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一 拙者昨夕散歩の際此辺一町以内の草の中に金時計一個遺失致し候間御拾取の上御届け下され候御方へは御礼として金百円呈上可仕候
月 日 あーさー、へいげん
これ相州西鎌倉
長谷村の
片辺に壮麗なる西洋館の門前に、今朝より建てる広告標なり。時は
三伏盛夏の候、
聚り読む者
堵のごとし。
へいげんというは東京……学校の
御雇講師にて、富豪をもって聞ゆる――西洋人なるが、毎年この別荘に暑を避くるを常とせり。
館内には横浜風を
粧う日本の美婦人あり。
蓋し神州の臣民にして情を
醜虜に
鬻ぐもの、俗に
洋妾と
称うるはこれなり。道を
行くに
愧る色無く、人に遭えば、
傲然として意気
頗る
昂る。昨夕
へいげんと両々手を携えて門前を
逍遥し、家に帰りて後、始めて秘蔵せし
瑞西製の金時計を遺失せしを
識りぬ。警察に訴えて捜索を請わんか、可はすなわち可なり。しかれども懸賞して細民を
賑わすにしかずと、一片の慈悲心に因りて事ここに及べるなり、と
飯炊に雇われたる束髪の老婦人、人に
向いて喋々その
顛末を説けり。
渠は曰く、「だから
西洋人は
難有いよ。」
懸賞金百円の
沙汰即日四方に
喧伝して、土地の男女老若を問わず、我先にこの
財を
獲んと競い
起ち、手に手に鎌を取りて、
へいげん門外の雑草を刈り始めぬ。
まことや金一百円、一銭銅貨一万枚は、これ等の細民が三四年間粒々辛苦の所得なるを、万一
咄嗟にこの大金を獲ば、
蓋し異数の
僥倖にして、坐して半生を暮し得べし。誰か手を懐にして傍観せんや。
翌日はとみに十人を加え、その翌日、またその翌日、次第に人を増して、遂に百をもって数うるに到れり。
渠等が炎熱を冒して、流汗面に
被り、気息
奄々として労役せる頃、高楼の窓半ば開きて、
へいげん帷を掲げて
白皙の
面を
露し、微笑を含みて見物せり。
かくて日を重ねて、一町四方の雑草は
悉く刈り尽し、赤土露出すれども、金時計は影もあらず。
草刈等はなお
倦まず、怠らず、
撓まず、ここかしこと
索れども、金属は釘の
折、
鉄葉の
片もあらざりき。
一家を挙げ、親族を尽し、腰弁当を提げて、早朝より晩夜まで、幾日間炎天に脳汁を
煮られて、
徒汗を
掻きたる
輩は、
血眼になりぬ。失望してほとんど狂せんとせり。
されど
毫も疑わざりき。渠等は
へいげん君の富かつ
貴きを信ずればなり。
渠等が労役の最後の日、天
油然と
驟雨を下して、万石の汗血を洗い去りぬ。蒸し暑き雑草地を払いて雨ようやく晴れたり。土は一種の
掬すべき
香を吐きて、緑葉の
雫滴々、海風日没を吹きて涼気秋のごとし。
へいげんこの
夕また愛妾を携えて門前に出でぬ。出でて快げに新開地を歩み行けば、松の木蔭に雨宿りして、
唯濡れに濡れたる一個の貧翁あり。
多くの草刈
夥間は
驟雨に
狼狽して、蟻のごとく走り去りしに、
渠一人老体の疲労
劇しく、足
蹌踉いて避け得ざりしなり。
竜動の月と日本のあだ花と、相並びて
我面前に
来れるを見て、老夫は
慌しく
跪き、
「御時計は、はあ、どこにもござりましねえ。」
幾多の
艱難の無功に属したるを追想して、老夫は
漫に涙ぐみぬ。
美人は
流眄にかけて、
「ほんとに御苦労だったねえ。」と
冷かに笑う。
へいげんは
哄然大笑して、
「
日本人の馬鹿!」
と
謂い棄てつ、おもむろに歩を移して浜辺に到れば、
一碧千里
烟帆山に映じて
縹渺画のごとし。
へいげん美人の肩を
拊ちて、
「人間は馬鹿な国だが、景色の
好いのは不思議さ。」
と英語をもって
囁きたり。
洋妾は
へいげんの腕に
縋りつつ、
「旦那もう帰ろうじゃございませんか。薄暗くなりましたから。」
「うむ、そろそろ帰ろうか。あの門外の
鬱陶しい草には弱ったが、今ではさっぱりして好い心持だ。」
「ですけれども、あの人足
輩はどんな気持でしょうね。」
「やっぱり時計が見着からないのだと想って、
落胆しているだろうさ。」
「
貴下はほんとに
智慧者でいらっしゃるよ。百人足らずの人足を、
無銭で
役ってさ。」
「腰弁当でやって来るには感心したよ。」
「ほんとにねえ。あのまあ蛇のいそうな草原を綺麗に
らして、高見で見物なんざ太閤様も
跣足ですよ。」
「そうかの。いや、そうあろう。実は自分ながら感心した。」
と揚々として
頤髯掻い撫ずれば、美人はひたすら
媚を献じ、
「ねえ貴下、
私はなんの因果で
弱小な
土地に生れたんでしょう。もうもうほんとに愛想が尽きたんですよ。」
へいげんは
頷きて、
「そうありたい事だ。こういっちゃ
卿の前だが、実に
日本人は馬鹿さな。しかしあんまり
不便だ。せめて一件の金時計を蔭ながら拝ましてやろうか。」
と
衣兜を探りて、金光
燦燗たる時計を出だし、
恭しく
隻手に捧げて
遥に新開地に向い、
陋み
嘲けるごとき音調にて、
「そらこれだ、これだ。」
途端に絶叫の声あり、
「あれえ!」
と見れば美人は
仰様に
転び、緑髪は砂に
塗れて白き
踵は天に朝せり。
太く喫驚せる
へいげんは更に驚きぬ、手中の金時計はすでに
亡し。
「おい大助。」
卒然従者を顧みて
立住まれる少年は、
へいげん等を去ること数十歩ばかり
後の
方にありて、浪打際を散歩せるなり。父は小坪に
柴門を閉じ、城市の
喧塵を避けて、
多日浩然の気を養う
何某とかやいえる子爵なり。その
児三郎
年紀十七、才名同族を圧して、後来多望の
麟麟児なり。
随う
壮佼は南海の健児栗山大助。
「若様何でございます。」
「
我が
謂った通り、金時計は
虚言だ。」
その声すでに
怒を帯びたり。
「どうしてお解りになりました。」
「今二人で
饒舌ってたろう。」
「
私には解りませんが、しきりに
饒舌っておりましたな。」
「うむ、解るまいと思って人の聞くのも
憚からず、英語ですっかり白状した。つまり百円を
餌にして
皆を釣ったのだ。
遺失たもないものだ、時計は現在持っている。
汝も
我の謂うことを
肯かんで草刈をやろうものなら、やっぱり
日本人の馬鹿になるのだ。」
血気
勃々たる大助は、かくと聞くより
扼腕して
突立つ時、擦違う者あり、横合よりはたと少年に
抵触る。
呀という間に
遁げて一間ばかり隔りぬ。
「
掏摸だ!」
三郎が声と共に大助は身を躍らして、むずと曲者の
頸髪執って
曳僵し、
微塵になれと頭上を乱打す。
「
手暴くするな。」
と少年は大助を制して、更に極めて温和なる調子にて、
「おい
盗ったろう。」
掏摸は陳じ得ず、低頭して罪を謝し、抜取りたる懐中物を恐る恐る捧げて
踞まりつ、
「どうぞお見逃しを願います。」
少年は打笑いつつ、
「何、突出しやせん。
汝はなかなか
熟練たものだ。」
「飛んだことをおっしゃいます。」
「いやその
手腕を見込んで、ちっと
依頼があるのだ。」
大助は
愕然として若様の
面を
瞻りぬ。
「この
懐中物もやろう。もっと
欲くばもっと遣ろう。
依嘱というのは、そらあすこへ
行く、あの、な、」
と
へいげんを
指して、
「
彼奴の持っている時計を
掏ってくれんか。」
その意を得ざる掏摸は、ただへいへいと
応うるのみ。
大助は驚きて、
「ええ、若様滅相な。」
「いや少し
了簡があるのだ。」
拘摸は事も無げに
頷きて、
「じゃあの金時計ですね。」
「汝知ってるのか。」
「そりゃちゃんと
睨んであります。あんな品は盗っても、売るのに六ヶしいから
見逃がして置くものの、盗ろうと思やお茶の子でさあ。」
「いや
太々しい野郎だなあ。」
と大助は呆然たり。
「汝も聞いたろう、あの長谷の草刈
騒動を。」
「知ってる段ですか。」
三郎は告ぐるに実をもってすれば、
「へえあの毛唐が!」
と掏摸だになお憤慨の色を表わせり。
「若様
此奴は離すと、
直に逃げてしまいますよ。」
「こう、情無いことを謂いなさんな。
私ゃこんなものでもね、日本が大の
贔屓さ。何の
赤髯、糞でも
喰えだ。ええその金時計は
直に
強奪って持って来やす。」
かかりし後、
へいげんはその
簪の花を
汚され、あまつさえ掌中の珠を奪われたるなり。
三郎は掏摸の奪いたりし金時計を懐にしつ、健児大助を従えて、その
夕月下に
へいげんの門を
敲きぬ。
誰何せる門衛に、我は小坪の某なり、約束の時計を得たれば、あえて主公に
呈らせんと来意を告げ、応接室に
入るに際して、執事は大助を見て三郎に向い、
「時計を
御拾得の方は
貴下ですな。この方は何用でいらっしゃいました。」
三郎いまだ答えざるに、大助は
破鐘声を揚げて、
「
俺あ下男だ。若様の
随伴をして来たのだ。」
「そんなら
供待でお控えなさい。」
と叱するごとく
窘めたり。大助は
団栗眼を
きて、
「
汝達の指図は
承けねえ。さあ若様御一所に入りましょう。」
執事はこれを遮りて、
「いいえなりません。応接室へは、用事のある客の外は、一切他人を入れませんのが、当家の家風でございます。」
へいげんは金時計を失いて、たちまち散策の興覚め、すごすご家に帰りて、燈下に愛妾と額を
鳩めつつ、その失策を悔い且つ悲しみ、
怏々として
楽まざりし。しかるに突然珍客ありて、告ぐるに金時計を還さん事をもってせり。
へいげんは快然
愁眉を開きしが、省みれは
衷に
疚しきところ無きにあらず。もし彼にして懸賞金百円を請求せんか。我にあらかじめ約あれば
駟も及ばず、今はたこれをいかんせむ。
身を一室に潜めて、まずその来客を
窺えば、料らざりき紅顔の可憐児、
二十歳に満たざる美少ならんとは。
這奴、
小冠者何程の事あらん。さはあれ従者に勇士の相あり。手足皆鉄、腕力想うべしと、
へいげん漫に舌を
捲き、すなわち執事をして大助を遠ざけしめむとしたるなり。
大助は敵の我を忌むを
識りて、
小主公の安否
心許なく、なお
推返して言わんとするを、三郎は遮りて、
「
宜しい
彼室で待ってな。」
「だって若様。」
「
可いよ。」
と眼もて語れば、大助は強うるを得ず、
「ええ、どこで待つのだ。案内しろ。」
「
静にせんか、何という物言いだ。」
と三郎は
警めぬ。
執事は大助を
彼方の
一室へ案内し、はたと閉ざして立去りける跡に、大助は
多時無事に
苦みつ、どうどうと
しこを踏みて四壁を動かし、獅子のごとき力声を
発して、満腔の鋭気を
洩しながら、なお徒然に堪えざりけり。
応接室にては三郎
へいげんと
卓子を隔てて相対し、談判今や正に
闌なり。
洋妾も
傍に侍したり。
渠は得々として
へいげんの英語を通弁す。
この時三郎を軽んずるごとく、
「一体貴下は何御用でお出でなすったのです。拾った物なら素直に返して、さっさとお帰りなすったら可いじゃございませんか。」
「お黙んなさい。時計と
交換にお礼の百円を戴きに来ました。」
「品物を拾って、それを返すのに礼金を与れと、そちらからおっしゃる法はございますまい。」
「いえ、
普通拾って徳義上御返し申すのなら、下さるたって戴きません。しかし今度のは――こう謂っちゃ
陋しい様ですが――礼金が欲しさに働きましたので、
表面はともかく、謂わば貴下に雇われたも
同でございます。それに承れば、何か貧乏人を
賑わすという様な、
難有い
思召から出た事だと申しますが。」
と弁舌流るるごとく、
滔々として論じ
来るに、
へいげん等はこは案外とおもえる
様にて、
「それじゃ御持参の時計を拝見いたしましょう。」
「これです。」と懐より時計を出だして
指示せば、
「どれどれ。」と取らんとするをさはさせず、三郎は
莞爾として、
「違えば
他に
遺失人を探します。貴下のなら百円下さいまし。」
彼方もさる者
詭弁を構えて、
「あれとは違いますが、やっぱり
私の時計で、それは
先刻掏摸に
盗られた品だが。怪しからん、どこでお拾いなすった。」と
暴らかに
詰れば、三郎少しも騒がず、
「そんなら
掏摸が
遺失たのでしょう。何しろ私は御門外の一町以内で拾って来ました。」
へいげんは大喝して、
「小僧、
汝は掏摸だ。」
「そういう者が
騙拐だ。」
「何を。」と
眼を
瞋して、はたと
卓子を打てば、三郎は自若として、
「ちと
仔細があって、貴下が人は知るまいと思っている事を、
私はよく知っております。文明国の御方にも似合わない、名誉ということを御存じがありませんか。私はむしろ貴下の
御為を思って計らうのですが、どうでございます。」
と朱唇
大に
気焔を吐けば、秘密のすでに
露れたるに心着きて、一身の信用地に委せむことを恐るれども、守銭
奴は意を決するあたわず。辞窮して、
「蒸暑い晩だ。」
と
へいげんは窓に立寄りて海を望み、たちまち
愕然として
退りぬ。
「
へいげん殺せッ。」
と叫ぶものあり。続いて起る
吶喊の声。
月は中天にありて一条の
金蛇波上に
馳する処、ただ見る十数
艘の漁船あり。
篝を
焚き、
舷を鳴して、
眼下近く
漕ぎ寄せたり。こはこの風説早くも聞えて、
赤髯奴の
譎計に憤激せる草刈
夥間が、三郎の
吉左右を待つ間、示威運動を行うなり。大助これを見て
地蹈を踏みて狂喜し、欄干に片足懸けて半身を乗出だしつ。
「も
一番やれ!」
と大音声に呼ばわれば、舟なる
壮佼声を揃えて、
「
へいげん殺せ。」と絶叫す。
洋妾は耳を
蔽いて卓子に俯し、
へいげんは椅子に
凭りて
戦きぬ。
三郎は
欣然として、
「
日本人の馬鹿が、
誑された
口惜さに貴方を殺すという
騒動です。はッはッ馬鹿な奴等だ。」
へいげんは色を失して、
「
私、私、何を
欺きました。」
「浜で御自分がおっしゃった
言をお忘れですか。」
へいげんはあるいは呆れ、あるいは
愕き、
瞬もせで三郎の顔を
瞻りたりしが、やや有りて
首を
低れて、
「決して欺きません、証拠がございまする。」
顔色土のごとく恐怖せる
洋妾を励まして、直ちに
齎らしめたる金貨百円を、三郎の前に
差出せば、三郎は
員を検してこれを納め、時計を返附して応接室を立出で、待構えたる従者を呼べば、声に応じて大助猛然と
顕れたり。
三郎は
笑ましげに、
「これをみんなに分けてやれ。」
大助は金貨を捧げて、高く示威運動艦隊に示しつつ、
「
衆見ろ、
髯から取ったこの百円を、若様が大勢に分けてやるとおっしゃる。」
その声いまだ
訖らざるに、どっと興る歓呼の声は天に
轟き、狂喜の舞は浪を揚げて、船も
覆らむずばかりなりし。
明治二十六年(一八九三)六月