此処に赤ン坊が生れたと仮定します。其の赤ン坊が華族の家の何不足無いところに生れたとします。
鄭伯のやうに生れ方が普通で無かつたために、奇妙な運命に絡まれた人もあります。鄭伯は寤生と云つて、(母の眠つてゐた間に生れた、即ち眠り産であつたといふ説と、逆さ子で難産であつたといふ説と二説ありますが)兎に角に母の気持を悪くした生れ方をした人ですが、其は勿論其の嬰児が
けれども運命前定は一半だけ真実の事実でして、全部運命は前定して居るものだなぞと思つては確にそれは間違です。随つて運命前定説から生れる運命測知術、即ちいろ/\の占卜の術などを神聖のもののやうに思つては、人間たるものの本然の希望、即ち向上心といふ高いものを蹂躪する卑屈の思想に墜ちて終ひまして甚だ宜しく無い、即ちそれは現在相違といふ過失に陥ります。人は生きて居る間は向上進歩の望を捨てることは出来ぬものであります。これは即ち端的の現在事実です。此の現在事実に背くことを考へるのは、現在相違といふ下らないことです。
前に申しました占星術の如きは仮令幾多の事例が有りましたとて、何で今の人がこれを念頭に上せませうか。諸葛孔明が死んだ時に大きな星が墜ちた、それを観て敵の司馬懿が孔明の死を悟つて攻寄せたなどといふ談は、軍談では面白いことですが、それは勿論たゞお話です。そんな事が真実ならば、人は一
天の星の一
に相応して居る訳で、星の数と人の数と同じで無ければならぬことになります。英雄豪傑は赤い星、美人才女は美しい星、兇悪の人は箒星、平凡の人は糠星や見えないやうな星、をかしな人は夜這星なんて、そんな馬鹿気た事が何処にありませう。生れた年月日時によつて人の運命が定められては
吉の日だぞ、かの子や、今日の三時に男の子を生め、はやくイキンで生め」なぞと云つたり、「今日は悪日だ、辛抱して明日の朝まで産むな」なぞと云ふことになつたら堪るものではありません。古い人でも流石に道理の分つた人がありまして、漢の王充といふ人が申して居りますが、秦と趙と戦つた時、秦の白起といふ猛将が趙の降参の兵卒四十万人を殺して終つた事がある。其の四十万人が皆同じ年月の生れであつたか、何様だ、そんな事は思へまい、してみれば生れ年月で運命が何様の彼様のといふのは当になるまい、と論じて居ります。ルシタニヤ号の沈没、先年の大地震、一時に大勢死んで居ります。それが一
何で生れ年月の如何に因りませう。二十八宿や七曜や九星や、いづれも当にする人には当になるか知りませぬが、当にならないと思つた日には何で当になりませう。まるで夢見たやうな事ではありますまいか。方位によつて従来行動の吉凶祝福を申しまするのも、二千年も前の慰繚子といふ兵法家が既に嘲笑つて居りまして、方角の好否で戦の勝敗が定まつて堪るものかと申して居ります位です。支那の古い人でさへ其通りです、今の人が何で理を観ること古の人に及ばぬやうな下らぬ考を持つて居られませうや。人の相貌骨格も其当人が自分で定めたものでありませぬから、先づ運命前定説が一半だけは是認せられる訳でして、何様も不美人に生れついては男子に愛されぬ勝で、醜夫に生れついては婦人の悦ぶところとならぬ勝ですから、鏡に対して憮然たる人も世に多い訳ですが、幸にして人間は牛や馬ではありません。自分で自分を向上させることの出来るものですから、無理に隆鼻術の施行や美容法研究をせずとも、「此に欠くるところも彼に増すこともあれば又以て自ら善くするに足る」道理で、
人相家の説に反対した人は遠い古から俊秀の人に何程有つたか知れません。よし一歩も二歩も譲つて、相貌骨格を以て人の運命が定まつて居るものとしましたところで、人相といふものは変るもので有りますから、人相が既に変る以上は運命もまた変る訳でして、して見れば心掛や所行や境遇によつて運命もどし/\変ると考へて正当であります。こゝに極
長寿の相の有る人が居ますとしましても、其人が河豚を無暗に食べたり、大酒をしたり荒淫を敢てしたりすると致しますれば、甚だ其の高寿であり得るといふことは危いので有りまして、日
に其の長寿の相は変ずるで有りませう。太い蝋燭でも風吹きの場処に置けば疾く竭きて終ひ、細い蝋燭でも風陰に置けば長く保つ道理で、世間には丈夫な人が早死し、病弱な人が長寿する例は何程もあります。易に、つねに病み、つねに死せず、といふ文句がありますが、実に然様いふ事も世に多い例です。心掛次第で人相が悪く生れて居てもこれは実に人相の面白いところで、勝れた人相家が適中した判断を為し得るのも、其の変るところを知つて居るからでして、若し人相が生れた儘に全然変化せぬものでしたならば、人相論も現在相違になりますから、成立たぬものになりますが、相貌は変るものですから、そこで人相論は現在相違になりませんで、そして運命前定説を一半だけ是認し、又後一半は運命は其人の心掛次第で善くも悪くもなるといふ運命非前定説を伴ふことが出来るのです。手早く例を申しませうならば、同じ人でも酒に酔へば、其酔はぬ時とは人相は相違致します。酔うても骨格は変らぬが、一時間か二時間の事で気色は変つて終ひます。酔うて宜しい相になる人も有りますが、十の九までは酔うた相は宜しくありません。即ち悪変するのです。心が其舎を守らないで浮動泛濫する相になりますから、其相は過失に近づき易い相になるのであります。此道理で
悪い相になりませうが、いくら悪女でも仁心を抱いて居れば必ず見づらいものでは有りませぬ。かやうな訳で、運命は全く前定して居るものとすることは