剃刀研 十九日 紅梅屋敷 作平物語 夕空 点灯頃
雪の門 二人使者 左の衣兜 化粧の名残
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剃刀研
一
「おう寒いや、寒いや、こりゃべらぼうだ。」
と
天窓をきちんと分けた風俗、その辺の若い者。
双子の着物に白ッぽい
唐桟の
半纏、
博多の帯、黒八丈の
前垂、
白綾子に菊唐草浮織の
手巾を
頸に巻いたが、
向風に少々鼻下を赤うして、土手からたらたらと坂を下り、
鉄漿溝というのについて
揚屋町の裏の田町の方へ、紺足袋に
日和下駄、後の減ったる
代物、一体なら
此奴豪勢に
発奮むのだけれども、一進が
一十、
二八の二月で工面が悪し、
霜枯から引続き我慢をしているが、とかく気になるという
足取。
ここに
金鍔屋、荒物屋、
煙草屋、損料屋、場末の
勧工場見るよう、狭い店のごたごたと並んだのを通越すと、一
間口に看板をかけて、丁寧に絵にして
剪刀と
剃刀とを
打違え、下に五すけと書いて、
親仁が大
目金を懸けて
磨桶を控え、剃刀の刃を合せている図、目金と玉と桶の水、
切物の刃を
真蒼に塗って、あとは薄墨でぼかした
彩色、これならば高尾の二代目三代目時分の
禿が
使に来ても、一目して
研屋の五助である。
敷居の内は一坪ばかり凸凹のたたき土間。隣のおでん屋の屋台が、軒下から三分が一ばかり
此方の
店前を
掠めた蔭に、
古布子で
平胡坐、
継はぎの膝かけを深うして、あわれ泰山崩るるといえども一髪動かざるべき身の構え。
砥石を前に控えたは
可いが、
怠惰が通りものの、
真鍮の
煙管を
脂下りに
啣えて、けろりと往来を
視めている、つい目と鼻なる敷居際につかつかと入ったのは、
件の若い者、
捨どんなり。
手を懐にしたまま胸を突出し、半纏の袖口を両方
入山形という見得で、
「寒いじゃあねえか、」
「いやあ、お寒う。」
「やっぱりそれだけは感じますかい、」
親仁は大口を
開いて、啣えた煙管を吐出すばかりに、
「ははははは、」
「
暢気じゃあ困るぜ、ちっと精を出しねえな。」
「一言もござりませんね、ははははは。」
「見や、それだから困るてんじゃあねえか。ぼんやり往来を見ていたって、何も落して
行く
奴アありやしねえよ。しかも今時分、よしんば落して行った処にしろ、お前何だ、拾って店へ並べておきゃ札をつけて軒下へぶら下げておくと
同一で、たちまち
鳶トーローローだい。」
「こう、
憚りだが、そんな
曰附の代物は一ツも置いちゃあねえ、
出処の
確なものばッかりだ。」と
件ののみさしを
行火の火入へぽんと
払いた。真鍮のこの煙管さえ、その中に置いたら異彩を放ちそうな、がらくた沢山、
根附、
緒〆の
類。古庖丁、
塵劫記などを取交ぜて、石炭箱を台に、雨戸を
横え、
赤毛布を敷いて並べてある。
「いずれそうよ、出処は
確なものだ。川尻
権守、
溝中長左衛門ね、
掃溜衛門之介などからお
下り遊ばしたろう。」
「
愚哉々々、これ黙らっせえ、
平の捨吉、
汝今頃この処に
来って、憎まれ口をきくようじゃあ、いかさま
地いろが
無えものと見える。」と
説破一番して、五助はぐッとまた
横啣。
平の捨吉これを聞くと、壇の浦没落の
顔色で、
「ふむ、余り殺生が過ぎたから、ここん処精進よ。」と
戸外の方へ目を
反す。狭い町を一杯に、
昼帰を乗せてがらがらがら。
二
あとは
往来がばったり絶えて、魔が通る
前後の寂たる
路かな。
如月十九日の日がまともにさして、土には
泥濘を踏んだ足跡も
留めず、さりながら風は
颯々と冷く吹いて、
遥に高い処で
払をかける。
「
串戯じゃあねえ、」と若い者は立直って、
「
紺屋じゃあねえから
明後日とは
謂わせねえよ。
楼の
妓衆たちから三
挺ばかり来てる
筈だ、もう
疾くに出来てるだろう、大急ぎだ。」
「へいへい。いやまた家業の方は
真面目でございス、捨さん。」
「うむ、」
「出来てるにゃ出来てます、」と膝かけからすぽりと抜けて、
行火を突出しながらずいと立つ。
若いものは心付いたように、ハアトと銘のあるのを吸いつける。
五助は
背後向になって、押廻して三段に釣った棚に向い、右から左のへ三度ばかり目を通すと、無慮四五百挺の
剃刀の中から、箱を二挺、紙にくるんだのを一挺、目方を引くごとく
掌に据えたが、捨吉に差向けて、
「これだ、」
「どれ、」
箱を押すとすッと開いて、
研澄ましたのが
素直に出る、裏書をちょいと
視め、
「こりゃ
青柳さんと、
可し、梅の香さんと、それから、や、こりゃ名がねえが間違やしないか。」
「大丈夫、」
「
確かね。」
「千本ごッたになったって
私が受取ったら安心だ、お持ちなせえ、したが捨さん、」
「なあに、間違ったって剃刀だあ。」
「これ、剃刀だあじゃあねえよ、お
前さん。今日は十九日だぜ。」
「ええ、驚かしちゃあ
不可え、
張店の
遊女に時刻を聞くのと、十五日
過に日をいうなあ、大の禁物だ。年代記にも野暮の骨頂としてございますな。しかも今年は
閏がねえ。」
「いえ、閏があろうとあるまいと、今日は全く十九日だろうな。」と目金越に
覗き込むようにして
謂ったので、捨吉は変な顔。
「どうしたい。そうさ、」
「お
前さん
楼じゃあ構わなかったっけか。」
「何を、」
「剃刀をさ。」
謂うことはのみ込めないけれども、急に改まって五助が真面目だから、聞くのも気がさして、
「剃刀を? おかしいな。」
「おかしくはねえよ。この頃じゃあ大抵
何楼でも承知の筈だに、どうまた気が揃ったか知らねえが、三人が三人取りに
寄越したのはちっと変だ、こりゃお気をつけなさらねえと
危えよ。」
ますます
怪訝な顔をしながら、
「何も変なこたアありやしないんだがね、別に
遊女たちが気を揃えてというわけでもなしさ。しかしあたろうというのは三人や四人じゃあねえ、
遣れるもんなら
楼に居るだけ残らずというのよ。」
「
皆かい、」
「ああ、」
「いよいよ悪かろう。」
「だってお
前、床屋が居続けをしていると思や、不思議はあるめえ。」
五助は
苦笑をして、
「
洒落じゃあないというに。」
「何、洒落じゃあねえ、まったくの話だよ。」と若いものは話に念が
入って、仕事場の前に腰を据えた。
十九日
三
「
昨夜ひけ
過にお
前、威勢よく三人で飛込んで来た、本郷辺の職人
徒さ。今朝になって直すというから
休業は十七日だに変だと思うと、案の定なんだろうじゃあないか。
すったもんだと
捏ねかえしたが、
言種が気に入ったい、総勢二十一人というのが
昨日のこッた、竹の皮包の腰兵糧でもって
巣鴨の養育院というのに出かけて、
施のちょきちょきを
遣ってさ、総がかりで日の暮れるまでに頭の数五
百と六十が処片づけたという奇特な話。
その
崩が豊国へ入って、大廻りに舞台が
交ると上野の
見晴で
勢揃というのだ、それから二
人三人ずつ別れ別れに大門へ
討入で、格子さきで
胄首と見ると
名乗を上げた。
もとよりひってんは知れている、ただは
遁げようたあ言わないから、出来るだけ仕事をさせろ。
愚図々々
吐すと、処々に
伏勢は配ったり、朝鮮伝来の地雷火が仕懸けてあるから、合図の
煙管を
払くが最後、芳原は
空へ飛ぶぜ、と威勢の
好い
懸合だから、一番景気だと帳場でも買ったのさね。
そこで切味の
可いのが入用というので、ちょうどお
前ん
処へ頼んだのが間に合うだろうと、大急ぎで取りに来たんだが、何かね、十九日がどうかしたかね。」
「どうのこうのって、真面目なんだ。いけ
年を
仕って何も万八を
極めるにゃ当りません。」
「だからさ、」
「
大概御存じだろうと思うが、じゃあ知らねえのかね。この十九日というのは厄日でさ。別に
船頭衆が
大晦日の船出をしねえというような
極ったんじゃアありません。
他の同商売にはそんなことは
無えようだが、
廓中のを、こうやって引受けてる、
私許ばかりだから
忌じゃあねえか。」
「はて――ふうむ。」
「見なさる通りこうやって、二
百三百と預ってありましょう。殊にこれなんざあ御銘々使い込んだ手加減があろうというもんだから。そうでなくッたって粗末にゃあ扱いません。またその癖誰もこれを一
挺どうしようと云うのも
無えてッた勘定だけれど、数のあるこッたから、念にゃあ念を入れて毎日一度ずつは調べるがね。
紛失するなんてえ馬鹿げたことはない
筈だが、聞きなせえ、今日だ、十九日というと不思議に一挺ずつ
失くなります。」
「
何が、」と変な目をして、捨吉は
解ったようで
呑込めない。
「何がッたって、預ってる
中のさ。」
「おお、」
「ね、御覧なせえ、不思議じゃアありませんかい。
私もどうやらこうやら
皆様で
贔屓にして、五助のでなくッちゃあ
歯切がしねえと、持込んでくんなさるもんだから、長年居附いて、
婆どんもここで見送ったというもんだ。
先の内もちょいちょい紛失したことがあるにゃあります。けれども何の気も着かねえから、そのたんびに申訳をして、事済みになり/\したんだが。
毎々のことでしょう、気をつけると毎月さ、はて変だわえ、とそれからいつでも寝際にゃあちゃんと、ちゅう、ちゅう、たこ、かいなのちゅ、と遣ります。
いつの間にか失くなるさ、
怪しからねえこッたと、大きに考え込んだ日が何でも四五年前だけれど、忘れもしねえ十九日。
聞きなせえ。
するとその前の月にも
一昨日持って来たとッて、
東屋の
都という人のを
新造衆が取りに来て、」
五助は振向いて
背後の棚、
件の屋台の蔭ではあり、
間狭なり、日は当らず、剃刀ばかりで陰気なのを、目金越に見て
厭な顔。
四
「と、ここから出そうとすると無かろうね。探したが探したがさあ知れねえ。とうとう平あやまりのこっち
凹み、
先方様むくれとなったんだが、しかも何と、その前の晩気を着けて見ておいたんじゃアあるまいか。
持って来たのが十八日、取りに来たのが二十日の朝、
検べたのが前の晩なら、何でも十九日の夜中だね、希代なのは。」
「へい、」と言って、若い者は
巻煙草を口から取る。
五助は
前屈みに目金を寄せ、
「ほら、日が合ってましょう。それから気を着けると、いつかも江戸町のお
喜乃さんが、やっぱり例の紛失で、ブツブツいって
帰ったッけ、
翌日の晩方、わざわざやって来て、
(どうしたわけだか、鏡台の上に、)とこうだ。
私許へ預って、取りに来て
失せたものが、鏡台の上にあるは、いかがでござい。
鏡台の上はまだしもさ、悪くすると十九日には障子の
桟なんぞに乗っかってる内があるッさ。
浮舟さんが
燗部屋に
下っていて、
七日ばかり腰が立たねえでさ、夏のこッた、湯へ
入っちゃあ
不可えと固く留められていたのを、
悪汗が
酷いといって、
中引過ぎに
密ッと
這出して行って湯殿口でざっくり膝を切って、それが
許で亡くなったのも、お
前、剃刀がそこに落ッこちていたんだそうさ。これが十九日、去年の八月知ってるだろう。
その日も一挺紛失さ、しかしそりゃ浮舟さんの
楼のじゃあねえ、確か
喜怒川の緑さんのだ、どこへどう間違って
行くのだか知れねえけれども、
厭じゃあねえか、恐しい。
引くるめて
謂や、こっちも一挺なくなって、
廓内じゃあきっと
何楼かで一挺だけ多くなる勘定だね。御入用のお客様はどなただか早や知らねえけれど、何でも
私が
研澄したのをお持ちなさると見えるて、御念の入った。
溌としちゃあ、お客にまで気を悪くさせるから伏せてはあろうが、お前さんだ、今日は剃刀を
扱わねえことを知っていそうなもんだと思うが、
楼でも気がつかねえでいるのかしら。」
「ええ! ほんとうかい、お
前とは妙に懇意だが、実は昨今だから、……へい?」と顔の筋を動かして、眉をしかめ、目を

ると、この地色の無い若い者は、思わず手に持った箱を、ばったり下に置く。
「ええ、もし、」
「はい。」と目金を向ける、気を打った捨吉も
斉しく振向くと、
皺嗄れた声で、
「お前さん、御免なさいまし。」
敷居際に
蹲った捨吉が、肩のあたりに千草色の
古股引、
垢じみた
尻切半纏、よれよれの三尺、
胞衣かと
怪まれる帽を
冠って、
手拭を首に巻き、引出し附のがたがた箱と、
海鼠形の
小盥、もう一ツ小盥を
累ねたのを両方振分にして
天秤で担いだ、六十ばかりの
親仁、
瘠さらぼい、枯木に目と鼻とのついた姿で、さもさも寒そう。
捨吉は袖を交わして、ひやりとした風、つっけんどんなもの
謂で、
「何だ、」
「はい、もしお寒いこッてござります。」
「
北風のせいだな、こちとらの知ったこッちゃあねえよ。」
「へへへへへ、」と鼻の
尖で
寂しげなる
笑を
洩し、
「もし、
唯今のお話は、たしか
幾日だとかおっしゃいましたね。」
五
五助は目金越に、親仁の顔を
瞻っていたが、
「やあ
作平さんか、」といって、その太わくの
面道具を耳から
捻り取るよう、

ぎはなして膝の上。口をこすって、またたいて、
「飛んだ、まあお珍しい、」と知った中。捨吉間が悪かったものと見え、
「作平さん、かね。」と
低声で口の
裡。
折から、からからと
後歯の
跫音、裏口ではたと
留んで、
「おや、また寝そべってるよ、図々しい、」
叱言は犬か、
盗人猫か、勝手口の戸をあけて、ぴッしゃりと
蓮葉にしめたが、浅間だから
直にもう鉄瓶をかちりといわせて、障子の内に女の
気勢。
「唯今。」
「
帰んなすったかい、」
「お勝さん?」と捨吉は中腰に伸上りながら、
「もうそんな時分かな。」
「いいえ、いつもより小一時間遅いんですよ、」
という時、二枚
立のその障子の引手の
破目から
仇々しい目が二ツ、頬のあたりがほの見えた。
蓋し昼の
間寐るだけに一間の
半を借り受けて、
情事で工面の悪い、荷物なしの
新造が、京町あたりから路地づたいに今頃戻って来るとのこと。
「少し立込んだもんですからね、」
「いや、御苦労様、これから
緩りとおひけに
相成ます?」
「ところが
不可ないの、手が足りなくッて二度の
勤と相成ります。」
「お
出懸か、」と五助。
「ええ、困るんですよ、
昨夜もまるッきり寐ないんですもの、
身体中ぞくぞくして、どうも寒いじゃアありませんか、お婆さん
堪らないから、もう一枚下へ着込んで
行きましょうと思って、おお、寒い。」といってまた鉄瓶をがたりと
遣る。
さらぬだに震えそうな作平、
「何てえ寒いこッてございましょう、ついぞ覚えませぬ。」
「はッくしょい、ほう、」と
呼吸を吹いて、
堪りかねたらしい捨吉続けざまに、
「はッくしょい! ああ、」といって眉を
顰め、
「
噂かな、恐しく手間が取れた、いや、何しろ三挺頂いて帰りましょう。薄気味は悪いけれど、名にし負う捨どんがお使者でさ、しかも
身替を立てる
間奥の一間で長ッ
尻と来ていらあ。手ぶらでも帰られまい。五助さん、ともかくも貰って
行くよ。途中で
自然からこの
蓋が取れて手が切れるなんざ、おっと禁句、」とこの際、障子の内へ聞かせたさに、捨吉相方なしの
台辞あり。
五助はまめだって、
「よくそう
謂いなせえよ、」
「十九日かね、」と内からいう。
「ええ、御存じ、」といいながら、捨吉腰を
伸してずいと立った。
「希代だわねえ。」
「やっぱり何でございますかい、」と作平はこれから話す気、
振かえて、荷を
下し、屋台へ天秤を立てかける。
捨吉はぐいと三挺、懐へ突込みそうにしたが、じっと見て、
「おッと十九日。」
という処へ、荷車が二台、浴衣の洗濯を
堆く積んで、小僧が三人寒い顔をしながら、
日向をのッしりと
曵いて通る。向うの路地の角なる、小さな
薪屋の
店前に、
炭団を乾かした
背後から、子守がひょいと出て、ばたばたと駆けて
行く。大音寺前あたりで
飴屋の
囃子。
紅梅屋敷
六
その荷車と子守の
行違ったあとに、何にもない
真赤な田町の細路へ、捨吉がぬいと出る。
途端にちりりんと
鈴の音、袖に擦合うばかりの処へ、自転車一輛、またたきする間もあらせず、
「危い、」と声かけてまた一輛、あッと
退ると、
耳許へ再び、ちりちり!
土手の方から
颯と来たが、都合三輛か、それ
或は三
羽か、三
疋か、
燕か、兎か、見分けもつかず、波の揺れるようにたちまち見えなくなった。
棒立ちになって、捨吉
茫然と見送りながら、
「何だ、一文も
無え癖に、」
「
汝じゃアあるまいし。」
「や、」
「どうした。」
「へい、」
「近頃はどうだ、ちったあ当りでもついたか、
汝、桐島のお
消に大分執心だというじゃあないか。」
「どういたしまして、」
「少しも御遠慮には及ばぬよ。」
「いえ、
先方へでございます、
旦那にじゃあございません。」
「そうか、いや
意気地の無い
奴だ。」と腹蔵の無い
高笑。
少禿天窓てらてらと、色づきの
好い
顔容、年配は五十五六、
結城の
襲衣に八反の
平絎、
棒縞の
綿入半纏をぞろりと羽織って、
白縮緬の襟巻をした、この旦那と呼ばれたのは、
二上屋藤三郎という遊女屋の亭主で、
廓内の名望家、当時見番の
取締を勤めているのが、今
向の路地の奥からぶらぶらと出たのであった。
界隈の者が呼んで紅梅屋敷という、二上屋の寮は、新築して実にその路地の
突当、
通の
長屋並の屋敷越に遠くちらちらとある
紅は、早や
咲初めた
莟である。
捨吉は
更めて、腰を
屈めて
揉手をし、
「旦那御一所に。」
「おお、これからの、」
という処へ、
萌黄裏の紺看板に二の字を抜いた、
切立の
半被、そればかりは威勢が
可いが、かれこれ七十にもなろうという、
十筋右衛門が
向顱巻。
今一
人、
唐縮緬の帯をお太鼓に結んで、人柄な高島田、風呂敷包を小脇に抱えて、
後前に寮の方から路地口へ。
捨吉はこれを見て、
「や、
爺さん、こりゃ姉さん、」
「ああ、今日はちっとの、
内証に芝居者のお客があっての、実は寮の方で一杯と思って、
下拵に来てみると、困るじゃあねえか、お
前。」
「へい、へい成程。」
「お若が例のやんちゃんをはじめての、騒々しいから
厭だと
謂うわ。じゃあ一晩だけ店の方へ行っていろと謂ったけれど、それをうむという奴かい。また
眩暈をされたり、虫でも
発されちゃあ
叶わねえ。その上お前、ここいらの者に似合わねえ、
俳優というと目の
敵にして嫌うから、そこで何だ。客は
向へ廻すことにして、部屋の方の手伝に爺やとこのお辻をな、」
「へい、へい、へい、成程、そりゃお
前さん方御苦労様。」
「はははは、
別荘に
穴籠の
爺めが、土用干でございますてや。」
「お前さん、今日は。」とお辻というのが愛想の
可い。
藤三郎はそのまま土手の方へ行こうとして、フト
研屋の店を
覗込んで、
「よくお精が出るな。」
「いや、」作平と共に四人の
方を見ていたのが、
天窓をひたり、
「お天気で結構でございます。」
「しかし寒いの。」と藤三郎は懐手で空を仰ぎ、輪
形にずッと

して、
「筑波の方に雲が見えるぜ。」
七
「嘘あねえ。」
と五助はあとでまた額を
撫で、
「怠けちゃあ
不可いと
謂われた日にゃあ、これでちっとは文句のある処だけれど、お精が出ますとおっしゃられてみると、恐入るの門なりだ。
実際また我ながらお怠け遊ばす、
婆どんの居た内はまだ稼ぐ気もあったもんだが、もう
叶わねえ。
人間色気と食気が無くなっちゃあ働けねえ、
飲けで稼ぐという
奴あ、これが少ねえもんだよ、なあ、お勝さん、」と振向いて呼んでみたが、
「もうお出懸けだ、いや、よく
老実に廻ることだ。はははは作平さん、まあ、話しなせえ、誰も居ねえ、何ならこっちへ上って
炬燵に当ってよ、その障子を開けりゃ
可い、はらんばいになって休んで
行きねえ。」
「そうもしてはいられぬがの、通りがかりにあれじゃ、お前さんの話が耳に
入って、少し附かぬことを聞くようじゃけれど、今のその
剃刀の
失せるという日は、確か十九日とかいわしった、」
「むむ、十九日十九日、」と、
気乗がしたように重ね返事、ふと心付いた事あって、
「そうだ、待ちなせえ、今日は十九日と、」
五助は身を
捻って、
心覚、
後ざまに棚なる小箱の上から、
取下した分厚な一
綴の註文帳。
膝の上で、びたりと二つに割って開け、ばらばらと小口を返して、指の
尖でずッと一わたり、目金で見通すと、
「そうそうそう、」といって
仰向いて、
掌で帳面をたたくこと二三度す。
作平もしょぼしょぼとある目で
覗きながら、
「
日切の仕事かい。」
「何、急ぐのじゃあねえけれど、今日中に一
挺私が気で研いで進ぜたいのがあったのよ、つい話にかまけて忘りょうとしたい、まあ、」
「それは邪魔をして気の毒な。」
「飛んでもねえ、
緩りしてくんねえ。何さ、実はお
前、聞いていなすったか、その今日だ。この十九日にゃあ一日仕事を休むんだが、休むについてよ、こう水を
更めて、
砥石を洗って、ここで一挺
念入というのがあるのさ、」
「気に入ったあつらえかの。」
「むむ、今そこへ
行きなすった、あの二上屋の寮が、」
と向うの路地を
指した。
「あ、あ、あれだ、紅梅が見えるだろう、あすこにそのお若さんてって十八になるのが居て、何だ、旦那の大の
秘蔵女さ。
そりゃ見せたいような
容色だぜ、寮は近頃出来たんで、やっぱり女郎屋の
内証で育ったもんだが、人は氏よりというけれど、作平さん、そうばかりじゃあねえね。
お蔭で命を助かった位な
施を受けてるのがいくらもあら。
藤三郎
父親がまた夢中になって可愛がるだ。
少姐の袖に
縋りゃ、抱えられてる
妓衆の証文も、その場で
煙になりかねない
勢だけれど、そこが方便、内に居るお勝なんざ、よく知ってていうけれど、女郎衆なんという者は、ハテ凡人にゃあ分らねえわ。お若さんの
容色が
佳いから
天窓を下げるのが
口惜いとよ。
私あ
鐚一文世話になったんじゃあねえけれど、そんなこんなでお
前、その
少姐が大の
贔屓。
どうだい、こう聞きゃあお
前だって贔屓にしざあなるめえ。死んだ田之助そッくりだあな。」
八
「ところで御註文を格別の
扱だ。今日だけは
他の剃刀を研がねえからね、仕事と
謂や、内じゃあ商売人のものばかりというもんだに因って、一番不浄
除の
別火にして、お若さんのを研ごうと思って。
うっかりしていたが、一挺来ていたというもんだ、いつでもこうさ。
一体十九日の紛失一件は、どうも
廓にこだわってるに
違えねえ。
祟るのは
妓衆なんだからね、
少姐なんざ、
遊女じゃあなし、しかも
廓内に居るんじゃあねえから構うめえと思ってよ。
まあ何にしろ変な訳さ。今に見ねえ、今日もきっと
誰方か取りにござる。いや作平さん、狐千年を
経れば怪をなす、
私が
剃刀研なんざ、商売往来にも目立たねえ
古物だからね、こんな場所がらじゃアあるし、魔がさすと見えます。
そういやあ作平さん、お前さんの
鏡研も時代なものさ、お
互に久しいものだが、どうだ、御無事かね。二階から白井権八の顔でもうつりませんかい。」
その箱と
盥とを
荷った、
痩さらぼいたる作平は、
蓋し江戸市中
世渡ぐさに
俤を残した、鏡を研いで
活業とする
爺であった。
淋しげに
頷いて、
「ところがもし御同様じゃで、」
「御同様

」と五助は日脚を見て仕事に
懸る気、寮の美人の剃刀を研ぐ気であろう。
桶の中で
砥石を洗いながら、慌てたように
謂返した。
「御同様は気がねえぜ、お
前の方にも
曰があるかい。」
「ある段か、お前さん。こういうては何じゃけれど、田町の剃刀研、
私は広徳寺前を右へ寄って、
稲荷町の鏡研、自分達が早や
変化の
類じゃ、へへへへへ。」と
薄笑。
「おやおや、
汝から名乗る
奴もねえもんだ。」と、かっちり、つらつらと石を合せる。
「じゃがお前、東京と代が替って、こちとらはまるで死んだ江戸のお
位牌の姿じゃわ、
羅宇屋の方はまだ
開けたのが出来たけれど、もう
貍穴の狸、梅暮里の
鰌などと
同一じゃて。その癖職人絵合せの一枚
刷にゃ、
烏帽子素袍を着て出ようというのじゃ。」
「それだけになお罪が重いわ。」
「まんざらその
祟に因縁のないことも無いのじゃ、時に十九日の。」
「何か剃刀の
失せるに就いてか、」
「つい四五日前、町内の
差配人さんが、前の溝川の橋を渡って、
蔀を
下した薄暗い店さきへ、顔を出さしったわ。はて、
店賃の御催促。万年町の縁の下へ
引越すにも、
尨犬に
渡をつけんことにゃあなりませぬ。それが早や出来ませぬ
仕誼、一刻も猶予ならぬ
立退けでござりましょう。その儀ならば
後とは申しませぬ、たった今川ン中へ引越しますと
謂うたらば。
差配さん
苦笑をして、狸爺め、
濁酒に
喰い酔って、千鳥足で帰って来たとて、
桟橋を踏外そうという風かい。
溝店のお祖師様と兄弟分だ、
少い内から
泥濘へ踏込んだ
験のない
己だ、と、
手前太平楽を並べる癖に。
御意でござります。
どこまで始末に
了えねえか
数が知れねえ。
可いや、地尻の番太と
手前とは、
己が
芥子坊主の時分から居てつきの厄介者だ。
当もねえのに、毎日研物の荷を担いで、廓内をぶらついて、帰りにゃあ
箕輪の浄閑寺へ廻って、以前
御贔屓になりましたと、
遊女の無縁の塔婆に
挨拶をして来やあがる。そんな奴も
差配内になくッちゃあお祭の時幅が利かねえ。
忰は稼いでるし、稲荷町の差配は店賃の取り立てにやあ
歩行かねえッての、むむ。」と大得意。この時五助はお若の剃刀をぴったりと
砥にあてたが、
哄然として、
「気に入った気に入った、それも贔屓の仁左衛門だい。」
作平物語
九
「ところで聞かっしゃい、
差配さまの
謂うのには、作平、
一番念入に
遣ってくれ、その代り儲かるぜ、十二分のお手当だと、膨らんだ
懐中から、
朱総つき、
錦の袋入というのを一面の。
何でも
差配さんがお
出入の、
麹町辺の御大家の鏡じゃそうな。
さあここじゃよ。十九日に因縁づきは。
憚ってお名前は出さぬが、と
差配さんが謂わっしゃる。
その御大家は今
寡婦様じゃ、まず御後室というのかい。ところでその旦那様というのはしかるべきお侍、もうその頃は金モオルの軍人というのじゃ。
鹿児島戦争の時に大したお手柄があって、馬車に乗らっしゃるほどな御身分になんなされたとの。その方が
少い時よ。
誰もこの
迷ばかりは免れぬわ。やっぱりそれこちとらがお
花主の方に深いのが一人出来て、雨の
夜、雪の夜もじゃ。とどの
詰りがの、床の山で行倒れ、そのまんまずッと引取られたいより
他に、何の
望もなくなったというものかい。居続けの朝のことだとの。
遊女は自分が薄着なことも、髪のこわれたのも気がつかずに、しみじみと
情人の顔じゃ。
窶れりゃ窶れるほど、嬉しいような
男振じゃが、大層
髭が伸びていた。
鏡台の前に坐らせて、
嗽茶碗で
濡した手を、男の顔へこう懸けながら、
背後へ廻った、とまあ思わっせえ。
遊女は、胸にものがあってしたことか。わざと八寸の
延鏡が鏡
立に据えてあったが、男は映る顔に目も放さず。
うしろから肩越に気高い顔を一所にうつして、
遊女が死のうという気じゃ。
あなた、私の心が見えましょう、と
覗込んだ時に、ああ、堪忍しておくんなさい、とその鏡を取って
俯向けにして、男がぴったりと自分の胸へ
押着けたと。
何を他人がましい、あなた、と肩につかまった女の手を、
背後ざまに
弾ねたので、うんにゃ、愚痴なようだがお前には
怨がある。
母様によく
肖た顔を、ここで見るのは申訳がないといって、がっくり俯向いて
男泣。
遊女はこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかという
痩せた指で、
剃刀を握ったまま、顔の色をかえて、ぶるぶると震えたそうじゃが、
突然逆手に持直して、何と、
背後からものもいわずに、男の
咽喉へ
突込んだ。」
五助は剃刀の
平を指で
圧えたまま、ひょいと手を留めた。
「おお、
危え。」
「それにの、刃物を刺すといや、針さしへ針をさすことより心得ておらぬような
婦人じゃあなかった。
俺あ
遊女の名と坂の名はついぞ覚えたことは
無えッて、
差配さんは忘れたと
謂わッしたっけ。その遊女は本名お縫さんと謂っての、御大身じゃあなかったそうじゃが、
歴とした旗本のお嬢さんで、お
邸は番町辺。
何でも徳川様
瓦解の時分に、
父様の方は上野へ
入んなすって、お前、お嬢さんが
可哀そうにお邸の前へ
茣蓙を敷いて、
蒔絵の重箱だの、お
雛様だの、
錦絵だのを売ってござった、そこへ通りかかって両方で見初めたという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。
それが物変り星移りの、講釈のいいぐさじゃあないが、有為転変、芳原でめぐり
合、という深い
交情であったげな。
牛込見附で、
仲間の乱暴者を一
人、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという
手利なお嬢さんじや、
廓でも
一時四辺を払ったというのが、思い込んで剃刀で突いた
奴。」
「ほい。」
十
「男はまるで油断なり、万に一つも助かる
生命じゃあなかったろうに、御運かの。
遊女は気がせいたか、少し
狙がはずれた処へ、その胸に伏せて、うつむいていなすった、鏡で、かちりとその、剃刀の刃が留まったとの。
私はどちらがどうとも
謂わぬ。
遊女の
贔屓をするのじゃあないけれど、思詰めたほどの事なら、遂げさしてやりたかったわ、それだけ心得のある
婦人が、仕損じは、まあ、どうじゃ。」
「されば、」
「その代り返す手で、我が
咽喉を
刎ね切った
遊女の姿の見事さ!
口惜しい、口惜しい、可愛いこの人の顔を
余所の
婦人に見せるのは口惜しい! との、唇を
噛んだまま、それなりけり。
全く鏡を見なすった時に、はッと我に返って、もう悪所には来まいという、
吃とした心になったのじゃげな。
容子で悟った
遊女も目が高かった。男は煩悩の雲晴れて、はじめて拝む
真如の月かい。
生命の親なり智識なり、とそのまま頂かしった、鏡がそれじゃ。はて
総つき錦の袋入はその
筈じゃて、お家に取っては、宝じゃものを。
念を入れて仕上げてくれ、近々にその後室様が、実の
児よりも可愛がっておいでなさる、
甥御が
一方。悪い茶も飲まずに、さる立派な学校を卒業なされた。そのお祝に、御教訓をかねてお
遣物になさるつもり、まずまあ早くいってみりゃ、油断が起って
女狂、つまり
悪所入などをしなさらぬようにというのじゃ。
作平頼む、と
差配さんが置いて
行かれた。
畏り奉るで、
昨日それが出来て、差配さんまで差出すと、
直に麹町のお
邸とやらへ
行かしった。
点火頃に帰って来て、作、喜べと大枚三両。これはこれはと
心から辞退をしたけれども、いや
先方様でも大喜び、実は鏡についてその話のあったのは、
御維新になって八年、霜月の十九日じゃ。月こそ違うが、日は
同一、ちょうど昨日の話で今日、
更めてその甥御様に送る間にあった、ということで、
研賃には多かろうが、一杯飲んでくれと、こういうのじゃ。
頂きます頂きます、
飲代になら百両でも御辞退
仕りまする儀ではござりませぬと、さあ飲んだ、飲んだ、
昨夜一晩。
ウイか何かでなあ五助さん、考えて見ると成程な、その大家の旦那がすっかり改心をなされた、こりゃ至極じゃて。
お
連合の今の後室が、忘れずに、大事にかけてござらっしゃる、お
心懸も
天晴なり、来歴づきでお宝物にされた鏡はまた錦の袋入。こいつも
可いわい。その
研手に
私をつかまえた差配さんも気に入ったり、研いだ作平もまず可いわ。立派な身分になんなすった甥御も
可し。
戒のためと
謂うて、遣物にさっしゃる趣向も受けた。手間じゃない飲代にせいという文句も可しか、酒も可いが、五助さん。
その発端になった、旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ
遊女の身になって
御覧じろ、またこのくらいよくない話はあるまい。
迷じゃ、迷は迷じゃが、自分の可愛い男の顔を、
他の
婦人に見せるのが
厭さに、とてもとあきらめた処で、殺して死のうとまで思い詰めた、心はどうじゃい。
それを考えれば酒も
咽喉へは通らぬのを、いやそうでない。
魂魄この
土に
留まって、浄閑寺にお
参詣をする
私への礼心、無縁の信女達の総代に麹町の宝物を稲荷町までお遣わしで、
私に一杯振舞うてくれる気、と、早や、手前勝手。飲みたいばかりの理窟をつけて、さて、
煽るほどに、けるほどに、五助さん、どうだ。
私の顔色の悪いのは、お
憚りだけれど今日ばかりは貧乏のせいでない。三年目に一度という二日酔の上機嫌じゃ、ははは。」とさも快げに見えた。
夕空
十一
時に五助は
反故紙を
扱いて
研ぎ
澄した
剃刀に
拭をかけたが、持直して
掌へ。
折から夕暮の
天暗く、筑波から出た雲が、早や屋根の上から
大鷲の
嘴のごとく田町の空を
差覗いて、一しきり
烈しくなった
往来の人の姿は、ただ黒い影が
行違い、入乱るるばかりになった。
この際
一際色の濃く、
鮮かに見えたのは、屋根越に遠く見ゆる紅梅の花で、二上屋の寮の西向の
硝子窓へ、たらたらと流るるごとく、横雲の
切目からとばかりの間、夕陽が映じたのである。
剃刀の刃は
手許の暗い中に、青光三寸、
颯々と音をなして、骨をも切るよう皮を
辷った。
「これだからな、自慢じゃあねえが悪くすると人ごろしの得物にならあ。ふむ、それが十九日か。」といって少し
鬱ぐ。
「そこで久しぶりじゃ、
私もちっと冷える気味でこちらへ
無沙汰をしたで、また心ゆかしに
廓を一
廻、それから例の
箕の
輪へ行って、どうせ
苔の下じゃあろうけれど、ぶッつかり放題、そのお嬢さんの墓と思って挨拶をして来ようと、ぶらぶら内を出て来たが。
お
極りでお
前ン
許へお邪魔をすると、不思議な話じゃ。あと
前はよく分らいでも、十九日とばかりで聞く耳が立ったての。
何じゃ知らぬが、日が違わぬから、こりゃものじゃ。
五助さん、お
前の許にもそういうかかり
合があるのなら、悪いことは
謂わぬ、お題目を唱えて進ぜなせえ。
つい話で遅くなった。やっとこさと、今日はもう箕の輪へだけ廻るとしよう。」と謂うだけのことを謂って、作平は早や腰を
延そうとする。
トタンにがらがらと
腕車が一台、目の前へ
顕れて、
人通の中を
曵いて通る時、
地響がして土間ぐるみ五助の
体はぶるぶると
胴震。
「ほう、」といって、
俯向いていたぼんやりの顔を上げると、目金をはずして、
「作平さん、お前は
怨だぜ、そうでなくッてさえ、今日はお
極りのお客様が無けりゃ
可いが、と朝から
父親の精進日ぐらいな気がしているから、
有体の処腹の
中じゃお題目だ。
唱えて進ぜなせえは聞えたけれど、お
前、
言種に事を欠いて、
私が
許をかかり
合は、
大に打てらあ。いや、もうてっきり疑いなし、毛頭違いなし、お旗本のお嬢さん、どうして
堪るものか。話のようじゃあ念が残らねえでよ、七代までは
祟ります、むむ祟るとも。
串戯じゃあねえ、どの道何か
怨のある
遊女の幽霊とは思ったけれど、
何楼の何だか
捕えどこのねえ内はまだしも気休め。そう日が合って剃刀があって、当りがついちゃあ
叶わねえ。
そうしてお
前、
咽喉を突いたんだっていったじゃあねえか。」
「これから、これへ、」と作平は
垢じみた細い
皺だらけの
咽喉仏を
露出して、
握拳で仕方を見せる。
五助も我知らず、ばくりと口を
開いて、
「ああ、ああ、さぞ、血が出たろうな、血が、」
「そりゃ出たろうとも、たらたらたら、」と胸へ
真直に棒を引く。
「うう、そして
真赤か。」
「黒味がちじゃ、
鮪の
腸のようなのが、たらたらたら。」
「
止しねえ、何だなお
前、それから
口惜いッて歯を
噛んで、」
「
怨死じゃの。こう髪を
啣えての、
凄いような美しい
遊女じゃとの、
恐いほど品の
好いのが、それが、お前こう。」と口を
歪める。
「おお、おお、苦しいから
白魚のような手を
掴み、足をぶるぶる。」と五助は自分で
身悶して、
「そしてお
前、
死骸を見たのか。」
「何を謂わっしゃる、
私は話を聞いただけじゃ。
遊女の名も知りはせぬが。」
五助は目を

ってホッと
呼吸、
「何の事だ、まあ、おどかしなさんない。」
十二
作平も苦笑い、
「だってお前が、おかしくもない、血が赤いかの、指をぶるぶるだの、と謂うからじゃ。」
「目に見えるようだ。」
「
私もやっぱり。」
「見えるか、ええ?」
「まずの。」
「何もそう幽霊に親類があるように落着いていてくれるこたあねえ、これが
同一でも、おばさんに雪責にされて死んだとでもいう
脆弱い
遊女のなら、五助も男だ。こうまでは驚かねえが、旗本のお嬢さんで、手が利いて、
中間を一人もんどり打たせたと聞いちゃあ身動きがならねえ。
作平さん、こうなりゃお
前が
対手だ、放しッこはねえぜ。
一升買うから、後生だからお前今夜は泊り
込で、
炬燵で附合ってくんねえ。一体ならお勝さんが休もうという日なんだけれど、限って出てしまったのも容易でねえ。
そうかといって、宿場で厄介になろうという
年紀じゃあなし、無茶に
廓へ入るかい、かえって敵に
生捉られるも同然だ。夜が更けてみな、油に燈心だから
堪るめえじゃねえか、恐しい。
名代部屋の天井から
忽然として剃刀が
天降ります、
生命にかかわるからの。よ、隣のは筋が
可いぜ、はんぺんの煮込を御厄介になって、別に厚切な
鮪を取っておかあ、船頭、
馬士だ、お前とまた昔話でもはじめるから、」と目金に恥じず
悄げたりけり。
作平が
悦喜斜ならず、
嬉涙より
真先に水鼻を
啜って、
「話せるな、酒と聞いては足腰が立たぬけれども、このままお
輿を据えては例のお
花主に相済まぬて。」
「それを言うなというに。無縁塚をお
花主だなぞと、とかく魔の物を
知己にするから悪いや、で、どうする。」
「もう遅いから廓
廻は見合せて直ぐに箕の輪へ行って来ます。」
「むむ、それもそうさの。
私も信心をすみが、お
前もよく拝んで御免
蒙って来ねえ。廓どころか、浄閑寺の方も一
走が
可いぜ。とても
独じゃ
遣切れねえ、荷物は
確に預ったい。」
「何か
私も
旨え
乾物など見付けて提げて来よう、待っていさっせえ。」と作平はてくてく出かけて、
「こんなに
人通があるじゃないかい。」
「うんや、ここいらを
歩行くのに
怨霊を
得脱させそうな
頼母しい道徳は一人も居ねえ。それに一しきり一しきりひッそりすらあ、またその時の寂しさというものは、まるで時雨が
留むようだ。」
作平は空を仰いで、
「すっかり曇って暗くなったが、この陽気はずれの寒さでは、」
五助
慌しく。
「白いものか、禁物々々。」
点灯頃
十三
「はい、はい、はい、
誰方だい。」
作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目の
行くさきも薄暗いが、さて見廻すと
居廻はなおのことで、もう
点灯頃。
物の色は分るが、思いなしか陰気でならず、いつもより
疾く
洋燈をと思う処へ、大音寺前の方から
盛に
曳込んで来る乗込客、今度は五六台、引続いて三台、四台、しばらくは引きも切らず、がッがッ、
轟々という音に、
地鳴を
交えて、慣れたことながら腹にこたえ、大儀そうに、と眺めていたが、やがて途絶えると裏口に
気勢があった。
五助はわざと大声で、
「お勝さんかね、……何だ、隣か、」と投げるように
呟いたが、
「あれ、お上んなせえ、構わずずいと入るべし、誰方だね。」
耳を
澄して、
「畜生、この間もあの
術で驚かしゃあがった、
尨犬め、しかも真夜中だろうじゃあねえか、トントントンさ、誰方だと聞きゃあ
黙然で、
蒲団を
引被るとトントンだ、誰方だね、
黙りか、またトンか、びッくりか、トンと来るか。とうとう
戸外から廻ってお隣で御迷惑。どのくらいか
臆病づらを下げて、
極の悪い
思をしたか知れやしねえ、畜生め、
己が臆病だと思いやあがって、」と
中ッ
腹でずいと立つと、不意に膝かけの口が足へからんだので、
亀の
子這。
じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついて
躙り
上ると、
件の障子を
密と開けたが、早や次の間は
真暗がり。足をずらしてつかつかと出ても、
馴れて畳の
破にも
突かからず、台所は横づけで、長火鉢の前から手を
伸すとそのまま取れる
柄杓だから、並々と一杯、
突然天窓から
打かぶせる気、お勝がそんな家業でも、さすがに
婦人、びったりしめて行った水口の戸を、がらりと開けて、
「畜生!」といったが拍子抜け、犬も何にも居ないのであった。
首を出して

わすと、がさともせぬ裏の
塵塚、そこへ潜って
遁げたのでもない。
彼方は黒塀がひしひしと、
遥に一
並、一ツ折れてまた一並、三階の部屋々々、棟の数は多いけれど、まだいずくにも灯が入らず、
森として
三味線の
音もしない。ただ遥に
空を
衝いて、雲のその
夜は
真黒な中に、暗緑色の
燈の陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の
突立ったようなのは、二上屋の常燈である。
五助は半身水口から突出して立っていたが、
頻に
後見らるるような気がして
堪らず、柄杓をぴっしゃり。
「ちょッ、」と舌打、振返って、暗がりを
透すと、明けたままの障子の中から仕切ったように
戸外の人どおり。
やがて
旧の仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。
「おや、変だぜ。」
五助は片膝立て、中腰になり、四ツに
這いなどして
掻探り、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、
「はてな、
先刻ああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。」
正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の
女お若の
剃刀を、どこへか置忘れてしまったのであった。
「
懐中へは入れず、」といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。
しばらくして、
「まさか棚へ、」と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処を
裾にして、
扱帯の上あたりで
褄を取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉の
鮮かな鼻筋の通った、
真白な頬に
鬢の毛の乱れたのまで、
判然と見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が
鴨居にも
支えそうなのが、じっと
此方を見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。
「五助さん、」と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、
肉つき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けた
蒼ざめた
掌に、毒蛇の
鱗の輝くような一
挺の剃刀を挟んでいて、
「これでしょう、」
五助はがッと耳が
鳴た、頭に響く声も
幽に、山あり川あり野の末に、糸より細く聞ゆるごとく、
「不浄
除けの別火だとさ、ほほほほほ、」
わずかに解いた唇に、
艶々と
鉄漿を含んでいる、幻はかえって
目前。
「わッ」というと
真俯向、五助は人心地あることか。
「横町に一ツずつある芝の海さ、見や、長屋の中を突通しに
廓が見えるぜ。」
とこの際
戸外を
暢気なもの。
「や! 雪だ、雪だ。」と
呼わったが、どやどやとして、学生あり、大へべれけ、雪の進軍氷を踏んで、と
哄とばかりになだれて通る。
雪の門
十四
宵に
一旦ちらちらと降ったのは、垣の
結目、板戸の端、
廂、
往来の人の頬、
鬢の毛、帽子の
鍔などに、さらさらと音ずれたが、やがて声はせず、さるものの降るとも見えないで、木の
梢も、屋の棟も、敷石も、溝板も、何よりはじまるともなしに白くなって、
煙草屋の店の
灯、おでんの
行燈、車夫の
提灯、いやしくもあかりのあるものに、一しきり一しきり、綿のちぎれが
群って、
真白な
灯取虫がばたばた羽をあてる風情であった。
やがて、初夜すぐるまでは、縦横に乱れ合った足駄
駒下駄の
痕も、次第に二ツとなり、三ツとなり、わずかに
凹を残すのみ、車の
轍も
遥々と長き一条の
名残となった。
おうおうと
遠近に
呼交す人声も早や聞えず、辻に
彳んで半身に雪を
被りながら、揺り落すごとに上衣のひだの黒く
顕れた巡査の姿、
研屋の店から八九間さきなる軒下に
引込んで、三島神社の
辺から大音寺前の
通、田町にかけてただ一白。
折から
颯と渡った風は、はじめ最も低く地上をすって、雪の
上面を
撫でてあたかも
篩をかけたよう、一様に
平にならして、人の
歩行いた路ともなく、夜の色さえ
埋み消したが、見る見る垣を
亙り、軒を吹き、廂を
掠め、梢を鳴らし、一陣たちまち
虚蒼に拡がって、ざっという音
烈しく、丸雪は小雪を誘って、八方十面降り乱れて、
静々と落ちて来た。
紅梅の咲く頃なれば、かくまでの雪の
状も、
旭とともに霜より
果敢なく消えるのであろうけれど、
丑満頃おいは
都のしかも
如月の末にあるべき現象とも覚えぬまでなり。何物かこれ、この大都会を襲って、紛々
皚々の陣を敷くとあやまたるる。
さればこそ、高く竜燈の
露れたよう二上屋の棟に
蒼き光の流るるあたり、よし原の電燈の
幽に映ずる空を
籠めて、きれぎれに
冴ゆる三絃の糸につれて、
高笑をする女の声の、
倒に田町へ崩るるのも、あたかもこの土の色の変った機に乗じて、
空を
行く
外道変化の
囁かと
物凄い。
十二時
疾くに過ぎて、一時前後、雪も風も最も烈しい頃であった。
吹雪の下に沈める声して、お若が寮なる紅梅の
門を
静に
音信れた者がある。
トン、トン、トン、トン。
「はい、今開けます、
唯今、々々、」と内では、うつらうつらとでもしていたらしい、眠け
交りのやや
周章てた声して、
上框から手を
伸した様子で、掛金をがッちり。
その時
戸外に立ったのが、
「お待ちなさい、
貴方はお
宅の方なんですか。」と、ものありげに言ったのであるが、何の気もつかない風で、
「はい、あの、杉でございます。」と、あたかもその眠っていたのを、詫びるがごとき
口吻である。
その
間になお声をかけて、
「宜いんですか、開けても、夜がふけております。」
「へい、……、」ちと変った
言ぐさをこの時はじめて気にしたらしく、杉というのは、そのままじっとして手を控えた。
小留のない雪は、軒の下ともいわず浴びせかけて
降しきれば、男の姿はありとも見えずに、風はますます吹きすさぶ。
十五
「杉、
爺やかい。」とこの時に奥の
方から、風こそ
荒べ、雪の
夜は天地を沈めて
静に更け
行く、畳にはらはらと
媚めく
跫音。
端近になったがいと
少く
清しき声で、
「辻が帰っておいでかい。」
「あれ、」と
低声に
年増が制して、
門なる
方を
憚る
気勢。
「
可かったら開けて下さい、こっちにお
知己の者じゃあないんです、」
「…………」
「この
突当の
家で聞いて来たんですが、紅梅屋敷とかいうのでしょう。」
「はい、あの
誰方様で、」
「いえ、御存じの者じゃアありませんが、すこし頼まれて来たんです、構いません、ここで言いますから、あのね。」
「お開けよ。」
「…………」
「こっちへさあ。
可いわ、」
ここにおいて、
「まあ、お入りなさいまし。」と半ば
圧えていた格子戸をがらりと開けた。
框にさし置いた
洋燈の光は、ほのぼのと一筋、戸口から雪の中。
同時に身を開いて一足あとへ、体を斜めにする
外套を
被た人の姿を映して、
余の
明は、
左手なる前庭を仕切った袖垣を白く描き、枝を
交えた紅梅にうつッて、間近なるはその
紅の
莟を
照した。
けれども、その最もよく明かに且つ美しく照したのは、雪の風情でなく、花の色でなく、お杉がさした
本斑布の
櫛でもない。濃いお納戸地に
柳立枠の、
小紋縮緬の羽織を着て、下着は知らず、
黒繻子の襟をかけた
縞縮緬の着物という、寮のお若が派手姿と、障子に片手をかけながら、身をそむけて立った脇あけをこぼるる
襦袢と、指に輝く
指環とであった。
部屋
働のお杉は
円髷の
頭を下げ、
「どうぞ、
貴下、」
「それでは、」と身を進めて、さすがに堪え難うしてか、飛込む
勢。
中折の帽子を
目深に、洋服の上へ着込んだ外套の色の、黒いがちらちらとするばかり、しッくい叩きの土間も、
研出したような
沓脱石も、一面に雪紛々。
「大変でございますこと、」とお杉が思わず、さもいたわるように言ったのを聞くと、
吻とする
呼吸をついて、
「ああ、乱暴だ。失礼。」と
身震して、とんとんと軽く靴を踏み、中折を取ると柔かに乱れかかる額髪を払って、色の白い耳のあたりを
拭ったが、
年紀のころ二十三四、眉の
鮮かな目附に品のある美少年。殊にものいいの
判然として
訛のないのは
明にその品性を語り得た。お杉は一目見ると、直ちにかねて信心の成田様の
御左、
矜羯羅童子を夢枕に見るような心になり、
「さぞまあ、ねえ、どうもまあ、」とばかり
見惚れていたのが、
慌しく心付いて、庭下駄を
引かけると客の
背後へ
入交って、吹雪込む
門の戸を
二重ながら手早くさした。
「直ぐにお
暇を。」
「それでも吹込みまして大変でございますもの。」
と見るとお若が、手を障子にかけて
先刻から立ったままぼんやり
身動もしないでいる。
「お若さん、御挨拶をなさいましなね、」
お若は
莞爾して何にも言わず、
突然手を
支えて、ばッたり
悄れ伏すがごとく坐ったが、透通るような
耳許に
颯と
紅。
髷の根がゆらゆらと、身を
揉むばかりさも他愛なさそうに笑ったと思うと、フイと立ってばたばたと見えなくなった。
客は
手持無沙汰、お杉も
為ん
術を心得ず。とばかりありて、次の
室の
襖越に、勿体らしい
澄したものいい。
「杉や、長火鉢の処じゃあ失礼かい。」
十六
「いいえ、
貴下失礼でございますが、別にお座敷へ何いたしますと、寒うございますから。そしてこれをお羽織んなさいまし、気味が悪いことはございません、
仕立ましたばかりでございます。」と裏返しか、新調か、知らず筋糸のついたままなる、
結城の
棒縞の
寝ね
子半纏。
被せられるのを、
「何、そんな、」とかえって
剪賊に出逢ったように、肩を
捻るほどなおすべりの
可い花色裏。雪まぶれの外套を脱いだ寒そうで
傷々しい、
背から苦もなくすらりと
被せたので、洋服の上にこの
広袖で、長火鉢の前に
胡坐したが、大黒屋
惣六に
肖て
否なるもの、S. DAIKOKUYA という風情である。
「どうしてこんな晩に、
遊女がお帰しなすったんですねえ、
酷いッたらないじゃアありませんか、ねえお若さん。あら、どうも
飛でもない、火をお吹きなすっちゃあ
不可ません、飛でもない。」
と
什麼こうすりゃ何とまあ? 花の唇がたちまち変じて、鳥の
嘴にでも化けるような、部屋働の驚き方。お若は美しい眉を
顰めて、
澄して、雪のような頬を火鉢のふちに
押つけながら、
「消炭を取っておいで、」
「
唯今何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、
少姐さんのお部屋でついお
心易立にお
炬燵を拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、」
「つい眠くなったじゃあないか、」とお若は
莞爾する。
「それでも今夜のように、ふらふら
睡気のさすったらないのでございますもの。」
「お
極だわ。」
「
可哀相に、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、
現でございましたの。」
「私もうとうとしていたから、どんなにお待ちなすったか知れないねえ。ほんとうに貴下、こんな晩に帰しますような処へは、もういらっしゃらない方が
可うございますわ。構やしません、そんな
遊女は一晩の内に
凍砂糖になってしまいます。」と真顔でさも思い入ったように言った。お若はこの人を
廓なる母屋の客と思込んだものであろう。
「私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。」
「お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、」
「別に隠しなんぞするものか。
しかし飛んだ御厄介になりました、見ず知らずの者が夜中に起して、何だか気が
咎めたから入りにくくッていたんだけれど、深切にいっておくんなさるから、白状すりや
渡に舟なんで、どうも凍えそうで
堪らなかった。」
と語るに、ものもいいにくそうな初心な
風采、お杉はさらぬだに信心な処、しみじみと本尊の顔を
瞻りながら、
「そう言えばお顔の色も悪いようでございます、あのちょうど取ったのがございますから、熱くお
澗をつけましょうか。」
「
召あがるかしら、」とお若は部屋ばたらきを顧みて、これはかえってその下戸であることを知り得たるがごとき口ぶりである。
「どうして、酒と聞くと
身震がするんだ、どうも、」
と言いながら顔を上げて、座右のお杉と、
彼方に目の覚めるようなお若の姿とを
屹と見ながら、
明い
洋燈と、今青い
炎を上げた炭とを、嬉しそうに打眺めて、またほッといきをついて、
「私を変だと思うでしょう。」
十七
「自分でも何だか夢を見てるようだ。いいえ薬にも及ばない、もう
可いんです。何だね、ここは二上屋という吉原の寮で、お前さんは、女中、ああ、そうして姉さんはお若さん?」
「はい、さようでございます。」とお若はあでやかに
打微笑む。
「ええと、ここを出て突当りに
家がありますね、そこを通って左へ
行くと、こう坂になっていましょうか、そう、そこから
直に大門ですか、そう、じゃあ分った、姉さん、」とお若の方に向直った。
「姉さんに届けるものがあるんです、」といいながらお杉に向い、
「確か
廓へ入ろうという土手の手前に、こっちから
行くと坂が一ツ。」
打頷けば頷いて、
「もう分った、そこです、その坂を上ろうとして、雪にがっくり、
腕車が
支えたのでやっと目が覚めたんだ。」
この日
脇屋欽之助が
独逸行を送る宴会があった。
「実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから、方々の杯の
目的にされたんで、大変に酔っちまってね。横になって寝てでもいたろうか、帰りがけにどこで腕車に乗ったんだか、まるで夢中。
もっとも待たしておく
筈の腕車はあったんだけれども、一体内は
四ツ
谷の方、あれから
下谷へ駆けて来た途中、お茶の水から外神田へ曲ろうという、角の時計台の見える処で、鉄道馬車の線路を横に切れようとする
発奮に、荷車へ突当って、片一方の輪をこわしてしまって、投出されさ。」
「まあ、お危うございます、」
「ちっと
擦剥いた位、
怪我も何もしないけれども。
それだもんだから、辻車に
飛乗をして、ふらふら眠りながら来たものと見えます。
お話のその土手へ
上ろうという坂だ。しっくり
支えたから、はじめて気がついてね、見ると驚いたろうじゃあないか。いつの間にか
四辺は
真白だし、まるで野原。右手の方の空にゃあ半月のように雪空を
劃って電燈が映ってるし、今度
行こうという、その遠方の都の冬の処を、夢にでも見ているのじゃあるまいかと思った。
それで、御本人はまさしく日本の
腕車に乗ってさ、笑っちゃあ
不可い車夫が日本人だろうじゃあないか。雪の積った
泥除をおさえて、どこだ、若い衆、どこだ、ここはツて、聞くと、
御串戯もんだ、と言うんです。
四ツ谷へ帰るんだッてね、少し
焦れ込むと、まあ
宜うがすッさ、お聞きよ。
馬鹿にしちゃ
可かん、と言って、
間違の
原因を尋ねたら、何も
朋友が
引張って来たという訳じゃあなかった。腕車に乗った時は私一人雪の降る中をよろけて来たから、ちょうど伊藤松坂屋の前の処で、旦那召しまし、と言ったら、ああ
遣ってくれ、といって乗ったそうだ。
遣ってくれと言うから、
廓へ
曳いて来たのに不思議はありますまいと
澄したもんです。議論をしたっておッつかない。吹雪じゃアあるし、何でも可いから
宅まで曳いてッておくれ、お礼はするからと、私も困ってね。
頼むようにしたけれど、ここまで参ったのさえ大汗なんで、とても坂を
上って四ツ谷くんだりまでこの雪に
行かれるもんじゃあない。
箱根八里は馬でも越すがと、茶にしていやがる。それに今夜ちっと
河岸の方とかで泊り
込という寸法があります、何ならおつき合なさいましと、傍若無人、じれッたくなったから、
突然靴だから飛び下りたさ。」
二人使者
十八
欽之助は茶一碗、
霊水のごとくぐっと干して、
「お恥かしいわけだけれど、実は上野の方へ出る方角さえ分らない。芳原はそこに見えるというのに、車一台なし、人ッ子も通らない。聞くものはなし、一体何時頃か知らんと、時計を出そうとすると、おかしい、
掏られたのか、落したのか、鎖ぐるみなくなっている。時間さえ分らなくなって、しばらくあの坂の下り口にぼんやりして立っていた。
心細いッたらないのだもの、おまけに目もあてられない吹雪と来て、
酔覚じゃあり、寒さは寒し、四ツ谷までは百里ばかりもあるように思ったねえ。そうすると何だかまた夢のような心持になってさ。生れてはじめて
迷児になったんだから、こりゃ自分の
身体はどうかいうわけで、こんなことになったのじゃあなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、
恐くなったんです。
ただ
車夫に間違えられたばかりなら、雪だっても今
帷子を着る時分じゃあなし、ちっとも不思議なことは無いんだけれども。
気になるのは、昼間
腕車が壊れていましょう、それに、伊予紋で座が
定って、杯の
遣取が二ツ三ツ、私は五酌上戸だからもうふらついて来た時分、女中が耳打をして、玄関までちょっとお顔を、是非お目にかかりたい、という方があるッてね。つまり呼出したものがあるんだ。
灯がついた時分、玄関はまだ暗かった、宅で用でも出来たのかと、何心なく女中について、中庭の
歩を越して玄関へ出て見ると、叔母の
宅に世話になって、
従妹の
書物なんか教えている婦人が来て立っていました。
先刻奥さんが、という、叔母のことです。四ツ谷のお宅へいらっしゃると、もうお出かけになりましたあとだそうです。お約束のものが
昨日出来上って参りましたものですから、それを
貴下にお贈り申したいとおっしゃって、お持ちなすったのでございますが、お留守だというのでそのまま持ってお帰りなすって、あの
児のことだから、大丈夫だろうとは思うけれど、そうでもない、お
朋達におつき合で、
他ならば
可いが、芳原へでも
行くと危い。お出かけさきへ行ってお渡し申せ、とこれを私にお預けなさいましたから、腕車で大急ぎで参りました。
何でも広徳寺前
辺に居る、名人の
研屋が研ぎましたそうでございますからッてね、紫の
袱紗包から、
錦の袋に入った、八寸の鏡を出して、何と料理屋の玄関で渡すだろうじゃありませんか。」と少年は一
呼吸ついた。お若と女中は、耳も放さず目も放さず。
「鏡の来歴は叔母が口癖のように話すから知っています。何でも叔父がこの
廓で道楽をして、命にも障る処を、そのお
庇で人らしくなったッてね。
私も決して良い処とは思わないけれども、大抵様子は分ってるが、叔母さんと来た日にゃあ、若い者が芳原へ入れば、そこで
生命がなくなるとばかり信じてるんだ。
その人に甘やかされて、子のようにして可愛がられて育った私だから、失礼だが、様子は知っていても廓は恐しい処とばかり思ってるし、叔母の気象も知ってるんだけれども、どうです、いやしくも飲もうといって、
少い豪傑が
手放で揃ってる、しかも
艶なのが、まわりをちらちらする処で、御意見の鏡とは何事だ。
そうして懐へ入れて持って帰れと来た日にゃあ、私は
人魂を
押つけられたように気が
滅入った。
しかもお使番が女教師の、おまけに大の
基督教信者と来ては助からんねえ。」
打微笑み、
「相済まんがどうぞ
宅の方へお届けを、といって平にあやまると、
使の婦人が、私も主義は違っております。かようなものは信じませんが、
貴君を
心から思召していらっしゃる方の志は通すもんです。私もその御深切を感じて、喜んで参りました位です、こういうお使は生れてからはじめてです、と
謂った。こりゃ誰だって、全くそう。」
十九
「しかし土手下で雪に道を遮られて帰る
途さえ分らなくなった時思出して、ああ、あれを頂いて持っていたら、こんな出来事が無かったのかも知れない。考えて見ればいくら叔母だって、わざわざ伊予紋まで鏡を
持して
寄越すってことは容易でない。それを持して寄越したのも何かの前兆、私が受取らないで女の先生を帰したのも、
腕車の
破れたのも、車夫に間違えられたのも、来よう
筈のない、芳原近くへ来る約束になっていたのかも知れないと、くだらないことだが、
悚としたんだね。
もっとも、その時だって、
天窓からけなして受けなかったのじゃあない、懐へでも入れば受取ったんだけれども、」
我が胸のあたりをさしのぞくがごとくにして、
「こんな
扮装だから困ったろうじゃありませんか。
叔母には受取ったということに繕って、
密と
貴女から四ツ谷の方へ届けておいて下さいッて、頼んだもんだから、
少い
夜会結のその先生は、不心服なようだッけ、それでは、腕車で直ぐ、お宅の方へ、と謂って帰っちまったんですよ。
あとは
大飲。
何しろ土手下で目が覚めたという始末なんですから。
それからね。
何でも来た方へさえ
引返せば芳原へ入るだけの
憂慮は無いと思って、とぼとぼ
遣って来ると向い風で。
右手に
大溝があって、雪を
被いで
小家が並んで、そして三階
造の大建物の裏と見えて、ぼんやり
明のついてるのが見えてね、
刎橋が幾つも幾つも、まるで
卯の花
縅の
鎧の袖を、こう、」
借着の
半纏の
袂を引いて。
「裏返したように
溝を前にして家の屋根より高く引上げてあったんだ。」
それも物珍しいから、むやむやの胸の中にも、
傍見がてら、二ツ三ツ四ツ五足に一ツくらいを数えながら、靴も沈むばかり積った路を、一足々々踏分けて、欽之助が田町の方へ向って来ると、
鉄漿溝が折曲って、切れようという処に、一ツだけ、その溝の色を白く
裁切って刎橋の
架ったままのがあった。
「そこの処に
婦人が一
人立ってました、や、路を聞こう、声を懸けようと思う時、
近づく人に
白鷺の驚き立つよう。
前途へすたすたと
歩行き出したので、何だか気がさしてこっちでも
立停ると、
劇しく雪の降り来る中へ、その姿が隠れたが、見ると刎橋の際へ
引返して来て、またするすると向うへ走る。
続いて
歩行き出すと、向直ってこっちへ帰って来るから、私もまた立停るという工合、それが三度目には擦違って、
婦人は刎橋の処で。
私は
歩行き越して入違いに、今度は振返って見るようになったんだ。
そうするとその
婦人がこう
彳んだきり、うつむいて、さも思案に暮れたという風、しょんぼりとして
哀さったらなかったから。
私は二足ばかり
引返した。
何か一人では仕兼ねるようなことがあるのであろう、そんな時には差支えのない人に、力になって欲しかろう。自分を見て
遁げないものなら、どんな秘密を持っていようと、声をかけて、構うまいと思ってね。
実は何、こっちだって味方が
欲い。またどんな都合で腕車の相談が出来ないものでも無いとも考えたから。
お前さんどうしたんですッて。」
「まあ、御深切に、」と、話に
聞惚れたお若は、不意に口へ出した、心の声。
「
傍へ寄って見ると、案の定、
跣足で居る、実に
乱次ない風で、
長襦袢に
扱帯をしめたッきり、鼠色の上着を合せて、兵庫という髪が
判然見えた、それもばさばさして今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれども疑う処はない、
勤人だ。
脊の高いね、恐しいほど品の
好い
遊女だったッけ。」
二十
「その
婦人に頼まれたんです。姉さん、」と謂いかけて、美しい顔をまともに
屹と
女に向けた。
お若は晴々しそうに、ちょいと背けて、
大呼吸をつきながら、黙って聞いているお杉と目を合せたのである。
「誰?」
「へい。」と、ただまじまじする。
「姉さんに、その
遊女が今夜中にお届け申す約束のものがあるが、寮にいらっしゃるお若さん、
同一御主人だけれども、旦那とかには謂われぬこと、
朋友にも知れてはならず、
新造などにさとられては大変なので、昼から
間を見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。
ちょうど今夜は、
内証に大一座の客があって、雪はふる、部屋々々でも
寐込んだのを
機にぬけて出て、ここまでは来ましたが、土を踏むのにさえ
遠退いた、足がすくんで震える上に、今時こういう処へ出られる身分の者ではないから、どんな目に逢おうも知れない。
寮はもうそこに見えます。一町とは間のない処、紅梅屋敷といえば
直に知れますが、あれ、あんなに犬が
吠えて、どうすることもならないから、
生命を助けると思って、これを届けて下さいッて、拝むようにして言ったんだ。成程今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。
何、頼まれる方では造作のないこと、本人に取っては何かしら、様子の分らぬ
廓のこと、一大事ででもあるようだから、
直にことづかった品物があるんです。
ただ渡せば
可いか、というとね、名も何にもおっしゃらないでも、寮の姉さんはよく御存じ、とこういうから、承知した。
その寮はッて聞くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った処、ちょうど可い、
帰路もそこだというもの。そのまま別れて
遣って来ると、
先刻尋ねました、路地の突当りになる
通の内に、一軒
灯の見える長屋の前まで来て、振向いて見ると、その
婦人がまだ立っていて、こっちへ
指をしたように見えたけれども、
朧気でよくは分らないから、
一番、その
灯を
幸。
路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい、
爺の声で教えてくれた。
何、一々
委しいことをお話しするにも当らなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめて、この
明い
灯を見ると、何だか
雪路のことが夢のように思われたから、自分でもしっかり気を落着けるため、それから、筋道を謂わないでは、夜中に
婦人ばかりの処へ、たとえ頼まれたッても変だから。
そういう訳です、ともかくもその頼まれたものを上げましょう、」といって、無造作に
肱を張って、左の胸に高く取った
衣兜の中へ手を入れた。――
固くなって聞いていた、二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口を
搦めながら、少し仰向いて、考えるらしく
銀のような目を細め、
「何だろうねえ、杉や。」
「さようでございます、」とばかり一大事の、
生命がけの、約束の、助けるのと、ちっとも心あたりは無かったが、あえて客の
言を疑う色は無かったのである。
「待って下さい、」とこの時、また右の方の
衣兜を探って、小首を傾け、
「はてな、じゃあ
外套の方だった、」と片膝立てたので。
杉、
「私が。」
「確か左の衣兜へ、」
と
差俯いた処へ、玄関から、この人のと思うから、濡れたのを
厭わず、大切に抱くようにして持って来た。
敷居の上へ
斜に拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったか、
慄としたよう。
二十一
「
可うございますよ、お落しなさいましても、あなたちっとも御心配なことはないの。」
探しあぐんで、外套を
押遣って、ちと慌てたように
広袖を脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色をかえて
悄れてじっと考えた時、お若は
鷹揚に
些も意に介する処のないような、しかも情の
籠った調子で、かえって慰めるように
謂った。
お杉は心も心ならず、
憂慮しげに少年の
状を
瞻りながら、さすがにこの際
喙を
容れかねていたのであった。
此方はますます当惑の
色面に
顕れ、
「
可いじゃアありません、
可かあない、可かあない、」
と自ら我身を
詈るごとく、
「落すなんて、そんな間のあるわけはないんだからねえ、頼んだ人は
生命にもかかわる。」と、早口にいってまた
四辺を

した。
「一体どんなものでございます。」とお杉は少年に引添うて、
渠を
庇うようにして言う。
「私も
更めちゃ見なかった、いいえ、実は見ようとも思わなかったような次第なんです。何でもこう紙につつんだ、細長いもので、受取った時少し重みがあったんだがね。」
お若はちょいと
頷いて、
「杉、」
「ええ、」
「瀬川さんの……ね、あれさ、」と
呑込ませる。
「ええ、成程、
貴下、それじゃあ、何でございますよ、抱えの瀬川さんという方にお貸しなすったんですよ、あの、お頼まれなすった
遊女は、脊の高い、品の可い、そして淋しい
顔色の、ああ煩っているもんだからてっきり、そう!」
と
勢よくそれにした。
「今夜までに返すからと言ったにゃあ言いましたけれども、何、
少姐さんは返してもらうおつもりじゃございませんのに、やっと今こっちじゃあ思い出しました位ですもの。」
「何です、それは、」とやや顔の色を直して言った。口うらを聞けば
金子らしい、それならばと思う今も衣兜の中なる、
手尖に触るるは
袂落。修学のためにやがて
独逸に赴かんとする脇屋欽之助は、叔母に今は世になき陸軍少将
松島主税の令夫人を持って、ここに
擲って差支えのない金員あり。もって、余りに
頼効なき
虚気の罪を、この佳人の前に
購い得て余りあるものとしたのである。
問われてお杉は引取って、
「ちっとばかりお金子です。」
欽之助は嬉しそうに、
「じゃあ私が償おう。いいえ、どうぞそうさしておくんなさい、大したことならば帰るまで待ってもらおうし、そんなでも無いなら
遣って可いのを持っているから。」と思込んで言った。
「飛んでもない、
貴下、」と杉。
お若は知らぬ顔をして
莞爾している。
此方は熱心に、
「お願いだから、可いんだから、それでないと実に面目を失する。こうやって顔を合していても冷汗が出るほど、何だか
極が悪いんだ、
夜々中見ず知らずが入込んで、どうも変だ。」
「あなた、可いんですよ、私お金子を持っています、何にも遣わないお
小遣が
沢山あるわ、銀のだの、貴下、
紙幣のだの、」といいながら、窮屈そうに坐って
畏まっていた
勝色うらの
褄を崩して、膝を横、投げ出したように玉の
腕を火鉢にかけて、
斜に欽之助の
面を見た。姿も
容も、世にまたかほどまでに打解けた、ものを隠さぬ人を信じた、美しい、しかも
蟠のない言葉はあるまい。
左の衣兜
二十二
意外な言葉に、少年は
呆れたような目をしながら、今更顔が
瞻られた、時に言うべからざる
綺麗な
思が
此方の胸にも通じたので。
しかも遠慮のない調子で、
「いずれお
詫をする、
更めてお礼に来ましょうから、相済まんがどうぞ
一番、
腕車の世話をしておくんなさい。こういうお宅だから帳場にお
馴染があるでしょう、御近所ならば私が一所に
跟いて
行くから、お前さん。」
杉は
女の方をちょいと見たが、
「あなた
何時だとお思いなさいます。
私どもでは何でもありやしませんけれども、世間じゃ夜の二時過ぎでしょう。
あれあの
通、まだ
戸外はあんなでございますよ。」
少年は降りしきる雪の
気勢を身に感じて、途中を思い出したかまた
悚とした様子。座に
言が途絶えると
漂渺たる雪の
広野を隔てて、里ある
方に鳴くように、胸には描かれて、
遥に鶏の声が聞えるのである。
「お若さん、お泊め申しましょう、そして気を休めてからお帰りなさいまし。
私どもの分際でこう申しちゃあ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように存じますわ。
お顔色もまだお悪うございますし、御気分がどうかでございますが、雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、御大病の前ででもあるように、どこか御様子がお寂しくッて、それにしょんぼりしておいでなさいますよ。
御自分じゃちゃんとしてお
在遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心が
確じゃないようにお見受申します。
お聞き申しますと悪いことばかり、お宅から召したお腕車は
破れたでしょう、松坂屋の前からのは、間違えて飛んだ処へお連れ申しますし、お時計はなくなります。またお気にお懸け遊ばすには及びませんが、お
託り下さいましたものも
失せますね。それも二度、これも二度、重ね重ね御災難、二度のことは三度とか申します。これから四ツ谷
下だりまで、そりゃ十年お
傭つけのような
確な若いものを二人でも三人でもお
跟け申さないでもございませんが、雪や雨の難渋なら、
皆が御迷惑を少しずつ分けて頂いて、
貴下のお
身体に
恙のないようにされますけれども、どうも御様子が変でございます。お怪我でもあってはなりません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなに御懇意な方でも、ついぞこちらへはいらっしった
験のございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも御介抱を申せという、成田様のおいいつけででもございましょう。
悪いことは申しませんから、お泊んなさいまし、ね、そうなさいまし。
そしてお若さんもお
炬燵へ、まあ、いらっしゃいまし、何ぞお
暖なもので縁起直しに貴下一口差上げましょうから、
あれさ、何は差置きましてもこの雪じゃありませんかねえ。」
「実はどういうんだか、今夜の雪は
一片でも
身体へ当るたびに、毒虫に
螫れるような気がするんです。」
と好個の男児何の事ぞ、あやかしの糸に
纏われて、備わった身の品を失うまで、かかる寒さに弱ったのであった。
「ですからそうなさいまし、さあ御安心。お若さん
宜うございましょう? 旦那はあちらで十二時までは受合お休み、夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉が心得ますから、ねえ、お若さん。」
お杉大明神様と震えつく相談と
思の外、お若は空吹く風のよう、耳にもかけない風情で、
恍惚して眠そうである。
はッと思うと少年よりは、お杉がぎッくり、
呆気に取られながら安からぬ顔を、お若はちょいと見て笑って、うつむいて、
「夜が明けると
直お帰んなさるんなら厭!」
「そうすりゃ、」と杉は勢込み、
突然上着の
衣兜の口を、しっかりとつかまえて、
「こうして、お引留めなさいましな。」
二十三
寝衣に着換えさしたのであろう、その上衣と
短胴服、などを一かかえに、少し
衣紋の乱れた
咽喉のあたりへ
押つけて、胸に
抱いて、時の
間に
窶の見える
頤を深く、
俯向いた
姿で、奥の方六畳の
襖を開けて、お若はしょんぼりして出て来た。
襖の内には
炬燵の
裾、
屏風の端。
背片手で
密とあとをしめて、三畳ばかり暗い処で姿が消えたが、静々と、十畳の
広室に
顕れると、
二室越
二重の襖、いずれも一枚開けたままで、玄関の
傍なるそれも六畳、長火鉢にかんかんと、大形の
台洋燈がついてるので、あかりは青畳の上を
辷って、お若の冷たそうな、
爪先が、そこにもちらちらと雪の散るよう、足袋は脱いでいた。
この
灯がさしたので、お若は半身を暗がりに、少し伸上るようにして
透して見ると、火鉢には
真鍮の
大薬鑵が
懸って、も一ツ
小鍋をかけたまま、お杉は行儀よく坐って、
艶々しく結った
円髷の、その
斑布の
櫛をまともに見せて、身動きもせずに
仮睡をしている。
差覗いてすっと身を引き、しばらく物音もさせなかったが、やがてばったり、抱えてたものを畳に落して、陰々として
忍泣の声がした。
しばらくすると、
密とまたその着物を取り上げて、一ツずつ壁の際なる
衣桁の
亙。
お若は力なげに
洋袴をかけ、
短胴服をかけて、それから上衣を
引かけたが、持ったまま手を放さず、じっと立って、再び
密と
爪立つようにして、
間を隔ってあたかも草双紙の挿絵を見るよう、
衣の
縞も見えて森閑と眠っている姿を覗くがごとくにして、立戻って、再三衣桁にかけた上衣の
衣兜。
しかもその左の方を、しっかと取ってお若は思わず、
「ああ、
厭だっていうんだもの、」と絶入るように
独言をした。あわれこうして、幾久しく
契を
籠めよと、杉が、こうして幾久しく契を籠めよと!
お若は我を忘れたように、じっとおさえたまま身を震わして、しがみつくようにするトタンに、かちりと音して、爪先へ
冷りと
中り、総身に針を刺されたように
慄と寒気を覚えたのを、と見ると一
挺の
剃刀であった。
「まあ、
恐いことねえ。」
なお且つびっしょり濡れながら
袂の端に触れたのは、包んで五助が
方へあつらえた時のままなる、見覚えのある
反故である。
お若はわなわなと身を震わしたが、
左手に取ってじっと見る間に、
面の色が
颯と変った。
「わッ。」
というと
研屋の五助、
喚いて、むッくと
弾ね起きる。炬燵の向うにころりとせ、貧乏徳利を枕にして寝そべっていた
鏡研の作平、もやい
蒲団を
弾反されて
寝惚声で、
「何じゃい、騒々しい。」
五助は
服はだけに大の字
形の
名残を見せて、
蟇のような
及腰、顔を突出して目を

って、障子越に紅梅屋敷の
方を
瞻めながら、がたがたがたがた、
「大変だ、作平さん、大変だ、ひ、ひ、人殺し!」
「貧乏神が抜け出す
前兆か、恐しく
怯されるの、しっかりさっししっかりさっし。」といいながら、余り血相のけたたましさに、捨ておかれずこれも起きる。
枕頭には大皿に刺身のつま、
猪口やら
箸やら乱暴で。
「いや、お
前しっかりしてくれ、大変だ、どうも恐しい
祟だぜ、
一方ならねえ執念だ。」
化粧の名残
二十四
「とうとうお
前、旗本の
遊女が
惚れた男の血筋を、一人紅梅屋敷へ引込んだ、
同一理窟で、お若さんが、さ、さ、
先刻取り上げられた
剃刀でやっぱり、お前、とても身分違いで
思が
叶わぬとッて、そ、その男を殺すというのだい。今行水を
遣ってら、」
「何をいわっしゃる、ははははは、風邪を引くぞ、うむ、夢じゃわ夢じゃわ。」
「はて、しかし夢か、」とぼんやりして腕を組んだが、
「待てよ、こうだによってと、誰か
先刻ここの前へ来て二上屋の寮を聞いたものはねえか。」
「おお、」
作平も膝を叩いた。
「そういやあある。お
前は酔っぱらってぐうぐうじゃ、何かまじまじとして
私あ
寐られん、
一時半ばかり前に、恐しく風が吹いた中で、
確に聞いた、しかも
少い男の声よ。」
「それだそれだ、まさしくそれだ、や、飛んだこッた。
お
前、何でも
遊女に剃刀を授かって、お若さんが、殺してしまうと、身だしなみのためか、行水を、お前、行水ッて湯殿でお前、
小桶に
沸ざましの
薬鑵の湯を
打ちまけて、お前、惜気もなく、肌を脱ぐと、懐にあった剃刀を
啣えたと思いねえ。
硝子戸の外から
覗いてた、
私が方を
仰向いての、仰向くとその拍子に、がッくり抜けた島田の根を、
邪慳に
引つかんだ、
顔色ッたら、
先刻見た幽霊にそッくりだあ、きゃあッともいおうじゃあねえか、だからお前、
疾く行って留めねえと。」
「そして男を殺すとでもいうたかい、」
「いや、
私が夢はお
前の夢、ええ、小じれッてえ。何でもお前が紅梅屋敷を教えたからだ。今思やうつつだろうか、晩方しかも今日
研立の、お若さんの剃刀を取られたから、気になって、気になって
堪るめえ。
処へ夜が更けて、尋ねて
行くものがあるから、おかしいぜ、
此奴、
贔屓の田之助に怪我でもあっちゃあならねえと、直ぐにあとをつけて
行くつもりだっけ、例の
臆病だから叶わねえ、
不性をいうお前を、
引張出して、夢にも二人づれよ。」
「やれやれ御苦労千万。」
「それから
戸外へ出ると雪はもう
留んでいた、寮の前へ
行くとひっそりかんよ。人騒せなと、思ったけれど、あやまる分と、声をかけて、戸を叩いたけれど返事がねえ。
いよいよ変だと思うから大声で
喚いてドンドンやったが、成るほど夢か。叩くと音がしねえ、思うように声が出ねえ。我ながら向う河岸の
渡船を呼んでるようだから、構わず開けて入ろうとしたが掛金がっちりだ。
どこか
開く処があるめえかと、ぐるぐる寮の
周囲を廻る内に、湯殿の窓へあかりがさすわ。
はて変だわえ、今時分と、そこへ行って
覗いた時、お若さんが寝乱れ姿で薬鑵を提げて出て来たあ。とまず安心をして
凄いように美しい顔を見ると、目を
泣腫らしています、ね。どうしたかと思う内に、
鹿の子の見覚えある
扱一ツ、
背後へ
縮緬の羽織を
引振って脱いでな、
褄を取って
流へ出て、その薬鑵の湯を
打ちまけると、むっとこう霧のように湯気が立ったい、小棚から石鹸を出して
手拭を
突込んで、うつむけになって顔を洗うのだ。ぐらぐらとお前その時から島田の根がぬけていたろうじゃねえか。
それですっぱりと顔を
拭いてよ、そこでまた一安心をさせながら、何と、それから丸々ッちい両肌を脱いだんだ、それだけでも
悚とするのに、考えて見りゃちっと変だけれど、胸の処に剃刀が、それがお
前、
(五助さん、これでしょう、)と晩方
遊女が
遣った図にそっくりだ。はっと思うトタンに
背向になって仰向けに、そうよ、
上口の方にかかった、姿見を見た。すると髪がざらざらと崩れたというもんだ、姿見に映った顔だぜ、その顔がまた
遊女そのままだから、キャッといったい。」
二十五
されば五助が夢に見たのは、欽之助が不思議の因縁で、雪の
夜に、お若が紅梅の寮に宿ったについての、
委しい順序ではなく、遊女の霊が、見棄てられたその恋人の血筋の者を、二上屋の
女に殺させると叫んだのも、
覚際にフト刺戟された想像に
留まったのであるが、しかしそれは不幸にも事実であった。宵におびやかされた
名残とばかり、さまでには思わなかった作平も、まさしく
少い声の男に、寮の道を教えたので、すてもおかず、ともかくもと大急ぎで、出掛ける拍子に、棒を
小腋に引きそばめた
臆病ものの
可笑さよ。
戸外へ出ると、もう
先刻から雪の降る底に雲の
行交う中に、薄く隠れ、鮮かに
顕れていたのがすっかり月の
夜に変った。火の番の最後の
鉄棒遠く響いて
廓の春の有明なり。
出合頭に人が一人通ったので、やにわに棒を突立てたけれども、何、それは怪しいものにあらず、
「お早うがすな。」と
澄して土手の方へ行った。
積んだ
薪の小口さえ、雪まじりに見える角の炭屋の路地を入ると、
幽にそれかと思う足あとが、心ばかり
飛々に
凹んでいるので、まず顔を見合せながら進んで
門口へ
行くと、内は
寂としていた。
これさえ夢のごときに、胸を
轟かせながら、試みに叩いたが、
小塚原あたりでは狐の声とや怪しまんと思わるるまで、
如月の雪の残月に、カンカンと響いたけれども、返事がない。
猶予ならず、庭の袖垣を左に見て、勝手口を過ぎて大廻りに植込の中を
潜ると、向うにきらきら水銀の流るるばかり、湯殿の窓が雪の中に見えると思うと、前の溝と覚しきに、むらむらと薄くおよそ人の脊丈ばかり湯気が立っていた。
これにぎょッとして五助、作平、湯殿の下へ駆けつけた時はもう
喘いでいた。
逡巡をする五助に
入交って作平、
突然手を懸けると、
誰が忘れたか
戸締がないので、
硝子窓をあけて
跨いで入ると、雪あかりの上、月がさすので、明かに見えた
真鍮の大薬鑵。
蓋と別々になって、うつむけに
引くりかえって、
濡手拭を
桶の中、湯は沢山にはなかったと思われ、乾き切って霜のような
流が、網を投げた形にびっしょりであった。
上口から躍込むと、あしのあとが、板の間の濡れたのを踏んで、肝を冷しながら、
明を
目的に駆けつけると、
洋燈は少し暗くしてあったが、お杉は
端然坐ったまま、その
髷、その
櫛、その姿で、小鍋をかけたまま凍ったもののごとし。
ただいつの間にか、
先刻欽之助が脱いだままで置いて寝に行った、
結城の
半纏を
被せかけてあった。とお杉はこれをいって今もさめざめと泣くのである。
五助、作平は左右より、
焦って二ツ三ツ背中をくらわすと、杉はアッといって、我に返ると同時に、
「おいらんが、
遊女が、」と切なそうにいった。
半纏はお若が心優しく、いまわの際にも
勦ってその時かけて行ったのであろう。
後にお杉はうつつながら、お若が
目前に湯を取りに来たことも、しかもまくり手して重そうに持って湯殿の
方へ行ったことも、知っていたが、これよりさき
朦朧として雪ぢらしの部屋着を
被た、品の
可い、脊の高い、
見馴れぬ
遊女が、寮の内を、あっちこっち、幾たびとなくお若の身に前後して、お杉が自分で立とうとすると、
屹と
睨まれて身動きが出来ないのであったと
謂う。
とこういうべき
暇あらず、我に
復るとお杉も
太くお若の身を
憂慮っていたので、飛立つようにして三人奥の
室へ飛込んだが、
噫。
既に
遅矣、雪の姿も、紅梅も、
狼藉として
韓紅。
狂気のごとくお杉が抱き上げた時、お若はまだ
呼吸があったが、血の滴る剃刀を握ったまま、
「済みませんね、済みませんね。」と二声いったばかり、これはただ皮を切った位であったけれども暁を待たず。
男は
深疵だったけれども気が
確で、いま
駆つけた者を見ると、
「お前方、助けておくれ、大事な体だ。」
といったので、五助作平、腰を抜いた。
この事実は、翌早朝、金杉の方から裏へ廻って、寮の木戸へつけて、
同一枕に死骸を引取って行った馬車と共によく秘密が守られた。
しかし馬車で
乗つけたのは、
昨夜伊予紋へ、少将の夫人の
使をした、
橘という女教師と、一名の医学士であった。
その診察に因って救うべからずと決した時、次の
室に
畏っていた、二上屋藤三郎すなわちお若の養父から捧げられたお若の
遺書がある。
橘は取って披見した後に、
枕頭に進んで、声を曇らせながら
判然と読んで聞かせた。
この意味は、人の想像とちっとも
違わぬ。
その時まで残念だ、と
呼吸の下でいって、いい続けて、時々
歯噛をしていた少年は、耳を
澄して、聞き果てると、しばらくうっとりして、早や死の色の宿ったる
蒼白な
面を
和げながら、
手真似をすること三度ばかり。
医学士が
頷いたので、橘が筆をあてがうと、わずかに枕を
擡げ、天地
紅の半
切に、薄墨のあわれ水茎の
蹟、にじり
書の端に、わか
※[#「参らせ候」のくずし字、519-15]とある上へ、少し大きく、
佳い手で脇屋欽之助つま、と記して安かに目を
瞑った。
一座粛然。
作平は
啜泣をしながら、
「おめでてえな。」
五助が
握拳を膝に置いて、
「お若さん、喜びねえ。」
明治三十四(一九〇一)年一月