貧民倶楽部

泉鏡花




 六六館に開かるる婦人慈善会に臨まんとして、在原伯ありわらはくの夫人貞子ていこかたは、麻布あざぶ市兵衛町いちべえちょうやかたを二頭立の馬車にて乗出のりいだせり。
 いまだ額に波は寄らねども、束髪に挿頭かざせる花もあらなくに、青葉もすぎ年齢とし四十に近かるべし。小紋縮緬ちりめん襲着かさねぎに白襟の衣紋えもん正しく、ひざあたりに手を置きて、少しく反身そりみすがたなり。
 対の扮装いでたちそでを連ねて侍女こしもとにん陪乗し、馭者ぎょしゃ台には煙突帽をいただきたる蓄髯ちくぜんおのこあり、晏子あんしの馭者の揚々たるにて主公の威権おもうべし。浅葱あさぎ裏を端折りたる馬丁べっとうにん附随つきしたがい、往来狭しとむちを挙げぬ。
 かくて狸穴まみあなほとりなる狭隘路せまきみち行懸ゆきかかれば、馬車の前途ゆくてに当って往来の中央まなかに、大の字に寝たる屑屋くずやあり。になえるかごは覆りて、紙屑、襤褸切ぼろきれ硝子がらす砕片かけなど所狭ところせまく散乱して、すねは地をり、手はくうつかみて、呻吟しんぎんせり。
 はずみ行く馬のあやう鰭爪ひづめに懸けんとしたりしを、馭者は辛うじて手綱を控え、冷汗きたる腹立紛れに、鞭をふるいて叱咤しったせり。
「こら、そこを退かんか馬鹿なやつだ。」
 夫人は端然として傍目わきめも振らず、侍女こしもと二人は顔見合せ、吐息といきと共に推出おしだす一言、「おお危い。」
 屑屋はまなこを閉じ、歯をしばり、音するばかり手足をもだえて、苦痛に堪えざる風情なりき。
 けて通らんすべも無く、引返すべき次第にあらねば、退けよ、退すされと声を懸くれど、聞着けざるか道を譲らず、馬丁べっとう焦立いらだちてひらりと寄せ、屑屋の襟首むずとつかめば、虫の呼吸いきにて泣叫ぶを、溝際に突放して、それというまま砂烟すなけむりを揚げぬ。
 この時酒屋の檐下のきしたより婀娜あだたる婦人おんな立出たちいでたり。薄色縮緬の頭巾ずきん目深まぶかに、唐草模様の肩掛ショオルて、三枚がさね衣服きものすそ寛闊かんかつに蹴開きながら、と屑屋の身近にきたり、冷然として、既に見えざる車を目送しつつ、物凄ものすごえみを漏らせり。屑屋は呻吟の声を絶たず。婦人はその顔を瞰下みおろして、「こう、太の字太の字。」
「おい。」と眼を開けば、
「もうい、起きな。何という不景気な顔色がんしょくだよ。」
「笑いごっちゃアありませんぜ。根っからもうからねえ役廻やくまわりだ。」
 と屑屋は苦も無く起上りぬ。健全無病の壮佼わかものなり。知らず何が故に疾病やまいを装いて、貴婦人の通行を妨げしや。
 頬被ほおかぶりを取りてちりを払い、「危険けんのん々々。御馬前に討死をしようとした。安くは無い忠臣だ。」
 婦人は打笑み、「その位な事はしたって可いのさ。」
「あんまりかあねえ。なんしろ対手あいてが四足二疋だ。」
「踏まれたら因果よ。白馬しろうまを飲むたたりだわな。」
可笑おかしくもねえ。」と落散る屑ども拾い込みてまた手拭てぬぐいに頬を包み、
姉様ねえさん、用は相済あいすみかね。」
「あいよ、折角お稼ぎなさい。」
「御念には及びやせん。はい、さようなら。」と立別れ、飯倉の方へ急ぎつつ、いと殊勝に、「屑はござい。」
 婦人はうしろたたずみて、帯の間より手帳を取出し、鉛筆をもて何やらんまたたきもせず書きしたため、一遍読返して、その紙を一枚引裂き、音低くしてしかも遠きにいたる口笛を吹鳴らせば、声に応じてけ来る犬あり。婦人はこれを見て、「じゃむこう」けだしその名ならむ。
 裾にからめばつくばいてうなじで、かの紙片かみきれを畳みて真鍮しんちゅう頸輪くびわに結び附け、
「京橋――毎晩新聞社――京橋――毎晩新聞社。」と語るがごとくつぶやくがごとく繰返しつ。
「そら、よし、御苦労だね。」
(じゃむこう)といえる飼犬は、この用をすべくらされたれば、猶予ためらう色無くこうべめぐらし、うなずくごとくに尾をりて、見返りもせで馳走はせ去りぬ。
 三十分を経たらんには、この書信は毎晩社の楼上なる担当記者のに落ちんか。
「おい、車夫様わかいしゅさん。」
 婦人は振返りて手招きすれば、待たせたりし一人の車夫、腕車くるまきて近寄りぬ。
「じゃあこれから直ぐ。」「六六館へ?」
 打頷うちうなずけば※(「車+隣のつくり」、第3水準1-92-48)りんりんとして走りぬ。
 深窓の美姫びき紅閨こうけい艶姐えんそ綾羅錦繍りょうらきんしゅうたもとを揃えて、一種異様の勧工場、六六館の婦人慈善会は冬枯に時ならぬ梅桜桃李ばいおうとうりの花を咲かせて、暗香あんこう堂に馥郁ふくいくたり。
 在原夫人は第三区の受持にて、毛糸の編物を商いたまう。番頭は麹町こうじまち姫様ひいさまにて、小浜照子という美人、華族女学校の学生なり。
 前面むかいの喫茶店は、貴婦人社会に腕達者の聞え高き深川子爵何某なにがし未亡人びぼうじん綾子あやこといえる女丈夫にてこの会の催主なり。三令嬢一夫人をしたがえて、都合五人の茶屋女、塗盆ぬりぼん片手に「ちょいと貴下あなた。」
御休息おやすみなさいまし。」「いらっしゃいな。」と玉のかいなあらわにたすき懸けて働きたまえば、見る者あッというばかり、これにて五十銭の見世物みせものとは冥加みょうが恐しきことぞかし。
 金縁の目金めがねを掛けたる五ツ紋の年少わか紳士、襟を正しゅうして第三区の店頭みせさきに立ちて、肱座ひじつきに眼を着くれば、照子すかさず嬌態しなをして、
御購おもとめ下さいまし、貴下あなた、なるたけお働き申しますよ。何に遊ばす、これ、これがうございますよね。」と牡丹形ぼたんがたの肱座を取って突附けられ、平民と見えてどぎまぎしつ、
「はッはッお何程いくらで遣わされまする。」と震い声。照子はくすくす、「五十五銭にいたしておきます、一閑張いっかんばりのお机にはうつりがうございますよ。一円ならお剰銭つりをあげましょうか。」とはどこまでも男を下げられたり。
「いえ、銅貨で重うございますが。」と間の悪そうに勘定して、肱座をひったくり、早足に歩み行くを、「もし、もし、ちょいとあの。」と呼返され、慌てて戻り、「何ぞ粗相をいたしましたか。」「御勘定違いでございましょう。二銭だけ不足です。」と判然はっきり言われて真赤まっかになり、「それははや何とも。」と蝦蟇口がまぐちを探りつつ、これでもまだまだ見えをする気か、五銭の白銅一個ひとつ渡して見返りもせぬ心の内、今度呼んだら剰銭つりは要らぬと、腹を見せる目的つもりところ、何がさて如才なく令嬢は素知らぬ顔なり。
 年少紳士きもを抜かれてうっかりとたたずめば、
御休息おやすみなさいまし。」と茶店の姫様ひいさま
 はッと思う眼のさきへ深川夫人と寄って、
貴下あなた、お茶一ツ。」と差出すにあおくなりて、
「出口はどこでございます。」とは可哀あわれやもう眼が見えぬそうな。
 入替いりかわりて洋服の高等官吏、「嬢様お精が出ますね、令夫人おくさま御苦労でございます。」なかなか場数功者ばかずごうしゃかな。
 照子は軽く挨拶あいさつして、「これはようこそ。何ぞ御気に召したものはございませんか。」
「ありますともさ、ははは、ありますともさ。まずこれがし、それからこれも可しと、しめ三個みッつ頂戴いたします。ちょいと御勘定下さい。」
 照子はおとがいにて数え、「二円八十銭……。」と言い懸けて莞爾にっこと笑い、「お安いものよ、ねえ貴下。」予算よりは三倍強なるに「えッ。」とまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりしが、天なるかなと断念あきらめて、「以後は正札附になすってはどうです、その方がお手数がかかりますまい。」
 我慢強き男というべし。
「御注意難有ありがとう存じます。」と伯爵夫人が御会釈あり。取出とりいだすは折目無き五円紙幣さつ。「これで。」と差出さしいだせば、「はいはい。」と取ってすましたもの、剰銭つりださん気色も無し。官吏始めて心着き、南無三なむさん失策しくじったりと思えども、慈善のための売買なれば、剰銭を返せとい難く、「こりゃていのいい強奪ぶったくりだ。」と泣寝入に引退ひきさがりぬ。あとに二人は顔見合せ、徳孤とくこならずと笑壺えつぼる。
 店頭に今度は婦人、この会場にるものは、位ある有髯ゆうぜん男子も脱帽して恭敬の意を表せざるべからざるに、かれは何者、肩掛ショオルかつぎ、頭巾目深に面を包みて、顔容かおかたちは見えざれども、目はひややかに人を射て、見る者を慄然ぞっとせしむ。
 照子の顔をじろりとながめ、「おい、姉様ねえさん。こりゃ何程いくらだい。」
 えたる月に一片の雲かかれり。照子はひそみぬ。
「ちょいとお婆様ばあさん。」
 婦人は照子の答えざるを見て、伯爵夫人を婆様よばわり、これもまた異数なり。「おや、返事をしないね。耳がうといのか、この襯衣しゃつを買ってげよう。」
 と答えざれども無頓着むとんじゃく鳶色とびいろの毛糸にて見事に編成あみなしたる襯衣を手に取り、閉糸とじいとをぷつりと切りぬ。
 これのみにても眼覚めざましきに、肩掛ショオルをぱっと脱棄ぬぎすてたり。慈善会場の客もあるじ愕然がくぜんとしてながむれば、渠はするすると帯を解きて、下〆したじめ押寛おしくつろげ、おくする色なく諸肌もろはだ脱ぎて、衆目のる処、二布ふたのを恥じず、十指のゆびさす処、乳房をおおわず、はだえは清き雪をつかね、薄色友禅の長襦袢ながじゅばんひるがえりたる紅裏もみうらは燃ゆるがごとく鮮麗あざやかなり。世にれては見えたまえど、もとより深窓に生育おいたちて、乗物ならではおもてでざる止事無やんごとなき方々なれば、他人事ひとごとながら恥らいて、顔を背け、かしられ、正面より見るものなし。
 秋水をける将校もあり、勲章くんしょうを帯べる官吏もあり、天下有数の貴婦人、紳士、前後左右を擁せる中に、半身の裸美らび自若として突立つったちたるは、傍若無人の形状ありさまかな。
「何だ。」「何者だ。」「野蛮きわまる。」「狂人きちがいだ。」と一時に動揺どよめく声の下よりほがらかに歌うものあり。
 色は天下のえんたり、心はすなわち女中の郎。
 喝采やんやと手をつもの五七人。
 婦人は毀誉きよを耳にも懸けず、いまだ売買の約も整わざる、襯衣を着けて、はだえを蔽い、肩を納め、帯をめ、肩掛ショオルを取りてと羽織り、悠々として去らんとせり。
盗人ぬすっと待て。……」と伯爵夫人は一方ならぬ侮辱をこうむりて、こらえ堪えし腹立声。
「何を。」色をも変ぜず見返る婦人。
 照子嬢も声鋭く、「それは売物です。」と遣込やりこむれば、濶歩おおまたに引返し、「だから最初はじめに聞いたじゃないか、価値ねだんわかれば払うのさ。」
 憎さも憎しと伯爵夫人、「二円。」と恐しきかけう。
 婦人はちっとも驚かず、「それじゃ二十銭剰銭つりを下さい。」
「まだ何にも請取りません。」と貞子の方は真面目まじめなり。
先刻さっき五円払いました。」
 照子は聞くより怒気心頭をきておもてを赤め、
騙局かたりです、失敬な。夫人おくさん巡査を呼びましょう。」と愛々しき眼に角立つれば、
「はい、引渡しましょう。秋や定。」と急込せきこむにぞ、側にさぶらいける侍女こしもとにん、ばらばらと立懸くるを、遮って冷笑あざわらい、
「こうこう騒ぎなさんな。塵埃ほこりつによ。お前様方まえさんがたは美くしい手で恐しい掴取つかみどりをしなさるね。今のあの男は二円八十銭の買物をして、五円渡してったじゃないか、そこであっしの買物が二円さ、しかえ。合計四円と八十銭になるんだね。」「えー。」二人のあきるるを、それ見よと畳懸たたみかけ、
「銅貨じゃ重いわ。二十銭銀貨ドルんな。」と空嘯そらうそぶきつつ小膝をち、「おっと、まだ有る。目金をかけた若い衆が、二銭の不足に五銭と払った、その三銭も返すんだよ。」
 夫人はギクリ、照子は無言。
 天下泰平町内安全、産ある者は仁者じんしゃとなり、産無き者は志士となりて、賢哲天下に満ちたれば、六六館の慈善会は今にはじめぬ大当おおあたり
 就中なかんずく喫茶店は、貴婦人社会にさるものありとひとりたる深川綾子、花のさかりの春は過ぎても、恋草茂る女盛り、若葉のしずく滴たるごとき愛嬌あいきょうを四方に振撒ふりまき、多恨多情の八方睨はっぽうにらみに大方の君子を殺して黄金こがねの汁を吸取ること長鯨ちょうげい百川ひゃくせんを吸うがごとし。けて働く面々も、すぐり抜きたる連中れんじゅうが腕によりたすきを懸けて、車輪になりて立廻るは、ここ二番目の世話舞台、三階総出そうで大出来なり。
 されば一べいの菓子、一さん珈琲コオヒイに、一円、二円となげうちて、なおも冥加に余るとなし、我も我もと、入交いりかわり、立替る、随喜のともがら数うるにうべからず。
 収入満とうなるといえども、常住の寡慾かよくもやらで、慈善のよくは極り無く、貪るばかりに取込みても人に施すにはいまだ足らずと、身をにし、骨を折る、賢媛けんえん閨秀けいしゅう難有ありがたさよ。
 さるにても暢気のんき沙汰さたかな。我にへつらい我にぶる夥多あまたの男女を客として、とうとき身をたわむれへりくだり、商業を玩弄もてあそびて、気随きままに一日を遊び暮らす。これをしも社会が渠等かれらに与うるに無形の桂冠けいかんをもってするしかき慈善事業というべきか、と皮肉なことはいいっこなし。
 渠等がこれに因って得る処の気保養たるや、天がその徳にむくゆる寸志のみ、またあやしむに足らざるなり。
 閑話休題それはさておき
 とんとん拍子にのりが来て、深川夫人は嫣然顔にこにこがお、人いきりに面ほてりて、めのふちほんのり、生際はえぎわあぶらを浮べ、四十有余あまり肥大でっかい紳士に御給仕をしたまいながら、「あら貴下あなた、よくってよ。」などとやっていたまいし折柄騒動さわぎのはじまりたるなり。知らざりき、我々にもかかる不如意のあらんとは。
 在原夫人と照子嬢は散々に罵倒ばとうされて、無念の唇をみたまえば、この神聖なる慈善会を、けがし犯すは何等の外道げどうと、深川綾子も喫茶店より、第三区に赴きて固唾かたずを飲んでききたまえり。
 くだんの婦人は落着払い、そのひややかなる眼色めつきにて、ずらりと四辺あたりを見廻しつ、「さっさとしないか。おい、お天道様は性急せっかちだっさ。」
 飽くまで侮る一言ひとことに、年齢少としわかにて気嵩きがさの照子は、手巾ハンケチ噛占かみしめて、口惜涙くやしなみだを、ついほろほろ。
 夫人はさすが年紀としの功、こは癈疾かったいと棒ちぎり、身分に障ると分別して、素直に剰銭つりださるれば、丁寧にかずを検し、繻子しゅすの帯にきゅっとはさみぬ。
 これを見て照子は声震わし、「あの男は其方そちの何だえ。親類かい、知己ちかづきかい。」
 いいも終らざるに婦人おんなは答えぬ。「あれかい、あれは私の宿六――てッちゃあお前様まえさんに解るまい。くわしくえば亭主のことさ。」
 照子は眼中に涙をたたえて、きっ婦人おんな凝視みつめながら、「それでは。」となお謂わんとすれば、夫人ひそかにそのたもとを控え、眼注めくばせしてめらる。振切って、
「いえ、うございます。これ、それではあの近視眼ちかめは……いえ、謂わして下さいよ。他人ひとの金銭に其方そちが関係する権利はあるまい。一体近視眼は其方の何だい。」
 と、ぽんと一本参りたまえば、待構えしていにて平然と、「ありゃあっし男妾おとこめかけさ、意気地いくじの無い野郎さね。」一同聞いて唖然あぜんたり。
 かれがいう処のしらじらしさ、虚言うそは見透きてあきらかなれど、あらずというべき証拠なければ、照子は返さん言葉も無く、しおれてこうべれたまいぬ。
 この時まで無言にて傍観せられし深川夫人、何か心にうなずきながら、突立つったちたる婦人おんなせなを、しなやかに不意打して、
「モシ貴女あなた。」
「エー。」と振返るに引被ひっかぶせて、
「済んだらこちらへいらっしゃいな、お茶一つあげましょう。」と風流みやびかがむ柳腰。
 きって、「フフ、此奴こいつはちっと骨がある。」
 兵法ひょうほうに曰く柔よく剛を制すと、深川夫人が物馴ものなれたるあつかいに、妖艶ようえんなる妖精ばけもの火焔かえんを収め、静々と導かれて、階下したなる談話室兼事務所にけり。
 群集は崩れ、雑沓ざっとう鎮まり、一条の紛乱はかくしてようやく鎮撫ちんぶに帰しぬ。
 野分のわきあと寂寞閑ひっそりかん
 夫人も令嬢もいたく得意を減殺げんさいされて、気焔おおいに衰えたり。
 それより照子、鬱々うつうつとしてたのしまず、愁眉しゅうび容易に開けざるにぞ、在原夫人はことばを尽して、すかしても、慰めても頭痛がするとて額をおさえ、弱果てて見えたまえば、見るに見かねて侍女等こしもとども
姫様ひいさまこういらっしゃいまし。」一まず彼室かなたの休息所へ、しばし引込みたまうにぞ、大切なる招牌かんばん隠れたれば、店頭蕭条しょうじょうとして秋暮のたんあり。
 これではならぬ、と御迎おむかえの使者相望めば、御機嫌を見計らいて侍女こしもとは慰むる。「あんなあばずれのいったことは、ナニ、が鳴いたのだと思召おぼしめしまし。御気分がなおりましたら、二階へおで遊ばしませんか。」「そうさね。」とどちらつかず。「在原の夫人おくさまばかりでは何にも売れはいたしませんよ。」「ナニ、まさか。」と口にはいえど、さもあらんという顔色かおつき
「それに、姫様。」と侍女は仔細しさいらしく小声になり、
福助あれがもう来ます時分、ここにいらっしゃると見落しますよ。」
 との下三寸に銃口つつぐちを向ければ、
「それじゃこうか。」とは罪がなし。
 御迎の使者またもや到来、「モシ姫様、どうぞ来て下さい。貴女あなたでなければならぬそうです。」
「度々御苦労ね、今じきに。」と照子の答に、使者面目を施して、ばたばたにて引返すを、此方こなたの侍女追縋おいすがりて、
「ちょいとちょいと、若旦那はまだ来ないの?」と肩を叩く。「えーどこの。」と勘の悪さ。「米沢町のさあ。」「ああ、新駒屋しんこまやかね。」「大きな声だよ。まあ来たかい。」「今しがた来たっけよ。」「それ、姫様、ちゃっとちゃっと。」
「あいよ。」と嬉しそうに、あわただしく立上れば、御使者おつかい番は気の毒そうに、「そうしてもう帰っちまったわ。」「えっ。」と驚く侍女より照子は先にべったりすわり、「私はもう。」と失望落胆。半巾ハンケチをびりりと喰裂きて、「車夫に、支度したくを。直ぐ帰る。」
 これがそれ慈善会中に第一流の貴女レデーなり。

 応接所の戸をぴんと閉めて、人払ひとばらいの上立籠たてこもれるは深川綾子と怪しき婦人おんな
 綾子は後向うしろむきにて顔は見えず、片手を卓子テエブルに、片手を膝に、端然ちゃんと澄まして、敵の天窓あたま瞰下みおろしたり。
 以前さきいきおいに似もやらで、婦人おんなは少しくしおれしてい、袖を重ねて俯向うつむきたり。おもうに博学多才なる深川夫人が慈善会を代表して、かれが暴行を戒めしに、屈服したりしものならんか。弁論今や終局して、綾子は渠が服罪を待たるる様子。
 されども婦人おんなは徹頭徹尾口を結びて開かざるなり。綾子はまた、
もっと不束ふつつかなものが寄合っていたすのでございますもの、行届かぬがちには相違ございません。少しの過失あやまちがあるからって、直ぐああいう愛想尽あいそづかしをなさいますのは、そりゃ貴女あなた無情つれないではございませんか。
 この会を一呑みになすった先刻さっきの振舞、私も呆れながら感心しました。で、きっと私共の会に対して不平がおありなさるんでしょう、就いては御意見がございましょう、それを承りたいものですね。」
 と真綿で首、
 上靴の爪先つまさきにて床をとんとんと叩きつつ渠が返事を促せど、ろうせるがごとく死灰のごとし。
 あたかもこの時「新聞。」と戸を叩きて呼ぶものあり、綾子は椅子をずらしてちょいと振向き、
「後でいよ。」
 おもてより推返おしかえして、「この会のことが出ております。」
「そう、ではこちらへ。」
 小使うやうやしく入来いりきたりて卓子テエブルの上にそれをせつ、一礼して退出すさりいずるを、と見れば毎晩新聞なり、綾子はかたえ推遣おしやりて、
「サ、どうでございます。」といよいよ迫る。
 今まではさも殊勝なりし婦人おんないなずまのごとき眼を新聞に注ぐとひとしく身をそらし、のびを打ち、冷切ひえきったる茶をがぶり、口に含み、うがいして、絨毯じゅうたんの上に、どっと吐出はきいだし、「何だい、しみったれな。貴婦人のお茶一つてい御馳走ごちそうはこんなものか。」
 容子ようすががらりと打って変り、「たかの爪でも出すだろうと面倒ながら交際つきあった。人愉快ひとおもしろくもねえ駄味噌だみそを並べて、あたら寿命を縮めたね、こう、お綾さん。」
 と、一面識も無き者の我名を呼ぶに綾子は呆れ、婦人おんなの顔をみまもるのみ。委細構わず馴々なれなれしく、
「去年、旦那が死歿なくなって、朝夕淋しくお暮しだろう。慈善だの、何だのと、世間体はよしにして、情夫いろおとこでも御稼ぎなさいな。私やもう帰ります。」と、襟掻合かきあわして立上り、「そうそうその新聞のね、三枚目を読んでみな。お前達の薬があるよ。」これを捨台辞すてぜりふにして去らんとするを、綾子は押止おしとどめ、
「御待ちなさい。」
 婦人おんなは冷淡に、「何も用が……」
「いいえ、ございます。」と綾子は熱心。
「何さ、こっちに無いってことさ。そっちに用がおありでも、私やちっとも構いません。」冷々然として言放てば、とめても無益むやくと綾子は強いず、「しかしこのままお別れは残惜のこりおしい。お住居すまいは? せめてお名だけ。」と余儀無く問えば、打笑いて、
「私の家は日本中サとえば豪気だが、どことさだまって屋根は持たぬ。差当り四谷よつや近辺の橋の下で犬と寝ている女乞食。」「え!」「たんと申す、お転婆さ。」

 婦人慈善会は三日続きの予定なりし、初日よりあやかしがつき二日目の早朝あさまだき、六六館へ出懸くる途次、綾子は内談のすじありて在原夫人を市兵衛町のやかたに見舞えり。
 客室きゃくまに通りて待たるれば、侍女こしもとふすまを開かせ、貞子のかた静々と立出たちいでらる。
「これは早朝から。」「イエ、どう致して。」「いお天気で。」と挨拶終りぬ。
 綾子、袱紗包ふくさづつみを開きて、昨日きのうの毎晩新聞を取出とりいだし、「時に。」と開直りて、「ま、これを。」と仔細しさいありげ。
「何でございます。」と眼を注ぐ、三枚目にのごとき雑報あり。
○今朝麻布狸穴まみあなにて、疾病しっぺい、飢餓、交々こもごも起り、往来に卒倒して死に垂々なんなんとせる屑屋あり。交番も程遠く近隣に人無ければ、誰ありて介抱するもの無く、一杯の水を恵むもあらず、屑屋は人心地も無くうめきおりぬ。折から二頭立の馬車を駆りて、ここを過ぐるものあり。これ慈善会に赴かんとする在原貞子の途次なりき。しかるに万死の貧民に向って道を譲らざる無礼を責め、無慙むざんなる馬丁べっとうかれを溝際に投飛ばして命縷めいるまさに絶えなんとする時、馬車は揚々として立去れり。
車中の婦人はこれが始終を見物しながら、貴族たる権威の発表せられしをよろこべる色ありきという。
「一体事実でございますか。」と綾子は眉をひそめて問えり。
 貞子の方は言葉縮まり、窮してこたうる処を知らず。
 読来りて眉動き、読去りてあおくなりぬ。
 見る間に太る額の蒼筋あおすじ癇癪持かんしゃくもちの頭痛やみにて、中年以来丸髷まるまげに結いしこと無き難物なれば、何かはもってたまるべき。呼鈴よびりんはげしくならして、「矢島をこれへ。」と御意あれば、かしこまりて辷出すべりいづるおはした入違いりちがいに、昨日きのう馬をぎょせし矢島由蔵、真中の障子を開きて縁側にひざまずき、
「もはや御耳に達しましたか、何ともはや恐入りました。」と続様つづけさまに額を下ぐ。
 夫人は御褥おしとねすべらしたまいつつ、「金次に早速いとまを出しゃ、其方そちもきっと謹むがかろう。」との御立腹。
「はッ、おおせ一応御道理ごもっとも御言おことばを返しましては恐多くござりまするが、あれが死にましたは何も金次の知ったことではござりませぬ。」
 綾子も夫人もぎょっとして、「ええ、死んだと。」
「はッ、いつも朝御飯を戴いておもてへ出ますのが、今日は御玄関が開くとそのまま飛出しました。これが前兆と申すのでございましょうか、誠に争われぬもので、御愁傷様ごしゅうしょうさま。」
 と恐入るは、ちと筋道が違うようなり。
 夫人はいぶかり、「これこれ、其方そちは血迷うていやるようじゃ、落着いて申すが可い、死んだといやる、何がどうしたのじゃ。」
 矢島も怪訝けげん顔色かおつきにて、「御手飼のちん屠犬児いぬころしに。」
「おや……」と夫人は血相変え、火箸ひばしを片手に握りしまま、と立上って矢島を睨附ねめつけ、「ヌ――」とばかり、激怒して口が利けず。
 新聞にてたたかれし口惜くちおしさと、綾子に対して言訳なさと、秘蔵の狆の不幸とが一時いっときに衝突して、夫人の剣幕さながらダイナマイトのごとくなれば、矢島は反返そりかえって両手を前に突出つきいだし、「で……で、下手人はその場を去らず、と……捕えました。死骸しがいは御玄関、きっ……きっとかたきを。」と呂律ろれつもしどろ。
貴女あなたちょいと。」失礼といいもあえず、夫人はずるずるともすそ引摺ひきずり、玄関へ駈出かけいだしたまう。「ああだもの。」と歎息して、綾子は後に思案投首。
 撲殺なぐりころしてめ損い、げんとして馬丁べっとう見露みあらわされ、書生のために捕えられて、玄関に引摺込ひきずりこまれし、年老いたる屠犬児いぬころしは、破褞袍やれおんぽうて荒縄の帯をめ、かかとあたりは摺切れたる冷飯草履ひやめしぞうりを片足脱ぎて、花崗石みかげいしの上に平蜘蛛ひらぐも
 可憐あわれむべしお手飼の狆は、一棒をくらってころりと往生し、四足しそくを縮めて横たわりぬ。
 貞子の方は奥より駈出で(見るに眼もれ心も消え、)といとに乗るまでにはあらざるも、式台の戸より隙見すきみして、一方ならぬ御愁傷おなげきなり。書生は殊更にかっぷとつばこぶしに打占め、
不屈ふとどきな奴だ、ほしいままに動物を殺傷せっしょうするとは容易ならぬ犯罪だ。金どんどうしてくりょうな。」とくだんの拳固に、はッはッと気勢きおいを吹く。
 金次は仰山に自然木じねんぼくステッキを構え、無事に飽倦あぐめる腕を鳴して、
「野郎め、飛んだことをしやがった。平民の野良犬も多いのに、何も選好えりごのみをして華族様の御手飼をらずともの事だ、奥様に知れようものなら、金次一生の越度おちどとならあ、忌々いまいましい。うぬ、どうして腹をよう。」と、地板じびたをどしん。
 屠犬児は震上ふるいあがり、「あ、皆様手荒きことをなされますな、畜生の死んだのは取返す法もあれ、人間の身体からだはこれなぐるときずが附きまする。」
「知れた事だ。汝等うぬらのような蛆虫うじむしは撲殺したって仔細しさいえ。金次どうだ。」「っちまえ。」と、こぶしステッキくうに躍るを、「待った。」となかに割込むは、夫人おくさまの後を追うて、勝手口よりいでたる矢島、「今聞いた、何か、いかす法もあるとったな、なろう事ならいかして戻せ。きさまも無事じゃ、我等も満足、自他の幸福というものじゃ。さ、どうじゃ。」
 と平和おだやか謂出いいいだせば、屠犬児は顔をげて、「何の雑作もござりませぬ。初手からそう出さっしゃれば、訳は無いに、余計なことに御騒ぎなされる。やれやれ。」と起上りて、「襟首を放した、放した。」
 書生も馬丁も没面目、手持不沙汰に控えたり。屠犬児は腰をひねりて、狆を手許てもと掴寄つかみよせ、
「このこつだ。それ。」と懸声して、やっと一番活を入るれば、不思議や四足しそくをびりびりびり。一同これはと驚く処に、
「も一つかい。」とまたごつん。
 たちまち蘇生よみがえりて悲鳴を揚げ、いたく物に恐れしさまにて、狆は式台に駈上かけあがれば、やれ嬉しやと奥様は戸を引開けいだき上げて、そのまま奥へ、ふいと御入。
 しばらくして、侍女こしもと立出で、「矢島さんお奥で召します。その人を連れまして庭口からお露地へ。」
 こはそも華族の御身おんみとして、かったいものの屠犬児に、直接じきじき御面会おあいは心得ずと、矢島は思えど、主命なれば、きたれ、とかれさしまねきて、庭口より露地へ廻れば、夫人は縁側にしとねを移して、綾子と二人並び坐しつ。引退ひきさがりて腰元一人、三指にてはんべれり。
「はッ、御意に依って召連れました。」屠犬児はただおずおず。「これへ近う。」と仰せらる。
 この屠犬児恐しき家業には似もやらで、至極実体者じっていもの、地に平伏ひれふし、
唯今ただいまは御慮外をいたしまして、恐入ってござります。命をつなぐためとは申せ、因業いんごう活計くらしでござりまして、前世さきのよの罪が思い遣られまする。」と啜上すすりあげて、南無阿弥なむあみと小声にて唱え、「じゃと申して、土をかじってはおなかが承知いたしませぬ処から、余儀なく悪いことを致しまする。ああ、この世からの畜生道、い死目には逢われますまい。果敢はかないことでござります。」
 潸然さんぜんとしてこぼす涙に真心見えてあわれなり。
老年としよりが罪を造るのも貧ゆえです。ねえ、貴女あなた。」と綾子眼をしばたたけば、貞子はうなずきて、「定や、あれを遣わすが可い。」
 侍女こしもとかしこまりて一包の金子かねを持出で、
御情おなさけだよ、頂戴しな。」とせたるてのひらに握らすれば、屠犬児は樹にうおを獲たる心地、呆れてくぼめる眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりぬ。
 綾子は少しく乗出だし、「ほかに渡世の道が無いでもあるまい。ちっとじゃが資本もとでにして、そういうけがらわしい商売はめたがい。お前はどこの者だえ。」
 あふるるばかりのなさけあらわれ、屠犬児は袖をぬらして、「ああ、かたじけのうござります。何たる、神様か、仏様か、おかげで清く死なれまする。はいはい、わたくし風情にここと申す住所すみかもござりませぬ。もう御暇おいとまを下されまし。」と揉手もみでをしつつ後退あとじさり
 御両方おふたかた無言にて頷きたまえば、再び矢島にみちびかれ、門を出でて三拝せしが、見送る人眼のあらずなれば、ニヤニヤと笑うて、ペロリと舌。
「占めた、占めた。」とつぶやきつつ立去る裾をひしとくわえて引留めたる一頭の犬あり。
「屠犬児を引張ひっぱるなあ、どこの犬だい、ずうずうしい。」首をひねりて、「ほい、じゃむこう。姉御あねごはどうした。」
「ここに居るよ。」
 と辻便所より女乞食、はだえの色の真白きに、海松みるのごときあわせまとえば、泥にまみれしのこんの雪。破草人やぶれかがしの笠をかぶりてよぼよぼとつえすがり、呼吸いきづかい苦しげに――見せ懸けたるのみ、実はしからず。
「おい。」と屠犬児をよび近附け、「呉れたろう。」「もらったよ。姉御の先見露違つゆたがわずだ。」と先刻の包を取出だして、「あててみさっし。」
「片手がものだ。……ね、それ、違いなし違いなし。」
 屠犬児は天窓あたまきて、「むこうがおめでたいだけにちっとは冥利みょうりわりいようだ。はて、てい騙取かたりじゃねえか。」
 女乞食は微笑ほほえみて、「何のお前、罪にならぬ盗人は白日御免の世の中だによ。どう、五円だけ油を掛けよう。」
在原貞子、深川綾子、両夫人の徳に感化して兇悪なる屠犬児心を飜して良民となれり。ああおおいなるかな、其仁そのじん禽獣きんじゅうに及ぶ……と無暗むやみにおめなさるべく候。
毎晩新聞社にて――清ちゃんゆき
 紙片かみきれに記して読返し、「これじゃ一両がものはあるわね。」
 在原夫人の屠犬児に金子かねを恵みたるは、けだし綾子の勧誘に因れり。
「ああしておいて様子を見ましょう。もし今日のことがまた新聞に出ますようだと、何物か我々社会の挙動を探って世に曝露ばくろしようとくわだてるものがあるのです。そうした日には私共わたくしどももその心得が無ければなりません。で、試してみたのです。どっちみち今日のめぐみ御為おために悪いことはございません。」と座蒲団ざぶとんねて、「これは早朝から御邪魔申しました。それではなりたけお早く御出おいで下さいまし、一足御先へ。」と座を開けば、
「もうちとよろしいじゃございませんか。」「いえ、まだ用事もございます。さようなら六六館あちらで御待ち申します。」貞子は昨日きのうの今日にて気が進まず、「ふとすると失礼致すかも知れません。あしからず。」綾子はあやしみ、「何ぞ御差支おさしつかえがございますか。」
 貞子夫人は額を押えて、「はい、血の道が起りました。」
 けだし無理ならぬおおせなり。
 病気を強いてともい難く、「それは不可いけませんね。御大切おだいじになさいまし。しかし大抵なら御待ち申しますから……」
 言葉を残して綾子は静々、「御帰おかえりッ。」と書生が通ずれば、供待ともまちの車夫、つくぼうて直す駒下駄を、爪先に引懸ひっかけつ、ぞろりとつまを上げて車に乗るを、物蔭よりおはしたのぞきて、「いつ見ても水が垂るようだ。」
 この腕車くるまいきおいく我善坊を通る時、出合頭であいがしらに横小路より異様なる行列練出ねりいでたり。
 朽葉色くちばいろあか附きて、見るも忌わしき白木綿の婦人おんなの布を、篠竹しのだけさきに結べる旗に、(厄病神)と書きたるを、北風にあおらせ、意気揚々として真先まっさきに歩むは、三十五六の大年増おおどしま、当歳のななめに負うて、衣紋えもん背のなかばに抜け、帯は毒々しきの上に捩上よれあがりて膏切あぶらぎったる煤色すすいろの肩露出せり。顔色青き白雲天窓しらくもあたま膨脹ふくだみて、えりは肩に滅入込めいりこみ、手足は芋殻いもがらのごとき七八歳ななつやつの餓鬼を連れたり。次に七十二三の老婆、世に消残るかしらの雪の泥塗どろまみれにならんとするまで、いたく腰の曲りたるは、杖のたけの一尺なるにて知れかし。うがごとくに、よぼよぼ。続くは十五六の女、蒼面そうめん、乱髪、帯もめず、衣服も着けず、素肌に古毛布ふるげっと引絡ひきまといて、破れたる穴の中よりにょッきと天窓を出だせるのみ、歩を移せば脛股けいこすなわち出ず、警吏もしその失体を詰責きっせきせんか、我は貧民と答えて可なり。
 その他肥えたるいのこあり、喪家そうかの犬のせたるあり。毛虫、芋虫、うじ百足むかで、続々として長蛇のごとし。
 中陣には音楽家あり。破三味線やぶれざみせん盲目めしいの琴、南無妙なむみょう太鼓、四ツ竹などを、叩立て、掻鳴かきならして、奇異なる雑音遠くにいたる。
 棍棒こんぼうを取れる屠犬児いぬころし、籠を担える屑屋、いずれも究竟くっきょうおのこ、隊の左右に翼たり。
 また先刻さきに便所よりあらわれしお丹といえる女乞食、今この処に殿しんがりせり。
 総勢数えて三十余人、草履あるいは跣足はだしにて、砂を蹴立て、ほこりを浴び、一団の紅塵こうじん瞑朦めいもうたるに乗じて、疾鬼しっき横行の観あり。
 綾子は袖にて顔をおおいぬ。
 車夫は飛ぶがごとくにす。
 咄嗟とっさにお丹乞食は、一種異様の光を帯びたる眼をもてきっと見送り、「あのやしきさ。」と綾子をゆびさして、「秀坊を入れとく内は。」かたわらの者にささやきぬ。
 一列の疫病神は、天をおそれず地をはばからず、ましてや人に恥ずる色無く、おもむろに大道筋を練って通り、芝――町なる六六館の門前にいたれる時、殿しんがりなせるお丹乞食、「ここだよ――ここだよ。」
 声の下、鳴物の音を静めて、常山のくちなわまず鎌首を侵入せり。
 門衛あわただしく遮って、「こらこら、ここは寺院てらじゃないぞ。今日葬式とむらいのあるなあ一町ばかり西の方だ。」
 と早口にののしれば、旗を持てる先達せんだつの女房、両足を広げてずいと立ち、
「うんにゃよ、葬礼饗応とむらいぶるまいを貰いに来やしねえ。こちとらこう見えてもね、乞食じゃねえのス、ちと買物をしべえから御通しなさいやし。」と妙な言草。門番呆れて、「汝等きさまら何が買えるもんか。干葉ひばや豆府のからを売りやしまいし、面桶めんつう提げて残飯屋へくがい、馬鹿め。」
 女房聞咎ききとがめて、「何だとえ、馬鹿にしなんな。これでも米を食う虫一疋だ。兵隊屋敷の洗流あらいながしにもしろさ。はばかりながら御亭主は鉄道馬車の馬糞まぐそさらいやす、きつ※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)かせぎにんさね。門番の癖に生意気な、干葉を売らぬもよく出来た。糸爪野郎へちまやろう。」と一通ひととおり婦人おんなには真似てもみられぬ色気無しの悪口雑言。
「ブッ失敬な奴だ。」とまなこいからし、「たって入りたくば切符を買え、切符を。一枚五十銭だぞ、汝等うぬらに買える理窟は無いわい。」と怒鳴る。
 老婆これを聞きて、よぼよぼと進出すすみいで、「いえもし二分が一分でも無銭ただろうとおっしゃりましても切符は真平まっぴらでござるよ。聞いて下さいやしこうじゃわいな、お前さん、過日いつか切通きりどおし枳殻寺からたちでらで施米があると云うから、この足で、さめヶ橋から湯島くんだりまで、お前様まえさん、小半日かかって行ったと思わっしゃれ、そうすると切符を渡して、なお前様、明日あした来い、米と引替えるというではござらぬか。何がお前様、あすが日のことを構うていられるようなこちとらではござらぬじゃて。腹が立つまいことか、御察しなされませ。内に寝ていてさえ空腹ひだるうてならぬ処へなまなか遠路とおみち歩行あるいたりゃ、腰はいたむ、呼吸いきは切れる、腹はる、精は尽きる、な、お前様、ほんにほんに九死一生で戻りやしたよ。老人としよりうことと牛の尻の何とやらは外れぬげな、これからも有ることじゃで、忘れてもああいうことはなされますな。明日一両下さるより今の一厘半ぶんきゅう難有ありがたい儀にござる。ほんのことさ、お前様、なろうならば米よりは御飯おまんまを下さいやし、御飯よりはまた老人としよりにはおかゆうござる。何のこれ、嘘は申しませぬ。有りようの処は初鰹はつがつおを戴いてから煮て食うわけには参りませぬじゃ。まことにはや因果でござる。はいはい南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。」と長談議、何を云うやら他愛たわい無し。
 門衛の持余もてあますを見て、微笑えみを含みたるお丹乞食、杖をもって門の柱を、とん。「同宿、構わずに、しけ込めしけ込め。」
「うむ、合点がってんだ。」
 急先鋒きゅうせんぽうの屠犬児、玄関へ乱入する、前面を立塞たちふさぎて喰留むるは護衛の門番、「退すされ、推参な!」というをも聞かず、無二無三に推込おしこめば、
「ええ、此奴こいつ等。」とこぶしを揮う。
「ちょっ、面倒だ。」とと寄りて、門番の両手をとりしばるは、昔関口流皆伝の柔術家やわらとり、今零落して屠犬児、弥陀平みだへいというは世を忍ぶ仮の名にて、本名あるべき親仁おやじなり。
 とらうる処法にかなえば、門番は立竦たちすくみになりて痛疼いたさにたまらず、「暴徒が起った。……大……大変、これ、一大事じゃ、来てくれい。」
 と血声を揚ぐるに、何事ならんと二三人靴音高く馳出はせいでつ、このていを見て、それと組附く。
 三人がかりを悠々とあしらいながら、「ここ構わずに、ソレ入った入った。」
 商品陳列場の通路には、はや毛虫ども、うようよぞろぞろ。手分して一区ごとに三人ぐらいずらりと行渡る。
 お丹乞食は左右を見廻し「もうかろう。」というを合図に、
 万口ばんこう一声、「ああ空腹ひだるい。」
 かくしてのち、思い思いに敵を見立てて渡合う。例の口汚くちぎたなの女房は、若手の令嬢組の店頭みせさき押立おったち、口中ならぬ臭気においを吐きて、
ねえや、何でも可いから早く呉んねえ。見さる通り子持だによって、そのつもりでの、頭数三人前。」と天外よりきたる分らぬ言分。
 令嬢等呆れ果てて顔見合せ、唖然として言葉無し。
「はて、返事がえの、し可し。」とかごりたる菓子をつまめば、こらえかねて、
「お前何をする失礼な。」と極附きめつけたまうを鼻ではじき、「ふむ、どうもしやあしねえ、下さるものを頂きますのさ。慈善会とやら何とやらといって、御慈悲の会じゃげな。御辞儀無しに貰おうという腹さ、空腹ひもじい腹だね。はははは。」と高笑たかわらい、「そこでおつま召食めしあがる、む、これはうめえ。」と舌鼓、「餓鬼えめえよ。」と小児こどもにも与えて散々に喰散らす、しからぬことなり。
 令嬢方は背後うしろを向き、何かひそひそささやきしが、店を棄置き、姿を隠せり。
 屑屋はまた貴婦人を捕えて罵詈讒謗ばりざんぼう、「あ、あにおい咽返むせかえるようだ。」と鼻を突出してうそうそとぎ、「へん、むせも返るが呆れも返らあ、阿蘭陀オランダの金魚じゃねえが、香水の中で泳いでやあがる。や、また塗った塗った、その顔は何だい、まるで白粉おしろいで鋳出したようだ。厚きこと土蔵くらの壁に似たりよ、何の真似だろう、火にけぬというお呪詛まじないかも知れねえ。」
 と正面よりお顔を凝視みつめて、我良苦多がらくた棚下たなおろし。貴婦人は恥じ且つ憤りて、こうべれて無念がれば、鼻の先へ指を出して、不作法千万。
「なあ、おかみさん、その面の皮一枚いちめえひんめくる方が、慈善会よりよっぽど慈善ほどこしになるぜ。こちとらの大家さんが高い家賃を取上げてたまさかに一杯飲ます、こりゃ何もなさけじゃねえ、いわば口塞くちふさぎ賄賂まいないさ、うらみを聞くまいための猿轡さるぐつわだ。それよりは家賃をやすくして私等わっちらが自力で一杯も飲めるようにしてくれた方がほんのこと難有ありがてえや。へこへこ御辞儀をして物を貰うなあちっともうれしくねえてね。そしてまた無暗むやみ施行ほどこし々々といいなさるが、ありゃおめえ、人を乞食扱にするのだ。
 目下の者をあわれむんじゃなくって軽蔑けいべつするのだ。トまずってみたものさ。お前様方めえさんがたが人中でつらさらして、こんな会をしなさるのは、ああ、あの夫人おくさんなさけ深い感心な御方だと人に謂われたいからであろう。
 その時は、誰か頂くものがなければなるまい。してみると貰うて進ぜる方がまだお前達めえたちかおくして、名を売ってやる恩人だ。勘定すれば一銭も差引無し、こちとらは鰹節で、お前様方がうめえ汁を吸うといったようなものだ。
 そこでそれ、お前達が人にめられるために私等わっちらに税金をお出しなされる。今日はそれを取上げに来やした。こころありだけ寄来よこさっせえ。」と大声に喚立わめきたつれば、ここの夫人も辟易へきえきして、休息所へふいと立つ時、
「おっ、くせえ、ふわふわ湯具を蹴出すない。」と鼻をつまみて舌を吐きぬ。
 ちょいと雛形みほんがこんなもの。三十余人の貧民等、暴言を並べ、気焔きえんを吐き、嵐、こがらし一斉いっときどっと荒れて吹捲ふきまくれば、花も、もみじも、ちりぢりばらばら。
 興を覚まして客は遁出にげだし、貴婦人方は持余して、皆休息所に一縮ひとちぢみ
 貧民城を乗取のっとりて、
「さあ、これからだよ。売溜うりだめ金子かねはいくらあろうと鐚一銭びたいちもんでも手出てだしをしめえぜ。金子で買ってしのぐような優長な次第わけではないから、かつえてるものは何でも食いな。寒い手合は、そこらにあるきれでも襯衣しゃつでも構わず貰え。」とお丹の下知げじに、おおかみころもまとい、きつねくらい、たぬきは飲み、ふくろう謡えば、烏は躍り、百足むかでくちなわ、畳を這い、いたち※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)むささび廊下を走り、縦横交馳こうち、乱暴狼藉ろうぜき、あわれ六六館の楼上は魑魅魍魎ちみもうりょう横奪おうだつされて、荒唐蕪涼ぶりょうを極めたり。
 この時最寄もよりの交番より巡査真黒まっくろになりて駈附かけつけつ、暴行を制せんとすれば、お丹先んじて声を懸け、
「おい、みんな静まった。」
 一同直ちに粛然とせり。
 巡査は気を抜かれていささか手持不沙汰、今更疾呼しっこしても張合無ければ、少々声音こわねに加減をして、
汝等きさまら、ここをどこだと思ってる。」
 お丹と進みて、「はい芝区――町、六六館。」
「そないなことは謂わずとも知っちょるわい。」
「でも御訊おきき遊ばしたからさ。」
 巡査は頬を膨らして、「黙れ。場所柄も弁別わきまえず乱暴をいたしおる。棄置かれぬ奴等だ。華族方の尊威をけがすのみならず、ほしいままにここの売物をくらいよったは盗人どろぼうだぞ。」
 と睨付ねめつくれば、火事はどこだという顔色かおつき
「へい、さようかね。」と頓興声とんきょうごえ
「さようかねとは何だ。」「でも貰って食べたんですわ。」
「誰が汝等きさまらに遣るというもんか。」お丹真顔になりて、「だがね、みんなで頂戴いたしますというと黙ってどこかへお隠れなすったからいのだろうと思いまして……」
 巡査はじれ込み、「一体全体ここをどこだと思っちょるんだ。」「くどいねえ、芝区――町、六六館です。」
 巡査弱って、「こりゃ、無茶だ。」「何でございますと。」「考えてみい、世が世なら、きさま達が拝むと即座に眼がつぶれるような御夫人方だ、何だって汚らわしい乞食風情に御言語おことばを下さるものか。」
 お丹は感じ入りたるさまして、「さようでしたかい、さようとは存じませず、まあ。飛んだことをいたしました。つい一言ひとことならぬとおっしゃれば可いのにさ。ねえ、旦那。しかし出来たことなら詮方しかたがございません。」
「仕方がないって済まされんぞ。それにこの会は何も汝等きさまら施行ほどこしをするんじゃない、収入額あがりだかは育児院へ寄附に相成るのだ。」
「だって物事はそう規則通りには参りません、旦那、医者を御覧なさいな。急病人の方へは先に駈附けるじゃございませんか。育児院は、ナニ、養生をしてるので、私等わたしどもは九死一生、餓死うえじに凍死こごえじにをしようとする大病人、ちょいとそれ繰廻くりまわしを附けて下すってもかろうと思いましてね。」と手前勝手の一理窟。
「そんならなぜそのように神妙に御慈悲を願わない。」
「はい、貧乏人に式作法はございません。」
うぬ、言いたい三昧ざんまいなことをいやあがる。なんしろ家宅侵入だ。処分するぞ。」
 といってみたものなり。これだけの人数を食客いそうろう背負込しょいこみては警察大難儀おおなんぎ
 お丹片頬かたほ微笑えみを含み、「じゃあ御拘引おつれ下さいますかね。」巡査少し慌てて、「どこへ。」「はてさ、御役所へ。」「何い。」とまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはれば、お丹笑い出し、「実はね、宿六滅法不景気で、山の神や、小児連中こどもれんじゅうあごが干上るもんですから、多時しばらく扶持ふちを頂いて来いって、こんなに申しますので、お言語ことばわたりに舟、願ったりかなったりでございます。」
「何もたって拘引こういんするとは言わん。」
「いいえ、御遠慮には及びません、どうぞお拘引つれなすって。」
 警官は持余しぬ。さりとて不問にも帰し難ければ、「ともかくも戸外おもてへ出ろ。」と数珠形じゅずなりに引立てて戸外へ出ずれば、今まで荒れに荒れた屠犬児、神妙にかしこまりて、「へいへいわたくしも御一所に。」
 護送されたる一列の貧民は、果報つたなくして御扶持を頂くことを得ざりき。渠等かれらは青山の僻地へきちなる権田原ごんだわらにて放鳥はなしどりとなりぬ。「はいさようなら。」と巡査に別れて、お丹は一同とともに直ぐ目の下なるさめヶ橋のねぐらに帰れり。

 午後四時頃、麹町永田町なる深川夫人のやしきの庭へ、垣より潜入くぐりいりたる茶褐色の犬あり。
「おや、どこから来たのだろう。」
 とつぶやきつつ縁側にでたるは、年紀としの頃十六七、色白の丸ぽちゃにて可愛らしきむすめ、髪は結立ゆいたて銀杏返いちょうがえし、綿銘仙の綿入を着て唐縮緬とうちりめんの帯御太鼓むすび、小間使といふ風なり。名をひでという、どこかで聞いたことのあるような。
「奥様御覧遊ばせ、お松どんちょいとおいでよ。三太夫さん、吉造さん。」
 と珍しからぬ一匹の犬に、夫人をはじめ、朋輩ほうばいの女中、御家老より車夫に到るまで、家族のありたけ呼立てしが、返事をするもの一人も無し。
 ゆえあるかな、今宵はやかたに来客ありとて、饗応もてなしの支度、拭掃除ふきそうじ、あるいは室の装飾に、いずれも忙殺されつつあり。
「ああ、誰も……」と前後を見廻し、きっうなずき、帯の間に秘持かくしもてる紙片かみきれを取出だしつ、くるくると紙捻こよりにして、また左右に眼を配り、人のあらぬを見定めて。
「じゃむこう。」うわっ。
「おいで、おいで。」と手招きすれば、先より気色をうかがいたる、(じゃむこう)と来たる。こうべを撫で、かの紙片を首環くびわ結附ゆいつけ、指にてぐいと押込むとたんに、後架かわやの戸ぱたりと開く。見返れば綾子夫人、「秀、何をしている。」
 秀はおどおど、「はい、何、あの……まあ、ちょいと御覧遊ばせ、飛んだ良い犬でございますねえ。飼われているのかして綺麗ですよ。上手にちんちんを致します、それそれ。あら、御廻おまわりうまいこと、ほほほほ。」とわざとらしく笑い、「おやおや、犬に夢中になってサ、まあどうも飛んだ失礼、ただいま御手水おちょうずを差上げます。」
 あたふた飛んで来て柄杓ひしゃくを取れば、両手を出してゆすぎながら、跪坐ついいる秀をじっと御覧じ、「秀。」屹としたる御召に、少し顔の色を変えて「はい……い。」綾子は声に力をめて、「おいでないよ。」語は一句、無量の意味を含めたり。
 小間使は情を解せず、返事に行詰ゆきつまりて無言なり。
「おいいでないよ。」と繰返して、「今に御客も来るし、今朝のね、彼の件はきっと謂わないだろうね。」と幾多の危懼きぐ、憂慮を包める声音こわね、==お謂でないよ==は符牒ふちょうのようなり。ただ秘密あれば従って符牒あり。彼とこれとは背と腹のごとし。両々相待ちて(彼の件)という物体となる。(なぞとひねる奴さ)
 ==今朝のね、こと==というに到りて、小間使は直ちに呑込み、「何の奥様、誰が饒舌しゃべりますもんですか。」「ああ、そうだろうとは思うけれども、きっとかえ。」
 秀は誓うがごとく、「はい、きっと。」
「きっとだよ。」御念の入ることおびただし。
 夫人が態度の厳粛なりしは、犬の手品を見附けたる故にはあらで、「きっと。」をいわんとて、きっとせるなりと、小間使は観察しつ。ほっと一呼吸ひといき、汗を入れぬ。心の内で、「まずかった。」「あら、口笛のがするよ。」と綾子は耳をそばたてたり、戸外そとにて喨々りょうりょうと二声三声、犬は疾風のごとく駈出だして、「変だ。」と思うまに見えずなりぬ。
「秀。」
 小間使はまたギクリ。
「飼主が戸外おもてに居たと見えるよ、犬を内へ入れたのは何だか気懸きがかりではないかい。」「はい、気味が悪うございますねえ。」
みんなにそう申して夜分は気を着けるがい。」「三太夫さんに申しましょう。」
 おや、風説うわさをすれば、三太夫、罷出まかりいでて、「はッ番町の姫様ひいさま御入来おんいりにござりまする。」
 先登せんとう第一は小浜照子、在原夫人その後より、追次取次来る客は皆慈善会にて見たりし顔なり。けだし今宵の集会は、前日の慰労と兼て将来の方向を談ぜんため。
 なおかつ今度は貧民に容易ならざる汚辱をこうむり、おおいに貴婦人社会の体面をきずつけたれば、この際きっと決心する処なかるべからずと、綾子がげきを飛ばせるなりき。
「大分にぎやかじゃの。」
 と唐突だしぬけふすまを開け、貴婦人、令嬢、列席の大一座、燈火の光、衣服のあや、光彩燦爛さんらんたる中へ、着流きながし白縮緬しろちりめんのへこおびという無雑作なる扮装いでたちにて、目まじろきもせで悠然ゆらりと通る、白髪天窓しらがあたまの老紳士、これは御前ごぜんと一同が座を譲るこそ道理なれ。裏の木戸口をへだてにて、庭続の隣家の殿、かつて政事をも預りしが行年ここに五十六、我おいたりとかんけて幕のうちひそみたまえど、時々黒頭巾出没して、国五郎という身で人形を使わせらる。下座語げざがたりの懐へ、どろんと消え、ひょいと出る、早替はやがわりの達人と、浮世床にて風説うわさの高き、正三位しょうさんみくん何等、大木戸伯爵と申すはこれなり。
 綾子が夫、在世のみぎりは伯のために無二の忠臣なりければ、それが死去せしのち未亡人びぼうじんに目を懸けたまい、深川家一切の後見をせり。
 ごく気のかろき御前にて、案内もわで御意のまま木戸口より御入おんいりある。
「あ、いずれもそのままそのまま。」と避けんとする者を手もて制し、き処に座を占めて、「これが勝手じゃ構わずと大事ない。わしが来たからとてそう改まっては不可いかんじゃ。このとおり寝衣ねまきのままじゃがの、実はもう寝ようと思いおった処、若い人の声が聞えるもんじゃで、急に浮世が恋しゅうなっての、とうとう娑婆しゃばへ出て参った。」と呵々かかと笑い、葉巻をはたきてまたくわえ、「さて、何か、うちの御主人から聞けば慈善会へ毛虫がたかったそうじゃな。いや、定めし御困りじゃったろ。しからん、また毎晩新聞で悪口あっこうを申したってな、悪い奴らじゃ。」
 と烟草たばこを差置き、唇を両三度手巾ハンケチにて押拭おしぬぐい、その手をすぐに返してひげしごく。
 年紀としは孫ほどの照子、強請ねだるがごとき口吻くちぶりにて、
「御前、どうか遊ばして下さいよ。私等わたくしども口惜くやしくて口惜くて仕様が無いの、ああいう乱暴な貧民は何人あろうと、一人々々ふんじばるわけには参りませんか。」
不可いけません、そういたすとまた新聞で散々悪体を申すだろうじゃございませんか。」とは在原夫人、御自分経験おぼえがあればなり。
「新聞が邪魔になるのは私等わしらに限らぬと見える。御夫人方にも目のこぶじゃの。面倒なら停止をさそうか。」「そういたして頂きましょうか、ねえ。貴女あなた。」と在原夫人左右に問えば、「そうね、それがうございましょう。」とのこらず同感。
「いいえ、悪うございましょう。」と綾子一にん異議を唱えて、
「それでは、あらおおうのです、それにあの新聞も、在原の夫人おくさん屠犬児いぬころしに御恵みなすったことなどは、大層めたではございませんか。今停止をさせたでは卑怯ひきょうに当りますよ。」
「さようじゃの。」
 と伯爵はうなずきたまえり。
「仕様がありませんね、どういたしましょう。」「こうしてはどうです。」「それも不可いけません。」「やはり仕様がありません。」などと小田原評定ひょうじょう果し無し。
 伯爵は懊悩うるさがり、「そんなにあせらんでもまあえわい。心配なさるな、どうにかなる。時に、才子は今夜来ていないかの。」綾子「百田様ももたさん?」伯は「うう」「は、参っております。」「どこへ行った。」とありける時、
「御前いらっしゃいまし。」と敷居ごしに一礼する二十四五の好男子、伯爵いたかれを愛して才子々々と召たまう。実の名は時次郎といえり。深川家とは親類交際つきあい、しばしば出入して家人のごとし。これこの家の後見が、かれあげて綾子の世継とせんずる内意あるによる。
 今宵も席の周旋にきたりいるなり。
「さ、ここへ入れ。」とかたわらに座をたまい、「婦人方の席へおれ一人孤城落日という処じゃ。や、何方どなた沸切にえきらぬ堅い談話はなしはまたの日するとして面白く談話はなそうではないか。なあ。」と見返れば、「それがうございましょう。」時次郎は御意次第。
 照子は一番に大賛成、「御前またいくさの談話を遊ばせな。あの貴下あなたが命からがらで御遁おにげ遊ばす処が一番愉快おもしろい。」
 伯爵は苦笑にがわらい。「うふふふ、わし如燕じょえんになさる。そういうことをいわるると恐怖おっかない談話をするぞ、怪談を。」とおおする折しも、庭にて犬の鳴く声しきりなり。
夫人おくさん、大層えおるな。」
 とさすがは後見気を着けたまえば、
「は、先刻さっき怪訝おかしな……犬が入りました。」
「ちょっと、わたくしが……あの見て参じます。」と茶の道にさぶろうたる小間使の秀、御次へスルリ、辷出すべりいでて東の縁の雨戸一枚外して取るや否や、わんと飛付くを、しっ――叱りながら、ちょいと妙な手附をして、帰天斎手品の早業はやわざ「じゃむこう、御苦労だね。」とごく小声。犬は一散に引返ひっかえして、垣をくぐりて出でたる外には、提灯ちょうちん提げてたたずむ女。
「見せな。」と渠を引寄せて頸環くびわに結べる紙片かみきれを取り、灯影ほかげに透かして、読めばいわく
小田原評定に過ぎず候
し。」とつぶやきて提灯ふっと消し、「これはいとして、お秀の身に、もしひょっと……ああ、気にかかる。」
 と垣に寄添い、うっかりとする背後うしろに靴音、はっと見返る眼のさきへ、紅燈一せんと立つは、護衛のために見巡る巡査。
 婦人おんなはちょいと小腰をかがめ、「旦那、四谷へはどう参ります。」
じゃむこうに御託おことづけの昼間の書信たしかに落手いたし候、好材料に候えども、お前様身に取りては極めて危険なものを見られ候。いかなる難儀あらむも計り難く候あいだ、屹度きっと御用心なさるべく候。(彼の件)を見届け候以上はの家に最早用は無之これなく且つ居ては御身おんみあやうく候まま、明日にもひまをお取りなさるべく候――
 細字さいじをもってしたためたる警戒は、此方こなたより「小田原評定云々うんぬん。」と記しやりたる書信を引換ひきかえに、「じゃむこう」の首輪を経て小間使秀の手中に落ちたり。廊下人無き処にて秀は読過一遍、「ああ、そうだ。おお、恐怖こわいことね。早速お暇を頂こう。ちょうど可い久濶ひさしぶり祖母様おばあさんの顔も見られる。」
 紙片かみきれは寸断し去ってたもとに葬り、勝手もと退さがらんと歩みきたる、片隅の闇中くらがりより、黒きもの、ぬっとづ。お秀「きゃっ!」と飛退とびすされば、とんきょう声で「ばあっ。」と驚かす。からぬ洒落しゃれなり。
 小間使は腹を立て、「誰だい、ひと、愉快おもしろくもない、お巫山戯ふざけでないよ。」と叱言こごとう。
「そんなに怒りたまうな。僕だ、僕だ。」とそばに寄るは百田なり。「おや、貴下あなたですね。」とお秀は俯向うつむき、思えらく、「そんなら怒るのではなかったっけ。」什麼生そもさんこの心中は、――少しあのナンと知るべし。時次郎はれ馴れしく、「堪忍おしよ。驚いたろう可哀そうに。」「は、い。」とただ逆気のぼせる。
「あのね、お前にね。」と突然お秀の袂を捕えて、ちょいと小あたりにあたって見れば、小間使はもう真赤まっか、こいつものになると、時次郎は声をひそめ、「内証で相談がある。まあ、ちょいとちょいと。」かるる袖を払わんとはせで、「御串戯ごじょうだんを。」と口の内、夢路を辿たどりて小蔭の暗闇くらがり。時次郎はひたと寄添い、
「すこしお依頼たのみがある。いてくれないか。」お秀は虫の「どういたしまして。」
くかい。」「いいえ。」「ン、じゃ嫌か。」「どうですか。」と四辺あたりを見る。「悪く初心ぶるな、もう知ってる癖に。」「あら、存じませんよ。」と手をもじもじ。
 生殺与奪の権は我が掌中にあり、時次郎時分はしと、「何むずかしいことは無いのさ。こうすればそれで可い。」とやにわに帯に手を懸くれば、わなわな震えて、「あれ。」とすくむ。「おっと驚くべからず、この男色気無しだ。秀さん実はね、大木戸の御前が例の串戯じょうだん妖怪談話ばけものばなしをお始めなすって、もとこの邸は旗本の居た所で、癇癪持かんしゃくもちの殿様がおめかけを殺したっさ、久しいものだがその妄念が残っていて、今でも廊下へ幽霊が出ると謂って、婦人方を恐怖こわがらせた奴よ。黙って聞いていれば何事も無かったのに、照子さんが、それ御存じの知ったかぶりだ。(御前、そんなことがあるもんですか、科学上から)ナンノッテ滅茶々々に打破ぶっこわしたもんだ。すると御前も負けぬ気で、(それでは幽霊の出るという邸の廊下のはずれまで貴嬢あなた一人で行って来ることが出来ますか)(何時なんどきでも)というので、ね、秀様、今に番町のがここへって来るのさ。あんまり生意気だから一番ひとつおどしてやろうと思って、私があすこに隠れていたがね、男がやると差合さしあいだ、ちょうど可いからお前に頼む、ね、幽霊にならないか。愉快おもしろいよ。」
 と口説くように言含むる、あのナンノが依頼たのみなれば、秀は嬉しき思入れ、「しかしうございますかね。悪戯いたずらをいたしても。」「構うもんか、内の夫人おくさんも御隣のも呑込んでおいでなさるるから可い、そこで帯をお解きといったんだ。そのままじゃあおちが来ないよ。そうして思切って髪もこわしな。」「まア髪を。」お秀はびんおさえてひそみぬ。「今度結う時は島田にするさ、その方がうつりが可い。」「何とでもおっしゃいまし。」「それとも丸髷に結わしてみようか。」「もう、よござんす。」とむっとする。「おやまた怒ったか、笑ってくれ、拝む。拝む、おっと笑った、さてさて御機嫌が取悪とりにくいぞ。またもや御意の変らぬうちだ。」と抱竦だきすくめて元結もとゆいふッつり。
「あれ、不可いけませんよう。」「可いてことさ。」せりあううちに後毛おくれげはらはら、さっと心も乱髪みだれがみ、身に振かかるまがつびのありともあわれ白露や、無分別なるものすなわちこれなり。
 お秀はただほっとして「あら、嫌否いや、私はもうどうしょうねえ。」と身をもだゆるに帯解けて、衣服きものも脱がされ、襦袢じゅばん一つ、してやったりと躍る胸を、時次郎は色にも見せず、「寒いか、埋合うめあわせはきっとなあ。」「はい。」と震える。せなを叩きて、「風邪をひくな。」
 杉戸遣戸やりどの隙間よりこがらし漏れてひややかに、燈籠の灯影ほかげ明滅して、拭磨ふきみがかれたる板敷は、白く、青き、光を放てり。
 奥座敷にて多人数が笑語の声の断続して柱に響くも物寂ものさびぬ。
 廊下に長く揺曳ようえいせる婦人の影は朦朧もうろうとして描ける幽霊に髣髴さもにたり。
 忽爾こつじ跫然きょうぜんとして廊下の端に、殺気を帯びて、人影あらわる、近づくを見れば小浜照子。影を隠して秀はひそみぬ。
 既にして間近にきたれり、あたかもこの時四隣しりん寂寞せきばく気結きけつ沈声ちんせい、陰々として、天井黒く壁白し。
 照子はきっと眼を注ぎぬ。
 異様の姿、するりと出づ。
 きゃっ……と一声、あっ……と一声、続いて起る金切声、「来て下さい来て下さい。」
 呼ぶ時遅し五六人、今の二人の魂消たまぎりしに何事ならんと駈附けつ、真先まっさきなるは時次郎、「照子様、どうなさいました、幽霊が出ましたかね。」と笑いながらふとむこうを見て、「や……妙なものがたおれている。何だ。やはり人らしい。しかも女だ。誰だろう。」
 肩と鳩尾みずおちに手を懸けて後抱うろろだき[#ルビの「うろろだき」はママ]に引起す、腕を伝うて生暖なまぬるきもの、たらたらたら。「ええ」と引込ひっこにおいぎ、「なまぐさいな。」とつぶやく時、綾子は引摺ひきずりたる小袖のもすそ、濡れて、冷く、はぎに触るるに、「あれ、気味の悪い。」とつまみ上げ、裾裏すそうらを返して見て、
 かれこれ同時に、「血、血、血!……」
「血」「血」「血」と貴婦人方は鸚鵡返おうむがえし、皆五六尺飛退とびすさる。
 時次郎はとっくけんし、「うむ、心臓むね小刀ナイフが。……」言懸けて照子をれば、まなじり釣って顔色あおく、唇はわななけり。召したる薄色の羽織の片袖血※ちしぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、50-1]を浴びてくれないしずく滴る。
「モシ照子様。」と突く真似をして「おんなすったね。」と時次はいう。
 照子は心気昂進こうしんして、あえてものをも言わざりし。この時ようやく、太き呼吸いき、「ああ、幽霊。」と投出すようなり。
「幽霊。……」と時次郎は呟き、「なるほど幽霊と見える、しからん風体です。夫人おくさま燈火あかりをずっと、はい、よろしい。おや、御邸の。」
 綾子ものぞきて、「秀だよ。」と只呆ひたあきれ
「どうしてこんな。」とさもいぶかしげに時次が謂えば、「まあ、あられもない扮装なりをしてどうしたというのだろう。く御覧、秀に限ってそういう取乱した風をする婦人おんなじゃないよ。」「何ぞがけたのではございませんか。」と誰方どなたか罪の無いことをおっしゃる。
「いえ、けたのに相違はありませんが、これはやはり、秀自身が妖けたのです。照子様、もしやおどかしはしませんでしたか。」
「ああ、ひょいと飛出して吃驚びっくりさせたよ、私夢中で……」と震えていらせらる。
「なる、それで解りました。夫人おくさま、小間使が好奇心で、照子様をおどしたので、謂わば自業自得というものです。」「そうね、もういけなかろうか、可哀そうに。しかし失礼な、私の大切な御客様をおどそうなんて、飛んでもない。大方通魔とおりまに魅入られて、ふいと気が違ったのかも知れないよ、照子さんには済まないけれども、ああ可哀そう。」
 と熱き露、すずしき眼よりあふるる処へ、後馳おくればせの伯爵悠々と参りたまい、「何じゃ騒しいな。ふ、ふ、あ、あ、それは結構。何さ、しかし心配には及ばぬよ。殺されたものは損、照子殿はえらてがらじゃ、妖物ばけものったとあれば立派なものじゃ。けれどもな、少々は金が要るじゃ。」とおとがいにて死骸しがいを指したまい、「これが親許おやもとは。」綾子答えて、「鮫ヶ橋に老婆一人、黒瀬縫とか承わりました。」「うむ、さようか。それに手当をしてやれ。老婆だとあればさぞ愚痴っぽく泣くじゃろの。」「御意にござります。」と時次が申す。
「それがちと面倒じゃ。よし、可、これは駿河台の御隠居を煩わすとするじゃ。説法がうまいで、因果を含めるにいわい。」「ぶつを御学び遊ばして御道徳抜群にいらせられますれば、至極よろしゅうござりましょう。」「お前これから駿河台へ行っての、次第わけを申して御老体御苦労じゃが、鮫ヶ橋まで御出向おでむきのあるように、なりたけ内証での、そこを旨く、可いか。」「はッ。」「何でも怨む者さえ無ければ物ごとは円くおさまる。検屍けんしにはあのナンノをな、それから、ナニはナニして、ナンノを、ナンノを。」
 ナンノで皆解ると見え、時次郎は委細承知。「かしこまりました。」
「さ、これでし。皆様みなさん、あちらで。」と手をってのたまうを汐時しおどきと、いずれもするするはらはらともすそさばきて御引取。
 後に残る三人は眼と眼と眼にて、薄雪とは似ても非なる三人笑。
 伯爵は鷹揚おうように、
「綾。」
「は。」
「首尾よく殺したな。」と怪しき御言葉。
 時次郎手をつかえて、「恐悦に存じまする。」

 一人の父は納豆を売りに朝く起きて出行いでゆきぬ。後はみなしごなる女の年紀とし七歳ななつばかりなるが、大人の穿切はききらしたる草履を引摺ひきずり、ばたばたとけて来て、小石につまずき、前へのめり、しばらくは起きも上らず。「あれ」と婦人おんなの声、木賃宿の戸を開けて、内より出づる一人の美人、顔美麗うるわしく姿優なり。片手に洗髪あらいがみを握りながら走り寄りて、女の児を抱起だきおこして「危いねえ。」といたわる時、はじめてわっと泣出だせり。
「おお可哀そうに痛かったかい、まあまあお召が砂だらけだ。どこも擦剥すりむきはしなかったの。え、てのひらを、どれお見せ、ほんとにねえ。」と何を持ちしか汚穢むさき手に、あたたき口をけて、呼吸いきを吹懸け撫でてやり、「さあ、もう可いからお泣きでないよ。おお、泣止なきやみましたね、好い児。何を御褒美に上げようかしら、ああものがあったっけ、姉様ねえさんとさあ一所に光来おいで。」と手をきて家にり、黒くなりたるひつの上に、美しき手毬てまりのありしを、女の児に与うれば、気味悪そうに手に取りて、「こりゃ何。」と怪訝顔けげんがお。「手毬だよ。知らないの。」「手毬って何。」とさっぱり解らず。
 美人は優しき眼にてじっとれば、いかさまかかる遊戯品は知らぬも道理の扮装みなりなり。不便ふびんなものよと思うにぞ、
「これはね、こうするものだよ、見ておいで。」とたもとくわえてウ、都の手振なよやかに、柳の腰つきしなやかなるを、女の児は傍目わきめらず、首傾けて恍惚みとれいる。
 ここはいずこぞ鮫ヶ橋、白日闇はくじつあんの木賃宿にしかき姿あるはあやしむべし。
 火鉢に懸けたる土瓶の煮ゆる音、ジュー。
 二三十つきたる美人はこれに心着きて手をとどめ、
「おや、忘れていた、もう煮詰ったようだ。」とふたを取れば、煎薬の香芬々ふんぷん。すぐに下して、「お前ねえ。」と女の児を見返れば、しきりに毬をもてあそべり。美人は微笑えみを含みて、「つけますかい。」
「いいえ。」と少し嬌羞はにかむ。
「戻ってまた教えてげよう。お前がおいででちょうど可い。誰も居ないから留守しておくれ。わたしはね、この御薬を持って裏のお婆様ばあさんの処へちょいと行って来る。」「あいあい。」とうなずけば、手早く髪をつかねてくしにておさえ、土瓶片手に出行いでゆきけり。
 入違いに二人の男、どかどかと上込あがりこみ、いきなり一人が匍匐はらばいになれば、一人はあごを膝に載せてすねを抱え、「ねえ、おい素敵に草臥くたびれたな。」
「まったくさ、ドテやゲバを取ろうとって、あくせく※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)かせぐ気が知れねえ。」
「知れねえとえばどうもいまだに知れねえ。」「何が。」「この木賃宿の所有主もちぬしがよ。」「やっぱり姉御あねごが持ってるのだろう、御庇おかげでこちとらは屋根代いらずだ。」「でも始終ここに居ないじゃねえか。」
「だって時々出張でばって来らあ。」
「そりゃそうと此家うち姫様ひいさまは何のばけたのだろう。」
あやしいほどい女だな。しかしなんぼ何でも木賃宿にいらっしゃるものを、姫様とはつかぬ語呂だぜ。」「うんにゃ、あのまた気高い処から言語ことば付の鷹揚な処から容子ようすがまるで姫様よ。おいら気がおくれて口が利悪ききにくい。」「その癖優しいだ。」「可愛らしいぜ。いつかも見りゃ一心不乱に毛糸の編物さ。」
「何でも姉御がかくまっておくらしいな。」「うむ、そうさ。だが処もあろうのにここは非道ひどいや、もうおいら達あ、姉御が世話をする婦人おんなだから指一本もさしもせず、またささしもしねえが、煎詰せんじつめた破落漢あぶれものばかり集る処へどういう気だろう。」「何でもいいやい、お丹姉さんの遊ばすことだ。」「でも気にかかるかしてこの頃は毎晩とまりに来て、御両人様抱ッこで寝るぜ。」
「何、抱ッこで寝るッ、若い奴等、気のわり談話はなしをしてるな。」と表の戸がらりと開け、乱髪の間より鬼の面をぬっと出すは、これ鉄蔵という人間の顔なり。これにおびえてかの女の児は遁出にげだしたり。
「へん、新造を抱きたがる癖に、一廉ひとかどお年寄の気でやあがる。」
 鉄蔵はのさのさ入りて大胡坐おおあぐら。「これでも子持の親父様とっさんだ。」「そういやあ竹坊はどうした。二三見えねえぜ。」「彼奴あいつあ、こかしたよ。」と平気でう。「そりゃうめえことをした。」「いかさま棄てる神あればかい。土橋のいうあの御面相で買手があったか。」鉄蔵はすまして煙草たばこをすぱすぱ、「何女郎じゃねえ。」という声、戸外おもてれて、(不審立聴く)一個ひとり婀娜的あだもの、三枚がさね肩掛ショオルを着て縮緬ちりめんの頭巾目深まぶかなり。
 一人は起返りて、「ふむ、それでは茶屋か。」
「いんや。」
 一人は膝を立直し、「温泉か。」
「大違い。」
「はてな、田舎へでも。」「やっぱり市中さ、新網しんあみ仁三にさによ。」「ふむ、野師やしの親方。」「うむ、そうだ。」「彼奴あいつあきれた茶人だなあ。」鉄蔵は真面目まじめな顔「なにめかけじゃねえて。」「はあ、あのむすめなら見世物に出すかも知れねえ、大方そうだろう。」「似寄の者さ。」と言懸けて少し猶予ためらい「あのの、うち阿魔あまに犬の皮をの。」二人、「ええ――」と反返そりかえる。
 鉄蔵は落着払い、「妙なものをこせえさしてそれをば見世物に出そうというのよ。」
「途方もねえ。」「おっそろしい。」
「勿論、あまもなに泣面べそかないで一昨日おとといった。」と煙管きせるをこつこつ。
 背後うしろにすっくと突立つったつお丹、一部始終を聞きしなり。一声鋭く、「鉄、談話はなしがある。奥へ来や。」

 お丹突然いきなり、「畜生――」と一喝して長羅宇ながらうの煙管を押取おっとり、火鉢の対面むこうに割膝して坐りたる鉄の額を砕けよと一つつ。
 不意をくらってまなこくらみ「いてえ。」と傷をおさえしが、血をて、「えッ非道ひどいことを。」
 梟眼きょうがんかっ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらけば、お丹も顔色あおずみて真白きおもて凄味すごみを帯び、眉間みけんとお癇癪筋かんしゃくすじ、星眼鋭くきっにらみ、「ム、くやしいか。人間ならくってかかんな、対手あいてになろう。犬、畜生、人非人ひとでなし四這よつばいになれ、尻尾をれ。」
 ののしる剣幕にきもを抜かれ、鉄蔵茫然とする処を飛かかって咽喉のんどやくし、「ええ、賭博ばくちに負けたか、食えねえか、それほど金子かねほしくばな、盗賊どろぼうをしな、人を殺せ、けだものにむすめを売るとは、野郎本気の沙汰じゃねえ、どれ、性根を着けてやろうよ。」
 と急所を取って突廻せば、鉄蔵は虫の呼吸いき、「あねえ、御免ねえ、、放してくんねえてば、苦しい、むむ。」と苦み※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがくを煙管の乱打、「死ぬる死ぬる。」とうめき叫ぶを殺しかねざる気色なり。
「お前非道いよ、まあお待ち。」とお丹の腕にすがりたるは今戸外おもてより帰りし美人。
「いえ、お放しなさいまし、この大それた人非人ひとでなしかしちゃあおかれません。」「そうわずにさ、口でいっても解るではないかねえ。ようさ、私に預けておくれってば。」と身をたてにして、鉄をかばい、なだめてもとどめてもかしらってがえんぜず、「よう、頼むよ。後生だから。」と心弱き美人は声曇らすに、お丹ようやく手をゆるべ、と座に直りて煙管を杖、片手に煙草を引寄せたり。
 美人は鉄をいたわりて、「お前、何悪いことをしやったえ。お丹はあの通り気短きみじかだから恐怖こわいよ。私がわびをしてあげる。」
 と抱起さんとすれば、鉄蔵慌てて身を起し、「ええ、勿体ねえ。お前様まえさんわっち身体からだけがれておりやす。」
「まあ眉間から血が出て。」と懐紙ふところがみにて押拭おしぬぐう、優しさと深切が骨身にみこむ、鉄はぶるぶる。「もう、可うございます。いえもう何ともありません。」と後退あとずさり
 幅狭き布子ぬのこ上掻うわがえ引張ひっぱり合せて、膝小僧を押包み、煮染めたような手拭てぬぐいにて、汗をき拭きかしこまり、手をつきて美人の顔、じっと見詰むる眼に涙。
「ああ、あ、娘もちょうどお前様の妙齢としごろで、……で……」
 と男泣き、此奴こいつ生れて最初はじめてなるべし。
 お丹はこれを見て莞爾にっことし、「泣いてくれるか、え、鉄しおらしいの、おお、よく泣く、もっと泣きな。」
 かく謂いつつ立上りて、するりと帯を解き、三枚がさねと脱ぎて、あごで押えて袖畳そでだたみ、一つにまとめてぽいと投出し、
「もう可いからお泣きでない。通貨なまが無いからそれを曲入まげて、人身御供ひとみごくうを下げておいで、仁三が何か言句もんくをいおう。謂ったら私の名をいいな。」薄着になりしなさけの厚さ。
 鉄は左右無そうなく手に取らず、「飛んでもないこと姉御どうしてこれが借りられよう。罰があたる。」とためらえば、「何だな、お前のようでもない。」美人もまた、「どういう次第わけだか知らないけれど、折角あんなにお謂いのだから持って行くが可いよ。」
「どうも済まねえ。実はその家主の少禿すこはげががみがみいってしゃくに障ってしようがねえもんで、つい。」「くどいわね。何でも可いから早くしなよ。」「済まねえ済まねえ実はその。」「くどいてばさ。」
 と言放てば、「む、そんなに謂ってくんなさりゃおれも男だ借りやしょう。」と肩をそびやかし、まなこを据え、「このざまだからせやせん、そのかわりにゃ姉御、おらあ死にます。」這般しゃはんの決心十を併さば、もって一郷を動すに足るべし。

 打撲うちみくじき整骨ほねつぎ、困る人には施行ほどこし療治いたし候。西の内二枚半に筆太に、書附けたる広告の見ゆる四辻よつつじへ、いなせ扮装いでたちの車夫一人、左へ曲りて鮫ヶ橋谷町の表通おもてどおり、軒並の門札かどふだを軒別にのぞきて、「黒瀬ぬい、と、ええ、黒瀬と、さっぱり知れねえぞ、こっちは土方職、次は車力、引越荷車仕候つかまつりそろか、お次は何だ、鋳掛屋かい、差替りまして蝙蝠傘直こうもりがさなおし、さあさあ解らねえ。ふむまた売卜乾坤堂うらないけんこうどう、天門堂とすれば可い、一番ひとつみてもらいたいくらいだ、むこうは仕立屋、何、仕立物いたしますか、これは耳寄、仕立屋に(ぬい)が居ようも知れねえ。ためしだ、ちょいと聞いてみよう。」
 所外おもてより、「あい、御免ねえ。」
 内にて女の声、「何でございますえ。」
「ええ、少々伺いたいもんで、もし、この辺に黒瀬というのは。」「さっぱり存じませんね、裏へ廻って御聞きなさい。」「これは御世話。」
 と取って返す辻の角、茶綾子ちゃりんずの被布を召したる切髪の気高き老婦人、腕車くるまかたえたたずみたるが、「三吉々々。」と召したまい、「知れたか。」「どうもへい。」と天窓あたまけば、
不可いかんのう、早くしや早くしや、小児こどもたかって煩悩うるさいからの。」
 と見れば貧民の童男、童女どうにょ、多人老婦人の身辺にありて、物珍しげに天窓より爪先つまさきまでじろりじろり。
「餓鬼等何を見るんでえ。」と三吉まなこきて疾呼しっこすれば、わいわいと鯨波ときを揚げて蜘蛛くもの子の散るがごとし。
「これから裏っ手の方を探します。少々どうぞ。」とまた駈出かけだして、三吉裏手へ回れる時は、宿鴉しゅくあしきりに鳴きて鐘声交々こもごも起る、鮫ヶ橋一落の晩景うたた陰惨の趣あり。
「さて難儀なんぎだ、弱り切るぜ。ほんにさ、猫の額ほどな処で二十六けんと尋ねたが分らねえ。あたかも芥子粒けしつぶ選分えりわけるような仕事だ。そうしてまた意地悪く幾たびでもこの総後架そうごうかに行当たるには恐れる。雪隠で詰腹つめばらを切るていだね、誠にはやなんとも謂われねえ臭気においだぞ、豪傑につかえたと見えてここらじとじとする。薄汚うすぎたねえ。」と爪立てしてひょい、「南無三なむさん、踏んだ。」と渋面造って退すさる顔へ何やらんひやりとする。
「ほい、これは。」
 ずぶぬれ破褞袍やれぬのこけだし小児の尿汁にょうじゅうを洗わずして干したるもの、悪臭鼻をえぐってずいとおる。「やれ情無い、ヘッヘッ。」と虫唾むしずを吐けば、「や、ぜんの上へつばを吐くぞ。」と右手めてなる小屋にてわめく声せり。
 三吉慌てて駈出かけいだし、立停たちどまって胸を撫で、「ありゃ何だ。やっぱり人間が住んでたのか。ヘンよしてもくりゃ、はばかりながら、犬の小屋としか思われねえ。さてまた意地悪く一軒も燈明あかりけぬぞ、夜だか昼だか一向無茶だ。」と四廻あたりをきょろきょろ、「ふむ、此家ここでもう一度尋ねてみべい。」
 倒れ懸けたる表の戸、手をもて開くるを要せず、身をななめにして容易たやするに、いまだ燈火を点ぜざれば、ただこれ暗澹あんたん物色を弁ぜず。悪臭縷々るるきたりて人を襲えり。
「ちょいと御免なさい、御免なしい。」と三吉的処あてども無しに声を懸けて、奥より人の出づるを待てば、
誰方どなたへ。」と唐突だしぬけに打驚き、「少しものが。……」と謂えば「何だの。」と立ちたる膝のあたりに声するに、三吉また驚きて、
「おや、黒闇くらやみがものを言うぜ。」と反返そりかえりしも道理なり。
 鮫ヶ橋界隈かいわいの裏長屋は、人をるる家と謂わんより、むしろ死骸を葬る棺と云うべし。土間無く、天井無く、障子ふすま無く、壁一重にて隣を分ち、大戸一枚道路を隔てる、戸に接してわづかに三畳乃至ないし五六畳の一室あるのみ。三吉が膝とほぼ直角をなして(はてむずかしい形容だ、)打臥うちふしたる天窓あたまありしが、この時むくと起直りて、
団扇うちわの骨はいまだに仕上りませぬ。」と皺枯声しわがれごえ、「いえさ、ちと御聞き申したいんで。」「何、何、おらあ、今年はもう七十五になっての、耳がうといに依って大きな声で謂わっしゃい。」「こりゃ大難だ。婆様ばあさんあのの。」「あいあい。」「あののお前、黒瀬ぬいという婆様を知らねえかい。」「あい、知っておりやす。したがお前様は親類みよりの人かね。」「ウンヤ、秀坊というその娘っ子のことでちと用があるんだ。」半ばは聞取得ず。「ま、待たっしゃれ今燈明をける。」と膝行いざり歩きて、燧火マッチか、附木か、探す様子。江戸児えどっこれ込み、「こう早く教えてくんねえ。御前様が待っていなさらあ。」
 せたげても頓着とんじゃくせず、何とか絶えず独言ひとりごちつつ鉄葉ブリキ洋燈ランプ火屋ほや無しの裸火、赤黒き光を放つと同時に開眸かいぼう一見、三吉慄然りつぜんとして「娑婆しゃばじゃねえ。」
 今まで我にものを謂いし老婆はきたる骸骨がいこつなりき。ずたずたになれるむしろの上に、襤褸切ぼろきれ藁屑わらくずわん、皿、鉢、口無き土瓶、ふた無きなべ、足の無きぜん、手の無き十能、一切の道具什物じゅうもつは皆塵塚ちりづかの産物なるが、点々散乱してその怪異いうべからず。古物千歳を経て霊ありというものあるいはこれか。老婆のほかにまた一人あり。味噌漉みそこしに襤褸をまといて枕とし、横様よこさまに臥して動かざるは、あたかも死したる人のごとし。
 老婆はそれをゆびさして、「この死人しびとがその黒瀬ぬいでござんやす。」
 三吉あおくなりて、「何、死んだと?」「はいさ、お前様、昨日きのうから腹がくだって、正午過ひるすぎに眼を落しました、誰も葬るものがござらぬで、な、お前さん。」と突然三吉のたもとつかみて、
懸合かかりあいだ。始末さっせえ。」「滅相なことを謂わあ、飛んでもねえ。こう、これさ離せといえば。」「うんにゃ、離さねえ。どうでも懸合だ。」と武者振着く。
「ええ、死神のような奴、取附かれてたまるものか。」力に任して突飛ばせば、婆々ばばあへたばる、三吉にげる、出合頭であいがしらに一人の美人、(木賃宿のあの人の)宵月の影鮮麗あざやかなり。
 擦違うて三吉、「や。」と立停たちどまるを、美人は知らずに行過ぎて、くだんの老婆の家に入れば、何思いけん後をつけて、三吉は戸外おもてひそみぬ。
「ちょいとお婆様ばあさん、あの病人はどうしたえ。」と美人が見舞う、その声音こわねに耳を澄して、「いよいよそれじゃ。」と三吉四辻へ引返せば、老婦人は待飽倦まちあぐみ、亭としてたたずみつつ手にせる蝙蝠傘こうもりがさ打掉うちふるごとに、はっと散りてはまた集る、飯に寄る蠅、群る小児、持余してぞ居られける。
「三吉。どうしたものじゃ余り遅いの。」と御機嫌からず。三吉しきりに天窓あたまきて「へい、どうもお待遠様、誠に相済みません、しかし、御前様やっとのことで知れました。」「ああ、解ったと申すか。」「へい。ところでその、黒瀬という婆々ばばあはもう死歿なくなりました。」「えほんとうに?」「まったくでございます。」「そんなら用は無い、もう帰邸かえるとしようの。」「ま、お待ち遊ばせ。」と三吉は得々として、「大変なものを見附けました。もし、御前様、光子様を。」
 いう事いまだ終らず、老婦人は顔色がんしょく動き、「何といやる。」車夫ますます得々として、「えい、奥様を見付けたのでございます。方々探して知れなかったも道理、こんな処に隠れていらっしゃるんだもの、今日の御足おみあしむだにはなりませなんだ。いかがはからいましょう。」
 老婦人はしばし沈吟ちんぎんして、「し、すぐに引摺ひきずって来い、連れて帰る。」「いえ、森に居る鳥は、かごの中に居るように手軽くはおさえられませぬ。少し手間が取れますがお待ち遊ばしますか。」
 老婦人は空を仰ぎ、「日和癖ひよりくせじゃ、また曇った。」
「降りませんうちに、じゃあこうなさいまし、そこらで車夫を呼んで参りますから、御前様は一足お先へ、私はお後から奥様を引張ひっぱって帰ります。」
「よきように計え。」
 とあれば、三吉走行きて屈竟くっきょう壮佼わかもの雇来やといきたり、
若衆わかいしゅ駿河台するがだいだよ、可いか、頼んだぞ、さあお召し。」
 老夫人は蹴込けこみへ片足、「脱心ぬかるまいぞ。」
 三吉は腕を叩きて、「たしかに、請合いました。」「よくせい。」とひらりと召す。梶棒かじぼうを挙げて一町ばかり馳出はせいだせる前面むかいより、駈来かけきたる一頭の犬あり。わんとゆるをけて通る、腕車くるまと行違い遣過やりすごして、立停たちどまるはお丹なり。
 鼠縮緬ねずみちりめんの頭巾のうちより、ひややかなる瞳を放ちて「フウ、駿河台の猫股婆ねこまたばば、縄張うちへ踏込んだな。」
 お丹かくつぶやくや否や、いたちのごとく道を走り、跡を追い、辻車に飛乗って、呆るる客待の車夫の手に帯の間より財布を投付け、
「何でも可い、その、あの腕車くるま、早く追越せ。」

「なに、目を落したとえ、それはまあ。」と三吉が見て奥様ととなえし美人。汚き畳へ駈上かけあがれば、
「うむ。」と腰をのばして老婆は起き、「やれ、汚穢むそうござります。」藁屑わらくず掻寄かきよせて一処ひとつに集め、
「せめてこの上へ、貴女あなた御衣服おめしものが台無しでや。」
 つちで庭掃く追従ついしょうならで、手をもて畳を掃くは真実まこと。美人は新仏しんぼとけの身辺に坐りて、死顔を恐怖こわごわのぞき、
「可哀相なことをしたねえ。今朝私が薬を飲ましに来た時の容体ではまだこんな急なこともあるまいと思っていたに。お婆様ばあさんなぜ取返しのならぬことをしてくれたえ。しばらくでも介抱した私やほんとに名残なごりおしい。」と愁然しゅうぜんとして襦袢じゅばんの袖、御目おんめを赤くそめたまえば、老婆も貰泣もらいなきする処へ、三吉会釈も無くずッと入り、
「奥様、御迎いッ。」
「ええ。」と美人は顧みて、「あれ。」と身を震わし、おがみ手をしかと合せて、「こうだから、よ、よ、三吉。」とおろおろ声、蛇にねらわるる蛙のごとし。
「いいえ、不可いけません。御前様のおっしゃりつけです。どうしても御連れ申します。」「そうはいわずに見遁みのがしておくれ、頼むわねえ。」「なりません素直になさらなきゃあ、是非がえ、お気の毒だが手籠てごめにする。」
 と手につばして躍りかかれば、「あれ、後生だから後生だから。」
 謂いつつともしをふっと消す、後は真暗まっくら、美人はつまを引合せて身を擦抜けんとすきうかがい、三吉は捕えんと大手を広げておよび腰、老婆は抜かしてよつばい、いずれもだんまり。三吉やがて呼吸を計り、ここぞと飛附きくういだき、はずみ抜けして膝を折り、老婆のせなに両手をつけば、べったりとつぶれてうむとうめくを、例の死骸と思うにぞ三吉はきもひやして、
「ひゃあ死人に魔がした。」
 と飛退とびのひまに雀の子は、荒鷲あらわしつばさくぐりて土間へ飛下り素足のまま、一散に遁出にげいだすを、のがさじと追縋おいすがり、裏手の空地の中央なかばにて、暗夜やみにもしるき玉のかんばせ目的めあてに三吉と寄りて曳戻ひきもどすを振切らんと、美人したたか身をあせれば、まげ崩れ、なり乱れ、帯はするする、もすそははらはら、いとしどけなくなれるに恥じて、はや一歩ひとあしも移し得ず、肩をすぼめて地にひれふし、いきたる心地更に無し。
 三吉は左手ゆんでを伸べて白きうなじ掻掴かいつかみ、「ええ、しぶとい、さあ立て、立たねえとこうするぞ。」と高くかざせる右手めてこぶしを、暗中よりしっかとやくして、抑留おさえとめたる健腕あり。
 拳は宙に立ちたるまま上へも下へも動かばこそ、三吉ぎょっとして、「や、うぬは。」「天狗てんぐだ。」と呵々からからと笑い、「二才めばたばたすると二つに裂くぞ。」
 かく謂うはぞ、飲鬼窟がきくつの健児、老いたる屠犬児いぬころし弥陀平なり。

 駿河台の老婦人は、あわれ玉の輿こしに乗らせたまうべき御身分なるに、腕車くるまに一人のり軽々かろがろしさ、これを節倹しまつゆえと思うは非なり。
 仰々しく馬車を走らして往来を妨げんは、老人の娑婆塞しゃばふさげ後指うしろゆび指されんも憂たてし、髪切払いて仏に仕うる身の徒歩歩かちあるきこそ相応ふさわしけれ、つまりは腕車も不用なれど、家名に対してそうもならねば、むことを得ず三吉の健脚を労するだに心苦しくおぼすとなむ。
 読者御存じの都合ありて、間に合せの車夫に腕車をひかせ、今や鮫ヶ橋より帰館の途次、四ツ谷見附に出でて、お堀端を走ること十間ばかり、ふとあらわれたる中年増ちゅうどしま、行違いざま、あわただしく「あれ若いしゅさん、心棒が抜けてるよ。」車夫は仰天して立停たちどまりぬ。「ああ危い。」と年増は溜息ためいき
「どうも姉様ねえさん難有ありがとう。」車夫は輪軸を検せんとて梶棒を下すを暗号あいずに、おでん燗酒かんざけ茄小豆ゆであずき、大福餅の屋台みせに、先刻さきより埋伏まいふくして待懸けたる、車夫、日雇取ひようとり、立ン坊、七八人、つぶてのごとくばらりと出で、腕車の周囲めぐり押取巻おっとりまく。
「や、や、狼藉ろうぜき。」と驚きたまう老婦人の両の御手おんてを左右よりとりしばりて勿体無くも引下ろせば、一人は背後うしろより抱竦だきすくめ、他は塩ッ辛き手拭を口に捻込ねじこ猿轡さるぐつわ。老婦人を載せたる車夫は不意の出来事に呆れて立ちしが、手籠てごめに逢わるるを見るに忍びず、「やい此奴こいつ等、何をしやがるんでえ。」と客贔屓びいき
「若い衆! 大目に見ておくれ、この御客は私が買うよ。」
 と年増は紙幣さつ取出とりいだして二三枚握らすれば、車夫はにわかに笑顔になり、「ちと、もし、御手伝を致しましょう。」現金な野郎なり。
「それ、これで。」と年増が解きて投与うる扱帯しごきにて老婦人の眼をぐるぐる巻にし、仰向あおむけに突転ばして、「姉御、荷造が出来た。」といえば、
引担ひっかつげ。」「おっと合点。」
 かろやかに肩に懸け、「ほい、水気がえから素敵に軽い。」「まるで苧殻おがらだ、」「お精霊様の、おむかえおむかえ。」とつッぱしる。
 これ皆お丹がなせるわざなり。
 狼藉者の一隊はさすがに警官をはばかりて、大坂を下りんとする交番の此方こなた猶予ためらいぬ。「それ目潰めつぶし。」とお丹の指揮さしず手空てあきの奴等、一足先に駈出かけいだして、派出所の前にずらりと並び、臆面おくめんもなく一斉に尾籠びろうの振舞、さはせぬ奴は背後うしろより手をたたきて、「鳴るは滝の水。」とはやし立つる前代未聞の悪戯いたずらに、巡査何とて黙すべき。「こらっ――」
 見張員と休息員と無頼漢等を引挟ひっぱさんで、片手に一人ずつ引掴ひッつかめば、れたる者も逃げんとはせず。
「へん他人ひとうちへ垂込みやしめえし、何のこれ往来だ。」「田圃たんぼにしてみや肥料こやしになるぜ。」
 としらふ冷罵おひゃれば、巡査は全身の怒気いかり頭上に上りて、「無礼者め。」ともう血眼ちまなこ、二ツ三ツなぐりつける。
「ヤったな。ああ、痛え。」「おお、痛え。済まねえやい、木や土でこせえた木偶にんぎょうじゃねえ。」「血のある人間だ、さあどうする。」とくってかかる混雑紛れ、お丹等老婦人を見咎みとがめられず、やすやすと通抜けたり。

「はてな、地獄の戸がいた。」
 車夫三吉を取挫とりひしぎて、美人をいたわりたる屠犬児いぬころしは、いぶかしげに傾聴せり。
 かれが立てる処より間はるかに隔りたる建物の戸を開閉あけたてする音なるが、一種特別のひびきあれば、闇夜やみにも屠犬児は識別せるなり。
「誰だ誰だ。」と呼ばわれば、答は無く、ややありて二人三人みたり跫音あしおと小刻こきざみに近付きつ、「私だよ。」というはお丹の声、「おやどうしなすった。」お丹は闇中くらがりすかし見て、「談話はなしの邪魔がいるようだね。」「いえ、こりゃお姫様ひいさま。」「光子様は分ってる、まだ一人いやしないか。」「ほいふくろうのようだ。りますよ。」「誰だい。」「これはね、駿河台のそれ猫股婆の車夫なんで、私が折よく乗合わせなかろうもんなら、光子様を手籠てごめにして連れて行く処でごぜえましたぜ。」「だから私が貴女あなたに外へ御出掛けなさいますなと申すのに、とうとう見付られておしまいなすった。」光子は「堪忍しておくれ。」とわびしげにいう。
「まあ、うございます。ちょっと、其奴そいつを縛っちまいな。」「ちゃんと可いようにこせえてありやす。」「そりゃ早い手廻てまわしだね、ではね、お前。」とうしろに控えし壮佼わかものを見返りて、「どこかへ明日まで封じておきな。」「あいあい親方請取ろうか。」「そら渡すぞ。」と屠犬児が片手で突けば、飛んで来る、三吉を引抱ひんだきて、壮佼わかもの闇夜やみに消えぬ。
貴女あなた御心配には及びません。ここにお置き申すも今夜っきり、明日は立派に駿河台の若殿様にお逢わせ申す。」「ほんとうかい。」「何、嘘をいいますものか。」「嬉しいねえ。」と光子はいそいそ。
「そのかわり、今夜のうちにどんな恐しい事がありましょうとも眼をふさいで我慢なさい、過日いつかお茶の水で身を投げて死のうとなすった、その気でね。」と意味ありげに言含め、「そこでの、黒瀬の婆様ばあさんを葬ってやろうと思って用意をしたお棺はね、ちと道具に使用処つかひどころ[#ルビの「つかひどころ」はママ]がある、後でここへ持たしてお寄来よこし。」
 屠犬児はあやしみて、「それじゃ死体はどうなさいます。」「あれはね、むしろに包んで担ぎ出して、番町の小浜というやしきへ行って、玄関見附に大きな松の木があるからさそうな枝を見繕って、ぶら下げて来るように、権と八に一役おつけ。」「はてしからねえ。何のためだね。」「ちと思わくのあることさ。光子さんは私と一所に、地獄で妙な人に逢わせるよ。」

 先刻さき兇徒きょうと手籠てごめに逢いしは、黄昏たそがれの頃なりき。されば早や夜ならむ、る処は、天か、地か、はたまた土蔵か、穴蔵か、眼は開きたれども一物いちぶつを弁ぜず、くらきことあたかも盲せるごとくなるに、老婦人はただ自失せり。
 されど心ごうにして気韻高きさがなれば、はしたなく声を立てず、顛倒てんどうして座を乱さず、端然としていたまえり。
 まことや既に仏果を得て、勇猛精近のおこない堅固に、信心不退転の行者なれば、しか黒暗闇こくあんあんうちに処しても真如しんにょの鏡に心をてらせば、胸間れたる月のごとく、松の声せず鏡の音無きも結句静処を得たりと観じ、寂寞せきばくとして水晶の数珠爪繰つまぐりて泰然たり。
 ややありて戸の外に物凄ものすご婦人おんなの声して、
「駿河台の御隠居様、貴女あなた御嫁女およめごの光子様を余り非道に遊ばしたゆえ、地獄へ御連れ申しました。ここをどこだと御思い遊ばす。」
 言下ごんかに老婦人は色をしぬ。
 婦人の声はうしろに廻り右よりまた左より、同一言を繰返せり。それよりせきとして天地に声無し。
 すべての人、光明に逢えば眼に愉快を感じ、闇中にある時は心に苦痛を見る。もしそれ老婦人をしてかくてあることを久しからしめば、ついに必ず狂せむ。不意に音あり、戸は開きぬ。同時に照射入さしいる燈火の影に乱髪、敝衣へいいの醜面漢、棍棒こんぼうを手にして面前にきたれり。
 老婦人は見ざるがごとく、秋毫しゅうごうも騒げる色無し。かれはあえて害を加えんとはせで、燈火をそこに差置きたるまま、身をひるがえして戸外に去りぬ。
 と見れば、四方は荒壁なる五坪ばかりの土間の中にむしろの上に載せられたるものあり。
 つい眼の前には板戸のごとき大肉俎おおまないたすえられしに、こうし大の犬の死体四足しそくを縮めてよこたわれるを、いまだ全く裂尽さけつくさで、切開きたる脇腹より五臓六腑溢出あふれいで、血は一面に四辺あたりを染めたり。ここかしこに犬の首、猫のつら、手とも謂わず足とも謂わず切断して棄てたるが、三々五々相交あいまじわる。
 また四斗樽しとだる三箇を備えて、血と臓物を貯えしが、皆ことごとく腐敗して悪臭生温なまぬるく呼吸を圧し、敷きたる筵は湿気に濡れ、じとじととうるおいたり。
 地にまろびたる犬の首は、歯あらわれ舌を吐き、串に刺したる猫の面は、まなこふさがずひげ動く。渠等かれらが妄執めいせず、帰せず、陰々たる燈火に映じて動出うごきいださんばかりなる、ここ屠犬児の働場はたらきばにして、地獄は目前の庖廚ほうちゅうたり。
 眼のごとく髪のごとく口のごとく頬のごとく一切その人の姿のごとき猫股婆もぎょっとして、色を失い、身を震わし、固く結べる唇より一語ようやく黙を破れり。
 渠はつぶやきぬ、「浅ましや。」
 とたんに外面そともに女の声して呵々からからと打笑いぬ。

 こころみに問う、天下の人いかに、外に忠実なるしもべのごときは、内に暴戻ばうれいなる[#「暴戻ばうれいなる」はママ]旦那なり。でては仁慈優愛なるもの、っては残忍酷薄こくはくにて、隣家となりの娘に深切なるもの、おのが細君には軽薄なり。我子の嫁には鬼のごときも、他人の妻には仏のごとく、動物憐護を説く舌は、かえって奴婢ぬひ叱責しっせきせずや。乞食に米銭をなげう仁者じんしゃ、悩める親に滋味を供せず。芸者にすいな御客人、至って野暮な御亭主なり。弟子に経綸けいりんを教うる人、家庭の教育整い難し。友のひつぎを送るもの、親類の不幸を弔わず、役所に出でては尻尾を振り、宅へ帰れば頭を振る。なお金銭におけるごとく、プラスマイナス出入でいりの相違は天地懸隔けんかく月鼈げつべつ雲泥うんでい、駿河台の老婦人もまたこの般の人なりき。
 外部より刺戟しげきを与えて、内心の悔悟をうながせしお丹は時分を見計いて、老婦人の前にで相対して座を占めぬ。
「お初に御目にかかります。」
 老婦人はものをも言わず威儀を整え儼然げんぜんたり。お丹はおもむろに説出ときいだしぬ。「今晩は、貴女あなたの御威勢にもはばかりませずとんだ失礼をいたしました。しかしむことを得ません次第、まあ御聞き下さいまし。実は先々月の中旬なかごろでござりました、夜更よふけにお茶の水橋を通りまして、品格ひんい、美麗うつくしい、お年紀としの若い御婦人が身を投げようと遊ばす処をあやうくお止め申したのが、もし、御隠居様、貴女の御邸の光子様でございます。とかように申せば、なぜあの方が死のうとなすったかは貴女のお胸にございましょう。私も驚きました、御慈悲深い、お情深い、殊に仏学をお修めなすって、道徳抜群という風説うわさの高い貴女のお嫁御があんなに薄命でおいでなさろうとは、はい、夢にも思いはしませんでした。」
 ときっと老婦人のおもてを見たる瞳は閃然せんぜんとして星のごとく、かれいた愁色しゅうしょくありき。恐怖の色もあらわれながら、黙して一言ひとこと応答いらえをなさず。
 お丹はまた語を続けぬ、「しかし死のうとなさったまでには、大抵のおいじめようではございますまい、よっぽど御骨折でございましたろうねえ。」
 罵殺ばさつ一番、老婦人は強いて平気を装いつ、ごうも屈するかたち無し。
 お丹はひややかなる微笑えみを含みて、「私もはじめのうちは御実家おさとへお戻りのあるように、勧めてはみましたけれど、あなた方の重い御身分では、姑御しゅうとめご邪慳じゃけんだからって、ついちょいと軽々しく、うみの親御に顔は合わされぬとおっしゃるので、ま、ただいままで私が大切だいじにおかくまい申しました。」
 ちょいと句切ってめッくら、双方しばらく無言なり。
 急に声を励まして、「そんなにおにくしみの光子様をなぜまた連戻そうとなさいますね。馬車で公然と御迎えになりますれば、私は喜んであの方をお渡し申します。車夫に手籠てごめにさせようなんて飛んでもないことを遊ばす処では連れて帰ってまたいじめようという御思慮おかんがえとしか思われません。それは貴女虫が過ぎると申すんです。及ばずながら私が光子様をおかばい申せば、夜叉やしゃ羅刹らせつかり集めて、あなた方と喧嘩けんかをしてなりと毛頭御渡し申しませんが、事を好んでするではなし。ナニ、おのぞみならば差上げましょう。その代りただでは不可いけません、邪慳な姑をさらりとめて、慈愛な母親になってやる、と私の前で御誓い下さい。」
 渠は依然として黙をしゅせり。
 お丹は詰寄りて、「さもなければ質として、御手の御数珠を私があずかりましょう、どっちか一つ御返事なさい。貴女、まあどうでございます。」と咄々とつとつ人に迫りきたる。
 ここに到りて老婦人はもはや黙することを得ず、りんたるさりながらややふるいを帯びたる声にてはじめて一言、「華族じゃぞ。」
 老婦人はこれよりさき惨絶残尽さんぜつざんじんなる一じょうの光景を見たりし刹那せつな、心くじけ、気はばみて、おのがかつて光子を虐待ぎゃくたいせしことの非なるを知りぬ。なお且つ慙愧ざんき後悔して孝順なる新婦を愛恋の念起りしなり。されど剛愎ごうふく我慢なるそのさがとして今かくとりこはずかしめを受け、賤婦せんぷの虐迫に屈従して城下のちかいを潔しとせず、断然華族の位置を守りてお丹の要求をしりぞけたるなり。
「御承知下さいませんか、どちらもいけませんか。」
 老婦人はきっとして「華族じゃぞ。」
なんでございます。」
 老婦人は始終一徹、
「華族じゃぞ。」平民にものはいわずとまた黙せり。
 お丹少しくいかりを帯びて、戸外おもてに向い、「こう一件を連れてへえんな。」
 ややありて黒くせたる小男と、青くふとりたる大男と、両々光子をさしはさみて、引立々々入来いりきたれり。
「そこへ。」とお丹が座を示せば、老婦人の前に光子を押据え、牛頭馬頭ごずめず左右に屹立きつりつせり。
 光子は涙浮びたる眼を開きて、わずかに老婦人を瞥見べっけんせるのみ、打戦うちおののきて手足をすくめ、前髪こぼれて地に敷くまで、こうべを垂れて俯向うつむきぬ。
 老婦人は顔をも背けず正面に光子を瞰下みおろしいよいよますます傲然たり。
 お丹は小刻こきざみに座を進め、「サ、犠牲いけにえに捧げます。お打ち遊ばせ、おつめり遊ばせ、この頃ようようなくなりましたこのお身体からだ生疵なまきずをまたいくらでもお付けなさい。どんなにでもお責めなさいな。ちっとも故障は申しません。そのかわりに、お邸へ連れてお帰りになりますからは、若殿様と御両人おふたりを快く添わしてあげて、これまでのような非道なことは忘れてもなさらぬように、それとも不縁に遊ばすなら、光子様に自由を与えて、決して干渉をなさらぬように、お憎みのありったけ、今晩いじめ切っておしまいなさい。お動きなすって御成敗がなさりにくくば、縛りましょう、釣上げましょう、さあさあ、どうとも御望み次第。」
 と胴を据えたる詰問つめひらき、老婦人は死灰のごとし。
 お丹れて、「何もそんなに尋常ぶって、御辞退にも及びますまい。ひもじい腹なら食べるがいのさ。」
 老婦人は奥歯を噛切かみしめ、御気色みけしき荒く、「華族じゃぞ。」「華族がどうした。」「華族じゃぞ。」「フム解りました。料理の塩梅あんばいが悪いから、華族様のお口にはあわぬとおっしゃるのでございましょ。これはまことに私が粗相。どう、そんなら汁に加減をしようか。鉄、熊、押えろ、動かすな。」
 声に応じて牛頭馬頭は光子を仰様のけざまに引倒し、一人が両手、一人が両足、取って押えて動かさず。「ああれ。」光子は虫の声。
 老婦人は心の内、「華族じゃぞ。」
 お丹はひしと光子の胸に片膝乗懸け、しもとを挙げて打たんとしつ、老婦人を睨殺げいさつして、「留めはすまいね。」
 無言。
 力をめて、「留めはすまいね。」
 老婦人はあおくなりて、「華族じゃぞ。」
 かくまでしたらばを折らんとかねてより思いしには似で、飽くまで老婦人の剛情なるに、後へ退かれぬ羽目になり、むことを得ず手をおろしつ。お丹がその時の心中いかに。
 光子は苦悶くもんして悲鳴を揚げ、右に左に枕を代えて、長き黒髪地を掃きしが、最後の一撃は手元狂いて打処うちどころしかりけむ、うむとのけぞりてかれは絶せり。
「ほい。」「これは。」と二人は吃驚びっくり
 お丹は脈を伺いて、「ああ失策しまった。」と叫びしが、気を変えて冷笑あざわらい、「おい婆様ばあさん、お前の口に合うように料理をしたばかりに、とうとうこのを殺したよ。」
 といいつつ震えている二人を顧み、「あのう、押入につないだ車夫くるまやを出してやんな。おい婆様ばあさん。」
 老婦人を後目しりめに懸け、「もう用はこれなし、けえしてやる。」

 駿河台のお邸にては、りても御前様の御帰館無きより、心当こころあたりを問合せ、御親類中へ使者を向くるに、いずくにも見えさせたまわず、皆目御立寄おたちよりこれなきよし。
 さては珍事じゃ大変じゃと、邸内一統煤掃すすはきという見得で騒出さわぎだし、家令はまず何はともあれ、警察へ届けて出る。御奥の老女は御神籤おみくじおろしにく。
 しゅうおもいのおはしたはお稲荷様いなりさまへお百度を踏みにと飛出して、裏町へ回り焼芋を二銭買い、たもとれて御堂みどうに赴き、お百度をいいまえに歩行あるきながらそれをむしゃむしゃ、またと得難き忠臣なり。
 家扶は探検使として差向けらる、書生二人を引従ひきしたがえ、御前様のお出先は、何しろ四谷、最寄もより近所は草を分けても穿鑿せんさくせんと、ステッキを携え、仕込杖しこみづえを脇挟み、さも事々しく打立ちてお茶の水を渡ると家扶の武智「敵は本能寺じゃ、続き召され。」と芳原さしてどろんとなる。
 府下の処々ところどころより旧藩士の面々が御家の大事と早車にて乗附くる。御出入おでいりの商人、職人、盆栽のお見出しに預りたる植木屋までが、驚破すわ鎌倉とはせ参じ、玄関狭しと詰懸け詰懸け、一夜ひとよ眠らで明くる頃、門内へ引込みたる母衣懸ほろがけの人力車、彼はと見れば、こりゃどうじゃ。
御帰館おかえり――」と叫ぶにつれ、老婦人でて、式台に成らせたまえば、一同眼の覚めたる心地して、万歳をどっと唱え、左右にずらりと平伏するを、見向みむきもせで、足疾あしばや仏室ぶつまの内、へだての障子を閉切りたまいぬ。
「はて、面妖めんような。只事ただごとでない。」と家令を先に敷居越し、恐る恐るふすまを開きて、御容顔を見奉れば、徹夜の御目おんめ落窪おちくぼみて、御衣服おめしものは泥まぶれ、激しき御怒おいかりの気色あらわれたり。
「はッ恐れながら。」と冒頭まえおきして、さて御機嫌を伺えば、枯れたる声を絞らせたまい、「退さがりや、退りや。」と取っても附けず。
 家令は少しくにじり出で、畳を額にうずみながら、「これはおおせとも覚えませぬ。一晩御帰邸相成りませぬで一統の者の心痛いかばかり、まずは御安泰にて恐悦に存じまする。さりながら御顔の色も尋常ただならず、一同安心のなりまするよう、仔細しさい御申聞おんもおしきけのほどを、はッはッ。」とさようしからばで言上するのを、老婦人は皆まで聞かず、「退りやと申すに。」「はッ御意に逆いまするか、しからば是非に及びませぬ。」と家令は居直り、「御目通おめどおりかなわぬ遠慮さっしゃい。」と郷右衛門めかしておおせを伝え、直ちに御前を退散して、御供の車夫に様子をたたけば、三吉がらてきというふさいだ顔色、ほっとせし気味にて長歎息ためいきき、「何だってお前様まえさん、滅茶苦茶に真闇まっくらだあ、どうも人間わざじゃねえぜ。おら恐怖おっかなかったのなんのって、お前様対手むこうが天狗だと名告なのるからたまるめえじゃねえか、いまだにふるいが留まらねえや。」とがたがた胴震、「ね、この通りだ。全体おら呼吸いきがあるのかよく見てくんねえ。生きていようか、ねえ、おい。」
 と他愛たわいの無きこといい寝入に前後も知らず早やいびき。仔細は更に解らねども怪我も無ければまず安心と、上下一呼吸ひといきく間もあらせず、まなこ鋭く、ほおせてひげ蓬々ぼうぼうと口をおおい、髪はおどろ乱懸みだれかかりて、手足の水腫みずぶくれに蒼味を帯びたる同一おなじような貧民一群、いまだ新らしき棺桶かんおけを、よいしょと背負込しょいこみ、門の内にるとひとしく、一人が巻持てる紙旗をと開けば、(塚町光子様御遺骸ごいがい)と墨黒に書きたるを、真先まっさきに押立てて、はばかる色なく、玄関に横附にして異口同音、「頼む、頼む。」
「どうれ。」と出て来た取次はこのていを見て呆果あきれはて、ただもう「えッ。」といたるのみ、蛙のごとく眼をぱちくり。「何でもい。」「隠居殿が御承知だ。」「鮫ヶ橋から奥様の死骸を届けに来たのだ。」「ぐずぐずせずに取次げやい。」と口々に呼ばわれば、「何だ何だ騒々しい。」と書生二人飛んでいでしが、あまりのことに辟易へきえきして、茫然ぼうぜんと見物せり。
「ええ華族様は気の長いもんだ。」「素直に待ってちゃあらちが明かねえ。」「蹈込ふんごめ。」と土足のまま無体に推込おしこむ、座敷の入口、家令と家扶はたすき綾取あやどり、はかま股立ももだち掻取かいとりて、大手を広げて立塞たちふさがり、「うぬ昼盗賊ひるどろぼう狼藉者ろうぜきもの。」「さあ一足でも入るが最後、手は見せぬぞ。」
 と叱附しかりつくるを耳にも懸けず、口を揃え、
「やいやい隠居はどこへ隠れた、昨夜ゆうべの死骸を持って来たぞ。受取れ受取れ。」と呼ぶ声、隅から隅まで鳴渡る。
 家令家扶堪えかね、目配めくばせして、「山本、熊田、其奴そやつたたけ。」と昔取りたる杵柄きねづかにて柔術やわらも少々心得たれば、や、と附入りて、えい、といいさま、一人を担いで見事に投げる。
 これに気を得ていさみをなし、二人の書生は腕を叩きこぶしふるうて躍懸おどりかかれば、たれぬさきに、「あいつ、」「おいて。」と皆ばたばた。
 算を乱して仰向あおむけにどたりと倒れ、畳を蹴立けたて、障子をゆすぶり、さア殺せ、くるしいわい、切ないわい、死ぬぞ、のたるぞ、と泣喚なきわめくに、手の附けようもあらざれば、持余したる折こそあれ、奥にて呼ぶ声、叫ぶ声、廊下をとどろと走る音、ふすま開閉あけたて騒がしく、屋根を転覆かえした混雑に、あれはと驚く家令の前へ、腰元一人けつ、まろびつ、蒼くなりて走りで、いきせき奥を指さして、
、大変です。もし、御前様が御自害じゃ。」
「あ!」と家令は腰を抜かす。
 疫病神どもこれを聞くより、そらげろと、跳起はねおきて、棺は棄置き、雲を霞。
 鮫ヶ橋にはせ戻りて、一部始終を告げ知らせばお丹、「ふむ。」といったきり。しばらくものも謂わざりしが、やがて歎息して、「ああ、遣過ぎた。あの婆様ばあさんもさすがだの、わざと私が殺してみせて、かして光子さんを棺に入れて駿河台へやったのは、隠居がいくら強情でも、柔順すなおうちへ入れるであろうと思った思案は浅かったよ。その身にかかったことからして、あの婆様が死んでみりゃ、可哀そうに光子様はあれっきり……チョッおしいことを。」

 光子は尼になりきという。

 麹町の華族、小浜正道氏の門内に、ひたと犬の鳴きたるあり。番人幾たびも見巡まわりしが、何事も無くて夜は明けぬ。
 門長屋の兵六老爺ひょうろくおやじ、大手を開けに朝く起出でて、眼と鼻をこすりながら、御家の万代よろずよを表して、千歳ちとせみどりこまやかなる老松おいまつの下を通りかかれば、朝霜解けた枝より、ぽたり。
 兵六震い上りて、「おお、つめてえ。老人としより冷水ひやみずたまったもんじゃねえ。」とつぶやきつつ、打仰ぎて一目見るより、ひええ! とって飛退とびすさり、下駄を脱ぎて、手に持ちはしたれども、腰の骨の蝶番ちょうつがいがっくりゆるみてただの一足も歩かれず、くしゃりと土下座して、へたへたになり、衣服きものをすっぽりと引被ひきかぶりて、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。
 門外に靴音して、朝巡回あさまわりの巡査、松の木の縊死いしを認めて、戸を叩き、「開門、開門。」
 と音訪おとなう処へ、新聞配達、牛乳配達、往来を掃きに出でたるむかい親仁おやじ、隣の小僧、これを見付けて寄集り、「なるほどこれじゃ、道理で恐しく犬が吠えた。」
「もし、こりゃやっぱり喰詰めたのでございましょうね。」
「さればさ、年寄だからどの道色気ではねえて。」と、くだらぬ下馬評。
貴下あなた、この邸はいつでもおそく戸を開けますか。」と巡査は問う。「いいえ、旦那、兵六という門番が名代なだい疾起はやおきなんで、今朝はどうしたというのでしょう。」
「何でもたたくがい。」とんとん。老爺おやじ念仏三昧ねんぶつさんまい
「どうでもしてくれ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」とんとん、「勝手にしろさ、こわさば毀せだ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」がんがんがん、「そりゃ、えらくなって来た。この腰が立つか立たぬか。もうこうなったら根競こんくらべだ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
 外にはれて二三人一同に、どしんどしんどしん。兵六老爺きもを据えてびくともせず。いよいよはげしく敲立たたきたつるに、玄関をがらりと開けて、執事の日下部くさかべ、「門番の衆、門番の衆、開門。」と呼立つる。
「これは大変奥と表で挟討はさみうちだ。そりゃいが天窓あたまの上にござるぶらんこがどうもはや、今朝はおらが一生の厄難だ。殺さば殺せさ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
 呼べど叫べど答ざれば、「老爺おやじめ、また疝気せんきでも起しおったな。」走出でて門を開けばはや往来には人の山、津浪のごとく流込むに、「こりゃ何事じゃ。」と執事はきょろきょろ。「貴下あなたはお邸の方かな。松の木に縊死くびくくりがあるで。」と巡査にわれてまた驚き、婆々ばばあの死骸を見て三度吃驚びっくり「やれ首をくくった、松の木が。」とあわただしく触込んだり。
「凶事がある前兆しらせじゃよ、昨夜ゆうべは夢見が悪かった。早速護摩ごまでもかせねばお邸から縊死くびくくりを出してどうするものじゃ。」と令夫人おくさまは大きに担ぐ。殿様のごときは黒くなりて、「一度あることは二度というぞ。あの松の木今の間にきり倒せ。」と苛立いらだちたまう。
 照子は腰元を召して、「門内に変死があるというね。どんな様子だかお前行って見ておくれ。」次第によらば、枯骨ここつを拾わん思召おぼしめし、慈善家は違ったものなり。
 腰元やがて復命すらく、「乞食より汚穢きたな婆々ばばあです、さうして塩茄子しおなすびのように干乾ひからびておりますよ。おお、胸の悪い、私が今参りました時は死骸の懐中をしらべておりました。もし、姫様ひいさま書附がございましてね、町所ちょうどころが、ああ何とやら、みんなが申しましたっけ。何でも鮫ヶ橋の者だそうで、名が……そうそう黒瀬ぬい。」「黒瀬ぬい――私は聞いたような。」としばらく考え、「あのそれじゃ。」と顔真蒼まっさお
「おや、御存じ。」と腰元に顔を見られて少しく狼狽うろたえ、「直ぐ出懸けるよ。」とふいと立つ。「どちらへ。」「深川様のお邸まで。」「それではお召替遊ばしまし。」「なに、これで可い。」と紫地の行燈袴あんどんばかま、学校行の扮装いでたちそのまま。
 もはや時刻と例のごとく、車夫は玄関に待懸けたり。照子はわくせく気をあせらし、腰元附添い駈出かけいでて、永田町へ……
「御急ぎッ。――」

 門内の群集を分けて車上の照子は、老婆の死骸におもてを背けつ、それより深川家の式台まで矢を射るごとく乗附けて、かねて別懇のなかといい、殊に心のきたれば、案内もわで夫人の居間。
夫人あなた、今日は。」と立ちながらまず挨拶あいさつ
 綾子はぞろりと外出そとでなり繻珍しゅちんの丸帯を今めて、姿見に向いたるが、帯留の黄金きん金具をぱちんと懸けつつ振返りて、
「おや、照子さん。飛んだ事ですねえ。」とせんを取られていそそくれ、「え。」と照子は希有けぶ顔色かおつき
「私も今出懸けましょうと思って、御覧の通りちょいと支度をいたした処です、御一所にまいりましょうか。」
 一つも解らぬことを対手あいて丸呑まるのみにして、承知之助、照子は呆れて、「夫人あなたどこへ、そうして何が、あの何でございますの。」
 とぼっとしたことをいう。
「駿河台の御隠居様が、今朝急病で御逝去おなくなりなすったって。」「ええ。」「訃音しらせがありましたよ。あら、貴嬢あなたは御存じではなかったの、まあ御坐り遊ばせ。」
 と友禅の座蒲団ざぶとんを直して、桐火桶きりひおけ推出おしだしたまい、
「何ですか大層おきだことね。まア落着いて。」
 と気を着けられて、照子はほっと呼吸いき、「夫人あなた、この間のね、秀の祖母様ばあさんというのはたしか。」「黒瀬ぬい。それがどうしましたえ。」と懸念げなり。
夫人あなたどう致しましょう、その婆様ばあさんがね、うちの松の木で首を釣ったの。」綾子も色を変じて、「ほんとうですか。」「今頃はどんなでしょう、私の来た時でさえ門の内は人で一杯。」と照子はうしろ見らるる風情、そわそわして落着かず。
 綾子はじっと俯向うつむきしが、ややありてひそみたる顔を上げ、「照子さん、内証ですよ、高い声では申されぬが、駿河台の御隠居様の急病というのは、まあまあ表向おもてむきで、実は何か、鮫ヶ橋の方のものに間接にお殺されなすったようです。私共が願ってあすこへ行っておもらい申した、それから事が起ったそうで、申訳もありません、今の貴嬢あなた御談話おはなしといいどうも私の考えでは、鮫ヶ橋は容易ならぬ処です。いつかそれ慈善会を打毀うちこわした、あの恐しい女乞食も鮫ヶ橋の者ですよ。こう申せば何ですが、四ツ谷の空の一方には、あやしい雲が立上っておだやかならぬ兆候きざしが見えて、今にも破裂しそうで、気にかかってなりません。打棄うっちゃっておいてはお互の身の上でしょう。私の思いますには、彼等の心のやわらぐように折角恩をせて、ねえ貴嬢。」と何やらんささやかれしが、小声にて聞取れず。照子が辞して帰りしのち、深川夫人は腕車くるまを命じ、所々方々奔走あり。流石さすがは綾子、半日にて多数の貴婦人を一致せしめし。
 その結果。

 寺院は随一の華主とくいなる豆府とうふ屋の担夫かつぎ一人、夕巡回ゆうまわりにまた例の商売あきないをなさんとて、四ツ谷油揚坂あぶらげざかなる宗福寺にきたりけるが、数十輛の馬車、腕車わんしゃ梶棒かじぼうを連ね輪をならべて、肥馬いななき、道を擁し、馭者ぎょしゃ馬丁べっとう、車夫のともがら、手に手にますを取りて控えたる境内には、一百有余の俵を積み、白米むしろに山をなせり。
 音楽たえに、読経の声清く、庫裡くりも本堂も人ならざる処無き意外の光景にひたと呆れぬ。
 これけだし深川綾子の建案にて、麹町の姫様ひいさま檀那だんなとなり、あまたの貴婦人これをたすけ、大法会をしゅして縊死いしの老婆を追善し、併せて鮫ヶ橋の貧民の男女を論ぜず、老少を問わず、天窓数あたまかず一人に白米一斗、無慮一百石を散ぜんとする未曾有みぞう施行せぎょうなりき。
「へい、真平まっぴら御免なさい。少々どうぞ。」と豆府屋おずおず、群集を分けてらんとすれば、比々としてならべる車につかえて、台を担うて歩むべからず。膝のあたりに手を下げて、「若いしゅ頼むよ、通してくんねえ。」車夫は傲然ごうぜんとして、「べらんめえ、この混雑の中へへえれるもんか、眼を開けてものをいいなよ。顔を洗えさ。邪魔だ邪魔だ。」と推出おしいだしぬ。
 豆府屋蹌踉よろよろしてふみこたえ、「がみがみうない、こっちあ商売だ。」と少しく勃然むっとする。「何い、商売がどうしたと。」大喝一番腕まくりして向いきたるに、ぎょっとして飛退とびすさり、怨めしげに法会をながめて多時しばしは去りもやらず、彼がその日の収入におおいなる影響あればなり。
 時に年老いたる屑屋くずやあり。包を背負うたる洗濯ばばあり。おなじく境内にらんとせしが、また車のために抑留さる。
「おやおや大変だ。弱ったことの、洗濯物をうんと仕上げて持って来たのに、こりゃまあどうじゃ。」と老婆はつぶやく。かたわらよりくだん屑買くずや、「わしゃまた一日ついたちと十五日が巡回日まわりびで今日もって来たのじゃが、この様子では入ってからあきないは出来ぬらしい、やれさても。」と大きに愚痴こぼす。
「え、薄汚い、悪臭い、貧乏神が夫婦連めおとづれでやって来やあがった。とッとと退いたり、邪魔にならあ。」と馬丁べっとう喚散わめきちらせば、
「やれやれなさけない、のう、お前様まえさん。」老爺おやじうなずき、「御慈悲をば頼んでみるじゃ。」と二人は土下座をして平突張へッつくばり、「はいはい申兼もうしかねましたことなれど、この洗濯賃をあてにして、今日はまだ御膳ごぜん頂戴いただきましねえ。」「わしも今日が書入日かきいれびでござりまする。この御寺に、月に二斎をたのしみにいたしております。どうぞ一番ひとつ御上人様へ御取次下されまし。」
 皆まで謂わせず、「何だ御取次い、糞でもくらえ、華族様御直おじきの馬丁だわ。やい、門番扱いにしやあがる。死損いめ。」妙な処で威張ったもの。
 老婆は額を地に擦付すりつけ、「はいはい、誠に早や推付おしつけがましゅうございまするが、御見懸け申せば、はいはい、どうやら御施米おせまいがござる様子、少々ずつ御遣し下されまし。」「へい、御願おねがいでござりまする。」と二人は手を合わせて拝みぬ。
 馬丁おもてやわらげて、「ふん何か、きさま達は鮫ヶ橋の者か。」こちらは正直「いえ、青山でござりまする。」「私は麻布の今井町でござります。」「ン、それでは不可いけねえ。なあおい。」と謂えば一人が頷き、「今日は鮫ヶ橋に施行が出るんだあ、他所よそのものじゃらちがあかねえ。」
「そうおっしゃらずに。」「もし御慈悲。」「ふん。」と鼻を空にして構い附けず。主命を辱しむること、見よ、かくのごとし、既に仁恵といういずくんぞ越人えつじん秦人しんじんとを分たん、されどもこれをおきてと謂わば、また論ずるに足らざるなり。
 二人は取附く島も無く、落胆がっかりして、「ああなさけない、おらあ素手ではけえられましねえ。」「わしもさ今日をあてにして昨夕ゆうべから何も食わねえ。」と声を放ちて泣きいだせば、
「やい、愚図々々してるとこうだぞ。」足を揚げて老爺おやじを蹴飛ばし、襟をつかみて老婆を突遣つきやる。地にまろびてようようち、力無ければ争い得ず、悄然しょうぜんとして立去るを、先刻さきより見たる豆府屋は、同病相憐の情に堪えず、
「こう老爺様じいさんまあ待ちねえ、婆様ばあさんちょいと。」と呼留めて、売溜うりだめの財布より銅貨四銭取出とりいだし、二人の手にわかち与えて、「親方持だから資本もとでへは手が出せぬ。余りちっとだが芋でも買いねえ。」二人は再三辞退して、ようやくこれを受納め、「ああ、お若いに御奇特な。」「やれ嬉しや、難有ありがたい。」
 と打って変って喜悦の涙、襤褸つづれの袖を分ちけり。
 時既に黄昏たそがれぬ。正午頃より今に至るまで、米を計りて待構えたる鮫ヶ橋の貧民等恩に浴せんとてきたる者無く、貧童一にんの影だに見えず。さなきだに葬礼法会ありしと聞けば、うおはらわたに寄するとびのごとく十里を遠しとせざるやからが、しかも丁寧に告知らせしに、めしに応ぜざるはそもいかに、貴婦人方は本意ほいなげなり。
 心利きたる馬丁べっとう等、素早く坂を駈下かけおりて、谷町通に大音に、「御救米おすくいまいが出るになぜない。」「下され物だ下され物だ。辞退は失礼に当るぞ。」「早く出ろ、直ぐに来い。」と声るるまで触流すを、ござんなれと待居たる、究竟くっきょう破落漢あぶれもの、軒下あるいは塀の蔭よりばらばらと飛出とびいだして、お使番を引僵ひきたおし、蹴って踏んでくらわして、「此奴等こいつら、人を乞食にしやあがる。へん、よしてもくりや、余計なお世話だ。」
「早く帰って汝等うぬらの主人に(あばよ)といえッて、お丹様のおことばだい。」
 黄昏の頃油揚坂より続々として曳出ひきいだす、馬車、腕車数十輛、失望、不平、癇癪かんしゃくなどいう不快なる熟字を載せたるは、これ貴婦人の帰途かえるさにて、むだになりたる百余俵の施与米を荷車に積みて逆戻り、笑止なりける次第なり。
 ※(「車+隣のつくり」、第3水準1-92-48)りんりん轟々ごうごう轣轆れきろくとして次第に駈行かけゆき、走去る、殿しんがりに腕車一輛、黒鴨仕立くろがもじたて華やかに光琳こうりんの紋附けたるは、上流唯一の艶色えんしょくにて、交際社会の明星と呼ばるる、あのそれ深川綾子なり。
 夫人は過日の慈善会以来、世に不如意あるを知初しりそめつ、かねてより人類の最下層に鬱積うっせきせし、失望不平の一大塊、頃日けいじつ不思議の導火を得て、世の幸福を受けつつある婦人級と衝突なし、今にも破裂爆発して、玉石一様ならしめんと、企つるをばひそかにり、独り自身みずから胸を痛めて予防の策を講ずる折から、この度の出来事を好機として、暗に鮫ヶ橋の貧民等と和を整えん予算なりしに、天を怨み、地を恨み、宇宙間の万象を一切讐敵あだとして、世にすねたる神仏の継子等ままッこら、白米一斗の美禄をれず、御使番を取拉とりひしぎてあらわに開戦を布告せり。
 もしそれ下界の阿修羅王、八万四千の眷属けんぞくて、蒼海そうかいを踏み、須弥山しゅみせんさしはさみ、気焔きえん万丈ばんじょう虚空を焼きて、星辰せいしんの光を奪い、白日闇はくじつあんの毒霧に乗じて、ほこふるい、おのを振い、一度ひとたび虚空に朝せんか、持国広目ありとというとも、これよりして多事ならんと、思去り思来たりて、綾子は車上に憂悶ゆうもんせり。
 夫人は瞑目めいもく沈吟ちんぎんして、腕車はいずこを走るやらんしばらくはうつつなり。
「ええッ此奴こいつ。」と度外れの大声に耳を驚かして眼を開けば、梶棒かじぼうをがたりとおろして、「夫人おくさま提灯ちょうちんけますからちょいとどうぞ。」と車夫の吉造、婦人おんなを一人輪の下にかんとせし、ようよう車を踏留ふみとどめ、きもつぶせしむかばらたち、燐寸マッチにあたりて二三本折っぺしょり、ますますいらち、「命知らずの馬鹿者め、何だって往来に坐ってるんだ。おれが腕に覚えがあってうま立停たちどまったればこそ、さもなけりゃ、頭をるか、すねを折るか、どうせ娑婆しゃばの者じゃねえ、そりゃおれだって暮合に無燈火あかりなしも悪かったけれど、大道なかに坐ってる法はねえ。」
 とこすっては消し擦っては消し、ようようけたる提灯の燈明あかりてらせば、煉瓦れんがの塀と土蔵の壁との間なる細き小路に、やつれたる婦人俯伏うつぶしになりて脾腹ひばらおさえ、まりのごとくに身をすくめて呼吸いきも絶ゆげにくるしめり。肩のあたりおわれかかりて、茶褐色の犬一頭、飼主の病苦を憂慮きづかいてそを看護みとらんと勤むるごとし。
 車夫は別に気にも留めず、「へい、お待遠様。」
 と夫人に謝して再び梶棒を上げんとせり。
 綾子夫人は、待てしばし、過日いつか狸穴まみあなほとりにて在原夫人にかかりし事あり。その時かれは病者を見棄てて大きに面目を失いぬ。殷鑑いんかん遠からず、一歩をあやまたば我はた無情の人にならんと、泥除どろよけを叩きて口早に、
「ちょいとお待ち。」
 押留めて、「吉造、見受けた処病気のようだよ。容体を診てやるがい。」「およしなさいまし。この頃は乞食があわれっぽく見せようために、ああやっちゃあだましますよ。」「そういうことをいうものではない。可いから聞いてご覧。」
 とたしなめられて不承々々、「こうこう夫人おくさまのお声がかりだ。あだおろそかには思うめえぜ、どうしたのだな。え、おい、どこか悪いか。」
 悩める婦人は顔も上げず、病苦に声も切れ切れにて、「あいつ、あ痛々々、冷えましたせいか差込みまして……」「ふむ、持病のしゃくか。よくあるやつだ、うちはどこだい。」「はい、家と申しては、……別にどこも。」と呼吸いきの下にて答えたり。
「そりゃ、ござったわ。いやにしんみりと持懸けたな。夫人おくさま油断なさいますな。慈悲を垂れると附上ってなりません。」夫人はこうべを振らせたまい、「またそんなことを。可哀相に土の上では冷えてたまったものではない、行って腕車くるまを雇っておいで、うちへ連れて行って介抱しよう。」けだし思わくのあればなり。
「滅相なことをおっしゃる、飛んでもない、こんな者をお邸へ入れますのは、疫病神を背負込しょいこむとおんなじです。ままよ、癪の虫を揉殺もみころして立処たちどころなおしてやる、まんざら嘘でもないようだ。全体癪の介抱は、色男の儲役もうけやくだが、対手あいてがこのざまではおさまらねえ。手を入れたらしらみつぶすくらいが取柄だ。弱ったな。」
 とつぶやきつつ、提灯差附け凝視みつむれば、身装みなりこそ窶々やつやつしけれ、頸筋えりすじの真白きに、後毛おくれげにおいこぼるる風情、これはと吉造首をひねって、「しっかりせい。」襟よりずっと手を差入れ、「それ、こたえたか。」ぐっとす。
 婦人はあっ身悶みもだえして、仰向あおむけ踏反返ふんぞりかえり、苦痛の中にも人の深切を喜びて、莞爾にっこりと笑める顔に、吉造魂飛び、身体溶解とろけ、団栗眼どんぐりまなこを糸より細めて、「夫人おくさま、こりゃ是非お助け遊ばせ、きっといい人の落魄おちぶれたんです。」
 綾子はうなずき、「早く腕車くるまを見て来ておくれ。」「いえ、今が大事な処、ここで手を放すとってしまいます。」「だって、お前、いつまで道端でそんなことを。これ。」「へい、もう少々。どうも放しにくい。」「早くおしよ。」ときめつけられて詮方せんかたなく一散にいだし、口のうちで、「御自分が独身ひとりみだと思って、ちとお焼芋の方だ。どうもならねえ。」
 室数まかず多けれども至ってひと寡少すくななる深川のやかたは、その夜よりにぎわしくなれり。綾子が厚きなさけにて、ただにかの婦人のみならず、なお彼に附随せる犬をもあわせて養いぬ。
 新らしき食客は、暖かきしとねし、良薬を賜わりて、疾病直ちにえたり。かれもと旗本のむすめなりき、幼にして両親を失い、嫁して良人おっとを失い、人に計られてたからを失い、餬口ここうのために家を失い、軒下に眠ること実に旬余、辛酸を喫してしゃくに閉じられてすでに絶せんとせるとき、綾子のために救われしなり、と渠は語りぬ。
 翌日早朝、犬はいずくにか出行いでゆきて、半日見えず、午後に到りて帰りきたりぬ。
夫人おくさん、好事門を出でずと申しましたけれども、ああ、善きことは致したいもの、これ御覧ごろうじまし。」と三太夫が書斎にもたらしたる毎晩新聞。
 綾子手に採りひらき見れば、深川夫人乞食を救う、と標題みだし圏点けんてんを附してその美徳を称讃し、気味悪きまで賞立ほめたてたり。
 綾子は莞爾にっこり、「こんなに謂われてはかえって迷惑、あの女はどうしているね。」「何かしきりに働いておりまする。」「さいわい、人手もなし、眼を懸けて使うが可いよ。」「はッ、はッ。」
 綾子は急に思出して、独言ひとりごとのように、「あ、御隣家おとなりへ御見舞に上らねばなるまい。」三太夫は呑込顔、「ありゃ、御沙汰止ごさたやめに遊ばされい。大木戸の御前の御病気には、何かその、婦人が一切禁物だと申すことで、小間使が二人、先日宿許やどもとへ下げられました。御台様みだいさまも一間なる処に御籠おこもりの様子。御枕許御用人の衆が羽織はかまで詰めおるげにござりまする。たとえ御見舞にお越し下されましても、なかなか通すことではござりませぬ。よろしく拙者めにおおせ附けられまし。」と真顔でいう。
 綾子は顔をあかめて、「そんなら私は見合せよう、何ぞを見計らっての、其方そのほうがお伺いに参るように。」
 とあれば、「はッ、――はッ。」とお受申して、次の間へ辷出すべりいでぬ。
 深川夫人の廃物利用はすこぶる好果を奏したり。女乞食の掘出しもの、恩に感じて老実まめ々々しく、陰陽かげひなたなく立働き、水もめば、米もぎ、御膳ごぜんも炊けば、お針の手も利き、仲働なかばたらきから勝手の事、拭掃除まで一人で背負しょって、いささかも骨をおしまず。上下をすべて切って廻せば、水仕みずしのお松は部屋に引込ひっこみ、無事に倦飽あぐみて、欠伸あくびむと雑巾を刺すとが一日仕事、春昼せきたりというさまなり。
 渠がこの家にきたりし以来、吉造あか附きたるふどしめず、三太夫どのもむさくるしきひげはやさず、綾子のえりずるようにりて参らせ、「あれ、御髪おぐしが乱れております。お気味が悪くも撫附けましょう。」とは、さてもさても気の着いた、しかも無類の容色好きりょうよし、ただ眼中に凄味すごみを帯びて、いうべからざる陰険の気あり。「ああッ凄い。」と吉造無暗むやみに嬉しがり、三太夫は人相早学はやまなびを眼鏡でのぞき、「なる程、ただものでない相じゃ。」
 日数ひかずれどももとを忘れず、身をへりくだりてよくつかうるまたなき心を綾子は見て取り、一夜あるよそば近く召したまいて、「妙なことをくようだが。……」と言淀いいよどみし声をひそめ「お前、子を持ったことがあるのかい。」
 婦人おんなひややかなる眼をぱっちり、綾子は射られて慄然ぞっとせり。微笑を含みて、「はい、お薬も存じております。」
「嫌なことをいう人だ。」綾子はその無礼を怒りて顔を背けつ、机にりぬ。
 一家声なし、雨蕭々しょうしょう
 翌朝あくるひになると三太夫、婦人おんなを呼附け、言葉も容子ようすあらたまりて、「ひまを遣る。」とやぶから棒。
 婦人おんなおどろきたるさまにて、「何ぞ不調法でもいたしましたか、誠に行届きません不束者ふつつかもの、お気に入りませぬ事がございましたら、そうおっしゃって、どうぞ御勘弁下さいまし。」「何かは存ぜぬが夫人おくさまの御意じゃ、柔順すなおにお受け申して退散せい。」と御家老真四角なり。
 婦人おんな悄然しょんぼり、「もう一度夫人おくさま御執成おとりなし遊ばして、お許されまするよう、恐入りますが、貴老あなたから。」「まかり成らぬ。別に何を毀損こわしたというではなし、ただ御家風にあわぬじゃで、御詫おわびの仕様も無いさ。」「でもございましょうが、そこをどうぞ。」「うんや。」
 と頑としてがえんぜず。
 婦人おんなは気色を変えて、「老爺様じいさん。」
「なにいッ。」と引込ひっこんだ眼を刮出むきだす。
わっしく処がえんだよ。宿無しだッてことはお綾さん承知の上だ。こう、おたなの嫁じゃアあるまいし、家風に合わぬもよく出来た。お国猿め、江戸へ来たらちとものいいに気を着けねえ。」と満腔の毒を一瀉いっしゃしてあびせかくる。
「何と申す!」三太夫は驚きながらも居丈高いたけだか
「行く処が無えというんだよ。」「や、此奴こいつ太々ふてぶてしい、乞食こつじき非人の分際で、今の言草は何だ。夫人おくさまの御恩を忘れおったか、外道げどうめ。」と声を震わし、畳を叩きていきまけば、ニタニタと北叟笑ほくそえみ、「フフン、御恩ゴオンと、ニコライの鐘みたいにいけすかないをお出しでない。御恩だけのことはこっちでもしてある。お前さん、言訳ばかりの小さな眼でも盲目めくらでないから見ていたろう。わっしあね、御飯おまんまを食べるだけはきちんと働いておいたつもり。昔はちょいとした恩義に感じて田舎の御家来が、生命いのちまでも棄てたものさ。ありゃ、主人が狡猾こうかつで、うまく正直なものを操ったのさ、考えてみたがいい。たかがぽんぽちまい少々で命と取換えてたまるものか。私はもとより忠義でないが恩知らずとはいいなさんな。するだけのことをすれば可いのさ。何と老爺様おじいさん一言も無かろうね。」とまくし立てて、ひるむところへ単刀直入、「しばらく足を洗ったために、乞食夥間なかまはぶかれた。面桶めんつう持って稼がれねえ。今この家を出るが最後、人間の干物になります。皆これも夫人おくさん御庇おかげだから、何も彼もそっちが懸合かかりあいだ、飼殺かいごろしにしておくんなさい。」と足を出したる高ゆすり。
 三太夫は胸へ込上げ、老人としよりのあせるほど、気ばかりいらちてものもいわれず、眼玉を据えて口をぱくぱく、あくたに酔うたるふなのごとし。
老爺じじい対手あいてじゃ先行さきゆきがしない。し、直接じかづけ懸合かけあおう。」とふいと立って奥へずかずか。「ま、ま、待ちおれうぬ。」と摺下ずりさがりたる袴のすそふみしだき、どさくさと追来る間に、婦人おんなは綾子の書斎へ推込おしこみ、火桶の前に突立つったてば、振返る夫人の顔と、眼を見合せてきっとなりぬ。「姉様ねえさん談話はなしがある、座蒲団ざぶとんを敷いておくれ。」
おのれはな汝はな。」と武者振附く三太夫を突飛ばして、座蒲団を引張出ひっぱりだし、棒ずわりの[#「棒ずわりの」はママ]膝をくずして、
ちんや猫でも蒲団に坐るよ。柔かい足を畳にじかでは痛いやだね。御免なさいよ。」と帯の間より煙草入たばこいれを抜出して、「ちょいとはばかりですが、そこいらに、煙管きせるは無いかね。」
「やい、不貞腐ふてくされ。」と車夫の吉造、不意に飛込んで、婦人おんなたぶさ鷲掴わしづかみにしてぐいと引けば、顔をしかめて、「あいつ、つつつつつ」とこぶしに手を懸け、「無体な、何をするんだねえ。」
「何も彼もあるものか、様子は残らずあっちで聞いた。夫人おくさま御居室おいまへ踏込みやがって、勿体ない。人も無げなことをしやあがる。愛想の尽きた阿魔ッちょだ。うぬ贔屓ひいきに目がくらんで、今までは知らなかったが、海に千年、川に千年、こうを経た古狸、攫出つかみだしておつけの実にする、さあせろ。」と力一杯。
「ああえらい、お前様まえさんは男だから力があるよ。負けました負けました。おほほほほほ、強い人だね。」と平気で笑えば、吉造少しく拍子抜ひょうしぬけ、「一体うぬあ何者だい、尋常ただねずみじゃなさそうだ。」「あい、わっちあ、鮫ヶ橋で丹という、金箔きんぱく附の乞食だよ。」
 言いもあえず膝立直して、「じゃむこうじゃむこう。」と口笛鏘鏘しょうしょう
 綾子夫人はあおくなりぬ。
(じゃむこう)は召しに応じて、おおいなる顔を、縁側にもたげて座敷をうかがい、飜然ひらりと飛上りて駈来かけきたり、お丹の膝にすり寄れば、もとどり絡巻からまける車夫の手を、お丹右手めてにて支えながら、左手ゆんでを働かして、(じゃむこう)の首環くびわを探り、紙片かみきれを引出して、悠々としわしつ、「そんなにしなさんな、頭痛がすらあね。今出て行くよ、まあ、お待ち、引かれ者の小唄とやらを、ここでちょいと吟じよう。」
深川綾子の先達て、女乞食を救いたるは、廃物を買いて虚名を売り、給金無しの下婢かひを得て奇利を占めんず政略なりし、今また経費を節減せんとて、く処なく帰る家なき女乞食を追出おいいだせり。
「なんとどうでございます。声が悪くって節は附かぬが、新聞種には面白いよ。大方こんな事だろうと、昨夜ゆうべうちこせえておいた。」
 綾子、「それは何です。」
 お丹、「毎晩新聞の材料で、探訪員の原稿です。」
 綾子は太き呼吸いきき、「ああ是非がない。吉造、その手を放しておやり、三太夫、その婦人おんなは私を殺すよ、しかし大切なお客様だ。」

 お丹は勝手次第に綾子の箪笥たんすより曠着はれぎ取出とりいだし、上下うえしたすっかり脱替えて、帯は窮屈と下〆したじめばかり、もすそ曳摺ひきずり、座蒲団二三枚積重ねて、しだらなき押立膝おったてひざ烟草たばこと茶とを当分に飲み分けて、飽けば火鉢のへりひじつき、小楊枝こようじにて皓歯しらはをせせりながら、「こう、お松どん、何か食べてえものは無えか。好んでみや、遠慮は不沙汰だ。なに、鰻丼うなどんだえ、相も変らずだの、五ツ六ツあつらえて来るが可い。大盤振舞をしてやろう。さてとまずお台所お松のかたの召上る物はぐいきまりとなったが、私は何にしよう。鰻のにおいも鼻に附いて食いたくなし、たい脂肪あぶら濃し、天麩羅てんぷらはしつッこいし、口取もあまったるしか、味噌吸物は胸に持つ、すましも可いが、恰好かっこうな種が無かろう。まぐろの刺身は※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびに出るによ。こうだに因ってと、あるよあるよ。白魚しらおをからりッとり上げて、たかつめでお茶漬が、あっさりとしておつう食わせる。可いかい。この辺に無かったら、吉造を河岸かしへ見にやんな。ついでにお茶請の御註文が、――栄太楼の金鍔きんつばか、羊羹ようかん真平まっぴらだ。芝の太々餅だいだいもちかんばしくって歯につかず、ちょいといいけれど、みちが遠いから気の毒だ。岡野のもなかにて御不承なさるか。そうそう藤村の鹿の子が可い。風月堂のかすてらもしからず、引包ひっくるめて二両ばかり買うが可い。それからうちの漬物はさっぱり気が無いの、土用ごしの沢庵、至って塩の辛きやつで黙らそうとはおしが強い。早速当座漬をこせえて醤油おしたじ亀甲万きっこうまんに改良することさ。」と朝から晩まで食ごのみくい草臥くたびれれば、緞子どんすの夜具に大の字なりの高枕、ふて寝の天井のおしに打たれて、つぶれて死なぬが不思議なり。
 綾子はこれを見て見ぬふり、黙許してとがめざれば、召使のものはせんすべなく、お丹の命令に唯々諾々いいだくだく。独り三太夫は御家の滅亡近きにあらんと、夜の目も合わず心痛なし、追放案を提出して、しばしば綾子に迫るといえども、ちと仔細しさいありてと、おおするのみ。心はあかしてのたまわねど、いたくものおもいに沈ませたまい、軽快濶達かったつなりし昨日きのうに似ず、憂鬱ゆううつ沈痛になりたまえば、どうして良かろうと、ご家来も呆れ果ててぞいられける。
 たれ天窓あたまのおさえ手なければ、お丹はいよいよ附上りて、我儘わがまま日に日に増長なし、人を人とも思わぬ振舞、乱暴狼藉言語に絶えたり。
 一日珍しく、在原夫人、深川のやかたに訪れぬ。
 外出好そとでずきの綾子夫人が一室ひとまにのみ垂込めて、「ぱっとしては気味が悪い、雨戸を開け。」といわるるばかり庭のおもさえ歩行ひろわせたまわず。毎夜々々湯を召すさえ物憂く見えたまえば、気鬱きうつ疾病やまい引出ひきいだしたまわむ、何か心遣こころやりすべは無きかとこうべを悩ます三太夫、飛んでで、歓迎よろこびむかえ、綾子の居間に案内せり。
 夫人も大きに喜びたまい、むつまじやかなる談話はなしの花を、心無くも吹散らす、疾風一陣障子を開けて、お丹例のごとく帯もしめず、今起き出でたる風情にて、乱れ姿に広袖どてら引懸ひっかけ、不作法に入来いりきたりて、御両方おふたかたの身近に寄り、突然いきなり匍匐はらばいになりて頬杖ほおづえつき、貞子の顔を上眼にじろじろ。
「綾さん、こりゃどこのお婆様ばあさん。」
 綾子はたまらず、「あれえ!」と血を絞る声を立てられしが、と座を立ちて駈出かけいだし、一室ひとまの戸を内より閉じて、自らその身を監禁せり。
 貞子のかたはいと不興げにそのまま帰らせたまいける。綾子は再び出できたらず、膳をまいらせんと入行いりゆきたる下婢かひのお松を戒めて、固く人の出入を禁じぬ。
 そののち室内沈静にして、些々ささたる物音も聞えぬ事あり、時ありては畳を蹴立ててさわがしきひびきの起る折あり、突然、きいーきいーと悲鳴をあげて、さもくやしげに泣くも聞ゆ。
「ああ、申訳のない事だ、御主人は女性にょしょうなり、わしが一家を預りながら、飛んだ悪魔をお抱えあるをいさめなんだが不念ぶねん至極、何よりもまずこの月の入用いりようをまだ御手許おてもとから頂かぬに、かの悪魔めがくい道楽、通帳かよいで取込んでかりが山のごとし、月末にどしどし詰懸けられると、なんぼむこうが平民でも、華族じゃからって払わぬわけにはかぬ。十重二十重とえはたえに囲まれては、老功な武者でも籠城ろうじょうがしにくいぞ。ええなさけない、お家の没落を見てどうしておめおめと生きておられよう、先殿せんとのへの申訳、まッこの通り。」
 と、三太夫はお丹へのつらあてに、眼鏡を懸けて刀を選出えりだし、座を構え、諸肌脱ぎ、皺腹しわばらつばをなすり、白刃しらは逆手さかてに大音声、「腹を切る、止めまいぞ、邪魔する奴は冥土めいど道連みちづれ、差違えるぞ、さよう心得ろ。」
 と繰返して呼ばわれど、とどめんとするものなし。「なに止められてたまるものか。故障の入らぬ内に、おおそうじゃ。」と切尖きっさきをちょいとてて震上ふるえあがり、「武士が、武士が、」と歯切はぎしりして、ぐっとまでにはならぬけれど、ほんとに突いて、「うわッ、しんだあ。」ときずおさえ、血眼ちまなこになりて、皺枯声しわがれごえを振絞り、「もう一抉ひとえぐりで死にます。この手の動くが最後でござる。ちょいとでもやれば直ちに死にます。ただほんのもう一抉。」と肩で呼吸いき
 障子の外には人気勢ひとけはいして、くすくす笑い、三太夫は大粒の涙ほろほろ、刀をからりと投棄てて、「切った割に血の出ぬは、むむ、今日は血を流すと、荒神様がたたる日だ。やれ六根清浄ろっこんしょうじょう、切腹をする日でない。」と御見合おみあわせ
 もとより親仁おやじが一生の智慧ちえを出したる茶番にて、お丹の心をひしがんためのみ。仕方を見せて見物を泣かせる目算つもりのあてはずれ、発奮はずみで活歴を遣って退け、手痍てきず少々負うたれば、破傷風にならぬようにと、太鼓大の膏薬こうやくを飯粒にて糊附はりつけしが、歩行あるくたびに腹筋はらすじよれて、びっこき曳き、「あいつ、あ痛。」その志よみすべし、(しかし馬鹿らしい。)
 綾子が一室にこもりてより、三日目の夕まぐれ、勝手口の腰障子をぬっと開けて、つら出す男、「姉御あねご、姉御。」と二人づれ
 きたれる二個ふたり眷属けんぞくは三界無宿の非人にて、魔道に籍ある屠犬児いぬころし鳩槃荼くはんだ※(「田+比」、第3水準1-86-44)舎闍びしゃじゃを引従え、五尺に足らざる婦人おんなながら、殺気勃々ぼつぼつ天をきて、右の悪鬼にふすまを開けさせ、左の夜叉やしゃしょくを持たせ、栄華の空より墜落して、火宅の苦患くげんめつつある綾子を犯す乞食お丹、自堕落のてい引替えて悪魔の風采ふうさい凜々りんりんたり。
 綾子は照射入さしいれる燈火に射られて、と叫びて跳上りぬ。
 屠犬児はと寄りて、綾子を捕えて押据えつ。お丹は襖を密閉して、夫人の前にむずと坐す。
 綾子はおとがいを襟にうずめぬ。みがかぬ玉にあか着きて、清き襟脚くもりを帯び、憂悶ゆうもんせる心の風雨に、えんなる姿の花しぼみて、びんの毛頬に乱懸みだれかかり、おもかげいたくやつれたり。
「綾子さん、今私が改めて貴方あなたに御尋ね申したいは、先月の末頃までこの邸に勤めました、お秀という小間使ね、あれはどこへ参りました。」
綾子は震えぬ。
 お丹はきっと居直りて、「ああ、御返事はなりますまい、あの朝、大木戸伯と貴女あなたとが一つねやに居たところを、お秀がうっかり見着けたので、(綾子が、※(始め二重括弧、1-2-54)お言いでないよ※(終わり二重括弧、1-2-55)を繰返して小間使をいましめし、あの件なるものすなわちこれなり。)直ぐその晩小浜照子に刺された事は知っている。あのは幽霊の真似をして人をおどして慰むような剽軽者ひょうきんものではございません。必ず誰かが教唆きょうさして殺されるように仕組んだので、教唆したものは綾子さん、大木戸伯と貴女あなたほかには、私に心当りは無い。もっとも御自分ではなさらないで、お秀がいやをわれぬ者を手先に使ってさせたでしょう。なぜだといえば、あのきているうちは、二人の寝覚ねざめが悪いから、殺した、いや照子に殺させたに違いありません。ほんとうに許されないのは貴女です。人を殺しても守りたいほど、そんなに名誉が大切なら、なぜ不品行ふしだらをなさるんです。年紀としは若し、容色きりょうし、なるほど操は守られますまい、情夫いろおとこが千人あろうと、姦夫まおとこをなさろうと、それは貴女の御勝手だが、人殺ひとごろしをしても仁者と謂われ、盗人どろぼうをしても善人と謂われて、肩幅広く居なさるのが、それが私は憎いんです。一体法網ほうもうくぐるものは、お天道様が罰するはずだけれど、それも片手落な事もあって、北向の家はいつもいつも寒いようでは、あてになったもんじゃない。私が今晩唯今ただいま、貴女を罰してみせましょう。もとよりお秀を教唆そそのかして死地におとしたは貴女という推量ばかりで証拠は無いが、私は検事でもなく、判事でもございません、罪の軽重は論じない。ただ貴女が貴女の心に罪がこれだけあると思うほど、可い加減に罪を受けて、それだけ苦しめば可いのです。もしまた青天白日の御心なれば、平気でいらっしゃればそれで可い。誓って冤罪えんざいはおせ申しません。どれ、そんなら、雲をつかんで、裁判しようか。」
 綾子夫人は半ば死して、半ば器械的に傾聴するのみ。
「それ手を貸しな。」と号令一発。
 かねてより命じけむ、夜叉羅刹やしゃらせつ猶予ためらわず、両個ふたり一斉に膝を立てて、深川夫人の真白き手首に、黒く鋭き爪を加えて左右より禁扼とりしばり三重みえかさねたる御襟おんえり二個ふたりして押開き、他目ひとめらば消えぬべき、雪なす胸のの下まで、あらけなくかきあくれば、綾子は顔をあかめつつ、悪汗おかん津々しんしん腋下えきかきて、あれよあれよともだえたまう。両の乳房を右顧左眄とみこうみて、お丹はなぶり且つあざけり、「ふむ、大分だいぶん大きくなった乳嘴ちくびにぼっと色が着いて、肩で呼吸いきして、……見た処が四月よつきの末頃、もう確かだ。それで可しと、掻合せてやんなよ、お寒いのに。」
 両個ふたりはただちに手を引きぬ。
 綾子は呼吸いきある人形なりき。
「綾子さん、このごろの習慣ならわしで、寡婦やもめ妊娠はらむのは大変な不名誉です。それに貴女あなたのそのおなかは誰の種だか、御自分で解りますまい。大木戸伯のか、百田時次郎、ね、御存じのあの好男子だか、どちらのだか知れますまい。下世話にいえば何とか講だ、恥の骨頂です。お秀の事はさて置いてと、このことを通信して明日の新聞に間に合うように直ぐ(じゃむこう)を走らせよう。深川夫人と名を載せます。」
 綾子は聞くよりあわただしく、「私やもう何にも謂わない。さ、お前に殺されてやる。後生だからそれだけは止しておくれ。」
 お丹は綾子をみまもりて、「おいでなすった。そのお言葉があったら差上げようと、これを用意しておきました。御覧下さい海外旅行券です。交際社会のクインとまで謂わるる貴女あなた、今醜聞を新聞に出されては、とても日本においでなさることは出来まいと思って、私がほんの寸志、これをげますから、外国へおげなさい。そうすればしばらく記事を猶予して上げましょう。そのかわり貴女が横浜を出帆する時、電報を懸けて下さい。それと同時に紙上へ載せます。東京市中はれるばかり風説うわさをしましょう。しかし、もう荒波の音に紛れて貴女の耳には入りません。」と早い手廻てまわし
 綾子はかず、「いいえ、人が私をののしる声はこけの下まで定かに聞える。私の身体からだをお前に遣るから、生爪をいで火でくとも、さかさに釣って干殺ほしころすとも、ずたずたにって肉をくらうとも、血を絞ってすするとも、お前の手で出来るだけのことをして、どうでもして堪忍せよ。」とすずしき御眼おんめに暗涙あり。
 お丹は冷然として、「不可いけません。私は探訪員の義務として、貴女のことを通信するのは、大変な価値ねうちがあるので、今度の新聞材料だねは人の生命いのちが要ったくらい。どうしても堪忍しません。ただ私の謂うことを聞いて海外へいらっしゃい。何なら露西亜ロシアへでもおいでなさいな。」
 綾子はつぶやくごとく、「それでは日本からまるで放逐されるようなものだ。」「まずそうですね。」と冷笑一番、「いやいや、どうしても外国へく気は無い、ではこうしておくれ。今ここで、お前の眼の前で、自……自殺をする。身体からだは死んでしまうから、ただ名誉だけ助けておくれ。」
 と肺肝を絞る熱涙滴然、もって人類の石心をやわらぐべく鉄腸を溶解とかすべし。
 されど悪魔サタンは冷々然、「自殺をするほどの罪があると、貴女の心に思うのなら、いつでもなさいまし。毒薬を飲むの? 咽喉のどを突くの? 笛を掻斬かききる時うしろると、もう、手が利かなくなって死損います。背後うしろから私が抱いていて上げましょう。モルヒネならちょうど死なれる分量を――御存じなくば見積って、私のから飲ましてあげましょうか。」これ鬼言なり。
 綾子は喜べる色ありき。「それではモルヒネ……お前目分量で飲ましてくれるか。」「お安い御用です、いつでも。」「そうしたらあのことを新聞へは出さないだろうね。」と念を推せば、思いも寄らぬ顔色かおつきにて、「いいえ、それはなりません。貴女が自殺をなさればまた一つ新らしい材料が出るから、実に愉快おもしろい。深川綾子はこういう次第で自殺をしたと、その理由わけを書添えて、早速通信をしてやります。(じゃむこう)がまた材料たねのある時は、嬉しそうに尾をっていきおいよくけるんですもの。」その心のひややかなること月を浴びたる霜のごとし、天下の熱血を氷化し得む。
 綾子は再び独言ひとりごち、「それでは死んでも仕様がない。」ああ窮の極、自殺も出来ず、「これ。死……死んでも不可いけないのか。」と最後の運命に問い試む。
 お丹は世に最も深刻なる法官の音調もて、「死は万罪を償うという、うまい御都合には参りません。しかし御心中はお察し申す。それほど名誉が大切なら、なぜあのことを見られた当座に、飛かかって秀を殺してその手を返して咽候のど[#「咽候を」はママ]切って、御自害をなさらなかった。外でもない、貴女の地位は罪を隠すことが出来るので、人殺ひとごろしをして今が今まで、賢夫人の名を保っていたのだ、それそれがごくよろしくない。法律で罰することの出来ないものは、心の鬼に責めさせて、いかさず殺さず、万劫ばんごう苦しめるのが一番良い。」
 綾子は失望の悲声を放ちて、「ええ、どうしても仕様がないのか!」「はい死ぬことさえ出来ません。」
 綾子は茫然瞳を据えて、石に化せるもの数分時、俄然がぜん跳起はねおきて、「ああ、懊悩うるさい。」
 身悶みもだえして帯を解棄て、毛を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)かきむしまげこわせば、鼈甲べっこうくし黄金笄きんこうがい、畳に散りて乱るるすがた、蹴出す白脛しろはぎもすそからみ、横にたおれて、「ええ、悔しい!」柳眉りゅうびを逆立て、星眼血走り、我とわが手に喰附けば、右の無名指に二個ふたつめたる宝石入の指環ゆびわみて、あっと口をおおえるとたん、指よりれて鮮血なまちたらたら、舌を切りぬ。歯をくじきぬ。されども苦痛を感ずるていなく、玉のかいな投出なげいだして、くういだきて胸にめ附け、ニタリと笑いて、「時さん、おお、可愛いねえ。」
 はては衣服を脱棄てて、なまめかしき乳も唇より流るる血汐ちしおみらしつつ、
「御前、誰も見はいたしませんよ。ナニ、お位牌いはいの前だって、貴方あなたもねえ、死んだ夫は近視ちかめでした。」
 魔属もさすがにおもてを背けぬ。
 お丹はながめて平然たり。
 綾子はまた膝を折りて端坐しつ、潸然さんぜんと泣出だしぬ、たちまちきゃっと絶叫して、転げ廻りつくるし※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがき、
「秀、秀、私が悪かった。ああああ、苦しい。たまらない、あれッ、あれッ。」とおどり上りて室内を狂奔せるが、あたかも空中にものありて綾子をつかみて投げたるごとく、仰様のけざまに打倒れぬ。それより裸美人せきとして、大理石の像にたり。
 ただその心臓は音するばかり、波立つごとく顫動せんどうせるに、溢敷こぼれしきたる黒髪ゆらぎて、千条ちすじくちなわうごめきぬ。
 お丹は始終を見物して、「ふむ、狂人になるだけの罪を造った婦人おんなと見える。し。」とつぶやきて、「さあ、帰ろう。」
 門を出づる時、屠犬児いぬころしが、「姉御あんまりだ。」「ひどいじゃねえか。」とその気色を物色うかがえば、自若として、「なにまだ、あんな目に逢わせるのが二三人あるよ。」
明治二十八(一八九五)年七月





底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
   1942(昭和17)年9月30日発行
初出:「北海道毎日新聞」
   1895(明治28)年7月
※「究竟」と「屈竟」、「おいで」と「おいいで」、「わづかに」と「わずかに」、「瘠」と「痩」、「踏込」と「蹈込」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2020年10月28日作成
2022年9月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「さんずい+散」、U+6F75    50-1


●図書カード