二人の
婦と、一ツ蚊帳に……
成りたけ離れて寝ましたから。
――さあ、何時頃だったでしょう――二度めに、ふと寝苦しい暑さから、汗もねばねばとして目の覚めましたのは。――夜中も、その沈み切った底だったと思います。うつうつしながら
糠に
咽せるように
鬱陶しい、羽虫と蚊の声が
陰に
籠って、大蚊帳の上から
圧附けるようで息苦しい。
蚊帳は広い、
大いのです。
廻縁の角座敷の十五畳一杯に釣って、四五ヶ所
釣を取ってまだずるり――と中だるみがして、三つ敷いた
床の上へ
蔽いかかって、縁へ裾が
溢れている。私には珍しいほどの
殆ど
諸侯道具で。……余り世間では知りませんが、
旅宿が江戸時代からの旧家だと聞いて来たし、名所だし、料理
旅籠だししますから、いずれ由緒あるものと思われる、従って古いのです。その上、一面に
嬰児の
掌ほどの穴だらけで、干潟の蟹の巣のように、ただ
一側だけにも五十破れがあるのです。勿論
一々継を当てた。……
古麻に濃淡が出来て、こう
瞬をするばかり無数に取巻く。……この
大痘痕の
化ものの顔が一つ天井から
抜出したとなると、
可恐さのために
一里滅びようと言ったありさまなんです。――ここで
一寸念のために申しますが、この旅籠屋も、昨年の震災を
免れなかったのに、しかも
一棟焚けて、
人死さえ二三人あったのです――蚊帳は火の粉を
被ったか、また、山を荒して、畑に及ぶと云う野鼠が群り襲い、当時、壁も襖も防ぎようのなかった
屋のうちへ押入って、散々に喰散らしたのかとも思われる。
女中が二人で、宵にこの蚊帳を釣った時、
(まあ。)
と
浮りしたように姉が云うと、
(お気の毒だわね。)
と思わず妹も。……この
両方だって、おなじく手拭浴衣一枚で、生命を
助って、この蚊帳を板にした同然な、節穴と隙間だらけのバラックに住んでいるのに、それでさえそう言った。
――実は、海岸も大分片よった処ですから、唯聞いたばかり、絵で見たばかりで様子を知らない。――宿が潰れた上、焚けて人死があった事は、途中自動車の運転手に聞いて、はじめて知ったのです。
(――それは少し心配だな。)
二人の
婦も、黙って顔を見合せました。
可恐しい崖崩れがそのままになっていて、自動車が大揺れに
煽った処で。……またそれがために様子を聞きたくもなったのでした。
運転手は
悍馬を
乗鎮めるが如くに腰を切って、
昂然として、
(
来る……九月一日、十一時五十八分までは大丈夫請合います。)
と笑って言った。――(八月十日頃の事ですが)――
畜生、
巫山戯ている。私は……一昨々年――家内をなくしたのでございますが、
連がそれだったらこういう
蔑めた口は利きますまい。いや、これに対しても、いまさら
他の
家へとも言いたくなし、
尤も
其家をよしては、今頃
間貸をする農家ぐらいなものでしょうから。
(構わない、九月一日まで逗留だ。)
と
擬勢を示した。自動車は次第に動揺が烈しくなって
乗込みました。入江に渡した村はずれの土橋などは危なかしいものでした。
場所は逗子から葉山を通って
秋谷、
立石へ行く
間の浦なんです。が、思ったとは大変な相違で、第一土橋と云う、その土橋の下にまるで水がありません、……約束では、海の波が
静にこの下を通って、志した
水戸屋と云うのの庭へ、
大な池に流れて、
縁前をすぐに漁船が漕ぐ。
蘆が
青簾の筈なんです。
処が、
孰方を向いても一面の泥田、沼ともいわず底が浅い。
溝をたたきつけた同然に炎天に湧いたのが
汐で焼けて、がさがさして、焦げています。……あの遠くの雲が海か知らんと思うばかりです。干潟と云うより
亡びた沼です。気の利いた蛙なんか疾くに引越して、のたり、のたりと
蚯蚓が
雨乞に出そうな
汐筋の窪地を、列を造って船虫が
這まわる……その上を、羽虫の
大群が、随所に固って
濛々と、舞っているのが炎天に火薬の煙のように見えました。
半ばひしゃげたままの藤棚の方から、すくすくとこの屋台を
起して支えた、
突支棒の
丸太越に、三人広縁に立って三方に、この干からびた大沼を見た時は、何だか
焼原の東京が恋しくなった。
贅沢だとお叱んなさい。私たちは海へ涼みに出掛けたのです。
(海には汐の
満干があるよ、いまに汐がさすと一面の水になる。)
折角、
楽みにして、嬉しがって来た
女連に、気の毒らしくって、私が
言訳らしくそう言いますと、
(
嘸ぞようござんしょうねお月夜だったら。)
姉の言った事は
穏です。
些と
跳ねものの妹のをお聞きなさい。
(雪が降るといい景色だわね。)
真実の事で。……これは決して皮肉でも何でもありません。成程ここへ雪が降れば、
雪舟が
炭団を描いたようになりましょう。
それも、まだ座敷が
極ったと言うのではなかったので。……ここの座敷には、
蜜柑の皮だの、キャラメルの箱だのが散ばって、
小児づれの客が、三崎へ行く途中、
昼食でもして行った
跡をそのままらしい。障子はもとより
開放してありました。古襖がたてつけの悪いままで、その絵の
寒山拾得が、私たちを
指して囁き合っている
体で、おまけに、手から
抜出した同然に箒が一本
立掛けてあります。
串戯にも、これじゃ居たたまらないわけなんですが、
些とも気にならなかったのは、――
先刻広い、
冠木門を入った時――前庭を見越したむこうの縁で、手をついた優しい
婦を見たためです。……すぐその縁には、山林局の見廻りでもあろうかと思う官吏風の洋装したのが、高い
沓脱石を踏んで腰を掛けて、盆にビイル
罎を乗せていました。またこの形は、水戸屋がむかしの茶屋旅籠のままらしくて面白し……で、玄関とも言わず、迎えられたまま、その
傍から、すぐ縁側へ通ったのですが、優しい
婦が、客を嬉しそうに見て、
(お暑うございましたでしょう、まあ、ようこそ、――
一寸お休み遊ばして。)
と、すぐその障子の影へ入れる、とすぐ靴の紐を
縷っていた洋装のが、ガチリと釣銭を
衣兜へ
掴込んで、がっしりした
洋傘を
支いて出て行く。……いまの
婦は
門外まで、それを送ると、入違いに女中が、
端近へ茶盆を持って出て、座蒲団をと云った工合で?……うしろに
古物の
衝立が立って、
山鳥の剥製が覗いている。――処へ、三人茶盆を中にして坐った様子は、いまに本堂で、志す
精霊の読経が始りそうで何とも
以て陰気な処へ、じとじと汗になるから
堪りません……そこで、掃除の済まない座敷を、のそのそして、――右の廻縁へ立った始末で。……こう塩辛い、大沼を
視めるうちに、山下の向う岸に、泥を食って沈んだ小船の、
舷がささらになって、鯉ならまだしも、
朝日奈が
取組合った
鰐の
頤かと思うのを見つけたのも悲惨です。
山出しの女中が来て、どうぞお二階へ、――助かった、ここで
翌朝まで辛抱するのかと
断念めていたのに。――いや、
階子段は、いま来た三崎街道よりずッと広い、見事なものです。三人撒いたように、ふらふらと上ると、上り口のまた広々とした板敷を、縁側へ廻る処で、白地の手拭の姉さんかぶりで、
高箒を片手に
襷がけで、
刻足に出て
行逢ったのがその優しい
婦で、
一寸手拭を取って会釈しながら、軽くすり抜けてトントンと、堅い段を下りて行くのが、あわただしい中にも、
如何にも
淑かで
跫音が
柔うございました。
何とも
容子のいい、何処かさみしいが、目鼻
立のきりりとした、
帯腰がしまっていて、そして
媚かしい、なり恰好は女中らしいが、すてきな年増だ。二十六七か、と思ったのが――この水戸屋の娘分――お由紀さんと言うのだとあとで分りました。
――また、
奇異なものを見ました――
貴下には、
矢張り
唐突に聞えましょうが、私には度々の事で。……何かと申すと――例の怪しい二人の
婦の姿です。――私が湯から上りますと、二人はもう持参の浴衣に
着換えていて、お
定りの
伊達巻で、湯殿へ
下ります、一人が市松で一人が
独鈷……それも
可い、……姉の方の脱いだ
明石が、沖合の白波に向いた
欄干に、
梁から
衣紋竹で釣って掛けてさぼしてある。
裾にかくして、薄い紫のぼかしになった
蹴出しのあるのが、すらすら
捌くように、海から吹く風にそよいでいました。――午後二時さがりだったと思います。
真日中で、土橋にも浜道にも、人一人通りません。が、さすがに少し風が出ました。汗が引いてスッと涼しい。――とその蹴出しの下に脱いで揃えた白足袋が、蓮……蓮には済まないが、思うまま言わして下さい。……
白蓮華の
莟のように見えました。同時に、横の襖に、それは
欄間に釣って掛けた、妹の方の
明石の下に、また
一絞りにして
朱鷺色の
錦紗のあるのが一輪の薄紅い蓮華に見えます。――東京駅を出て、汽車で
赤蝙蝠に襲われた、のちこの時まで、(ああ、涼しい。)と思えたのは、自動車で来る途中、
山谷戸の、路傍に
蓮田があって、白いのが二三輪、
旱にも露を含んで、
紅蓮が一輪、むこうに交って咲いたのを見た時ばかりであったからです。
また涼しい風が
颯と来ました。
羅は風よりも軽い……姉の明石が、竹を
辷ると、さらりと落ちたが、畳まれもしないで、
煽った襟をしめ加減に、
細りとなって、脇あけも
採れながら、フッと宙を浮いて行く。……あ、あ、と思ううちに、妹のが誘われて、こう並んでひらひらと行く。後のの
裾が
翻ったと見る時、ガタリと云って羅の抜けたあとへ衣紋竹が落ちました。一つは
擽られるように、一つは抱くようにと、見るうちに、
床わきへ横に靡いて両方
裾を流したのです。
私は
悚然とした。
ばかりではありません。ここで覚めるのかと思う夢でない所を見ると、これが
空蝉になって、二人は、裏の松山へ、湯どのから
消失せたのではなかろうか――
些と
仰山なようであるが
真個……勝手を知った湯殿の外まで
密と様子を見に行ったくらいです。
婦の事で、勿論戸は閉めてある。妹の方の笑声が湯気に
籠って、姉が
静に小桶を使う。その白い、かがめた背筋と、桃色になった湯の中の
乳のあたりが、
卑い事だが、想像されて。……ただし、紅白の蓮華が浴する、と自讃して
後架の前から急に
跫音を立てて、二階の
見霽へ帰りました。
や、二人の羅が、もとの通り、もとの処に
掛っている、
尤も女中が来て、掛け直したと思えば、それまでなんですが、まだ
希有な気がしたのです。
けれども、
午飯のお
誂が持出されて、湯上りの二人と向合う、
鯒のあらいが氷に乗って、
小蝦と胡瓜が
揉合った処を見れば無事なものです。しかも
女連はビイルを飲む。ビイルを飲む仏もなし、鬼もない。おまけに、(冷蔵庫じゃないわね。)そ、そんな幽霊があるもんじゃありません。
況や、三人、そこへ、ころころと昼寝なんぞは、その上、客も、芸妓もない、姉も妹も、叔母さんも、更に人間も、何にもない。
暮方、またひったりと
蒸伏せる
夕凪になりました。が、折から
淡りと、入江の
出岬から覗いて来る
上汐に勇気づいて、土地で一番景色のいい、名所の丘だと云うのを、女中に教わって、三人で出掛けました。もう土橋の下まで汐が来ました。
路々、
唐黍畑も、おいらん
草も、そよりともしないで、ただねばりつくほどの暑さではありましたが、
煙草を買えば(私が。)(あれさ、
細いのが私の方に。)と女同士……
東京子は小遣を使います。野掛け気分で、ぶらぶら七八町出掛けまして、地震で崩れたままの
危かしい石段を、藪だの墓だのの間を抜けて、
幾蜿りかして、頂上へ――誰も居ません。
葭簀張の茶店が一軒、色の黒い
皺びた婆さんが一人、真黒な犬を一匹、膝に
引つけていて、じろりと、犬と
一所に私たちを
視めましたっけ。……
この婆さんに、
可厭な事を聞きました。――
……此処で、姉の方が、
隻手を
床几について、少し
反身に、浴衣腰を長くのんびりと掛けて、ほんのり
夕靄を視めている。
崖縁の台つきの
遠目金の六尺ばかりなのに妹が
立掛った処は、誰も言うた事ですが、
広重の絵をそのままの風情でしたが――婆の言う事で、変な気になりました。
目の下の
水田へは
雁が降りるのだそうです。向うの森の山寺には、
暮六つの鐘が鳴ると言う。その釣鐘堂も崩れました。右の空には富士が見える。それは唯深い息づきもしない靄です。沖も赤く焼けていて、白帆の影もなし、折から星一つ見えません。
(御覧じゃい、あないにの、どす黒くへりを取った水際から、三
反も五
反と、沖の方へさ汐の
干た
処へ、貝、蟹の穴からや、にょきにょきと
蘆が生えましたぞい。あの……蘆がつくようでは、この浦は、はや近うちに、干上って
陸になるぞいの。そうもござりましょ。……去年の大地震で、海の底が
一体に三尺がとこ上りましての、家々の
土地面が三尺たたら踏んで
落込みましたもの、の。いま、さいて来た汐も、あれ、御覧じゃい。……
海鼠が這うようにちょろちょろと、
蘆間をあとへ引きますぞいの。村中が心を合せて、
泥浚をせぬ事には、ここの浦は、いまの
間に干潟になって、やがて、ただ
茫々と蘆ばかりになるぞいの。……)
何だか
独言のように言って聞かせて、
錆茶釜に
踞んで、ぶつぶつ
遣るたびに、黒犬の背中を
擦ると、犬が、うううう、ぐうぐうと遣る。変に、犬の腹から声を
揉出すようで、あ、あの婆さんの、時々ニヤリとする歯が犬に似ている。
薄暮合に、
熟としている犬の不気味さを、私は始めて知りました。……
(――旦那様方が泊らっしゃった、水戸屋がの、一番に海へ沈んだぞいの。)
靄の下に、また電燈の光を漏らさない、料理
旅籠は、
古家の
甍を黒く、
亜鉛屋根が三面に
薄りと光って、あらぬ月の影を宿したように見えながら、
縁も
庇も、すぐあの蛇のような土橋に、庭に吸われて、小さな藤棚の
遁げようとする方へ、
大く傾いているのでした。
(……その時は、この山の下からの、土橋の、あの入江がや、もし……一面の海でござったがの、
轟と沖も空も鳴って来ると、大地も波も、
一斉に
箕で
煽るように揺れたと思わっしゃりまし。……あの水戸屋の屋根がの、ぐしゃぐしゃと、骨離れの、柱離れで
挫げての――私らは、この
時雨の松の……)
と言いました。字の傘のように高く立って、枝が一本折れて、崖へ傾いているを
指して、
(松の根に這い
縋って見ましたがの、潰れた屋の
棟の瓦の上へ、
一ちさきに、何処の犬やら、白い犬が乗りましたぞい。乾してあった浴衣が、人間のように、ぱッぱッと
欄干から
飛出して、潟の中へへばりつく。もうその時は、沖まで汐が
干たぞいの。ありゃ海が
倒になって裏返ったと思いましたよ。その白犬がの、
狂気になったかの、沖の方へ、世界の
涯までと
駈出すと思う時、水戸屋の
乾の隅へ、屋根へ抜けて黄色な雲が立ちますとの、赤旗がめらめらと
搦んで、真黒な煙がもんもんと天井まで上りました。男衆も女衆も、その火を消す
間に、帳場から、何から、
家中切もりをしてござった
彼家のお
祖母様が死なしゃった。人の
生命を、火よりさきへ助ければ
可いものと、
村方では言うぞいの。お祖母様が
雛児のように抱いてござった
小児衆も二人、
一所に死んだぞの。
孀つづきの家で、
後家御は
一昨年なくならした……娘さんが一人で、や、一気に家を
装立てていさっしゃりますよ。姉さんじゃ。弟どのは、東京の学校さ入っていさっしゃるで。……地震の時は留守じゃったで、評判のようないは姉娘でござりますよ。――
家とおのれは助かっても、
老人小児を
殺いてはのうのう黒犬を、のう、黒犬や――)……
勝手にしろ。殺したのではない、死んだのである。その場合に、
圧に打たれ、火に包まれたものと進退をともにするのは、助けるのではない、自殺をするのだ、と思いました。……私は
可厭な事を聞いた、しかし、祖母と小さい弟妹を死なせて水戸屋を背負って
生残ったと言う娘分、――あの優しい
婦が
確にと、この時直覚的に知りましたが――どんなに心苦しいか……この狭い土地で、
嘸ぞ肩身が狭かろう。――胸のせまるまで、いとしく、
可憐になったのです。
(可厭な婆さん……)
(黒犬が憑いてるようね。犬も
婆のようだったよ。)
石段を下りかかって、二人がそう云った時、ふと見返ると、坂の
下口に
伸掛って覗いていました。こんな時は、――鹿は贅沢だ。
寧ろ虎の方が
可い。
礫を取って投げようとするのを二人に
留められて……幾つも新しい墓がある――墓を見ながら下りたんです。
時に――(見たいわね。)妹なぞもそう言ったのですが、お由紀さんは、それ
切姿を見せなかったのです。
大分話が
前後になりました。
処で、真夜中に寝苦しい目の覚めた時です。が、娘分に対しても決して不足を言うんじゃあない。……蚊帳のこの古いのも、穴だらけなのも、
一層お由紀さんの万事
最惜さを思わせるのですけれども、それにしても凄まじい、――
先刻も申した
酷い
継です。
隣室には八畳間が二つ並んで、上下だだ
広い
家に、その晩はまた一組も客がないのです。この辺に限らず、何処でも地方は電燈が暗うございますから、顔の前に点いていても、畳の目がやっと見える、それも蚊帳の天井に光っておればまだしも、この
燈に羽虫の
集る事
夥多しい。何しろ、三方取巻いた泥沼に群れたのが
蒸込むのだから
堪りません。
微細い奴は蚊帳の目をこぼれて、むらむら
降懸るものですから、
当初一旦寝たのが、
起上って、妹が働いて、線を
手繰って、次の
室へ電燈を持って行ったので、それなり一枚
開けてあります。その襖越しにぼんやりと
明が届く、蚊帳の
裡の薄暗さをお察し下さい。――鹿を連れた仙人の襖の南画も、婆と黒犬の形に見える。……ああ、この
家がぐわしゃぐわしゃと潰れて
乾の隅から火が出た、三人の
生命が
梁の下で焼けたのだと思うと、色合と言い、皺といい、一面の穴と言い、何だか、ドス黒い沼の底に、私たち倒れているような気がしてなりません。
(ああ、これは
尋常事でない。)
一体小児の時から、三十年近くの
間――ふと思い寄らず、二人の
婦の姿が、私の身の周囲へ
顕われて、目に遮る時と云うと、
善にしろ、悪いにしろ、それが境遇なり、生活なりの一転機となるのが、これまでに例を
違えず、約束なのです。とに角、私の小さい
身体一つに取って、一時期を
劃する、大切な場合なのです。
(これは、尋常事でない。……)
私は形に出る……この運命の
映絵に誘われていま不思議な処へ来た――ここで一生を終るのではないか、死ぬのかも知れない。
枕も髪も影になって、蒸暑さに
沓脱ぎながら、行儀よく
組違えた、すんなりと伸びた浴衣の裾を
洩れて、しっとりと置いた姉の白々とした足ばかりが
燈の加減に浮いて見える。白い指をすッすッと刻んで、瞳をふうわりと浮いて軽い。あの白蓮華をまた思いました。
取縋って未来を尋ねようか、前世の事を聞こうか。――
と、この
方は、私の隣に寝ている。むこうへ、
一嵩一寸低く妹が寝ていました。
……三分……五分……
紅い蓮華がちらちらと咲いた。
幽に見えて、手首ばかり、夢で蝶を追うようなのが、どうやら
此方を招くらしい。……
――抱きしめて、未来を尋ねようか。前世の事を聞こうか。――
招く方へは
寄易い。
私は、貴方、
巻莨の火を消しました。
その時です。ぱちぱちと音のするばかり、大蚊帳の
継穴が、何百か、ありッたけの目になりました。――蚊帳の目が目になった、――
否、それが一つ
一つ人間の目なんです。――お分りになり
憎うございましょうか
知ら。……
一斉に、その何十人かの目が目ばかり出して
熟と覗いたのです。
る、
瞬く、
瞳が動く。……馬鹿々々しいが
真個です。
る、瞬く、瞳が動く。……
生々として覗いています。暗い、低い、大天井ばかりを余して、蚊帳の四方は残らず目です。
私はすくんで
了いました。
いや、すくんでばかりはおられません。仰向けに胸へ
緊乎と手を組んで、
両眼を
押睡って、気を鎮めようとしたのです。
三分……五分――十分――
魔は通って過ぎたろうと、堅く目を開きますと、――鹿と仙人が、
婆と黒犬に見える、――その
隣室の襖際と寝床の裾――皆が沖の方を枕にしました――裾の、袋戸棚との間が、もう一ヶ所
通で、
裏階子へ出る、
一人立の口で。表二階の縁と、広く続いて、両方に
通口のあるのが、何だか宵から、暗くて
寂しゅうございました。――いま、その裏階子の口の狭い処にぼッと人影が
映して色の白い
婦が立ちました。私は驚きません。それは
円髷の方で……すぐ
銀杏返のが出る、出て二人並ぶと同時に膝をついて、駒下駄を持つだろう。
小児の時見たのと同じようだ。で、蚊帳から雨戸を宙に抜けて、海の空へ通るのだろうと思いました。私の身に、二人の
婦の必要な時は、
床柱の中から
洋燈を持って出て来た事さえありますから。」……
「ははあ。」
著者は思わず
肱を堅くして聞いたのであった。
「――
処がその
婦は一人きりで、薄いお納戸色の帯に、
幽な裾模様が、すッと
蘆の葉のように映りました。すぐ背を伸ばせば届きます。立って、ふわふわと、
凭りかかるようにして、ひったりと蚊帳に顔をつけた。ああ、覗く。……ありたけの目が、その一ところへ寄って、
爛々として燃えて
大蛇の如し……とハッとするまに、目がない、鼻もない、何にもない、
艶々として乱れたままの黒髪の黒い中に、ぺろりと白いのっぺらぼう。――」
「…………」
著者は黙って息を呑んで聞いた。
「うう、と殺されそうな声を呑むと、私は、この場合、
婦二人、
生命を預る……私は、むくと起きて、しにみに覚悟して、蚊帳を
刎ねた、その時、横ゆれに
靡いて、あとへ
下ったその
婦が、気に
圧されて
遁げ
状に板敷を、ふらふらとあと
退りに
退るのを夢中で
引捉えようとしました。胸へ届きそうな私の手が、
辷るが早いか、何とも申しようのない事は、その
婦は三四尺ひらりと
空へ飛んで、宙へ
上った。白百合が裂けたように釣られた両足の指が
反って震えて、素足です。藍、浅葱、
朱鷺色と、
鹿子と、
絞と、紫の
匹田と、ありたけの
扱帯、腰紐を一つなぎに、夜の虹が化けたように、
婦の
乳の下から腰に
絡わり、裾に
搦んで。……下に膝をついた私の肩に流れました。雪なす両の
腕は、よれて
一条になって、
裏欄干の梁に
釣した扱帯の
結目、ちょうど緋鹿子の端を血に巻いて
縋っている。顔を背けよう背けようと横仰向けに振って、よじって伸ばす白い
咽喉が、
傷々しく伸びて、
蒼褪める頬の色が見る見るうちに、その咽喉へ
隈を薄く
浸ませて、
身悶をするたびに、
踏処のない、つぼまった
蹴出が乱れました。凄いとも、美しいとも、あわれとも、……踏台が置いてある。目鼻のない、のっぺらぼうと見えたのは、白地の
手拭で、顔の半ば目かくしをしていたのです。」
俊之君は、やや、声
忙しく語った。此処で
吻と一息した。
「いま、これを処置するのに、人の妻であろうと、妾であろうと、娘であろうと、私は
抱取らなければなりません。
私は綺麗なばけものを、横抱きに膝に抱いて助けました。声を殺して、
(何をなさる。)
扱帯で両膝は
結えていました。けれども、首をくくるのに、目隠をするのは
可訝しい。気だけも顔を隠そうとしたのかと思う。いや、そうでないのです。それに、実は死のうとしたのではない。私から
遁げようとしたので、目を隠したのは、見まい見せまいじゃあない。蚊帳を覗くためだったのだから
余程変です。」
「前後のいきさつで、大抵お察しでありましょう。それはお由紀さんでございました。
申憎うございますけれども、――今しがた、貴方の
御令閨のお
介添で――湯殿へ参っております、あの女なのです。
これでは……その時の私と、由紀とのうけこたえに、女のものいいが交りましては、
尚お申憎うございますから、わけだけを、
手取早く。……
由紀は、人の身の血も汐も引くかと思う、干潟に
崩家を守りつつ、日も月も暗くなりました。……村の口の
端、里の
蔭言、目も心も真暗になりますと、
先達て頃から、神棚、仏壇の前に坐って、目を閉じて拝む時、そのたびに、こう
俯向く……と、
衣ものの
縞が、我が膝が、影のように
薄りと浮いて見えます。それが毎日のように
度重ると
段々に
判然見える。姿見のない処に、自分の顔が映るようで、向うが影か、自分が影か、何とも言えない心細い、
寂しい気がしたのだそうです。
絣は
那様でない、
縞の方が、余計にきっぱりとしたのが、次第に、おなじまで、映る事になったと言います。ただ、神仏の前にぬかずく時、――ほかには何の仔細もなかった。
処が当日、私たちの着きますのが、もう土橋のさきから分ったと言うのです。それは別に気にも
留めなかった。
黄昏に三人で、
時雨の松の
見霽へ出掛けるのを、縁の柱で、
悄乎と、藤棚越に
伸上って見ていると、二人に連れられて、私の行くのが、山ではなしに、干潟を沖へ出て、それ
切帰らない心持がしてならなかった。無事に山へ行きました。――が、
遠目金を覗くのも、一人が腰を掛けたのも、――台所へ
引込んでまでもよく分る。それとともに、犬婆さんが、由紀の身について
饒舌るのさえ聞えるようで。……それがために身を恥じて、皆の床の世話もしなかった。
極りの悪い、蚊帳の
所為ばかりではないと言います。夜の進むに従って、私たちの一挙一動がよく知れた。……
三人が
一寝入したでしょう、うとうととして一度目を覚ます、その時でした。妹の方が、電燈を
手繰って隣の室へ運んでいたのは。――(大変な虫ですよ)と姉は寝ながら
懶そうに
団扇を動かす。
蚤と蚊で……私も
痒い。
身体中、くわッといきって、
堪らない、と蚊帳を
飛出して、電燈の行ったお隣へ両腕を
捲って、むずむず掻きながら、うっかり入ると、したたかなものを見ました。頭から足のさきまで、とろりと白い
膏のかかったはり切れそうな
膚なんです。蚤を
振って脱いでいたので。……電燈の下へ立派に立って、アハハと笑いました。(抱くと怪我をしてよ。……夏虫さん――)(いや、どうも、弱った。)と襖の陰へ、晩に押して置いた
卓子台の前へ、くったりと小さくなる。(
生憎、薬が。)と姉が言うと(香水をつけて上げましょう、かゆいのが直るわよ。……)と一気にその膚で押して出て、(どうせお目に掛けたんだ、暑さ
凌ぎ。ほほほほ。)袋戸棚から探って取った小罎を持って、胸の乳、
薫ってひったりと、(これ、ここも、ここも、ここも。)虫のあとへ、ひやひやと罎の口で
接吻をさせた。
ああ、この時は弱ったそうです。……由紀は仏間に一人、蚊帳に起きて
端正と坐って、そして目をつぶって、さきから俯向いて一人居たのだそうですが、二階の暗がりに、その有様が、下の奥から、
歴々と透いて見えたのですから。――年は
長けても処女なんです。どうしていいか分らない。あっちへ
遁げ、
此方へ
避け、ただ人の居ない処を、壁に、柱に、袖をふせて、顔をかくしたと言うじゃありませんか。
私は冷い汗を流した、汗と
一所に
掌に血が
浸んだ。――帯も髪も乱れながら、両膝を
緊乎結えている由紀を、板の間に抱いたまま、手を離そうにも、
頭をふり、頭を
掉って、目を結えたのをはずしませんから、見くびって、したたかくい込んでいた蚊の奴が、血をふいてぼとりと落ちたのです。
私は冷くなって恥じました。けれども、その妹も、並んだ姉も、ただの女、ただの芸妓に、私が扱い得なかったことは、お察し下さるだろうと存じます。
――
痒さは、香水で
立処に去りましたが、息が
詰る、余り暑いから、立って雨戸を一枚
繰りました。(おお涼しい。)
勢に乗じて、妹は縁の真正面へ、蚊帳の黒雲を分けたように、乳を白く立ったのですが、ごろごろごろ、がたん。
間遠に荷車の音が、深夜の
寂寞を破ったので、ハッとかくれて、
籐椅子に涼んだ私の蔭に立ちました。この音は妙に凄うございました。
片輪車の
変化が通るようで、そのがたんと門にすれた時は、鬼が
乗込む
気勢がしました。
姉がうっとりした声で、(ああ、私は
睡い。……お寝よ、いいからさ。)(
沢山おっしゃいよ。)余り夜が深い。何だか、美しい
化鳥と化鳥が囁いているように聞えた。(あ、
梟が鳴いている。)唯一つ、
遥に、
先刻の山の、
時雨の松のあたりで聞えました。
この、梟が鳴き、荷車の消えて行く音を聞いた時、由紀は、その車について、
戸外へ
出了おうと思ったと言います。しかし気がついた。いま外へ出れば、枝を探り、水を慕って、
屹と自殺をするに違いない。……それが
可恐しい。由紀はまだ死にたくない未練があると思ったそうです。――
真個です、その時戸を出たらば魔に
奪られたに相違ありません。
私たちも凄かった。――岬も、
洲も、潟も、山も、峰の松も、名所一つずつ一ヶ所一体の魔が
領しているように見えたのですから。(天狗様でしょうか、鬼でしょうか、
私たちとはお宗旨違いだわね。
引込みましょう
可恐いから。)居かわって私の膝にうしろ向きにかけていた
銀杏返が言ったのです。
由紀は残らず知っていました。
それからは、私も
余程寝苦しかったと見えます――先にお話しした二度めに目を覚ましますまで、ものの一時間とはなかったそうで――由紀の
下階から
透して見たのでは――余り
判明見えるので、由紀は自分で恐ろしくなって、これは発狂するのではないかと思った。それとも、唯、心で見る迷いで、大蚊帳の
裡の模様は実際とまるで違っているかも知れない。それならば、まよいだけで、気が違うのではないであろう。どっちか
確めるのは、自分で一度二階へ上って様子を見なければ分らない。が深く堅く目を
瞑っていると思いつつ……それが病気で、
真個は薄目を明けているのかも
計られない、と、身だしなみを、恥かしくないまでに、坐ってカタカタと箪笥をあけて、きものを着かえて、それから
手拭で目を
結えて、二階へ上ったのだそうですが、数ある段を、
一歩も誤らず、すらすらと上りながら、気が
咎めて、二三度下りたり、上ったり、……また
幾度、手で探っても、
三重にも折った手拭はちゃんと顔半分
蔽うている。……いよいよ蚊帳を覗くとなると、余りの事に、それがこの病気の峠で、どんな風に、ひきつけるか、気を失うか、倒れるかも分らない。その時醜くないようにと、両膝をくくったから、くくったままで、蚊帳まで寄って来るのです、
間は近いけれども、それでは忍んでは
歩行けますまい。……
扱帯を
繋いで、それに
縋って、
道成寺のつくりもののように、ふらふらと幽霊だちに、
爪立った
釣身になって覗いたのだそうです。私に追われて、あれと
遁げる時、――ただたよりだったのですから、その
扱帯を
引手繰って、
飛退こうとしたはずみに、腰が宙に浮きました。
浅間しい、……
極が悪い。……由紀は、いまは活きていられない。――こうしていても、貴方(とはじめて顔を振向けて、)私の
抱ている顔も手も皆見える。これが私を殺すのです――と云って、
置処のなさそうな顔を
背ける。
猿轡とか云うものより見ても
可哀なその
面縛した罪のありさまに、
(心配なさる事はない。私が見えないようにして上げる。)
と云って、
目隠の上を
二処吸って吸いました。
貴下、慰めるにしても、気休めを言うにしても、何と云う、馬鹿な、
可忌しい、
呪詛った事を云ったものでしょう。
手拭は取れました。
(あれ、お
二方が。)
と俯向く処を、今度はまともに
睫毛を吸った。――そのお二方ですが、由紀が、唯、
憚ったばかりではなかったので。すらすらと表二階の縁の
端へ、
歴々と、
円髷と
銀杏返の顔が白く、目をぱっちりと並んで出ました。由紀を抱きかくしながら
踞って見た時、銀杏返の方が
莞爾すると、円髷のが、
頷を含んで眉を伏せた、ト顔も消えて、
衣ばかり、昼間見た風の
羅になって、スーッと、肩をかさねて、
階子段へ沈み、しずみ、トントントンと音がしました。
二人のその
婦の姿は、いつも用が済むと、何処かへ行って
了うのが例なのです。
しかし、姉も妹も、すやすやと蚊帳に寝ていた事は言うまでもありますまい。
ただ不思議な事は、東京へ帰りましてからも、その後時々逢いますが、勝手々々で、一人だったり、三人だったり、姉と妹と二人揃って立った場合に出会わなかったのでございます。
――少々金の都合も出来ました。いよいよ決心をして先月……十月……再び水戸屋を訪ねました時、
自動車が
杜戸、大くずれ、秋谷を越えて、
傍道へかかる。……あすこだったと思う、
紅蓮が
一茎、
白蓮華の咲いた
枯田のへりに、何の草か、幻の露の秋草の
畦を前にして、崖の
大巌に抱かれたように、
巌窟に
籠ったように、
悄乎と一人、淡く
彳んだ
婦を見ました。
(やあ、水戸屋の姉さんが。)
と運転手が言いました。
ひらりと下りますと、
(旦那様――)
知らせもしないのに、今日来るのを知って、
出迎に出たと云って、手に
縋って、あつい涙で泣きました。今度は、
清い目を
いても、露のみ
溢れて、私の顔は見えない。……
由紀は、急な眼病で、目が見えなくなりました。
――結婚はまだしませんが、所帯万事
引受けて、心ばかりは、なぐさめの保養に出ました。――途中から、御厚情を頂きます。
……ああ、帰って来ました。……
御令閨が手をお取り下すって、」
と廊下を見つつ涙ぐんで。
「髪も、化粧も、
為て頂いて……あの、きれいな、美しい、あわれな……嬉しそうな。」
と言いかけて、無邪気に、
握拳で目を
圧えて、
渠は
落涙したのである。
涙はともに誘われた。が、聞えるスリッパの
跫音にも、その(
二人の
婦)にも、著者に取っては、何の不思議も、奇蹟も
殆ど神秘らしい思いでのないのが、ものたりない。……