一
柳を植えた……その柳の
一処繁った中に、清水の
湧く井戸がある。……大通り
四ツ
角の郵便局で、東京から組んで
寄越した
若干金の
為替を
請取って、
三ツ
巻に
包んで、ト
先ず懐中に及ぶ。
春は過ぎても、
初夏の日の長い、五月
中旬、
午頃の郵便局は
閑なもの。受附にもどの口にも他に
立集う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ
手取早くは
受取れなかった。
取扱いが
如何にも気長で、
「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。
貴下が御当人なのですか。」
などと
間伸のした、しかも
際立って耳につく東京の調子で
行る、……その本人は、受取口から見た
処、二十四、五の青年で、
羽織は着ずに、
小倉の
袴で、
久留米らしい
絣の
袷、白い
襯衣を手首で留めた、肥った腕の、肩の
辺まで
捲手で何とも
以て忙しそうな、そのくせ、する事は
薩張捗らぬ。
態に似合わず
悠然と
落着済まして、
聊か
権高に見える
処は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を
饒舌って、時々じろじろと
下目に見越すのが、
田舎漢だと
侮るなと言う態度の、それが
明かに窓から
見透く。郵便局員
貴下、
御心安かれ、受取人の
立田織次も、
同国の平民である。
さて、局の石段を下りると、広々とした
四辻に立った。
「さあ、
何処へ
行こう。」
何処へでも勝手に行くが
可、また何処へも行かないでも
可い。このまま、今度の帰省中
転がってる
従姉の
家へ帰っても
可いが、
其処は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の
墓詣は
昨日済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は
明日だし、
好なものは晩に食べさせる、と
従姉が言った。
差当り何の用もない。何年にも
幾日にも、こんな
暢気な事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、
些と
他愛がないほど、のびのびとした
心地。
気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで
赫と日が当ると、日中は
早じりじりと来そうな頃が、
近山曇りに
薄りと雲が懸って、
真綿を日光に
干すような、ふっくりと軽い暖かさ。
午頃の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと
柔い風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る
腕車も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば
朧夜を浮れ出したような
状だけれども、この土地ではこれでも
賑な町の
分。
城趾のあたり
中空で
鳶が鳴く、と
丁ど今が
春の
鰯を焼く
匂がする。
飯を食べに行っても
可、ちょいと
珈琲に菓子でも
可、
何処か茶店で茶を飲むでも
可、別にそれにも及ばぬ。が、
袷に羽織で身は軽し、
駒下駄は新しし、為替は取ったし、ままよ、
若干金か貸しても
可い。
「いや、
串戯は
止して……」
そうだ!
小北の
許へ
行かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと
緊って、
身体が帽子まで堅くなった。
何故か
四辺が
視められる。
こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは
平吉……
平さんと言うが
早解り。織次の亡き親父と同じ
夥間の職人である。
此処からはもう近い。この柳の
通筋を突当りに、
真蒼な山がある。それへ向って二
町ばかり、城の
大手を右に見て、左へ折れた、
屋並の
揃った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。
その男を訪ねるに
仔細はないが、訪ねて
行くのに、十年
越の思出がある、……まあ、もう少し
秘して置こう。
さあ、
其処へ、となると、早や
背後から
追立てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、
悠々と
歩行き出したが、取って三十という
年紀の、
渠の胸の騒ぎよう。さては今の時の
暢気さは、この
浪が立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。
二
この
通は、
渠が生れた町とは大分
間が離れているから、
軒を並べた両側の家に、別に
知己の顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた
旅店がある。
其処へ東京から新任の県知事がお
乗込とあるについて、向った玄関に
段々の幕を打ち、
水桶に真新しい
柄杓を備えて、
恭しく
盛砂して、門から
新筵を
敷詰めてあるのを、向側の軒下に立って
視めた事がある。通り
懸りのお百姓は、この前を過ぎるのに、
「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の
節に上京なされると、電話第何番と言うのが
見得の旅館へ宿って、
葱の
で、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
また夢のようだけれども、今見れば
麺麭屋になった、
丁どその
硝子窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、
見世ものの小屋が
掛った。猿芝居、大蛇、熊、
盲目の
墨塗――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など
一廓に、
草の花を咲かせた――表通りへ目に立って、
蜘蛛男の見世物があった事を思出す。
額の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、
大人の二倍、やがて一尺、
飯櫃形の
天窓にチョン
髷を載せた、身の
丈というほどのものはない。
頤から爪先の生えたのが、金ぴかの
上下を着た
処は、アイ来た、と手品師が箱の中から
拇指で
摘み出しそうな
中親仁。これが看板で、小屋の正面に、
鼠の
嫁入に
担ぎそうな小さな
駕籠の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その
出額に
蚯蚓のような横筋を
畝らせながら、きょろきょろと、
込合う
群集を
視めて控える……
口上言がその出番に、
「
太夫いの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと
天窓を
掉立て、
「
唯今、それへ。」
とひねこびれた声を出し、
頤をしゃくって
衣紋を造る。その身動きに、
鼬の
香を
芬とさせて、ひょこひょこと
行く
足取が
蜘蛛の巣を渡るようで、
大天窓の
頸窪に、
附木ほどな腰板が、ちょこなんと見えたのを
憶起す。
それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時
木戸に立った
多勢の方を見向いて、
「うふん。」といって、目を
剥いて、脳天から
振下ったような、
紅い舌をぺろりと出したのを見て、織次は
悚然として、雲の蒸す月の下を
家へ
遁帰った事がある。
人間ではあるまい。鳥か、
獣か、それともやっぱり
土蜘蛛の
類かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織次の
祖母さんが、
「あれはの、
二股坂の
庄屋殿じゃ。」といった。
この二股坂と言うのは、山奥で、
可怪い伝説が少くない。それを越すと隣国への
近路ながら、人界との
境を
隔つ、自然のお関所のように土地の人は思うのである。
この
辺からは、峰の松に
遮られるから、その姿は見えぬ。
最っと
乾の位置で、
町端の方へ
退ると、
近山の
背後に海がありそうな雲を隔てて、山の形が
歴然と見える。……
汽車が通じてから、はじめて帰ったので、
停車場を出た所の、
故郷は、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、
暫時茫然として
彳んだのは、つい二、三日前の事であった。
腕車を雇って、さして
行く
従姉の町より、真先に、
「あの山は?」
「
二股じゃ。」と
車夫が答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない
町端まで、
小児の時には
行かなかったので、
唯名に聞いた、
五月晴の空も、暗い、その山。
三
その時は何んの心もなく、
件の二股を
仰いだが、
此処に来て、昔の小屋の前を通ると、あの、
蜘蛛大名が庄屋をすると、
可怪しく胸に響くのであった。
まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、
芋虫が髪を
結って、
緋の
腰布を
捲いたような
侏儒の
婦が、三人ばかりいた。それが、見世ものの
踊を済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂の
縁へ両手を掛けて、横に
両脚でドブンと
浸る。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。
そう言えば
湯屋はまだある。けれども、以前見覚えた、
両眼真黄色な絵具の光る、巨大な
蜈が、赤黒い雲の如く
渦を巻いた真中に、
俵藤太が、弓矢を
挟んで身構えた
暖簾が、ただ、男、女と上へ割って、
柳湯、と白抜きのに
懸替って、
門の目印の柳と共に、
枝垂れたようになって、折から
森閑と風もない。
人通りも殆ど途絶えた。
が、
何処ともなく、柳に暗い、湯屋の
硝子戸の奥深く、ドブンドブンと、ふと湯の
煽ったような
響が聞える。……
立淀んだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、ものの
谺のように聞えた。織次の
祖母は、見世物のその
侏儒の
婦を教えて、
「あの
娘たちはの、
蜘蛛庄屋にかどわかされて、その
になったいの。」
と昔語りに話して聞かせた
所為であろう。ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は
浮上ったように見る目に浅いが、
故郷の山は深い。
また山と言えば思出す、この町の
賑かな店々の
赫と明るい
果を、
縦筋に暗く
劃った
一条の
路を隔てて、
数百の
燈火の
織目から
抜出したような
薄茫乎として灰色の
隈が
暗夜に
漾う、まばらな
人立を前に控えて、
大手前の
土塀の
隅に、
足代板の高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い
頭髪を
額に
振分け、ごろごろと
錫を鳴らしつつ、
塩辛声して、
「……
姫松どのはエ」と、
大宅太郎光国の恋女房が、
滝夜叉姫の
山寨に捕えられて、
小賊どもの手に
松葉燻となる
処――樹の枝へ釣上げられ、
後手の
肱を
空に、
反返る髪を
倒に落して、ヒイヒイと
咽んで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、
翌晩もそのままで、次第に姫松の声が
渇れる。
「我が
夫いのう、光国どの、助けて
給べ。」とばかりで、この武者修業の、足の遅さ。
三晩目に、
漸とこさと山の
麓へ着いたばかり。
織次は、
小児心にも朝から気になって、
蚊帳の中でも
髣髴と
蚊燻しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、
汚い弟子が
古浴衣の
膝切な奴を、胸の
処でだらりとした
拳固の
矢蔵、片手をぬい、と出し、人の
顋をしゃくうような手つきで、銭を
強請る、爪の黒い
掌へ持っていただけの
小遣を載せると、目を
ったが、黄色い歯でニヤリとして、
身体を
撫でようとしたので、
衝と
極が悪く
退った
頸へ、大粒な雨がポツリと来た。
忽ち
大驟雨となったので、蒼くなって
駈出して帰ったが、
家までは七、八町、その、びしょ濡れさ
加減思うべしで。
あと
二夜ばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。
さて晴れれば晴れるものかな。
磨出した
良い月夜に、
駒の手綱を
切放されたように
飛出して行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、
後幕一重引いた、あたりの土塀の
破目へ、
白々と月が射した。
茫となって、辻に立って、前夜の雨を
怨めしく、空を
仰ぐ、と
皎々として
澄渡って、銀河一帯、近い山の
端から
玉の橋を
町家の屋根へ投げ懸ける。その上へ、
真白な形で、
瑠璃色の
透くのに薄い
黄金の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を
歩行いて消えた。……織次は、かつ思いかつ
歩行いて、
丁どその辻へ来た。
四
湯屋は郵便局の方へ
背後になった。
辻の、この
辺で、月の
中空に雲を渡る
婦の
幻を見たと思う、屋根の上から、城の
大手の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、
一筋真白な雲の
靡くのは、やがて銀河になる時節も近い。……
視むれば、幼い時のその
光景を
目前に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が
兎であった時、
木賊の中から、ひょいと
覗いた景色かも分らぬ。待て、
希くは兎でありたい。
二股坂の
狸は恐れる。
いや、こうも、
他愛のない事を考えるのも、思出すのも、
小北の
許へ
行くにつけて、人は知らず、自分で気が
咎める
己が心を、
我とさあらぬ
方へ
紛らそうとしたのであった。
さて、この辻から、以前織次の家のあった、
某……町の方へ、
大手筋を
真直に折れて、一
丁ばかり行った
処に、小北の家がある。
両側に軒の並んだ町ながら、この小北の
向側だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の
用心水の
水溜で、石畳みは
強勢でも、
緑晶色の
大溝になっている。
向うの溝から
鰌にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と
饒舌るのは、けだしこの
水溜からはじまった事であろう、と夏の夜店へ
行帰りに、織次は
独りでそう考えたもので。
同一早饒舌りの中に、
茶釜雨合羽と言うのがある。トあたかもこの溝の
左角が、
合羽屋、は面白い。……まだこの時も、
渋紙の
暖簾が
懸った。
折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を
行過ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に
歩行出した時、織次は帽子の
庇を下げたが、
瞳を
屹と、溝の前から、
件の小北の店を透かした。
此処にまた
立留って、
少時猶予っていたのである。
木格子の中に
硝子戸を入れた店の、仕事の道具は
見透いたが、弟子の
前垂も見えず、
主人の平吉が
半纏も見えぬ。
羽織の
袖口両方が、胸にぐいと
上るように両腕を組むと、
身体に
勢を入れて、つかつかと足を運んだ。
軒から直ぐに
土間へ入って、横向きに店の戸を開けながら、
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た
婦は、
下膨れの色白で、真中から
鬢を分けた濃い毛の
束ね
髪、
些と
煤びたが、人形だちの古風な顔。
満更の
容色ではないが、紺の
筒袖の
上被衣を、
浅葱の紐で
胸高にちょっと
留めた
甲斐甲斐しい女房ぶり。
些と気になるのは、この
家あたりの
暮向きでは、これがつい通りの風俗で、
誰も
怪しみはしないけれども、畳の上を
尻端折、
前垂で膝を隠したばかりで、
湯具をそのままの足を、茶の間と店の敷居で
留めて、立ち身のなりで
口早なものの言いよう。
「
何処からおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」
と
一向気のない、
空で覚えたような
口上。
言つきは
慇懃ながら、
取附き
端のない会釈をする。
「私だ、
立田だよ、しばらく。」
もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも
勢のない、塗ったような瞳を流して、
凝と見たが、
「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を
支いた。胸を
衝と反らしながら、驚いた風をして、
「どうして
貴下。」
とひょいと立つと、
端折った
太脛の
包ましい
見得ものう、ト身を返して、
背後を見せて、つかつかと
摺足して、奥の
方へ駈込みながら、
「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の
織さんが。」
「何、立田さんの。」
「織さんですがね。」
「や、それは。」
という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む
下駄の音。
五
「さあ、お
上り遊ばして、まあ、どうして
貴下。」
とまた
店口へ取って返して、女房は
立迎える。
「じゃ、御免なさい。」
「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の
室を越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い
前垂で、
濡れた手をぐいと
拭きつつ、
「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ
座蒲団を持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと
立身で廻る。
「構っちゃ
可厭だよ。」と
衝と茶の間を抜ける時、
襖二
間の上を渡って、二階の
階子段が
緩く
架る、
拭込んだ
大戸棚の前で、
入ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと
後退りに
退った。
その茶の
室の長火鉢を
挟んで、
差むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに
踞って、その
法然天窓が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、
鉄瓶より低い
処にしなびたのは、もう七十の
上になろう。この女房の
母親で、
年紀の相違が五十の
上、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番
末子である
所為で、それ、黒のけんちゅうの
羽織を着て、小さな
髷に
鼈甲の耳こじりをちょこんと
極めて、手首に
輪数珠を掛けた五十格好の
婆が
背後向に坐ったのが、その
総領の娘である。
不沙汰見舞に来ていたろう。この
婆は、よそへ
嫁附いて今は産んだ
忰にかかっているはず。忰というのも、
煙管、
簪、同じ事を
業とする。
が、この
婆娘は虫が好かぬ。
何為か、その上、幼い記憶に
怨恨があるような
心持が、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした
眉のない顔を上げて、じろりと
額で見上げたのを、織次は
屹と
唯一目。で、知らぬ顔して奥へ通った。
「
南無阿弥陀仏。」
と折から
唸るように
老人が
唱えると、
婆娘は
押冠せて、
「
南無阿弥陀仏。」と
生若い声を出す。
「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも
遣らず、中腰でそわそわ。
「お忙しいかね。」と織次は構わず、
更紗の座蒲団を引寄せた。
「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい
暇でもございまするしね、
怠け仕事に
板前で
庖丁の腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で
鰯がとれますよ。」と
縁へはみ出るくらい
端近に坐ると一緒に、
其処にあった
塵を拾って、ト首を
捻って、土間に棄てた、その手をぐいと
掴んで、指を
揉み、
「
何時、
当地へ。」
「二、三日前さ。」
「
雑と十四、五年になりますな。」
「早いものだね。」
「早いにも、織さん、
私なんざもう御覧の通り
爺になりましたよ。これじゃ途中で
擦違ったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。」
「
否、
些とも変らないね、
相かわらず
意気な人さ。」
「これはしたり!」
と天井抜けに、
突出す
腕で
額を
叩いて、
「はっ、
恐入ったね。東京
仕込のお世辞は
強い。
人、
可加減に願いますぜ。」
と
前垂を横に
刎ねて、
肱を
突張り、ぴたりと膝に手を
支いて
向直る。
「何、
串戯なものか。」と言う時、織次は
巻莨を火鉢にさして
俯向いて
莞爾した。
面色は
凛としながら
優しかった。
「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、
入かえますけれど、お
一ツ。」
と女房が、茶の
室から、半身を
摺らして出た。
「これえ、
私が事を意気な男だとお言いなさるぜ、
御馳走をしなけりゃ
不可んね。」
「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も
聞落したらしかったのが、織次が膝に落ちた
吸殻の灰を
弾いて、はっとしたように
瞼を染めた。
六
「さて、どうも
更りましては、何んとも
申訳のない
御無沙汰で。
否、もう、そりゃ実に、
烏の鳴かぬ日はあっても、お
噂をしない日はありませんが、なあ、これえ。」
「ええ。」と言った女房の顔色の
寂しいので、烏ばかり鳴くのが分る。が、別に織次は噂をされようとも思わなかった。
平吉は
畳み
掛け、
「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に
縁遠い方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、
実印を
捺しますより、事も大層になります
処から、何とも
申訳がございやせん。
何しろ、まあ、
御緩りなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」
と膝をすっと手先で
撫でて、
取澄ました風をしたのは、それに
極った、という
体を、仕方で見せたものである。
「
串戯じゃない。」と余りその
見透いた世辞の
苦々しさに、織次は我知らず
打棄るように言った。
些とその
言が激しかったか、
「え。」と、
聞直すようにしたが、
忽ち唇の
薄笑。
「ははあ、
御同伴の奥さんがお
待兼ねで。」
「串戯じゃない。」
と今度は
穏かに
微笑んで、
「そんなものがあるものかね。」
「そんなものとは?」
「
貴下、まだ
奥様はお持ちなさりませんの。」
と女房、胸を前へ、手を畳にす。
織次は
巻莨を、ぐいと、さし捨てて、
「持つもんですか。」
「織さん。」
と平吉は薄く
刈揃えた頭を
掉って、目を
据えた。
「まだ、
貴下、そんな事を言っていますね。持つものか! なんて
貴下、一生持たないでどうなさる。……また、こりゃお亡くなんなすった
父様に
代って、
一説法せにゃならん。例の
晩酌の時と言うとはじまって、
貴下が
殊の
外弱らせられたね。あれを一つ
遣りやしょう。」
と片手で小膝をポンと
敲き、
「飲みながらが
可い、
召飯りながら
聴聞をなさい。これえ、何を、お
銚子を早く。」
「
唯、もう
燗けてござりえす。」と女房が腰を浮かす、その
裾端折で。
織次は、酔った
勢で、とも思う事があったので、黙っていた。
「ぬたをの……今、
私が
擂鉢に
拵えて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、
可いか、
手綺麗に
装わないと食えぬ奴さね。……もう
不断、本場で
旨いものを
食りつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にも
入らない、ああ、
入らないとも。」
と
独りで
極めて、もじつく女房を台所へ
追立てながら、
「織さん、
鰯のぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」
ああ、しばらく。座にその
鰯の臭気のない
内、言わねばならぬ事がある……
「あの、平さん。」
と織次は若々しいもの言いした。
「
此家に何だね、僕ン
許のを買ってもらった、
錦絵があったっけね。」
「へい、錦絵。」と、さも
年久しい昔を見るように、
瞳を
凝と上へあげる。
「
内で困って、……今でも貧乏は
同一だが。」
と織次は
屹と腕を
拱んだ。
「私が学校で
要る教科書が買えなかったので、
親仁が
思切って、
阿母の
記念の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが
買戻して、
蔵っといてくれた。その絵の事だよ。」
時雨の雲の暗い晩、寂しい
水菜で
夕餉が済む、と
箸も下に置かぬ
前から、織次はどうしても持たねばならない、と言って
強請った、
新撰物理書という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ
通われぬと言うのではない。科目は教師が
黒板に書いて教授するのを、筆記帳へ
書取って、事は足りたのであるが、
皆が持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時
金八十銭と、覚えている。
七
親父はその晩、一合の酒も飲まないで、
燈火の赤黒い、
火屋の
亀裂に紙を貼った、笠の
煤けた
洋燈の
下に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの
細工場に立ちもせず、
袖に
継のあたった、黒のごろの
半襟の破れた、
千草色の
半纏の片手を
懐に、膝を立てて、それへ
頬杖ついて、
面長な思案顔を重そうに
支えて
黙然。
ちょっと
取着端がないから、
「だって、
欲いんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の
間を伝って、だだッ広い、寒い台所へ
行く、と向うの
隅に、
霜が見える……
祖母さんが
頭巾もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと
冷い音で洗ってござる。
「買っとくれよ、よう。」
と
聞分けもなく織次がその
袂にぶら下った。
流は高い。走りもとの破れた
芥箱の
上下を、ちょろちょろと鼠が走って、
豆洋燈が
蜘蛛の巣の中に
茫とある……
「よう、買っとくれよ、お弁当は
梅干で
可いからさ。」
祖母は、顔を見て、しばらく黙って、
「おお、どうにかして進ぜよう。」
と洗いさした茶碗をそのまま、
前垂で手を
拭き拭き、氷のような板の間を、店の畳へ
引返して、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、
背後向きに、まだ
俯向いたなりの親父を見向いて、
「の、そうさっしゃいよ。」
「なるほど。」
「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
「それでは、
母親、御苦労でございます。」
「何んの、お前。」
と
納戸へ入って、戸棚から持出した
風呂敷包が、その
錦絵で、
国貞の画が二百余枚、
虫干の時、
雛祭、秋の
長夜のおりおりごとに、
馴染の
姉様三千で、
下谷の
伊達者、
深川の
婀娜者が
沢山いる。
祖母さんは下に置いて、
「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
「いや、見ますまい。」
と顔を
背向ける。
祖母は
解き
掛けた
結目を、そのまま
結えて、ちょいと
襟を引合わせた。細い
半襟の
半纏の
袖の下に
抱えて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い
処で、
「
可哀やの、
姉様たち。
私が
許を離れてもの、
蜘蛛男に買われさっしゃるな、
二股坂へ
行くまいぞ。」
と小さな声して
言聞かせた。織次は
小児心にも、その絵を売って
金子に代えるのである、と思った。……
顔馴染の濃い
紅、
薄紫、雪の
膚の
姉様たちが、この
暗夜を、すっと
門を出る、……と
偶と寂しくなった。が、
紅、
白粉が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と
躍った。
「待ってござい、
織や。」
ごろごろと静かな
枢戸の音。
台所を、どどんがたがた、鼠が
荒野と
駈廻る。
と
祖母が軒先から引返して、
番傘を持って
出直す時、
「あのう、台所の
燈を消しといてくらっしゃいよ、の。」
で、ガタリと
門の戸がしまった。
コトコトと
下駄の音して、
何処まで
行くぞ、
時雨の
脚が
颯と通る。あわれ、
祖母に導かれて、
振袖が、
詰袖が、
褄を取ったの、
裳を引いたの、
鼈甲の
櫛の
照々する、銀の
簪の
揺々するのが、真白な
脛も露わに、
友染の花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、
跣足で田舎の、
山近な町の
暗夜を
辿る
風情が、雨戸の
破目を
朦朧として
透いて見えた。
それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い
眼を
眩まして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のその
状を、
後に思えば鬼であろう。
台所の
灯は、
遙に
奥山家の
孤家の如くに
点れている。
トその壁の上を窓から
覗いて、風にも雨にも、ばさばさと髪を
揺って、
団扇の骨ばかりな顔を出す……隣の空地の
棕櫚の樹が、その夜は妙に
寂として
気勢も聞えぬ。
鼠も
寂莫と音を
潜めた。……
八
台所と、この
上框とを隔ての
板戸に、
地方の
習慣で、
蘆の
簾の掛ったのが、破れる、
断れる、その上、手の届かぬ何年かの
煤がたまって、
相馬内裏の
古御所めく。
その蔭に、遠い
灯のちらりとするのを
背後にして、お
納戸色の薄い
衣で、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った
祖母の
背後影を、
凝と見送る
状に
彳んだ
婦がある。
一目見て、幼い織次はこの
現世にない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。
その
小児に
振向けた、真白な気高い顔が、雪のように、
颯と消える、とキリキリキリ――と台所を
六角に
井桁で仕切った、
内井戸の
轆轤が鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。
流の
処に、
浅葱の
手絡が、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、
黒髪のおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっと
通った横顔が
仄見えて、白い
拭布がひらりと動いた。
「
織坊。」
と父が呼んだ。
「あい。」
ばたばたと駈出して、その時まで同じ
処に、
画に
描いたように
静として動かなかった
草色の
半纏に
搦附く。
「ああ、
阿母のような返事をする。
肖然だ、今の声が。」
と膝へ抱く。胸に
附着き、
「台所に
母様が。」
「ええ!」と父親が膝を立てた。
「
祖母さんの手伝いして。」
親父は、そのまま
緊乎と抱いて、
「織坊、本を買って、何を習う。」
「ああ、物理書を
皆読むとね、
母様のいる
処が分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくとも
可い。……おいでよ、
父上。」
と手を
引張ると、
猶予いながら、とぼとぼと畳に
空足を踏んで、板の
間へ出た。
その
跫音より、鼠の駈ける音が激しく、
棕櫚の骨がばさりと
覗いて、
其処に、
手絡の影もない。
織次はわっと泣出した。
父は立ちながら
背を
擦って、わなわな震えた。
雨の音が
颯と高い。
「おお、
冷え、
本降、本降。」
と
高調子で門を入ったのが、
此処に
差向ったこの、平吉の
平さんであった。
傘をがさりと掛けて、
提灯をふっと消す、と
蝋燭の
匂が立って、
家中仏壇の
薫がした。
「
呀!
世話場だね、どうなすった、
父さん。お
祖母は、
何処へ。」
で、父が
一伍一什を話すと――
「
立替えましょう、
可惜ものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ
幾干に買うか知れないけれど、
差当り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ
此処にあれば
可い
訳だ、と先ず言った
訳だ。
先方の
買直がぎりぎりの
処なら
買戻すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」
と
太く書生ぶって、
「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、
唯立替えさして気が済まない、と言うんなら、その
金子の出来るまで、僕が預かって置けば
可うがしょう。さ、それで
極った。……一ツ
莞爾としてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、
小児に学問なんぞさせねえが
可いじゃないかね。くだらない、もうこれ
織公も十一、
吹ばたばたは勤まるだ。二銭三銭の
足にはなる。ソレ直ぐに
鹿尾菜の
代が浮いて出ようというものさ。……実の
処、僕が
小指の姉なんぞも、
此家へ一人
二度目妻を世話しようといってますがね、お互にこの職人が
小児に本を買って
遣る苦労をするようじゃ、
末を見込んで
嫁入がないッさ。ね、
祖母が、孫と君の世話をして、この
寒空に水仕事だ。
因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
――その姉と言うのが、
次室の長火鉢の
処に来ている。――
九
そこへ、
祖母が帰って来たが、何んにも言わず、平吉に
挨拶もせぬ先に、
「さあ」と言って、本を出す。
織次は飛んで獅子の座へ
直った
勢。上から新撰に
飛付く、と
突のめったようになって見た。黒表紙には
綾があって、
艶があって、真黒な
胡蝶の
天鵝絨の羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、
細流のように動いて、何がなしに、言いようのない強い
薫が
芬として、目と口に
浸込んで、中に
描いた器械の図などは、ずッしり
鉄の
楯のように
洋燈の前に
顕れ
出でて、絵の
硝子が
燐と光った。
さて、
祖母の話では、古本屋は、あの
錦絵を五十銭から
直を付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬと
断る。
欲い物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、
店端に腰を掛けて、
時雨に
白髪を濡らしていると、
其処の亭主が、それでは婆さんこうしなよ。
此処にそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に
竹箆の折返しの跡をつけた、古本の
出物がある。定価から五銭引いて、
丁どに
鍔を合わせて置く。で、孫に持って行って
遣るが
可い、と
捌きを付けた。
国貞の画が
雑と二百枚、
辛うじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。
平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
「
織坊、
母様の
記念だ。お
祖母さんと一緒に行って、今度はお前が、
背負って来い。」
「あい。」
とその四冊を持って立つと、
「
路が悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」
と
祖母も
莞爾して、嫁の
記念を取返す、二度目の
外出はいそいそするのに、手を
曳かれて、キチンと
小口を揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の
膝許に残しながら、出しなに、台所を
竊と
覗くと、
灯は
棕櫚の
葉風に
自から消えたと
覚しく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。
雨は
小止で。
織次は夜道をただ、夢中で本の
香を
嗅いで
歩行いた。
古本屋は、今日この平吉の
家に来る時通った、確か、あの
湯屋から四、五軒手前にあったと思う。
四辻へ
行く時分に、
祖母が
破傘をすぼめると、
蒼く光って、
蓋を払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白く
澄んで、
兎のような雲が走る。
織次は
偶と幻に見た、夜店の頃の銀河の上の
婦を思って、
先刻とぼとぼと地獄へ
追遣られた大勢の
姉様は、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。
一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ
附着いたが、店も
大戸も閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町は
寂として
何処にも
灯の影は見えぬ。
「もう寝たかの。」
と
祖母がせかせかござって、
「
御許さい、御許さい。」
と遠慮らしく
店頭の戸を
敲く。
天窓の上でガッタリ音して、
「何んじゃ。」
と言う太い声。箱のような
仕切戸から、眉の迫った、頬の
膨れた、への字の口して、小鼻の筋から
頤へかけて、べたりと
薄髯の生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の
口惜さを、織次は
如何にしても忘れられぬ。
絵はもう人に売った、と言った。
見知越の
仁ならば、知らせて
欲い、
何処へ行って頼みたい、と
祖母が言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。
越後へ
行く飛脚だによって、
脚が
疾い。今頃はもう
二股を半分越したろう、と小窓に
頬杖を
支いて
嘲笑った。
縁の早い、
売口の
美い
別嬪の
画であった。
主が帰って
間もない、店の
燈許へ、あの
縮緬着物を散らかして、
扱帯も、
襟も
引さらげて見ている
処へ、
三度笠を横っちょで、てしま
茣蓙、
脚絆穿、
草鞋でさっさっと
遣って来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり
価をつけて、ずばりと買って、
濡らしちゃならぬと腰づけに、きりりと、
上帯を結び添えて、雨の中をすたすたと
行方知れずよ。……
「分ったか、お
婆々。」と言った。
十
断念めかねて、
祖母が何か二ツ三ツ口を利くと、
挙句の
果が、
「
老耄婆め、帰れ。」
と言って、ゴトンと閉めた。
祖母が、ト目を
擦った
帰途。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな
懐中へ
小口を半分
差込んで、
圧えるように
頤をつけて、
悄然とすると、
辻の
浪花節が語った……
「
姫松殿がエ。」
が
暗から聞える。――織次は、飛脚に
買去られたと言う大勢の
姉様が、ぶらぶらと
甘干の柿のように、樹の枝に
吊下げられて、
上げつ
下ろしつ、
二股坂で
苛まれるのを、目のあたりに見るように思った。
とやっぱり
芬とする
懐中の物理書が、その途端に、松葉の
燻る
臭気がし出した。
固より口実、狐が化けた飛脚でのうて、
今時町を通るものか。
足許を見て
買倒した、十倍百倍の
儲が
惜さに、
貉が勝手なことを
吐く。
引受けたり平吉が。
で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして
買戻してくれた
錦絵である。
が、その
後、折を見て、父が
在世の頃も、その話が出たし、織次も
後に東京から
音信をして、
引取ろう、引取ろうと
懸合うけれども、ちるの、びるので
纏まらず、追っかけて
追詰めれば、
片音信になって
埒が明かぬ。
今日こそ何んでも、という
意気込みであった。
さて、その事を話し出すと、それ、案の定、
天井睨みの
上睡りで、ト先ず
空惚けて、
漸と気が付いた
顔色で、
「はあ、あの
江戸絵かね、十六、七年、やがて
二昔、久しいもんでさ、あったっけかな。」
と聞きも
敢えず……
「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と
何故かこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、
容易くは我が手に
入らない
因縁のように、寝覚めにも懸念して、
此家へ入るのに肩を
聳やかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や
躁立ち
焦る。
平吉は
他処事のように
仰向いて、
「なあ、これえ。」
と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を
頤で呼んで、
「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」
「
唯、ござりえす、出しますかえ。」と女房は
判然言った。
「
難有う、お
琴さん。」
とはじめて親しげに名を言って、
凝と振向くと、
浪の
浅葱の
暖簾越に、また
颯と顔を
赧らめた
処は、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かに
俤が
幽に
似通う。……
「お一つ。」
とそこへ膳を
直して
銚子を取った。変れば変るもので、まだ、
七八ツ
九ツばかり、母が
存生の頃の
雛祭には、
緋の
毛氈を掛けた
桃桜の壇の前に、小さな
蒔絵の膳に並んで、この
猪口ほどな
塗椀で、一緒に
蜆の
汁を替えた時は、この娘が、
練物のような顔のほかは、着くるんだ花の
友染で、その時分から
円い背を、
些と
背屈みに座る
癖で、今もその通りなのが、こうまで変った。
平吉は
既う五十の上、女房はまだ
二十の上を、二ツか、多くて三ツであろう。この姉だった平吉の
前の家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、
夜半の嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうした
処では
肖しくなって、女房ぶりも
哀に見える。
これも飛脚に
攫われて、平吉の手に捕われた、一枚の絵であろう。
いや、何んにつけても、早く、とまた
屹と居直ると、女房の返事に、苦い顔して、
横睨みをした平吉が、
「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」
と
幾度も一人で
合点み、
「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、
近所合壁、親類中の評判で、平吉が
許へ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、
集るほどに、
丁と
片時も落着いていた
験はがあせん。」
と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下……
「
手前じゃ、まあ、
持物と言ったようなものの、言わばね、織さん、何んですわえ。それ、
貴下から預かっているも同然な品なんだから、出入れには、自然、
指垢、
手擦、つい汚れがちにもなりやしょうで、見せぬと言えば
喧嘩になる……弱るの何んの。そこで先ず、貸したように、預けたように、
余所の蔵に
秘ってありますわ。ところが、それ。」
と、これも
気色ばんだ女房の顔を、
兀上った
額越に、ト
睨って、
「その
蔵持の
家には、手前が何でさ、……
些とその
銭式の不義理があって、当分顔の出せない、といったような
訳で、いずれ、取って来ます。取って来るには取って来ますが、ついちょっと、ソレ
銭式の事ですからな。
それに、織さん、近頃じゃ
価が出ましたっさ。
錦絵は……
唯た一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。
貴下にも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。
価は
惜まぬ、ね、
価は惜まぬから手放さないか、と
何度も言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。
憚りながら平吉売らないね。預りものだ、手放して
可いものですかい。
けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし
飲れ、熱い
処を。ね、
御緩り。さあ、これえ、お
焼物がない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、
御酒に
尾頭は
附物だわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたった
婦だ。へへへへへ、
鰯を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」
と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の
額をぬすみ見る女房の
様は、
湯船へ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の
婦らしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。
坐り直って、
「あなたえ。」
と
怨めしそうな、
情ない顔をする。
ぎょろりと目を
剥き、
険な
面で、
「これえ。」と言った。
が、
鰯の催促をしたようで。
「今、焼いとるんや。」
と
隣室の茶の
室で、女房の、その、上の姉が
皺びた声。
「なんまいだ。」
と
婆が
唱える。……これが――「
姫松殿がえ。」と耳を貫く。……
称名の中から、じりじりと
脂肪の煮える
響がして、
腥いのが、むらむらと来た。
この
臭気が、
偶と、あの黒表紙に
肖然だと思った。
とそれならぬ、
姉様が、山賊の手に
松葉燻しの、乱るる、
揺めく、
黒髪までが
目前にちらつく。
織次は
激くいった。
「平吉、
金子でつく話はつけよう。
鰯は待て。」