木理美しき
槻胴、縁にはわざと
赤樫を用いたる岩畳作りの
長火鉢に
対いて話し
敵もなくただ一人、少しは
淋しそうに
坐り居る三十前後の女、男のように立派な
眉をいつ
掃いしか
剃ったる
痕の青々と、見る眼も
覚むべき雨後の山の色をとどめて
翠の
匂いひとしお床しく、鼻筋つんと通り
眼尻キリリと上り、洗い髪をぐるぐると
酷く
丸めて
引裂紙をあしらいに
一本簪でぐいと
留めを刺した色気なしの様はつくれど、憎いほど
烏黒にて艶ある髪の毛の一
ト綜二綜
後れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかかれる趣きは、
年増嫌いでも
褒めずにはおかれまじき風体、わがものならば着せてやりたい好みのあるにと
好色漢が随分頼まれもせぬ
詮議を
蔭ではすべきに、さりとは
外見を捨てて堅義を自慢にした身の
装り方、柄の
選択こそ野暮ならね高が二子の綿入れに
繻子襟かけたを着てどこに
紅くさいところもなく、引っ掛けた
ねんねこばかりは
往時何なりしやら
疎い
縞の糸織なれど、これとて幾たびか水を潜って来た
奴なるべし。
今しも台所にては
下婢が
器物洗う音ばかりして家内静かに、ほかには人ある様子もなく、何心なくいたずらに黒文字を
舌端で
嬲り
躍らせなどしていし女、ぷつりとそれを
噛み切ってぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火
体よく
埋け、
芋籠より
小巾とり
出し、銀ほど光れる
長五徳を
磨き
おとしを
拭き
銅壺の
蓋まで奇麗にして、さて
南部霰地の
大鉄瓶をちゃんとかけし後、石尊様詣りのついでに箱根へ寄って来しものが
姉御へ
御土産とくれたらしき寄木細工の
小繊麗なる
煙草箱を、右の手に持った
鼈甲管の
煙管で引き寄せ、
長閑に一服吸うて線香の煙るように
緩々と煙りを
噴き
出し、思わず知らず
太息吐いて、多分は
良人の手に入るであろうが憎い
のっそりめが
対うへ
廻り、去年使うてやった恩も忘れ上人様に
胡麻摺り込んで、たってこん度の仕事をしょうと身の分も知らずに願いを上げたとやら、
清吉の話しでは上人様に
依怙贔屓のお
情はあっても、名さえ響かぬのっそりに
大切の仕事を任せらるることは檀家方の手前寄進者方の手前もむつかしかろうなれば、大丈夫
此方に
命けらるるにきまったこと、よしまたのっそりに命けらるればとて
彼奴にできる仕事でもなく、彼奴の下に立って働く者もあるまいなれば見事でかし損ずるは眼に見えたこととのよしなれど、早く
良人がいよいよ御用
命かったと笑い顔して帰って来られればよい、類の少い仕事だけに是非して見たい受け合って見たい、欲徳はどうでも
関わぬ、
谷中感応寺の五重塔は
川越の
源太が作りおった、ああよくでかした感心なと云われて見たいと面白がって、いつになく
職業に気のはずみを打って居らるるに、もしこの仕事を
他に
奪られたらどのように腹を立てらるるか
肝癪を起さるるか知れず、それも道理であって見れば
傍から
妾の慰めようもないわけ、ああなんにせよめでとう早く帰って来られればよいと、口には出さねど女房気質、今朝
背面からわが縫いし羽織打ち掛け着せて出したる男の上を気遣うところへ、表の
骨太格子手あらく
開けて、姉御、兄貴は、なに感応寺へ、仕方がない、それでは姉御に、済みませんがお頼み申します、つい
昨晩酔まして、と後は云わず異な手つきをして話せば、
眉頭に
皺をよせて笑いながら、仕方のないもないもの、少し締まるがよい、と云い云い立って幾らかの金を渡せば、それをもって
門口に出で何やらくどくど押し問答せし末こなたに来たりて、
拳骨で額を抑え、どうも済みませんでした、ありがとうござりまする、と無骨な礼をしたるもおかし。
火は別にとらぬから
此方へ寄るがよい、と云いながら重げに鉄瓶を取り下して、
属輩にも如才なく
愛嬌を
汲んでやる桜湯一杯、心に花のある
待遇は口に言葉の
仇繁きより懐かしきに、悪い
請求をさえすらりと
聴いてくれし上、胸にわだかまりなくさっぱりと
平日のごとく
仕做されては、清吉かえって
心羞かしく、どうやら
魂魄の底の方がむず
痒いように覚えられ、
茶碗取る手もおずおずとして進みかぬるばかり、済みませぬという
辞誼を二度ほど繰り返せし後、ようやく
乾ききったる舌を
湿す間もあらせず、今ごろの帰りとはあまり可愛がられ過ぎたの、ホホ、遊ぶはよけれど
職業の間を欠いて
母親に心配さするようでは、男振りが悪いではないか清吉、
汝はこのごろ
仲町の甲州屋様の御本宅の仕事が済むとすぐに根岸の御別荘のお茶席の方へ廻らせられて居るではないか、
良人のも遊ぶは随分好きで汝たちの先に立って騒ぐは毎々なれど、職業を
粗略にするは大の嫌い、今もし汝の顔でも見たらばまた例の青筋を立つるに
定まって居るを知らぬでもあるまいに、さあ少し遅くはなったれど母親の持病が起ったとか何とか方便は幾らでもつくべし、早う根岸へ行くがよい、
五三様もわかった人なれば一日をふてて
怠惰ぬに免じて、
見透かしても旦那の前は
庇護うてくるるであろう、おお朝飯がまだらしい、三や何でもよいほどに
御膳を
其方へこしらえよ、湯豆腐に
蛤鍋とは行かぬが新漬に煮豆でも構わぬわのう、二三杯かっこんですぐと仕事に走りゃれ走りゃれ、ホホ
睡くても
昨夜をおもえば
堪忍のなろうに精を惜しむな
辛防せよ、よいは
[#「よいは」はママ]弁当も松に持たせてやるわ、と
苦くはなけれど
効験ある薬の行きとどいた意見に、汗を出して身の不始末を
慚ずる正直者の清吉。
姉御、では
御厄介になってすぐに仕事に突っ走ります、と
鷲掴みにした
手拭で額
拭き拭き勝手の方に立ったかとおもえば、もうざらざらざらっと口の中へ
打ち込むごとく茶漬飯五六杯、早くも食うてしまって出て来たり、さようなら行ってまいります、と肩ぐるみに頭をついと一ツ
下げて
煙草管を収め、
壺屋の
煙草入三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子
気質、
草履つっかけ門口出づる、途端に今まで黙っていたりし女は急に呼びとめて、この二三日に
のっそりめに
逢うたか、と石から飛んで火の出しごとく声を
迸らし問いかくれば、清吉ふりむいて、逢いました逢いました、しかも昨日御殿坂で例ののっそりがひとしおのっそりと、往生した
鶏のようにぐたりと首を
垂れながら
歩行いて居るを見かけましたが、今度こっちの
棟梁の
対岸に立ってのっそりの癖に及びもない望みをかけ、大丈夫ではあるものの幾らか棟梁にも姉御にも心配をさせるその
面が憎くって面が憎くって
堪りませねば、やいのっそりめと頭から毒を浴びせてくれましたに、あいつのことゆえ気がつかず、やいのっそりめ、のっそりめと三度めには傍へ行って大声で怒鳴ってやりましたればようやくびっくりして
梟に似た眼で
我の顔を見つめ、ああ清吉あーにーいかと
寝惚声の
挨拶、やい、
汝は大分好い
男児になったの、
紺屋の干場へ夢にでも
上ったか大層高いものを立てたがって感応寺の和尚様に胡麻を
摺り込むという話しだが、それは正気の沙汰か寝惚けてかと
冷語をまっ向からやったところ、ハハハ姉御、
愚鈍い奴というものは正直ではありませんか、なんと返事をするかとおもえば、
我も随分骨を折って胡麻は摺って居るが、源太親方を対岸に立てて居るのでどうも胡麻が摺りづらくて困る、親方がのっそり
汝やって見ろよと譲ってくれればいいけれどものうとの馬鹿に虫のいい答え、ハハハ
憶い出しても、心配そうに大真面目くさく云ったその面がおかしくて堪りませぬ、あまりおかしいので憎っ気もなくなり、
箆棒めと云い捨てに別れましたが。それぎりか。へい。そうかえ、さあ遅くなる、関わずに行くがよい。さようならと清吉は
自己が仕事におもむきける、後はひとりで物思い、
戸外では無心の
児童たちが
独楽戦の遊びに声々
喧しく、一人殺しじゃ二人殺しじゃ、
醜態を見よ
讐をとったぞと
号きちらす。おもえばこれも順々
競争の世の
状なり。
世に栄え富める人々は初霜月の
更衣も何の
苦慮なく、
紬に糸織に
自己が好き好きの
衣着て寒さに向う貧者の心配も知らず、やれ炉開きじゃ、やれ口切りじゃ、それに間に合うよう是非とも取り急いで茶室
成就よ待合の
庇廂繕えよ、
夜半のむら
時雨も一服やりながらでのうては面白く窓
撲つ音を聞きがたしとの
贅沢いうて、
木枯凄まじく鐘の
音氷るようなって来る辛き冬をば
愉快いものかなんぞに心得らるれど、その茶室の
床板削りに
鉋礪ぐ手の冷えわたり、その庇廂の
大和がき結いに吹きさらされて
疝癪も起すことある職人
風情は、どれほどの悪い
業を前の世になしおきて、同じ時候に
他とは違い悩め
困しませらるるものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才に
疎く心好き
吾夫、腕は源太親方さえ去年いろいろ世話して下されし
節に、立派なものじゃと
賞められしほど
確実なれど、
寛濶の
気質ゆえに仕事も取り
脱りがちで、好いことはいつも
他に
奪られ年中嬉しからぬ
生活かたに日を送り月を迎うる味気なさ、
膝頭の抜けたを辛くも埋め
綴[#ルビの「つづ」は底本では「つつ」]った
股引ばかりわが夫にはかせおくこと、
婦女の身としては
他人の見る眼も羞ずかしけれど、何にもかも貧がさする不如意に是非のなく、いま縫う
猪之が綿入れも洗い
曝した
松坂縞、丹誠一つで着させても着させ
栄えなきばかりでなく見ともないほど針目がち、それを
先刻は
頑是ない幼な心といいながら、母様
其衣は誰がのじゃ、小さいからは
我の
衣服か、嬉しいのうと
悦んでそのまま
戸外へ駈け
出し、珍らしゅう暖かい天気に浮かれて
小竿持ち、空に飛び交う
赤蜻を
撲いて取ろうとどこの町まで行ったやら、ああ考え込めば
裁縫も厭気になって来る、せめて腕の半分も吾夫の気心が働いてくれたならばこうも貧乏はしまいに、
技倆はあっても宝の持ち腐れの
俗諺の通り、いつその
手腕の
顕われて万人の眼に止まるということの
目的もない、たたき大工
穴鑿り大工、
のっそりという
忌々しい
諢名さえ負わせられて
同業中にも
軽しめらるる
歯痒さ恨めしさ、
蔭でやきもきと
妾が思うには似ず平気なが憎らしいほどなりしが、今度はまたどうしたことか感応寺に五重塔の建つということ聞くや否や、急にむらむらとその仕事を是非する気になって、恩のある親方様が望まるるをも関わず胴欲に、このような身代の身に引き受きょうとは、ちとえら過ぎると連れ添う
妾でさえ思うものを、他人はなんと
噂さするであろう、ましてや親方様は定めし憎いのっそりめと怒ってござろう、お吉様はなおさら義理知らずの奴めと恨んでござろう、今日は大抵どちらにか任すと一言上人様のお
定めなさるはずとて、今朝出て行かれしがまだ帰られず、どうか今度の仕事だけはあれほど吾夫は望んで居らるるとも
此方は分に応ぜず、親方には義理もありかたがた親方の方に上人様の任さるればよいと思うような気持もするし、また親方様の大気にて別段怒りもなさらずば、吾夫にさせて見事成就させたいような気持もする、ええ気の
揉める、どうなることか、とても
良人にはお任せなさるまいがもしもいよいよ吾夫のすることになったら、どのようにまあ親方様お吉様の腹立てらるるか知れぬ、ああ心配に
頭脳の痛む、またこれが知れたらば女の
要らぬ
無益心配、それゆえいつも身体の弱いと、
有情くて無理な
叱言を受くるであろう、もう止めましょ止めましょ、ああ痛、と
薄痘痕のある
蒼い顔を
蹙めながら即効紙の
貼ってある左右の
顳を、縫い物捨てて両手で
圧える女の、齢は二十五六、眼鼻立ちも醜からねど
美味きもの食わぬに
膩気少く
肌理荒れたる
態あわれにて、
襤褸衣服にそそけ髪ますます悲しき風情なるが、つくづく
独り歎ずる時しも、台所の
劃りの破れ障子がらりと開けて、母様これを見てくれ、と猪之が云うにびっくりして、
汝はいつからそこにいた、と云いながら見れば、四分板六分板の切れ端を積んで
現然と真似び建てたる五重塔、思わず母親涙になって、おお好い児ぞと声曇らし、いきなり猪之に
抱きつきぬ。
当時に
有名の番匠川越の源太が受け負いて作りなしたる谷中感応寺の、どこに一つ批点を打つべきところあろうはずなく、五十畳敷
格天井の本堂、橋をあざむく長き廻廊、
幾部かの客殿、大和尚が
居室、茶室、学徒
所化の居るべきところ、
庫裡、浴室、玄関まで、あるは荘厳を尽しあるは堅固を
極め、あるは清らかにあるは
寂びておのおのそのよろしきに
適い、結構少しも申し分なし。そもそも微々たる旧基を振るいてかほどの大寺を成せるは誰ぞ。
法諱を聞けばそのころの
三歳児も合掌礼拝すべきほど世に知られたる
宇陀の
朗円上人とて、早くより
身延の山に
螢雪の苦学を積まれ、中ごろ六十余州に雲水の修行をかさね、
毘婆舎那の
三行に
寂静の
慧剣を
礪ぎ、四種の
悉檀に済度の法音を響かせられたる七十有余の老和尚、骨は俗界の
葷羶を避くるによって
鶴のごとくに
痩せ、
眼は
人世の
紛紜に
厭きて半ば
睡れるがごとく、もとより
壊空の理を
諦して意欲の
火炎を胸に揚げらるることもなく、
涅槃の真を
会して
執着の
彩色に心を染まさるることもなければ、堂塔を
興し
伽藍を立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕い風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、それらのものが雨露
凌がん
便宜も
旧のままにてはなくなりしまま、なお少し堂の広くもあれかしなんど
独語かれしが根となりて、道徳高き上人の新たに規模を大きゅうして寺を建てんと云いたまうぞと、このこと八方に
伝播れば、中には徒弟の
怜悧なるがみずから奮って四方に
馳せ感応寺建立に寄附を勧めて
行くもあり、働き顔に上人の高徳を
演べ説き聞かし富豪を
慫慂めて喜捨せしむる信徒もあり、さなきだに
平素より随喜
渇仰の思いを運べるもの雲霞のごときにこの勢いをもってしたれば、上諸侯より下町人まで先を争い財を投じて、我一番に
福田へ種子を投じて後の世を
安楽くせんと、富者は黄金白銀を貧者は百銅二百銅を分に応じて寄進せしにぞ、百川海に入るごとく
瞬く
間に金銭の驚かるるほど集まりけるが、それより世才に
長けたるものの世話人となり用人となり、万事万端
執り行うてやがて立派に成就しけるとは、聞いてさえ小気味のよき話なり。
しかるに
悉皆成就の暁、用人頭の為右衛門普請諸入用諸雑費一切しめくくり、
手脱ることなく決算したるになお大金の
剰れるあり。これをばいかになすべきと役僧の
円道もろとも、髪ある頭に髪なき頭突き合わせて相談したれど別に殊勝なる分別も出でず、田地を買わんか
畠買わんか、田も畠も余るほど寄附のあれば今さらまたこの浄財をそのようなことに費すにも及ばじと思案にあまして、面倒なりよきに計らえと
皺枯れたる御声にて云いたまわんは知れてあれど、恐る恐る円道ある時、
思さるる
用途もやと伺いしに、塔を建てよとただ一言云われしぎり振り向きもしたまわず、
鼈甲縁の大きなる
眼鏡の
中より
微かなる眼の光りを放たれて、何の経やら論やらを黙々と読み続けられけるが、いよいよ塔の建つに定まって例の源太に、積り書
出せと円道が
命令けしを、知ってか知らずにか上人様にお目通り願いたしと、のっそりが来しは今より二月ほど前なりし。
紺とはいえど汗に
褪め風に
化りて異な色になりし上、幾たびか洗い
濯がれたるためそれとしも見えず、
襟の
記印の字さえ
朧げとなりし
絆纏を着て、
補綴のあたりし
古股引をはきたる男の、髪は
塵埃に
塗れて
白け、面は日に焼けて
品格なき
風采のなおさら品格なきが、うろうろのそのそと感応寺の大門を入りにかかるを、門番
尖り声で何者ぞと怪しみ
誰何せば、びっくりしてしばらく眼を見張り、ようやく腰を
屈めて馬鹿丁寧に、大工の十兵衛と申しまする、御普請につきましてお願いに出ました、とおずおず云う
風態の何となく
腑には落ちねど、大工とあるに多方源太が弟子かなんぞの使いに来たりしものならんと
推察して、通れと一言
押柄に許しける。
十兵衛これに力を得て、
四方を見廻わしながら
森厳しき玄関前にさしかかり、お
頼申すと二三度いえば
鼠衣の
青黛頭、
可愛らしき小坊主の、おおと答えて障子引き
開けしが、応接に慣れたるものの
眼捷く人を見て、敷台までも下りず突っ立ちながら、用事なら
庫裡の方へ廻れ、と
情なく云い捨てて障子ぴっしゃり、後はどこやらの
樹頭に
啼く
鵯の声ばかりして音もなく響きもなし。なるほどと
独り
言しつつ十兵衛庫裡にまわりてまた案内を請えば、用人為右衛門
仔細らしき理屈顔して立ち出で、見なれぬ棟梁殿、いずくより何の用事で見えられた、と
衣服の粗末なるにはや
侮り
軽しめた言葉
遣い、十兵衛さらに気にもとめず、
野生は大工の十兵衛と申すもの、上人様の御眼にかかりお願いをいたしたいことのあってまいりました、どうぞお取次ぎ下されまし、と
首を低くして頼み入るに、為右衛門じろりと十兵衛が
垢臭き
頭上より白の鼻緒の鼠色になった草履はき居る足先まで
睨め下し、ならぬ、ならぬ、上人様は俗用にお
関わりはなされぬわ、願いというは何か知らねど云うて見よ、次第によりては我が取り計ろうてやる、とさもさも万事心得た用人めかせる才物ぶり。それを
無頓着の男の
質朴にも突き放して、いえ、ありがとうはござりますれど上人様に
直々でのうては、申しても役に立ちませぬこと、どうぞただお取次ぎを願いまする、と
此方の心が
醇粋なれば
先方の気に
触る言葉とも
斟酌せず推し返し言えば、為右衛門腹には我を頼まぬが憎くて
慍りを含み、
理のわからぬ男じゃの、上人様は
汝ごとき職人らに耳は
仮したまわぬというに、取り次いでも
無益なれば我が計ろうて得させんと、甘く
遇えばつけ上る言い分、もはや何もかも聞いてやらぬ、帰れ帰れ、と小人の
常態とて語気たちまち
粗暴くなり、
膠なく言い捨て立たんとするにあわてし十兵衛、ではござりましょうなれど、と半分いう間なく、うるさい、
喧しいと打ち消され、奥の方に入られてしもうて
茫然と土間に突っ立ったまま
掌の
裏の
螢に
脱去られしごとき思いをなしけるが、是非なく声をあげてまた案内を乞うに、口ある人のありやなしや薄寒き大寺の
岑閑と、
反響のみはわが耳に
堕ち来れど
咳声一つ聞えず、玄関にまわりてまた頼むといえば、
先刻見たる憎げな
怜悧小僧のちょっと顔出して、庫裡へ行けと教えたるに、と
独語きて早くも障子ぴしゃり。
また庫裡に廻りまた玄関に行き、また玄関に行き庫裡に廻り、ついには遠慮を忘れて本堂にまで響く大声をあげ、頼む頼むお頼申すと叫べば、
其声より
大き声を
発して馬鹿めと
罵りながら為右衛門ずかずかと立ち出で、
僮僕どもこの
狂漢を門外に引き
出せ、騒々しきを嫌いたまう上人様に知れなば、我らがこやつのために叱らるべしとの
下知、心得ましたと
先刻より
僕人部屋に
転がりいし
寺僕ら立ちかかり引き出さんとする、土間に坐り込んで
出されじとする十兵衛。それ手を取れ足を持ち上げよと
多勢口々に罵り騒ぐところへ、後園の花
二枝三枝
剪んで床の眺めにせんと、
境内あちこち
逍遙されし朗円上人、
木蘭色の
無垢を着て左の手に
女郎花桔梗、右の手に
朱塗の
把りの
鋏持たせられしまま、図らずここに来かかりたまいぬ。
何事に罵り騒ぐぞ、と上人が下したまう
鶴の一声のお言葉に群雀の
輩鳴りを
歇めて、振り上げし
拳を
蔵すに
地なく、禅僧の問答にありやありやと云いかけしまま一喝されて腰の
折けたるごとき風情なるもあり、
捲り縮めたる袖を
体裁悪げに下してこそこそと人の後ろに隠るるもあり。天を仰げる鼻の
孔より火煙も
噴くべき
驕慢の怒りに意気
昂ぶりし為右衛門も、少しは
慚じてや首をたれ
掌を
揉みながら、
自己が発頭人なるに是非なく、ありし次第をわが田に水引き水引き申し出づれば、痩せ皺びたる顔に深く長く
痕いたる法令の
皺溝をひとしお深めて、にったりと
徐やかに笑いたまい、
婦女のように
軽く
軟らかな声小さく、それならば騒がずともよいこと、為右衛門
汝がただ
従順に取り次ぎさえすれば仔細はのうてあろうものを、さあ十兵衛殿とやら
老衲について
此方へおいで、とんだ気の毒な目に
遇わせました、と万人に
尊敬い慕わるる人はまた格別の心の行き方、未学を軽んぜず下司をも侮らず、親切に
温和しく先に立って静かに導きたまう後について、
迂濶な根性にも慈悲の浸み透れば感涙とどめあえぬ十兵衛、だんだんと赤土のしっとりとしたるところ、飛石の
画趣に
布かれあるところ、
梧桐の影深く四方竹の色ゆかしく茂れるところなど
り
繞り過ぎて、
小やかなる折戸を入れば、花もこれというはなき小庭のただものさびて、
有楽形の
燈籠に松の落葉の散りかかり、
方星宿の
手水鉢に
苔の蒸せるが見る眼の
塵をも洗うばかりなり。
上人庭下駄脱ぎすてて上にあがり、さあ
汝も
此方へ、と云いさして
掌に持たれし花を
早速に
釣花活に投げこまるるにぞ、十兵衛なかなか
怯めず
臆せず、
手拭で足はたくほどのことも気のつかぬ男とてなすことなく、草履脱いでのっそりと三畳台目の茶室に入りこみ、鼻突き合わすまで上人に近づき坐りて黙々と一礼する
態は、礼儀に
嫻わねど充分に
偽飾なき
情の
真実をあらわし、幾たびかすぐにも云い出でんとしてなお開きかぬる口をようやくに開きて、舌の動きもたどたどしく、五重の塔の、御願いに出ましたは五重の塔のためでござります、と
藪から棒を突き出したように
尻もったてて声の調子も
不揃いに、辛くも胸にあることを額やら
腋の下の汗とともに絞り出せば、上人おもわず笑いを催され、何か知らねど
老衲をば
怖いものなぞと思わず、遠慮を忘れてゆるりと話をするがよい、庫裡の土間に坐り
込うで動かずにいた様子では、何か深う思い詰めて来たことであろう、さあ遠慮を捨てて
急かずに、老衲をば
朋友同様におもうて話すがよい、とあくまで
慈しき
注意。十兵衛
脆くも
梟と常々悪口受くる
銅鈴眼にはや涙を浮めて、はい、はい、はいありがとうござりまする、思い詰めて
参上りました、その五重の塔を、こういう野郎でござります、御覧の通り、のっそり十兵衛と
口惜しい
諢名をつけられて居る
奴でござりまする、しかしお上人様、
真実でござりまする、
工事は下手ではござりませぬ、知っております
私しは馬鹿でござります、馬鹿にされております、意気地のない
奴でござります、
虚誕はなかなか申しませぬ、お上人様、大工はできます、
大隅流は
童児の時から、
後藤立川二ツの流義も
合点致しておりまする、させて、五重塔の仕事を私にさせていただきたい、それで
参上りました、川越の源太様が積りをしたとは五六日前聞きました、それから私は寝ませぬわ、お上人様、五重塔は百年に一度一生に一度建つものではござりませぬ、恩を受けております源太様の仕事を
奪りたくはおもいませぬが、ああ賢い人は羨ましい、一生一度百年一度の好い仕事を源太様はさるる、死んでも立派に名を残さるる、ああ羨ましい羨ましい、大工となって生きている生き甲斐もあらるるというもの、それに引き代えこの十兵衛は、
鑿手斧もっては源太様にだとて誰にだとて、打つ墨縄の曲ることはあれ万が一にも後れを取るようなことは必ず必ずないと思えど、年が年中長屋の
羽目板の繕いやら馬小屋
箱溝の数仕事、天道様が知恵というものを
我には
賜さらないゆえ仕方がないと
諦めて諦めても、
拙い奴らが宮を作り堂を受け負い、見るものの眼から見れば建てさせた人が気の毒なほどのものを
築造えたを見るたびごとに、内々自分の不運を泣きますわ、お上人様、時々は口惜しくて
技倆もない癖に知恵ばかり達者な奴が憎くもなりまするわ、お上人様、源太様は羨ましい、知恵も達者なれば
手腕も達者、ああ羨ましい仕事をなさるか、
我はよ、源太様はよ、情ないこの
我はよと、羨ましいがつい高じて
女房にも口きかず泣きながら寝ましたその夜のこと、五重塔を
汝作れ今すぐつくれと
怖ろしい人にいいつけられ、
狼狽えて飛び起きさまに道具箱へ手を突っ込んだは半分夢で半分
現、眼が全く覚めて見ますれば指の先を
鐔鑿につっかけて怪我をしながら道具箱につかまって、いつの間にか夜具の中から出ていたつまらなさ、
行燈の前につくねんと坐ってああ情ない、つまらないと思いました時のその心持、お上人様、わかりまするか、ええ、わかりまするか、これだけが誰にでも分ってくれれば塔も建てなくてもよいのです、どうせ馬鹿な
のっそり十兵衛は死んでもよいのでござりまする、
腰抜鋸のように生きていたくもないのですわ、
其夜からというものは
真実、真実でござりまする上人様、晴れて居る空を見ても
燈光の
達かぬ
室の
隅の暗いところを見ても、白木造りの五重の塔がぬっと突っ立って私を見下しておりまするわ、とうとう自分が造りたい気になって、とても及ばぬとは知りながら毎日仕事を終るとすぐに夜を
籠めて五十分一の
雛形をつくり、
昨夜でちょうど仕上げました、見に来て下されお上人様、頼まれもせぬ仕事はできてしたい仕事はできない口惜しさ、ええ不運ほど情ないものはないと
私が歎けばお上人様、なまじできずば不運も知るまいと女房めが
其雛形をば揺り動かしての述懐、無理とは聞えぬだけによけい泣きました、お上人様お慈悲に今度の五重塔は私に建てさせて下され、拝みます、こここの通り、と両手を合わせて
頭を畳に、涙は塵を浮べたり。
木彫りの
羅漢のように黙々と坐りて、
菩提樹の実の
珠数繰りながら十兵衛が
埒なき述懐に耳を傾け居られし上人、十兵衛が
頭を下ぐるを制しとどめて、わかりました、よく合点が行きました、ああ殊勝な心がけを持って居らるる、立派な考えを
蓄えていらるる、学徒どもの示しにもしたいような、
老衲も思わず涙のこぼれました、五十分一の雛形とやらも是非見にまいりましょう、しかし
汝に感服したればとて今すぐに五重の塔の
工事を汝に任するわと、
軽忽なことを老衲の
独断で言うわけにもならねば、これだけは
明瞭とことわっておきまする、いずれ頼むとも頼まぬともそれは表立って、老衲からではなく感応寺から沙汰をしましょう、ともかくも幸い今日は
閑暇のあれば汝が作った雛形を見たし、案内してこれよりすぐに汝が家へ老衲を連れて行てはくれぬか、とすこしも
辺幅を飾らぬ人の、
義理明らかに言葉
渋滞なく云いたまえば、十兵衛満面に笑みを含みつつ米
舂くごとくむやみに頭を下げて、はい、はい、はいと答えおりしが、願いをお取り上げ下されましたか、ああありがとうござりまする、
野生の
宅へおいで下さりますると、ああもったいない、雛形はじきに野生めが持ってまいりまする、御免下され、と云いさまさすがののっそりも喜悦に狂して
平素には似ず、大げさに一つぽっくりと礼をばするや否や、飛石に
蹴躓きながら駈け出してわが家に帰り、帰ったと一言女房にも云わず、いきなりに雛形持ち出して人を頼み、二人して息せき急ぎ感応寺へと持ち込み、上人が前にさし置きて帰りけるが、上人これを
熟視たまうに、初重より五重までの
配合、屋根
庇廂の
勾配、腰の高さ、
椽木の
割賦、
九輪請花露盤宝珠の体裁までどこに
可厭なるところもなく、
水際立ったる細工ぶり、これがあの不器用らしき男の手にてできたるものかと疑わるるほど
巧緻なれば、独りひそかに歎じたまいて、かほどの
技倆をもちながら
空しく
埋もれ、名を発せず世を経るものもあることか、
傍眼にさえも気の毒なるを当人の身となりてはいかに口惜しきことならん、あわれかかるものに成るべきならば
功名を得させて、多年
抱ける
心願に
負かざらしめたし、草木とともに朽ちて行く人の身はもとより
因縁仮和合、よしや惜しむとも惜しみて甲斐なく
止めて止まらねど、たとえば
木匠の道は小なるにせよそれに一心の誠を
委ね
生命をかけて、欲も
大概は忘れ
卑劣き
念も起さず、ただただ
鑿をもってはよく
穿らんことを思い、
鉋を持ってはよく削らんことを思う心の
尊さは金にも銀にも
比えがたきを、わずかに残す
便宜もなくていたずらに
北の土に
没め、
冥途の
苞と
齎し去らしめんこと思えば
憫然至極なり、
良馬主を得ざるの悲しみ、高士世に
容れられざるの恨みも
詮ずるところは
異ることなし、よしよし、我図らずも十兵衛が胸に
懐ける無価の宝珠の微光を認めしこそ縁なれ、こたびの
工事を彼に
命け、せめては少しの
報酬をば彼が
誠実の心に得させんと思われけるが、ふと思いよりたまえば川越の源太もこの工事をことのほかに望める上、彼には本堂
庫裏客殿作らせし
因みもあり、しかも
設計予算まではや
做し
出してわが眼に入れしも四五日前なり、
手腕は彼とて鈍きにあらず、人の
信用ははるかに十兵衛に超えたり。一ツの工事に二人の番匠、これにもさせたし彼にもさせたし、いずれにせんと上人もさすがこれには迷われける。
明日
辰の刻ごろまでに自身当寺へ来たるべし、かねてその方工事仰せつけられたきむね願いたる五重塔の儀につき、上人
直接にお
話示あるべきよしなれば、衣服等失礼なきよう心得て出頭せよと、
厳格に口上を
演ぶるは弁舌自慢の
円珍とて、唐辛子をむざと
嗜み
食える
祟り鼻の
頭にあらわれたる
滑稽納所。
平日ならば
南蛮和尚といえる
諢名を呼びて
戯談口きき合うべき間なれど、本堂建立中
朝夕顔を見しよりおのずと
狎れし
馴染みも今は薄くなりたる上、使僧らしゅう威儀をつくろいて、人さし指中指の二本でややもすれば
兜背形の
頭顱の
頂上を
掻く癖ある手をも
法衣の袖に殊勝くさく
隠蔽し居るに、源太も
敬い
謹んで承知の旨を頭下げつつ答えけるが、如才なきお吉はわが夫をかかる
俗僧にまでよく
評わせんとてか帰り際に、出したままにして行く茶菓子とともに
幾干銭か包み込み、是非にというて取らせけるは、思えばけしからぬ布施のしようなり。円珍十兵衛が家にも
詣りて同じことを
演べ帰りけるが、さてその翌日となれば源太は
鬚剃り
月代して衣服をあらため、今日こそは上人のみずから我に御用仰せつけらるるなるべけれと勢い込んで、庫裏より通り、とある一
ト間に待たされて
坐を正しくし
扣えける。
態こそ
異れ十兵衛も心は同じ張りをもち、導かるるまま打ち通りて、人気のなきに寒さ
湧く
一室の
中にただ一人
兀然として、今や上人の
招びたまうか、五重の塔の工事一切
汝に任すと
命令たまうか、もしまた我には命じたまわず源太に任すと
定めたまいしを我にことわるため招ばれしか、そうにもあらば何とせん、浮むよしなき埋れ木のわが身の末に花咲かん頼みも永くなくなるべし、ただ願わくは上人のわが愚かしきを
憐れみて我に命令たまわんことをと、九尺二枚の
唐襖に
金鳳銀凰翔り舞うその
箔模様の美しきも眼に止めずして、
茫々と
暗路に物を
探るごとく
念想を空に漂わすことやや久しきところへ、例の
怜悧げな
小僧いで来たりて、方丈さまの召しますほどにこちらへおいでなされまし、と先に立って案内すれば、すわや
願望のかなうともかなわざるとも定まる時ぞと
魯鈍の男も胸を騒がせ、導かるるまま随いて
一室の
中へずっと入る、途端にこなたをぎろりっと見る眼鋭く怒りを含んで斜めに
睨むは思いがけなき源太にて、座に上人の影もなし。事の意外に十兵衛も足踏みとめて突っ立ったるまま一言もなく
白眼合いしが、是非なく畳二ひらばかりを隔てしところにようやく坐り、力なげ首
悄然と
己れが
膝に
気勢のなきたそうなる眼を
注ぎ居るに引き替え、源太郎は
小狗を
瞰下す
猛鷲の風に臨んで千尺の
巌の上に立つ風情、腹に
十分の強みを抱きて、背をも
屈げねば肩をも
歪めず、すっきり
端然と構えたる
風姿といい
面貌といい水際立ったる男振り、万人が万人とも好かずには居られまじき
天晴れ小気味のよき
好漢なり。
されども世俗の
見解には
堕ちぬ心の明鏡に照らしてかれこれともに愛し、
表面の美醜に露
泥まれざる上人のかえっていずれをとも昨日までは
択びかねられしが、思いつかるることのありてか今日はわざわざ二人を招び出されて一室に待たせおかれしが、今しも静々居間を出でられ、畳踏まるる足も
軽く、先に立ったる小僧が襖明くる後より、すっと入りて座につきたまえば、二人は
恭い
敬みてともに
斉しく
頭を下げ、しばらく上げも得せざりしが、ああいじらしや十兵衛が辛くも上げし面には、まだ世馴れざる里の子の
貴人の前に出でしように
羞を含みて
紅潮し、額の皺の
幾条の
溝には
沁出し
熱汗を
湛え、鼻の
頭にも
珠を湧かせば
腋の下には雨なるべし。膝におきたる骨太の
掌指は枯れたる松が枝ごとき岩畳作りにありながら、一本ごとにそれさえもわなわな
顫えて一心にただ上人の一言を一期の大事と待つ笑止さ。
源太も黙して言葉なく耳を澄まして命を待つ、どちらをどちらと
判けかぬる、二人の
情を汲みて知る上人もまたなかなかに口を開かん
便宜なく、しばしは静まりかえられしが、源太十兵衛ともに聞け、今度建つべき五重塔はただ一ツにて建てんというは
汝たち二人、二人の願いを双方とも聞き届けてはやりたけれど、それはもとよりかないがたく、一人に任さば一人の歎き、誰に定めて
命けんという
標準のあるではなし、役僧用人らの分別にも及ばねば
老僧が分別にも及ばぬほどに、この分別は汝たちの相談に任す、老僧は
関わぬ、汝たちの相談の
纏まりたる通り取り上げてやるべければ、よく家に帰って相談して来よ、老僧が云うべきことはこれぎりじゃによってそう心得て帰るがよいぞ、さあしかと云い渡したぞ、もはや帰ってもよい、しかし今日は老僧も
閑暇で退屈なれば茶話しの相手になってしばらくいてくれ、浮世の噂なんど
老衲に聞かせてくれぬか、その代り老僧も古い話しのおかしなを二ツ三ツ昨日見出したを話して聞かそう、と笑顔やさしく、
朋友かなんぞのように二人をあしろうて、さて何事を云い出さるるやら。
小僧がもって来し茶を上人みずから汲みたまいてすすめらるれば、二人とももったいながりて恐れ入りながら頂戴するを、そう遠慮されては言葉に角が取れいで話が丸う行かぬわ、さあ菓子も
挾んではやらぬから勝手に
摘んでくれ、と
高坏推しやりてみずからも天目取り上げ
喉を
湿したまい、面白い話というも
桑門の
老僧らにはそうたくさんないものながら、このごろ読んだお経の
中につくづくなるほどと感心したことのある、聞いてくれこういう話しじゃ、むかしある国の長者が二人の子を引きつれてうららかな天気の
節に、
香りのする花の咲き軟らかな草の
滋って居る
広野を
愉快げに
遊行したところ、水は大分に夏の初めゆえ
涸れたれどなお清らかに流れて岸を洗うて居る大きな川に出で逢うた、その川の中には珠のような
小磧やら銀のような砂でできて居る美しい
洲のあったれば、長者は興に乗じて
一尋ばかりの流れを無造作に飛び越え、あなたこなたを見廻せば、洲の
後面の方もまた一尋ほどの流れで
陸と隔てられたる別世界、まるで浮世のなまぐさい
土地とは
懸絶れた
清浄の地であったまま
独り歓び喜んで
踊躍したが、
渉ろうとしても渉り得ない二人の
児童が羨ましがって
喚び叫ぶを
可憐に思い、
汝たちには来ることのできぬ清浄の地であるが、さほどに来たくば渡らしてやるほどに待っていよ、見よ見よわが
足下のこの
磧は一々
蓮華の
形状をなし居る世に珍しき磧なり、わが眼の前のこの砂は一々五金の光をもてる
比類まれなる砂なるぞと説き示せば、二人は遠眼にそれを見ていよいよ
焦躁り渡ろうとするを、長者は
徐かに制しながら、
洪水の時にても根こぎになったるらしき
棕櫚の樹の一尋余りなを
架け渡して橋としてやったに、我が先へ汝は後にと兄弟争い
鬩いだ末、兄は兄だけ力強く
弟をついに投げ伏せて
我意の勝を得たに誇り高ぶり、急ぎその橋を渡りかけ
半途にようやく
到りし時、弟は起き上りさま口惜しさに力を
籠めて橋をうごかせば兄はたちまち水に落ち、苦しみ
いて洲に達せしが、この時弟ははやその橋を難なく渡り超えかくるを見るより兄もその橋の端を一揺り揺り動かせば、もとより丸木の橋なるゆえ弟も
堪らず水に落ち、わずかに長者の立ったるところへ
濡れ
滴りて
這い上った、その時長者は歎息して、汝たちには何と見ゆる、今汝らが足踏みかけしよりこの洲はたちまち前と異なり、磧は黒く醜くなり
沙は黄ばめる
普通の沙となれり、見よ見よいかにと告げ知らするに二人は驚き、
眼を
りて見れば全く父の言葉に少しも
違わぬ
沙磧、ああかかるもの取らんとて可愛き弟を悩ませしか、
尊き兄を
溺らせしかと兄弟ともに
慚じ悲しみて、弟の
袂を兄は絞り兄の
衣裾を弟は絞りて互いにいたわり慰めけるが、かの橋をまた引き来たりて洲の
後面なる流れに打ちかけ、はやこの洲には用なければなおもあなたに遊び歩かん、汝たちまずこれを渡れと、長者の言葉に兄弟は顔を見合いて
先刻には似ず、兄上先にお渡りなされ、弟よ先に渡るがよいと譲り合いしが、年順なれば兄まず渡るその時に、
転びやすきを気遣いて弟は端を揺がぬようしかと
抑ゆる、その次に弟渡れば兄もまた揺がぬように抑えやり、長者は苦なく飛び越えて、三人ともにいと
長閑くそぞろに歩むそのうちに、兄が図らず拾いし石を弟が見れば美しき蓮華の形をなせる石、弟が
摘み上げたる砂を兄が
覗けば眼も
眩く五金の光を放ちていたるに、兄弟ともども
歓喜び楽しみ、互いに得たる
幸福を互いに深く讃歎し合う、その時長者は
懐中より
真実の
璧の蓮華を取り出し兄に与えて、弟にも真実の砂金を袖より出して
大切にせよと与えたという、話してしまえば小供
欺しのようじゃが仏説に
虚言はない、小児欺しでは決してない、噛みしめて見よ味のある話しではないか、どうじゃ汝たちにも面白いか、老僧には大層面白いが、と軽く云われて深く浸む、
譬喩方便も御胸の
中にもたるる
真実から。源太十兵衛二人とも顔見合わせて茫然たり。
感応寺よりの帰り道、半分は死んだようになって十兵衛、どんつく布子の袖組み合わせ、腕
拱きつつうかうか歩き、お上人様のああおっしゃったはどちらか一方おとなしく譲れと
諭しの
謎々とは、何ほど
愚鈍な
我にも知れたが、ああ譲りたくないものじゃ、せっかく丹誠に丹誠凝らして、定めし冷えて寒かろうにお
寝みなされと親切でしてくるる
女房の世話までを、黙っていよよけいなと叱り飛ばして夜の眼も合わさず、工夫に工夫を積み重ね、今度という今度は一世一代、腕一杯の物を建てたら死んでも恨みはないとまで思い込んだに、悲しや上人様の今日のお
諭し、道理には違いないそうもなければならぬことじゃが、これを譲っていつまた五重塔の建つという
的のあるではなし、一生とてもこの十兵衛は世に出ることのならぬ身か、ああ情ない恨めしい、天道様が恨めしい、
尊い上人様のお慈悲は充分わかっていて露ばかりもありがとうなくは思わぬが、ああどうにもこうにもならぬことじゃ、相手は恩のある源太親方、それに恨みの向けようもなし、どうしてもこうしても
温順に
此方の身を
退くよりほかに思案も何もないか、ああないか、というて今さら残念な、なまじこのようなことおもいたたずに、のっそりだけで済ましていたらばこのように残念な
苦悩もすまいものを、分際忘れた
我が悪かった、ああ我が悪い、我が悪い、けれども、ええ、けれども、ええ、思うまい思うまい、十兵衛がのっそりで浮世の
怜悧な人たちの物笑いになってしまえばそれで済むのじゃ、連れ添う
女房にまでも内々
活用の利かぬ夫じゃと
喞たれながら、夢のように生きて夢のように死んでしまえばそれで済むこと、あきらめて見れば情ない、つくづく世間がつまらない、あんまり世間が
酷過ぎる、と思うのもやっぱり愚痴か、愚痴か知らねど情な過ぎるが、言わず語らず諭された上人様のあのお言葉の
真実のところを味わえば、あくまでお慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透って未練な愚痴の出端もないわけ、争う二人をどちらにも傷つかぬよう
捌きたまい、末の末までともによかれと兄弟の子に事寄せて
尚いお経を解きほぐして、
噛んで含めて下さったあのお話に比べて見ればもとより我は
弟の身、ひとしお
他に譲らねば
人間らしくもないものになる、ああ弟とは辛いものじゃと、
路も見分かで屈托の
眼は
涙に曇りつつ、とぼとぼとして何一ツ
愉快もなきわが家の方に、糸で
曳かるる
木偶のように我を忘れて行く途中、この馬鹿野郎
発狂漢め、
我のせっかく洗ったものに何する、馬鹿めとだしぬけに
噛みつくごとく
罵られ、
癇張声に胆を冷やしてハッと思えばぐゎらり
顛倒、
手桶枕に立てかけありし張物板に、我知らず一足二足踏みかけて踏み
覆したる
不体裁さ。
尻餅ついて驚くところを、
狐憑[#ルビの「きつねつ」は底本では「きつねつつ」]きめ
忌々しい、と
駄力ばかりは
近江のお
兼、顔は子供の
福笑戯に眼をつけ
歪めた
多福面のごとき房州出らしき
下婢の憤怒、
拳を挙げて丁と打ち
猿臂を伸ばして突き飛ばせば、十兵衛
堪らず
汚塵に
塗れ、はいはい、狐に
誑まれました御免なされ、と云いながら悪口雑言聞き捨てに痛さを忍びて逃げ走り、ようやくわが家に帰りつけば、おおお帰りか、遅いのでどういうことかと案じていました、まあ
塵埃まぶれになってどうなされました、と払いにかかるを、構うなと一言、気のなさそうな声で打ち消す。その顔を覗き込む
女房の真実心配そうなを見て、何か知らず無性に悲しくなってじっと
湿みのさしくる
眼、自分で自分を叱るように、ええと図らず声を出し、煙草を
捻って何気なくもてなすことはもてなすものの言葉もなし。
平時に変れる
状態を大方それと
推察してさて慰むる
便もなく、問うてよきやら問わぬがよきやら心にかかる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつつ、その一本は
杉箸で辛くも用を足す火箸に挾んで添える消炭の、あわれ甲斐なき
火力を頼り
土瓶の茶をば
温むるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰って来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見てくれ、とさも勇ましく障子を明けて
褒められたさが一杯に罪なくにこりと笑いながら、指さし示す塔の
模形。母は
襦袢の袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衛涙に浮くばかりの
円の
眼を
剥き
出し、まじろぎもせでぐいと
睨めしが、おおでかしたでかした、よくできた、
褒美をやろう、ハッハハハと
咽び笑いの声高く屋の
棟にまで響かせしが、そのまま
頭を天に
対わし、ああ、弟とは辛いなあ。
格子開くる響き
爽やかなること常のごとく、お吉、今帰った、と元気よげに上り来たる夫の声を聞くより、心配を輪に吹き吹き吸うていし
煙草管を邪見至極に
抛り出して忙わしく立ち迎え、大層遅かったではないか、と云いつつ
背面へ廻って羽織を脱がせ、立ちながら
腮に手伝わせての袖畳み小早く
室隅の方にそのままさし置き、火鉢の
傍へすぐまた
戻ってたちまち鉄瓶に松虫の
音を
発させ、むずと
大胡坐かき込み居る男の顔をちょっと見しなに、日は暖かでも風が冷たく途中は随分
寒ましたろ、
一瓶煖酒ましょか、と
痒いところへよく届かす手は口をきくその
間に、がたぴしさせず
膳ごしらえ、三輪漬は
柚の香ゆかしく、
大根卸で食わする
卵は無造作にして気が利きたり。
源太胸には
苦慮あれども幾らかこれに慰められて、
猪口把りさまに二三杯、後一杯を
漫く飲んで、
汝も
飲れと与うれば、お吉一口、つけて、置き、焼きかけの
海苔畳み折って、追っつけ三子の来そうなもの、と魚屋の名を
独り
語しつ、猪口を返して
酌せし後、上々吉と腹に思えば動かす舌も
滑らかに、それはそうと今日の首尾は、大丈夫
此方のものとは
極めていても、知らせて下さらぬうちは
無益な苦労を
妾はします、お上人様は何と仰せか、またのっそりめはどうなったか、そう真面目顔でむっつりとして居られては心配で心配でなりませぬ、と云われて源太は高笑い。案じてもらうことはない、お慈悲の深い上人様はどの道
我を
好漢にして下さるのよ、ハハハ、なあお吉、弟を可愛がればいい兄きではないか、腹の
饑ったものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、
他の
怖いことは一厘ないが強いばかりが
男児ではないなあ、ハハハ、じっと
堪忍して無理に弱くなるのも男児だ、ああ立派な男児だ、五重塔は名誉の
工事、ただ
我一人でものの見事に千年
壊れぬ名物を万人の眼に残したいが、他の手も知恵も寸分交ぜず川越の源太が
手腕だけで
遺したいが、ああ
癇癪を堪忍するのが、ええ、男児だ、男児だ、なるほどいい男児だ、上人様に
虚言はない、せっかく望みをかけた工事を半分他にくれるのはつくづく
忌々しけれど、ああ、辛いが、ええ兄きだ、ハハハ、お吉、我はのっそりに半口やって二人で塔を建てようとおもうわ、立派な弱い男児か、
賞めてくれ賞めてくれ、
汝にでも賞めてもらわなくてはあまり張合いのない話しだ、ハハハと嬉しそうな顔もせで意味のない声ばかりはずませて笑えば、お吉は夫の気を
量りかね、上人様が何とおっしゃったか知らぬが
妾にはさっぱり分らずちっとも面白くない話し、
唐偏朴のあののっそりめに半口やるとはどういうわけ、日ごろの気性にも似合わない、やるものならば未練気なしにすっかりやってしまうが好いし、もとより
此方で取るはずなれば
要りもせぬ助太刀頼んで、一人の首を二人で切るような
卑劣なことをするにも当らないではありませぬか、
冷水で洗ったような
清潔な腹をもって居ると他にも云われ自分でも常々云うていた
汝が、今日に限って何という煮えきれない分別、女の妾から見ても意地の足らないぐずぐず思案、賞めませぬ賞めませぬ、どうしてなかなか賞められませぬ、高が相手は
此方の恩を受けて居るのっそりめ、一体ならば
此方の仕事を
先潜りする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させぬようにすればなるのっそりめを、そう甘やかして胸の焼ける
連名工事をなんでするに当るはずのあろうぞ、甘いばかりが立派のことか、弱いばかりが好い男児か、妾の虫には受け取れませぬ、なんなら妾が一
ト走りのっそりめのところに行って、重々恐れ入りましたと思い切らせて
謝罪らせて両手を突かせて来ましょうか、と女
賢しき夫思い。源太は聞いて
冷笑い、何が汝にわかるものか、我のすることを好いとおもうていてさえくるればそれでよいのよ。
色も香もなく一言に黙っていよとやり込められて、
聴かぬ気のお吉顔ふり上げ何か云い出したげなりしが、
自己よりは一倍きかぬ気の夫の制するものを、押し返して何ほど云うとも
機嫌を損ずることこそはあれ、口答えの
甲斐は露なきを
経験あって知り居れば、連れ添うものに心の奥を語り明かして相談かけざる夫を恨めしくはおもいながら、そこは
怜悧の女の分別早く、何も妾が
遮って女の癖に要らざる
嘴を出すではなけれど、つい気にかかる仕事の話しゆえ思わず様子の聞きたくて、よけいなことも胸の狭いだけに
饒舌ったわけ、と自分が真実
籠めし言葉をわざとごくごく軽うしてしもうて、どこまでも夫の分別に従うよう
表面を粧うも、幾らか夫の腹の底にある
煩悶を
殺いでやりたさよりの
真実。源太もこれに角張りかかった顔をやわらげ、何ごとも皆
天運じゃ、
此方の了見さえ
温順に
和しくもっていたならまた好いことの廻って来ようと、こうおもって見ればのっそりに半口やるもかえって好い心持、世間は気次第で
忌々しくも面白くもなるものゆえ、できるだけは
卑劣な
を根性に着けず
瀟洒と世を奇麗に渡りさえすればそれで好いわ、と云いさしてぐいと
仰飲ぎ、後は芝居の噂やら弟子どもが
行状の噂、真に罪なき雑話を
下物に酒も過ぎぬほど心よく飲んで、
下卑た
体裁ではあれど
とり膳
睦まじく飯を
喫了り、
多方もう十兵衛が来そうなものと何事もせず待ちかくるに、時は
空しく
経過て障子の
日一尺動けどなお見えず、二尺も移れどなお見えず。
是非
先方より
頭を低くし身を
縮めて
此方へ相談に来たり、何とぞ半分なりと仕事をわけて下されと、今日の上人様のお
慈愛深きお言葉を頼りに泣きついても頼みをかけべきに、何としてこうは遅きや、思いあきらめて望みを捨て、もはや相談にも及ばずとて独りわが家に
燻り居るか、それともまた此方より行くを待って居るか、もしも此方の行くを待って居るということならばあまり増長した了見なれど、まさかにそのような高慢気も
出すまじ、例ののっそりで
悠長に構えて居るだけのことならんが、さても気の長い男め
迂濶にもほどのあれと、煙草ばかりいたずらに
喫かしいて、待つには短き日も随分長かりしに、それさえ暮れて
群烏塒に帰るころとなれば、さすがに心おもしろからずようやく癇癪の起り起りて
耐えきれずなりし潮先、
据えられし
晩食の膳に
対うとそのまま云いわけばかりに箸をつけて茶さえゆるりとは飲まず、お吉、十兵衛めがところにちょっと行て来る、行違いになって
不在へ
来ば待たしておけ、と云う言葉さえとげとげしく怒りを含んで立ち出でかかれば、気にはかかれど何とせん方もなく、女房は送って出したる後にて、ただ
溜息をするのみなり。
渋って
開きかぬる雨戸にひとしお源太は癇癪の火の手を
亢らせつつ、力まかせにがちがち引き
退け、十兵衛
家にか、と云いさまにつとはいれば、
声色知ったるお
浪早くもそれと悟って、恩あるその人の
敵に今は立ち居る十兵衛に連れ添える身の
面を
対すこと辛く、女気の
繊弱くも胸をどきつかせながら、まあ親方様、とただ一言我知らず云い出したるぎり
挨拶さえ
どぎまぎして急には二の句の出ざるうち、
煤けし紙に針の
孔、油染みなんど多き
行燈の
小蔭に
悄然と坐り込める十兵衛を見かけて源太にずっと通られ、あわてて火鉢の前に
請ずる機転の
遅鈍も、正直ばかりで
世態を
知悉まぬ姿なるべし。
十兵衛は
不束に一礼して重げに口を開き、明日の朝
参上ろうとおもうておりました、といえばじろりとその顔下眼に
睨み、わざと
泰然たる源太、おお、そういう
其方のつもりであったか、こっちは例の気短ゆえ今しがたまで待っていたが、いつになって
汝の来るか知れたことではないとして出かけて来ただけ馬鹿であったか、ハハハ、しかし十兵衛、汝は今日の上人様のあのお言葉をなんと聞いたか、
両人でよくよく相談して来よと云われた揚句に長者の二人の児のお話し、それでわざわざ相談に来たが汝も大抵分別はもう
定めて居るであろう、
我も随分虫持ちだが悟って見ればあの
譬諭の通り、
尖りあうのは互いにつまらぬこと、まんざら
敵同士でもないに身勝手ばかりは我も云わぬ、つまりは和熟した
決定のところが欲しいゆえに、我欲は充分折って
摧いて思案を凝らして来たものの、なお汝の了見も腹蔵のないところを聞きたく、その上にまたどうともしようと、我も
男児なりゃ
汚い
謀計を腹には持たぬ、
真実にこうおもうて来たわ、と言葉をしばしとどめて十兵衛が顔を見るに、
俯伏いたままただはい、はいと答うるのみにて、
乱鬢の
中に五六本の
白髪が
瞬く
燈火の光を受けてちらりちらりと見ゆるばかり。お浪ははや寝し
猪の
助が枕の方につい坐って、
呼吸さえせぬようこれもまた静まりかえり居る
淋しさ。かえって遠くに売りあるく鍋焼
饂飩の呼び声の、
幽かに
外方より
家の
中に浸みこみ来たるほどなりけり。
源太はいよいよ気を静め、語気なだらかに説き
出すは、まあ遠慮もなく
外見もつくらず我の方から打ち明けようが、なんと十兵衛こうしてはくれぬか、せっかく汝も望みをかけ
天晴れ名誉の仕事をして持ったる腕の光をあらわし、欲徳ではない職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衛という男が
意匠ぶり細工ぶりこれ
視て知れと残そうつもりであろうが、察しもつこう我とてもそれは同じこと、さらにあるべき普請ではなし、取り
外っては一生にまた出逢うことはおぼつかないなれば、源太は源太で我が意匠ぶり細工ぶりを是非
遺したいは、理屈を自分のためにつけて云えば我はまあ感応寺の出入り、汝はなんの
縁もないなり、我は先口、汝は後なり、我は頼まれて
設計までしたに汝は頼まれはせず、
他の口から云うたらばまた我は受け負うても相応、汝が
身柄では不相応と誰しも難をするであろう、だとて我が今理屈を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が
手腕のありながら不幸せで居るというも知って居る、汝が
平素薄命を口へこそ出さね、腹の底ではどのくらい泣いて居るというも知って居る、我を汝の身にしては
堪忍のできぬほど悲しい一生というも知って居る、それゆえにこそ去年
一昨年なんにもならぬことではあるが、まあできるだけの世話はしたつもり、しかし恩に
被せるとおもうてくれるな、上人様だとて汝の
清潔な腹の中をお
洞察になったればこそ、汝の
薄命を気の毒とおもわれたればこそ今日のようなお諭し、我も汝が欲かなんぞで
対岸にまわる奴ならば、
我の仕事に邪魔を入れる
猪口才な
死節野郎と
一釿に脳天
打っ欠かずにはおかぬが、つくづく汝の身を察すればいっそ仕事もくれたいような気のするほど、というて
我も欲は捨て
断れぬ、仕事は真実どうあってもしたいわ、そこで十兵衛、聞いてももらいにくく云うても
退けにくい相談じゃが、まあこうじゃ、堪忍して承知してくれ、五重塔は二人で建ちょう、我を主にして汝不足でもあろうが
副になって力を仮してはくれまいか、不足ではあろうが、まあ厭でもあろうが源太が頼む、聴いてはくれまいか、頼む頼む、頼むのじゃ、黙って居るのは聴いてくれぬか、お浪さんも
我の云うことのわかったならどうぞ口を
副えて聴いてもらっては下さらぬか、と
脆くも涙になりいる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ええありがとうござりまする、どこにこのような御親切の相談かけて下さる方のまたあろうか、なぜお礼をば云われぬか、と左の袖は
露時雨、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動かしつ
掻き
口説けど、
先刻より無言の仏となりし十兵衛何ともなお言わず、
再度三度かきくどけど
黙黙として
[#「黙黙として」はママ]なお言わざりしが、やがて
垂れたる
首を
抬げ、どうも十兵衛それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、
吐胸をついて驚く女房。なんと、と一声
烈しく鋭く、
頸首反らす一二寸、眼に角たててのっそりをまっ向よりして
瞰下す源太。
人情の花も
失くさず義理の幹もしっかり立てて、
普通のものにはできざるべき親切の相談を、一方ならぬ
実意のあればこそ源太のかけてくれしに、いかに
伐って
抛げ出したような
性質がさする返答なればとて、十兵衛厭でござりまするとはあまりなる
挨拶、
他の
情愛のまるでわからぬ土人形でもこうは云うまじきを、さりとては恨めしいほど
没義道な、口惜しいほど無分別な、どうすればそのように無茶なる夫の了見と、お浪は
呆れもし驚きもしわが身の急に
絞木にかけて絞めらるるごとき心地のして、思わず知らず夫にすり寄り、それはまあなんということ、親方様があれほどにあなたこなたのためを計って、見るかげもないこの方連れ、云わば一
ト足に蹴落しておしまいなさるることもなさらばできるこの方連れに、大抵ではないお情をかけて下され、御自分一人でなさりたい仕事をも分けてやろう半口乗せてくりょうと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかもお
招喚にでもなってでのことか、
坐蒲団さえあげることのならぬこのようなところへわざわざおいでになってのお話し、それを無にしてもったいない、十兵衛厭でござりまするとは
冥利の尽きた
我儘勝手、親方様の御親切の分らぬはずはなかろうに胴欲なも無遠慮なも大方
程度のあったもの、これこの
妾の今着て居るのも去年の冬の取りつきに
袷姿の寒げなを気の毒がられてお吉様の、
縫直して着よと下されたのとは
汝の眼には
暎らぬか、一方ならぬ御恩を受けていながら親方様の
対岸へ廻るさえあるに、それを
小癪なとも恩知らずなともおっしゃらず、どこまでも弱い者を
愛護うて下さるお
仁慈深い御分別にも
頼り
縋らいで一概に厭じゃとは、たとえば真底から厭にせよ
記臆のある
人間の口から出せた言葉でござりまするか、親方様の手前お吉様の
所思をもよくとっくりと考えて見て下され、妾はもはやこれから先どの顔さげてあつかましくお吉様のお眼にかかることのなるものぞ、親方様はお胸の広うて、ああ十兵衛夫婦はわけの分らぬ愚か者なりゃ是も非もないと、そのまま何とも
思しめされずただ打ち捨てて下さるか知らねど、世間は汝を何と云おう、恩知らずめ義理知らずめ、人情
解せぬ畜生め、あれ
奴は犬じゃ烏じゃと万人の
指甲に
弾かれものとなるは
必定、犬や烏と身をなして仕事をしたとて何の
功名、欲をかわくな
齷齪するなと常々妾に
諭された自分の言葉に対しても恥かしゅうはおもわれぬか、どうぞ
柔順に親方様の御異見について下さりませ、天に
聳ゆる
生雲塔は誰々二人で作ったと、親方様ともろともに肩を並べて世に
称わるれば、汝の苦労の甲斐も立ち親方様のありがたいお
芳志も知るる道理、妾もどのように嬉しかろか喜ばしかろか、もしそうなれば不足というは薬にしたくもないはずなるに、汝は天魔に
魅られてそれをまだまだ不足じゃとおもわるるのか、ああ情ない、妾が云わずと知れている汝自身の身のほどを、身の分際を忘れてか、と泣き声になり掻き口説く女房の
頭は低く垂れて、
髷にさされし縫針の
孔が
啣えし
一条の糸ゆらゆらと振うにも、千々に砕くる心の
態の知られていとどいじらしきに、眼を
瞑ぎいし十兵衛は、その時例の
濁声出し、
喧しいわお浪、黙っていよ、
我の話しの邪魔になる、親方様聞いて下され。
思いの
中に激すればや、じたじたと
慄い出す
膝の
頭をしっかと寄せ合わせて、その上に
両手突っ張り、身を固くして十兵衛は、情ない親方様、二人でしょうとは情ない、十兵衛に半分仕事を譲って下さりょうとはお慈悲のようで情ない、厭でござります、厭でござります、塔の建てたいは山々でももう十兵衛は
断念めておりまする、お上人様のお諭しを聞いてからの帰り道すっぱり思いあきらめました、身のほどにもない考えを持ったが間違い、ああ私が馬鹿でござりました、のっそりはどこまでものっそりで馬鹿にさえなって居ればそれでよいわけ、
溝板でもたたいて一生を終りましょう、親方様
堪忍して下され
我が悪い、塔を建ちょうとはもう申しませぬ、見ず知らずの他の人ではなし御恩になった親方様の、一人で立派に建てらるるをよそながら視て喜びましょう、と元気なげに云い出づるを走り気の源太ゆるりとは聴いていず、ずいと身を進めて、馬鹿を云え十兵衛、あまり道理が分らな過ぎる、上人様のお諭しは
汝一人に聴けというてなされたではない
我が耳にも入れられたは、汝の腹でも聞いたらば我の胸でも受け取った、汝一人に
重石を
背負ってそう沈まれてしもうては源太が男になれるかやい、つまらぬ思案に身を
退いて馬鹿にさえなって居ればよいとは、分別が
摯実過ぎて
至当とは云われまいぞ、おおそうならば我がすると得たりかしこで引き受けては、上人様にも恥かしく第一源太がせっかく
磨いた
侠気もそこで
廃ってしまうし、汝はもとより
虻蜂取らず、知恵のないにもほどのあるもの、そしては二人が何よかろう、さあそれゆえに美しく二人で仕事をしょうというに、少しは気まずいところがあってもそれはお互い、汝が不足なほどにこっちにも面白くないのあるは知れきったことなれば、双方
忍耐しあうとして忍耐のできぬわけはないはず、何もわざわざ骨を折って汝が馬鹿になってしまい、幾日の心配を煙と
消やし天晴れな
手腕を寝せ殺しにするにも当らない、のう十兵衛、我の云うのが腑に落ちたら思案をがらりとし変えてくれ、源太は無理は云わぬつもりだ、これさなぜ黙って居る、不足か不承知か、承知してはくれないか、ええ我の了見をまだ呑み込んではくれないか、十兵衛、あんまり情ないではないか、何とか云うてくれ、不承知か不承知か、ええ情ない、黙って居られてはわからない、我の云うのが不道理か、それとも不足で腹立ててか、と義には強くて情には弱く意地も立つれば親切も飽くまで
徹す江戸ッ子腹の、源太は
柔和く問いかくれば、聞き居るお浪は嬉しさの骨身に浸みて、親方様ああありがとうござりますると口には出さねど、舌よりも
真実を語る涙をば
溢らす
眼に、返辞せぬ夫の方を
気遣いて、見れば男は露一厘身動きなさず無言にて思案の
頭重く
低れ、ぽろりぽろりと膝の上に散らす
涙珠の
零ちて声あり。
源太も今は無言となりしばらくひとり考えしが、十兵衛汝はまだわからぬか、それとも不足とおもうのか、なるほどせっかく望んだことを二人でするは口惜しかろ、しかも源太を
心にして
副になるのは口惜しかろ、ええ負けてやれこうしてやろう、源太は副になってもよい汝を心に立てるほどに、さあさあ清く承知して二人でしょうと合点せい、と
己が望みは無理に折り、思いきってぞ云い放つ。とッとんでもない親方様、たとえ十兵衛気が狂えばとてどうしてそうはできますものぞ、もったいない、とあわてて云うに、そうなら我の異見につくか、とただ一言に返されて、それは、と
窮るをまた追っかけ、汝を心に立てようか
乃至それでも不足か、と
烈しく突かれて度を失う
傍にて女房が気もわくせき、親方様の御異見になぜまあ早く付かれぬ、と責むるがごとく恨みわび、言葉そぞろに勧むれば十兵衛ついに絶体絶命、下げたる
頭を
徐かに上げ
円の
眼を
剥き出して、一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衛心になっても副になっても、厭なりゃどうしてもできませぬ、親方一人でお建てなされ、私は馬鹿で終りまする、と皆まで云わせず源太は怒って、これほど事を分けて云う我の
親切を無にしてもか。はい、ありがとうはござりまするが、
虚言は申せず、厭なりゃできませぬ。
汝よく云った、源太の言葉にどうでもつかぬか。是非ないことでござります。やあ覚えていよこののっそりめ、
他の情の分らぬ奴、そのようのこと云えた義理か、よしよし汝に口は利かぬ、一生
溝でもいじって暮せ、五重塔は気の毒ながら汝に指もささせまい、源太一人で立派に建てる、ならば手柄に
批点でも打て。
えい、ありがとうござります、滅法界に酔いました、もう
飲やせぬ、と
空辞誼はうるさいほどしながら、
猪口もつ手を後へは
退かぬがおかしき
上戸の
常態、清吉はや
馳走酒に十分酔ったれど遠慮に三分の真面目をとどめて殊勝らしく坐り込み、親方の
不在にこう
爛酔では済みませぬ、姉御と
対酌では夕暮を
躍るようになってもなりませんからな、アハハむやみに嬉しくなって来ました、もう行きましょう、はめを
外すと親方のお眼玉だ、だがしかし姉御、内の親方には眼玉を
貰っても
私は嬉しいとおもっています、なにも姉御の前だからとて軽薄を云うではありませぬが、
真実に内の親方は茶袋よりもありがたいとおもっています、いつぞやの
凌雲院の仕事の時も鉄や
慶を
対うにしてつまらぬことから
喧嘩を初め、鉄が肩先へ大怪我をさしたその後で鉄が親から泣き込まれ、ああ悪かった気の毒なことをしたと後悔してもこっちも貧的、どうしてやるにもやりようなく、困りきって
逃亡とまで思ったところを、黙って親方から療治手当もしてやって下された上、かけら半分
叱言らしいことを私に云われず、ただ
物和しく、清や
汝喧嘩は時のはずみで仕方はないが気の毒とおもったら
謝罪っておけ、鉄が親の気持もよかろし汝の寝覚めもよいというものだと心づけて下すったその時は、ああどうしてこんなに
仁慈深かろとありがたくてありがたくて私は泣きました、鉄に謝罪るわけはないが親方の一言に
堪忍して私も謝罪りに行きましたが、それから
異なものでいつとなく鉄とは仲好しになり、今ではどっちにでもひょっとしたことのあれば骨を拾ってやろうかもらおうかというぐらいの
交際になったも皆親方のお
蔭、それに引き変え茶袋なんぞはむやみに
叱言を云うばかりで、やれ喧嘩をするな
遊興をするなとくだらぬことを小うるさく耳の
傍で口説きます、ハハハいやはや話になったものではありませぬ、え、茶袋とは
母親のことです、なに
酷くはありませぬ茶袋でたくさんです、しかも渋をひいた番茶の方です、あッハハハ、ありがとうござります、もう行きましょう、え、また一本
燗けたから飲んで行けとおっしゃるのですか、ああありがたい、茶袋だと
此方で一本というところを
反対にもう
廃せと云いますわ、ああ好い心持になりました、歌いたくなりましたな、歌えるかとは情ない、松づくしなぞはあいつに
賞められたほどで、と罪のないことを云えばお吉も笑いを含んで、そろそろ
惚気は恐ろしい、などと
調戯い居るところへ帰って来たりし源太、おおちょうどよい清吉いたか、お吉飲もうぞ、支度させい、清吉今夜は酔い
潰れろ、胴魔声の松づくしでも聞いてやろ。や、親方立聞きして居られたな。
清吉酔うてはしまりなくなり、砕けた源太が
談話ぶり
捌けたお吉が
接待ぶりにいつしか遠慮も打ち忘れ、
擬されて
辞まず受けてはつと
干し
酒盞の数重ぬるままに、
平常から可愛らしき
紅ら顔を一層みずみずと、実の
熟った丹波
王母珠ほど紅うして、罪もなき高笑いやら相手もなしの
空示威、朋輩の誰の噂彼の噂、
自己が
仮声のどこそこで
喝采を獲たる自慢、
奪られぬ奪られるの云い争いの末
何楼の
獅顔火鉢を
盗り出さんとして
朋友の仙の野郎が
大失策をした話、五十間で地廻りを
擲ったことなど、縁に引かれ図に乗ってそれからそれへと
饒舌り散らすうち、ふとのっそりの噂に火が飛べば、とろりとなりし眼を急に見張って、ぐにゃりとしていし肩を
聳だて、冷とうなった飲みかけの酒を
異しく唇まげながら吸い干し、一体あんな馬鹿野郎を親方の可愛がるというが
私には
頭からわかりませぬ、仕事といえば馬鹿丁寧で
捗びは一向つきはせず、柱一本
鴫居一ツで嘘をいえば
鉋を三度も
礪ぐような
緩慢な奴、何を一ツ頼んでも間に合った
例がなく、赤松の
炉縁一ツに三日の手間を取るというのは、多方ああいう手合だろうと仙が笑ったも無理はありませぬ、それを親方が
贔屓にしたので一時は正直のところ、済みませんが私も
金も仙も六も、あんまり親方の腹が大きすぎてそれほどでもないものを買い込み過ぎて居るではないか、念入りばかりで気に入るなら
我たちもこれから羽目板にも仕上げ
鉋、のろりのろりとしたたか清めて
碁盤肌にでも削ろうかと
僻みを云ったこともありました、第一あいつは
交際知らずで女郎買い一度一所にせず、
好闘鶏鍋つつき合ったこともない
唐偏朴、いつか
大師へ
一同が行く時も、まあ親方の
身辺について居るものを一人ばかり仲間はずれにするでもないと私が親切に誘ってやったに、我は貧乏で行かれないと云ったきりの
挨拶は、なんと愛想も義理も知らな過ぎるではありませんか、銭がなければ
女房の一枚着を曲げ込んでも交際は交際で立てるが
朋友ずく、それもわからない
白痴の癖に段々親方の恩を
被て、私や金と同じことに今ではどうか一人立ち、しかも
憚りながら
青っ
涕垂らして弁当箱の持運び、
木片を担いでひょろひょろ帰る
餓鬼のころから親方の手についていた私や仙とは違って奴は渡り者、次第を云えば私らより一倍深く親方をありがたい
忝ないと思っていなけりゃならぬはず、親方、姉御、私は悲しくなって来ました、私はもしものことがあれば親方や姉御のためと云や黒煙の
煽りを食っても飛び込むぐらいの了見は持って居るに、畜生ッ、ああ
人情ない野郎め、のっそりめ、あいつは火の中へは恩を
背負っても入りきるまい、ろくな根性はもっていまい、ああ人情ない畜生めだ、と酔いが図らず云い出せし不平の中に潜り込んで、めそめそめそめそ泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、
例の癖が出て来たかと困った風情はしながらも自己の胸にものっそりの憎さがあれば、幾らかは清が言葉を
道理と聞く傾きもあるなるべし。
源太は腹に戸締りのなきほど
愚かならざれば、
猪口を
擬しつけ高笑いし、何を云い出した清吉、寝ぼけるな我の前だわ、三の切を出しても初まらぬぞ、その手で女でも口説きやれ、随分ころりと来るであろう、
汝が
惚けた
小蝶さまのお部屋ではない、アッハハハと
戯言を云えばなお真面目に、
木珠ほどの涙を払うその手をぺたりと
刺身皿の中につっこみ、しゃくり上げ
歔欷して泣き出し、ああ情ない親方、私を
酔漢あしらいは情ない、酔ってはいませぬ、小蝶なんぞは
飲べませぬ、そういえばあいつの
面がどこかのっそりに似て居るようで口惜しくて情ない、のっそりは憎い奴、親方の
対うを張って大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、親方が
和し過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も
明智のようなは
道理だと
伯龍が講釈しましたがあいつのようなは大悪
無道、親方はいつのっそりの頭を鉄扇で
打ちました、いつ
蘭丸にのっそりの領地を
与ると云いました、私は今にもしもあいつが親方の言葉に甘えて名を
列べて塔を建てれば
打捨ってはおけませぬ、
擲き殺して
狗にくれますこういうように擲き殺して、と
明徳利の横面いきなり
打き飛ばせば、
砕片は散って皿小鉢
跳り出すやちんからり。馬鹿野郎め、と親方に大喝されてそのままにぐずりと
坐りおとなしく居るかと思えば、散らかりし
還原海苔の上に額おしつけはや
鼾声なり。源太はこれに打ち笑い、愛嬌のある阿呆めに
掻巻かけてやれ、と云いつつ手酌にぐいと引っかけて酒気を吹くことやや久しく、
怒って帰って来はしたもののああでは高が清吉同然、さて分別がまだ
要るわ。
源太が怒って帰りし後、腕
拱きて
茫然たる夫の顔をさし
覗きて、吐息つくづくお浪は歎じ、親方様は怒らする仕事はつまり手に入らず、夜の眼も合わさず
雛形まで
製造えた幾日の骨折りも苦労も
無益にした揚句の果てに
他の気持を悪うして、恩知らず人情なしと人の口端にかかるのはあまりといえば情ない、女の差し出たことをいうとただ一口に云わるるか知らねど、正直
律義もほどのあるもの、親方様があれほどに云うて下さる異見について一緒にしたとて
恥辱にはなるまいに、
偏僻張ってなんのつまらぬ意気地立て、それを誰が感心なと
褒めましょう、親方様の御料簡につけば第一御恩ある親方のお心持もよいわけ、またお前の名も上り苦労骨折りの甲斐も立つわけ、三方四方みな好いになぜその気にはなられぬか、少しもお前の料簡が
妾の腹には
合点ぬ、よくまあ思案し直して親方様の御異見につい従うては下されぬか、お前が分別さえ
更えれば妾がすぐにも親方様のところへ行き、どうにかこうにか
謝罪云うて一生懸命精一杯、
打たれても
擲かれても動くまいほど覚悟をきめ、謝罪って謝罪って謝罪り
貫いたらお情深い親方様が、まさかにいつまで怒ってばかりも居られまい、一時の料簡違いは
堪忍して下さることもあろう、分別しかえて意地
張らずに、親方様の云われた通りして見る気にはなられぬか、と夫思いの一筋に口説くも女の
道理なれど、十兵衛はなお眼も動かさず、ああもう云うてくれるな、ああ、五重塔とも云うてくれるな、よしないことを思いたってなるほど恩知らずとも云わりょう人情なしとも云わりょう、それも十兵衛の分別が足らいででかしたこと、今さらなんとも是非がない、しかし
汝の云うように思案しかえるはどうしても厭、十兵衛が仕事に手下は使おうが
助言は頼むまい、人の仕事の手下になって使われはしょうが助言はすまい、
桝組も
椽配りも
我がする日には我の勝手、どこからどこまで一寸たりとも人の
指揮は決して受けぬ、善いも悪いも一人で
背負って立つ、
他の仕事に使われればただ正直の手間取りとなって渡されただけのことするばかり、生意気な差し出口は夢にもすまい、自分が主でもない癖に
自己が葉色を際立てて
異った風を
誇り
顔の
寄生木は十兵衛の虫が好かぬ、人の仕事に寄生木となるも厭ならわが仕事に寄生木を
容るるも虫が嫌えば是非がない、
和しい源太親方が義理人情を
噛み砕いてわざわざ
慫慂て下さるは我にもわかってありがたいが、なまじい我の心を生かして寄生木あしらいは情ない、十兵衛は馬鹿でものっそりでもよい、寄生木になって栄えるは嫌いじゃ、
矮小な下草になって枯れもしょう
大樹を頼まば
肥料にもなろうが、ただ寄生木になって高く止まる奴らを日ごろいくらも見ては卑しい奴めと心中で
蔑視げていたに、今我が自然親方の情に甘えてそれになるのはどうあっても小恥かしゅうてなりきれぬわ、いっそのことに親方の
指揮のとおりこれを削れあれを
挽き割れと使わるるなら嬉しけれど、なまじ情がかえって悲しい、汝も定めてわからぬ奴と恨みもしょうが
堪忍してくれ、ええ是非がない、わからぬところが十兵衛だ、ここがのっそりだ、馬鹿だ、
白痴漢だ、何と云われても仕方はないわ、ああッ火も小さくなって寒うなった、もうもう寝てでもしまおうよ、と
聴けば一々道理の述懐。お浪もかえす言葉なく無言となれば、なお寒き
一室を照らせる
行燈も
灯花に暗うなりにけり。
その夜は源太床に入りてもなかなか眠らず、
一番鶏二番鶏を耳たしかに聞いて朝も
平日よりははよう起き、
含嗽手水に見ぬ夢を洗って熱茶一杯に酒の残り香を払う折しも、むくむくと起き上ったる清吉
寝惚眼をこすりこすり
怪訝顔してまごつくに、お吉ともども
噴飯して笑い、清吉
昨夜はどうしたか、と
嬲れば急にかしこまって無茶苦茶に頭を下げ、つい御馳走になり過ぎていつか知らず寝てしまいました、姉御、昨夜
私は何か悪いことでもしはしませぬか、と心配そうに尋ぬるもおかしく、まあ何でも好いわ、飯でも食って仕事に行きやれ、と
和しく云われてますます
畏れ、
恍然として腕を組みしきりに考え込む
風情、正直なるが可愛らし。
清吉を出しやりたる後、源太はなおも考えにひとり沈みて日ごろの
快活とした調子に似もやらず、ろくろくお吉に口さえきかで思案に思案を凝らせしが、ああわかったと
独り
言するかと思えば、
愍然なと溜息つき、ええ
抛げようかと云うかとおもえば、どうしてくりょうと腹立つ様子を傍にてお吉の見る辛さ、問い慰めんと口を
出せば黙っていよとやりこめられ、
詮方なさに胸の中にて空しく心をいたむるばかり。源太はそれらに
関いもせず夕暮方まで考え考え、ようやく思い定めやしけんつと身を起して衣服をあらため、感応寺に行き上人に
見えて昨夜の始終をば隠すことなく物語りし末、一旦は私もあまりわからぬ十兵衛の答えに腹を立てしものの帰ってよくよく考うれば、たとえば私一人して立派に塔は建つるにせよ、それではせっかくお
諭しを受けた甲斐なく源太がまた我欲にばかり強いようで
男児らしゅうもない話し、というて十兵衛は十兵衛の思わくを滅多に捨てはすまじき様子、あれも全く
自己を押えて譲れば源太も自己を押えてあれに仕事をさせ下されと譲らねばならぬ義理人情、いろいろ愚かな考えを使ってようやく案じ出したことにも十兵衛が乗らねば仕方なく、それを怒っても恨んでも是非のないわけ、はやこの上には変った分別も私には出ませぬ、ただ願うはお上人様、たとえば十兵衛一人に仰せつけられますればとて私かならず何とも思いますまいほどに、十兵衛になり私になり二人ともどもになりどうとも仰せつけられて下さりませ、御口ずからのことなれば十兵衛も私も互いに争う心は捨てておりまするほどに露さら故障はござりませぬ、我ら二人の相談には余って願いにまいりました、と実意を面に現わしつつ願えば上人ほくほく笑われ、そうじゃろそうじゃろ、さすがに
汝も見上げた男じゃ、よいよい、その心がけ一つでもう生雲塔見事に建てたより立派に汝はなっておる、十兵衛も
先刻に来て同じことを云うて帰ったわ、あれも可愛い男ではないか、のう源太、可愛がってやれ可愛がってやれ、と心ありげに云わるる言葉を源太早くも合点して、ええ可愛がってやりますとも、といと
清しげに答うれば、上人満面
皺にして
悦びたまいつ、よいわよいわ、ああ気味のよい男児じゃな、と真から底からほめられて、もったいなさはありながら源太おもわず
頭をあげ、お
蔭で男児になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き。はやこの時に十兵衛が仕事に助力せん心の、世に美しくも湧きたるなるべし。
十兵衛感応寺にいたりて朗円上人に
見え、涙ながらに辞退の旨云うて帰りしその日の味気なさ、煙草のむだけの気も動かすに力なく、
茫然としてつくづくわが身の
薄命、浮世の渡りぐるしきことなど思い
廻らせば思い廻らすほど
嬉しからず、時刻になりて食う飯の味が今さら
異れるではなけれど、
箸持つ手さえ
躊躇いがちにて舌が
美味うは受けとらぬに、
平常は六碗七碗を快う
喫いしもわずかに一碗二碗で終え、茶ばかりかえって多く飲むも、心に
不悦のある人の免れがたき
慣例なり。
主人が浮かねば女房も、何の罪なきやんちゃざかりの
猪之まで
自然と浮き立たず、
淋しき貧家のいとど淋しく、
希望もなければ
快楽も一点あらで日を暮らし、暖か味のない夢に
物寂びた夜を明かしけるが、お浪
暁天の鐘に眼覚めて猪之と一所に寝たる床よりそっと出づるも、朝風の寒いに火のないうちから起すまじ、も少し
睡させておこうとの
慈しき親の心なるに、何もかも知らいでたわいなく寝ていし
平生とは違い、どうせしことやらたちまち飛び起き、
襦袢一つで夜具の上
跳ね廻り跳ね廻り、厭じゃい厭じゃい、父様を
打っちゃ厭じゃい、と
蕨のような手を眼にあてて何かは知らず泣き出せば、ええこれ猪之はどうしたものぞ、とびっくりしながら抱き止むるに抱かれながらもなお泣き止まず。誰も父様を打ちはしませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寝て居らるる、と顔を押し向け知らすれば不思議そうに覗き込んで、ようやく安心しはしてもまだ
疑惑の晴れぬ様子。
猪之やなんにもありはしないわ、夢を見たのじゃ、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床にはいって寝て居るがよい、と引き倒すようにして横にならせ、
掻巻かけて
隙間なきよう上から押しつけやる母の顔を見ながら眼をぱっちり、ああ
怖かった、今よその怖い人が。おゝおゝ、どうかしましたか。大きな、大きな
鉄槌で、黙って坐って居る父様の、頭を打って幾つも打って、頭が半分
砕れたので坊は大変びっくりした。ええ鶴亀鶴亀、厭なこと、延喜でもないことを云う、と
眉を
皺むる折も折、
戸外を通る納豆売りの
戦え声に覚えある奴が、ちェッ
忌々しい
草鞋が切れた、と打ち
独語きて行き過ぐるに女房ますます気色を
悪しくし、台所に出て
釜の下を
焚きつくれば思うごとく燃えざる
薪も腹立たしく、引窓の
滑りよく明かぬも今さらのように
焦れったく、ああ何となく厭な日と思うも心からぞとは知りながら、なお気になることのみ気にすればにや多けれど、また云い出さば笑われんと自分で
呵って
平日よりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、いきいきとして夫をあしらい子をあしらえど、根がわざとせし
偽飾なればかえって笑いの尻声が
憂愁の響きを遺して去る
光景の悲しげなるところへ、十兵衛殿お宅か、と
押柄に大人びた口ききながらはいり来る小坊主、高慢にちょこんと上り込み、御用あるにつきすぐと来たられべしと
前後なしの棒口上。
お浪も不審、十兵衛も分らぬことに思えども
辞みもならねば、はや感応寺の門くぐるさえ
無益しくは考えつつも、何御用ぞと行って問えば、天地
顛倒こりゃどうじゃ、夢か
現か真実か、円道右に為右衛門左に朗円上人
中央に坐したもうて、円道言葉おごそかに、このたび建立なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべきはずのところ、方丈
思しめし寄らるることあり格別の御詮議例外の御慈悲をもって、十兵衛その
方にしかとお任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早々ありがたく御受け申せ、と云い渡さるるそれさえあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衛よ、思う存分し遂げて見い、よう仕上らば嬉しいぞよ、と
荷担うに余る
冥加のお言葉。のっそりハッと
俯伏せしまま五体を
濤と
動がして、十兵衛めが
生命はさ、さ、さし出しまする、と云いしぎり
咽塞がりて言語絶え、
岑閑とせし広座敷に何をか語る呼吸の響き
幽かにしてまた人の耳に徹しぬ。
紅蓮白蓮の
香ゆかしく
衣袂に
裾に
薫り来て、浮葉に露の玉
動ぎ立葉に風のそよ吹ける面白の夏の
眺望は、
赤蜻蛉菱藻を
嬲り初霜向うが岡の
樹梢を染めてより
全然となくなったれど、
赭色になりて
荷の茎ばかり情のう立てる間に、世を忍びげの
白鷺がそろりと歩む姿もおかしく、
紺青色に暮れて行く
天にようやく
輝り出す星を背中に
擦って飛ぶ
雁の、鳴き渡る音も
趣味ある
不忍の池の景色を
下物のほかの下物にして、客に酒をば亀の子ほど飲まする
蓬莱屋の裏二階に、気持のよさそうな顔して欣然と人を待つ男一人。
唐桟揃いの
淡泊づくりに住吉張りの銀煙管おとなしきは、職人らしき
侠気の風の
言語挙動に見えながら
毫末も下卑ぬ上品
質、いずれ親方親方と多くのものに立てらるる
棟梁株とは、かねてから知り居る
馴染のお伝という女が、さぞお待ち遠でござりましょう、と膳を置きつつ云う世辞を、待つ退屈さに
捕えて、待ち遠で待ち遠で
堪りきれぬ、ほんとに人の気も知らないで何をして居るであろう、と云えば、それでもお
化粧に手間の取れまするが無理はないはず、と云いさしてホホと笑う慣れきった返しの太刀筋。アハハハそれも
道理じゃ、今に来たらばよく見てくれ、まあ恐らくここらに類はなかろう、というものだ。おや恐ろしい、何を
散財って下さります、そして親方、というものは御師匠さまですか。いいや。娘さんですか。いいや。後家様。いいや。お
婆さんですか。馬鹿を云え可愛そうに。では赤ん坊。こいつめ人をからかうな、ハハハハハ。ホホホホホとくだらなく笑うところへ
襖の外から、お伝さんと名を呼んでお連れ様と知らすれば、立ち上って唐紙明けにかかりながらちょっと後ろ向いて人の顔へ
異に眼をくれ無言で笑うは、お嬉しかろと
調戯って
焦らして
底悦喜さする冗談なれど、源太はかえって
心からおかしく思うとも知らずにお伝はすいと明くれば、のろりと入り来る客は色ある
新造どころか香も艶もなき無骨男、ぼうぼう
頭髪のごりごり
腮髯、
面は
汚れて
衣服は
垢づき破れたる見るから厭気のぞっとたつほどな様子に、さすがあきれて
挨拶さえ
どぎまぎせしまま急には出ず。
源太は笑みを含みながら、さあ十兵衛ここへ来てくれ、
関うことはない
大胡坐で楽にいてくれ、とおずおずし居るを無理に坐に
居え、やがて膳部も
具備りし後、さてあらためて飲み干したる
酒盃とって源太は
擬し、
沈黙で居る十兵衛に
対い、十兵衛、
先刻に
富松をわざわざ
遣ってこんなところに来てもらったは、何でもない、実は仲直りしてもらいたくてだ、どうか
汝とわっさり飲んで互いの胸を和熟させ、
過日の夜の
我が云うたあの云い過ぎも忘れてもらいたいとおもうからのこと、聞いてくれこういうわけだ、過日の夜は実は我もあまり汝をわからぬ奴と
一途に思って腹も立った、恥かしいが
肝癪も起し
業も
沸し汝の頭を
打砕いてやりたいほどにまでも思うたが、しかし
幸福に源太の頭が悪玉にばかりは乗っ取られず、清吉めが家へ来て酔った揚句に云いちらした無茶苦茶を、ああ了見の
小い奴はつまらぬことを理屈らしく恥かしくもなく云うものだと、聞いているさえおかしくて
堪らなさにふとそう思ったその途端、その夜汝の家で
陳べ立って来た我の云い草に気がついて見れば清吉が言葉と似たり寄ったり、ええ間違った一時の腹立ちに
捲き込まれたか残念、源太男が
廃る、意地が立たぬ、上人の
蔑視も恐ろしい、十兵衛が何もかも捨てて辞退するものを
斜に取って
逆意地たてれば大間違い、とは思ってもあまり汝のわからな過ぎるが腹立たしく、四方八方どこからどこまで考えて、ここを推せばそこに
襞が出る、あすこを立てればここに無理があると、まあ我の知恵分別ありたけ尽して我のためばかり
籌るではなく云うたことを、むげに云い消されたが
忌々しくて忌々しくて随分
堪忍もしかねたが、さていよいよ了見を
定めて上人様のお眼にかかり所存を申し上げて見れば、よいよいと仰せられたただの一言に
雲霧はもうなくなって、
清しい風が大空を吹いて居るような心持になったわ、
昨日はまた上人様からわざわざのお招きで、行って見たれば我を御賞美のお言葉数々のその上、いよいよ十兵衛に普請一切申しつけたが
蔭になって助けてやれ、皆
汝の善根福種になるのじゃ、十兵衛が手には職人もあるまい、
彼がいよいよ取りかかる日には
何人も
傭うその
中に汝が手下の者も交じろう、必ず
猜忌邪曲など起さぬようにそれらには汝からよく云い含めてやるがよいとの細かいお
諭し、何から何まで見透しでお慈悲深い上人様のありがたさにつくづく我折って帰って来たが、十兵衛、
過日の云い過ごしは
堪忍してくれ、こうした我の心意気がわかってくれたら
従来通り
浄く
睦まじく
交際ってもらおう、一切がこう定まって見れば何と思った
彼と思ったは皆夢の中の物詮議、後に
遺して面倒こそあれ
益ないこと、この不忍の池水にさらりと流して我も忘りょう、十兵衛
汝も忘れてくれ、
木材の引合い、
鳶人足への渡りなんど、まだ顔を売り込んでいぬ汝にはちょっとしにくかろうが、それらには我の顔も貸そうし手も貸そう、
丸丁、
山六、
遠州屋、いい
問屋は皆
馴染でのうては
先方がこっちを呑んでならねば、万事
歯痒いことのないよう我を自由に出しに使え、め組の
頭の
鋭次というは短気なは汝も知って居るであろうが、骨は
黒鉄、性根玉は
憚りながら火の玉だと
平常云うだけ、さてじっくり頼めばぐっと引き受け一寸
退かぬ頼もしい男、塔は何より
地行が大事、空風火水の四ツを受ける地盤の固めをあれにさせれば、火の玉鋭次が根性だけでも不動が台座の岩より堅く
基礎しかと
据えさすると
諸肌ぬいでしてくるるは
必定、あれにもやがて
紹介しょう、もうこうなった暁には源太が望みはただ一ツ、
天晴れ十兵衛汝がよくしでかしさえすりゃそれでよいのじゃ、ただただ塔さえよくできればそれに越した嬉しいことはない、かりそめにも百年千年末世に残って云わば我たちの弟子筋の奴らが眼にも入るものに、へまがあっては悲しかろうではないか、情ないではなかろうか、源太十兵衛時代にはこんなくだらぬ建物に泣いたり笑ったりしたそうなと云われる日には、なあ十兵衛、二人が
舎利も
魂魄も
粉灰にされて消し飛ばさるるわ、
拙な細工で世に出ぬは恥もかえって少ないが、遺したものを弟子めらに笑わる日には馬鹿
親父が息子に異見さるると同じく、親に異見を食う子より何段増して恥かしかろ、生き
磔刑より死んだ後塩漬の上磔刑になるような目にあってはならぬ、初めは我もこれほどに深くも思い寄らなんだが、汝が我の
対面にたったその意気張りから、十兵衛に塔建てさせ見よ源太に劣りはすまいというか、源太が建てて見せくりょう何十兵衛に劣ろうぞと、腹の底には木を
鑚って出した火で
観る先の先、我意はなんにもなくなったただよくできてくれさえすれば汝も
名誉我も悦び、今日はこれだけ云いたいばかり、ああ十兵衛その大きな眼を
湿ませて
聴いてくれたか嬉しいやい、と
磨いて
礪いで礪ぎ出した
純粋江戸ッ子粘り気なし、
一でなければ六と出る、
忿怒の裏の
温和さもあくまで強き源太が言葉に、
身動ぎさえせで聞きいし十兵衛、何も云わず畳に食いつき、親方、
堪忍して下され口がきけませぬ、十兵衛には口がきけませぬ、こ、こ、この通り、ああありがとうござりまする、と愚かしくもまた
真実にただ
平伏して泣きいたり。
言葉はなくても
真情は見ゆる十兵衛が
挙動に源太は悦び、春風
湖を渡って
霞日に蒸すともいうべき温和の景色を面にあらわし、なおもやさしき語気
円暢に、こう打ち解けてしもうた上は互いにまずいこともなく、上人様の
思召しにもかない我たちの
一分も皆立つというもの、ああなんにせよ好い心持、十兵衛汝も過してくれ、我も充分今日こそ酔おう、と云いつつ立って違い
棚に載せて置いたる風呂敷包みとりおろし、結び目といて
二束にせし
書類いだし、十兵衛が前に置き、我にあっては要なき
此品の、一ツは面倒な
材木の
委細しい当りを調べたのやら、人足
軽子そのほかさまざまの入目を幾晩かかかってようやく調べあげた積り書、また一ツはあすこをどうしてここをこうしてと工夫に工夫した下絵図、腰屋根の地割りだけなもあり、
平地割りだけなのもあり、初重の仕形だけのもあり、二手先または三手先、出し組ばかりなるもあり、雲形波形
唐草生類彫物のみを書きしもあり、何よりかより面倒なる真柱から
内法長押腰長押切目長押に半長押、
縁板縁かつら亀腹柱高欄
垂木桝肘木、
貫やら
角木の割合算法、
墨縄の引きよう
規尺の取りよう余さず
洩らさず記せしもあり、中には我のせしならで家に秘めたる先祖の
遺品、外へは出せぬ絵図もあり、
京都やら奈良の堂塔を写しとりたるものもあり、これらはみんな
汝に預くる、見たらば何かの足しにもなろ、と
自己が
精神を
籠めたるものを惜しげもなしに譲りあたうる、胸の広さの頼もしきを
解せぬというにはあらざれど、のっそりもまた一
ト気性、
他の
巾着でわが口
濡らすようなことは好まず、親方まことにありがとうはござりまするが、御親切は
頂戴いたも同然、これはそちらにお納めを、と心はさほどになけれども言葉に
膠のなさ過ぎる返辞をすれば、源太大きに悦ばず。
此品をば汝は
要らぬと云うのか、と
慍りを底に
匿して問うに、のっそりそうとは気もつかねば、別段拝借いたしても、と一句うっかり答うる途端、鋭き気性の源太は
堪らず、親切の上親切を尽してわが知恵思案を凝らせし絵図までやらんというものを、むげに返すか慮外なり、何ほど
自己が
手腕のよくて
他の
好情を無にするか、そもそも最初に
汝めがわが
対岸へ廻わりし時にも腹は立ちしが、じっと
堪えて争わず、
普通大体のものならばわが
庇蔭被たる身をもって一つ仕事に手を入るるか、打ち
擲いても飽かぬ奴と、怒って怒ってどうにもすべきを、
可愛きものにおもえばこそ一言半句の厭味も云わず、ただただ自然の成行きに任せおきしを忘れしか、上人様のお諭しを受けての後も分別に分別
渇らしてわざわざ出かけ、汝のために相談をかけてやりしも勝手の意地張り、大体ならぬものとても
堪忍なるべきところならぬを、よくよく汝をいとしがればぞ踏み
耐えたるとも知らざるか、汝が運のよきのみにて汝が
手腕のよきのみにて汝が心の正直のみにて、上人様より今度の
工事命けられしと思い居るか、
此品をばやってこの源太が恩がましくでも思うと思うか、
乃至はもはや慢気の
萌して
頭からなんのつまらぬものと人の絵図をも易く思うか、取らぬとあるに強いはせじ、あまりといえば人情なき奴、ああありがとうござりますると喜び受けてこの
中の仕様を
一所二所は用いし上に、あの箇所はお蔭でうもう行きましたと後で
挨拶するほどのことはあっても当然なるに、
開けて見もせず
覗きもせず、知れきったると云わぬばかりに愛想も
菅もなく要らぬとは、汝十兵衛よくも
撥ねたの、この源太がした図の中に汝の知ったもののみあろうや、
汝らが工風の輪の外に源太が
跳り出ずにあろうか、見るに足らぬとそちで思わば
汝が手筋も知れてある、大方高の知れた塔建たぬ前から眼に
暎って気の毒ながら
批難もある、もう堪忍の緒も
断れたり、
卑劣い
返報はすまいなれど源太が
烈しい意趣
返報は、する時なさでおくべきか、酸くなるほどに今までは口もきいたがもうきかぬ、一旦思い捨つる上は口きくほどの未練ももたぬ、三年なりとも十年なりとも
返報するに充分なことのあるまで、物蔭から眼を光らして睨みつめ無言でじっと待っててくりょうと、気性が違えば思わくも一二度ついに三度めで無残至極に
齟齬い、いと物静かに言葉を低めて、十兵衛殿、と殿の字を急につけ出し
叮嚀に、要らぬという図はしまいましょ、
汝一人で建つる塔定めて立派にできようが、地震か風のあろう時
壊るることはあるまいな、と軽くは云えど深く嘲ける
語に十兵衛も快よからず、のっそりでも
恥辱は知っております、と底力味ある
楔を打てば、なかなか見事な一言じゃ、忘れぬように
記臆えていようと、
釘をさしつつ恐ろしく
睥みて後は物云わず、やがてたちまち立ち上って、ああとんでもないことを忘れた、十兵衛殿ゆるりと遊んでいてくれ、我は帰らねばならぬこと思い出した、と風のごとくにその座を去り、あれという間に推量勘定、
幾金か遺してふいと出つ、すぐその足で同じ町のある家が
閾またぐや否、厭だ厭だ、厭だ厭だ、つまらぬくだらぬ馬鹿馬鹿しい、ぐずぐずせずと酒もて来い、
蝋燭いじってそれが食えるか、
鈍痴め
肴で酒が飲めるか、
小兼春吉お
房蝶子四の五の云わせず掴んで来い、
臑の達者な若い衆頼も、
我家へ行て清、仙、鉄、政、誰でも彼でもすぐに遊びによこすよう、という片手間にぐいぐい
仰飲る間もなく入り来る女どもに、今晩なぞとは手ぬるいぞ、とまっ向から
焦躁を吹っかけて、飲め、酒は
車懸り、
猪口は巴と廻せ廻せ、お房
外見をするな、春婆大人ぶるな、ええお蝶めそれでも血が
循環って居るのか
頭上に
鼬花火載せて火をつくるぞ、さあ歌え、じゃんじゃんとやれ、小兼め気持のいい声を出す、あぐり踊るか、かぐりもっと
跳ねろ、やあ清吉来たか鉄も来たか、なんでもいい滅茶滅茶に騒げ、我に嬉しいことがあるのだ、無礼講にやれやれ、と大将無法の元気なれば、後れて来たる仙も政も
煙に巻かれて浮かれたち、天井抜きょうが根太抜きょうが抜けたら
此方のお手のものと、飛ぶやら舞うやら
唸るやら、
潮来出島もしおらしからず、甚句に
鬨の声を湧かし、かっぽれに
滑って
転倒び、
手品の太鼓を杯洗で鉄がたたけば、清吉はお房が傍に寝転んで
銀釵にお前そのよに酢ばかり飲んでを稽古する馬鹿騒ぎの中で、一了簡あり顔の政が
木遣を丸めたような声しながら、北に
峨々たる
青山をと
異なことを吐き出す勝手
三昧、やっちゃもっちゃの末は
拳も下卑て、
乳房の
脹れた奴が臍の下に紙幕張るほどになれば、さあもうここは切り上げてと源太が一言、それから先はどこへやら。
蒼の飛ぶ時よそ
視はなさず、鶴なら鶴の一点張りに雲をも
穿ち風にも
逆って目ざす獲物の、
咽喉仏把攫までは合点せざるものなり。十兵衛いよいよ五重塔の
工事するに定まってより寝ても起きてもそれ
三昧、朝の飯
喫うにも心の中では塔を
噬み、夜の夢結ぶにも
魂魄は九輪の頂を
繞るほどなれば、まして仕事にかかっては妻あることも忘れ果て
児のあることも忘れ果て、
昨日の我を念頭に浮べもせず
明日の我を想いもなさず、ただ一
ト釿ふりあげて木を
伐るときは満身の力をそれに
籠め、一枚の図をひく時には一心の誠をそれに注ぎ、五尺の身体こそ犬鳴き
鶏歌い権兵衛が家に
吉慶あれば
木工右衛門がところに
悲哀ある俗世に
在りもすれ、
精神は紛たる因縁に
奪られで必死とばかり勤め励めば、
前の夜源太に面白からず思われしことの気にかからぬにはあらざれど、日ごろののっそりますます長じて、はやいずくにか風吹きたりしぐらいに自然軽う取り
做し、やがてはとんと打ち忘れ、ただただ仕事にのみかかりしは愚かなるだけ情に鈍くて、
一条道より外へは
駈けぬ
老牛の痴に似たりけり。
金箔銀箔
瑠璃真珠
水精以上合わせて五宝、
丁子沈香白膠薫陸白檀以上合わせて五香、そのほか五薬五穀まで備えて
大土祖神埴山彦神埴山媛神あらゆる鎮護の神々を祭る地鎮の式もすみ、
地曳き土取り故障なく、さて
竜伏はその月の生気の方より
右旋りに次第
据え行き五星を祭り、
釿初めの大礼には
鍛冶の道をば
創められし
天の
目一箇の
命、番匠の道
闢かれし
手置帆負の
命彦狭知の
命より
思兼の
命天児屋根の
命太玉の
命、木の神という
句々廼馳の
神まで七神祭りて、その次の
清鉋の礼も首尾よく済み、
東方提頭頼持国天王、
西方尾叉広目天王、
南方毘留勒叉増長天、
北方毘沙門多聞天王、四天にかたどる四方の柱千年万年
動ぐなと祈り定むる
柱立式、
天星色星多願の
玉女三神、
貪狼巨門等北斗の七星を祭りて願う永久安護、順に柱の
仮轄を三ッずつ打って
脇司に打ち
緊めさする十兵衛は、
幾干の苦心もここまで運べば
垢穢顔にも光の出るほど
喜悦に気の勇み立ち、動きなき
下津盤根の太柱と式にて唱うる古歌さえも、何とはなしにつくづく嬉しく、身を立つる世のためしぞとその下の句を吟ずるにも
莞爾しつつ二たびし、壇に向うて礼拝
恭み、
拍手の音清く響かし一切成就の
祓を終るここの
光景には引きかえて、源太が家の
物淋しさ。
主人は男の心強く思いを外には現わさねど、お吉は何ほどさばけたりとてさすが女の胸小さく、出入るものに感応寺の塔の地曳きの今日済みたり柱立式昨日済みしと聞くたびごとに
忌々しく、嫉妬の
火炎衝き上がりて、
汝十兵衛恩知らずめ、
良人の心の広いのをよいことにしてつけ上り、うまうま名を揚げ身を立つるか、よし名の
揚り身の立たばさしずめ礼にも来べきはずを、知らぬ顔して鼻高々とその日その日を送りくさるか、あまりに
性質のよ過ぎたる良人も良人なら面憎きのっそりめもまたのっそりめと、折にふれては八重縦横に
癇癪の虫
跳ね廻らし、
自己が
小鬢の後れ毛上げても、ええ
焦れったいと罪のなき髪を
掻きむしり、一文
貰いに乞食が来ても甲張り声に
酷く
謝絶りなどしけるが、ある日源太が
不在のところへ心易き医者
道益という
饒舌坊主遊びに来たりて、
四方八方の話の末、ある人に連れられてこのあいだ蓬莱屋へまいりましたが、お伝という女からききました一分始終、いやどうも
此方の棟梁は違ったもの、えらいもの、
男児はそうありたいと感服いたしました、とお世辞半分何の気なしに云い出でし
詞を、
手繰ってその夜の
仔細をきけば、知らずにいてさえ口惜しきに知っては重々憎き十兵衛、お吉いよいよ腹を立ちぬ。
清吉
汝は
腑甲斐ない、意地も察しもない男、なぜ私には打ち明けてこないだの夜の始末をば今まで話してくれなかった、私に聞かして気の毒と
異に遠慮をしたものか、あまりといえば
狭隘な根性、よしや仔細を聴いたとてまさか私が
狼狽えまわり動転するようなことはせぬに、女と
軽しめて何事も知らせずにおき隠し立てしておく
良人の了簡はともかくも、汝たちまで私を
聾に
盲目にして済まして居るとはあまりな仕打ち、また親方の腹の中がみすみす知れていながらに平気の平左で酒に浮かれ、女郎買いの供するばかりが男の能でもあるまいに、
長閑気でこうして遊びに来るとは、清吉
汝もおめでたいの、
平生は
不在でも飲ませるところだが今日は私は
関えない、
海苔一枚焼いてやるも厭ならくだらぬ
世間咄しの相手するも虫が嫌う、飲みたくば勝手に台所へ行って
呑み口ひねりや、
談話がしたくば
猫でも相手にするがよい、と何も知らぬ清吉、道益が帰りし跡へ
偶然行き合わせてさんざんにお吉が不機嫌を浴びせかけられ、わけもわからず驚きあきれて、へどもどなしつつだんだんと様子を問えば、
自己も知らずに今の今までいしことなれど、聞けばなるほどどうあっても
堪忍のならぬのっそりの憎さ、
生命と頼むわが親方に重々恩を
被た身をもって無遠慮過ぎた十兵衛めが処置振り、あくまで親切真実の親方の顔踏みつけたる憎さも憎しどうしてくりょう。
ムム親方と十兵衛とは
相撲にならぬ身分の
差い、のっそり相手に争っては夜光の
璧を
小礫に
擲つけるようなものなれば、腹は十分立たれても分別強く
堪えて堪えて、誰にも彼にも
欝憤を
洩らさず知らさず居らるるなるべし、ええ親方は情ない、ほかの奴はともかく清吉だけには知らしてもよさそうなものを、親方と十兵衛では
此方が損、
我とのっそりなら損はない、よし、十兵衛め、ただ置こうやと
逸りきったる鼻先思案。姉御、知らぬ中は是非がない、
堪忍して下され、様子知っては
憚りながらもう叱られてはおりますまい、この清吉が女郎買いの供するばかりを能の野郎か野郎でないか見ていて下され、さようならば、と
後声烈しく云い捨てて
格子戸がらり明けっ放し、
草履もはかず後も見ず風より
疾く駆け去れば、お吉今さら
気遣わしくつづいて追っかけ呼びとむる二
タ声三声、四声めにははや影さえも見えずなったり。
材を
釿る
斧の音、板削る
鉋の音、
孔を
鑿るやら
釘打つやら丁々かちかち響き
忙しく、
木片は飛んで疾風に木の葉の
翻えるがごとく、
鋸屑舞って晴天に雪の降る感応寺境内普請場の
景況賑やかに、紺の腹掛け
頸筋に喰い込むようなをかけて
小胯の切り上がった
股引いなせに、つっかけ草履の勇み姿、さも
怜悧げに働くもあり、
汚れ
手拭肩にして日当りのよき場所に
蹲踞み、悠々然と
鑿を
ぐ
衣服の
垢穢き
爺もあり、道具捜しにまごつく
小童、しきりに木を
挽く日傭取り、人さまざまの骨折り気遣い、汗かき息張るその中に、総棟梁ののっそり十兵衛、皆の仕事を
監督りかたがた、墨壺墨さし
矩尺もって胸三寸にある切組を実物にする指図
命令。こう
截れああ
穿れ、ここをどうしてどうやってそこにこれだけ
勾配もたせよ、
孕みが何寸
凹みが何分と口でも知らせ
墨縄でも云わせ、面倒なるは
板片に矩尺の仕様を書いても示し、
鵜の目
鷹の目油断なく必死となりてみずから励み、今しも一人の
若佼に彫物の画を描きやらんと余念もなしにいしところへ、
野猪よりもなお疾く
塵土を蹴立てて飛び来し清吉。
忿怒の面火玉のごとくし逆釣ったる目を一段
視開き、畜生、のっそり、くたばれ、と大喝すれば十兵衛驚き、振り向く途端にまっ向より岩も裂けよと打ち下すは、ぎらぎらするまで
ぎ澄ませし
釿を縦にその柄にすげたる大工に取っての刀なれば、何かは
堪らん避くる間足らず左の耳を
殺ぎ落され肩先少し切り
割かれしが、し損じたりとまた踏ん込んで打つを逃げつつ、
抛げつくる釘箱
才槌墨壺
矩尺、
利器のなさに防ぐ
術なく、身を翻えして
退く
機に足を突っ込む道具箱、ぐざと踏み
貫く五寸釘、思わず転ぶを得たりやと
笠にかかって清吉が振り
冠ったる釿の刃先に夕日の光の
閃りと宿って空に知られぬ
電光の、
疾しや遅しやその時この時、
背面の方に乳虎一声、馬鹿め、と叫ぶ男あって二間丸太に論もなく
両臑脆く
薙ぎ倒せば、倒れてますます怒る清吉、たちまち
勃然と起きんとする
襟元把って、やい
我だわ、血迷うなこの馬鹿め、と何の苦もなく釿もぎ取り捨てながら上からぬっと出す顔は、八方
睨みの
大眼、一文字口怒り鼻、
渦巻縮れの
両鬢は不動を
欺くばかりの
相形。
やあ火の玉の親分か、わけがある、
打捨っておいてくれ、と力を限り払い
除けんと
き
焦燥るを、
栄螺のごとき
拳固で
鎮圧め、ええ、じたばたすれば
拳り殺すぞ、馬鹿め。親分、情ない、ここをここを放してくれ。馬鹿め。ええ分らねえ、親分、あいつを
活かしてはおかれねえのだ。馬鹿野郎め、べそをかくのか、おとなしくしなければまだ
打つぞ。親分
酷い。馬鹿め、やかましいわ、拳り殺すぞ。あんまり分らねえ、親分。馬鹿め、それ打つぞ。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親。馬鹿め。放。馬鹿め。お。馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め、
醜態を見ろ、おとなしくなったろう、野郎我の家へ来い、やいどうした、野郎、やあこいつは死んだな、つまらなく弱い奴だな、やあい、どいつか来い、肝心の時は逃げ出して今ごろ十兵衛が
周囲に
蟻のように
群って何の役に立つ、馬鹿ども、こっちには
亡者ができかかって居るのだ、
鈍遅め、水でも汲んで来て打っ
注けてやれい、落ちた耳を拾って居る奴があるものか、
白痴め、汲んで来たか、
関うことはない、一時に
手桶の水みんな面へ打つけろ、こんな野郎は脆く生きるものだ、それ占めた、清吉ッ、しっかりしろ、意地のねえ、どれどれこいつは我が背負って行ってやろう、十兵衛が肩の
疵は浅かろうな、むむ、よしよし、馬鹿どもさようなら。
源太居るかとはいり来たる鋭次を、お吉立ち上って、おお親分さま、まあまあ
此方へと
誘えば、ずっと通って火鉢の前に無遠慮の
大胡坐かき、汲んで出さるる桜湯を半分ばかり飲み干してお吉の顔を視、
面色が悪いがどうかしたか、源太はどこぞへ行ったのか、定めしもう聴いたであろうが清吉めがつまらぬことをしでかしての、それゆえちょっと話があって来たが、むむそうか、もう十兵衛がところへ行ったと、ハハハ、
敏捷い敏捷い、さすがに源太だわ、
我の思案より先に身体がとっくに動いて居るなぞは頼もしい、なあにお吉心配することはない、十兵衛と御上人様に源太が
謝罪をしてな、自分の示しが足らなかったで
手下の奴がとんだ心得違いをしました。
幾重にも勘弁して下されと三ツ四ツ頭を下げれば済んでしまうことだわ、案じ過しはいらぬもの、それでも
先方がぐずぐずいえば
正面に源太が喧嘩を買って
破裂の始末をつければよいさ、薄々聴いた噂では十兵衛も
耳朶の一ツや半分
斫り
奪られても恨まれぬはず、随分清吉の
軽躁行為もちょいとおかしないい洒落か知れぬ、ハハハ、しかし
憫然に我の拳固を大分
食ってうんうん苦しがって居るばかりか、十兵衛を殺した後はどう始末が着くと我に云われてようやく悟ったかして、ああ悪かった、
逸り過ぎた間違ったことをした、親方に頭を下げさするようなことをしたかああ済まないと、自分の
身体の痛いのより後悔にぼろぼろ涙をこぼしている
愍然さは、なんと可愛い奴ではないか、のうお吉、源太は
酷く清吉を叱って叱って十兵衛がとこへ
謝罪に行けとまで云うか知らぬが、それは表向きの義理なりゃ是非はないが、ここは
汝の
儲け役、あいつをどうか、なあそれ、よしか、そこは源太を抱き寝するほどのお吉様にわからぬことはない寸法か、アハハハハ、源太がいないで話も
要らぬ、どれ帰ろうかい御馳走は預けておこう、用があったらいつでもおいで、とぼつぼつ語って帰りし後、思えば済まぬことばかり。女の浅き心から分別もなく清吉に毒づきしが、逸りきったる若き男の間違いし出して
可憫や清吉は
自己の世を
狭め、わが身は
大切の
所天をまで憎うてならぬのっそりに謝罪らするようなり行きしは、時の拍子の出来事ながらつまりはわが口より出し
過失、兎せん角せん何とすべきと、火鉢の
縁に
凭する
肘のついがっくりと
滑るまで、我を忘れて思案に思案凝らせしが、思い定めて、おおそうじゃと、立って
箪笥の
大抽匣、明けて
麝香の
気とともに投げ出し取り出すたしなみの、帯はそもそも
此家へ来し嬉し恥かし恐ろしのその時締めし、ええそれよ。ねだって買ってもろうたる博多に
繻子に未練もなし、三枚重ねに忍ばるる
往時は罪のない夢なり、今は苦労の
山繭縞、ひらりと飛ばす
飛八丈このごろ好みし毛万筋、
千筋百筋気は乱るとも夫おもうはただ一筋、ただ一筋の
唐七糸帯は、お屋敷奉公せし叔母が
紀念と
大切に
秘蔵たれど何か
厭わん手放すを、と何やらかやらありたけ出して
婢に包ませ、夫の帰らぬそのうちと
櫛笄も手ばしこく小箱に
纏めて、さてそれを無残や
余所の
蔵に
籠らせ、幾らかの金
懐中に浅黄の頭巾
小提灯、
闇夜も恐れず鋭次が家に。
池の端の行き違いより
翻然と変りし源太が腹の底、初めは
可愛う思いしも今は
小癪に
障ってならぬその十兵衛に、
頭を下げ両手をついて
謝罪らねばならぬ
忌々しさ。さりとて打ち捨ておかば清吉の乱暴も
我が
命令けてさせしかのよう疑がわれて、何も知らぬ身に心地
快からぬ
濡衣被せられんことの口惜しく、たださえおもしろからぬこのごろよけいな魔がさして下らぬ
心労いを、馬鹿馬鹿しき清吉めが
挙動のためにせねばならぬ苦々しさにますます心
平穏ならねど、
処弁く道の
処弁かで済むべきわけもなければ、これも皆自然に湧きしこと、なんとも是非なしと諦めて厭々ながら十兵衛が家
音問れ、不慮の難をば訪い慰め、かつは清吉を戒むること足らざりしを
謝び、のっそり夫婦が様子を
視るに十兵衛は例の無言三昧、お浪は女の物やさしく、幸い傷も肩のは浅く大したことではござりませねばどうぞお案じ下されますな、わざわざお見舞い下されては
実に恐れ入りまする、と如才なく口はきけど言葉遣いのあらたまりて、
自然とどこかに
稜角あるは問わずと知れし胸の
中、もしや源太が清吉に内々含めてさせしかと疑い居るに極まったり。
ええ
業腹な、十兵衛も大方我をそう視て居るべし、とく
時機の来よこの源太が
返報仕様を見せてくれん、清吉ごとき
卑劣な野郎のしたことに何似るべきか、
釿で片耳
殺ぎ取るごときくだらぬことを
我がしょうや、わが腹立ちは
木片の火のぱっと燃え立ちすぐ消ゆる、
堪えも意地もなきようなることでは済まさじ承知せじ、今日の変事は今日の変事、わが癇癪はわが癇癪、まるで別なり
関係なし、源太がしようは知るとき知れ悟らする時悟らせくれんと、
裏にいよいよ不平は
懐けど
露塵ほども外には出さず、義理の
挨拶見事に済ましてすぐその足を感応寺に向け、上人のお目通り願い、一応
自己が
隷属の者の
不埒をお
謝罪し、わが家に帰りて、いざこれよりは鋭次に会い、その時清を押えくれたる礼をも
演べつその時の
景状をも聞きつ、また一ツにはさんざん清を
罵り叱って
以後わが家に出入り無用と云いつけくれんと立ち出でかけ、お吉のいぬを不審してどこへと問えば、どちらへかちょと行て来るとてお出でになりました、と何食わぬ顔で
婢の答え、
口禁めされてなりとは知らねば、おおそうか、よしよし、
我は火の玉の兄きがところへ遊びに行たとお吉帰らば云うておけ、と
草履つっかけ出合いがしら、
胡麻竹の
杖とぼとぼと
焼痕のある
提灯片手、老いの歩みの見る目笑止にへの字なりして
此方へ来る
婆。おお清の
母親ではないか。あ、親方様でしたか、
ああ好いところでお眼にかかりましたがどちらへかお出かけでござりまするか、と
忙しげに
老婆が問うに源太
軽く会釈して、まあよいわ、遠慮せずと
此方へはいりゃれ、わざわざ夜道を拾うて来たは何ぞ急の用か、聴いてあげよう、と立ち戻れば、ハイハイ、ありがとうござります、お出かけのところを済みません、御免下さいまし、ハイハイ、と云いながら後に
随いて格子戸くぐり、寒かったろうによう出て来たの、あいにくお吉もいないで
関うこともできぬが、縮こまっていずとずっと前へ
進て火にでもあたるがよい、と親切に云うてくるる源太が言葉にいよいよ身を堅くして縮こまり、お構い下さいましては恐れ入りまする、ハイハイ、懐炉を入れておりますればこれで
恰好でござりまする、と意久地なく落ちかかる
水涕を洲の立った半天の袖で
拭きながらはるか下って入口近きところに
蹲まり、何やら云い出したそうな素振り、源太早くも大方察して
老婆の心の中さぞかしと気の毒さ
堪らず、よけいなことし
出して我に
肝煎らせし清吉のお先走りを
罵り懲らして、当分出入りならぬ由云いに鋭次がところへ行かんとせし矢先であれど、視ればわが子を除いては
阿弥陀様よりほかに親しい者もなかるべきか弱き婆のあわれにて、
我清吉を突き放さば身は腰弱弓の
弦に
断れられし心地して、在るに甲斐なき
生命ながらえんに張りもなく的もなくなり、どれほどか悲しみ歎いて多くもあらぬ余生を愚痴の
涙の
時雨に暮らし、晴れ晴れとした気持のする日もなくて終ることならんと、思いやれば思いやるだけ
憫然さの増し、煙草
捻ってつい居るに、
婆は少しくにじり出で、夜分まいりましてまことに済みませんが、あの少しお願い申したいわけのござりまして、ハイハイ、もう御存知でもござりましょうがあの清吉めがとんだことをいたしましたそうで、ハイハイ、鉄五郎様から大概は聞きましたが、
平常からして気の
逸い
奴で、じきに
打つの
斫るのと騒ぎましてそのたびにひやひやさせまする、お
蔭さまで一人前にはなっておりましてもまだ
児童のような
真一酷、悪いことや曲ったことは決してしませぬが取り
上せては分別のなくなる困った
奴で、ハイハイ、悪気は夢さらない
奴でござります、ハイハイそれは御存知で、ハイありがとうござります、どういう筋で喧嘩をいたしましたか知りませぬが大それた
手斧なんぞを振り舞わしましたそうで、そうききました時は私が手斧で斫られたような心持がいたしました、め組の親分とやらが幸い抱き留めて下されましたとか、まあせめてもでござります、相手が死にでもしましたら
彼めは下手人、わたくしは彼を亡くして生きて居る瀬はござりませぬ、ハイありがとうござります、彼めが
幼少ときはひどい虫持で苦労をさせられましたも大抵ではござりませぬ、ようやく中山の鬼子母神様の
御利益で満足には育ちましたが、
癒りましたら
七歳までにお庭の土を踏ませましょうと申しておきながら、ついなにかにかまけてお礼参りもいたさせなかったその御罰か、丈夫にはなりましたがあの通りの無鉄砲、毎々お世話をかけまする、今日も今日とて鉄五郎様がこれこれと
掻い
摘んで話されました時の私のびっくり、刃物を
準備までしてと聞いた時には、ええまたかと思わずどっきり胸も裂けそうになりました、め組の親分様とかが預かって下されたとあれば安心のようなものの、清めは怪我はいたしませぬかと聞けば鉄様の
曖昧な返辞、別条はない案じるなと云わるるだけになお案ぜられ、その親分の家を尋ぬれば、そこへ
汝が行ったがよいか行かぬがよいか
我には分らぬ、ともかくも親方様のところへ伺って見ろと云いっ放しで帰ってしまわれ、なおなお胸がしくしく痛んでいても起っても居られませねば、留守を
隣家の傘張りに頼んでようやく参りました、どうかめ組の親分とやらの家を教えて下さいまし、ハイハイすぐにまいりまするつもりで、どんな
態しておりまするか、もしやかえって大怪我などして居るのではござりますまいか、よいものならば早う
逢って
安堵しとうござりまするし喧嘩の模様も聞きとうござりまする、大丈夫曲ったことはよもやいたすまいと思うておりまするが若い者のこと、ひょっと筋の違った意趣ででもしたわけなら、相手の十兵衛様にまずこの婆が一生懸命で謝罪り、婆はたといどうされても惜しくない
老耄、
生先の長い彼めが人様に恨まれるようなことのないようにせねばなりませぬ、とおろおろ涙になっての話し。始終を知らで一
ト筋にわが子をおもう老いの繰言、この返答には源太こまりぬ。
八五郎そこに居るか、誰か来たようだ明けてやれ、と云われて、なんだ不思議な、女らしいぞと口の
中で
独語ながら、誰だ女嫌いの親分のところへ今ごろ来るのは、さあはいりな、とがらりと戸を引き
退くれば、八ッさんお世話、と軽い挨拶、提灯吹き
滅して頭巾を脱ぎにかかるは、この盆にもこの正月にも心付けしてくれたお吉と気がついて八五郎めんくらい、素肌に一枚どてらの
袵広がって
鼠色になりしふんどしの見ゆるを急に押し隠しなどしつ、親分、なんの、あの、なんの姉御だ、と
忙しく奥へ声をかくるに、なんの尽しで分る江戸ッ児。おおそうか、お吉来たの、よく来た、まあそこらの
塵埃のなさそうなところへ坐ってくれ、油虫が
這って行くから用心しな、野郎ばかりの家は
不潔のが
粧飾だから仕方がない、
我も
汝のような好い
嚊でも持ったら
清潔にしようよ、アハハハと笑えばお吉も笑いながら、そうしたらまた不潔不潔と厳しくお
叱めなさるか知れぬ、と互いに二ツ三ツ
冗話しして後、お吉少しく改まり、清吉は
眠ておりまするか、どういう様子か見てもやりたし、心にかかれば参りました、と云えば鋭次も打ち
頷き、清は今がたすやすや
睡ついて起きそうにもない容態じゃが、
疵というて別にあるでもなし頭の
顱骨を打ち
破ったわけでもなければ、
整骨医師の
先刻云うには、ひどく逆上したところを滅茶滅茶に
撲たれたため一時は気絶までもしたれ、
保証大したことはない由、見たくばちょっと
覗いて見よ、と先に立って導く後につき行くお吉、三畳ばかりの部屋の中に一切夢で眠り居る清吉を見るに、顔も頭も
膨れ上りて、このように
撲ってなしたる鋭次の
酷さが恨めしきまで
可憫なる
態なれど、済んだことの是非もなく、座に戻って鋭次に
対い、
我夫では必ず清吉がよけいな手出しに腹を立ち、お上人様やら十兵衛への義理をかねて酷く叱るか出入りを
禁むるか何とかするでござりましょうが、元はといえば清吉が自分の意恨でしたではなし、つまりは
此方のことのため、筋の違った腹立ちをついむらむらとしたのみなれば、
妾はどうも我夫のするばかりを見て居るわけには行かず、ことさら少しわけあって妾がどうとかしてやらねばこの胸の済まぬ
仕誼もあり、それやこれやをいろいろと案じた末に浮んだは一年か半年ほど清吉に
此地退かすること、人の噂も遠のいて我夫の機嫌も
治ったら取り成しようは幾らもあり、まずそれまでは上方あたりに遊んで居るようしてやりたく、路用の金も
調えて来ましたれば少しなれどもお預け申しまする、どうぞよろしく云い含めて清吉めに
与って下さりませ、我夫はあの通り表裏のない人、腹の底にはどう思っても必ず辛く清吉に一旦あたるに違いなく、未練げなしに叱りましょうが、その時何と清吉がたとい云うても取り上げぬは知れたこと、傍から妾が口を出しても義理は義理なりゃしようはなし、さりとて欲でしでかした
咎でもないに男一人の寄りつく島もないようにして知らぬ顔ではどうしても妾が居られませぬ、
彼が一人の母のことは彼さえいねば我夫にも話して
扶助るに厭は云わせまじく、また厭というような分らぬことを云いもしますまいなれば
掛念はなけれど、妾が今夜来たことやら
蔭で清をばいたわることは、我夫へは当分
秘密にして。わかった、えらい、もう用はなかろう、お帰りお帰り、源太が大抵来るかも知れぬ、
撞見しては
拙かろう、と愛想はなけれど真実はある言葉に、お吉
嬉しく頼みおきて帰れば、その後へ引きちがえて来る源太、はたして清吉に、出入りを
禁むる師弟の縁
断るとの言い渡し。鋭次は笑って黙り、清吉は泣いて詫びしが、その夜源太の帰りしあと、清吉鋭次にまた泣かせられて、
狗になっても我ゃ姉御夫婦の門辺は去らぬと
唸りける。
四五日過ぎて清吉は八五郎に送られ、箱根の
温泉を志して江戸を出でしが、それよりたどる東海道いたるは京か大阪の、夢はいつでも
東都なるべし。
十兵衛傷を負うて帰ったる翌朝、
平生のごとく
夙く起き出づればお浪驚いて急にとどめ、まあ滅相な、ゆるりと
臥んでおいでなされおいでなされ、今日は取りわけ朝風の冷たいに破傷風にでもなったら何となさる、どうか臥んでいて下され、お湯ももうじき沸きましょうほどに
含嗽手水もそこで妾がさせてあげましょう、と破れ
土竈にかけたる
羽虧け
釜の下
焚きつけながら気を
揉んで云えど、一向平気の十兵衛笑って、病人あしらいにされるまでのことはない、手拭だけを絞ってもらえば顔も一人で洗うたが好い気持じゃ、と
箍の
緩みし
小盥にみずから水を汲み取りて、別段悩める
容態もなく
平日のごとく振舞えば、お浪は
呆れかつ案ずるに、のっそり少しも
頓着せず
朝食終うて立ち上り、いきなり衣物を脱ぎ捨てて
股引腹掛け着けにかかるを、とんでもないことどこへ行かるる、何ほど仕事の大事じゃとて昨日の今日は疵口の合いもすまいし痛みも去るまじ、じっとしていよ身体を使うな、仔細はなけれど
治癒るまでは
万般要慎第一と云われたお医者様の言葉さえあるに、無理
圧しして感応寺に行かるる心か、強過ぎる、たとい行ったとて働きはなるまじ、行かいでも誰が
咎みょう、行かで済まぬと思わるるなら妾がちょと一
ト走り、お上人様のお目にかかって三日四日の養生を
直々に願うて来ましょ、お慈悲深いお上人様の御承知なされぬ気遣いない、かならず
大切にせい
軽挙すなとおっしゃるは知れたこと、さあ
此衣を着て家に引っ
籠み、せめて
疵口のすっかり
密着くまで
沈静いていて下され、とひたすらとどめ
宥め慰め、脱ぎしをとってまた
被すれば、よけいな世話を焼かずとよし、腹掛け着せい、これは要らぬ、と利く右の手にて
撥ね退くる。まあそう云わずと家にいて、とまた打ち被する、撥ね退くる、男は意気地女は
情、言葉あらそい果てしなければさすがにのっそり少し怒って、わけの分らぬ女の分で邪魔立てするか
忌々しい奴、よしよし頼まぬ一人で着る、高の知れたる
蚯蚓膨れに一日なりとも仕事を休んで職人どもの
上に立てるか、
汝はちっとも知るまいがの、この十兵衛はおろかしくて馬鹿と常々云わるる身ゆえに職人どもが軽う見て、眼の前ではわが
指揮に従い働くようなれど、蔭では勝手に
怠惰るやら
譏るやらさんざんに茶にしていて、
表面こそ
粧え誰一人真実仕事をよくしょうという意気組持ってしてくるるものはないわ、ええ情ない、どうかして
虚飾でなしに骨を折ってもらいたい、仕事に
膏を乗せてもらいたいと、
諭せば頭は下げながら横向いて鼻で笑われ、叱れば口に
謝罪られて
顔色に怒られ、つくづく
我折って下手に出ればすぐと増長さるる口惜しさ悲しさ辛さ、毎日毎日棟梁棟梁と大勢に立てられるは立派でよけれど腹の中では泣きたいようなことばかり、いっそ
穴鑿りで引っ使われたほうが苦しゅうないと思うくらい、その中でどうかこうか
此日まで運ばして来たに今日休んでは大事の
躓き、胸が痛いから早帰りします、頭痛がするで遅くなりましたと
皆に
怠惰られるは
必定、その時自分が休んで居れば何と一言云いようなく、仕事が
雨垂れ拍子になってできべきものも
仕損う道理、万が一にも仕損じてはお上人様源太親方に十兵衛の顔が向けらりょうか、これ、生きても塔ができねばな、この十兵衛は死んだ同然、死んでも
業をし遂げれば汝が
夫は生きて居るわい、二寸三寸の
手斧傷に
臥て居られるか居られぬか、破傷風が
怖ろしいか仕事のできぬが怖ろしいか、よしや片腕
奪られたとて一切成就の暁までは
駕籠に乗っても行かではいぬ、ましてやこれしきの
蚯蚓膨れに、と云いつつお浪が手中より奪いとったる腹掛けに、左の手を通さんとして
顰むる顔、見るに女房の争えず、争いまけて傷をいたわり、ついに半天股引まで着せて出しける心の中、何とも口には云いがたかるべし。
十兵衛よもや来はせじと思い合うたる職人ども、ちらりほらりと辰の刻ころより来て見てびっくりする途端、精出してくるる嬉しいぞ、との一言を十兵衛から受けて皆冷汗をかきけるが、これより
一同励み勤め昨日に変る身のこなし、一をきいては三まで働き、二と云われしには四まで動けば、のっそり片腕の用を欠いてかえって多くの腕を得つ
日々工事捗取り、肩疵治るころには大抵塔もできあがりぬ。
時は一月の末つ方、のっそり十兵衛が辛苦経営むなしからで、感応寺生雲塔いよいよものの見事に出来上り、だんだん足場を取り除けば次第次第に
露わるる一階一階また一階、五重
巍然と
聳えしさま、金剛力士が魔軍を
睥睨んで十六丈の姿を現じ
坤軸動がす足ぶみして
巌上に突っ立ちたるごとく、
天晴れ立派に建ったるかな、あら快よき細工振りかな、
希有じゃ
未曽有じゃまたあるまじと為右衛門より門番までも、初手のっそりを
軽しめたることは忘れて讃歎すれば、円道はじめ
一山の僧徒も
躍りあがって
歓喜び、これでこそ感応寺の五重塔なれ、あら嬉しや、我らが頼む師は当世に肩を比すべき人もなく、八宗九宗の
碩徳たち
虎豹鶴鷺と
勝ぐれたまえる中にも絶類抜群にて、
譬えば
獅子王孔雀王、我らが頼むこの寺の塔も絶類抜群にて、奈良や京都はいざ知らず上野浅草芝山内、江戸にて
此塔に
勝るものなし、ことさら塵土に埋もれて光も放たず終るべかりし男を拾いあげられて、心の
宝珠の輝きを世に
発出されし師の美徳、困苦に
撓まず知己に
酬いてついにし遂げし十兵衛が頼もしさ、おもしろくまた美わしき奇因縁なり妙因縁なり、天のなせしか人のなせしかはたまた諸天善神の
蔭にて操りたまいしか、
屋を造るに
巧妙なりし
達膩伽尊者の噂はあれど
世尊在世の御時にもかく快きことありしをいまだきかねば
漢土にもきかず、いで落成の式あらば我
偈を作らん文を作らん、我歌をよみ詩を
作して
頌せん讃せん詠ぜん記せんと、おのおの互いに語り合いしは欲のみならぬ
人間の情の、やさしくもまた殊勝なるに引き替えて、測りがたきは天の心、円道為右衛門二人が計らいとしていと盛んなる落成式
執行の日もほぼ定まり、その日は貴賤男女の見物をゆるし貧者に
剰れる金を施し、十兵衛その他を
犒らい賞する一方には、また
伎楽を奏して世に珍しき塔供養あるべきはずに支度とりどりなりし最中、夜半の鐘の音の曇って
平日には似つかず耳にきたなく聞えしがそもそも、
漸々あやしき風吹き出して、眠れる
児童も我知らず夜具踏み脱ぐほど時候生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響き
烈しくなりまさり、闇に
揉まるる松柏の
梢に天魔の
号びものすごくも、人の心の平和を奪え平和を奪え、浮世の栄華に誇れる奴らの
胆を破れや
睡りを
攪せや、愚物の胸に血の
濤打たせよ、偽物の面の紅き色
奪れ、
斧持てる者斧を
揮え、
矛もてるもの矛を揮え、
汝らが
鋭き
剣は
餓えたり汝ら剣に食をあたえよ、人の
膏血はよき食なり汝ら剣にあくまで喰わせよ、あくまで人の
膏膩を
餌えと、号令きびしく発するや否、猛風一陣どっと起って、斧をもつ
夜叉矛もてる夜叉餓えたる剣もてる夜叉、皆一斉に
暴れ出しぬ。
長夜の夢を覚まされて江戸四里四方の老若男女、悪風来たりと驚き騒ぎ、雨戸の
横柄子しっかと
せ、辛張り棒を強く張れと家々ごとに
狼狽ゆるを、
可愍とも見ぬ飛天夜叉王、怒号の
声音たけだけしく、汝ら人を
憚るな、汝ら
人間に憚られよ、人間は我らを
軽んじたり、久しく我らを
賤しみたり、我らに
捧ぐべきはずの定めの
牲を忘れたり、
這う代りとして立って行く
狗、
驕奢の
塒巣作れる
禽、尻尾なき猿、物言う蛇、露
誠実なき狐の子、
汚穢を知らざる
豕の
女、彼らに長く侮られてついにいつまで忍び得ん、我らを長く侮らせて彼らをいつまで誇らすべき、忍ぶべきだけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年はすでに過ぎたり、我らを縛せし機運の鉄鎖、我らを
囚えし慈忍の
岩窟はわが神力にてちぎり
棄てたり
崩潰さしたり、汝ら
暴れよ今こそ暴れよ、何十年の恨みの毒気を彼らに返せ一時に返せ、彼らが
驕慢の気の臭さを
鉄囲山外に
攫んで捨てよ、彼らの
頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味のよさを彼らが胸に試みよ、
惨酷の矛、
瞋恚の剣の
刃糞と彼らをなしくれよ、彼らが
喉に氷を与えて苦寒に怖れ
顫かしめよ、彼らが胆に針を与えて秘密の痛みに堪えざらしめよ、彼らが
眼前に彼らが
生したる
多数の
奢侈の子孫を殺して、
玩物の念を
嗟歎の灰の河に埋めよ、彼らは
蚕児の家を奪いぬ汝ら彼らの家を奪えや、彼らは蚕児の知恵を笑いぬ汝ら彼らの知恵を讃せよ、すべて彼らの巧みとおもえる知恵を讃せよ、大とおもえる
意を讃せよ、美わしとみずからおもえる情を讃せよ、
協えりとなす理を讃せよ、
剛しとなせる力を讃せよ、すべては我らの矛の
餌なれば、剣の餌なれば斧の餌なれば、讃して後に
利器に
餌い、よき餌をつくりし彼らを笑え、
嬲らるるだけ彼らを嬲れ、急に
屠るな嬲り殺せ、
活かしながらに一枚一枚皮を
剥ぎ取れ、肉を剥ぎとれ、彼らが
心臓を
鞠として蹴よ、
枳棘をもて背を
鞭てよ、歎息の
呼吸涙の水、
動悸の血の音悲鳴の声、それらをすべて人間より取れ、残忍のほか
快楽なし、酷烈ならずば汝ら
疾く死ね、暴れよ進めよ、無法に住して放逸
無慚無理無体に暴れ立て暴れ立て進め進め、神とも戦え仏をも
擲け、道理を
壊って壊りすてなば天下は我らがものなるぞと、
叱するたび土石を飛ばして
丑の刻より
寅の刻、
卯となり
辰となるまでもちっとも止まず励ましたつれば、
数万の
眷属勇みをなし、水を渡るは波を蹴かえし、
陸を走るは
沙を蹴かえし、天地を
塵埃に黄ばまして日の光をもほとほと
掩い、斧を揮って数寄者が手入れ怠りなき松を
冷笑いつつほっきと
斫るあり、矛を舞わして板屋根にたちまち穴を
穿つもあり、ゆさゆさゆさと怪力もてさも堅固なる家を動かし橋を揺がすものもあり。手ぬるし手ぬるし
酷さが足らぬ、我に続けと
憤怒の牙噛み鳴らしつつ夜叉王の
躍り上って
焦躁てば、
虚空に
充ち満ちたる眷属、おたけび鋭くおめき叫んで
遮に無に暴威を揮うほどに、神前寺内に立てる樹も
富家の庭に
養われし樹も、声振り絞って泣き悲しみ、見る見る大地の髪の毛は恐怖に一々
竪立なし、柳は倒れ竹は割るる折しも、黒雲空に流れて
樫の実よりも大きなる雨ばらりばらりと降り出せば、得たりとますます暴るる夜叉、
垣を引き捨て
塀を蹴倒し、門をも
破し屋根をもめくり
軒端の
瓦を踏み砕き、ただ一
ト揉みに
屑屋を飛ばし二
タ揉み揉んでは二階を
捻じ取り、三たび揉んでは
某寺をものの見事に
潰し
崩し、どうどうどっと
鬨をあぐるそのたびごとに心を冷やし胸を騒がす人々の、あれに気づかいこれに案ずる笑止の様を見ては喜び、居所さえもなくされて悲しむものを見ては喜び、いよいよ図に乗り
狼藉のあらん限りを
逞しゅうすれば、八百八町百万の人みな生ける心地せず顔色さらにあらばこそ。
中にもわけて驚きしは円道為右衛門、せっかくわずかに出来上りし五重塔は揉まれ揉まれて九輪は
動ぎ、頂上の宝珠は空に得読めぬ字を書き、岩をも転ばすべき風の突っかけ来たり、楯をも貫くべき雨のぶつかり来るたび
撓む姿、木の
軋る音、
復る
姿、また撓む姿、軋る音、今にも
傾覆らんず様子に、あれあれ危し仕様はなきか、傾覆られては大事なり、止むる
術もなきことか、雨さえ加わり来たりし上
周囲に樹木もあらざれば、未曽有の風に
基礎狭くて丈のみ高きこの塔の
堪えんことのおぼつかなし、本堂さえもこれほどに動けば塔はいかばかりぞ、風を止むる呪文はきかぬか、かく恐ろしき
大暴風雨に見舞いに来べき源太は見えぬか、まだ新しき出入りなりとて重々来ではかなわざる十兵衛見えぬか
寛怠なり、
他さえかほど気づかうに
己がせし塔気にかけぬか、あれあれ危しまた撓んだわ、誰か十兵衛
招びに行け、といえども天に瓦飛び板飛び、地上に砂利の舞う中を行かんというものなく、ようやく賞美の金に飽かして掃除人の
七蔵爺を出しやりぬ。
耄碌頭巾に首をつつみてその上に雨を
凌がん
準備の竹の皮笠引き
被り、
鳶子合羽に胴締めして手ごろの杖持ち、
恐怖ながら烈風強雨の中を
駈け抜けたる七蔵
爺、ようやく十兵衛が家にいたれば、これはまた
酷いこと、屋根半分はもうとうに風に
奪られて見るさえ気の毒な親子三人の有様、隅の方にかたまり合うて天井より落ち来る
点滴の
飛沫を
古筵でわずかに
避け居る始末に、さてものっそりは気に働らきのない男と呆れ果てつつ、これ棟梁殿、この
暴風雨にそうして居られては済むまい、瓦が飛ぶ樹が折れる、
戸外はまるで
戦争のような騒ぎの中に、
汝の建てられたあの塔はどうあろうと思わるる、丈は高し
周囲に物はなし
基礎は狭し、どの方角から吹く風をも
正面に受けて揺れるわ揺れるわ、
旗竿ほどに撓んではきちきちと
材の
軋る音の
物凄さ、今にも倒れるか
壊れるかと、円道様も為右衛門様も胆を冷やしたり縮ましたりして気が気ではなく心配して居らるるに、一体ならば迎いなど受けずともこの天変を知らず顔では済まぬ
汝が出ても来ぬとはあんまりな大勇、汝のお蔭で
険難な使いをいいつかり、
忌々しいこの
瘤を見てくれ、笠は吹き
攫われるずぶ
濡れにはなる、おまけに
木片が飛んで来て額にぶつかりくさったぞ、いい面の皮とは
我がこと、さあさあ一所に来てくれ来てくれ、為右衛門様円道様が連れて来いとの
御命令だわ、ええびっくりした、雨戸が飛んで
行てしもうたのか、これだもの塔が堪るものか、話しする間にももう倒れたか折れたか知れぬ、ぐずぐずせずと身支度せい、はやくはやくと
急り立つれば、傍から女房も心配げに、出て行かるるなら途中が
危険い、腐ってもあの火事頭巾、あれを出しましょ
冠っておいでなされ、何が飛んで来るか知れたものではなし、
外見よりは身が
大切、いくら
襤褸でも仕方ない刺子
絆纏も上に
被ておいでなされ、と戸棚がたがた明けにかかるを、十兵衛不興げの眼でじっと見ながら、ああ構うてくれずともよい、出ては行かぬわ、風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ、七蔵殿御苦労でござりましたが塔は大丈夫倒れませぬ、なんのこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするような
脆いものではござりませねば、十兵衛が出かけてまいるにも及びませぬ、円道様にも為右衛門様にもそう云うて下され、大丈夫、大丈夫でござります、と
泰然はらって身動きもせず答うれば、七蔵少し
膨れ
面して、まあともかくも我と一緒に来てくれ、来て見るがよい、あの塔のゆさゆさきちきちと動くさまを、ここにいて目に見ねばこそ威張って居らるれ、御開帳の
幟のように頭を振って居るさまを見られたらなんぼ十兵衛殿
寛濶な気性でも、お気の毒ながら
魂魄がふわりふわりとならるるであろう、蔭で強いのが役にはたたぬ、さあさあ一所に来たり来たり、それまた吹くわ、ああ恐ろしい、なかなか止みそうにもない風の景色、円道様も為右衛門様も定めし肝を
煎っておらるるじゃろ、さっさと頭巾なり絆纏なり冠るとも
被るともして出かけさっしゃれ、とやり返す。大丈夫でござりまする、御安心なさってお帰り、と突っぱねる。その安心がそう
手易くはできぬわい、とうるさく云う。大丈夫でござりまする、と同じことをいう。末には七蔵
焦れこんで、なんでもかでも来いというたら来い、我の言葉とおもうたら違うぞ円道様為右衛門様の
御命令じゃ、と語気あらくなれば十兵衛も少し
勃然として、
我は円道様為右衛門様から五重塔建ていとは
命令かりませぬ、お上人様は定めし風が吹いたからとて十兵衛よべとはおっしゃりますまい、そのような情ないことを云うては下さりますまい、もしもお上人様までが塔
危いぞ十兵衛呼べと云わるるようにならば、十兵衛一期の大事、死ぬか生きるかの
瀬門に乗っかかる時、天命を覚悟して駈けつけましょうなれど、お上人様が一言半句十兵衛の細工をお疑いなさらぬ以上は何心配のこともなし、余の人たちが何を云わりょうと、紙を
材にして仕事もせず
魔術も手抜きもしていぬ十兵衛、天気のよい日と同じことに雨の降る日も風の夜も楽々としておりまする、暴風雨が
怖いものでもなければ地震が怖うもござりませぬと円道様にいうて下され、と愛想なく云い切るにぞ、七蔵仕方なく風雨の中を駈け抜けて感応寺に帰りつき円道為右衛門にこのよし云えば、さてもその場に臨んでの知恵のない奴め、なぜその時に上人様が十兵衛来いとの仰せじゃとは云わぬ、あれあれあの揺るる
態を見よ、
汝までがのっそりに
同化れて寛怠過ぎた了見じゃ、是非はない、も一度行って上人様のお言葉じゃと
欺誑り、文句いわせず連れて来い、と円道に烈しく叱られ、
忌々しさに
独語きつつ七蔵ふたたび寺門を出でぬ。
さあ十兵衛、今度は是非に来よ四の五のは云わせぬ、上人様のお召しじゃぞ、と七蔵
爺いきりきって門口から
我鳴れば、十兵衛聞くより身を起して、なにあの、上人様のお召しなさるとか、七蔵殿それは
真実でござりまするか、ああなさけない、何ほど風の強ければとて頼みきったる上人様までが、この十兵衛の一心かけて建てたものを
脆くも
破壊るるかのように思し召されたか口惜しい、世界に我を慈悲の眼で見て下さるるただ一つの神とも仏ともおもうていた上人様にも、真底からはわが
手腕たしかと思われざりしか、つくづく頼もしげなき世間、もう十兵衛の生き甲斐なし、たまたま当時に
双びなき
尊き智識に知られしを、これ一生の面目とおもうて
空に
悦びしも真にはかなきしばしの夢、
嵐の風のそよと吹けば丹誠凝らせしあの塔も倒れやせんと疑わるるとは、ええ腹の立つ、泣きたいような、それほど
我は
腑のない
奴か、恥をも知らぬ
奴と見ゆるか、
自己がしたる仕事が
恥辱を受けてものめのめ
面押し
拭うて自己は生きて居るような男と我は見らるるか、たとえばあの塔倒れた時生きていようか生きたかろうか、ええ口惜しい、腹の立つ、お浪、それほど我が
鄙しかろうか、あゝあゝ
生命ももういらぬ、わが身体にも愛想の尽きた、この世の中から見放された十兵衛は生きて居るだけ恥辱をかく
苦悩を受ける、ええいっそのこと塔も倒れよ暴風雨もこの上烈しくなれ、少しなりともあの塔に損じのできてくれよかし、空吹く風も
地打つ雨も
人間ほど我には
情なからねば、塔
破壊されても倒されても悦びこそせめ恨みはせじ、板一枚の吹きめくられ
釘一本の抜かるるとも、味気なき世に未練はもたねばものの見事に死んで
退けて、十兵衛という
愚魯漢は自己が業の
粗漏より恥辱を受けても、生命惜しさに
生存えて居るような
鄙劣な
奴ではなかりしか、かかる心をもっていしかと責めては後にて
弔われん、一度はどうせ捨つる身の捨て処よし捨て時よし、仏寺を汚すは恐れあれどわが建てしもの
壊れしならばその場を一歩立ち去り得べきや、諸仏菩薩もお許しあれ、生雲塔の
頂上より直ちに飛んで身を捨てん、投ぐる五尺の
皮嚢は
潰れて醜かるべきも、きたなきものを盛ってはおらず、あわれ
男児の
醇粋、
清浄の血を流さんなれば
愍然ともこそ照覧あれと、おもいしことやら思わざりしや十兵衛自身も半分知らで、夢路をいつの間にかたどりし、七蔵にさえどこでか分れて、ここは、おお、それ、その塔なり。
上りつめたる第五層の戸を押し明けて今しもぬっと十兵衛半身あらわせば、
礫を投ぐるがごとき暴雨の眼も明けさせず面を打ち、一ツ残りし耳までもちぎらんばかりに猛風の
呼吸さえさせず吹きかくるに、思わず一足退きしが屈せず
奮って立ち出でつ、欄を
握んできっと
睥めば
天は
五月の
闇より黒く、ただ
囂々たる風の音のみ宇宙に
充ちて物騒がしく、さしも堅固の塔なれど虚空に高く
聳えたれば、どうどうどっと風の来るたびゆらめき動きて、荒浪の上に
揉まるる
棚なし
小舟のあわや
傾覆らん風情、さすが覚悟を極めたりしもまた今さらにおもわれて、一期の大事死生の
岐路と八万四千の身の毛よだたせ牙
咬みしめて
眼を
り、いざその時はと手にして来し
六分鑿の柄忘るるばかり引っ握んでぞ、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨いとわず塔の
周囲を幾たびとなく
徘徊する、怪しの男一人ありけり。
去る日の
暴風雨は我ら生まれてから
以来第一の騒ぎなりしと、常は何事に逢うても二十年前三十年前にありし
例をひき出して古きを大げさに、新しきをわけもなく云い消す
気質の
老人さえ、真底
我折って噂し合えば、まして天変地異をおもしろずくで
談話の
種子にするようの
剽軽な若い人は分別もなく、後腹の
疾まぬを幸い、どこの火の見が壊れたりかしこの二階が吹き飛ばされたりと、
他の憂い災難をわが茶受けとし、
醜態を見よ馬鹿欲から芝居の金主して
何某め痛い目に逢うたるなるべし、さても笑止あの小屋の
潰れ方はよ、また日ごろより小面憎かりし横町の生花の宗匠が二階、お
神楽だけのことはありしも
気味よし、それよりは江戸で一二といわるる大寺の脆く倒れたも仔細こそあれ、実は
檀徒から多分の寄附金集めながら役僧の
私曲、受負師の手品、そこにはそこのありし由、察するに本堂のあの太い柱も
桶でがなあったろうなんどとさまざまの沙汰に及びけるが、いずれも感応寺生雲塔の釘一本ゆるまず板一枚
剥がれざりしには舌を巻きて讃歎し、いや
彼塔を作った十兵衛というはなんとえらいものではござらぬか、あの塔倒れたら生きてはいぬ覚悟であったそうな、すでのことに
鑿啣んで十六間
真逆しまに飛ぶところ、
欄干をこう踏み、風雨を
睨んであれほどの
大揉めの中にじっと構えていたというが、その一念でも
破壊るまい、風の神も大方
血眼で睨まれては遠慮が出たであろうか、
甚五郎このかたの名人じゃ真の棟梁じゃ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったに一寸一分
歪みもせず
退りもせぬとはよう造ったことの。いやそれについて話しのある、その十兵衛という男の親分がまた滅法えらいもので、もしもちとなり破壊れでもしたら
同職の
恥辱知合いの面汚し、
汝はそれでも生きて居らりょうかと、とても再び
鉄槌も
手斧も握ることのできぬほど引っ
叱って、武士で云わば詰腹同様の目に逢わしょうと、ぐるぐるぐる大雨を浴びながら塔の
周囲を巡っていたそうな。いやいや、それは間違い、親分ではない
商売上敵じゃそうな、と我れ知り顔に語り伝えぬ。
暴風雨のために
準備狂いし落成式もいよいよ済みし日、上人わざわざ源太を
召びたまいて十兵衛とともに塔に上られ、心あって
雛僧に持たせられしお筆に
墨汁したたか含ませ、我この塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ源太も見よと
宣いつつ、江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す、年月日とぞ筆太に
記しおわられ、満面に笑みを
湛えて振り
顧りたまえば、両人ともに言葉なくただ
平伏して
拝謝みけるが、それより宝塔
長えに天に
聳えて、西より
瞻れば
飛檐ある時素月を吐き、東より望めば
勾欄夕べに紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、
譚は
活きて
遺りける。