六六館に開かるる婦人慈善会に臨まんとして、
在原伯の夫人
貞子の
方は、
麻布市兵衛町の
館を二頭立の馬車にて
乗出だせり。
いまだ額に波は寄らねども、束髪に
挿頭せる花もあらなくに、青葉も
過て
年齢四十に近かるべし。小紋
縮緬の
襲着に白襟の
衣紋正しく、
膝の
辺に手を置きて、少しく
反身の
態なり。
対の
扮装の
袖を連ねて
侍女二
人陪乗し、
馭者台には煙突帽を
戴きたる
蓄髯の
漢あり、
晏子の馭者の揚々たるにて主公の威権
想うべし。
浅葱裏を端折りたる
馬丁二
人附随い、往来狭しと
鞭を挙げぬ。
かくて
狸穴の
辺なる
狭隘路に
行懸れば、馬車の
前途に当って往来の
中央に、大の字に寝たる
屑屋あり。
担える
籠は覆りて、紙屑、
襤褸切、
硝子の
砕片など
所狭く散乱して、
脛は地を
蹴り、手は
空を
掴みて、
呻吟せり。
奮み行く馬の
危く
鰭爪に懸けんとしたりしを、馭者は辛うじて手綱を控え、冷汗
掻きたる腹立紛れに、鞭を
揮いて
叱咤せり。
「こら、そこを
退かんか馬鹿な
奴だ。」
夫人は端然として
傍目も振らず、
侍女二人は顔見合せ、
吐息と共に
推出す一言、「おお危い。」
屑屋は
眼を閉じ、歯を
切り、音するばかり手足を
悶えて、苦痛に堪えざる風情なりき。
避けて通らん
術も無く、引返すべき次第にあらねば、
退けよ、
退れと声を懸くれど、聞着けざるか道を譲らず、
馬丁は
焦立ちてひらりと寄せ、屑屋の襟首むずと
攫めば、虫の
呼吸にて泣叫ぶを、溝際に突放して、それというまま
砂烟を揚げぬ。
この時酒屋の
檐下より
婀娜たる
婦人立出でたり。薄色縮緬の
頭巾目深に、唐草模様の
肩掛を
被て、三枚
襲の
衣服の
裾、
寛闊に蹴開きながら、
衝と屑屋の身近に
来り、冷然として、既に見えざる車を目送しつつ、
物凄き
笑を漏らせり。屑屋は呻吟の声を絶たず。婦人はその顔を
瞰下して、「こう、太の字太の字。」
「おい。」と眼を開けば、
「もう
可い、起きな。何という不景気な
顔色だよ。」
「笑いごっちゃアありませんぜ。根っから
儲からねえ
役廻だ。」
と屑屋は苦も無く起上りぬ。健全無病の
壮佼なり。知らず何が故に
疾病を装いて、貴婦人の通行を妨げしや。
頬被を取りて
塵を払い、「
危険々々。御馬前に討死をしようとした。安くは無い忠臣だ。」
婦人は打笑み、「その位な事はしたって可いのさ。」
「あんまり
好かあねえ。
何しろ
対手が四足二疋だ。」
「踏まれたら因果よ。
白馬を飲む
祟りだわな。」
「
可笑くもねえ。」と落散る屑ども拾い込みてまた
手拭に頬を包み、
「
姉様、用は
相済かね。」
「あいよ、折角お稼ぎなさい。」
「御念には及びやせん。はい、さようなら。」と立別れ、飯倉の方へ急ぎつつ、いと殊勝に、「屑はござい。」
婦人は
後に
佇みて、帯の間より手帳を取出し、鉛筆をもて何やらん
瞬もせず書き
認め、一遍読返して、その紙を一枚引裂き、音低くしてしかも遠きに
達る口笛を吹鳴らせば、声に応じて
駈け来る犬あり。婦人はこれを見て、「じゃむこう」
蓋しその名ならむ。
裾に
絡めば
踞いて
頸を
撫で、かの
紙片を畳みて
真鍮の
頸輪に結び附け、
「京橋――毎晩新聞社――京橋――毎晩新聞社。」と語るがごとく
呟くがごとく繰返しつ。
「そら、よし、御苦労だね。」
(じゃむこう)といえる飼犬は、この用をすべく
馴らされたれば、
猶予う色無く
頭を
回らし、
頷くごとくに尾を
掉りて、見返りもせで
馳走去りぬ。
三十分を経たらんには、この書信は毎晩社の楼上なる担当記者の
掌に落ちんか。
「おい、
車夫様。」
婦人は振返りて手招きすれば、待たせたりし一人の車夫、
腕車を
曳きて近寄りぬ。
「じゃあこれから直ぐ。」「六六館へ?」
打頷けば
々として走りぬ。
深窓の
美姫、
紅閨の
艶姐、
綾羅錦繍の
袂を揃えて、一種異様の勧工場、六六館の婦人慈善会は冬枯に時ならぬ
梅桜桃李の花を咲かせて、
暗香堂に
馥郁たり。
在原夫人は第三区の受持にて、毛糸の編物を商いたまう。番頭は
麹町の
姫様にて、小浜照子という美人、華族女学校の学生なり。
前面の喫茶店は、貴婦人社会に腕達者の聞え高き深川子爵
何某の
未亡人、
綾子といえる女丈夫にてこの会の催主なり。三令嬢一夫人を
随えて、都合五人の茶屋女、
塗盆片手に「ちょいと
貴下。」
「
御休息なさいまし。」「いらっしゃいな。」と玉の
腕も
露わに
襷懸けて働きたまえば、見る者あッというばかり、これにて五十銭の
見世物とは
冥加恐しきことぞかし。
金縁の
目金を掛けたる五ツ紋の
年少紳士、襟を正しゅうして第三区の
店頭に立ちて、
肱座に眼を着くれば、照子すかさず
嬌態をして、
「
御購め下さいまし、
貴下、なるたけお働き申しますよ。何に遊ばす、これ、これが
可うございますよね。」と
牡丹形の肱座を取って突附けられ、平民と見えてどぎまぎしつ、
「はッはッお
何程で遣わされまする。」と震い声。照子はくすくす、「五十五銭にいたしておきます、
一閑張のお机にはうつりが
好うございますよ。一円ならお
剰銭をあげましょうか。」とはどこまでも男を下げられたり。
「いえ、銅貨で重うございますが。」と間の悪そうに勘定して、肱座を
引たくり、早足に歩み行くを、「もし、もし、ちょいとあの。」と呼返され、慌てて戻り、「何ぞ粗相をいたしましたか。」「御勘定違いでございましょう。二銭だけ不足です。」と
判然言われて
真赤になり、「それははや何とも。」と
蝦蟇口を探りつつ、これでもまだまだ見えをする気か、五銭の白銅
一個渡して見返りもせぬ心の内、今度呼んだら
剰銭は要らぬと、腹を見せる
目的の
処、何がさて如才なく令嬢は素知らぬ顔なり。
年少紳士
胆を抜かれてうっかりと
佇めば、
「
御休息なさいまし。」と茶店の
姫様。
はッと思う眼の
前へ深川夫人
衝と寄って、
「
貴下、お茶一ツ。」と差出すに
蒼くなりて、
「出口はどこでございます。」とは
可哀やもう眼が見えぬそうな。
入替りて洋服の高等官吏、「嬢様お精が出ますね、
令夫人御苦労でございます。」なかなか
場数功者かな。
照子は軽く
挨拶して、「これはようこそ。何ぞ御気に召したものはございませんか。」
「ありますともさ、ははは、ありますともさ。まずこれが
可し、それからこれも可しと、
〆て
三個頂戴いたします。ちょいと御勘定下さい。」
照子は
頤にて数え、「二円八十銭……。」と言い懸けて
莞爾と笑い、「お安いものよ、ねえ貴下。」予算よりは三倍強なるに「えッ。」と
眼を
りしが、天なるかなと
断念て、「以後は正札附になすってはどうです、その方がお手数が
懸りますまい。」
我慢強き男というべし。
「御注意
難有う存じます。」と伯爵夫人が御会釈あり。
取出だすは折目無き五円
紙幣。「これで。」と
差出だせば、「はいはい。」と取って
澄したもの、
剰銭を
出ださん気色も無し。官吏始めて心着き、
南無三失策ったりと思えども、慈善のための売買なれば、剰銭を返せと
謂い難く、「こりゃ
体のいい
強奪だ。」と泣寝入に
引退りぬ。
後に二人は顔見合せ、
徳孤ならずと
笑壺に
入る。
店頭に今度は婦人、この会場に
入るものは、位ある
有髯男子も脱帽して恭敬の意を表せざるべからざるに、
渠は何者、
肩掛を
被ぎ、頭巾目深に面を包みて、
顔容は見えざれども、目は
冷かに人を射て、見る者を
慄然とせしむ。
照子の顔をじろりと
視め、「おい、
姉様。こりゃ
何程だい。」
冴えたる月に一片の雲
懸れり。照子は
顰みぬ。
「ちょいとお
婆様。」
婦人は照子の答えざるを見て、伯爵夫人を婆様
呼わり、これもまた異数なり。「おや、返事をしないね。耳が
疎いのか、この
襯衣を買って
進げよう。」
と答えざれども
無頓着、
鳶色の毛糸にて見事に
編成したる襯衣を手に取り、
閉糸をぷつりと切りぬ。
これのみにても
眼覚しきに、
肩掛をぱっと
脱棄てたり。慈善会場の客も
主も
愕然として
視むれば、渠はするすると帯を解きて、
下〆を
押寛げ、
臆する色なく
諸肌脱ぎて、衆目の
視る処、
二布を恥じず、十指の
指す処、乳房を
蔽わず、
膚は清き雪を
束ね、薄色友禅の
長襦袢の
飜りたる
紅裏は燃ゆるがごとく
鮮麗なり。世に
馴れては見えたまえど、もとより深窓に
生育ちて、乗物ならでは
外に
出でざる
止事無き方々なれば、
他人事ながら恥らいて、顔を背け、
頭を
低れ、正面より見るものなし。
秋水を
佩ける将校もあり、
勲章を帯べる官吏もあり、天下有数の貴婦人、紳士、前後左右を擁せる中に、半身の
裸美自若として
突立ちたるは、傍若無人の
形状かな。
「何だ。」「何者だ。」「野蛮
極る。」「
狂人だ。」と一時に
動揺めく声の下より
朗に歌うものあり。
色は天下の
艶たり、心はすなわち女中の郎。
喝采と手を
拍つもの五七人。
婦人は
毀誉を耳にも懸けず、いまだ売買の約も整わざる、襯衣を着けて、
膚を蔽い、肩を納め、帯を
占め、
肩掛を取りて
颯と羽織り、悠々として去らんとせり。
「
盗人待て。……」と伯爵夫人は一方ならぬ侮辱を
蒙りて、
堪え堪えし腹立声。
「何を。」色をも変ぜず見返る婦人。
照子嬢も声鋭く、「それは売物です。」と
遣込むれば、
濶歩に引返し、「だから
最初に聞いたじゃないか、
価値が
解れば払うのさ。」
憎さも憎しと伯爵夫人、「二円。」と恐しき
懸を
謂う。
婦人はちっとも驚かず、「それじゃ二十銭
剰銭を下さい。」
「まだ何にも請取りません。」と貞子の方は
真面目なり。
「
先刻五円払いました。」
照子は聞くより怒気心頭を
衝きて
面を赤め、
「
騙局です、失敬な。
夫人巡査を呼びましょう。」と愛々しき眼に角立つれば、
「はい、引渡しましょう。秋や定。」と
急込むにぞ、側に
侍いける
侍女二
人、ばらばらと立懸くるを、遮って
冷笑い、
「こうこう騒ぎなさんな。
塵埃が
煽つによ。お
前様方は美くしい手で恐しい
掴取をしなさるね。今のあの男は二円八十銭の買物をして、五円渡して
去ったじゃないか、そこで
私の買物が二円さ、
可しかえ。合計四円と八十銭になるんだね。」「えー。」二人の
呆るるを、それ見よと
畳懸け、
「銅貨じゃ重いわ。二十銭
銀貨で
呉んな。」と
空嘯きつつ小膝を
拍ち、「おっと、まだ有る。目金をかけた若い衆が、二銭の不足に五銭と払った、その三銭も返すんだよ。」
夫人はギクリ、照子は無言。
天下泰平町内安全、産ある者は
仁者となり、産無き者は志士となりて、賢哲天下に満ちたれば、六六館の慈善会は今にはじめぬ
大当。
就中喫茶店は、貴婦人社会にさるものありと
衆も
識りたる深川綾子、花の
盛の春は過ぎても、恋草茂る女盛り、若葉の
雫滴たるごとき
愛嬌を四方に
振撒き、多恨多情の
八方睨に大方の君子を殺して
黄金の汁を吸取ること
長鯨が
百川を吸うがごとし。
助けて働く面々も、すぐり抜きたる
連中が腕に
縒否
襷を懸けて、車輪になりて立廻るは、ここ二番目の世話舞台、三階
総出大出来なり。
されば一
皿の菓子、一
盞の
珈琲に、一円、二円と
擲ちて、なおも冥加に余るとなし、我も我もと、
入交り、立替る、随喜の
輩数うるに
勝うべからず。
収入満と
唸るといえども、常住の
寡慾に
肖もやらで、慈善の
慾は極り無く、貪るばかりに取込みても人に施すにはいまだ足らずと、身を
粉にし、骨を折る、
賢媛、
閨秀の
難有さよ。
さるにても
暢気の
沙汰かな。我に
諂い我に
媚ぶる
夥多の男女を客として、
貴き身を
戯に
謙り、商業を
玩弄びて、
気随に一日を遊び暮らす。これをしも社会が
渠等に与うるに無形の
桂冠をもってする
爾き慈善事業というべきか、と皮肉なことはいいっこなし。
渠等がこれに因って得る処の気保養たるや、天がその徳に
酬ゆる寸志のみ、また
怪むに足らざるなり。
閑話休題。
とんとん拍子に
乗が来て、深川夫人は
嫣然顔、人いきりに面
熱りて、
瞼ほんのり、
生際に
膏を浮べ、四十
有余の
肥大紳士に御給仕をしたまいながら、「あら
貴下、よくってよ。」などとやっていたまいし折柄
騒動のはじまりたるなり。知らざりき、我々にもかかる不如意のあらんとは。
在原夫人と照子嬢は散々に
罵倒されて、無念の唇を
噛みたまえば、この神聖なる慈善会を、
汚し犯すは何等の
外道と、深川綾子も喫茶店より、第三区に赴きて
固唾を飲んで
聞たまえり。
件の婦人は落着払い、その
冷かなる
眼色にて、ずらりと
四辺を見廻しつ、「さっさとしないか。おい、お天道様は
性急だっさ。」
飽くまで侮る
一言に、
年齢少にて
気嵩の照子は、
手巾を
噛占めて、
口惜涙を、ついほろほろ。
夫人はさすが
年紀の功、こは
癈疾と棒ちぎり、身分に障ると分別して、素直に
剰銭を
出ださるれば、丁寧に
員を検し、
繻子の帯にきゅっと
挿みぬ。
これを見て照子は声震わし、「あの男は
其方の何だえ。親類かい、
知己かい。」
いいも終らざるに
婦人は答えぬ。「あれかい、あれは私の宿六――てッちゃあお
前様に解るまい。くわしく
謂えば亭主のことさ。」
照子は眼中に涙を
湛えて、
屹と
婦人を
凝視ながら、「それでは。」となお謂わんとすれば、夫人
密にその
袂を控え、
眼注して
停めらる。振切って、
「いえ、
可うございます。これ、それではあの
近視眼は……いえ、謂わして下さいよ。
他人の金銭に
其方が関係する権利はあるまい。一体近視眼は其方の何だい。」
と、ぽんと一本参りたまえば、待構えし
体にて平然と、「ありゃ
私の
男妾さ、
意気地の無い野郎さね。」一同聞いて
唖然たり。
渠がいう処のしらじらしさ、
虚言は見透きて
明なれど、あらずというべき証拠なければ、照子は返さん言葉も無く、
悄れて
首を
低れたまいぬ。
この時まで無言にて傍観せられし深川夫人、何か心に
頷きながら、
突立ちたる
婦人の
背を、しなやかに不意打して、
「モシ
貴女。」
「エー。」と振返るに
引被せて、
「済んだらこちらへいらっしゃいな、お茶一つあげましょう。」と
風流に
屈む柳腰。
屹と
視て、「フフ、
此奴はちっと骨がある。」
兵法に曰く柔よく剛を制すと、深川夫人が
物馴れたる
扱に、
妖艶なる
妖精は
火焔を収め、静々と導かれて、
階下なる談話室兼事務所に
行けり。
群集は崩れ、
雑沓鎮まり、一条の紛乱はかくしてようやく
鎮撫に帰しぬ。
野分の
後は
寂寞閑。
夫人も令嬢も
太く得意を
減殺されて、気焔
大に衰えたり。
それより照子、
鬱々として
愉まず、
愁眉容易に開けざるにぞ、在原夫人は
語を尽して、
賺しても、慰めても頭痛がするとて額を
押え、弱果てて見えたまえば、見るに見かねて
侍女等、
「
姫様こういらっしゃいまし。」一まず
彼室の休息所へ、しばし引込みたまうにぞ、大切なる
招牌隠れたれば、店頭
蕭条として秋暮の
歎あり。
これではならぬ、と
御迎の使者相望めば、御機嫌を見計らいて
侍女は慰むる。「あんなあばずれのいった
言は、ナニ、
蚊が鳴いたのだと
思召しまし。御気分が
癒りましたら、二階へお
出で遊ばしませんか。」「そうさね。」とどちらつかず。「在原の
夫人ばかりでは何にも売れはいたしませんよ。」「ナニ、まさか。」と口にはいえど、さもあらんという
顔色。
「それに、姫様。」と侍女は
仔細らしく小声になり、
「
福助がもう来ます時分、ここにいらっしゃると見落しますよ。」
と
乳の下三寸に
銃口を向ければ、
「それじゃ
行こうか。」とは罪がなし。
御迎の使者またもや到来、「モシ姫様、どうぞ来て下さい。
貴女でなければならぬそうです。」
「度々御苦労ね、今
直に。」と照子の答に、使者面目を施して、ばたばたにて引返すを、
此方の侍女
追縋りて、
「ちょいとちょいと、若旦那はまだ来ないの?」と肩を叩く。「えーどこの。」と勘の悪さ。「米沢町のさあ。」「ああ、
新駒屋かね。」「大きな声だよ。まあ来たかい。」「今しがた来たっけよ。」「それ、姫様、ちゃっとちゃっと。」
「あいよ。」と嬉しそうに、
慌しく立上れば、
御使者番は気の毒そうに、「そうしてもう帰っちまったわ。」「えっ。」と驚く侍女より照子は先にべったり
坐り、「私はもう。」と失望落胆。
半巾をびりりと喰裂きて、「車夫に、
支度を。直ぐ帰る。」
これがそれ慈善会中に第一流の
貴女なり。
応接所の戸をぴんと閉めて、
人払の上
立籠れるは深川綾子と怪しき
婦人。
綾子は
後向にて顔は見えず、片手を
卓子に、片手を膝に、
端然と澄まして、敵の
天窓を
瞰下したり。
以前の
勢に似もやらで、
婦人は少しく
悄れし
体、袖を重ねて
俯向きたり。
惟うに博学多才なる深川夫人が慈善会を代表して、
渠が暴行を戒めしに、屈服したりしものならんか。弁論今や終局して、綾子は渠が服罪を待たるる様子。
されども
婦人は徹頭徹尾口を結びて開かざるなり。綾子はまた、
「
尤も
不束なものが寄合っていたすのでございますもの、行届かぬがちには相違ございません。少しの
過失があるからって、直ぐああいう
愛想尽をなさいますのは、そりゃ
貴女無情ではございませんか。
この会を一呑みになすった
先刻の振舞、私も呆れながら感心しました。で、きっと私共の会に対して不平がおありなさるんでしょう、就いては御意見がございましょう、それを承りたいものですね。」
と真綿で首、
上靴の
爪先にて床をとんとんと叩きつつ渠が返事を促せど、
聾せるがごとく死灰のごとし。
あたかもこの時「新聞。」と戸を叩きて呼ぶものあり、綾子は椅子をずらしてちょいと振向き、
「後で
可いよ。」
外より
推返して、「この会のことが出ております。」
「そう、ではこちらへ。」
小使
恭しく
入来りて
卓子の上にそれを
載せつ、一礼して
退出ずるを、と見れば毎晩新聞なり、綾子は
傍に
推遣りて、
「サ、どうでございます。」といよいよ迫る。
今まではさも殊勝なりし
婦人、
電のごとき眼を新聞に注ぐと
斉しく身を
反し、
伸を打ち、
冷切ったる茶をがぶり、口に含み、
嗽して、
絨毯の上に、どっと
吐出し、「何だい、しみったれな。貴婦人のお茶一つてい
御馳走はこんなものか。」
容子ががらりと打って変り、「
鷹の爪でも出すだろうと面倒ながら
交際た。
人愉快もねえ
駄味噌を並べて、あたら寿命を縮めたね、こう、お綾
様。」
と、一面識も無き者の我名を呼ぶに綾子は呆れ、
婦人の顔を
瞻るのみ。委細構わず
馴々しく、
「去年、旦那が
死歿って、朝夕淋しくお暮しだろう。慈善だの、何だのと、世間体はよしにして、
情夫でも御稼ぎなさいな。私やもう帰ります。」と、襟
掻合して立上り、「そうそうその新聞のね、三枚目を読んでみな。お前達の薬があるよ。」これを
捨台辞にして去らんとするを、綾子は
押止め、
「御待ちなさい。」
婦人は冷淡に、「何も用が……」
「いいえ、ございます。」と綾子は熱心。
「何さ、こっちに無いってことさ。そっちに用がおありでも、私やちっとも構いません。」冷々然として言放てば、とめても
無益と綾子は強いず、「しかしこのままお別れは
残惜い。お
住居は? せめてお名だけ。」と余儀無く問えば、打笑いて、
「私の家は日本中サと
謂えば豪気だが、どこと
定って屋根は持たぬ。差当り
四谷近辺の橋の下で犬と寝ている女乞食。」「え!」「
丹と申す、お転婆さ。」
婦人慈善会は三日続きの予定なりし、初日より
あやかしがつき二日目の
早朝、六六館へ出懸くる途次、綾子は内談の
条ありて在原夫人を市兵衛町の
館に見舞えり。
客室に通りて待たるれば、
侍女に
襖を開かせ、貞子の
方静々と
立出らる。
「これは早朝から。」「イエ、どう致して。」「
好いお天気で。」と挨拶終りぬ。
綾子、
袱紗包を開きて、
昨日の毎晩新聞を
取出し、「時に。」と開直りて、「ま、これを。」と
仔細ありげ。
「何でございます。」と眼を注ぐ、三枚目に
左のごとき雑報あり。
○今朝麻布狸穴にて、疾病、飢餓、交々起り、往来に卒倒して死に垂々とせる屑屋あり。交番も程遠く近隣に人無ければ、誰ありて介抱するもの無く、一杯の水を恵むもあらず、屑屋は人心地も無く呻きおりぬ。折から二頭立の馬車を駆りて、ここを過ぐるものあり。これ慈善会に赴かんとする在原貞子の途次なりき。しかるに万死の貧民に向って道を譲らざる無礼を責め、無慙なる馬丁は渠を溝際に投飛ばして命縷将に絶えなんとする時、馬車は揚々として立去れり。
車中の婦人はこれが始終を見物しながら、貴族たる権威の発表せられしを歓べる色ありきという。
「一体事実でございますか。」と綾子は眉を
顰めて問えり。
貞子の方は言葉縮まり、窮して
応うる処を知らず。
読来りて眉動き、読去りて
蒼くなりぬ。
見る間に太る額の
蒼筋、
癇癪持の頭痛
病にて、中年以来
丸髷に結いしこと無き難物なれば、何かはもって
堪るべき。
呼鈴を
烈しく
鳴して、「矢島をこれへ。」と御意あれば、
畏まりて
辷出づる
婢と
入違に、
昨日馬を
馭せし矢島由蔵、真中の障子を開きて縁側に
跪き、
「もはや御耳に達しましたか、何ともはや恐入りました。」と
続様に額を下ぐ。
夫人は
御褥を
辷らしたまいつつ、「金次に早速
暇を出しゃ、
其方もきっと謹むが
可かろう。」との御立腹。
「はッ、
仰一応
御道理、
御言を返しましては恐多くござりまするが、あれが死にましたは何も金次の知ったことではござりませぬ。」
綾子も夫人もぎょっとして、「ええ、死んだと。」
「はッ、いつも朝御飯を戴いて
外へ出ますのが、今日は御玄関が開くとそのまま飛出しました。これが前兆と申すのでございましょうか、誠に争われぬもので、
御愁傷様。」
と恐入るは、ちと筋道が違うようなり。
夫人は
訝り、「これこれ、
其方は血迷うていやるようじゃ、落着いて申すが可い、死んだといやる、何がどうしたのじゃ。」
矢島も
怪訝な
顔色にて、「御手飼の
狆が
屠犬児に。」
「おや……」と夫人は血相変え、
火箸を片手に握りしまま、
衝と立上って矢島を
睨附け、「ヌ――」とばかり、激怒して口が利けず。
新聞にて
たたかれし
口惜さと、綾子に対して言訳なさと、秘蔵の狆の不幸とが
一時に衝突して、夫人の剣幕さながらダイナマイトのごとくなれば、矢島は
反返って両手を前に
突出し、「で……で、下手人はその場を去らず、と……捕えました。
死骸は御玄関、きっ……きっと
敵を。」と
呂律もしどろ。
「
貴女ちょいと。」失礼といいもあえず、夫人はずるずると
裳を
引摺り、玄関へ
駈出したまう。「ああだもの。」と歎息して、綾子は後に思案投首。
撲殺して
占め損い、
遁げんとして
馬丁に
見露され、書生のために捕えられて、玄関に
引摺込まれし、年老いたる
屠犬児は、
破褞袍を
衣て荒縄の帯を
〆め、
踵の
辺は摺切れたる
冷飯草履を片足脱ぎて、
花崗石の上に
平蜘蛛。
可憐お手飼の狆は、一棒を
撲ってころりと往生し、
四足を縮めて横たわりぬ。
貞子の方は奥より駈出で(見るに眼も
眩れ心も消え、)と
絃に乗るまでにはあらざるも、式台の戸より
隙見して、一方ならぬ
御愁傷なり。書生は殊更にかっぷと
唾を
拳に打占め、
「
不屈な奴だ、
恣に動物を
殺傷するとは容易ならぬ犯罪だ。金どんどうしてくりょうな。」と
件の拳固に、はッはッと
気勢を吹く。
金次は仰山に
自然木の
杖を構え、無事に
飽倦める腕を鳴して、
「野郎め、飛んだことをしやがった。平民の野良犬も多いのに、何も
選好をして華族様の御手飼を
殺らずともの事だ、奥様に知れようものなら、金次一生の
越度とならあ、
忌々しい。
汝、どうして腹を
癒よう。」と、
地板をどしん。
屠犬児は
震上り、「あ、皆様手荒きことをなされますな、畜生の死んだのは取返す法もあれ、人間の
身体はこれ
撲ると
疵が附きまする。」
「知れた事だ。
汝等のような
蛆虫は撲殺したって
仔細は
無え。金次どうだ。」「
撲っちまえ。」と、
拳と
杖の
空に躍るを、「待った。」と
間に割込むは、
夫人の後を追うて、勝手口より
出たる矢島、「今聞いた、何か、
活す法もあると
謂ったな、なろう事なら
活して戻せ。
汝も無事じゃ、我等も満足、自他の幸福というものじゃ。さ、どうじゃ。」
と
平和に
謂出だせば、屠犬児は顔を
擡げて、「何の雑作もござりませぬ。初手からそう出さっしゃれば、訳は無いに、余計なことに御騒ぎなされる。やれやれ。」と起上りて、「襟首を放した、放した。」
書生も馬丁も没面目、手持不沙汰に控えたり。屠犬児は腰を
捻りて、狆を
手許に
掴寄せ、
「この
骨だ。それ。」と懸声して、やっと一番活を入るれば、不思議や
四足をびりびりびり。一同これはと驚く処に、
「も一つかい。」とまたごつん。
たちまち
蘇生て悲鳴を揚げ、
太く物に恐れし
状にて、狆は式台に
駈上れば、やれ嬉しやと奥様は戸を引開け
抱き上げて、そのまま奥へ、ふいと御入。
しばらくして、
侍女立出で、「矢島
様お奥で召します。その人を連れまして庭口からお露地へ。」
こはそも華族の
御身として、かったいものの屠犬児に、
直接御面会は心得ずと、矢島は思えど、主命なれば、
来れ、と
渠を
麾きて、庭口より露地へ廻れば、夫人は縁側に
褥を移して、綾子と二人並び坐しつ。
引退りて腰元一人、三指にて
侍べれり。
「はッ、御意に依って召連れました。」屠犬児はただおずおず。「これへ近う。」と仰せらる。
この屠犬児恐しき家業には似もやらで、至極
実体者、地に
平伏し、
「
唯今は御慮外をいたしまして、恐入ってござります。命を
繋ぐためとは申せ、
因業な
活計でござりまして、
前世の罪が思い遣られまする。」と
啜上げて、
南無阿弥と小声にて唱え、「じゃと申して、土を
噛っては
腹が承知いたしませぬ処から、余儀なく悪いことを致しまする。ああ、この世からの畜生道、
良い死目には逢われますまい。
果敢いことでござります。」
潸然として
溢す涙に真心見えて
哀なり。
「
老年が罪を造るのも貧ゆえです。ねえ、
貴女。」と綾子眼をしばたたけば、貞子は
頷きて、「定や、あれを遣わすが可い。」
侍女は
畏りて一包の
金子を持出で、
「
御情だよ、頂戴しな。」と
痩せたる
掌に握らすれば、屠犬児は樹に
魚を獲たる心地、呆れて
窪める眼を
りぬ。
綾子は少しく乗出だし、「
他に渡世の道が無いでもあるまい。ちっとじゃが
資本にして、そういう
穢らわしい商売は
休めたが
可い。お前はどこの者だえ。」
溢るるばかりの
情の
露れ、屠犬児は袖を
濡して、「ああ、
忝うござります。何たる、神様か、仏様か、お
庇で清く死なれまする。はいはい、
私風情にここと申す
住所もござりませぬ。もう
御暇を下されまし。」と
揉手をしつつ
後退。
御両方無言にて頷きたまえば、再び矢島に
導れ、門を出でて三拝せしが、見送る人眼のあらずなれば、ニヤニヤと笑うて、ペロリと舌。
「占めた、占めた。」と
呟きつつ立去る裾をひしと
啣えて引留めたる一頭の犬あり。
「屠犬児を
引張るなあ、どこの犬だい、ずうずうしい。」首を
捻りて、「ほい、じゃむこう。
姉御はどうした。」
「ここに居るよ。」
と辻便所より女乞食、
膚の色の真白きに、
海松のごとき
袷を
纏えば、泥に
塗れし
残の雪。
破草人の笠を
被りてよぼよぼと
杖に
縋り、
呼吸づかい苦しげに――見せ懸けたるのみ、実はしからず。
「おい。」と屠犬児を
呼近附け、「呉れたろう。」「
貰ったよ。姉御の先見
露違わずだ。」と先刻の包を取出だして、「あててみさっし。」
「片手がものだ。……ね、それ、違いなし違いなし。」
屠犬児は
天窓を
掻きて、「むこうがおめでたいだけにちっとは
冥利が
悪いようだ。はて、
体の
良い
騙取じゃねえか。」
女乞食は
微笑みて、「何のお前、罪にならぬ盗人は白日御免の世の中だによ。どう、五円だけ油を掛けよう。」
在原貞子、深川綾子、両夫人の徳に感化して兇悪なる屠犬児心を飜して良民となれり。噫偉なるかな、其仁禽獣に及ぶ……と無暗にお誉めなさるべく候。
毎晩新聞社にて――清ちゃん行。
紙片に記して読返し、「これじゃ一両がものはあるわね。」
在原夫人の屠犬児に
金子を恵みたるは、
蓋し綾子の勧誘に因れり。
「ああしておいて様子を見ましょう。もし今日のことがまた新聞に出ますようだと、何物か我々社会の挙動を探って世に
曝露しようと
企るものがあるのです。そうした日には
私共もその心得が無ければなりません。で、試してみたのです。どっちみち今日の
恵は
御為に悪いことはございません。」と
座蒲団を
撥ねて、「これは早朝から御邪魔申しました。それではなりたけお早く
御出下さいまし、一足御先へ。」と座を開けば、
「もうちと
宜しいじゃございませんか。」「いえ、まだ用事もございます。さようなら
六六館で御待ち申します。」貞子は
昨日の今日にて気が進まず、「ふとすると失礼致すかも知れません。
悪からず。」綾子は
怪み、「何ぞ
御差支がございますか。」
貞子夫人は額を押えて、「はい、血の道が起りました。」
蓋し無理ならぬ
仰なり。
病気を強いてとも
謂い難く、「それは
不可ませんね。
御大切になさいまし。しかし大抵なら御待ち申しますから……」
言葉を残して綾子は静々、「
御帰ッ。」と書生が通ずれば、
供待の車夫、
踞うて直す駒下駄を、爪先に
引懸けつ、ぞろりと
褄を上げて車に乗るを、物蔭より
婢が
覗きて、「いつ見ても水が垂るようだ。」
この
腕車勢好く我善坊を通る時、
出合頭に横小路より異様なる行列
練出でたり。
朽葉色に
垢附きて、見るも忌わしき白木綿の
婦人の布を、
篠竹の
頭に結べる旗に、(厄病神)と書きたるを、北風に
煽らせ、意気揚々として
真先に歩むは、三十五六の
大年増、当歳の
児を
斜に負うて、
衣紋背の
半に抜け、帯は毒々しき
乳の上に
捩上りて
膏切ったる
煤色の肩露出せり。顔色青き
白雲天窓の
膨脹だみて、
頸は肩に
滅入込み、手足は
芋殻のごとき
七八歳の餓鬼を連れたり。次に七十二三の老婆、世に消残る
頭の雪の
泥塗にならんとするまで、
太く腰の曲りたるは、杖の
長の一尺なるにて知れかし。
這うがごとくに、よぼよぼ。続くは十五六の女、
蒼面、乱髪、帯も
〆めず、衣服も着けず、素肌に
古毛布を
引絡いて、破れたる穴の中よりにょッきと天窓を出だせるのみ、歩を移せば
脛股すなわち出ず、警吏もしその失体を
詰責せんか、我は貧民と答えて可なり。
その他肥えたる
豕あり、
喪家の犬の
痩せたるあり。毛虫、芋虫、
蛆、
百足、続々として長蛇のごとし。
中陣には音楽家あり。
破三味線、
盲目の琴、
南無妙太鼓、四ツ竹などを、叩立て、
掻鳴して、奇異なる雑音遠くに
達る。
棍棒を取れる
屠犬児、籠を担える屑屋、いずれも
究竟の
漢、隊の左右に翼たり。
また
先刻に便所より
顕れしお丹といえる女乞食、今この処に
殿せり。
総勢数えて三十余人、草履あるいは
跣足にて、砂を蹴立て、
埃を浴び、一団の
紅塵瞑朦たるに乗じて、
疾鬼横行の観あり。
綾子は袖にて顔を
蔽いぬ。
車夫は飛ぶがごとくに
馳す。
咄嗟にお丹乞食は、一種異様の光を帯びたる眼をもて
屹と見送り、「あの
邸さ。」と綾子を
指して、「秀坊を入れとく内は。」
傍の者に
囁きぬ。
一列の疫病神は、天を
畏れず地を
憚らず、ましてや人に恥ずる色無く、おもむろに大道筋を練って通り、芝――町なる六六館の門前に
到れる時、
殿なせるお丹乞食、「ここだよ――ここだよ。」
声の下、鳴物の音を静めて、常山の
蛇まず鎌首を侵入せり。
門衛
遽しく遮って、「こらこら、ここは
寺院じゃないぞ。今日
葬式のあるなあ一町ばかり西の方だ。」
と早口に
罵れば、旗を持てる
先達の女房、両足を広げてずいと立ち、
「うんにゃよ、
葬礼饗応を貰いに来やしねえ。こちとらこう見えてもね、乞食じゃねえのス、ちと買物をしべえから御通しなさいやし。」と妙な言草。門番呆れて、「
汝等何が買えるもんか。
干葉や豆府の
滓を売りやしまいし、
面桶提げて残飯屋へ
行くが
可い、馬鹿め。」
女房
聞咎めて、「何だとえ、馬鹿にしなんな。これでも米を食う虫一疋だ。兵隊屋敷の
洗流にもしろさ。
憚りながら御亭主は鉄道馬車の
馬糞を
浚いやす、
強い
人さね。門番の癖に生意気な、干葉を売らぬもよく出来た。
糸爪野郎。」と
一通の
婦人には真似てもみられぬ色気無しの悪口雑言。
「ブッ失敬な奴だ。」と
眼を
瞋らし、「たって入りたくば切符を買え、切符を。一枚五十銭だぞ、
汝等に買える理窟は無いわい。」と怒鳴る。
老婆これを聞きて、よぼよぼと
進出で、「いえもし二分が一分でも
無銭で
遣ろうとおっしゃりましても切符は
真平でござるよ。聞いて下さいやしこうじゃわいな、お前さん、
過日切通の
枳殻寺で施米があると云うから、この足で、
鮫ヶ橋から湯島
下りまで、お
前様、小半日
懸って行ったと思わっしゃれ、そうすると切符を渡して、なお前様、
明日来い、米と引替えるというではござらぬか。何がお前様、
翌が日のことを構うていられるようなこちとらではござらぬじゃて。腹が立つまいことか、御察しなされませ。内に寝ていてさえ
空腹うてならぬ処へ
なまなか遠路を
歩行いたりゃ、腰は
疼む、
呼吸は切れる、腹は
空る、精は尽きる、な、お前様、ほんにほんに九死一生で戻りやしたよ。
老人の
謂うことと牛の尻の何とやらは外れぬげな、これからも有ることじゃで、忘れてもああいうことはなされますな。明日一両下さるより今の
一厘半が
難有い儀にござる。ほんのことさ、お前様、なろうならば米よりは
御飯を下さいやし、御飯よりはまた
老人にはお
粥が
好うござる。何のこれ、嘘は申しませぬ。有りようの処は
初鰹を戴いてから煮て食うわけには参りませぬじゃ。
実にはや因果でござる。はいはい
南無阿弥陀仏。」と長談議、何を云うやら
他愛無し。
門衛の
持余すを見て、
微笑を含みたるお丹乞食、杖をもって門の柱を、とん。「同宿、構わずに、しけ込めしけ込め。」
「うむ、
合点だ。」
急先鋒の屠犬児、玄関へ乱入する、前面を
立塞ぎて喰留むるは護衛の門番、「
退れ、推参な!」というをも聞かず、無二無三に
推込めば、
「ええ、
此奴等。」と
拳を揮う。
「ちょっ、面倒だ。」と
衝と寄りて、門番の両手を
扼るは、昔関口流皆伝の
柔術家、今零落して屠犬児、
弥陀平というは世を忍ぶ仮の名にて、本名あるべき
親仁なり。
捉うる処法に
合えば、門番は
立竦になりて
痛疼さに
堪らず、「暴徒が起った。
大……大……大変、これ、一大事じゃ、来てくれい。」
と血声を揚ぐるに、何事ならんと二三人靴音高く
馳出でつ、この
体を見て、それと組附く。
三人
懸を悠々とあしらいながら、「ここ構わずに、ソレ入った入った。」
商品陳列場の通路には、はや毛虫ども、うようよぞろぞろ。手分して一区ごとに三人ぐらいずらりと行渡る。
お丹乞食は左右を見廻し「もう
可かろう。」というを合図に、
万口一声、「ああ
空腹い。」
かくして
後、思い思いに敵を見立てて渡合う。例の
口汚の女房は、若手の令嬢組の
店頭に
押立ち、口中
得ならぬ
臭気を吐きて、
「
姉や、何でも可いから早く呉んねえ。見さる通り子持だによって、そのつもりでの、頭数三人前。」と天外より
来る分らぬ言分。
令嬢等呆れ果てて顔見合せ、唖然として言葉無し。
「はて、返事が
無えの、
可し可し。」と
籃に
籠りたる菓子を
掴めば、
堪えかねて、
「お前何をする失礼な。」と
極附けたまうを鼻ではじき、「ふむ、どうもしやあしねえ、下さるものを頂きますのさ。慈善会とやら何とやらといって、御慈悲の会じゃげな。御辞儀無しに貰おうという腹さ、
空腹い腹だね。はははは。」と
高笑、「そこでお
撮で
召食る、む、これは
旨え。」と舌鼓、「餓鬼
泣えめえよ。」と
小児にも与えて散々に喰散らす、
怪しからぬことなり。
令嬢方は
背後を向き、何かひそひそ
囁きしが、店を棄置き、姿を隠せり。
屑屋はまた貴婦人を捕えて
罵詈讒謗、「あ、あ
良い
匂だ
咽返るようだ。」と鼻を突出してうそうそと
嗅ぎ、「へん、
咽も返るが呆れも返らあ、
阿蘭陀の金魚じゃねえが、香水の中で泳いでやあがる。や、また塗った塗った、その顔は何だい、まるで
白粉で鋳出したようだ。厚きこと
土蔵の壁に似たりよ、何の真似だろう、火に
熱けぬというお
呪詛かも知れねえ。」
と正面よりお顔を
凝視めて、
我良苦多の
棚下。貴婦人は恥じ且つ憤りて、
頭を
低れて無念がれば、鼻の先へ指を出して、不作法千万。
「なあ、おかみ
様、その面の皮
一枚引めくる方が、慈善会よりよっぽど
良い
慈善になるぜ。こちとらの大家
様が高い家賃を取上げて
適に一杯飲ます、こりゃ何も
仁じゃねえ、いわば
口塞の
賄賂さ、
怨を聞くまいための
猿轡だ。それよりは家賃を
廉くして
私等が自力で一杯も飲めるようにしてくれた方がほんのこと
難有えや。へこへこ御辞儀をして物を貰うなあちっとも
嬉くねえてね。そしてまた
無暗に
施行々々といいなさるが、ありゃお
前、人を乞食扱にするのだ。
目下の者を
憐むんじゃなくって
軽蔑するのだ。トまず
謂ってみたものさ。お
前様方が人中で
面を
曝して、こんな会をしなさるのは、ああ、あの
夫人は
情深い感心な御方だと人に謂われたいからであろう。
その時は、誰か頂くものがなければなるまい。してみると貰うて進ぜる方がまだお
前達の
面を
好くして、名を売ってやる恩人だ。勘定すれば一銭も差引無し、こちとらは鰹節で、お前様方が
旨え汁を吸うといったようなものだ。
そこでそれ、お前達が人に
誉められるために
私等に税金をお出しなされる。今日はそれを取上げに来やした。
志ありだけ
寄来さっせえ。」と大声に
喚立つれば、ここの夫人も
辟易して、休息所へふいと立つ時、
「おっ、
臭え、ふわふわ湯具を蹴出すない。」と鼻を
掴みて舌を吐きぬ。
ちょいと
雛形がこんなもの。三十余人の貧民等、暴言を並べ、
気焔を吐き、嵐、
凩、
一斉に
哄と荒れて
吹捲くれば、花も、もみじも、ちりぢりばらばら。
興を覚まして客は
遁出し、貴婦人方は持余して、皆休息所に
一縮。
貧民城を
乗取りて、
「さあ、これからだよ。
売溜の
金子はいくらあろうと
鐚一銭でも
手出をしめえぜ。金子で買って
凌ぐような優長な
次第ではないから、
餓えてるものは何でも食いな。寒い手合は、そこらにある
切でも
襯衣でも構わず貰え。」とお丹の
下知に、
狼は
衣を
纏い、
狐は
啖い、
狸は飲み、
梟謡えば、烏は躍り、
百足、
蛇、畳を這い、
鼬、
鼠廊下を走り、縦横
交馳、乱暴
狼藉、あわれ六六館の楼上は
魑魅魍魎に
横奪されて、荒唐
蕪涼を極めたり。
この時
最寄の交番より巡査
真黒になりて
駈附けつ、暴行を制せんとすれば、お丹先んじて声を懸け、
「おい、
皆静まった。」
一同直ちに粛然とせり。
巡査は気を抜かれていささか手持不沙汰、今更
疾呼しても張合無ければ、少々
声音に加減をして、
「
汝等、ここをどこだと思ってる。」
お丹
衝と進みて、「はい芝区――町、六六館。」
「そないなことは謂わずとも知っちょるわい。」
「でも
御訊き遊ばしたからさ。」
巡査は頬を膨らして、「黙れ。場所柄も
弁別えず乱暴をいたしおる。棄置かれぬ奴等だ。華族方の尊威を
汚すのみならず、
恣にここの売物を
啖いよったは
盗人だぞ。」
と
睨付くれば、火事はどこだという
顔色。
「へい、さようかね。」と
頓興声。
「さようかねとは何だ。」「でも貰って食べたんですわ。」
「誰が
汝等に遣るというもんか。」お丹真顔になりて、「だがね、
皆で頂戴いたしますというと黙ってどこかへお隠れなすったから
可いのだろうと思いまして……」
巡査はじれ込み、「一体全体ここをどこだと思っちょるんだ。」「くどいねえ、芝区――町、六六館です。」
巡査弱って、「こりゃ、無茶だ。」「何でございますと。」「考えてみい、世が世なら、
汝達が拝むと即座に眼が
潰れるような御夫人方だ、何だって汚らわしい乞食風情に
御言語を下さるものか。」
お丹は感じ入りたる
状して、「さようでしたかい、さようとは存じませず、まあ。飛んだことをいたしました。つい
一言ならぬとおっしゃれば可いのにさ。ねえ、旦那。しかし出来たことなら
詮方がございません。」
「仕方がないって済まされんぞ。それにこの会は何も
汝等に
施行をするんじゃない、
収入額は育児院へ寄附に相成るのだ。」
「だって物事はそう規則通りには参りません、旦那、医者を御覧なさいな。急病人の方へは先に駈附けるじゃございませんか。育児院は、ナニ、養生をしてるので、
私等は九死一生、
餓死、
凍死をしようとする大病人、ちょいとそれ
繰廻を附けて下すっても
可かろうと思いましてね。」と手前勝手の一理窟。
「そんならなぜそのように神妙に御慈悲を願わない。」
「はい、貧乏人に式作法はございません。」
「
汝、言いたい
三昧なことをいやあがる。
何しろ家宅侵入だ。処分するぞ。」
といってみたものなり。これだけの人数を
食客に
背負込みては警察
大難儀。
お丹
片頬に
微笑を含み、「じゃあ
御拘引下さいますかね。」巡査少し慌てて、「どこへ。」「はてさ、御役所へ。」「何い。」と
眼を
れば、お丹笑い出し、「実はね、宿六滅法不景気で、山の神や、
小児連中、
顎が干上るもんですから、
多時お
扶持を頂いて来いって、こんなに申しますので、お
言語は
渡に舟、願ったり
叶ったりでございます。」
「何もたって
拘引するとは言わん。」
「いいえ、御遠慮には及びません、どうぞお
拘引なすって。」
警官は持余しぬ。さりとて不問にも帰し難ければ、「ともかくも
戸外へ出ろ。」と
数珠形に引立てて戸外へ出ずれば、今まで荒れに荒れた屠犬児、神妙に
畏りて、「へいへい
私も御一所に。」
護送されたる一列の貧民は、果報
拙くして御扶持を頂くことを得ざりき。
渠等は青山の
僻地なる
権田原にて
放鳥となりぬ。「はいさようなら。」と巡査に別れて、お丹は一同とともに直ぐ目の下なる
鮫ヶ橋の
塒に帰れり。
午後四時頃、麹町永田町なる深川夫人の
邸の庭へ、垣より
潜入りたる茶褐色の犬あり。
「おや、どこから来たのだろう。」
と
呟きつつ縁側に
出でたるは、
年紀の頃十六七、色白の丸ぽちゃにて可愛らしき
女、髪は
結立の
銀杏返、綿銘仙の綿入を着て
唐縮緬の帯御太鼓
結、小間使といふ風なり。名を
秀という、どこかで聞いたことのあるような。
「奥様御覧遊ばせ、お松どんちょいとお
出よ。三太夫
様、吉造
様。」
と珍しからぬ一匹の犬に、夫人をはじめ、
朋輩の女中、御家老より車夫に到るまで、家族のありたけ呼立てしが、返事をするもの一人も無し。
理あるかな、今宵は
館に来客ありとて、
饗応の支度、
拭掃除、あるいは室の装飾に、いずれも忙殺されつつあり。
「ああ、誰も……」と前後を見廻し、
屹と
頷き、帯の間に
秘持てる
紙片を取出だしつ、くるくると
紙捻にして、また左右に眼を配り、人のあらぬを見定めて。
「じゃむこう。」うわっ。
「おいで、おいで。」と手招きすれば、先より気色を
窺いたる、(じゃむこう)
衝と来たる。
頭を撫で、かの紙片を
首環に
結附け、指にてぐいと押込むとたんに、
後架の戸ぱたりと開く。見返れば綾子夫人、「秀、何をしている。」
秀はおどおど、「はい、何、あの……まあ、ちょいと御覧遊ばせ、飛んだ良い犬でございますねえ。飼われているのかして綺麗ですよ。上手にちんちんを致します、それそれ。あら、
御廻も
旨いこと、ほほほほ。」とわざとらしく笑い、「おやおや、犬に夢中になってサ、まあどうも飛んだ失礼、ただいま
御手水を差上げます。」
あたふた飛んで来て
柄杓を取れば、両手を出して
濯ぎながら、
跪坐る秀をじっと御覧じ、「秀。」屹としたる御召に、少し顔の色を変えて「はい……い。」綾子は声に力を
籠めて、「お
謂いでないよ。」語は一句、無量の意味を含めたり。
小間使は情を解せず、返事に
行詰りて無言なり。
「お
謂でないよ。」と繰返して、「今に御客も来るし、今朝のね、
彼の件はきっと謂わないだろうね。」と幾多の
危懼、憂慮を包める
声音、==お謂でないよ==は
符牒のようなり。ただ秘密あれば従って符牒あり。彼とこれとは背と腹のごとし。両々相待ちて(
彼の件)という物体となる。(なぞと
拈る奴さ)
==今朝のね、
彼の
件==というに到りて、小間使は直ちに呑込み、「何の奥様、誰が
饒舌ますもんですか。」「ああ、そうだろうとは思うけれども、きっとかえ。」
秀は誓うがごとく、「はい、きっと。」
「きっとだよ。」御念の入ること
夥し。
夫人が態度の厳粛なりしは、犬の手品を見附けたる故にはあらで、「きっと。」をいわんとて、
屹とせるなりと、小間使は観察しつ。ほっと
一呼吸、汗を入れぬ。心の内で、「まず
可かった。」「あら、口笛の
音がするよ。」と綾子は耳を
欹てたり、
戸外にて
喨々と二声三声、犬は疾風のごとく駈出だして、「変だ。」と思うまに見えずなりぬ。
「秀。」
小間使はまたギクリ。
「飼主が
戸外に居たと見えるよ、犬を内へ入れたのは何だか
気懸ではないかい。」「はい、気味が悪うございますねえ。」
「
皆にそう申して夜分は気を着けるが
可い。」「三太夫
様に申しましょう。」
おや、
風説をすれば、三太夫、
罷出でて、「はッ番町の
姫様、
御入来にござりまする。」
先登第一は小浜照子、在原夫人その後より、追次取次来る客は皆慈善会にて見たりし顔なり。
蓋し今宵の集会は、前日の慰労と兼て将来の方向を談ぜんため。
なおかつ今度は貧民に容易ならざる汚辱を
蒙り、
大に貴婦人社会の体面を
傷けたれば、この際
屹と決心する処なかるべからずと、綾子が
檄を飛ばせるなりき。
「大分
賑じゃの。」
と
唐突に
襖を開け、貴婦人、令嬢、列席の大一座、燈火の光、衣服の
文、光彩
燦爛たる中へ、
着流に
白縮緬のへこおびという無雑作なる
扮装にて、目まじろきもせで
悠然と通る、
白髪天窓の老紳士、これは
御前と一同が座を譲るこそ道理なれ。裏の木戸口を
隔にて、庭続の隣家の殿、かつて政事をも預りしが行年ここに五十六、我
老たりと
冠を
挂けて幕の
裡に
潜みたまえど、時々黒頭巾出没して、国五郎という身で人形を使わせらる。
下座語の懐へ、どろんと消え、ひょいと出る、
早替の達人と、浮世床にて
風説の高き、
正三位勲何等、大木戸伯爵と申すはこれなり。
綾子が夫、在世のみぎりは伯のために無二の忠臣なりければ、それが死去せし
後も
未亡人に目を懸けたまい、深川家一切の後見をせり。
ごく気の
軽き御前にて、案内も
請わで御意のまま木戸口より
御入ある。
「あ、いずれもそのままそのまま。」と避けんとする者を手もて制し、
好き処に座を占めて、「これが勝手じゃ構わずと大事ない。
私が来たからとてそう改まっては
不可じゃ。このとおり
寝衣のままじゃがの、実はもう寝ようと思いおった処、若い人の声が聞えるもんじゃで、急に浮世が恋しゅうなっての、とうとう
娑婆へ出て参った。」と
呵々と笑い、葉巻をはたきてまた
咬え、「さて、何か、
家の御主人から聞けば慈善会へ毛虫が
集ったそうじゃな。いや、定めし御困りじゃったろ。
怪しからん、また毎晩新聞で
悪口を申したってな、悪い奴らじゃ。」
と
烟草を差置き、唇を両三度
手巾にて
押拭い、その手をすぐに返して
髯を
扱く。
年紀は孫ほどの照子、
強請るがごとき
口吻にて、
「御前、どうか遊ばして下さいよ。
私等は
口惜くて口惜くて仕様が無いの、ああいう乱暴な貧民は何人あろうと、一人々々ふん
縛るわけには参りませんか。」
「
不可ません、そういたすとまた新聞で散々悪体を申すだろうじゃございませんか。」とは在原夫人、御自分
経験があればなり。
「新聞が邪魔になるのは
私等に限らぬと見える。御夫人方にも目の
瘤じゃの。面倒なら停止をさそうか。」「そういたして頂きましょうか、ねえ。
貴女。」と在原夫人左右に問えば、「そうね、それが
可うございましょう。」とのこらず同感。
「いいえ、悪うございましょう。」と綾子一
人異議を唱えて、
「それでは、
非を
蔽うのです、それにあの新聞も、在原の
夫人が
屠犬児に御恵みなすったことなどは、大層
誉めたではございませんか。今停止をさせたでは
卑怯に当りますよ。」
「さようじゃの。」
と伯爵は
頷きたまえり。
「仕様がありませんね、どういたしましょう。」「こうしてはどうです。」「それも
不可ません。」「やはり仕様がありません。」などと小田原
評定果し無し。
伯爵は
懊悩がり、「そんなに
急らんでもまあ
可えわい。心配なさるな、どうにかなる。時に、才子は今夜来ていないかの。」綾子「
百田様?」伯は「うう」「は、参っております。」「どこへ行った。」とありける時、
「御前いらっしゃいまし。」と敷居
越に一礼する二十四五の好男子、伯爵
太く
渠を愛して才子々々と召たまう。実の名は時次郎といえり。深川家とは親類
交際、しばしば出入して家人のごとし。これこの家の後見が、
渠を
挙て綾子の世継とせんずる内意あるによる。
今宵も席の周旋に
来りいるなり。
「さ、ここへ入れ。」と
傍に座を
給い、「婦人方の席へ
我一人孤城落日という処じゃ。や、
何方も
沸切らぬ堅い
談話はまたの日するとして面白く
談話そうではないか。なあ。」と見返れば、「それが
可うございましょう。」時次郎は御意次第。
照子は一番に大賛成、「御前また
戦の談話を遊ばせな。あの
貴下が命からがらで
御遁げ遊ばす処が一番
愉快い。」
伯爵は
苦笑。「うふふふ、
我を
如燕になさる。そういうことをいわるると
恐怖い談話をするぞ、怪談を。」と
仰する折しも、庭にて犬の鳴く声
頻なり。
「
夫人、大層
吼えおるな。」
とさすがは後見気を着けたまえば、
「は、
先刻怪訝な……犬が入りました。」
「ちょっと、
私が……あの見て参じます。」と茶の道に
侍うたる小間使の秀、御次へスルリ、
辷出でて東の縁の雨戸一枚外して取るや否や、わんと飛付くを、
叱――叱りながら、ちょいと妙な手附をして、帰天斎手品の
早業「じゃむこう、御苦労だね。」とごく小声。犬は一散に
引返して、垣を
潜りて出でたる外には、
提灯提げて
彳む女。
「見せな。」と渠を引寄せて
頸環に結べる
紙片を取り、
灯影に透かして、読めば
曰、
小田原評定に過ぎず候
「
可し。」と
呟きて提灯ふっと消し、「これは
可いとして、お秀の身に、もしひょっと……ああ、気に
懸る。」
と垣に寄添い、うっかりとする
背後に靴音、はっと見返る眼の
前へ、紅燈一
閃、
衝と立つは、護衛のために見巡る巡査。
婦人はちょいと小腰を
屈め、「旦那、四谷へはどう参ります。」
じゃむこうに御託の昼間の書信慥に落手いたし候、好材料に候えども、お前様身に取りては極めて危険なものを見られ候。いかなる難儀あらむも計り難く候あいだ、屹度御用心なさるべく候。(彼の件)を見届け候以上は此の家に最早用は無之且つ居ては御身危く候まま、明日にも暇をお取りなさるべく候――
細字をもって
認めたる警戒は、
此方より「小田原評定
云々。」と記しやりたる書信を
引換に、「じゃむこう」の首輪を経て小間使秀の手中に落ちたり。廊下人無き処にて秀は読過一遍、「ああ、そうだ。おお、
恐怖いことね。早速お暇を頂こう。ちょうど可い
久濶で
祖母様の顔も見られる。」
紙片は寸断し去って
袂に葬り、勝手
許に
退らんと歩み
来る、片隅の
闇中より、黒きもの、ぬっと
出づ。お秀「きゃっ!」と
飛退れば、とんきょう声で「ばあっ。」と驚かす。
善からぬ
洒落なり。
小間使は腹を立て、「誰だい、ひと、
愉快くもない、お
巫山戯でないよ。」と
叱言を
謂う。
「そんなに怒りたまうな。僕だ、僕だ。」と
傍に寄るは百田なり。「おや、
貴下ですね。」とお秀は
俯向き、思えらく、「そんなら怒るのではなかったっけ。」
什麼生この心中は、――少しあのナンと知るべし。時次郎は
馴れ馴れしく、「堪忍おしよ。驚いたろう可哀そうに。」「は、い。」とただ
逆気る。
「あのね、お前にね。」と突然お秀の袂を捕えて、ちょいと小あたりにあたって見れば、小間使はもう
真赤、こいつものになると、時次郎は声を
密め、「内証で相談がある。まあ、ちょいとちょいと。」
曳かるる袖を払わんとはせで、「
御串戯を。」と口の内、夢路を
辿りて小蔭の
暗闇。時次郎はひたと寄添い、
「すこしお
依頼がある。
肯いてくれないか。」お秀は虫の
音「どういたしまして。」
「
肯くかい。」「いいえ。」「ン、じゃ嫌か。」「どうですか。」と
四辺を見る。「悪く初心ぶるな、もう知ってる癖に。」「あら、存じませんよ。」と手をもじもじ。
生殺与奪の権は我が掌中にあり、時次郎時分は
可しと、「何むずかしいことは無いのさ。こうすればそれで可い。」とやにわに帯に手を懸くれば、わなわな震えて、「あれ。」と
竦む。「おっと驚くべからず、この男色気無しだ。秀
様実はね、大木戸の御前が例の
串戯に
妖怪談話をお始めなすって、もとこの邸は旗本の居た所で、
癇癪持の殿様がお
妾を殺したっさ、久しいものだがその妄念が残っていて、今でも廊下へ幽霊が出ると謂って、婦人方を
恐怖がらせた奴よ。黙って聞いていれば何事も無かったのに、照子
様が、それ御存じの知ったかぶりだ。(御前、そんなことがあるもんですか、科学上から)ナンノッテ滅茶々々に
打破したもんだ。すると御前も負けぬ気で、(それでは幽霊の出るという邸の廊下のはずれまで
貴嬢一人で行って来ることが出来ますか)(
何時でも)というので、ね、秀様、今に番町のがここへ
行って来るのさ。あんまり生意気だから
一番威してやろうと思って、私があすこに隠れていたがね、男がやると
差合だ、ちょうど可いからお前に頼む、ね、幽霊にならないか。
愉快いよ。」
と口説くように言含むる、あのナンノが
依頼なれば、秀は嬉しき思入れ、「しかし
可うございますかね。
悪戯をいたしても。」「構うもんか、内の
夫人も御隣のも呑込んでお
在なさるるから可い、そこで帯をお解きといったんだ。そのままじゃあ
落が来ないよ。そうして思切って髪も
毀しな。」「まア髪を。」お秀は
鬢を
圧えて
顰みぬ。「今度結う時は島田にするさ、その方がうつりが可い。」「何とでもおっしゃいまし。」「それとも丸髷に結わしてみようか。」「もう、よござんす。」とむっとする。「おやまた怒ったか、笑ってくれ、拝む。拝む、おっと笑った、さてさて御機嫌が
取悪いぞ。またもや御意の変らぬうちだ。」と
抱竦めて
元結ふッつり。
「あれ、
不可ませんよう。」「可いてことさ。」せりあううちに
後毛はらはら、さっと心も
乱髪、身に振かかる
禍のありともあわれ白露や、無分別なるものすなわちこれなり。
お秀はただほっとして「あら、
嫌否、私はもうどうしょうねえ。」と身を
悶ゆる
間に帯解けて、
衣服も脱がされ、
襦袢一つ、してやったりと躍る胸を、時次郎は色にも見せず、「寒いか、
埋合はきっとなあ。」「はい。」と震える。
背を叩きて、「風邪を
感な。」
杉戸
遣戸の隙間より
凩漏れて
冷かに、燈籠の
灯影明滅して、
拭磨かれたる板敷は、白く、青き、光を放てり。
奥座敷にて多人数が笑語の声の断続して柱に響くも
物寂びぬ。
廊下に長く
揺曳せる婦人の影は
朦朧として描ける幽霊に
髣髴たり。
忽爾跫然として廊下の端に、殺気を帯びて、人影
露る、近づくを見れば小浜照子。影を隠して秀は
潜みぬ。
既にして間近に
来れり、あたかもこの時
四隣寂寞気結沈声、陰々として、天井黒く壁白し。
照子は
屹と眼を注ぎぬ。
異様の姿、するりと出づ。
きゃっ……と一声、あっ……と一声、続いて起る金切声、「来て下さい来て下さい。」
呼ぶ時遅し五六人、今の二人の
魂消りしに何事ならんと駈附けつ、
真先なるは時次郎、「照子様、どうなさいました、幽霊が出ましたかね。」と笑いながらふとむこうを見て、「や……妙なものが
僵れている。何だ。やはり人らしい。しかも女だ。誰だろう。」
肩と
鳩尾に手を懸けて
後抱[#ルビの「うろろだき」はママ]に引起す、腕を伝うて
生暖きもの、たらたらたら。「ええ」と
引込め
臭を
嗅ぎ、「
腥いな。」と
呟く時、綾子は
引摺りたる小袖の
裳、濡れて、冷く、
脛に触るるに、「あれ、気味の悪い。」と
撮み上げ、
裾裏を返して見て、
かれこれ同時に、「血、血、血!……」
「血」「血」「血」と貴婦人方は
鸚鵡返し、皆五六尺
飛退る。
時次郎は
熟と
検し、「うむ、
心臓に
小刀が。……」言懸けて照子を
視れば、
眦釣って顔色
蒼く、唇は
戦けり。召したる薄色の羽織の片袖
血※[#「さんずい+散」、U+6F75、50-1]を浴びて
紅の
雫滴る。
「モシ照子様。」と突く真似をして「お
殺んなすったね。」と時次はいう。
照子は心気
昂進して、あえてものをも言わざりし。この時ようやく、太き
呼吸、「ああ、幽霊。」と投出すようなり。
「幽霊。……」と時次郎は呟き、「なるほど幽霊と見える、
怪しからん風体です。
夫人、
燈火をずっと、はい、
宜しい。おや、御邸の。」
綾子も
覗きて、「秀だよ。」と
只呆。
「どうしてこんな。」とさも
訝しげに時次が謂えば、「まあ、あられもない
扮装をしてどうしたというのだろう。
好く御覧、秀に限ってそういう取乱した風をする
婦人じゃないよ。」「何ぞが
妖けたのではございませんか。」と
誰方か罪の無いことをおっしゃる。
「いえ、
妖けたのに相違はありませんが、これはやはり、秀自身が妖けたのです。照子様、もしやおどかしはしませんでしたか。」
「ああ、ひょいと飛出して
吃驚させたよ、私夢中で……」と震えていらせらる。
「なる、それで解りました。
夫人、小間使が好奇心で、照子様をおどしたので、謂わば自業自得というものです。」「そうね、もういけなかろうか、可哀そうに。しかし失礼な、私の大切な御客様をおどそうなんて、飛んでもない。大方
通魔に魅入られて、ふいと気が違ったのかも知れないよ、照子
様には済まないけれども、ああ可哀そう。」
と熱き露、
清き眼より
溢るる処へ、
後馳の伯爵悠々と参りたまい、「何じゃ騒しいな。ふ、ふ、あ、あ、それは結構。何さ、しかし心配には及ばぬよ。殺されたものは損、照子殿は
豪い
功じゃ、
妖物を
斬ったとあれば立派なものじゃ。けれどもな、少々は金が要るじゃ。」と
頤にて
死骸を指したまい、「これが
親許は。」綾子答えて、「鮫ヶ橋に老婆一人、黒瀬縫とか承わりました。」「うむ、さようか。それに手当をしてやれ。老婆だとあればさぞ愚痴っぽく泣くじゃろの。」「御意にござります。」と時次が申す。
「それがちと面倒じゃ。
可、可、これは駿河台の御隠居を煩わすとするじゃ。説法が
旨いで、因果を含めるに
可いわい。」「
仏を御学び遊ばして御道徳抜群にいらせられますれば、至極よろしゅうござりましょう。」「お前これから駿河台へ行っての、
次第を申して御老体御苦労じゃが、鮫ヶ橋まで
御出向のあるように、なりたけ内証での、そこを旨く、可いか。」「はッ。」「何でも怨む者さえ無ければ物ごとは円く
納る。
検屍にはあのナンノをな、それから、ナニはナニして、ナンノを、ナンノを。」
ナンノで皆解ると見え、時次郎は委細承知。「
畏りました。」
「さ、これで
可し。
皆様、あちらで。」と手を
揮ってのたまうを
好き
汐時と、いずれもするするはらはらと
裳を
捌きて御引取。
後に残る三人は眼と眼と眼にて、薄雪とは似ても非なる三人笑。
伯爵は
鷹揚に、
「綾。」
「は。」
「首尾よく殺したな。」と怪しき御言葉。
時次郎手を
支えて、「恐悦に存じまする。」
一人の父は納豆を売りに朝
疾く起きて
出行きぬ。後は
孤なる女の
児、
年紀は
七歳ばかりなるが、大人の
穿切らしたる草履を
引摺り、ばたばたと
駈けて来て、小石に
躓き、前へのめり、しばらくは起きも上らず。「あれ」と
婦人の声、木賃宿の戸を開けて、内より出づる一人の美人、顔
美麗しく姿優なり。片手に
洗髪を握りながら走り寄りて、女の児を
抱起して「危いねえ。」と
労る時、はじめてわっと泣出だせり。
「おお可哀そうに痛かったかい、まあまあお召が砂だらけだ。どこも
擦剥きはしなかったの。え、
掌を、どれお見せ、ほんとにねえ。」と何を持ちしか
汚穢き手に、
温き口を
接けて、
呼吸を吹懸け撫でてやり、「さあ、もう可いからお泣きでないよ。おお、
泣止みましたね、
好い
児好い児。何を御褒美に上げようかしら、ああ
良い
品があったっけ、
姉様とさあ一所に
光来。」と手を
曳きて家に
入り、黒くなりたる
櫃の上に、美しき
手毬のありしを、女の児に与うれば、気味悪そうに手に取りて、「こりゃ何。」と
怪訝顔。「手毬だよ。知らないの。」「手毬って何。」とさっぱり解らず。
美人は優しき眼にてじっと
視れば、いかさまかかる遊戯品は知らぬも道理の
扮装なり。
不便なものよと思うにぞ、
「これはね、こうするものだよ、見ておいで。」と
袂を
啣えて
一い
二ウ
三い
四ウ、都の手振なよやかに、柳の腰つきしなやかなるを、女の児は
傍目も
触らず、首傾けて
恍惚れいる。
ここはいずこぞ鮫ヶ橋、
白日闇の木賃宿にしかき姿あるは
怪むべし。
火鉢に懸けたる土瓶の煮ゆる音、ジュー。
二三十つきたる美人はこれに心着きて手を
留め、
「おや、忘れていた、もう煮詰ったようだ。」と
蓋を取れば、煎薬の香
芬々。すぐに下して、「お前ねえ。」と女の児を見返れば、
頻りに毬を
弄べり。美人は
微笑を含みて、「つけますかい。」
「いいえ。」と少し
嬌羞む。
「戻ってまた教えて
進げよう。お前がお
在でちょうど可い。誰も居ないから留守しておくれ。
妾はね、この御薬を持って裏のお
婆様の処へちょいと行って来る。」「あいあい。」と
頷けば、手早く髪を
束ねて
櫛にて
押え、土瓶片手に
出行きけり。
入違いに二人の男、どかどかと
上込み、いきなり一人が
匍匐になれば、一人は
顎を膝に載せて
脛を抱え、「ねえ、おい素敵に
草臥れたな。」
「まったくさ、ドテやゲバを取ろうとって、あくせく
ぐ気が知れねえ。」
「知れねえと
謂えばどうもいまだに知れねえ。」「何が。」「この木賃宿の
所有主がよ。」「やっぱり
姉御が持ってるのだろう、
御庇でこちとらは屋根代いらずだ。」「でも始終ここに居ないじゃねえか。」
「だって時々
出張って来らあ。」
「そりゃそうと
此家の
姫様は何の
妖たのだろう。」
「
怪いほど
美い女だな。しかしなんぼ何でも木賃宿にいらっしゃるものを、姫様とはつかぬ語呂だぜ。」「うんにゃ、あのまた気高い処から
言語付の鷹揚な処から
容子がまるで姫様よ。おいら気が
臆れて口が
利悪い。」「その癖優しい
嬢だ。」「可愛らしいぜ。いつかも見りゃ一心不乱に毛糸の編物さ。」
「何でも姉御がかくまっておくらしいな。」「うむ、そうさ。だが処もあろうのにここは
非道いや、もうおいら達あ、姉御が世話をする
婦人だから指一本もさしもせず、またささしもしねえが、
煎詰めた
破落漢ばかり集る処へどういう気だろう。」「何でもいいやい、お丹姉さんの遊ばすことだ。」「でも気に
懸るかしてこの頃は毎晩
泊に来て、御両人様抱ッこで寝るぜ。」
「何、抱ッこで寝るッ、若い奴等、気の
悪い
談話をしてるな。」と表の戸がらりと開け、乱髪の間より鬼の面をぬっと出すは、これ鉄蔵という人間の顔なり。これに
怖えてかの女の児は
遁出したり。
「へん、新造を抱きたがる癖に、
一廉お年寄の気でやあがる。」
鉄蔵はのさのさ入りて
大胡坐。「これでも子持の
親父様だ。」「そういやあ竹坊はどうした。二三
日見えねえぜ。」「
彼奴あ、こかしたよ。」と平気で
謂う。「そりゃ
旨えことをした。」「いかさま棄てる神あればかい。土橋のいうあの御面相で買手があったか。」鉄蔵は
澄して
煙草の
粉をすぱすぱ、「何女郎じゃねえ。」という声、
戸外に
洩れて、(不審立聴く)
一個の
婀娜的、三枚
襲に
肩掛を着て
縮緬の頭巾
目深なり。
一人は起返りて、「ふむ、それでは茶屋か。」
「いんや。」
一人は膝を立直し、「温泉か。」
「大違い。」
「はてな、田舎へでも。」「やっぱり市中さ、
新網の
仁三によ。」「ふむ、
野師の親方。」「うむ、そうだ。」「
彼奴も
呆れた茶人だなあ。」鉄蔵は
真面目な顔「なに
妾じゃねえて。」「はあ、あの
女なら見世物に出すかも知れねえ、大方そうだろう。」「似寄の者さ。」と言懸けて少し
猶予い「あのの、
家の
阿魔に犬の皮をの。」二人、「ええ――」と
反返る。
鉄蔵は落着払い、「妙なものを
拵えさしてそれをば見世物に出そうというのよ。」
「途方もねえ。」「
恐そろしい。」
「勿論、
女もなに
泣面は
掻かないで
一昨日去った。」と
煙管をこつこつ。
背後にすっくと
突立つお丹、一部始終を聞きしなり。一声鋭く、「鉄、
談話がある。奥へ来や。」
お丹
突然、「畜生――」と一喝して
長羅宇の煙管を
押取り、火鉢の
対面に割膝して坐りたる鉄の額を砕けよと一つ
撲つ。
不意を
啖って
眼眩み「
痛。」と傷を
圧えしが、血を
視て、「えッ
非道いことを。」
梟眼赫と
けば、お丹も顔色
蒼ずみて真白き
面に
凄味を帯び、
眉間に
透る
癇癪筋、星眼鋭く
屹と
睨み、「ム、
悔しいか。人間ならくってかかんな、
対手になろう。犬、畜生、
人非人、
四這になれ、尻尾を
掉れ。」
詈る剣幕に
胆を抜かれ、鉄蔵茫然とする処を飛かかって
咽喉を
扼し、「ええ、
賭博に負けたか、食えねえか、それほど
金子が
欲くばな、
盗賊をしな、人を殺せ、けだものに
女を売るとは、野郎本気の沙汰じゃねえ、どれ、性根を着けてやろうよ。」
と急所を取って突廻せば、鉄蔵は虫の
呼吸、「
姉え、御免ねえ、
苦、
苦、放してくんねえてば、苦しい、むむ。」と苦み
くを煙管の乱打、「死ぬる死ぬる。」と
呻き叫ぶを殺しかねざる気色なり。
「お前非道いよ、まあお待ち。」とお丹の腕に
縋りたるは今
戸外より帰りし美人。
「いえ、お放しなさいまし、この大それた
人非人。
活かしちゃあおかれません。」「そう
謂わずにさ、口でいっても解るではないかねえ。ようさ、私に預けておくれってば。」と身を
楯にして、鉄を
庇い、
宥めても
制めても
頭を
掉って
肯ぜず、「よう、頼むよ。後生だから。」と心弱き美人は声曇らすに、お丹ようやく手を
弛べ、
衝と座に直りて煙管を杖、片手に煙草を引寄せたり。
美人は鉄を
労りて、「お前、何悪いことをしやったえ。お丹はあの通り
気短だから
恐怖いよ。私が
詫をしてあげる。」
と抱起さんとすれば、鉄蔵慌てて身を起し、「ええ、勿体ねえ。お
前様、
私の
身体は
汚れておりやす。」
「まあ眉間から血が出て。」と
懐紙にて
押拭う、優しさと深切が骨身に
浸みこむ、鉄はぶるぶる。「もう、可うございます。いえもう何ともありません。」と
後退。
幅狭き
布子の
上掻を
引張り合せて、膝小僧を押包み、煮染めたような
手拭にて、汗を
拭き拭き
畏り、手をつきて美人の顔、じっと見詰むる眼に涙。
「ああ、あ、娘もちょうどお前様の
妙齢で、……で……」
と男泣き、
此奴生れて
最初なるべし。
お丹はこれを見て
莞爾とし、「泣いてくれるか、え、鉄しおらしいの、おお、よく泣く、もっと泣きな。」
かく謂いつつ立上りて、するりと帯を解き、三枚
襲を
颯と脱ぎて、
顎で押えて
袖畳、一つに
纏めてぽいと投出し、
「もう可いからお泣きでない。
通貨が無いからそれを
曲入て、
人身御供を下げておいで、仁三が何か
言句をいおう。謂ったら私の名をいいな。」薄着になりし
情の厚さ。
鉄は
左右無く手に取らず、「飛んでもないこと姉御どうしてこれが借りられよう。罰が
中る。」とためらえば、「何だな、お前のようでもない。」美人もまた、「どういう
次第だか知らないけれど、折角あんなにお謂いのだから持って行くが可いよ。」
「どうも済まねえ。実はその家主の
少禿ががみがみいって
癪に障ってしようがねえもんで、つい。」「くどいわね。何でも可いから早くしなよ。」「済まねえ済まねえ実はその。」「くどいてばさ。」
と言放てば、「む、そんなに謂ってくんなさりゃ
己も男だ借りやしょう。」と肩を
聳かし、
眼を据え、「この
様だから
済せやせん、そのかわりにゃ姉御、
俺あ死にます。」
這般の決心十を併さば、もって一郷を動すに足るべし。
打撲、
挫、
整骨、困る人には
施行療治いたし候。西の内二枚半に筆太に、書附けたる広告の見ゆる
四辻へ、
侠な
扮装の車夫一人、左へ曲りて鮫ヶ橋谷町の
表通、軒並の
門札を軒別に
覗きて、「黒瀬ぬい、と、ええ、黒瀬と、さっぱり知れねえぞ、こっちは土方職、次は車力、引越荷車
仕候か、お次は何だ、鋳掛屋かい、差替りまして
蝙蝠傘直、さあさあ解らねえ。ふむまた
売卜乾坤堂、天門堂とすれば可い、
一番みてもらいたいくらいだ、
向は仕立屋、何、仕立物いたしますか、これは耳寄、仕立屋に(ぬい)が居ようも知れねえ。
試だ、ちょいと聞いてみよう。」
所外より、「あい、御免ねえ。」
内にて女の声、「何でございますえ。」
「ええ、少々伺いたいもんで、もし、この辺に黒瀬というのは。」「さっぱり存じませんね、裏へ廻って御聞きなさい。」「これは御世話。」
と取って返す辻の角、
茶綾子の被布を召したる切髪の気高き老婦人、
腕車の
傍に
彳みたるが、「三吉々々。」と召したまい、「知れたか。」「どうもへい。」と
天窓を
掻けば、
「
不可のう、早くしや早くしや、
小児が
集って
煩悩いからの。」
と見れば貧民の童男、
童女、多人
数老婦人の身辺にありて、物珍しげに天窓より
爪先までじろりじろり。
「餓鬼等何を見るんでえ。」と三吉
眼を
刮きて
疾呼すれば、わいわいと
鯨波を揚げて
蜘蛛の子の散るがごとし。
「これから裏っ手の方を探します。少々どうぞ。」とまた
駈出して、三吉裏手へ回れる時は、
宿鴉しきりに鳴きて鐘声
交々起る、鮫ヶ橋一落の晩景うたた陰惨の趣あり。
「さて
難儀だ、弱り切るぜ。ほんにさ、猫の額ほどな処で二十六
間と尋ねたが分らねえ。あたかも
芥子粒を
選分けるような仕事だ。そうしてまた意地悪く幾たびでもこの
総後架に行当たるには恐れる。雪隠で
詰腹を切る
体だね、誠にはやなんとも謂われねえ
臭気だぞ、豪傑に
支えたと見えてここらじとじとする。
薄汚え。」と爪立てしてひょい、「
南無三、踏んだ。」と渋面造って
退る顔へ何やらん
冷りとする。
「ほい、これは。」
ずぶ
濡の
破褞袍、
蓋し小児の
尿汁を洗わずして干したるもの、悪臭鼻を
抉って
髄に
徹る。「やれ情無い、ヘッヘッ。」と
虫唾を吐けば、「や、
膳の上へ
唾を吐くぞ。」と
右手なる小屋にて
喚く声せり。
三吉慌てて
駈出だし、
立停って胸を撫で、「ありゃ何だ。やっぱり人間が住んでたのか。ヘンよしてもくりゃ、
憚りながら、犬の小屋としか思われねえ。さてまた意地悪く一軒も
燈明を
点けぬぞ、夜だか昼だか一向無茶だ。」と
四廻をきょろきょろ、「ふむ、
此家でもう一度尋ねてみべい。」
倒れ懸けたる表の戸、手をもて開くるを要せず、身を
斜にして
容易く
入るに、いまだ燈火を点ぜざれば、ただこれ
暗澹物色を弁ぜず。悪臭
縷々来りて人を襲えり。
「ちょいと御免なさい、御免なしい。」と三吉
的処も無しに声を懸けて、奥より人の出づるを待てば、
「
誰方へ。」と
唐突に打驚き、「少しものが。……」と謂えば「何だの。」と立ちたる膝の
辺に声するに、三吉また驚きて、
「おや、
黒闇がものを言うぜ。」と
反返りしも道理なり。
鮫ヶ橋
界隈の裏長屋は、人を
容るる家と謂わんより、むしろ死骸を葬る棺と云うべし。土間無く、天井無く、障子
襖無く、壁一重にて隣を分ち、大戸一枚道路を隔てる、戸に接してわづかに三畳
乃至五六畳の一室あるのみ。三吉が膝とほぼ直角をなして(はてむずかしい形容だ、)
打臥したる
天窓ありしが、この時むくと起直りて、
「
団扇の骨はいまだに仕上りませぬ。」と
皺枯声、「いえさ、ちと御聞き申したいんで。」「何、何、
我あ、今年はもう七十五になっての、耳が
疎いに依って大きな声で謂わっしゃい。」「こりゃ大難だ。
婆様あのの。」「あいあい。」「あののお前、黒瀬ぬいという婆様を知らねえかい。」「あい、知っておりやす。したがお前様は
親類の人かね。」「ウンヤ、秀坊というその娘っ子のことでちと用があるんだ。」半ばは聞取得ず。「ま、待たっしゃれ今燈明を
点ける。」と
膝行歩きて、
燧火か、附木か、探す様子。
江戸児焦れ込み、「こう早く教えてくんねえ。御前様が待っていなさらあ。」
促げても
頓着せず、何とか絶えず
独言つつ
鉄葉の
洋燈に
火屋無しの裸火、赤黒き光を放つと同時に
開眸一見、三吉
慄然として「
娑婆じゃねえ。」
今まで我にものを謂いし老婆は
活きたる
骸骨なりき。ずたずたになれる
筵の上に、
襤褸切、
藁屑、
椀、皿、鉢、口無き土瓶、
蓋無き
鍋、足の無き
膳、手の無き十能、一切の道具
什物は皆
塵塚の産物なるが、点々散乱してその怪異いうべからず。古物千歳を経て霊ありというものあるいはこれか。老婆の
他にまた一人あり。
味噌漉に襤褸を
纏いて枕とし、
横様に臥して動かざるは、あたかも死したる人のごとし。
老婆はそれを
指して、「この
死人がその黒瀬ぬいでござんやす。」
三吉
蒼くなりて、「何、死んだと?」「はいさ、お前様、
昨日から腹が
痢って、
正午過に眼を落しました、誰も葬るものがござらぬで、な、お前さん。」と突然三吉の
袂を
掴みて、
「
懸合だ。始末さっせえ。」「滅相なことを謂わあ、飛んでもねえ。こう、これさ離せといえば。」「うんにゃ、離さねえ。どうでも懸合だ。」と武者振着く。
「ええ、死神のような奴、取附かれて
堪るものか。」力に任して突飛ばせば、
婆々へたばる、三吉
遁る、
出合頭に一人の美人、(木賃宿のあの人の)宵月の影
鮮麗なり。
擦違うて三吉、「や。」と
立停まるを、美人は知らずに行過ぎて、
件の老婆の家に入れば、何思いけん後をつけて、三吉は
戸外に
潜みぬ。
「ちょいとお
婆様、あの病人はどうしたえ。」と美人が見舞う、その
声音に耳を澄して、「いよいよそれじゃ。」と三吉四辻へ引返せば、老婦人は
待飽倦み、亭として
佇みつつ手にせる
蝙蝠傘を
打掉るごとに、はっと散りてはまた集る、飯に寄る蠅、群る小児、持余してぞ居られける。
「三吉。どうしたものじゃ余り遅いの。」と御機嫌
好からず。三吉
頻りに
天窓を
掻きて「へい、どうもお待遠様、誠に相済みません、しかし、御前様やっとのことで知れました。」「ああ、解ったと申すか。」「へい。ところでその、黒瀬という
婆々はもう
死歿ました。」「えほんとうに?」「まったくでございます。」「そんなら用は無い、もう
帰邸としようの。」「ま、お待ち遊ばせ。」と三吉は得々として、「大変なものを見附けました。もし、御前様、光子様を。」
いう事いまだ終らず、老婦人は
顔色動き、「何といやる。」車夫ますます得々として、「えい、奥様を見付けたのでございます。方々探して知れなかったも道理、こんな処に隠れていらっしゃるんだもの、今日の
御足は
徒にはなりませなんだ。いかが
計いましょう。」
老婦人はしばし
沈吟して、「
可し、すぐに
引摺って来い、連れて帰る。」「いえ、森に居る鳥は、
籠の中に居るように手軽くは
押えられませぬ。少し手間が取れますがお待ち遊ばしますか。」
老婦人は空を仰ぎ、「
日和癖じゃ、また曇った。」
「降りませんうちに、じゃあこうなさいまし、そこらで車夫を呼んで参りますから、御前様は一足お先へ、私はお後から奥様を
引張って帰ります。」
「よきように計え。」
とあれば、三吉走行きて
屈竟の
壮佼を
雇来り、
「
若衆、
駿河台だよ、可いか、頼んだぞ、さあお召し。」
老夫人は
蹴込へ片足、「
脱心まいぞ。」
三吉は腕を叩きて、「
確に、請合いました。」「よくせい。」とひらりと召す。
梶棒を挙げて一町ばかり
馳出だせる
前面より、
颯と
駈来る一頭の犬あり。わんと
吼ゆるを
除けて通る、
腕車と行違い
遣過ごして、
立停るはお丹なり。
鼠縮緬の頭巾の
裡より、
冷かなる瞳を放ちて「フウ、駿河台の
猫股婆、縄張
中へ踏込んだな。」
お丹かく
呟くや否や、
鼬のごとく道を走り、跡を追い、辻車に飛乗って、呆るる客待の車夫の手に帯の間より財布を投付け、
「何でも可い、その、あの
腕車、早く追越せ。」
「なに、目を落したとえ、それはまあ。」と三吉が見て奥様と
称えし美人。汚き畳へ
駈上れば、
「うむ。」と腰を
伸して老婆は起き、「やれ、
汚穢うござります。」
藁屑を
掻寄せて
一処に集め、
「せめてこの上へ、
貴女、
御衣服が台無しでや。」
槌で庭掃く
追従ならで、手をもて畳を掃くは
真実。美人は
新仏の身辺に坐りて、死顔を
恐怖覗き、
「可哀相なことをしたねえ。今朝私が薬を飲ましに来た時の容体ではまだこんな急なこともあるまいと思っていたに。お
婆様なぜ取返しのならぬことをしてくれたえ。しばらくでも介抱した私やほんとに
名残が
惜い。」と
愁然として
襦袢の袖、
御目を赤く
染たまえば、老婆も
貰泣する処へ、三吉会釈も無くずッと入り、
「奥様、御迎いッ。」
「ええ。」と美人は顧みて、「あれ。」と身を震わし、おがみ手をしかと合せて、「こうだから、よ、よ、三吉。」とおろおろ声、蛇に
狙わるる蛙のごとし。
「いいえ、
不可ません。御前様のおっしゃりつけです。どうしても御連れ申します。」「そうはいわずに
見遁がしておくれ、頼むわねえ。」「なりません素直になさらなきゃあ、是非が
無え、お気の毒だが
手籠にする。」
と手に
唾して躍りかかれば、「あれ、後生だから後生だから。」
謂いつつ
燈をふっと消す、後は
真暗、美人は
褄を引合せて身を擦抜けんと
透を
窺い、三吉は捕えんと大手を広げておよび腰、老婆は抜かして
四ン
這、いずれも
黙。三吉やがて呼吸を計り、ここぞと飛附き
空を
抱き、はずみ抜けして膝を折り、老婆の
背に両手をつけば、べったりと
潰れてうむと
呻くを、例の死骸と思うにぞ三吉は
胆を
冷して、
「ひゃあ死人に魔が
魅した。」
と
飛退く
隙に雀の子は、
荒鷲の
翼を
潜りて土間へ飛下り素足のまま、一散に
遁出だすを、
遁さじと
追縋り、裏手の空地の
中央にて、
暗夜にも
著き玉の
顔、
目的に三吉
衝と寄りて
曳戻すを振切らんと、美人したたか身を
急れば、
髷崩れ、
装乱れ、帯はするする、
裳ははらはら、いとしどけなくなれるに恥じて、はや
一歩も移し得ず、肩をすぼめて地にひれふし、
活たる心地更に無し。
三吉は
左手を伸べて白き
頸を
掻掴み、「ええ、しぶとい、さあ立て、立たねえとこうするぞ。」と高く
翳せる
右手の
拳を、暗中よりしっかと
扼して、
抑留めたる健腕あり。
拳は宙に立ちたるまま上へも下へも動かばこそ、三吉ぎょっとして、「や、
汝は。」「
天狗だ。」と
呵々と笑い、「二才めばたばたすると二つに裂くぞ。」
かく謂うは
誰ぞ、
飲鬼窟の健児、老いたる
屠犬児弥陀平なり。
駿河台の老婦人は、あわれ玉の
輿に乗らせたまうべき御身分なるに、
腕車に一人
乗の
軽々しさ、これを
節倹ゆえと思うは非なり。
仰々しく馬車を走らして往来を妨げんは、老人の
娑婆塞と
後指指されんも憂たてし、髪切払いて仏に仕うる身の
徒歩歩こそ
相応けれ、つまりは腕車も不用なれど、家名に対してそうもならねば、
止むことを得ず三吉の健脚を労するだに心苦しく
思すとなむ。
読者御存じの都合ありて、間に合せの車夫に腕車を
曳せ、今や鮫ヶ橋より帰館の途次、四ツ谷見附に出でて、お堀端を走ること十間ばかり、ふと
顕れたる
中年増、行違いざま、
慌しく「あれ若い
衆様、心棒が抜けてるよ。」車夫は仰天して
立停まりぬ。「ああ危い。」と年増は
溜息。
「どうも
姉様難有う。」車夫は輪軸を検せんとて梶棒を下すを
暗号に、おでん
燗酒、
茄小豆、大福餅の屋台
店に、
先刻より
埋伏して待懸けたる、車夫、
日雇取、立ン坊、七八人、
礫のごとくばらりと出で、腕車の
周囲を
押取巻く。
「や、や、
狼藉。」と驚きたまう老婦人の両の
御手を左右より
扼りて勿体無くも引下ろせば、一人は
背後より
抱竦め、他は塩ッ辛き手拭を口に
捻込み
猿轡。老婦人を載せたる車夫は不意の出来事に呆れて立ちしが、
手籠に逢わるるを見るに忍びず、「やい
此奴等、何をしやがるんでえ。」と客
贔屓。
「若い衆! 大目に見ておくれ、この御客は私が買うよ。」
と年増は
紙幣を
取出して二三枚握らすれば、車夫はにわかに笑顔になり、「ちと、もし、御手伝を致しましょう。」現金な野郎なり。
「それ、これで。」と年増が解きて投与うる
扱帯にて老婦人の眼をぐるぐる巻にし、
仰向に突転ばして、「姉御、荷造が出来た。」といえば、
「
引担げ。」「おっと合点。」
軽やかに肩に懸け、「ほい、水気が
無えから素敵に軽い。」「まるで
苧殻だ、」「お精霊様の、おむかえおむかえ。」とつッぱしる。
これ皆お丹がなせる
業なり。
狼藉者の一隊はさすがに警官を
憚りて、大坂を下りんとする交番の
此方に
猶予いぬ。「それ
目潰。」とお丹の
指揮に
手空の奴等、一足先に
駈出だして、派出所の前にずらりと並び、
臆面もなく一斉に
尾籠の振舞、さはせぬ奴は
背後より手を
拍きて、「鳴るは滝の水。」と
囃し立つる前代未聞の
悪戯に、巡査何とて黙すべき。「こらっ――」
見張員と休息員と無頼漢等を
引挟んで、片手に一人ずつ
引掴めば、
洩れたる者も逃げんとはせず。
「へん
他人の
家へ垂込みやしめえし、何のこれ往来だ。」「
田圃にしてみや
肥料になるぜ。」
と
しらふで
冷罵れば、巡査は全身の
怒気頭上に上りて、「無礼者め。」ともう
血眼、二ツ三ツ
撲りつける。
「ヤ
撲ったな。ああ、痛え。」「おお、痛え。済まねえやい、木や土で
造えた
木偶じゃねえ。」「血のある人間だ、さあどうする。」とくってかかる混雑紛れ、お丹等老婦人を
見咎められず、やすやすと通抜けたり。
「はてな、地獄の戸が
開いた。」
車夫三吉を
取挫ぎて、美人を
労りたる
屠犬児は、
訝かしげに傾聴せり。
渠が立てる処より間
遥に隔りたる建物の戸を
開閉する音なるが、一種特別の
響あれば、
闇夜にも屠犬児は識別せるなり。
「誰だ誰だ。」と呼ばわれば、答は無く、ややありて二人
三人の
跫音の
小刻に近付きつ、「私だよ。」というはお丹の声、「おやどうしなすった。」お丹は
闇中を
透し見て、「
談話の邪魔がいるようだね。」「いえ、こりゃお
姫様。」「光子様は分ってる、まだ一人いやしないか。」「ほい
梟のようだ。
居りますよ。」「誰だい。」「これはね、駿河台のそれ猫股婆の車夫なんで、私が折よく乗合わせなかろうもんなら、光子様を
手籠にして連れて行く処でごぜえましたぜ。」「だから私が
貴女に外へ御出掛けなさいますなと申すのに、とうとう見付られておしまいなすった。」光子は「堪忍しておくれ。」と
侘しげにいう。
「まあ、
可うございます。ちょっと、
其奴を縛っちまいな。」「ちゃんと可いように
拵えてありやす。」「そりゃ早い
手廻だね、ではね、お前。」と
後に控えし
壮佼を見返りて、「どこかへ明日まで封じておきな。」「あいあい親方請取ろうか。」「そら渡すぞ。」と屠犬児が片手で突けば、飛んで来る、三吉を
引抱きて、
壮佼は
闇夜に消えぬ。
「
貴女御心配には及びません。ここにお置き申すも今夜っきり、明日は立派に駿河台の若殿様にお逢わせ申す。」「ほんとうかい。」「何、嘘をいいますものか。」「嬉しいねえ。」と光子はいそいそ。
「そのかわり、今夜の
中にどんな恐しい事がありましょうとも眼を
塞いで我慢なさい、
過日お茶の水で身を投げて死のうとなすった、その気でね。」と意味ありげに言含め、「そこでの、黒瀬の
婆様を葬ってやろうと思って用意をしたお棺はね、ちと道具に
使用処[#ルビの「つかひどころ」はママ]がある、後でここへ持たしてお
寄来し。」
屠犬児は
怪みて、「それじゃ死体はどうなさいます。」「あれはね、
筵に包んで担ぎ出して、番町の小浜という
邸へ行って、玄関見附に大きな松の木があるから
好さそうな枝を見繕って、ぶら下げて来るように、権と八に一役おつけ。」「はて
怪しからねえ。何のためだね。」「ちと思わくのあることさ。光子
様は私と一所に、地獄で妙な人に逢わせるよ。」
先刻に
兇徒の
手籠に逢いしは、
黄昏の頃なりき。されば早や夜ならむ、
居る処は、天か、地か、はたまた土蔵か、穴蔵か、眼は開きたれども
一物を弁ぜず、
闇きことあたかも盲せるごとくなるに、老婦人はただ自失せり。
されど心
豪にして気韻高き
性なれば、はしたなく声を立てず、
顛倒して座を乱さず、端然としていたまえり。
まことや既に仏果を得て、勇猛精近の
行堅固に、信心不退転の行者なれば、
爾き
黒暗闇の
裡に処しても
真如の鏡に心を
照せば、胸間
霽れたる月のごとく、松の声せず鏡の音無きも結句静処を得たりと観じ、
寂寞として水晶の数珠
爪繰りて泰然たり。
ややありて戸の外に
物凄き
婦人の声して、
「駿河台の御隠居様、
貴女は
御嫁女の光子様を余り非道に遊ばしたゆえ、地獄へ御連れ申しました。ここをどこだと御思い遊ばす。」
言下に老婦人は色を
作しぬ。
婦人の声は
後に廻り右よりまた左より、同一言を繰返せり。それより
寂として天地に声無し。
すべての人、光明に逢えば眼に愉快を感じ、闇中にある時は心に苦痛を見る。もしそれ老婦人をしてかくてあることを久しからしめば、
終に必ず狂せむ。不意に音あり、戸は開きぬ。同時に
照射入る燈火の影に乱髪、
敝衣の醜面漢、
棍棒を手にして面前に
来れり。
老婦人は見ざるがごとく、
秋毫も騒げる色無し。
渠はあえて害を加えんとはせで、燈火をそこに差置きたるまま、身を
飜して戸外に去りぬ。
と見れば、四方は荒壁なる五坪ばかりの土間の中に
筵の上に載せられたるものあり。
つい眼の前には板戸のごとき
大肉俎の
据られしに、
犢大の犬の死体
四足を縮めて
横われるを、いまだ全く
裂尽さで、切開きたる脇腹より五臓六腑
溢出で、血は一面に
四辺を染めたり。ここかしこに犬の首、猫の
面、手とも謂わず足とも謂わず切断して棄てたるが、三々五々
相交る。
また
四斗樽三箇を備えて、血と臓物を貯えしが、皆ことごとく腐敗して悪臭
生温く呼吸を圧し、敷きたる筵は湿気に濡れ、じとじとと
濡いたり。
地に
転びたる犬の首は、歯
露れ舌を吐き、串に刺したる猫の面は、
眼を
閉がず
髯動く。
渠等が妄執
瞑せず、帰せず、陰々たる燈火に映じて
動出ださんばかりなる、ここ屠犬児の
働場にして、地獄は目前の
庖廚たり。
眼のごとく髪のごとく口のごとく頬のごとく一切その人の姿のごとき猫股婆もぎょっとして、色を失い、身を震わし、固く結べる唇より一語ようやく黙を破れり。
渠は
呟きぬ、「浅ましや。」
とたんに
外面に女の声して
呵々と打笑いぬ。
試に問う、天下の人いかに、外に忠実なる
僕のごときは、内に
暴戻なる
[#「暴戻なる」はママ]旦那なり。
出でては仁慈優愛なるもの、
入っては残忍
酷薄にて、
隣家の娘に深切なるもの、
己が細君には軽薄なり。我子の嫁には鬼のごときも、他人の妻には仏のごとく、動物憐護を説く舌は、かえって
奴婢を
叱責せずや。乞食に米銭を
擲つ
仁者、悩める親に滋味を供せず。芸者に
粋な御客人、至って野暮な御亭主なり。弟子に
経綸を教うる人、家庭の教育整い難し。友の
棺を送るもの、親類の不幸を弔わず、役所に出でては尻尾を振り、宅へ帰れば頭を振る。なお金銭におけるごとく、
+−出入の相違は天地
懸隔、
月鼈雲泥、駿河台の老婦人もまたこの般の人なりき。
外部より
刺戟を与えて、内心の悔悟をうながせしお丹は時分を見計いて、老婦人の前に
出で相対して座を占めぬ。
「お初に御目に
懸ります。」
老婦人はものをも言わず威儀を整え
儼然たり。お丹はおもむろに
説出だしぬ。「今晩は、
貴女の御威勢にも
憚りませずとんだ失礼をいたしました。しかし
止むことを得ません次第、まあ御聞き下さいまし。実は先々月の
中旬でござりました、
夜更にお茶の水橋を通りまして、
品格の
好い、
美麗い、お
年紀の若い御婦人が身を投げようと遊ばす処を
危くお止め申したのが、もし、御隠居様、貴女の御邸の光子様でございます。とかように申せば、なぜあの方が死のうとなすったかは貴女のお胸にございましょう。私も驚きました、御慈悲深い、お情深い、殊に仏学をお修めなすって、道徳抜群という
風説の高い貴女のお嫁御があんなに薄命でお
在なさろうとは、はい、夢にも思いはしませんでした。」
と
屹と老婦人の
面を見たる瞳は
閃然として星のごとく、
渠は
太く
愁色ありき。恐怖の色も
顕れながら、黙して
一言も
応答をなさず。
お丹はまた語を続けぬ、「しかし死のうとなさったまでには、大抵のお
酷めようではございますまい、よっぽど御骨折でございましたろうねえ。」
罵殺一番、老婦人は強いて平気を装いつ、
毫も屈する
状無し。
お丹は
冷かなる
微笑を含みて、「私も
初のうちは
御実家へお戻りのあるように、勧めてはみましたけれど、あなた方の重い御身分では、
姑御が
邪慳だからって、ついちょいと軽々しく、
産の親御に顔は合わされぬとおっしゃるので、ま、ただいままで私が
大切におかくまい申しました。」
ちょいと句切って
睨めッ
競、双方しばらく無言なり。
急に声を励まして、「そんなにお
憎みの光子様をなぜまた連戻そうとなさいますね。馬車で公然と御迎えになりますれば、私は喜んであの方をお渡し申します。車夫に
手籠にさせようなんて飛んでもないことを遊ばす処では連れて帰ってまた
虐めようという
御思慮としか思われません。それは貴女虫が
好過ぎると申すんです。及ばずながら私が光子様をお
庇い申せば、
夜叉、
羅刹を
駆集めて、あなた方と
喧嘩をしてなりと毛頭御渡し申しませんが、事を好んでするではなし。ナニ、お
望ならば差上げましょう。その代りただでは
不可ません、邪慳な姑をさらりと
罷めて、慈愛な母親になってやる、と私の前で御誓い下さい。」
渠は依然として黙を
修せり。
お丹は詰寄りて、「さもなければ質として、御手の御数珠を私が
預りましょう、どっちか一つ御返事なさい。貴女、まあどうでございます。」と
咄々人に迫り
来る。
ここに到りて老婦人はもはや黙することを得ず、
凜たるさりながらやや
震を帯びたる声にてはじめて一言、「華族じゃぞ。」
老婦人はこれより
前、
惨絶残尽なる一
場の光景を見たりし
刹那、心
挫け、気
阻みて、おのがかつて光子を
虐待せしことの非なるを知りぬ。なお且つ
慙愧後悔して孝順なる新婦を愛恋の念起りしなり。されど
剛愎我慢なるその
性として今かく
虜の
辱を受け、
賤婦の虐迫に屈従して城下の
盟いを潔しとせず、断然華族の位置を守りてお丹の要求を
却けたるなり。
「御承知下さいませんか、どちらもいけませんか。」
老婦人は
屹として「華族じゃぞ。」
「
何でございます。」
老婦人は始終一徹、
「華族じゃぞ。」平民にものはいわずとまた黙せり。
お丹少しく
怒を帯びて、
戸外に向い、「こう一件を連れて
入んな。」
ややありて黒く
痩せたる小男と、青く
肥りたる大男と、両々光子を
挟みて、引立々々
入来れり。
「そこへ。」とお丹が座を示せば、老婦人の前に光子を押据え、
牛頭馬頭左右に
屹立せり。
光子は涙浮びたる眼を開きて、わずかに老婦人を
瞥見せるのみ、
打戦きて手足を
竦め、前髪こぼれて地に敷くまで、
首を垂れて
俯向きぬ。
老婦人は顔をも背けず正面に光子を
瞰下しいよいよますます傲然たり。
お丹は
小刻に座を進め、「サ、
犠牲に捧げます。お打ち遊ばせ、お
抓り遊ばせ、この頃ようようなくなりましたこのお
身体に
生疵をまたいくらでもお付けなさい。どんなにでもお責めなさいな。ちっとも故障は申しません。そのかわりに、お邸へ連れてお帰りになりますからは、若殿様と
御両人を快く添わしてあげて、これまでのような非道なことは忘れてもなさらぬように、それとも不縁に遊ばすなら、光子様に自由を与えて、決して干渉をなさらぬように、お憎みのありったけ、今晩いじめ切っておしまいなさい。お動きなすって御成敗がなさり
悪くば、縛りましょう、釣上げましょう、さあさあ、どうとも御望み次第。」
と胴を据えたる
詰問、老婦人は死灰のごとし。
お丹
焦れて、「何もそんなに尋常ぶって、御辞退にも及びますまい。
餓い腹なら食べるが
可いのさ。」
老婦人は奥歯を
噛切め、
御気色荒く、「華族じゃぞ。」「華族がどうした。」「華族じゃぞ。」「フム解りました。料理の
塩梅が悪いから、華族様のお口には
合ぬとおっしゃるのでございましょ。これは
実に私が粗相。どう、そんなら汁に加減をしようか。鉄、熊、押えろ、動かすな。」
声に応じて牛頭馬頭は光子を
仰様に引倒し、一人が両手、一人が両足、取って押えて動かさず。「ああれ。」光子は虫の声。
老婦人は心の内、「華族じゃぞ。」
お丹はひしと光子の胸に片膝乗懸け、
笞を挙げて打たんとしつ、老婦人を
睨殺して、「留めはすまいね。」
無言。
力を
籠めて、「留めはすまいね。」
老婦人は
蒼くなりて、「華族じゃぞ。」
かくまでしたらば
我を折らんとかねてより思いしには似で、飽くまで老婦人の剛情なるに、後へ
退かれぬ羽目になり、
止むことを得ず手を
下しつ。お丹がその時の心中いかに。
光子は
苦悶して悲鳴を揚げ、右に左に枕を代えて、長き黒髪地を掃きしが、最後の一撃は手元狂いて
打処や
悪しかりけむ、うむとのけぞりて
渠は絶せり。
「ほい。」「これは。」と二人は
吃驚。
お丹は脈を伺いて、「ああ
失策た。」と叫びしが、気を変えて
冷笑い、「おい
婆様、お前の口に合うように料理をしたばかりに、とうとうこの
嬢を殺したよ。」
といいつつ震えている二人を顧み、「あのう、押入に
繋いだ
車夫を出してやんな。おい
婆様。」
老婦人を
後目に懸け、「もう用はこれなし、
帰してやる。」
駿河台のお邸にては、
夜に
入りても御前様の御帰館無きより、
心当を問合せ、御親類中へ使者を向くるに、いずくにも見えさせたまわず、皆目
御立寄これなきよし。
さては珍事じゃ大変じゃと、邸内一統
煤掃という見得で
騒出し、家令はまず何はともあれ、警察へ届けて出る。御奥の老女は
御神籤を
下しに
行く。
主思のお
婢はお
稲荷様へお百度を踏みにと飛出して、裏町へ回り焼芋を二銭買い、
袂へ
納れて
御堂に赴き、お百度をいいまえに
歩行きながらそれをむしゃむしゃ、またと得難き忠臣なり。
家扶は探検使として差向けらる、書生二人を
引従え、御前様のお出先は、何しろ四谷、
最寄近所は草を分けても
穿鑿せんと、
杖を携え、
仕込杖を脇挟み、さも事々しく打立ちてお茶の水を渡ると家扶の武智「敵は本能寺じゃ、続き召され。」と芳原さしてどろんとなる。
府下の
処々より旧藩士の面々が御家の大事と早車にて乗附くる。
御出入の商人、職人、盆栽のお見出しに預りたる植木屋までが、
驚破鎌倉と
馳参じ、玄関狭しと詰懸け詰懸け、
夜一夜眠らで明くる頃、門内へ引込みたる
母衣懸の人力車、彼はと見れば、こりゃどうじゃ。
「
御帰館――」と叫ぶにつれ、老婦人
衝と
出でて、式台に成らせたまえば、一同眼の覚めたる心地して、万歳を
哄と唱え、左右にずらりと平伏するを、
見向もせで、
足疾に
仏室の内、
隔の障子を閉切りたまいぬ。
「はて、
面妖な。
只事でない。」と家令を先に敷居越し、恐る恐る
襖を開きて、御容顔を見奉れば、徹夜の
御目落窪みて、
御衣服は泥まぶれ、激しき
御怒の気色
顕れたり。
「はッ恐れながら。」と
冒頭して、さて御機嫌を伺えば、枯れたる声を絞らせたまい、「
退りや、退りや。」と取っても附けず。
家令は少しくにじり出で、畳を額に
埋みながら、「これは
仰とも覚えませぬ。一晩御帰邸相成りませぬで一統の者の心痛いかばかり、まずは御安泰にて恐悦に存じまする。さりながら御顔の色も
尋常ならず、一同安心のなりまするよう、
仔細御申聞けのほどを、はッはッ。」とさようしからばで言上するのを、老婦人は皆まで聞かず、「退りやと申すに。」「はッ御意に逆いまするか、しからば是非に及びませぬ。」と家令は居直り、「
御目通叶わぬ遠慮さっしゃい。」と郷右衛門めかしておおせを伝え、直ちに御前を退散して、御供の車夫に様子をたたけば、三吉がらてきという
鬱いだ顔色、ほっとせし気味にて
長歎息吐き、「何だってお
前様、滅茶苦茶に
真闇だあ、どうも人間
業じゃねえぜ。
己あ
恐怖かったのなんのって、お前様
対手が天狗だと
名告るから
堪るめえじゃねえか、いまだに
震が留まらねえや。」とがたがた胴震、「ね、この通りだ。全体
己あ
呼吸があるのかよく見てくんねえ。生きていようか、ねえ、おい。」
と
他愛の無きこといい寝入に前後も知らず早や
鼾。仔細は更に解らねども怪我も無ければまず安心と、上下
一呼吸吐く間もあらせず、
眼鋭く、
頬瘠せて
髯蓬々と口を
蔽い、髪は
蓬と
乱懸りて、手足の
水腫に蒼味を帯びたる
同一ような貧民一群、いまだ新らしき
棺桶を、よいしょと
背負込み、門の内に
入ると
斉しく、一人が巻持てる紙旗を
颯と開けば、(塚町光子様
御遺骸)と墨黒に書きたるを、
真先に押立てて、
憚る色なく、玄関に横附にして異口同音、「頼む、頼む。」
「どうれ。」と出て来た取次はこの
体を見て
呆果て、ただもう「えッ。」と
謂いたるのみ、蛙のごとく眼をぱちくり。「何でも
可い。」「隠居殿が御承知だ。」「鮫ヶ橋から奥様の死骸を届けに来たのだ。」「ぐずぐずせずに取次げやい。」と口々に呼ばわれば、「何だ何だ騒々しい。」と書生二人飛んで
出しが、あまりのことに
辟易して、
茫然と見物せり。
「ええ華族様は気の長いもんだ。」「素直に待ってちゃあ
埒が明かねえ。」「
蹈込め。」と土足のまま無体に
推込む、座敷の入口、家令と家扶は
襷を
綾取り、
袴の
股立掻取りて、大手を広げて
立塞り、「
汝、
昼盗賊狼藉者。」「さあ一足でも入るが最後、手は見せぬぞ。」
と
叱附くるを耳にも懸けず、口を揃え、
「やいやい隠居はどこへ隠れた、
昨夜の死骸を持って来たぞ。受取れ受取れ。」と呼ぶ声、隅から隅まで鳴渡る。
家令家扶堪えかね、
目配して、「山本、熊田、
其奴等
撲け。」と昔取りたる
杵柄にて
柔術も少々心得たれば、や、と附入りて、えい、といいさま、一人を担いで見事に投げる。
これに気を得て
勇をなし、二人の書生は腕を叩き
拳を
揮うて
躍懸れば、
撲たれぬ
前に、「あ
痛、」「お
痛。」と皆ばたばた。
算を乱して
仰向にどたりと倒れ、畳を
蹴立て、障子を
揺り、さア殺せ、
苦いわい、切ないわい、死ぬぞ、のたるぞ、と
泣喚くに、手の附けようもあらざれば、持余したる折こそあれ、奥にて呼ぶ声、叫ぶ声、廊下をとどろと走る音、
襖の
開閉騒がしく、屋根を
転覆した混雑に、あれはと驚く家令の前へ、腰元一人
転けつ、まろびつ、蒼くなりて走り
出で、いきせき奥を指さして、
「
大、
大、大変です。もし、御前様が御自害じゃ。」
「あ!」と家令は腰を抜かす。
疫病神どもこれを聞くより、そら
遁げろと、
跳起きて、棺は棄置き、雲を霞。
鮫ヶ橋に
馳戻りて、一部始終を告げ知らせばお丹、「ふむ。」といったきり。しばらくものも謂わざりしが、やがて歎息して、「ああ、遣過ぎた。あの
婆様もさすがだの、わざと私が殺してみせて、
活かして光子
様を棺に入れて駿河台へやったのは、隠居がいくら強情でも、
柔順に
宅へ入れるであろうと思った思案は浅かったよ。その身に
懸ったことからして、あの婆様が死んでみりゃ、可哀そうに光子様はあれっきり……チョッ
惜いことを。」
光子は尼になりきという。
麹町の華族、小浜正道氏の門内に、ひたと犬の鳴きたる
夜あり。番人幾たびも
見巡りしが、何事も無くて夜は明けぬ。
門長屋の
兵六老爺、大手を開けに朝
疾く起出でて、眼と鼻を
摩りながら、御家の
万代を表して、
千歳の
翠濃かなる
老松の下を通りかかれば、朝霜解けた枝より、ぽたり。
兵六震い上りて、「おお、
冷え。
老人に
冷水、
堪ったもんじゃねえ。」と
呟きつつ、打仰ぎて一目見るより、ひええ! と
反って
飛退り、下駄を脱ぎて、手に持ちはしたれども、腰の骨の
蝶番がっくり
弛みてただの一足も歩かれず、くしゃりと土下座して、へたへたになり、
衣服をすっぽりと
引被りて、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
門外に靴音して、
朝巡回の巡査、松の木の
縊死を認めて、戸を叩き、「開門、開門。」
と
音訪う処へ、新聞配達、牛乳配達、往来を掃きに出でたる
向の
親仁、隣の小僧、これを見付けて寄集り、「なるほどこれじゃ、道理で恐しく犬が吠えた。」
「もし、こりゃやっぱり喰詰めたのでございましょうね。」
「さればさ、年寄だからどの道色気ではねえて。」と、くだらぬ下馬評。
「
貴下、この邸はいつでも
晩く戸を開けますか。」と巡査は問う。「いいえ、旦那、兵六という門番が
名代の
疾起なんで、今朝はどうしたというのでしょう。」
「何でも
敲くが
可い。」とんとん。
老爺は
念仏三昧。
「どうでもしてくれ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」とんとん、「勝手にしろさ、
毀さば毀せだ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」がんがんがん、「そりゃ、えらくなって来た。この腰が立つか立たぬか。もうこうなったら
根競だ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
外には
焦れて二三人一同に、どしんどしんどしん。兵六老爺
胆を据えてびくともせず。いよいよ
烈しく
敲立つるに、玄関をがらりと開けて、執事の
日下部、「門番の衆、門番の衆、開門。」と呼立つる。
「これは大変奥と表で
挟討だ。そりゃ
可いが
天窓の上にござるぶらんこがどうもはや、今朝は
我が一生の厄難だ。殺さば殺せさ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
呼べど叫べど答ざれば、「
老爺め、また
疝気でも起しおったな。」走出でて門を開けばはや往来には人の山、津浪のごとく流込むに、「こりゃ何事じゃ。」と執事はきょろきょろ。「
貴下はお邸の方かな。松の木に
縊死があるで。」と巡査に
謂われてまた驚き、
婆々の死骸を見て三度
吃驚「やれ首を
縊った、松の木が。」と
慌しく触込んだり。
「凶事がある
前兆じゃよ、
昨夜は夢見が悪かった。早速
護摩でも
焚かせねばお邸から
縊死を出してどうするものじゃ。」と
令夫人は大きに担ぐ。殿様のごときは黒くなりて、「一度あることは二度というぞ。あの松の木今の間に
伐倒せ。」と
苛立ちたまう。
照子は腰元を召して、「門内に変死があるというね。どんな様子だかお前行って見ておくれ。」次第によらば、
枯骨を拾わん
思召、慈善家は違ったものなり。
腰元やがて復命すらく、「乞食より
汚穢い
婆々です、さうして
塩茄子のように
干乾びておりますよ。おお、胸の悪い、私が今参りました時は死骸の懐中を
検べておりました。もし、
姫様書附がございましてね、
町所が、ああ何とやら、
皆が申しましたっけ。何でも鮫ヶ橋の者だそうで、名が……そうそう黒瀬ぬい。」「黒瀬ぬい――私は聞いたような。」としばらく考え、「あのそれじゃ。」と顔
真蒼。
「おや、御存じ。」と腰元に顔を見られて少しく
狼狽え、「直ぐ出懸けるよ。」とふいと立つ。「どちらへ。」「深川様のお邸まで。」「それではお召替遊ばしまし。」「なに、これで可い。」と紫地の
行燈袴、学校行の
扮装そのまま。
もはや時刻と例のごとく、車夫は玄関に待懸けたり。照子はわくせく気を
急らし、腰元附添い
駈出でて、永田町へ……
「御急ぎッ。――」
門内の群集を分けて車上の照子は、老婆の死骸に
面を背けつ、それより深川家の式台まで矢を射るごとく乗附けて、かねて別懇のなかといい、殊に心の
急きたれば、案内も
謂わで夫人の居間。
「
夫人、今日は。」と立ちながらまず
挨拶。
綾子はぞろりと
外出の
装、
繻珍の丸帯を今
〆めて、姿見に向いたるが、帯留の
黄金金具をぱちんと懸けつつ振返りて、
「おや、照子
様。飛んだ事ですねえ。」と
先を取られて
謂いそそくれ、「え。」と照子は
希有な
顔色。
「私も今出懸けましょうと思って、御覧の通りちょいと支度をいたした処です、御一所にまいりましょうか。」
一つも解らぬことを
対手は
丸呑にして、承知之助、照子は呆れて、「
夫人どこへ、そうして何が、あの何でございますの。」
とぼっとしたことをいう。
「駿河台の御隠居様が、今朝急病で
御逝去なすったって。」「ええ。」「
訃音がありましたよ。あら、
貴嬢は御存じではなかったの、まあ御坐り遊ばせ。」
と友禅の
座蒲団を直して、
桐火桶を
推出したまい、
「何ですか大層お
急きだことね。まア落着いて。」
と気を着けられて、照子はほっと
呼吸、「
夫人、この間のね、秀の
祖母様というのはたしか。」「黒瀬ぬい。それがどうしましたえ。」と懸念げなり。
「
夫人どう致しましょう、その
婆様がね、
家の松の木で首を釣ったの。」綾子も色を変じて、「ほんとうですか。」「今頃はどんなでしょう、私の来た時でさえ門の内は人で一杯。」と照子は
後見らるる風情、そわそわして落着かず。
綾子はじっと
俯向きしが、ややありて
潜みたる顔を上げ、「照子
様、内証ですよ、高い声では申されぬが、駿河台の御隠居様の急病というのは、まあまあ
表向で、実は何か、鮫ヶ橋の方のものに間接にお殺されなすったようです。私共が願ってあすこへ行っておもらい申した、それから事が起ったそうで、申訳もありません、今の
貴嬢の
御談話といいどうも私の考えでは、鮫ヶ橋は容易ならぬ処です。いつかそれ慈善会を
打毀した、あの恐しい女乞食も鮫ヶ橋の者ですよ。こう申せば何ですが、四ツ谷の空の一方には、
妖い雲が立上って
穏ならぬ
兆候が見えて、今にも破裂しそうで、気に
懸ってなりません。
打棄っておいてはお互の身の上でしょう。私の思いますには、彼等の心の
和ぐように折角恩を
被せて、ねえ貴嬢。」と何やらん
囁かれしが、小声にて聞取れず。照子が辞して帰りし
後、深川夫人は
腕車を命じ、所々方々奔走あり。
流石は綾子、半日にて多数の貴婦人を一致せしめし。
その結果。
寺院は随一の
華主なる
豆府屋の
担夫一人、
夕巡回にまた例の
商売をなさんとて、四ツ谷
油揚坂なる宗福寺に
来りけるが、数十輛の馬車、
腕車、
梶棒を連ね輪を
駢べて、肥馬
嘶き、道を擁し、
馭者、
馬丁、車夫の
輩、手に手に
桝を取りて控えたる境内には、一百有余の俵を積み、白米
筵に山をなせり。
音楽
妙に、読経の声清く、
庫裡も本堂も人ならざる処無き意外の光景にひたと呆れぬ。
これ
蓋し深川綾子の建案にて、麹町の
姫様檀那となり、あまたの貴婦人これを
扶け、大法会を
修して
縊死の老婆を追善し、併せて鮫ヶ橋の貧民の男女を論ぜず、老少を問わず、
天窓数一人に白米一斗、無慮一百石を散ぜんとする
未曾有の
施行なりき。
「へい、
真平御免なさい。少々どうぞ。」と豆府屋おずおず、群集を分けて
入らんとすれば、比々として
排べる車に
支えて、台を担うて歩むべからず。膝の
辺に手を下げて、「若い
衆頼むよ、通してくんねえ。」車夫は
傲然として、「べらんめえ、この混雑の中へ
入れるもんか、眼を開けてものをいいなよ。顔を洗えさ。邪魔だ邪魔だ。」と
推出しぬ。
豆府屋
蹌踉して
踏こたえ、「がみがみ
謂うない、こっちあ商売だ。」と少しく
勃然とする。「何い、商売がどうしたと。」大喝一番腕まくりして向い
来るに、ぎょっとして
飛退り、怨めしげに法会を
視めて
多時は去りもやらず、彼がその日の収入に
大なる影響あればなり。
時に年老いたる
屑屋あり。包を背負うたる洗濯
婆あり。おなじく境内に
入らんとせしが、また車のために抑留さる。
「おやおや大変だ。弱ったことの、洗濯物をうんと仕上げて持って来たのに、こりゃまあどうじゃ。」と老婆は
呟く。
傍より
件の
屑買、「
私ゃまた
一日と十五日が
巡回日で今日も
遣って来たのじゃが、この様子では入ってから
商は出来ぬらしい、やれさても。」と大きに
愚痴す。
「え、薄汚い、悪臭い、貧乏神が
夫婦連でやって来やあがった。とッとと
退いたり、邪魔にならあ。」と
馬丁の
喚散らせば、
「やれやれ
情ない、のう、お
前様。」
老爺頷き、「御慈悲をば頼んでみるじゃ。」と二人は土下座をして
平突張り、「はいはい
申兼ましたことなれど、この洗濯賃を
的にして、今日はまだ
御膳を
頂戴きましねえ。」「
私も今日が
書入日でござりまする。この御寺に、月に二斎を
楽みにいたしております。どうぞ
一番御上人様へ御取次下されまし。」
皆まで謂わせず、「何だ御取次い、糞でも
啖え、華族様
御直の馬丁だわ。やい、門番扱いにしやあがる。死損いめ。」妙な処で威張ったもの。
老婆は額を地に
擦付け、「はいはい、誠に早や
推付がましゅうございまするが、御見懸け申せば、はいはい、どうやら
御施米がござる様子、少々ずつ御遣し下されまし。」「へい、
御願でござりまする。」と二人は手を合わせて拝みぬ。
馬丁
面を
和げて、「ふん何か、きさま達は鮫ヶ橋の者か。」こちらは正直「いえ、青山でござりまする。」「私は麻布の今井町でござります。」「ン、それでは
不可ねえ。なあおい。」と謂えば一人が頷き、「今日は鮫ヶ橋に施行が出るんだあ、
他所のものじゃ
埒があかねえ。」
「そうおっしゃらずに。」「もし御慈悲。」「ふん。」と鼻を空にして構い附けず。主命を辱しむること、見よ、かくのごとし、既に仁恵といういずくんぞ
越人と
秦人とを分たん、されどもこれを
則と謂わば、また論ずるに足らざるなり。
二人は取附く島も無く、
落胆して、「ああ
情ない、
我あ素手では
帰られましねえ。」「
私もさ今日を
的にして
昨夕から何も食わねえ。」と声を放ちて泣き
出せば、
「やい、愚図々々してるとこうだぞ。」足を揚げて
老爺を蹴飛ばし、襟を
掴みて老婆を
突遣る。地に
転びてようよう
起ち、力無ければ争い得ず、
悄然として立去るを、
先刻より見たる豆府屋は、同病相憐の情に堪えず、
「こう
老爺様まあ待ちねえ、
婆様ちょいと。」と呼留めて、
売溜の財布より銅貨四銭
取出し、二人の手に
頒ち与えて、「親方持だから
資本へは手が出せぬ。余りちっとだが芋でも買いねえ。」二人は再三辞退して、ようやくこれを受納め、「ああ、お若いに御奇特な。」「やれ嬉しや、
難有い。」
と打って変って喜悦の涙、
襤褸の袖を分ちけり。
時既に
黄昏ぬ。正午頃より今に至るまで、米を計りて待構えたる鮫ヶ橋の貧民等恩に浴せんとて
来る者無く、貧童一
人の影だに見えず。さなきだに葬礼法会ありしと聞けば、
魚の
腸に寄する
鳶のごとく十里を遠しとせざる
輩が、しかも丁寧に告知らせしに、
召に応ぜざるはそもいかに、貴婦人方は
本意なげなり。
心利きたる
馬丁等、素早く坂を
駈下りて、谷町通に大音に、「
御救米が出るになぜ
来ない。」「下され物だ下され物だ。辞退は失礼に当るぞ。」「早く出ろ、直ぐに来い。」と声
嗄るるまで触流すを、ござんなれと待居たる、
究竟の
破落漢、軒下あるいは塀の蔭よりばらばらと
飛出して、お使番を
引僵し、蹴って踏んで
撲わして、「
此奴等、人を乞食にしやあがる。へん、よしてもくりや、余計なお世話だ。」
「早く帰って
汝等の主人に(あばよ)といえッて、お丹様のお
言だい。」
黄昏の頃油揚坂より続々として
曳出だす、馬車、腕車数十輛、失望、不平、
癇癪などいう不快なる熟字を載せたるは、これ貴婦人の
帰途にて、
徒になりたる百余俵の施与米を荷車に積みて逆戻り、笑止なりける次第なり。
々、
轟々、
轣轆として次第に
駈行き、走去る、
殿に腕車一輛、
黒鴨仕立華やかに
光琳の紋附けたるは、上流唯一の
艶色にて、交際社会の明星と呼ばるる、あのそれ深川綾子なり。
夫人は過日の慈善会以来、世に不如意あるを
知初めつ、かねてより人類の最下層に
鬱積せし、失望不平の一大塊、
頃日不思議の導火を得て、世の幸福を受けつつある婦人級と衝突なし、今にも破裂爆発して、玉石一様ならしめんと、企つるをば
密かに
識り、独り
自身胸を痛めて予防の策を講ずる折から、この度の出来事を好機として、暗に鮫ヶ橋の貧民等と和を整えん予算なりしに、天を怨み、地を恨み、宇宙間の万象を一切
讐敵として、世にすねたる神仏の
継子等、白米一斗の美禄を
納れず、御使番を
取拉ぎて
表に開戦を布告せり。
もしそれ下界の阿修羅王、八万四千の
眷属を
率て、
蒼海を踏み、
須弥山を
挟み、
気焔万丈虚空を焼きて、
星辰の光を奪い、
白日闇の毒霧に乗じて、
戟を
掉い、
斧を振い、
一度虚空に朝せんか、持国広目ありとというとも、これよりして多事ならんと、思去り思来たりて、綾子は車上に
憂悶せり。
夫人は
瞑目沈吟して、腕車はいずこを走るやらんしばらくは
現なり。
「ええッ
此奴。」と度外れの大声に耳を驚かして眼を開けば、
梶棒をがたりと
下して、「
夫人提灯を
点けますからちょいとどうぞ。」と車夫の吉造、
婦人を一人輪の下に
轢かんとせし、ようよう車を
踏留め、
胆を
潰せしむかばらたち、
燐寸にあたりて二三本折っぺしょり、ますます
苛ち、「命知らずの馬鹿者め、何だって往来に坐ってるんだ。
我が腕に覚えがあって
旨く
立停まったればこそ、さもなけりゃ、頭を
破るか、
脛を折るか、どうせ
娑婆の者じゃねえ、そりゃ
我だって暮合に
無燈火も悪かったけれど、大道
中に坐ってる法はねえ。」
と
擦っては消し擦っては消し、ようよう
点けたる提灯の
燈明に
照せば、
煉瓦の塀と土蔵の壁との間なる細き小路に、
窶れたる婦人
俯伏になりて
脾腹を
押え、
鞠のごとくに身を
縮めて
呼吸も絶ゆげに
苦めり。肩の
辺に
負れかかりて、茶褐色の犬一頭、飼主の病苦を
憂慮いてそを
看護らんと勤むるごとし。
車夫は別に気にも留めず、「へい、お待遠様。」
と夫人に謝して再び梶棒を上げんとせり。
綾子夫人は、待てしばし、
過日も
狸穴の
辺にて在原夫人にかかりし事あり。その時
渠は病者を見棄てて大きに面目を失いぬ。
殷鑑遠からず、一歩を
過たば我はた無情の人にならんと、
泥除を叩きて口早に、
「ちょいとお待ち。」
押留めて、「吉造、見受けた処病気のようだよ。容体を診てやるが
可い。」「およしなさいまし。この頃は乞食が
憐れっぽく見せようために、ああやっちゃあ
誑しますよ。」「そういうことをいうものではない。可いから聞いてご覧。」
とたしなめられて不承々々、「こうこう
夫人のお声がかりだ。
空おろそかには思うめえぜ、どうしたのだな。え、おい、どこか悪いか。」
悩める婦人は顔も
得上げず、病苦に声も切れ切れにて、「あ
痛、あ痛々々、冷えましたせいか差込みまして……」「ふむ、持病の
癪か。よくあるやつだ、
家はどこだい。」「はい、家と申しては、……別にどこも。」と
呼吸の下にて答えたり。
「そりゃ、ござったわ。いやにしんみりと持懸けたな。
夫人油断なさいますな。慈悲を垂れると附上ってなりません。」夫人は
頭を振らせたまい、「またそんなことを。可哀相に土の上では冷えて
堪ったものではない、行って
腕車を雇っておいで、
家へ連れて行って介抱しよう。」
蓋し思わくのあればなり。
「滅相なことをおっしゃる、飛んでもない、こんな者をお邸へ入れますのは、疫病神を
背負込むと
同じです。ままよ、癪の虫を
揉殺して
立処に
癒してやる、まんざら嘘でもないようだ。全体癪の介抱は、色男の
儲役だが、
対手がこの
状ではおさまらねえ。手を入れたら
虱を
揉み
潰すくらいが取柄だ。弱ったな。」
と
呟きつつ、提灯差附け
凝視むれば、
身装こそ
窶々しけれ、
頸筋の真白きに、
後毛の
匂こぼるる風情、これはと吉造首を
捻って、「しっかりせい。」襟よりずっと手を差入れ、「それ、こたえたか。」ぐっと
圧す。
婦人は
苦と
身悶えして、
仰向に
踏反返り、苦痛の中にも人の深切を喜びて、
莞爾と笑める顔に、吉造魂飛び、身体
溶解け、
団栗眼を糸より細めて、「
夫人、こりゃ是非お助け遊ばせ、きっといい人の
落魄たんです。」
綾子は
頷き、「早く
腕車を見て来ておくれ。」「いえ、今が大事な処、ここで手を放すと
反ってしまいます。」「だって、お前、いつまで道端でそんなことを。これ。」「へい、もう少々。どうも放し
悪い。」「早くおしよ。」ときめつけられて
詮方なく一散に
駈け
出し、口の
裡で、「御自分が
独身だと思って、ちとお焼芋の方だ。どうもならねえ。」
室数多けれども至って
人寡少なる深川の
館は、その夜より
賑わしくなれり。綾子が厚き
情にて、ただにかの婦人のみならず、なお彼に附随せる犬をも
加せて養いぬ。
新らしき食客は、暖かき
褥に
臥し、良薬を賜わりて、疾病直ちに
癒えたり。
渠は
旧旗本の
嬢なりき、幼にして両親を失い、嫁して
良人を失い、人に計られて
財を失い、
餬口のために家を失い、軒下に眠ること実に旬余、辛酸を喫して
癪に閉じられてすでに絶せんとせるとき、綾子のために救われしなり、と渠は語りぬ。
翌日早朝、犬はいずくにか
出行きて、半日見えず、午後に到りて帰り
来りぬ。
「
夫人、好事門を出でずと申しましたけれども、ああ、善きことは致したいもの、これ
御覧じまし。」と三太夫が書斎に
齎したる毎晩新聞。
綾子手に採り
披き見れば、深川夫人乞食を救う、と
標題に
圏点を附してその美徳を称讃し、気味悪きまで
賞立てたり。
綾子は
莞爾、「こんなに謂われてはかえって迷惑、あの女はどうしているね。」「何か
頻りに働いておりまする。」「
幸、人手もなし、眼を懸けて使うが可いよ。」「はッ、はッ。」
綾子は急に思出して、
独言のように、「あ、
御隣家へ御見舞に上らねばなるまい。」三太夫は呑込顔、「ありゃ、
御沙汰止に遊ばされい。大木戸の御前の御病気には、何かその、婦人が一切禁物だと申すことで、小間使が二人、先日
宿許へ下げられました。
御台様も一間なる処に
御籠の様子。御枕許御用人の衆が羽織
袴で詰めおるげにござりまする。たとえ御見舞にお越し下されましても、なかなか通すことではござりませぬ。
宜しく拙者めにおおせ附けられまし。」と真顔でいう。
綾子は顔を
赧めて、「そんなら私は見合せよう、何ぞを見計らっての、
其方がお伺いに参るように。」
とあれば、「はッ、――はッ。」とお受申して、次の間へ
辷出でぬ。
深川夫人の廃物利用はすこぶる好果を奏したり。女乞食の掘出しもの、恩に感じて
老実々々しく、
陰陽なく立働き、水も
汲めば、米も
磨ぎ、
御膳も炊けば、お針の手も利き、
仲働から勝手の事、拭掃除まで一人で
背負って、いささかも骨を
惜まず。上下をすべて切って廻せば、
水仕のお松は部屋に
引込み、無事に
倦飽みて、
欠伸を
噛むと雑巾を刺すとが一日仕事、春昼
寂たりという
状なり。
渠がこの家に
来りし以来、吉造
垢附きたる
褌を
〆めず、三太夫どのもむさくるしき
髭を
生さず、綾子の
頸も
撫ずるように
剃りて参らせ、「あれ、
御髪が乱れております。お気味が悪くも撫附けましょう。」とは、さてもさても気の着いた、しかも無類の
容色好し、ただ眼中に
凄味を帯びて、いうべからざる陰険の気あり。「ああッ凄い。」と吉造
無暗に嬉しがり、三太夫は人相
早学を眼鏡で
覗き、「なる程、ただものでない相じゃ。」
日数経れども
旧を忘れず、身を
謙りてよく
事うるまたなき心を綾子は見て取り、
一夜お
傍近く召したまいて、「妙なことを
訊くようだが。……」と
言淀みし声を
密め「お前、子を持ったことがあるのかい。」
婦人は
冷かなる眼をぱっちり、綾子は射られて
慄然とせり。微笑を含みて、「はい、お薬も存じております。」
「嫌なことをいう人だ。」綾子はその無礼を怒りて顔を背けつ、机に
凭りぬ。
一家声なし、雨
蕭々。
翌朝になると三太夫、
婦人を呼附け、言葉も
容子も
改りて、「
暇を遣る。」と
藪から棒。
婦人は
愕きたる
状にて、「何ぞ不調法でもいたしましたか、誠に行届きません
不束者、お気に入りませぬ事がございましたら、そうおっしゃって、どうぞ御勘弁下さいまし。」「何かは存ぜぬが
夫人の御意じゃ、
柔順にお受け申して退散せい。」と御家老真四角なり。
婦人は
悄然、「もう一度
夫人に
御執成遊ばして、お許されまするよう、恐入りますが、
貴老から。」「
罷成らぬ。別に何を
毀損したというではなし、ただ御家風に
合ぬじゃで、
御詫の仕様も無いさ。」「でもございましょうが、そこをどうぞ。」「うんや。」
と頑として
肯ぜず。
婦人は気色を変えて、「
老爺様。」
「なにいッ。」と
引込んだ眼を
刮出す。
「
私あ
行く処が
無えんだよ。宿無しだッてことはお綾
様承知の上だ。こう、お
店の嫁じゃアあるまいし、家風に合わぬもよく出来た。お国猿め、江戸へ来たらちとものいいに気を着けねえ。」と満腔の毒を
一瀉して
浴せかくる。
「何と申す!」三太夫は驚きながらも
居丈高。
「行く処が無えというんだよ。」「や、
此奴太々しい、
乞食非人の分際で、今の言草は何だ。
夫人の御恩を忘れおったか、
外道め。」と声を震わし、畳を叩きていきまけば、ニタニタと
北叟笑、「フフン、御恩ゴオンと、ニコライの鐘みたいにいけすかない
音をお出しでない。御恩だけのことはこっちでもしてある。お前さん、言訳ばかりの小さな眼でも
盲目でないから見ていたろう。
私あね、
御飯を食べるだけはきちんと働いておいたつもり。昔はちょいとした恩義に感じて田舎の御家来が、
生命までも棄てたものさ。ありゃ、主人が
狡猾で、
旨く正直なものを操ったのさ、考えてみたがいい。たかがぽんぽち
米少々で命と取換えてたまるものか。私はもとより忠義でないが恩知らずとはいいなさんな。するだけのことをすれば可いのさ。何と
老爺様一言も無かろうね。」とまくし立てて、
怯むところへ単刀直入、「しばらく足を洗ったために、乞食
夥間を
省かれた。
面桶持って稼がれねえ。今この家を出るが最後、人間の干物になります。皆これも
夫人の
御庇だから、何も彼もそっちが
懸合だ、
飼殺にしておくんなさい。」と足を出したる高ゆすり。
三太夫は胸へ込上げ、
老人のあせるほど、気ばかり
苛ちてものもいわれず、眼玉を据えて口をぱくぱく、
芥に酔うたる
鮒のごとし。
「
老爺を
対手じゃ
先行がしない。
可し、
直接に
懸合おう。」とふいと立って奥へずかずか。「ま、ま、待ちおれ
汝。」と
摺下りたる袴の
裾踏しだき、どさくさと追来る間に、
婦人は綾子の書斎へ
推込み、火桶の前に
突立てば、振返る夫人の顔と、眼を見合せて
佶となりぬ。「
姉様、
談話がある、
座蒲団を敷いておくれ。」
「
汝はな汝はな。」と武者振附く三太夫を突飛ばして、座蒲団を
引張出し、棒ずわりの
[#「棒ずわりの」はママ]膝をくずして、
「
狆や猫でも蒲団に坐るよ。柔かい足を畳にじかでは痛いやだね。御免なさいよ。」と帯の間より
煙草入を抜出して、「ちょいと
憚りですが、そこいらに、
煙管は無いかね。」
「やい、
不貞腐。」と車夫の吉造、不意に飛込んで、
婦人の
髻鷲掴みにしてぐいと引けば、顔をしかめて、「あ
痛、つつつつつ」と
拳に手を懸け、「無体な、何をするんだねえ。」
「何も彼もあるものか、様子は残らずあっちで聞いた。
夫人の
御居室へ踏込みやがって、勿体ない。人も無げなことをしやあがる。愛想の尽きた阿魔ッ
女だ。
汝を
贔屓に目が
眩んで、今までは知らなかったが、海に千年、川に千年、
劫を経た古狸、
攫出してお
汁の実にする、さあ
失せろ。」と力一杯。
「ああ
豪い、お
前様は男だから力があるよ。負けました負けました。おほほほほほ、強い人だね。」と平気で笑えば、吉造少しく
拍子抜、「一体
汝あ何者だい、
尋常の
鼠じゃなさそうだ。」「あい、
私あ、鮫ヶ橋で丹という、
金箔附の乞食だよ。」
言いもあえず膝立直して、「じゃむこうじゃむこう。」と口笛
鏘鏘。
綾子夫人は
蒼くなりぬ。
(じゃむこう)は召しに応じて、
大なる顔を、縁側に
擡げて座敷を
窺い、
飜然と飛上りて
駈来り、お丹の膝に
摺寄れば、
髻を
絡巻ける車夫の手を、お丹
右手にて支えながら、
左手を働かして、(じゃむこう)の
首環を探り、
紙片を引出して、悠々と
皺を
伸しつ、「そんなにしなさんな、頭痛がすらあね。今出て行くよ、まあ、お待ち、引かれ者の小唄とやらを、ここでちょいと吟じよう。」
深川綾子の先達て、女乞食を救いたるは、廃物を買いて虚名を売り、給金無しの下婢を得て奇利を占めんず政略なりし、今また経費を節減せんとて、行く処なく帰る家なき女乞食を追出だせり。
「なんとどうでございます。声が悪くって節は附かぬが、新聞種には面白いよ。大方こんな事だろうと、
昨夜の
中に
拵えておいた。」
綾子、「それは何です。」
お丹、「毎晩新聞の材料で、探訪員の原稿です。」
綾子は太き
呼吸を
吐き、「ああ是非がない。吉造、その手を放しておやり、三太夫、その
婦人は私を殺すよ、しかし大切なお客様だ。」
お丹は勝手次第に綾子の
箪笥より
曠着を
取出し、
上下すっかり脱替えて、帯は窮屈と
下〆ばかり、
裳を
曳摺り、座蒲団二三枚積重ねて、しだらなき
押立膝、
烟草と茶とを当分に飲み分けて、飽けば火鉢の
縁に
肱つき、
小楊枝にて
皓歯をせせりながら、「こう、お松どん、何か食べてえものは無えか。好んでみや、遠慮は不沙汰だ。なに、
鰻丼だえ、相も変らずだの、五ツ六ツ
誂えて来るが可い。大盤振舞をしてやろう。さてとまずお台所お松の
方の召上る物はぐい
極となったが、私は何にしよう。鰻の
匂も鼻に附いて食いたくなし、
鯛は
脂肪濃し、
天麩羅はしつッこいし、口取も
甘たるしか、味噌吸物は胸に持つ、すましも可いが、
恰好な種が無かろう。
鮪の刺身は
に出るによ。こうだに因ってと、あるよあるよ。
白魚をからりッと
煎り上げて、
鷹の
爪でお茶漬が、あっさりとして
異う食わせる。可いかい。この辺に無かったら、吉造を
河岸へ見にやんな。ついでにお茶請の御註文が、――栄太楼の
金鍔か、
羊羹も
真平だ。芝の
太々餅芳ばしくって歯につかず、ちょいといいけれど、
路が遠いから気の毒だ。岡野の
もなかにて御不承なさるか。そうそう藤村の
鹿の子が可い。風月堂のかすてらも
悪しからず、
引包めて二両ばかり買うが可い。それから
家の漬物はさっぱり気が無いの、土用
越の沢庵、至って塩の辛きやつで黙らそうとは
圧が強い。早速当座漬を
拵えて
醤油も
亀甲万に改良することさ。」と朝から晩まで食
好、
食草臥れれば、
緞子の夜具に大の字
形の高枕、ふて寝の天井の
圧に打たれて、
潰れて死なぬが不思議なり。
綾子はこれを見て見ぬふり、黙許して
咎めざれば、召使のものは
為術なく、お丹の命令に
唯々諾々。独り三太夫は御家の滅亡近きにあらんと、夜の目も合わず心痛なし、追放案を提出して、しばしば綾子に迫るといえども、ちと
仔細ありてと、おおするのみ。心はあかしてのたまわねど、
太くもの
思に沈ませたまい、軽快
濶達なりし
昨日に似ず、
憂鬱沈痛になりたまえば、どうして良かろうと、ご家来も呆れ果ててぞいられける。
誰も
天窓のおさえ手なければ、お丹はいよいよ附上りて、
我儘日に日に増長なし、人を人とも思わぬ振舞、乱暴狼藉言語に絶えたり。
一日珍しく、在原夫人、深川の
館に訪れぬ。
外出好の綾子夫人が
一室にのみ垂込めて、「ぱっとしては気味が悪い、雨戸を開け
勿。」といわるるばかり庭の
面さえ
歩行わせたまわず。毎夜々々湯を召すさえ物憂く見えたまえば、
気鬱の
疾病や
引出したまわむ、何か
心遣の
術は無きかと
頭を悩ます三太夫、飛んで
出で、
歓迎え、綾子の居間に案内せり。
夫人も大きに喜びたまい、
睦じやかなる
談話の花を、心無くも吹散らす、疾風一陣障子を開けて、お丹例のごとく帯もしめず、今起き出でたる風情にて、乱れ姿に
広袖を
引懸け、不作法に
入来りて、
御両方の身近に寄り、
突然匍匐になりて
頬杖つき、貞子の顔を上眼にじろじろ。
「綾
様、こりゃどこのお
婆様。」
綾子は
堪らず、「あれえ!」と血を絞る声を立てられしが、
衝と座を立ちて
駈出だし、
一室の戸を内より閉じて、自らその身を監禁せり。
貞子の
方はいと不興げにそのまま帰らせたまいける。綾子は再び出で
来らず、膳を
進らせんと
入行きたる
下婢のお松を戒めて、固く人の出入を禁じぬ。
その
後室内沈静にして、
些々たる物音も聞えぬ事あり、時ありては畳を蹴立てて
噪がしき
響の起る折あり、突然、きいーきいーと悲鳴をあげて、さもくやしげに泣く
音も聞ゆ。
「ああ、申訳のない事だ、御主人は
女性なり、
我が一家を預りながら、飛んだ悪魔をお抱えあるを
諫めなんだが
不念至極、何よりもまずこの月の
入用をまだ
御手許から頂かぬに、かの悪魔めが
食道楽、
通帳で取込んで
借が山のごとし、月末にどしどし詰懸けられると、なんぼむこうが平民でも、華族じゃからって払わぬわけには
行かぬ。
十重二十重に囲まれては、老功な武者でも
籠城がしにくいぞ。ええ
情ない、お家の没落を見てどうしておめおめと生きておられよう、
先殿への申訳、まッこの通り。」
と、三太夫はお丹へのつらあてに、眼鏡を懸けて刀を
選出し、座を構え、諸肌脱ぎ、
皺腹に
唾をなすり、
白刃を
逆手に大音声、「腹を切る、止めまいぞ、邪魔する奴は
冥土の
道連、差違えるぞ、さよう心得ろ。」
と繰返して呼ばわれど、
留めんとするものなし。「なに止められて
堪るものか。故障の入らぬ内に、おおそうじゃ。」と
切尖をちょいと
中てて
震上り、「武士が、武士が、」と
歯切して、ぐっとまでにはならぬけれど、ほんとに突いて、「うわッ、
死だあ。」と
疵を
押え、
血眼になりて、
皺枯声を振絞り、「もう
一抉で死にます。この手の動くが最後でござる。ちょいとでもやれば直ちに死にます。ただほんのもう一抉。」と肩で
呼吸。
障子の外には
人気勢して、くすくす笑い、三太夫は大粒の涙ほろほろ、刀をからりと投棄てて、「切った割に血の出ぬは、むむ、今日は血を流すと、荒神様が
祟る日だ。やれ
六根清浄、切腹をする日でない。」と
御見合。
もとより
親仁が一生の
智慧を出したる茶番にて、お丹の心を
挫がんためのみ。仕方を見せて見物を泣かせる
目算のあてはずれ、
発奮で活歴を遣って
退け、
手痍少々負うたれば、破傷風にならぬようにと、太鼓大の
膏薬を飯粒にて
糊附けしが、
歩行たびに
腹筋よれて、
跛曳き曳き、「あ
痛、あ痛。」その志よみすべし、(しかし馬鹿らしい。)
綾子が一室に
籠りてより、三日目の夕まぐれ、勝手口の腰障子をぬっと開けて、
面出す男、「
姉御、姉御。」と二人
連。
来れる
二個の
眷属は三界無宿の非人にて、魔道に籍ある
屠犬児、
鳩槃荼、
舎闍を引従え、五尺に足らざる
婦人ながら、殺気
勃々天を
衝きて、右の悪鬼に
襖を開けさせ、左の
夜叉に
燭を持たせ、栄華の空より墜落して、火宅の
苦患を
嘗めつつある綾子を犯す乞食お丹、自堕落の
態引替えて悪魔の
風采凜々たり。
綾子は
照射入れる燈火に射られて、
呀と叫びて跳上りぬ。
屠犬児は
衝と寄りて、綾子を捕えて押据えつ。お丹は襖を密閉して、夫人の前にむずと坐す。
綾子は
頤を襟に
埋めぬ。
磨かぬ玉に
垢着きて、清き襟脚
曇を帯び、
憂悶せる心の風雨に、
艶なる姿の花
萎みて、
鬢の毛頬に
乱懸り、
俤太く
窶れたり。
「綾子
様、今私が改めて
貴方に御尋ね申したいは、先月の末頃までこの邸に勤めました、お秀という小間使ね、あれはどこへ参りました。」
綾子は震えぬ。
お丹は
屹と居直りて、「ああ、御返事はなりますまい、あの朝、大木戸伯と
貴女とが一つ
閨に居たところを、お秀がうっかり見着けたので、(綾子が、
お言いでないよ
を繰返して小間使を
警しめし、あの件なるものすなわちこれなり。)直ぐその晩小浜照子に刺された事は知っている。あの
女は幽霊の真似をして人を
威して慰むような
剽軽者ではございません。必ず誰かが
教唆して殺されるように仕組んだので、教唆したものは綾子
様、大木戸伯と
貴女の
他には、私に心当りは無い。もっとも御自分ではなさらないで、お秀がいやを
謂われぬ者を手先に使ってさせたでしょう。なぜだといえば、あの
娘が
活きている
中は、二人の
寝覚が悪いから、殺した、いや照子に殺させたに違いありません。ほんとうに許されないのは貴女です。人を殺しても守りたいほど、そんなに名誉が大切なら、なぜ
不品行をなさるんです。
年紀は若し、
容色は
佳し、なるほど操は守られますまい、
可し
情夫が千人あろうと、
姦夫をなさろうと、それは貴女の御勝手だが、
人殺をしても仁者と謂われ、
盗人をしても善人と謂われて、肩幅広く居なさるのが、それが私は憎いんです。一体
法網を
潜るものは、お天道様が罰する
筈だけれど、それも片手落な事もあって、北向の家はいつもいつも寒いようでは、あてになったもんじゃない。私が今晩
唯今、貴女を罰してみせましょう。もとよりお秀を
教唆して死地に
陥したは貴女という推量ばかりで証拠は無いが、私は検事でもなく、判事でもございません、罪の軽重は論じない。ただ貴女が貴女の心に罪がこれだけあると思うほど、可い加減に罪を受けて、それだけ苦しめば可いのです。もしまた青天白日の御心なれば、平気でいらっしゃればそれで可い。誓って
冤罪はお
被せ申しません。どれ、そんなら、雲を
掴んで、裁判しようか。」
綾子夫人は半ば死して、半ば器械的に傾聴するのみ。
「それ手を貸しな。」と号令一発。
かねてより命じけむ、
夜叉羅刹は
猶予わず、
両個一斉に膝を立てて、深川夫人の真白き手首に、黒く鋭き爪を加えて左右より
禁扼、
三重襲ねたる
御襟を
二個して押開き、
他目に
触らば消えぬべき、雪なす胸の
乳の下まで、あらけなく
掻あくれば、綾子は顔を
赧めつつ、
悪汗津々腋下に
湧きて、あれよあれよと
悶えたまう。両の乳房を
右顧左眄て、お丹はなぶり且つ
嘲り、「ふむ、
大分大きくなった
乳嘴にぼっと色が着いて、肩で
呼吸して、……見た処が
四月の末頃、もう確かだ。それで可しと、掻合せてやんなよ、お寒いのに。」
両個はただちに手を引きぬ。
綾子は
呼吸ある人形なりき。
「綾子
様、このごろの
習慣で、
寡婦の
妊娠のは大変な不名誉です。それに
貴女のその
腹は誰の種だか、御自分で解りますまい。大木戸伯のか、百田時次郎、ね、御存じのあの好男子だか、どちらのだか知れますまい。下世話にいえば何とか講だ、恥の骨頂です。お秀の事はさて置いてと、この
件を通信して明日の新聞に間に合うように直ぐ(じゃむこう)を走らせよう。深川夫人と名を載せます。」
綾子は聞くより
慌しく、「私やもう何にも謂わない。さ、お前に殺されてやる。後生だからそれだけは止しておくれ。」
お丹は綾子を
瞻りて、「おいでなすった。そのお言葉があったら差上げようと、これを用意しておきました。御覧下さい海外旅行券です。交際社会のクインとまで謂わるる
貴女、今醜聞を新聞に出されては、とても日本にお
出なさることは出来まいと思って、私がほんの寸志、これを
進げますから、外国へお
遁げなさい。そうすればしばらく記事を猶予して上げましょう。そのかわり貴女が横浜を出帆する時、電報を懸けて下さい。それと同時に紙上へ載せます。東京市中は
破れるばかり
風説をしましょう。しかし、もう荒波の音に紛れて貴女の耳には入りません。」と早い
手廻。
綾子は
肯かず、「いいえ、人が私を
罵る声は
苔の下まで定かに聞える。私の
身体をお前に遣るから、生爪を
剥いで火で
焚くとも、
逆に釣って
干殺すとも、ずたずたに
斬って肉を
啖うとも、血を絞って
啜るとも、お前の手で出来るだけのことをして、どうでもして堪忍せよ。」と
清しき
御眼に暗涙あり。
お丹は冷然として、「
不可ません。私は探訪員の義務として、貴女のことを通信するのは、大変な
価値があるので、今度の新聞
材料は人の
生命が要ったくらい。どうしても堪忍しません。ただ私の謂うことを聞いて海外へいらっしゃい。何なら
露西亜へでもお
出なさいな。」
綾子は
呟くごとく、「それでは日本からまるで放逐されるようなものだ。」「まずそうですね。」と冷笑一番、「いやいや、どうしても外国へ
行く気は無い、ではこうしておくれ。今ここで、お前の眼の前で、自……自殺をする。
身体は死んでしまうから、ただ名誉だけ助けておくれ。」
と肺肝を絞る熱涙滴然、もって人類の石心を
和ぐべく鉄腸を
溶解すべし。
されど
悪魔は冷々然、「自殺をするほどの罪があると、貴女の心に思うのなら、いつでもなさいまし。毒薬を飲むの?
咽喉を突くの? 笛を
掻斬る時
後へ
反ると、もう、手が利かなくなって死損います。
背後から私が抱いていて上げましょう。モルヒネならちょうど死なれる分量を――御存じなくば見積って、私の
掌から飲ましてあげましょうか。」これ鬼言なり。
綾子は喜べる色ありき。「それではモルヒネ……お前目分量で飲ましてくれるか。」「お安い御用です、いつでも。」「そうしたらあの
件を新聞へは出さないだろうね。」と念を推せば、思いも寄らぬ
顔色にて、「いいえ、それはなりません。貴女が自殺をなさればまた一つ新らしい材料が出るから、実に
愉快い。深川綾子はこういう次第で自殺をしたと、その
理由を書添えて、早速通信をしてやります。(じゃむこう)がまた
好い
材料のある時は、嬉しそうに尾を
掉って
勢よく
駈けるんですもの。」その心の
冷かなること月を浴びたる霜のごとし、天下の熱血を氷化し得む。
綾子は再び
独言ち、「それでは死んでも仕様がない。」ああ窮の極、自殺も出来ず、「これ。死……死んでも
不可ないのか。」と最後の運命に問い試む。
お丹は世に最も深刻なる法官の音調もて、「死は万罪を償うという、
甘い御都合には参りません。しかし御心中はお察し申す。それほど名誉が大切なら、なぜあの
件を見られた当座に、飛かかって秀を殺してその手を返して
咽候を
[#「咽候を」はママ]切って、御自害をなさらなかった。外でもない、貴女の地位は罪を隠すことが出来るので、
人殺をして今が今まで、賢夫人の名を保っていたのだ、それ
其がごく
宜しくない。法律で罰することの出来ないものは、心の鬼に責めさせて、
活さず殺さず、
万劫苦しめるのが一番良い。」
綾子は失望の悲声を放ちて、「ええ、どうしても仕様がないのか!」「はい死ぬことさえ出来ません。」
綾子は茫然瞳を据えて、石に化せるもの数分時、
俄然跳起きて、「ああ、
懊悩い。」
身悶えして帯を解棄て、毛を
掻り
髷を
毀せば、
鼈甲の
櫛、
黄金笄、畳に散りて乱るる
態、蹴出す
白脛裳に
絡み、横に
僵れて、「ええ、悔しい!」
柳眉を逆立て、星眼血走り、我と
我手に喰附けば、右の無名指に
二個嵌めたる宝石入の
指環を
噛みて、あっと口を
蓋えるとたん、指より
洩れて
鮮血たらたら、舌を切りぬ。歯を
折きぬ。されども苦痛を感ずる
体なく、玉の
腕を
投出して、
空を
抱きて胸に
緊め附け、ニタリと笑いて、「時
様、おお、可愛いねえ。」
果は衣服を脱棄てて、
媚めかしき乳も唇より流るる
血汐に
塗みらしつつ、
「御前、誰も見はいたしませんよ。ナニ、お
位牌の前だって、
貴方もねえ、死んだ夫は
近視でした。」
魔属もさすがに
面を背けぬ。
お丹は
視めて平然たり。
綾子はまた膝を折りて端坐しつ、
潸然と泣出だしぬ、たちまちきゃっと絶叫して、転げ廻りつ
苦み
き、
「秀、秀、私が悪かった。ああああ、苦しい。
堪らない、あれッ、あれッ。」と
跳り上りて室内を狂奔せるが、あたかも空中にものありて綾子を
掴みて投げたるごとく、
仰様に打倒れぬ。それより裸美人
寂として、大理石の像に
肖たり。
ただその心臓は音するばかり、波立つごとく
顫動せるに、
溢敷きたる黒髪
揺ぎて、
千条の
蛇蠢めきぬ。
お丹は始終を見物して、「ふむ、狂人になるだけの罪を造った
婦人と見える。
可し。」と
呟きて、「さあ、帰ろう。」
門を出づる時、
屠犬児が、「姉御あんまりだ。」「
酷いじゃねえか。」とその気色を
物色えば、自若として、「なにまだ、あんな目に逢わせるのが二三人あるよ。」
明治二十八(一八九五)年七月