一
此のもの
語の起つた土地は、清きと、美しきと、
二筋の
大川、
市の両端を流れ、
真中央に城の
天守尚ほ高く
聳え、森黒く、
濠蒼く、国境の山岳は
重畳として、湖を包み、海に沿ひ、橋と、坂と、辻の柳、
甍の
浪の町を
抱いた、北陸の都である。
一年、激しい
旱魃のあつた真夏の事。
……と言ふと
忽ち、天に
可恐しき
入道雲湧き、地に
水論の
修羅の
巷の流れたやうに聞えるけれど、決して、そんな、
物騒な
沙汰ではない。
恁る折から、地方巡業の新劇団、女優を
主とした帝都の有名なる
大一座が、此の土地に
七日間の興行して、全市の湧くが如き人気を博した。
極暑の、
旱と言ふのに、たとひ
如何なる人気にせよ、湧くの、
煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――
諺に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、
大盥に
満々と水を
湛へ、
蝋燭に
灯を点じたのを
其の中に立てて
目塗をすると、壁を
透して煙が
裡へ
漲つても、火気を呼ばないで安全だと言ふ。……火を以て火を制するのださうである。
こゝに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるが如き演劇は、
恰も此の
轍だ、と
称へて
可い。雲は
焚け、草は
萎み、水は
涸れ、人は
喘ぐ時、一座の劇は
宛然褥熱に対する氷の如く、十万の市民に、一
剤、清涼の気を
齎らして
剰余あつた。
膚の白さも雪なれば、
瞳も
露の涼しい中にも、
挙つて
座中の明星と
称へられた
村井紫玉が、
「まあ……
前刻の、あの、小さな
児は?」
公園の
茶店に、一人
静に
憩ひながら、
緋塩瀬の
煙管筒の
結目を
解掛けつゝ、
偶と思つた。……
髷も
女優巻でなく、
故とつい通りの
束髪で、
薄化粧の
淡洒した
意気造。
形容に合せて、
煙草入も、好みで持つた
気組の
婀娜。
で、見た
処は
芸妓の
内証歩行と云ふ風だから、まして女優の、忍びの出、と言つても
可い
風采。
また実際、紫玉は此の日は忍びであつた。
演劇は
昨日楽に成つて、座の中には、直ぐに
次興行の
隣国へ、早く
先乗をしたのが多い。が、地方としては、
此まで
経歴つた
其処彼処より、観光に
価値する名所が
夥い、と聞いて、
中二日ばかりの
休暇を、紫玉は此の土地に
居残つた。そして、
旅宿に二人
附添つた、
玉野、
玉江と云ふ女弟子も連れないで、一人で
密と、……
日盛も
恁うした身には苦にならず、
町中を見つゝ
漫に来た。
惟ふに、太平の世の国の
守が、隠れて民間に
微行するのは、
政を聞く時より、どんなにか得意であらう。
落人の
其ならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさへ、
我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、其の
都度、ハツと隠れ忍んで、
微笑み/\通ると思へ。
深張の
涼傘の影ながら、
尚ほ
面影は透き、
色香は
仄めく……
心地すれば、
誰憚るともなく
自然から
俯目に
俯向く。謙譲の
褄はづれは、
倨傲の
襟より
品を備へて、
尋常な
姿容は
調つて、
焼地に
焦りつく影も、水で描いたやうに涼しくも
清爽であつた。
僅少に
畳の
縁ばかりの、日影を選んで
辿るのも、人は目を

つて、
鯨に乗つて人魚が通ると見たであらう。……
素足の白いのが、すら/\と
黒繻子の上を
辷れば、
溝の
流も
清水の
音信。
で、
真先に
志したのは、城の
櫓と境を接した、
三つ
二つ、全国に指を屈すると云ふ、
景勝の公園であつた。
二
公園の入口に、樹林を
背戸に、
蓮池を庭に、柳、
藤、桜、
山吹など、
飛々に名を呼ばれた
茶店がある。
紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋と言ふのであつた。が、
紅い
襷で、
色白な娘が運んだ、
煎茶と
煙草盆を
袖に控へて、
然まで
嗜むともない、其の、
伊達に持つた
煙草入を手にした時、――
「……あれは女の
児だつたか知ら、其とも男の児だつたらうかね。」
――と思ひ出したのは其である。――
で、
華奢造りの
黄金煙管で、余り
馴れない、
些と
覚束ない手つきして、
青磁色の手つきの
瀬戸火鉢を探りながら、
「……帽子を……
被つて居たとすれば、男の児だらうが、青い
鉢巻だつけ。……
麦藁に巻いた
切だつたらうか、其ともリボンか知ら。色は
判然覚えて居るけど、……お待ちよ、――と
恁うだから。……」
取つて着けたやうな
喫み方だから、見ると、もの/\しいまでに、
打傾いて
一口吸つて、
「……
年紀は、
然うさね、
七歳か
六歳ぐらゐな、色の白い上品な、……男の児にしては
些と
綺麗過ぎるから女の児――だとリボンだね。――青いリボン。……
幼稚くたつて
緋と限りもしないわね。では、
矢張り女の児か知ら。それにしては麦藁帽子……
尤もおさげに
結つてれば……だけど、
其処までは気が付かない。……」
大通りは
一筋だが、道に迷ふのも一興で、
其処ともなく、
裏小路へ紛れ込んで、低い
土塀から
瓜、
茄子の
畠の
覗かれる、
荒れ
寂れた
邸町を一人で通つて、まるつ
切人に
行合はず。白熱した
日盛に、よくも羽が焦げないと思ふ、白い
蝶々の、不意にスツと来て、
飜々と
擦違ふのを、
吃驚した顔をして見送つて、そして
莞爾……したり……
然うした時は
象牙骨の扇で
一寸招いて見たり。……土塀の
崩屋根を仰いで血のやうな
百日紅の
咲満ちた枝を、
涼傘の
尖で
擽ぐる、と
堪らない。とぶる/\ゆさ/\と
行るのに、「御免なさい。」と言つて見たり。石垣の
草蒸に、
棄ててある瓜の皮が、
化けて
脚が生えて、むく/\と
動出しさうなのに、「あれ。」と
飛退いたり。
取留めのないすさびも、此の女の人気なれば、話せば逸話に伝へられよう。
低い山かと見た、
樹立の繁つた高い公園の下へ出ると、坂の
上り
口に
社があつた。
宮も大きく、
境内も広かつた。が、砂浜に鳥居を立てたやうで、
拝殿の
裏崕には
鬱々たる其の公園の森を
負ひながら、
広前は一面、
真空なる太陽に、
礫の影一つなく、
唯白紙を
敷詰めた
光景なのが、
日射に、やゝ
黄んで、
渺として、
何処から散つたか、百日紅の二三点。
……覗くと、静まり返つた正面の
階の
傍に、
紅の
手綱、
朱の
鞍置いた、つくりものの自の
神馬が
寂寞として
一頭立つ。横に公園へ
上る坂は、
見透しに成つて居たから、
涼傘のまゝスツと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまゝ鳥居の柱に映つて通る。……
其処に
屋根囲した、
大なる石の
御手洗があつて、青き
竜頭から
湛へた水は、
且つすら/\と玉を乱して、
颯と
簾に
噴溢れる。
其手水鉢の
周囲に、
唯一人……其の
稚児が居たのであつた。
が、炎天、人影も絶えた折から、
父母の昼寝の夢を
抜出した、神官の
児であらうと紫玉は
視た。ちら/\廻りつゝ、廻りつゝ、
彼方此方する。……
唯、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまはりを廻るのが、
宛然、石に刻んだ形が、
噴溢れる水の影に誘はれて、すら/\と動くやうな。……と視るうちに、稚児は
伸上り、
伸上つては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上つては、又空に手を伸ばす。――
紫玉はズツと寄つた。稚児は
最う
涼傘の陰に入つたのである。
「
一寸……何をして居るの。」
「水が欲しいの。」
と、あどけなく言つた。
あゝ、
其がため足場を取つては、
取替へては、手を伸ばす、が
爪立つても、青い
巾を巻いた、其の
振分髪、まろが
丈は……
筒井筒其の
半にも届くまい。
三
其の
御手洗の高い
縁に乗つて居る
柄杓を、取りたい、と又
稚児が
然う言つた。
紫玉は思はず
微笑んで、
「あら、
恁うすれば
仔細はないよ。」
と、
半身を斜めにして、
溢れかゝる水の
一筋を、
玉の
雫に、
颯と散らして、赤く燃ゆるやうな唇に
請けた。ちやうど渇いても居たし、水の
潔い事を見たのは言ふまでもない。
「ねえ、お前。」
稚児が仰いで、
熟と紫玉を
視て、
「手を
浄める水だもの。」
直接に
吻を
接るのは不作法だ、と
咎めたやうに聞えたのである。
劇壇の
女王は、
気色した。
「いやにお
茶がつてるよ、生意気な。」と、軽く其の
頭を
掌で
叩き
放しに、
衝と
広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、
扨てやがて此の茶屋に
憩つたのであつた。――
今思ふと、手を触れた稚児の
頭も、女か、男か、不思議に其の感覚が残らぬ。気は涼しかつたが、暑さに、
幾干か
茫としたものかも知れない。
「
娘さん、町から、此の坂を
上る
処に、お宮がありますわね。」
「はい。」
「何と言ふ、お
社です。」
「
浦安神社でございますわ。」と、片手を
畳に、娘は行儀正しく答へた。
「
何神様が祭つてあります。」
「お父さん、お父さん。」と娘が、つい
傍に、
蓮池に向いて、(じんべ)と言ふ
膝ぎりの
帷子で、
眼鏡の下に内職らしい
網をすいて居る
半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を
外して、コツンと
水牛の
柄を
畳んで、台に乗せて、其から
向直つて、丁寧に辞儀をして、
「えゝ、浦安様は、浦安かれとの、其の御守護ぢやさうにござりまして。水をばお
司りなされます、
竜神と申すことでござります。これの、
太夫様にお茶を替へて上げぬかい。」
紫玉は
我知らず
衣紋が
締つた。……
称へかたは
相応はぬにもせよ、
拙な山水画の
裡の隠者めいた老人までが、確か自分を知つて居る。
心着けば、正面
神棚の下には、我が姿、
昨夜も扮した、劇中
女主人公の王妃なる、玉の
鳳凰の如きが掲げてあつた。
「そして、……」
声も
朗かに、
且つ
慎ましく、
「竜神だと、
女神ですか、
男神ですか。」
「さ、さ。」と老人は
膝を刻んで、
恰も此の問を
待構へたやうに、
「其の儀は、とかくに申しまするが、
如何か、
孰れとも
相分りませぬ。此の公園のづツと奥に、
真暗な
巌窟の中に、一ヶ処
清水の
湧く井戸がござります。
古色の
夥しい青銅の竜が
蟠つて、
井桁に
蓋をして
居りまして、
金網を張り、みだりに近づいては成りませぬが、
霊沢金水と申して、此がために此の市の名が起りましたと申します。此が奥の院と申す事で、えゝ、
貴方様が
御意の浦安神社は、其の
前殿と申す事でござります。
御参詣を遊ばしましたか。」
「あ、
否。」と言つたが、すぐ又
稚児の事が胸に浮んだ。それなり
一時言葉が
途絶える。
森々たる
日中の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に
聳ゆる。
茶店の横にも、
見上るばかりの
槐榎の暗い影が
樅楓を薄く
交へて、
藍緑の
流に
群青の瀬のある如き、たら/\
上りの
径がある。滝かと思ふ
蝉時雨。光る雨、輝く
木の
葉、此の炎天の
下蔭は、
恰も
稲妻に
籠る穴に似て、もの
凄いまで
寂寞した。
木下闇、其の
横径の
中途に、
空屋かと思ふ、
廂の
朽ちた、
誰も居ない店がある……
四
鎖してはないものの、奥に人が居て住むかさへ疑はしい。其とも日が暮れると、白い首でも出て
些とは客が寄らうも知れぬ。店
一杯に
雛壇のやうな台を置いて、
最ど薄暗いのに、
三方を
黒布で
張廻した、壇の
附元に、
流星の
髑髏、
乾びた
蛾に似たものを、点々並べたのは
的である。地方の
盛場には時々
見掛ける、
吹矢の
機関とは
一目視て紫玉にも分つた。
実は――
吹矢も、
化ものと名のついたので、幽霊の
廂合の幕から
倒にぶら下り、
見越入道は
誂へた穴からヌツと出る。雪女は
拵への
黒塀に
薄り立ち、
産女鳥は
石地蔵と並んで
悄乎彳む。
一ツ
目小僧の
豆腐買は、
流灌頂の
野川の
縁を、
大笠を
俯向けて、
跣足でちよこ/\と巧みに
歩行くなど、
仕掛ものに成つて居る。……
如何はしいが、
生霊と
札の立つた
就中小さな
的に
吹当てると、
床板がぐわらりと
転覆つて、
大松蕈を抱いた緋の
褌のおかめが、とんぼ返りをして
莞爾と
飛出す、途端に、四方へ引張つた
綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで
一斉にぐわんぐわらん、どんどと鳴つて、其で
市が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたひ
歩行く
波張が
切々に、
藪畳は
打倒れ、
飾の石地蔵は
仰向けに
反つて、視た
処、ものあはれなまで
寂れて居た。
――其の
軒の
土間に、
背後むきに
蹲んだ
僧形のものがある。
坊主であらう。
墨染の
麻の
法衣の
破れ/\な
形で、
鬱金も
最う
鼠に
汚れた布に――すぐ、分つたが、――
三味線を一
挺、
盲目の
琵琶背負に
背負つて居る、
漂泊ふ
門附の
類であらう。
何をか働く。人目を避けて、
蹲つて、
虱を
捻るか、
瘡を
掻くか、弁当を使ふとも、
掃溜を探した
干魚の骨を
舐るに過ぎまい。
乞食のやうに
薄汚い。
紫玉は
敗竄した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い
歎息を
漏らした。
且つあはれみ、且つ
可忌しがつたのである。
灰吹に薄い
唾した。
此の
世盛りの、思ひ上れる、美しき女優は、樹の緑
蝉の声も
滴るが如き影に、
框も
自然から浮いて高い
処に、色も
濡々と
水際立つ、
紫陽花の花の姿を
撓わに置きつゝ、
翡翠、
紅玉、真珠など、指環を
三つ
四つ
嵌めた白い指をツト挙げて、
鬢の
後毛を掻いた
次手に、
白金の
高彫の、翼に
金剛石を
鏤め、目には
血膸玉、
嘴と爪に
緑宝玉の
象嵌した、白く輝く
鸚鵡の
釵――
何某の伯爵が心を
籠めた
贈ものとて、人は知つて、(伯爵)と
称ふる其の釵を抜いて、
脚を返して、
喫掛けた
火皿の
脂を
浚つた。……
伊達の
煙管は、煙を吸ふより、手すさみの
科が多い
慣習である。
三味線
背負つた乞食坊主が、
引掻くやうにもぞ/\と肩を
揺ると、
一眼ひたと
盲ひた、
眇の青ぶくれの
面を向けて、
恁う、
引傾つて、
熟と紫玉の其の
状を
視ると、肩を
抽いた
杖の
尖が、一度胸へ
引込んで、
前屈みに、よたりと立つた。
杖を
径に
突立て/\、
辿々しく
下闇を
蠢いて
下りて、城の
方へ去るかと思へば、のろく
後退をしながら、
茶店に向つて、
吻と、
立直つて
一息吐く。
紫玉の
眉の
顰む時、五
間ばかり
軒を離れた、
其処で
早や、
此方へぐつたりと
叩頭をする。
知らない
振して、目をそらして、紫玉が
釵に
俯向いた。が、濃い
睫毛の重く成るまで、坊主の影は
近いたのである。
「
太夫様。」
ハツと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、
目前の
土間に、
両膝を折つて居た。
「…………」
「お
願でござります。……お
慈悲ぢや、お慈悲、お慈悲。」
仮初に置いた
涼傘が、
襤褸法衣の
袖に触れさうなので、
密と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の
父娘に目を
遣つた。
立つて声を掛けて追はうともせず、父も娘も
静に視て居る。
五
少時すると、此の
旱に水は
涸れたが、
碧緑の葉の深く繁れる中なる、
緋葉の滝と云ふのに対して、紫玉は
蓮池の
汀を
歩行いて居た。こゝに別に滝の
四阿と
称ふるのがあつて、
八ツ
橋を掛け、
飛石を置いて、
枝折戸を
鎖さぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ
小戻りする事に成る。紫玉はあの、
吹矢の
径から公園へ入らないで、
引返したので、……
涼傘を
投遣りに
翳しながら、
袖を柔かに、手首をやゝ硬くして、
彼処で抜いた
白金の
鸚鵡の
釵、其の翼を
一寸抓んで、
晃乎とぶら下げて居るのであるが。
仔細は
希有な、……
坊主が
土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お
願と言ふのが
金でも米でもない。
施与には違ひなけれど、変な事には「お
禁厭をして
遣はされい。虫歯が
疚いて堪へ
難いでな。」と、
成程左の
頬がぷくりとうだばれたのを、
堪難い
状に
掌で
抱へて、首を
引傾けた同じ方の
一眼が白くどろんとして
潰れて居る。其の目からも、ぶよ/\とした唇からも、
汚い
液が垂れさうな
塩梅。「お慈悲ぢや。」と更に拝んで、「手足に五
寸釘を打たれうとても、
恁までの
苦悩はございますまいぞ、お
情ぢや、
禁厭うて
遣はされ。」で、
禁厭とは
別儀でない。――其の紫玉が手にした
白金の釵を、歯のうろへ
挿入て欲しいのだと言ふ。
「
太夫様お手づから。……竜と
蛞蝓ほど違ひましても、
生あるうちは
私ぢやとて、芸人の端くれ。太夫様の
御光明に照らされますだけでも、此の
疚痛は忘られませう。」と、はツはツと息を
吐く。……
既に、
何人であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言はれたのでは、其の
所謂禁厭の断り
悪さは、金銭の
無心をされたのと同じ事――
但し手から手へ渡すも恐れる……落して
釵を貸さうとすると、「あゝ、いや、太夫様、お手づから。……
貴女様の
膚の
移香、脈の
響をお釵から伝へ受けたいのでござります。
貴方様の
御血脈、其が
禁厭に成りますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を
開いた中へ、紫玉は
止む事を得ず、手に
持添へつつ、釵の
脚を
挿入れた。
喘ぐわ、
舐るわ!
鼻息がむツと
掛る。
堪らず袖を巻いて唇を
蔽ひながら、
勢ひ釵とともに、やゝ
白やかな手の伸びるのが、
雪白なる
鵞鳥の
七宝の
瓔珞を掛けた
風情なのを、
無性髯で、チユツパと
啜込むやうに、坊主は
犬蹲に成つて、
頤でうけて、どろりと
嘗め込む。
唯、紫玉の手には、づぶ/\と響いて、腐れた
瓜を
突刺す
気味合。
指環は
緑紅の結晶したる玉の如き
虹である。
眩しかつたらう。坊主は
開いた目も閉ぢて、

とした
顔色で、しつきりもなしに、だら/\と
涎を垂らす。「あゝ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――
不思議な
光景は、美しき女が、針の
尖で怪しき魔を
操る、舞台に於ける、神秘なる場面にも見えた。
茶店の娘と其の父は、感に堪へた観客の如く、
呼吸を殺して
固唾を飲んだ。
……「あゝ、お
有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と
三味線包、がつくりと
抜衣紋。で、
両掌を
仰向け、低く紫玉の雪の
爪尖を頂く真似して、「
恁やうに
穢いものなれば、くど/\お礼など申して、お
身近は
却つてお
目触り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を
捻ぢるやうに
杖で立つて、
「お有難や、お有難や。あゝ、
苦を忘れて
腑が抜けた。もし、
太夫様。」と敷居を
跨いで、
蹌踉状に
振向いて、「あの、其のお
釵に……」――「え。」と紫玉が
鸚鵡を
視る時、「歯くさが着いては
居りませぬか。
恐縮や。……えひゝ。」とニヤリとして、
「ちやつとお
拭きなされませい。」此がために、紫玉は手を掛けた
懐紙を、
余儀なく
一寸逡巡つた。
同時に、あらぬ
方に
蒼と
面を
背けた。
六
紫玉は
待兼ねたやうに
懐紙を重ねて、伯爵、を清めながら、森の
径へ
行きましたか、坊主は、と
訊いた。父も娘も、へい、と言つて、大方
然うだらうと言ふ。――
最う影もなかつたのである。
父娘は
唯、紫玉の
挙動にのみ気を
奪られて居たらう。……此の辺を
歩行く
門附見たいなもの、と又訊けば、父親がつひぞ見掛けた事はない。娘が
跣足で居ました、と言つたので、旅から
紛込んだものか、其も分らぬ。
と、言ふうちにも、紫玉は
一寸々々眉を
顰めた。抜いて持つた
釵、
鬢摺れに髪に返さうとすると、
呀、する
毎に、手の
撓ふにさへ、
得も言はれない、
異な、変な、
悪臭い、
堪らない、
臭気がしたのであるから。
城は公園を出る方で、
其処にも影がないとすると、
吹矢の道を
上つたに相違ない。で、
後へ続くには堪へられぬ。
其処で滝の道を訊いて――
此処へ来た。――
泉殿に
擬へた、
飛々の
亭の
孰れかに、
邯鄲の石の
手水鉢、名品、と教へられたが、水の音より
蝉の声。で、勝手に
通抜けの出来る茶屋は、昼寝の
半ばらしい。
何の座敷も
寂寞して
人気勢もなかつた。
御歯黒蜻蛉が、
鉄漿つけた
女房の、
微な夢の影らしく、ひら/\と一つ、葉ばかりの
燕子花を伝つて飛ぶのが、此のあたり御殿女中の
逍遙した昔の幻を、
寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思はせる。
すべて
旧藩侯の庭園だ、と言ふにつけても、
贈主なる貴公子の
面影さへ浮ぶ、伯爵の
鸚鵡を
何とせう。
霊廟の土の
瘧を落し、
秘符の威徳の鬼を追ふやう、
立処に坊主の虫歯を
癒したは
然ることながら、
路々も
悪臭さの消えないばかりか、
口中の臭気は、次第に持つ手を
伝つて、
袖にも移りさうに思はれる。
紫玉は、樹の下に
涼傘を
畳んで、滝を斜めに
視つゝ、池の
縁に低く居た。
滝は、
旱に
爾く骨なりと
雖も、
巌には
苔蒸し、
壺は森を
被いで
蒼い。
然も
巌がくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の
凄じく響くのは、
大樋を伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の
内濠に
灌ぐと聞く、戦国の
余残ださうである。
紫玉は
釵を洗つた。……
艶なる女優の心を得た池の
面は、
萌黄の
薄絹の如く波を
伸べつゝ
拭つて、清めるばかりに見えたのに、取つて黒髪に
挿さうとすると、
些と離したくらゐでは、耳の
辺へも寄せられぬ。鼻を
衝いて、ツンと
臭い。
「あ、」と声を立てたほどである。
雫を切ると、雫まで
芬と
臭ふ。たとへば貴重なる香水の
薫の一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほど
香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、
果は指環の
緑碧紅黄の
珠玉の数にも、言ひやうのない
悪臭が
蒸れ
掛るやうに思はれたので。……
「えゝ。」
紫玉はスツと立つて、手のはずみで
一振振つた。
「ぬしにお成りよ。」
白金の
羽の散る
状に、ちら/\と映ると、
釵は
滝壺に
真蒼な水に沈んで行く。……あはれ、呪はれたる
仙禽よ。
卿は熱帯の
鬱林に放たれずして、
山地の
碧潭に
謫されたのである。……ト此の奇異なる珍客を迎ふるか、不可思議の
獲ものに
競ふか、
静なる池の
面に、眠れる
魚の如く
縦横に
横はつた、樹の枝々の影は、
尾鰭を跳ねて、幾千ともなく、
一時に皆
揺動いた。
此に
悚然とした
状に、一度すぼめた袖を、はら/\と翼の如く
搏いたのは、紫玉が、
可厭しき
移香を払ふとともに、高貴なる鸚鵡を思ひ切つた、安からぬ胸の波動で、
尚ほ
且つ
飜々とふるひながら、
衝と
飛退くやうに、滝の下行く
桟道の橋に
退いた。
石の
反橋である。
巌と石の、いづれにも
累れる
牡丹の花の如きを、左右に築き上げた、
銘を
石橋と言ふ、
反橋の石の真中に立つて、
吻と
一息した紫玉は、此の時、すらりと、
脊も心も高かつた。
七
明眸の左右に
樹立が分れて、
一条の
大道、炎天の
下に
展けつゝ、
日盛の町の
大路が望まれて、
煉瓦造の避雷針、古い
白壁、寺の塔など
睫を
擽る中に、
行交ふ人は点々と
蝙蝠の如く、電車は光りながら
山椒魚の
這ふのに似て居る。
忘れもしない、
眼界の其の
突当りが、
昨夜まで、我あればこそ、電燭の
宛然水晶宮の如く輝いた劇場であつた。
あゝ、
一翳の雲もないのに、
緑紫紅の旗の影が、ぱつと空を
蔽ふまで、
花やかに目に
飜つた、
唯見ると
颯と近づいて、
眉に近い樹々の枝に
色鳥の
種々の影に映つた。
蓋し劇場に向つて、高く
翳した手の指環の、玉の
矜の
幻影である。
紫玉は、
瞳を返して、
華奢な指を、
俯向いて
視つゝ
莞爾した。
そして、すら/\と
石橋を
前方へ渡つた。それから、森を通る、姿は
翠に青ずむまで、
静に落着いて見えたけれど、
二ツ
三ツ
重つた不意の出来事に、心の騒いだのは
争はれない。……
涼傘を
置忘れたもの。……
森を高く抜けると、
三国見霽しの一面の広場に成る。
赫と
射る日に、
手廂して
恁う
視むれば、松、桜、梅いろ/\樹の
状、枝の
振の、
各自名ある
神仙の形を映すのみ。幸ひに
可忌い坊主の影は、公園の一
木一
草をも
妨げず。又……人の
往来ふさへ
殆どない。
一処、
大池があつて、
朱塗の船の、
漣に、浮いた
汀に、盛装した
妙齢の
派手な女が、
番の
鴛鴦の宿るやうに目に
留つた。
真白な顔が、
揃つて
此方を向いたと思ふと。
「あら、お嬢様。」
「お
師匠さーん。」
一人が
最う、
空気草履の、
媚かしい
褄捌きで駆けて来る、目鼻は
玉江。……
最う一人は
玉野であつた。
紫玉は故郷へ帰つた気がした。
「不思議な
処で、と言ひたいわね。
見ぶつかい。」
「えゝ、観光団。」
「何を
悪戯をして居るの、お前さんたち。」
と
連立つて寄る、
汀に居た玉野の手には、
船首へ掛けつゝ
棹があつた。
舷は
藍、
萌黄の翼で、
頭にも尾にも
紅を塗つた、
鷁首の船の
屋形造。
玩具のやうだが四五人は乗れるであらう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
聞けば、向う岸の、むら
萩に
庵の見える、
船主の料理屋には
最う
交渉済で、二人は
慰みに、此から
漕出さうとする
処だつた。……お前さんに漕げるかい、と
覚束なさに念を押すと、浅くて
棹が届くのだから仔細ない。
但、一ヶ所
底の知れない
深水の穴がある。
竜の
口と
称へて、
此処から下の滝の
伏樋に通ずるよし
言伝へる、……
危くはないけれど、
其処だけは
除けたが
可からう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい
駆出して
仕誼を言ひに行つたのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、
彼処ですわ。」と玉野が
指す、
大池を
艮の
方へ寄る
処に、板を浮かせて、小さな
御幣が立つて居た。真中の
築洲に
鶴ヶ
島と言ふのが見えて、
祠に
竜神を
祠ると聞く。……
鷁首の船は、其の島へ
志すのであるから、竜の口は近寄らないで済むのであつたが。
「乗らうかね。」
と紫玉は
最う
褄を巻くやうに、
爪尖を
揃へながら、
「でも何だか。」
「あら、
何故ですえ。」
「御幣まで立つて警戒をした
処があつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「
否、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。
不断は何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか
雨乞だと言つて立てたんださうですの、此の
旱ですから。」
八
岸をトンと
盪すと、
屋形船は軽く出た。おや、房州で生れたかと思ふほど、玉野は思つたより
巧に
棹さす。
大池は
静である。
舷の
朱欄干に、指を組んで、
頬杖ついた、紫玉の
胡粉のやうな
肱の下に、
萌黄に
藍を
交へた鳥の翼の
揺るゝのが、
其処にばかり美しい波の立つ
風情に見えつゝ、船はする/\と滑つて、鶴ヶ島をさして
滑かに浮いて行く。
然までの距離はないが、月夜には柳が
煙るぐらゐな
間で、島へは棹の
数百ばかりはあらう。
玉野は
上手を
遣る。
さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした
静な水も、棹に
掻かれて
何処ともなしに波紋が起つた、其の
所為であらう。あの底知らずの
竜の
口とか、
日射も
其処ばかりはものの
朦朧として
淀むあたりに、――
微との風もない折から、根なしに浮いた板ながら
真直に立つて居た白い御幣が、スースーと少しづゝ位置を
転へて、夢のやうに一
寸二寸づゝ動きはじめた。
凝と、……
視るに連れて、次第に、
緩く、柔かに、落着いて
弧を描きつゝ、其の
円い線の
合する
処で、又スースーと、一寸二寸づゝ
動出すのが、何となく池を広く大きく
押拡げて、船は遠く、
御幣は
遙に、不思議に、段々
汀を
隔るのが心細いやうで、気も
浮かりと、紫玉は、
便少ない
心持がした。
「大丈夫かい、
彼処は渦を巻いて居るやうだがね。」
欄干に
頬杖したまゝ、紫玉は御幣を
凝視めながら言つた。
「
詰りませんわ、少し渦でも巻かなけりや、
余り
静で、橋の上を
這つてゐるやうですもの、」
とお
転婆の玉江が
洒落でもないらしく、
「玉野さん、船を
彼方へ
遣つて見ないか?……」
紫玉が
圧へて、
「
不可いよ。」
「
否、何ともありやしませんわ。それだし、もしか、船に故障があつたら、おーいと呼ぶか、手を
敲けば、すぐに誰か出て来るからつて、女中が
然う言つて居たんですから。」とまた玉江が言ふ。
成程、島を越した向う岸の
萩の根に、一人乗るほどの
小船が見える。
中洲の島で、
納涼ながら酒宴をする時、
母屋から料理を運ぶ
通船である。
玉野さへ
興に乗つたらしく、
「お嬢様、船を少し廻しますわ。」
「だつて、こんな池で
助船でも呼んで
覧たが
可い、飛んだお笑ひ草で
末代までの恥辱ぢやあないか。あれお
止しよ。」
と言ふのに、――逆について船がくいと廻りかけると、ざぶりと波が立つた。其の響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな
浮木ほどに成つて居たのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の
面にぴたりとついたと思ふと、
罔竜の
頭、
絵ける
鬼火の如き
一条の
脈が、
竜の
口からむくりと
湧いて、水を
一文字に、
射て
疾く、船に近づくと
斉しく、波はざツと鳴つた。
女優の船頭は
棹を落した。
あれ/\、其の
波頭が
忽ち
船底を
噛むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三
尺あとへ引いて、
薄波を
一煽り、其の形に煽るや
否や、人の立つ如く、空へ
大なる
魚が飛んだ。
瞬間、島の
青柳に銀の影が、パツと
映して、
魚は
紫立つたる
鱗を、
冴えた
金色に輝かしつゝ
颯と
刎ねたのが、
飜然と宙を
躍つて、船の中へ
堂と落ちた。
其時、水がドブンと鳴つた。
舳と
艫へ、二人はアツと
飛退いた。紫玉は
欄干に
縋つて身を
転はす。
落ちつゝ
胴の
間で、
一刎、
刎ねると、其のはずみに、船も動いた。――見事な
魚である。
「お嬢様!」
「
鯉、鯉、あら、鯉だ。」
と玉江が夢中で手を
敲いた。
此の
大なる鯉が、
尾鰭を
曳いた、波の
引返すのが
棄てた
棹を
攫つた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ/\と流れて行く。
九
「……
太夫様……太夫様。」
偶と紫玉は、
宵闇の森の
下道で
真暗な大樹巨木の
梢を仰いだ。……思ひ
掛けず空から
呼掛けたやうに聞えたのである。
「
一寸燈を、……」
玉野がぶら下げた料理屋の
提灯を
留めさせて、さし
交す枝を透かしつゝ、――
何事と問ふ玉江に、
「誰だか呼んだやうに思ふんだがねえ。」
と言ふ……お師匠さんが、樹の上を
視て居るから、
「まあ、そんな
処から。」
「
然うだねえ。」
紫玉は、はじめて納得したらしく、
瞳をそらす時、
髷に手を
遣つて、
釵に指を触れた。――指を触れた釵は
鸚鵡である。
「此が呼んだのか知ら。」
と
微酔の目元を
花やかに
莞爾すると、
「あら、お嬢様。」
「
可厭ですよ。」
と
仰山に二人が
怯えた。女弟子の驚いたのなぞは構はないが、読者を
怯しては
不可い。
滝壺へ
投沈めた同じ
白金の釵が、其の日のうちに再び紫玉の黒髪に戻つた仔細を言はう。
池で、船の中へ鯉が
飛込むと、弟子たちが手を
拍つ、
立騒ぐ声が響いて、最初は女中が
小船で来た。……島へ渡した
細綱を
手繰つて、立ちながら
操るのだが、
馴れたもので、あとを
二押三押、
屋形船へ来ると、
由を聞き、
魚を視て、「まあ、」と目を

つた
切、
慌しく
引返した。が、
間もあらせず、今度は
印半纏を
被た若いものに船を
操らせて、亭主らしい
年配な
法体したのが
漕ぎつけて、「これは/\
太夫様。」亭主も
逸時く其を知つて居て、
恭しく
挨拶をした。
浴衣の上だけれど、紋の着いた
薄羽織を
引かけて居たが、
扨て、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二
尺三
貫目は
掛りませう。」とて、……
及び
腰に
覗いて
魂消て居る
若衆に
目配せで
頷せて、「
恁やうな
大魚、
然も
出世魚と申す
鯉魚の、お船へ
飛込みましたと言ふは、
類希な不思議な
祥瑞。おめでたう存じまする、皆、太夫様の
御人徳。続きましては、手前
預りまする池なり、所持の
屋形船。
烏滸がましうござりますが、従つて手前どもも、太夫様の
福分、
徳分、
未曾有の
御人気の、はや幾分かおこぼれを
頂戴いたしたも同じ儀で、
恁やうな心嬉しい事はござりませぬ。
尚ほ
恁くの通りの
旱魃、市内は
素より
近郷隣国、
唯炎の中に
悶えまする時、
希有の
大魚の
躍りましたは、
甘露、
法雨やがて、
禽獣草木に到るまでも、雨に
蘇生りまする
前表かとも存じまする。
三宝の
利益、
四方の
大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても
心祝ひに、此の
鯉魚を
肴に、祝うて一
献、心ばかりの
粗酒を
差上げたう存じまする。
先づ
風情はなくとも、あの
島影にお船を
繋ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を
母屋の方へ移しませう。」で、辞退も会釈もさせず、
紋着の
法然頭は、
最う屋形船の方へ腰を
据ゑた。
若衆に
取寄せさせた、調度を控へて、島の柳に
纜つた頃は、
然うでもない、
汀の
人立を
遮るためと、用意の
紫の幕を垂れた。「
神慮の
鯉魚、
等閑にはいたしますまい。略儀ながら
不束な
田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直つて
真魚箸を構へた。
――
釵は
鯉の腹を光つて出た。――竜宮へ
往来した釵の玉の
鸚鵡である。
「
太夫様――太夫様。」
ものを言はうも知れない。――
とばかりで、
二声聞いたやうに思つただけで、何の
気勢もしない。
風も
囁かず、公園の
暗夜は
寂しかつた。
「太夫様。」
「太夫様。」
うつかり釵を、又おさへて、
「
可厭だ、今度はお前さんたちかい。」
十
――水のすぐれ覚ゆるは、
西天竺の白鷺池、
じんじやうきよゆうにすみわたる、
昆明池の水の色、
行末久しく清むとかや。
「お待ち。」
紫玉は耳を
澄した。道の
露芝、
曲水の
汀にして、さら/\と音する
流の底に、聞きも知らぬ
三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、
微に
唄ふ声がする。
「――坊さんではないか知ら……」
紫玉は胸が
轟いた。
あの
漂白の芸人は、
鯉魚の神秘を
視た紫玉の身には、
最早や、うみ
汁の如く、
唾、
涎の
臭い乞食坊主のみではなかつたのである。
「……あの、三味線は、」
夜陰のこんな場所で、もしや、と思ふ時、
掻消えるやうに音が
留んで、ひた/\と小石を
潜つて響く水は、忍ぶ
跫音のやうに聞える。
紫玉は
立留まつた。
再び、名もきかぬ三味線の音が
陰々として響くと、
――日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿こと/″\しや、何処にて舞ひて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、一歳百日の旱の候ひけるに、賀茂川、桂川、水瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候ひけるに、――
聞くものは耳を澄まして
袖を合せたのである。
――有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受たれ給ふべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請じ、仁王経を講ぜられしかども、其験もなかりけり。又或人申しけるは、容顔美麗なる白拍子を、百人めして、――
「
御坊様。」
今は疑ふべき心も
失せて、御坊様、と呼びつゝ、紫玉が
暗中を
透して、声する
方に、
縋るやうに寄ると思ふと、
「
燈を消せ。」
と、
蕭びたが力ある声して言つた。
「
提灯を……」
「は、」と、返事と息を、はツはツとはずませながら、一度
消損ねて、
慌しげに
吹消した。玉野の手は震へて居た。
――百人の白拍子をして舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其験もなかりけり。静一人舞ひたりとても、竜神示現あるべきか。内侍所に召されて、禄おもきものにて候にと申したりければ、とても人数なれば、唯舞はせよと仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむしやうの曲と言ふ白拍子を、――
燈を消すと、あたりが
却つて
朦朧と、薄く
鼠色に
仄めく向うに、石の
反橋の
欄干に、
僧形の
墨の
法衣、灰色に成つて、
蹲るか、と
視れば欄干に
胡坐掻いて
唄ふ。
橋は心覚えのある
石橋の
巌組である。気が着けば、あの、かくれ
滝の音は遠くだう/\と鳴つて、風の如くに響くが、
掠れるほどの糸の
音も乱れず、唇を
合すばかりの唄も
遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は
著しいものではない、胸をくしや/\と折つて、坊主頭を、がく、と
俯向けて唄ふので、
頸を
抽いた
転軫に
掛る手つきは、鬼が
角を
弾くと言はば
厳めしい、
寧ろ黒猫が居て顔を洗ふと言ふのに適する。
――なから舞ひたりしに、御輿の嶽、愛宕山の方より黒雲俄に出来て、洛中にかゝると見えければ、――
と唄ふ。……紫玉は腰を折つて地に低く居て、弟子は、其の
背後に
蹲んだ。
――八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、扨こそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を給りけると、承り候。――
時に唄を
留めて黙つた。
「
太夫様。」
余り
尋常な、ものいひだつたが、
「は、」と、
呼吸をひいて答へた紫玉の、
身動ぎに、帯がキと擦れて鳴つたほど、深く身に響いて聞いたのである。
「
癩坊主が、ねだり
言を
肯うて、
千金の
釵を
棄てられた。其の
心操に感じて、
些細ながら、
礼心に
密と
内証の事を申す。
貴女、
雨乞をなさるが
可い。――
天の時、
地の利、
人の和、まさしく
時節ぢや。――こゝの
大池の
中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……
袴、
練衣、
烏帽子、
狩衣、
白拍子の姿が
可からう。
衆人めぐり見る中へ、其の姿をあの島の柳の上へ高く
顕し、大空に向つて
拝をされい。
祭文にも歌にも及ばぬ。
天竜、雲を
遣り、
雷を放ち、雨を
漲らすは、
明午を過ぎて
申の
上刻に
分毫も相違ない。国境の山、赤く、黄に、
峰嶽を重ねて
爛れた奥に、
白蓮の花、玉の
掌ほどに白く
聳えたのは、
四時に雪を頂いて
幾万年の
白山ぢや。
貴女、時を計つて、其の
鸚鵡の釵を抜いて、山の
其方に向つて
翳すを合図に、雲は竜の如く
湧いて出よう。――
尚ほ其の上に、
可いか、名を挙げられい。……」
――賢人の釣を垂れしは、
厳陵瀬の河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の筧の水とかや。――……
十一
翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒く成つて人が
湧いた。
煉瓦を
羽蟻で包んだやうな
凄じい群集である。
かりに、
鎌倉殿として置かう。此の……県に
成上の豪族、
色好みの男爵で、
面構も
風采も
巨頭公に
良似たのが、
劇興行のはじめから
他に手を貸さないで紫玉を
贔屓した、既に
昨夜も
或処で
一所に成る約束があつた。其の
間の時間を、紫玉は
微行したのである。が、思ひも掛けない出来事のために、大分の
隙入をしたものの、船に飛んだ
鯉は、其のよしを
言づけて
初穂と言ふのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ
使を走らせたほどなのであつた。――
車の通ずる
処までは、
最う自動車が来て待つて居て、やがて、
相会すると、
或時間までは
附添つて
差支へない女弟子の口から、
真先に予言者の不思議が
漏れた。
一議に及ばぬ。
其の
夜のうちに、池の島へ
足代を組んで、朝は
早や法壇が
調つた。無論、略式である。
県社の神官に、
故実の詳しいのがあつて、
神燈を調へ、
供饌を捧げた。
島には鎌倉殿の
定紋ついた
帷幕を
引繞らして、威儀を正した
夥多の神官が詰めた。紫玉は、さきほどからこゝに控へたのである。
あの、底知れずの水に浮いた
御幣は、やがて壇に登るべき
立女形に対して
目触りだ、と
逸早く
取退けさせ、
樹立さしいでて
蔭ある水に、例の
鷁首の船を
泛べて、
半ば
紫の幕を絞つた
裡には、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、
勲位の人々が、
杯を置いて
籠つた。――
雨乞に参ずるのに、杯をめぐらすと言ふ故実は聞かぬが、しかし事実である。
伶人の奏楽一順して、ヒユウと
簫の
音の
虚空に響く時、柳の葉にちら/\と緋の
袴がかゝつた。
群集は波を
揉んで
動揺を打つた。
あれに真白な足が、と疑ふ、緋の袴は一段、
階に
劃られて、
二条の
紅の
霞を
曳きつゝ、
上紫に
下萌黄なる、
蝶鳥の
刺繍の
狩衣は、緑に透き、葉に
靡いて、柳の中を、する/\と、容顔美麗なる
白拍子。紫玉は、色ある月の
風情して、一千の花の
燈の影、百を数ふる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
花火の中から、
天女が
斜に流れて出ても、群集は此の時くらゐ驚異の念は起すまい。
烏帽子もともに此の
装束は、
織ものの模範、美術の
表品、源平時代の参考として、
嘗て博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いづれ
什物であつた。
扨て、遺憾ながら、此の晴の舞台に於て、紫玉のために
記すべき
振事は更にない。
渠は学校出の女優である。
が、姿は天より
天降つた
妙に
艶なる
乙女の如く、国を囲める、其の赤く黄に
爛れたる
峰嶽を
貫いて、高く柳の
間に
懸つた。
紫玉は
恭しく
三たび
虚空を拝した。
時に、
宮奴の
装した
白丁の下男が一人、露店の
飴屋が張りさうな、
渋の
大傘を
畳んで肩にかついだのが、法壇の根に
顕れた。――此は
怪しからず、
天津乙女の威厳と、場面の神聖を
害つて、
何うやら
華魁の道中じみたし、
雨乞には
些と
行過ぎたもののやうだつた。が、何、降るものと
極れば、
雨具の用意をするのは賢い。……加ふるに、紫玉が
被いだ装束は、貴重なる
宝物であるから、
驚破と言はばさし掛けて
濡らすまいための、鎌倉殿の
内意であつた。
――
然ればこそ、此のくらゐ、注意の役に立つたのはあるまい。――
あはれ、身のおき
処がなく成つて、紫玉の
裾が法壇に崩れた時、「
状を見ろ。」「や、身を投げろ。」「
飛込め。」――わツと群集の騒いだ時、……
堪らぬ、と
飛上つて、紫玉を
圧へて、
生命を
取留めたのも此の下男で、同時に
狩衣を
剥ぎ、緋の
袴の
紐を
引解いたのも――鎌倉殿のためには
敏捷な、忠義な奴で――此の下男である。
雨はもとより、風どころか、
余の人出に、
大池には
蜻蛉も飛ばなかつた。
十二
時を見、
程を計つて、紫玉は始め、実は法壇に立つて、数万の群集を
足許に低き波の如く
見下しつゝ、
昨日通つた坂にさへ
蟻の伝ふに似て
押覆す
人数を望みつゝ、
徐に雪の
頤に結んだ
紫の
纓を
解いて、
結目を胸に、
烏帽子を背に掛けた。
其から伯爵の
釵を抜いて、意気込んで
一振り振ると、……黒髪の
颯と
捌けたのが烏帽子の
金に
裏透いて、
宛然金屏風に名誉の絵師の、松風を
墨で流したやうで、雲も竜も
其処から
湧くか、と
視められた。――此だけは工夫した女優の
所作で、手には
白金が
匕首の如く輝いて、
凄艶比類なき
風情であつた。
さて其の
鸚鵡を空に
翳した。
紫玉の

つた
瞳には、
確に
天際の
僻辺に、美女の
掌に似た、
白山は、白く清く映つたのである。
毛筋ほどの雲も見えぬ。
雨乞の雨は、いづれ
後刻の事にして、其のまゝ壇を
降つたらば無事だつたらう。
処が、
遠雷の音でも聞かすか、暗転に成らなければ、舞台に
馴れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、
目前鯉魚の
神異を見た、怪しき僧の暗示と
讖言を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の
袖のやうに白山の
眉に
飜るであらうと信じて、
須叟を待つ
間を、法壇を
二廻り
三廻り緋の
袴して輪に
歩行いた。が、此は
鎮守の
神巫に似て、
然もなんば、と言ふ足どりで、少なからず威厳を損じた。
群集の思はんほども
憚られて、
腋の下に
衝と
冷き汗を覚えたのこそ、
天人の
五衰のはじめとも言はう。
気をかへて
屹と成つて、もの忘れした
後見に
烈しくきつかけを渡す
状に、紫玉は
虚空に向つて伯爵の
鸚鵡を投げた。が、あの
玩具の
竹蜻蛉のやうに、
晃々と高く舞つた。
「
大神楽!」
と
喚いたのが第一番の
半畳で。
一人
口火を切つたから
堪らない。
練馬大根と言ふ、おかめと
喚く。雲の
内侍と呼ぶ、
雨しよぼを踊れ、と
怒鳴る。水の輪の拡がり、嵐の狂ふ如く、聞くも堪へない
讒謗罵詈は
雷の如く
哄と
沸く。
鎌倉殿は、船中に於て
嚇怒した。
愛寵せる女優のために群集の無礼を
憤つたのかと思ふと、――
然うではない。
這般、好色の豪族は、
疾く雨乞の
験なしと見て取ると、日の
昨の、
短夜もはや
半ばなりし
紗の
蚊帳の
裡を想ひ出した。……
雨乞のためとて、
精進潔斎させられたのであるから。
「
漕げ。」
紫幕の船は、矢を
射るように島へ走る。
一度、
駆下りようとした紫玉の
緋裳は、此の船の激しく襲つたために、一度
引留められたものである。
「…………」
と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、
白丁に
豆烏帽子で
傘を
担いだ
宮奴は、島になる幕の下を
這つて、ヌイと
面を出した。
すぐに
此奴が法壇へ
飛上つた、其の
疾さ。
紫玉が最早、と思ひ切つて池に飛ばうとする
処を、
圧へて、そして
剥いだ。
女の身としてあられうか。
あの、雪を
束ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あはれな
状は、月を祭る
供物に似て、
非ず、
旱魃の
鬼一口の
犠牲である。
ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわつと泣いた。
赤ら顔の
大入道の、首抜きの
浴衣の尻を、
七のづまで
引めくつたのが、
苦り切つたる顔して、つか/\と、
階を踏んで
上つた、
金方か
何ぞであらう、芝居もので。
肩を
無手と取ると、
「何だ、
状は。
小町や
静ぢやあるめえし、増長をしやがるからだ。」
手の裏かへす無情さは、足も手もぐたりとした、
烈日に裂けかゝる氷のやうな
練絹の、紫玉の、ふくよかな胸を、
酒焼の胸に
引掴み、
毛脛に挟んで、
「立たねえかい。」
十三
「
口惜しい!」
紫玉は
舷に
縋つて身を震はす。――真夜中の月の
大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる
睡蓮の如く
漾ひつゝ。
「口惜しいねえ。」
車馬の通行を
留めた場所とて、人目の恥に
歩行みも成らず、――金方の計らひで、――
万松亭と言ふ
汀なる料理店に、とに
角引籠る事にした。紫玉は
唯引被いで
打伏した。が、
金方は油断せず。弟子たちにも
旨を含めた。で、
次場所の興行
恁くては面白かるまいと、やけ酒を
煽つて居たが、
酔倒れて、其は寝た。
料理店の、あの亭主は、心
優いもので、
起居にいたはりつ、慰めつ、で、此も注意はしたらしいが、
深更の
然も夏の
夜の
戸鎖浅ければ、
伊達巻の
跣足で忍んで出る
隙は多かつた。
生命の
惜からぬ身には、
操るまでの
造作も要らぬ。小さな
通船は、胸の悩みに、身もだえするまゝに
揺動いて、
萎れつゝ、乱れつゝ、根を絶えた小船の花の
面影は、昼の空とは世をかへて、
皓々として
雫する月の
露吸ふ力もない。
「えゝ、口惜しい。」
乱れがみを

りつゝ、手で、砕けよ、とハタと
舷を打つと……時の
間に
痩せた指は細く成つて、右の手の
四つの指環は明星に
擬へた
金剛石のをはじめ、
紅玉も、
緑宝玉も、スルリと抜けて、きらきらと、
薄紅に、
浅緑に皆水に落ちた。
何うでもなれ、左を試みに振ると、
青玉も
黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……
竜の
口は、水の輪に舞ふ
処である。
こゝに残るは、名なれば其を
誇として、指にも髪にも飾らなかつた、
紫の玉
唯一つ。――紫玉は、
中高な顔に、深く月影に透かして
差覗いて、
千尋の
淵の
水底に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、
欄干と、あれ、森の
梢の
白鷺の影さへ宿る、
櫓と、窓と、
楼と、美しい
住家を
視た。
「ぬしにも成つて、
此、此の
田舎のものども。」
縋る波に力あり、しかと引いて水を
掴んで、池に
倒に身を投じた。
爪尖の沈むのが、
釵の
鸚鵡の白く
羽うつが如く、月光に
微に光つた。
「
御坊様、
貴方は?」
「あゝ、
山国の
門附芸人、誇れば、魔法つかひと言ひたいが、いかな、
然までの事もない。
昨日から
御目に掛けた、あれは手品ぢや。」
坊主は、欄干に
擬ふ
苔蒸した
井桁に、
破法衣の腰を掛けて、
活けるが如く
爛々として
眼の輝く青銅の竜の
蟠れる、
角の枝に、
肱を安らかに
笑みつゝ言つた。
「私に、何のお
怨みで?……」
と息せくと、
眇の、ふやけた
目珠ぐるみ、
片頬を
掌でさし
蔽うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り
目覚しい人気ゆゑに、恥入るか、もの
嫉みをして、
前芸を
一寸遣つた。……さて時に
承はるが
太夫、
貴女は其だけの御身分、それだけの芸の力で、人が
雨乞をせよ、と言はば、すぐに
優伎の舞台に出て、
小町も
静も勤めるのかな。」
紫玉は
巌に
俯向いた。
「其で通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品は
何うぢやらう。」
「えゝ、」
と仰いで顔を視た時、紫玉はゾツと身に
沁みた、腐れた坊主に不思議な恋を知つたのである。
「貴方なら、貴方なら――
何故、さすらうておいで遊ばす。」
坊主は両手で顔を
圧へた。
「
面目ない、われら、
此処に、高い
貴い
処に恋人がおはしてな、
雲霧を隔てても、其の
御足許は動かれぬ。
呀!」
と、
慌しく身を
退ると、
呆れ顔してハツと手を拡げて立つた。
髪黒く、色雪の如く、
厳しく正しく
艶に気高き
貴女の、
繕はぬ姿したのが、すらりと入つた。月を
頸に
掛けつと見えたは、
真白な
涼傘であつた。
膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、
白やかなる
手尖を軽く、彼が肩に置いて、
「私を
打つたね。――雨と水の世話をしに出て居た時、……」
装は違つた、が、幻の目にも、
面影は、
浦安の
宮、石の
手水鉢の
稚児に、寸分のかはりはない。
「姫様、
貴女は。」
と坊主が言つた。
「
白山へ帰る。」
あゝ、其の
剣ヶ
峰の雪の池には、
竜女の
姫神おはします。
「お馬。」
と坊主が呼ぶと、スツと
畳んで、
貴女が地に落した
涼傘は、
身震をしてむくと起きた。手まさぐり
給へる緋の
総は、
忽ち
紅の
手綱に
捌けて、朱の
鞍置いた白の
神馬。
ずつと
騎すのを、
轡頭を
曳いて、トトトト――と坊主が出たが、
「
纏頭をするぞ。それ、
錦を着て行け。」
かなぐり脱いだ
法衣を投げると、
素裸の坊主が、馬に、ひたと添ひ、
紺碧なる
巌の
聳つ
崕を、
翡翠の
階子を乗るやうに、
貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、
渺茫たる
曠野の中をタタタタと
蹄の
音響。
蹄を流れて雲が
漲る。……
身を投じた紫玉の助かつて居たのは、
霊沢金水の、
巌窟の奥である。うしろは五十万坪と
称ふる
練兵場。
紫玉が、たゞ沈んだ
水底と思つたのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であつた。――
雨を得た市民が、
白身に
破法衣した女優の芸の徳に対する新たなる
渇仰の
光景が見せたい。