今年四月二十九日、
新橋發、
汽車は
午前六時半なれども、
三十日を
前に
控へたれば、
未だ
夜の
明けぬに
出立つ。
夜逃の
體に
似たるかな。
旅馴れぬ
身のしをらしくも
心急きたるなり。
柳の
翠ほのぼのと、
丸の
内を
馳らすれば、
朝靄のやゝ
動くが、
車の
轍にまとひ、
薄綿の
大路靜に、
停車場に
着く。
あわたゞしき
漢の
習とて、
待つ
間もどかしく、とかくして
汽車に
乘れば、
瞬く
間に
品川なり。
驛路や茶屋の柳の朝ぼらけ
と
同行の
喜多八、
句にもあらず
我にもあらず
呟く。
電車の
通ふ
品川を
驛路といふも
旅の
心なるべし。
彌次はたゞ
窓より
顏を
差出して、
左手の
海を
視めしが、あけ
行く
漣の、
旭に
對して、
後朝の
風情ならなくに、
我が
顏あまりに
寢惚けたり。
こゝに
携ふる
處の
吸筒を
開き、
四邊に
氣を
兼ねつゝ、そツと
飮む。
六郷にて、
猪口を手に渡越すなり春の旅
大船にてサンドイツチを
買ひ、
一折を
分ちて
賞翫す、
此の
處の
名物なりとぞ。
花菫やゝハイカラの思あり
野もせに
由縁の
色のなつかしきに、いつか
武藏の
國も
過ぎつ。
箱根路近うなるほどに、
山蔭なる
薊一本、いと
丈高きも
行く
春や、
汽車の
音も、
山の
姿も、おどろ/\しくなりもて
行く。
山北にて
早乙女の
一人はものをおもふらし
出征軍人を
送る
旗五旒ぞ
立ちたりける。
佐野
げげ
花や
富士の
裾野の
二三反
沼津にて
辨當を
買ふ、
(
喜多)また
半分づゝ
食べるの。
(
彌次)
人聞きの
惡いことをいひなさんな。
大船のはアリヤ
洒落だ、
一寸餡ころ
餅といふ
處よ。
辨當はちやんと
二人前買ひます、
安心しておいで。イヤ
又いろ/\
名物をば
食はせよう。
(
喜多)
山北には
香魚の
鮨があつたつけ。
彌次默して
答へず、
煙草を
吹かすこと
頻なり。
辨當の菜も鰯よ長閑さよ
所謂上等なるものにあらず、なみにて
鯛の
尾頭はおよびもなし。
この
驛より、
六十餘の
老爺、
少き
京美人と
同伴なるが
乘込む。
箱根の
温泉のかへりと
見えたり。
女、おゆるしやと
前を
通る。
女つれてつむり光の春の人
曰く
老爺を
嘲る
也、
或はいふ
羨む
也。
原(午後一時)
永き
日を
馬車に
乘り
行く
飴屋かな
畷路にドンドコ、ドンドコゆるき
調子の
太鼓聞えて、
荷とともに
飴屋が
乘りて、
悠々と
馬車こそ
通れ。
野の
花は
菫たんぽぽ、
黄に
又紫に、おのがじし
咲きたる
中を、
汽車の
衝と
過ぐる、
至る
處、
色鳥の
亂れ
飛ぶ
状なりしが。
此のあたり
又一入紫雲英の
花盛にて、
彼の
田も、
此の
田も、あれ/\といふまゝに、
左右前後皆薄紅の
日中なる、
苗代蒼く
富士白し。
紅のげげの
花川見ゆるなり
吉原にてお天氣曇る
薄雲や
野末はげげの
花明り
かけ
川の
宿にて、
停車場より
此方を
差覗く
者あり、
柳の
黒髮、
島田にや、
由井に
行く?と
見る
間に
人に
紛れにけり。
菜の花をちよと掛川や水車
小夜の
中山晩景。
古寺や谷をこぞりて鳴く蛙
このあたりより
雨もよひとなる。
程なく
大井川近づけば、
前途遙かに
黄昏の
雲の
中に、さゝ
濁りの
大河の
色、
輝くが
如くに
見ゆる、
今の
間に
富士の、
後なる
方に
遠ざかり
行く
心地すめり。
ぽつり/\と
降り
出でつ。
唯見れば、
鳶、
烏、
凧一ツ
飛べり。
袋井にて
颯と
降り
出す。
彼方なる
町の
中は、
森の
高きに
包まれて、
家毎に
逢ふ
魔が
時なりや、
茶店の
旗もせはしきが
中にもの
寂し。
汽車は
濡れ
色美しく、
煙を
淡く
吐きつゝ
留れり。
時に
停車場なる
瓦斯燈、フト
見えつ。(べツかツこをしたやうな
瓦斯燈の
畫あり、
略之。)
同行二人いづれも
美人携帶の
件の
老爺に
憤る
如き、
風流は
解しながら、
以ての
外の
臆病漢、
箱根より
西なればぞ
尚ほ
驚きぬる。
これにつけて、おもへらく、
江戸なる
我が
家主樣太郎兵衞氏の
女、
十ばかりになりたるが、また
極めてものおぢする
性にして、
卯の
花の
暗に
迷ひ、
木槿の
炎に
膽を
冷す。
但店子の
如く、
女子と
三十日を
恐れざるのみ。
赤坂の
先祖ならねども、おどしてやらんと、
鉛筆もて、
豫て
持參の
葉書の
表に、これを
圖して、さて
書きつく。
Fukuroi(道中雙六參照)
ちよいと、こんなお化が居たの、恐くはなくつて?
月 日彌次郎兵衞
おうちやん
雨次第に
烈し。
天龍川大雨
天龍や
篠を
束ねて
春の
雨
濱名の
湖は
渺としてたゞ
暗かりけり。ふた
川あたり、ちら/\と
田家の
灯。
かくて
豐橋に
着く。
彌次は
左の
方に
居たり。
其の
窓をあけて
差覗けば、
停車場の
柳また
圖の
如し。(
柳の
化けたる
畫あり、
又略之。)
恐くはなくツて、とおどせしは
今し
方よ、
人をのろはば
穴二ツ、おそろしかりける
事どもなり。
御油に
至りて
風情異なり。
屋根をつたふ
雫とく/\、
瓦斯燈の
影に
遲櫻枝もたわゝなるが
窓近う
咲亂れて、
葉も
明く、
花の
露はら/\と
今留まりし
汽車の
名殘に
靡き
留まず、
居ながら
掌に
汲むべかりけり。
葉櫻に御油の灯や宵の雨
風情なるかな、
即ち
杯にうけて
喜多と
又飮みはじむ。
彼處にも
此處にも
人寢たり。
老爺の
如きは、
美人の
膝を
枕しき。
彼もさしうつむくや、
雨をいとふらん。
汽車出でつ。
窓を
塞ぐ。
明治三十七年七月