世おのずから
数というもの有りや。有りといえば有るが
如く、無しと
為せば無きにも似たり。
洪水天に
滔るも、
禹の功これを治め、
大旱地を
焦せども、
湯の徳これを
済えば、数有るが如くにして、
而も数無きが如し。
秦の始皇帝、天下を一にして
尊号を称す。
威まことに当る
可からず。
然れども水神ありて
華陰の夜に現われ、
璧を使者に托して、今年
祖龍死せんと
曰えば、
果して始皇やがて
沙丘に崩ぜり。
唐の
玄宗、開元は三十年の太平を
享け、
天宝は十四年の
華奢をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、
一行阿闍梨、陛下万里に行幸して、
聖祚疆無からんと奏したりしかば、心得がたきことを
白すよとおぼされしが、
安禄山の乱起りて、天宝十五年
蜀に入りたもうに及び、
万里橋にさしかゝりて
瞿然として悟り
玉えりとなり。
此等を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。
定命録、
続定命録、
前定録、
感定録等、小説
野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて
飲啄笑哭も、
悉く天意に
因るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。
仮令数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を
畏れて、
巫覡卜相の徒の前に
首を
俯せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の
教の
下に心を安くせんには
如かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の
命を称して
歎じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に
陋とすべし。事敗れて
之を
吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに
委ねなば、
其人偽らずして
真、其
器小ならずして偉なりというべし。先哲
曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者
或は
能く数を知らん。
古より今に至るまで、
成敗の跡、禍福の運、人をして
思を
潜めしめ
歎を発せしむるに
足るもの
固より多し。されども人の奇を好むや、
猶以て足れりとせず。
是に
於て才子は才を
馳せ、
妄人は
妄を
恣にして、空中に楼閣を築き、
夢裏に悲喜を
画き、
意設筆綴して、
烏有の談を
為る。或は
微しく
本づくところあり、或は全く
拠るところ無し。小説といい、
稗史といい、戯曲といい、
寓言というもの
即ち
是なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。
豈図らんや造物の脚色は、
綺語の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する
能わざるの
巧緻あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、
試に
看よ
建文永楽の事を。
我が
古小説家の
雄を
曲亭主人馬琴と
為す。馬琴の作るところ、長篇四五種、
八犬伝の雄大、
弓張月の壮快、皆
江湖の
嘖々として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して
優るあるも劣らざるものを
侠客伝と
為す。
憾むらくは其の叙するところ、
蓋し
未だ十の三四を
卒るに及ばずして、
筆硯空しく曲亭の
浄几に
遺りて、主人既に
逝きて
白玉楼の
史となり、
鹿鳴草舎の
翁これを
続げるも、
亦功を遂げずして死せるを
以て、世
其の結構の
偉、
輪奐の美を
観るに至らずして
已みたり。
然れども其の意を立て材を排する
所以を考うるに、
楠氏の
孤女を
仮りて、南朝の
為に気を吐かんとする、おのずから
是れ一大文章たらずんば
已まざるものあるをば推知するに足るあり。
惜い
哉其の成らざるや。
侠客伝は
女仙外史より
換骨脱胎し
来る。其の一部は
好逑伝に
藉るありと
雖も、全体の女仙外史を
化し
来れるは
掩う
可からず。
此の
姑摩媛は
即ち
是れ
彼の
月君なり。月君が
建文帝の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの
藍本たらずんばあらず。
此は
是れ馬琴が
腔子裏の事なりと
雖も、
仮に馬琴をして在らしむるも、
吾が言を聴かば、
含笑して
点頭せん。
女仙外史一百回は、
清の
逸田叟、
呂熊、
字は
文兆の
著すところ、
康熙四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を
卒る。
其の書の
体たるや、
水滸伝平妖伝等に同じと
雖も、
立言の
旨は、
綱常を
扶植し、忠烈を顕揚するに在りというを
以て、
南安の郡守
陳香泉の序、
江西の
廉使劉在園の評、江西の学使
楊念亭の論、
広州の太守
葉南田の
跋を得て世に行わる。
幻詭猥雑の談に、
干戈弓馬の事を
挿み、
慷慨節義の
譚に、
神仙縹緲の
趣を
交ゆ。
西遊記に似て、
而も其の
誇誕は少しく
遜り、水滸伝に近くして、而も
其の豪快は及ばず、三国志の
如くして、而も其の殺伐はやゝ
少し。たゞ其の三者の
佳致を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に
勝る
所以にして、其の大体の
風度は平妖伝に似たりというべし。
憾むらくは、
通篇儒生の
口吻多くして、説話は
硬固勃率、談笑に
流暢尖新のところ
少きのみ。
女仙外史の名は其の
実を語る。主人公
月君、これを
輔くるの
鮑師、
曼尼、
公孫大娘、
聶隠娘等皆女仙なり。
鮑聶等の女仙は、もと古伝雑説より取り
来って彩色となすに過ぎず、
而して月君は
即ち
山東蒲台の
妖婦唐賽児なり。賽児の乱をなせるは
明の
永楽十八年二月にして、
燕王の
簒奪、
建文の
遜位と相関するあるにあらず、建文
猶死せずと
雖、簒奪の事成って既に十八春秋を
経たり。賽児何ぞ実に建文の
為に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を
屠り、
安遠侯柳升をして征戦に労し、
都指揮衛青をして
撃攘に
力めしめ、都指揮
劉忠をして
戦歿せしめ、山東の地をして一時
騒擾せしむるに至りたるもの、真に
是れ
稗史の好題目たり。
之に加うるに賽児が
洞見預察の
明を有し、幻怪
詭秘の術を
能くし、天書宝剣を得て、
恵民布教の事を
為せるも、
亦真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の
実蹟既に
是の
如し。
此を
仮り
来りて
以て建文の位を
遜れるに涙を
堕し、
燕棣の国を奪えるに歯を
切り、
慷慨悲憤して以て回天の業を
為さんとするの
女英雄となす。女仙外史の人の愛読
耽翫を
惹く
所以のもの、決して
尠少にあらずして、而して又実に一
篇の
淋漓たる
筆墨、
巍峨たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
賽児は
蒲台府の
民林三の妻、
少きより仏を好み経を
誦せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して
之を郊外に
葬る。賽児墓に祭りて、
回るさの
路、一山の
麓を経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石
露われたり。これを
視るに
石匣なりければ、
就いて
窺いて
遂に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を
剪って人馬となし、
剣を
揮って
咒祝を
為し、髪を削って尼となり、
教を
里閭に
布く。
祷には効あり、
言には
験ありければ、民
翕然として之に従いけるに、賽児また
饑者には
食を与え、凍者には衣を給し、
賑済すること多かりしより、
終に追随する者数万に及び、
尊びて仏母と称し、
其勢甚だ
洪大となれり。官
之を
悪みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者
董彦杲、
劉俊、
賓鴻等、敢然として
起って戦い、
益都、
安州、
州、
即墨、
寿光等、山東諸州
鼎沸し、官と賊と
交々勝敗あり。官兵
漸く多く、賊勢日に
蹙まるに至って賽児を捕え得、
将に刑に処せんとす。賽児
怡然として
懼れず。衣を
剥いで之を
縛し、
刀を挙げて之を
るに、
刀刃入る
能わざりければ、
已むを得ずして
復獄に下し、
械枷を
体に
被らせ、
鉄鈕もて足を
繋ぎ置きけるに、
俄にして皆おのずから
解脱し、
竟に
遯れ去って終るところを知らず。
三司郡県将校等、皆
寇を失うを以て
誅せられぬ。賽児は
如何しけん其後
踪跡杳として知るべからず。永楽帝怒って、およそ
北京山東の
尼姑は
尽く逮捕して京に上せ、厳重に
勘問し、
終に天下の尼姑という尼姑を
逮うるに至りしが、得る
能わずして
止み、遂に後の史家をして、
妖耶人耶、
吾之を知らず、と
云わしむるに至れり。
世の伝うるところの賽児の事既に
甚だ奇、修飾を
仮らずして、一部
稗史たり。女仙外史の作者の
藉りて
以て筆墨を
鼓するも
亦宜なり。
然れども賽児の徒、
初より大志ありしにはあらず、官吏の
苛虐するところとなって
而して後爆裂
迸発して
を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を
索むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒
窘窮して
戈を
執って立つに及び、
或は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか
其実を知るを得ん。永楽
簒奪して功を成す、
而も
聡明剛毅、
政を
為す甚だ精、
補佐また賢良多し。こゝを以て賽児の徒
忽にして跡を潜むと
雖も、
若し
秦末漢季の
如きの世に
出でしめば、
陳渉張角、
終に天下を動かすの事を
為すに至りたるやも知る
可からず。
嗚呼賽児も亦
奇女子なるかな。而して
此奇女子を
藉りて建文に
与し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、
其の奇を求めずして而しておのずから
然るあらんのみ。然りと雖も
予猶謂えらく、
逸田叟の脚色は
仮にして後
纔に奇なり、造物
爺々の
施為は真にして
且更に奇なり。
明の
建文皇帝は実に
太祖高皇帝に
継いで位に
即きたまえり。時に
洪武三十一年
閏五月なり。すなわち
詔して明年を建文元年としたまいぬ。
御代しろしめすことは
正しく五歳にわたりたもう。
然るに
廟諡を得たもうこと無く、
正徳、
万暦、
崇禎の間、事しば/\議せられて、
而も
遂に行われず、
明亡び、
清起りて、
乾隆元年に至って、はじめて
恭憫恵皇帝という
諡を得たまえり。
其国の徳衰え
沢竭きて、内憂外患こも/″\
逼り、滅亡に
垂とする世には、崩じて
諡られざる
帝のおわす
例もあれど、明の
祚は
其の後
猶二百五十年も続きて、
此時太祖の盛徳偉業、
炎々の威を揚げ、
赫々の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの
後なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを
其[#ルビの「そ」は底本では「その」]の
是の
如くなるに至りし
所以は、天意か人為かはいざ知らず、一
波動いて万波動き、不可思議の事の
重畳連続して、其の
狂濤は四年の間の天地を
震撼し、其の
余瀾は万里の外の邦国に
漸浸するに及べるありしが
為ならずばあらず。
建文皇帝
諱は
允、太祖高皇帝の嫡孫なり。
御父懿文太子、太祖に
紹ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に
御齢六十五にわたらせ
給いければ、
流石に
淮西の
一布衣より
起って、
腰間の
剣、馬上の
鞭、四百余州を十五年に
斬り
靡けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に
燭を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き
萎れたもう。
翰林学士の
劉三吾、
御歎はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、
儲君と仰せ出されんには、四海心を
繋け奉らんに、
然のみは御過憂あるべからず、と
白したりければ、
実にもと
点頭かせられて、
其歳の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、
即ち後に建文の
帝と申す。
谷氏の史に、建文帝、生れて十年にして
懿文卒すとあるは、
蓋し
脱字にして、父君に別れ、
儲位に立ちたまえる時は、
正しく十六歳におわしける。資性
穎慧温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に
亘りて昼夜
膝下を離れたまわず、
薨れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と
瘠せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、
爾まことに純孝なり、たゞ子を
亡いて孫を頼む老いたる我をも
念わぬことあらじ、と
宣いて、過哀に身を
毀らぬよう
愛撫せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
はじめ太祖、太子に命じたまいて、
章奏を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に
於て
宥め軽めらるゝこと多かりき。太子
亡せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、
遍く
礼経を考え、歴代の刑法を
参酌し、刑律は
教を
弼くる
所以なれば、
凡そ
五倫と
相渉る者は、
宜しく皆法を屈して
以て
情を伸ぶべしとの意により、太祖の
准許を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下
大に喜びて徳を
頌せざる無し。太祖の
言に、
吾は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、
汝は平世を治むるなれば、刑おのずから
当に
軽うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の
武昌を平らげたる
呉の元年に、
李善長等の考え設けたるを
初とし、洪武六年より七年に
亙りて
劉惟謙等の議定するに及びて、
所謂大明律成り、同じ九年
胡惟庸等命を受けて
釐正するところあり、又同じ十六年、二十二年の
編撰を経て、
終に洪武の末に至り、
更定大明律三十巻大成し、天下に
頒ち示されたるなり。呉の元年より
茲に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと
精しくして、一代の法始めて定まり、
朱氏の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に
視ぶれば
簡覈、
而して寛厚は
宗に
如かざるも、其の
惻隠の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く
我邦に及び、徳川期の識者をして
此を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして
此に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、
亦人君の度ありて、明律
因りて
以て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に
即きたもうや、刑官に
諭したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、
朕に命じて細閲せしめたまえり。前代に
較ぶるに往々重きを加う。
蓋し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が
前に改定せるところは、皇祖
已に命じて施行せしめたまえり。
然れども罪の
矜疑すべき者は、
尚此に
止まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に
順う。民を
斉うるに刑を以てするは礼を以てするに
若かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を
崇び、疑獄を
赦し、朕が
万方と
与にするを
嘉ぶの意に
称わしめよと。
嗚呼、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、
誰がこれを然らずとせんや。
是の如きの人にして、
帝となりて位を保つを得ず、天に帰して
諡を
得る
能わず、
廟無く陵無く、
西山の
一抔土、
封せず
樹せずして終るに至る。
嗚呼又奇なるかな。しかも其の
因縁の
糾纏錯雑して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、
或は
刻毒なる、或は
杳渺たる、奇も
亦太甚しというべし。
建文帝の国を
遜らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の
宋元傾覆の
所以を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を
衆く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、
以て帝室に
藩屏たらしめ、
京師を
拱衛せしめんと欲せり。
是れ
亦故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、
将帥外に
傲り、
奸邪間に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る
能わず、
宗廟祀られざるに至るべし。
若し
夫れ
衆く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣
勢を得るの
隙無し。こゝに
於て、第二子
※[#「木+爽」、U+6A09、252-3]を
秦王に
封じ、藩に
西安に
就かしめ、第三子
棡を
晋王に封じ、
太原府に
居らしめ、第四子
棣を封じて
燕王となし、
北平府即ち今の
北京に居らしめ、第五子
※[#「木+肅」、U+6A5A、252-5]を封じて
周王となし、
開封府に居らしめ、第六子
を
楚王とし、
武昌に居らしめ、第七子
榑を
斉王とし、
青州府に居らしめ、第八子
梓を封じて
潭王とし、
長沙に
居き、第九子
杞を
趙王とせしが、
此は三歳にして
殤し、藩に就くに及ばず、第十子
檀を生れて二月にして
魯王とし、十六歳にして藩に
州府に就かしめ、第十一子
椿を封じて
蜀王とし、
成都に
居き、第十二子
柏を
湘王とし、
荊州府に居き、第十三子
桂を
代王とし、
大同府に居き、第十四子
※[#「木+英」、U+6967、252-11]を
粛王とし、藩に
甘州府に就かしめ、第十五子
植を封じて
遼王とし、
広寧府に居き、第十六子
※[#「木+旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]を
慶王として
寧夏に居き、第十七子
権を
寧王に封じ、
大寧に居らしめ、第十八子
を封じて
岷王となし、第十九子
※[#「木+惠」、U+6A5E、253-2]を封じて
谷王となす、谷王というは
其の
居るところ
宣府の
上谷の地たるを以てなり、第二十子
松を封じて
韓王となし、
開源に居らしむ。第二十一子
模を
瀋王とし、第二十二子
楹を
安王とし、第二十三子
※[#「木+徑のつくり」、U+6871、253-4]を
唐王とし、第二十四子
棟を
郢王とし、第二十五子
※[#「木+帚」の「冖/巾」に代えて「(米+扮のつくり)/廾」、U+237D7、253-5]を
伊王としたり。
藩王以下は、
永楽に及んで藩に就きたるなれば、
姑らく
措きて論ぜざるも、太祖の諸子を
封じて王となせるも
亦多しというべく、
而して
枝柯甚だ盛んにして
本幹却って弱きの
勢を致せるに近しというべし。明の制、親王は
金冊金宝を授けられ、
歳禄は
万石、府には官属を置き、護衛の
甲士、
少き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、
冕服車旗邸第は、天子に
下ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、
亦至れりというべし。且つ
元の
裔の
猶存して、時に
塞下に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、
国中に専制し、三護衛の
重兵を擁するを得せしめ、将を
遣りて諸路の兵を
徴すにも、必ず親王に関白して
乃ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、
亦大なりというべし。太祖の意に
謂えらく、
是の
如くなれば、
本支相幇けて、
朱氏永く
昌え、威権
下に移る無く、傾覆の
患も生ずるに地無からんと。太祖の
深智達識は、まことに
能く前代の
覆轍に
鑑みて、後世に長計を
貽さんとせり。されども人智は
限有り、天意は測り難し、
豈図らんや、太祖が熟慮遠謀して
施為せるところの者は、
即ち是れ
孝陵の土
未だ乾かずして、
北平の
塵既に起り、
矢石京城に
雨注して、皇帝
遐陬に雲遊するの因とならんとは。
太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、
夙に
之を論じて、
然る
可からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。
其歳閏九月、たま/\
天文の変ありて、
詔を下し
直言を求められにければ、
山西の
葉居升というもの、上書して第一には分封の
太だ
侈れること、第二には刑を用いる
太だ
繁きこと、第三には
治を求むる
太だ速やかなることの三条を言えり。其の分封
太侈を論ずるに
曰く、都城
百雉を過ぐるは国の害なりとは、
伝の文にも見えたるを、国家今や
秦晋燕斉梁楚呉の諸国、各
其地を尽して
之を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に
亜ぎ、之に
賜うに甲兵衛士の
盛なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、
数世の後は
尾大掉わず、
然して後に之が地を削りて之が権を奪わば、
則ち其の
怨を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば
則ち
険を
恃みて
衡を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、
甚しければ則ち
間に
縁りて而して
起たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。
孝景皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の
同宗父兄弟子孫なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の
親子孫なり。然るに世を
易うるの後は
迭に兵を擁して、以て皇帝を
危くせり。昔は
賈誼漢の文帝に勧めて、禍を
未萌に防ぐの道を
白せり。願わくば今
先ず諸王の
都邑の制を節し、其の衛兵を減じ、其の
彊里を限りたまえと。
居升の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、
正に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を
獄中に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして
験ありて、漢の七国の
喩、
眼のあたりの事となれるぞ是非無き。
七国の事、七国の事、
嗚呼是れ何ぞ
明室と因縁の深きや。
葉居升の上書の
出ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に
大本堂というを建てたまい、
古今の図書を
充て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。
起居注の
魏観字は
杞山というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は
漢書の七図漢に
叛ける事を講じ
聞せたりと答え
白す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は
孰に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと
対う。時に太祖
肯ぜずして、
否、
其は講官の偏説なり。
景帝太子たりし時、
博局を投じて
呉王の
世子を殺したることあり、帝となるに及びて、
晁錯の説を聴きて、諸侯の
封を削りたり、七国の変は実に
此に由る。諸子の
為に
此事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は
百姓を
撫し、国家の
藩輔となりて、天下の公法を
撓す無かれと言うべきなり、
此の如くなれば則ち太子たるものは、九族を
敦睦し、親しきを親しむの恩を
隆んにすることを知り、諸子たるものは、王室を
夾翼し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。
此の太祖の言は、
正に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、
夙くより
此意ありたればこそ、
其より二年ほどにして、洪武三年に、
※[#「木+爽」、U+6A09、257-9]、
棡、
棣、
※[#「木+肅」、U+6A5A、257-9]、
、
榑、
梓、
檀、
杞の九子を封じて、
秦晋燕周等に王とし、
其甚しきは、生れて
甫めて二歳、
或は生れて
僅に二ヶ月のものをすら藩王とし、
次いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、
而して又
夙くより此意ありたればこそ、
葉居升が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が
懿文太子に、七国反漢の事を
喩したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、
斯ばかり思いしことの、
其身死すると共に
直に
禍端乱階となりて、
懿文の子の
允、七国反漢の
古を今にして
窘まんとは。不世出の英雄
朱元璋も、
命といい
数というものゝ前には、たゞ
是一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を
承けて
其御子允
皇太孫の位に
即かせたもう。
継紹の運まさに
是の如くなるべきが上に、
下は四海の心を
繋くるところなり。
上は一
人の
命を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに
皇儲となりたまえる上は、
齢猶弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王
或は功あり或は徳ありと
雖も、遠からず
俯首して
命を奉ずべきなれば、理に
於ては
当に
之を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を
挟み、大封の
勢に
藉り、
且は
叔父の尊きを
以て、
不遜の事の多かりければ、皇太孫は
如何ばかり心苦しく
厭わしく思いしみたりけむ。
一日東角門に坐して、
侍読の
太常卿黄子澄というものに、諸王
驕慢の状を告げ、
諸叔父各大封
重兵を擁し、叔父の尊きを
負みて
傲然として予に臨む、
行末の事も
如何あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと
曰いたもう。子澄名は
、
分宜の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと
雖も、
世故に練達することは
未だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は
其昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして
纔に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国
叛きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、
誰か
能く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、
御心安く
思召せ、と七国の
古を引きて
対うれば、太孫は子澄が答を、げに
道理なりと信じたまいぬ。太孫
猶齢若く、子澄未だ世に老いず、
片時の談、七国の論、何ぞ
図らん他日山崩れ海
湧くの大事を生ぜんとは。
太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、
同閏五月
西宮に崩ず。
其遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、
幾度と無く
畏るべき危険の境を冒して、無産無官又
無家、
何等の
恃むべきをも
有たぬ孤独の身を振い、
終に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、
慮[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い
竭して民を
済い、
而して礼を
尚び学を重んじ、百
忙の
中、手に書を
輟めず、孔子の
教を篤信し、
子は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず
此に依拠し、又
蚤歳にして仏理に通じ、内典を知るも、
梁の武帝の如く
淫溺せず、又
老子を愛し、
恬静を喜び、
自から
道徳経註二巻を
撰し、
解縉をして、
上疏の中に、学の純ならざるを
譏らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を
好尚せず、
嘗て
宗濂に
謂って、人君
能く心を清くし欲を
寡くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、
熈々々として
自ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと
曰い、詩文を
善くして、文集五十巻、詩集五巻を
著せるも、
同と文章を論じては、文はたゞ誠意
溢出するを
尚ぶと為し、又洪武六年九月には、
詔して公文に
対偶文辞を用いるを禁じ、無益の彫刻
藻絵を事とするを
遏めたるが如き、まことに通ずること
博くして
拘えらるゝこと
少く、文武を
兼ねて有し、智有を
併せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、
開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝の
諡号に
負かざる
朱元璋、
字は
国瑞の
世を
辞して、
其身は地に入り、其
神は
空に帰せんとするに臨みて、言うところ
如何。一鳥の
微なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず
可く考う
可きもの無からんや。遺詔に曰く、
朕皇天の命を受けて、大任に世に
膺ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。
奈何せん
寒微より起りて、古人の博智無く、善を
好し悪を
悪むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕
危懼す、
慮るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を
得、
其れ
奚んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫
允、仁明孝友にして、天下心を帰す、
宜しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして
輔祐し、
以て
吾が民を
福せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして
異にする
勿れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の
山川は、其の
故に因りて改むる
勿れ、天下の臣民は、
哭臨する三日にして、皆服を
釈き、
嫁娶を妨ぐるなかれ。諸王は国中に
臨きて、京師に至る
母れ。
諸の令の
中に在らざる者は、此令を推して事に従えと。
嗚呼、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に
膺ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に
是れ帝王の言にして、堂々正大の気象、
靄々仁恕の情景、百歳の
下、人をして
欽仰せしむるに足るものあり。
奈何せん寒微より起りて、智浅く徳
寡し、といえるは、
謙遜の態度を取り、
反求の工夫に切に、
諱まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死
旦夕に在り、といえるは、英雄も
亦大限の
漸く
逼るを
如何ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ
奚にぞ哀念かこれ有らん、と
云える、
流石に
孔孟仏老の
教に
於て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑
少きは、世間の常態なるが、太祖は是れ
真豪傑、生きて長春不老の
癡想を
懐かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。
従容として
逼らず、
晏如として
れず、偉なる
哉、偉なる哉。皇太孫
允、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一
言や鉄の鋳られたるが
如し。衆論の糸の
紛るゝを防ぐ。これより
前、太孫の
儲位に
即くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと
雖も、太孫の人となり仁孝
聡頴にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は
甚だ欠く。
此を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、
其詩
婉美柔弱、豪壮
瑰偉の
処無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして
詞句の
属対をなさしめしに、
大に
旨に
称わず、
復び以て
燕王棣に命ぜられけるに、燕王の語は
乃ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、
容貌偉にして
髭髯美わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖に
[#「太祖に」は底本では「大祖に」]肖たること多かりしかば、太祖も
此を
悦び、人も
或は
意を寄するものありたり。
此に
於て太祖
密に
儲位を
易えんとするに
意有りしが、
劉三吾之を
阻みたり。三吾は名は
如孫、
元の遺臣なりしが、博学にして、文を
善くしたりければ、洪武十八年召されて
出でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時
汪叡、
朱善と
与に、
世称して三
老と
為す。人となり
慷慨にして城府を設けず、自ら号して
坦坦翁といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、
生平実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に
与りて定むる所多く、帝の
洪範の注成るや、命を
承けて序を
為り、
勅修の書、
省躬録、
書伝会要、
礼制集要等の
編撰総裁となり、
居然たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して
大節に臨むに至りては、
屹として奪う
可からず。
懿文太子の
薨ずるや、身を
挺んでゝ、皇孫は
世嫡なり、大統を
承けたまわんこと、礼
也、と云いて、内外の
疑懼を定め、太孫を立てゝ
儲君となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ
言無からん、
乃ち
曰く、
若し燕王を立て
給わば
秦王晋王を何の地に置き給わんと。秦王
※[#「木+爽」、U+6A09、265-7]、晋王
棡は、皆燕王の兄たり。
孫を廃して
子を立つるだに、定まりたるを
覆すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、
世豈事無くして
已まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、
其事
止みけるなり。
是の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を
遏めて、
特に厳しく皇太孫允
宜しく大位に登るべしとは詔を
遺されたるなるべし。太祖の
治を思うの
慮も遠く、皇孫を愛するの情も
篤しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の
如くせよ、と云える、天下の臣民は
哭臨三日にして服を
釈き、
嫁娶を妨ぐる
勿れ、と云える、何ぞ
倹素にして
仁恕なる。文帝の如くせよとは、
金玉を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の
故に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして
福あらしめんとなり。諸王は国中に
臨きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、
蓋し
其意諸王其の封を去りて京に至らば、前代の
遺、辺土の
黠豪等、
或は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、
燎原の勢を成すに至らんことを
虞るるに似たり。
此も
亦愛民憂世の念、おのずから
此に至るというべし。太祖の遺詔、
嗚呼、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。
然りと
雖も、太祖の遺詔、考う
可きも
亦多し。皇太孫
允、天下心を帰す、
宜しく大位に登るべし、と
云えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、
当に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、
或は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年
少く
勇乏しき、自ら謙譲して諸王の
中の材雄に略大なる者に位を
遜らんことを欲する者ありしが
如きをも
猜せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。
明の世を治むる、
纔に三十一年、
元の
裔猶未だ滅びず、中国に在るもの無しと
雖も、
漠北に、
塞西に、
辺南に、元の同種の広大の地域を有して
踞するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に
興和に
寇するあり。国外の
情是の如し。
而して域内の事、また英主の世を御せんことを
幸とせずんばあらず。仁明孝友は
固より
尚ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、
或は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして
輔祐し、
以て
吾が民を
福せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを
懼るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る
耶、
非耶。諸王は国中に
臨きて
京に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の
其封国を
空しゅうして
奸※[#「敖/馬」、U+9A41、268-4]の乗ずるところとならんことを
虞るというも、諸王の臣、
豈一時を
托するに足る者無からんや。子の父の
葬に
趨るは、おのずから
是れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと
為さんや。諸王をして葬に会せざらしむる
詔は、果して是れ太祖の言に
出づるか。太祖にして
此詔を
遺すとせば、太祖ひそかに
其の
斥けて聴かざりし
葉居升の言の、諸王衆を擁して入朝し、
甚しければ
則ち
間に
縁りて
起たんに、
之を防ぐも及ぶ無き
也、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。
嗚呼子にして父の葬に会するを得ず、父の
意なりと
謂うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも
亦疎にして薄きの
憾無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に
中らん、
而も実に人情に遠いかな。
凡そ
施為命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと
甚しきものは、意は善なるも、理は正しきも、
計は
中るも、
見は徹するも、必らず弊に
坐し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは
則ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年
高皇后の崩ずるや、
奏王
晋王
燕王等皆国に在り、
然れども諸王
喪に
奔りて
京に至り、礼を
卒えて還れり。太祖の崩ぜると、其
后の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。
此も亦人を強いて人情に遠きを
為さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。
豈弊を生じ凶を致す無からんや。果して
事端は
先ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は
将に
淮安に至らんとせるに当りて、
斉泰は帝に
言し、人をして
を
賚らして国に
還らしめぬ。燕王を
首として諸王は皆
悦ばず。これ
尚書斉泰の
疎間するなりと
謂いぬ。建文帝は位に
即きて
劈頭第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の
叔父なり、尊族なり、
封土を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の
枝柯、皇室の
藩屏たるも何かあらん。
嗚呼、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、
抑又遺詔にあるか、諸王にあるか、
之を知らざる也。又
飜って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を
止むるの語ありしや否や。
或は疑う、太祖の人情に通じ、
世故に熟せる、まさに
是の如きの詔を
遺さゞるべし。
若し太祖に果して
登遐の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に
就くの時に
於て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も
亦発駕奔喪の際に於て、半途にして
擁遏せらるゝの不快事に会う無く、
各其封に於て
哭臨して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事
此に
出でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す
可からず。人の情屈すれば
則ち悦ばず、悦ばざれば則ち
怨を
懐き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ
之を知るの
明無からん。故に
曰く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を
止むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰
黄子澄の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を
矯むるの事も、世其例に乏しからず、
是の如きの事、未だ必ずしも無きを
保せず。然れども
是れ推測の言のみ。
真耶、
偽耶、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の
為か、為にあらざる
耶、
将又斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を
遏めざる
能わざるの勢の存せしか、非
耶。建文永楽の
間、史に曲筆多し、今
新に史徴を得るあるにあらざれば、
疑を存せんのみ、
確に知る
能わざる也。
太祖の崩ぜるは
閏五月なり、諸王の
入京を
遏められて
悦ばずして帰れるの後、六月に至って
戸部侍郎卓敬というもの、
密疏を
上る。卓敬
字は
惟恭、書を読んで十行
倶に下ると
云われし
頴悟聡敏の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで
究めざること無く、後に
成祖をして、国家
士を養うこと三十年、
唯一卓敬を得たりと
歎ぜしめしほどの英才なり。
直慷慨にして、避くるところ無し。
嘗て制度
未だ備わらずして諸王の
服乗も太子に擬せるを見、太祖に直言して、
嫡庶相乱り、尊卑序無くんば、何を
以て天下に令せんや、と説き、太祖をして、
爾の
言是なり、と
曰わしめたり。
其の人となり知る
可きなり。敬の密疏は、
宗藩を
裁抑して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事
竟に
寝みぬ。敬の言、
蓋し故無くして発せず、必らず
窃に聞くところありしなり。二十余年前の
葉居升が言は、
是に
於て
其中れるを示さんとし、七国の難は今
将に発せんとす。
燕王、
周王、
斉王、
湘王、
代王、
岷王等、秘信相通じ、密使
互に動き、穏やかならぬ流言ありて、
朝に聞えたり。諸王と帝との間、帝は
其の
未だ位に
即かざりしより諸王を
忌憚し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って
儲君を侮り、
叔父の尊を
挟んで
不遜の事多かりしなり。入京会葬を
止むるの事、遺詔に
出づと云うと
雖も、諸王、
責を
讒臣に
托して、
而して其の
奸悪を
除かんと云い、
香を
孝陵に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、
蓋し
辞柄無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。
嗚呼、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ
離せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ
疎隔せざらん。疎隔し、
離す、而して帝の
為に
密に図るものあり、諸王の為に
私に謀るものあり、
況んや藩王を
以て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに
於てをや。事
遂に決裂せずんば
止まざるものある也。
帝の
為に
密に図る者をば
誰となす。
曰く、
黄子澄となし、
斉泰となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は
水の人、洪武十七年より
漸く世に
出づ。建文帝
位に即きたもうに及び、子澄と
与に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を
遏めたる時の如き、諸王は皆
謂えらく、
泰皇考の詔を
矯めて骨肉を
間つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
諸王の為に
私に謀る者を誰となす。曰く、諸王の
雄を燕王となす。燕王の
傅に、僧
道衍あり。道衍は僧たりと
雖[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、
灰心滅智の
羅漢にあらずして、
却って
是れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に
就く時、道衍
躬ずから
薦めて燕王の
傅とならんとし、
謂って曰く、
大王臣をして侍するを得せしめたまわば、
一白帽を奉りて大王がために
戴かしめんと。
王上に
白を冠すれば、
其文は皇なり、
儲位明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、
是の
如きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、
而して燕王
是の如きの怪僧を
延いて
帷※[#「巾+莫」、U+5E59、274-11]の中に
居く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の
瓜甲も毒ありというべし。道衍
燕邸に至るに及んで
袁を王に薦む。袁
は
字は
廷玉、
の人にして、
此亦一種の異人なり。
嘗て海外に遊んで、人を
相するの術を
別古崖というものに受く。仰いで
皎日を
視て、目
尽く
眩して後、
赤豆黒豆を暗室中に
布いて之を
弁じ、又五色の
縷を窓外に懸け、月に映じて
其色を別って
訛つこと無く、
然して後に人を相す。其法は夜中を以て
両炬を
燃し、人の形状
気色を
視て、参するに生年
月日を以てするに、百に一
謬無く、元末より既に名を天下に
馳せたり。其の
道衍と
識るに及びたるは、道衍が
嵩山寺に在りし時にあり。
袁道衍が相をつく/″\と
観て、
是れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は
病虎の如し。性
必らず殺を
嗜まん。
劉秉忠の
流なりと。劉秉忠は
学内外を兼ね、
識三才を
綜ぶ、
釈氏より
起って元主を助け、九州を
混一し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に
頼ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の
揮※[#「てへん+霍」、U+6509、275-10]の
宜しきを得るに
因るもの
亦鮮からず。秉忠は実に
奇偉卓犖の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ
癢処に
爬着するもの。是れより二人、友とし
善し。道衍の
を燕王に薦むるに当りてや、燕王
先ず使者をして
と
与に
酒肆に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に
雑わり、おのれ
亦衛士の服を服し、
弓矢を
執りて
肆中に飲む。
一見して
即ち
趨って燕王の前に拝して
曰く、殿下何ぞ身を軽んじて
此に至りたまえると。燕王等笑って曰く、
吾輩皆護衛の士なりと。
頭を
掉って
是とせず。こゝに於て王
起って入り、
を宮中に
延きて
詳に
相せしむ。
諦視すること
良久しゅうして
曰く、殿下は
龍行虎歩したまい、
日角天を
挿む、まことに異日太平の天子にておわします。
御年四十にして、
御鬚臍を
過ぎさせたもうに及ばせたまわば、
大宝位に登らせたまわんこと
疑あるべからず、と
白す。又
燕府の将校官属を相せしめたもうに、
一々指点して曰く、
某は
公たるべし、某は
侯たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王
語の
洩れんことを
慮り、
陽に
斥けて
通州に至らしめ、
舟路密に召して
邸に入る。道衍は
北平の
慶寿寺に在り、
は
燕府に在り、燕王と三人、時々人を
屏けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。
は
柳荘居士と号す。時に年
蓋し七十に近し。
抑亦何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子
忠徹の伝うるところの柳荘相法、今に至って
猶存し、
風鑑の
津梁たり。
と永楽帝と答問するところの永楽百問の
中、
帝鬚の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して
陋書となすと雖も、
尽く
斥く
可からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の
著わすところ、
今古識鑑八巻ありて、
明志採録す。
予未だ
寓目せずと雖も、
蓋し
藻鑑の道を説く也。
と忠徹と、
偕に明史
方伎伝に見ゆ。
の燕王に
見ゆるや、
鬚長じて
臍を
過ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、
吾が年
将に四旬ならんとす、鬚
豈能く
復長ぜんやと。道衍こゝに於て
金忠というものを
薦む。金忠も亦
の人なり、
少くして書を読み
易に通ず。
卒伍に編せらるゝに及び、
卜を
北平に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て
神となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して
卦を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意
漸くにして
固し。忠
後に仕えて
兵部尚書を以て
太子監国に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。
帝の
側には
黄子澄斉泰あり、諸藩を
削奪するの意、いかでこれ無くして
已まん。
燕王の
傍には僧
道衍袁あり、秘謀を
醸するの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に
是の
如し、
風声鶴唳、人
相驚かんと欲し、剣光
火影、世
漸く
将に乱れんとす。諸王不穏の流言、
朝に聞ゆること
頻なれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、
疇昔の
東角門の言を
憶えたもうや、と
仰す。子澄直ちに
対えて、
敢て忘れもうさずと
白す。東角門の言は、
即ち子澄
七国の故事を論ぜるの語なり。子澄退いて
斉泰と議す。泰
曰く、
燕は
重兵を握り、
且素より大志あり、
当に
先ず
之を削るべしと。子澄が曰く、
然らず、燕は
予め備うること久しければ、
卒に図り難し。
宜しく先ず
周を取り、燕の
手足を
剪り、
而して後燕図るべしと。
乃ち
曹国公李景隆に命じ、兵を調して
猝に河南に至り、周王
※[#「木+肅」、U+6A5A、279-3]及び
其の
世子妃嬪を
執え、爵を削りて
庶人となし、
之を
雲南に
遷しぬ。※
[#「木+肅」、U+6A5A、279-3]は燕王の同母弟なるを
以て、帝もかねて之を疑い
憚り、※
[#「木+肅」、U+6A5A、279-3]も
亦異謀あり、※
[#「木+肅」、U+6A5A、279-4]の
長史王翰というもの、数々
諫めたれど
納れず、※
[#「木+肅」、U+6A5A、279-5]の
次子汝南王
有※[#「火+動」、U+3DF2、279-5]の変を告ぐるに及び、
此事あり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、
幾干月を
距らざる也。冬十一月、
代王桂暴虐民を
苦むるを以て、
蜀に入りて蜀王と共に居らしむ。
諸藩
漸く削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、
前軍都督府断事高巍書を
上りて政を論ず。巍は
遼州の人、気節を
尚び、文章を
能くす、材器偉ならずと
雖も、性質実に
惟美、母の
蕭氏に
事えて孝を以て称せられ、洪武十七年
旌表せらる。
其の立言
正平なるを以て太祖の嘉納するところとなりし
又是一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り
巍と
御史韓郁とは説を異にす。巍の言に
曰く、我が高皇帝、三代の
公に
法り、
秦の
陋を洗い、諸王を
分封して、
四裔に
藩屏たらしめたまえり。
然れども
之を古制に比すれば封境過大にして、諸王又
率ね
驕逸不法なり。削らざれば
則ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば
親を
親むの恩を
傷る。
賈誼曰く、天下の治安を
欲するは、
衆く諸侯を建てゝ
其力を
少くするに
若くは無しと。
臣愚謂えらく、今
宜しく
其意を師とすべし、
晁錯が削奪の策を施す
勿れ、
主父偃が推恩の
令に
効うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の
権は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下
益々親親の礼を
隆んにし、
歳時伏臘、
使問絶えず、賢者は詔を下して
褒賞し、不法者は初犯は之を
宥し、再犯は之を
赦し、三
犯改めざれば、則ち
太廟に告げて、地を削り、之を廃処せんに、
豈服順せざる者あらんやと。帝
之を
然なりとは
聞召したりけれど、
勢既に定まりて、削奪の議を取る者のみ
充満ちたりければ、
高巍の説も用いられて
已みぬ。
建文元年二月、諸王に
詔りして、文武の
吏士を節制し、官制を
更定するを得ざらしむ。
此も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月
西平侯沐晟、
岷王梗の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮
宗麟を
誅し、王を廃して庶人となす。又
湘王柏偽りて
鈔を造り、及び
擅に人を殺すを以て、
勅を
降して之を責め、兵を
遣って
執えしむ。湘王もと
膂力ありて気を負う。曰く、
吾聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、
豈能く
僕隷の手に
辱しめられて生活を求めんやと。
遂に
宮を
闔じて自ら
焚死す。
斉王榑もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王
桂もまた
終に廃せられて庶人となり、
大同に幽せらる。
燕王は
初より朝野の注目せるところとなり、
且は威望材力も群を抜けるなり、又
其の
終に天子たるべきを期するものも有るなり、又
私に異人術士を養い、勇士
勁卒をも
蓄え
居れるなり、人も疑い、
己も危ぶみ、朝廷と燕と
竟に両立する
能わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王
※[#「木+肅」、U+6A5A、282-3]の
執えらるゝを見て、燕王は遂に
壮士を
簡みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を
容す能わず。たま/\北辺に
寇警ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して
塞を
出でしめ、其の
羽翼を去りて、其の
咽喉を
扼せんとし、
乃ち
工部侍郎張をもて
北平左布政使となし、
謝貴を
以て
都指揮使となし、燕王の動静を察せしめ、
巍国公徐輝祖、
曹国公李景隆をして、
謀を
協せて燕を
図らしむ。
建文元年正月、燕王
長史葛誠をして入って事を奏せしむ。
誠、帝の
為に
具に
燕邸の実を告ぐ。こゝに
於て誠を
遣りて燕に
還らしめ、内応を
為さしむ。燕王
覚って之に備うるあり。二月に至り、燕王
入覲す。
皇道を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、
監察御史曾鳳韶これを
劾せしが、帝曰く、
至親問う
勿れと。
戸部侍郎卓敬、先に書を
上って藩を抑え
禍を防がんことを言う。
復密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の
北平は、形勝の地にして、
士馬精強に、
金元の由って興るところなり、今
宜しく
封を
南昌に
徒したもうべし。
然らば
則ち万一の変あるも
控制し
易しと、帝
敬に
対えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ
此に及ぶことあらんやと。敬曰く、
隋文揚広は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を
弑す。燕王の
傲慢なる、何をか
為さゞらん。敬の言、
敦厚を欠き、帝の意、
醇正に近しと
雖も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、
悲む
可きかな、敬の言
却って実に切なり。然れども帝黙然たること
良久しくして曰く、
卿休せよと。三月に至って燕王国に
還る。
都御史暴昭、
燕邸の事を密偵して奏するあり。北平の
按察使僉事の
湯宗、
按察使陳瑛が燕の
金を受けて燕の為に謀ることを
劾するあり。よって
瑛を逮捕し、都督
宗忠をして兵三万を
率い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の
麾下に
隷し、
開平に
屯して、名を辺に備うるに
藉り、都督の
耿※[#「王+獻」、U+74DB、284-4]に命じて兵を
山海関に練り、
徐凱をして兵を
臨清に練り、
密に
張謝貴に勅して、厳に
北平の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を
視、国に帰れるより
疾に
托して出でず、
之を久しゅうして遂に
疾篤しと称し、以て一時の視聴を
避けんとせり。されども水あるところ湿気無き
能わず、火あるところは
燥気無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸
倪諒というもの変を
上り、燕の
官校于諒周鐸等の陰事を告げゝれば、二人は
逮えられて
京に至り、罪明らかにして
誅せられぬ。こゝに於て
事燕王に及ばざる能わず、
詔ありて燕王を責む。燕王
弁疏する能わざるところありけん、
佯りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に
酒食を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、
或は土壌に
臥して、時を
経れど覚めず、全く常を失えるものゝ
如し。
張謝貴の二人、入りて
疾を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は
爐を囲み、身を
顫わせて、寒きこと
甚しと
曰い、宮中をさえ
杖つきて行く。されば燕王まことに狂したりと
謂う者もあり、朝廷も
稍これを信ぜんとするに至りけるが、
葛誠ひそかに
と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を
緩くして、後日の
計に便にせんまでの
詐に過ぎず、
本より
恙無きのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の
庸というもの、
闕に
詣り事を奏したりけるを、斉泰
請いて
執えて
鞠問しけるに、王が
将に兵を挙げんとするの状をば逐一に
白したり。
待設けたる斉泰は、たゞちに符を発し
使を遣わし、
往いて燕府の官属を逮捕せしめ、
密に
謝貴張をして、燕府に在りて内応を約せる
長史葛誠、
指揮盧振と気脈を通ぜしめ、北平
都指揮張信というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を
執えしむ。
信は命を受けて
憂懼為すところを知らず、
情誼を思えば燕王に
負くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる
能わず、進退両難にして、
行止ともに
艱く、
左思右慮、心
終に決する能わねば、
苦悶の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、
汝の深憂太息することよ、と
詰り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母
大に驚いて曰く、不可なり、汝が父の
興、
毎に言えり
王気燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の
能く
擒にするところにあらざるなり、燕王に
負いて家を滅することなかれと。信
愈々惑いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信
遂に怒って曰く、何ぞ
太甚しきやと。
乃[#ルビの「すなわ」は底本では「すなわち」]ち意を決して燕邸に
造る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、
径ちに門に至りて
見ゆることを求め、ようやく
召入れらる。されども燕王
猶疾を装いて
言わず。信曰く、殿下
爾したもう無かれ、まことに事あらば
当に臣に告げたもうべし、殿下もし
情を以て臣に語りたまわずば、上命あり、
当に
執われに就きたもうべし、
如し意あらば臣に
諱みたもう
勿れと。燕王信の
誠あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは
子なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は
道衍を召して、
将に大事を
挙げんとす。
天
耶、
時耶、燕王の胸中
颶母まさに動いて、
黒雲飛ばんと欲し、
張玉、
朱能等の猛将
梟雄、眼底紫電
閃いて、雷火発せんとす。
燕府を
挙って殺気
陰森たるに際し、天も
亦応ぜるか、時
抑至れるか、
風暴雨卒然として
大に起りぬ。
蓬々として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、
沛然として至り、
澎然として
瀉ぎ、猛打乱撃するの雨と
伴なって、
乾坤を
震撼し、
樹石を
動盪しぬ。燕王の宮殿
堅牢ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の
簷瓦吹かれて
空に
飄り、
然として地に
堕ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の
兆ぞ。さすがの燕王も心に之を
悪みて色
懌ばず、風声雨声、竹折るゝ声、
樹裂くる声、
物凄じき天地を
睥睨して、惨として隻語無く、王の左右もまた
粛として
言わず。時に
道衍少しも驚かず、あな喜ばしの
祥兆や、と
白す。
本より
此の異僧道衍は、死生禍福の
岐に惑うが如き
未達の者にはあらず、
膽に毛も
生いたるべき不敵の
逸物なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを
奈何、とありけるに、
昂然として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨
簷瓦を
堕す。時に取っての
祥とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに
強言に聞えければ、燕王も
堪えかねて、
和尚何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ
罵る。道衍騒がず、殿下
聞しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を
以てすと申す、
瓦墜ちて砕けぬ、これ
黄屋に
易るべきのみ、と泰然として
対えければ、王も
頓に
眉を開いて
悦び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。
彼邦の制、天子の
屋は、
葺くに
黄瓦を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに
易るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、
勃然凛然、
糾々然、
直にまさに天下を
呑まんとするの
勢をなさしめぬ。
燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って
衛らしめぬ。
矢石未だ
交るに至らざるも、
刀鎗既に
互に鳴る。都指揮使
謝貴は
七衛の兵、
并びに
屯田の軍士を率いて王城を囲み、
木柵を以て
端礼門等の
路を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの
詔、及び王府の官属を
逮うべきの詔至りぬ。秋七月
布政使張、
謝貴と
与に士卒を督して
皆甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一
言の
支吾あらんには、
巌石鶏卵を圧するの勢を以て臨まんとするの状を
為し、
貴の軍の殺気の
迸るところ、
箭をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ
寡く、彼の軍は甚だ多し、
奈何せんと。朱能進んで曰く、
先ず張
謝貴を除かば、
余は
能く為す無き也と。王曰く、よし、
貴を
擒にせんと。
壬申の日、王、
疾癒えぬと称し、
東殿に出で、官僚の賀を受け、人をして
と貴とを召さしむ。二人応ぜず。
復内官を
遣して、
逮わるべき者を交付するを装う。二人
乃ち至る。衛士甚だ
衆かりしも、門者
呵して
之を
止め、
と貴とのみを入る。
と貴との入るや、燕王は
杖を
曳いて
坐し、宴を賜い酒を
行り宝盤に
瓜を盛って
出す。王曰く、たま/\
新瓜を進むる者あり、
卿等と之を
嘗みんと。自ら一
瓜を手にしけるが、
忽にして色を
作して
詈って曰く、今世間の小民だに、
兄弟宗族、
尚相互に
恤ぶ、身は天子の親属たり、
而も
旦夕に其
命を安んずること無し、県官の我を待つこと
此の如し、天下何事か為す
可からざらんや、と奮然として瓜を地に
擲てば、護衛の軍士皆激怒して、
前んで
と貴とを
擒え、かねて朝廷に内通せる
葛誠盧振等を殿下に取って
押えたり。王こゝに
於て杖を投じて
起って曰く、我何ぞ病まん、
奸臣に迫らるゝ
耳、とて遂に
貴等を
斬る。
貴等の将士、二人が時を移して
還らざるを見、
始は疑い、
後は
覚りて、
各散じ去る。王城を囲める者も、首脳
已に無くなりて、
手足力無く、其兵おのずから
潰えたり。
張が部下
北平都指揮の
彭二、憤慨
已む
能わず、馬を躍らして
大に市中に
呼わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て
端礼門に殺到す。燕王の勇卒
来興、
丁勝の二人、彭二を殺しければ、其兵も
亦散じぬ。
此勢に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも
塞北に転戦して
元兵と
相馳駆し、千軍万馬の間に老い
来れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、
黎明に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし
西直門をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の
余は、走って
居庸関を守り、
馬宣は東して
薊州に走り、
宋忠は
開平より兵三万を率いて居庸関に至りしが、
敢て進まずして、退いて
懐来を保ちたり。
煙は
旺んにして火は遂に
熾えたり、
剣は抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の
正朔を奉ぜず、
敢て建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、
道衍を
帷幄の謀師とし、
金忠を
紀善として機密に参ぜしめ、張玉、朱能、
丘福を都指揮
僉事とし、張
部下にして内通せる
李友直を
布政司参議と
為し、
乃ち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今
奸臣の為に謀害せらる。祖訓に
云わく、
朝に正臣無く、内に
奸逆あれば、必ず兵を挙げて
誅討し、
以て君側の悪を清めよと。こゝに
爾将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の
成王を
輔くるに
法とらん。
爾等それ予が心を体せよと。一面には
是の如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に
上りて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を
鞏固にして、盤石の計を
為したまえり。
然るに
奸臣斉泰黄子澄、禍心を包蔵し、
※[#「木+肅」、U+6A5A、292-11]、
榑、
栢、
桂、
の五弟、数年ならずして、並びに
削奪せられぬ、
栢や
尤憫むべし、
闔室みずから
焚く、聖仁
上に在り、
胡ぞ
寧ぞ
此に忍ばん。
蓋陛下の心に非ず、実に奸臣の
為す所ならん。心
尚未だ足らずとし、又以て臣に加う。臣
藩を燕に守ること二十余年、
寅み
畏れて小心にし、法を奉じ
分に
循う。誠に君臣の
大分、骨肉の至親なるを以て、
恒に思いて
慎を加う。
而るに奸臣
跋扈し、禍を
無辜に加え、臣が事を奏するの人を
執えて、
※楚[#「竹かんむり/垂」、U+7BA0、293-5][#「※[#「竹かんむり/垂」、U+7BA0、293-5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293-5]楚」]刺※[#「執/糸」、U+7E36、293-5]し、
備さに苦毒を極め、迫りて臣
不軌を謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張
等を北平城の内外に分ち、甲馬は
街衢に
馳突し、
鉦鼓は
遠邇に
喧鞠し、臣が府を囲み守る。
已にして護衛の人、
貴を
執え、始めて奸臣
欺詐の謀を知りぬ。
窃に
念うに臣の
孝康皇帝に
於けるは、同父母兄弟なり、今陛下に
事うるは天に事うるが如きなり。
譬えば大樹を
伐るに、先ず
附枝を
剪るが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、
社稷危からん。臣
伏して祖訓を
覩るに
云えることあり、
朝に正臣無く、内に奸悪あらば、
則ち親王兵を訓して命を待ち、天子
密かに諸王に
詔し、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで
俯伏して命を
俟つ、と言辞を飾り、情理を
綺えてぞ奏しける。道衍
少きより学を好み詩を
工にし、
高啓と友とし
善く、
宋濂にも
推奨され、
逃虚子集十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、
或は又金忠の輩や
詞を
綴りけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を
懐き、
己を
護りて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として
此書のみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に
情無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く
可きを覚ゆ。されども
擅に謝張を殺し、
妄に年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。
後苑に軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ
分に
循うにあらず。君側の奸を
掃わんとすと云うと
雖も、詔無くして兵を起し、威を
恣にして地を
掠む。
其辞は
則ち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、
亦理に於て欠け、情に於て薄し。
夫れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を
懐いて諸王に臨むは、
上は太祖の意を
壊り、
下は宗室の
親を破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、
抔土未だ
乾かず、
直に其意を破り、諸王を削奪せんとするは、
是れ理に
於て欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ
是の如くなれば、燕王等手を袖にし息を
屏くるも
亦削奪罪責を
免かれざらんとす。太祖の血を
承けて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ
俛首して
寃に服するに忍びんや。
瓜を投じて
怒罵するの語、其中に機関ありと
雖も、又
尽く
偽詐のみならず、
本より真情の人に
逼るに足るものあるなり。
畢竟両者
各理あり、各
非理ありて、
争鬩則ち起り、各
情なく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て
誰か
能く其の是非を判せんや。
高巍の説は、
敦厚悦ぶ
可しと雖も、時既に
晩く、
卓敬の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢
回し難く、朝旨の酷責すると、
燕師の暴起すると、実に
互に
已む
能わざるものありしなり。是れ
所謂数なるものか、
非耶。
燕王の兵を起したる建文元年七月より、
恵帝の国を
遜りたる建文四年六月までは、
烽烟剣光の
史にして、今一々
之を記するに
懶し。
其詳を知らんとするものは、
明史及び
明朝紀事本末等に就きて考うべし。今たゞ其
概略と燕王恵帝の性格
風を知る
可きものとを記せん。燕王もと
智勇天縦、
且夙に征戦に習う。
洪武二十三年、
太祖の命を奉じ、諸王と共に
元族を
漠北に征す。
秦王晋王は
怯にして
敢て進まず、王将軍
傅友徳等を率いて北出し、
都山に至り、其将
乃児不花を
擒にして
還る。太祖
大に
[#「大に」は底本では「大いに」]喜び、
此より後
屡諸将を
帥いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名
大に
振う。王既に兵を知り
戦に
慣る。加うるに
道衍ありて、機密に参し、
張玉、
朱能、
丘福ありて
爪牙と
為る。丘福は
謀画の才張玉に及ばずと
雖も、
樸直猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、
戦終って功を献ずるや必ず人に
後る。
古の
大樹将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我
之を知る、と
歎美せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福
其首たり、
淇国公に
封ぜらる。
其他将士の
鷙悍※雄[#「敖/馬」、U+9A41、297-4]の者も、
亦甚だ
少からず。燕王の大事を挙ぐるも、
蓋し
胸算あるなり。燕王の
張謝貴を
斬って反を
敢てするや、
郭資を
留めて
北平を守らしめ、
直に師を
出して
通州を取り、
先ず
薊州を定めずんば、後顧の
患あらんと
云える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、
次で夜襲して
遵化を
降す。
此皆
開平の東北の地なり。時に
余居庸関を守る。王曰く、居庸は
険隘にして、北平の
咽喉也、敵
此に
拠るは、
是れ我が
背を
拊つなり、急に取らざる可からずと。
乃ち
徐安、
鐘祥等をして
を
撃って、
懐来に走らしむ。
宗忠懐来に
在り 兵三万と号す。諸将之を撃つを
難んず。王曰く、彼
衆く、我
寡し、
然れども彼
新に集まる、其心
未だ一ならず、之を撃たば
必らず破れんと。精兵八千を率い、
甲を
捲き道を倍して進み、
遂に戦って
克ち、忠と
とを
獲て之を斬る。こゝに
於て諸州燕に
降る者多く、
永平、
欒州また燕に帰す。
大寧の
都指揮卜万、
松亭関を
出で、
沙河に
駐まり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、
勢やゝ振う。燕王
反間を放ち、万の部将
陳亨、
劉貞をして万を縛し獄に下さしむ。
帝黄子澄の言を用い、
長興侯耿炳文を大将軍とし、
李堅、
寧忠を
副えて北伐せしめ、又
安陸侯呉傑、
江陰侯呉高、
都督都指揮盛庸、
潘忠、
楊松、
顧成、
徐凱、
李文、
陳暉、
平安等に命じ、諸道並び進みて、
直に北平を
擣かしむ。時に帝諸将士を
誡めたまわく、
昔蕭繹、兵を挙げて
京に入らんとす、
而も
其下に令して曰く、一門の
内自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今
爾将士、燕王と対塁するも、務めて
此意を体して、
朕をして
叔父を殺すの名あらしむるなかれと。(
蕭繹は
梁の
孝元皇帝なり。今
梁書を
按ずるに、此事を載せず。
蓋し元帝兵を挙げて賊を
誅し
京に入らんことを図る。時に
河東王誉、帝に従わず、
却って帝の子
方等を殺す。帝
鮑泉を
遣りて之を討たしめ、又
王僧弁をして代って将たらしむ。帝は高祖
武帝の第七子にして、
誉は武帝の長子にして
文選の
撰者たる
昭明太子統の第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の
仁柔の性、
宋襄に近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと
雖も、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして
兇器を
弄し王師に抗す、其罪
本より
誅戮に当る。
然るに
是の
如きの令を出征の将士に下す。これ
適以て軍旅の
鋭を
殺ぎ、
貔貅の
胆を小にするに過ぎざるのみ、
智なりという
可からず。燕王と戦うに及びて、官軍時に
或は勝つあるも、
此令あるを
以て、
飛箭長槍、燕王を
殪すに至らず。然りと雖も、小人の
過や
刻薄、長者の
過や
寛厚、帝の過を
観て帝の人となりを知るべし。
八月
耿炳文等兵三十万を率いて
真定に至り、
徐凱は兵十万を率いて
河間に
駐まる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて
張士誠に当りて、
長興を守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、
終に士誠をして志を
逞しくする
能わざらしめしを以て、太祖の功臣を
榜列するや、炳文を以て大将軍
徐達に
付して一等となす。後又、北は
塞を出でゝ元の遺族を破り、南は
雲南を征して蛮を平らげ、
或は
陝西に、或は
蜀に、
旗幟の向う所、
毎に功を成す。
特に
洪武の末に至っては、元勲宿将多く
凋落せるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。
樹老いて材
愈堅く、将老いて軍
益々固し。然れども不幸にして
先鋒楊松、燕王の
為に不意を襲われて
雄県に死し、
潘忠到り
援わんとして
月漾橋の伏兵に
執えられ、部将
張保敵に降りて其の利用するところとなり、遂に
沱河の北岸に
於て、燕王及び張玉、朱能、
譚淵、
馬雲等の為に
大に敗れて、
李堅、
※忠[#「宀/必/(冉の4画目左右に突き出る)」、U+5BD7、300-11]、
顧成、
劉燧を失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗して
而も
潰えず、
真定城に入りて門を
闔じて堅く守る。燕兵
勝に乗じて城を囲む三日、下す
能わず。燕王も炳文が老将にして破り
易からざるを知り、
囲を解いて
還る。
炳文の一敗は
猶復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、
黄子澄の言によりて、
李景隆を大将軍とし、
斧鉞を
賜わって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は
袴の子弟、
趙括の
流なればなり。趙括を挙げて
廉頗に代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実に
此に本づく。炳文の子
[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-7]」]は、帝の父
懿文太子の長女
江都公主を妻とす、
[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-7]」]父の
復用いられざるを憤ること
甚しかりしという。又
[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-8]」]の弟
※[#「王+獻」、U+74DB、301-7]、
遼東の
鎮守呉高、
都指揮使楊文と
与に兵を率いて
永平を囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。
蘇東坡が
所謂善く
奕する者も日に勝って日に
敗るゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、
驕児を挙ぐ。燕王手を
拍って笑って、
李九江は
膏梁の
豎子のみ、未だ
嘗て兵に習い陣を見ず、
輙ち
予うるに五十万の衆を以てす、
是自ら
之を
坑にする
也、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召して
回らしめたる、まことに
歎ずべし。
景隆
小字は
九江、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の
薦むるに
因るも、又別に
所以有るなり。景隆は
李文忠の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み
経を治め、
其の家居するや
恂々として儒者の如く、
而も甲を
き馬に
騎り
槊を横たえて陣に臨むや、
風発、大敵に
遇いて
益壮に、年十九より軍に従いて
数々偉功を立て、創業の元勲として太祖の
愛重する
[#「愛重する」は底本では「受重する」]ところとなれるのみならず、
西安に水道を設けては人を利し、
応天に田租を減じては民を
恵み、
誅戮を
少くすることを勧め、
宦官を
盛[#ルビの「さか」は底本では「さかん」]んにすることを
諫め、洪武十五年、太祖日本
懐良王の書に激して之を討たんとせるを
止め、(懐良王、
明史に良懐に作るは
蓋し
誤也。懐良王は、
後醍醐帝の皇子、
延元三年、征西大将軍に任じ、
筑紫を
鎮撫す。
菊池武光等之に従い、
興国より
正平に及び、勢威
大に張る。明の太祖の辺海
毎に
和寇に
擾さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを
以て
威嚇するや、王答うるに書を以てす。
其略に曰く、
乾坤は
浩蕩たり、一主の独権にあらず、宇宙は
寛洪なり、諸邦を
作して以て分守す。
蓋し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる
也。
吾聞く、天朝
戦を
興すの策ありと、小邦
亦敵を
禦ぐの
図あり。
豈肯て
途に
跪いて之を奉ぜんや。之に
順うも
未だ其
生を必せず、之に
逆うも未だ其死を必せず、
相逢う
賀蘭山前、
聊以て
博戯せん、吾何をか
懼れんやと。太祖書を得て
慍ること甚だしく、
真に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝
弘和元年に当る。時に王既に
今川了俊の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を
後村上帝の
[#「後村上帝の」は底本では「御村上帝の」]皇子
良成王に譲り、
筑後矢部に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の
務をば執りたまわず、年代
齟齬するに
[#「齟齬するに」は底本では「齬齟するに」]似たり。然れども王と
明との交渉は
夙に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。
此事我が国に史料全く欠け、
大日本史も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の
浮譚にあらず。)
一個優秀の風格、多く
得可からざるの人なり。洪武十七年、
疾を得て死するや、太祖親しく文を
為りて
祭を致し、
岐陽王に追封し、
武靖と
諡し、
太廟に
配享したり。景隆は
是の如き人の長子にして、其父の
蓋世の武勲と、帝室の
親眷との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を
統ぶるには至りしなり。景隆は長身にして
眉目疎秀、
雍容都雅、
顧盻偉然、
卒爾に之を望めば大人物の如くなりしかば、
屡出でゝ軍を
湖広陝西河南に練り、
左軍都督府事となりたるほかには、
為すところも無く、
其功としては
周王を
執えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども
虎皮にして
羊質、
所謂治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を
※[#「足へん+喋のつくり」、U+8E40、305-1]み剣を
揮いて進み、
創を
裹み歯を
切って
闘うが如き経験は、
未だ
曾て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に
其真を得たりしなり。
李景隆は大兵を率いて燕王を
伐たんと北上す。帝は
猶北方憂うるに足らずとして
意を文治に専らにし、儒臣
方孝孺等と周官の
法度を討論して日を送る、
此間に於て
監察御史韓郁(韓郁
或は
康郁に作る)というもの時事を憂いて
疏を
上りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の
豎儒となし、諸王は太祖の遺体なり、
孝康の
手足なりとなし、
之を待つことの厚からずして、周王
湘王
代王
斉王をして不幸ならしめたるは、朝廷の
為に計る者の
過にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと
為し、
諺に
曰く、
親者之を
割けども断たず、
疎者之を
続げども
堅からずと、
是殊に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を
糜し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を
釈し、湘王を
封じ、周王を
京師に
還し、諸王
世子をして書を持し燕に勧め、
干戈を
罷め、
親戚を
敦うしたまえ、然らずんば臣
愚おもえらく十年を待たずして必ず
噬臍の
悔あらん、というに
在り。其の論、
彝倫を
敦くし、動乱を
鎮めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時
既に去り、
勢既に成るの後に於て、
此言あるも、
嗚呼亦
晩かりしなり。帝
遂に用いたまわず。
景隆の
炳文に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五
敗兆を具せるを指摘し、我
之を
擒にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、
北平を
世子に守らしめ、東に出でゝ、
遼東の
江陰侯呉高を永平より
逐い、転じて
大寧に至りて之を抜き、
寧王を擁して
関に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を
帥いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の
李譲、
梁明等、
世子を奉じて防守甚だ
力むと
雖も、景隆が軍
衆くして、将も
亦雄傑なきにあらず、
都督瞿能の如き、
張掖門に殺入して
大に威勇を奮い、城
殆ど破る。
而も景隆の
器の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを
俟ちて
倶に進めと令し、機に乗じて突至せず。
是に於て守る者
便を得、連夜水を
汲みて城壁に
灌げば、天寒くして
忽ち氷結し、明日に至れば
復登ることを得ざるが如きことありき。燕王は
予め景隆を吾が堅城の下に致して之を
殱さんことを期せしに、景隆既に
に入り
来りぬ、何ぞ
箭を放たざらんや。大寧より
還りて
会州に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、
李彬を
右軍に、
徐忠を前軍に、降将
房寛を後軍に将たらしめ、
漸く南下して
京軍と相対したり。十一月、京軍の
先鋒陳暉、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て
黙祷して曰く、天
若し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷
果して合す。燕の師勇躍して進み、
暉の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って
夾撃し、遂に
連りに其七営を破って景隆の営に
逼る。張玉
等も陣を
列ねて進むや、城中も
亦兵を出して、内外
交攻む。景隆支うる
能わずして
遁れ、諸軍も亦
粮を
棄てゝ
奔る。燕の諸将
是に於て
頓首して王の神算及ぶ
可からずと賀す。王
曰く、
偶中のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には
謙す。燕王が英雄の心を
攬るも
巧なりというべし。
景隆が大軍功無くして、退いて
徳州に屯す。黄子澄
其敗を奏せざるを
以て、十二月に至って
却って景隆に
太子太師を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して
広昌を攻めて之を降す。
前に
疏を
上りて、諸藩を削るを
諫めたる
高巍は、言用いられず、事
遂に発して天下動乱に至りたるを
慨き、書を
上りて、臣願わくは燕に
使して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に
上りたり。
其略に曰く、
太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]升遐したまいて
意わざりき大王と朝廷と
隙あらんとは。臣おもえらく
干戈を動かすは和解に
若かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に
見えん。昔周公流言を聞きては、
即ち位を避けて東に
居たまいき。
若し大王
能く
首計の者を
斬りたまい、護衛の兵を解き、子孫を
質にし、骨肉
猜忌の
疑を
釈き、残賊離間の口を
塞ぎたまわば、周公と
隆んなることを比すべきにあらずや。
然るを
慮こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し
彊宇を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に
藉くことを得て、殿下文臣を
誅することを仮りて実は漢の
呉王の七国に
倡えて
晁錯を誅せんとしゝに
効わんと欲したもうと申す。今大王北平に
拠りて数群を取りたもうと
雖も、
数月以来にして、
尚爾たる一隅の地を
出づる能わず、
較ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ
其一をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の
統べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は
則ち君臣たり、
親は則ち骨肉たるも、
尚離れ
間たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。
巍が
念こゝに至るごとに大王の為に
流涕せずんばあらざる也。願わくは大王臣が
言を信じ、
上表謝罪し、甲を
按き兵を休めたまわば、朝廷も必ず
寛宥あり、天人共に
悦びて、太祖在天の霊も
亦安んじたまわん。
迷を執りて
回らず、小勝を
恃み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、
為す可からざるの
悖事を
僥倖するを
敢てしたまわば、臣大王の為に
言すべきところを知らざる
也。
況んや、大喪の期未だ終らざるに、
無辜の民驚きを受く。仁を求め国を
護るの義と、
逕庭あるも
亦甚し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を
簒奪するの批議無きにあらじ。もし
幸にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を
如何の人と
謂い申すべきや。巍は白髪の書生、
蜉蝣の
微命、もとより死を
畏れず。洪武十七年、太祖高皇帝の
御恩を
蒙りて、臣が孝行を
旌したもうを
辱くす。巍
既に孝子たる、
当に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に
見ゆるを得ば、巍も亦以て
愧無かるべし。巍至誠至心、直語して
諱まず、尊厳を
冒涜す、死を賜うも
悔無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と
憚るところ無く
白しける。されど燕王答えたまわねば、
数次書を
上りけるが、皆
効無かりけり。
巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の
此に対して
如何の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し
戦を開く、巍の
言善しと雖も、大河既に決す、
一葦の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其
言と、忠孝
敦厚の人たるに
負かず。数百歳の後、
猶読む者をして
愴然として感ずるあらしむ。魏と
韓郁とは、建文の時に於て、人情の純、道理の
正に拠りて、
言を為せる者也。
年は
新になりて建文二年となりぬ。
燕は
洪武三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、
蔚州を下し、
大同を攻む。
景隆師を出して
之を救わんとすれば、燕王は速く
居庸関より入りて
北平に
還り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、
韃靼の兵
来りて燕を助く。
蓋し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを
慮りて、燕王の請えるなり。春
闌にして、南軍
勢を生じぬ。四月
朔、景隆兵を
徳州に会す、
郭英、
呉傑は
真定に進みぬ。帝は
巍国公徐輝祖をして、
京軍三万を
帥いて
疾馳して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑
等、軍六十万を
合し、百万と号して
白溝河に
次す。南軍の将
平安驍勇にして、
嘗て燕王に従いて
塞北に戦い、王の兵を用いるの虚実を
識る。
先鋒となりて燕に当り、
矛を
揮いて
前む。
瞿能父子も
亦踴躍して戦う。二将の
向う所、燕兵
披靡す。夜、燕王、
張玉を中軍に、
朱能を左軍に、
陳亨を
右軍に、
丘福を騎兵に将とし、
馬歩十余万、
黎明に
畢く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、
房寛の陣を
擣いて之を破る。張玉等
之を見て
懼色あり。王曰く、
勝負は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の
為に敵を破らんと。
既ち精鋭数千を
麾いて敵の左翼に突入す。王の子
高煦、張玉等の軍を率いて
斉しく進む。両軍相争い、一進一退す、
喊声天に震い
飛矢雨の如し。王の馬、三たび
創を
被り、三たび之を
易う。王
善く射る。射るところの
箭、三
箙皆尽く。
乃ち剣を
提げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。
剣鋒折れ欠けて、
撃つに
堪えざるに至る。
瞿能と
相遇う。
幾んど能の為に及ばる。王急に走りて
に登り、
佯って
鞭を
麾いで、後継者を招くが如くして
纔に
免れ、而して
復衆を率いて
馳せて入る。平安
善く
鎗刀を用い、向う所敵無し。燕将
陳亨、安の為に斬られ、徐忠亦
創を
被る。
高煦急を見、精騎数千を
帥い、
前んで王と
合せんとす。
瞿能また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒
相視て驚き動く。王これに乗じ、
勁騎を以て
繞って
其後に出で、突入
馳撃し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の
裏に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将
兪通淵、
勝聚等皆死す。燕兵勢に乗じて営に
逼り火を
縦つ。急風火を
扇る。
是に
於て南軍
大に
潰え、
郭英等は西に
奔り、景隆は南に奔る。器械
輜重、皆燕の
獲るところとなり、南兵の
横尸百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。
此戦、軍を全くして退く者、
徐輝祖あるのみ。瞿能、平安等、
驍将無きにあらずと
雖も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、
天縦の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を
以てす。北軍の
克ち、南軍の
潰ゆる、まことに
所以ある也。
山東参政鉄鉉は儒生より身を起し、
嘗て疑獄を断じて太祖の知を受け、
鼎石という
字を賜わりたる者なり。北征の師の
出づるや、
餉を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師
潰えて、諸州の
城堡皆
風を望みて燕に下るに会い、
臨邑に
次りたるに、参軍
高巍の南帰するに
遇いたり。
偕に
是れ文臣なりと
雖も、今武事の日に当り、目前に官軍の
大に敗れて、賊威の
熾んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を
上りしも
効無かりしを
歎ずれば、鉉は忠臣の節に死する
少きを憤る。慨世の
哭、憂国の涙、二人
相持して、
然として泣きしが、
乃ち酒を
酌みて
同に
盟い、死を以て自ら誓い、
済南に
趨りてこれを守りぬ。景隆は
奔りて済南に
依りぬ。燕王は
勝に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆
尚十余万の兵を有せしが、一戦に
復敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢
愈旺んにして城を
屠らんとす。鉄鉉、
左都督盛庸、
右都督陳暉等と力を尽して
捍ぎ、志を堅うして守り、日を
経れど屈せず。事聞えて、鉉を
山東布政司使と
為し、盛庸を大将軍と
為し、陳暉を副将軍に
陞す。景隆は
召還されしが、
黄子澄、
練子寧は之を
誅せずんば何を
以て
宗社に謝し将士を励まさんと
云いしも、帝
卒に問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、
遂に
下すこと
能わず。
乃ち城外の
諸渓の水を
堰きて
灌ぎ、一城の
士を魚とせんとす。城中
是に於て
大に安んぜず。鉉曰く、
懼るゝ
勿れ、
吾に計ありと。千人を
遣りて
詐りて
降らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、
予て壮士を城上に伏せて、王の入るを
侯いて大鉄板を
墜して
之を撃ち、又別に
伏を設けて橋を断たしめんとす。燕王
計に陥り、馬に乗じ
蓋を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板
驟に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を
易えて
馳せて
出づ。橋を断たんとす。橋
甚だ
堅し。
未だ断つに及ばずして、王
竟に逸し去る。燕王
幾んど死して
幸に逃る。天助あるものゝ如し。王
大に怒り、
巨※[#「石+(馬+爻)」、U+791F、316-5]を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉
愈屈せず、太祖高皇帝の
神牌を書して城上に懸けしむ。燕王
敢て撃たしむる
能わず。鉉又
数々不意に出でゝ壮士をして燕兵を
脅かさしむ。燕王
憤ること
甚しけれども、計の出づるところ無し。
道衍書を
馳せて曰く、師老いたり、請う
暫らく北平に
還りて後挙を図りたまえと。王
囲を撤して還る。鉉と盛庸
等と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍
大に振う。鉉
是に於て
擢でられて
兵部尚書となり、盛庸は
歴城侯となりたり。
盛庸は初め
耿炳文に従い、
次で
李景隆に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の
防禦、徳州の回復に、其の材を認められて、
平燕将軍となり、
陳暉、
平安、
馬溥、
徐真等の上に立ち、
呉傑、
徐凱等と
与に燕を
伐つの任に当りぬ。庸
乃ち呉傑、平安をして西の方
定州を守らしめ、徐凱をして東の方
滄州に
屯せしめ、自ら徳州に
駐まり、
猗角の勢を
為して
漸く燕を
蹙めんとす。燕王、徳州の城の、修築
已に
完く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の
潰え
るゝ
[#「るゝ」は底本では「※[#「土へん+已」、U+2124F、317-6]るゝ」]こと久しくして破り
易きを思い、
之を下して庸の勢を
殺がんと欲す。
乃ち
陽に
遼東を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、
天津より
直沽に至り、
俄に
河に沿いて南下するを令す。軍士
猶知らず、
其の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、
途に
偵騎に
遇えば、
尽く
之を殺し、一昼夜にして
暁に
比びて滄州に至る。凱の燕師の
到れるを
覚りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ
能わず。張玉の肉薄して登るに及び、城
遂に抜かれ、凱と
程暹、
兪、
趙滸等皆
獲らる。これ実に
此年十月なり。
十二月、燕王河に
循いて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に
臨清に至り、
館陶に
屯し、
次で
大名府を
掠め、転じて
上に至り、
済寧を
掠めぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて
其後を
躡み、
東昌に営したり。
此時北軍
却って南に
在り南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの
勢成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。
初は官軍の
先鋒孫霖、
燕将朱栄、
劉江の
為に敗れて走りしが、両軍
持重して、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ/\東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉
牛を宰して将士を
犒い、義を
唱え衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、
密に火器
毒弩を
列ねて、
粛として敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや
鼓譟して
薄る。火器
電の
如くに発し、毒弩雨の如く注げば、
虎狼鴟梟、皆傷ついて倒る。又
平安の兵の至るに会う。庸
是に於て兵を
麾いて
大に戦う。燕王精騎を率いて左翼を
衝く。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を
衝く。庸陣を開いて王の入るに
縦せ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃
甚だ
力むれども
出づることを得ず、
殆んど其の
獲るところとならんとす。
朱能、
周長等、王の急を見、
韃靼騎兵を
縦って庸の軍の東北角を撃つ。庸
之を
禦がしめ、
囲やゝ
緩む。
能衝いて入って死戦して王を
翼けて出づ。
張玉も
亦王を救わんとし、王の
已に出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍
勝に乗じ、残獲万余人、燕軍
大に敗れて
奔る。庸兵を
縦って之を追い、殺傷甚だ多し。
此役や、燕王
数々危し、諸将帝の
詔を奉ずるを以て、
刃を加えず。燕王も亦
之を知る。王騎射
尤も
精し、追う者王を
斬るを
敢てせずして、王の射て殺すところとなる多し。
適々高煦、
華衆等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
燕王張玉の死を聞きて
痛哭し、諸将と語るごとに、
東昌の事に及べば、曰く、張玉を失うより、
吾今に至って寝食安からずと。
涕下りて
已まず。諸将も皆泣く。
後功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、
河間王を
追封す。
初め
燕王の師の
出づるや、
道衍曰く、師は
行いて必ず
克たん、たゞ両日を
費すのみと。
東昌より
還るに及びて、王多く精鋭を失い、
張玉を
亡うを
以て、意
稍休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌
也、東昌の事
了る、
此より全勝ならんのみと。
益々士を募り
勢を
鼓す。建文三年二月、燕王自ら文を
撰し、
流涕して陣亡の将士張玉等を祭り、服するところの
袍を脱して
之を
焚き、以て
亡者に
衣するの意をあらわし、曰く、
其れ一
糸と
雖もや、以て余が心を
識れと。将士の父兄子弟
之を見て、皆感泣して、王の
為に死せんと欲す。
燕王
遂に
復師を
帥いて
出づ。諸将士を
諭して曰く、
戦の道、死を
懼るゝ者は必ず死し、
生を
捐つる者は必ず生く、
爾等努力せよと。三月、
盛庸と
來河に
遇う。燕将
譚淵、
董中峰等、南将
荘得と戦って死し、南軍
亦荘得、
楚知、
張皀旗等を失う。日暮れ、
各兵を
斂めて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営に
逼って
野宿す。天
明く、四面皆敵なり。王
従容として去る。庸の諸将
相顧みて
愕き
るも、天子の詔、朕をして
叔父を殺すの名を負わしむる
勿れの語あるを以て、矢を
発つを
敢てせず。
此日復戦う。
辰より
未に至って、両軍
互に勝ち互に負く。
忽にして東北風
大に起り、
砂礫面を撃つ。南軍は風に
逆い、北軍は風に乗ず。燕軍
吶喊鉦鼓の声地を
振い、庸の軍当る
能わずして
大に敗れ走る。燕王戦
罷んで営に
還るに、
塵土満面、諸将も
識る能わず、語声を聞いて王なるを
覚りしという。王の
黄埃天に
漲るの中に
在って
馳駆奔突して
叱号令せしの状、察す
可きなり。
呉傑、
平安は、
盛庸の軍を
援けんとして、
真定より兵を率いて
出でしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出して
糧を取り、営中
備無しと言わしめ、傑等を
誘う。傑等之を信じて、遂に
沱河に出づ。王
河を渡り
流に沿いて行くこと二十里、傑の軍と
藁城に遇う。実に
閏三月
己亥なり。翌日
大に戦う。燕将
薛禄[#「薛禄」は底本では「薜禄」]、奮闘
甚だ
力む。王
驍騎を率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍
箭を飛ばす雨の
如く、王の建つるところの旗、
集矢蝟毛の如く、燕軍多く傷つく。
而も王
猶屈せず、衝撃
愈急なり。
会また
暴起り、
樹を
抜き
屋を
飜す。燕軍之に乗じ、傑等
大に
潰ゆ。燕兵追いて真定城下に至り、
驍将、
陳等を
擒にし、
斬首六万余級、
尽く軍資器械を得たり。王
其の旗を
北平に送り、
世子に
諭して曰く、
善く
之を蔵し、後世をして忘る
勿らしめよと。旗世子の
許に至る。時に
降将顧成、
坐に
在りて之を見る。成は
操舟を業とする者より出づ。
魁岸勇偉、
膂力絶倫、満身の
花文、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。
嘗て太祖に
随って出でし時、
巨舟沙に
膠して動かず。成
即便舟を負いて行きしことあり。
鎮江の
戦に、
執えられて
縛せらるゝや、勇躍して縛を断ち、
刀を持てる者を殺して脱帰し、
直に衆を導いて城を
陥しゝことあり。勇力察す
可し。
後戦功を
以って累進して将となり、
蜀を征し、
雲南を征し、
諸蛮を平らげ、雄名世に
布く。建文元年
耿炳文に従いて燕と戦う。炳文敗れて、成
執えらる。燕王自ら
其縛を解いて曰く、皇考の霊、
汝を
以て我に授くるなりと。
因って兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心を
帰し、
遂に世子を
輔けて北平を守る。
然れども多く
謀画を致すのみにして、
終に兵に将として戦うを
肯んぜす、兵器を
賜うも
亦受けず。
蓋し中年以後、書を読んで得るあるに
因る。又一種の人なり。
後、太子
高熾の
羣小の
為に
苦めらるるや、告げて曰く、殿下は
但当に誠を
竭して
孝敬に、
孳々として民を
恤みたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意を
措くに足らずと。識見亦高しというべし。成は
是の如き人なり。旗を見るや、
愴然として之を
壮とし、涙下りて曰く、臣
少きより軍に従いて今老いたり、戦陣を
歴たること多きも、
未だ
嘗て
此の如きを見ざるなりと。
水滸伝中の人の如き成をして
此言を
為さしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を
攬る
所以のもの、実に王の
此の勇往
邁進、
艱危を冒して
肯て避けざるの
雄風にあらずんばあらざる也。
四月、燕兵
大名に
次す。王、
斉泰と
黄子澄との
斥けらるゝを聞き、書を
上りて、
呉傑、
盛庸、
平安の衆を召還せられんことを
乞い、
然らずんば兵を
釈く
能わざるを言う。帝
大理少卿を
遣りて、燕王及び諸将士の罪を
赦して、本国に帰らしむることを
詔し、燕軍を散ぜしめて、而して大軍を
以て
其後に
躡かしめんとす。
到りて
却って燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語
直にして意
誠なるを奏し、皇上
権奸を
誅し、天下の兵を散じたまわば、臣
単騎闕下に至らんと、云える燕王の語を奏す。帝
方孝孺に語りたまわく、誠に
の言の如くならば、
斉黄我を誤るなりと。孝孺
悪みて曰く、
の言、燕の
為に
游説するなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、
指揮武勝を
遣りて、朝廷兵を
罷むるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、
前詔と
背馳すと奏す。帝書を得て兵を
罷むるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は
孝康皇帝
同産の弟なり、
朕の
叔父なり、
吾他日
宗廟神霊に
見えざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急に
聚む可からず。彼長駆して
闕を犯さば、何を以て
之を
禦がん、陛下惑いたもうなかれと。
勝を
錦衣獄に下す。燕王
聞て
大に怒る。孝孺の言、
真に
然り、而して建文帝の
情、亦
敦しというべし。
畢竟南北相戦う、調停の事、
復為す能わざるの
勢に
在り、今に
於て
兵戈の
惨を除かんとするも、五
色の石、聖手にあらざるよりは、之を
錬ること難きなり。
此月燕王
指揮李遠をして軽騎六千を率いて
徐沛に
詣り、南軍の資糧を
焚かしむ。李遠、
丘福、
薛禄[#「薛禄」は底本では「薜緑」]と策応して、
能く功を
収め、糧船数万
艘、糧数百万を
焚く。軍資器械、
倶に
燼となり、河水
尽く熱きに至る。京師これを聞きて大に
震駭す。
七月、
平安兵を率いて真定より北平に到り、
平村に営す。平村は城を
距る五十里のみ。燕王の
世子、
危きを告ぐ。王
劉江を召して策を問う。江
乃ち兵を率いて
沱を渡り、
旗幟を張り、
火炬を挙げ、
大に軍容を
壮にして安と戦う。安の軍敗れ、安
還って真定に走る。
方孝孺の門人
林嘉猷、
計をもって燕王父子をして
相疑わしめんとす。
計行われずして
已む。
盛庸等、
大同の守将
房昭に
檄し、兵を引いて
紫荊関に入り、
保定の諸県を略し、兵を
易州の
西水寨に
駐め、
険に
拠りて持久の計を
為し、北平を
窺わしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平
危しとて、
遂に令を下して師を
班す。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、
併せて寨を破る。房昭走りて
免る。
十一月、
馬都尉梅殷をして
淮安を
鎮守せしむ。殷は太祖の
女の
寧国公主に
尚す。太祖の崩ぜんとするや、其の
側に侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、
汝老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、
敢て天に
違う者あらば、朕が
為に
之を
伐て、と言い
訖りて
崩れたまえるなり。燕の
勢漸く大なるに及びて、諸将観望するもの多し。
乃ち
淮南の民を募り、軍士を
合して四十万と号し、殷に命じて之を
統べて、
淮上に
駐まり、燕師を
扼せしむ。燕王これを聞き、殷に書を
遣り、
香を
金陵に進むるを以て辞と
為す。殷答えて曰く、進香は
皇考禁あり、
遵う者は孝たり、
遵わざる者は不孝たり、とて使者の
耳鼻を
割き、
峻厳の語をもて
斥く。燕王怒ること
甚し。
燕王兵を起してより既に三年、
戦勝つと
雖も、得るところは
永平・
大寧・
保定にして、南軍出没して
已まず、得るもまた
棄つるに至ること多く、死傷
少からず。燕王こゝに
於て、
太息して曰く、
頻年兵を用い、何の時か
已む
可けん、まさに江に臨みて一決し、
復返顧せざらんと。時に
京師の内臣等、帝の
厳なるを
怨みて、燕王を
戴くに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、
間に乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
四年正月、燕の
先鋒李遠、
徳州の
裨将葛進を
沱河に破り、
朱能もまた平安の将
賈栄等を
衡水に破りて
之を
擒にす。燕王乃ち
館陶より渡りて、
東阿を攻め、
上を攻め、
沛県を攻めて之を略し、遂に
徐州に進み、城兵を
威して
敢て出でざらしめて南行し、三月
宿州に至り、平安が
馬歩兵四万を率いて
追躡せるを
河に破り、平安の
麾下の番将
火耳灰を得たり。
此戦や
火耳灰を
執って燕王に
逼る、
相距るたゞ十歩ばかり、
童信射って、
其馬に
中つ。馬倒れて王
免れ、
火耳灰獲らる。王
即便火耳灰を
釈し、当夜に入って
宿衛せしむ。諸将これを
危みて
言えども、王
聴かず。
次いで
蕭県を略し、
淮河の守兵を破る。四月平安
小河に営し、燕兵
河北に
拠る。
総兵何福奮撃して、燕将
陳文を
斬り、平安勇戦して燕将
王真を囲む。
真身に十余
創を
被り、自ら馬上に
刎ぬ。
安いよいよ
逼りて、燕王に
北坂に
遇う。安の
槊ほとんど王に及ぶ。燕の
番騎指揮王騏、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将
張武悪戦して敵を
却くと
雖も、燕軍遂に
克たず。
是に於て南軍は
橋南に
駐まり、北軍は橋北に駐まり、
相持するもの数日、南軍
糧尽きて、
蕪を採って食う。燕王曰く、南軍
飢えたり、更に一二日にして
糧やゝ集まらば破り易からずと。
乃ち兵千余を
留めて橋を守らしめ、
潜に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて
繞って敵の
後に出づ。時に
徐輝祖の軍至る。
甲戌大に
斉眉山に戦う。
午より
酉に至りて、
勝負相当り、燕の
驍将李斌死す。燕
復遂に
克つ
能わず。南軍
再捷して
振い、燕は
陳文、
王真、
韓貴、李斌等を失い、諸将皆
懼る。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、
淮土湿蒸に、
疾疫漸く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二
麦まさに熟せんとす。河を渡り地を
択み、士馬を休息せしめ、
隙を
観て動くべきなりと。燕王曰く、兵の事は
進ありて
退無し。勝形成りて而して
復北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、
拘攣するのみと。
乃ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に
趨る。王
大に怒って曰く、公等みずから之を
為せと。
此時や燕の軍の
勢、実に
岌々乎として
将に崩れんとするの
危に
居れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は
遼遠にして、
而も本拠の四囲
亦皆敵たる也。燕の軍戦って
克てば
則ち可、克たずんば自ら支うる無き也。
而して当面の敵たる
何福は兵多くして力戦し、
徐輝祖は堅実にして
隙無く、
平安は
驍勇にして奇を
出す。
我軍は再戦して
再挫し、猛将多く亡びて、衆心
疑懼す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功
尽く
廃りて、不振の形勢
新に
見われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の
乖離、不測の変を生ずる無きを
保せず。諸将争って左するを見て王の怒るも
亦宜なりというべし。
然れども
此時の
勢、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を
容れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を
看る明確、事を断ずる勇決、実に
是れ豪傑の気象、鉄石の
心膓を
見わせるものならずして何ぞや。時に
坐に
朱能あり、能は
張玉と共に
初より王の左右の手たり。諸将の
中に於て年最も
少しと
雖も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の
長八尺、年三十五、
雄毅開豁、孝友
敦厚の人たり。慨然として席を立ち、剣を
按じて右に
趨きて曰く、諸君
乞うらくは
勉めよ、昔
漢高は十たび戦って九たび敗れぬれど
終に天下を有したり、今事を挙げてより
連に
勝を得たるに、
小挫して
輙ち帰らば、
更に
能く北面して人に
事えんや。諸君雄豪誠実、
豈退心あるべけんや、と云いければ、諸将
相見て
敢て
言うものあらず、全軍の
心機一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能
後に
龍州に死して、
東平王に
追封せらるゝに至りしもの、
豈偶然ならんや。
燕軍の
勢非にして、王の
甲を解かざるもの数日なりと
雖も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は
再捷すと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の
中に、燕今は
且に北に
還るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議
徐輝祖を
召還したもう。
輝祖已むを得ずして
京に帰りければ、
何福の軍の
勢殺げて、
単糸の
少く、
孤掌の鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の
馳突に備うる為に
塹濠を掘り、塁壁を作りて営と
為すを常としければ、軍兵休息の
暇少く、往々
虚しく人力を
耗すの
憾ありて、士卒
困罷退屈の情あり。燕王の軍は
塹塁を
為らず、たゞ
隊伍を分布し、陣を列して門と
為す。故に将士は営に至れば、
即ち休息するを得、
暇あれば王
射猟して地勢を周覧し、
禽を
得れば将士に
頒ち、塁を抜くごとに
悉く
獲るところの財物を
賚う。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること
是の如し。一は人
役に
就くを
苦み、一は人
用を
為すを
楽む。
彼此の差、勝敗に影響せずんばあらず。
かくて
対塁日を
累ぬる
中、南軍に
糧餉大に至るの報あり。燕王
悦んで
曰く、敵必ず兵を分ちて之を
護らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、
如何で
能く支えんや、と
朱栄、
劉江等を
遣りて、軽騎を率いて、
餉道を
截らしめ、又
游騎をして
樵採を妨げ
擾さしむ。
何福乃ち営を
霊壁に移す。南軍の糧五方、
平安馬歩六万を
帥いて之を
護り、糧を負うものをして
中に
居らしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を
遮らしめ、子
高煦をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば
出でゝ撃つべしと命じ、
躬ずから師を率いて
逆え戦い、騎兵を両翼と
為す。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王
歩軍を
麾いて
縦撃し、
其陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍
遂に乱れたり。何福等
此を見て安と合撃し、燕兵数千を殺して
之を
却けしが、高煦は南軍の
罷れたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を
還して
掩い撃ちたり。
是に
於て南軍
大に敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を
喪い、
糧餉尽く燕の師に
獲らる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門を
塞ぎて堅守しけるが、福
此夜令を下して、
明旦砲声三たびするを聞かば、
囲を突いて出で、糧に
淮河に就くべし、と示したり。
然るに
此も
亦天か
命か、
其翌日燕軍
霊壁の営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って
此を
我砲となし、争って急に門に
趨きしが、元より我が号砲ならざれば、門は
塞がりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中
紛擾し、人馬
滾転す。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に
敏捷を極む。南軍こゝに至って大敗収む
可からず。
宗垣、
陳性善、
彭与明は死し、何福は
遁れ走り、
陳暉、
平安、
馬溥、
徐真、
孫晟、
王貴等、皆
執えらる。平安の
俘となるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、
吾等此より安きを
獲んと。争って
安を殺さんことを請う。安が
数々燕兵を破り、
驍将を
斬る数人なりしを
以てなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、
河の
戦、公の馬
躓かずんば、
何以に我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、
朽を
拉ぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、
好く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして
善く之を
視せしむ。安
後永楽七年に至りて自殺す。安等を
喪いてより、南軍
大に衰う。
黄子澄、
霊壁の敗を聞き、胸を
撫して
大慟して曰く、大事去る、
吾輩万死、国を誤るの罪を
贖うに足らずと。
五月、燕兵
泗州に至る。守将
周景初降る。燕の師進んで
淮に至る。
盛庸防ぐ
能わず、戦艦皆燕の
獲るところとなり、
陥れらる。燕王諸将の策を排して、
直に
揚州に
趨く。揚州の守将
王礼と弟
宗と、
監察御史王彬を縛して門を開いて
降る。
高郵、
通泰、
儀真の諸城、
亦皆降り、北軍の艦船江上に往来し、
旗鼓天を
蔽うに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を
為して、
復立って争わんとする者無し。
方孝孺、地を
割きて燕に与え、敵の師を
緩うして、東南の募兵の至るを
俟たんとす。
乃ち
慶城郡主を
遣りて和を議せしむ。郡主は燕王の
従姉なり。燕王
聴かずして曰く、皇考の分ちたまえる
吾地も
且保つ
能わざらんとせり、何ぞ更に地を
割くを望まん、たゞ
奸臣を得るの後、
孝陵に
謁せんと。六月、燕師
浦子口に至る。盛庸等之を破る。帝
都督僉事陳を遣りて
舟師を率いて庸を
援けしむるに、
却って燕に
降り、舟を
具えて迎う。燕王乃ち
江神を祭り、師を誓わしめて江を渡る。
舳艫相銜みて、
金鼓大に
震う。盛庸等
海舟に兵を列せるも、皆
大に驚き
愕く。燕王諸将を
麾き、
鼓譟して
先登す。庸の師
潰え、海舟皆其の得るところとなる。
鎮江の守将
童俊、
為す能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を
為し、鎮江等諸城皆降るを聞きて、
憂鬱して
計を方孝孺に問う。孝孺民を
駆りて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。
李景隆等燕王に
見えて割地の事を説くも、王応ぜず。
勢いよ/\
逼る。群臣
或は帝に勧むるに
淅に
幸するを以てするあり、
或は
湖湘に幸するに
若かずとするあり。方孝孺堅く
京を守りて
勤王の師の
来り
援くるを待ち、事
若し急ならば、
車駕蜀に
幸して、後挙を為さんことを請う。時に
斉泰は
広徳に
奔り、黄子澄は
蘇州に奔り、徴兵を
促す。
蓋し二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に
徴さんとして
果さず。燕将
劉保、
華聚等、
終に
朝陽門に至り、
備無きを
覘いて還りて報ず。燕王
大に喜び、兵を整えて進む。
金川門に至る。
谷王※[#「木+惠」、U+6A5E、337-8]と
李景隆と、金川門を守る。燕兵至るに及んで、
遂に門を開いて降る。
魏国公徐輝祖屈せず、師を率いて迎え戦う。
克つ
能わず。朝廷文武皆
倶に降って燕王を迎う。
史を
按じて兵馬の事を記す、筆墨も
亦倦みたり。
燕王事を挙げてより四年、
遂に
其志を得たり。天意か、人望か、
数か、
勢か、
将又理の
応に
然るべきものあるか。
鄒公瑾等十八人、殿前に
於て
李景隆を
殴って
幾ど死せしむるに至りしも、
亦益無きのみ。帝、
金川門の
守を失いしを知りて、天を仰いで
長吁し、東西に走り
迷いて、自殺せんとしたもう。
明史、
恭閔恵皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后
馬氏は火に赴いて死したもう。
丙寅、諸王及び文武の臣、燕王に位に
即かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王
羣臣、
頓首して固く請う。王
遂に
奉天殿に
詣りて、皇帝の位に即く。
是より先
建文中、道士ありて、
途に歌って
曰く、
燕を逐ふ莫れ、
燕を逐ふ莫れ。
燕を逐へば、日に高く飛び、
高く飛びで、帝畿に上らん。
是に至りて人
其言の応を知りぬ。燕王今は
帝たり、宮人
内侍を
詰りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆
馬皇后の死したまえるところを指して
応う。
乃ち
屍を
燼中より出して、
之を
哭し、
翰林侍読王景を召して、葬礼まさに
如何すべき、と問いたもう。景
対えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。
建文帝の
皇考興宗孝康皇帝の
廟号を去り、
旧の
諡に
仍りて、
懿文皇太子と号し、建文帝の弟
呉王允※[#「火+二点しんにょうの通」、U+71A5、339-9]を
降して
広沢王とし、
衛王允※[#「火+堅」、U+719E、339-9]を
懐恩王となし、
除王允を
敷恵王となし、
尋で
復庶人と
為ししが、諸王
後皆
其死を得ず。建文帝の
少子は
中都広安宮に幽せられしが、
後終るところを知らず。
魏国公徐輝祖、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖
始終帝を
戴くの意無し。帝
大に怒れども、元勲
国舅たるを以て
誅する
能わず、爵を削って之を
私第に幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる
中山王徐達の子にして、
雄毅誠実、父
達の風骨あり。
斉眉山の
戦、
大に燕兵を破り、前後数戦、
毎に良将の名を
辱めず。
其姉は
即ち燕王の
妃にして、其弟
増寿は
京師に在りて常に燕の
為に国情を
輸せるも、輝祖独り
毅然として正しきに
拠る。端厳の性格、
敬虔の行為、良将とのみ
云わんや、有道の君子というべきなり。
兵部尚書鉄鉉、
執えられて
京に至る。廷中に背立して、帝に
対わず、正言して屈せず、遂に
寸磔せらる。死に至りて
猶罵るを
以て、
大に
油熬せらるゝに至る。
参軍断事高巍、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣の
願なりと。
京城破れて、駅舎に
縊死す。
礼部尚書陳廸、
刑部尚書
暴昭、
礼部侍郎黄観、
蘇州知府姚善、
翰林修譚、
王叔英、
翰林王艮、
淅江按察使王良、
兵部郎中譚冀、
御史曾鳳韶、
谷府長史劉、其他数十百人、
或は屈せずして殺され、或は
自死して義を全くす。
斉泰、
黄子澄、皆
執えられ、屈せずして死す。
右副都御史練子寧、
縛されて
闕に至る。語
不遜なり。帝
大に怒って、命じて
其舌を
断らしめ、曰く、
吾周公の
成王を
輔くるに
傚わんと欲するのみと。
子寧手をもて
舌血を探り、地上に、
成王安在の四字を
大書す。帝
益怒りて之を
磔殺し、
宗族棄市せらるゝ者、一百五十一人なり。
左僉都御史景清、
詭りて帰附し、
恒に利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清
緋衣して入る。
是より先に
霊台奏す、
文曲星帝座を犯す急にして色赤しと。
是に
於て清の独り緋を
衣るを見て之を疑う。
朝畢る。
清奮躍して
駕を犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。
清志の
遂ぐべからざるを知り、
植立して大に
罵る。衆
其歯を
抉す。
且抉せられて
且罵り、血を含んで
直に
御袍に
く。
乃ち命じて
其皮を
剥ぎ、
長安門に
繋ぎ、骨肉を
砕磔す。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座を
繞る。帝
覚めて、清の族を
赤し
郷を
籍す。村里も
墟となるに至る。
戸部侍郎卓敬執えらる。帝曰く、
爾前日諸王を
裁抑す、今
復我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝
若し敬が言に
依りたまわば、殿下
豈此に至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。
而も
其才を
憐みて獄に
繋ぎ、
諷するに
管仲・
魏徴の事を
以てす。帝の
意、敬を用いんとする
也。敬たゞ
涕泣して
可かず。帝
猶殺すに忍びず。
道衍白す、
虎を養うは
患を
遺すのみと。帝の意
遂に決す。敬刑せらるゝに臨みて、
従容として嘆じて曰く、変
宗親に起り、略
経画無し、敬死して余罪ありと。神色
自若たり。死して
経宿して、
面猶生けるが
如し。三族を
誅し、
其家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、
故より
隙ありしと
雖も、帝をして
方孝孺を殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて
浮文の人にあらざるを
看るべし。建文の
初に当りて、燕を憂うるの諸臣、
各意見を立て
奏疏を
上る。中に
就て敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王
蓋し志を得ざるのみ。
万暦に至りて、
御史屠叔方奏して敬の墓を表し
祠を立つ。敬の著すところ、
卓氏遺書五十巻、予
未だ目を
寓せずと
雖も、
管仲魏徴の事を以て
諷せられしの人、其の書必ず
観る
可きあらん。
卓敬を
容るゝ
能わざりしも、
方孝孺を殺す
勿れと
云いし
道衍は
如何の人ぞや。
眇たる一山僧の身を
以て、
燕王を勧めて
簒奪を
敢てせしめ、
定策決機、皆みずから当り、
臣天命を知る、
何ぞ民意を問わん、というの
豪懐を
以て、天下を鼓動し
簸盪し、億兆を
鳥飛し
獣奔せしめて
憚らず、功成って
少師と呼ばれて名いわれざるに及んで、
而も蓄髪を命ぜらるれども
肯んぜず、
邸第を賜い、
宮人を賜われども、辞して皆受けず、冠帯して
朝すれども、退けば
即ち
緇衣、
香烟茶味、淡然として生を終り、
栄国公を
贈られ、
葬を賜わり、天子をして
親ずから
神道碑を製するに至らしむ。又一
箇の
異人というべし。魔王の
如く、
道人の如く、策士の如く、
詩客の如く、実に
袁[#「袁」は底本では「袁洪」]の
所謂異僧なり。
其の詠ずるところの雑詩の一に
曰く、
志士は 苦節を守る、
達人は 玄言に滞らんや。
苦節は 貞くす可からず、
玄言 豈其れ然らんや。
出ると処ると 固より定有り、
語るも黙するも 縁無きにあらず。
伯夷 量 何ぞ隘き、
宣尼 智 何ぞ円なる。
所以に 古 の君子、
命に安んずるを 乃ち賢と為す。
苦節は
貞くす
可からずの一句、
易の
爻辞の節の
上六に、苦節、
貞くすれば凶なり、とあるに
本づくと
雖も、口気おのずから
是道衍の一家言なり。
況んや易の
貞凶の貞は、
貞固の貞にあらずして、
貞※[#「毎+卜」、U+209E9、345-6]の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞ
隘きというに至っては、古賢の言に
拠ると雖も、
聖の
清なる者に対して、
忌憚無きも
亦甚しというべし。
其の
擬古の詩の一に曰く、
良辰 遇ひ難きを
念ひて、
筵を開き
綺戸に当る。
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞ
※[#「月+無」、U+81B4、346-2]ある。
素絃 清商を
発し、
余響 樽爼を
繞る。
緩舞 呉姫 出で、
軽謳 越女 来る。
但欲ふ
客の
※酔[#「てへん+弃」、346-7]せんことを、
籌 何ぞ
肯て数へむ。
流年
※[#「犬/(犬+犬)」、U+730B、346-9]馳を嘆く、
力有るも
誰か得て
阻めむ。
人生
須らく歓楽すべし、
長に辛苦せしむる
勿れ。
擬古の詩、もとより
直に
抒情の作とす
可からずと
雖も、
此是れ
緇を
披て香を
焚く仏門の人の吟ならんや。
其の
北固山を経て
賦せる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧
宗一読して、
此豈釈子の語ならんや、と
曰いしという。北固山は
宋の
韓世忠兵を伏せて、
大に
金の
兀朮を破るの
処たり。其詩また
想う可き
也。
劉文貞公の墓を詠ずるの詩は、
直に自己の
胸臆を
ぶ。文貞は
即ち
秉忠にして、
袁[#「袁」は底本では「袁洪」]の評せしが如く、道衍の
燕に
於けるは、秉忠の
元に於けるが如く、其の
初の僧たる、其の世に立って功を成せる、皆
相肖たり。
蓋し道衍の秉忠に於けるは、
岳飛が
関張と
比しからんとし、
諸葛亮が管楽に擬したるが如く、思慕して
而して
倣模せるところありしなるべし。詩に曰く、
良驥 色
羣に同じく、
至人
迹 俗に混ず。
知己 苟も
遇はざれば、
終世
怨み
※[#「讀+言」、U+8B9F、348-2]まず。
偉なる
哉 蔵春公や、
箪瓢 巌谷に
楽む。
一朝 風雲 会す。
君臣 おのづから
心腹なり。
大業
計 已に成りて、
勲名
簡牘に照る。
身
退いて
即ち長往し、
川流れて 去つて
復ること無し。
住城 百年の
後、
鬱々たり
盧溝の北。
松楸 烟靄 青く、
翁仲 蕪 緑なり。
強梁も
敢て犯さず、
何人か 敢て
樵牧せん。
王侯の 墓
累々たるも、
廃すること
草宿をも待たず。
惟公 民望に
在り、
天地と
傾覆を同じうす。
斯人 作す
可からず、
再拝して
還一
哭す。
蔵春は
秉忠の号なり。盧溝は燕の城南に在り。
此詩劉文貞に傾倒すること
甚だ明らかに、其の高風大業を挙げ、
而して再拝
一哭すというに至る。性情
行径相近し、
俳徊感慨、まことに
止む
能わざるものありしならん。又別に、
春日劉太保の墓に謁するの
七律あり。まことに思慕の切なるを証すというべし。
東游せんとして
郷中諸友に別るゝの長詩に、
我
生れて
四方の志あり、
楽まず
郷井の
中を。
茫乎たる 宇宙の内、
飄転して
秋蓬の如し。
孰か云ふ
挾む所無しと、
耿々たるもの
吾胸に存す。
魚の
に
止まるを
為すに忍びんや、
禽の
籠に
囚はるゝを
作すを
肯ぜんや。
三たび登ると 九たび
到ると、
古徳と
与に同じうせんと欲す。
去年は
淮楚に
客たりき、
今は
往かんとす
浙水の東。
身を
竦てゝ
雲衢に入る、
一錫 游龍の如し。
笠は
衝く
霏々の霧、
衣は払ふ
々の風。
の句あり。身を
竦てゝの句、
颯爽悦ぶ
可し。
其末に、
江天 正に秋清く、
山水 亦容を改む。
沙鳥は 烟の際に白く、
嶼葉は 霜の前に紅なり。
といえる
如き、
常套の語なれども、また愛す
可し。古徳と同じゅうせんと欲するは、
是れ
仮にして、
淮楚浙東に往来せるも、修行の
為なりしや
游覧の為なりしや知る可からず。
然れども詩情も
亦饒き人たりしは疑う可からず。詩に
於ては
陶淵明を
推し、
笠沢の
舟中に
陶詩を読むの作あり、
中に淵明を学べる者を評して、
応物は趣 頗合し、
子瞻は 才 当るに足る。
と
韋、
蘇の二士を挙げ、
其他の
模倣者を、
里婦 西が顰に効ふ、
咲ふ可し 醜愈張る。
と冷笑し、又
公暇に
王維、
孟浩然、
韋応物、
柳子厚の詩を読みて、四
子を賛する詩を
為せる如き、其の好む所の主とするところありて
泛濫ならざるを示せり。当時の詩人に於ては、
高啓を重んじ、交情また親しきものありしは、
奉レ答二高季迪一、
寄二高編脩一、
賀二高啓生一レ子、
訪二高啓鍾山寓舎一辱二詩見一レ貽、
雪夜読二高啓詩一等の詩に徴して知るべく、
此老の詩眼暗からざるを見る。
逃虚集十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずと
雖も、時に逸気あり。今其集に
就て交友を考うるに、
と
張天師とは、最も
親熟するところなるが如く、
贈遺の
什甚だ
少からず。
と道衍とは
本より
互に知己たり。道衍又
嘗て道士
席応真を師として
陰陽術数の学を受く。
因って道家の
旨を知り、仙趣の微に通ず。詩集
巻七に、
挽二席道士一とあるもの、疑うらくは応真、
若[#ルビの「も」は底本では「もし」]しくは応真の族を
悼めるならん。張天師は道家の
棟梁たり、道衍の張を重んぜるも
怪むに足る無きなり。故友に於ては最も
王達善を
親む。故に其の
寄二王助教達善一の長詩の前半、自己の感慨
行蔵を
叙して
忌まず、道衍自伝として
看る可し。詩に曰く、
乾坤 果して何物ぞ、
開闔 古より有り。
世を
挙って
孰か
客に
非ざらん、
離会
豈偶なりと
云はんや。
嗟予 蓬蒿の人、
鄙猥 林籔に
匿る。
自から
慚づ
駑蹇の姿、
寧ぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山 窈くして
而して深し、
性を養ひて 老朽を甘んず。
且 木石と共に
居りて、
氷檗と
志 堅く守りぬ。
人は云ふ
鳳 枳に
栖むと、
豈同じからんや 魚の
※[#「网/卯」、354-11]に
在るに。
藜 我腸を
充し、
衣蔽れて
両肘露はる。
龍 高位に在り、
誰か
来りて 可否を問はん。
盤旋す
草※[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、356-4]の
間に、
樵牧 日に
相叩く。
嘯詠 寒山に擬し、
惟 道を以て自負す。
忍びざりき 強ひて
塗抹して、
乞媚びて
里婦に
効ふに。
山霊
蔵るゝことを
容さず、
辟歴 岡阜を破りぬ。
門を
出でゝ 天日を
睹る、
行也 焉にぞ
肯て
苟もせん。
一挙して 即ち北に
上れば、
親藩 待つこと
惟久しかりき。
天地
忽ち 大変して、
神龍
氷湫より起る。
万方 共に
忻び
躍りて、
率土 元后を
戴く。
吾を召して
南京に来らしめ、
爵賞加恩 厚し。
常時
天眷を
荷ふ、
愛に
因って
醜を知らず。(下略)
嘯詠寒山に擬すの句は、
此老の行為に
照せば、
矯飾の言に近きを覚ゆれども、
若夫れ知己に
遇わずんば、
強項の人、
或は
呉山に老朽を
甘んじて、一生
世外の
衲子たりしも、また知るべからず、
未だ
遽に
虚高の辞を
為すものと断ず
可からず。たゞ道衍の性の豪雄なる、
嘯詠吟哦、
或は
獅子の
繍毬を
弄して日を消するが
如くに、
其身を終ることは
之有るべし、
寒山子の如くに、
蕭散閑曠、
塵表に
逍遙して、其身を
遺るゝを
得可きや
否や、疑う可き也。
龍高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを
容さず以下数句、
燕王に
召出されしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王
崛起の事をいう。
道い得て
佳なり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて
吾身を世に
徇うるを言えるもの、
亦善く
標置すというべし。
道衍の一生を考うるに、
其の
燕を
幇けて
簒を成さしめし
所以のもの、栄名厚利の
為にあらざるが
如し。
而も
名利の為にせずんば、何を
苦んでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に
戴かしめしぞ。道衍と
建文帝と、
深仇宿怨あるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す
可からざるある
也。道衍
己の偉功によって
以て仏道の為にすと
云わんか、仏道
明朝の為に
圧逼せらるゝありしに
非る也。燕王
覬覦の
情無き
能わざりしと
雖も、道衍の
扇を
鼓して火を
煽るにあらざれば、燕王
未だ必ずしも
毒烟猛を揚げざるなり。道衍
抑又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、
呂尚、
范増、皆老いて
而して後立つと
雖も、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の
教を奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。
嗚呼又解すべからずというべし。
若し
強いて道衍の為に解さば、
惟是れ道衍が天に
禀くるの気と、自ら
負むの材と、
※々[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、363-12]、
蕩々、
糾々、
昂々として、屈す
可からず、
撓む可からず、
消す可からず、
抑う可からざる者、燕王に
遇うに当って、
然として破裂し、爆然として
迸発せるものというべき
耶、
非耶。予
其の
逃虚子集を読むに、道衍が英雄豪傑の
蹟に感慨するもの多くして、
仏灯梵鐘の間に幽潜するの情の
少きを思わずんばあらざるなり。
道衍の人となりの古怪なる、実に一
沙門を以て目す可からずと雖も、
而も文を好み道の為にするの情も、
亦偽なりとなす可からず。
此故に
太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]実録を
重修するや、
衍実に
其監修を
為し、又
支那ありてより以来の
大編纂たる
永楽大典の成れるも、衍実に
解縉等と
与に
之を
為せるにて、
是れ皆文を好むの
余に出で、
道余録を著し、
浄土簡要録を著し、
諸上善人詠を著せるは、是れ皆道の為にせるに
出づ。史に記す。道衍
晩に道余録を著し、
頗る先儒を
毀る、識者これを
鄙しむ。
其の故郷の
長州に至るや、同産の姉を
候す、姉
納れず。
其友
王賓を
訪う、賓も
亦見えず、
但遙に語って曰く、
和尚誤れり、和尚誤れりと。
復往いて姉を見る、姉これを
詈る。道衍
惘然たりと。道衍の姉、儒を奉じ
仏を
斥くるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に
伝無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの
王達善ならんか。声を揚げて
遙語す、
鄙しむも亦
甚し。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて
之を
悪むも、
亦過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余
曩に僧たりし時、
元季の兵乱に
値う。年三十に近くして、
愚庵の
及和尚に
径山に従って禅学を習う。
暇あれば内外の典籍を
披閲して
以て才識に資す。因って
河南の
二程先生の遺書と
新安の
晦庵朱先生の語録を
観る。(中略)三先生既に
斯文の
宗主、後学の師範たり、
仏老を
攘斥すというと雖も、必ず
当に理に
拠って至公無私なるべし、
即ち人心服せん。三先生多く仏書を
探らざるに因って
仏の
底蘊を知らず。一に私意を以て
邪※[#「言+皮」、U+8A56、361-10]の
辞を出して、
枉抑太だ過ぎたり、世の人も心
亦多く平らかならず、
況んや
其学を
宗する者をやと。(下略)道余録は
乃ち
程氏遺書の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を
目して、極めて
謬誕なりと
為し、条を
逐い理に拠って一々
剖柝せるものなり。
藁成って
巾笥に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、
大抵禅子の常談にして、別に他の奇無し。
蓋し
明道、
伊川、
晦庵の
仏を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが
如き、
本是弁じ
易きの事たり。
膽を張り目を怒らし、手を
戟にし気を
壮にするを要せず。道衍の
峻機険鋒を以て、
徐に幾百年前の
故紙に対す、縦説横説、
甚だ
是れ容易なり。是れ其の
観る可き無き
所以なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、
明道の言を
罵って、
豈道学の君子の
為ならんやと
云い、明道の
執見僻説、
委巷の曲士の
若し、誠に
咲う可き也、と云い、明道何ぞ
乃ち自ら
苦むこと
此の如くなるや、と云い、
伊川の
言を評しては、
此は是れ
伊川みずから
此説を造って禅学者を
誣う、伊川が良心いずくにか
在る、と云い、
管を以て天を
窺うが如しとは
夫子みずから
道うなりと云い、
程夫子崛強自任す、聖人の道を伝うる者、
是の如くなる可からざる也、と云い、
晦庵の言を
難しては、朱子の
語、と云い、
惟私意を
逞しくして以て仏を
詆る、と云い、朱子も
亦怪なり、と云い、晦庵
此の如くに心を用いば、
市井の間の小人の争いて販売する者の
所為と何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、
愚弄嘲笑すること
太だ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ
蓋し
其姉の
納れず、
其友の見ざるに至れる
所以ならずんばあらず。道衍の言を考うるに、
大禅宗に依り、
楞伽、
楞厳、
円覚、
法華、
華厳等の経に拠って、
程朱の排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。
然れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に
於て、抗争反撃の弁を
逞しくす。書の
公にさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと
曰うと雖も、亦
争を好むというべし。
此も亦道衍が
※々蕩々[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、363-12]の気の、
已む能わずして然るもの
耶、
非耶。
道衍は
是の如きの人なり、而して
猶卓侍郎を
容るゝ能わず、
之を
赦さんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。
素より
相善からざるの
私ありしに
因るとは云え、又実に卓の才の大にして
器の偉なるを
忌みたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、
卓惟恭もまた雄傑の士というべし。
道衍の卓敬に対する、衍の詩句を
仮りて之を評すれば、道衍
量何ぞ
隘きやと云う可きなり。
然るに道衍の
方正学に対するは
則ち
大に異なり。方正学の燕王に
於けるは、実に
相容れざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を
掃わんとするを名として、其の
目して以て事を構え
親を破り、天下を誤るとなせる者は、
斉黄練方の四人なりき。斉は
斉泰なり、黄は
黄子澄なり、練は
練子寧なり、
而して方は即ち
方正学なり。燕王にして功の成るや、もとより
此四人を得て
甘心せんとす。道衍は王の
心腹なり、
初よりこれを知らざるにあらず。
然るに燕王の
北平を発するに当り、道衍これを
郊に送り、
跪いて
密に
啓して
曰く、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に
方孝孺あり、
学行あるを
以て
聞ゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず
降らざらんも、
幸に之を殺したもう
勿れ、之を殺したまわば
則ち天下の読書の
種子絶えんと。燕王これを
首肯す。道衍の卓敬に
於ける、私情の
憎嫉ありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は
宗濂の門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは
蓋し文字の交あり。道衍の
少きや、学を好み詩を
工にして、濂の推奨するところとなる。道衍
豈孝孺が濂の
愛重するところの
弟子たるを以て深く知るところありて
庇護するか、
或は又孝孺の文章学術、一世の
仰慕するところたるを以て、
之を殺すは燕王の盛徳を
傷り、天下の批議を
惹く
所以なるを
慮りて
憚るか、
将又真に天下読書の種子の絶えんことを
懼るゝか、
抑亦孝孺の
厳の
操履、燕王の
剛邁の気象、二者
相遇わば、氷塊の鉄塊と
相撃ち、
鷲王と
龍王との
相闘うが如き
凄惨狠毒の光景を生ぜんことを想察して
預め之を
防遏せんとせるか、今皆確知する
能わざるなり。
方孝孺は
如何なる人ぞや。孝孺
字は
希直、一字は
希古、
寧海の人。父
克勤は
済寧の
知府たり。治を為すに徳を
本とし、心を
苦めて民の
為にす。
田野を
闢き、学校を興し、勤倹身を持し、
敦厚人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今
耕耘暇あらず、何ぞ又
畚に堪えんと。
中書省に請いて
役を
罷むるを得たり。是より
先き久しく
旱せしが、役の罷むに及んで
甘雨大に至りしかば、済寧の民歌って曰く。
孰か我が役を罷めしぞ、
使君の 力なり。
孰か我が黍を活かしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふ勿れ、
我が民の 父なり 母なり。
克勤の民意を
得る
是の如くなりしかば、事を
視ること三年にして、戸口増倍し、一郡
饒足し、男女
怡々として生を
楽みしという。克勤
愚菴と号す。
宋濂に
故愚庵先生
方公墓銘文あり。
滔々数千言、
備に其の人となりを尽す。
中に記す、晩年
益畏慎を加え、昼の
為す所の事、夜は
則ち天に
白すと。愚庵はたゞに
循吏たるのみならざるなり。濂又曰く、
古に
謂わゆる
体道成徳の人、先生誠に
庶幾焉と。
蓋し濂が
諛墓の辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。
天賦も厚く、
庭訓も厳なりしならん。幼にして精敏、
双眸烱々として、日に書を読むこと寸に
盈ち、文を
為すに
雄邁醇深なりしかば、郷人呼んで
小韓子となせりという。其の
聰慧なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、
悉く称して
太史公となして、姓氏を以てせず。濂
字は、
景濂、
其先金華の
潜渓の人なるを以て
潜渓と
号す。太祖
濂を
廷に
誉めて曰く、宋景濂
朕に
事うること十九年、
未だ
嘗て一
言の
偽あらず、
一人の
短を
誚らず、始終
二無し、たゞに君子のみならず、
抑賢と
謂う可しと。太祖の濂を
視ること
是の如し。濂の人品
想う可き
也。孝孺
洪武の九年を以て、濂に
見えて
弟子となる。濂時に年六十八、孝孺を得て
大に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に
還るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生
希直を得たり、其の人となりや
凝重にして物に
遷らず、
穎鋭にして以て
諸を理に
燭す、
間発して
[#「間発して」は底本では「発間して」]文を
為す、水の
湧いて山の
出づるが如し、
喧啾たる百鳥の
中、此の
孤鳳皇を見る、いかんぞ喜びざらんと。
凝重穎鋭の二句、老先生
眼裏の好学生を写し
出し
来って
神有り。此の
孤鳳皇を見るというに至っては、
推重も
亦至れり。詩十四章、其二に曰く、
念ふ 子が 初めて来りし時、
才思 繭糸の若し。
之を抽いて 已に緒を見る、
染めて就せ 五色の衣。
其九に曰く、
須らく知るべし 九仭の山も、
功 或は 一簣に少くるを。
学は 貴ぶ 日に随つて新なるを、
慎んで 中道に廃する勿れ。
其十に曰く、
羣経 明訓 耿たり、
白日 青天に麗る。
苟も徒に 文辞に溺れなば、
蛍※[#「火+嚼のつくり」、U+721D、370-6] 妍を争はんと欲するなり。
其十一に曰く、
姫も
孔も 亦
何人ぞや、
顔面
了に
異ならじ。
肯て
盆の
中に
墮せんや、
当に
瑚の
器となるべし。
其終章に曰く、
明年 二三月、
羅山 花 正に開かん。
高きに登りて 日に盻望し、
子が能く 重ねて来るを遅たむ。
其才を
称し、其学を勧め、
其の流れて文辞の人とならんことを戒め、其の
奮って聖賢の域に至らんことを求め、他日
復再び大道を論ぜんことを欲す。
潜渓が孝孺に対する、
称許も甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。
嗚呼、老先生、
孰か好学生を愛せざらん、好学生、
孰か老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年
丁巳、
経を執って
浦陽に潜渓に
就きぬ。従学四年、業
大に進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の
下に出で、先輩
胡翰も
蘇伯衡も
亦自ら
如かずと
謂うに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が
之を送る五十四
韻の長詩あり。
其引の
中に記して曰く、
細らかに其の進修の功を
占うに、日々に
異なるありて、月々に同じからず、
僅に四春秋を越ゆるのみにして而して
英発光著や
斯の如し、
後四春秋ならしめば、
則ち其の至るところ又
如何なるを知らず、近代を以て之を言えば、
欧陽少卿、
蘇長公の
輩は、
姑らく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の
場に
角逐せば、
孰か後となり
孰か先となるを知らざる也。今
此説を
為す、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして
当に其の知言にして、
生に許す者の
過に
非ざるを信ずべき也。
然りと
雖も予の生に許すところの者、
寧ぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを
惜み、
為に
是詩を
賦す、既に其の素有の善を揚げ、
復勗むるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や
辞を
行る
自在にして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、
生は
乃ち
周の
容刀。
生は乃ち
魯の
。
道
真なれば
器乃ち貴し、
爰ぞ
須ゐん 空言を用ゐるを。
孳々として 務めて
践形し、
負く
勿れ 七尺の身に。
敬義
以て
衣と
為し、
忠信 以て
冠と為し、
慈仁 以て
佩と為し、
廉知 以て
※[#「般/革」、U+97B6、374-5]と為し、
特り立つて 千古を
睨まば、
万象
昭らかにして
昏き無からむ。
此意 竟に
誰か知らん、
爾が
為に
言諄諄たり。
徒に
強聒ふと
謂ふ
勿れ、
一一
宜しく
紳に
書すべし。
孝孺
後に至りて此詩を録して人に
視すの時、書して曰く、
前輩後学を
勉めしむ、
惓惓の
意、
特り文辞のみに
在らず、望むらくは
相与に之を勉めんと。
臨海の
林佑、
葉見泰等、潜渓の詩に
跋して、又
各宋太史の期望に
酬いんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓に
負かざりき。
孝孺の
集は、
其人天子の
悪むところ、一世の
諱むところとなりしを
以て、当時絶滅に帰し、
歿後六十年にして
臨海の
趙洪が
梓に附せしより、
復漸く世に伝わるを得たり。今
遜志斎集を執って
之を読むに、
蜀王が
所謂正学先生の精神面目
奕々として
儼存するを覚ゆ。
其の
幼儀雑箴二十首を読めば、
坐、
立、
行、
寝より、
言、
動、
飲、
食等に至る、皆道に
違わざらんことを欲して、而して実践
躬行底より徳を成さんとするの意、看取すべし。
其雑銘を読めば、
冠、
帯、
衣、
より、
※[#「竹かんむり/垂」、U+7BA0、376-1][#「※[#「竹かんむり/垂」、U+7BA0、376-1]」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、376-1]」]、
鞍、
轡、
車等に至る、各物一々に
湯の
日新の銘に
則りて、語を下し文を
為す、反省修養の意、看取すべし。
雑誡三十八章、
学箴九首、
家人箴十五首、
宗儀九首等を読めば、
希直の学を
為すや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域に
躋らんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を
末視し、
恒に王道を明らかにし太平を致すを以て
己が任と為すと。(
是鄭暁の
方先生伝に
本づく)
真に
然り、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの
真摯なる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術の
微なるは、
四蠹之を害すればなり。
姦言を
文り、
近事を
り、時勢を
窺伺し、
便に
趨り
隙に投じ、
冨貴を以て、志と
為す。
此を
利禄の
蠹と
謂う。
耳剽し
口衒し、
色を
詭り
辞を
淫にし、聖賢に
非ずして、
而も自立し、
果敢大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、
是を名を務むるの
蠹という。
鉤して説を成し、上古に
合するを務め、先儒を
毀し、
以謂らく我に及ぶ
莫き
也と、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を
訓詁の
蠹という。道徳の旨を知らず、
雕飾綴緝して、以て新奇となし、歯を
鉗し舌を
刺して、以て簡古と為し、世に
於て加益するところ無し。是を
文辞の
蠹という。四者
交々作りて、聖人の学
亡ぶ。必ずや
諸を身に
本づけ、諸を政教に
見わし、以て
物を成す可き者は、
其れ
惟聖人の学
乎、聖道を去って
而して
循わず、而して
惟蠹にこれ帰す。甚しい
哉惑えるや、と。孝孺の
此言に
照せば、
鄭暁の伝うるところ、実に
虚しからざる也。
四箴の序の
中の語に曰く、天に
合して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、
潜渓先生が
謂える所の、
特り立って千古を
睨み、万象
昭して
昏き無しの
境に入れるを
看るべし。又
其の
克畏の
箴を読めば、あゝ
皇いなる上帝、
衷を人に
降す、といえるより、其の
方に
昏きに当ってや、
恬として
宜しく
然るべしと
謂うも、
中夜静かに思えば
夫れ
豈吾が天ならんや、
廼ち奮って而して
悲み、
丞やかに
前轍を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる
勿れ、
嗜む所を嗜む勿れ、といい、表裏
交々修めて、本末一致せんといえる如き、
恰も神を奉ぜるの者の如き思想感情の
漲流せるを見る。父
克勤の、昼の為せるところ、夜は
則ち天に
白したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、
孔孟の正大純粋の
教の
徳光恵風に
浸涵して、真に
心胸の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを
看るべき也。
孝孺既に文芸を
末視し、孔孟の学を
為し、
伊周の事に任ぜんとす。
然れども
其の文章
亦おのずから佳、前人評して曰く、
醇博朗[#「醇博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348-9]博朗」]、
沛乎として
余有り、
勃乎として
禦ぐ
莫しと。又曰く、
醇深雄邁と。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は
蓋し其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから
観る可し。其の
王仲縉感懐の
韻に
次する詩の末に句あり、曰く
壮士 千載の心、
豈憂へんや 食と衣とを。
由来 海に浮ばんの志、
是れ 軒冕の姿にあらず。
人生 道を聞くを尚ぶ、
富貴 復奚為るものぞ。
賢にして有り 陋巷の楽、
聖にして有り 西山の饑。
頤を朶る 失ふところ多し、
苦節 未だ非とす可からず。
道衍は豪傑なり、孝孺は君子なり。
逃虚子は歌って曰く、苦節
貞くすべからずと。
遜志斎は歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、
伯夷量何ぞ
隘きと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の
饑と。孝孺又其の
※陽[#「さんずい+螢」の「虫」に代えて「糸」、U+7020、380-4][#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」]を
過ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に
因って
首陽を
念う、
西顧すれば
清風生ずと。又
乙丑中秋後二日
兄に寄する詩の句に曰く、苦節
伯夷を慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、
籌又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、
希直は俗にして、
飲の
箴に、酒の
患たる、
謹者をして
荒み、荘者をして狂し、貴者をして
賤しく、
存者をして
亡ばしむ、といい、
酒巵の銘には、
親を
洽くし衆を和するも、
恒に
斯に
於てし、
禍を造り
敗をおこすも、
恒に
斯に於てす、其
悪に懲り、以て善に
趨り、其儀を
慎むを
尚ぶ、といえり。逃虚子は
仏を奉じて、
而も
順世外道の如く、遜志斎は儒を尊んで、
而も
浄行者の如し。
嗚呼、何ぞ其の奇なるや。
然も遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の
上巳南楼に登るの詩に曰く、
昔時 喜んで酒を飲み、
白を挙げて 深きを辞せざりき。
茲に
中歳に及んでよりこのかた、
已に
復 人の
斟むを
畏る。
後生 ゆるがせにする所多きも、
豈識らんや
老の
会臨するを。
志士は 景光を
惜む、
麓に登れば
已に
岑を知る。
毎に聞く
前世の事、
頗る見る 古人の心。
逝く者 まことに
息まず、
将来
誰か今に
嗣がむ。
百年
当に成る有るべし、
泯滅 寧ぞ
欽むに足らんや。
毎に
憐む
伯牙の
陋にして、
鍾 死して
其琴を破れるを。
自ら
得るあらば
苟に伝ふるに堪へむ、
何ぞ必ずしも
知音を求めんや。
俯しては
観る 水中の
※[#「條」の「木」に代えて「魚」、U+9BC8、382-9][#「※[#「條」の「木」に代えて「魚」、U+9BC8、382-9]」は底本では「」]、
仰いでは
覩る
雲際の
禽。
真楽 吾 隠さず、
欣然として
煩襟を
豁うす。
前半は
巵酒 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありて
外に待つ無きをいう。伯牙を
陋として破琴を
憐み、
荘子を引きて
不隠を挙ぐ。それ外より入る者は、
中に
主たる無し、門より入る者は
家珍にあらず。
白を挙げて
楽となす、何ぞ
是れ至楽ならん。
遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神
夐に
殊なり。意気の
俊邁なるに至っては、
互に
相遜らずと
雖も、
正学先生の詩は
竟に是れ正学先生の詩にして、其の
帰趣を考うるに、
毎に正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて
欹側詭※[#「言+皮」、U+8A56、383-8]の言を
為さず、
放逸曠達の
態無し。勉学の詩二十四章の如きは、
蓋し壮時の作と雖も、其の
本色なり。
談詩五首の一に曰く、
世を挙って 皆宗とす 李杜の詩を。
知らず 李杜の 更に誰を宗とせるを。
能く 風雅 無窮の意を探らば、
始めて是れ 乾坤 絶妙の詞ならん。
第二に曰く、
道徳を 発揮して
乃ち文を成す、
枝葉 何ぞ
曾て
本根を
[#「本根を」は底本では「木根を」]離れん。
末俗 工を競ふ
繁縟の
体、
千秋の精意
誰と
与に論ぜん。
是れ正学先生の詩に
於けるの
見なり。
華を
斥け
実を
尚び、雅を愛し
淫を
悪む。尋常一様
詩詞の人の、
綺麗自ら喜び、
藻絵自ら
衒い、
而して其の本旨正道を逸し邪路に
趨るを忘るゝが如きは、
希直の断じて取らざるところなり。希直の父
愚庵、師
潜渓の見も、
亦大略
是の如しと
雖も、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
孝孺の父は
洪武九年を以て
歿し、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年
呉の
薦を以て太祖に
見ゆ。太祖
其の挙止端整なるを喜びて、皇孫に
謂って曰く、
此荘士、
当に
其才を老いしめて以て
汝を
輔けしめんと。
閲十年にして又
薦められて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に
非ずと。太祖が孝孺を
器重して、
而も挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに
於て
慮を致すもの多し。
然れども
此は強いて解す
可からず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の
間に
於て、たま/\
仇家の
為に
累せられて孝孺の
闕下に
械送せられし時、太祖
其名を記し居たまいて
特に
釈されしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳
漸く高くして、太祖の第十一子
蜀王椿、孝孺を
聘して世子の
傅となし、尊ぶに
殊礼を
以てす。王の孝孺に
賜うの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を
閲す
孔だ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に
謙にして以て みづから牧し、
卑うして以て みづから持す。
雍容 儒雅、
鸞鳳の 儀あり。
とあり。又其の
賜詩三首の一に
文章 金石を奏し、
衿佩 儀刑を覩る。
応に世々 三輔に遊ぶべし、
焉んぞ能く 一経に困せん。
の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、
亦知るべし。王孝孺の読書の
廬に題して
正学という。孝孺はみずから
遜志斎という。人の正学先生というものは、実に
蜀王の賜題に
因るなり。
太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣
交々孝孺を
薦む。
乃ち召されて
翰林に入る。徳望
素より
隆んにして、一時の
倚重するところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の
咨詢を
承くること
殆ど
間無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、
詔檄皆孝孺の手に
出づ。三年より四年に至り、孝孺
甚だ
煎心焦慮すと雖も、身武臣にあらず、皇師
数々屈して、燕兵
遂に城下に
到る。
金川門守を失いて、帝みずから
大内を
焚きたもうに当り、孝孺
伍雲等の
為に
執えられて獄に下さる。
燕王志を得て、今既に帝たり。
素より孝孺の才を知り、又
道衍の言を
聴く。
乃ち孝孺を
赦して
之を用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に
繋ぎ、孝孺の
弟子廖廖銘をして、利害を以て説かしむ。二人は
徳慶侯廖権の子なり。孝孺怒って曰く、
汝等予に従って幾年の書を読み、
還って義の何たるを知らざるやと。二人説く
能わずして
已む。帝
猶孝孺を用いんと欲し、一日に
諭を下すこと再三に及ぶ。
然も
終に従わず。帝即位の
詔を草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。
乃ち召して獄より
出でしむ。孝孺
喪服して入り、
慟哭して
悲み、声
殿陛に徹す。帝みずから
榻を
降りて
労らいて曰く、先生労苦する
勿れ。我
周公の
成王を
輔けしに
法らんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか
在ると。帝曰く、
渠みずから
焚死すと。孝孺曰く、成王
即存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は
長君に
頼る。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ
朕が家事なり、先生はなはだ労苦する
勿れと。左右をして
筆札を授けしめて、おもむろに
詔して曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺
大に数字を批して、筆を地に
擲って、又
大哭し、
且罵り且
哭して曰く、死せんには
即ち死せんのみ、
詔は断じて草す可からずと。帝
勃然として声を大にして曰く、汝いずくんぞ
能く
遽に死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を
奈何にせんやと、声
甚だ
し。帝もと雄傑剛猛なり、
是に於て
大に
怒って、刀を以て孝孺の口を
抉らしめて、
復之を獄に
錮す。
孝孺の
宋潜渓に知らるゝや、
蓋し
其の
釈統三
篇と
後正統論とを
以てす。四篇の文、雄大にして荘厳、
其大旨、義理の正に
拠って、情勢の
帰を
斥け、王道を
尚び、覇略を卑み、天下を全有して、
海内に号令する者と
雖も、
其道に
於てせざる者は、
目して、正統の君主とすべからずとするに
在り。
秦や
隋や
王※[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、390-3]や、
晋宋・
斉梁や、
則天や
符堅や、
此皆これをして天下を有せしむる数百年に
踰ゆと
雖も、正統とす
可からずと
為す。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、
豈其の天下を有するを
謂わんやと。又曰く、天下を有して
而も正統に比す可からざる者三、
簒臣也、
賊后也、
夷狄也と。孝孺
篇後に書して曰く、予が
此文を
為りてより、
未だ
嘗て出して以て人に示さず。人の
此言を聞く者、
咸予を
笑して以て狂と
為し、
或は
陰に
之を
詆詬す。其の
然りと
謂う者は、独り予が師
太史公と、
金華の
胡公翰とのみと、
夫れ正統変統の論、もとより史の
為にして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は
豈其の天下を有するを謂わんやと
為す。
是の如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝
簒奪の君に面し、其の天下に
誥ぐるの
詔を草せんことを
逼らる。
嗚呼、運命
遭逢も
亦奇なりというべし。孝孺又
嘗て筆の銘を
為る。曰く、
妄に動けば 悔あり、
道は 悖る可からず。
汝 才ありと謂ふ勿れ、
後に 万世あり。
又
嘗て紙の銘を為る。曰く、
之を以て言を立つ、其の道を載せんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て教を施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。
此等の文、
蓋し少時の
為る所なり。嗚呼、運命
遭逢、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、
富貴我を
遅つこと久し、これに臨みて
命を拒まば、
刀鋸我に加わらんこと
疾し。嗚呼、
正学先生、こゝに
於て、
成王いずくに
在りやと論じ、こゝに於て筆を地に
擲って
哭す。父に
負かず、師に
負かず、天に
合して人に
合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、
凛々烈々として、屈せず
撓まず、苦節
伯夷を慕わんとす。壮なる
哉。
帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる
毎に
輙ち孝孺に示す。孝孺顧みず、
乃ち之を殺す。孝孺の妻
鄭氏と
諸子とは、皆
先ず
経死す。二女
逮えられて
淮を過ぐる時、
相与に橋より投じて死す。
季弟孝友また
逮えられて
将に
戮せられんとす。孝孺之を目して
涙下りければ、
流石は正学の弟なりけり、
阿兄 何ぞ必ずしも 涙潜々たらむ、
義を取り 仁を成す 此間に在り。
華表 柱頭 千歳の後、
旅魂 旧に依りて 家山に到らん。
と吟じて
戮せられぬ。母族
林彦清等、妻族
鄭原吉等九族既に戮せられて、門生等まで、
方氏の族として罪なわれ、
坐死する者およそ八百七十三人、
遠謫配流さるゝもの数う可からず。孝孺は
終に
聚宝門外に
磔殺せられぬ。孝孺
慨然、絶命の
詞を
為りて戮に
就く。時に年四十六、詞に曰く、
天降二乱離一兮孰知二其由一。
奸臣得レ計兮謀レ国用レ猶。
忠臣発レ憤兮血涙交流。
以レ此殉レ君兮抑又何求。
嗚呼哀哉兮庶不二我尤一。
廖廖銘は孝孺の
遺骸を拾いて
聚宝門外の山上に葬りしが、二人も
亦収められて戮せられ、同じ門人
林嘉猷は、かつて燕王父子の間に反間の
計を
為したるもの、
此亦戮せられぬ。
方氏一族
是の如くにして
殆ど絶えしが、孝孺の幼子
徳宗、時に
甫めて九歳、
寧海県の
典史魏公沢の
護匿するところとなりて死せざるを得、
後孝孺の門人
兪公允の養うところとなり、
遂に
兪氏を
冒して、子孫
繁衍し、
万暦三十七年には二百
余丁となりしこと、
松江府の儒学の
申文に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。
二子及び門人
王※[#「禾+余」、U+7A0C、395-2]等拾骸の功また
空しからず、万暦に至って墓碑
祠堂成り、
祭田及び
嘯風亭等備わり、
松江に
求忠書院成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、
豈後無く祠無くして
泯然として滅せんや。
節に死し族を
夷せらるゝの事、もと悲壮なり。
是を以て後の正学先生の墓を
過ぎる者、
愴然として感じ、
然として泣かざる
能わず。
乃ち
祭弔慷慨の詩、
累篇積章して甚だ多きを致す。
衛承芳が古風一首、
中に句あり、曰く、
古来 馬を
叩く者、
采薇 逸民を称す。
明の徳
ぞ
周に
遜らん。
乃ち其の仁を成す無からんや。
と。
劉秉忠を慕うの人
道衍は其の功を成して秉忠の如くなるを
得、
伯夷を慕うの人
方希直は其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。
王思任二律の一に句あり、曰く、
十族 魂の 暗き月に依る有り、
九原 愧の 青灯に付する無し。
と、
李維五律六首の
中に句あり、曰く、
国破れて 心 仍在り、
身危ふして 舌 尚存す。
又句あり、曰く、
気は壮なり 河山の色、
神は留まる 宇宙の身。
燕王今は燕王にあらず、
儼として
九五の
位に在り、明年を
以て改めて
永楽元年と
為さんとす。
而して建文皇帝は
如何。燕王の言に曰く、
予始め難に
遘う、
已むを得ずして兵を以て
禍を救い、誓って
奸悪を除き、宗社を安んじ、
周公の勲を
庶幾せんとす。
意わざりき少主予が心を
亮とせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。
明史には記す、帝終る所を知らずと。又記す、
或は
云う帝
地道より
出で
亡ぐと。又記す、
黔巴蜀の
間、
相伝う帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ
言を二三にするものなり。帝果して火に
赴いて死せるか、
抑又
髪を
薙いで逃れたるか。明史巻一百四十三、
牛景先の伝の後に、
忠賢奇秘録および
致身録等の事を記して、録は
蓋し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝
出亡、諸臣
庇護の事を否定するの口気あり。
然れども巻三百四、
鄭和伝には、
成祖、
恵帝の海外に
亡げたるを疑い、
之を
蹤跡せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと
記せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、
即ち永楽三年なり。永楽三年にして
猶疑うあるは何ぞや。又
給事中胡※[#「さんずい+螢」の「虫」に代えて「火」、U+6FD9、398-8]と
内侍朱祥とが、永楽中に
荒徼を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。
仙人張三を
索めんとすというを
其名とすと
雖も、
山谷に仙を
索めしむるが如き、永楽帝の
聰明勇決にして
豈真に
其事あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る
可き也。
蓋し
此時に当って、元の
余猶所在に存し、
漠北は論無く、
西陲南裔、
亦尽くは
明の
化に
順わず、
野火焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの
勢あり。且つや
天一豪傑を鉄門関辺の
碣石に生じて、カザン(Kazan)
弑されて後の大帝国を治めしむ。これを
帖木児(Timur)と為す。
西人の
所謂タメルラン也。
帖木児サマルカンドに
拠り、四方を攻略して威を
振う甚だ
大に、
明に対しては
貢を
納ると雖も、太祖の末年に
使したる
傅安を
留めて帰らしめず、
之を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に
印度を
掠めて、デリヒを取り、
波斯を襲い、
土耳古を征し、心ひそかに
支那を
窺い、四百余州を席巻して、
大元の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、
塞北に出征して、よく
胡情を知る。部下の諸将もまた
夷事に通ずる者多し。王の
南する、
幕中に
番騎を蔵す。
凡そ
此等の事に徴して、永楽帝の
塞外の状勢を
暁れるを知るべし。
若し建文帝にして走って域外に
出で、
崛強にして自大なる者に
依るあらば、外敵は中国を
覦うの
便を得て、義兵は
邦内に起る
可く、
重耳一たび逃れて
却って勢を得るが如きの事あらんとす。
是れ永楽帝の
懼れ
憂うるところたらずんばあらず。
鄭和の
艦を
泛めて遠航し、
胡※[#「さんずい+螢」の「虫」に代えて「火」、U+6FD9、401-2]の
仙を
索めて遍歴せる、密旨を
啣むところあるが如し。
而して又鄭は実に威を海外に示さんとし、
胡は実に異を幽境に
詢えるや論無し。
善く射る者は
雁影を重ならしめて而して射、
善く
謀る者は機会を復ならしめて而して謀る。一
箭二
雁を
獲ずと
雖も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の
智、
豈敢て建文を
索むるを名として
使を発するを
為さんや。
況んや又鄭和は
宦官にして、
胡※[#「さんずい+螢」の「虫」に代えて「火」、U+6FD9、400-8]と
偕にせるの
朱祥も
内侍たるをや。秘意察す可きあるなり。
鄭和は
王景弘等と共に
出て
使しぬ。和の
出づるや、帝、
袁柳荘の子の
袁忠徹をして
相せしむ、忠徹
曰く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、
舶長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、
蘇州劉家河より
海に
泛びて
福建に至り、福建
五虎門より帆を揚げて海に入る。
閲三年にして、五年九月
還る。建文帝の事、得る有る無し。
而れども
諸番国の使者
和に
随って朝見し、
各々其方物を
貢す。
和又
三仏斉国の
酋長を
俘として献ず。帝
大に
悦ぶ。
是より建文の事に関せず、
専ら国威を揚げしめんとして、再三
和を
出す。和の
使を奉ずる、前後七回、
其の間、
或は
錫蘭山(Ceylon)の王
阿烈苦奈児と戦って之を
擒にして献じ、
或は
蘇門答剌(Sumotala)の前の前の
偽王の子
蘇幹剌と戦って、
其妻子を
併せて
俘として献じ、
大に南西諸国に
明の威を揚げ、遠く
勿魯漠斯(Holumusze ペルシヤ)
麻林(Mualin? アフリカ?)
祖法児(Dsuhffar アラビヤ)
天方(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。
明史外国伝西南方のやゝ
詳なるは、鄭和に随行したる
鞏珍の著わせる
西洋番国志を採りたるに
本づく
歟という。
胡※[#「さんずい+螢」の「虫」に代えて「火」、U+6FD9、402-1]等もまた得る無くして
已みぬ。
然も
張三を
索めしこと、天下の知る所たり。
乃ち三
の
居りし所の
武当 大和山に
観を営み、
夫を
役する三十万、
貲を
費す百万、
工部侍郎郭※[#「王+追」、U+249EB、402-3]、
隆平侯張信等、事に当りしという。三
嘗て武当の
諸巌壑に
游び、
此山異日必ず
大に
興らんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。
建文帝は
如何にせしぞや。伝えて
曰く、
金川門の
守を失うや、帝自殺せんとす。
翰林院編修程済白す、
出亡したまわんには
如かじと。
少監王鉞跪いて進みて
白す。昔
高帝升遐したもう時、
遺篋あり、大難に臨まば
発くべしと
宣いぬ。謹んで
奉先殿の左に収め奉れりと。
羣臣口々に、
疾く
出すべしという。
宦者忽にして一の
紅なる
篋を
舁き
来りぬ。
視れば四囲は
固むるに鉄を以てし、二
鎖も
亦鉄を
灌ぎありて開くべくも無し。帝これを見て
大に
慟きたまい、今はとて火を
大内に放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。
此時程済は辛くも
篋を砕き得て、
篋中の物を
取出す。
出でたる物は
抑何ぞ。
釈門の人ならで
誰かは要すべき、大内などには有るべくも無き
度牒というもの三
張ありたり。度牒は人の家を
出て僧となるとき官の
可して認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には
応文の名の
録され、一には
応能の名あり、一には
応賢の名あり。
袈裟、僧帽、
鞋、
剃刀、一々
倶に備わりて、銀十
錠添わり
居ぬ。
篋の内に朱書あり、
之を読むに、応文は
鬼門より
出で、
余は
水関御溝よりして行き、薄暮にして
神楽観の
西房に会せよ、とあり。衆臣驚き
戦きて面々
相看るばかり、しばらくは
言う者も無し。やゝありて天子、数なり、と
仰[#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝の
諱は
允、
応文の法号、おのずから相応ずるが如し。且つ
明の
基を開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり
玉いたれ、
元の
順宗の
至正四年
年十七におわしける時は、疫病
大に行われて、
御父御母兄上幼き弟皆
亡せたまえるに、家貧にして
棺槨の
供だに
為したもう
能わず、
藁葬という悲しくも悲しき事を
取行わせ玉わんとて、
仲の兄と二人してみずから
遺骸を
舁きて
山麓に至りたまえるに、
絶えて又
如何ともする
能わず、仲の兄
馳還って
を取りしという談だに
遺りぬ。其の仲の兄も
亦亡せたれば、孤身
依るところなく、
遂に
皇覚寺に入りて僧と
為り、
食を得んが
為に
合に至り、
光固汝頴の諸州に
托鉢修行し、三歳の間は
草鞋竹笠、
憂き雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、
如是因、
如是縁、今また
袈裟念珠の人たらんとす。不思議というも
余りあり。程済
即ち御意に従いて
祝髪しまいらす。万乗の君主金冠を
墜し、
剃刀の冷光
翠髪を
薙ぐ。悲痛何ぞ
能く
堪えんや。
呉王の教授
揚応能は、臣が名
度牒に応ず、願わくは祝髪して
随いまつらんと
白す。
監察御史葉希賢、臣が名は
賢、
応賢たるべきこと
疑無しと
白す。
各髪を
剃り
衣を
易えて
牒を
披く。
殿に在りしもの
凡そ五六十人、
痛哭して地に倒れ、
倶に
矢って
随いまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて
麾いて去らしめたもう。
御史曾鳳韶、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、
後果して燕王の
召に
応ぜずして自殺しぬ。諸臣
大に
慟きて
漸くに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば
一舟の岸に
在るあり。
誰ぞと見るに
神楽観の道士
王昇にして、帝を見て
叩頭して万歳を
称え、
嗚呼、
来らせたまえるよ、臣昨夜の夢に
高皇帝の命を
蒙りて、
此にまいり
居たり、と申す。
乃ち舟に乗じて
太平門に至りたもう。
昇導きまいらせて
観に至れば、
恰も
已に薄暮なりけり。陸路よりして
楊応能、
葉希賢等十三人同じく至る。
合二十二人、
兵部侍郎廖平、
刑部侍郎金焦、
編修趙天泰、
検討程亨、
按察使王良、
参政蔡運、
刑部郎中梁田玉、
中書舎人梁良玉、
梁中節、
宋和、
郭節、
刑部司務馮※[#「さんずい+確のつくり」、U+3D36、405-12]、
鎮撫牛景先、
王資、
劉仲、
翰林侍詔鄭洽、
欽天監正王之臣、
太監周恕、
徐王府賓輔史彬と、
楊応能、
葉希賢、
程済となり。帝、今後はたゞ師弟を
以て称し、必ずしも主臣の礼に
拘らざるべしと
宣う。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに
於て人々に
謂って曰く、諸人の
随わんことを願うは、
固よりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の
累無くして、
膂力の
捍ぎ
衛るに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、
余は
倶に
遙に応援を
為さば、可ならんと。帝も、
然るべしと為したもう。応能、応賢の二人は
比丘と称し、程済は
道人と称して、常に左右に侍し、
馮※[#「さんずい+確のつくり」、U+3D36、406-8][#「馮※[#「さんずい+確のつくり」、U+3D36、406-8]」は底本では「憑※[#「さんずい+確のつくり」、U+3D36、406-8]」]は
馬二子と称し、
郭節は
雪菴と称し、
宋和は
雲門僧と称し、
趙天泰は
衣葛翁と称し、
王之臣は
補鍋を
以て生計を為さんとして
老補鍋と称し、
牛景先は
東湖樵夫と称し、
各々姓を
埋め名を変じて
陰陽に
扈従せんとす。帝は
南に
往きて
西平侯に
依らんとしたもう。
史彬これを危ぶみて
止め、
臣等の中の、家いさゝか足りて、
旦夕に備う
可き者の
許に
錫を
留めたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと
白す。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、
鄭洽、郭節、王資、
史彬、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、
葉、楊、牛、
馮、宋、史なり。
余は皆涙を
揮って別れまいらす。帝は道を
陽に取りて、
呉江の
黄渓の史彬の家に至りたもうに、月の
終を以て諸臣また
漸く
相聚まりて
伺候す。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王
位に
即きて、諸官員の職を
抛って
遯去りし者の官籍を削る。
呉江の
邑丞鞏徳、
蘇州府の命を以て史彬が家に至り、官を奪い、
且曰く、聞く君が家
建文皇帝をかしずくと。
彬驚いて曰く、全く
其事無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を
出で、舟に
上りて
京口に至り、
六合を過ぎ、陸路
襄陽に至り、廖平が家に至りたもうに、
其後を
訊う者ありければ、
遂に意を決して
雲南に入りたもう。
永楽元年、帝
雲南の
永嘉寺に
留まりたもう。二年、雲南を
出で、
重慶より
襄陽に
抵り、また東して、
史彬の家に至りたもう。留まりたもうこと三日、
杭州、
天台、
雁蕩の
遊をなして、又雲南に帰りたもう。
三年、重慶の
大竹善慶里に至りたもう。
此年若くは前年の事なるべし、帝
金陵の諸臣
惨死の事を聞きたまい、
然として泣きて曰く、我罪を神明に
獲たり、諸人皆我が
為にする
也と。
建文帝は今は僧
応文たり。心の
中はいざ知らず、
袈裟に
枯木の身を包みて、山水に白雲の跡を
逐い、
或は
草庵、或は
茅店に、
閑坐し漫遊したまえるが、
燕王今は皇帝なり、万乗の尊に
居りて、一身の安き無し。永楽元年には、
韃靼の兵、
遼東を犯し、
永平に
寇し、二年には
韃靼と
瓦剌(Oirats, 西部蒙古)との
相和せる為に、辺患無しと
雖も、三年には韃靼の
塞下を伺うあり。
特に
此年はタメルラン大兵を起して、道を
別失八里(Bisbalik)に取り、
甘粛よりして乱入せんとするの事あり。甘粛は
京を
距る遠しと
雖も、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察す
可し。
此事明史には其の外国伝に、朝廷、
帖木児の道を
別失八里に仮りて兵を率いて東するを聞き、
甘粛総兵官宋晟に勅して
備せしむ、とあるに過ぎず。
然れども
塞外の事には意を用いること密にして、永楽八年以後、
数々漠北を親征せしほどの帝の、
帖木児東せんとするを聞きては、
奚んぞ
能く
晏然たらん。太祖の
洪武二十八年、
傅安等を
帖木児の
許に
使せしめて、
安等猶未だ
還らず、
忽にして
此報を得、
疑虞する無きを得んや。
帖木児、父は
答剌豈(Taragai)、
元の至元二年を
以て生る。生れて
跛なりしかば、
悪む者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクは
跛の義の
波斯語なり。タメルランの称これによって起る。人となり
雄毅、兵を用い
政を
為すを
善くす。
太祖の
明の
基を開くに前後して
大に
勢を得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名
亜非利加、
欧羅巴に及ぶ。
帖木児は回教を奉ず。明の
初回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く
帖木児の領土に
帰す。
帖木児の甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで
帖木児の
許に
在りしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)
記す、タメルラン、
支那帝使を
西班牙帝使の
下に座せしめ、
吾児たり友たる
西帝の使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の
使の下に
坐せしむる
勿れと
云いしと。又同時タメルラン軍営に
事えしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使
進貢を求む、タメルラン怒って曰く、
吾復進貢せざらん、貢を求めば帝みずから
来れと。
乃ち
使を発して兵を徴し、百八十万を得、
将に発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部
波斯を征したりしが、
其冬明の太祖及び
埃及王の死を知りたりと
也。
帖木児が意を四方に用いたる知る可し。
然らば
則ち燕王の兵を起ししより
終に
位に
即くに至るの事、タメルラン
之を知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外に
在る五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドに
還りぬ。カスチリヤの
使と、支那の使とを引見したるは、
即ち
此歳にして、
其の翌年
直に馬首を東にし、争乱の
余の支那に乱入せんとしたる也。永楽帝の
此報を得るや、
宋晟に
勅して
備せしむるのみならず、備えたるあること知りぬ
可し。宋晟は好将軍なり、
平羌将軍西寧侯たり。かつて
御史ありて
晟の自ら
専にすることを
劾しけるに、帝
聴かずして曰く、人に任ずる
専ならざれば功を成す
能わず、
況んや大将は一辺を統制す、いずくんぞ
能く文法に
拘らんと。又
嘗て曰く、西北の辺務は、一に
以て
卿に
委ぬと。其の材武称許せらるゝ
是の如し。タメルランの
来らんとするや、帝また別に
虞るゝところあり。
蓋し燕の兵を挙ぐるに当って、史
之を明記せずと
雖も、
韃靼の兵を借りて
以て功を成せること、
蔚州を囲めるの時に徴して知る可し。建文
未だ死せず、従臣の
中、
道衍金忠の輩の如き策士あって、西北の
胡兵を借るあらば、天下の事知る可からざるなり。
鄭和胡※[#「さんずい+螢」の「虫」に代えて「火」、U+6FD9、411-12]の
出づるある、
徒爾ならんや。建文の
草庵の夢、永楽の
金殿の夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、
試に之を問わんと欲する也。
幸にしてタメルランは、千四百〇五年
即永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄
相下らずして
龍闘虎争するの
惨禍を
禹域の民に
被らしむること無くして
已みぬ。
四年
応文は
西平侯の家に至り、
止まること旬日、五月
庵を
白龍山に結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文を
為りて
之を
哭したもう。朝廷
帝を
索むること
密なれば、帝深く
潜みて
出でず。
此歳傅安朝に帰る。安の
胡地を
歴游する数万里、域外に
留まる
殆ど二十年、著す所
西遊勝覧詩あり、後の
好事の者の喜び読むところとなる。タメルランの
後の
哈里(Hali)
雄志無し、
使を
安に伴わしめ
方物を
貢す。六年、白龍庵
災あり、
程済[#ルビの「ていせい」は底本では「ていさい」]募り
葺く。七年、建文帝、
善慶里に至り、
襄陽に至り、
に
還る。朝廷
密に帝を
雲南貴州の間に
索む。
八年春三月、
工部尚書厳震安南に
使するの
途にして、
忽ち建文帝に雲南に
遇う。旧臣
猶錦衣にして、旧帝
既に
布衲なり。
震たゞ
恐懼して落涙
止まらざるあるのみ。帝、我を
奈何せんとするぞや、と問いたもう。震
対えて、君は
御心のまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんと
申す。人生の悲しきに堪えずや有りけん、
其夜駅亭にみずから
縊れて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。
史彬、
程亨、
郭節たま/\至る。三人留まる久しくして、帝これを
遣りたまい、今後再び
来る
勿れ、我
安居す、心づかいすなと
仰す。帝白龍庵を
舎てたもう。
此歳永楽帝は去年
丘福を
漠北に失えるを以て
北京を発して
胡地に入り、
本雅失里(Benyashili)
阿魯台(Altai)
等と戦いて勝ち、
擒狐山、
清流泉の二処に銘を
勒して還りたもう。
九年春、白龍庵
有司の
毀つところとなる。夏建文帝
浪穹鶴慶山に至り、
大喜庵を建つ。十年
楊応能卒し、
葉希賢次いで卒す。帝
因って
一弟子を
納れて
応慧と名づけたもう。十一年
甸に至りて還り、十二年易数を学びたもう。
此歳永楽帝また
塞外に
出で、
瓦剌を征したもう。皇太孫
九龍口に
於て危難に臨む。十三年建文帝
衡山に遊ばせたもう。十四年、帝
程済に命じて
従亡伝を録せしめ、みずから
叙を
為らる。十五年
史彬白龍庵に至る、
庵を見ず、
驚訝して帝を
索め、
終に
大喜庵に
遇い奉る。十一月帝
衡山に至りたもう、避くるある也。十六年、
黔に至りたもう。十七年始めて仏書を
観たもう。十八年
蛾眉に登り、十九年
粤に入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。
此歳阿魯台反す。二十年永楽帝、
阿魯台を親征す。二十一年建文帝
章台山に登り、
漢陽に遊び、
大別山に
留まりたもう。
二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月
史彬と旅店に
相遇う。
此歳阿魯台大同[#ルビの「だいどう」は底本では「たいどう」]に
寇す。去年
阿魯台を親征し、
阿魯台遁れて戦わず、師
空しく還る。今又
塞を犯す。永楽帝また親征す。敵に
遇わずして、
軍食足らざるに至る。帰路
楡木川に
次し、急に病みて崩ず。
蓋し疑う
可きある
也。永楽帝既に崩じ、建文帝
猶在り、帝と
史彬と
客舎相遇い、老実貞良の忠臣の口より、
簒国奪位の
叔父の死を聞く。
世事測る可からずと
雖も、
薙髪して
宮を脱し、
堕涙して舟に上るの時、いずくんぞ
茅店の茶後に
深仇の
冥土に入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝ
亦奇なりというべし。知らず
応文禅師の
如何の感を
為せるを。
即ち
彬とゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて
天台山に登りたもう。
仁宗の
洪元年正月、建文帝
観音大士を
潮音洞に拝し、五月山に還りたもう。
此歳仁宗また崩じて、帝を
索むること、
漸くに忘れらる。
宣宗の
宣徳元年秋八月、
従亡諸臣を
菴前に祭りたもう。
此歳漢王高煦反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、
宣徳帝の
叔父なり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父に
従って力戦す。材武みずから
負み、騎射を
善くし、
酷だ燕王に
肖たり。永楽帝の
儲を立つるに当って、
丘福、
王寧等の武臣
意を高煦に属するものあり。高煦
亦窃に戦功を
恃みて期するところあり。
然れども永楽帝
長子を立てゝ、高煦を漢王とす。高煦
怏々たり。仁宗立って
其歳崩じ、仁宗の子大位に
即くに及びて、
遂に反す。高煦の
宣徳帝に
於けるは、
猶燕王の建文帝に於けるが如きなり。
其父反して
而して帝たり、高煦父の
為せるところを学んで、陰謀至らざる無し。
然れども事発するに至って、帝親征して之を
降す。高煦
乃ち廃せられて
庶人となる。後
鎖※[#「執/糸」、U+7E36、416-8]されて
逍遙城に
内れらるゝや、
一日帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意に
出で、
一足を
伸して帝を
勾し地に
せしむ。帝
大に怒って力士に命じ、
大銅缸を
以て之を
覆わしむ。高煦
多力なりければ、
缸の重き三百
斤なりしも、
項に
缸を負いて
起つ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之を
燃す。高煦生きながらに焦熱地獄に
堕し、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反を
敢てし、身
幸にして志を得たりと雖も、
終に域外の
楡木川に死し、愛子高煦は焦熱地獄に
堕つ。
如是果、
如是報、
悲む
可く
悼む可く、驚く可く嘆ずべし。
二年冬、建文帝
永慶寺に
宿して詩を題して曰く、
杖錫 来り遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟に傍ふ。
塵心 消尽して 些子も無し、
受けず 人間の物色の侵すを。
これより帝
優游自適、居然として
一頭陀なり。九年
史彬死し、
程済猶従う。帝詩を
善くしたもう。
嘗て
賦したまえる詩の一に曰く、
牢落 西南 四十秋、
蕭々たる白髪 已に頭に盈つ。
乾坤 恨あり 家いづくにか在る。
江漢 情無し 水おのづから流る。
長楽 宮中 雲気散じ、
朝元 閣上 雨声収まる。
新蒲 細柳 年々緑に、
野老 声を呑んで 哭して未だ休まず。
又
嘗て
貴州金竺長官
司羅永菴の
壁に題したまえる七律二章の如き、皆
誦す可し。其二に曰く、
楞厳を
閲し
罷んで
磬も
敲くに
懶し。
笑って
看る
黄屋 団瓢を寄す。
南来
瘴嶺 千層
に、
北望 天門 万里
遙なり。
款段 久しく 忘る
飛鳳の
輦、
袈裟 新に
換る
龍の
袍。
百官
此日 知る
何れの
処ぞ、
唯有り
羣烏の 早晩に朝する。
建文帝
是の如くにして山青く雲白き
処に無事の余生を送り、
僊人隠士の
踪跡沓渺として知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は
深淵に
潜めども案に上るの日あり、
禽は高空に
翔くれども天に
宿するに
由無し。
忽然として
復宮に入るに及びたもう。
其事まことに意表に
出づ。帝の
同寓するところの僧、帝の詩を見て、
遂に建文帝なることを
猜知し、
其詩を
窃み、
思恩の
知州岑瑛のところに至り、
吾は建文皇帝なりという。
意蓋し今の朝廷また建文を
窘めずして厚く
之を奉ず可きをおもえるなり。
瑛はこれを聞きて
大に驚き、
尽く
同寓の僧を得て之を
京師に送り、
飛章して
以聞す。帝及び
程済も
京に至るの
数に在り。
御史僧を
糾すに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父の
陵の
旁に葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は
洪武十年に生れたまいて、
正統五年を
距る六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂に
其偽なるを断ず。僧
実は
鈞州白沙里の人、
楊応祥というものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺を
戍らしめんとす。帝
其中に
在り。
是に
於て
已むを得ずして
其実を告げたもう。御史また今更に
大に驚きて、
此事を密奏す。
正統帝の
御父宣宗皇帝は漢王
高煦の反に会いたまいて、
幸に之を降したまいたれども、
叔父の
為に兵を
動すに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。
其の
宣宗に
紹ぎたまいたる天子の、建文帝に対して
如何の感をや
為したまえる。御史の密奏を
聞召して、
即ち
宦官の建文帝に親しく
事えたる者を召して実否を探らしめたもう。
呉亮というものあり、建文帝に
事えたり。
乃ち亮をして応文の果して帝なるや
否やを探らしめたもう。亮の
応文を見るや、応文たゞちに、
汝は呉亮にあらずや、と云いたもう。亮
猶然らざるを申せば、帝
旧き事を語りたまいて、
爾亮に
非ずというや、と
仰す。亮胸
塞がりて答うる
能わず、
哭して地に伏す。建文帝の左の
御趾には
黒子ありたまいしことを思ひ
出でゝ、亮近づきて、
御趾を
摩し
視るに、
正しく其のしるし
御座したりければ、懐旧の涙
遏めあえず、
復仰ぎ
視ること
能わず、退いて
其由を申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて
西内に入れたてまつる。
程済この事を聞きて、
今日臣が事終りぬとて、雲南に帰りて
庵を
焚き、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、
老仏を以て呼ばれたまい、
寿をもて終りたまいぬという。
女仙外史に、忠臣等名山幽谷に帝を
索むるを
記する、有るが
如く無きが如く、実の如く虚の如く、
縹渺有趣の文を
為す。
永楽亭楡木川の
崩を記する、
鬼母の一剣を受くとなし、又
野史を引いて、永楽帝
楡木川に至る、野獣の突至するに
遇い、
之を
搏す、
攫されてたゞ
半躯を
剰すのみ、
して
而して匠を殺す、
其迹を
泯滅する
所以なりと。野獣か、鬼母か、
吾之を知らず。
西人或は帝
胡人の殺すところとなると為す。
然らば
則ち帝
丘福を
尤めて、而して福と
其死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦
危きを
冒す、
楡木川の崩、
蓋し
明史諱みて書せざるある也。
数か、数か。
紅篋の
度牒、
袈裟、
剃刀、
噫又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、
御溝の
片舟、
噫又何ぞ奇なるや。
吾嘗て
明史を読みて、
其奇に驚き、建文帝と共に
所謂数なりの語を発せんと欲す。
後又
道衍の伝を読む。
中に記して曰く、道衍
永楽十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、
僧溥洽というもの
繋がるゝこと久し。願わくは之を
赦したまえと。
溥洽は建文帝の
主録僧なり。初め帝の
南京に入るや、建文帝僧となりて
遁れ去り、溥洽
状を知ると言うものあり、
或は溥洽の所に
匿すと
云うあり。帝
乃ち他事を以て溥洽を
禁めて、
而して
給事中胡※[#「さんずい+螢」の「虫」に代えて「火」、U+6FD9、423-8]等に命じて
く建文帝を物色せしむ。
之を久しくして得ず。溥洽
坐して
繋がるゝこと十余年、
是に至りて帝道衍の言を
以て命じて之を
出さしむ。衍
頓首して謝し、
尋で卒すと。
篋中の朱書、道士の霊夢、
王鉞の言、
呉亮の死と、道衍の
請と、溥洽の
黙と、
嗚呼、数たると数たらざると、道衍
蓋し知ることあらん。
而して
楡木川の
客死、
高煦の
焦死、数たると数たらざるとは、道衍
袁の
輩の
固より知らざるところにして、たゞ天
之を知ることあらん。