道中一枚繪 その二
泉鏡太郎
(
彌次郎兵衞)や
歸つて
來た、べらぼうに
疾いな、
何うした。(
喜多八)えゝ、
車で
行つて
來たものですから。(
彌次)
其にしても
馬鹿に
疾いわ、
汝が
出掛けてから、
見ねえ、
未だ
銚子が
三本とは
倒れねえ。
第一、
此姉さんを
口説いて、
其返事をきかねえ
内だぜ。(
女中)
存じませんよ。(
彌次)や、
返事は
其か、と
額を
撫でて、こりや
鬱がせる、
大に
鬱ぐね、
己も
鬱ぐが
喜多八、
汝も
恐しく
鬱ぐぢやないか、
何か、
又内證で

ころが
喰ひたさに、
金子でも
借に
行つたのぢやないか、さもしい
料簡は
止せ、
京都三條通一寸上る
邊栗屋與太九郎以來道中で
驕らせようとすると
飛んだ
目に
逢ふ。
喜多八何となく
樂まず。(
喜多)
否留守だつたんです。(
彌次)フム、(
喜多)
實は
其の
東京を
出る
時から
此の
靜岡へ
着いたら
是非尋ねて
見よう、
久々で
逢つて
話したいと、
樂みにして
居たんです。
(
彌次)はゝあ、
大分執心と
見える、
別懇な
人か。
(
喜多)
別懇な……
何です、
親友の
細君なんです。
(
彌次)
何だ
細君、
細君なら
女ぢやないか。
(
喜多)
實は
女なんですが。
喜多八は
言ひ
惡さう。
(
彌次)
此の
野郎、と
苦笑。(
喜多)
若い
同士結婚をすると、
間もなく
私の
親友は
病氣で
亡くなつたんです。
其の
細君と
六十餘になる
病身な
父親とを
殘して
亡くなつたんです。
勿論、
財産といつてはない
處へ、
主人に
死なれちや
動きが
取れません、
細君の
實家といふのは
別に
物持といふほどではありませんが、
引取つて
再縁をさせるに、
別に
差支はないのですから、
年紀は
少し
容色は
好し、
一先づ
離縁をと、
度々申込んださうですけれど、
今の
世に
珍しい。(
彌次)はてな。(
喜多)
一度良人を
持つた
上は、
何處までも
操を
守り
通すと、これはまあ、
思ひ
合つた
同志、
然も
若い
内當座然う
言ふのは
別に
不思議なこともありませんが、
其の
細君には
未だ
外に、
自分が
出ては
便のない
舅の
世話を
誰がしよう、
見す/\
翌日からの
暮も
覺束ないといふ
條件があつたんです。(
彌次)はてな、と
膝を
進めて
殆ど
無意識に
差出す
猪口に、
女中も
默つて
酌をする。
喜多は
膳を
前に
丁と
坐つて、
卷莨を
斜めに
眞鍮の
火鉢のふちで
輕く
叩いて、
細君は
教育があつて、
殊に
生れつき
針仕事に
手が
利いたのを、
東京で
又其專門の
學校で
仕上げた
人なんですから、
不幸か、
幸か、
直ぐ
其術が
用に
立つて、
人仕事をして
暮を
立てて
居たさうですが、
生前にはいくら
懇意にしたつて、
友人の
亡い
後へは、
若い
者が
此で、
何となく
更まつて
行惡いもんですから、つい
尋ねもしません。
其内先方でも
暮しの
都合で、
彼方此方引越たり
何かしたもんですから、
居所も
知れなくなつたんです。
其内江戸川端の
狹い
汚い
路地で、
細君が
後齒の
減つた
下駄を
雪のやうな
拇指で、
蝮を
拵へて
穿いて、
霜の
降りた
朝、
井戸繩に
縋つて
束ね
髮の
窶れた
姿で、
水を
汲んで
居たつて、
見かけたものに
聞いたんです。
彌次杯を
置いて
煙管を
銜へ、ふむ、しかし
厭にいふな。(
喜多)いゝえ
其がです。
後に
此の
靜岡に
來て
學校の
教師をして
鷹匠町に
居るツて
事で、
(
女中)
感心な
方でございますねえ、と
膝に
構へた
銚子の
冷えたのも
忘れて
居る。
(
彌次)
分別顏を
傾けながら、いや
早まつて
感心をすると、あとで
色男を
拵へて
遁げたなどといふ
事になる、
得てあるで、
其處で
何うした。
(
喜多)
同一土地では
然ほど
懇意でない
者も
旅で
一所になれば
三年五年の
知己ぐらゐに
隔がなくなります。
東京ではたとひ
人は
知らないでも、
何だか
世間體極りが
惡くつて、
心ぢや
思つても
尋ねにくいのですが、
旅先だといくらか、
其心遣ひも
要らないといつた
形ですから、
今度お
伴をしたのを
幸、
是非一度逢つて、
其後の
樣子も
聞きたし、それは
私などが
言はないでも、
細君は
夢にも
見て、
死んだ
良人から
禮を
言はれて
居ませうけれど、
私は
又私で、
親友のために
禮も
言はう、
賞めもしよう、
慰めても
遣りたいと
思つたですから。(
彌次)いやなか/\、
眞面目だな、それから
何うした。
(
喜多)
鷹匠町とばかりで、
悉しく
番地なども
知らんので、
何れ
此れと
言はうより、
學校で
聞いた
方が
早分りがすると
思つたものですから、
車夫に
然ういつて、
寄宿舍の
前で
梶棒を
留めさしましたが、
其處へ
行くまでにお
濠端を
通りますね。(
彌次)お
城の
濠だ、うむ
成程。(
女中)
廣うござりませう。
喜多は
一呼吸して
一服吸つた。
凡そ
旅さきで、
川なり
池なり
廣い
水の
色を
見てると、
高い
山を
視めたより、
一層故郷に
遠いやうに
感ずるものです。
殊に
夜、あの
濁つた
灰色の
對岸が
暗くつて
分らない
岸を
通ると、あゝ
他國だなと
思ひました。
直ぐに
今尋ねようとする
人は、もツと
此のさきに
住んでるのだと
考へて、
嘸心細い
事だらうと。
彌次又苦笑して(
彌次)
異う
哀ツぽく
持込むぜ。
(
喜多)
氣も
急きますから、
車夫に
尋ねさせると、ずツと
門を
入りましたツけ、
何か
會でもあつたと
見えて
玄關に、……
學校と
書いた
高張が
立つて
居ます。
ばら/\と
三人、
白襟に
蝦茶といふのが
出て、
入亂れて、
一人は
車夫に、ものをいふ。
髮の
毛の
多い、
丸顏なのは
壁に
凭りかゝつて、
此方を
透すと、
一人面長で
年上な
女學生が、
式臺へ
下りて
車夫の
肩越に、
先生のお
宅は、……ト
車夫に
教へて
居たのが、ねえ、
其方が
知れ
可いでせう、と
丸顏のに
言ふと、
然うですよ、
車夫さん、
何處から
來たのといふ
時、
又一人靜に
出て
來た、
着流しのが
居ました。
車夫は
引返して、へい。
分つたか。
宜しうございます、と
梶を
上げました。
立つて
見送つて
居られるから、
帽子を
脱ぐと、
直ぐにから/\と
町の
淋しい
方へ
引出しましたが、
何だか
跡で
囁いて
居たやうで、あゝ、
惡かつた
清い
夫人が、
自分のために、
生徒たちに
何とか
怪まれやしないかと
思ふと、
變に
擽たいやうな
氣がします。
車は
早く
町を
出放れて
小川の
橋を
渡つたんです。さあ、
又この
川で
心細さが
増すと、それから
左右が
水田になつて、
人ツ
子一人通りやしません。
けれども、
何だか
顏を
見られるやうで、
靜岡といふ
土地も
狹く、
田の
中の
路も
狹く、
肩身も
狹いやうだつたんです。
車夫まだ
餘程か、
何だか
停車場前の
此家からは
夜の
路を、ものの
一里許りも
來たやうに
思ふツて、
聞きました。
電燈が
店あかりになつて、
其が、
窓の
灯になつて、
暗くなつて、
寄宿舍で、
高張を
見て、これから
彼方に
三軒此方に
二軒、
寢靜つたやうな、
場末を
越して、
左右が
涯もない
水田になつてたぢやありませんか。
向うに
見えます
眞直な
杉の
木が
其お
邸ださうです、と
言ひます。
成程、
眞黒なものの
中から、ぼんやり
曇つた
空に
通つて、
細いものが
一本見えました。
取着は
山のやうで、
最う、
其處か。
婚禮のあとで
尋ねた
時は、
別に
女中は
置かぬ
暮、
自分で
取次に
出たが、
男の
聲に
框の
障子の
引手の
破れへ、
此方は
知れぬつもりで、
目を
一つあてて
覗きなすつた
其の
品の
可い
曇のない、
美しいのが、
障子の
紙の
硝子で
切つて
嵌めたやうに
見えたのを、
今も
忘れないが、
矢張今度も
然うだらうか。
何だか
胸が
迫つて
俯向く
足許。
小川の
中から、びちや/\びちや/\びちやと、
水田を
向うへ
行くほど
泥を
離れて、
高くなつたやうな
音で、
闇の
中へ
飛んだものが
何かある。
魚なら
鯉ぐらゐの
大さ。ですが
其氣勢は
獺が
歩行いたやうで、
夜は
今の
間に
丑三も
過ぎたかと
思ふ
寂寞さ。
見通し
一町には
足りない
路が
一時もかゝるやうに
氣が
急いたんです。
車が
着くと、
何ですか
更まつて、
急には
門が
開けられません。
垣根に
袖を
觸れ、
井戸の
柱に
凭りかゝつて、
唯、
恁う、
見ると、
杉の
木の
下の
低い
格子戸から、
射す
燈の
工合が、
厭に
貧しい。
覗くと
框の
二枚の
障子が
穴だらけぢやありませんか。(
彌次)はてな。(
喜多)いや、
恁ういふ
筈ぢやなからうが、と
思ひながら
見ると、
戸外の
戸袋の
横に、
小さな、しるしばかりの
門松が
打つけてあります。
釘がゆるんで、
觸ると
取れさう。
戸を
開けようとする、と
直ぐ
上り
口に
障子の
内で、
ごほりと
老人が
咳をします。
御免下さい、と
大きく
二度ばかり
呼ぶと、
徐々と
障子を
開けましたが、
取着の
三疊の
炬燵から
横に
摺つて、
手を
伸したので。
内は
如何にも
侘しい
住居。
扨は
殘つて
居た
借金を
此處へ
來ても
取られるか、
細君が
義理堅い
人だけに、
少い
月給の
内から
仕拂ふのに
違ひない、と
先づ
氣の
毒さが
一杯になつて、
戸を
開けて
半身入るには
入りましたが、
近處の
者ではないと
見て
昔氣質の
老人、すぐに
炬燵から
出て、
丁と
手をついて、これは
誰方樣ぢや。
親友が
生きて
居る
内も、
病人で
餘り
客に
顏は
見せなかつた
老人、
幼友達と
言ふのではありませんから、
顏を
見覺えては
居ないので
又目も
疎いのでせう。
膝を
突合しては
話をしたことはありませんが、
私は
見知越。お
芳さんは、と
名をいつて
尋ねますと、
耳を
向けて
聞直して、
彼は、といふ
内も
ごほごほと
痩せた
肩を
縱に
搖つて
咳入りながら、
學校の
用で
昨日東京へ
參りましてな、
何かにつけて
御苦勞なことでござる、とつい
口へ
出される
心中、
私はハツと
言つた
切。
いづれ
伺ひます、
又と、
土地の
者のやうなことを
吃りながら
言つて、
悄然と
出ましたのを、
薄暗い
洋燈越に、よろ/\と
立つて
障子につかまつてお
見送りなすつた
姿、
此人を
介抱してこんな
處に
唯二人、と
歸りには
俥の
上で、
默つて
腕組をして
俯向いて、
何處を
通つたか、もう
來たかと
思ふ
内に
歸つたんです、
話はこれだけなんですが。
聞いて
居たものは
二人とも
默つて、
歎息をしたのである。それから
天窓から
若い
者を
罵倒しながら
猪口を
嘗める
口を
轉じて、
貞女だ
節婦だ、
得難い、
無類、などいふ、
未亡人賞讚の
聲を
絶たずして、
酒も
理に
落ちた。
多くは
飮まなかつたから、あくる
日は
二人とも
頭輕く、
朝風に
颯と
俥を
二臺、
停車場を
左へ
切れた
久能へ
行く
街道で、
府中通の
栃面屋、
此處の
景色を
見ろと、
故と
畷に
下立つて、
城あとの
方を
顧ると、
冬田の
空に
富士の
高峰、
雪に
霞を
被げる
姿。
下に
こんもりとした
紫の
雲の
靉靆いたやうな、
朝ぼらけの
森の
中に、
高く
朱塗の
堂が
見えた。
(
喜多)
彼は、(
彌次)ありや
昨夜お
前の
行つた
鷹匠町の
觀音堂だ。(
喜多)
彼處が、(
彌次)
彼邊の
家は
縁側にすわると、
富士の
裾へ
手が
屆くやうだよ。
然ればこそ、
軒の
富士、
窓の
御堂。
芳子は、
其ばかりでも
長に
操を
守るであらうと、
喜多八は
心に
佛菩薩の
慈悲の
廣大なることを、
未亡人のために、
舊友のために、
又老人のために
感拜したのであつた。
明治三十八年七月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
初出:「九州日日新聞」
1904(明治37)年1月1日
※表題は底本では、「道中一枚繪 その二」となっています。
※初出時の表題は「新双六」です。
※底本の題名の下に書かれている「明治三十八年七月」は本文末に移しました。
※「燈」と「灯」の混在は、底本通りです。
※「車夫」に対するルビの「しやふ」と「わかいしゆ」と「くるまや」の混在は底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2024年10月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。