十六夜

泉鏡太郎





 きのふは仲秋ちうしう十五夜じふごやで、無事ぶじ平安へいあん例年れいねんにもめづらしい、一天いつてん澄渡すみわたつた明月めいげつであつた。その前夜ぜんやのあの暴風雨ばうふううをわすれたやうに、あさかられ/″\とした、お天氣模樣てんきもやうで、つじつてれいしたほどである。おそろしき大地震おほぢしん大火たいくわために、大都だいとなかば阿鼻焦土あびせうどとなんぬ。お月見つきみでもあるまいが、背戸せど露草つゆくさあをえてつゆにさく。……ひさしやぶれ、のきるにつけても、ひかりは月影つきかげのなつかしさは、せめてすゝきばかりもそなへようと、大通おほどほりの花屋はなやひにすのに、こんな時節じせつがら、用意よういをしてつてゐるだらうか。……覺束おぼつかながると、つかひに女中ぢよちう元氣げんきかほして、花屋はなやになければむか土手どてつて、ばかりでもつぺしよつてませうよ、といつた。いふことが、天變てんぺんによつてきたへられて徹底てつていしてゐる。
 をんなでさへその意氣いきだ。男子だんしはたらかなければならない。――こゝで少々せう/\小聲こごゑになるが、おたがひかせがなければかない。……
 すでに、大地震おほぢしん當夜たうやから、野宿のじゆくゆめのまださめぬ、四日よつか早朝さうてう眞黒まつくろかほをして見舞みまひた。……ぜんうちにゐてまはりをはたらいてくれた淺草あさくさ婿むこ裁縫屋したてやなどは、土地とち淺草あさくさ丸燒まるやけにされて、女房にようばうには風呂敷ふろしきみづびたしにしてかみにかぶせ、おんぶした嬰兒あかんぼには、ねんねこをらしてきせて、あめかぜなか上野うへのがし、あとでした片手かたてさげの一荷いつかさへ、生命いのちあやふさにつちやつた。……なんとかや――いとんでさがして、やうやたけだいでめぐりひ、そこもはれて、三河島みかはしまげのびてゐるのだといふ。いつもときは、しももののそろひで、おとなしづくりのわかをとこで、をんなはう年下とししたくせに、薄手うすで圓髷まげでじみづくりの下町好したまちごのみでをさまつてゐるから、姉女房あねにようばうえるほどなのだが、「嬰兒あかんぼちゝみますから、あつしうでも、彼女あれにはるものの一口ひとくちはせたうござんすから。」――で、さしあたり仕立したてものなどのあつらへはないから、たちま荷車にぐるまりてきはじめた――これがまた手取てつとばやことには、どこかそこらに空車あきぐるまつけて、賃貸ちんがしをしてくれませんかとくと、はらつた親仁おやぢが、「かまはねえ、あいてるもんだ、つてきねえ。」とつたさうである。ひとごみの避難所ひなんじよへすぐ出向でむいて、荷物にもつはこびをがたり/\やつたが、いゝまへになる。……そのうち場所ばしよことだから、べつあひでもないが、柳橋やなぎばしのらしい藝妓げいしやが、青山あをやま知邊しるべげるのだけれど、途中とちう不案内ふあんないだし、一人ひとりぢや可恐こはいから、にいさんおくつてくださいな、といつたので、おい、合點がつてんと、せるのでないから、そのまゝ荷車にぐるま道端みちばたにうつちやつて、をひくやうにしておくりとゞけた。「別嬪べつぴんでござんした。」たゞでもこのやくはつとまるところをしみ/″\れいをいはれたうへに、「たんまり御祝儀ごしうぎを。」とよごれくさつた半纏はんてんだが、威勢ゐせいよくどんぶりをたゝいてせて、「なになにをしたつて身體からださへはたらかせりや、彼女あれはせて、ちゝはのまされます。」と、仕立屋したてやさんは、いそ/\とかへつていつた。――年季ねんきれたいつぱしの居職ゐじよくがこれである。
 それをおもふと、つくゑむかつたなりで、白米はくまいいてたべられるのは勿體もつたいないとつてもいゝ。非常ひじやう場合ばあひだ。……かせがずにはられない。
 しやにお約束やくそく期限きげんはせまるし、……じつ十五夜めいげつまへばんあたり、仕事しごとにかゝらうとおもつたのである。ところが、あさからのりで、れると警報けいはう暴風雨ばうふううである。電燈でんとうえるし、どしやりだし、かぜはさわぐ、ねずみはれる。……きふごしらへのあぶらりないしらちやけた提灯ちやうちん一具ひとつに、ちひさくなつて、家中うちぢうばかりぱち/\として、陰氣いんき滅入めいつたのでは、なんにも出來できず、くちもきけない。拂底ふつてい蝋燭らふそくの、それもほそくて、あなおほきく、しんくらし、かずでもあればだけれども、祕藏ひざうはこから……しておぼえはないけれど、寶石はうせきでも取出とりだすやうな大切たいせつな、その蝋燭らふそくの、ときよりもはやくぢり/\とつてくのを、なやして、見詰みつめるばかりで、かきものどころ沙汰さたではなかつた。


 をなぐりつけるあめなかに、かぜきまはされる野分聲のわきごゑして、「今晩こんばん――十時じふじから十一時じふいちじまでのあひだに、颶風ぐふう中心ちうしん東京とうきやう通過つうくわするから、みなさん、おけなさるやうにといふ、たゞいま警官けいくわんから御注意ごちういがありました。――御注意ごちういまをします。」と、夜警當番やけいたうばんがすぐまどまへれてとほつた。
 さらぬだに、地震ぢしん引傾ひつかしいでゐる借屋しやくやである。颶風ぐふう中心ちうしんとほるより氣味きみわるい。――むね引緊ひきしめ、そであはせて、ゐすくむと、や、や、次第しだい大風おほかぜれせまる。……ひとしきり、ひとしきり、たゞ、からいきをつかせては、ウヽヽヽ、ヒユーとうなりをてる。ぶくろ取付とりついた難破船なんぱせんおきのやうに、提灯ちやうちんひとつをたよりにして、暗闇くらやみにたゞよふうち、さあ、ときかれこれ、やがて十二時じふにじぎたとおもふと、所爲せゐか、その中心ちうしんとほぎたやうに、がう/\と戸障子としやうじをゆするかぜがざツとむねはらつて、やゝかるくなるやうにおもはれて、したものも、わづかかほげると……うだらう、たちま幽怪いうくわいなる夜陰やいん汽笛きてきみゝをゑぐつてぢかにきこえた。「あゝ、(ウウ)がますよ。」と家内かないがあをいかほをする。――このかぜに――わたし返事へんじ出來できなかつた。
カチ、カチ、カヽチ
カチ、カチ、カヽチ
 あめにしづくの拍子木ひやうしぎが、くもそこなる十四日じふよつかつきにうつるやうに、そでくろさもかんで、四五軒しごけんきたなる大銀杏おほいてふしたひゞいた。――わたしは、しもねむりをさました劍士けんしのやうに、ちついてきすまして、「大丈夫だいぢやうぶだ。ちかければ、あのおときつとみだれる。」……カチカチカヽチ。「しづかにつてゐるのでは火事くわじとほいよ。」「まあ、さうね。」といふ言葉ことばも、てないのに、「中六なかろく」「中六なかろく」と、ひしめきかはす人々ひと/″\こゑが、その、銀杏いてふしたから車輪しやりんごときしつてた。
 つゞいて、「中六なかろく火事くわじですよ。」とんだのは、ふたゝ夜警やけいこゑである。やあ、不可いけない。中六なかろくへば、なが梯子はしごならとゞくほどだ。しか風下かざしも眞下ましたである。わたしたちはだまつてつた。あをざめたをんなまぶた決意けついくれなゐてうしつゝ、「けないで支度したくをしませう。」地震ぢしん以來いらいいたことのないおびだから、ぐいとひきしめるだけでことりる。「度々たび/\みません。――御免ごめんなさいましよ。」と、やつと佛壇ぶつだんをさめたばかりの位牌ゐはいを、内中うちぢうで、こればかりは金色こんじきに、キラリと風呂敷ふろしきつゝとき毛布けつとねてむつくり起上おきあがつた――下宿げしゆくかれた避難者ひなんしや濱野君はまのくんが、「げるとめたら落着おちつきませう。いま樣子やうすを。」とがらりと門口かどぐち雨戸あまどけた。可恐こはいものたさで、わたしもふツとつて、かまちからかほすと、あめかぜとがよこなぐりにふきつける。ところへ――靴音くつおとをチヤ/\ときざんで、銀杏いてふはうからなすつたのは、町内ちやうない白井氏しらゐしで、おなじく夜警やけい當番たうばんで、「あゝもううございます。漏電ろうでんですがえました。――軍隊ぐんたいかたも、大勢おほぜいえてゐますから安心あんしんです。」「なんとも、ありがたうぞんじます――けて今晩こんばん御苦勞樣ごくらうさまです……のち御加勢ごかせいにまゐります。」おなじくみなみどなりへらせにおいでの、白井氏しらゐしのレインコートのすその、にからんで、あふるのを、濛々もう/\たるくも月影つきかげおくつた。
 このときも、戸外おもてはまだ散々さん/″\であつた。はたゞ水底みなそこ海松みるごとくうねをち、こずゑくぼんで、なみのやうに吹亂ふきみだれる。屋根やねをはがれたトタンいたと、屋根板やねいたが、がたん、ばり/\と、かけつたり、りみだれたり、ぐる/\と、をどさわぐと、石瓦いしかはらこそばないが、狼藉らうぜきとした罐詰くわんづめのあきがらが、カラカランと、水鷄くひな鐵棒かなぼうをひくやうに、雨戸あまどもたゝけば、溝端みぞばた突駛つツぱしる。みぞつかつた麥藁帽子むぎわらばうしが、たけかは一所いつしよに、プンとにほつて、くろになつて撥上はねあがる。……もう、やけになつて、きしきるむし合方あひかたに、夜行やかう百鬼ひやくき跳梁跋扈てうりやうばつこ光景くわうけいで。――このなかを、れてんだあを銀杏いてふ一枝ひとえだが、ざぶり/\とあめそゝいで、波状はじやうちうかたちは、流言りうげんおにつきものがしたやうに、「さわぐな、おのれ――しづまれ、しづまれ。」とつてすやうであつた。
わたし薪雜棒まきざつぽうつてて、亞鉛トタン一番いちばんしのぎけづつてたゝかはうかな。」と喧嘩けんくわぎてのぼうちぎりで擬勢ぎせいしめすと、「まあ、かつたわね、ありがたい。」とうれしいより、ありがたいのが、うしたとき眞實しんじつで。
してくだすつた兵隊へいたいさんを、こゝでもをがみませう。」と、女中ぢよちう一所いつしよかさなつてかどのぞいた家内かないに、「怪我けがをしますよ。」としかられて引込ひきこんだ。


 まことにありがたがるくらゐではりないのである。は、亞鉛板トタンいたんで、送電線そうでんせん引掛ひきかゝつてるのが、かぜですれて、せん外被ぐわいひつたためにはつしたので。警備隊けいびたいから、驚破すはかけつけた兵員達へいゐんたちは、外套ぐわいたうなかつたのがおほいさうである。危險きけんをかして、あの暴風雨ばうふううなかを、電柱でんちうぢて、しとめたのであるといた。――颶風はやてぎる警告けいこくのために、一人いちにんけまはつた警官けいくわんも、外套ぐわいたうなしにほねまでぐしよれにとほつて――夜警やけい小屋こやで、あまりのことに、「おやすみになるのに、お着替きがへがありますか。」といつてくと、「住居すまひけました。なにもありません。――休息きうそくに、同僚どうれうのでもりられればですが、大抵たいていはこのまゝます。」とのことだつたさうである。辛勞しんらうさつしらるゝ。
 あめになやんで、うらにすくむわたしたちは、果報くわはうといつてもしかるべきであらう。
 曉方あかつきがたわづかにとろりとしつゝがさめた。寢苦ねぐるしおもひのいきつぎに朝戸あさどると、あのとほれまはつたトタンいた屋根板やねいたも、大地だいちに、ひしとなつてへたばつて、魍魎まうりやうをどらした、ブリキくわん瀬戸せとのかけらもかげらした。かぜつめたさわやかに、町一面まちいちめんきしいた眞蒼まつさを銀杏いてふが、そよ/\とのへりをやさしくそよがせつゝ、ぷんと、あきかをりてる。……
 早起はやおきの女中ぢよちうがざぶ/\、さら/\と、はや、そのをはく。……けさうな古箒ふるばうきも、ると銀杏いてふかんざしをさした細腰さいえう風情ふぜいがある。――しばらく、あめながらいたこのあをは、そのまゝにながめたし。「ばんまでかないで。」と、めたかつた。が、時節じせつがらである。かないのさへ我儘わがまゝらしいから、うでんでだまつてた。
 うら小庭こにはで、すゞめ一所いつしよに、うれしさうなこゑがする。……昨夜ゆうべ戸外おもて舞靜まひしづめた、それらしい、銀杏いてふえだが、大屋根おほやねしたが、一坪ひとつぼばかりのにはに、瑠璃るりあはいて、もうちひさくなつた朝顏あさがほいろすがるやうに、たわゝにかゝつたなかに、一粒ひとつぶ銀杏ぎんなんのついたのをつけたのである。「たべられるものか、下卑げびなさんな。」「なぜ、うして?」「いちじくとはちがふ。いくらひしんばうでも、その黄色きいろくならなくつては。」「へい。」とまるくして、かざしたところは、もち借家しやくかやまかみだ、が、つゆもこぼるゝ。えだに、大慈だいじ楊柳やうりうおもかげがあつた。

 ――ところで、前段ぜんだんにいつたとほり、このはめづらしく快晴くわいせいした。
 ……とほりの花屋はなや花政はなまさでは、きかないぢいさんが、捻鉢卷ねぢはちまきで、お月見つきみのすゝき、紫苑しをん女郎花をみなへし取添とりそへて、おいでなせえと、やつてた。みづもいさぎよい。
 し、この樣子やうすでは、歳時記さいじきどほり、十五夜じふごやつきはかゞやくであらう。ちつゞく惡鬼あくきばらひ、をくあつする黒雲くろくもをぬぐつて、景氣けいきなほしに「明月めいげつ」も、しかし沙汰さたぎるから、せめて「良夜りやうや」とでもだいして、小篇せうへんを、とおもふうちに……四五人しごにんのおきやくがあつた。いづれも厚情こうじやう懇切こんせつのお見舞みまひである。
 ればことよ。今度こんど大災害だいさいがいにつけては、さきんじて見舞みまはねばならない、のこりのいへ無事ぶじはうあとになつて――類燒るゐせうをされた、なんともまをしやうのないかたたちから、先手せんてつて見舞みまはれる。かべやぶれも、ふせがねばならず、雨漏あまもりもめたし、……そのなによりも、をまもるのが、町内ちやうない義理ぎりとしても、大切たいせつで、煙草盆たばこぼんひとつにも、一人ひとりはついてなければならないやうな次第しだいであるため、ひつみじあんにすくまつて、ちひさくなつてゐるからである。


 はやく、この十日とをかごろにも、連日れんじつ臆病おくびやうづかれで、るともなしにころがつてゐると、「きやうさんはゐるかい。――なには……ゐなさるかい。」と取次とりつぎ……といふほどのおくはない。出合であはせた女中ぢよちうに、きなれない、かうすこかすれたが、よくとほ底力そこぢからのある、そしてしたしいこゑおとづれたひとがある。「あ、ながしさん。」わたしこゝろづいてした。はたして松本長まつもとながしであつた。
 この能役者のうやくしやは、木曾きそ中津川なかつがは避暑中ひしよちうだつたが、猿樂町さるがくちやう住居すまひはもとより、寶生はうしやう舞臺ぶたいをはじめ、しば琴平町ことひらちやうに、意氣いき稽古所けいこじよ二階屋にかいやがあつたが、それもこれもみな灰燼くわいじんして、留守るす細君さいくん――(評判ひやうばん賢婦人けんぷじんだから厚禮こうれいして)――御新造ごしんぞ子供こどもたちをれてからうじてなかをのがれたばかり、なんにもない。歴乎れつきとした役者やくしやが、ゴムそこ足袋たびきゲートル、ゆかたのしりばしよりで、手拭てぬぐひくびにまいてやつてた。「いや、えらいことだつたね。――今日けふけあとをとほつたがね、學校がくかう病院びやうゐんがかゝつたのにつゝまれて、駿河臺するがだいの、あのがけのぼつてげたさうだが、よく、あのがけのぼられたものだとおもふよ。ぞつとしながら、つく/″\たがね、がらうたつてがれさうなところぢやない。をんなうで大勢おほぜい小兒こどもをつれてゐるんだから――いづれひとさ、だれかがり、かたをひいてくれたんだらうが、わたし神佛しんぶつのおかげだとおもつて難有ありがたがつてゐるんだよ。――あゝ、裝束しやうぞくかい、みんはひさ――めんだけは近所きんじよのお弟子でしけつけて、のこらずたすけた。ひやくいくつといふんだが、これで寶生流はうしやうりう面目めんぼくちます。裝束しやうぞくは、いづれとしがたてばあたらしくなるんだから。」と蜀江しよくこうにしき呉漢ごかんあや足利絹あしかゞぎぬもものともしないで、「よそぢや、この時節じせつ一本いつぽんかんでもないからね、ビールさ。ひさしぶりでいゝ心持こゝろもちだ。」と熱燗あつかん手酌てじやくかたむけて、「親類しんるゐうちで一軒いつけんでもけなかつたのがお手柄てがらだ。」といつて、うれしさうなかほをした。うらやましいとはないまでも、結構けつこうだとでもいふことか、手柄てがらだといつてめてくれた。わたしむねがせまつた。と同時どうじに、一藝いちげいたつした、いや――從兄弟いとこだからグツとわりびく――たづさはるものの意氣いきかんじた。神田兒かんだつこだ。かれ生拔はえぬきの江戸兒えどつこである。
 その、はじめてみせをあけたとほりの地久庵ちきうあん蒸籠せいろうをつる/\とたひらげて、「やつと蕎麥そばにありついた。」と、うまさうに、大胡坐おほあぐらいて、またんだ。
 印半纏しるしばんてん一枚いちまいされて、いさゝかもめげないで、自若じじやくとしてむねをたゝいてるのに、なほまんちやんがある。久保田くぼたさんは、まるけのしかも二度目にどめだ。さすがに淺草あさくさにいさんである。
 つい、このあひだも、水上みなかみさんの元祿長屋げんろくながや、いややしきちうつて三百年さんびやくねんといふ古家ふるいへひとつがこれで、もうひとつが三光社前さんくわうしやまへ一棟ひとむねで、いづれも地震ぢしんにびくともしなかつた下六番町しもろくばんちやう名物めいぶつである。)へとまりにてゐて、ころんで、たれかのほんんでゐた雅量がりやうは、推服すゐふくあたひする。
 ついてはなしがある。(さるどのの夜寒よさむひゆくうさぎかな)で、水上みなかみさんも、わたしも、場所ばしよはちがふが、兩方りやうはうとも交代夜番かうたいよばんせこてゐる。まちかどひとつへだてつゝ、「いや、御同役ごどうやくいかゞでござるな。」とたがひひつはれつする。わたしがあけばんときよひのうたゝねからめてつじると、こゝにつめてゐた當夜たうや御番ごばんが「先刻せんこく、あなたのとこへおきやくがありましてね、かどをのぞきなさるから、あゝいづみをおたづねですかと、番所こゝからこゑけますと、いやようではありません――ばんだといふから、ちよつとました、といつておかへりになりました。をあけたまゝで、おたくぢやあみなさん、おやすみのやうでした。」とのことである。
「どんなひとです。」とくと、「さあ、はつきりはわかりませんが、おほきな眼鏡めがねけておいででした。」あゝ、水上みなかみさんのとこへ、今夜こんやとまりにひとだらう、まんちやんだな、とわたしはさうおもつた。久保田くぼたさんは、おほきな眼鏡めがねけてゐる。――ところがさうでない。たのは瀧君たきくんであつた。評判ひやうばんのあのひかつたとえる。これも讚稱さんしようにあたひする。


 ――さてこの十五夜じふごや當日たうじつも、前後ぜんごしておきやくかへると、もうそちこち晩方ばんがたであつた。
 例年れいねんだと、そのすゝきを、高樓たかどの――もちとをかしいが、このいへ二階にかいだからたかいにはちがひない。そのつき正面しやうめんにかざつて、もとのかゝらぬお團子だんごだけはうづたかく、さあ、成金なりきん小判こばんんでくらべてろと、かざるのだけれど、ふすまははづれる。障子しやうじ小間こまはびり/\とみなやぶれる。ざつしたばかりで、すゝもほこりものまゝで、まだ雨戸あまどけないでくくらゐだから、下階した出窓下でまどした、すゝけたすだれごしにそなへよう。お月樣つきさま、おさびしうございませうがと、かざる。……そのちひさなだいりに、すな氣味きみわる階子段はしごだんがると、……プンとにほつた。げるやうなにほひである。ハツとおもふと、かうのせゐか、てこめたなかけむりつ。わたしはバタ/\とびおりた。「ちよつとておくれ、げくさいよ。」家内かない血相けつさうしてけあがつた。「漏電ろうでんぢやないから。」――一日いちにち地震ぢしん以來いらい、たばこ一服いつぷくのない二階にかいである。「たゝみをあげませう。濱野はまのさん……御近所ごきんじよかた、おとなりさん。」「さわぐなよ。」とはいつたけれども、わたしむねがドキ/\して、かべほゝしつけたり、たゝみでたり、だらしはないが、かんがへ、かんがへつゝ、雨戸あまどつて、裏窓うらまどをあけると、裏手うらて某邸ぼうていひろ地尻ぢじりから、ドスぐろいけむりがうづいて、もう/\とちのぼる。「どのだ、正體しやうたい見屆みとゞけた、あのけむりだ。」といふと、濱野はまのさんがはなして、いでて、「いえ、あのにほひは石炭せきたんです。ひといでませう。」と、いふこともあわてながら戸外おもてす。――近所きんじよひとたちも、二三人にさんにんねんのため、スヰツチをつていて、たゝみげた、が何事なにごともない。「御安心ごあんしんなさいまし、大丈夫だいぢやうぶでせう。」といふところへ、濱野はまのさんが、下駄げたならしてんでもどつて、「づか/\にはからはひりますとね、それ、あのぢいさん。」といふ、某邸ぼうてい代理だいり夜番よばんて、ゐねむりをしい/\、むかし道中だうちうをしたといふ東海道とうかいだう里程りていを、大津おほつからはじめて、幾里いくり何町なんちやう五十三次ごじふさんつぎ徒歩てく饒舌しやべる。……安政あんせい地震ぢしんときは、おふくろのはらにゐたといふぢいさんが、「風呂ふろいてゐましてね、なにか、ぐと石炭せきたんでしたが、なんか、よくきくと、たきつけに古新聞ふるしんぶん塵埃ごみしたさうです。そのにほひがこもつたんですよ。大丈夫だいぢやうぶです。――ぢいさんにいひますとね、(どくでがんしたなう。)といつてゐました。」箱根はこね煙草たばこをのんだらうと、わらひですんだからいものの、すゝきつきすみながら、むね動悸どうきしづまらない。あいにくとまた停電ていでんで、蝋燭らふそくのあかりをりつゝ、ともしびともがふるふ。……なか/\にかせどころではないから、いきつぎにおもてて、近所きんじよかたに、たゞいまれい立話たちばなしでしてると、ひとどよみをどつとつくつて、ばら/\往來わうらいがなだれをつ。小兒こどもはさけぶ。いぬはほえる。なんだ。なんだ。地震ぢしん火事くわじか、とさわぐと、うまだ、うまだ。なんだ、うまだ。ぬしのないうまだ。はなれうまか、そりや大變たいへんと、屈竟くつきやうなのまで、軒下のきしたへパツと退いた。はなうまには相違さうゐない。引手ひきて馬方うまかたもない畜生ちくしやうが、あの大地震おほぢしんにもちゞまない、ながつらして、のそり/\と、大八車だいはちぐるまのしたゝかなやつを、たそがれのへい片暗夜かたやみに、ひともなげにいてしてる。重荷おもにづけとはこのことだ。そのくせくるまからである。
 が、うそまことか、本所ほんじよの、あの被服廠ひふくしやうでは、つむじかぜなかに、荷車にぐるまいたうまが、くるまながらほのほとなつて、そらをきり/\と※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはつたとけば、あゝ、そのうま幽靈いうれいが、くるま亡魂ばうこんとともに、フトまよつてあらはれたかと、るにものすごいまで、このさわぎにした、軒々のき/\提灯ちやうちんかげうつつたのであつた。
 かういふときだ。在郷軍人ざいがうぐんじんが、シヤツ一枚いちまいで、見事みごとくつわ引留ひきとめた。が、このおほきなものを、せまい町内ちやうない何處どこへつなぐところもない。御免ごめんだよ、たれもこれをあづからない。そのはずで。……うかといつて、どこへもどところもないのである。すこしでもひろい、中六なかろくへでもすかと、すと、ひとをおどろかしたにもない、おとなしいうまで、荷車にぐるまはうあばれながら、四角よつかどひがしく。……
 ぱらつたか、寢込ねこんだか、馬方うまかため、馬鹿ばかにしやがると、異説いせつ紛々ふん/\たるところへ、提灯ちやうちん片手かたていきせいて、うまつたはうからしながら「みなさん、ひるすぎに、見付みつけの米屋こめやうまです。あのうまつら見覺みおぼえがあります。これかららせにきます。」と、商家しやうか中僧ちうぞうさんらしいのが、馬士まごおぼえ、ともはないで、ばはりながらきたく。
 町内ちやうないいつぱいのえらい人出ひとでだ、なんにつけても騷々さう/″\しい。

 かううも、ばんごと、どしんと、おどろかされて、一々いち/\びく/\してたんではれない。さあ、もつてい、なんでも、とむか顱卷はちまきをしたところで、うままへへはたれはしない。
 ふけて、ひとりつきも、たちまくらくなりはしないだらうか、眞赤まつかになりはしないかと、おなじ不安ふあんごした。

 その翌日よくじつ――十六夜いざよひにも、また晩方ばんがた強震きやうしんがあつた――おびえながら、このをつゞる。
 ときに、こよひのつきは、雨空あまぞら道行みちゆきをするやうなのではない。かう/″\しく、そして、やさしくつて、りしもあれかぜひとしきり、無慙むざんにもはかなくなつた幾萬いくまんひとたちの、けし黒髮くろかみかと、やなぎげし心臟しんざうかと、つるの、ちうにさまよふとゆるのを、なぐさむるやうに、薄霧うすぎりそでひかりをながいた。
大正十二年十月





底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
   1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
   1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「十六夜いざよひ」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード