五月より
泉鏡太郎
卯の
花くだし
新に
霽れて、
池の
面の
小濁り、
尚ほ
遲櫻の
影を
宿し、
椿の
紅を
流す。
日闌けて
眠き
合歡の
花の、
其の
面影も
澄み
行けば、
庭の
石燈籠に
苔やゝ
青うして、
野茨に
白き
宵の
月、カタ/\と
音信るゝ
鼻唄の
蛙もをかし。
鄙はさて
都はもとより、
衣輕く
戀は
重く、
褄淺く、
袖輝き
風薫つて、
緑の
中の
涼傘の
影、
水にうつくしき
翡翠の
色かな。
浮草、
藻の
花。
雲の
行方は
山なりや、
海なりや、
曇るかとすれば
又眩き
太陽。
遠近の
山の
影、
森の
色、
軒に
沈み、
棟に
浮きて、
稚子の
船小溝を
飛ぶ
時、
海豚は
群れて
沖を
渡る、
凄きは
鰻掻く
灯ぞかし。
降り
暮す
昨日今日、
千騎の
雨は
襲ふが
如く、
伏屋も、
館も、
籠れる
砦、
圍まるゝ
城に
似たり。
時鳥の
矢信、さゝ
蟹の
緋縅こそ、
血と
紅の
色には
出づれ、
世は
只暗夜と
侘しきに、
烈日忽ち
火の
如く、
窓を
放ち
襖を
排ける
夕、
紫陽花の
花の
花片一枚づゝ、
雲に
星に
映る
折よ。うつくしき
人の、
葉柳の
蓑着たる
忍姿を、
落人かと
見れば、
豈知らんや、
熱き
情思を
隱顯と
螢に
涼む。
君が
影を
迎ふるものは、たはれ
男の
獺か、あらず、
大沼の
鯉金鱗にして
鰭の
紫なる
也。
山に、
浦に、かくれ
家も、
世の
状の
露呈なる、
朝の
戸を
開くより、
襖障子の
遮るさへなく、
包むは
胸の
羅のみ。
消さじと
圍ふ
魂棚の
可懷しき
面影に、はら/\と
小雨降添ふ
袖のあはれも、やがて
堪へ
難き
日盛や、
人間は
汗に
成り、
蒟蒻は
砂に
成り、
蠅の
音は
礫と
成る。
二時さがりに
松葉こぼれて、
夢覺めて
蜻蛉の
羽の
輝く
時、
心太賣る
翁の
聲は、
市に
名劍を
鬻ぐに
似て、
打水に
胡蝶驚く。
行水の
花の
夕顏、
納涼臺、
縁臺の
月見草。
買はん
哉、
甘い/\
甘酒の
赤行燈、
辻に
消ゆれば、
誰そ、
青簾に
氣勢あり。
閨の
紅麻艷にして、
繪團扇の
仲立に、
蚊帳を
厭ふ
黒髮と、
峻嶺の
白雪と、
人の
思は
孰ぞや。
月のはじめに
秋立てば、あさ
朝顏の
露はあれど、
濡るゝともなき
薄煙、
軒を
繞るも
旱の
影、
炎の
山黒く
聳えて、
頓て
暑さに
崩るゝにも、
熱砂漲つて
大路を
走る。なやましき
柳を
吹く
風さへ、
赤き
蟻の
群る
如し。あれ、
聞け、
雨乞の
聲を
消して、
凄じく
鳴く
蝉の、
油のみ
汗に
滴るや、ひとへに
思ふ、
河海と
山岳と。
峰と
言ひ、
水と
呼ぶ、
實に
戀人の
名なるかな。
神ならず、
仙ならずして、
然も
其の
人、
彼處に
蝶鳥の
遊ぶに
似たり、
岨がくれなる
尾の
姫百合、
渚づたひの
翼の
常夏。
宵々の
稻妻は、
火の
雲の
薄れ
行く
餘波にや、
初汐の
渡るなる、
海の
音は、
夏の
車の
歸る
波の、
鼓の
冴に
秋は
來て、
松蟲鈴蟲の
容も
影も、
刈萱に
萩に
歌を
描く。
野人に
蟷螂あり、
斧を
上げて
茄子の
堅きを
打つ、
響は
里の
砧にこそ。
朝夕の
空澄み、
水清く、
霧は
薄く
胡粉を
染め、
露は
濃く
藍を
溶く、
白群青の
絹の
花野原に、
小さき
天女遊べり。
纖きこと
縷の
如し
玉蜻と
言ふ。
彼の
女、
幽に
青き
瓔珞を
輝かして
舞へば、
山の
端の
薄を
差覗きつゝ、やがて
月明かに
出づ。
君知るや、
夜寒の
衾薄ければ、
怨は
深き
後朝も、
袖に
包まば
忍ぶべし。
堪へやらぬまで
身に
沁むは、
吹く
風の
荻、
尾花、
軒、
廂を
渡る
其ならで、
蘆の
白き
穗の、ちら/\と、あこがれ
迷ふ
夢に
似て、
枕に
通ふ
寢覺なり。よし
其とても
風情かな。
折々の
空の
瑠璃色は、
玲瓏たる
影と
成りて、
玉章の
手函の
裡、
櫛笥の
奧、
紅猪口の
底にも
宿る。
龍膽の
色爽ならん。
黄菊、
白菊咲出でぬ。
可懷きは
嫁菜の
花の
籬に
細き
姿ぞかし。
山家、
村里は
薄紅の
蕎麥の
霧、
粟の
實の
茂れる
中に、
鶉が
鳴けば
山鳩の
谺する。
掛稻の
香暖かう、
蕪に
早き
初霜溶けて、
細流に
又咲く
杜若。
晝の
月を
渡る
雁は、また
戀衣の
縫目にこそ。
傳へ
言ふ、
昔越山の
蜥蜴は
水を
吸つて
雹を
噴く。
時、
冬の
初にして、
槐の
鵙は
星に
叫んで
霰を
召ぶ。
雲暗し、
雲暗し、
曠野を


ふ
狩の
公子が、
獸を
照す
炬火は、
末枯の
尾花に
落葉の
紅の
燃ゆるにこそ。
行暮れて
一夜の
宿の
嬉しさや、
粟炊ぐ
手さへ
玉に
似て、
天井の
煤は
龍の
如く、
破衾も
鳳凰の
翼なるべし。
夢覺めて
絳欄碧軒なし。
芭蕉の
骨巖の
如く、
朝霜敷ける
池の
面に、
鴛鴦の
眠尚ほ
濃なるのみ。
戀々として、
徊し、
漸くにして
里に
下れば、
屋根、
廂、
時雨の
晴間を、ちら/\と
晝灯す
小き
蟲あり、
小橋の
稚子等の
唄ふを
聞け。(おほわた)
來い、
來い、まゝ
食はしよ。
それ、おほみそかは
大薩摩の、もの
凄くも
又可恐しき、
荒海の
暗闇のあやかしより、
山寺の
額の
魍魎に
至るまで、
霙を
錬つて
氷を
鑄つゝ、
年の
瀬に
楯を
支くと
雖も、
巖間の
水は
囁きて、
川端の
辻占に、
春衣の
梅を
告ぐるぞかし。
水仙薫る
浮世小路に、やけ
酒の
寸法は、
鮟鱇の
肝を
解き、
懷手の
方寸は、
輪柳の
絲を
結ぶ。
結ぶも
解くも
女帶や、いつも
鶯の
初音に
通ひて、
春待月こそ
面白けれ。
大正八年五月―十二月
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