魔法。
魔法とは、まあ何という
笑わしい言葉であろう。
しかし
如何なる国の
何時の代にも、魔法というようなことは人の心の中に存在した。そしてあるいは今でも存在しているかも知れない。
埃及、
印度、
支那、
阿剌比亜、
波斯、皆魔法の
問屋たる国
だ。
真面目に魔法を取扱って見たらば
如何であろう。それは人類学で取扱うべき箇条が多かろう。また宗教の一部分として取扱うべき
廉も多いであろう。伝説研究の
中に入れて取扱うべきものも多いだろう。文芸製作として、心理現象として、その他種
の意味からして取扱うべきことも多いだろう。化学、天文学、医学、数学なども、その歴史の初頭においては魔法と関係を有しているといって宜しかろう。
従って魔法を分類したならば、哲学くさい幽玄高遠なものから、手づまのような卑小
浅陋なものまで、
何程の種類と段階とがあるか知れない。
で、世界の魔法について語ったら、
一月や
二月で尽きるわけのものではない。例えば魔法の中で最も小さな一部の
厭勝の術の中の、そのまた小さな一部のマジックスクェアーの如きは、まことに言うに足らぬものである。それでさえ支那でも他の
邦でも、それに病災を
禳い除く力があると信じたり、あるいはまたこれを演繹して未来を知ることを得るとしたりしている。
洛書というものは最も簡単なマジックスクェアーである。それが聖典たる
易に関している。
九宮方位の
談、
八門遁甲の説、
三命の
占、
九星の
卜、皆それに続いている。それだけの
談さえもなかなか尽きるものではない。一より九に至るの数を
九格正方内に一つずつ置いて、
縦線、
横線、対角線、どう数えても十五になる。一より十六を正方格内に置いて縦線、横線、対角線、
各隅、随処四方角、皆三十四になる。二十五格内に同様に一より二十五までを置いて、六十五になる。三十六格内に三十六までの数を置いて、百十一になる。それ以上いくらでも出来ることである。が、その法を知らないで
列べたのでは、一日かかっても少し多い
根数になれば出来ない。古代の人が驚異したのに無理はないが、今日はバッチェット方法、ポイグナード方法、その他の方法を知れば、随分大きな魔方陣でも列べ得ること容易である。しかし魔方陣のことを
談るだけでも、支那印度の
古より、その歴史その影響、今日の数学的解釈及び方法までを談れば、一巻の書を成しても足らぬであろう。
極小さな部分の中の小部分でもその通りだ。そういう訳だから、魔法の
談などといっても際限のないことである。
我邦での魔法の歴史を一瞥して見よう。先ず上古において
厭勝の術があった。この「まじなう」という「まじ」という語は、世界において分布区域の
甚だ広い語で、我国においてもラテンやゼンドと連なっているのがおもしろい。
禁厭をまじないやむると
訓んでいるのは古いことだ。
神代から存したのである。しかし神代のは、悪いこと兇なることを圧し
禁むるのであった。奈良朝になると、髪の毛を
穢い
佐保川の
髑髏に入れて、「まじもの」せる
不逞の者などあった。これは
咒詛調伏で、
厭魅である、悪い意味のものだ。当時既にそういう方術があったらしく、そういうことをする者もあったらしい。
神おろし、神がかりの類は、これもけだし上古からあったろう。
人皇十五、六代の頃に明らかに見える。が、紀記ともに
其処は仮託が多いと思われる。かみなびの神より
板にする杉のおもひも
過ず恋のしげきに、という万葉巻九の歌によっても知られるが、後にも「琴の板」というものが杉で造られてあって、
神教をこれによりて受けるべくしたものである。これらは魔法というべきではなく、神教を
精誠によって仰ぐのであるから、魔法としては論ぜざるべきことである。仏教
巫徒の「よりまし」「よりき」の事と少し似てはいるであろう。
仏教が渡来するに及んで
咒詛の事など起ったろうが、仏教ぎらいの
守屋も「さま/″\のまじわざものをしき」と
水鏡にはあるから、相手が外国流で
己を
衛り人を攻むれば、こちらも自国流の咒詛をしたのかも知れぬ。しかし水鏡は信憑すべき書ではない。
役の
小角が出るに及んで、大分魔法使いらしい魔法使いが出て来たわけになる。
葛城の神を駆使したり、
前鬼後鬼を従えたり、伊豆の大島から富士へ飛んだり、末には母を
銕鉢へ入れて外国へ行ったなどということであるが、余りあてになろう訳もない。小角は
孔雀明王咒を持してそういうようになったというが、なるほど孔雀明王などのような豪気なものを祈って修法成就したら神変奇特も出来る訳か知らぬけれど、小角の時はまだ孔雀明王についての何もが
唐で出ていなかったように思われる。ちょっと調べてもらいたい。
白山の
泰澄や
臥行者も立派な魔法使らしい。海上の船から山中の
庵へ
米苞が連続して空中を飛んで行ってしまったり、
紫宸殿を
御手製地震でゆらゆらとさせて
月卿雲客を驚かしたりなんどしたというのは活動写真映画として実に面白いが、
元亨釈書などに出て来る景気の好い
訳は、大衆文芸ではない大衆宗教で、ハハア、面白いと聞いて置くに適している。
久米の仙人に至って、映画もニコニコものを出すに至った。仙人は建築が上手で、
弘法大師なども
初は久米様のいた寺で勉強した位である、なかなかの魔法使いだったから、雲ぐらいには乗ったろうが、洗濯女の方が魔法が一段上だったので、負けて落第生となったなどは、愛嬌と
涎と一緒に
滴るばかりで実に好人物だ。
奈良朝から平安朝、平安朝と来ては実に外美内醜の世であったから、魔法くさいことの行われるには最も適した時代であった。源氏物語は如何にまじないが一般的であったかを語っており、
法力が尊いものであるかを語っている。この時代の人
は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、
将門が乱を起しても
護摩を
焚いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の
絃は
蜘蛛の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに
辛くも活きていたのである。
生霊、
死霊、のろい、
陰陽師の術、
巫覡の言、方位、祈祷、物の
怪、転生、
邪魅、因果、怪異、動物の超常力、何でも
彼でも
低頭してこれを信じ、これを畏れ、あるいはこれに頼り、あるいはこれを利用していたのである。源氏以外の文学及びまた更に下っての
今昔、
宇治、
著聞集等の雑書に就いて
窺ったら、如何にこの時代が、魔法ではなくとも少くとも魔法くさいことを信受していたかが知られる。今
一例を挙げていることも出来ないが、大概日本人の妄信はこの時代に
醸し出されて近時にまで及んでいるのである。
大体の
談は先ずこれまでにして置く。
我国で魔法の類の
称を挙げて見よう。先ず魔法、それから妖術、幻術、げほう、狐つかい、
飯綱の法、
荼吉尼の法、忍術、
合気の術、キリシタンバテレンの法、口寄せ、
識神をつかう。大概はこれらである。
これらの
中、キリシタンの法は、少しは奇異を見せたものかも知らぬが、今からいえば理解の及ばぬことに対する
怖畏よりの誇張であったろう。識神を使ったというのは
阿倍晴明きりの談になっている。口寄せ、
梓神子は古い我邦の神おろしの術が仏教の
輪廻説と混じて変形したものらしい。これは明治まで存し、今でも
辺鄙には
密に存するかも知れぬが、営業的なものである。但しこれには「げほう」が連絡している。忍術というのは明治になっては魔法妖術という意味に用いられたが、これは戦乱の世に敵状を知るべく潜入密偵するの術で、少しは
印を結び
咒を持する
真言宗様の事をも用いたにもせよ、
兵家の事であるのがその本来である。合気の術は剣客武芸者等の我が神威を以て敵の意気を
摧くので、鍛錬した我が気の
冴を微妙の機によって敵に徹するのである。
正木の
気合の
談を考えて、それが如何なるものかを
猜することが出来る。魔法の類ではない。妖術幻術というはただ
字面の通りである。しかし支那流の妖術幻術、印度流の幻師の法を伝えた痕跡はむしろ少い。
小角や
浄蔵などの奇蹟は妖術幻術の中には
算していないで、神通道力というように取扱い来っている。小角は
道士羽客の流にも大日本史などでは扱われているが、小角の事はすべて小角死して二百年ばかりになって
聖宝が出た頃からいろいろ
取囃されたもので、その間に二百年の空隙があるから、聖宝の偉大なことやその道としたところはおよそ認められるが、小角が如何なるものであったかは伝説化したるその人において認めるほかはないのである。聖宝は密教の人である。小角は道家ではない。勿論道家と仏家は互に相奪っているから、支那において既に混淆しており、従って日本においても修験道の
所為など道家くさいこともあり、仏家が「九字」をきるなど、道家の
咒を用いたり、
符の類を用いたりしている。神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法
婆羅門混淆は印度で起っている。何も不思議はない。ただここでは我邦でいう所の妖術幻術は別に支那印度などから伝えた一系統があるのではなくて、字面だけの事だというのである。
さて「げほう」というのになる。これは
眩法か、幻法か、
外法か、不明であるが、何にせよ「げほう」という語は中古以来行われて、今に存している。
増鏡巻五に、太政大臣
藤原公相の頭が大きくて大でこで、げほう好みだったので、「げはふとかやまつるにかゝる
生頭のいることにて、
某のひじりとかや、東山のほとりなりける人取りてけるとて、
後に沙汰がましく聞えき」という事があって、まだしゃれ頭にならない生頭を取られたというのである。して見ればこの人の
薨去は文永四年で北条
時宗執権の頃であるから、その時分「げほう」と称する者があって、げほうといえば
直に世人がどういうものだと解することが出来るほど一般に知られていたのである。
内典外典というが如く、げほうは
外法で、
外道というが如く仏法でない法の義であろうか。何にせよ大変なことで、外法は魔法たること分明だ。その後になっても
外法頭という語はあって、
福禄寿のような頭を、今でも多分京阪地方では外法頭というだろう、東京にも明治頃までは、下駄の形の称に外法というのがあった。
竹斎だか何だったか徳川初期の
草子にも外法あたまというはあり、「外法の下り坂」という奇抜な
諺もあるが、福禄寿のような頭では下り坂は妙に早かろう。
流布本太平記巻三十六、細川
相模守清氏叛逆の事を記した段に、「外法成就の
志一上人鎌倉より
上つて」云
とある。神田本同書には、「
此志一上人はもとより邪天道法成就の人なる上、近頃鎌倉にて諸人
奇特の
思をなし、
帰依浅からざる上、
畠山入道諸事深く信仰
頼入りて、関東にても不思議ども現じける人なり」とある。清氏はこの志一を頼んで、
祇尼天に
足利義詮を
祈殺そうとの
願状を奉ったのである。さすれば「邪天道法成就」というのは、
祇尼天を祈る道法成就ということで、志一という僧はその法で「ふしぎども現じける」ものである。これで当時外法と呼んだものは
祇尼天法であることが知れる。けだし外法は平安朝頃から出て来たらしい。
狐つかいは同じく
祇尼法であるか知れぬ。しかし狐を霊物とするのは支那にもあったことで、
禹が
九尾の狐を
娶ったなどという馬鹿気たことも随分古くから語られたことであろうし、
周易にも狐はまんざら凡獣でもないように扱われており、後には
狐王廟なども
所にあり、
狐媚狐惑の
談は雑書小説に煩らわしいほど見える。印度でも狐は仏典に多く見え、
野干(狐とは少し
異おう)は
何時も狡智あるものとなっている。
祇尼天も狐に乗っているので、孔雀明王が孔雀の明王化、
金翅鳥明王が金翅鳥の明王化である如く、
祇尼天も狐の天化であろう。我邦では狐は何でもなかったが、それでも
景戒の
霊異記などには、もはや霊異のものとされていたことが跡づけられる。狐は
稲荷の使わしめとなっているが、「使わしめ」というものはすべて
初は「
聯想」から生じた優美な感情の
寓奇であって、鳩は
八幡の「はた」から、鹿は
春日の第一殿
鹿島の神の
神幸の時乗り
玉いし「鹿」から、
烏は
熊野に
八咫烏の縁で、猿は
日吉山王の月行事の
社猿田彦大神の「猿」の縁であるが如しと前人も説いているが、稲荷に狐は何の縁もない。ただ稲荷は
保食神の腹中に
稲生りしよりの「いなり」で、
御饌津神であるその御饌津より「けつね」即ち狐が持出されたまでで、
大黒様(
太名牟遅神)に鼠よりも縁は遠い話である。けれども早くから稲荷に狐は
神使となっている。といってお稲荷様が狐つかいに関係のあろうようはないから、やはりこれは狐に乗っている
祇尼天の方から出たことで、
祇尼の法をつかう者即ち狐つかいである。
祇尼は保食神どころではない、本来
餓鬼のようなもので、死人の心を
食したがっている者なのであるが、他の大鬼神に
敵わないので、六ヶ月前に人の死を知り、先取権を確立するものであり、なかなか御稲荷様のような
福しいものではないのである。
祇尼はまた
阿修羅波子とも呼ばれて、その義は「飲血者」である。狐つかいの狐は人に
禍や死を与える者とされている。して見れば
祇尼の狐で、お稲荷様の狐ではないはずである。
大江匡房が記している狐の
大饗の事は堀河天皇の康和三年である。牛骨などを
饗するのであったから、その頃から
祇尼の狐ということが人の思想にあったのではないかと思われるが、これは真の想像である。明らかに狐を使った者は、応永二十七年九月足利将軍
義持の医師の
高天という者父子三人、将軍に狐を付けたこと露顕して、同十月
讃岐国に流されたのが、年代記にまで出ている。やはり
祇尼法であったろうことは
思遣られるが、他の者に祈られて狐が二匹室町御所から
飛出したなどというところを見ると、将軍長病で治らなかった余りに、人に狐を
憑けるなどという事が一般に信ぜられていたに乗じて、他の者から仕組まれて
被せられた
冤罪だったかも知れない。が、何にしろ足利時代には一般にそういう魔法外法邪道の存することが認められていたに
疑ない。世が余りに狐を大したものに思うところから、
釣狐のような面白い狂言が出るに至った、とこういうように観察すると、釣狐も甚だ面白い。
飯綱の法というといよいよ魔法の
本統大系のように人に思われている。飯綱は元来山の名で、信州の北部、長野の北方、
戸隠山につづいている相当の高山である。この山には古代の微生物の残骸が土のようになって、戸隠山へ寄った方に存する
処がある。天狗の
麦飯だの、餓鬼の麦飯だのといって、この山のみではない諸処にある。浅間山観測所附近にもある。北海道にもある、支那にもあるから
太平広記に出ている。これは元来が動物質だから食えるものである。で、飯綱は仮名ちがいの
擬字で、これがあるからの
飯沙山である。そういうちょっと異なものがあったから、古く保食神即ち稲荷なども
勧請してあったかも知れぬ。ところが荼吉尼法は著聞集に、
知定院殿が
大権坊という奇験の僧によりて修したところ、夢中に狐の
生尾を得たり、なんどとある通り、古くから行われていたし、稲荷と荼吉尼は狐によって混雑してしまっていた。
文徳実録に見える
席田郡の
妖巫の、その霊
転行して心を
い、一種
滋蔓して、
民毒害を被る、というのも
心の二字が
祇尼法の如く思えるところから考えると、なかなか古いもので、今昔物語に
外術とあるものもやはり外法と同じく
祇尼法らしいから、随分と
索隠行怪の徒には
輾転伝受されていたのだろうと思われる。伝説に依ると、
水内郡荻原に、伊藤
豊前守忠縄というものがあって、後堀河天皇の天福元年(四条天皇の元年で、北条
泰時執権の時)にこの山へ上って穀食を絶ち、何の神か不明だがその神意を受けて祈願を
凝らしたとある。穀食を絶っても食える土があったから
辛防出来たろう。それから遂に大自在力を得て、
凡そ二百年余も生きた後、応永七年足利義持の時に死したということだ。これが飯綱の法のはじまりで、それからその子
盛縄も同じく法を得て奇験を現わし、飯綱の
千日家というものは、この父子より成立ち、飯綱権現の別当ともいうべきものになったのであり、徳川初期には百石の御朱印を受けていたものである。
今は
飯綱神社で、
式内の
水内郡の
皇足穂命神社である。昔は
飯綱大明神、または飯綱権現と称し、先ず密教修験的の霊区であった。他からは多くは
祇尼天を祭るとせられたが、山では
勝軍地蔵を本宮とするとしていた。勝軍地蔵は日本製の地蔵で、身に甲冑を着け、軍馬に
跨って、そして
錫杖と
宝珠とを持ち、
後光輪を戴いているものである。如何にも日本武士的、鎌倉もしくは足利期的の仏であるが、
地蔵十輪経に、この菩薩はあるいは
阿索洛身を現わすとあるから、
甲を
被り馬に乗って、甘くない顔をしていられても不思議はないのである。
山城の
愛宕権現も勝軍地蔵を奉じたところで、それにつづいて太郎坊大天狗などという恐ろしい者で名高い。勝軍地蔵はいつでも武運を守り、福徳を授けて下さるという信仰の
対的である。明智光秀も信長を殺す前には愛宕へ
詣って、そして「時は今
天が下知る
五月かな」というを発句に連歌を奉っている位だ。飯綱山も愛宕山に負けはしない。武田信玄は飯綱山に祈願をさせている。上杉謙信がそれを見て
嘲笑って、信玄、
弓箭では意をば得ぬより権現の力を
藉ろうとや、謙信が武勇優れるに似たり、と笑ったというが、どうして信玄は飯綱どころか、禅宗でも、天台宗でも、一向宗までも
呑吐して、諸国への
使は一向坊主にさせているところなど、また信玄一流の大きさで、飯綱の法を
行ったかどうか知らぬが、甲州
八代郡
末木村
慈眼寺に、同寺から
高野へ送った武田家品物の目録書の稿の中に、飯縄本尊
并に法次第一冊信玄公
御随身とあることが
甲斐国志巻七十六に見えているから、飯綱の法も行ったか知れぬ。
勝軍地蔵か
祇尼天か、飯綱の本体はいずれでも
宜いが、
祇尼は古くからいい伝えていること、勝軍地蔵は新らしく出来たもの、だきには
胎蔵界曼陀羅の
外金剛部院の一尊であり、勝軍地蔵はただこれ地蔵の一変身である。
大日経巻第二に
荼枳尼は見えており、
儀軌真言なども伝来の古いものである。もし密教の大道理からいえば、荼枳尼も大日、他の諸天も大日、
玄奥秘密の意義理趣を談ずる上からは、甲乙の分け隔てはなくなる故にとかくを言うのも愚なことであるが、先ず荼枳尼として置こう。荼枳尼天の形相、真言等をここに記するも益無きことであるし、かつまた自分が飯綱二十法を心得ているわけでもないから、飯綱修法に関することは書かぬが、やはり他の
天部夜叉部等の修法の如くに、相伝を得て、次第により
如法に修するものであろう。東京近くでは武州
高雄山からも、今は知らぬが以前は荼枳尼の影像を与えたものである。諸国に荼枳尼天を祭ったところは少からずあるが、今その法を修する者はあるまい。まして魔法の邪法のといわれるものであるから、真に
修法する者は全くあるまいが、修法の事は、その利益功能のある状態や
理合を語ろうとしても、全然そういうことを知らぬ人に理解せしむることは先ず不可能であるから、まして批評を交えてなど語れるものではない。
管狐という鼠ほどの小さな狐を山より受取って来て、これを使うなどということは世俗のややもすれば伝えることであるが、自分は知らぬ。天狗も荼枳尼には連なることで、愛宕にも太郎坊があれば、飯綱にも天狗嶽という魔所があり、
餓鬼曼陀羅のような荼枳尼曼陀羅には天狗もあり、また荼吉尼天その物を狐に乗っている天狗だと心得ている人もある。むかし僧正
遍照は天狗を金網の中へ籠めて焼いて灰にしたというが、我らにはなかなかそのような道力はないから、平生いろいろな天狗に
脅されて弱っている、俳句天狗や歌天狗、書天狗画天狗
浄瑠璃天狗、その上に本物の天狗に出られて叱られでもしたら
堪らないから筆を
擱く。
我邦で魔法といえば先ず飯綱の法、荼吉尼の法ということになるが、それならどんな人が上に説いた人のほかに魔法を修したか。志一や高天は言うに足らない、山伏や坊さんは職分的であるから興味もない。誰かないか。魔法修行のアマチュアは。
ある。先ず第一標本には細川
政元を出そう。
彼の応仁の大乱は人も知る通り細川
勝元と
山名宗全とが天下を半分ずつに分けて取って争ったから起ったのだが、その勝元の子が即ち政元だ。家柄ではあり、親父の余威はあり、二度も京都
管領になったその政元が魔法修行者だった。政元は生れない前から魔法に縁があったのだから仕方がない。はじめ勝元は
彼だけの地位に立っていても、不幸にして子がなかった。そこでその頃の人だから、神仏に祈願を籠めたのであるが、
観音か何かに祈るというなら
普門品の
誓によって好い子を授けられそうなところを、勝元は妙なところへ願を掛けた。何に掛けたか。武将だから
毘沙門とか、
八幡とかへ願えばまだしも
宜いものを、愛宕山大権現へ願った。勝元は宗全とは異って、人あたりの柔らかな、分別も道理はずれをせぬ、感情も細かに、智慧も行届く人であったが、さすがに大乱の片棒をかついだ人だけに、やはり
※[#「酉+嚴」、142-5]いところがあったと見えて、愛宕山権現に願掛けした。愛宕山は七高山の一として修験の大修行場で、本尊は
雷神にせよ
素盞嗚尊にせよ
破旡神にせよ、いずれも
暴い神で、この頃は既に勝軍地蔵を本宮とし、奥の院は太郎坊、天狗様の
拠所であった。武家の尊崇によって愛宕は最も盛大な時であったろうが、こういう訳で生れた政元は、生れぬさきより恐ろしいものと因縁があったのである。
政元は幼時からこの訳で愛宕を尊崇した。最も愛宕尊崇は一体の世の風であったろうが、自分の特別因縁で特別尊崇をした。
数社参する
中に、修験者らから神怪
幻詭の偉い
談などを聞かされて、身に浸みたのであろう、長ずるに及んで何不自由なき大名の身でありながら、
葷腥を遠ざけて
滋味を
食わず、身を持する謹厳で、超人間の境界を得たい
望に現世の欲楽を取ることを
敢てしなかった。ここは政元も偉かった。
憾むらくは良い師を得なかったようである。婦人に接しない。これも
差支ないことであった。自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを
禁遏したのは恐ろしい信仰心の
凝固りであった。そして畏るべき鉄のような厳冷な態度で修法をはじめた。勿論生やさしい料簡
方で出来る事ではない。
政元は堅固に厳粛に月日を過した。二十歳、三十歳、四十近くなった。
舟岡記にその有様を記してある。曰く、「京管領細川右京太夫政元は四十歳の
比まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、
陀羅尼をへんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば
御家相続の子無くして、
御内、
外様の面
、色
諫め申しける。」なるほどこういう状態では、当人は
宜いが、周囲の者は畏れたろう。その冷い、しゃちこばった顔付が見えるようだ。
で、諸大名ら人
の
執成しで、将軍
義澄の叔母の縁づいている太政大臣九条
政基の子を養子に貰って元服させ、将軍が
烏帽子親になって、その名の一字を受けさせ、源九郎
澄之とならせた。
澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人
も好い若君と喜び、
丹波の国をこの人に進ずることにしたので、澄之はそこで入都した。
ところが政元は病気を時
したので、この前の病気の時、政元一家の
内の人
だけで相談して、
阿波の守護細川
慈雲院の孫、細川
讃岐守之勝の子息が器量骨柄も宜しいというので、
摂州の守護代
薬師寺与一を使者にして養子にする契約をしたのであった。
この養子に契約した者も将軍より一字を貰って、細川六郎
澄元と名乗った。つまり澄元の方は内
の者が約束した養子で、澄之の方は立派な人
の
口入で出来た養子であったのである。これには種
の説があって、前後が上記と反対しているのもある。
澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、
一文不通の者であったが、天性正直で、弟の
与二とともに無双の勇者で、
淀の城に住し、今までも
度手柄を立てた者なので、細川一家では賞美していた男であった。澄元のあるところへ、澄之という者が太政大臣家から養子に来られたので、契約の使者になった薬師寺与一は阿波の細川家へ対して、また澄元に対して困った立場になった。そこで根が律義勇猛のみで、心は狭く分別は足らなかった与一は
赫としたのである。この頃主人政元はというと、段
魔法に
凝り
募って、種
の不思議を現わし、空中へ飛上ったり空中へ立ったりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言う折もあった。空中へ
上るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修業したのだから、その位の事は出来たことと見て置こう。感情が測られず、超常的言語など発するというのは、もともと普通凡庸の世界を出たいというので修業したのだから、修業を積めばそうなるのは当然の道理で、ここが
慥に魔法の有難いところである。政元からいえば、どうも変だ、少し怪しい、などといっている奴は、
何時までも雪を白い、烏を黒いと、退屈もせずに同じことを言っている
扨下らない者どもだ、と見えたに
疑ない。が、細川の被官どもは弱っている。そこで与一は
赤沢宗益というものと相談して、この分では仕方がないから、高圧的
強請的に、阿波の六郎澄元殿を取立てて家督にして
終い、政元公を隠居にして魔法三昧でも何でもしてもらおう、と同盟し、与一はその主張を示して淀の城へ籠り、赤沢宗益は兵を率いて
伏見竹田口へ強請的に上って来た。
与一の議に多数が同意するではなかった。澄之に意を寄せている者も多かった。何にしろ与一の仕方が少し
突飛だったから、それ
下として
上を
剋する与一を撃てということになった。与一の弟の与二は大将として淀の城を攻めさせられた。剛勇ではあり、多勢ではあり、案内は
熟く知っていたので、
忽に淀の城を
攻落し、与二は兄を
一元寺で
詰腹切らせてしまった。その功で与二は兄の跡に代って守護代となった。
阿波の六郎澄元は与一の方から何らかの使者を受取ったのであろう、悠然として上洛した。
無人では叶わぬところだから、六郎の父の讃岐守は、六郎に
三好筑前守之長と
高畠与三の二人を
付随わせた。二人はいずれも武勇の士であった。
与二は政元の下で先度の功に因りて
大に威を
振ったが、兄を討ったので世の用いも悪く、三好筑前守はまた六郎の補佐の臣として六郎の権威と利益とのためには与二の思うがままにもさせず振舞うので、与二は面白くなくなった。
そこで与二は
竹田源七、
香西又六などというものと相談して、兄と同じような路をあるこうとした。異なっているところは兄は六郎澄元を立てんとし、自分は源九郎澄之を立てんとするだけであった。とても彼のように魔法修行に凝って、ただ人ならず振舞いたまうようでは、長くこの世にはおわし果つまじきである、六郎殿に
御世を取られては三好に権を張り威を立てらるるばかりである、是非ないことであるから、政元公に
生害をすすめ、丹波の源九郎殿を以て管領家を相続させ、我
が天下の権を取ろう、と一決した。
永正四年六月二十三日だ。政元はそのような事を被官どもが企てているとも知ろうようはない。今日も例の通り厳冷な顔をして魔法修行の日課を如法に果そうとするほかに何の念もない。しかし戦乱の世である。
河内の
高屋に
叛いているものがあるので、それに対して摂州衆、大和衆、それから前に与一に徒党したが降参したので
免してやった赤沢宗益の弟
福王寺喜島源左衛門和田源四郎を差向けてある。また丹波の謀叛対治のために赤沢宗益を
指向けてある。それらの者はこの六月の末という暑気に重い甲冑を着て、
矢叫、
太刀音、
陣鐘、太鼓の
修羅の
衢に汗を流し血を流して、追いつ返しつしているのであった。政元はそれらの上に念を馳せるでもない、ただもう行法が楽しいのである。碁を打つ者は五
目勝った十目勝ったというその時の心持を楽んで勝とうと思って打つには相違ないが、彼一石我一石を
下すその一石一石の間を楽む、イヤそのただ一石を下すその一石を下すのが楽しいのである。鷹を放つ者は鶴を獲たり
鴻を獲たりして喜ぼうと思って郊外に出るのであるが、実は
沼沢林藪の間を
徐ろに行くその一歩一歩が何ともいえず楽しく喜ばしくて、歩
に喜びを味わっているのである。何事でも目的を達し意を遂げるのばかりを楽しいと思う
中は、まだまだ
里の料簡である、その道の山深く入った人の事ではない。
当下に即ち
了するという境界に至って、一石を下す裏に一局の興はあり、一歩を移すところに一日の
喜は溢れていると思うようになれば、勝って
本より楽しく、負けてまた楽しく、
禽を獲て本より楽しく、獲ずしてまた楽しいのである。そこで
事相の成不成、機縁の熟不熟は別として一切が成熟するのである。政元の魔法は成就したか否か知らず、永い月日を
倦まず怠らずに、今日も如法に本尊を安置し、法壇を厳飾し、先ず一身の
垢を去り
穢を除かんとして浴室に入った。
三業純浄は何の修法にも通有の事である。今は言葉をも発せず、言わんともせず、意を動かしもせず、動かそうともせず、
安詳に身を清くしていた。この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう
歟、
業通自在の世界であったろうか、それは
傍からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳だった。
吉尼天は魔だ、
仏だ、魔でない、
仏でない。
吉尼天だ。人心を
尽するものだ。
心垢を
尽するものだ。政元はどういう修法をしたか、どういう境地にいたか、更に分らぬ。人はただその魔法を修したるを知るのみであった。
政元は
行水を使った。あるべきはずの
浴衣はなかった。小姓の
波伯部は浴衣を取りに行った。月もない二十三日の夕風は
颯と起った。
右筆の戸倉二郎というものは
突と跳り込んだ。波
伯部が帰って来た時、戸倉は
血刀を
揮って切付けた。身をかわして薄手だけで
遁れた。
翌日は
戦だった。波
伯部は戸倉を打って四十二歳で殺された
主の仇を
復したが、管領の細川家はそれからは両派が打ちつ打たれつして、滅茶苦茶になった。
政元は魔法を修していた長い間に何もしなかったのではない。ただ足利将軍の廃立をしたり、諸方の戦をしたりしていた。今は政元の伝を筆にしたのではない。
政元より後に飯綱の法を修した人には面白い人がある。それは政元よりも
遥に立派な人である。
関白、内大臣、藤原氏の
氏の長者、
従一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣
公相は外法のために
生首を取られたが、この人は天文から文禄へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭わないで、無事に九十歳の長寿を得て、めでたく終ったのである。それは名高い関白
兼実の後の九条
植通、
玖山公といわれた人である。
植通公の若い時は天下乱麻の如くであった。知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、
禁庭御所得はどの位であったと思う。
或記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。ましてお
公卿様などは、それはそれは甚だ
窘乏に陥っておられたものだろう。それでその頃は立派な家柄の人
が、四方へ漂泊して、豪富の武家たちに身を寄せておられたことが、
雑史野乗にややもすれば散見する。植通も泉州の堺、――これは富商のいた処である、あるいはまた西方諸国に流浪し、
聟の
十川(十川
一存の一系だろうか)を見放つまいとして、
紳の身ながらに
笏や筆を
擱いて
弓箭鎗太刀を取って武勇の沙汰にも及んだということである。
この人が弟子の
長頭丸に語った。自分は何事でも思立ったほどならば半途で止まずに、その極処まで究めようと心掛けた。自分は飯綱の法を修行したが、遂に成就したと思ったのは、
何処に身を置いて寝ても、寝たところの
屋の上に夜半頃になればきっと
鴟が来て鳴いたし、また路を行けば行く前には必ず
旋風が起った。とこういうことを語ったという。鴟は天狗の化するものであるとされていたのである。前に挙げた僧正遍照も天狗の化した鴟を鉄網に籠めて焼いたのである。屋の上で鴟の鳴くのは飯綱の法成就の人に天狗が随身
伺候するのである意味だ。旋風の起るのも、目に見えぬ
眷属が擁護して
前駆するからの意味である。飯綱の神は
飛狐に
騎っている天狗である。
こういう恐ろしい飯綱成就の人であった植通は、実際の世界においてもそれだけの事はあった人である。
織田信長が今川を亡ぼし、佐
木、浅井、朝倉をやりつけて、三好、松永の
輩を料理し、上洛して、将軍を
扶け、
禁闕に参った際は、天下皆鬼神の如くにこれを畏敬した。
特に
癇癖荒気の大将というので、月卿雲客も怖れかつ
諂諛して、あたかも
古の木曾
義仲の都入りに出逢ったようなさまであった。それだのに植通はその信長に対して、立ったままに面とむかって、「
上総殿か、
入洛めでたし」といったきりで帰ってしまった。上総殿とは信長がただこれ
上総介であったからである。上総介では強かろうが偉かろうが、位官の高い九条植通の前では、そのくらいに扱われたとて仕方のない
談だ。植通は位官をはずかしめず、かつは名門の威を立てたのである。信長の事だから、
是の如き挨拶で扱われては大むくれにむくれて、「九条殿はおれに礼をいわせに来られた」と腹を立って、ぶつついたということである。信長の方では、天下を
掃清したのである、九条殿に礼をいわせる位の気でいたろう。が、これはさすがに飯綱の法の成就している人だけに、植通の方が天狗様のように鼻が高かった。公卿にも一人くらいはこういう毅然たる人があって
宜かったのである。
木下秀吉が明智を亡ぼし、信長の後を
襲いで天下を処理した時の
勢も万人の耳目を
聳動したものであった。秀吉は当時こういうことをいい出した。自分は天の
冥加に叶って今かく
貴い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるから、
古の
鎌子の
大臣の
御名を
縁にして藤原氏になりたいものだ。というのは関白になろうの下ごころだった。すると秀吉のその時の素ばらしい威勢だったから、宜しゅうござろう、いと
易い事だというので、
近衛竜山公がその
取計いをしようとした。その時にこの植通公が、「いや、いや、五
摂家に甲乙はないようなれど、氏の長者はわが家である、近衛殿の
御儘にはなるべきでない」と
咎めた。異論のあるのに無理を通すようなことは秀吉は
敢てせぬところである。しかも当時の博識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は
徳善院玄以に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各
固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強かった。そうするとさすがに秀吉だ、「さようにむずかしい藤原氏の
蔓となり葉となろうよりも、ただ新しく今までになき
氏になろうまでじゃ」といった。そこで
菊亭殿が姓氏録を
検めて、はじめて豊臣秀吉となった。
これも植通は
宜かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が
慥に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天狗大出来大出来。
秀吉は遂に関白になった。ついで
秀次も関白になった。飯綱成就の植通は毎
言った。「関白になって、神罰を受けように」と言った。果して秀次関白が罪を得るに及んで、それに坐して近衛殿は九州の
坊の
津へ流され、菊亭殿は信濃へ流され、その
女の
一台殿は車にて渡された。恐ろしいことだ、飯綱成就の人の言葉には目に見えぬ権威があった。
和歌は勿論堪能の人であった。連歌はさまで心を入れたでもなかろうが、それでも
緒余としてその道を得ていた。
法橋紹巴は当時の連歌の大宗匠であった。しかし長頭丸が植通公を
訪うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「
聚落の
安芸の
毛利殿の
亭にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花
神代もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人
褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬとの
業平の歌は、
竜田川に水の
紅にくくることは奇特不思議の多い神代にも聞かずと精を入れたのであるのに、珍らしからぬ梅を取出して神代も聞かぬというべきいわれはない。昔伊勢の国で冬咲の桜を見て
夢庵が、冬咲くは神代も聞かぬ桜かな、と作ったのは、伊勢であったればこそで、かように本歌を取るが本意である、毛利
大膳が
神主ではあるまいし、と笑ったということである。紹巴もこの人には
敵わない。光秀は紹巴に「
天が下しる
五月哉」の「し」の字は「な」の字
歟といわれたが、紹巴はまたこの公には敵わない。毛利が神主にもあらばこその一句は恐ろしい。
紹巴は時
この公を
訪うた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくて
徐ろに「源氏」とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。
三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と
引退った。なるほどこの公の歩くさきには
旋風が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。
源氏物語にも
言辞事物の注のほかに深き観念あるを説いて
止観の説という。この公の源語の注の
孟津抄は、法華経の釈に玄義、
文句とありて
扨、止観十巻のあるが如く、源氏についての止観の意にて説かれたということである。非常な源氏の愛読者で、「これを見れば
延喜の
御代に住む心地する」といって、
明暮に源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていて
倦まなかったところは、政元が二十年も飯綱修法を行じていたところと同じようでおもしろい。
長頭丸が時
教を請うた頃は、公は京の
東福寺の門前の
乾亭院という藪の中の朽ちかけた坊に
物寂びた朝夕を送っていて、毎朝
輪袈裟を掛け、印を結び、行法怠らず、朝廷長久、天下太平、家門隆昌を祈って、それから食事の後には、ただもう机に
って源氏を読んでいたというが、如何にも寂びた、細
とした、すっきりとした、
塵雑の気のない、平らな、
落ついた、空室に日の光が白く射したような生活のさまが思われて、飯綱も成就したろうが、自己も成就した人と見える。天文から文禄の間の世に生きていて、しかも延喜の世に住んでいたところは、実に面白い。
或時長頭丸即ち
貞徳が公を
訪うた時、公は
閑栖の
韵事であるが、
和らかな日のさす庭に出て、
唐松の
実生を
釣瓶に手ずから植えていた。
五葉の松でもあればこそ、
落葉松の実生など、余り佳いものでもないが、それを釣瓶なんどに植えて、しかもその小さな実生のどうなるのを
何時賞美しようというのであろう。しかしここが面白いのである、出来た人でなければ出来ない真の楽みを取っているところである。貞徳は公より
遥に年下である。我身の若さ、公の清らに老い
痩枯れたるさまの頼りなさ、それに実生の松の緑りもかすけき小ささ、わびきったる釣瓶なんどを用いていらるるはかなさ、それを思い、これを感じて、貞徳はおのずから優しい心を動かしたろう、どうぞこの松のせめて一、二尺になるまでも
芽出度おわしませ、と「植ゑておく今日から松のみどりをも
猶ながらへて君ぞ見るべき」と祝いて申上げると、「日のもとに住みわびつゝも
有りふれば今日から松を植ゑてこそ見れ」と、ただ物をいうように公は答えた。
その
器その徳その才があるのでなければどうすることも出来ない乱世に生れ合せた人の、八十ごろの
齢で唐松の実生を植えているところ、日のもとの歌には
堕涙の音が聞える。飯綱修法成就の人もまた好いではないか。
(昭和三年四月)