わか紫

泉鏡花




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みつぎもの  裏関所  丁か半か  室咲  日金颪  神妙候

御曹子  黒影白気  梅柳


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みつぎもの



 伊豆のヒガネやまは日金と書いて、三島峠、弦巻山つるまきやま、十国峠と峰を重ね、みどりの雲は深からねど、冬は満山の枯尾花、虚空に立ったるいのしし見るよう、蓑毛みのげを乱してそびえたり。
 読本よみほんならば氷鉄ひがねといおう、その頂から伊豆の海へ、小砂利まじりにきばを飛ばして、はだえつんざく北風を、日金おろしおそれをなして、熱海の名物に数えらるる。
 冬季にはこの名物、三日き五日措きに、殺然として襲い来るが、二日続くことはほとんどない。翌日は例のごとく、嘘のように暖く、公園の梅はほんのりと薫って、魚見岬うおみざきにはうららかな人集合ひとだかり。熱海の土地は気候が長閑のどかで、寒のうちも、水がぬるみ、池には金魚がひらひらと、弥生やよいの吉野、小春日の初瀬を写すおもかげがある。
 さてこの物語の起った年は、師走から春の七草かけて、一たびも日金がおろさず、十四五年にも覚えぬという温暖あたたかさ、年の内に七分咲で、名所の梅は花盛り、紅梅もちらほら交って、何屋、何楼、娘ある温泉宿ゆやどの蔵には、ひなが吉野紙のかつぎを透かして、あの、ぱっちりした目で、そっのぞいても見そうな陽気。
 時ならぬ温気うんきのためか、それか、あらぬか、その頃熱海一町ひとまち、三人寄れば、風説うわさをする、不思議な出来事というのがあった。仔細しさいはない、がけの総六が背戸の、日当ひあたりい畑地に、二月の瓜よりもなお珍とすべき、茄子なすの実がりました。
 総六は、崖の、と呼ぶ、熱海の街を突切つっきって、かわらのような石原から浪打際へ出ようとする、かたわら蠣殻かきがら屋根、崖の上の一軒家の、年老いた漁師であるが、真鶴崎まなづるがさきかつおの寄るのも、老眼で見えなくなったと、もうはりさおは持って出ず、昼は人仕事の網のつくろい、合間には客を乗せて、にしきの浦遊覧の船をぐのが活計なりわい
 あだしあだ浪いとまなみ、がらがらと石をいて、空ざまにけ上る、崖の小家こやの正面に、胡坐あぐらを総六とも名づけつびょう、造りつけた親仁おやじのように、どっかりといしきを据え、山からす日に日向ひなたぼっこ、海に向うて朝から晩、暮れると、浪枕、やあ、ころりとせ。
 沖から遠眼鏡とおめがねで望んだら、またたきする間も静まらず、海洋わだつみあおき口に、白泡の歯を鳴らして、刻々島根を喰削くらいけずらんず、怖しき浪のかしらおさえて、巌窟いわやの中に鎮座まします、世に頼母たのもしき一体の羅漢の姿に見えるであろう。
 総六親仁は、最初、この茄子の種をもたらして、背戸へこぼして行ったのは、烏にて翼違い、雉子きじのようでやや小さく、山鳥かと思うとくちの白い、名を知らぬ、一羽の鳥であったという。
 かつその鳥は、小春日の朝、空が曇って、大島が判然はっきりと墨で描いたように見えた時、江浦えのうら、吉浜の空をして、遠く小田原の城の森から、雲の上を飛んで来て、ふうわり、足許あしもとへ来て留った、そこから苗が出来たというのであるが、鳥はこの親仁が、名を知らぬものだったかも計られぬ。
 小田原よりか、函嶺はこねからか、それとも三島、日金の方か、たとい家は崖の上でも、十里は見通し得るはずがない。おもうに、親仁の産神うぶすな彼処かしこであるから、かく珍らしい、伊豆紫の若茄子に、烏帽子えぼしを着せ、狩衣かりぎぬ召させて、一粒種のお鶴という、娘の婿にでもする気であろう。
 暮に取立ての初穂を、まず新しい苞入つといりにして、切火を打って、ここから七里ある、小田原なる城の鎮守、親仁が産神に、謹上つつしんでたてまつる


 師走の末の早朝あさまだきあいの雲、浅葱あさぎの浪、緑のいわに霜白き、伊豆の山路のそばづたい、その苞入つといりの初茄子を、やがて霞の靉靆たなびきそうな乳のあたりにしっかと守護して、小田原まで使をしたのは、お鶴といって、十六の、明くれば七になる娘。
 お鶴は総六の小屋に生れて、そこでこの年まで育ったので、あたかも浪の打附ぶつかって様々に砕くるのが、あさひに輝き、夕陽ゆうひに燃え、月にあらわれ、時雨にかくるる、牡丹ぼたんの花に、雌雄の獅子ししの狂うさまを自然に彫刻きざんで飾ったような、巌を自然の石垣は、二階屋に住むもののれた階子段はしごだんに異ならず。
 まりがはずんでうしおに取られ、羽根が外れて海に落つれば、切立きったてのその崖を、するすると何の苦もなく、かにを捕え、貝を拾い、ななめに飛び、横に伝い、飜然ひらりかえる身の軽さ。小児こども同士が喧嘩して及ばぬ敵の迫る時も、腕白な悪戯いたずら薪雑木まきざっぽで追わるる時も、石垣が逃げ場所で、ぴたりとひそんですがるとそのまま、衣服きものすそのそよそよと、潮に近き唐撫子からなでしこ、手に取るすべはなかったそうな。
 泳ぎはもとより、木もずれば、峰も谷も歩行あるく。
 中にも大島をはるかに望んで、真鶴の浜に対向さしむかう、熱海の海の岸一帯、火山が砕けた巌を飛び飛び、魚見岬にく間、小石さざれいしにも白波や、貝殻にも潮の花。さらさらと、さらさらと、ちらちらと乱れる上を、真珠に似たる爪尖つまさきで、お鶴は七八ツの時分から、行ったり来たり我が庭同様。
 しかも人となるに従うて、天の成せる麗質あり。
 手も足もかばわずに、島の入日に焼かれながら、日金颪を浴びながら、緑の黒髪、煙れる生際、色白く肥えふとりて、小造りなるが愛らしく、その罪のなさ仇気あどけなさも、蝴蝶ちょうの遊ぶに異ならねど、浪打際に岩飛ぶ風情を、土地の者は渾名あだなして、千鳥々々というのであった。
 娘ならば、竜宮のもうしであるととなえても、茄子の種子たね云々うんぬんより、恐らく聞くものは疑うまい。その色の白いばかりも、このあたりに類はないから、人々は総六が自讃する、怪しき鳥の挙動ふるまいにはさもなくて、湯河原の雲をじ、吉浜の朝霽あさばれや、真鶴の霜毛にして、名だたる函嶺の裏関越え、小田原の神に使した、美しき使者をこそ、皆口々にたたえつれ。
 さて、お鶴がその日の扮装いでたちには、頬に浪打つ黒髪を、うなじに結んで肩にかけ、手織じま筒袖つつそで曠着はれぎも持たねば、不断のなり、襦袢じゅばんの襟と帯だけは、桔梗ききょうの花、女郎花おみなえし、黄菊白菊の派手模様。これは湯宿の込合う折は、いつでも手伝いにならい。給仕に出た座敷の客の心づけたものであろう、その上に、白金巾しろかなきんの西洋前垂まえだれ
 この前垂は、さんぬる頃、旅籠屋はたごやの主人たち、三四人が共同で、熱海神社の鳥居前へ、ビイヤホオルを営んだ時、近所から狩催かりもよおした、容眉みめむすめの中にまじって、卓子テエブル周囲まわりを立働いた名残なごりであるのを、白きはものの潔く、清らかに見ゆればとて、親仁が指図で礼服なり。
 芳紀とし正に二八にはちながら、男女おとこおんな雌雄めおの浪、権兵衛も七蔵も、頼朝も為朝も、立烏帽子たてえぼしというものも、そこらのいわおの名と覚えて、崖に生えぬきの色気なし、なりにもふりにも構わばこそ。


裏関所



 父爺おやじの総六が吩咐いいつけのまま、手織縞の筒袖に、その雪のような西洋前垂、せなへ十字に綾取あやどって、小さく結んだ菊模様の友染唐縮緬ゆうぜんとうちりめんの帯お太鼓に、腰へさばいた緑の下げ髪、すそ短こうふッくりと、白きは脚絆きゃはんの色ならず、素足に草履穿占はきしめた、爪尖の薄紅うすくれない石高路いしたかみちを物ともせず、独り早朝まだきの霜を踏む。
 山懐やまふところのところどころ、一帯に産出する蜜柑みかんの林に射入さしいあさひに、金色こんじきの露暖かなれど、岩の突出つきいでた海の上に臨んでは、みちの下をくぐって、崖の尾花を越す浪に、有明月の影の砕くる、冬の朝まだ七時というのに、早や吉浜を過ぎ、真鶴を越して、江の浦さして行く途中。
 灰色の網の中空から斜めにさっと張ったよう、中だるみに四方かっと、峰のけた処がある。中に一条ひとすじ、つるくさ交りの茅萱ちがや高く、生命いのちからむと芭蕉の句の桟橋かけはしというものめきて、奈落へおつるかと谷底へ、すぐに前面むこうの峠の松へ、蔦蔓かずらで釣ったようにずる故道ふるみちの、細々と通じているのが、函嶺の裏関所の旧跡あとである。
 娘はここへ来るまでに、ただその一台を見た、熱海通いの人車鉄道、また人力車など通うにも、上の新道しんみちを行くのであって、この旧道を突切つっきれば、萩の株に狼のふんこそ見ゆれ、ものの一里半ばかり近いという、十年の昔といわず、七八年以前までは駕籠かご辿たどった路であろう。
 もとより恐るる処にあらず。
 娘はかねて聞いて来た、近道をするつもりの、峰の松を目的めじるしに、此方こなたの道の分れ口、一むらすすき立枯れて、荒野あれのの草のうもれ井に、朦朧もうろうとしてたたずむごとき、ふたつの影ありと見えたるにも、猶予ためらわずと寄った。
「ほうい、兎かと思った。吃驚びっくりすら。」
「何だ、人間か。」
 濁声だみごえひとしく、じろりお鶴にまなこを注いだ、霧はなけれど、ぼやけた奴等やつら。そのむら尾花の蔭に二台、空腕車からぐるまきつけて、しゃがんで、畜生道の狛犬こまいぬ見るよう、仕切った形、にらみ合って身構えた、両人とも背のずんぐり高い、およそ恰好かっこう五十ばかりで骨組のたくましい、巌丈がんじょうづくりの、彼これ車夫。
 お鶴も思いがけなかったか、ぴたりと草履を霜に留めて、透かして差覗さしのぞくようにした。尾花は自然の傍示ぐい、アノ山越えて来イやんせ、この谷辿たどって行かしゃんせ、と二筋道へ枯残る。車夫は新道の葉かげから、故道ふるみちの穂ずれに立った、お鶴の姿をきょろきょろと、ためつ、すがめつ。
「よう、合の子だな」
「目が黒い、髪も黒いぞ。」
「フム。」
神巫みこのような娘ッだ。」
 一人、膝頭ひざがしらと向うずね露出むきだした間にうずたかい、蜜柑の皮やら実まじりに、股倉またぐらへ押込みながら、苦い顔色がんしょく
「あの、あの児、あんねえ。」
 と呼びかけられ、ぱッちりとした目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、ゆたかな頬を傾けたが、くっきりとした眉のあたり、心懸こころがかりのない風情。
 他の一にんがこれをうかがい、
「へへ、べらぼうめ、慌てやがって、蜜柑をとがめに来たのじゃねえや。」
 さては盗んだものそうな。
「なあ、あねえ、此方こんたにも一ツろうか、はは、正直に黙っていら。」
「あの、こっちへ来や、ちょっと来ねえ、い相談があるが、どうだ。」


「何だ何だ、蜜柑を遣る。かう死んだ小児がきでも思い出したか、つまらねえ後生気を起しやがるな、打棄うっちゃっておけというに、やい。」
「うんにゃ、後生気どころじゃねえ、ここ一番という娑婆しゃばッ気だ、伝九でんく。」
 とすくすくとひげの生えた、山猫のような口を突出し、対手あいての耳にささやくと、伝九と呼ばれた一にんは、ゆがめて聞いていたつらに、もっての外な、ニヤリと笑む。
「な。」
「そうか、うう、そうか、面白かんべい、へへへへへへ、おい、姉え。」
「待ちねえ待ちねえ、待ちねえよ。」
 すすきの霜に入残る、有明月の消え行くさまのぞいている顔が彼方かなたへ、茅萱ちがやの骨に隠れんとした、お鶴は続けさまに呼び留められ、あえてあやぶむ様子もなく、
「あい、私。」
「おめえだお前だ、お前に限ることだ、なあ、雲平うんぺいおじい。」
「まあ、姉え、ちょっと来ねえよ。」
 雲平なるもの、板昆布いたこぶのような袖口から、真黒まっくろな手を出して、図太くさらえ込む形で手招く。
「何さ。」
 と声も気もかろう、と身をそらしてあゆみを向けた。胸に当てたる白布には折目正しき角はあれど、さばいた髪のすらすらと、霜枯すすきの葉よりも柔順すなお
「よう、妙な扮装かたちだぜ。」と雲おじい、あらためてつくづくながめる。
「だから神巫みこ見たようだというのよ。」
らまた、柱暦の絵にいた、倭武尊やまとたけ様かと思った奴さ。」
 悠々として、いはだけた、膝の皿に牛蒡ごぼうひじで、憎躰にくていな頬杖なり。
 雲おじい、蒼痣あおあざかと、刺青ほりものの透いて見える、毛だらけの脇腹を、蜜柑の汁のきばみついた五本の指で無意味に掻き、
「時に姉え、おめえ、どこだ。」
「熱海なの。」
「は、御花主場おとくいばだ、あんまり見かけねえ。」
車夫くるまやさんは小田原?」
 と、めりはりが判然はっきりして、人見知りはせず、愛々しい。
 伝九うなずき、
「図星々々。」
「その図星だ、一番きゅうとめてえもんだ。」
「まず、じらす内がたのしみよ。」と蜜柑の皮をつかんでは、ほたほたと地板じびた打附ぶつける。
 お鶴は何の気もつかず、
「私は海岸なの、おじさんたちは、お客様を送っちゃ町の旅籠はたごの方へばかり行くんでしょう、だから知らないんだわ。」
 雲おじい頷いて、
成程なッいいわえ、それじゃ水心ありの方だの、こう、姉え、そしてお前どこへ行く。」
「小田原。」
「何が小田原、」
「相談はきまってら。」
 目を見合わせて北叟笑ほくそえみした、伝九、更めて、つら捻向ねじむけ、
「ええ、姉え、ちくとんべい、お前にの。」
己達おらたちが頼みてえ事があるんだ。」
「素直にかねえじゃ不可いけねえぞ。」
 お鶴はすずしい目を下ぶせに、真中まんなかにすらりと立って、牛頭馬頭ごずめずのような御前立おんまえだちを、心置なく瞰下みおろしながら、仇気あどけなく打傾いて、
「頼みッて?」
「おう、姉え、お前の胸にあるものだ。」
「ここへちまけて見せてくんろ。」
 といって伝九郎上目づかい、
「こう姉え、知ってるか、ちょうどお関所にかかるこの道のわかれる処は、ここン処だ。つい今年の三月、熱海へ奉公に出ておった、お前ぐれえな新造しんぞがの、親里の吉浜へ、雛の節句に帰るッて、晩方通りかかっての、絞殺しめころされた処だぜ、なあ、おじい。」
「そうよ、おっかねえとこよの、何でもいうことをかねえじゃあ。」


丁か半か



「へいへいへい、何旦那ちょいとその、洒落しゃれに遣りましたばかりなんで、へい、大した天下を望むような謀叛むほんを起したではござりやせん。」
 雲おじいはまばゆそうな顔をして、皿のげた天窓あたまを掻く。
「全くもちまして、娘ッをどうのこうの、私等わしらア御覧なさりやすとおり、いい年紀としでござりやす。」
 伝九郎は揉手もみででびたびたお辞儀する。
 二人の車夫をきっと見ながら、お鶴をかぼうて立ったのは、洋装した一個中脊の旅客であった。
 濃いあいの鳥打帽、厚い毛皮の外套がいとうを、襟を立てて、顔の半ばから膝の下。鼠のずぼんのすそが見え、樺色かばいろの靴を穿き、同一おなじ色の皮手袋、洋杖ステッキを軽くつき、両個ふたつの狼を前にしつつ、自若たるその風采ふうさい、あたかも曲馬師の猛獣に対するごとく綽々しゃくしゃくとして余裕あり。
 時に真鶴の山中は、当世風の扮装いでたちしたいつのこの旅客を得て、はじめて湯治場へ行く道の、熱海街道となったのである。はじめ、その山、その岩、その霜、蜜柑畑も枯薄かれすすきも、娘の姿も車夫のさまも、浮世に遠き趣ならずや。
「洒落にしろくないな、黙っちゃ通られん洒落じゃないか、乱暴な事をする、可哀相に。」
 といいかけて、半ば隠れて顔は見えぬが、在原業平ありわらのなりひらの目かずらかたおもかげで、あとなる娘を顧みた。
 薄日はしたがまだけぬ、道芝に腰を落して、お鶴はくの字形なりに手を小石。親まさりの爪尖尋常に白脛しらはぎからんだままと横に投出した、肩肱かたひじ処々ところどころ、黒土に汚れたるに、車夫等が乱暴のあとが見えて、鈴かと見える目はすずしく、胸のあたりにはりはあるが、落胆がっかり疲れた様子である。けれども、さして心をいためた趣のあるにもあらず、茅花つばな々々土筆つくつくし、摘草に草臥くたびれて、日南ひなたに憩っているものと、おおいなる違はない。
 自分が手籠てごめになろうとしたのを、折よく来かかってたすけてくれた、旅客に顔を見られたが、直ぐにとこうの口も利かず、鬼にられた使の白鳩しらはと、さすがに翼をあやめたらしゅう、肩のあたり、胸のあたり、黒髪も打揺らぐは、朝風のさそうにあらず、はずんで呼吸いきをつくのであった。
此奴等こいつら、ほんとうに悪い洒落だ。」
 またつぶやくがごとくいう。
 伝九郎苦り切ったつらを上げ、
「でもその全く、へい、洒落に違いはござりやせんので、なあ、おじい。」
「此奴が申し上げる通りでござりやす。」
 しり込みするのを右瞻左瞻とみこうみ
「むむ、まあしかしお前方、素直にそうやって、折れてくれて、お互に幸だ。
 朝とはいっても全然まるっきり、こうやって、前後に人通りのない山路やまみちだ、風体の悪い……おい、悪く聞くな。」
「へへへへへ、どういたしやして。」
 と雲おじい、膝に手を置いて突出した、しりうなじじ向けて、うぬが風体をじろりじろり。
「大の男が二人がかりで、この娘さんを押伏おっぷせようとしているのを見ちゃ、旅空の烏だって、黙って見ては通られないから、私も夢中で飛込んだが。
 しかしだ、朝ッぱら口あけ仕事の邪魔をする、畳んでしまえ、とか何とかいって、むきになってかかられてみたがい。
 別にまた武者修行でも来ればし、さもなけりゃ私だって、お前たちにゃ一人にもかなやしない。一堪ひとたまりもなく谷底へなげられるんだ、なあ、おい、そんなもんじゃないか。」
 今度は伝九郎が、
「どういたしやして、へへへへへ。」


「処を、清く、恐入ってくれたというもんだから、双方無事で、私もおおき技倆きりょうを上げたが、いってみりゃ、こりゃ、お前方のおかげだよ。」
 上衣うわぎの肩の動くまで快げに打笑い、
ついてはお前達が、洒落だという、その洒落が、ちとどうにか、ものになる相談をしようと思うが、一体何の洒落かね、こう見た処、どうもまんざら、この娘さんを手籠めにしようとしたようでもないな。」
 いわれて雲平、
「旦那、綺麗な姉さんにゃ姉さんでござりやすが、から孫みたようなものをつかめえて、色気で、どうこうというわけじゃなかったんで。へい、実は、少々御法度の、へい、手慰みを遣らかしておりましたんで。」
 伝九郎もようよう窮屈そうな腰をした。
「ほんの出来心なんでござりやすよ、この節は、人車鉄道が敷けましたに就いて、こちとら、からッきし仕事といってござりやせん。
 ところが昨日きのう珍らしく、箱根から熱海へ廻ろうという二人、江戸の客人がござりやして、このおじいと棒組で、こうやって二台いてめえりやした。
 小田原を昨日きのう八ツ時分に出ましたんで、熱海へ着いて、対孝館へ送り込みましたが、昨夜ゆうべ、もう十二時ここのつ頃。
 五両と三両まとまった、こくの代を頂いたんで、ここで泊込みの、湯上りで五合ごんつくめた日にゃ、懐中ふところ腕車くるまからにして、土地さとへ帰らなけりゃならねえぞ。どうせ戻り腕車はねえんだで、悪くすると、お客をのせて山ごしを、えッちら、おッちら、こちとらが分際で、一晩湯治のような寸法になりそうだ。一番このまんまで引返ひっかえせと、へい、おじいも気が合って、そこで、もし。
 一膳めし屋で腹をこさえて、夜通し、旦那、がらがら石ころの上を二台、曳摺ひきずって、夜一夜よっぴて山越しに遣って来やしてね。明け方ちょうどここンとこまで参りやすと、それ、旦那。」
 と谷の方を瞰下みおろした、雲おじいもひとしく其方そなたを。
 旅客はかえって、娘をちょいと見たのである。
「お関所でござりやしょう、里心というんじゃねえんだが、妙てこに昔懐しくなりやしてね。」
「へい、私等わっしら、こう見えて、へへ、何も見得なことはござりやせんが、これで昔の雲助でござりやす。息杖で背後うしろへ反っくり返るのと、楫棒かじぼうを握って前のめりにかがむんじゃ、から、見た処から役割が違いやさ。
 ああ、ああ、ここいら、一面に、己達おれッちの巣だったい。東海道は五十三次、この雲助が居ねえじゃ、絵にも双六すごろくにもなるんじゃねえ。いざ、道中となった日にゃ、お大名でも、飛脚でも、品川から忘れねえのは、富士の山と、お関所と、大井川と雲助かい。
 女づれの遊山ゆさん旅に、桔梗一本折ればといって、駕籠をかついだおじさんに渡りをつけねえじゃならなかったに、名物の外郎ういろうは、たまにゃ覚えた人があろか、清見寺の欄干から、韮山にらやまにじを見たって、雲助を思い出す後生ねがいは一人もねえ。
 ものの三十年とたねえ内に、変れば変る世の中だ。どうだ伝九、この、お関所あとを見るにつけ、ぼけた金時じゃあるめえし、箱根山を背後うしろ背負しょって、伊豆の海へ巌端いわばなから、ひょぐるばかりが能じゃあるめえ。ちょうど尾花の背景うしろもある、牛頭馬頭ごずめず眼張がんばりながら、昔のかたを遣ってみべいと、」
「おじいが言うのはわっしの図星。そこで旦那、共喰の手慰み、鉄拐博奕てっかばくちを切ッつけやした。なんこから狐になって、はたいた方が愚に返って、とうとうね、蜜柑の種を勘定しながら、地体お星様は丁か半か、とあけ方の天井へ、一服吹かしております処へ、ひょッくり、その姉さんが来たんでね。」


 おじいかたわらから引取って、
「ええ、旦那、つい串戯じょうだんに、一番ひとつ驚かしてくれようと、おう、姉や、とそれ、雲助声を出しやしたが、棲折笠つまおりがさに竹の杖、小袖の上へ浴衣を着て、ふんどしにもつれながら、花道を出るのと違って、かたなし、おどかしが利きやせん。
 権現様の出開帳でがいちょうに、お寺の門によたれている、いざりほどにも思わねえか、平気で、私かいッてそばへ来るだ。」
「雲助の御威光、こうまでに衰えたか、とあんまり強腹ごうはらだから、ちと凄味すごみに、厭だとかしや、と押被おっかぶせて、それから、もし、あの胸にかけていやす、その新しいつとの中をね、開けて見せろッて申しやした。」
 守護まもりのように、ちゃんと斜めにかけているのを、旅客はまたこの時たのである。
 と同時に、お鶴も俯向うつむいてじっながめた。
「旦那、これがその申上げた洒落というんで、実は、おじいの思いつきでござりやしてね。」
「へい、」
つとからポンと出たとこ勝負、ものは何でも構わねえ、身ぐるみ賭けると、おじいが丁で、わっしが半。」
「姉や、こう開けてくんねえ、というと旦那、てんづけかぶりをふるんでさ。べらぼうめ、どこだと思う、場所が場所だに己達おれッちだ。
 うぬ、その、胸を開けて、出来立ての乳首ちッくびを見せろ、という難題だって、往生しねえじゃならねえわ。つとに入れたは何だか知らねえ、血で書いた起請きしょうだって、さらけ出さずに済むものか、と立身上たつみあがりで、じりじり寄って行きますとね。」
「旦那、魅込みこまれたようにあとびっしゃりをしながら、いやだ、神さまへお初にお目にかけるもんだから、途中で開けることはならないッて申しやす。
 親にも見せねえはだだって了簡りょうけんをするもんか、一体そン中ア何だッて聞きやすとね。
 茄子なすよ、とかすだろうじゃござりやせんか。
 人をつけ、いかに陽気が陽気だって師走空に茄子なすびがあろうか、小馬鹿にしやがる。」
「むっとしやした。そこで旦那が、御覧じやした通りの体裁、や、抜けつくぐりつ、こやの軽いのにゃ飽倦あぐねッちゃって、二人とも大汗になって、トド打掴ふんづかまえ、掛けたのを外しにかかると、俯向あおむけに倒れながら、まだ抵抗てむかう気だ。二人が手とその娘の手先と、胸で指相撲のような騒ぎの処へ、旦那が割込んで来なすったんでね。」
「なあ、おじい。」
「そうよ。」
 といってうなずいたが、
「大したゆきさつじゃございやせんがね、根がそれ、昔の懐しさに、雲助のかたをやッつけた処でござりやすで、いきなり、曲者くせものとか、何とかいって、旦那がギックリとおいでなさりゃ。
 もうかれこれ三十年以来このかたというもの、もがりも、ねだりも、勾引かどわかしも、引落ひきおとしも何にもしねえ。戸籍しらべのおまわり様にゃ、這出はいだしてお辞儀をして、名前のわき生年月うまれねんげつ、日までを書いてある親仁だけれど、この山路に対したって、黙っちゃ引込ひっこまれねえんだ。」
「函根の大地獄が火を噴いて、あしが並木にでもなるようなことがあったら、もう一度、焚火たきび秋刀魚さんま乾物ひものいて、往来へ張った網に、一升徳利をぶら下げようと思わねえこともねえんでね。」
「たかが、今時いまのおめえさん。」
「医者だか、学者だか知らねえけれど、畳むに仔細しさいはねえんだが。
(野暮はよせ、金子かねにせい。)」
「(金子だ、金子だ。)ッてのッけから、器用にさばいておくんなすったで、こりゃ、もし。」
 からりと笑って、
私等わっしらの氏神様だ。」
「へへへへ、南無大明神でいらっしゃる。そこで、ひょこひょこ、それかように、」
 トひょいとこうべを下げた、小田原無宿の太々ふてぶてしさ、昔のさまこそしのばるれ。あら、面白の街道や。


室咲



あぶないこと! 姉さん、もうちっとで、賭博ばくちさいころになろうとした。」
 旅客は娘に引添うて、横から胸を抱くように、うつくしい手袋で、白い前掛を払いながら、親身のいもとに語るごとく、
「ほんとうに、危いじゃないか。あんな無法な奴等だから、それこそ、谷底へでもほうり出されてみたが可い、丁も半もあったものか。姉さんのこの星のような綺麗な目が、飛出してしまうだろう。
 身体からだが大事だ、どんな家だって、たからだって、自分にかえられるものはない、分ったか。」
「はい。」
 といったが小さな声、男の腕に肩をもたせて伏目ふしめに胸に差俯向さしうつむく、お鶴はこの時立っていた。
 日の光は、あからさまに根の見ゆる、草の中へ淡くさして、枯れてしげれるむらすすきは、燈火ともしびの影ぞと見ゆる、薄くれないに包まれたが、二人が立ってせなにした、山の腹は、暖かく照らされて、そこに実った黄金こがねの枝は、露に蜜柑のかおりめて、馥郁ふくいくとして滴る気勢けはい
 朝晴のあおき大空は、軽いがこうべに近いよう、彼方かなたにごろごろと音がして、黒きかたまりの緩やかにうねり畝り、遠ざかり行く、車、雲助、その行くあたりちらちらと、白い雲の動いて見ゆるは、狭間はざまに漏るる青海原あおうなばら、沖にしずかかもめの波。
「さ、もう可い、もう可い。」
 旅客は腕車くるまを見送りながら、お鶴のちりを払ったあとを、せなか一つ撫でて離れ、
「怪我はせんか、どこも痛みはしないかな。」
「はい。」
 とやや判然はっきり答えて、お鶴はむッくりした清らかなひじを、頬に押当てる姿して、倒れた時の土を見た。
 その時まで、雲助どもの乱暴を、打腹立うちはらだってねたるさま、この救いに対してさえ、我ままに甘えてくねるか、捗々はかばかしく口も利かずにいたのであった。
 肱を曲げたまま、瞳をくるりと、花やかに旅客を見向き、
「どこも何ともないのよ。」
「その手は。」
外套がいとうの襟の上に、凜々りりしい眉をひそめていった。
「いいえ、痛みはしませんの。私、だって、私、突倒されたんですもの、口惜くやしいわ。」
 急に唇をきっと結び、笑くぼを刻みながら涙をこらえて、キリリとなら皓歯しらはの音。
 旅客は洋杖ステッキを持った手を拡げて、案外、とみまもったが、露に濡れたら清めてやろう、と心で支度をするていに、片手を衣兜かくしに、手巾ハンケチを。
 やがて、くもりは晴れたのである。
 涙の名残なごりは瞳のつや莞爾にっこり打微笑うちほほえみ、
「二人とも強いんですもの、乱暴ッちゃありゃしない。」
「いや、お前の方が乱暴だ。道理こそ、人殺ひとごろしとも、盗人とも、助けてくれとも泣かないで、争っていたっけが、お前、それじゃ、取組み合う気でかかったのか。」
「はあ、喧嘩したんです。私、喰いついてやったり、引掻ひっかいたり、一生懸命だったんです。でも負けたわ。」
 と勇ましくいいかけたが、フトそのお転婆をきまりの悪そう、お鶴がおもはゆげに見えたのは、案内記には記さぬ不思議。
 わざとたしなめる口ぶりで、
当前あたりまえだな、途方もない。」
「でも、そうしないと、無理に、あの、そのつとを。」
 その苞は、ここにこの娘の胸に、天女が掛けた羯鼓かっこに似ていた。
「捕られて、中を見られるんですもの、あんな奴に見せるのは厭。」
「だから、だから今そういって聞かしたではないか。
 どんな大事のものだって、身体からだと取っかえこにしてなるものかな。
 このさきもある事だよ。」


「はい。」
 とばかり不承不承、返事も恩人なればこそ、けひく気色はちっともない。
 旅客は再び、差寄って、
「よ、ほんとうに気を着けなよ。
 今の車夫もそういったが、お前何か、それを持って小田原まで行くんだというではないか。
 気にかけないものだというと、瞽女ごぜ背負しょった三味線箱、たといお前がわらづつみの短刀を、引抱ひっかかえて歩行あるいた処で、誰も目をつけはしないもんだが。
 そうやって、人に見せまい、必ず手をつけさすまい、とかくしているだけ、途中何となく気が寄って、まあ、魔がさすとでもいうものか、思いがけない邪魔が入る。
 またこのさき、どんな事で、誰が見ようとしないとも限らない、――その時だ。
 今のように、身体からだかばって、とんだ怪我でもしちゃ不可いかん、気をつけるんだよ、きつと[#「きつと」はママ]いいか、分ったかね。」
 熱心に教えながら、お鶴の姿を左から、右へぐるりと一まわり
 その歩行あるく方へ瞳を動かし、ぱちり音するかと二ツ三ツ瞬いて聞いていた。
「じゃ、あの、見せろッていいましたら、出してもくって? 貴下あなた。」
「可かろうとも。」
「神様に見せない前に。」
 と口早に附け加えた。
「神様に。」
「ええ。」
 その顔を上げた時、はらりと顔にこぼれかかる、びん[#「びんの」はママ]毛を、指に反らして払い、
孔雀くじゃくみたいな、あの、翡翠かわせみみたいな、綺麗な鳥が来て、種をこぼして行きました。
 小田原の神様が、おとっさんに、こしらえろッていったんですって。
 ですから、あの、これは神様のものなんでしょう。」
 見詰めつついう気構きがまえに、さからわず打頷うちうなずき、
「そうか、神様のものか。むむ、そして、つとの中は茄子なすびだといったが、まったくかい。」
「は、お初穂を上げに行くんです。あの、これが小さな、紫色の苗になりましてから、白髪しらがのおとっさんが、あのね。
 死んだおっかさんが着ていました、桃色のきれだの、浅葱あさぎの切だの、いろいろ継合わしたちゃんちゃんこを着ちゃ、背戸へ出て、十国峠へ日が昇るの、大島へ月が入るの、幾度見たか知れないの、丹精して出来たんですもの。
 おかしくッてねえ。だって鳥の羽みたいな五色のをて、おとっさんは、種を持って来た神使鳥つかいどりのようじゃなくッて。
 それから今度、おつかいに持って行く、私だって……何なのよ。
 過日こないだッからお精進をしたんです。今朝は、髪を洗って、あけ方お湯を貰ったんです。
 すっかり身体からだを清めて来ました。」
 さらぬだにこの風采ふうさいを、まして、世に、かくまで清きひめやある。
 旅客は恍惚うっとり、引入れらるるさまであった。
「それを、それを、あの、だって、大事にして見るんなら、まだ何ですけれども、賭博ばくちの目に、よもうッていうんですもの。
 私、殺されても見せないんだわ。」
 しばらくしておも正しゅう。
「もっともだ、至極そのはずだ、成程。
 昨日きのう通りがかりに、小田原の鎮守のやしろへ、参詣さんけいをして来たが、御城の石垣の白いのが、鶴の巣籠すごもりのように見える。しんとして、神寂かみさびた森の中の、小さな鳥居に階子はしごをかけて、がさり、かさこそと春の支度だろう。輪飾わかざりを掛けていたっけ。
 神主のその顔が、おおきな猿のように見えて、水干烏帽子すいかんえぼしを着ていたのが、何となく神々こうごうしかった。
 誠は神に通ずとやらいうから、大方神様の方でも、姉さん、お前の行くのを待っておいでなさるんだろう。けれどもだ。」
 日はまたかげって尾花白く、薄雲空に靉靆たなびく見ゆる。


「小田原の神に、たましいがおあんなさればなおの事、捧げられる供物、お初穂が、その品物のために、若い娘の身に、過失あやまちのあることをお望みはなさりはせん。
 な。」
 と再び肩に手を。
「こんな可愛い姉さんにするまでに、第一お前のおとっさんの、丹精を思って御覧……幾歳いくつだ。」
「六。」と低声こごえである。
「六? 十六か、それまでにゃ、それこそ、その十国峠に日の出るの、大島に月の沈むのを、幾たび見たか知れやしない。
 だ、いうことをいて、身体からだを大事にしなけりゃ不可いけないよ。まったくだ、はるばる使に来てくれる姉さんを、小田原のお宮でも、どんなに御心配だか知れやしない。」
 背掻せなかでて、もの優しく、
「分ったか。」
「はい。」
 旅客は勇んで口軽に、
、佳い娘。」
「じゃ貴下あなた。」
「むむ。」
「もしか、あの、今度のような事がありましたら、出して見せてもくってね。」
「可いともさ。」
「なに、それでは貴下のおっしゃることは、神様の心とおんなじなの。」
同一おなじだとも!」
 お鶴は何かいそいそして、
「だから私がひどいことされようとした時に、助けに来て下すったんだよ。神様ねえ、神様ですねえ、貴下は。」
 と、つかつかと擦り寄ると、思わずたじろいで退しさったが、
「ああ、神様だ。」
 いった声に力がこもって、ついたステッキさきかすかにふるえた。娘のための方便ながら、勿体なくや思いけむ。と見るとまぶたに色を染めて、あわただしげにいい直した。
「お前にだけは神様です。」
「ではね、途中でまた誰かにつかまるとね、今度は私、素直に見せてやりましょう。
 それでもね、あの、お宮様へ行かない前に、他所よその人に見せるのは口惜くやしいんですから、私、貴下にお目にかけるわ。」
 とて、直ぐに手を、胸なるつとの両端へ。
「お待ち、待て待て。」
 急におさえたが、黙って、しばらくして、目の色が定まった。
「見せてくれるか、じゃ、見よう。熱海の公園は咲いたろう、小田原でもつぼみを見た、この陽気。年内からもう春だ、夢に見てさえ可いというもの、どれ。」
 手巾ハンケチを引出して、根笹ねざさは浅く霜をのせたが、胸に抱いたら暖かそうに、またふッくりと日の当る、路傍みちばたの石一個ひとつ、滑らかなおもてを払うて、そのまま、はらりと、此方こなたへとて。
 浅葱あさぎひもは白いえりから、ふさふさとある髪をくぐって、つとは両手に外された。既にその白魚しらおの指のかかった時、雪なすきぬの胸を通して、曇りなき娘ののあたりに、早や描かれて見えるよう。
「可愛らしくッて、綺麗ですよ。」
 薄紫の花一輪、べに珊瑚さんごに、深みどりの、海の色添う小さな枝、実は二ツついたりけり。
 旅客もステッキをたてかけて、さしむかいに背をかがめ、石を掻抱かいだくようにして、手をついて実をながめたが、まなじりを返して近々と我を迎うる皓歯しらはを見た。あわれ、茄子なす、二ツ、その前歯に、鉄漿かねを含ませたらばとばかり、たとえんかたなく※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけて、初々しく且つなまめかしい、唇を一目見るより、と外套の襟を落した。美丈夫とえんなる少女は、ふと飛立つように身を起した。
 娘の髪にも旅客の肩にも、石の上なるみつぎにも、ひらりとしたは鳥の影。
 仰いで空を、かっとしてにも見えず、お鶴耳許みみもと、まぶちのあたり、日はくれないに燃ゆるよう。

十一


 轟々ごうごうと音がして、背後うしろの山の傾斜面を、途端に此方こなたに来るものあり。
 罪を鳴らす鼓か、と男はあわただしく其方そなたを見た。あらず、人車鉄道の、車輪隠れて、窓さえ陰、ただ、橙色だいだいいろつらなった勾配のない屋根ばかり、ずるずるといて通る。
 それが蜜柑の木のあわい。しかも会社が何週年かの祝日にやあたりけむ、かかる山路に、ひらめく旗、二にんかたにそよそよとなびいて、天うららかに祝える趣。
 と見る見る頂から下り道、真鶴あたりの樹立こだちこずえ、目の下の森をさして、列車はさっ逆落さかおとし、風にあやあるあか、白、あお、いろいろの小旗の滝津瀬、ひらひらと流るるさまして、青海さして見えなくなる。
 娘はそれを見送るように、真うしろにもと来たかた、男に背を向けてぞ立ちたる。
 さて旅客は、手ずから包をもとのようにして、しずかに提げてお鶴のそばへ。
 黙って背後うしろから、とそのうなじにはめてやると、つとは揺れつつ、旧の通りにかかったが、娘は身動きもしなかった。四辺あたりにはたれも居ない。
 とながむれば、その浅葱あさぎの紐が、丈なる髪を、肩のあたりで仕切ったので、乱れた手絡てがらとは風情異り、何となく里の女が手拭を掛けたよう、品を損ねて見えたので、男は可惜あたらしく思ったろう。
 手袋の一ツをはずして、手を、娘の、びんの下に差入れた。おのずからならぬかおり、襟脚の玉暖かく、と血の湧いた二の腕に、はらはらと冷くかかった、黒髪の末つややかにひるがえり、遮るものはなくなった。これにも娘はじっとして、柔順すなおに身をまかせていたのである。
「じゃあ、気をつけてくんだよ。」
貴下あなたは熱海へいらっしゃるの。」
「ああ、そうさ。」
「今の人車だと訳はありはしませんのねえ。歩行あるいて行っては大変ですわ。」
「お前こそ、女の足で随分じゃないか。」
「いいえ、車なんか危なっかしくッて不可いけません。ずんずんけ出して行って来るの、何とも思いはしませんよ。」
「私も実は人車はあやまる。屋根は低いのに揺れると来て、この前頭痛で懲々こりこりしたから、今度は歩行あるくつもりで、今朝小田原からたって来たが、陽気は暖かだし、海端うみばたの景色はし、結句暢気のんきで可い心持だ。しかし私は片道だが、お前は向うで泊るのかい。」
「あの、おつかいをして、直ぐに今日帰るんです。」
「ざっと行きかえり十四五里、しかもこの山路やまみちを、何だか私は、自分の使いにでも遣るようで、気の毒でならんのだ。」
 娘は嬉しそうに……何にもいわず。
「しかし、神ごとだというんだから、今の雲助とは訳が違って、金銭ぜにかねずくでは仕方がない、じゃ、これで別れるよ。」
「…………」
 男は再び、深く外套の襟を立てた。
「御苦労だな。」
 といたる洋杖ステッキきびすを返した霜路しもじの素足、しずかに入れちがって、北と南へ。
「おお。」
 心着いて旅客はまた、うなだれてく娘を呼んだ。
「ちょいとお待ち、大切なことを忘れた。折角、その珍らしい、めで度いものを見せてくれたに、途中だ、礼の仕ようがない。心ゆかしにこれを上げよう、これでもここらにちらばった落葉朽葉よりいくらかまし、志は松の葉だ。
 さあ、手帳がある、それから鉛筆、これはね、お前の胸にかけたものと、同一おなじ紫の色なんだから。」
 渡すを、受ける、じっと手を、そのまま前垂の胸に入れて、つッと行く白い姿、兎が飛ぶかと故道ふるみちへ。此方こなたは仰ぐ熱海の空、さっと吹く風に飜って、紺の外套の裾があおった。
 ケケコッコ――こだまに響くとりの声、浦の苫屋とまやか、峠の茶屋か。


日金颪


十二


「へい、夫人おくさま真平まっぴら御免下さりまし、へい、唯今ただいまは。」
 毛は黒いが額は禿げ、面長おもながな、目はまろく、頬の肉は窪んだけれども、口許くちもと愛嬌あいきょうある、熱海の湯宿伊豆屋の帳場に喜兵衛といって、帳面とともに古い番頭。
 と按摩あんまが御用を聴く形、片手を廊下へ、そっと障子。
 中は八畳に寝床を二ツ、くくり枕のかたわらには、盆の上に薬の瓶、左の隅に衣桁いこうがあって、ここに博多の男帯、黒縮緬ちりめんの女羽織、金茶色の肩掛ショオルなど、中にも江戸づまの二枚小袖、藤色にもすそいて、かさねたままの脇開わきあけを、夜目にも燃ゆる襦袢じゅばんの袖、すそにもちらめく紅梅に、ちらりと白足袋が脱いであり。
 そのうしろなるふすまの絵の、富士の遠望とおみに影をとどめて、藻脱もぬけの主は雪のはだ空蝉うつせみの身をかえてける、寝着ねまき衣紋えもん緩やかに、水色縮緬の扱帯しごきおび、座蒲団に褄浅う、火鉢は手許に引寄せたが、寝際に炭もがなければ、じょうになって寒そうな、銀の湯沸ゆわかしの五徳を外れて、ななめに口を傾けたるも旅の宿のわびしさなり。紫紺の紐は胸にあれども、結ばず、かすりの書生羽織をかぶったようにひっかけた。厚衾あつぶすま二組に、座敷の大抵狭められて、廊下の障子におしつけた、一閑張いっかんばりの机の上、抜いた指環ゆびわ黄金きん時計、懐中ものの袱紗ふくさも見え、体温器、洋杯コップの類、メエトルグラス、グラムを刻んだはかりなど、散々ちりぢりになった中に、しなやかにひじをついて新聞を読む後姿。
 やや傾けたる丸髷まげかざりの中差の、鼈甲べっこうの色たらたらと、打向う、洋燈ランプの光透通って、かんばせの月も映ろうばかり。この美人たおやめは、秋山氏、蔦子つたこという、同姓たもつの令夫人。芳紀としの数とややひとしい、二十五番の上客である。しがみ着いてりかかった、机の下で、前褄を合せながら、膝を浮して此方こなたを見向き、
「番頭さん?」
「へい。」
 お辞儀、つい目の前に居られたので、向うへ頭を下げるゆとりがなく、おとがいを引込めて手をいた。
「さあ、お入んなさい。今日はまたどうしたのか、大変に寒いのね。」
 と火鉢の上に、白やかな手をかざした。
「どうもこの、日金颪ひがねおろしが参りますと、熱海は難でござりまする。まあ、夜分になりましてからいい塩梅あんばいに風もちとぎましてござりますが、朝ッからの吹通しで、そこいらへ針がこぼれましたように、ちくちくいたしますでござります、へい。
 つきましてでござりますが、ええ、夫人おくさま、唯今はどうも、とんだお騒がしゅう、さぞまあ吃驚びっくり、お驚き遊ばしましてござりましょう。いや、とんだ事で。」とちと渋面。
 令夫人、手をみながら婀娜あだに肩を震わして、
「まあ、閉めて此方こちらへお入りなさい。」
「それでは御免をこうむりまして、や、こりゃ、お火がしのうなりました。」
 ぽんぽんぽんと手をつ。早や初夜過ぎのしんとして、四辺あたりへ響いたが返事がない。
「もうござんす、床を取ってしまったから。何ね、炭を継ごう継ごうと思いながら、つい懐手をすると不精になるんです。急に寒いもんだから恐しくいじけてしまって。」と火箸を取ってしなよく微笑む。
「さぞお身体からだに障りましょう。時に。」
 中腰で四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわし、
「旦那様はお風呂でござりますか、お塩梅はいかがでいらっしゃいます。」
「どうもね、こう寒いとじきに障ってなりません。つい今しがた蒸湯へおいでなさいました。大方今夜は一晩でしょう、せきひどくって、寝られないで困りますよ。」
 と、しめやかにいうのであった。
「ですが一番よろしいそうで、旦那様のような御病体は、是非その、蒸湯に限ると申します。しかし地の下の穴蔵のような処でござりますで、なおの事、吃驚びっくり遊ばしたでござりましょう。何しろ、大地震でござりますから、いや、はや。」

十三


「ほんとうに、騒ぎだったのね。」
 夫人は落着いたもののいいよう。
 喜兵衛番頭、せき心で口早に、
「だッたの、なんのとおっしゃって、熱海中ひっくりかえるような大事おおごと、今にも十国峠が、崩れて来るか、湯の海になるかという、えらい事でござりました。貴女様あなたさま夫人おくさまは。」
「私はどうもしやしなかったよ。」
「何か早や夢のよう、この世のことか、前世のことか、それとも小児こどもの時のことでござりましょうか。先刻さっきの今が、まるで五十年昔あった、火事か大洪水おおみず、それとも乱国、戦国時分かと思われますような、いやな、変な、すごいような、そうかと申すと、おかしいような、不思議なような、さればといって、また現在目の前にちらついておりますような、妙な心持でござりまして、いや、もう、この大地震は忘れましても、道具の、出たり引込ひっこんだり一件は、向後きょうごいくつになりましても、決して忘れますことではござりません、と申しあげます内も、ぞッといたしまして、どうもこの、」
 床の間のあたりが陰気に暗い。
 喜番、据腰すえごしに手を突き出し、真顔に天井を仰ぎながら、
「魔のせいでござりましょう、とな、みんなが、内々申合っております次第で、へい。
 そこで夫人おくさま
 かねてお聞及びの、あの、崖の総六と申します親仁おやじとこの不思議な一条。」
 これは聞えていたと見え、
「ああ、あの、お茄子なすの事ですか。」
「その儀、その儀にござりますが、へい、何か見馴みなれません綺麗な鳥が、種をこぼして行ったと申して、熱海中の吉瑞きちずい神業かみわざじゃと、みんなが、大抵めでたがりました事でござりますが、さてこうなってみますると、それが早や魔のわざで、種をくわえて来ましたのは、定めし怪鳥けちょうぬえじゃろうかに手前どもが存じまする。
 一体当地にこの春大地震があると、口を合わせましたようにいい出しましたのも、根はその総六がとこ茄子なすびから起りました事。
 何しろ、暮の内から御覧の通り、師走の二十日はつか前後に、公園の梅が七分咲きで、日中綿入をかさねますと、ちと汗が出ますくらいでござりました。
 それも当熱海の事でござりますから、さまで不思議とも存じません。畢竟ひっきょうは冬向暖いのを取柄に、湯治にいらっしゃりますわけで、土地の自慢とも存じたでござります。
 その内に崖の総六が背戸の畑に、茄子が生えたと申すので、はじめは誰もほんとうにはいたしませなんだが、立派に紫の花が咲いて、霜除しもよけに丹精した、御堂のような藁束わらづかの中に、早や小指ほどなが一体。
 茄子殿を一体も、異なものでござりますけれど、親仁が神事かみごとじゃと申すので、位がつきまして、その、一体おりなされた、などと見て来たものが申しますで、余り陽気違いじゃが。
 一富士二鷹三茄子と申す儀もあり、むかし聖人のには冬向き出来たものであろう、めでたい、と申す内に、御初穂を取りまして、お鶴ってその親仁の娘が。
 はあ、はあ、旦那様も夫人おくさまも御存じ。あの鳩のようなうつくしい目をした、さよう。手前などへも、手のります時は、ちょいちょいお給仕の手伝いに参りますが、腕白でな。
 その癖、熱海一という別嬪べっぴんでござりますが、から野鳥のどりでござりまして、よく御存じでいらっしゃらないで、悪く御串戯ごじょうだんをなさるお客様は、目潰めつぶしの羽ばたきをされてお怒りなさります。またよく御承知の方は恐ろしく御贔屓ごひいきで、あの娘の渾名あだなが通りました、千鳥の一曲、所望じゃなどとおっしゃりまする。
 それが、使ではるばる小田原の総鎮守、城の森のお宮まで、暮に持って行ったでござります。十四五里日帰りにいたしまして、へい、何、そのくらいの事は、あの娘にゃわけなしで、手前どもが朝飯を頂きます時分、もう真鶴を越して、お関所にかかりましたという話。
 これは帰ってから手前どもへ参った時、ききましたのでござりますが。ええ、首尾よくお宮へ献納いたして、ひとつ、この度、何々して奇特の段神妙候、藤原の何某なにがし、びたりと判の据わった大奉書をいただいて、崖へ戻りますと、それから、皆様へお目にかけますというので、娘がいつも世話になります、湯宿々々の主人のとこへ、一ツずつ九軒ばかり、ずらりと配りましたのでござります。」
 ここで番頭苦笑一番。
「どこの主人も慾張よくばっておりますから、大層縁起がって、つるりと鵜呑うのみ。地震の卵と知れてからは、何とも申されぬ心持。」

十四


「中にはことわざにも申します、一口茄子なすてやるは可惜あったらもの、勿体ないと、神棚へ上げて燈明みあかしの燈心をふやしまして、ほほう、茄子ほどな丁子ちょうじが立った、と大層縁起がっていたのもありまするそうでござりますが、さあ、それが大地震の前兆だとなると、不気味千万。
 取棄てようにも、下そうにも、揺れ出しそうで手がつけられませず。そうかといって、そのままにしておけば、それなりに転げ落ちて、そこから大地がれるだろうと、愚にもつきませんが気が寄って取越苦労、昇天する蛇玉じゃだまでも祭籠まつりこめたように、寝る間も気扱いをしましたそうで。
 手前主人などは、その鵜呑みの方でござりましたから、腹の中をくるくる廻って、時々咽喉のどへつかえると、癪持しゃくもち同然。そのたんびに目を白ッ黒いたして悩みましてござりまする。」
「いかなこッても、ほほほほ。」
「へい、いえ、それでも貴女様、なんしろこの騒ぎをいたそうという前兆でござりまするから、風説うわさをほんとうにしましたぐらいは、何でもござりません。
 そうかと思う、しるしを見せて下すった、天道様の思召おぼしめしじゃ、まんざら、熱海を海になすって、八兵衛だい、理右衛門がれい、鉄蔵ふぐ、正助章魚だこなんぞに、こちとらを遊ばそうというわけでもあるまい。
 してみれば、この茄子は、災難よけのお守護まもりだ、と細かに刻んで、家中うちじゅう持っておりましたとこもござります。
 それがと申すと、はじめは瑞祥ずいしょうだと申しましたのを、娘が奉納して帰りました時分から、誰いうとなく、この春は大地震がある、大地震があるといい出しまして、手前なんざ、一日に五六たび、違った人の口から聞きましたのがはじまりでございまして。
 ええ、最初、やはりあの竹でござりました。番頭さん、この頃に大地震がありますッてね、と帳場へ来て申しますから、何を馬鹿な、と気にも留めませんで、それから二階の六番へ。
 ちょうどこの上のお座敷でござります、そこへ機嫌ききに参りますると、六十五になる御法体ごほったいの隠居様。番頭どのや、厭な風説うわさがあるの、今湯殿で聞いて来ました。三人が五人、みんな大地震があるといっておられたが、とこうでござりましょう。
 へい、いいえ、一向に存じません、さようなことが、と申したものの、ちと変な気になって、下へ下りますと、暖簾のれんから、内のおかみさんが半分からだを出していなすって、喜兵衛や、湯の熱さにかわりはないかい、大地震があるというから、と屈託そう、ちと血の道な処、青ざめておいでなさる。
 そこへ勝手口から、魚を仕入れて来た金公と申します板前が、大変な風説うわさです、地震の前で海があおっと見えまして、この不漁しけなこと御覧じやし、かきあわび、鳥貝、栄螺さざえ、貝ばかりだ、と大呼吸いきをついております。
 私は肥満ふとっているからげられぬ、と鍋釜なべがまの前で貧乏ゆすり。
 処へ、毎朝海岸まで、お太陽さまを拝みに行きます、旦那が、出入りの賀の市という按摩あんまと、連立って帰りました。
 門口かどぐちで分れる時、お互だ、しかし、かえってお前のような不具かたわが無事に助かるもんだ、とこういって台所へ。
 喜兵衛出て見ろ、何と妙な日の色だぜ。
 さあ、こうなると、がッがあッと、昼夜に三度ずつ、峠の上まで湯気が渦まいて上ります、総湯の沸きます音が物凄ものすごうなりましたわ。
 気のせいか、熱湯を引いてあります土間を踏むと、足の裏が焦げますようなり、魚見岬へ水柱が立ったといえば、誰が乗るともなく、船がずんずんぎ出して行く、影法師が見えるといいます。
 土地の人気にかかわるからと、なりたけはお客様に、かくしておくにゃおきましたものの、七草が過ぎます時分から、もう、ちらほら、そのために、たってお帰りになりますのが、手前どもばかりじゃござりません、あちらに二組、……こっちに三組。」

十五


「またそうまでにはなさらぬお方も、いざ、という時の御用心に、手廻りのものなんざ、御寝げしなります時、枕許まくらもとへお引きつけ遊ばしてお置きになります始末。
 そうでもござりましょうか、――先刻さっきの騒動の最中、この家ならびで二軒さきの玉喜屋の表二階で、仁王立になって、ばらばら、ばらばら、大道へ品物を投げ出していた方がござりますそうな。
 へい。」といったまま、きょとん。
「だって、地震だって、恐しい騒ぎだけれど、ちっとも揺れもどうもしないんだもの。」
 喜番、呼吸いきをつめて、ややあって、
成程なあッ。」
 といい、
「でござりますな、そこでござりますな、いかにも揺れはいたしません。また根もない地震に、大地が揺れたり、三階建がぐらついたりしてはたまったものじゃござりません。
 けれども夫人おくさま、貴女様は、ちゃんとここへ、魂が落着いておいでなさりますからで。
 どうして手前なぞは、そりゃ地震、と聞いたが最後。
 先刻、あのさわぎの時は、帳場に坐っておりましたが、驚破すわというと、ただかっといたして、もうそれが、の底だか、天上だか分りません。
 天窓あたまがぐらぐらとすると、目がくらんでしまいまして、揺れるか、揺れんか、考えておりますようなゆとりはないのでござります。
 主人は真先まっさきに、戸外おもてへ、鉄砲玉のように飛出しました。おかみさんも、刎起はねおきて、突立つったったにゃ突立ちましたが、腰がふらついて歩行あるけませんので、大黒柱につかまって、おしッこをするように震えています。手前は、その、……四這よつんばいに這いました。
 座敷々々のお客人も一時いっとききましてな、一人としてじっとなすっていらっしゃったお方はないので、手前どもにゃ僥倖しあわせと、怪我をなすった方もござりませんが。
 それでも竹、へい、あのいきがった年増としまの女中でござります。あれは貴女、二階のしち番からおぜんを下げまして、ちょうど表階子おもてばしご下口おりぐちへかかりました処で、ソレ地震でござりましょう。ドンと腰を抜きました拍子に、トントントントンと、一段ずつ俵が転がったように落ちたでござります。どういう拍子か、背中を強く擦剥すりむきまして、きゅうのあとから走るように血が流れたんで、二ツに裂けたという騒動、もっともひきつけてしまいました、へい、何、別条はござりません。
 落胆がっかりして、おなかいたと申して、勝手でお茶漬を掻込かっこんでおるでござりますが、な。
 機会はずみと申すは希代なもので、竹がその腰をつきます時に、ほうりましたお膳でございますが、窓からぽんと物干の上へ飛び出しまして、何と、小皿もはしも、お茶碗なんざふたをいたしましたままで、お月様へ供えまするてい、や、どうも。」
「まあ。」
「あとで大笑いいたしたことでござります。まず手前どもでは珍事がその位で済みましてございますが、お向うの伊東屋なぞでは、貴女、御夫婦抱き合って、二階から戸外おもてへお飛びなすって、大怪我をなさいました方がござります。
 何しろ、一時は人の波が沸きましたように、上下うえしたかえしまして、どどどど廊下をけます音、がたびし戸障子の外れるひびき、中には泣くやら、わめくやら、ひどいのはその顛倒てんどうで、洋燈ランプひっくらかえして、小火ぼやになりかけた家もござりますなり。
 一体何屋の二階から騒ぎ出したとも、どこの内証から、喚きはじめたとも分りません。
 一騒ぎ鎮まりましてから、門口では隣ずから、内では部屋々々の御見舞。仲間うち、土地のもの、お客様方に伺いましても、そら、地震だと、ごうとなったのが、ちょうど九時半、ちとすぎ、かれこれ十時とも申しまして、この山の取着とッつきから海岸まで、五百に近い家が、不思議に同一おなじ時刻。
 まあまあ、かねて大地震がある、大地震があると申しておりましたので、どこか一軒、神棚から御神酒おみき徳利でも落ちましたのを、慌てて地震と申したのが、家から家へ、ものの五分間ともたちませぬ内に、熱海中、鳴り渡りました儀かとも存じまするが。」

十六


「そういたしますると、東のつめで、山に近い対孝館あたりが、右の徳利一件で、地震の源かとも思われまする。
 殊にそれ、湯の噴出ふきだします巌穴いわあなき横手にござりますんで、ガタリといえば、ワッと申す、同一おなじ気のまよいなら、真先まっさきがけの道理なのでござりますが、様子を承りますと、何、あすこじゃまた、北隣の大島楼が、さきへ騒いだとか申します。
 それじゃ起因おこりは海の方、なるほど始終、浪が小石をッつけます、特別その音でも聞違えて、それで慌てたかとも存じられますが、またそれにいたしますと、北のはずれの菱屋ひしやでは、南隣がさきへ鳴り立ったと申しますな。東も、西も、そのとおり。何でも申合わせたように、影も形もない大地震が、ぐるぐる渦を巻いて、熱海をみましたので、通り魔のせいでもござりましょうか。
 何でもこの騒ぎがなくッちゃおさまりません、因縁事とも相見えまして、町をはなれました、寺も、宮も。鎮守の神主殿は、あの境内の大樟おおくすへかじりついたと申しますなり、妙蓮寺の和尚様は、裏の竹藪たけやぶ遁込にげこみましたと申します。
 あの方たちさえ、その驚き工合ぐあい御覧ごろうじまし、我等風情が、生命いのちの瀬戸際と狼狙うろたえましたも、無理ではなかろうかように考えまする、へい。」
「そうですね、あんまり物音がはげしいから、私はまた火事ででもあるのか知らんと思ったよ。」
「ええええ、火事と申せば洪水おおみずのようでもござりまして。中にも稀有けうな事でござりましたのは、貴女、万歳楽万歳楽と、屋根にも物干にも物凄う聞えます内、戸外おもて通りはどうした訳か。
 ずらりと、道具衣服の類。
 革鞄かばんもござりますれば、貴女、煙草たばこ盆、枕、こりゃ慌てて抱えて出たものがあると見えます。葛籠つづら、風呂敷包、申上げます迄もござりません。それから夜具、かねて心得た人があると見えまして、天窓あたまかぶって、地震の時はと、かわらの用心でござりましょう。扱帯しごきおびがずるずると曳摺ひきずっていたり、羽織がふうわりひさしへかかっておりますな、下駄、蝙蝠傘こうもりがさ提灯ちょうちんまさしく手前方の前なんぞは、何がどう間違ったものでござりますか、おおきな洗濯だらいが転がっておりましたわ。
 何の事はござりません。右の品々が、山から突抜けに海岸まで、大通りへ、ちりちりばらばら。裏道小町はさもなかったそうでござりますが、とおり一筋道は、まるで、諸道具、衣類、調度が押流されました体裁ていたらく、足の踏所もござりませなんだ。
 こりゃ現に、手前、軒下へ出て見ましたが、降ったか、いたか、流れて来たか、何のことはござりません、みんな翼が生えて飛んで来て、空からがんが下りたと申す形体ぎょうたい
 唯今ただいまは凄いほど、星がきらついて参りましたが、先刻、その時分は、どんよりして、まるで四月なかばの朧月夜おぼろづきよ見たような空合、各自てんでに血が上っておりましたせいか、今日の寒さに、みんな汗をいたでござります。
 あとがどっと笑いになって、陽気に片附けば、まだしもでござりますに、わめいたものより、転んだもの、転んだものより、落ちたもの、落ちたものよりゃ、またとんだもの、手まわり持参で駈出したわ、夜具をかぶってげ出したわ、怪我をしたわ、と罪の重いものほど、あんまりその智慧ちえの無さ、られた夢を見て目をまわしたような外聞でござりますから、誰一にんおれが騒いだというものはござりません、その二階から飛んだといった、御夫婦のような大怪我は格別。
 大概の打傷、擦傷、筋を違えなどは、内分にして、膏薬こうやく焼酎しょうちゅうも夜があけてから隠密こっそりという了簡りょうけん
 ありようは手前なども、少々手負。が、遁傷にげきずでござりまして、女中どもの前もいかが、へい、知らん顔で居りまするようなわけ。
 でござりまするから、往来ちりぢりの衣類諸道具、いつの間にやら、半時もちませぬ内に、綺麗に掃いたように無くなりました。誰が取り入れたということもござりませんで。
 余りさっぱり。
 最初その車に積んだら、大八にざっと四五十台とも覚えましたのが、地震が鎮まりますと忽然こつねんで、盆踊りのあとじゃござりませんから、鼻紙一枚落ちちゃいず、お祭のあとでござりませんから、竹の皮一片ひとひら見えなくなってしまったでござりますわ。」


神妙候


十七


「これ等はごく御用心のよろしい方で。なるほど、揺れません地震でござりましたもの、いくらでも荷は出せますが、しかしその荷物をほうり出していた方が、白い浴衣を着た、見上げるような大入道だったと、申して、例のどんよりした薄明うすあかりじゃござりますし、ちょうどその時分、どこからともなく衣類きものかばんなどが降った最中、それを見たものが、魔ものじゃと申します。
 また同一おなじ時刻に、降って来る荷物の中、落ちて来る衣類の中を、掻いくぐり掻い潜り、たまった上を飛び越え飛び越え、浪に乗って行くように、ずッと山の手から、海ッぷちまでを、みだれ髪で、小造こづくりな、十五六とも見える、女が一人、蝶鳥なんどのように、路を千鳥がけに、しばらくね廻っておりましたが、ただもう四辺あたりは陰にこもって、はげしい物音がきこえますほど、かえってしんとして、駈出したものも軒下に突伏つっぷしたり、往来に転んだきりだったり。
 通ったはその小娘ばかりで、やがて床屋から小火ぼやが出て、わッという紛れにそれなりけり。
 どこへ消えましたやら、見えなくなったと申しますが、いずれな……いっけんがな。
 何でも熱海を掻攪かきみだして、一時ひときりお遊びになりましたものと見えます。
 とその茄子なすでござりますで。」
「ああ、それが、」
 番頭は一呼吸ひといきつき、
「それが、根元もとと申しますのは、地体この地震の風説うわさは、師走以来こちらの陽気から起ったのでござりましょう。それとても年内に梅が咲きますくらいは何とも気にはなりませんが、ただ、茄子がったのは、前代未聞じゃ、と申して、それからの事で。
 ことに、小田原へ使いに参った娘から聞きますと、それをまた、宮で受け取った神官かんぬしと申すのが、容易なりません風体。
 森々しんしんと樹の茂った、お城の森の奥深く、貴女様、高く上りますのでござりますが、またこの石段がこわれごわれで、角の欠けた工合ぐあいこけの蒸しました塩梅あんばい、まるで、松のうろこが、蛇の幹をじますようで、上に御堂みどう、これも大破。
 お鶴が石壇にかかりますと、もうはるか奥に、鏡が一面、きらきらとあおい月のように光ります前に、白丁はくちょうを着た姿が見えたといいます。
 境内は常磐樹ときわぎのしとりで水を打ったかと思うばかり、ちりひともなしに、神寂かみさびまして、土の香がプンとする、階段のとこまで参りますと、向うでは、待っていたという形。
 希代ではござりませんか。
 神職は留守じゃが、身が預る、と申したのが、ぼやっと、法螺ほらの貝を吹きますような、籠った音声おんじょう。鼻からおとがいまで、馬づらにだぶだぶした、口の長い、顔の大きな、せいは四尺にも足りぬ小さな神官かんぬしでござりましたそうな。ええ、夫人おくさま。」と陰気になる。
 夫人は寂しい顔して、袖を掻合わせて、しばらくして、
「まあ、厭ねえ。」
「でその、廊下からかがんで乗り出し、下からひざまずいて出しました娘の貢物くもつを受け取つて[#「受け取つて」はママ]、高く頂き、よたりと背後うしろむきになりますると、腰を振ってひょこひょこと、棟からあやつりの糸で釣るされたような足取りで、すすけた板戸の罅破ひびわれたなりの口へ消えますと、やがて、お三方を据えて、またよたよたと持って出ましたのが、ぜん申上げました、大奉書で。
 くだんの(神妙候)は、濃い墨で、立派に書いてござりますそうなが、(藤原何某なにがし、)と名がきの下へ、押しました判というのが、これが大変。」

十八


「書き判を、こうの、こうの、こうこう、こう! でもござりませんければ、朱肉を真四角まっしかく、べたりでもござりません。薄墨でな、ひょろりとてのひらを一ツしました、これが人間でござりません。
 およそ嬰児あかんぼの今開けました掌ぐらい、そのせましたこと、からびたの葉で、なすりつけました形、まるで鳥で。
 そうかと思いますとまた、墨のにじんだあとが、さもさもけだものの毛で、えてそっくり。
 見たものの話でござりますが、これを一目の時、震え上って、すぐに地震、と転倒てんどういたしましたそうで、ここで誰も大地震の前触まえぶれを、虚言そらごととは思いませんようになりました。
 処を日増の暖気で、その心持の悪い事と申したら、今日にも、明日にも、今にもと、帯を解いて寝るものはなかったのでござりまする。
 すると、今朝ッからのこの寒気。峠の霜は針の山、熱海はたちまち八寒地獄、日金がおろして来ましたので、烈しい陽気の変りよう、今日が危い、とまた誰いうとなく、湯殿の話、辻の風説うわさ、会うものごとに申し伝えて、時計の針が一つ一つ生命いのちを削りますようで、皆、下衣したぎの襟を開けるほど、胸が苦しゅうござりましたわ。
 その癖朝の内からあお玻璃ビイドロ見たような晴天で、昨日きのう一昨日おとついも、総六が崖の上から、十国峠の上に三日続けて見ましたという、つくね芋の形をした重い雲が影もないので、せめてもの心やりにしました処、暮六ツ前から、どんよりいたしましたのが、日が暮れると、あのおぼろかぜ小留おやんだと思いますと、また少し寒さが戻りまして、変に暖くなる、と気のせいでござりましょうか。厭にあかりが薄暗くなったでござります。滅入めいって息がつまりそうで、ぼんやり、手前などは、畳を見詰めておりました。
 その畳の目が貴女様。
 むくむくと持上って、ぱっ[#「火+發」、U+243CB、528-18]と消えて、下の根太板ねだいたが、凸凹でこぼこになったと思うと、きゃッという声がして、がらがらごう、ぐわッと、早や、耳がつぶれて、よついの例の一件。
 いや、何とも早や異変なことで。」
 調子づいて語り果てた、番頭ふと心着いて、
「へへへへへ。」
 何ともつかず笑ったが、大分夜が更けたという顔色かおつき
「しかし、何事もなくッて塩梅あんばいだったのね。」
 夫人は、さして退屈らしくも見えなかった。
「へいへい、おかげさまで、まずこれで、今夜から枕を高うられまする。へい、ざっと事済ことずみ
 こうまた気が揃ったように大地震々々と申しましては、何事かございませんでは、無事に果てますものではないでござります。
 ははははは。」
 機会きっかけもなしにまた笑い、
「まあ、まあ、御安心を遊ばして御寝げしなりまし、と申しました処で、夫人おくさまは何も手前どものように、ちっともお驚きなりませんのでござりますから、別に。」
 といって、照れ坊主、禿げた処をまっすぐに指でおさえ、
「ええ、ついその一月ばかりの屈託が抜けました嬉しさで、貴女様はお馴染なじみの余り、とんだ長話をいたしました。
 慌てもの、臆病もの、大寄合のお伽話とぎばなし。夜分御徒然ごとぜんの折から、お笑い草にもあいなりますれば、手前とんだその大手柄でござりまする。」
「いえ、まさかとは思っても、こないだ中のような風説うわさを聞くと、好い心持はしませんよ、私も気になっていたんです。」
 火箸に手をせ、艶麗あでやか打微笑うちほほえみ、
「おめでとう。」
「へいッ。」
 と手をつき、
「おめでとう存じまする。」


御曹子


十九


「ですが地震はただい加減な、当推量じゃあったでしょうが、何なの、崖の総六の娘さんとかが、小田原へ貢物みつぎものを持って行って、あやしい神主に、受取を貰って来た、判にけだもののような手のあとが押してあったというのはほんとう?」
 喜番この時立ち構えで、腰を廊下へ退きながら、
「ええも、それは貴女様、ほんとうの事でござりますとも。」
真暗まっくらな森の中の破れたお堂に、神主は留守だといって、その鼻と口と一所にだぶだぶと突出した大顔の、小さな人……何だか気味が悪いことね。」
 と座敷の三ツの隅を見たら、もっとも座にした片隅だけは、洋燈ランプを置いて明るかった。
「全く変でござりますよ。」
「内じゃお客様が多いから、離れた処で、二室ふたま借りておくけれど、こんな時はお隣が空室あきまだとさびしいのね。ほほほほほ、」
 但し自からそのあやしみを消して笑ったので。かろからぬ肺病のため、しばらく休養をしているけれども、正に蒸風呂にこもれり、とあった、秋山氏は、名高き……県の警部長である。
 良人おっとの職掌に対しても、であるけれども、病ゆえには心弱く、夫人は毎夜、更けてしずかな湯殿の廊下を、人知れずお百度というもの踏む。
 折から身に染む物語。
「大方何ね、その娘に、魔がさしたとでもいうんだろうね。」
「御意、御意にござりまして、へい、娘とは申しません、一体崖の親仁おやじとこに魔がしましたのでござりましょう、その相伴をいたしました熱海中がかくの騒動。彼家あすこも無事なればよろしゅうござりますが、妙齢としごろの娘、ちと器量が過ぎますので、心配なものでござります。
 などと申しますと、手前岡焼でもいたしますようで、ははははは。」
 老功に笑って退け、仰向あおむいて障子をそっと。
「まず、おしずまりなされまし、お座敷へも、とんだお邪魔がさしました。」
 しかり、魔か、鬼か、崖の総六が小屋に、魅入ったのは事実であった。
 翌日になって一切明白。当時関八州を横行おうぎょうして、変幻出没、なぎさの網に陽炎かげろうかげとどめず、名のみ御曹子万綱おんぞうしまんつなと、音に聞えた大盗あり。
 鐘も響かぬ山家やまがにさえ、寝覚ねざめ跫音あしおととどろいたが、どっと伊豆の国を襲ったので、熱海における大地震は、すなわち渠等かれらが予言の計略。
 文武官、農、工、商、思い思いに姿を変じた、御曹子が配下の賊徒、八面に手分をなし、湯宿々々に埋伏まいふくして、妖鬼ようきごとを圧したが、日金颪に気候の激変、時こそ来たれと万弩まんど一発、驚破すわ! 鎌倉の声とともに、十方から呼吸を合はせ[#「合はせ」はママ]、七転八倒のさわぎに紛れて、妻子珍宝つかみ次第。
 就中なかんずく、風呂敷にもたもとにも懐にも盗みあまって、手当てあたり次第に家々から、夥間なかまが大道へ投散らした、あられのごとき衣類調度は、ひた流しにずるずると、山から海へ掃き出して、ここにあらかじめもやった船に、うずたかく積み上げた。
 宝の山を暗まぎれ、首領かしらの隠家に泳がそうと、しぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、532-17]のかかる巌陰いわかげづかを掴んで、白髪しらがを乱して控えたのは、崖の小屋の総六で、これが明方名告なのって出た。
 ただ、万綱はじめ、手下の誰彼たれかれ幾十人、一人として影を見せず、あとは通魔とおりまなりを鎮めて、日金颪のぎたるよう。
 さればこそ土地のものは、総六に魔がしたといった。正直の通った親仁は、やがて、ただ通りがかりの旅の客に、船を一そう頼まれたとばかり、情を解せざる故をもて、程なくひとやゆるされた。
 と前後して、崖の小屋に一個の人物。

二十


 年紀としの頃三十四五の客が出来た。その人、眉秀で、鼻たかく、白皙はくせき俊秀にしてめしいたり。長唄を歌って美音、尺八を吹き、琴を弾じ、古今の物語をよくして、弁舌さわやかに、世話講談の座敷が勤まる。就中なかんずく琵琶びわ堪能たんのうで、娘に手をひかれながら、宿屋々々に請ぜられて、やすらかに、親娘おやこを過ごすようになった。
 ここで諸人横手をって、曰く、はるばる小田原の鎮守に貢した、神妙候奇特につき、総六の産神うぶすなが下したもうた婿であると。この何者かは誰にも分らぬ。
 ひとりこれを知るものは、秋山警部長の夫人蔦子であった。
 番頭がすべり出て、廊下に跫音あしおとの消えたあと、夫人はかねて、しかなさんと期したるごとく、すらりと立ったきぬの音、障子に手をかけ、まず、紙を隔てて、桟に※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけた眉を載せた。
 やがて、細目にそっとあけると、左は喜兵衛の伝ったかた、右は空室あきま燈影ひかげもない。そこからかくに折れ曲って、向うへ渡る長廊下。両方壁の突当つきあたりは、梯子壇はしごだんの上口、新しい欄干てすりが見えて、ほのかあかりがついている。此方こなたに水に光を帯びた冷い影の映るのは一面の姿見で、向い合って、流しがある。手桶ておけを、ぼた――ぼた――しずくの音。しんとして、谷のかけひの趣あり。雲山岫さんしゅうくごとく、白気くだんの欄干を籠めて、薄くむらむらと靉靆たなびくのは、そこから下りる地の底なる蒸風呂の、煉瓦れんがを漏れいづる湯気である。
 ※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、音なく閉め、一足運びざまに身をそらした、燈火ともしびを背にすると、影になって暗さがました、塗枕の置かれたる、その身のねやのふちを伝うて、ふくらかな夜具のすそ、羽織の袖が畳に落ちると、片膝を軽くついた。
 手を上に載せて、斜めに差覗さしのぞくようにして、
「お出な。」
 むッくり下から掻い上げ、押出すようにするりと半身、夜具の紅裏もみうら牡丹花ぼたんかの、咲乱れたる花片はなびらに、すそを包んだ美女たおやめあり。
 いかなるさまにや結いにけむ、手絡てがらきれも、結んだるあとのもつれもありながら、黒髪はらりと肩に乱れて、狂える獅子のたてがみした、俯伏うつぶせなのが起返る。顔には桃の露を帯び、眉に柳のしずくをかけて、しっとりと汗ばんだが、その時ずッと座を開けて、再びともしびおおうてすまった、夫人を見つつ恍惚うっとりと、目をつぶらかにみまもった、胸にぶらりと手帳のくくりに、鉛筆の色の紫を、太白の糸で結んで、時計のように掛けたのは、総六の娘お鶴。
「よく、お前、呼吸いきを殺していられてね、苦しいだろう、湯か、おひやでも上げようかい。」
 膝さし寄せてひそめきいう。
「いいえ、私、沢山、水を飲みました。」
 振仰向ふりあおむいて手をついたり。
「おひやを?」
「あの、お床の中で、」
「床の中で?」
「はい、私、海の中で、水潜みずくぐりをしますように、一生懸命に、呼吸いきをしないでいたんです。
 でもしばらくですもの。
 もう堪え切れなくッて、沢山どっさり水を飲みました。私、泳げますようになってから、潜っていて、水を飲みましたのは、これでたった二度なんです。ですから、あの、水を飲みましたからこんなですよ。」
 とわなわなふるえがとどまらず、髪もゆらいであはれで[#「あはれで」はママ]あった。
「可哀相ねえ、よく辛抱をおしだった。
 でもね、そうしないと、今時分、思いがけない処にお前が居るんだもの、すぐに気がつかれて、あやしまれないじゃ済みません。
 それにね、何、お鶴さん。」
 夫人は一際声をひそめ、
「ここの内の番頭がね、ああ見えて、内証ないしょで警察の御用なんか聞くんだから。」

二十一


「それが談話はなしに来たんだもの、私はもうてっきり。お前さんたちのした事が分って、この宿でも紛失ものが知れたから、旦那に相談にでも来た事と思って、何か聞いている内も、はらはらして気が気じゃなかったの。
 もう方々でも鎮まって、かれこれられたものの気の附く時分なんだけれど、騒ぎがあんまりひどかったから、まだみんな心が落着かないでいるんだよ。
 もう今に知れます。そうすると、すぐにまた番頭が遣って来ます、何だか、私は、お前が何だか。」
 とみこうみたる目の優しさ。
「可哀相でならないから、くわしく、いろんな話を聞いてみたいけれど、そんな、悠長な間はないんだもの。そうでもない、旦那が蒸湯から、帰っていらっしゃらないとも限りませんから、また逢える事もありましょう。さあ、今のうち
 おお、そうして何かい、その手帳と、鉛筆なの。その人がれたというのは、」
「ええ。」
 両手をいたまま、がッくりとうなずくと、糸を引いて、ばたりと畳へ、ふすまにかくれて取乱した、衣紋えもんをこぼれてはらりと開く。
 これ見てといわぬばかり、
「奥様。」
 としおれていう。
 何心なく取ろうとして、思わず背後うしろへ手を退いた。
「まあ、気味の悪いこと。」
 お鶴はきっと顔を上げて、すずしい瞳にうらみを籠め、
「ちっとも、あの汚いことはありません、私、いつもこの胸の処に持っております。」と判然はっきりいうのと顔を合わせた。
 あわれ、何しに御身おんみはだえけがるべき。夫人はただかつてそれが、兇賊きょうぞくの持物であったことを知って、ために不気味に思ったのである。
 しばらくじっと見守ったが、
「ああ、悪かった、雲はかかっても晴れれば月、私のいったのはそうではない。考えれば、旦那の御病気、肺病はうつるもの、うつるといってそれをいとって、一度お持ちなすったものを、人がもし嫌ったら、私の心はどんなだろう。
 たとえ騙賊かたりでも、盗賊どろぼうでも、お前に取っては大事な御主人。
 私が悪うござんした。」
 としみじみいって、ともしかぼうた身体からだわきへずらしながら、その一ペエジを差覗さしのぞいて、
「おや。」
「…………」
「紫の鉛筆で、私の座敷の目星いものを取っておいで、と書いたわねえ。」
「あの、その人は、このうちの二階に泊っていたんです。」
「そうだってね。」
「そしてどこよりか、念にかけていたんですって。でも貴女あなたが、ちっともお騒ぎなさいませんから、此室こちらで仕事が出来なくッて、それで、あの尋常ただの方なら可いけれど、恐いお役人様なんで、手が出せなかったようで口惜くやしいからッて、これを私に書きましたの。」
「そのために来たのかい。まあ、」
 と今更見詰めながら、
「何と思って、ええ、厭だっていわれなかったかい。」
「…………あの、あの方がいったんですから。家来は大勢居ましたけれど、誰も手出しが出来ないんですって。」
「そうねえ。」
 あの方だから、というものを、夫人は諭すべきことばもなく、
「大勢居て?」
「はい、十四五人。」
「何、そうして魚見岬の下だって。」
「あの、おおきいわだの、ちいさな巌だの、すくすくして、浪の打ちます処に、黒くなって、みんな、あの、目を光らかして、五百羅漢みたように、腰かけているんです。」


黒影、白気


二十二


「じゃ、お前が、あの方という人はえ?」
「あの方は、一番高いとんがった巌の上に、真暗まっくらな中に、黒い外套がいとうにくるまって、足を投げ出して、みんなの取って来たものを指環ゆびわだの、黄金きん時計だの、お金子かねだの、一人々々、数をいいますのを、黙って聞いておりました。」
 かえって夫人がさしうつむいた、顔を見るだにあわれさに、かたえへそらす目の遣場やりばくだんの手帳を読むともなく、はらはらと四五枚かえして、
「星があっても暗かったろう。」
「遠くの沖で時々浪が光ります、あのこの鉛筆のような紫色に。
 そのほかは、やみだったんです。」
「でも、よく手帳へ書けたのね。」
あおい色に燃えますマッチをるんです。そうすると、あかるくなって、いわ附着くッついた、みんなの形が、顔も衣服きものも蒼黒くなって、あの、おおきまぐろが、巌に附着いておりますようで、打着ぶつかります浪のしぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、540-5]が白くかかって見えました。
 前刻さっき、奥様がお座敷にいらっしゃらない処へ入って、私、よっぽどったんです。そうして洋燈ランプを吹消して出ようとして見ますと、あの向うの蒸風呂の壇を上っておいでなすって、どこへもげられませんから、洋燈を消して、壁に附着いてかがんだんです。
 でも、ずんずんいらっしゃって、座敷へ入りそうになりましたから、私、蒼い灯をつけておどかしたでしょう。
 え、え。
 でも、恐がらないで、おや、お前かいッておっしゃいました。
 あの時摺ったマッチですわ。
 私、ここに持っております。」
 と、帯の間に手を入れる。
「可いよ。可いよ、見なくっても大事ないよ。」
 余りの事に、さるにても、なおみまもらるるお鶴の顔。
「でも何、先刻さっき私をおどかしたのは、あれはお前が考えたの。」
「いいえ、ここへ来ましょうと、いわを下ります時に、暗がりから、誰だか教えてくれたんです。」
「何といって、さあ。」
 夫人は忍びを震わした。
対手あいて婦人おんなだ、それに、お百度を踏もうという信心者だから、遣損なったら、威すと可い。げるだけは仔細しさいはないッて、」
「あれ、そんなことまで知っているのかねえ。」
「はい、そしてあの、十二時を過ぎてから、お百度をなさいますから、そのひまにッて、いいましたんです。でも、来て、あの姿見の向うの流しの硝子戸がらすどからのぞきますと、映りましたのは私ばッかりで、奥様はお座敷にも廊下にも見えなさいませんから、この間と思って、飛込んだんでございますわ。」
「であの、そこへ集っただけでみんな?」
「いいえ、仕事をするとすぐに。」
 ちりちりばらばら。
「三島へ遁げるのもありますし、峠を越して函嶺はこねへ行ったのもございますし、湯河原を出て吉浜、もうその時分は、お関所あたりで、ゆっくり紙幣さつを勘定しているものもあろうし、峠の棄石すていしへ腰をかけて、盗んだ時計で、時間を見ているのもあるだろうッて、浪の音の合間々々に、みんなが話していたんです。」
「大概どのくらいな仕事だとか、その人はいっちゃいなかったの。」
内端うちわに積りまして一万円ばかりですって。」
「大変なこッたねえ、それから、何、お鶴さん、その人の名は何というの。いいえ、大丈夫、私の命がなくなっても、とお百度を拝んでいる、観音様の御名にかけて、きっと人にはいわないから。」
「万綱っていうんです。」
「ああ、そうでしょう。それからその手下のしゅの名は知らないかい。」
「はい、地震が済むと、私と二人で、そこら歩行あるきながら、巌の上へ参りました、しばらくちますと、一人来たり、三人来たり、ぴちゃぴちゃ、潮のふるえる音がしました。
 あの方が、みんな揃ったかッていいました。」
「そうすると……」

二十三


「来るだけは不残のこらず来ました。誰々だって、そういいましたら、伊豆の伊八、四丁艪しちょうろの甚太夫、なまずの勘七、縄抜の正太郎、飛乗の音吉、秋刀魚さんまの竹蔵、むささびの三次、――あのこの人の声だったんです、私に奥様のことを教えましたのは、」
 夫人はお鶴の記憶の可いのと、耳のさとい、利発さと、そのかくのごとき運命とに、ただ何となく慄然ぞっとした。
「それから、あの、」
 小指を折って、
「吹雪の熊太、韋駄天弥助いだてんやすけ、書生の源、あの、太い声で、六尺坊の悪右衛門っていったんです。」
 蔦屋の二階に仁王だちで、とおりつぶてなげに贓物しろものをこかしていた。大道に腰を抜いたものの、魔神が荒るると見たというは、この入道の事なりけり。
「お待ち。」
 と夫人が声をかける。裏階子うちばしごを上る音、ただトントンと聞えてむ。
 耳を澄まして、
「どうも、気がせいてならないけれど、このままでは案じられるねえ。
 ああ、何なの、そうしてお前の帰るのを、そこで待っているのかい。」
「あらためて私のとこを、みんなにひきあわせて、おかみさんにするんですって。」
「おかみさんに、お、お前それがうれしいの。」
「はい。」と猶予ためらわず答えたのである。
 夫人はややことば急に、
「じゃあ、お前、盗賊どろぼうすきなの、悪いこととは思わないの。」
「いいえ、盗賊どろぼうすることも、する人もいけませんけれど、だって、あの方なんですもの。そしてもう、もう私、おかみさんになりました。」
 と、身の置所なさそうに、この時ばかりはおろおろして、
「もうほかに、他にお嫁入する処はないんですって。」
「誰が、誰がそういいます。」
「おじいさん。」
「おじいさん、お前には御両親、おとっさんもおっかさんもないのだってね、おじいさんは何なの、その人が盗賊どろぼうだってことを知らないのかい。」
「はじめは存じませんでした。はじめての晩、内へ泊りに見えました時は、どこのかおやしきの、若様だとそう思っていたんですって。」
「まあ、泊りに行ったのかねえ、ここに、書いてあるのがそうだね。」
 先刻さっきから目に留ったは、それ、ひらがなの走りがき、鉛筆で美しく=晩に=と一行。行を分けて=お前=と書き、=のとこへ=とまた項を別に=泊りにくよ=と記してある。
「どこで、こんなことをいわれたの。」
「この二階なの。あの、山路やまみちでこれを貰いましてから、私大事にして首へかけて、お、お乳の下へかくしていたの。
 三日の日に、この内がいそがしいから、お給仕の手伝に来たんです。
 そして二階の八番へ行きました時、その方に逢ったんですわ。
 いろいろおもしろい話をして聞かせてねえ。
 それから、私、その時も白い前垂まえだれをかけていました。おかしい、およし、今に所帯を持ってから、そしてから掛けて台所へ出るが可い、取っておしまい。
 そのかわり、お前にあげようと思って、宿で頼んで、間に合わせにこしらえておいたからッて、畳紙たとうがみに入っていたの。私はその方の奥様が着るのかと思ったんです。綺麗な衣服きものを出して、扱帯しごきもありました。
 私、おじいさんに見せてから、といいましたけれど、いいえ、着て御覧、ここでッて、それから帯も自分でめてやろう、結びようが下手だって、結んでくれたんです。
 袖が長くて、その人の手に巻きつきますから、たもとを肩へかけて廻ったんです。でも、あの、恥かしいから、こうして、襟をくわえておりました。
 でもあの、襦袢じゅばんの中から、このねえ、貰った手帳が見えましたもんですから、返せッていいました。」

二十四


かぶりをふったの。だっていやなんですもの。あの時貰ったんですからこれは厭。衣物きものはいらないわッて、私ねえ。それでも返せッていうから、泣きそうになったんです。
 おしむんじゃないんですって。
 つい、気がつかずにいたけれど、この紫色の鉛筆は、粉が目に入ると、目がつぶれて、見えなくなってしまうんですって。
 おもちゃに持たしておくと険呑けんのんだから、実は、今夜にも宿で聞いて、私ンとこまで取戻しにこうと思っていた処だったッて、そういいます。
 きっと削りませんからッて、私強情を張りましたら、それでは、きっと誰にも見せるなよ。そして二人一所に居る時でなくっては、鉛筆を使ってはならない、きっとだぞッていいましてね。
 ちょうど二人ばかりだから、とそれじゃ今つかってみよう、お前は、と私に、今夜はこの伊豆屋へ寝るのかとお聞きでしたわ。
 泊るつもりだったんです。
 そうすると、手帳へこんやおまえのとこへとまりにゆくよ、と、あの、これを書きましたから、私引手繰ひったくって、脱いだ筒袖と前垂とをかかえるか抱えないに、うちけ出して帰ったんです。
 帳場で、どうした鶴坊ッて、番頭さんがいいましたけれど、そんな事は構わない。
 おじいさんに、帰ってそういったら、いそがしがって掃除をして、神様棚へお燈明を上げました。
 すぐに出かけたの。
 私はお米ばかりのおまんまいだり、いたりしたの。おじいさんは、甘鯛と、まぐろと買って、お酒を提げて戻ったんです。
 でも来ないんでしょう。
 おじいさんは肱枕ひじまくらをして寝てみたり、いつにない夜延よなべをしたり。
 私は崖の上へ立って見ていました。夜中にねえ、いい月のあかるい道を、大きな外套の裾が風に吹かれながら来たわ。
 私もびゅうびゅう海の方へ、袂だの、裾だの吹かれて、高い処に立っていたもんですから、寒かったろうッて、いきなり外套の下へ抱いてくれたの。寒くはなかったんですが、私、嬉しくッて震えたの。
 その晩なの、奥様おくさん、おかみさんになったんですって。
 おじいさんは、その時は何んにも知らなかったんですけれど、あとで今度の相談をしたとき、泣きましたっけ。私も泣いたわ。
 しっかりしろ、生命いのちと亭主は二ツなしだ。おれが若い時の、罪障がむくったっぺ、可いわ、娘の支度と婿殿へ引出ひきでものをかねて、一番、宝船をいでまかしょ、お正月だ、祝えッて、大酒をのんだんです。
 ですから、あの、すっかり船へ積み込んで、人の知らない処につけていますわ。
 私が帰って披露を済むと、それからどこかへ漕いで行くんだって待っているんです。」
 夫人は黙って聞くうちに、幾たびか目をしばたたいた。
「お鶴さん。」
 と声が曇ると、
「…………。」黙ってこれも打悄うちしおれる。
「世間に人もないように、みんなが、みさきいわになんぞ集って、もしかつかまったらどうします。」
 と優しくいったが、何となく人をおさうる威がこもった。
 これにはお鶴が事もなげ、
「いいえ、大丈夫、とらの刻までは海獺あじかめて、ここに寝ていたって警察なんぞ、と六尺坊主がいったんです。」
「その方は、」
「え。」
「お前のその方は何てったの。」
 おのずと居坐いずまいあらたまって、夫人の声は凜々りりしかった。
「真鶴へ鮪の寄るのが、番小屋から見えるまでは心配なしだと申しました。」
 夫人、
「そう。」
 とうなずくはしに、懐に手を差入れ。と一通の書の、字の裏が透いて見えて、いまだ封じないままなるを取って、手に据え、
「お前のおじいさんも何といいました。どういうことか知らないけれど、一粒種の可愛いお前に、盗賊どろぼうの婿をったのは、わかい時の、罪のむくいだというんじゃないか。
 悪い事をすればきっとそれだけの罪をうけねばならんのです。
 御覧!
 この手紙はね、私の旦那が今しがた、蒸風呂の中で、お書きなんだよ。
 此家ここの番頭に持たせて、熱海の警察へ直ぐに届けろッて、いいつかって来たんだがね。
 地震は盗賊のたくみだから、早く出口々々へ非常線というものを張って下さい、魚見岬の下あたりには一団ひとかたまり居るだろう、手強てごわい奴、と思うから、十分の手当をして、とちゃんとおしたためなすったの。」
 わなわなとお鶴は震えた。
「揺れもどうもしないけれど、あんまり騒ぎがひどかったから、あんな、穴蔵のような中にいらっしゃるんだから、ちょいと見舞に行った時、あの、お前が忍んだ時。」
 夫人はこの時一段低い、廊下の向うの、新しい欄干てすりから階子段はしごだんを伝うて下りた。
 下り切った風呂の口と、上とに電燈はついているが、段は中程にまた一個ひとつともしびを要するだけ長い。
 ここを下りるは、肺病患者よりほかにはなく、病人は、また大抵、風呂に長時間こもるので、夜は殊にほとんど通うものがない、といっても可いので。
 木は新しいが、陰々と、奈落に一足ずつ踏込むような、段階子を辿たどる辿る、一段ごとに底の方は、深く、細く、次第にせばんで、足も心も引入れられそう。
 されば、髪飾かみかざり、絹のあや、色ある姿はその折から、風呂の口に吸い込まれて、もすそは湯気に呑まるるのである。
 下り立つと浮世が遠い。
 ともしび朦朧もうろうと夫人の影を薄く倒した。
 二足ばかり横へ曲ると、正面に、あおせたるむくろを納めて、病も重き片扉。
 つまも籠れる心細さ。力なく引手に手をかけ、もすそを高くい取って、ドンとすと、我ながら、蹴出けだしつまも、ああ、晴がましや、ただ一面に鼠の霧、湯花の臭気においおもてを打って、目をも眉をも打蔽うちおお土蜘蛛つちぐもの巣に異ならず。
(蔦か。)
(旦那様、)と答えたが、湯殿は約十畳余、さまで広くもない中に、夫の姿を認めたのは、ややしばらくののちであった。
 今更ながらいかなるさまぞ。
 煉瓦れんがで畳んで四方壁、ただその扉ばかりを板に、ぐるりと廻して二三段、高く低く、飛々に穿うがった穴、幾多のかばねを中にうずめて崩れ残った城の壁の、弾丸たまのあとかと物凄ものすごい。その一ツ一ツから、濃厚なる湯の煙、綿をつかねてでて、末広がりに天井へ、白布を開いてのぼる、湧いてはのぼり、湧いてはのぼって、十重とえ二十重はたえにかさなりつつ、生温いしずくとなって、人のはだえをこれぞ蒸風呂。
 患者が顔を差寄すれば、綿なす湯気は口にみなぎり、頬をおおい、肩を包み、背にひろがり、腰にまとうて、やがて濛々もうもうとしてただ白気となる。
 足、手、かすかな肉の一塊、霧を束ねて描けるさまよ。さればかく扉を開ける音信おとずれがあっても、誰なるかを見る元気はない。たといここに、天津乙女の、うるわしき翼を休めたとて、すがる力も絶えたのが、三人といわず、五人といわず、濃く薄く湯気の動くに連れて、低くむらむらと影が行交う。
 一時ひとしきり、吸い草臥くたびれて、長々と寝たるもあれば、そのあとへ、い寄って、灰色の滑らかな背をなかくぼに伸ばしながら両手で穴に縋るもあり、ぐッたりと腰を曲げてへそへ頭をつけるもあり、痩せた膝に、両手を組んでいるのもあり、なえつかれたようになって、俯伏つっぷした女も見えた。中に一人、壁の根にひざまずき、もの打念ずるさまして、高くてのひらを合わせたものの、白きうなじ湯煙ゆけぶりほぐれて、黒髪の色と分れた時、夫人の目はややれて、その良人の口に、一点煙草たばこの火の燃えつつあるを認め得た。はじめはそれを、の光と見分くることさえ出来ぬのであった。
 秋山氏は、真中まんなかに据えたおおいなる大理石の円卓子まるテエブルひじをつき、椅子にかかって憩いながら、かりそめに細巻をくゆらしていたので、もっとも裸体はだかで、まとえるは一片ひとひらの布あるのみ。痩せたる上に色さえおぼろ、見る影もないさまながら、なお床を這い板にたおるる患者のうちに、独り身を起していた姿、連添う身に、いかばかりの慰藉いしゃなりけむ。
 いきをしつつ、立寄って、
(お塩梅あんばいはいかがです。)
(こうしていりゃちっとは可い。)
 と打棄うっちゃったようにいって、
(何か用か。)
(はい、余りけたたましゅうございましたから、お見舞に上りました。この間から風説うわさのございました地震なんでございます、とうとうほんものにして騒ぎまして、ただ今ようよう鎮まりましたのでございます。あの、御存じでございませんので。)
(いいや、ここじゃちっとも知らん。また地震だといって、驚きもせん。たといの底に沈んだ処で、まあ、こんなものだろうと思えば、仔細しさいなしじゃ。)
 周囲にうごめく患者の光景ありさま
(とても娑婆しゃばじゃないからな、どうだ、まるで白いうなぎの、のたくッている体裁じゃないか、そういう自分は何か。)
 ほとんど失望の声を放って、自からあざけるがごとくいった、警部長疾篤矣やまいあつし
 夫人はハッとこうべを垂れた。
 時に、
(何か、別に誰も、賊難にあったという話は聞かんか。)
 夫人は、思いがけないことだったが、
(いいえ。)とありのままを答えたのである。
(まだ分るまい、蔦、巻紙とすずり箱を。)
 これへ、と湯殿で命じたので。
(お硯箱、お手紙でも。)
(うむ、もう座敷へ行くのは大儀じゃ、意気地いくじはない。)
 傲然ごうぜんとしてしかも寂しく高らかに、
(はは、はは、はははは、)
(……………………)
はやくせい。)
 引返ひっかえしてをあけると、重い湯気は、娑婆へ返すように、どッと夫人を押出した。身のすこやかなる夫人は、かえって、かッと上気して眩暈めまいを感じて、扉を閉めながら蹌踉よろめいたが、ばらばら脱ぎ散らした上草履乱れた中に、良人のを見て、取って揃えて直しながら、袖にも襟にも、纏いついて消えもやらぬ霧のまま、急いでもとの欄干口。夫人がこのときの風采ふうさいは、罪あるものを救うべく、めるものをいやすべく、雲にしてかえる神々しい姿であった。廊下を出ると、風が冷い。
 あつらえられたを調えて、再び良人の前に行った時、警部長は、天窓あたまつかむようにして、堅く卓子テエブル突伏つっぷしていた。
 耳はたなそこおおうたが、気勢けはいに、たちまち、蒼ざめた、顔を上げて、
(ここへ出せ。)
(は、)
 と袖から卓子へ。
 まだ持ったままだった巻莨まきたばこを、ハタと床になげうつと、蒸気が宙で吸い消した。
 椅子を引き寄せ、筆を取って、さらさらとしたためたのが、ここに夫人の、お鶴にさとした文言であった。
 書き果てると、著しく警部長の眉のひそむが見え、
(ああ、厭じゃ、が、黙っちゃおられん。何も見まい、聞くまいと思うに、この壁を透して、賊どもが、魚見のいわにかたまりおるのが、月夜の遠距離のように歴然ありありと見える。)
 といった、まなこの光爛々らんらんとして、
(蔦、こう神経が過敏になっちゃ、やまいは重いな。)
 夫人は再び二階の廊下、思わず映る姿見に、消えも入らんず思う時、座敷のともしびが滅したのであった。


梅柳


二十五


「お鶴さん、分りましたか、旦那のこのお手紙が私の手にある内だったからいけれど、もう一足で、番頭に渡るとね、今頃は、みんなが捕まっているかも知れません、もしか、その人が牢へ行ったらどうするの。
 お前はきっとそうしたら一所に行くとおいいだろうが、おかみじゃ、牢の中で、同棲いっしょに置いては下さいません。第一お前、今ここで、私がお前を帰さなかったら、どうしてその人に逢えますね。」
 思い切って声強く、差寄る膝に手をかけた。お鶴は思わず取縋とりすがって、忍びにわっと泣いた。
 せなに夫人も頬をあて、こらえず、はらはらと落涙して、
「おお、可哀相に、そんなかい。お前だって、私だって、良人を思うに二つはない。誰が、誰が、お前を帰さないでおくものか、警察へやるものか。
 お前、夜中に崖に立って、その人を待った時、寒かろうって、あの、外套の下へ入れて抱いてくれたの。」
 とそのまましっかと抱きしめた。
 膝なるおもかげせななる髪、柳と梅としめやかに、濡れつつ、しばしひっそとせり。
「さ。」
 手を取って、顔を上げさせ、右手めての指環を凝視みつめながら、するりと抜いて、胸に垂れたるお鶴の指へ。
「私が祈ってあげるんだよ。
 それからね、この手紙を、このままお前にあげるからね、大事にして、持って行って、その人に見せるんですよ。
 ああ、構いません。私の落度になっても可いの、そのかわりね、心がおありだったら、どうぞ旦那の病気が直るように、お鶴さん、お前も念じて下さいな。」
 お鶴はつむりおもたげに、首垂うなだれながら合点がってん々々。
 夫人もひとしうなずいたが、
「まあ、盗賊どろぼうの大将に、警部長の病気本復、私も愚痴になったわね。」
 莞爾にっこりしたが、目をぬぐい、
「どれ、ちゃんとして、手帳、鉛筆も。こうしていては目につきます。」
 と、立たせて、胸に秘めさせた、手紙も持ち添え、しっかりと内懐へ入れさせて、我が前髪の触るるあたり、帯のしわをのしてやりつつ、
「そしてその人にいうんですよ、これこれのものがいいました。賊でも心があるだろう、お宝は盗んでも、こんな可愛いを盗んではなりませんと、可いかい。
 さ、もうおいで、夜が更けた。」
 と送り出すように座敷を出たが、前後あとさきくまはあれど、おおうものなき廊下のあかり
 はらりとかけたり羽織の片袖。せた夫人はふくらかに、の宿ったる姿して、一所になって渡ったが、姿見の前になると、影が分れて飜然ひらりと出た。
 お鶴は胸が躍ったろう、別れの=さらば=いうのも忘れて、そのまま手水流ちょうずながしかたえの窓。
 硝子戸がらすどを引きあけると、下は坂の、二階ではないが、斜めに土塀。
 一度、顔を出してのぞいて見て、ふり向いて夫人を見た、双の瞳の、露に宿れる星の色。
 燦然さんぜんとして星はあれど、涙に曇って暗かったか、ひらりと蒼い火、マッチを擦って、足場をしばし計ると見えし。
「は、」と声かけて、するりと抜けた、土塀の上を足溜あしだまり。姿は黒き窓となンぬ。
 夫人はしばらく、姿見をせなにして、じっとそっちをみまもったが、欄干てすりの方に目をやって、襦袢じゅばんの袖で眉をかくした。
 そのおくれげを掻いた時、壁の中のおもかげは、どんなに、美しかったろう、柔和やさしく気高かったろう。大慈! 大悲! 我心、我力、良人の病をいやすべく、頼母たのもしいような気がしたので、急に何となく嬉しそうに、いそいそ座敷へ帰ろうとして、思わず、よろよろと背後うしろ退すさった。
 一段高い廊下の端、隣座敷の空室あきまの前に、唐銅からかね※(「金+肅」、第3水準1-93-39)さびの見ゆる、魔神の像のごとく突立つったった、よろいかと見ゆる厚外套、ステッキをついて、靴のまま。
 大跨おおまたに下りて、帽を脱し、はたと夫人の爪尖つまさきひざまずいて、片手を額に加えたが、無言のまま身を起して、同一おなじ窓に歩行あゆみ寄った。深夜に鼠の気勢けはいもさせず、帽とともに小脇にかかえたステッキよりも身を細く、小さな口から、するりと抜けると、硝子窓は向うから、音もなく、するりとおのずからしまるのが、姿見にありありと映って、夢の覚際さめぎわかと見えたのである。
 さて、蒸風呂の中でしたためた、警部長の准逮捕状じゅんたいほじょうには、偉大なる反響があった。一旦夫人のなさけに因って、八方へのがれた、万綱の配下の兇賊、かねて目指されたすうをあまさず、府、県、町、村、いうに及ばず、津々浦々にいたるまで、最寄もより々々に名告なのって出た。
 御曹子はしからず。ただ崖の客のめしいたるは、紫鉛筆の粉のためといい伝えて、いずれも意外の毒に舌を巻くばかり。自らその罪を責めて、甘んじてくべき縲紲るいせつを、お鶴のために心弱り、ひとややみよりむしろつらい、身を暗黒に葬ったのを、ひそかに知るは夫人のみ。
 程過ぎてつれづれに、琵琶を、と秋山の命で、座敷に招いた事がある。
 盲目めしいは、あかい手絡てがらをかけた、若い女房に手をかれて来たが、敷居の外で、二人ならんでうやうやしく平伏ひれふした。
 夫人は一目、ああ、その赤い手絡は見られまい、色の白いのが、さぞ、紫の涙を、とあわれさに顔を背けたが、良人のあるに襟を正した。
 けれども、その時のまなこの光は、かつて、蒸風呂の中におけるがごとき、爛々たるものではなかった。警部長は軽快したから。
明治三十八(一九〇五)年一月





底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店
   1942(昭和17)年3月30日発行
初出:「新小説 第十年第一卷」
   1905(明治38)年1月
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2020年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「火+發」、U+243CB    528-18
「さんずい+散」、U+6F75    532-17、540-5


●図書カード