貧乏

幸田露伴




その一


「アアつまらねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でもくらってやれか。オイ、おとま、一しょうばかり取って来な。コウ※(小書き片仮名ト、1-6-81)、もう煮奴にやっこも悪くねえ時候だ、刷毛はけついでに豆腐とうふでもたんと買え、田圃たんぼの朝というつもりで堪忍かんにんをしておいてやらあ。ナンデエ、そんなつらあすることはねえ、おんなぷりが下がらあな。
「おふざけでないよ、ているかとおもえばめていて、出しぬけにとこん中からお酒を買えたあ何のこったえ。そして何時だと思っておいでだ、もう九時だよ、日があたってるのに寝ているものがあるもんかね。チョッ不景気な、病人くさいよ、眼がさめたら飛び起きるがいいわさ。ヨウ、起きておしまいてえば。
あだあ、かあちゃん、お眼覚めざが無いじゃあぼうは厭あだあ。アハハハハ。
「ツ、いい虫だっちゃあない、あきれっちまうよ。さあさあおおきッたらお起きナ、起きないと転がし出すよ。
と夜具をりにかかる女房にょうぼうは、身幹せいの少し高過ぎると、眼のまわりの薄黒うすぐろく顔の色一体にえぬとは難なれど、面長おもながにて眼鼻立めはなだちあしからず、つくり立てなばいきに見ゆべき三十前のまんざらでなき女なり。
 今まで機嫌きげんよかりし亭主ていしゅ忽然こつぜんとして腹立声に、
「よせエ、この阿魔あまあ、おれが勝手だい。
いながらすそかたに立寄れる女をつけんと、掻巻かいまきながらに足をばたばたさす。女房はおどろきてソッとそのまま立離たちはなれながら、
「オヤおっかない狂人きちがいだ。
と別に腹も立てず、少し物を考う。
「あたりめえよ、狂人にでもならなくって詰るもんか。アハハハハ、ぜにが無い時あ狂人が洒落しゃれてらあナ。
「おあしが有ったらエ。
「フン、有情漢いろおとこよ、オイ悪かあ無かったろう。
「いやだネ知らないよ。
「コン畜生ちくしょうめ、れやがったくせに、フフフフフ。
「お前少しどうかおしかえ、変だよ。
「何が。
「調子が。
「飛んだお師匠様ししょうさんだ、笑わせやがる。ハハハハ、まあ、いいから買って来な、一人飲みあしめえし。
「だって、無いものを。
「何だと。
「貸はしないし、ちっとも無いんだものを。
智慧ちえがか。
「いいえさ。
「べらぼうめえ、えものは無えやナ、おれの脱穀ぬけがらを持って行きゃ五六十銭はよこすだろう。
「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでももぐっているのかい。
「ハハハハ、お手の筋だ。
「だって、あとはどうするエ。一張羅いっちょうらを無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。
「案じなさんな、銭があらあ。
みょうだねえ、無いから帯や衣類きものを飲もうというのに、その後になって何が有るエ。
「しみッたれるなイ、裸百貫はだかひゃっかん一匹いっぴきだ。
「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、隣家おとなりが起きると内儀おかみさんの内職の邪魔じゃまになるわネ。そんならいいよ買って来るから。
と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉みそこしを手にし、外へ出でんとす。
「オイオイ此品これでも持って行かねえでどうするつもりだ。
と呼びかけて亭主のいうに、ちょっとりかえってうれしそうに莞爾にっこり笑い、
「いいよ、だまって待っておいで。
 たちまち姿すがたは見えずなって、四五けん先の鍛冶屋かじやつちの音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、
「ハテナ、近所のやつに貸た銭でもあるかしらん。知人なじみも無さそうだし、貸す風でもねえが。
独語ひとりごつところへ、うッそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚うすぎたな衣服なり髪垢ふけだらけの頭したるが、裏口からのぞきこみながら、おつつぶれた声でぶ。
「大将、風邪かぜでも引かしッたか。
 両手で頬杖ほおづえしながら匍匐臥はらばいねにまだふしたる主人あるじ懶惰ぶしょうにも眼ばかり動かして※(小書き片仮名ト、1-6-81)見しが、身体からだはなおすこしも動かさず、
日瓢にっぴょうさんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。
とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。
「ハハハ、運を寝て待つつもりかネ、上ってもご馳走ちそうは無さそうだ。
ちげえねえ、煙草たばこの火ぐらいなもんだ。
「ハハハ、これではおたがいに浮ばれない。時に明日あすの晩からは柳原やなぎはらの例のところに○州屋まるしゅうや乾分こぶんの、ええと、だれとやらの手で始まるそうだ、菓子屋のげん昨日きのうそう聞いたが一緒いっしょに行きなさらぬか。
かれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。
「そうさ、お互に少しあたさんにならねばならん。
「誰だってそうおもわねえものはえんだ、御祖師様おそしさまでも頼みなせえ。
「からかいなさるな、ばちが当っているほうだ。
「ハハハ、からかいなさんなと云ってもらいてえ、どうも言語ものいい叮嚀ていねいうちがいい。
「ガリスのはてと知れるかノ。
「オヤ、気障きざ言語ふちょうを知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊ぶちこわしだあナ、チョタのガリスのおんはてとは誰が眼にも見えなくってどうするものか。
「チョタとは何だ、田舎漢いなかもののことかネ。
「ムム。
忌々いまいましい、そう思わるるがいやだによって、大分気をつけているが地金じがねはとかく出たがるものだナ。
「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気いろけを出したもんだ。
「イヤれば居るだけ笑われる、明日あす来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。
と立帰り行くを見送って、
「おえねえ頓痴奇とんちきだ、坊主ぼうずけえりの田舎漢いなかものの癖に相場そうば天賽てんさいも気がつええ、あれでもやっぱり取られるつもりじゃあねえうち可笑おかしい。ハハハ、いいごうざらしだ。
一人ひとり笑うところへ、女房おとまぶらりッと帰り来る。見れば酒も持たず豆腐も持たず。
「オイどうしたんだ。
「どうもしないよ。
 やはり寝ながらじろりッと見て、
「気のぬけたラムネのようにおつうすますナ、出て行った用はどうしたんだ。
「アイ忘れたよ。
「ふざけやがるなこのばばあ
邪見じゃけんな口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆だのと、れっきとした内室おかみさんをつかめえてお慮外りょがいだよ、はげちょろじじい蹙足爺いざりじじいめ。
と少しあまえて言う。男は年も三十一二、頭髪かみうるしのごとく真黒まっくろにて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めにりたるままなるが人にすぐれて見きなり。されば兀ちょろ爺とののしりたるはわざとになるべく、蹙足爺いざりじじいとはいつまでも起き出でぬ故なるべし。男は罵られてもはげしくはおこらず、かえって茶にした風にて、
「やかましいやい、ほんとに酒はどうしたんでエ。
「こうしてから飲むがいいサ。
突然だしぬけに夜具を引剥ひつぱぐ。夫婦ふうふの間とはいえ男はさすが狼狙うろたえて、女房の笑うに我からも噴飯ふきだしながら衣類きものを着る時、酒屋の丁稚でっち
「ヘイお内室かみさんここへ置きます、お豆腐は流しへ置きますよ。
徳利とくりと味噌漉を置いて行くは、此家ここ内儀かみさんにいいつけられたるなるべし。
「さあ、お前はおぶうへいっておいでよ、その間にチャンとしておくから。
 手拭てぬぐいと二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取った次手ついでに取ったほうきをもう持っている。
「ありがてえ、昔時むかしからテキパキしたやつだったッケ、イヨ嚊大明神かかあだいみょうじん
と小声ではやしてあとでチョイと舌を出す。
「シトヲ、馬鹿ばかにするにもほどがあるよ。
 大明神まゆしわめてちょいとにらんで、思い切ってひどく帚で足をぎたまう。
「こんべらぼうめ。
 男は笑ってしかりながら出で行く。

その二


 浴後ゆあがりの顔色冴々さえざえしく、どこに貧乏の苦があるかという容態ありさまにて男は帰り来る。一体にがばしりて眼尻めじりにたるみ無く、一の字口の少しおおきなるもきっとしまりたるにかえって男らしく、娘にはいかがなれど浮世うきよ鹹味からみめて来た女にはかるべきところある肌合はだあいなリ。あたりを片付け鉄瓶てつびんに湯もたぎらせ、火鉢ひばちも拭いてしまいたる女房おとま、片膝かたひざ立てながらあらい歯の黄楊つげくし邪見じゃけん頸足えりあしのそそけをでている。両袖りょうそでまくれてさすがに肉付にくづきの悪からぬ二のうでまで見ゆ。髪はこの手合てあいにおさだまりのようなお手製の櫛巻なれど、身だしなみを捨てぬに、小官吏こやくにん細君さいくんなどが四銭の丸髷まるまげ二十日はつかたせたるよりははるかに見よげなるも、どこかに一時はみがたてたる光の残れるがたすけをなせるなるべし。亭主の帰り来りしを見て急に立上り、
「さあ、ここへおいで。
あたう。男は無言で坐り込み、筒湯呑つつゆのみに湯をついで一杯いっぱい飲む。夜食膳やしょくぜんと云いならわしたいやしいかたの膳が出て来る。上には飯茶碗めしぢゃわんが二つ、箸箱はしばこは一つ、猪口ちょくが二ツとこうのものばちは一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字のかれた一升徳利いっしょうどくりは火鉢の横に侍坐じざせしめられ、駕籠屋かごやの腕と云っては時代ちがいの見立となれど、文身ほりものの様に雲竜うんりゅうなどの模様もようがつぶつぶで記された型絵の燗徳利かんどくりは女の左の手に、いずれ内部なか磁器せとものぐすりのかかっていようという薄鍋うすなべもろげな鉄線耳はりがねみみを右の手につままれて出で来る。この段取の間、男は背後うしろ戸棚とだな※(「馮/几」、第4水準2-3-20)りながらぽかりぽかり煙草たばこをふかしながら、あごのあたりの飛毛とびげを人さし指の先へちょとはいをつけては、いたずら半分にいている。女が鉄瓶を小さい方の五徳ごとくへ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶のふたを取る、ぐいと雲竜をしずませる、あやうく鉄瓶の口へ顔を出した湯がおどり出しもし得ず引退ひっこんだり出たりしているに鍋は火にかけられる。
「下の抽斗ひきだし鰹節かつぶしがあるから。
と女は云いながら立って台所へ出でしが、つと外へ行く。
「チョツ、けといやあがるのか。
と不足らしい顔つきして女を見送りしが、何が眼につきしや急にショゲて黙然だんまりになって抽斗をけ、小刀こがたな鰹節ふしとを取り出したる男は、鰹節ふし亀節かめぶしというちさきものなるを見て、
「ケチびんなものを買っときあがる。
独言ひとりごとしつつそこらを見廻して、やがて膳のふち鰹節ふしをあてがって削く。
 女はたちまち帰り来りしが、前掛まえかけの下より現われて膳にのぼせし小鉢こばちには蜜漬みつづけ辣薑らっきょう少しられて、その臭気においはげしくわたれり。男はこれに構わず、膳の上に散りしかいたる鰹節を鍋のうちつまんで猪口ちょくを手にす。ぐ、む。
「いいかエ。
「素敵だッ、やんねえ。
 女も手酌てじゃくで、きゅうとって、その後徳利を膳に置く。男は愉快気ゆかいげに重ねて、
「ああ、いい酒だ、サルチルサンであめびんづめとは訳が違う。
「ほめてでももらわなくちゃあうまらないヨ、五十五銭というんだもの。
「何でも高くなりやあがる、ありがてえ世界せけえだ、月に百両じゃあ食えねえようになるんでなくッちゃあ面白くねえ。
「そりゃあどういう理屈りくつだネ。
一揆いっきがはじまりゃあめたもんだ。
「下らないことをお言いで無い、そうすりゃあおまえはどうするというんだエ。
「構うことあ無えやナ、岩崎いわさきでも三井みついでもたたこわして酒の下物さかなにしてくれらあ。
いもしない中からひどいくだだねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。
「馬鹿あかせ、三銭のうらみ執念しゅうねんをひく亡者もうじゃ女房かかあじゃあてめえだってちと役不足だろうじゃあえか、ハハハハ。
「そうさネエ、まあ朝酒は呑ましてやられないネ。
「ハハハ、いいことを云やあがる、そう云わずとも恩にはらあナ。
「何をエ。
「今飲んでる酒をヨ。
「なぜサ。
「なぜでもいいわい、ただ美味うめえということよ。
「オヤ、おハムキかエ、馬鹿らしい。
「そうじゃあえが忘れねえと云うんだい、こうせんじつめた揚句あげくてめえの身の皮を飲んでるのだもの。
「弱いことをお云いだねエ、がらに無いヨ。
「だってこうなってからというものア運とは云いながらることも為ることもどじをんで、うめえ酒一つ飲ませようじゃあ無し面白い目一つ見せようじゃあ無し、おまけに先月あらいざらい何もかも無くしてしまってからあ、寒蛬こおろぎの悪くきやあがるのに、よじりもじりのその絞衣しぼり一つにしたッぱなしで、小遣銭こづけえぜにも置いて行かずに昨夜ゆうべまで六日むいか七日なのか帰りゃあせず、売るものが留守るすろうはずは無し、どうしているか知らねえが、それでも帰るに若干銭なにがしつかんでうちえるならまだしもというところを、銭に縁のあるものア欠片かけらも持たず空腹すきっぱらアかかえて、オイ飯を食わしてくれろッてえんで帰っての今朝けさ自暴やけ一杯いっぺえ引掛ひっかけようと云やあ、大方男児おとこは外へも出るに風帯ふうてえが無くっちゃあと云うところからのことでもあろうが、プッツリとばかりも文句無しで自己おのが締めた帯をはずして来ての正宗まさむねにゃあ、さすがのおれもえぐられたア。今ちょいと外面おもててめえが立って出て行った背影うしろかげをふと見りゃあ、あばれた生活くらしをしているたアが眼にも見えてた繻子しゅすの帯、燧寸マッチの箱のようなこんな家に居るにゃあ似合わねえが過日こねえだまでぜいをやってた名残なごりを見せて、今の今まで締めてたのが無くなっているうしろつきのさみしさが、いやあに眼にみて、馬鹿馬鹿しいがホロリッとなったア。世帯しょたいもこれで幾度いくたびか持ってはこわし持っては毀し、女房かかあ七度ななたび持って七度出したが、こんな酒はまだ呑まなかった。
「何だネエおまえは、朝ッぱらから老実じみッくさいことをお言いだネ。
「ハハハ、そうよ、おつ後生気ごしょうぎになったもんだ。寿命じゅみょうきる前にゃあ気が弱くなるというが、おらアひょっとすると死際しにぎわが近くなったかしらん。これで死んだ日にゃあいい意気地無いくじなしだ。
縁起えんぎの悪いことお云いでないよ、面白くもない。そんなことを云っているより勢いよくサッと飲んで、そしていい考案かんがえでも出してくれなくちゃあ困るよ。
「いいサ、飲むことはこの通りお達者だ、案じなさんな。児をてる日になりゃア金の茶釜ちゃがまも出て来るてえのが天運だ、大丈夫だいじょうぶ、銭が無くって滅入めいってしまうような伯父おじさんじゃあねえわ。
「じゃあなんかいい見込みこみでも立ってるのかエ。
「ナアニ、ちっとも立ってねえのヨ。
「どうしたらそういい気になっていられるだろうネ。仕様が無いネエ、どうかしておくれで無くっちゃあわたしももうしようもようも有りゃあしないヨ。
「ナアニ、いよいよ仕様が無けりゃあ、またちょいと書く法もあらア。
「どうおしなのだエ。
強盗ごうとうと出かけるんだ。
智慧ちえが無いねエ、ホホホホ。詰らない洒落しゃればかり云わずと真実ほんとにサ。
真実ほんと遣付やっつけようかと思ってるんだ。オイ、三年のこいめるかナッ、ハハハ。
冗談じょうだんを云わずと真誠ほんとに、これからさきをどうするんだかはなして安心さしておくれなネエ。茶かされるナア腹が立つよ、ひとが心配しているのに。
「心配はしゃアナ。心配てえものは智慧袋ちえぶくろちぢみ目のしわだとヨ、何にもなりゃあしねえわ。
「だって女の気じゃあいくらわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもんなしとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。
「ご道理もっとも千万せんばんちげえねえ、これから売るものアてめえ身体からだより他にゃあえんだ。おれの身体でも売れるといいんだが、野郎と来ちゃあ政府おかみへでも売りつけるより仕様がねえ、ところでおれ様と来ちゃあ政府おかみでも買い切れめえじゃあねえか。川岸かし女郎じょろうになる気で台湾たいわんへ行くのアいいけれど、前借ぜんしゃく若干銭なにがしか取れるというような洒落た訳にゃあ行かずヨ、どうも我ながら愛想あいその尽きる仕義だ。
「そんな事をいってどうするんだエ。
「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体はだかになって寝ているばかりヨ。塵埃ほこりたかる時分にゃあ掘出しのある半可通はんかつうが、時代のついてるところが有りがてえなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁はくちょう軽くなったナ。
「ほんとに人を馬鹿にしてるね。わたしを何だとおもっておいでのだエ、こっちは馬鹿なら馬鹿なりに気をんでるのに、何もかも茶にしてましているたああんまり人をそでにするというものじゃあ無いかエ。
と少しつんとして、じれったそうにグイと飲む。酒の廻りしためおもて紅色くれないさしたるが、一体みにくからぬ上年齢としばえ葉桜はざくらにおい無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻さきより上りて婀娜あだッぽいいい年増としまなり。
「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんならほんの事を云おうか、じつはナ。
「アアどうするッてエの。
「実はナ。ほんとうの事を云やあ、ナ。
「アアどうするッてエのだッていうのにサ。
「エエくそッ、忌々いめえましいが云ってしまおう。実は過日こねえだうちを出てから、もうとても今じゃあ真当ほんとの事アやってるがねえからてめえに算段させたんで、合百ごうひゃくも遣りゃあ天骰子てんさいもやる、花も引きゃあ樗蒲一ちょぼいちもやる、抜目ぬけめなくチーハも買う富籤とみも買う。遣らねえものは燧木マッチ賭博かけ椋鳥むくどりを引っかける事ばかり。そのうちにゃあ勝ちもした負けもした、いい時ゃ三百四百もにぎったが半日たあ続かねえでトドのつまりが、残ったものア空財布からさいふの中に富籤とみふだ一枚いちめえだ。こいつあ明日あしたになりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益むだにゃあきまってるが明日あした行って見ねえ中は楽みがある、これよりほかにあては無えんだ。オイ軽蔑さげすむめえぜ、馬鹿なものを買ったのもせんじつめりゃあ、相場をするのとちげえはねえのだ、当らねえにはまらねえわサ。もうこうなっちゃあ智慧も何も、有ったところで役に立たねえ、有体ありていに白状すりゃこんなもんだ。
 女房にょうぼまゆしわめながら、
「それもそうだろうがおまいそうして当らない時はどうするつもりだエ。
「ハハハ、どうもならねえそう聞かれちゃあ。生きてる中はどうかこうか食わずにゃあいねえものだ、構うものかイ。だから裸で寝ていようというんだ。愛想あいそが尽きたか、可愛想かわいそうな。厭気いやきがさしたらこの野郎に早く見切をつけやあナ、惜いもんだが別れてやらあ。てめえ未来このさきに持っている果報の邪魔じゃまはおれはしねえ、つらいと汝てめえがおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。
とさすが快活きさくな男も少し鼻声になりながらなおよいまぎらしていきおいよく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行しゅぎょうを積んだものか泣きもせず、ジロリと男を見たるばかり、怒った様子にもあらず、ただ真面目まじめになりたるのみ。
 男なお語をつづけて、
「それともこう云っちゃあ少しウヌだが、ひんすりゃどんになったように自分でせえおもうこのおれを捨ててくれねえけりゃア、ほんこったあ、明日の富に当らねえが最期さいごおらあ強盗になろうとももうこれからア栄華えいがをさせらあ。チイッと覚悟かくごをし直してこれからの世をわたって行きゃあ、二度とてめえに銭金の苦労はさせねえ。まだこの世界せけえ金銭かねが落ちてる、大層くさくどこへ行っても金金とぬかしゃあがってピリついてるが、おれの眼で見りゃあいんくそより金はたくさんにころがってらア。ただいんの屎を拾う気になって手を出しゃあ攫取つかみどりだ、ほんこったあ、馬鹿な世界だ。
「訳がわからないよおまえの云うことア、やっぱり強盗におなりだというのかエ。
「馬鹿ア云え、強盗になりゃアどうなるとおもう。
「赤い衣服きものを着る結局おちおまえのトドの望なのかエ、お茶人過ぎるじゃあ無いか。
「赤い衣服きもの善人ぜんにんだからせられるんだ。そんなケチなのとアちと違うんだが、おれが強盗になりゃてめえはどうする。
「厭だよ、そんな下らないことを云っては、お隣家となりだって聞いてるヨ。
「隣家で聞いたって巡査じゅんさが聞いたって、談話はなしだイ、構うもんか、オイどうする。
「おふざけで無いよ馬鹿馬鹿しい。
と今は一切受付けぬ語気。男はこの様子を見て四方あたりをきっと見廻みまわしながら、火鉢越に女の顔近く我顔を出して、極めて低き声ひそひそと、
「そんならてめえ、おれが一昨日おととい盗賊ぬすみをして来たんならどうするつもりだ。
四隣あたりへ気を兼ねながら耳語ささやき告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼になみだをにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、
きんさんおまい情無い、わたしにそんなことを聞かなくちゃアならない事をしておくれかエ。エ、エ、エ。
「ム、ム、マアいいやナ、してもしねえでも。ただてめえの返辞が聞きてえのだ。
「どうしてもおまい聞きたいのかエ。
 女のくちびるかたく結ばれ、その眼は重々しく静かにすわり、その姿勢なりはきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気にみたされたり。男はしおれきったる様子になりて、
「マア、聞きてえとおもってもらおう。おらあおめえの運は汝にまかせてえ、おらが横車を云おう気は持たねえ、正直にかくさず云ってくれ。
 女はグイとまた仰飲あおって、冷然として云い放った。
「何が何でもわたしゃアいいよ、首になってもならぼうわね。
 面は火のように、眼は耀かがやくように見えながら涙はぽろりとひざに落ちたり。男はひじのばしてそのくびにかけ、我を忘れたるごとくいだめつ、
「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談じょうだんだあナ。べらぼうめえ、貧乏したってだれが馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日の富籤とみに当りてえナ、千両取れりゃあ気息いきがつけらあ。エエ酒がえか、さあ今度アこれを売って来い。構うもんかイ、構うもんかイ、当らあ当らあきっと当らあ。
とヒラリと素裸すはだかになって、寝衣ねまきに着かえてしまって、

  やぼならこうした うきめはせまじ、

無間むげんかねのめりやすを、どこで聞きかじってか中音にうなり出す。
(明治三十年十月)





底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
※閉じ括弧なしはすべて、底本通りです。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
2011年11月1日修正
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