一貫章義(現代訳)

幸田露伴

中村喜治訳




 昔、中国の詩人陶淵明とうえんめいは、書物を読むにあたっては甚解じんかいを求めないと云った。むずかしく細かな点まで穿鑿せんさくした煩わしい解釈が、甚解というものだ。読書人の読書はその大意が解ればそれで良いので、淵明のような読書人が甚解を求めなかったのは当然のことだ。しかし書物を読んで自分勝手に解釈したり、誤解したり、咀嚼そしゃくもしないで生半可な解釈をしたり、解らないところが有っても強いて読み過ごして、いわゆる丸呑込みをして、それで済ませるなどというのは宜しくない。まして聖賢の書は、言葉は簡単だがその意味するところは遠いものなので、自分勝手な了見で、おろそかに読み下し、そして読了するようなことは、実に宜しくない事である。力の及ぶ限りは、正しく理解し、くわしく理解し、深く理解し、全体を理解し、それによって博大な内容、微妙な意味を受け取るべきなのである。そもそも聖賢の書は、書の言語文字が解り、趣旨内容を理解することだけを求めるものでは無く、人がそのおしえを会得して実行するためのものなので、読む者がく理解し能くさとった後に、その心をその中に浸し味わい、その身をその境地に該当させて、聖賢のおもいを考え求めるならば、次第にその真実の景象に接することが出来るのである。即ち少しも不明のない真の理解に至り着くのである。今、未だ真の理解に至らないのであれば、人も我も共に、真の理解を、真の理解をと、希求しなければならない。

 子曰、参乎、吾道一以貫之。曽子曰、唯。
いわく、参乎しんやわがみちいつ以って之をつらぬく。曽子そうし曰く、。)
 これは『論語(里仁十五)』の一章の前半である。昔から諸先輩の解説も多いので、今更これを解説する必要はないのであるが、今の人の多くは先賢の書を読むこと少なく、従って先賢が儒教の古典(経書けいしょ)を理解するのに、どんなに注意深く思考したかも知らず、ただ紙上の文字を一読するような浅い読書で済ませてしまうので、読まない前も空虚、読んだ後も空虚、読んでも読まないと同じで終る傾向がある。それではどんなに聡明な人でも何の得るところも無く、知識を得て啓発される(識得煥発しきとくかんぱつ)ということが少しも無く終ってしまう。識得煥発ということが無ければ読書は何の意味も無い。
 昔の人が経書などを読む場合は、その大体を理解した後に、真剣に思考すること誠に注意深いものがあって、各自の器量・性質・学問・認識に差が有るのは仕方無いが、自分は自分で出来る限りの力を尽くしたものである。またいまだその大体が解らないときには、いわゆる句読訓詁くとうくんこ、即ち字句の解釈を人にも受け、自分も考え調べ、今日こんにちの学問上からも誤りの無いように学び、大体の意味を得る準備をしたものである。このような準備と研究とを積んだ上で、なおその事柄について広く詳しく知り、過去の事例から類推したり、その事柄を敷衍ふえんして考えたり、結論はどうか、支障は無いかと検討したりと、努力を重ねて始めて会得できるのである。
 句読訓詁を受け、字をって文を解釈することは、いわゆる「小学しょうがく」である。勿論この小学は大切である。小学も解らないで一足飛びに主旨や真意が分る訳は無いのである。であるのに、今の人は英雄豪傑の敵陣突破のように、勇猛果敢にどんな書でも読過しておわりとして、句読訓詁などは立派な男がする事ではないという了見で、粗雑な態度を自省することなく、自分の意のままに解釈し、批評し、論難したりして、大きな間違いに墜ち入り常軌を逸する。何とも悲しいことである。
 例を挙げれば、『論語(泰伯九)』の「子曰く、たみこれらしむし、之を知らしむからず」の章がそれである。今の人はこの章の趣旨を、政治はただ民に為政者を信頼させるだけで宜しい、知らせるには及ばない。と云うように解釈しているのが多いようである。そしてこの章を非難している者さえ有ると聞く。嗚呼ああ何ということであろう、これらは皆常軌を逸した狂論で、取るにも足らないことであるが、その初めは小学に通じないで、由の一字を誤解したところから生じた過失である。由も頼も拠も邦語では「よる」と読むが、由は頼でも拠でも無い。由は、『論語(雍也十五)』の「子曰く、誰かずること戸にらざらん、なんの道に由ることき」の由であって、決して依頼の頼や拠有の拠では無い。「誰か能く出ずること戸に由らざらん」というのは、内から外へ出るのに開き戸の有るところから出ない者は無いと云うのである。由の字の意味はそれでさとることができる。また由は自である。『詩経』の「自東ひがしより自西にしより自南みなみより自北きたより」の自と同じで、東より西よりの「より」である。由の字のこのような意味を知れば、「民は之に由ら使む可し」を朱子しゅし(中国南宋の儒学者)が解釈して、「民はこの道理の当然に由らしむべし」と言うのが、実に明白な解釈だと感じられる。この字によってこの字を解釈するのが最もよい解字の方法だが、もし他の字によってこの字を解釈するならば、「由は用也」という古註(唐以前の注釈書)の説もまたはなはだ良い。経伝けいでん(経書やその解説書)には用によって由を解釈した例は甚だ多い。用いしむべくして知らしむべからずとは、「民は能くそれを日々に使用しているが、しかしながらそれを知ることあたわざればなり」という古註もまた簡明ではないか、「之を知らしめる可からず」と云う句は、朱子も、「民の一人一人に、この道理を理解させることあたわざる也」と、「可」の字に替えて「能」の字を使用している。即ちここでの可は可能の可で、可・不可は出来る・出来ないということである。このように、由字・可字を小学的に理解すれば、この章の趣旨は自然と明白であり、聖人が民を導き教化するのに礼楽政教を用いた理由が、例えば歩きやすい平坦な道路を敷設して、人にみずからその道路を歩かせるようなことなのだということが分る。程子ていし(中国北宋の儒学者、兄が※(「景+頁」、第3水準1-94-5)ていこう・弟が程頤ていい)がこの章を語って、「聖人がおしえもうけたのは、人々の家ごと戸ごとにさとし覚らせることを欲しないのではないが、そのおしえの趣旨を覚らせることが難しいので、手本を示してらせるのである。もし聖人は民に知らせないと言えば、即ちこれは後世の朝四暮三の術である、どうして聖人の心であろう」と親切丁寧に説明している。朝四暮三の術とは民を愚民扱いにする統治の術であるが、聖人が民に臨んで民を愚とするようなことを何ですることがあろう(訳者の蛇足説明:人はその人の範囲でしか物事を理解出来ないものなので、我々凡人の了見では、幾千年に幾人かという孔子のような聖人の心は、とてもとても分かるものではありません。それで聖人の言葉は簡単だがその意味するところは遠いと露伴先生も言われるのですが、ここでは聖人が民を愚人扱いするようなことを言われるハズはないと、程子が言われているのです。このような観点は大切です。このような観点から聖人の言葉の理解に努めれば、時の為政者や御用学者の都合の良い解釈に惑わされることも無いことでしょう)。であるのに、小学を足蹴あしげりするように、粗雑・大胆・軽率傾向の人は、自分の浅い了見で由字を解釈して頼字とし、からずを解釈して宜しからずとし、「意のままに政治を行うことを可とする」とこの章を解釈し、そして之を大いに非難するような、無益な議論を数々耳にする。嘆かわしいことである。
 さて小学的なことが解れば、その章の大意は自然と理解できるのであるが、ただ大意が理解できた事で終りとしたのでははなはだ足りないのである。大意が理解できたなら、それから初めて真の理解に解き至り、そして味得・体得に努め、十二分に注意深く思惟すべきなのである。そこでの熟考熟慮こそが学者の本業とすべきところであって、そこに於いて自分の学問の足りないところを知って之を補い、自分の認識の及ばなかったところを省みて之の向上に勉め、自分の性質のかたよりから等閑なおざりにしていた部分のあったところを悟って、今まで気付かずにいたところに心が届いて、次第に欠点の無いものとなり、自分の器量が弱小なために博大精深になれず、大きな働きが出来なかったことを反省して、自己の器量を少しでも大きくしようと心掛けるのが本筋なのである。このようにしている間に、次第に粗より精になり、偏より円に至り、がいよりつうに進み、小より大に進化して、何時いつとなく純熟して、ついには識得煥発・欣喜雀躍の境地に至る。そこで始めて少し分ったという段階に入ったのである。
 紙上の字・机上の書、それを眼にし、それを読むだけの間は、解得かいとくに向っているには違い無いが、それは修学の道の途上であって、修学がそれに尽きるのでは無い。し字を解釈し書を読んで、ああであろう、こうであろう、これゆえにこうで、そうだからこうである、と理屈らしいことをひねりまわして、算数の計算をするようなことを云ってとどまるならば、それは虻学問あぶがくもんと云うものであって、真の学問には遠いものである。虻という虫が部屋に入って、出ようとしてあかり障子のところで羽搏はばたいて、頭を打付けてブンブンと努力しているが、結局何の役にも立たないで終る。九年読書しても、ただ文字ある紙にむかって賢顔かしこがおの羽搏きをしているだけでは、古人が之を憐んで言った通り、「長年読書をしているが、何時になったら修得できるのか」である。
 そうかと云って聖学は禅宗などのように、或る朝に「突然に悟る」というようなことを狙うものでは無い。学問思弁の道に切磋琢磨の努力を重ねるのが聖学の建前である。字を理解してその文を読み、文を読んでその趣意を了解し、趣意を了解した後、それで果して本意真意を得たか否かと、思考すること精厳を尽し、それで果して誤りは無いか、不足は無いか、かたよりは無いか、こだわりは無いか、空虚にせて実際に遠ざかることは無いか、小知で大事を測ることは無いか、他と食違いは無いか、関係するところを忘れてはいないか等を、周到に理解するときには、学問は次第に紙上の字・机上の書から、心の中のかたち物事ものごと上の理論となり、なおも勉学の心が真剣で已まなければ、そこに一・二分乃至ないし三・四分の識得感発するところが有って、それよりいよいよ真を知ってそれを実行する、知識と行為が一致する、知行同一の境地にも至るのである。
 それなので、古人の学問は今の人に比べるとはなはことなっている。今の人の学問はただこれ記述の学問か、または生飲み込み、拾い読みの学問であって小学にさえ骨を折っていない。学問についても今の人は今の人の主張が有って、古人のように鄭重な態度を取ってはいないで、学芸も結局は衣食を得る道である。と云うように取っていられてはどうしようも無いが、このような世にあって、古人の読書の仕方、経書の解釈の扱い方などがどのようなものであったかを示すのも、甚だ現実的ではないが又全く無益でも無いだろうと、しばらくは古風な態度を取って解釈をするのである。経書を説くこのような古風な扱い方を、これによっていささか、このような事を知らない今の人に示そうとするのである。

 子曰。(いわく)
 子は男子の通称であり、ここでは孔子こうし(中国・春秋時代の思想家、儒教の祖、孔丘こうきゅうあざな仲尼ちゅうじ。孔子、孔夫子こうふうし夫子ふうしと尊称される、子や夫子は先生を意味する。)をいうことは勿論である。「曰は、口に従う、乙の声、口気の出ずるにかたどる」と許慎きょしん(中国後漢の学者)の『説文解字』が説く通りである。子曰は、孔子が言われるには、と云うのである。子曰が、全て孔子なのは『論語(理仁篇)』である。『論語』は、大雑把に言えば、全て孔子の弟子が善言を記したものであり、詳しく言えば孔子の弟子の曽子の弟子である楽正子思の徒が記纂きさんしたもので、また孔子の弟子の有若ゆうじゃくの弟子等が記したところも有るので、単に子曰とあるのは孔子で無ければならない、そう考えられるのである。

 参乎、(参乎しんや
 しんは孔子の弟子曽子の名である。参、字は子与しよ、魯の南部城の人で、「孔子より若きこと四十六歳」と『史記』に見えている。参は曽点そうてん字は※(「析/日」、第3水準1-85-31)せきという者の子であり、※(「析/日」、第3水準1-85-31)もまた孔子の弟子であり、孔子門中のおける曾子の先輩でもある。※(「析/日」、第3水準1-85-31)は『論語(先進二十四)』に見えて、同門の子路しろ冉有ぜんゆう公西華こうせいかと共に、孔子のかたわらに座して各自がその希望するこころざしを述べた時、※(「析/日」、第3水準1-85-31)は「暮春ぼしゅん、皆が春服しゅんぷくとなる好い時節に、今年初めての冠者となった青年五・六人と、童子六・七人を連れて、の温泉に浴し、※(「樗のつくり」、第3水準1-93-68)ぶうの辺りの涼風すずかぜに吹かれ、歌を詠じながら帰って来たいと思います。」と言って、孔子に「吾は点に賛成する。」と言わせた高明な人であった。曽参は父とは性質が異なっていて、父のように聡明な人では無かったが、いかにも篤実な人で、『論語』・『礼記』・『孟子』・『孝経』に数々見えている。その人柄はそれらを読んで知るべきである。
 孔子からは、「しんなり」と言われたことが『論語(先進十七)』に見える。魯とはどんとか遅鈍ちどんのことで、キビキビした敏捷な人で無く、おっとりと薄のろい人だった。しかし魯鈍遅鈍な代りには、自然おのずと確実質樸なところが有って、「吾は日に吾身わがみ三省さんせいす、人の為にはかりて忠ならざるか、朋友と交わりてしんならざるか、伝えて習わざるか」『論語(学而四)』と自ら言ったほどで、聡明であっても最後は空疎に終わる人と違って、聡明弁才は足りなくても、「その誠を尽すこと終始かわり無く、外はその力を尽して怠ること無し」と慶源けいげん輔氏ほしが言った通り、如何にも手厚く、ジリジリ押しに、たゆみ無く学問に進んだ人である。やり始めは集中して努力するが、後には次第に怠けてしまうことを、「誠を尽すに終始のかわりが有る」というのである。曽子にはそのようなことが無いのであった。三省の言からも曽子の学問の様子がうかがい知られるが、第一に「人の為にはかって忠ならざるか」とある。人の為に謀る以上はもちろん忠であるべきである。忠とは「自分を尽す、これを忠という」と朱子は解説している。自分の心の有る限りを尽すのが忠である。ところが自分の為に謀る場合には、吾が心の有る限りを尽すが、人の為に謀る段になると、なかなか吾が心の有る限りを尽すということは出来ないもので、我も人も内省して見ると分ることであるが、ずは好い加減にしていることが有るものである。好い加減にすることは不忠なのである。人の為に謀って忠であるか不忠であるか、そういうことをかえりみることも知らないで済ませているのが無教養な者の常であるが、既におしえを受けて成程と合点していても、誰もが忠には成り難いものである。あやふやなものである。恐らく曽子といえども学問の始めに於いては、忠でない場合も多かったことであろう、それを「日に省みる」とある。そこが曽子の学問態度の篤厚なところで、何とも感心するところである。忠・不忠、これはもちろん心中の消息であるが、その心中微妙なところを省みるところに、曽子の徹底的に学問に努める態度と、正しく心を保つ(存心ぞんしん)純粋なところを看るべきである。
「朋友と交わりて信ならざる乎」とある信とは、朱子が「実際を以てする」と解説している。忠は心性上について言う、信は物事上について言う。心中に在る場合は忠、行為する場合は信、忠も信も異なったものでは無いが、内に在るところの忠がそのまま外に伝わる、それが信である。俗に「うそをつかない」ことを信と心得ているが、「うそをつかない」ことも信には相違無いが、それだけでは信の本義を尽してはいない。言葉だけのことで無く、心の忠をそのまま外にあらわしたのが信である。これがまた出来そうで出来ないことである。何も歯にきぬ被せずにボキボキと物を言うのが信という訳でも無い、そう云うことは気質のあらい人には訳無く出来ることだが、それは不信では無いとしても信とは云えない。信は誠であって、日が日々に昇る、月が夜々に現れる、潮がその時々ときどきに進退する、そのようなことを信というので、言語ことばだけで無く行為に於いても、吾が心の誠、即ち忠を行うのが信なのである。換言すれば忠の具体的のものが信で、信の抽象的なものが忠である。忠は微妙で、信は明確である。であるので、人の為に謀る上で忠か忠でないかと反省することは大切なのである。友と交わる上で信か信でないかと反省することは当然なのである。忠信はただこれ一線の左右、一体の表裏、一象の上下である。
「伝えて習わざるか」とは、朱子の「伝えるとは之を師より受けることを云い、習うとは之を自分に習熟することを云う」という解釈が実に優れている。『大戴礼記だたいらいき』に曽子の語の「あさには為すべき仕事に就き、ゆうには一日の仕事を終え、明日に備えて反省し、有意義に生涯を生きて、天命に安んじて死につくならば、自分に与えられた仕事を守り得たと云うことができよう」とあるのが見えているが、全くここと同じことで、旦夕たんせきの文字が形容的に入っているかいないかの差だけである。習うは邦語「ならう」と読んで、「ならう」は真似をすることであるが、「習は数飛也」と『説文解字』に見えているのが本義である。「鷹すなわち学習する」とあるように、幼鳥が飛び初めの時に、しばしば羽搏はばたくのが習うである。それなので、習は重也じゅうなり積也せきなりとも読み、えきにある習坎しゅうかんかんは「かさぬ」と読む。之を師より受けても、自分で之を実際に重ね重ねて習熟しなければ、実際に真を得ることも無く、業はおこたすさんでしまうのである。しかるに曽子は「伝えて習わざる乎」と日々に自ら省みたのであるから、習わないことは無かったのである。
 曽子はこのような人で、自ら治めること誠実篤実、弛み無く道を学んだ人であった。その才能は顔回などには及ばなかったが、孔子門下の最も良い弟子として、正しく師の道を伝えた人と云われている。なお曽子の学問をして道に進んだ様子や、その風格を窺い知ろうとするならば、『論語』各篇の曽子に関する条文、『孟子』のその条文、『礼記らいき』の中の曽子問・檀弓等の篇、『大載礼記』中の篇第四十九から第五十八迄の十章を読めば、いにしえの人の事は知り難いとは云え、およそは推知することが出来る。ことに『曽子』は漢の時は十八篇あったというが、今は八篇を失っており、朱子は「その言語・内容は、論語・孟子・礼記檀弓篇等のせるところと相違が甚しい」と云っているが、別に又、「記すところ甚だ通じないと云えども、日常行動の実際について詳しい」とも評している。明の方考孺ほうこうじゅ(中国明代の儒学者)は、「曽子十篇、曽子の著すものではないと云えども、格言・正論がその間にバラバラに述べられていて、言説に於いて最も備わる、思うに門人弟子の伝聞から出て、そして漢儒の手に成るものなり」と評している。その第十篇天円に於いて、地のまるいことを説いていることは、人に奇異を感じさせるが、地の球体であることを説くものは、思うにこの書と『周髀しゅうひ』とが古い。そこで清の梅文鼎ばいぶんてい(中国清代の天文家)は、「地円の信ずべき、大載礼記に曽子の説有り」と云っているが、それ等の事はさていて、『曽子』十篇は、曽子とその弟子の公明儀・楽正子春・単居離・曽元・曽華の徒が、立身孝行の必要、天地万物の道理を論述したものであるから、曽子を考える上では読むべきもので、漢人の手に成るという理由を以て捨てて取らないのは、過厳な論である。この『曽子』の十篇、第二篇は立孝、第四篇は大孝、第五篇は父母の事、と皆孝行の道に関して言っているところを看ると、曽子がどんなに孝行の道に深い人であったかが覗われ、『史記』の作者が「孔子は曽子が孝行の道によく通じていると思い、ゆえにその学問をさずけて、孝経を作らせた。」と記したのもうなずかれる。また現存の『孝経』を見ても、諸書に見える曽子孝行の事実に照らしも、まことに純粋温良の人であり、魯鈍で才能は鋭くなかったにしても、また大器大才の人では無かったにしても、人の子として無上に美しい子であり、しかも常に親に仕えて不足の無いことをおもってまない、少しの「うそ」も「油断」も無かった人だったことが知られる。
 こういう人であったから、人の弟子としても弟子として美しく、我意などの無い、瓶から瓶へ水を注ぐように師のおしえを濁さず散らさずに伝え受けた人であった。孔子の弟子の優秀な者七十余人、その中には種々の偉材も有ったが、顔回がんかいを除いては曽子が思うに最も能く師のおしえを伝え受けた人で、であればこそ、孔子の孫の子思も曽子に学んで孔子の教を得、孟子もまた子思に学んで道統(孔子の道)を得られたのである。
 宋時代の儒学者(宋儒そうじゅ)が「道統」の説を出してから、孔子の道にもまた仏家の衣鉢相伝のようなものが有るように見られ、いわゆる「道学」だの、「伝授」だの、「心法」だのと、何か特別に霊妙なものが有るように思われて、之を尊奉する者や、之を嫌う者が現れたが、道統などと言わなくとも、孔子の道は孔子が数々自ら言われたように古聖先王の道であることは明らかで、曽子がこれを伝承し、子思がまた曽子から受け、孟子がまた子思から受けたことは確かな史実であるから、曽子が孔子の道に於いてどのような位置に在ったかは、自然と明らかなのである。
 宋儒の言葉も決してしりぞけるべきでは無いが、やはり孔子のおしえから展開したものであるが、それは展開したものなので、元のままのものでは無いこともまた否定できない。例えば大乗仏教が仏教で無いことは無いが、大乗の経論は仏教から展開したものであって、それは展開したものなので、元のままのものでは無いのと同じことである。宋学は宋学で、強い主張も有れば効能も有る、それは別論すべきであるから、今は曽子の人なりと、その孔子の道のおしえの上でどのような位置にあったかということを、史的事実だけで語って済ますのである。
 参乎しんやの「」は、語のあまりである。字の上の「ノ」は声上って越揚えつようする形にかたどる。気の欝結うっけつを伸び広げるのが「」であり、兮の上のノは徐諧が「声気上出じょうしゅつして尽きるなり」と解説している。之を疑うことばも乎であり、之を呼びかける詞も乎である。呼は、といって呼びかけるので、乎に口を加えて呼びかけの字義となったのである。ここは「参や」と孔子が名を言って呼びかけられたのである。参のおんはシンである。陸徳明りくとくめい(中国唐の儒学者)はおんをサンと読んだが、曽子の名の音は唐の時からこれと確定出来なかったのだから、今は『説文解字』が音をシンと読んだのに従って置くのをよしとする。

 吾道一以貫之。(吾道わがみちいつ以って之をつらぬく)
 吾は我なりと『釈詁』に見える。吾と我、双声で同義である。ただ後世は我を主格とし、吾を所有格として用いる傾向が有るが、いにしえは必ずしもそうではない。しかしここは所有格として用いている。次の道の字にかかって「吾が道」と云うので、即ち孔子が自ら言われたのである。
 道は『釈名』に、「一達これを道という」とある。一達とは長い道の枝道の無いのを云うのである。二達はであり、四達はであるように、細かく言えば一達が道であるが、普通に言えば必ずしも一達だけが道では無い。道は「踏」であって、人の踏むところの意味である。また行は道なりと『鄭箋ていせん』に数々見えるように、行と同じ意味で、行を「みち」とみ、「みち」を道として通じるのである。それなので道の字は、今は「首」に従い「※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)ちゃく」に従っているが、いにしえは「行」の字の中に「首」の字を置いた「どう[#「衙」の「吾」に代えて「首」、U+885C、450-2]」の字の方が多く用いられている。行は道路のかたちである。それは四達の衢にかたどったものである。首は人の首で、人の首の向かうところを表わして行字の中に首字を置いた※[#「衙」の「吾」に代えて「首」、U+885C、450-4]は、道の意味であり道と同じ字なのである。※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)を『説文解字』では、たちまち行き乍ちとどまるなりと解釈しているが、それは※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)字の下半分の止を止まると解釈したからの誤りで、止は足である。足は止まるものでもあるが、行くものでもあるから、何も※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)たちまち行き乍ち止まると解釈しなくてもよい。※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)字の上半分のてきを『説文解字』では小歩也と解釈しているが、これも小歩としなくともよい、歩とするだけで十分である。彳の反対の※(「行のつくり」、第3水準1-14-7)ちょくが「歩止」であるから、彳は歩でよい。※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)は彳に従い止に従うのであるから、その字義は歩に従い、足に従うので「行く」と云うほどの意味である。※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)に従う字の多くが歩行に関しているのを見ても、その字義が行にあるのを知ることができる。※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)の用いられた例は今の書には無く、ただ漢の時の本の『春秋公羊伝』には、※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)階而歩と春秋宣公六年の文にあったと云うが、今の本には躇階而歩とある。ちょには躊躇ちゅうちょの意味もあるが、そこは何休かきゅう(中国後漢の儒学者)の解説にある通り、躇は超遽ちょうきょ(超あわただしい)のように、「次との間にいとまが無い」で、※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)にせよ躇にせよ、『玉篇』が「走る」なりとみ、『廣雅』が「はしる」なりと訓んだように読まなければ通じない。このように※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)に従う道も、行に従う※[#「衙」の「吾」に代えて「首」、U+885C、450-14]も、首が向かうところを示し、人の行く所が即ちそれであることを表わしている。そこで道路の字義から引用して「道理」の道となり、「道術」の道となり、「道義」「道徳」の道となったのである。であるから、老子(中国春秋時代の哲学者)が、「大道は極めて平らかなのに、なぜか人々はこみちを好む。」と云っているのも、道路の道と、道術の道とを、同じ意味にとらえて、径の「小みち」というのを用いて、暗示的表現をしている。また、董仲舒とうちゅうじょ(中国前漢の儒学者)が、「道とは由りてくところのみち也」と云っているのも、「由りて」「ゆく」「路」の字を用いて、道路の道のように大道の道を説いているのである。
 道の字義はおよそこのようであるが、さてここに孔子が「吾が道は」と言われた道は、即ち孔子が常に由るところのものであり、取るところのものであり、従うところのものであり、行うところのものであり、正しいとするものであり、昔から今に至るも変わらないものであり、全世界に通ずるものであり、礼楽であり、術芸であり、その小は喜怒哀楽の感情が未だ発生しない平正な心の景象から、その大は国家天下の甚だ顕著な営為に至るまでのものであり、心象から事相に及ぶ一切、即ち孔子が之を包み、孔子が之に包まれ、孔子がその中に融け、孔子がその中に融かされ、孔子とそれとが渾然となって互にたい(本体)となりよう(作用)となり、瞬時も離れないものが即ち孔子の「吾道」である。このように言うと抽象的になって終って、道は具体的なものでないように聞えるかも知れないが、孔子が道と言われるものは道教や仏教が言う道とはことなっている。「そこに身をまかせているが意識しない、之を道という」と荘子の指した道や、自然や無を道とした老子の道や、虚無寂滅を道とし、あるがまま(法爾ほうに)を道とした仏家の道や、それ等と同じものとして孔子の道を理解しては宜しくない。道教や仏教の道は天理を言う傾向にある。孔子の道もまた天理を認めないことは無い。その天を言うに当っては、もちろん道の本源に及ぶが、孔子の道は多く切々と「人」の上に就いて言われているのである、随って「物事」の上に之を認めようとするのである。そこで礼と云い楽と云って礼楽を重んじるのであり、仁と云い義と云って仁義をたたえるのである。孔子のいわゆる道は空虚に属するよりも実事に属す方が多い。孔子の孫で、曽子の弟子の子思が、「せい(本性)にしたがう之を道という、道を修める之をおしえという」『中庸(一章)』と孟子(中国戦国時代の儒学者)に伝えられて以来、孔子の道も多く心性上のもの、形而上に属するものと思われ、孟子も性善説を主張し、その後、程子や朱子も多く心性上に論述されたことが多かったために、いわゆる宋学を学ぶ人は、そういう部分に力を入れて研究したので、儒教も道教や仏教のように心性上のことを語るもののように看做みなされる傾向があるが、孔子の道は勿論「人」の上に就いての道であるから、心性上の事を大切にされたことは勿論だが、孔子の道は決して虚礼三昧のものでは無い。その道は、史により・文により・礼により・楽により・物事に即し・実際に即して、物事上に道理を合せ、道理上に物事を合せて、物事と道理が一体となり、偏りなく、偏頗無く、向上済世することを趣意とされたのである。「べて作らず」と云われた「述べて」とは何かと考えるとき、「いにしえの聖人、堯帝・舜帝を道の祖とし称え述べて、周の文王・武王の治世の法を正しいとして手本とされた。」『中庸(三十章)』のがそれであることが分る。「信じていにしえを好む」と云われたいにしえは、皆これ空理では無く物事上のことであることが分る。孔子が老子に物を問われた時、老子がどのようなことを孔子に告げたか。「吾これを老子に聞く」と孔子が言われた事は、日食変礼の事、若死わかじにには棺衣を用いること、伯禽為にするありしこと等、皆これ物事上のことである。孔子のおしえを受けて成った者七十二人、何が成ったのであるか。六芸りくげい(礼・楽・射・御・書・数)に通ずるとある、六芸は皆これ物事上のことである。壁を前に坐禅して悟りを開くような、虚霊の沙汰ではないのである。今の言葉で言う哲学というものが孔子に無かったことは無い、勿論孔子には孔子の哲学があったのは疑い無いが、孔子の哲学はいわゆる哲学者の哲学とは大いに違っていて、物事と行為とに即している哲学である。致知格物ちちかくぶつ(実際の物事によって知を深めること)から修身斉家しゅうしんせいか治国平天下ちこくへいてんか(身を修め家をととえ国を治め世を平らかにすること)に至る「実際」に伴う道、いや実際即ち道、道即ち実際の孔子の道は、がくも失われ、礼も欠けてしまった後世においてはその全体が得られなくて、わずかに宋学(朱子学)がその「実際」の失われた残りの部分を恢復したが、道理上の論議を精しくしたので、孔子の道もまた空中を模索し探し当て、これでは無いかと感じて悦ぶようなものになってしまった傾向があり、又清儒しんじゅの学(陽明学)は、医者が薬性を精しく知ろうと自ら山林を駆け巡って種々の草木を検討したが、結局は病者を治す良法を得られずに終わって、孔子の道の甚だ遠いことを思わせて止んだ。孔子の道は決してその様な頼りないものでは無い。小面倒なものでも無い。時代の大勢とは相容あいいれ難くも有っただろうが、しっかりとした、そして整った、博大な、空疎でない、文明的で人道的な世界の成立を目的とした、「物事」に伴い「実際」をわすれない立派なものであったと考えられる。
 管子かんし管仲かんちゅう:中国春秋時代の政治家)は斉国せいこくにおいて斉の祖である太公望の治国の方法を継承して斉を再興したが、管子は経済・産業・軍事を多く配慮する太公望の道に由ったので、孔子よりも物事上の用心が広く、孔子は魯国ろこく(中国春秋時代の一国)に生れ周公(中国古代の周の政治家)を崇拝したので、文明的・道義的・礼楽的を治国の方針とする周公の伝統に属する孔子は、「軍陣の事などは知らない。」『論語(衛霊公一)』というように自ら言われ、経済の事なども「節度」を重んじ、民力を暴使しないことを大切とする位の、大綱的消極的なおしえに止まり、管子が「塩」を説いたり、「物価」を説いたり、「鉱山」を説いたような物事上の説などは、論語その他のの書を見ても見当たらないのである。これによっても孔子の道は、物事にうとく遠いように思われるが、決してそうでは無い。ただ太公望や管子は「物」や「力」を優先し、周公や孔子は「礼」や「楽」を優先されたのだが、物事上に注意されたことは同じである。管子は富強を主とし、孔子は文明を主とされたのである。礼はである、履行である。文明の履行で無くて礼が何であろう。礼は皆物事である、空疎なものでは無い。孔子が礼を語ることが多いのをみても、孔子の学問、孔子の道が、物事を離れないのは明らかである。後人が書斎で机にむかうことを以て学問とするようなことは、孔子の学問の一部分にこのようなことが有るとするのは可だが、孔子の学問や道がそういうものであるとしては間違いである。孔子の高弟七十二人、樊遅はんちがその中に在るかどうか確かでないが、樊遅かつて穀物の作り方について教えを請い、次に野菜作りについて教えを求めた『論語(子路四)』。農耕の道を自分が先ず之を学んで之を知って、それから民を教え導こうとしたのであろうが、如何に身辺雑事に多能であった孔子に対しても、このような問いはまことに不当である。しかしこのような産業に関する事を求めても、そのおしえを得ることが出来ると思ったから樊遅は求めたのであろう。そこに孔子の道が、常に道理についてだけでなく、物事にも切実なことがうかがい知れる。そうで無ければ樊遅のうつわは小なりといえども、このような物事上の学問を孔子に対して何で一度ひとたび請い二度ふたたび云うことが有ろう。孔子の道、その心は一つであるが、その現れた物事に就いて観れば、千緒万端に及んで、各々成っているのである。ここに吾道と言われたのは、形而上・形而下・心象・事相、一切にわたっての道である。孔子の信奉するところの道、即ち古聖先王の道、古聖先王の伝えられた道、即ち孔子の道なのである。
「一以貫之」の一は、かずの一として解釈してももちろん不可では無い。ただそう読むときは、吾道は「いつ以て之を貫く」と訓読くんどくすべきである。それで宜しいのである。しかしながらのちの文に、「曽子いわく、先生の道は忠恕のみ」とあって、忠のみとか、恕のみとか、または誠のみとかであれば、一とあるのにく対応するのであるが、忠恕と二字を以て答えているので、対応しない感じがしないでもない。そこで数の一としては読まない説も起って来るのであって、従ってまた貫も「つらぬく」とまないことになる。阮元げんげん(中国清代の考証学者)はここの一を「専」又は「皆」とみ、貫を「行」と訓み、「吾道はもっぱら以て行う」と訓んでいる。阮元は大儒で、しかもいにしえに精しい人であるから、即座に之を否定するのは宜しくない。「一」を「専」と訓むのは、『管子(心術篇)』に、「執一之君子」とあるところの注に見え、『淮南子(説山訓)』に「一、情専也」とあり、『後漢書(馮※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)伝)』にも「一、猶専也」と見え、『荀子(大略篇)』の「君子一教、弟子一学、亟成」の注に見え、『春秋穀梁伝(僖公九年伝)』の「台明天子之禁」の注、『礼記(表記)』の「欲民之有台」の注、『礼記(大学)』の「台是皆以修身為本」の注にも見えていると説明し、また「一」を「皆」と訓むその証拠は、『大載礼記』の「衞将軍文子、則一諸侯之相也」の条文、『荀子(勧学篇)』の「一可以為法則」の条文、『荀子(臣道篇)』の「喘而言、臑而動、而一可以為法則」の条文、『呂覧(貴直篇)』の「一若此乎」の条文、『後漢書(順帝紀)』の注等に在って、いずれも一を皆とむのである。王念孫おうねんそん(中国清代の学者)は、『広雅』で貫は「行也」と注釈している、『荀子(王制篇)』に「為之貫之」とある貫も、「為す」即ち「行う」の字義である、『漢書(谷永伝)』に「以次貫行、固執無違」とあるのも、『後漢書(光武十王伝)』に「奉承行貫」とあるのも、皆「行う」とむべきである。『爾雅じが』に貫は「事也」とあるが、「事とする」と「行う」とはその意味が近いので、「事」も之を「貫」といい「服」といい、「行」も之を「服」といい「貫」というのである。と解釈して一以貫之を「一以て之を行う」とんでいる。
 阮元は、「吾道一以貫之」を「吾道皆以て之を行うなり」と読んで、その意味は、「吾が道は皆行為に於いて之を見る、単に文字の学問を以ておしえとするのでは無い」としている。王念孫も手堅い学者である。王念孫と阮元の解釈は大体同じであって、孔子が「参や」と親しく呼びかけられて、「吾が道は専ら皆之を行う」にあると示されたと云うのである。前に述べたように、道は勿論行に従うものであり、行くは即ち行うことであるし、また先王の道に従うのが孔子の道であり、道は行為を離れて存在するものではなく、物事の上、即ち行為の上、実際の上から離れないものであり、特に孔子の道は道教や仏教の道とはことなり、虚無的・霊秘的では無く、全て実践的で人間的なものであるから、このように語られたのも当然である。
 しかし王・阮二氏よりは遙に古い※(「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63)※(「日/丙」、第3水準1-85-16)けいへい(中国北宋の学者)の解説書では、貫は「統」なりとんでいる。皇侃おうがん(中国南朝梁の儒学者)も、「貫くはべる(統一する)がごとき也」と訓んでいる。そして※(「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63)※(「日/丙」、第3水準1-85-16)は、孔子が曽子に語って、「我が行うところの道は、ただ一理を用いて天下万事の道理を統一するなり」と言われたと、「道理」の字を用いて解説している。道理の字をここに引き出さなくともよいと思われるが、古註の意味は一を数の一と解釈して、そして貫をべるとんだところに、自然おのずと道理を含んだところがあり、王・阮とは異なる読みかたをしているのである。王・阮の解釈は、「之を経旨に求めて皆甚だ合致する」と劉宝楠りゅうほうなん(中国清の考証学者)が言っているように、意味は能く通じているが、孔子の言葉の調子に合うのは、どちらかといえば古註の方がまさっているようである。ただし古註は余りに簡単なので、学者に明白に識得・感得させるには不足があるようで、劉宝楠に「一貫の字義、漢より以来その解を得ず」と言わせている。
 焦循しょうじゅん(中国清の考証学者)も堅実な学者だが、貫は「通」なりとみ、貫を通の意味に取って、自他共に天下の善に従うことを一貫の意味としている。その言葉に云う、「孔子言う、吾道は一以って之を貫くと、曽子云う、忠恕のみと、であれば即ち一貫は忠恕である。忠恕とは何か、自分を尽して他に対することである。孔子は言う、恕は優れた知恵である。舜は好く民に問いて民のこころを察す、民の意のあしきを抑えてよきを賞揚し、その善悪両端の中間の妥当なところを民に用いる。孟子は云う、偉大な舜は大いに勝れていた。自分にいこと有れば人と共にし、人に善いことあれば人に従い、人の善言を取り入れ楽しんで、よきを実行した。舜は天下の善に従った。これまことに一以て之を貫くである。一心に全ての善をれる、これが偉大な理由である。」と解説している。又云う、「それなので、人に技量有れば之を用いる。これは国を保つ基本である。自分の知らないところは人が教えてくれる。これが賢者を挙げる要点である。知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする、これが学問を勉める要点である。自分に克てばすなわち我意は無い、我意が無ければ則ち天下のよきを容れる度量がある。天下の善を容れる度量が有れば、よきによって善を行い、そして天下の善はがる、よきによって悪を正せば天下の悪は隠れる。貫は通である。いわゆる神の恵みを通じ、万物の情を同じくする。ただ事々に自分を出せば我意が生じる。我意が生じれば人と同和せず人と異なる。人と異なれば、いつ(個・我意)に執着するなり、一以て之を貫くことが出来ない」と。これは「一以貫之」を読んで、「一以て之を通ず」とするもので、焦氏の説は、貫によって百千万の善を通じる「通」の意味合で大精神・大作用・至善・至徳を認め、それが即ち孔子の「吾道わがみち」であるとしているのである。それなのでまた云う、「孟子云う、人がひとしくないのは人の情である。それなので自分の性情を天下の性情の手本とすることは出来ない。即ち自分の習うところ・学ぶところ・知るところ・能くするところを以て、天下の習うところ・学ぶところ・知るところ・能くするところの手本には出来ない。様々な人がいて、聖人の知らないことを知る人も有り、聖人の出来ないことを出来る人もあり、自分の願うところも有り、人もまた各々願うところを持つ。自分の能く出来るところも有り、人もまた各々能く出来るところを持つ。聖人はその本性(誠・まごころ)を以て、人々の本性を発揮させ、人々の資質に因って之を育て、人々の才能に因って之を用い、そして人々と共に天地自然の恵みの中に包まれ、中和を得れば、天地は安定し、万物は生育する」と。自他共によきに従うことは、いかにも先王聖人の道に違い無いから、焦氏の説はもちろん経旨に合致しており、かつ又後のちの曽子の語の「忠恕」にもよく響応していて説得力があるが、要するに貫を通とたところから思い付いて、筋道が通るように解り易すく説明しているのである。
 但し、焦氏が自他の習う所・知る所・学ぶ所・能くする所・技・事に説き及んでいるのは、決して不可では無いが少しき過ぎていて、「吾道一以貫之」の言葉の調子から外れ気味なのは免れない。いつに執らわれることは、一以貫之と異なることは勿論だが、一以貫之に対して「執一」を挙げ「我意」の働きなどを説き出したのは、どうも少し説き過ぎていると思われる。方向は好いが、行き過ぎるということもある。「一心に全ての善を容れる」と、「容」字を用いているのも、舜の「大」の理由として適当であるが、一以貫之の場合は、その外面から語るよりもその内面、即ち中心に就いて語った方が適切ではないか。容の字を用いるよりも、貫の字そのままで解釈した方がどうも自然である。焦・王・阮の解釈は皆可であるといえども、用いた字と説義に非は無いが、能く言葉の調子にかなっているか否かといえば、古註の解釈の方が却って適っているように思う。
 朱子はこれを解説して、「聖人の心は、渾然とした一つの道理と成って、全ての事物に適応する。その作用の有様は物事毎で同じではない。」と云っている。『朱子語類』では、「貫は穴あき銭のさしで、一は縄索じょうさくである」と語っている。貫は元来『説文解字』に「銭貝のかん[#「貫−貝」、U+6BCC、460-12]也」、「物を穿うがって之を持つなり」とあって、元来「※[#「貫−貝」、U+6BCC、460-14]」が本字で、物を穿った形にかたどり、「貫」はそのつらぬかれる物、即ち貝を添えた後出こうしゅつの字である。「串」という字も※[#「貫−貝」、U+6BCC、460-15]と同じ字で、「※[#「貫−貝」、U+6BCC、460-15]」の同音同義の字である。それらを考えて貫の原義を覚るべきである。貫を邦語では「ぬく」又は「つらぬく」とむ、ぬきとおす又は連ねぬくの字義である。貫が貝に従ってから、名詞としての邦語の「銭さし」の字義となって、『史記』や『漢書』の「さしちてかぞえられず」のさしがそれであり、「さし」は刺すものの語意であり、さしぜにさし椶索すさく、即ちさしであり、縄索じょうさくを意味する。『書(秦誓)』にある「商罪貫盈しょうざいかんえい」の解説に、「商のちゅう王の悪業は、その悪業が縄索のさしに在るとすると、その悪業で貫はすでに満ちているようである」とあるのが貫字の古く用いられた例である。貫盈・盈貫・満貫・皆物が多く一杯になったことを云うので、そこに「連ねぬく」ところの形象をみるべきである。『えき(山地剥)』に「貫魚」の語あり、『三国史』に「魚貫」の語があり、また貫の同音同義の字に串字があるのを見ると、貫は一ツの物を刺し通すのも貫であるが、銭貫ぜにさしのように一ツの物で多くの物を刺し通すような場合を貫という方が多いように思える。『広雅』に貫は「累也」とあるのもその形象を語っているのである。
 孔子の道は、孝・弟・忠・信のようにその徳目も多い、親・義・別・序のようにその教目も多い、進・退・座・起・冠・婚・喪・祭のようにその礼目も多い、楽・政・詩・書・射・御・飲・食・言語とその行うべきもの、習うべきものも極めて多い。曽子は一々之を学び之を行っている。こころみに『礼記(曽子問)』を読んで見れば、如何いかに曽子が師に対して事細ことこまかに、その道を失うまいと心を用いていたかが窺い知れるだろう。『論語(郷党篇)』を読んで見たならば、如何に孔子が実際生活の瑣細なことにも、その道を実践していたかが窺がえるであろう。孔子の道は、空理的・論議的・心悟的・抽象的・哲学的・神秘的・宗教的なものでは無く、具体的・実際的なものなので、これを一々末端に就いて言えば千万端である。曽子は温良貞順の性質で、日頃からその実際の一々に就いて精察もすれば篤習もし、そして反省もすれば努力もして、之を究め尽そうとしている。しかしながら、いまだその道の一ツであることを知らない。そこで孔子が、その道の千万端なものが、一ツのものであることを示されたのである。朱子はこの意味で、「曽子はそのよう(作用)のところに於いては、すでに物事に従って精察し之を実行している。但し、いまだそのたい(本体)の一ツであることを知らない。孔子は、曽子が久しく努力を積んでいて、まさに得ようとしているのを知り、もって呼んでそして之を告げる。曽子、果して能くそのしめすところを無言のうちに合点(黙契もっけい)し、速やかに応答して疑い無き也」と説明している。道のたいだのようだのと云うと、哲学臭く、道学臭く、仏学や禅家の話のように聞えて、孔子の道にその様なことは無い筈だと思う人も有るだろうが、それは朱子の言葉尻にこだわって、真の意味を理解しないものである。礼だの、用だの、所得だの、黙契だのという言葉を忘れて、孔子と曽子のこの一場の受け答えの光景を考える時は、朱子の説明が如何に能く説明されているかが、合点されるだろう。
『朱子語類』に、「曽子が未だ一貫の説を聞かなかった時は、人の臣としては敬に留意し、人の子としては孝に留意し、人の父としては慈に留意し、人々と交っては信に留意することを知り、敬とは何か、孝とは何か、慈とは何か、信とは何か、その一ツ一ツの実際を理解し、そののちその一ツ一ツの実際を思い描き、事細かに考察を加えて、その一ツ一ツの手本を得て、いささかその一ツ一ツのことを知る。一貫の説を聞くことによって、言下にその実心を会得することが出来、体認することが出来て、即座にまるで家屋の床に散らばる穴銭を、一條の縄で全て貫通して纏めるように、日頃の許多あまたの工夫、許多の事様ことざまを皆この実心によって修得する。」と説いている。また、「聖人が物事に対応するのに、各々別個の道理が有るのではない、曽子を見ていると各々別個の道理が有ると思っている様である、そう思って孔子がこのように告げる」と。この言葉の意味は、聖人の物事への対応は、一ツ一ツの物事に対し、これはこうあれはこうという各々別箇の道理で以て、種々様々の扱いをするのでは無い。若しや曽子は各々別個の道理があると思っては居ないか、と孔子が「吾道わがみちいつ以って之をつらぬく」と告げられたというのである。これと同じ意味で、又「彼は、聖人が万事に適切に対応するのを、これが全て一貫の説の実心がもたらすものと知らなかったが、聖人に之を示されて初めて正に之を知る。全てこれ此の一箇の実心の大本おおもとから流れ出ることで、木の枝葉の良好は、根上ねうえのこの実心の生気が流注し貫くことによるようなものであると、知ることができたのである。」と説かれている。散銭と縄とのたとえは貫の字について説かれて甚だ優れているが、この枝葉の良好と根の生気との喩の方が説き得ていよいよ優れていて、これに由って如何なる人も一貫の趣旨を理解できるであろう。ぜにと縄とでは、銭は縄では無く、縄は銭では無く、貫くものと貫かれるものとが異なっているが、枝葉と根とでは、枝葉中に在るものと、根上のものとが相通じて離れず、万事に適応するものと一貫するものと、これは即ちあれ、彼は即ち此で、同じものであることが自然おのずと見えて、実際に即して能く道理を語っている。これで吾道一以貫之は明らかである。
 今の流通本は皆、「一以貫之」とあるが、皇侃の解説書では、「一以貫之かな」と哉の一字が多い、哉は「言の間也」と『説文解字』にある。「語すこしくとどまる也」と解釈するのが適当な語助である。「なるかなゆうや」「これ有るかな子のなるや」の類は両者の間に在るが、「我それを試みんかな」のように語末に置かれるのもある。歎詞・問詞として用いられる場合もあるが、何れにしても大概は前言のままに少しとどめて前言の意味を安置するのである。それなので此処に哉の字が有っても意味は別に無い、一以て之を貫くかな、と云うだけである。

 曽子曰、唯。(曽子いわく、
 前の孔子の言葉を、如何にもそうですと、曽子が言下に合点して、一点の疑点無く「」と応じたのである。唯は『説文解字』に「だく也」とあるが、諾は邦語にうつすと、「うん」と云うような気味で、唯は「はい」と云うように少し差がある。『礼記(玉藻)』に「父の命じて呼ぶ、してだくせず」とあり、『礼記(曲礼)』に「必ず唯諾に気をつける」とあるのも、解説に「返事は、諾より唯はうやうやしい」とあるので明らかである。曽子の日頃の篤学力行は、既に物事にも道理にも十分に充実して、しかも満足することなく、先王の教・孔子の道の奥義おうぎを究めようとしている。それを見て取って、孔子が甚だこれを喜び、一貫の趣旨を告げたので、これは孔子が道の奥義を曽子に授けたということでも無く、また曽子に「なんじ既に吾が道の全てを得たり」と許可されたということでも無いが、しかしその奥義を授与されたようにも当り、その大体を「なんじ既に得たり」と許可されたようにも当るので、より詳しく孔子の言葉の調子を味わって見ると、しんや、といかにも親しい呼びかけに、なごやかで睦まじい孔子の様子が思いやられるのである。この時堂内には曽子だけが居たのでは無い、他の弟子も幾人か居たのである、その幾人かの中で、曽子を特に呼んで語ったのであるから、この言葉は曽子でない人、即ち学行共に未だ曽子ほどに至って居ない人に対して語ったことでは無いのは明らかである。そこを能く考えると、後人がこの「吾道一以貫之」の孔子の言葉を理解出来難い理由が分る。何故かと云えば、私達は孔子面前の曽子ほどには学問も至らず行為おこないも成っていない者であって、しかも二千年余りもへだたっていて、ただこれを紙上の文字で見るだけで、孔子の謦咳けいがいに接している訳でも無いのであるから、その言葉をただ文字にすがって会得しようとしても無理なのである。それを強いて「読書力」位の小さな錐や小刀で、刺したり切ったりして理解しようというのは、初めから間違ったことで、抑々そもそもまた自らの実力を知らないというものである。曽子は曽子だけに出来上がっていたのであり、孔子はそれを認めていて、参や、と呼んで語ったのである。そこで「吾道一以貫之」と云われた途端に、曽子は道の何であるかが、後の儒学者が、一が何であるか、貫がどういうことであるか、などと煩わしい解釈を考えて千言万語するようなことも何も無く、即座に感得し、理解し、証徴し得て、何の疑うところも無く、「唯」と応答したのである。
 この時の実際は、孔子にして初めて語られることが出来、曽子にして初めて唯と答えることが出来たのである。それなので、曽子以外の人に孔子がこう語ったのではなく、また曽子以外の人はこう答えられるほど能く覚ることは出来なかったのである。その証拠に門人が曽子にむかって、「何を言われたのですか」と尋ねたのでも明らかである。何を言われたのかと尋ねたのは、「吾道一以貫之」と語られたのが分らなかったからである。誰にでも分る言葉ならば、誰も何を言われたのかと尋ねる訳が無い。誰々がその場に居合せたかは明らかでないが、誰も皆分らなかったのである。聖人の言葉はもちろん混沌とした把握できないものでは無いが、その時その場に居合せた孔子門下の人達にも分らなかったことを、今日こんにちの後学の徒が句読訓詁の上や経学・理学の上から、明らかに分りたいといってもそれは無理と云うものであり、従って漢・唐以来の学者が人に分らせようとして、啓蒙的にしばしば熱心に解説しても、それはただ皮相を語るに過ぎないのも仕方がない。孔子がこう語り、曽子がこう答えたと理解するよりほか、本当のところは無い。それなので「一貫の語義、漢より以来その解を得ず」と劉宝楠の言ったのは正直であり、載望が、「一は仁をいう、一は万物のって始まる所也」などと云って、『春秋(王道)』の語義を用いてここを解説したのは、言葉はもちろん非理ではないが、適当であるとは云い難いし、一切の解説は説けば説くほど説き過ぎることになる訳である。であれば、ここは寧ろ淡然と平易に、能くその言葉の調子を失わないように自然的に理解するのが適当である。
 しかし、孔子と曽子のこの一場の応答は、決して釈迦が弟子たちを集めて説法したとき、釈迦が何も言わずに蓮華の花の一輪をひねり、弟子たちの多くはそれが何を意味するのか分からなかったが、ただ一人、弟子の迦葉だけがその意味を理解し、微笑した。‥‥という禅家のはなしのようなものでは無い。孔子が孔子の道の奥義を曽子に授けたと云うのでもなく、また曽子に汝すでに吾が道の全てを得たと許可されたというのでも無い。特に「吾道一以貫之哉」と、「哉」を加えなくとも、孔子のことばは曽子に対して語られたのであるが、自らに語られたような気味も有って、そこへ曽子は唯というのであるから、師が花をひねり弟子が微笑したおもむきに似ているし、朱子がここで「黙契」の一語を用いたり、また常に道統だの伝授心法だのと云うところから、何んとなく禅家くさく聞えて、この一貫の趣旨を会得すれば、孔子の道に於いても頓悟即証が叶うように妄推して、しきりにここのところを問題視する人も時に有るが、そう云うことでは少しも無いのであって、孔子の道は明々白々、青天白日下のものであり、幽玄のところは寧ろ無いのであるから、そのような見方でこの章に臨んではならない。

 子出。門人問曰、何謂也。(子ずる。門人問いて曰く、何のいいぞや)
 子出は、孔子がその場を出られたのである。門人は孔子門下で曽子と同学の者だが、未だ曽子に及ばない人達である。それ等の門人の居る中で、孔子が「参や」と呼びかけて曽子に一貫の趣旨を語られたのである。曽子以外の他の人々は、孔子の言葉も曽子の答えもそこに居て聞いていたのであるが、曽子が「唯」と答えただけなので、自分等には一向分りかねて、そこで孔子が立たれた後、「何を言われたのですか」と曽子に尋ねたのである。「何の謂ぞや」とは、尋ねた言葉である。

 曽子曰、夫子之道、忠恕而已矣。
(曽子いわく、夫子ふうし之道は、忠恕而已矣ちゅうじょのみ
 曽子が同門の人の問に答えて、夫子(先生)の道は忠恕のみ、と言われたのである。「而已のみ矣」とは、朱子が「言い尽くして不足の無いことばなり」と云われたので明白である。それきりで他に何も無いのが「而已矣」である。詳しく言えば、「而已」が「それきり」で、「矣」は語の終る詞である。而已に矣を加えて強く断定したのである。「先生の道、忠恕のみ」と曽子が言い切られたのである。この「而已矣」の三字は前の「吾道一以貫之」の「一」字に甚だ強く対応している。古来の解説者がここを説明して示さないは残念である。能くこの一章を理解しようとするならば、この章の最初から最後までを、十度、百度、千度と熟読し、一々の字を知り尽し、句を熟誦し、語意を覚り、言葉の調子に留意して、その上で咀嚼そしゃくし、じっくりと味わえば、聖教賢訓の全ての趣旨精神は自然おのずと、まさに髣髴ほうふつとして現われ、ハッキリと明らかになる。「一」と「而已矣」の対応に気付くときは、「吾道」と孔子が言われたものと、「先生の道」と曽子が言われたものとが、同じものであると知ることができる。このように初めから終わりまで、全体から中心へと、聖師と賢弟子との教示と応答とを味わえば、何等の迷いも無く直ちにこの章の趣旨を理解出来るのである。
 ここに至って、曽子の語により、先生の道は忠恕のみ矣、とあるのに従って、忠恕の二字を理解すればそれで尽きる訳であるが、それならば、一以貫之の「一」に忠恕二字を置換えて、「吾道、忠恕以貫之」として宜しいかと云うと、古註家の※(「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63)※(「日/丙」、第3水準1-85-16)けいへいの意見では、正にその通りである。※(「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63)※(「日/丙」、第3水準1-85-16)は「その言うところの意味は、先生の道はただ忠恕の一理で、以て天下万事の道理を統一し、更に他法は無い、それゆえに而已のみ矣と云う」と解説している。まことに素直な解説でそれでよいのである。しかし一段深く之を思うと、朱子の解説のように、「先生の一理は渾然として、全ての事物に適応する、たとえば天地の働きは止むことなく、万物各々そのあるべきところを得るようなことである、これよりほか余法は無い。曽子はこれを覚るが、この道理を言い難くて、人が分かり易いようにと、自己の推す「忠恕」の語で之を説明する。」と云う解釈も生じるのである。
 朱子のおもいでは、「思うに、誠を求めてまないこと(至誠無息しせいむそく)は道の礼である。礼は万殊が一本(一ツのもと)から成るそのもとである。万物が各々その処を得るのは道の用(作用)である。一本が万殊に成る証拠である。礼(もと)と用(その作用はたらき)として之を観る時は、一以って之を貫くその実際を見るべし」と説かれた通り、道の礼と用とを認めて、その礼は一ツ、その用は千万で、用は礼の作用なのでいつの礼を離れず、礼は用のもとなので千万の用を離れず、一は即ち万、万は即ち一、一以貫之とするのである。『朱子文集』に、「一本はこれもとの処、万殊はこれ作用の処、自然界で之を言えば、一本はこれ元の気が日月星辰にちげつせいしん昆虫草木に於いて同じではないが夫々に一気は生じる。万殊は則ち日月星辰昆虫草木がこれを得て生じるところで、一箇は一箇の模様がある。人間界で之を言えば、一理は万事に於いて、君・臣・父・子・兄・弟・朋・友・動・息・酒・掃・応・対の別があるが、此の一理で貫く。万殊即ち君臣父子兄弟朋友の道に当るところのもの一箇は一箇の道理があり、その実際は只これ一理」と説かれている。朱子は、「吾道」と孔子の語られた道を拡大して「宇宙本然の道」として、天道も人道も皆まとめて語っている。それなので曽子が忠恕のみ矣と云われたのは、曽子がこの「悟道」を言い難くて、人が分かり易いようにと、忠恕の語を借りて之を明らかしたと説明しているのである。「借りて」というところに、朱子が孔子の「吾道一貫の道」を「宇宙本然の道」と云うような根源的で大きなものにしすぎたため、「曽子はその道を的確に説明できずに、忠恕と云う語をもって来て人が分かり易いようにしたのである」と、説かざるを得なくなった気味がある。
 それなので暁双峰が、「曽子が門人に答えて、何で一本万殊、礼立ち用行われるというたぐいを言わないで、忠恕のみと言ったのか、これは思うに忠恕の二字、学者が分かり易いからである。忠を尽し得ればこの「一」を理解する。恕を尽し得れば「之を貫く」を理解する。一以貫之は自然底の忠恕、忠恕は努力底の一以貫之。曽子の学問は身を修めることを主眼とするので、それを人に示すのに行為として説く」と云うような説をするに至った。双峰の解釈も学者には有益であるが、忠に一を当て、恕に貫を当てると説くに至っては、少し筋が外れ気味となる。これは皆朱子が「道」の一字を説いて甚だ大にし、根源的にしたところから生じたのである。
 道はもちろん至大であり、天地をれて余り有るもので無ければならないが、ここで吾道と孔子が言われたのを、そのように取らなくてもよいと思うが、周敦頤しゅうとんいや程子から朱子に至る宋学の「理学的」な解釈でこのようになったのであり、胡炳文こへいぶんに「朱子集註の趣意は思うに、曽子は仮に忠恕を借りて一貫を形容しているが、しかし、一貫の実際は必ず天地万物に就いて見るべきである。」と言わせている。何も「忠恕を借りて一貫を形容する」と説かなくても、吾道を仏教の真理のようなものにしなければ、判然はっきりとこの章は理解できるのである。孔子は幾度と無く「道」ということを口にされているが、孔子が道と言われたのは、大抵は人道であり、上っても政道にとどまるもので、これ以上の広大無辺な道を説かれたことは少ない。実践の道を道とされたからである。それなので『論語(公治長十三)』で子貢が言ったように、「先生の礼楽や制度については、平素聞くことが出来たが、性と天道については平素聞くことが無かった」とある。子貢の言はもちろん孔子が全く性と天道とを言わなかったと云うのでは無く、程子が言うように、孔子の性と天道とに就いての言葉を子貢が始めて聞いて、嘆美した言葉でも有ろうが、しかし「性と天道についは、先生まれに之を言う」と朱子も言っている。ここに吾道と言われたのも、やはり孔子が日頃之に由って実践するところの道と看做みなして差し支え無いのである。理学の人は理学的主張によって、ここに吾道と孔子の言われたところのものを、一貫というところにけて大いに高く遠く広く深く説明して、「曽子は忠恕を借りて之を明らかにし、人の分かり易いようにする」などと言うが、それより手前のところで解釈しても誤りではあるまい。むしろその方が分かり易く実際的であると思われる。甚解を求めなくとも可であろう。
「一」というを、この章及び『論語(衛霊公二)』の「子曰、也」の章の「一」と共に、朱公遷のように「一理」として理の字を添えるともつれが多く生じる。一理としないで、素直に「一」とした方が本源的で簡易で理解し易いくらいである。「子曰く、也、なんじわれを以って多く学びて之を識る者と為すか。こたえて曰く、しかり、非なるか。曰く、非也、予は一以って之を貫く」とあるのは、子貢を啓発された一段で、この章と同じく一以貫之を語られたもので、両章に同じ語が有るので、の章を説くものはの章を参照し、彼の章を説くものは此の章を参照するのが常である。子貢は孔子門下で最も多智聡明な人で、曽子とは大いにことなった人である。その子貢に対しては、「や、なんじわれを以て多く識る者と為すか」の問答があった後に「一以貫之」と示されたのである。「や、なんじわれを多く学んでそれを知識とする者だと思うか」と問われると、子貢は自分が元来、博学は学問の道に熟する基本であると思っていたから、「そうでございます」と直ちに答えた。しかし聡明な人なので、もしやと思って、「そうではございませんか」と御尋ねすると、孔子が、「如何にもそうでは無い、われは一以て之を貫いているのである、一事、一事と多く学んで之を識って、そして行うものではない。」とのこころを答えられたのである。子貢との問答の記述の古註には、「善にもとあり、事に会あり、天下の大本おおもとはただ一ツ、その辿たどる道は異なるが、その帰する所は同じである。思慮・考え方は百千あっても、その行き着く所は一ツである。この道理を知れば則ち多くの善はがる。それなので、多く学ぶことなくして、いつの何であるかを知る」と解説している。「天下より行き着く所は一ツである」までは、『易(繋辞下伝)』の文を引いたのであるが、実に簡単で優れた解説である。
 賜也の章には「道」の字は無く「予」の一字だけであるが、それは前段に問答が有ったからで、曽子とは問答も何も無く、直ちに参やと呼びかけて語られたので「道」の字が用いられているのである。道の字さえ賜也の章には出ていない。参やの章の「一」に「理」の字を添えて看る必要は無いが、賜也の章の※(「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63)※(「日/丙」、第3水準1-85-16)の解説にも、「我ただ一理を用いて以て之を通貫す」とある程だから、原理原則を好む宋学の方で理の字を添えたのも無理はない。理は元来、璞玉あらたま(宝石の原石)の中に通っている「すじ」に従って解き分けて之を治める意味で、「理」と「治」とは畳韻じょういんの字である。名詞としては邦語の「すじ」に当る。それなので今ここに朱公遷のように「一理を以って之を貫く」としても、朱子のように「先生の一理は渾然として、全ての事物に適応する」としても決して間違いでは無いが、酒は水を加えない方が良い、好んで「理」字を加えるには当らない。理を言えば即ちそこに理という抽象的な或る物を学者に考えさせることになる。もちろん朱子のおもいでは、一貫するものがそく忠恕では無く、「忠恕の語を借りて一貫するものを表現し、人に分かり易くする」と云うのであるから、孔子の告げたところと、曽子が「」と理解したところのものが、忠恕で尽きるとするのでは無く、曽子が理解したそれは「之を言い難し」とするのであるから、「一理渾然」の四字を用いた訳である。
 愚按は、そこをそう解釈しなくてもよいとする。そのように説くと広大微妙な禅家の話のようになって、少し高尚遠大になり事実から遠くなる傾向が有るとするのである。ただし、忠恕の語だけでは孔子の道の一以貫之には、少し不足する感じして、どうも大きな器に小さな蓋をするような感じであると云う人も出てくる。それは『中庸(十三章)』に「忠恕は道をること遠からず(忠恕違道不遠)」の語が掲げてあって、その道をること遠からずとある「違道不遠」と、「一以貫之」とでは隔たりが有り過ぎると思わせるところからだ。道をるとは離れることで、道をること遠からずとは、道そのものでは無いが道に近いと云うことなので、一以貫之とは距離がある。そこで朱子も『或問わくもん』に、「諸家の論語を説く者多くこの章を引いて一以貫之の意味を説明し、この章を説く者、また論語を引いて違道不遠の意味を解釈する。矛盾ついに一致すること無く、しかも牽制し合ってまず、学者深く之を悩む」と云っている。
「一以貫之」というのと「違道不遠」と云うでは、その忠恕は同じであるが段階レベルが異なっていることは争えないので、矛盾というほど相反しては居ないがかれこれと全く同じでは無い。それなので程子は一貫の章を解説して、「忠は偽りの無いこと、誠である、まごころである。恕は忠を実現する行為である。忠は本体、恕は作用、忠は根本、恕は実践である。一以貫之が違道不遠と異なる点は、自然に生じる(動くに天を以てする)点にある。」と示している。動くに天を以てすると云うのは、程子が孔子の徳と言とを深く知るところから説かれた大切なところで、『朱子語類』で「動くに天を以てするという天はこれ自然」と解説しているように、その場合は自然おのずと一以貫之になるので、忠は自分の本性(誠・まごころ)を尽すことであるが自分の本性(誠・まごころ)を尽すまでもなく、恕は努力を要することであるが努力するまでもなく、自然おのずと万物は各々その在るべき所を得るのである。学問が進み徳が至れば、自然おのずと生じて来るその名づけ難い微妙なものを、忠恕を借りて曽子は「忠恕而已矣ちゅうじょのみ」と言われたと云うのである。同じ忠恕であるが、自然おのずと生じるのが一以貫之の忠恕で、努めて自分を尽し努力するのが違道不遠の忠恕であると、朱子はこのように取って、「二者の忠恕は、その結果は同じだが、その実心において異なる」と『或問わくもん』で説いている。
 程子や朱子の説では、一以貫之の章の曽子の答の忠恕と、『中庸(十三章)』の違道不遠の忠恕とは、その性質は異ならないが、一以貫之のものは忠恕などという語よりも尚一層進んだ、名付け難い「天地の誠(まごころ)」というようなもの、「聖人の体得する徳(仁)」というような一理渾然としたもので、これをそう言っては人が分かり難いので、それを理解させるのに分かり易い忠恕の語を借りて示されたとするのである。もちろん忠恕は即ち一理渾然として全ての事物に適応するものでは無いが、忠恕も極く昇華すれば自然おのずと、一以貫之の実際を成すのである。また違道不遠の忠恕、即ち努力して為す場合の忠恕は、道そのものではないが道に近いと云うのである。一理渾然というようなことは理学家が好んで言うところで、そこが他の学派から空談として斥けられるところでもあるが、天道や性理にかこつけて心性的に細かく考察する理学家は、どうも議論がそういう傾向になるのも自然の勢であり、またみずからの境地でもある。しかしこのように説くと、忠恕は二次的なもののように理解されてしまい、曽子が言われた「而已のみ矣」の語調とは少し距離があるようで、十分な解釈では無いように取れて残念である。
 従って『朱子語類』に、「いつは忠である。忠で之を貫くもが恕である。」と云うように説き、また「忠は即ち一、恕は即ち貫、この忠有れば即ち許多あまたの恕を放出する」というように説かれると、理屈は解るが本文に対しての理解は遠くなる。そう説く時は、「孔子の道は忠より恕にいたる而已のみ矣」と読むことになって、説明が漠然として核心をつかないので、人の合点を得ることは難しい。それで趙春沂のように、「一貫の趣旨は、体(本体)と用(作用)を兼ねる。知(理論)と行(行為)を兼ねる。一を忠として貫を恕とする。と朱子は言うが、これらは皆『六書りくしょ』の字義では明らかで無い也」と斥けて、「説文解字にかん[#「貫−貝」、U+6BCC、472-12]は、物を穿うがって之を持つ也、一に従い横につらぬ[#「貫−貝」、U+6BCC、479-12]く、一とは何ぞ、これ初めであり大始である、道は一に立つ、ゆえに一達を道と云うとある。これが一※[#「貫−貝」、U+6BCC、479-13]の趣旨であり、代わるものは無し」と『六書』の字義を盾に取って、朱子を拒否する者も出てくる。小学で理学を説伏しようとするようなことは感心出来ないが、一を忠とし、貫を恕とするようなことは、宋儒が物事の道理や本質を追求すること深く、老婆心が過ぎて、説き過ぎ解し過ぎて一貫の二字をいじくり過ぎた観がある。
 一は一である。貫は貫である。そのように深く論じないでスラリと説いて、本文に能く該当させた方が良い。全祖望ぜんそぼう(中国清の儒学者)が論じたように、『中庸(二十章)』で、哀公に孔子が告げられた語の「天下で実践されている道は五ツ、実践されるべき徳は三ツ、之を行う根本のものはいつ也」の「一」、また「およそ天下国家を治めるに九経有り、之を行う根本のものは一也」の「一」のように、「一以貫之」の「一」を解釈しても差し支え無いではないか。且つまた同氏が、「之を行う」とは即ち「之を貫くなり」と言ったのも、浅いには浅いけれども浅い川に清い水が流れるように、説き得て分かり易い。全氏は「一以貫之」を説いて、天地の一以貫之、聖人の一以貫之、学者の一以貫之と、三段に一以貫之を挙げて、曽子からおしえを伝えた子思の手に成った『中庸』を取出し示して、「一貫の説に解説書はいらない、『中庸』を読めば即ちこれが解説書となろう。」と言ったのは流石で、『中庸(二十五章・二十六章)』を挙げて解説書とし、宋儒一派の口を封じた。全氏は「一は誠なり」と冒頭で断定して、天地は一誠のみ矣と言い、「天地の道は、一言で云うことができる。その作用はたらきは常に変わらず、すなわちその物を生じること測り知れない、これが自然の営為なり、ああ充ち満ちて尽きることがない」という『中庸(二十六章)』の文を示して、これ天地の一以貫之なりとして、また「誠(まごころ)は自分を完成するだけでなく、他の物を完成させるもとである。自分を完成するのは仁である。他の物を完成するのは知である。誠は人の本性の徳であり。自他を和合する道である。それなので常にこれを用いて良い結果を得るのである。」と『中庸(二十五章)』を引いて、これを聖人の一以貫之なりとし、次に「忠恕は道をること遠からず、これを自分に施して欲しくなければ、また人に施すなかれ」と『中庸(十三章)』を引いて学者の一以貫之を説き、また『中庸(二十章)』を引いて、孔子が哀公に答えた言葉を挙げ、「之を行うものは一也」と云う言によって「一」の字の用例を示して、ついに一が「誠」であることを明らかにしている。そして宋儒の「万物一太極、一物一太極、一本万殊、一実万分」等の説を、「その文は繁雑でその道理は解り難い、中庸に既にその意味の掲げられて有るのを知らないのである。」と批評している。
 しかし全氏の説は、一本万殊、一実万分の宋儒の言を批判して、その説き方を非としたに過ぎない。朱子も勿論一貫の趣旨の説明に「誠」を用いないことは無いから、『中庸(二十六章)』の「至誠無息(至誠はむこと無し)」の語を使用している。朱子が「万物各々その所を得る」とか、「先生の一理は渾然として、全ての事物に適応する」とか言われたところのものは、『中庸(二十章)』の「努力しなくても道に適応し、思惟しなくても道を得る。従容として道に適応する、これ聖人也。」とある語と、語は異なるが結果は同じである。宋学は子思や孟子から展開しているのであるから、朱子が『中庸』に在るところのものを知らない訳などは無い、その点全氏は少し言い過ぎている。古註はいざ知らず、朱子は全氏が、「中庸を読めば即ちこれが解説である」と云う以前から、既に『中庸』を用いて解釈している。程子もまた『中庸』を引いてこの章を解釈している。そしてこの章と『中庸(十三章)』の「忠恕は道をる遠からず」との異なる点は、自然おのずと生じる点であると説明している。全氏が「学者の一以貫之」と云い、「天地の一以貫之」と識別したものは、程子が既に識別している。『中庸(二十六章)』にある詩の「これ天の命、ああぼくとして已まず(天地の営為は、充ち満ちて尽きることがない)」は全氏より先に程子がその解説に引用している。全氏の言葉の調子は、程子や朱子の説を喜ばないようではあるが、全氏が『中庸』を用いてこの章を解釈すべきと云うことは、全氏に先だつこと数百年、程子や朱子が既にこれを実行にしている。それなので、全氏のこの章の解説は別に前人に加えるところは無いに近い。ただ范鵬が「一貫の趣旨は聖学の肝要也」などと言って一貫の趣旨を問いたのに答えて、「聖人は軽々しく一貫の趣旨を弟子に告げなかった、ただ曽子だけが之を聞くことが出来、次いで子貢が之を聞く、そして曽子は深く信じ、子貢は尚疑いを残す。思うに曽子は行為より入り、子貢は知識より入る。子貢より以下は遂に一人も一貫の趣旨に関与した者は無い」という宋学風の話を非難して、哀公のような下劣な君主にさえ「一以貫之」の趣旨を孔子は示されたでは無いかと、『中庸(二十章)』を引いて論じたところは、全氏の立派なところで、そこは確かに好い説である。一貫の趣旨、もとは不可解でも難解でも無いものを、何となく仏教徒の開悟一番の古則公案のように取り上げて来た俗な傾向や、幽旨玄味で測り知り難いものでもあるかのような観方を破砕したことは、まことに全氏の正義である。
 宋学に於いて、朱子と異なるものに陸象山がある。象山の学は朱子よりも古学から遠ざかる。みんに至って王陽明の学あり。陽明の学は陸世儀りくせいぎ(中国清の儒学者)の論じたように、若い時に禅宗に従事したため、後になって儒学に「致良知ちりょうち」の一派を立てたが、禅宗臭いところが有るのを免れない。陽明学は「所得の真」であることを尚ぶ、それなので禅家の印可証明のように承伝を重んじる。陽明の二伝に盧一松があり、一松の後に杜見山があり、見山の後に陳春州、春州の後に陳其※ちんきおん[#「くさかんむり/恩」、U+84BD、483-3]がある。其※[#「くさかんむり/恩」、U+84BD、483-3]、「良知」は未だ事物の現象を究めるには足らないのでは、との或る人の疑問に答えて言う、「生まれ持った正しい知恵(良知)を働かせるということは、ひろく学んでつぶさに問い慎んで思慮し明らかに分析すること(学問思弁)をしないことでは無い、学問思弁をしても良知を働かせなくては不可なのである。良知を働かせなければ定規を捨てて長短を測り、コンパスを用いずに方角を測るようになり、道理を究め物の本質の求めても、障害が増すだけである。道理は窮まり無く、物事は窮まり無く、工夫も窮まり無い。一たび良知を働かせれば、ことごとく理解できる。ゆえいわく一以て之を貫くと」とこのように説くときは、故に曰くのことばに照らして、孔子の一以貫之は陽明学の「致良知」に当るように思えてくる。陽明学の致良知は禅宗の本性の見究め(見性けんしょう)のようである。一以貫之もその様なところへ引出されては、有難い特別なものとなって、本来のものとは大分ことなったものになる。
 致良知の説も、役に立つ好い説ではあるが、孔子のおしえはそのような階段を飛上ったり、飛下りたりするようなものではない。修行なしで忽ち悟りを開く(頓悟とんご)ということは勿論の道にも有るだろうが、頓悟の法門は解脱を目的とする仏教の中ですら一禅宗があるだけである。孔子の道は、先王の道・礼楽の道・文化の成就・人間世界の慶福を建立しようとするものであるから、その学問に於いて悟得会得は有るにしても、桶の底が脱けて水が一時に出尽すように悟りを開くなどということは、有るものではない。人生否定の道にはそういう頓悟頓証も有るだろうが、人生を否定的に見ないで、あくまでも善美な人間世界の建立に、自他共に身心を尽くそうという孔子の道・先王の道に、そのような頓悟は無い筈である。破壊は忽然と起こることがある。たとえば荘厳な大建築も、火薬の爆発によって一瞬にして無に帰す。しかし建立には忽然の建立は有り得ない。孔子の道にも感悟感得ということが有り得るのは勿論であるが、それは道を修める途上での事である。致良知の説は甚だ好い説ではあるが、良知を働かせたとしても、それで全てがことごとく完了するというわけには行かない、それは第一の階段に立つことが出来たということで、それから確かに進むことが出来るというのである。頓悟の宗旨の禅宗でさえ、悟後ごごの修行をしなくてはならない。六祖ろくそ(慧能禅師)は達磨だるま大師から禅の奥義を得た後、しばらく隠れて悟後の修行に励んだではないか。まして孔子の道に於いてはである。しかるに「ゆえいわく一以て之を貫く」などというのは、筋は間違ってはいないが見さかい無しの言葉と云うものである。鶏が時を告げて鳴くことを以て、即ち卵を生むとする言葉に等しい。この章を宋儒が禅宗臭くしたのは好ましくないのに、明末の陽明学派の扱い方はいよいよ禅宗の臭味を帯びていよいよ好ましくない。禅家の巨典である五灯会元の序に、一貫の趣旨を引いているが、それは禅家の言葉であって、孔子の言葉は禅家の言葉には関係ない。宋学(朱子学)・明学(陽明学)、各々長所があり後世を益しているが、孔子の道は孔子の道である。余り理学・心学・禅学・哲学的にしないで、古学的にスラリと解釈して、その中心から遠ざからずに、実際的におもいを働かせた方が正常である。
 前述のように、孔子が吾道といわれたのに応じて曽子が先生の道といわれ、一以貫之と云われたのに対して、而己のみ矣と云われ、そして又、一以貫之に対しての一語があったとすると、忠恕は、曽子が言い難いところのものを人が分かり易いように忠恕を借りて明らかにしたと云うよりは、忠恕が直ちに孔子の道を一貫するところのものであると理解した方が自然である。それなので今は忠恕二字を直接理解して、それでこの章の趣意は尽されるものとする。
 忠恕は忠と恕との二字である。忠は忠、恕は恕である。忠は※(「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63)※(「日/丙」、第3水準1-85-16)けいへいの解説書に、「中心(まごころ)を尽すなり」とある。恕は「おのれはかり物をはかる(忖度する)なり」とある。正に二ツの徳目である。しかし二ツではあるが一ツである。一紙の表裏おもてうらのように、一球の上下のように、忠の表が恕であり恕の裏が忠である。忠の裏が恕であり恕の表が忠である。一球の上半が忠であれば下半が恕である、上半が恕であれば下半が忠である。紙をヒラヒラさせたり球をコロコロさせると、一忠一恕が表れて明らかに是れ二ツであるが、裏の無い紙は無く表の無い紙も無い、紙は一枚である。光を受ける部分があって陰を有する部分の無い球も無く、陰を有する部分が有って光を受ける部分の無い球も無い、球は一箇である。忠の無い恕は無く、恕の無い忠はない。忠あれば恕あり、恕あれば忠があるから、忠恕つまり是れ一ツである。忠恕をって二ツとするが、本来は是れ一ツなのである。その一ツであるところを云う時は、誠とも、仁とも、人とも云うべきもので、不仁で無く、不誠で無く、獣で無いものを云うのである。『中庸』のいわゆる「誠」は忠恕である。孔子の数々言われる「仁」は即ち忠恕である。曽子がここで、誠而己矣まことのみと答えられても、仁而己矣じんのみと答えられても良かったのである。忠恕は仁であり、誠であるから、忠恕而己矣ちゅうじょのみと答えられたと同じであるが、忠恕と云えばより具体的なのである。忠は「敬也」と『説文解字』にある。『論語(顔淵二)』に、「仲弓ちゅうきゅう仁を問う。子曰く、門を出でては大賓だいひんを見るが如くし、民を使うには大祭をけるが如くし、自分の欲せざるところ、人に施すなかれ」とある。門を出て社会の人々に接する時には、貴い賓客ひんきゃくまみえるようにし、民を使うには祭事を執り行う時のように礼儀正しくする、というのは敬であり忠である。自分の欲しないところを人に施す勿れ、は即ち恕である。仲弓が仁を問い、孔子がこのように具体的に答えられたのに照らして、忠恕が即ち仁であることを知るべきである。『論語(衛霊公二十三)』に、「子貢問いて言う、一言にして以て身を終るまで之を行うべきもの有りや。子曰く、それ恕か、自分の欲せざるところ、人に施す勿れ」。恕は『孟子』に、「勉めて恕してそして行う、仁を求める、これより近きは無し」とあるように、また賈誼かぎが、「自分の心で人をはかる、之を恕という」と言うように、恕即ち仁であるから、『説文解字』では恕を「仁也」と解釈している。子貢の問の、身を終るまで之を行うべき一言のおしえは、身を終るまでと云うところと、一言と云うところとを考えて、聖道一貫の趣旨と見て差し支え無い。それに答えて孔子が、「恕なるか」と言われたのに照らして、ここの曽子の答もその意味と同じであることを知るべきである。如心が恕である、皇侃の解説書に、「忖度そんたくして以て人をはかる也」とあるのでも知られるが、自分の心・人の心・人と自分を兼ねて、自分を彼のように、彼を自分のようにすることから如心の二字を合せて恕となり、邦語の「おもいやり」となるのである。仁もまた人が向き合う二人の意味から生じるのであって、『孟子』もそのような意味に取っている。二獣が会うと多くは相いかり相争うが、人は獣では無く徳(善いところ)を持つ、それを展開したものが仁である。それを自分の心のようにするのを恕という。仁恕の二字は同じように成立なりたっている。孔子は恕を挙げ、曽子は忠恕を挙げられたが、孔子の恕と云われた恕の中には忠が含まれているのは勿論で、忠は中心である。邦語の「まごころ」で、少しもまことでないものが混在しないのが忠なのである。忠は敬である、その敬は「心を一つの事に集中させ、ほかにそらさないこと(主一無適)」と先人が解釈しているが、実に妙釈であって、一を主として他にかない、散乱動揺すること無く、ただそれ一ツで、夾雑物無く、他念の無いのが忠である。他念無しと云っても、疲労時の茫然としたようなのは忠では無い、一を主として他を忘れ、粛然となって心が一直線となっているようなのが忠である。人はすべてこの「忠を得た」ところから向上も進歩もするのである。道徳の上においても、知識の上においても、術芸の上においても、趣味の上においても、未だ忠を得るに至らないものは、決して向上進歩しないのである。近頃の世間言葉である「真剣味」というのが忠に近い。浮薄・雑駁・ごまかし・いいかげん・ふまじめ・懶惰などと云うのは皆忠の反対で、それ等は全て堕落、醜悪の原因となるものである。孔子の道を学ぶ上に於いては勿論の事、忠が第一歩から終局まで大切なもので、忠によってのみ醇熟するのであるが、たとえ小道小枝に於いても忠に成り得ない人は必ず何をしても進歩しないのであり、忠の心状を知らない人ほど世に悲むべき哀れな者は無い。国の為に心身を働かせるのは勿論大忠である。しかし一室の中に独り座っていても忠は有るのである。顔回・曽子などは能く忠で有り得たであろう。宋学は日常普段の時に於いても人に忠を求めさせたのである。陸象山や王陽明の学問は猶更であった。それで陳其※[#「くさかんむり/恩」、U+84BD、488-5]の致良知、一以貫之のような発言をしても通ずるわけなのである。恕は即ち忠の展開と言っても発露と言っても、同質異色と言っても、同じではないが先ずはそう云うもので、忠恕と一対で言う時は、忠の在り場処が移るとでも解釈すればいか、他に向って忠の動く時が恕である。
 程子は、「忠は体(本体)、恕は用(その作用)」と云われたが、程子は「忠は天道(天意)、恕は人道(人意)」と説いていられるところから出た言葉なので、精しく言えばその意味は少し前述とは違う。
 忠は忠、恕は恕と分けて言うときは、忠にも忠の本体とその作用(体用たいゆう)があり、恕にも恕の体用がある。忠の本体は求心性を帯びて静的で、その作用は照明であり、恕の本体は遠心性を有する動的なもので、その作用は涵浸である。こう云うと思考の遊びに墜ち入るようで、必ずしもその言葉とその実心が一致しないが、これはこれで、強いてその景象を語ったものである。本来は忠恕を分けて言わないで、一ツとして見る方が好いのである。例えば水晶の一球を、光線の入る方、上の方から見た時は是れ忠、光線を受ける方、下の方から見た時は是れ恕であるとて、或いは左から見る時是れ忠、右から見る時是れ恕で、水晶が一球であることにかわりなしと、このように見た方が好いようなものである。朱子は学者に忠恕がどのようなものであるか教えようとして、両手を自分の方へ向けて是れが忠であると説明し、その手をひるがえして外の方へ向けて是れが恕であると示されたというが、実に巧妙に対言ついげんした時の忠恕を説明されたものである。もし又、他に例を取って試みに言えば、両手のてのひらへこめ合せて出来たその空間の空気が是れ忠であり、その掌を左右へ開くとその空気は辺りに次第に広がる、是れが恕である。忠の外に恕があるのでも無く、恕の外に忠があるのでも無い。また恕の無い忠も無く、忠の無い恕も無い。つまり忠恕は一ツである。しかし忠といい恕といい、対言ついげんするときは正に是れ二ツのものであるものを一ツとして人に見做みなさせるのは、まことに合点させ難いことであるが、一枚の紙、一箇の球の譬喩ひゆ、手のたとえくうの譬以外で、言語的に二者即ち一となる例を挙げて、人が理解し易いようにしよう。ここに「呼吸」という語がある。これは対言ついげんの場合、呼は吐出であり吸は吸入であり、二者は別々であるが、呼吸と統言とうげんするときは「呼吸」という一ツの事であると理解できる。それと同様に忠に対する恕と、恕に対する忠と、対言ついげんすれば二ツであるが、統言すれば忠恕は相離れないものであるから、呼吸が相離れては存在しないで一ツなのと同様に、忠恕は一ツなのである。忠恕が一ツであることを知れば、一以貫之の趣旨は明白平易に理解されて、何の疑うところも無い訳になる。忠恕は仁である。仁も宋学では統体(一体)の仁と、偏体(個別)の仁とに区別する。仁義礼智と言うときの仁は偏体の仁であるが、統体の仁は一切の徳を包有するものである。「三月さんげつ仁にたがわず」の仁は、統体の仁であって、あわれみ深いことを言う偏体の仁ではないのである。忠恕が仁であるという場合の仁は、勿論統体の仁をいうのである。仁は人である。人の大徳である。人が天から受けた人である根本のものである。他の動物が天から受けた他の動物である根本のものとは大いに異なるものである。孔子の道は人が人である根本のものにしたがう道である。即ち人道である、即ち仁である、即ち忠恕である。曽子が「先生の道は忠恕のみ」と言われたことに何の疑うことが有ろう、と言って当然なのである。まして、曽子から学問を受けた子思が、「喜怒哀楽の感情がいまだ発しない、之をちゅうという」と云われたその「中」というものは、忠恕の「忠」の答えだと云っても差し支え無い、忠は中心である。まごころである。「発して皆妥当する(せつあたる)、之を和という」と云われたその「和」は恕と同徳のものと解釈しても差し支え無い。「中なる者は天下の大本也、和なる者は天下の達道也(忠は天下の根本である。恕は天下の作用はたらきである)」と云われたのは、「先生の道は忠恕のみ」と同じ意味に帰着すると言っても善く通じるのである。人の生まれ持つ人の人である根本のもの、即ち禽獣と異なる根本のものを湛えて、之を損傷しないで、本性にしたがい工夫純熟する「忠」が存在し、発して皆妥当する(せつに中る)。即ち礼節の節、音節の節、人情の節に和する「恕」が出現するのであれば、孔子の道、それ以外に何が有ろう。天下の大本(根本)と達道(その作用はたらき)はここに尽きているのである。
 我々は孔子の道において、之を能く会得している者では無い。しかし孔子の道は孔子だけの私道では無い。また我々も天命を受けて人となっている。それなので孔子の道が人の人である根本の道である以上、我々もまた自然おのずと孔子の道に参加している。しかも幸いに、少しなりとも古賢先達の教諭や解説や導きの助けを受けている以上、孔子の道に於ける自分と、自分に於ける孔子の道との関連を、内省と自らの判断によって知ることが出来るのである。我々といえども、時に忠恕で有り得る。しかし何時いつも何時も不断に忠恕では有り得ない。暫時しばらくは忠になり得、恕になり得ても、また忽ち忠になることが出来ず、恕になることが出来なくなってしまうのが、真実ほんとうのところの普通凡人の境地である。しかし、もちろん純白でも無く純黒でも無く、赤もまじり青も雑り、五色が錯雑してまだらな色となるように、小善・不小善・微清・微濁・小忠・小不忠・微恕・不仁恕、一局の拙碁へぼごが黒白相乱れてついに佳いところ無く、一幅の悪画の赤青いたずらに用いて神気無いのが、実に普通凡人の実態である。しかし、子思が親切にしめされた「ひとりでいるときに於いても身をつつしみ、道に外れないようにする(慎独しんどく)の工夫」から着手して、密かに大道をねがい、少しなりとも「敬」の心で忠恕を味わう時は、未だ効果を得るには至らなくとも、やさしく和やかな気持ちが髣髴と拡がり、楽しい悦びを感じることは、何人も経験できることであり、その経験をした人も少なくないであろう。不思善・不思悪・悲想・非々想などと云う、孔子の道以外の道の事は知らないが、事実に基づいて心を用いる孔子の道は、幽玄なもので無く、高尚遠大なものでも無い。今ここに一本の鉛筆があり之を削って使用すると仮定する。このような瑣事は勿論、言うに足らないことであるが、学問を為す者が思慮をここに働かせるときは、ここに於いてもまた忠恕の一端を感じることが出来るであろう。そしてその悦ぶべき景象を実感することが出来るであろう。昔、舜は食器を作り之をうるしで黒く塗ったと言い伝わる。また舜は陶器を製作して、そのうつわは傷や歪みが無かったと言い伝わる。皆これ忠恕の一端で、人生の慶福のもととなったのである。孔子の道は先王の道である。先王の道も「忠恕のみ」である。天下の大本と達道、忠恕之を貫かないこと無しである。
 忠恕の足りない世界を観よ、如何に悦ばしく無く楽しく無いものであるか。外国の今の国民を率いる者の、哀しいかな道を知らないことや。好んで小才を行い、自ら苦しみ国民を苦しめる。彼等は未だ一本の鉛筆を削ることさえも会得できない者である。忠恕の一端にも触れること無い者か、わざわいなるかな彼等を偉大とする国民や。
(昭和十三年六月)

訳者あとがき


 自分のあるべきすがた、自分の本当と思うところ、これを目指すもの、これを自分の道と云いますが、目指すものがただ単に食欲や性欲や権力だけであるなら、それは獣の道で人間の道とは遠いものです。人間という名に値する道に自分の道を近づける。そのための指針となる孔子の道(儒教)と云うものが昔は細々とながらも身近に有りましたが、太平洋戦争後は個人の尊重が叫ばれ、戦前の価値観は否定され孔子の道も忘れ去られました。
 孔子は中国の春秋時代の人で、その時代の制度の中で自己を修め社会を正すことに努められたので、そのため現在の私たちから見て肯定できない面も多々あります。しかしその自己を修め社会に尽す道には人間としての普遍的な価値が今でも有ります。
 現在の個人尊重の世の中では自分の人生を強く意識します。また自分の人生のまわりには、様々な人がその人の人生を生きていることにも気付きます。どちらか一方の犠牲になることなく、どちらか一方を犠牲にすることなく、お互いに助け合って生きて行くのが人の世の在るべきすがたですが、この時にあたって孔子のおしえは私達に多大な恵みを与えてくれます。幸田露伴先生は孔子を深く尊敬し、孔子の道を実践された方ですが、その深い孔子理解の実際をこの一貫章義で示されています。忠と恕の二字で表される忠恕の一語を説明するのに、呼と吸二字で表される呼吸の一語を以て示された卓見は、私達に呼吸=息、忠恕=仁を覚らせ、呼吸をしないと人は死ぬように、忠恕(まごころからのおもいやり)が無ければ社会は死ぬと、私達に分りやすく説明してくれています。
 また、末尾の唐突とも言える文は露伴先生が社会に尽す孔子の道を実践されたものですが、外国(ヒットラー・ドイツ?)にかこつけて、昭和十三年頃の国情に警告を与えた露伴先生の憂国の言葉だとも云えます。
 訳すにあたっては、訳者の及ばないところや煩雑と思うところなど大幅に省略しましたが、本来は日本のものに訳など不要とする露伴先生の書に訳などするのは僭越なのですが、一人でも多く露伴先生を知って頂きたくて一貫章義を訳した次第です。露伴先生の世界は広大で深いです。露伴先生の文章は難しい漢字が多用され、文章も難しく読解するのが困難ですが、そこを克服して読み進めると一種のリズム、講談調とでも云うような畳みかけるような快いリズムがあって、露伴先生の親切・熱気を感じることが出来ます。露伴先生を原作で読む人が一人でも増えることを願っています。





翻訳の底本:「露伴全集 第二十八巻」岩波書店
   1954(昭和54)年6月18日第3刷発行
原作者:幸田露伴
翻訳者:中村喜治
   2020(平成31)年8月26日
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2020年12月18日作成
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●表記について

「衙」の「吾」に代えて「首」、U+885C    450-2、450-4、450-14
「貫−貝」、U+6BCC    460-12、460-14、460-15、460-15、472-12、479-12、479-13
「くさかんむり/恩」、U+84BD    483-3、483-3、488-5


●図書カード