いまも
中六番町の
魚屋へ
行つて
歸つた、
家内の
話だが、
其家の
女房が
負ぶをして
居る、
誕生を
濟ましたばかりの
嬰兒に「みいちやん、お
祭は、――お
祭は。」と
聞くと、
小指の
先ほどな、
小さな
鼻を
撮んぢやあ、
莞爾々々、
鼻を
撮んぢやあ
莞爾々々する。
山王樣のお
渡りの、
猿田彦命の
面を
覺えたのである。
それから、「お
獅子は? みいちやん。」と
聞くと、
引掛けて
居る
半纏の
兩袖を
引張つて、
取つてはかぶり、
取つてはかぶりしたさうである。いや、
[#「いや、」は底本では「いや、、」]お
祭は
嬉しいものだ。
――
今日は
梅雨の
雨が、
朝から
降つて
薄ら
寒い。……
潮は
其の
時々變るのであらうが、
祭の
夜は、
思出しても、
何年にも、いつも
暗いやうに
思はれる。
時候が
丁ど
梅雨にかゝるから、
雨の
降らない
年の、
月ある
頃でも、
曇るのであらう。また、
大通りの
絹張の
繪行燈、
横町々々の
紅い
軒提灯も、
祭禮の
夜は
暗の
方が
相應しい。
月の
紅提灯は
納涼に
成る。それから、
空の
冴えた
萬燈は、
霜のお
會式を
思はせる。
日中の
暑さに、
酒は
浴びたり、
血は
煮える。
御神輿かつぎは、
人の
氣競がもの
凄い。
五十人、
八十人、
百何人、ひとかたまりの
若い
衆の
顏は、
目が
据り、
色は
血走り、
脣は
青く
成つて、
前向き、
横向き、うしろ
向。
一つにでつちて、
葡萄の
房に
一粒づゝ
目口鼻を
描いたやうで、
手足の
筋は
凌霄花の
緋を
欺く。
御神輿の
柱の、
飾の
珊瑚が
※[#「火+發」、U+243CB、218-5]と
咲き、
銀の
鈴が
鳴据つて、
鳳凰の
翼、
鷄のとさかが、
颯と
汗ばむと、
彼方此方に
揉む
状は
團扇の
風、
手の
波に、ゆら/\と
乘つて
搖れ、すらりと
大地を
斜に
流るゝかとすれば、
千本の
腕の
帆柱に、
衝と
軒の
上へまつすぐに
舞上る。……
わつしよ、わつしよ、わつしよ、わつしよ。
もう
此時は、
人が
御神輿を
擔ぐのでない。
龍頭また
鷁首にして、
碧丹、
藍紅を
彩れる
樓船なす
御神輿の
方が、います
靈とともに、
人の
波を
思ふまゝ
釣るのである。
御神輿は
行きたい
方へ
行き、めぐりたい
方へめぐる。
殆ど
人間業ではない。
三社樣の
御神輿が、
芳原を
渡つた
時であつた。
仲の
町で、
或引手茶屋の
女房の、
久しく
煩つて
居たのが、
祭の
景氣に
漸と
起きて、
微に
嬉しさうに、しかし
悄乎と
店先に
彳んだ。
御神輿は、あらぬ
向う
側を
練つて、
振向きもしないで
四五十間ずつと
過ぎる。まく
鹽も
手に
持つたのに、……あゝ、ながわづらひゆゑ
店も
寂れた、……
小兒の
時から
私も
贔屓、あちらでも
御贔屓の
御神輿も
見棄てて
行くか、と
肩を
落して、ほろりとしつゝ
見送ると、
地震が
搖つて
地が
動き、
町が
此方へ
傾いたやうに、わツと
起る
聲と
齊しく、
御神輿は
大波を
打つて、どどどと
打つて
返して、づしんと
其處の
縁臺に
据つた。――
其の
縁臺がめい
込んで、
地が
三尺ばかり
掘下つたと
言ふのである。
女房は
即座に
癒えて、
軒の
花が
輝いた。
揃の
浴衣をはじめとして、
提灯の
張替へをお
出し
置き
下さい、へい、
頂きに
出ました。えゝ、
張替をお
屆け
申します。――
軒の
花を
掛けます、と
入かはり
立ちかはる、
二三日前から、もう
町内は
親類づきあひ。それも
可い。テケテンテケテン、はや
獅子が
舞ひあるく。
お
神樂囃子、
踊屋臺、
町々の
山車の
飾、つくりもの、
人形、いけ
花。
造花は、
櫻、
牡丹、
藤、つゝじ。いけ
花は、あやめ、
姫百合、
青楓。
こゝに、おみき
所と
言ふのに、
三寶を
供へ、
樽を
据ゑ、
緋の
毛氈に
青竹の
埒、
高張提灯、
弓張をおし
重ねて、
積上げたほど
赤々と、
暑くたつて
構はない。
大火鉢に
火がくわん/\と
熾つて、
鐵瓶が、いゝ
心持にフツ/\と
湯氣を
立てて
居る。
銅壺には
銚子が
並んで、
中には
泳ぐのがある。
老鋪の
旦那、
新店の
若主人、
番頭どん、
小僧たちも。
町内の
若い
衆が
陣取つて、
將棋をさす、
碁を
打つ。
片手づまみの
大皿の
鮨は、
鐵砲が
銃口を
揃へ、めざす
敵の、
山葵のきいた
鮪いのはとくの
昔討取られて、
遠慮をした
海鰻の
甘いのが
飴のやうに
少々とろけて、
蛤がはがれて
居る。お
定りの
魚軒と
言ふと、だいぶ
水氣立つたとよりは、
汗を
掻いて、
角を
落して、くた/\と
成つて、つまの
新蓼、
青紫蘇ばかり、
濃い
緑、
紫に、
凛然と
立つた
處は、
何うやら
晝間御神輿をかついだ
時の、
君たちの
肉の
形に
似て
居る。……
消防手御免よ。
兄哥怒るな。
金屏風の
鶴の
前に、おかめ、ひよつとこ、くりからもん/\の
膚ぬぎ、あぐら、
中には
素裸で
居るではないか。
其處が
江戸だい。お
祭だ。
わつしよい、わつしよい、わつしよい、こらしよい、わつしよい、こらしよい、わつしよ/\/\。
夜が
更けると、
紅の
星の
流るゝやうに、
町々の
行燈、
辻の
萬燈、
横町の
提灯が、
一つ
消え、
二つ
消え、
次第に
暗く
更くるまゝに、やゝ
近き
町、
遠き
辻に、
近きは
低く、
遠きは
高く、
森あれば
森に
渡り、
風あれば
風に
乘つて、
小兒まじりの
聲々が、
わつしよい/\、わつしよい/\、わつしよ、
わつしよ、わつしよ、――わつしよ。……
聲ある
空は、ほんのりと、
夢のやうな
雲に
灯を
包んで
動く。……かゝる
時、
眷屬たち
三萬三千のお
猿さんも
遊ぶのらしい。
わつしよ、わつしよ、
わつしよ、わつしよ――/\/\。……
大正十二年八月