月夜車

泉鏡太郎





 宴會えんくわいふが、やさしいこゝろざしのひとたちが、なき母親はゝおや追善つゐぜんいとなんだ、せきつらなつて、しきさかづきんだ、なつの十ぎを、袖崎そでさきふ、………今年ことし東京とうきやう何某大學なにがしだいがく國文科こくぶんくわ卒業そつげふして、故郷こきやう歸省中きせいちう青年せいねんやまふもとかはつて、下流かりうはうくるまはしらしてかへつてた。やがてまちちかい、すゞはしが、河原かはら晃々きら/\しろい、みづあをい、對岸むかうぎしくらい、川幅かははゞよこつて、艷々つや/\一條ひとすぢかゝる。たもとくろく、こんもりとみどりつゝんで、はるかにほしのやうな遠灯とほあかりを、ちら/\と葉裏はうらすかす、一本ひともとえのき姿すがたを、まへなゝめところで、
車夫わかいしゆ、」
 とうへからこゑけた。
つとくれ。」
「へい、」
其處そこへ。一寸ちよいとみぎはひつてもらひたいな。」
 トくるまは、きふ※(「石+鬼」、第4水準2-82-48)いしころみちに、がた/\とおとててやますそ曳込ひきこんだが、ものの半町はんちやうもなしに、あがぐちの、草深くさぶかけはしさかるのであるから、だまつてても其處そこまつた。
旦那だんなうなさります。」
おろせ。」
 ととき袖崎そでさきつゞいて、背後うしろからならんでた五六だいくるまが、がら/\と川縁かはべりを、まちして通過とほりすぎる。看板かんばん薄黄色うすきいろが、まくけた舞臺ぶたいはしおもむきえた。
 もつとかれまへにもくるまつゞいた。爾時そのときはしうへをひら/\肩裾かたすそうすく、月下げつか入亂いりみだれて對岸たいがんわたつた四五にんかげえた。其等それら徒歩かちで、はやめに宴會えんくわいした連中れんぢう初夜しよやぎの今頃いまごろ如何いかなつ川縁かはべりでも人通ひとどほりはえてない。ひとくるまも、いづれ列席れつせきしたものばかりで、……前後あとさきくるまなかから、かれ引外ひきはづして、此處こゝはひつてたのである。
 中親仁ちうおやぢだつた。車夫くるまやは、楫棒かぢぼうげたまゝ捻向ねぢむいて、
草場くさつぱ夜露よつゆひどうございますで、旦那だんな、おはかますそれませう。つていらつしやいまし。ええ、んでござります、彼是かれこれうしてちますほどのこともござりますまい。おつれかたみんな通過とほりすぎてしまつたやうでござりますで、大概たいがい大丈夫だいぢやうぶでござりませう。徐々そろ/\曳出ひきだしてませうで。いや、うもの、あれでござりますよ。ついのおさけひますものが、素直すなほうちへおかへりになりにくいものでござりまして、二次會にじくわいとかなんとかまをしますんで、えへゝ、」
 とひとわらごゑ
「あゝ、わかしうなにかい、つれのものが、何處どこ二次會にじくわい引張出ひつぱりださうとして、わたしなか引挾ひつぱさんだ、……れをはづしたのだとおもつたのかい。」
「へい、それ引込ひきこめ、と仰有おつしやりますから、精々せい/″\目着めつかりませんやうに、突然いきなり蝋燭らふそくしてたでござります。やまかげりますで、くるまだい月夜つきよでも、一寸ちよいとにはきますまいとおもひまして、へい。」とつて、間拍子まびやうしけた、看板かんばんをぶらりかさしたつてせた。が、地方ゐなかこととて、番號ばんがうもなくばつしろい。
御深切ごしんせつ御深切ごしんせつ、」
 とわらつて、
うぢやないのだ。まありよう。」
「へい、おちなさいまし、※(「石+鬼」、第4水準2-82-48)いしころきしみますで。」とつくばつて、ぐい、とかぢおさへる。
 其處そこりた。
「しかし、おもつたのは道理もつともだよ、同伴つれ同伴つれだからね。」
「えゝ、大分だいぶ、お綺麗きれいところがおそろひでござりました、みな新地しんち御連中ごれんぢう。」
ところが、今日けふくわい眞面目まじめなんだよ。婦人をんなたちはおしやくたのでもなければ、取卷とりまきでもない、じつ施主せしゆなんだ。」
施主せしゆ、へい、施主せしゆまをしますと……」となにかまぶしさうなほそうして、うす眉毛まゆげ俯向うつむけた、やつれ親父おやぢ手拭てぬぐひひたひく。
こゝろざほとけ追善つゐぜんをしたのさ。藝者げいしやたちが感心かんしんぢやないか。」
「おめづらしい、奇特きとくことでござります。いづれ旦那筋だんなすぢのでござりませう。」
一寸ちよつとくとだれでもおもふだらう、ところちがふんだ、客筋きやくすぢのぢやない。みんな師匠ししやう追善つゐぜんなんだ。」
「お師匠ししやうさんとまをしますと?」
 ため蝋燭らふそくまでした車夫くるまやは、ついとほりの乘客きやくではない、馴染なじみらしく、したしげに問懸とひかける。
わかしうつてるだらう、川下かはしも稻荷河原いなりがはらふ、新地しんちうらる。彼處あすこに、――遊廓いうくわくをんなが、遊藝いうげいから讀書よみかきちやはななんぞの授業じゆげふける女紅場ぢよこうばふのがあるのを、」
「ござります、へい、成程なるほど。」となか合點がてんしたふうをした。
其處そこのお師匠ししやうさんの十三囘忌くわいきいとなんだのだよ。」
「十三囘忌くわいき、はあ、大分だいぶひさしいあとの佛樣ほとけさまを、あのてあひには猶更なほさら奇特きとくことでござります。」と手拭てぬぐひつかんだを、むねいてかたむいて、
旦那だんな、くどいことをおたづまをしますやうでござりますが、あのの十三囘忌くわいき今日けふ佛樣ほとけさまは、旦那衆だんなしうでござりますか、それとも御婦人ごふじんで、」
をんなだ。うしたい、」とひながら、袖崎そでさき尾上をのへまつあふいだ。山懷やまふところくらく、かみくろく、月影つきかげいろしろい。
 かさしたから、これをかして、車夫くるまや其笠そのかさりながら、思案顏しあんがほひたひせた。
「もし、それぢや、のおかたは、袖崎そでさきさんの御新姐ごしんぞぢやござりませんか。」
「え、つてるかい、わかしう。」と振返ふりかへつてじつた。
面目めんぼくもござりません。」と手拭てぬぐひかさおとして、裏返うらがへしにひざげた、こしかゞめて、
「十三囘忌くわいき佛樣ほとけさまは、貴方あなた御母樣おつかさまでいらつしやいませう。ぼつちやん、ぜん御厄介ごやくかいになりました友造ともざうでござります、う、おおぼえはござりますまい。」
 と滅入めいつたこゑして、のしよぼ/\したさびしいまゆげてつた。
「まあ、うした?」
 とにした扇子あふぎを、その、はかまへ。
ぼくちつともがつかなかつた。」
ていでござります。へい、御見忘おみわすれは御道理ごもつともで。いや、うからつきし、意氣地いくぢもだらしもござりません。貴下あなた御成人遊ごせいじんあそばしましたな。うも御樣子ごやうすておいでなさいます、といままをせばまをしますやうなものの、あんまりおほきくおりなさいましたで、まるでもつて、思掛おもひがけずでござりました。失禮しつれいながら、おいくつに。」
ともさん、後厄あとやくだよ。」
「へゝゝ、だれにおあそばしたやら、大分だいぶ高慢かうまんくちをおきになります、お廿六で、」
「あゝ、」
「しみ/″\ぞんじてりますのは、まだ七歳なゝつ八歳やつ御親父樣ごしんぷさまも、御存命ごぞんめい時分じぶんでござりますから、彼是かれこれざつと二十ねんれがおくなりなすつて、母樣おつかさまが、女紅場ぢよこうばへいらつしやつて、をどりやなにか、遊藝いうげい師匠ししやうあそばして、手一てひとつで、貴下あなたをおそだてなさります時分じぶんは、かげながらおかほましたくらゐなもの。いか御恩ごおんかうむりましたに、いざおいへが、ところには、ろく暑寒見舞しよかんみまひにも御伺おうかゞひいたしません。手前てまへ不都合ふつがふ料簡方れうけんがたと、おいへばちで、體裁ていさいでございます、へい。
 こんな薄汚うすぎたない、車夫風情しやふふぜいをつかまへて、かつたいばうともおびなさらず、
ともさん。)といまおつしやつてくださいました、御聲おこゑが、御新姐樣ごしんぞさまそつくりで、――友造ともざうむね充滿いつぱいりました。」
 袖崎そでさきふたゝみねあふいだ。はれてればわれながら、=ともさん=とんだ自分じぶんこゑが、たにふかこだまひゞいたやうにもおもふ。母親はゝおや墳墓おくつきは、やまあるをかの、つき淺茅生あさぢふに、かげうすつゆこまやかにじやくとある。
 友造ともざうはなをすゝつて、
「えゝ、人間にんげんうまでにりませずば、表向おもてむ貴下あなたのおともをいたしまして、今夜こんやなんぞ、たとひ對手あひて藝者げいしやでも、御新姐樣ごしんぞさまには齋檀那ときだんな施主方せしゆがた下足番げそくばんでもしませうものを、まつた腑甲斐ふがひない、殘念ざんねんことでござります。」とげたこしちあへず、いしうづくまつた。くされ、れて、樹蔭こかげつき斷々きれ/″\に、ほねくだいてらしたれば、片輪車かたわぐるまかげたふして、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りんねすごゑがけるさま


 可哀あはれ車夫しやふむかつて、大川おほかはながれおとむやうに、姿すがた引締ひきしめてたゝずんだ袖崎そでさき帽子ばうしには、殊更ことさらつき宿やどるがごとえた。
なに稼業かげふならいではないか、天秤棒てんびんぼうかついだつて楫棒かぢぼうにぎつたつて、だれに、なにきまりがわるいね。
 しかし仕事しごとうしたんだね、ともさんはしよくがあるのぢやないか。」といぶかしさうにつた。友造ともざう袖崎そでさきうちおんがあるとつたのもほかではない、けんきこえた蒔繪師まきゑしだつた、かれちゝとしつかへて、友造ともざう一廉ひとかどうで出來でき職人しよくにんであつたので。もとより以前いぜんから、友造ともざういへは、土地とちでも、場末ばすゑの、まちはづれの、もと足輕町あしがるまちやぶ長屋ながやに、家族かぞく大勢おほぜいで、かびた、しめつた、じと/\したまづしいくらしでたのであるから、自分じぶんみせつて註文ちうもんるほどの資力しりよくはないまでも、同業どうげふもとやとはれて、給金きふきんらうなら、うした力業ちからわざをするにはあたらぬ。またはう收入みいりおほはずではないか。
「えゝ、れが矢張やはり手前てまへこゝろから仕方しかたがないのでござりまして、以前いぜん、おうちりました時分じぶんから、うもわるいので、」
 とてのひらうへこすつて、
これけては御親父樣ごしんぷさま御新造樣ごしんぞさま大概たいがい御心配下ごしんぱいくだすつたことではござりません。友造ともざうや、身體からだつゝしめ、ともさん、さけをおみでないよ、と親身しんみ仰有おつしやつてくださります。……貴下あなたまへでござりますが、われながら愛想あいそきた不身持ふみもちでござりまして、毎々まい/\をとこ面目玉めんぼくだま溝漬どぶづけ茄子なすらうとするところを、幾度いくたびすくひいたゞいたかわかりません。れにもりず、一時あるときなんぞは、とん遊蕩のら金子かねこまりますところから、えぬ、へゝゝゝ、」となさけないこゑして、
はうやうもござりません。もう、えぬ、一生いつしやう大難たいなんでござりますと、御新姐樣ごしんぞさまをおをがまをして、の二十さき大巖おほいは不動樣ふどうさままをすのへ、おこもりの願掛ぐわんがけにまゐりたい、といてせて、れまでにも毎々まい/\の、とて御利生ごりしやうのないところを、御新姐樣ごしんぞさまのお執成とりなしで、ちつまとまつた草鞋錢わらぢせん頂戴ちやうだいする、とあし新地入しんちばひりでござります。何處どこばちあたりませう。達者たつしやでも盲目めくららずにはまぬはずを、うへにもおわびかなへてくださいました。御兩親ごりやうしん御利益ごりやくで、まだ、まあうやつておほまかなところは、くもかすみと、見分みわけのきまするのが、つけものでござります。
 へい、陰徳いんとくんとやら、と御酒ごしゆうへでは、御親父樣ごしんぷさまがおはなしになりましたが、なかことまをしますものは、書物しよもつとほりにはまゐりませんで。……お慈悲深じひぶかいおかただけに、お貯蓄たくはへつてはござりませんで、……おなくなりなさりますと、ぐに御新姐樣ごしんぞさまが、貴下あなたと、お年寄としよりかゝへて、お一人ひとり御辛勞ごしんらうをなさりました。
 女紅場ぢよこうばで、お師匠ししやうさんをなさります、のおこゝろうちぞんじながら、勿體もつたいない、引張ひつぱりの地獄宿ぢごくやどで、たこあしかじりながら、袖崎そでさき御新姐ごしんぞ直傳ぢきでんだ、と紀伊國きいのくに音無瀬川おとなせがはきつねいた人畜にんちくが、沙汰さたかぎりでござります。
 えゝ、ぼつちやん、こんな世迷言よまひごとまをしまして、今更いまさら貴下あなたに、おわびねがつて、またかゝりたいのうのとまをします、うした料簡れうけんではござりませんが、これでも貴下あなた母樣おつかさま何囘忌なんくわいきぐらゐはこゝろおぼえてりますところへ、あま思懸おもひがけないおかたにお目通めどほりをいたしましたで、つい、其處そこに、御新姐樣ごしんぞさままへへおあそばしたやうにえましたものでござりますから、かね胸充滿むねいつぱい申譯まをしわけをうか/\喋舌しやべつたでござります。」
 とことば途絶とだえた、しはぶきをして、
「ヤ、して、お宿やど何方どちらにおいでなさります。」
「あゝ、明日あすでもはなしにないか、わたしはね、針屋はりやるよ、つてるだらう、祖母おばあさんの實家じつかで、再從兄妹またいとこうちさ。」
道理だうりこそ、てまへやとつてくれましたわかしうが、小蓑小路こみのこうぢまで、とまをしました。いえ、彼處あすこ供待ともまちをしました、あのてあひみんな遊廓くるわのでござりますで、看板かんばんがどれも新地組合しんちくみあひしるし麗々れい/\いてござります。ねえ[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、11-9]さんたちが心着こゝろづけたでござりませう。貴下あなたをおおくまをしますのに、町中まちぢう新地組合しんちくみあひ看板かんばんでは、御外聞おぐわいぶんかゝはらうとふ、……其處そこ橋向はしむかうを、あぶれてぶらついてります、てまへが、お見出みだしにあづかりましたものとえます、へい、へい。」と叩頭馴おじぎなれて、うまれついて車夫くるまやらしいのも、うすいのが物寂ものさびしい。
「はあ、御串戲ごじようだんをなさりますな、貴下あなたからお酒錢さかてなんぞ、うして餘分よぶん御祝儀ごしうぎねえさんたちにいたゞいてります。格別かくべつをつけてお供申ともまをせとことで。へい、これまつたくもちまして今日けふ御新姐樣ごしんぞさまがおめぐみでござります。なか/\、まだこれでもぼつちやんさへ御承知下ごしようちくだされば、くるま此處こゝ打棄うつちやつて、猿抱負さるおんぶおぶまをして、友造ともざうふんどしひもとほした天保錢てんぱうせんで、風車かざぐるまつておたせまをしたうござります。ヤ、へば、今夜こんや遊廓前くるわまへ毘沙門樣びしやもんさまのお裏祭禮うらまつり。あれ、おきなさりまし、どんどろ/\と、きざんだ太鼓たいこきこえます。」
 とまぶしさうに仰向あをむいた。つきとき川浪かはなみうへ打傾うちかたむき、左右さいう薄雲うすぐもべては、おもふまゝにひかりげ、みづくだいて、十日とをかかげ澄渡すみわたる。……そらくぎつたみね姿すがたは、山懷やまふところくらつて、がけ樹立こだちくろなかに、をりから晃々きら/\ほしかゞやく。
 友造ともざうかげ※(「石+鬼」、第4水準2-82-48)いしころうへゆらいで、
「あゝ、大分だいぶおそうござります。さあ、おしなさりまし。御存ごぞんじの、あのあか大蜈蚣おほむかでうねつた、さがふぢそろひの軒提灯のきぢやうちん御覽ごらうじながら、徐々そろ/\かへりなさいませんか。」とはなしまぎれて、友造ともざうは、こゝに自分じぶんたちが不意ふいにめぐりあはうとして、れがために同伴つれなかからくるまをはづして引込ひきこんだものとおもつてしまつたらしい。
 此方こなたも、またはかから草鞋穿わらぢばきたやうなふるをとこつたので、わすれるともなくまぎれたが、祭禮まつり太鼓たいこふにつけて、夢見ゆめみみゝに、一撥ひとばち、どろ/\とはひつたやうに、むるばかり思出おもひだした。
 こゝに待合まちあはすをんながある。
 立直たちなほつて、
ともさん、い、かへつておくれ。んだか、うへやまたやうにはなしがあるが、つてては、落着おちつかない。何處どこかへ一所いつしよにとおもふが、れもおそし、明日あすでもまたはうよ、ね。
 おまへさんは稼人かせぎにんだ、いそがしからう、此處こゝいよ。いゝえ遠慮ゑんりよをするんぢやない。はじめからさかくるまからりるつもりではひつたんだ。ともさんとれて、れでるのをすんぢやないから。さあ、かまはず、お出掛でかけ。」
「へい。」と煮切にえきらない返事へんじをして、すこ退すさつて、猶豫ためらひながら、
して、貴下あなたは、ぼつちやん。」
「こんなに、つきし、」
 と悠然いうぜんとして、くさんで左右さいう一歩ひとあし
追善つゐぜんのあつた今夜こんやだし、墓參はかまゐりするみちだらう。まあ清水しみづで、」
 とはかますそを、サラ/\といしくゞつて、くさした細流さいりうあり。さかはたら/\としづくしぼつて、がけからみちしたゝるのである。
「……でもすゝいで、此處こゝからおまゐりをしてかへらうとおもふんだから、」
「さあ/\御緩ごゆつく御拜おをがみをなさりまし、おまをしますとも、てまへは。……貴下あなたをおすゝぎなさるなんのと、加減かげん水惡戲みづいたづらをなさつて、たもと引摺ひきずると不可いけません。さあ、そでちませう。」と眞面目まじめにぬつと兩手りやうてす。
 わらひながら、片手かたて袖口そでぐちに、ぐつとれて、
ともさん、いくつだ、とおもつてる。」
「へゝゝゝ、やうでござりましたな。
 ……えゝ、れでも貴下あなたいししたに、いかこと澤蟹さはがにが、此處こゝみづにはりますで、ゆびはさまれると不可いけません。……おちなさりまし、晝間ひるま辨當箱べんたうばこいてります、あらつて一番ひとつれへ汲出くみだして差上さしあげませう。」
「まあ、おちよ、ともさん、眞個ほんといんだよ。……けつして邪魔じやまにするんぢやない。一人ひとりはうが、んだか落着おちついて、寂然しんとして、はかまつかぜきこえるだらうとおもふからだよ。」
「あゝ、如何樣いかさま、」
 とまたしんみりして、
最惜いとしげな。はやくから御兩親ごりやうしんにおわかれなすつた貴下あなたでござります。格別かくべつのお心持こゝろもち、おはかまつかぜおとが、みねからして此處こゝまでなあ……なまいだぶ、なまいだぶ、なまいだぶ、……」
 とき山彦やまびこ口笛くちぶえくかと、ふくろふこゑが、つきそらをホツオーホとはしる。





底本:「鏡花全集 巻十三」岩波書店
   1941(昭和16)年6月30日第1刷発行
   1987(昭和62)年9月3日第3刷発行
初出:「毎日電報」
   1910(明治43)年3月6日
※「御新造」と「御新姐」、「………」と「……」の混在は、底本通りです。
※「私」に対するルビの「わたし」と「てまへ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2023年7月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA    11-9


●図書カード