幽情記(現代訳)

幸田露伴

中村喜治訳




真真


 花に百日の匂い無し、家どうして千年の栄えを保てよう、くれないも紫も春の一時ひとときとみたっときも虹の七色のように果敢無い。移り変わる人の世のさまはまことに悲しい。中国は宋の時代のこと、真西山しんせいざんという人はその死に際して、天子も動転して政務の情熱を失ったと云うほどの人である。四才で学問を受け、若い時から郷土の楊圭ようけいと云う者からは器量が尋常でないと認め知られ、成長の後は国家有用の人材となって、天子に仕えて忠、人民に臨んで仁、文章や学問に優れるだけでなく、経済や政治に於いても実績のあることは、「宋史」の巻四百三十七を読めば知ることができる。特に寧宗ねいそう理宗りそうの時代は宋の勢威が衰えて、内憂外患共に多く、有能な者の多くが保身に走る中で、敢然として信念を曲げないで、※(「にんべん+(广+托のつくり)」、第4水準2-1-43)かんたくちゅうが朱子学を排斥し、善人や正士を斥けて、程子や朱子等が一代の心力を尽して解き明かした聖賢の学の著述を、総べて禁じて廃止しようとした時代に、敢然と之を自身の学問として自認し、講習し実行した偉大さは他の及ばないところである。この禁令が解けて聖学がついに明らかになったのも、西山の力によるところが多いと後世がこれを称えるのも尤もである。西山の人柄はこのようである。西山先生、名は徳秀、もとの姓は慎、考宗のいみなを避けて真と改める。仕えて参知政事に成り、死して銀青光禄太夫を贈られる。文忠ぶんちゅうおくりなされて、生前は当時の大儒学者として人々から仰ぎ見られ、死後は聖学の功臣として後の人々の推服するところとなる。しかし、その子孫は子の志道しどうが家学を伝えただけでそののちは知られていない。
 月日はページをめくるように宋の時代は過ぎてげんの世となる。元もまた世宗・成宗を経て、武宗の時代となって姚燧ようすいと云う人が在った。王を補佐して才能あった姚枢ようすうと云う大官の甥で、寛仁恭敏かんじんきょうびん、未だ嘗て人を疑い己を欺くことが無いと云われた叔父に劣らず、この人もまた徳があり才能があり文章で名を成していた。官位は翰林学士承旨にまでなり、諡を文公と云われたほどの人である。。
 ある日、翰林院の盛宴に於いて貴賓顕官が多く集まり、琴や笛を華やかに演奏する当時の粋を選び抜いた花のような妓女の中に、真真しんしんと云う者が居て、遠く離れた南方のふしで歌ったのを文公(姚燧)が訝しく思って、「この都の近辺の者では無いようだが、何処の者であるか」と優しく尋ねた。貴人の思いがけない慈悲ある言葉にかよわい女の心は動いて、憂いある身は涙も誘われやすく、「御言葉のように、ここら辺りの者ではございません。私は山河はるかに隔たった建寧けんねいの者にございます。」と声を曇らす。言葉の調子が異なるのも頷ける。「建寧といえば、揚子江を南に超えてなお遥かな土地ではないか、なにゆえ上京したのであるか、物言いも人柄も卑しくは見えないが、何者の子孫であるか、訳がありそうだが」とまたただす。思いやりある春風の訪れにこぼれる花の露、はらはらと泣きうつむいて、「身は落ちぶれてあさましく、このように成り下がり居る者に、うじも素性もございましょうか、御答えは御免下さいませ、」と辞退する。抱擁の心なお奥ゆかしく、「身を恥じて氏を隠すのも当然であるが、浮き沈みあるは世の習い、運命の悪いことを誰がそしることあろう、そもそもの理由はなにか」と懇ろに問う。女も今は仕方なく、「御情深い御言葉に反することもはばかれます。昔を申し上げるのも今は恥ずかしくございますが、まことはいささか世にも知られた真西山の末裔すえにございます。」と消え入りそうな風情である。愕然として驚いた文公は、「ア、西山先生の子孫であるか、大儒者真文公の、……」と半信半疑にまどうのを、真真は惑われるのも尤もと推測し、「疑わしく思われましょうが、幸せ薄き身の上を先ずは一通り申し上げます。私もこの世に生まれた時は、富めるほどではありませんが貧しくも無い旧家に育って、父母の愛にはぐくまれ、梨花りかの中庭に春の日は静かに照らし、燕窺うすだれの奥の裁縫に厭きては琴に親しみ、手習い終えては詩を口ずさみ、心長閑のどかに暮らしておりました。父は済寧せいねいで公務に着いて会計の仕事を誠実にしておりましたが、他の人の仕た事で連座の罪を受けまして、県の管財を盗んだという恐ろしい罪名をかぶり牢獄に入れられ、弁財が済むまでは許されないという悲しさ。家を売り田を売り物を売っても足りず、晴れてはいても憂いの雲は暗く、冬ではないのに涙の谷は凍りつき、身も世もない災いの底に、力ない女は為すすべを知らず、ついに世話する者の言うままに、アア、申すも情なく、思うも辛いその月日、私の身を以て父の負債を弁済しました。玉と誇る心は無いが泥に落ちた怨みは尽きず、若くして鏡の前で眉をえがき、恥多い楼の上でくれないの衣装を装う、倡家しょうかの婦とならずにあるのはまだしもですが、ついに芸能社会の役者となって、空しく昔孟光もうこうが質素な服装で梁鴻りょうこうに嫁いだ故事をうらやむ身となりました。お恥ずかしい我が身でございます。」と涙ながらに物語る。人の真情は胸に響いて、思いやりの心と正義心は油然勃然と泉のように湧いて雲のように起る。文公は天を打ち仰ぎ、「祖先に隆盛な徳が有るというのに、子孫は何で悲運なのか、天はなぜ徳に酬い善を為されない、私がこの者を救おうとするのは、これ天の思し召しかと思う。ヨシ私はこれを他人事としない。」と丞相に使いを遣り申し出て、芸能社会から籍を抜き真真を自由の身とした。その上で年齢の近い翰林かんりんの属官で、黄逮こうたいと云う官位は低いが人の好い者を選んで、「君の妻にこの娘はどうだ、この娘は私の養女であるが」と云えば、黄逮は喜んで了承した。
 昨日に代わる今日の慶福よろこび、真真は文公の養女となって、公慈恩の吊り台や長持ち等の婚礼の装備は満ち輝いて、ついにおっとつまとなる。夫は今は微官なので出仕に車馬はないが、婦も教えある者なので、あしたの火、ゆうべの水の苦労を厭わず、服飾も質素清貧に甘んじて、宴席の虚栄から脱したのを喜び、鸚鵡おうむは二度と恋わない黄金の籠、鴛鴦えんおうひとえに悦ぶ清潭せいたんすみか、睦み合い語らい合い年を経て、夫も次第に出世をして、共に白髪の目出度い一生を送ったとのことである。
 この事は※(「竹かんむり/員」、第4水準2-83-63)いんこく筆談と云うものに出ている。みん貝瓊ばいけいと云う者が真真の曲を作ってこれに詩を付ける。その中に句が有って、云う、

琵琶 商婦に感ぜるも、
老大 猶西に東す。
(芸能社会は真真を悲観させ、老大はこれを救わんと東奔西走する)

 白楽天が潯陽じんようで商婦の琴を聞いて歎息したのは、ただそれだけの事であるが、これは悲しみに始まり喜びに終わる。聞いてこころよく心にしみる。西山先生の徳がこうさせたのか、文公の力がこうさせたのか、これまた天命であると貝氏は云う。詩の句にまた云う、

時 多く 坎火かんかくるしむも、
事 或は 遭烽そうほうよろこぶ。
いずくんぞ知らん 百尺の井より、
※(「火/(火+火)+欠」、第4水準2-15-90)たちまちに登る 群玉の峰に
(多くの苦境に苦しむ時に、朗報に遭える事を悦ぶ、思いかけず苦境の底より、忽ち登る幸せな世界)

 ひとり貝瓊だけでなく、明の名高い高季迪こうきてきと云う詩人もまた、この事を詠じている。伸びるも屈するも時の運、開いても落ちても梅は梅、霜雪の後の開花であれば、疎らな木々に香り幽かであっても凡花ではない。西山先生は心正しく行い正しく、その本伝によると容貌は玉のようだとある。真真の人品も想像できる。
 西山先生嘗て人に仁を問われて云う。「およそ天下は小さなものにもこのしんがある。生まれるものは皆これから生じる。天命を受けて生まれる時は、皆天地発生の心を以って生れて来る。よって仁心の発生しないものは無い。一物に一心がある。心中から生意を発し無限の物を成す。蓮の実の中にある小さな芽、すなわちこれが蓮のもとである。他の物もまたこのようであり、上蔡じょうさい先生は桃のたね(種子)や杏の仁でこれを例えた。仁の中には生意がある。即ち植えれば生じるわけである。人は之を心中に受けて生まれ、全て天地の道理を具える。それなのでその心は物体ではなく霊魂である。それゆえにその包むところの生意が発出すれば、即ち近くでは親族に親しみ、及ぼしては人を恵み、また及ぼしては物を愛し、以て世界を覆い百世を恵むに至るのも、これまた仁心が及ぼすのである。これ仁心の大が、天地の量と同じくする理由である。今、学問を為す者はすべからく常にこの心を持って、平生を省察し、胸中を満たし、優しい思いやりの心を持ち、悪心の無いことを確認する必要がある。即ちこの心がいわゆる本心である。即ちこの心がいわゆる仁である。即ち正しくこの心を保持し之を養い、この心を失わなければ、全ての善はこれより生じる」と、文公がこの説を嘗て読んだかどうか、それはわからない。
 西山先生の学問は※(「譫のつくり」、第3水準1-92-8)体仁せんたいじんから受ける。※(「譫のつくり」、第3水準1-92-8)体仁は劉屏山りゅうへいざんと朱子から伝える。当時の仰望するところなったのは、実に西山先生とその友の魏鶴山ぎかくざんの二人であった。
 推測するに、西山の子は志道、志道の子は長男を紹祖しょうそ、次男を同祖という。紹祖の子は蜀孫しょくそん。「真山民しんさんみん詩集」を元の大徳中の人である董師謙とうしけんに授けて、その序を作らせた真伯源は思うに蜀孫の子であろう。そして山民は思うに同祖の子で西山の曽孫であって、宋末から元初の時期を、学問はあるが仕えないで詩を作り楽しみ、陰士として身を終える。そのため宋や元の史書に名が無い。しかしながら山民の詩集は伯源の手から出て今に伝わる。その詩は清らかで優雅である。道で通過する軍に遇い山寺に投宿する篇の句に、

蟋蟀しっしつ 数声の雨、
芭蕉 一寺の秋。
(小雨降る一寺の秋、芭蕉の陰にコオロギを聴く)

と云い、またあかつきに山間を行く篇では

乱峰 相出没し、
初日 たちまち陰晴す。
(乱立する峰の間から日が出ると、忽ち辺りは明るくなる)

と云う。自適の篇では

一糸の風月 厳稜げんりょうの釣り、
千里の関山かんざん 季子きしころも
(後漢の厳稜のように世を離れ、風月の中で釣り糸を垂らす。見渡す千里の関山は、季子(蘇秦)が遊説のかてにした黒貂くろてんの衣のような価値がある)。
と云い。また歳暮の篇では

一年 又これ 等閑とうかんに過ぐ、
百歳 只消ゆ かくの如く看るを。
(また一年があわただしく過ぎて行く、百年もまたこのようにして消えてゆくのだろう。)

と云うように。人品詩品の共に卑しくないことを示す。詩集は豊富にはないが、一個の好詩人であると言える。真真は紹祖の末か同祖の末か分からない。ただ西山の子孫を語るついでに、山民も西山の子孫であることを示したに過ぎない。
(大正六年一月)


注解

・韓※(「にんべん+(广+托のつくり)」、第4水準2-1-43)冑:中国・南宋の政治家。南宋の寧宗の下で専権を振るう。
・寛仁恭敏:寛大で情け深く控えめで敏いという意。
・翰林学士承旨:翰林学士院(国家学芸院)の長。
・梁鴻は喜んで孟光を迎え入れたという故事:中国の後漢の梁鴻が妻を選んだ故事。孟光は嫁ぐ時に美しく着飾ったが梁鴻は相手にしなかった。孟光が理由を尋ねると、共に隠遁する人を探していたと答えた。思い違いをしていた孟光はそのことを詫びて、それまでの質素な服装にいばらのかんざしをつけたところ、梁鴻は喜んで孟光を迎え入れたという故事。
・貝瓊:中国・元末明初の学者、詩人。
・上蔡先生:謝良佐、北宋時代の儒学者、程子の弟子。
※(「譫のつくり」、第3水準1-92-8)体仁:朱子の弟子。
・劉屏山:朱子の先生。
・朱子:中国・南宋の儒学者。朱熹しゅきあざな元晦げんかい、号は晦庵かいあんいわゆる朱子学を築いた人。
・魏鶴山:中国・南宋の儒学者。
[#改丁]


師師


「水滸伝」は支那(中国)小説の巨編である。文章が優れていること描写が巧みなことは多言を要しない。ただその全編百二十回は豪傑の話が主で、女子の情を語ることは少ない。もともと「水滸伝」は山東省の大盗賊が主人公なので勢いこうなるのは自然であるが、水滸伝もまた女子を語らないことはない。魯提轄ろていかつ鎮関西ちんかんせいを討たせたのは、その夫人が美しかったからで、およそ婦人が英雄豪傑にわざわいや福を贈ったり、左右されたりする話は少なくない。ただ「水滸伝」中の女子の多くは脇役で、作者は軽く触れるだけで深く留意することがない。このため幾らかの顔貌かおかたちや容姿の描写はあるが、風貌や性格がはっきりと読者に分かり、事情や光景が明らかに文章で表現されたものは稀である。その中で作者がやや力を入れて伝える数人の者は実に「水滸伝」中の妖花であり奇珠である。即ち、その一は閻婆惜えんばしゃくである。閻婆惜は軽薄な女子で多く語ることもない。しかしながら全編の主人公である宋江そうこうを怒らせて殺され、そのことで宋江の身を危うくさせる。その嬌態、鋭い言葉は、憎み厭うべき婦人の一種の典型である。その二は潘金蓮はんきんれん王婆おうばである。潘金蓮は淫らで気が強い。支那史上このような婦人は少なくない。王婆は狡くて貪欲、支那の俗諺に三姑六婆を近づけるなかれと云うのも、実にこのような者があるからであろう。その三は揚雄ようゆうを巻き添えにした潘巧雲はんこううんである。その四は雷横らいおうを苦しめた白秀英はくしゅうえいである。その五は一丈青扈三娘いちじょうせいこさんじょう。その六は母大蟲顧大嫂ぼたいゆうこたいそう。その七は母夜叉孫二娘ぼやしゃそんじじょうである。この三者は或いは美人、或いは不美人であるが、共に皆梁山泊りょうざんぱく中の人である。その八は張清を悩ませて恋の病をおこさせ、反乱軍頭目の田虎を殺し両親の仇を取った孝勇貞美な瓊矢鏃けいしぞくこと瓊英けいえいである。その九は無頼で大胆、粗豪で獰猛、王慶を助けて乱を起こし、村婦の身で楚王の妃と称した段三娘だんさんじょうである。このうち白秀英、顧大嫂、孫二娘などは記載も少なく簡単に記されているに過ぎない。この九女子以外に本編の人物に直接は関係しないが、実に百八人の豪傑の運命を大変動させて、宋江等に身を梁山泊に潜めさせ国家に忠義を尽す道を開かせた「水滸伝」中第一の美人が、東京遊郭とんきんゆうかく花魁おいらん李師師りししである。李師師は実にその家の看板に書かれた五文字のように、正にこれ歌舞神仙女かぶしんせんのじょ風流花月魁ふうりゅうかげつのさきがけである。
 李師師はどのような女性か、前に挙げた九婦人は「水滸伝」中にその姓名があり、実世間に於いてもそのタイプは散見するといえども、皆架空の人である。李師師もまた架空の人であろうか。
 云う、「水滸伝」百二十回の大作は、大抵皆これ架空から選び取って物語を作る。コレがその血沸き肉躍り、愛され賞されるところである。しかしながら、事実から取られたところが無いことも無い。宋江等の名は「宋史」にあって、方臘ほうろうの乱の事も史上にあった実際の事である。およそ歴史小説は、作者が想像を逞しくして虚実を織り交ぜて面白おかしく作る。しかし、人はその作り物であることを忘れて、実際のように感じることを望む。即ち実で虚を覆うことが必要である。そのため「演義三国志」は董卓・曹操・劉備・孫呉の事跡にもとづいて書かれ、「女仙外史」は建文帝の逃亡と唐賽児とうさいじの乱を語る。「水滸伝」に於いては蔡京さいけい※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)ようぜん童貫どうかん※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうの悪事や張叔夜ちょうしゅくや侯蒙こうもうの忠義を記す。これは皆大筋を偽らないことで読者を納得させ、このような人が居てこのような事があることを思わせる。師師が皇帝に対して宋江等のために、宋江が忠誠心を抱きながら冤罪に処されたことを奏上する一段は、実にこれ本伝中の肝心なところ最も重要なところで、もし師師が架空の人で有ったならば読者の感動は得られず、師師が実在の人であればこそ、観客は手をたたいて絶賛する。そのために作者は、卑賎な身で皇帝の愛を得ている李師師と云う女性がいて、その稀有な話が世に知れ渡っていることを幸いに、これを借りて宋江が招安しょうあん(賊軍であった罪を赦されて官軍に組み入れられること)を受ける件の仲立ちをする。李師師は実在の人である、架空の人ではない。師師が宋江のために助力したかどうかは、もとより語るに足りないことであるが、師師が遊女の身で皇帝の寵愛を得たことは真実である。今これを語る。
 李師師は七十回本の「水滸伝」には出て来ない。七十回本を金聖歎きんせいたんは古本であると云うが実際は古本ではない。聖歎が改作して百二十回本の七十回以降を削除したものである。百二十回本の七十二回で初めて師師が現れる。これが七十回本に師師が現れない理由である。百二十回本で師師は、第七十二回、第八十一回、第百二十回に登場する。

 第七十二回では、宋江が柴進ししん燕青えんせいと共に、銭や錦の贈り物を持参して師師の家を訪れる。李逵りきがこれに随う。宋江は師師が皇帝の寵愛を得ていることを利用して、師師の口から自分等の冤罪を皇帝に奏上して貰う積りであったが、李逵のしくじりで却って危機を招いて梁山泊に逃げ帰る。また此の回では、燕青の聡明で敏巧な人柄が師師の知るところとなって後章の伏線となっている。
 第八十一回は、「水滸伝」中異色の文章で、燕青が再び師師の家に行って、前回の騒動を謝罪して、沢山の金銭や宝石を贈って歓心を買い、次いで酒間の献酬と歌吹の中に、好漢の意気精神と浪子ろうし(遊蕩青年)と世評される自己の本領を発揮して師師の愛を惹き、ついには師師は玉のような手で燕青の入れ墨を撫でるに至る。しかも燕青の怜悧は師師を姉と立ててその愛を止めその欲を制し、転じて師師の仲介によって皇帝に親閲し、終に朝廷の権臣達の奸計を訴え、且つ浪人達の忠義の心中を述べて、梁山泊の百八人の豪傑達が招安を受ける要因をつくる。燕青が「水滸伝」中最も巧妙な光景を描き出すのは、実にこの一章である。
 第百二十回は、宋江が百戦苦労の余りに、皇帝からの賜杯を毒酒と知りながら飲む。飲んでここに死んで悲壮凄涼の感を人に与える。毒酒は奸臣たちの仕業である。皇帝は夢で宋江の死と奸臣たちの悪企みを知るが、悟るところあって、また師師が傍らから宋江等のために奏上したこともあって、宋江等は最後には国家によってまつられて、「水滸伝」はここに終わる。水滸の英雄の決起と結末に師師の係わりは重く且つ大きい。

 李師師の「水滸伝」での有様はこのようである。その英雄たちとの係わりが真か否か、または真否が交わるか、それとも全ては架空の話なのか。宋江等の事は「宋史」や「宋鑑」等に出ていて本づくところが無いことは無い。またその三十六人の名は多少の違いはあるが「宣和遺事せんわいじ」にも記載されている。「宣和遺事」は小説なので史籍とは言えないが、「水滸伝」が「宣和遺事」を淵源とすることは前人が既にこれを言っている。「宣和遺事」では李師師はどう述べられているか。
「宣和遺事」二巻は宋の徽宗きそう欽宗きんそうの世の事を記すこと二百七十余条、明の胡応麟こおうりんは一読して元の時の村里の俗説だろうと云うが、多くの人は宋人の作としている。清の学山海居がくさんかいきょ主人は杭州で得た古本の巻中の惇の字が、宋の光宗のいみなを避けて惇に作られたもので、正に宋の時代の作であるとしている。
「水滸伝」の刊本は巻頭に「宣和遺事」の水滸に関するくだりを挙げているが李師師を記す条をあげていない。このため「宣和遺事」の全巻を読んでいない者は、「宣和遺事」に師師の記事の多いことに気付かずに、「水滸伝」の師師の事はでっちあげだとして、「水滸伝」を語る者の多くは「宣和遺事」に言及しない。「宣和遺事」が師師の美貌を「水滸伝」に先だって語ることの少なくないことを語らない。
「宣和遺事」は記す。高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)等は徽宗に行楽を大いに勧め、変装して微行おしのびをさせ東京とんきんの名妓の李師師の家に宿らせる。去るに当たって、帝は帝の※(「糸+悄のつくり」、第3水準1-90-6)こうしょう(うすぎぬ)の帯紐を解いて証拠として師師に与える。師師には武官の賈奕かえきと云う情人がいた。賈奕は七夕の日に佳酒を持って師師を訪れたが、門は堅く閉ざされて人の迎えも無いので怒り帰って、その翌日師師を詰問したが、事情を聞いて大いに驚き、また鮫※(「糸+悄のつくり」、第3水準1-90-6)を見ていよいよ驚き、嫉妬と落胆で心はズタズタになって卒倒する。師師はこれを助けてやさしく怒りを宥め、佳酒によって悶えは解けたが、賈奕はただただ長嘆する。たまたま筆と硯が傍らに在るのを見て、紙を開いて思いを述べて南郷子なんきょうしうたを作る。末尾に、

※(「糸+悄のつくり」、第3水準1-90-6)留下りゅうかして宿銭に当つ
(鮫※(「糸+悄のつくり」、第3水準1-90-6)を置きのこして宿賃に当てる)、

の句があった。師師は人の目に触れることを恐れて、これを化粧箱の中に入れる。賈奕は師師に対して「貴方は天子の寵愛を受けている、私はもう訪れない方がよいと思う」と云う。二人の話は尽きない、日は次第に暮れようとして、そこへ高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)が早くも来る。賈奕は驚いて去ろうとするが高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)に見つかる。高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は大いに怒って配下の者に賈奕を捕えさせ、大理寺の監獄に送ろうとする。師師の母がこれを見て、「この人は師師の兄です。洛陽に永年行っていたが、たまたま今日帰って来て小宴をしていただけのこと、何で高貴な方の御出を待つ身の私等が別人に接しましょうか。」と説いて辛くも賈奕を逃がすことができる。
 徽宗がやがて来て、歓楽は昨夜のように、師師が先ず寝室に入る。その間にフと見ると化粧箱の中から物が少し顕われている。開いて読むとその末尾に、鮫※(「糸+悄のつくり」、第3水準1-90-6)を留下して宿銭に当つの句がある。もとより聡敏な徽宗のこと、何のことかと理解されて苦笑されたが、口には出さずまた箱に収められた。これより二タ月ばかりは、夕方に来ては朝に帰って、恩寵はいよいよ加わる。
 賈奕は七月八日に師師と別れてからは、逢う機会も無く連絡の方策も無く、心配で、心配で、悶々鬱々と痩せ衰えてしまった。たまたま陳州の通判つうはん(副知事)をしている宋邦傑そうほうけつと云う者が、賈奕を訪れその痩せ衰えた姿を見て、その理由を問う。賈奕も隠しきれずその衷情を訴えれば通判は笑って、「御身おんみは元来聡明な人ではないか、何で一婦人のために身を誤ろうとするのか」と諫める。しかし賈奕の思いは変わらない。「帝は貴きこと第一の人なのに、師師の美貌を恋給う、まして小生は一愚夫、この痴迷ちまよいを嘲り下さるな。」と云うのを聞いて憐れに思う。「では仕方ない、御身のために力を貸そう。小生の叔母婿の曹輔そうほは現任の諫議太夫かんぎたゆう(天子を諫める役職)をしている。帝の行いも徳を欠くことがある。諫官の職にある者の務めだ。曹輔にこの事について一言奏上させて微行を止めさせよう。帝が微行されなければ御身は元のようになれるだろう」と云う。宋邦傑は曹輔に会って、徽宗が夜毎に遊女の家に宿られることを説く、曹輔はこれを聞いて帝の失徳は諫官の黙するところではないとして、慨然として「ひょう」をたてまつって微行を諫めた。徽宗はこれを見てじ、かつ怒り、曹輔を免職にする。諫議太夫の張天覚ちょうてんかくが続いて奏上して「願わくは陛下、微行をお止め下さい。曹輔の言葉は過ぎたか知れませんが、心から陛下を思う余りのこと」と云う。徽宗は已むなく宮中を出ないこと数日になったが、師師を思うおもいは止め難く、楊※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)を師師の家にやって、約束を違えてここ数日行かないでいるが心配するなと伝える。師師は徽宗がここ数日来ないので怒りを発して、酔いを装って無礼に応対する。楊※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)がフと眼を上げて、師師の机の上を見ると手紙がある。開いてこれを見ると賈奕からの手紙で、

 私は、七夕の夜に別れて後、また重九ちょうきゅうの節句に逢う。日月はページをめくるように経つが、顔を会わす機会も無い。今聞くところでは帝は忠臣の諫めを入れて、深く禁中に居られて微行されることは無いという、これ我れ等両人にとって幸い、今夕は良い機会、無駄にはできない。未だ返事がないが吉報を待つ。

とある。楊※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)は大いに怒り、「既に帝の寵愛を受けながら、また密かに賈奕と会おうとするとは」と、その手紙を奪って帰れば、師師母子は悔やんでも及ばず、魂も身を離れるほどにおののき懼れた。楊※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)が賈奕の手紙を差し出すと、徽宗は憤激して直ちに賈奕を捉えて「下郎、なんじは詞を作って朕をそしるのか」と一喝すれば、賈奕は御白州に俯伏して、「微臣びしんがどうして陛下を謗りましょう」と申す。徽宗言う「汝、謗らずと云うならば申し述べよ、この鮫※(「糸+悄のつくり」、第3水準1-90-6)を留下して宿銭に当つという詞は、これは誰がした事か」ここにおいて賈奕の魂は砕けて何も云うことができない。徽宗は、「汝、流言して朕を謗る。正に三族を成敗すべし」と宣言して、甄守中けんしゅちゅうを監殺官にして賈奕を殺させようとする。
 甄守中が賈奕を捉まえて刑場に行く道で張天覚に逢う。天覚は「今日殺される者は何の罪を犯した者か」と問う。守中が天覚に耳打ちして委細を告げる。天覚は守中に対して「汝、刑を暫し猶予せよ」と言い置いて馬を飛ばして宮中に入り急遽徽宗にまみまみえて、「陛下は貴い天子であります。富は四海を有し給い、祖宗万世の大いなる位をけて天下人民の見守るところであります。一挙一動も軽んじはいけません。しかるに口惜しくも、小事に誤り正義無き事を為されますとは何事でありますか、刑罰は正しく無ければ民を治めることはできません。民が怨めばわざわいは不測に起きましょう。それでなくとも今天下の難しい時に何故に聖慮を小事に用いなされますのか、願わくは御情おなさけを以て、曲げてお許しなされ給え。」と諫めれば、佞臣ねいしんの楊※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)が傍らから賈奕が作った彼の南郷子の詞を天覚に見せる。徽宗は言葉も激しく、「卿はこの詞を見ても怒ること無いか」と云う、天覚は少しも動じることなく、「畏れ多いことですが、これは陛下の御過ちでございます。陛下が万乗の尊き身を以て、巷の賤しい家に入り給わなければ、このような侮りをうけることがありましょうか。いわゆる君君足らざる時は臣臣足らざると云うもの、陛下自ら御過ちを悔い給いて然るべきです。何で人を咎め給うことがありましょう」と辞色厳正に直言すれば、徽宗もじて反論できず、「では卿の直言を入れて、賈奕の死を赦そう。」と言われて、罰して広南瓊州の司戸参軍に左遷させる。また一方では殿頭官を遣って、李師師を宮中に入れて夫人の衣装を着けさせ、玉座の傍らに侍らせて天覚に言って、「朕は今夫人と共に殿上に坐す。卿は階下に立ちて、能く礼法に適えるか」と問う、天覚涙を垂れて悲しみ申す。「陛下、礼法を見てどうなされます。臣は今どの顔をして殿中に立てましょう。願わくは職を辞して田里に帰えらん」と、徽宗いよいよ怒って衣を払って起ち、次の日天覚を勝州の太守に左遷する。
 天覚は都を出る時に南郷子の詞を作り、行くこと数十里にして路辺に老牛が地に臥しているのに逢い、長嘆一声、前詞によってまた一首の南郷子調の詞を作る。詞に云う、

瓦の鉢とやきものかめと、
かんに白雲にともない 酔いて後休む。
得も失も事の常なり 貧もまた楽し。
憂える無し、
運去って英雄も自由ならず。
(瓦の鉢と磁器の瓶の間に、白雲の下に酔って休む。得失は常のこと貧もまた楽しい。憂えることは無い、運が去れば英雄も思うようにはいかない。)

彭越ほうえつ韓侯かんこうと、
世を蓋うの功名も 一土丘なり。
名と利と 餌ありて 魚餌を呑む、
つりいと収まる、
脱するを得たるは なんぞ能く更にはりに上らむ。
(彭越と韓侯の功名も今は墓の土。名利の餌を呑めば魚も捕まる、餌を逃れれば何で二度と捕まろうか。)

 天覚が去った後は、朝廷の綱紀は緩み乱れて、蔡京・童貫の徒や高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)・楊※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)の輩は徽宗を持ち上げ、李師師を李明妃にして、金線巷を小御街と改めて、売茶ばいさ周秀しゅうしゅうなども初めに師師を紹介した功績を以て泗州ししゅう茶提挙ちゃていきょとされる。宣和六年のことである。

 以上は「宣和遺事」前集の記すところであるが、後集でもまた記す。劉屏山りゅうへいざんの詩があり、云う、

梁園の歌や舞や 風流足る、
美酒は刀の如くに 愁いを解き断つ。
憶い得たり 少年 楽事多かりしを、
夜深くして 灯火 樊楼はんろうに上る。
(園の歌や舞は風流である。美酒は刀のように愁いを解き断つ。憶い出す少年の時、楽しい事の多かったことを。夜も深くなってか灯火が樊楼に灯る。)

 樊楼は即ち豊楽楼の異名である。上階に御座があり、徽宗は時に師師と此処で宴飲する。
 金の軍隊が都に攻め入り徽宗が退位すると、蔡京や高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)等の取り巻き連中は失墜し、李師師もまた明妃を廃されて庶人となる。師師はその後、湖湘の地に落ちぶれさすらい、ついに商人に身を寄せる。よって自ら詩を作って云う、

輦轂れんこく(都)の繁華 事いたむ可し、
師師老いるになんなんとして 湖湘を過ぐ。
縷衫るさん 檀板たんぱん 顔色無し、
一曲 当年 帝王を動かししも。
(都の賑わいも今は傷ましく寂びれて、師師は老いに迫られ、今湖湘を過ぎる。一曲によって当時の帝王を感動させた縷衫も檀板も今は顔色無い。)

「宣和遺事」に於ける李師師の結末は、そのままで絶好の詩題である。「宣和遺事」の記すところは虚実相半ばするので全てを信じることは出来ないが、徽宗が天子の尊さを以て東京とんきんの一遊女を愛した事は、実際にあった事である。「水滸伝」の作者がこの李師師を使って、「水滸伝」の後半の開始としたのは適切である。「宣和遺事」の記事と「水滸伝」の記事を比べると、その大いに異なる点において「水滸伝」が「宣和遺事」に負うところを察することができる。
 既に「宣和遺事」における李師師を説いた。「宣和遺事」以外の書の小説稗史以外のものに於いて師師の事跡はどうか。

 張天覚が蔡京と仲が悪かったことは事実である。師師のことで職を辞した事は虚構である。天覚は蔡と仲が悪かったのは事実だが、その人柄は「宣和遺事」の記すようでは無い。「宋史」三百五十一巻の記すところでは宣和三年に年七十九才で死去している。「宣和遺事」の記すところでは宣和五年とあるが、その誤りであることは云うまでもない。

「宣和遺事」や「水滸伝」以外で李師師のことを伝えるものに元の屈子けいくっしけいけいの雑劇一篇があって、題して「宗上皇三恨李師師」という。子敬は元の年号の至順以前の人、その作る雑劇には、「田単復斉」・「孟宗哭竹」・「敬徳撲馬」・「相如題柱」などがあり、「録鬼簿」を著わした鐘嗣成と同窓である。「三恨李師師」の戯曲は、今は伝わらないのでその概要を知ることが出来ないが、題名から考えて記するところを推知すべきである。元の人は既に徽宗と師師を用いて雑劇を作る。これによって元の時において、既に徽宗と師師との艶話が人口に膾炙していたことが分かる。

 李師師は実際に宋の徽宗時代の名妓である。そして徽宗が微行してこれを寵愛した事も事実である。ただ賈奕の事や張天覚がこれを諫め奉って職を辞したことは信じることが出来ない。小説や俚聞の信頼できないことは多言を要さない。であるが、「宣和遺事」が賈奕のことを記すのは根拠が無いことでは無い。周邦彦しゅうほうげんの事がこれである。
 周邦彦、あざな美成びせい、銭塘省の人である。「宋史」巻四百四十四に伝がある。元豊の初めに都に出て、「※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)京賦べんきょうのふ」を献じて神宗に知られて仕え、徽宗の時には秘書監となり、徽猷閣待制に進み、後に順昌府の知事となって死去する。「虹亭詞談」巻六の記に、周邦彦が師師の家にいる時に徽宗が来たのを聞いて床下に隠れる。徽宗自ら初物のだいだいを一ツ携え来て言われる。「これは江南から初めて届いたものである」と、そして師師と戯れ語らい合う。邦彦が悉くこれを聞いて、「少年遊」の詞を作る。詞に云う、

へいはものは 水の如く、
呉の塩は 雪に勝り、
ほそき指 新しきとうく。
錦のとばりは 初めて温かに、
獣香ねりずみの香りは 断えず、
相対して坐りて 笙を調しらぶ。
(よく切れる并州へいしゅうの刃物で、雪より白い呉国の塩を振りかけ、細い指で新しいミカンの皮を割く。暖かい錦のとばりの中に、獣炭のかおりは絶えない。向かい合って座り、笙を奏でる。)

低声ひくきこえに問う いずれほとりに向ってか宿とどまると、
城上は已《》に三更なり、
馬は滑らん 霜はあつきなり、
休み去るに如かず、
直さえたださえさえに 人の行くまれなり。
(小声で訊く、何処辺りに宿るのかと、城の上の鐘は既に真夜中を告げた。霜が厚くて馬は滑ろう、休むほかないだろう、ただでさえ行く人も稀であれば。)

(注、この詞は、「詞談」や朱彝尊の「詞綜」では割を破に作り、誰の辺を誰の行に作り、笙を筝に作り、直自を直是に作るが、今はこれを採らない。宋の曹慥の撰した「楽府雅詞」に依る。并州は刃物を産出し、呉国は良い塩を産出する。獣香は獣炭の香か。炭を練って獣形を作って酒を温めた故事を用いたのである。或いは獣炉の香か。美人が笙を玩ぶのは当時の習慣で、筝を玩ぶことは却って少なかった。)

 その後、師師がこのうたを歌ったところ、徽宗は誰が作ったのかと問われた。師師が邦彦の作であることを云うと、徽宗は大いに怒って、そのことで邦彦に異動を命じて地方へ追放し玉う。
 一二日して徽宗がまた師師の家に微行されたが遇えなかった。初更になって師師が帰って来る。愁いの眉、涙の眼、憔悴のほど思いやるべし、「どうしたのか」と徽宗が問うと、「邦彦が罪を得て国を離れますので、別れの盃を交わしていました。そのため帝の来られたのを存じませんでした」と答える。徽宗が「詞は有るか」と問われると、「蘭陵王の詞があります」と云う。「一度歌ってみよ」と徽宗に言われ、師師は酒を奉って歌う、

柳の蔭 直し、
煙のうち 絲々しし みどりを弄す。
隋堤の上 かつて見つ 幾番いくたび
水を払い 綿をひるがえし 行色たびだちを送れるを。
登臨して 故国を望む、
誰か識らん 京華みやこめるひと
長き亭の路 としどし来たり としどし去りて、
柔らかき枝を攀折よじおりて 千尺にも過ぎぬ。
(柳の蔭は真直ぐに、もやの中を細いみどりの枝を揺らせて続いている。この隋堤の柳は水を払い綿を飛ばして、曽て幾番いくたびの旅立ちを見送ってきたことだろう。山に登って故郷のかたを望むが、都に住み厭きた人の在ることを誰が知ろう。長い旅路の間に、年は来て年は過ぎ、柔らかい枝を手折って旅人を送った柳の枝も千尺を超えた。)

かんに尋ぬ ふりにし蹤跡を。
又 酒は 哀しみのいとおいか
ともしびは 別れの席を照らし、
梨の花 楡の火 寒食催す。
一箭ひとすじのやの 風はや
※(「竹かんむり/高」、第3水準1-89-70)なかばのみさおの 波あたたか
こうべを廻らせば迢遞はるかはるかに 便たちまち数駅なり、
人を望むに みそらの北に在り。
(そぞろ昔を偲んで、曽遊の地を訪ねる。今もまた、酒は哀しみのいとを追いかけ、ともしびは別れの席を照らしている。この梨の花の季節ににれの枝のまきの火で、人は寒食を催して旅立って行く。舟は一陣の風を受けて速く、舟竿半分ほどの波は暖かく、振り向けば忽ち数駅を過ぎて、見送る人は遥かみそらの北に在る。)

うらさむむねいたくして 恨みつもり積る、
漸くにして 別れの浦は ※(「竹かんむり/高」、第3水準1-89-70)めぐめぐり、
津の ※(「土へん+侯」、第4水準2-5-1)いちりづかは ※(「山/令」、第3水準1-47-73)こだかものさびたり、
斜陽かたぶけるひは 冉々ぜんぜんとして 春 きわまり無し。
おもう 月の※(「木+射」、第3水準1-85-92)うてなに手を携え
露の橋に笛を聞きしを。
前事まえのことあとより思えば、
夢のうちに似て、
涙 ひそかに滴る。
(悲しみに胸は痛み恨みは積り、やがて別れの浦を廻り行けば、渡し場の一里塚は冷たくひっそりとして、斜陽がゆっくり沈み行く春は果てしない。月の夜に楼の上で手を取り合い、露の橋で笛を聞いた昔を思い出せば、以前のことは夢のようで思わず涙がしたたる。)

 歌い終る。徽宗大いに喜んで、また邦彦を召し返して、音楽所の長官に任命する。
「宋史」に記す。邦彦は才を鼻にかけ慎みが無いので、故郷では人望が無かったと云う。また邦彦が姑蘇こそに住んでいた時、妓女の岳楚雲がくそうんと愛し合ったが、後に楚雲は他人に随ったので、邦彦は楚雲の妹と会い詞を作って思いを述べる。楚雲はこれを読んで感泣すること日を重ねる。ということが「夷堅支志」に記されている。思うに邦彦は放縦な才人で、洒脱なことを好む者のようである。であるならば、師師と知り合って詞によって罪を得て、また詞によって恩を得たことも、あるいは実際の事であろう。その音楽を好み、自身作曲をして、楽譜に長短の句を作し、その詞韻の清らかで豊かなことが世に伝わると「本伝」に記されている。邦彦の詞を評して陳質斉ちんしっさいは富艶で精巧と云い、張叔夏ちょうしゅくがは力強く重厚で穏やかな品があると云う。勿論宋詞壇の一大家であり、その「清真居士片玉詞」三巻は今も現存する。「虹亭詞談」は事実無根の話ではない。師師と邦彦の事は、思うに宋人の説に本づくものであろう。
「宣和遺事」の記す賈奕と師師のことは、思うに邦彦と師師とのことを換骨変装したものか、あるいはまた別に一つの物語があるのか、今にわかに断定はできない。ただ憶測すれば、邦彦のことがあって、そして後に「宣和遺事」の作者が賈奕のことを捏造したように感じる。
 周邦彦とは別にもう一人の邦彦がある。即ちこれが李邦彦である。李邦彦、字は士美、懐州の人、父の浦は銀細工師である。才知優れ風姿美しく、文を作れば敏にして巧みで、しかも都で成長したので卑猥な事にも通じ、応接は敏捷で、謔笑や歌唱を善くし、蹴鞠けまりを能くする。常に市街の俗語を使って辞曲を作り、世俗の賞賛を博す。如才ない人柄で、大学生に推挙され大観二年に及第して、それより累進して中書舎人翰林学士承旨となり、宣和三年に尚書右丞を拝命し、五年左丞に転じる。王黼おうほと敵対し蔡攸さいゆう梁師成りょうしせい等と共謀してこれを斥ける。きんの軍が都に迫って来ると国土を割譲して難を避ける策を執ったので、大学生陳東ちんとう等数百人が宣徳門にして書をたてまつって、邦彦等の徒を国家の賊として斥けることを請う。その宰相の器では無いことが分かる。初め未だ地位の低い時分は気ままに過ごし自ら李浪子と称す。宣和六年少宰しょうさいに命じられるに及んで、ご機嫌取りが位についたので、都の人々は浪子が宰相になったと云う。伝は「宋史」巻三百五十二に見える。
「宣和遺事」は記す。李邦彦は次相として蔡攸の機嫌を取り、宮中に宴会のある毎に自ら道化たことをして交際し、市中の滑稽な言語で笑いを取る。また記す。ある日、宮宴に於いて薄衣うすぎぬを着て龍文りゅうもんを体に描き、正に技芸を演じる時にその衣を脱いで入れ墨を見せる。また記す、帝が杖をげて笞打ちしようとすると木に登って逃げる云々と、軽薄なことも甚だしい。真に浪子の姿である、どこに次相の風格があるというのか。
 浪子は遊蕩青年というようなことであって、そして遊蕩青年の多くは愚かではないので、浪子の語には利口で抜け目ない人の意味がある。「水滸伝」中で俊敏第一の燕青に浪子の綽名があるのもその理由からである。「水滸伝」の浪子は架空であるが「宋史」の浪子は事実である。梁山泊の浪子は虚であるが都の浪子は実である。架空の浪子は愛すべく、実際の浪子は憎むべく、虚の浪子はコレ忠臣で、実の浪子はコレ奸臣である。アア何とその奇妙なことか、浪子燕青、美人李師師、徽宗皇帝、詞によって罪を得る賈奕、詞人周邦彦、浪子李邦彦、私はここにおいて一連の環が、環々連なってしかも接せず、環々互いに動いて互いに離れない状況を観る。
 李師師の艶美が当時評判だったことは、別に張子野の詞があって、これを証明する。張子野の時に「師師令」の一詞体ができて今に伝わる。「師師令」は張子野が創始したもので、李師師に贈ったことでその名を得たものである。張子野の名はせん、呉興の人、太宗の時に高官であった張遜の子孫である。「宋史」に名が残るが事跡の記録はない。しかし詞名は甚だ高く、「天仙子」の詞の中の「雲破れ月来たって花影を弄す」の一句は当時喧伝され、「心中の事、眼中の涙、意中の人」の句から得た張三中の称号は幾百年に亘って伝わる。その著書に「子野詞」一巻がある。蘇東坡がこれを評して言う、「張子野は詩筆老妙であって、歌詞はその余技である。華州西渓の詩に云う、浮萍うきくさの破れたる処、山の影見え、小舟の帰る時、草の声聞ゆ・・と。(中略)、このような詩の類で張子野を評すべきである。しかしながら世俗はただその歌詞を称える」と。晁無咎ちょうぶきょうは、「張子野と耆卿きけいの名は同格である、しかしながら張子野の詞韻の高さは耆卿に無いところである。」と評価する。実に張子野は一詞雄である。詞に云う、

香鈿かおりよきかみかざり 宝珥たからのみみかざり
払う 菱花はながたのかがみ 水の如し。
よそおいを学び 皆言う 時の宜しきにかなうと、
粉色おしろいのいろには有り 天然の春意はるのおもむき
蜀綵衣しょくのにしきのきぬ長がくして かみかざり未だ起こさず、
まかす 乱霞らんかの地に垂るるに。
(香りのよい髪飾りと宝石の耳飾りを、水面のような鏡に映す。よそおいを見て皆は時期にピッタリと云う、化粧には春の趣が自然と漂う。蜀錦の長い衣装を着て、髪飾りを着けない髪を、乱霞の地に垂れるままに任す。)

都城みやこ池苑ちえん 桃李 誇る、
問う 東風 何似いかんと。
もちいず 扇を囘して 清歌きよきうたわるを、
唇一点 朱蘂あけのはなより小さし。
正にう 残英の月とともに落ちるに、
寄す 此のこころを千里に。
(都の庭園に桃李の花は誇り春風は快く吹く。清歌の妨げになるのを避け扇も使わない中で、歌う唇の紅は赤い花より小さい。いま正に残り花が月と共に落ちるのに遇う、この心を千里の彼方に寄せる。)

 張子野の才能の美がそうしたのか、師師の容貌のえんがそうさせたのか、この詞が世に出てから世は遂に師師令の一詞体を得る。張子野と師師、共に素敵である。
 秦少游、名は観、同時代の人で、勿論宋朝の一大詩星である。その楽譜は言葉巧みで調子よく、晁無咎に近来の作者は皆秦少遊に及ばないと云わせる。その「満庭芳の詞」の、「斜陽の外、寒鴉数点、流水孤村をめぐる」の句は人口に膾炙している。それなので優雅な言葉、温雅の情は、当時の長沙の一美人に見ぬ恋に憧れさせて、その詞一篇を得る毎に細い手で之を写し、愛らしいその喉で唱って已まなかった。美人は後に秦少游が罪をきせられて南遷する道で逢って、一別した後数年、門を閉じて人を避けただ少遊のことだけを思っていたが、少游がついに藤州に死ぬと夢でこれを知り、数百里の道を行ってその喪に臨み、棺を撫でて巡ること三度、声を挙げて慟哭して命を絶ち、永く哀れな物語を残す。このように秦少游の詞の才能は世に愛重された。秦少游の詞三巻を「淮海詞」と云う。中に李師師に贈った詞牌がある。云う、

遠山とおきやまと 眉黛まゆのすみは長く、
細柳ほそいやなぎと 腰肢こしばせ※(「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1-91-74)たおやかなり。
よそおいんで 春風はるのかぜに立ち、
ひとたび笑めば 千金も少し。
(遠い山並みのように眉黛は長く、細い柳のように腰つきはたおやかである。化粧を終え春風に立って一たび微笑ほほえめば、千金も敵わない。)

帰り去る 鳳城の時、
説きしめす 青樓の道。
看遍みてあまねし 穎川えいせんの花、
かず 師師のきに。
(あの時の東京遊郭での花魁姿は教え示す。見渡す限りの穎川の花も師師の好さには及ばないと。)

 一代の詩人に、穎川の花も師師の好さには及ばないと吟じさせる。四百余州を統治する宋の徽宗を嫉妬悶乱させ、百八人の豪傑の決起と結末に係わる、師師の美の力もまた大ではないか。アア、しかしながらその人も今や黄土の白骨、誰かその墓の在る処を知ろう、「水滸伝」中に輝く大きな宝のようなその名も、知らない者は作者の描き出した幻影にすぎないと云う。アア。
(大正六年五月)

注解

・水滸伝:中国の明の時代に書かれた長編小説。北宋の末期に百八人の豪傑が梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集まり活躍する話。
・三姑六婆:正業以外の職についている女性。これらの女性が出入りすればその家にろくなことがないと言われた。三姑とは尼姑(尼)・道姑(道教の尼)・卦姑(八卦見)、六婆とは牙婆(周旋屋)・媒婆(仲人)・師婆(巫女)・虔婆(やり手婆)・葯婆(薬売り)・穏婆(産婆)を云う。
・東京遊郭:北宋の首都東京とんきん(開封府)の花街。
・花魁:遊郭の遊女。
・方臘の乱:中国の北宋末期に浙江地方に起こった民衆による反乱。
・演義三国志:中国の明の時代に書かれた、後漢末に於ける蜀魏呉三国の歴史小説。
・女仙外史:中国の清の時代に書かれた長編小説。
・宣和遺事:中国北宋王朝末期の皇帝徽宗の一代記の形式をとった説話集。
・蔡京・楊※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)・童貫・高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50):朝廷の佞臣。
・張叔夜・侯蒙:宋江の投降に貢献。
・金聖歎:中国・明末清初の文芸評論家。
・胡応麟:中国・明の学者、詩人。
・学山海居主人:『宣和遺事』の版本(跋)を発行。
・鮫※(「糸+悄のつくり」、第3水準1-90-6):鮫人が織ったとされる上質の絹織物、鮫人は水中に住むと云う伝説上の人魚、水中で機を織り、泣く時は真珠の涙を落とすと云う。
・南郷子の詞:詞の一形態。
・重九の節句:九月九日の重陽の節句。
・三族:本人に身近な三つの親族(父方の一族、母方の一族、妻の一族など。)
・茶提挙:中国・宋代の官名。茶塩の専売事務を司った。
・彭越と韓侯と:共に漢の功臣だが高祖に殺される。
・張子野:張先、字は子野、中国・北宋の詞人。
・耆卿:柳永、字は耆卿。中国・北宋の詞人。
[#改丁]


楼船断橋


 竹枝ちくしの調べは、もと巴蜀はしょく地方に起こる。その竹枝というのは歌う時に人が唱和するのに竹枝と女児の合いの手を以ってするからである。唐の皇甫松こうほしょうの十四字体を示せば、次のようである。

山頭の桃花(竹枝) 谷底こくていの杏。(女児)
両花窈窕ようちょう(竹枝) 遥かに相映ず。(女児)
(山の上の桃の花(ハイハイ)、谷の底の杏の花(ヨイヨイ)。両花淑やかに美しく(ハイハイ)、遥か離れて互いに映える(ヨイヨイ)。)

 また同じ人の二十八字体を以って云うものは

門前の春水(竹枝) 白蘋はくひんの花。(女児)
岸上に人無く(竹枝) 小艇斜めなり。(女児)
商女経過して(竹枝) こう暮れんと欲す。(女児)
残食ざんし散抛さんぽうして(竹枝) 神鴉しんあを飼う。(女児)
(門前の春川の流れ(ハイハイ)、白い水草の花(ヨイヨイ)。岸の上には誰もいなくて(ハイハイ)、小舟は斜めに上る(ヨイヨイ)。舟中の伎女は通り過ぎ(ハイハイ)、河は暮れようとする(ヨイヨイ)。食べ残しを撒き散らし(ハイハイ)、烏の餌にする(ヨイヨイ)。)

 このようである。それなので竹枝・女児は我が国のおけさ節のホイノ、ヤットカケノと云い、追分節でソエソエと云うようなもので、別に意味のない囃しの声であるが、蜀の地方に竹枝・女児の合いの手で歌に合わせる習慣があるので、詞人がたまたま蜀の風景情緒を云うものを竹枝と云うようになって形式の名となる。それなので唐の人の作る竹枝は皆蜀の事を言うが、すでに形式の名となってからは竹枝の名の意味は変化して、里謡俗歌とか、その国振りの詩と云うようなことになって、その後の人はその形式によって各地で之を作り、某州竹枝・某城竹枝などと云うようになったという。竹枝の体裁は、或いは七言絶句の詩のように、或いは拗体ようたいの絶句のように平仄に拘らず、またそのおもむきは情を述べ、技巧的で放蕩でしかも心が広く温かなことを尚ぶので、堂々とした風雅な作ではないが、才子才媛でなければ容易に作ることはできない。
 元末から明初にかけての才人に楊維禎と云う人がいた。あざなは廉夫、鉄崖道人と名乗る。山陰の人である。母が月中の金銭が懐に入る夢を見て生まれ来る。若年から聡明であったので、父はこれを大器として、ろう(二階家)を鉄崖山に築き、楼の周りに梅を植え、数万巻の書物を集め置き、その楼の梯子を外して五年、二階で誦読させる。こうして維禎は学識成って、元の泰定四年に進士となったが、狷介剛直な性格で物事に逆らうために志が叶わず、やがて世の中が乱れて元が亡びると、世に隠れて詩酒に遊ぶ。明の洪武二年、太祖が需学者を招集して礼楽の書を編纂する時に当って、維禎を招くために翰林院の※(「譫のつくり」、第3水準1-92-8)同をさしむけ招致されたが、維禎はこれを辞退して、「死も近い老婦の身で嫁に行く者が有りましょうか」と云う。翌年再び帝が役人を使わして篤く招聘されたので上京したが、編集の概要が決まると辞職を願い出る。帝も維禎の、「帝が私の得意なところを尽させて、不得意なことを強いなければ良いのだが、それでなければ海に入って死ぬだけだ。」と云う言葉を知って、留めることなくその辞職を許した。明の大儒学者宋濂そうれんが「その山へ還るを贈る」の詩の句で、「受けず君、五色のみことのり、白衣(庶民の着る白色の衣)にして宣せられて至り白衣にして還る」と云うのも、この維禎の行為を気高いとしているのである。鉄崖(維禎)は実に才人にして高士であると云うべきである。
 鉄崖は詩を能くし、名は当時に栄えていわゆる鉄崖体の名を起こす。頼山陽は日本楽府を著わして鉄崖の古楽府を論じて言う、「新異なところは好いが、しかしながら体裁を整え、時に牛鬼蛇神ぎゅうきだしんを差し挟んで人を幻惑する、その内容は浅易で明の楊慎の二十一史弾詞と相違が無い」と云うが、その評価は甚だ過酷である。二十一史弾詞と相違が無いとは山陽も少し言い過ぎている。張簡の師の長雨は鉄崖の古楽府を称えて、「杜甫・李白・李賀などの唐詩を手本に学んで、ところどころ後世に残る金石(貴重で堅固)の詩が有る。」と云う。また宋濂は、「鉄崖の詩は、心を烈しく揺さぶり、詩の言葉には神の心がやどる」と云う。長雨と宋濂の言と山陽の評の隔たりは大きい。思うに山陽の気持ちは鉄崖等を圧倒して之を凌駕したいとするもので、その鉄崖を認めないことは、滝沢馬琴が武部凌岱や井原西鶴を認めなかったのと同様に公正な論とは言えない。
 鉄崖は詩を能くし、文を能くし、書を能くし、音楽を能くし、好んで鉄笛を吹く。聶大年じょうたいねんの「廉夫集」の詩の句に、

金鉤こんこう 夢は遠くして 天星墜ち、
鉄笛 声は寒くして 海月孤なり。
(金の帯留めの、夢は遠く叶わずして、天の星は墜ち、鉄笛の、音は寒くして、海上に月はひとり。)

の一聯は、転生の異兆と入雲の妙音を云う。戦乱を避けて松江しょうこうに居た頃に囲っていた侍女の草枝・柳枝・桃枝・杏枝の四人は皆音楽と舞踏を能くした。鉄崖はこれ等の侍女と共に常に遊覧船に乗って、思いのままに過ごしたという。笛声・歌声・琵琶の声・檀板の声・山容・水容・含笑の容・起舞の容・詩興・酒興、一種豪快で傲慢な風格の風流人が、天下乱れて治まらず、国破れて遂に救い難い当時に在って、蕩然と思いのままに過ごす状景を思い浮かべるが善い。鉄崖の鉄笛を名付けて鉄龍と云う。又、たまたま蒼玉そうぎょくしょうを得て名付けて玉鸞ぎょくらんと云う。鉄崖の友の顧徳輝ことくき玉鸞謡ぎょくらんようの七言の古詩があるのはこのためである。鉄崖の一生は当時の俊才の仰ぎ見るところであった。その友には李孝光・張羽・倪※(「王+贊」、第3水準1-88-37)・顧徳輝・卞思義・郭翼ら著名人が多い。これ等の人の著作を読めば鉄崖を知るのに参考になることが多い。鉄崖の著書、「東維子集」三十巻の文は無駄な修飾がなく読みやすく分かりやすいと云う。宋濂は称えて云う、「その論撰は、殷の食器や周の酒器によく見る寒芒かんすすきの横溢する青銅器の文様のようである」と、「古楽府」十巻と「楽府補」六巻は論者が思うに、或いは後人のそしるところとなっても、その俗事にわずらわされない格別な詩文は、捨て去ることの出来ない文である。」と、要するに鉄崖は一代の雄である。詩文悉く敵の攻撃するところとなっても、その容れられないところにその大を見るべきである。
 鉄崖は元末の繊細で浮靡ふびな詩格を嫌い、これを正して過ぎるほどであったので、竹枝のようなものを作るのは本来あり得ないことであるが、そこは才人は多情で、その為すところは屡々人の意表に出て西湖竹枝数章を作る。今その三章を記す。云う、

ろうに勧む のぼなかれ 南高峰、
我に勧む 上る莫れ 北高峰。
南高峰の雲 北高峰の雨、
雲と雨と相催あいもよおしてわれを愁殺す。
(貴方、北高峰に上らないでください、私も南高峰に上りません。南高峰の雲と北高峰の雨、雲と雨は共に生じて私を愁殺する。)

湖口の楼船 湖日くもり、
湖口の断橋 湖水深し。
楼船にかじ無きは これ郎がこころ
断橋に柱有るは 是儂が心。
(湖口の屋形船の辺りの日は陰り、壊れた橋の辺りの湖水は深い。船に柁が無いのはコレ貴方のこころ、橋に柱があるのはコレは私の心。)

石新婦せきしんぷしも 水 空に連なり、
飛来峰ひらいほうの前 山 萬重ばんちょうなり。
わらわは死して甘んじて 石新婦と為らん、
郎に望む 忽ち飛来峰に似んことを。
(石新婦下の水は空に連なり、飛来峰前の山は幾重にも重なる。私は死んで喜んで石新婦になろう、貴方に望む今直ぐに飛来峰となって帰り来ることを。)

 南北の峰・楼船断橋・秦王纜石の石新婦・一朝飛来の飛来峰は皆西湖にあるもので、花にけむる土地の情趣、温かく柔らか郷の風景が画の様に現れて、未だその郷を知らない、その地を履まない異邦の人にも、楼に上って目前にするような思いにさせる。まして当時の佳人才人はどれほど心を動かしおもいかされたことか、唱和する者が多数いたと云う。その中に呉郡のせつ氏の二女、蘭英らんえい※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)けいえいと云う者がいた。鉄崖の竹枝を見て打ち笑って、西湖に竹枝があるなら東呉にも竹枝はあると、その体裁を真似て蘇台の竹枝詞十章を作った。

百尺の楼台 碧天にる、
闌干 曲々 画屏連なる。
が家 おのずから有り 蘇台の曲、
西湖に去って 采蓮さいれんとなえず。
(高い楼台は青空の中に、闌干はくねくねと画屏のように連なる。我が家には、自然な蘇台の曲があるが、西湖では采蓮を歌わない。)

楊柳ようりゅう青々 楊柳黄ばむ、
青黄 色を変えて 年光ねんこう過ぎる。
われは似たり 柳絲りゅうしの憔悴し易きに、
郎はたり 柳絮りゅうじょはなはだ癲狂なるに。
(楊柳は青々とし、やがて黄ばみ、青と黄と色を変えて一年の風光は過ぎる。私は憔悴し易い柳糸に似て、貴方は甚だ癲狂な柳絮に似る。)

姑蘇台の上 月団々たり、
姑蘇台の下 水潺々せんせんたり。
月は西辺に落つるも 時有って出づ、
水は東に流れ去って 幾時か還えらむ。
(姑蘇台の上に月は丸く輝き、姑蘇台の下に水はよどみなく流れる。月は西辺に落ちても時が経てばまた出る。水は東に流れ去っても何時かはまた還える。)

 余りは今これを省略する。鉄崖は薛女せつじょの詞を見て大いにその才能を愛し、二詩の後に詩を書いて賞賛した。その一を記す。云う、

ていたり難くけいたり難く 並びに名あり、
英々 まさ瓊々けいけいに譲らず。
好し筆底春風の句をひきいて、
譜してさんたまことの絃上の声と。
ていたり難くけいたり難く並んで名があり、正に美花と美玉は共に譲らない。ヨシ筆底に春風の句を抽きだして、譜して作ろうたまことの絃上の声を。)

 人はすでに、鉄崖によって耳を新たにし、また薛女に目をみはる。また銭塘の子女の曹妙静そうみょうせいと云う書を能くし琴を能くする者が更に和して云う、

美人 はなはだ似たり 董嬌※(「女+堯」、第4水準2-5-82)に、
家は住む 南山の第一橋に。
がへんぜず 人に随って湖を過ぎり去るを、
月明に夜々 みずかしょうを吹く。
(美人、はなはだ董嬌※(「女+堯」、第4水準2-5-82)に似る。南山の第一橋の家に住む。 人の勧めにあっても湖を去らず、夜々に月明の中で自ら簫を吹く。)

 第三第四の句、暗に自ら高く持す。鉄崖がこれに答える詩が有る。また同じ銭塘の張妙清と云う詩を能くし音楽を能く知る者も鉄崖に和す。今は煩雑を嫌ってこれを記さないが、鉄崖の一唱に唱和する者が並び起こり、ただ才子が風流を競うだけでなく、佳人かじん慧思けいしを湧かせて、韻雅の話題を今に遺す。楊升庵は「丹鉛総録」巻二十に記す。「鉄崖の竹枝詞、一時和する者五十余人」と、鉄崖の竹枝詞が世の中の視聴を大いに動かしたことが思われる。以後西湖に遊ぶ者はともすれば真似て竹枝を作る。明の黄周星こうしゅうせいの詩に、

競いて西湖にむかいて 竹枝を詠ずる、
廉夫もこれ 情癡じょうちくるし[#「歹+帶」、U+6BA2、101-5]めらる可し。
(競って西湖にむかい竹枝を詠ずる、廉夫もコレでは情癡に苦しめられよう。)

の句がある。楊維禎(鉄崖)の当時の風流が伝わって幾百年も経つ。詩が人を感じさせること実に深いものがある。
(大正四年十一月)

注解

・巴蜀:中国の四川省地方の異称。
・皇甫松:唐の詩人。
・拗体の絶句:平仄ひょうそくの合っていない絶句。
・楊維禎:中国・元明代の詩人。
・翰林院:国家学芸院。
※(「譫のつくり」、第3水準1-92-8)同:中国・元末明初の官僚で儒学者。
・頼山陽:江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人。
・聶大年:明の詩人。
・董矯※(「女+堯」、第4水準2-5-82):董矯※(「女+堯」、第4水準2-5-82)にについては古来明解がない。矯※(「女+堯」、第4水準2-5-82)には美しくなまめかしいさまなので、董美人とでもいうのか。
・楊升庵:楊慎、字は用修、号は升庵。明の文人。
[#改丁]


水殿雲廊


 男女の縁も様々である。十年交際して遠く離れ離れになる者もあり、ある日新たに知って華燭の典に輝く者もある。中でも黄鶴山樵こうかくさんしょうと名乗った中国・明初期の詩人、王蒙と氏との間のようなことは、偶然の一章二十八文字が、突如として幸福な結婚の歓びを招く、まことに思いもかけない縁と云えよう。
「明史」巻二百八十五に記す。王蒙、あざな(通称)は叔明、湖州の趙孟※(「兆+頁」、第3水準1-93-89)の甥である。詞文に敏く、広大を尚ばず、山水を描くことが巧みで、また人物も能く描く。若い時に宮詞きゅうしを作る。仁和の兪友仁ゆゆうじんがこれを見て、「これ唐人の佳句のようである」と云う。ついに妹を王蒙に合わす。
 一篇の詩が、唐詩に迫るものあって人の激賞を博し、その妹を得ることになる。筆下に花を生じると云うのも嘘ではないなどと軽口も出るような事である。その詩に云う、

宮詞

南の風は吹きて 断つ 采蓮さいれんの歌、
夜の雨は 新たに添う 太液たいえきの波。
水殿 雲廊 三十六、
知らず 何れの処か月明げつめい多きを。
(南風が吹いて採蓮の歌声を吹き消し、太液池の波に夜雨が注ぐ。宮中には水殿や雲廊が三十六在るが、月の光を面白く見るのは何れの処であろうか。)

 一見したところ、ただ美しく宮中の夏の夜の景色を描き写しているだけのようであるが、反復して誦唱し味わうと実に好い。人はともすれば言葉尽きれば意も尽きる的な文を読み慣れて、このような言葉終わって意終わらない詩の妙味を味わうことに慣れていない。祇園南海は新井白石の弟子で、詩名を世に振るい出藍の誉れを得た人であるが、後進のために此の詩を親切丁寧に評釈しているので、ここに提示してその恵みを分かち合いたい。
 南海は言う。「この詩は流麗で清新、実に高くたえなり、さて詩のこころは宮中の情態ありさまを述べる。官女が戯れ合って蓮花はちすを採る頃、南の風がそよそよ吹いて歌声をも吹き断つ季節に、夜雨が新たに太液池の水を打つ面白い景色、何れも楽しむべき風情である。この宮中には、水に臨んだ殿閣や雲に聳える廊廂がおよそ三十六もあろうか、その中で天子の寵愛を得て月の光を面白く見る人は誰であろう。月多しと云うのは、酒宴歌舞の賑わう席では月も大層照り輝くように思えるので月多しと云うのである。天子の寵愛も無く独り深宮で眺めるのは、月の色も寂しく輝きも少ない。詩のおもてはこのようである。裏へとおってこの詩を見ると、南風夜雨の二句のような景勝は宮中の三十六の殿閣の何れにも有るのに、どうして君恩は唯一人に深く特別に月明を褒められて、その他は皆怨みを含み涙に夜を明かすのか、君恩のひとえに片寄って平等でないことが恨めしいと云うよりも、君たる人がその心に叶う人ばかりを寵愛して、天下の賢才が時に遇わずして下位に捨てられていることは、悲しいことであると云うのだと解釈しても通じるであろう。詩を説くにはその詩の表裏を知って、まず表ばかりを説くがよい、詩を作った人も初めは表ばかりを作る。作った後に、名人の詩であればあるほど感情は深く、裏へ透るといろいろの意味がある。詩を表だけと心得て説けば、そればかりに限られて詩の妙用は得られない。「詩経」の深い理解が無ければ説くことは難しい。孔子や孟子が詩を扱ったようにして、能く味わうが善い。」と南海は詩を説く、まことに巧妙である、しかしながら作家でなければこうは出来ないだろう。ついでに記す、南海の評釈を載せた書では、この詩の作者の名を誤って高啓としているが訂正する必要がある。
 世の皆が、叔明がこの詩に因って兪氏を得たとしていることは、「明史」が記す通りであるが、しかしながら詞人の逸話は多くは軽薄なやからの受売り話から出る。美し過ぎる話や悪辣な言葉、蜃気楼が海に現れたり虎が街中に暴れるようなことになる、なかなか素直には信じられない。朱竹※(「土へん+它」、第4水準2-4-68)凌雲翰りょううんかんの「柘軒集」に、「王叔明(王蒙)の室、張氏を悼む」という次のような詩が有ると云う、

結髪けっぱつ 夫婦と為り、
齊眉せいび 主賓のごとし。
山は黄鶴を同じうして隠れ、
書は彩鸞さいらんに迫りて真なり。
蘭樹らんじゅ 人皆羨み、
※(「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1-91-43)ひんぱん なんじ独り親しくす。
情傷じょうしょう 坦腹たんぷくの者、
穴に臨み 重ねてきんうるおす。
(成人して夫婦と為り、礼儀正しく尊敬し合うこと主人と客のようであった。山は黄鶴に二人で隠れ、書は彩鸞に迫って真。仏土の蘭樹は人の皆羨むところだが、お前は独り仏土に親しむ。。苦楽を共にした私は、墓前で再びハンカチを涙で濡らす。)

と。即ち王蒙は張をめとったので、兪では無いと云う。結髪より夫婦となるの句に拠れば、王蒙は若い時から張氏とえにしを結んでいたのである。山は黄鶴を同じくして隠れるの句に拠れば、王蒙が元末期の乱に際して黄鶴山に隠れた時に、張氏もこれに随ったのである。であれば、王蒙と張氏は中年まで仲睦まじく暮らしていたのである。「明史」の若い時云々と云うのは疑わしい。或いは又、王蒙が張氏を喪った後に兪氏を得たのであるかと思う。又、「七修類藁しちしゅうらいこう」にはこの詩は王蒙の作では無く、湖州の王旬おうじゅん、字は子宣の作であって、かつ詩の明月の二字は晩凉であるとしている。事の真偽は今は定かに知ることが出来ない。
 王蒙は後に胡惟庸こいようの私邸で会稽の郭伝僧の知聡ちそうと共に画を観たが、惟庸は後に反乱を起こして罰せられ、王蒙も累罪となって獄中で死んだと云う。詩によって妻を得て、画によって死を招く、人の運命ほど分からないものは無い。
(大正四年七月)


注解

・王蒙:中国・元末の画家、詩も能くする。
・趙孟※(「兆+頁」、第3水準1-93-89):中国・南宋から元にかけての政治家・書家・画家、字は子昂、号は松雪。
・祇園南海:江戸中期の儒学者、漢詩人、文人画家。服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに日本文人画の祖とされる
・新井白石:江戸中期の政治家、学者。
・高啓:中国・明初の詩人。
・朱竹※(「土へん+它」、第4水準2-4-68)朱彝尊しゅいそん、竹※(「土へん+它」、第4水準2-4-68)は号(名乗り)、中国・清の文学者。「明史」の編纂に携わる。
・胡惟庸:中国・明の建国の功臣で、左丞相(宰相)となる。
・胡惟庸の反乱:洪武帝によって謀叛の疑いをかけられて、胡惟庸をはじめ胡惟庸に近い者はすべて処刑される。しかし謀叛の事実はなく実際は洪武帝による粛清事件と云われている。
[#改丁]


共命鳥


 中国の明の末、清の初めは人材が輩出する。その中で江佐こうさの三大家と称えられた者は、銭謙益せんけんえき呉偉業ごいぎょう※(「龍/共」、第3水準1-94-87)鼎孳である。偉業は梅村ばいそんと名乗り、鼎孳は芝麓しろくと名乗り。芝麓は清の世祖に、「筆を下せば千言たちどころに成って思索を要せず、真に当今の才子なり」と嘆称させた者で、梅村は評する者をして杜甫や牧之の風情と白楽天の才思があるとされた者である。二人の俊敏で霊慧のほどが分る。謙益もまた大文豪であり、広博な学問によって実力を自在に発揮し、特に詩歌や文章で天下に名を馳せる。偉大であると云うべきである。
 謙益はあざな(通称)を受之じゅしと云い、牧斎ぼくさいと号(名乗り)し、また虞山蒙叟ぐざんもうそうと名乗り、さらに東澗遺老とうかんいろうと名乗った。江南地方の常熟の人である。明の萬暦の庚戌こうじゅつに進士に及第して翰林院編修となったが、それからは、或いは斥けられて退き、或いは用いられては出仕して務めたが、役所勤めは険難な事が多く、時には刑部の獄舎に入れられたこともあった。高い樹には風は自然と烈しく当る、高位大官の者は安泰ではいられない。これは一ツには明の時代においては、朋党間での止む間もない争闘が繰り広げられたことにも因る。時代は既に明の勢威が衰えて流賊が大いに盛んとなり、崇帝十七年三月に首都が陥落して皇帝が死ぬと、謙益はたまたま下野していたが南京に赴いて諸大臣と共に※(「さんずい+路」、第3水準1-87-11)王を立てて皇帝にすることを相談する。相談が纏まらない中に馬士英ばしえい劉澤清りゅうたくせい等が福王を皇帝に擁立することを知り、謙益もこれに賛同して礼部尚書(礼部大臣)となる。しかし馬も劉も謙益を疑っていて、特に阮大※げんたいせい[#「金+成」、U+92EE、108-2]と云う者は謙益の敵なので、事を起こして謙益を誅殺しようとさえした。幸いなことに馬士英が事を起こすことを望まなかったことで無事を得たが、上に立つ皇帝にはもともと明を再興する志が無く、実務に当る臣にも雄材が無く、明の晩期はついに見るに足る者無く、弘光元年には南京を清に陥落させられて、弘光帝と共に謙益も出て降伏した。
 国亡んで生き延び、節操を欠いて官職に着いた謙益の所業は、後の人の厭い憎むところだが、尋常でない才能は礼部右侍郎(礼部局長)の職に着いて秘書院学士の事を管轄する。しかし流石さすがに清に仕えることは心よくなかったのか、老病を理由に職を辞退して故郷に閑居すること二十年、康煕こうき三年八十三才でみまかる。謙益の一生は大略このようである。長寿であったが得意の時期は実に短く、官職においては変転あわただしく、謙益が朝廷に立って栄えた時期は僅かに五年未満だった。福分は少なかったと云えよう。
 牧斎(謙益)は書においては、経史百家から仏典や道籍や民間伝説に至るまで読まないものは無く、その該博な知識で筆を執っては紙に臨んで思いのままに記述する。それは例えば大金持ちが楼閣林園を造るのに、美しい高大な建物や優雅な泉水や庭石を思いのままに現出させるようなことで、その自在で豊麗なことは人を嘆称させる。沈徳潜ちんとくせんはこれを評して、「金銀銅鉄を合わせて一ツのものを作る。」と云って牧斎の詩文を論じ尽くす。閻潜邱えんせんきゅうは牧斎の文を批判して、「牧斎の古文の名声は最も重い、独り私はその文を佳くないとする、思うに古文には古めかしい趣きが欲しいが、牧斎の古文には修飾がある。古文は単行でありたいが牧斎の古文は対句になっている」と云う。その言葉は能く牧斎の弱点を指摘している。しかしながら、李攀龍や王世貞ら古文辞派の模倣や鍾惺や譚元春の詭弁にも陥らずに、言おうとするところを言って流暢でよく通じるのが牧斎の文である。また沈徳潜がその詩を貶して、「巧緻は余りあるが表面的で正声ではない。」と云うのも悪口とは言えない。しかも杜甫を中心に韓愈・白居易・温庭※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63)・李白・蘇東坡・陸游を学んで、絢爛で老成なのが牧斎の詩である。その人の節操が無く卑しいことで、その詩才を不美として軽んじてはいけない。康煕帝の世では臣の忠節を奨励し、人心を正しくする議論があって、牧斎の著述や詩文は悉く廃棄すべしと命じられたが、その「有学集」や「初学集」以下「楞厳経鈔」等は今に至るまで遺っている。死後の災危や遺文の迫害によって牧斎の運も窮まること甚だ過酷であったが、この迫害のために牧斎の美が却って顕われたとも云える。
 魏忠賢が権力を握ると思いのままに忠臣良臣を陥れて酷烈を極めた。東林党の一派は一日として迫害を受けないこと無く、また忠賢に媚びる者は焔を煽り威を揚げて他を斥け出世を計る。崔呈秀と云う者は忠賢に媚びて、天鑒録てんかんろくや同志録や点将録を差し出し、党人の姓名を注記する。忠賢はこれを帝に奉じて聖書としたと云う。その天鑒録は初めに東林党の党員を列挙し、次に東林党に賛同する者を列挙し、また別に真心しんしんを以って国の為を思い、東林党に付かない者を列記する。同志録は詞林部院卿寺を列挙し、台省だいせいを列挙し、部属を列挙して記す。点将録に至っては東林党の党員を「水滸伝」の百八人の盗賊になぞらえ、葉向高ようこうこう及時雨きゅうじうとし、楊漣ようれん大刀だいとうとし、李三才を托塔天王とし、忠賢の嫌う者をその才能性格風貌によって、悉く「水滸伝」の大盗賊の綽名あだなを付ける。その中で銭謙益を名付けて浪子ろうし(遊蕩青年)とする。「水滸伝」の浪子燕青えんせいは水滸百八人中第一の風流慧巧ふうりゅうけいこうの人である。浪子に擬されたことで謙益の人品は推して知ることができる。(谷氏記事本末七十一)
 牧斎の愛妻をりゅう夫人と云う。舒仲光じょちゅうこうの「柳夫人伝」では、文を簡潔にするためにその氏名の詳記はない。夫人の本性は楊、名は愛児、またの名は因、また是とも云う、字は如是にょぜ、号(名乗り)を河東とし、影憐とし、※(「くさかんむり/靡」の「非」に代えて「緋-糸」、第4水準2-87-21)びぶともしたと云う。不幸にして早くから南京遊郭の芸妓となった人である。風流で温雅、画を能くし、詩を能くし、好んで読書に励み教養を身につける。その容姿の美、技芸の精は、当時に冠絶して三千の芸妓を圧倒するものがあり、当時の公子才人は争ってこれに押し寄せ、花の下に車を停める者、柳の陰に馬をつなぐ者、次々と来ては絶える間がない。如是君と同席して言葉を交わしては、大きな宝石を得たような、美味な桃を味わうような思いをする。それなので金銭を軽んじて誠を表わし、千篇の詩を寄せて才能を示して、願わくは君と一生を共にしたいという者も多かったが、如是君は意に介せず心密かに牧斎を思って、虞山ぐざんの隆準公(牧斎)は未だ古今を凌駕するとは言えないが、一代の英雄を圧倒する人であるとして、その才能に心服して之を重んじている。牧斎もまた紅灯の中に如是の奇美を認め、緑酒を取り交わす中で満たされない志を察して、「昔の人も、蓬島ほうとうに遊んで桃渓とうけいうたげしても、美人を一度ひとたび見るには及ばないと云う、私の人生に此の人無しでは居られない」として、ついにかねに委せて如是を迎え入れる。如是は願い牧斎は望む、如是は所を得て牧斎は人を得る。金襴の好み夫婦の情は、どんなに濃やかであったことだろう。牧斎は山荘を築いて紅豆こうとうと名付けて、妻と共にその中で吟詠し、茶と香と美しい床と座禅板の楽しい日々を送った。
 紅豆はまた相思子そうししとも云う。蔓性の常緑樹で高さ一丈余りでさやを付け中に実を結ぶ、その大きさは豌豆えんどうぐらいで鮮やかな紅色をして甚だ可愛らしい。紅豆は嶺南地方の暖地に産し中央の地では稀である。昔ある人が遠い異境で亡くなったが、その妻は夫を思いその木の下で慟哭して死んだという伝説があって相思子の名がある。そのためその実のしおらしい美しさ、その名のなつかしいにおいに、唐以来の詩人でこれを詠じる者は多い。牧斎の山荘にこの樹があって、この樹の伝説を愛して、その名を採って山荘の名とする。牧斎の詩句に云う、

青袍せいほう便すなわち官をむるに擬して好し。
紅粉かえってどうに入るを能くするやいなや。
えん散じ 酒醒めて 一笑を成す、
※(「髟/眄のつくり」、第4水準2-93-21)びんし 禅榻ぜんとう 正に疏蕪そぶたり。
 (青い袍は官を辞めた身に似合う。化粧を落として入道を能くするのかどうか。禅榻に座った白髪頭は正に蕪のように見え、宴を終えて酒も醒めて大笑いする。)

 ことばの中に、如是の日常の化粧しないことが見え、牧斎の平素の茶前酒後の様子も知れる。思うに如是の眼には蘇東坡があって、牧斎の胸には朝雲があったのではないかと伝記作者は云う。牧斎が如是を愛重する余り、実名を言わずに、或いは柳君と云い、或いは河東君と云うとある。今「有学集」を調べて見ると果してその通りである。当時の人が柳夫人と称したことも事実であろう。
 牧斎の「有学集」巻の第九、第十一に収録されたものを紅豆集と云う。紅豆二集を看ると、この樹は花の咲かないこと二十年たった辛丑の夏に初めて数枝に花を咲かせる。銭曽(如是)が八絶句を作り牧斎がこれに和した作がある。秋になって河東君(如是)が小童を使って枝を見させたところ僅か一顆だが実をつけていた。牧斎はこれを喜んで絶句十句を作る。銭曽(如是)がこれに和した詩がまた十首ある。牧斎はこの時すでに老いてはいたが、山荘に閑適し、詩酒に優遊して、夏には紅豆の紅い花が香り咲くのを看、秋には紅豆が高樹を覆い、赤い実が枝に成るのを得る。その喜びはいかばかりか。まして文名は世に高く、愛妻は内に在って詩文推敲の友となり詩文応酬の人となる。徐芳じょほうは記して云う、「牧斎は詩句が出来ると腰元をって「どうだ」と誇って示す。柳夫人(如是)は直ぐさま詩句に対して素早く応答する。未だ嘗てその立場を変えることは無かった。或いは柳夫人の句が先に出来ると腰元を遣って報告する。牧斎は力を尽し、痛ましいほど工夫をし、その上へ出て圧倒しようとする。成って並べて看れば、相応のものを得る。牧斎の強く壮んな詩には柳夫人は未だ到らないが、柳夫人の上品であでやかな美しい詩には牧斎も時にこれに譲る。時には自信の作を互いに誇示し合って、二者の間はまるで敵国のようであった」と。これは誇張も甚だしい。柳夫人に才能があると云ってもそのようなことは無かったであろう。その詩人の伴侶として恥じないものは実にここにある。「有学集」巻第九に載せる採花醸酒歌は牧斎自ら河東君(如是)に示すと記す。およそこのような詩藻豊かな長篇は、柳夫人に詩文の才能が無ければ示すことは出来ないことである。
 しかしながら柳夫人が伝わるのは、書を能くし詩を能くするからではない。またその美貌と敏才によるのでもない。南京遊郭出身の卑しい身で、当時の風流大臣が身請けしたことによるのでもない。嘗て鴛鴦湖えんおうこの舟中で詞壇の長者に百韻の詩を賦させたことによるのでもない。また詩中の句に柳夫人を称揚して、「たまの光、あしたへきを孕み、玉のほとぼりよわに玄を生ず(瑤の光は朝にあおを含み、玉の気は夜にくろを生ず)」といって、柳夫人の誕生を讃えて、「ほそき腰は蹴鞠けまりに宜しく、弱らかなる骨は鞦韆ふららこかなう。天も投壺とうこの為に笑み、人は争博そうはくに従いてくるう。(細い腰は蹴鞠けまりく、弱らかい骨はブランコに適する。天もサイコロ壺の為に笑み、人は賭博に狂う。)」と云い、柳夫人の肢体を褒めて薄病・軽寒・清愁・微笑の八字を点出して、柳夫人の風貌を讃えたためでもない、牧斎が柳夫人をれる時の詩に、

しろがねともしび 壁を照らして また 影をならべ、
くれないの蝋 はなに注いで すべて しんを一にす。
地久しく 天長く 頻りに語を致し、
らん歌い ほう舞い 並びにいんを知る。
(銀燭のともしびは壁を照らし影を並べ、紅いローソクは花を照らして、総べて心を一ツにする。天地には久しく長く言葉も無く、鸞は歌い鳳は舞い、そして音楽を知る。)

等の句があるからでもない。柳夫人が牧斎に嫁ぐことを喜んで牧斎の詩に和す者は当時の有名人に甚だ多く、沈景倩ちんけいせんは、「廻文かいぶんの詩なって重ねてにしきに書き付け、無線の成って自ずからかすみる」と云い、馮定遠ひょうていえんは、「紅葉直ちにりてまさぐう(蓮花)をつらね、絳蝋こうろう(赤いローソク)僅かにいてすでしんを見る、ただ鴎雛おうすうを取ってびんかたちと為し、かんに鳳語を調えてしょうこえす」と云ったからでもない。柳夫人を語る理由は別にある。
 甲申こうしんの変は実に明朝転覆の始まりで、皇帝が縊死して都城は陥落する。明の臣下は正に国難に殉じるべき時である。柳如是は女性の身ながら児女のような態度をとらずに、牧斎に身を捨てて国に殉じて玉砕することを勧めたと云う。牧斎の性質は弱く、如是の意気の烈々に及ばず、無節の人となって後人の指弾を受ける。牧斎を伝える価値はないが、如是は実に伝えるべきものがある。
 弘光元年に南京が落ち福王が降伏すると、謙益(牧斎)は清に仕えて用いられる。もし謙益が死ねば如是がどうして生きよう。明が滅んでも必ずしも謙益は死ななくてもよいのである。則ち山谷に隠居して微碌な者の仲間となって暮らせばよいのである。であるのに、大臣の身で清朝の臣下となって官命を受ける。思うに清の要請圧迫を免れることが出来なかったためであろうが、謙益のためには悲しむべきことである。当時の如是の胸中の鬱屈はいかばかりか推知するに難くない。このようにして謙益は温柔おんじゅうに世に処したが、文章の盛名と顕貴の官歴は、上は之を疑い、人は之を憎み、讒訴を飛ばし弾劾をする情勢となって、清の順治四年三月晦日に何事も無く家に居た牧斎は、急遽召されて獄舎に投ぜられる。その時如是は病気にかかって床に臥していたが、これを聞いて決然と起って身を省みず謙益に随行し、「貴方、心を強くお持ちください。貴方に罪の無いことは私がよく知っています。請願の書を奏上して私が代って死ぬように致します。それでも貴方が赦されない時は、貴方と共に墓に入りましょう。」と慷慨して雄々しく言えば、牧斎もどんなに嬉しく思ったことか、後に自ら記す文に、「私もまた、それによって元気が出る」と載せている。急な投獄に牧斎は前途を危ぶんで、獄中は執筆厳禁のため書をおくる手段も無いが、流石に牧斎老は詩人である。昔、蘇東坡が弾劾された時に御史台から妻に出した詩を思い出し、その韻に和して詩を作り死が決まった時の如是に対しての決別の辞にしようと、風に臨んで暗誦し、不覚の涙に暮れたと云う。その詩が今六章を「秋槐集」に遺す。その一に云う、

朔気さくき 陰森として 夏も亦すさまじ、
窮盧きゅうろ よもおおいて 天の低きを覚ゆ。
青春 望みは断ゆ 帰りを催すの鳥、
黒獄こくごく 声は沈む 暁を報ぐるのとり
慟哭 こうに臨みて 壮氏無く、
従行 難に赴く 賢妻有り。
禁ぜず 重囲ちょうい きょうに還るの夢、
却って淮東わいとうを過ぎて 又浙西せっせい
(北方の寒気は陰森として夏も凄しく、暗い空は四方を盖い天を低く感じる。帰りを催す鳥に青春の望みを断ち、牢獄に暁を報げる鶏の声は沈む。江に臨んで慟哭するも壮氏無く、従行するに難に赴く賢妻有り。郷に還る夢の、却って淮東を過ぎて又浙西へと重囲するのを禁じない。)

 慟哭従行の一聯いちれんは、門弟は甚だ多いが頼みに出来るものは無く、頼みは家人かじん一人だと言って、凄冷せいれいおもい、感謝の意を表す。獄の夜のさとの夢、さぞかし牧斎は如是と手を取って泣いたことであろう。その二の腰聯ようれんに云う、

肝膓かんちょう 迸裂ほうれつす 題襟の友、
血涙 糢糊たり 織錦しょくきんの妻。
はらわたを裂く唱和の詩友、血や涙にくれる流人の妻。)

 唐の段成式だんせいしきや温庭※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63)等が唱和した詩集を「漢上題襟集」と云うことによって肝膓の句がある。晋の竇滔とうとうの妻の蘇若蘭そじゃくらんが夫の流沙りゅうさに移されたことを思って、錦の上に廻文旋図の詩を織って贈った故事によって、血涙の句がある。如是を蘇氏と比べたのである。その三には、

めいを並ぶ 何かまさに せきの友に同じかるべきぞ、
囚を呼ぶ 誰か為に 章が妻に報ぜん。
(運命を共にするは何か当に、石崇の友と同じことであることか、囚人を呼ぶ声は誰の為に王章の妻に報じる。)

の一聯がある。石崇せきそうの友の潘岳はんがくの「白首するところを同じゅうせん」の詩句は予言的で、共に囚われた故事によって前の句がある。王章が獄に繋がれた時に、囚人を数え呼ぶ声を聞いて、その数が一ツ減ったことで、我が夫が殺されたことを妻が知った古話によって後の句がある。呼囚の句に牧斎の当時の窮状と如是の平生の機敏さを察することが出来る。其の四に、

夢は虎穴にかえりて 頻りに母を呼び、
は牛衣に到って 更に妻をおもう。
(夢は獄舎に帰りて頻りに母を呼び、話は牛衣の個所に到って更に妻を思う。)

の句がある。虎穴は獄舎の名。牛衣は王章が困苦のあまり牛衣の中に臥せ、妻との別れに際し啼泣した時に、妻がこれを励まして、疾痛困苦に自ら激昂せずに啼泣するとは何んと卑しきやと言った故事である。その第六章の後半に云う、

後事は まかす他の手を携える客に、
残骸は 付与せん眉を画くの妻に。
可憐なり 三十年来の夢、
長白山の東 遼水の西。
(後事は他の手を携える客に任し、残骸は眉を画く妻に与えよう。可憐であった三十年来の、長白山の東・遼水の西での夢のくらし。)

 蘇東坡の詩にたまたま妻の字があることに因るとは云え、牧斎が如是を愛し如是を重んじることは、この詩によって詳しく知ることができる。そして如是がたおやかな身体の中に凛冽の気象を有していたことを徴知しょうちすべきである。牧斎は伝えるには不足だが、如是は実に伝える価値がある。
 牧斎は獄舎に在ること四十日で無事家に還ることができた。夫妻の喜びはどれほどであったろう。その後は平安な月日を送っていたと思える。庚寅こういんの年の人日じんじつの節句に、内に示すの詩が二篇ある。如是に示したのである。その一の末に、

閨中 刀尺の好きに憑仗よりたのみて、
春色を剪裁して 先庚せんこうを報ず。
(寝室では縫物好きを頼みに、春景を剪裁して先祖に報いる。)

 その二の一聯に云う、

花は図して 却って喜ぶ 同心のたい
鳥を学びて まさに師とすべし 共命のきん
(同心の帯に花を画いては却って喜び、共命の鳥に学んでは正に師とする。)

と。雑宝蔵経に共命鳥は雪山せつざんの鳥で一身で二頭と記されている。牧斎が如是を大事にするさまが想像できる。如是の和韻の詩が二篇ある。その一の末に云う、

新月半輪 灯たちまちひいづ、
君が為に酒を※(「酉+埒のつくり」、第4水準2-90-37)そそいで長庚を祝す。
(新月半輪の灯、忽ちずる、君の為に酒を注いで長寿を祝す。)

 その二の頷聯がんれんに云う、

地は劫外ごうがいに於いて 風光近く、
人は花前に在りて 笑語深し。
(地は郊外に於いて風光近く、人は花前に在りて笑語深し。)

と。如是が淑やかに、穏やかな時を楽しんでいる様を見るが善い。このように牧斎夫妻は、栄華を誇ることこそ無かったが、清間を楽しみ暮らして幾年、その間に牧斎が晩年の仕事としていた「明史」はいまだ成らないうちに、書庫のある絳雲楼と共に灰燼かいじんとなる惨事があった。それからは牧斎はいよいよ仏道に潜心して、貧苦が次第に募り負債が山のようになる悩みもあったが、猶その日その日の平安を得ていたが、庚熈六年(七年とも云う)牧斎が病んで死ぬと、悲風がたちまち吹き下ろし秋蘭はポッキリと折れる。
 牧斎は負債が多かった上に、晩年は益々窮乏して苦しんでいたが、それだけでなく、後継の子息は柔弱で才幹も気骨も無く、そのため郷里の有力者達は心中これを侮って、且つは銭家の家名が盛んなことを妬ましく思い機会が有ればと隙を伺っていたが、牧斎の死を聞いて、その者共が忽ち群がり起って、負債を求めることを口実に銭家に押し寄せ、騒ぎ罵ったり、壁を叩いて衝撃を与えたり侮辱の限りを極めて、牧斎の家を壊して婢妾までも奪おうとする勢いを示した。牧斎の子は心が弱いので魂を失ったようになって、出るに出られずただ茫然とするだけであった。如是は牧斎の死の時から既に殉じる心で居たが、ここに際してハラハラと涙を流し起って云う、「私がこれ等に対応します。」と、そして小悪党共に告げて、「故人がどうして汝らに借財があると云うのか、又たとえ借財があるとしても故人のことである。私どもの知るところではない。逃げも隠れもしない、しばらく待て。」と云う。小悪党共も云うだけ云ったので矛を収めた。その夜、如是は血を以って訴訟の文を書き、子悪党等が勢い込んで弱気を侮り、憂いに乗じて辱めを与えたことを切々と書いて、使いを遣って官に訴えた。その後で自身は心静かに縷帛くみいとを取ってうなじを結び、死生を一瞬に超え娑婆を瞬時に出て、身を亡き夫の霊牀の近くにてて、如是の魂は飄揚として牧斎の後を追う。鳥を学んでまさに師とすべし、共命の禽とあった偶然の一句も象徴的で、死生に亘って追随仕合ったのは、どれほどの深いえにしであったことか。
 役所は柳夫人の訴えを見て大いに銭家に同情したが、間もなく柳夫人の死を聞いて、小悪党共を捕らえて、脅迫して人を死なせた罪に処す旨の厳命を発する。これを聞いた小悪党等は皆逃げ隠れて、周囲に近づかなくなって事は自然と解決する。柳夫人の出身は卑しいが、その心は甚だ烈しい。呉の人々は此れを憐れみ此れを美として、詩を作りるいを作る。その多いこと冊を累ねるという。牧斎は伝えるに足らずとも、如是は実に伝える価値がある。
 柳如是の作る詩画、今も世はこれを愛重する。花のかんばせすでいが、堅いその思いやりの心はとこしえにのこる。人はその美に価値を見ることなく、その義に価値を認め、称えるが善い。
(大正五年九月)

注解

・翰林院編修:国家学芸院の編修職。
・明の晩期の状況:李自成の農民反乱によって明が滅亡すると,勤皇の志士が明の遺王を擁立して明を再興しようとした。最初謙益は諸大臣と共に※(「さんずい+路」、第3水準1-87-11)王を立てよとしたが、馬士英等が福王を皇帝に擁立することを知り賛同する。福王は南京で即位し南明政権を成立させ弘光帝となる。しかし、王が暗愚で、政権内部もまとまらず、清に滅ぼされる。・
・沈徳潜:中国・清の学者で文人。
・閻潜邱:中国・清の学者。
・李攀龍:中国・明の詩人、文人。古文辞派。
・王世貞:中国・明の学者で政治家。古文辞派。
・古文辞派:中国・明で起こった文学運動の一派。文学は「史記」等の古典の文章、杜甫等の盛唐の詩を模範とすることを良いとする。
・鍾惺:中国・明末の詩人。竟陵派。
・譚元春:中国・明末の詩人。竟陵派。
・竟陵派:古文辞派の模倣を否定して自己の真情を重視する。鍾惺や譚元春の出身地の名を取って竟陵派と云われた。
・魏忠賢:中国明代の宦官。政務に関心を持たない天啓帝に代わって政務を掌握し、専制権力を握る。
・東林党の一派:魏忠賢と勢力を争った一派。
・頷聯:漢詩の律詩は八句でできていて、一・二句を起聯、三・四句を頷聯、五・六句を頸聯、七・八句を結聯と云う。
[#改丁]


一枝花


 水は流れて已まず、時は移ってとどまらず、風は東西南北とめぐめぐって吹き、花は紅白紫黄とわるわるに咲く。
 中国・明の詞壇に旗印をおごそかに掲げ、当時に盛名を馳せた者は李攀龍りはんりゅう王世貞おうせていである。格調を重んじて高華を崇び、いわゆる高尚なことばを使うことを宗旨むねとして一世を風靡したが、次第に模倣もほう剽窃ひょうせつの弊害が顕著になると、突如として立ちこれを排撃して性霊せいれい(真情)を唱え、清新を尚び、真情の素直な発露が詩詞の生命であると云って、李・王に取って代わったものを袁宏道えんこうどうと云う。宏道、あだな(通称)は中郎、兄の宗道や弟の中道と共に並んで才名があり、当時三袁さんえんと称される。宗道は唐の白楽天と宋の蘇東坡を好み、その書斎を白蘇はくそと名付けたという。平易で軽俊なことを喜び窮屈なことや難し過ぎることを斥けたことは、評価できるところである。宏道ともなるとその覇気はき辣才らっさいは遥かに兄を超える。もちろん李・王を攻める急先鋒であり、三兄弟の中でも傑出している。末弟の中道も十余歳で詩を作って才能を現したといえば、これも人を超えた者と云える。三袁と呼称して周囲に取り入る者が多くなり李・王の風も次第にんで、公安の文体が独り世に行われる。三兄弟が公安地方の出身なので公安体の呼称が生まれたのである。公安体を為す者達は清新を喜ぶ余りに古詩から背き離れて、戯れふざけ、嘲り笑い、時に下世話語を交え、やがては文章詩作の道も空疎粗雑な者達のオモチャとなって識者が之を憂慮するようになると、鍾惺と譚元春が幽深孤峭ゆうしんこしょう(寂しさと深み)を唱えて竟陵体きょうりょうたいが公安体を圧倒する。竟陵体とは鍾・譚が共に竟陵の人なので、その文体をいうのである。とはいえ李・王の擬古主義を倒した功績は実に三袁にあるのである。
 我が国の漢文学は、荻生徂徠よって大いに開けた。徂徠が古文辞学を唱えるや平安朝以来の陋弊は一挙に掃蕩された。その功績は勿論大きいが、ただ徂徠が信奉するのは李・王等の古文辞派の説であって、古文を模倣した格調高い文体を宗旨むねとする。このため徂徠やその二三の高弟や実力ある者は可であるが、末流ともなるといたずらに意味不明の文章を作って得意満面、その自尊の状態は笑止千万な厭うべきものとなる。徂徠の死後五十余年して山本北山が起って、徂徠の古文辞学を猛烈に排撃して世に警告を発して人を驚かす。北山は実に袁宏道を理想とする者である。
 これ以前に、邦人で袁宏道を好んだ者がいなかった訳では無い。深草元成は親によく仕え戒律を固く守る人であったが、思うに袁宏道の文の軽薄なところを却って好んだようだ。また、「中郎集」の復刻が元禄年間に行われているが、これによっても袁宏道を好む者が北山以前にも少なくないことを知ることができる。
 しかしながら、徂徠学が隆盛な世では袁宏道を好む者があっても、柄杓ひしゃくの水で猛火を消そうとするようなものでどうすることも出来なかったが、北山が出て「詩文志殼しぶんしかく」を著わして古文辞派を排撃すると、徂徠一門も既に衰え文運もまさに末の時であったので、徂徠の古塁は忽ち破れて北山ののぼりが高く翻る。天地の運や春夏秋冬は順に代わり、人も役割を果たせば次の者に代わるのが定めである。李・王の才能が三袁や鍾・譚に劣るのではない、徂徠の説が北山に劣るのでもない、風は廻り転って吹き、花はわるわる咲くだけである。
 袁宏道は本国や我が国の文壇にこのような影響をあたえたが、また宏道の風流韻雅の好みは厚く、「瓶史へいし」一篇を著わして瓶中へいちゅうに花を挿して机上の春を楽しむ風情を記す。これ以後に張謙徳ちょうけんとくの「瓶花譜へいかふ」や李漁りぎょの「閑情偶寄かんじょうぐうき」など瓶花を書くものはあるが、宏道の書が最も先行する。そしてその持論は高尚で煩瑣でなく、匠気や俗気が全くなく、欣賞すべきものがある。思うに文雅の士で花を好まない者は無い、花を好めば之を瓶に挿すことも自然にあることである。しかしいにしえから瓶花のことを記した者は無かった。宏道になって初めて瓶花の書が成る。素晴らしいことだと思う。
 我が国の瓶花の道は護命僧都ごみょうそうず明恵上人みょうえみょうえ等を源とするので、袁宏道の「瓶史」に先だつこと遥か昔であるが、いわゆる抛入なげいれの一派は宏道の影響を受けている。大阪の釣雪野叟ちょうせつやそうが撰集した「岸の波」二巻は、抛入なげいれの花の書の先駆けと称される。その中は「瓶史」からの引用が多い。宏道と抛入なげいれの関係を知ることができる。そして北山は之に序文を載せる。因縁は後に続くというべきか、釣雪から数十年後の名古屋に舎人とねり武兵衛という人がいて、瓶花のわざで一家を成し道生軒どうじょうけん一徳いっとくと名乗って靖流せいりゅうはじめる。袁宏道の流儀に基づくと自ら云う。今でも袁宏道流と称するものもある。我が国の挿花家の中に袁氏の子孫が居る。これもまた素晴らしいことである。
「瓶史」があり、「瓶花譜」がある。中国の韻士や才女が瓶花の佳趣を理解することは勿論である。しかし詩文雑記に瓶花に関するものは甚だ稀である。中国の子女が瓶花を愛することの我が国の子女に及ばないことを思う。しかしながら、この頃たまたま或る美人が大層瓶花を能くしたことを読書で知って、袁宏道の言が机上の空論でないことを知った。
 美人は、姓は周で名は文と云い綺生と云う。嘉興かこうの人である。遊郭の妓女であるが学才があり尋常の妓女ではない。詩を理解し仏を信じる。瓶花を好んで自ら楽しむ。後に身請けされたが非遇のため心楽しまず、衣は破れるに任せ、容貌は窶れるままに、朝夕に香を焚いて仏前に死を祈り、ほどなく憂欝の中で死去したと云う。胸中の秘はただ之を詩詞に託して洩らしただけなのでハッキリと知ることはできないが、佳人薄命、短い寿命の恨みを抱いて、黄土無言、晴らすことの出来ない悲しみをうずめたのであろう。袁宏道にその死を傷む詩があって云う、

たにほとりに かつて見き 春のしゃあらえるを、
たますだれは 今において 天の一涯はてとなりぬ。
柴陌しはく 重ねてむかえんや 千宝騎せんぽうき
青楼 無しまた 七香車しちこうしゃ
美人 南の国 湘水しょうすい空しく、
處子しょし 東の隣 これ宋家。
記し得たり 西廊の 香閣のうち
瓶花 長く挿して 一枝いっし斜めなりしを。
(渓のほとりで曽て見た、春のしゃを洗う美人は、今は天の果てに在る。柴道しばみちを再び千宝騎で迎えようと思えど、遊里に七香車は無い。美人の郷の南国湘江の水は空しく、美人の東隣りはこれ宋家。西廊の香閣の中で、長く挿した瓶花の一枝が、斜めであったことを覚えている。)
 花はそもそも何の花か知らない。瓶もそもそも何の瓶か知らないが、綺生が挿した一枝の風情ある姿は、その人が現世の外に逝った後も宏道の前に浮かんだことが、末の二句で知られて余情は脈々とする。呉江の沈※(「王+旬」、第3水準1-87-93) ちんしゅんという者が、綺生に贈る二絶の一に云う、

十里の虹橋こうきょう 柳萬株ばんしゅ
白蘋はくひん 紅葉 清渠せいきょに満つ。
今より管領す 秋江しゅうこうの色、
総て属す 風流の女校書じょこうしょに。
(虹の架かった十里の道に柳が連なり、紅葉と白い水草は清い流れに満つ。今ここに得た秋江の景色は総て風流の伎女(綺生)のもの。)

と。綺生の俗気少なく風流余りあるのを見るべきである。また、海塩の姚子※(「隣のつくり」、第4水準2-83-86)が綺生の移居した時に贈る詩の句に、

瓶花 旧蝶をたずさえ、
隣樹 新鴬かわる。
(瓶花は旧蝶を伴い、隣樹は新鴬に替わる。)

の一聯がある。瓶花旧蝶を携える一句の巧みなおもむきは云うまでも無い。しかも綺生が日頃、美しい花をみやびな瓶に挿して、袁宏道のいわゆる、「明窓浄室の中で破顔微笑することを好む」さまを写し出して情趣は生動する。瓶花の道を綺生が学んだか、宏道が教えたか、時代は悠久として今は之を知るすべがない。しかし、韻士と美人と、雨日の茶や雪夜の酒に瓶花の数枝の美を欣賞し、新詩の幾字に情趣の妙味を味わう折の楽しさは、如何ばかりであったことであろう。
(大正四年十月)

注解

・李攀龍:中国・明の詩人、文人。
・王世貞:中国・明の学者・政治家。
・白楽天:白居易、楽天はあざな(通称)、中国・唐中期の漢詩人。
・蘇東坡:蘇軾、東坡居士と名乗った。中国・北宋の政治家、詩人、書家、画家。
・荻生徂徠:江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。
・山本北山:江戸後期の漢詩人。
・深草元成:日政、通称は元政上人、江戸前期の日蓮宗の僧、漢詩人。山城の深草瑞光寺(京都市)を開山した。
・張謙徳:中国・明の文人。「瓶花譜」は江戸初期に日本に伝わり、袁宏道の「瓶史」とともに当時の生花界に大きな影響を与えた。
・李漁:中国・明末清初の劇作家、小説家、
・護命僧都:護命、奈良時代末から平安時代前期にかけての法相宗の僧。
・明恵上人:鎌倉時代前期の華厳宗の僧
[#改丁]


泥人


 趙孟※(「兆+頁」、第3水準1-93-89)あざな(通称)は子昂すこうごう(名乗り)を松雪しょうせつと云う。湖州の人である。宋に仕えて真州司戸参軍となり、宋が亡んでからは、至元二十三年に元に仕えて五代の帝の優遇を得て、至治元年に死去し魏国公を追封される。書を能くし、画を能くし、音楽に通じ、詩詞に巧みで、文を作れば人を動かし、政治に携われば有能で、博学多能、聡明慧敏、まことに世にも稀な人であった。それなので、世祖クビライのためにみことのりの下書きをした時には、クビライに「朕の心が言おうとするところそのままである」と嘆賞させ、書画で天下に名が知られるとインドの僧が千里の道を遠いとしないでその墨跡を求めて来る。史官の楊載ようさいと云う者が、「孟※(「兆+頁」、第3水準1-93-89)の才能は書画の為に覆われ隠されている。その書画を知る者はその文章を知らず、その文章を知る者はその経済の学を知らない」と云えば、人は之を尤もな言であるとする。趙孟※(「兆+頁」、第3水準1-93-89)の才能の大きさが分かる。刑部に於いて至元鈔や中統鈔の紙幣の事で論争して屈しなかったように、また、奉御ほうぎょ徹里てつりを勉励して丞相の桑哥そうがを弾劾させたように、実に文筆だけの人ではなかったことが分かる。仁宗に「孟※(「兆+頁」、第3水準1-93-89)は操履純正」と評されたことを見れば、才能ばかりでなく心掛けも行いも純正で、また初めて世祖(クビライ)にまみえた時に、その優れた風采は溌剌として殆んど神仙中の人のようだったので、世祖はこれを見て喜び、右丞の葉李の上座に座を与え給われたと言えば、その風姿の立派なことが分かるだろう。才あり、学あり、識あり、徳あり、加えて家柄も貴く、風采もく、寿命も長く、官位も高く、多事多難な世に在って大した憂き目にも遇わず、死んでからは、書き残しの文章の切れ端までもが子昂の筆の跡だと貴重がられ、生きては皇帝に名で呼ばれずにあざなの子昂で呼ばれるまでにもてなされた。この人ほどの福人は稀である。
 このような人であるが、二つの朝廷に仕えたことで、後世の人は之を悦ばない。水戸の藤田東湖は若年の時に子昂の書を学んだが、成長して趙子昂の人物を知って、子昂を学んだ事を悦ばなかったという。東湖の若い頃の書は殆んど子昂に似ていて、後のものにも猶幽かに子昂のおもかげを留めるが、その勁抜な筆致は機敏な文章に適しているように見える。東湖が子昂の帖を机から遠ざけたということは、東湖の事としては疑わしい。学ぶなら学べば善いのである。捨てるなら捨てれば善いのである。書は心の画である。水戸の藤田東湖は、恐らくそのようなことはしなかったであろう。
 明末から清初めに、陽曲の人で、傅山ふざん、字は青主せいしゅ、朱衣道人と名乗る人がいた。傅山の在世の有様は殆んど子昂の在世のようである。ただ子昂は宋と元との間に在り、傅山は明と清の間に在った違いがあるだけである。傅山もまた博学多能な人で、医を能くし、画に巧みで、金石彫刻の道にもその精力を注いだと云う。もとより書を能くし、大小の篆書てんしょ隷書れいしょはもとより、そのほか精巧でないものは無い。この人は嘗て自身の書を語って云う。「若い時に晋や唐の人の楷書を学んだが、皆真似ることができなかった。子昂の香山の墨跡を得て、その円転流麗なのを愛したが、少し之を学んだところ真率しんそつなところから逸れるようになった。そこで之をじて考えるに、例えば聖人君子を学ぶ者は常に近づき難い感を覚えるが、降って匪人ひじん(良くない仲間)と遊べば、日々に物足りなさを感じるようなことで、これは心構えが悪くなって、それによって行動も悪くなるからだと気付いた。よって之を棄て去った。」と、また顔真卿を学んで云う、「書を学ぶには、拙であっても巧であってはいけない、醜であっても媚であってはいけない、支離であっても軽滑であってはいけない、按排することなく真率であれ」と、傅山は子昂の書を軽薄で飾った悪いもののように思っていて、子昂の書を学んで修得するのは易しいが、それは悪友に交わって親しみ易いのと同じで、子昂の書が習い易いのはそれが良くない証拠であると思ったことにある。傅山の言葉に道理が無いことも無いが、これは少し言い過ぎである。子昂の書を匪人に喩えるのは穏やかでない。子昂の書がどうして学び易いものか、子昂もまた晋や唐の人を学んだのである。柔媚じゅうびのところは有るが邪道だと決めつけることはできない。清の馮鈍吟ひょうどんぎんは語って云う、「趙子昂は古人を学んで学ばないところが無い。古人の書を研究して自然に一家を成す。当時に於いては誠に並ぶ者の無い人であった。近代に李禎伯りていはく奴書どしょの論を唱えてからは、後世の人は子昂の書を手本とするのを恥じ、書道を始める人は古人を模倣すると言われることを恥じて、晋や唐の旧法は今や廃れてしまった。子昂の書法は子孫が守るだけとなっているが、子昂の書をそしるのにと云うのは過言ではないか。ただ実力以上にその立論字形を流美にしようと工夫したため、古人の簫散した処や廉断な処において少し足りないだけである」と。馮鈍吟は書法に深くひろい、これは公平穏当な論であると云える。傅山が子昂を斥けるのは、子昂が二ツの王朝に仕えたことを憎んで、顔真卿の節操を通したことを喜ぶ言葉で、傅山自身革命の世に際会し、非常な苦労の中に節操を守って、甲午こうごの年には刑に遭い、殆んど死刑になる処を危うく逃れ、早く死んだ方がましだと、仰いでは天を見、伏しては地を掘って、住むこと二十年、天下が大いに定まってようやく横穴を出てからも、自ら歎いて、「強く柔軟に動く骨も字を書くことで之を朽ちさせて終った。なのでこれ等の字は、私の死後千年の後にも輝きを失うことはなかろう」と云うほどの人で、画を能くし文も能くする吾が子のに、山に入って薪取りをさせたと云うのにも、その気質の恐ろしさを思わせる老先生なので、子昂の書を評してこのような言を為したのも怪しむに足りない。旅に在っても子に夜学をさせて、夜明けには誦唱させて出来なければ杖でいましめたというが、どれほど父としで厳しかったことか。また欧陽脩おうようしゅうの「集古録」を評して、「吾は今にして此の老人が真に書を読まなかったことを知った。」と云ったのは、どれほど歯に衣を着せない人であることか、先ずその人物を知って、言葉の因って出るところを思うが善い。
 子昂を人が不満に思うのは二ツの王朝に仕えたことに因るが、これもまた同情すべき事情がある。その宋に仕えたのは父の死によってであり、宋が亡んだのは子昂が二十七才のときで、世に出て功績を立てたいと欲する思いの強い年齢であった。しかし国が亡んだ後は家に在って学に努め、敢えて自ら進んで栄達を求めることもしなかった。元が大いに宋の人材を求めたのは至元二十三年で子昂は時に三十四才であったが、程鉅夫ていきょふと云う者に薦められて世祖にまみえた。元が武力で天下を取ると、その勢いで人材を得て民情を安定させようと子昂のような者を招致するために、恩と威で挟み攻めにしたことを知るべきである。時勢を考察しないで責めるのは、理屈は正しいが論が少し過酷である。国亡びた後に次第に出世したが、決して驕慢の態度は無く、密かに哀しみ傷む情を持つ子昂の人品を思うべきである。ゆえに後人の邵復孺しょうふくじゅは評して云う、「公は宋の王孫の身で世の変に関わる。亡国の悲しみの情に忘れられないものがある。ゆえに長短の句は深く文人の支持を得る」と。邵氏の言葉は人情に近い。
 しかしながら子昂と同じ時期に、劉因、字は夢吉と云う者がいた。至元十九年に召されて承徳郎右賛善大夫を授けられたが、まもなく母が病気となったため辞任して故郷に帰った。至元二十八年に集賢学士嘉議大夫に任命されたが固辞して出なかった。子昂に劉因を比べると劉因は貞節である。傅山も康熙十八年に中書舎人を授けられたが老病を理由に参内しなかった。無理やり竹篭に担ぎ入れて参内させられると忽ち地面に倒れた。次の日直ちに帰って、「後世が無暗に劉因などの輩を以って我に勝るとされては、死んでも死にきれない。」と歎けば、聞く者は驚き恐れて舌を巻いたと云う。劉因に傅山を比べると、傅山はさらに貞節である。まして子昂は宋の太祖の十一世の孫であって、宋が亡んで敵の元に使われる。その働きが済世治民のたすけになったとはいえ、後の人の評価は低い。これもまた人情である。敏才が余り有って貞志が足りない。人は皆、子昂の為にこれを惜しむ。
 子昂のおくりなを文敏と云う。まことに文敏である。文貞とか文忠とは云えない。子昂の貞忠に欠けることを後人は悦ばないが、一生を多福に夫婦仲良く暮らした。まことに幸せな人であった。

 子昂の夫人は、かん氏、名は道昇どうしょう、詩を能くし、画を能くする。現在も呉興の白雀寺の壁にその画いた竹の図があると清人しんじんの記に見える。清初期の銭牧齋せんぼくさいの「秋槐集」に、管夫人の画竹と子昂の修竹の賦を寄せるを観てと題す詩も見え、また明の鄭長卿ていちょうきょうの管夫人画竹石に題するの詩が残っている。管夫人の画は猶多く世に残っていると思われる。
 子昂はこのような佳い伴侶を得て、当時の大官貴人のようには侍妾じしょうを置かなかったものと見える。これは子昂の人品が良かったことにあるが、また一ツには夫人が夫の心を失わなかったことに因るものと思われる。子昂が既に高官となった翰林学士の頃、夫人も年四十を過ぎて容色やや衰えてきた頃、どのような折であったか、子昂は書斎の手伝いに美人を雇いたいと小詞を作って夫人に見せた。その詞に云う、

我は学士なり、
なんじは婦人たり。
あに聞かずや、
陶学士には 桃葉・桃根あり、
蘇学士には 朝雲・暮雲ありしを。
便すなわち多く幾個の五姫ごき越女えつじょめとるとも何ぞ過分ならん。
爾の年紀としすでに四旬を過ぎたるに、
只管ひたすらに占住するや 玉堂の春。
(私は学士である、お前は妻である。聞いたことは無いか、陶学士には桃葉・桃根があり、蘇学士には朝雲・暮雲のあったことを。即ち私が側女を幾人めとろうとも何で過分であろうか。お前の年齢としすでに四十を過ぎているのに、一人占するのか妻の座を。)

 この小詞を見た時の心はどうであったか知らないが、夫人もまた同じような小詞を以って答える。その詞に云う、

爾儂なんじ我儂われ
※(「弌」の「一」に代えて「心」、第4水準2-12-30)※(「((危一厄)/(帚一冖一巾)+攵)/れんが」、第4水準2-79-86) 情多し。
情多き処 熱きこと火の如し。
一塊の泥をって、
一箇のなんじひねり、
一箇の我をつくり、
わが[#「口+自」、U+54B1、135-6]両箇りょうかて 一斉に打破し、
水を以って調和し、
再び一箇の爾を捻り
再び一箇の我を塑るに、
我が泥の中に爾あり、
の泥の中に我あり。
 爾と 生きては一箇のふすまを同じうし、
死しては一箇のひつぎを同じうせん。
(貴方と私、甚だ愛が深い。愛の深い処は火のように熱い。一塊の泥をって、一箇の貴方をひねり出し、一箇の私をつくり出して、その二箇を一緒に砕いて水で練って、再び一箇の貴方を捻り一箇の私を塑れば、私の泥の中に貴方が在り貴方の泥の中に私が在る。貴方と私、生きてはふすまを同じくし、死んではひつぎを同じくしよう。)

 子昂はこの詞を読んで、大いに笑って取りやめにしたと云う。男女が夫婦となるのは、実に二ツの泥人を壊してまた造るようなものである。我が泥中に爾あり、爾の中に我ありの句は、理もあり情もあり、なつかしみあり、おかしみあり、土偶の譬えの、執着と解脱があざない合い織り合いする詞の章には、子昂も笑うほかなったとは面白い。笑って取りやめにしたとは、流石に人品が良い。ただし、子昂の詞は現存する松雪齋詞には無い。

 管夫人は小蒸しょうじょうの人である。蘇州と嘉興の松江とが交わる所に小蒸と大蒸がある。みな積水の中に在って、草樹が繁茂する中に集団で村落を作っている。気は蒸す雲夢うんぼうたくと云う言葉からその名を得たという者もいる。子昂の出た湖洲はそこからほど近い。子昂は夫人の故郷のその地に往来し、その風光を愛して水村の図を作ったと伝えられる。また夫人の父の為に楼(二階屋)を造り、管公楼と名付けたという。それで子昂の手製の仏教抄に管公楼の朱格をした紙を用いていたものがあるという。子昂と菅氏と夫婦の情の極めて篤いことは以上のようであるが、舞袖ぶしょうという妾があったことも伝えられている。明の李竹嬾りちくらんは、夫人が没した後に子昂が自身で置いではと云う。であれば子昂は二度と正室を迎えることは無かったのである。竹嬾は風流の士で、詩文も書も画も皆一家を成す。その地を通ったことで子昂の風流を偲び、水郷の佳景を悦んで、大小蒸の図を作ったという。
 子昂の信仰が孔孟を中心に置くのは言うまでもない。そして平正で温和な性質から、儒教に依っていても老子を斥けず、その自ら「老子道徳経」を謹書したものは、端厳優麗で小楷書の典型として後人の敬重し臨模するところである。また仏教を嫌わず、経論を書写すること李氏の言葉通りである。嘗て自著して三教の弟子趙孟※(「兆+頁」、第3水準1-93-89)と云う。三教を併せ奉じる者には、元に王※(「吉/(吉+吉)」、第3水準1-15-27)があり、明に林兆恩りんちょうおんがある。子昂はこれら狂妄の一家言を誇る人のようでなく、ただその寛厚温敦な人柄から老仏の道にも佳い処があるのを観て、自然とこれを尊信するようになったものと見える。これもまた、子昂が断乎と独り立って、厳然と自らを侍するような人では無かったことを語るものである。
 管夫人の印に、趙管と刻印したものがある。中国の習慣では女子は嫁いでも夫の姓を名乗ることが無い。であれば韻文は管氏道昇と有る筈であるが、趙管とあるのは趙氏の管氏である意味で、夫人の心のさまも見えておもしろい。ただしこれもまた先例のようなものがある。王義之の書道の師でもあった衛夫人は、李矩りくと云う人の妻であったが、夫の姓と合わせて李衛と称したことがある。管夫人は学あり識あり才あり情あり、そのため趙管または魏国夫人趙管などと云う印を用いた。泥像の中に夫があるだけでなく、印文の中にも夫を擁して離さず、趙管か、管趙か、子昂夫妻、生きては双身の魂を交え合い、死しては一蓮の座を共にする。まことにめでたしめでたしである。
(大正四年七月)

注解

・クビライ:モンゴル帝国の第五代皇帝、中国を征服し中国・元の初代皇帝となる。
・中統鈔の紙幣:元で発行された紙幣正式には「中統元宝交鈔」と云う。
・奉御の徹里を勉励して丞相の桑哥を弾劾させた:大臣の桑哥が絶大な権勢をふるうようになると、その権勢に危機感を覚えた徹里は激しい口調で桑哥を弾効した。弾効したことで一時クビライの怒りを買ったが、やがてクビライの理解を得てサンガの失脚につながる。
・藤田東湖:江戸時代末期の水戸藩士で学者(水戸学藤田派)。
・傅山:中国・明末清初の文人、画家。
・顔真卿:中国・唐の政治家、書家。
・馮鈍吟:中国・清初の文学者。
・欧陽脩:中国・北宋の政治家、文人。唐宋八大家の一人。
・劉因:中国・元の学者。
・銭牧齋:銭謙益、中国・明末清初の文人。
・李竹嬾:中国・明の文人。
・王※(「吉/(吉+吉)」、第3水準1-15-27):中国・元の道士。道教の一派全真教の開祖。
・林兆恩:中国・明の学者。儒,道,仏の三教融合を唱えた。
[#改丁]


玉主


 燕山の美人に劉鳳台りゅうほうだいと云う者がいた。桃のこび、柳のたおやぎ、麗しい人も多い中に、新月の眉は細く匂やかに、初花の唇もくれないにつつましく、年若く容色優れ、自然とひときわ勝れて見えて、名のある女もその辺を避ける有り様であった。しかも歌声は鴬をあざむき、いとの調べは天雲をとどめ、机上に筆を執っても、小室で針仕事を為しても万事に巧みであるが、一身の貞操は大層固く、千金を投げうって鳳台を得たいと思う者も数知れず有ったが、何事も無く何時ものように過ごしていた。
 ある日、福清ふくせい林丙卿りんへいきょうと云う者に会ってからは、風は猶も外へ誘うが蝶の心は既に定まる。丙卿は富家に育ち才賢く、風流で華奢、美人連にも名を知られ顔も知られていたが、眼識が高いので、美しい金盆に凡花を貯えるようなことを願わずに、密かに似合いの伴侶を期待していたが、今までは心に適う人も無く過ごして来て、一たび鳳台と会うや遂に願いが叶って喜び、夫婦の契りを交わし、ついに之を納れる。鳳台の美貌と丙卿の才能、二人は相喜び、琴のおもいしつじょう、二人は能く調和する。二人の間はどんなに楽しかったことか。九枝きゅうしの銀燭は喜びに輝き、七輌しちりょうの香車は希望を載せる。輿入れのその夜から、オシドリの翼、羽を交わして、ハスの花、帯を並べ、寝ても起きてもこれ笑い。酒にも茶にもすべて皆春、情の空は麗らかに晴れて、愛の日はとこしえに暖かであったが、仙界の園ではないので、霜に遇わない草は無く、人間の運も思い通りにならない時がある。丙卿は或る事で呉越地方の旅に出る。
 丙卿が出掛けてから、珠翠しゅすい暗くして光無しということばを、古い詩の言葉と聞いてきたが、今や現実の事と感じ、鳳台は夫が出てからは鏡にむかうのもものうく、黒い※(「髟/眄のつくり」、第4水準2-93-21)びんは乱れ、くれないねやを独り守れば夜の灯は細く、やるせないこころは鬱屈して、尽きない憂いを訴える手段も無い。空の彼方を見れば天の川はいたずらに光り、人の行方を思えば暗い道は遥かに遠く、ただ涙に暮れて日を送る。このようなうちに、玉のかんばせも悲しみに艶を失い、柳の腰も憂いで痩せ細る。秋には堪えない蝶の羽、銀粉は風に削られ、斜陽は寒く、哀れにも鳳台は思いにしおれ窶れて、ついに美人の霊魂は黄泉よみに落ちた。
 丙卿はこのような事を知るはずも無く、山河遥か遠く離れた旅路のはてに在って、或る夜、夢に怯えて、明ければ朝に悲しい訃報を得て、愕然としておもてを覆って泣き、取るものも取りあえず馳せ帰る。比目ひもくの魚は孤影こえいを余して、双棲そうせいの燕は半巣はんそうを空しくする淋しさ。琴瑟きんしついとは断えてぎ難く、うたは断えて止み、生の別れも哀しいが、死の別れのなお苦しく、遣る瀬無く悲しんでいたが、綿々と尽きないこころを表そうとばかりに、ぎょくかたしろを造る。中国の習慣で亡き人を祭るには主を用いる。主は即ち神の依るところである。栗の木や桑の木等で之をつくり、宗廟や家廟に安置して、これに物を供えて心から之を祭る。我が国の習俗の位牌は即ち主である。丙卿は多くの黄金を玉に替え、すり磨いて形良く造る。玉の光は潤い輝いても胸の闇は黒く沈んで、名を刻もうと思うが、未だ彫刻刀を手にする前に、断腸の思いは募る。辛くも造り終えて、また長短句の一詩を加えて彫り添える。

郎に随う 南北に また西東に、
芳草 天涯 めぐ※(「兆+頁」、第3水準1-93-89)あまねくするに堪えたり。
(貴方に随い南に北に、また西に東に、君子の貴方は故郷を遠く離れた土地を経巡へめぐるに堪えたり。)

の句がある。丙卿はこの玉主ぎょくしゅを身から離さず、錦の袋の中にこれを包んで、持仏のように何処へ行くにも携えて、山にも水にも捨てることなく、朝夕常に掻きいだいていた。世に惚れ込む人は多いがこれ程の例は聞いたことが無いとあざける者もあり、また却って憐れむ人もあり、語り草となる。反魂香のけむりに心を傷めた漢の君、遺愛の玉の簪に涙を垂れた唐の帝、恋しい思いには英主も愚かになる。傷み悲しむ思いはつのって詩人は狂いそうになり、物を観て感じては酒の前にも涙となる、おもかげを夢に見て、目覚めては夢の後になお惑う。永年住む家に居て、昔のことを想う苦しさに堪えかねて、知らないさとに遊んで、新しい境地で吟じるが善いと、丙卿は蒼梧地方を目指して万里の旅に出る。
 コオロギが霜に啼く田舎家の夜は、灯火は青く玉主は白く、ラバが月にいなな山路やまじの夜明けは悲風が襟に落ちて心も凍る。旅路がどうして楽しかろう。駅々の数を重ねての名高い長江のほとりに着く。汪々とした水は万古を流れて、茫々とした眺望に対岸は低い。舟を勧める者の云うままに、神ならぬ身の知る由も無く、船底に身を落ち着けるが、雨の日には風が加わり、愁いある人にはわざわいが襲う。口惜しいのは浮世の常、丙卿を載せた船の主こそは、険しい波の中に魚を取り、うず成す流れの上で非道をする江賊こうぞくであった。
 読書人がどうして江賊にかなおう。哀れにも丙卿は財物を悉く奪われ、身命いのちもまたうしなわれて、天の星も黙す江上の暗い夜半よわに、啼いて帰らぬホトトギス、声はただ闇に消え去り、寄る辺のない孤泡はなれあわは、形はかなく流れて行った。天知る地知るの諺はあるが、親無く子の無い人のこと、幽魂に力無く、怨みを含んでおわって、朽こつきゅうこつもの言わず怒りを呑んで滅するかに見えた。
 ここに蒼梧の地方官がいた。官舎に在って睡眠中に夢ともうつつとも無く美しい人が現れ来て、眉をひそめ瞳は恨みを帯びて、長袖に羞じを忍び、素衣そいおそれを隠して、物言おうとするような、訴えようとするような様子であったが、忽然と消えてしまった。覚めてはなお陰風いんぷうが身をめぐるようであった。粟肌が立ち、胸中うそ寒く、環珮かんぱい(美人の腰の玉飾り)の響きが耳に遺り、嗚咽の姿が目に浮かぶような心地がして、これはただ事では無い。起き出して見ると夜は静かに明けようとしている。コレ思うに幽魂が怨みを訴えているのではないかと、この地の悪人どもを多く捕らえて、厳しく取り調べたところ、陳亜三ちんあさんと云う者が玉主を持っていた。地方官はこれを見て愕然と驚き、これは我が旧友の林丙卿の物、亡き妻を慕うあまりに美しく造らせて肌身離さず携えていたことは、かねてから知っていること、この者がこれを持っている理由はと、厳しく問い責めれば、ついに自白し陳は処罰され、粤西えつせい地方の奇談として世の物語となる。死生は奥深い、美人の幽魂が現れ出て夫の冤魄えんこんを救ったとは、にわかには云い難いが、ただ人の情の極まるところは、人の理の尽すところではあるまいか、不思議なこともあるものである。
(大正五年一月)

注解

・風は猶も外へ誘うが蝶の心は既に定まる:云い寄る人は猶もいるが、思う人は既に定まる。
・九枝の銀燭:七夕の祭の時、供物を置く台の周囲などに置かれた九本の燭台。:
・黄泉:死後の世界、あの世。
・比目の魚:比目魚は目が一つしかないので、二匹並ぶことで初めて泳ぐことができる。比目魚は二匹並んで泳ぐというところから、夫婦の仲のむつまじいたとえ
・双棲の燕:夫婦の燕。
・反魂香の烟りにこころを傷めた漢の君:武帝の故事。
・遺愛の玉の簪に涙を垂れた唐の帝:玄宗皇帝の故事。
[#改丁]


碧梧紅葉


 唐の詩人の顧況こきょうは冗談が好きな性格なので、王公貴人であっても之を揶揄からかったと云う。軽薄なところがあるがまた一種の逸材である。この人がある時、詞友と共に御所の近くを遊び歩き、流れのほとりに坐って休んでいると、大きな梧桐あおぎりの葉が流れて来た。フと見ると葉の上に文字があるようなので引き寄せて見ると、何人なにびとの遊びか女性の手でうるわしく詩が書いてある。

一たび深宮のうちに入りてより、
年も年も春を見ずてよ。
いささか 一トひらこのはしるして、
寄せまいらす こころ有る人に。
(一たび奥深い宮中に入ってからは、何年も何年も春の訪れを見て居ない。いささか一片の葉の上に文字を記して、こころ有る人に、思いを伝える。)
 水は宮城きゅうじょうを通って出て来たものなので、宮中深く仕える美人が、春の愁いに堪えかねての仕業と思われる。もともと詩人の優しいこころが有り、かつ洒落気の多い者が、これを見てどうしてこのままに出来よう。顧況は次の日その流れの水上みなかみに行って、詩を桐の葉の上に書いて流れの中に放った。流れはゆるく風はほのかに吹いて、春の日はのどかに、碧い石のゆれ動く流れの中を蝶を載せて流れ去る。詩に云う、

花落ちて 深宮 鴬もまた悲しむ、
上陽の宮女 断腸の時。
帝城 とどめず 東流の水、
葉上に詩を題して 誰に寄せんとねがえる。
(春の花も散って、深宮の鴬もまた悲しむ、上陽の宮女も断腸の時。帝城も東流の水を止めない、葉上に詩をしるして、誰に伝えようと願うのか。)

 その後、十日あまりして、或る人が春を尋ねて遊んだが、また葉上に詩を記して顧況に示した。その詩に、

一葉 詩を題して 禁城をだししに、
誰人だれびと酬和しゅうわして 独りおもいを含む。
自ずからなげく 及ばず 波のうちこのはの、
蕩漾なみのうねうね 春に乗じて 取次しゅじに行くに。
(一葉に詩をしるして宮城から出したが、誰人どなたであるか此れに応えて独りおもいを伝える。みずからから嘆くには及ばない、波上のこのははうねうねと春の中を次第に流れてゆく。)

とあった。取次は次第と云うようなことで、唱元うたいもとの美人と酬吟の奇士が遇えば面白かったのであろうが、物語はそれ無くして、余韻を残して止んだ。これは唐の人が記したところで、顧況は粛宗と代宗の頃の人だが、同じようなことは何時の世にも有るもので、この事があった後に同じ唐の僖宗の頃に紅葉結縁こうようけちえんの話がある。
 僖宗の時代に于祐うゆうと云う者が在った。ある日の夕方宮城の辺りを散策していたが、折から秋風は悲しく吹き下ろして、万物は揺れ落ち、遠路の旅人は悲しみの募ること多く、御堀の流れで手を洗い、フと流れに目を遣ると流れ下る浮葉があった。その中でも特に大きな葉は、色も美しく紅色で艶があり上に文字があるように見えたので、取ってこれを見ると果して筆の跡であった。何であろうかと読みすすめると四句の詩で、

流水 何ぞはなはだ急なるや、
深宮 尽日ひねもすしずかなり。
慇懃に 紅葉に謝す、
好し去って 人間にいたれ。
(流水の何と速いこと、宮中は日々閑寂に過ぎる。心を込めて紅葉に願う、よろしく流れて心ある人に到れ。)

とあった。于祐がこれを持ち帰り書筒の中に納めて、明け暮れ誦唱して、面白くも哀れな詩であると味わっていたが、作者はどこの誰かも分からないが、愛誦するあまり恋心がめばえて、紅葉の詩の作者が恋しいと、魂は憧れ、身はもぬけのようになって、心から惚れる。朋友が之を知ってあざ笑って云う。「詩の作者は特定の誰に宛てた訳では無い、葉を得たのもただ偶然のこと、万一実際の恋であっても深宮禁苑のことであればどうして交際が叶おう。愚かしいにも程がある。止めたまえ、」と諫めるが、迷いの道は二度と醒めず、却って人の言葉を斥けて、「天は高しといえども、ひくきに聴くと言い伝わる。王や仙人が並び無い者に成れたのも誠のこころざしを天が感じられたからで、人に志があれば天もまた憐れみ給わろう」と、遂に思いを変えること無く、自身の二句を紅葉に記して、

かつて聞く 葉上 くれないに題するの怨みを、
葉上 詩を題して 阿誰だれに寄するぞや。
(かつて、葉上に思いを紅く記したことを聞いたが、葉上に詩を記して、誰に伝えようと云うのか。)

と書いて御堀の中に流して、宮人の手に届くようにと願えば、いよいよ愚かだと笑う者もあり、また憐れだと云って、

君恩 とどめず 東流の水、
流れて宮墻きゅうしょうを出でしは これ此の溝。
(天子の恩は東流の水を止めることなく宮城から流れ出たが、それが此の御堀。)

という詩を贈った者もいた。
 中国の制度では、試験によって官庁に登用されるので、于祐は幾度となく受験したが不幸にも落第の数を重ねて、出世の道は叶わず、財布の中も既に空しく、已むなく河中かちゅうの貴人である韓泳かんえいの門番となって給金を得て自活する。出世の道を諦めた訳では無いが、だんだんと月日は過ぎて行く。ある時韓泳が于祐を呼んで、「私と同姓の人で韓夫人と云う人がいる。朝廷の宮人として仕えているが、今休暇を取って私の屋敷に居る。私は君が心掛けも良く学問もありながら運に恵まれず、独り苦労しているのを日頃から気の毒に思っているが、韓夫人は、財産はあり、年も僅か三十で容色甚だ麗しい。君の妻に私が仲介したいがどうであろう。」と云えば、葉上題詩はじょうだいしの人を想っていたのはもう昔のこと、于祐は感謝してその言葉に従った。そして媒酌を通じ、結納を進め礼儀を欠くことなく、目出度く式を挙げた。華燭かしょくの夕べ、よそおい厚く、容姿いよいよ麗しく、于祐の喜びはただコレ夢のようで、吾のような貧しい儒学生がどうしてこのように成り得たかと、吾ながら疑うほどであった。
 既に二人の暮らしも永く経過した或る日、韓夫人は于祐の書筒の中に紅葉に詩を書いたものを見出して、大いに驚いて、「これは私が作ったものです。貴方どうしてこれを持っているのですか。」と問う。于祐がありのままに答えると、韓夫人も、「私もまた水上みなかみで紅葉を得たことがあります。」と云って手箱を取り出すのを見れば、かつて自分が書いた詩ではないか。夫婦は顔を見合せて暫し驚嘆する。これは偶然では無い宿縁であろうと、今更に敬愛の思いが増した。貴方見て下さいと手箱から取り出すのを見れば、

独り歩む 天溝の岸、
流れに臨みて 葉を得る時。
このこころ 誰かさとり得ん、
はらわたゆ 一聯の詩に。
(御堀の岸辺を独り歩き、流れの中に葉を拾う。このこころを誰が知ろう。一聯の詩にはらわたは断える。)

とある。韓夫人また詩を作って韓泳に告げて云う、

一聯の佳句 流水に題し、
十歳の幽思 素懐に満つ。
今日こんにち 却って鸞鳳らんぽうの友と成りて、
まさに知る 紅葉のこれ良媒りょうばいなりしを。
(紅葉に記した一聯の佳句を流水に託した、十年の幽かな思いに胸は満つ。今日こんにち初めて夫婦と成って正に知る。紅葉の良媒であったことを。)

 世の人はこれを聞いて驚嘆しない者は無く、韓夫人が宮人だったことから天子もこれを知り、宰相の張濬ちょうえいが長詩を作るなどしたので話題は長く続いて、現在でも姻縁前定説の材料になっている。祝長生しゅくちょうせい作の「紅葉記」や王伯良おうはくりょう作の「題紅記」と云う戯曲は共にこの物語を増飾して作ったものである。
 唐の范※(「土へん+盧」、第3水準1-15-68)の「雲渓友議」に載っている宣宗の時代の盧舎人ろしゃじんの話や、宋の孫光憲そんこうけんの「北夢瑣言」に載っている進士李茵りいんのこと等は皆この話と同じである。今記しているのは「流紅記」に依る。一話が輾転としたものか、或いは各話は皆真実なのか、時代は悠久と経過し確認できないことを憾むだけである。
「玉渓編事」に記されている侯継図こうけいづの事も甚だ似ている。継図もまた儒学生である。書を読んで詩を吟じる。秋風が辺りに吹く時に、大慈寺の楼閣に籠っていたが、木の葉が飄然と落ちて来た。その上に詩があって、

みどりを拭いて 双蛾そうのまゆおさ
うつたる心の中の事の為なり。
ふでりて 庭除にわのおもに下り、
書き成す 相思の字。
この字 石にしるさず、
この字 紙に書す。
しるして向かう 秋のこのはの上に、
願わくは秋風の起こるをいて、
天下の負心ふしんの人をして、
ことごとく解せしめん 相思の死を。
(鬱屈した心中の為、翠の髪を梳いて眉を描く。筆を執り庭に下りて書を成し、相思の字を紙に書す。しるして秋のこのはむかう、願わくは秋風の起こるのに乗って、恋し合う者の死を、世間の心無い人に悉く解らせたい。)

 継図はこれを得ては手箱の中に納めて凡そ五六年。任氏と結婚して、詩は任氏が嘗てしるしたものであることを知ったと云う。
 この事も自然とおもむきがあり、よって之に基づいた戯曲は少なくない、有名な「双玉記」第二十七しゃく以後もまた紅葉伝情の故事を用いる。
 流紅の話は、およそ以上のようなことである。
 宋の史家の羅長源らちょうげんは笑って云う。「欄柯らんか流紅るいこう燕女えんじょ等の話はそれぞれ別なものではない。大抵の文士や説士は模倣し合って大衆を悦ばせる。それに満足して工夫することが無ければ、前人を倣って古本を模写し甘んじて人後に随い、そして自らはその誤を気にしない。」と。まことにその通り、古い伝説はただ珍重し味わえばいのである、責めるには当らない。
(大正五年七月)

注解

・鸞鳳の友:夫婦
・孫光憲:中国・宋初の学者で文学者
[#改丁]


狂涛艶魂


 中国の明の末、清の初めは、天下は大いに乱れて戦乱が広がり、人々は生きた心地もしない時代であった。英雄豪傑は蜂起し、或いは明のため或いは清のために戦う。明は李自成りじせいに転覆され李自成は清に亡ぼされる。明がまさに絶えようとする時に、身を挺して正義を称え、一身で明の挽回を図った者を鄭成功ていせいこうと云う。こころざしは成らなかったが鄭は実に明末の豪傑と云えよう。学余りあって力足りず、国亡びて節義を全うした者に黄宗義こうそうぎがある。悲運であったが宗義もまた明末の英雄である。自らを未だ死なない孤忠の人とし、他人ひとからは大空の往く孤影の鶴のように見られた顧炎武こえんぶは、抜群の資質に惨憺の心苦を積み、空論を言わず事実に基づいて論じ、閻若※(「王+據のつくり」、第3水準1-88-32)と共に精緻で核心ある学風を起こす、顧は清初の偉人と言える。閻若※(「王+據のつくり」、第3水準1-88-32)もまた清初の英傑である。頭が悪く、吃音きつおんで、身体が弱く病気がちな劣悪な資質を持って生まれて来た人であるが、発憤努力して苦心惨憺の末についに或る日、心が朗らかに晴れると同時に、覚りの速い異常能力を獲得し一代の大儒学者となる。考証の学問は顧と閻から大いに開発発展する。その他、魏禧ぎき※(「王+宛」、第3水準1-88-10)おうわん朱彝尊しゅいそん侯方域こうほういき等による文章、梅文鼎ばいぶんいによる歴算、孫奇逢そんきほうによる理学、※(「くさかんむり/銓のつくり」、第3水準1-90-81)ちんせんによる翰墨かんぼくのように、英才が革命に際して出ること枚挙にいちまがない。周亮工もまた実に当時の明星の一ツで、その輝きは現在でもなお残る。
 周亮工、あざな元亮げんりょう、先祖代々金陵の人である。くぬぎの樹の下に永く住んでいたので櫟園れきえんと名乗った。若くから文才が有り、崇禎の庚辰こうしんの年に進士となり、※(「さんずい+維」、第3水準1-87-26)地方の知事を授けられたが、後に城を守って功績を上げ御史に抜擢される。やがて都が賊の為に陥落したため、やむを得ず故郷に帰って居た。清の順治二年に清軍が南京を陥落させ、明の福王が清に降伏したため、亮工は明の復興は望めないとして、人心の安寧を図るため清に仕えて政務に務めた。
 亮工は身を挺して専心人民の安寧を図った。このため人民はその恵みを受けて次第に従うようになった。清が初めて※(「門<虫」、第3水準1-93-49)はちびん(現在の福建省)を治めた頃は、人民はなお明を慕って清に服さなかった。そのため軍は特に治安の悪い泉州の十四砦の人民を軍隊で殲滅せんめつしようしたが、亮工はこれの援護に尽力して、ついにその難を逃れさせたという。しかもその人柄は強く正しく厳しく、大悪人も恐れて避けるばかりであったので、まことに人民に取っては良い行政官であった。それなので、人の為に讒訴ざんそ弾劾だんがいされて罪をきせられようとした時などは、逮捕されることも懼れない亮工を支持する数百人が、都へ送られる亮工を見送り大声で、「周公は忠直である、どこに罪がある」と云い、悲憤慷慨して大声をあげて泣き叫び数千里の道を見送ったという。亮工が讒訴をこうむって弾劾されたことが二度あり、これらは皆人民の為に有害な者を除こうとして怨みを買ったものである。亮工にとってはやむを得ないことであった。享年六十二才。
 王丹麓おうたんろくの著わす「今世説きんせせつ」の巻一に記す。「亮工は角ばった顎のしもぶくれした顔で、眼光鋭く性格は厳格、役所では敢て役人達を甘やかさず、好んで将来性ある者を見出す。常にノートを座上に置き、客が人材某々と云えば此れに記入する。国の中に読書家や能文家として名のある者があればこれに会い、これはと思えば適材を適所に採用する。知る限りの者を残さず採用して愉快とする。善いものに気付けばこれを取り上げ、ただ気付かないことをおそれる」と。※(「門<虫」、第3水準1-93-49)に居た時に、死んで葬式の出せない貧乏詩人の趙十五ちょうじゅうご陳淑度ちんしゅくどと云う者のために官費を出して之を葬り、墓を建て酒を注いだ等は、実に才士を愛し憐れんだことが想われる。
 また、その巻二に記す。「亮工が八※(「門<虫」、第3水準1-93-49)を視察した時に反乱に遭う。居城の周囲に火が放たれ、かねや鼓の声は地を揺るがす。しかし亮工は少しも驚かず、能く指揮を執って敵を倒し、詩を吟じて神人のようであった」と云う。
 巻四に、讒訴を受けて甚だ危なかった時のことを記す。「亮工が雪の夜にへやの中に座って居ると、突如投獄の兵が来て周囲を取り囲む。その時、黄山こうざん呉冠五ごかんごと共に詩を作り朗詠して、数十刻しても止まず」と。また「嘗て獄舎に座していると、獄卒が騒ぎ立て、鎖の音や呼び喚く声が湧くようであった。その騒ぎの中で亮工は紙と筆を乞い三十三の絶句を作った」と云う。亮工の度量は称賛に価するではないか。しかも亮工が讒訴されて最早死のうとする時に、父の赤之せきしは客に対して、「私の熟慮するところ、吾が子を死罪にするに足る理由はありません。吾が子は私同様な者なので、道理に反した事をして死ぬようなことはありません。やがて罪はそそがれるでしょう。」と云って、泰然自若としていたという父の見識も称賛に価するでは無いか。

 亮工の人となりはこのようであった。許有介きょゆうかいは之を評し称えて、「周氏は秋月をおもてに湛え、春風は人を扇ぐ」と。申鳧盟しんふめいは亮工を慕って云う、「未だ亮工に会っていないこと、未だ大海を見ていないこと、この二ツが私の欠けるところである」と。福建省の黄虞稷こうぐしょくなどに至っては、品評甚だ詳しく、詳細にこれを称賛して云う、「周亮工は仕事に精しく能く通じ、暴徒を取り鎮めるさまは、実に張乖崖ちょうかいがいのようである。そのしばしば雑多な人の中から優秀な人材を見出すことは虞升卿ろしょうきょうのようで、その文章に勝れ後輩の手本となることは欧陽永叔おうようえいしゅくのようで、その博学多聞で広く深く探求するところは張茂先ちょうもせんのようで、その風流に勝れ訪問客の多いことは孔北海こうほっかいのようで、その心の異書を好み酒を愛することは陶淵明のようで、その友情に篤く信用できるところは朱文季のようで、その子供のような友との友愛に満ちた隔ての無い交際は、荀景倩と李孟元との仲のようで、その朝廷に仕えて短期で罷免されたことは范希文のようで、しかも讒訴され挫折を被ったのは蘇長公のようである」と。亮工の人品好く、能あり、徳あり、才あり、学あり、風流ありの人柄を知ることができる。銭謙益は明と清の二朝の大官で文学者であったが、亮工について、「亮工の人となりは、親に孝、君に忠、毅然とした巨人であり長徳の人である」と云い。かつ友情に篤く、人々の仰慕とするところであったことを揚げている。亮工はまことに懐かしい人である。
 亮工は善く政務を執り、また武事にも配慮し、しかも繊細で多趣味であった。詩文に巧みで「頼古堂集」十二巻があり、絵画を楽しんで「読画録」四巻があり、篆刻てんこくの文や玉石の印などを欣賞して「印人伝」三巻があり、多くの文芸雑事を記して、時に戯曲の韻話に言及し、後人の研究資料となる「因樹屋書影」四巻がある。その他撰述するもの数十種に及ぶ。

 亮工はこのような人であった。情が厚く心が深い。当然のこと情けのそらに恨みの雲が幾重にも重なるような哀しみや、想いの海に愁いの波が果てしなく拡がるような歎きなども、有ったことであろう。亮工の詩を読むと果して一ツの事があって、有情の人まさにこのような事もあるかと思わせる。
 その事とは亮工の愛妾の王氏との事である。王氏は宛丘えんきゅうの人で、父が老書生なので、父の教えを受けて文字を知り詩をつくる。十六才の時に亮工の愛妾となってから、慧敏な頭は次第に発達し日々に成長する。詩を能くし、仏を理解し、尋常一様な女性たちを数歩抜く。亮工が青陽城を守っていた時はこれに従って戦陣に在り、また亮工がこうからしんを通り、そうかいから燕京に入って北海に行く時などは、烽煙が心を驚かし雨雪が顔に注ぐ中を、馬上にて数千里を追随した。時に亮工が北海城で包囲された時は、亮工は困苦しながらもなお豪気に臨機応変に軍事を治め、日々門を開いて応戦しながら、夜は城楼の灯火の中で詩を作り思いをはせる。コレ則ち男子当然の行為おこないであるが、王氏は亮工が詩を作る度にこれに協力して、戦陣の苦労を風雅の思いで緩めたという。これはまことに女子の身では殆んど有り得ないことで、剣光は陽に輝いて人の眼をおびやかし、馬塵は月夜に揚がって夢を汚す戦陣の中に在って、紙をのべて詩を作る文人と、笑いを含んで詩を和す美姫の悲しくも傷ましい境遇は、描くに足り語るに足る状景である。
 これ程の二人であれば、その語らい、そのむつみはどれほどお互いにとって楽しかったことであろう。しかし美しい雲は散り易く、明るい星は隠れがちである。王氏は亮工のもとにあること七年、年僅か二十二才で病んで維楊いようの官舎で死ぬ。そのまさに死に臨んでの言葉は能く王氏の人となりを現わす。王氏は亮工の手を執って云う、「私は情の為に累らわされて来ましたので、二度とこの世に生まれて来たいとは思いません。幸いなことに比丘尼として死ぬことができます。君の城上の詩を出来れば一通書き写し、それに私が和したものを併せて、之を左に置いて、茗椀と古墨と平素びている刀を右に置いて、その上に観音大士の像を置き、左手に念珠を持ち、右手には君の名と学陶の字があるの小さな玉印を賜ってこれを握って逝きたいと思います。幸いに仏力によって解脱して、二度と情の世界に輪廻することも無いでしょう」と。情が深ければ心は常に苦しみ、愛がさかんであればどうして愁いの尽きることがあろう。王氏が二度とこの世に生まれ無いことを願うのは、亮工を思う切なる心を語るものであり、亮工のその時の悲苦を推察することができる。
 愛妾が死んで後三年、亮工はこれを忘れられず、しばしば夢で逢い、覚めては詩を作り、之を泣き悲しんでは胸塞がり、句を作ることが出来なかったという。無情の世に有情の人、契りは短く思いは多い。亮工が忘れることの出来なかったのも頷ける。已丑の年と云えば清の順治六年のことである。この時には天下の殆んどが清のものとなっていたが、明がまさに亡びようとする時に際して、一縷いちる命脈めいみゃくである永明王を戴いて、鄭成功ていせいこうの忠義はたった一人で大廈たいか(明朝)の倒れるのを支える。大勢は決するといえども、鉄石は屈しない、画策に努め、慷慨して止まず、時に苦闘して勝ちを得れば、則ち灯火が風を得て炎を揚げるようであった。順治二年に南京は清に落とされ、三年に福建も陥れられたけれど、四年には鄭成功は功績によって国姓を賜って国姓爺と名乗り、五年には潼州を破って勢いを盛り返す。順治六年(明の永暦三年)、鄭成功は衆を率いて攻め込む。亮工は既に清の官であり、兵を率いてこれを守る。軍馬や機器を備え、城壁や塹壕を固めて防御おさおさ怠りなく準備していたが、鄭成功は海賊の鄭芝竜ていしりゅうの子で水軍が得意なので、守る者も水上の防備を疎かに出来ないので、亮工は軍を海上に配置して、自身も先陣の中で活躍する。
 その夏の事である。亮工は或る日戦艦に在ったが、雲驚き風は暴れて、波涛は轟き海鳥は悲しみ鳴いて、空は墨のように、周囲は暗く霞んで、ただ水煙が辺り一面に立ち籠める恐ろしい魔の一日となる。空は暴れ海は乱れ、明と清の軍は喊声かんせいを発し矢叫やたけびを挙げて、日の光は暗く、両軍は怒りを飛ばし恨みを奔らせ、波の勢いは激しさを増す。今の世のさま、此の日のさま、攻める者は王のために努める、彼が何で悪かろう。守る者は民の為にする、我に非は無い。ただ運はえ時はそむいて、世は穏やかでなく、風は急に水は動いて、海が荒れるのも仕方ない。短い人生であるのに、天晴海静てんせいかいせいの和楽の日は少なく、風妬波瞋ふうとはしんの惨苦の境地の何と多いことかと、現世の不満から亡き人を恋い慕い、頻りに王氏が憶い出され想い出されて已まない、雲は黒く空は暗く、潮曇りの暗い海上の船倉の中で、風はうめき、浪は呻き、物の軋り呻く声を聞いて、心も暗く囚われる時、王氏の霊はついに影を現した。亮工自ら記して云う、「ついに霊が来て手を握って涙を流す、生きているようであった」と、王氏の霊が果して来たのか、亮工の思いが凝り固まって現れたものか、人はただ亮工の言葉を信じれば善い。亮工ここに嘆いて詩がある。七律八章、明白に現在にのこる。その一に云う、

波涛は※(「革+堂」、第3水準1-93-80)とうとうとして 客心降る、
遠き夢は煩わすこと無し 夜の※(「金+工」、第3水準1-93-2)ともしびを待つを。
芳草 路は迷いて けむ漠々ばくばくたり、
雲車 風|めぐりて 水|淙々そうそうたり。
木はふくまれぬ 精衛せいえい 寧ろひろきを知らんや、
たまは滴りて 鮫人こうじん ならばんと欲す。
躑躅てきしょくとしてう ろうが戦苦の処、
烏龍うりゅうこうは透る 白龍の江。
(大波はドウドウと荒れ狂い心細さが募る。夜を待たず昼間の海にお前は現れる。霊は烟雲が広く遙かに続く中に迷い出て、雲は動き波は音立てて躍る。精衛もこの海の広さは分かるまい。涙は滴って鮫人の落とすような真珠となる。佇んで見守る私の苦戦の処。この海は烏龍江や白龍江につづいている。)

 王氏の霊が来たのは昼なので第二句がある。芳草雲車の一聯いちれんは、彼と此れと、幽と明とをかけて写し得ておもしろく、精衛鮫人の故事を使って浮つかず、烏龍江白龍江の一句は土地が隔たり、境も異なるが、遠路を極く近いように云って妙趣がある。その四に云う、

香粉のはかの中に 佩刀を葬りぬ、
月明に 起って舞いなば 鬼も能く豪ならん。
新銘 たのみ記す 前金粟ぜんきんぞく
小伝 歓びたずさう 旧学陶。
百雉ひゃくち 城は高くして 白浪驚き、
鴛鴦 夢は冷ややかにして 江皐こうこうを憶う。
依稀いきとして 更に見る帷中のおもて
玉歩 声は揺らぐ 大海涛だいかいとう
(化粧の匂いのする墓の中に、日頃携行する愛刀も納めた。月明に起って舞えば化け物も驚こう。新銘に前金粟と記すことを望み、学陶の印を喜び携えてった。共に籠った城は高く聳え、白浪に浪は荒れ、相愛の時は遠く寂しく過ぎて、昔日の川辺を想う。海靄の中で顔も幽かにお前は歩み寄り、大波の中に声が揺らぐ。)

 佩刀を葬るの句は実際の出来事、月明の句は架空の出来事、王氏自ら金栗如来の弟子と称したので第三句がある。学陶の印を携えて逝ったので第四句がある。白浪は亮工と王氏が共に籠った城の西に在る河の名。末二句は今の情景を描写したもの。その六に云う、

海天 漠々として 旅魂招く、
聚散しゅうさんす 来潮と 退潮と。
憶うし 房中 緑綺りょくいを調えるを、
猶聞く 城上 金※きんしょう[#「金+焦」、U+940E、160-8]を撃つを。
相・懐 馬は痩せて 烽烟すぐに、
斉・魯 車は軽くして 氷雪そそぐ。
往時 同伴に従って問い難し、
白楊 樹下 雨瀟々しょうしょう
(海も天も広々と果てしなく、さまよう魂を招く。波は押し寄せ波は還す。寝屋の中で衣を調えようともせず、猶も聞く城上で鐘を撃つのを。同伴の馬は痩せて、烽烟は真直ぐ上る。斉や魯では空の車に氷雪が降り注いだ。往時の同伴についてはもはや訊けない。白楊の樹下、雨は瀟々と降っている。)

 憶う莫しの句から斉魯の句までは、王氏と共にした艱難のさまを叙し、末の句に至って憮然ぶぜんと長歎して悲しみの情は傷ましい。その八に云う、

衆香國裡しゅうこうこくりの水仙王、
薜茘へきれいの裳は垂る 碧玉の※(「王+當」、第4水準2-81-5)とう
草色そうしょく 孤墳こふん 白下はくかに新しく、
簫声しょうせい 明月 維陽たり。
依違いいとして夢は 江渚こうしょを離れず、
辛苦して魂は能く 海航を認む。
なんじに贈らん 冰糸ひょうし千萬尺、
一糸いっしも更に 鴛鴦をなかれ。
(衆香國の水仙王は、薜茘へきれい(かずら)の裳に碧玉の飾りが垂れる。白下の地の草の色も孤墳も新しく、維陽の地に簫の声は明月の下に昔ながらに響く。おぼろな夢は水辺を離れず、辛苦の魂は海にさ迷う。お前に千萬尺の氷の糸を贈るが、一糸たりとも鴛鴦を縫ってはいけない。)

 白下維陽は皆実際の地名である。末二句は虚にるといえども、慧刀けいとうで情を切り、仏力で悟りを成さんと云った王氏の誓願に因んで表現したことばである。八章の詩皆佳し、今は煩労を嫌ってその他の詩は略す。亮工はどんなに深く王氏を愛していたことか、王氏もまたどんなに亮工を思っていたことか、誓って二度と情の世界に生れないと云ったこともおもしろく、想って忽ち海上に来たのもおもしろい。
(大正四年十一月)

注解

・李自成:中国・明末の農民反乱の指導者。明に対して反乱を起こし明を滅ぼす。
・鄭成功:中国・明代の軍人で政治家。清に滅ぼされようとする明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となる。隆武帝から明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれ、台湾や中国では民族的英雄となっている。
・黄宗義:中国・明末清初の儒学者。明の滅亡に際して反清運動に参加するが後に故郷に隠棲して学術に没頭、陽明学右派の立場から実証的な思想を説き、考証学の祖と称された
・顧炎武:中国・明末清初の儒学者。明の滅亡に際して反清運動に参加した。経学や史学の傍ら、経世致用の実学を説いた。清朝考証学の祖の一人。
・閻若※(「王+據のつくり」、第3水準1-88-32):中国・清初期の考証学者。
・数十刻:一刻は中国では15分、よって数時間
・茗椀:茶碗
・古墨:古い時代に作られた墨。品質の良い墨とされている。
・精衛:古代中国の夏を司った炎帝の娘が東海で溺れて化した鳥。常に西山の木や石を咥え来て東海を埋めようとしたが果たせなかったという。
・鮫人:南海の水中に住み、いつもはたを織っていて、その涙は落ちると真珠になるという。
・衆香國:維摩経の中に在る香積如来菩薩の住む国。
[#改丁]


金鵲鏡


「往時は渺茫びょうぼうとしてすべて夢に似たり、旧友は零落しなか黄泉よみに帰す。これを水と言はんとすれば、即ち漢女がふんを添える鏡清瑩せいけいたり。花と言はんとすれば蜀人がぶんを洗う錦なり。我とても娑婆の故郷に立帰らば、錦の袴、君が為。昔を語り申すべし。夢驚かし給うなよ。(往時は遠く遥かに霞んですべては夢のようである、旧友は零落し多くは冥土の人となる。これを花の映る水にたとえれば、漢の美女が化粧する鏡のように清く輝き、水に映る花にたとえれば、蜀の人が花柄を洗う錦のよう。私とて現世に立ち帰れば、故郷に錦を飾り、お前の為に昔のことを語り申そう。決して驚き給うなよ。)」

 これは謡曲「松山鏡」にある孝女の母の霊が現われる場面でのことばである。サテその次は、

唐土もろこしに陳氏とて、賢女の聞えありけるが、世の習い、思わずも夫遠行の仔細しさいあり、これや限りと思いけん、形見の鏡をれてなお光ぞ残る三日月の、宵に待ち、明けては恨み、文も絶え、主も来ず、憂き年月を古里の、軒端の荻の秋更けて、風の便りに伝え聞けば、夫は楚の国の主となり、あらぬ妹背いもせの川波の、立帰るべきようもなし。さては逢うことも叶わずに、かたみの鏡我ひとり、涙ながらに影見れば、半月は山の端にうち傾いて、泣くような、んかたもない折節に、何処いづこよりとも知らざりし、かささぎ一羽飛び来たり、陳氏の肩に羽を休め、飛びめぐり飛びさがり、舞うよと見えしが不思議やな、有りし鏡の破片われとなり、もとの如くになりにけり。満月の山を出で、碧天を照らす如くなる。これや賢女の名を磨く鏡なるべし。(唐土に陳氏と云う賢女で名高い女性がいたが、世の常で、思いがけず夫が遠方へ行くことになって、これを限りにモウ逢えないと思って二ツに割った形見の鏡、割って猶も光って残る三日月のような破れ鏡、宵は待ち明けては恨み、便りも途絶え、主も来ず、辛い年月を古里の軒端の荻の秋更けて、風の便りに伝え聞けば、夫は楚の国の主となり、離れ離れの間柄、立帰るような様子もない。サテは逢うことも叶わずに、形見の鏡に我ひとり、涙ながらに影見れば、半月は山の端にうち傾いて、泣くような、どうしようもないその時に、何処どこからとも分からない、かささぎ一羽飛んで来て、陳氏の肩に羽を休め、飛びめぐり飛びさがり、舞うように見えていたが、不思議にももとの鏡の破片われとなり、二ツの破片はもとのように合わさって、満月が山の端を出て碧天を照らすようになる。これぞ賢女の名を磨く鏡であろう。)」とある。
 破鏡の話のもとは二ツある。一ツは「神異経」で、もう一ツは「本事詩」である。
「神異経」は東方朔とうほうさくが著わしたと云うが、実際は東方朔の名を借りた晋以降の偽作であう。しかし隋以前の書であることに疑いはない。その中に記す、「昔、夫婦があり、別れる時に鏡を割って各自一ツを持ってたよりとした。その妻が人と情を通じると、鏡はかささぎに変って夫のもとに飛んで行き、夫はこの事を知る。後人はこれによって鏡をる時は鵲を作って鏡の背面に置く」と。
 実際に支那(中国)の習俗に於いては鏡の背面に鵲を鋳ることは常習のことと見えて、李白の詩の句にも、「影中の金鵲きんしゃく飛びて滅せず、台下の青鸞せいらん思いて絶えなんと欲するなり、又、明々たり金鵲の鏡、了々たり玉台の前」などとあり、※(「山+喬」、第3水準1-47-89)りきょうの詩の句でも、「清輝鵲※(「覧」の「見」に代えて「金」、第4水準2-91-20)しゃくかん飛ぶ」などと云っている。
 しかし、鏡背きょうはいに鵲を鋳ることは、「神異経」に記す伝説が先にあった後に起ったことでなく、鵲を鋳ることが前々からあって、後に伝説が生まれたのかも知れない。また「詩経」の召南の鵲巣しゃくそうの詩に、「鵲巣しゃくそうあり、維れ鳩これに居る、この子ここにとつぐ、百両これをむかう、」と云うのを序章とする三章の詩であるが、その詩の意味は夫人の徳を美しいとするのである。これによって女性の用具である鏡に鵲を置くと云ってもおかしくはない。
 また鵲は七月の初め頃、首の羽が脱けて禿になるが、それは七夕になると天の川に橋を造って織女を渡すのでそうなるのだと云う伝説がある。「雲※くもいのおんなぐるま[#「車+餠のつくり」、U+8F27、164-1]鵲橋を渡る」などと云う権徳与けんとくよの七夕の詩や、「彦星の行合ゆきあいを待つ鵲の渡せる橋を吾に貸さなん」と云う菅原道真の歌の句なども、皆この伝説にもとづいている。星の夫婦の契りが永遠であるのもこの鳥の力によるものなので、これによって女性の用具の鏡に鵲を置いたとも、云えば云えるだろう。
 それはともかく、「神異経」の中の鏡の話は、「松山鏡」の中の鏡の話と鏡の片方が鳥になるということが似ているが、その他の事は同じではない。
「本事詩」は唐の孟※(「(戸の旧字+攵)/木」、第3水準1-85-75)が著わしたもので、その情感の篇に記す。陳国の太子舎人の徐徳言じょとくげんの妻は後主叔宝しゅくほうの妹で、楽昌公主に封じられた。才色勝れ、並ぶ者が無いほどであった。しかしこの時すでに陳国の運も末となって、世は騒がしく国も亡びようとする時なので、無事では居れないことを知って、徳言は妻にむかって「大層恐ろしい世になった。こうなっては、私はかえって貴方のわざわいの種子となろう、貴方の才能と容姿なら国が亡んでも必ず権門貴人の家に入ることもできよう、私はどうなっても構わないので此処で永い別れをしよう、もし猶も天運が幸いしてなさけの縁が断えなければ、また逢いたいと思う、また逢うまでの形見に」と、一面の鏡を打ち破り各々その片方を取り、約束して云う、「いつか必ずこれを正月の満月の日にみやこの市で売り給え、私がもし生きてこの世に居れば、都に上って市で破鏡を売る者を探し訪ねるから」と云う。間もなくして乱が起り、人は右に左にと逃げ惑い、陳国はあえなく亡んでしまう。
 徳言の妻は生き永らえて、はたしてその美しさのお陰で越国公の楊素ようその家に移し入れられる。楊素は文武を兼ね備えた当時の英雄で、陳国を亡ぼしたのも殆んど楊素の功績によるものであった。そのため隋帝はこれに酬いて越国公に封じ、かつまた陳主の妹と妓女十四人を賜った事が、「隋書」巻四十八の楊素の伝に出ている。若い時から豪放で大志を抱き、博学で文章も巧み、しかも智力鋭く、能力高く、戦えば勝ち、攻めれば取り、ある時に妻の鄭氏を叱って「我がもし天子になれば、さぞかし其方そなたは皇后となるに堪えられないことであろう」と云ったと伝わる。楊素の館に閉じ籠められた公主はどうすることも出来なくて、暁の風の音、夕べの雲の色、見るもの聞くもの、味気なく暮らしていた。また徳言の方では国が亡んで国主が捕らえられるという大変事に、辛くも命を保ち、散々な辛苦の果てにようやく都にやって来た。かねて誓いの正月の満月の日になって、妻がもし生きていれば鏡の半分を売るだろうと、旅の疲れも何のその、その日の市にヨタヨタと出かけて行った。疑いの心は弱く、憂いの眼は暗く、市のありさまをうかがえば、西にも東にも多くの人が群がって、売る者買う者が声々に騒ぎ合う中に、笑いどよめく一団の人垣がある。何かと思って見ると、御屋敷の下男と見える男が、破れた鏡の半分を高く差し上げて、「欲しい人は無いか、値は百両」と叫ぶと、馬鹿だ気ちがいだと人々が笑い罵っているのである。徳言は胸躍らせ慌てて近づいて、もしやそれではと見ると、間違いなくその鏡であった。直ちにその人を連れて我が宿に着き酒食でもてなし、鏡を売る事情を訊きただせば、男はただ主人の命令でやっているのだと云う。主人は誰かと落ち着いて問い尋ねて、ついに詳しく旧妻の現状を知ることが出来た。楽しかった寝屋ねや睦言むつごと、さみしい今のあばら屋のひとり身、変れば変わる有り様に、彼を思い此れを思って感慨止み難く、吾がふところをかき探り取り出した片割れと、男が持ってる片割れを合わせると、ピッタリ一致した。けれども因縁は元に戻り難いと、ガックリとして詩を作って云う、

鏡と人と ともに去りしが、
鏡は帰りて 人は帰らず。
無しまた 嫦娥じょうがの影、
空しくとどむ 明月のてり
(鏡も人も共に別れ別れになったが、鏡は帰り人は未だ帰らない。名月は空しく輝いている。)

 ことば尽きておもい尽きずとは、このようなことを云うのか、徳言が此の詩を男を介してその主人に渡せば、徳言の妻はこれを見て、涙を流し顔も挙げられず、思い迫って食事もとれなくなった。楊素は聡明で覚りの早い人なので、これを見て何か事情でもあるかと下女を使ってその事情を知ると、悲しみに心を傷め、威儀を正して、徳言を召いてその妻を還した。そして多くの贈り物を取らせ思いのままにさせた。徳言夫妻の喜びはいかばかりであったことか。夫妻が恩を感謝して帰ろうとする時に、楊素は徳言の妻に詩を作らせる。その詩に云う、

今日は 何の遷次せんじぞ、
新官 旧官に対す。
笑うも啼くも ともに敢えてせず、
まさおぼえぬ 人とるの難きを。
(今日は何の遷り変りの時か、現主と旧主が対面する。笑うことも無く泣くことも、共に出来ない。正に人としての難しさを経験する。)

 破鏡は再び一ツの鏡となり、夫婦は江南の地で一生を終ったと云う。
「松山鏡」の中の陳氏の物語は、その鏡が鵲となるところは「神異経」の記述と同じであるが、しかし内容は「神異経」の話と違っている。陳氏の名は「本事詩」にあるが、「本事詩」の話には鏡片が鵲になると云う話は無い。「神異経」の話と「本事詩」の話が一ツになって陳氏の名を用いたもの、これが「松山鏡」の話である。「松山鏡」の作者は何故このような事をしたのか。なお考える余地がある。
 陳氏と徐の分鏡のことは勿論面白い話で、戯曲や小説の好題材である。そのため元の沈和甫ちんわほと云う者はこれを書いて、「分鏡記」を作る。和甫、名は和、杭州の人、詞文を能くし、音律に通じる。元曲における南調と北調の合体はこの人から始まると云う。「瀟湘八景」や「歓喜冤家」等の元曲は、巧妙を極めていると称えられる。元の第一流の元曲家関漢卿かんかんきょうに間違えられることからか、蠻子ばんし関漢卿と呼ばれたとか云われる。「分鏡記」は元曲選中に収められている。
 楊素の事が戯曲に入っているものに、別に陳氏と徐の事に似ているものがある。名高い「紅払記」がこれである。「紅払記」は、唐の李靖がまだ出世する前の時に、楊素の侍女紅払と相愛の仲となりこれを盗み去ったことを記す。その時楊素は李靖を追わなかった。これは陳氏を咎めずに徐徳言に与えたようなことで、これも珍しい。楊素は寛大な長者とはいえないが、「三略」に云うところの英雄の心を持つ者であると「史」は称える。楊素に従って戦った者は、僅かな功であっても必ず記録される。そのため残忍であっても部下は楊素に従うことを願う。楊素の人となりはこのようであった。楊素が何で婦女を惜しんで将士を失うことがあろう。コレが「分鏡記」や「紅払記」等の出る理由である。そしてまた実に楊素は宮室を壮麗にし、侍妾を艶美にすることを好んだので、その才気と男気溢れた雄偉な人柄は劇中の人として格好の人と云える。陳氏と徐の事は唐代の頃に語り伝え聞き伝えられて、誰もが知る情話となったものとみえる。李商隠の詩に、「越公の房妓に代って徐公主をあざける」がある。

笑うも啼くも ともに敢えてせず、
欲するにちかし これ声を呑むことを。
にわかに遣る わかれの琴の怨みは、
すべて由る 半ばの鏡の明らかなるに。
まさに防ぐべし 啼くと笑うとを、
すこしく露わさん 浅きと深きとの情を。
(笑うことも泣くことも敢えてしないで、にわかに奏でる琴の別れの調べ、全ては二ツの鏡が一ツになったことに由る。正に笑うことも泣くことも無く、微かに露わす浅深の情。)

 陳氏の詩の句をとって、新は浅く旧は深いと云う詩人の戯れは大層可笑しいと云うべきか、また「貴公主に代る」の作があり、徐徳言のもとに還えったと云えども、楊素の恩を憶わないことは無かったと詠んでいる。作者の李商隠は故事を借りて思うところを詠んだのか知らないが、陳氏と徐徳言の事は永く人口に膾炙して、我が国にも流伝し、おとぎ話にさえなっている松山鏡にも引用されることになったのであろう。
(大正六年一月)

注解

・東方朔:中国・漢の文人。
・李白:中国・盛唐の詩人。
・李※(「山+喬」、第3水準1-47-89):中国・初唐の詩人
・権徳与:中国・中唐の政治家,詩人。
・菅原道真:平安時代前期の政治家、文人。
・太子舎人:太子の付き人。
・三略:中国における代表的な七大兵法書の一ツ。
・李商隠:中国・晩唐の政治家、詩人。
[#改丁]


桃花扇


 孔云亭こううんていの「桃花扇伝奇」は、洪稗畦こうはいけいの「長生殿伝奇」と並ぶしん初期の戯曲の代表作である。「桃花扇伝奇」は、みん末期の事を記述して作中人物に皆実在の人物を配置し、世の人々に親しみを抱かせて当時の評判となり、それ以降もいろいろと取りざたされて今に至っている。
 しかしながら伝奇はもちろん正史ではなく実記でもない。物事に託して情を描き、情に由って物事を生じ、物事をつづり合わせ文を飾る。即ち架空の事を用いて興味ある事を生じようとする。それなので、「桃花扇伝奇」は多く実在の人を用いて実際の事を題材にするが、しかしその内容は必ずしも悉くが本当の真実だけではなく、自然と作者独自の解釈が在るのである。左寧南さねいなんが使い走りの身分から侯恂こうじゅんによって抜擢されるところや、阮大※[#「金+成」、U+92EE、170-7]が金を出して伎女を身請けし侯方域こうほういきと結婚させようとしたようなことは必ずしも事実では無い。作者がたまたま侯方域の作る「李姫伝」や「父に代わって左良玉に与える書」等の文をそのまま記して、実際の事としたものである。侯方域の文章が、自画自賛甚だしく、事実に相違することを考慮していない。ただ勿論これは孔云亭の罪と責めるものではない、「桃花扇伝奇」を読む人が、「桃花扇伝奇」は実在の人を用いて実際の事を題材とするとはいえ、その内容は必ずしも悉くが、本当の真実だけでないことを知れば、それで宜しいのである。
「桃花扇伝奇」の女主人公の李香君りこうこうくんは実在の人である。しかしながら、「桃花扇伝奇」中の脇役である卞玉京べんぎょくけいや※[#「寇」の「攴」に代えて「女」、U+5BBC、171-2]白門や鄭妥娘ていたじょう等に比べて、容色や技芸が群を抜き才知が飛び抜けて勝れていたということもない。「桃花扇伝奇」の主人公である侯方域の「李姫伝」によってそのことを知るだけである。もし「桃花扇伝奇」が無ければ、人は或いは玉京や白門や妥娘を主人公にして香君を同輩として述べたかも知れない。香君の人となりを推測するが善い。
 李香君の同僚として「桃花扇伝奇」に出る三人の美人、卞玉京や※[#「寇」の「攴」に代えて「女」、U+5BBC、171-6]白門や鄭妥娘は明末の金陵の名妓である。玉京は秦淮しんわいの人、書を知り、琴を能くし、小楷しょうかい(小文字の楷書)を巧みにし、洋画を能くし、虎丘こきゅう山塘さんとうの地に住む。竹のすだれは昼光を遮り、たんの机は塵も無く、両目は深く澄んで、日々を書や詩文に親しむ。詩人の呉梅村ごばいそんと夫婦の契りを結んだというのは事実では無いが、鏡中の見る花のような実際には無かったえにしを、梅村は詩によって玉京の面影を伝える。梅村に琴河感旧きんかかんきゅうの四律があるが、その序の詩の句に云う、

もと恨人こんじんなり、
心を往事に傷ませる。
江頭の燕子、旧塁べて非にして、
山上の※(「くさかんむり/靡」の「非」に代えて「緋-糸」、第4水準2-87-21)びぶ、故人いずくにか在る。
久しく鉛華の夢を絶つ、
いわんや搖落のときに当るをや。
相遇いて則ちただ楊柳を見るは、
我もまた何ぞ堪えむ。
わかれをなしてすでまさに桜桃を見るべきも、
君また未だ嫁せず。
琶を聞かんとするも、而も響かず、
団扇だんせんを隔てて以て猶憐れむ。
能く杜秋としゅうの悲しみ、
江州のなみだ無からんや。
(私は元来が感傷家なので、当時の事に心を傷めている。長江の上に燕が飛ぶ防禦の砦も全て役立たずに終わった。山上の香りよい女葛おんなかずらや昔の女性ひとは、どこへ往って仕舞ったのか、艶事は絶えて無い。まして今は落葉の時。たまたま互いに遇っても、ただ枯れ柳を見るだけでは、私がどうして堪えられよう。別れて以来何年も桜桃の花を見たが、君は未だ嫁いでいない。琵琶を聞きたいと思ってもその響きは無く、団扇で顔を掩って、なお憐れむ様子。誰か能く(杜牧の詩に歌われた)杜秋娘の悲しみや、白楽天の(琵琶行の詩の)涙の無い者がいるだろうか。)

と、これは思うに玉京と梅村は、互に思い合っていたが、その事の叶うことなく戦乱に遇って、離れ離れになること五六年の後に、玉京が白下はくかから来たと聞いて、尚書の某公が梅村に会わせようとしたが、玉京は乗って来た車を再び引き返して去り、病気にかこつけて出て来なかったので、梅村がこのように歎いたのである。玉京はその後、数ヶ月して黄衣を着けた道士の装いで、下女の柔々じゅうじゅうに琴を携え随わせて梅村を訪れ、琴を弾いてさめざめと泣いて、中山府の故第こだいの女は入内の選に当った者でさえ未だ宮中に入れずに居て、戦乱の為に不幸に陥っていることを語り、「私達の没落は当然で、誰を怨むこともありません」と云った。梅村の詩集に、「女道士卞玉京の弾琴を聴く」という長篇はこの時の作である。玉京はそれから二年を過ぎて一諸侯に嫁いだが気が合わず、柔々を後添えに薦めて自分は暇を取り、髪を下ろして全くの女道士の境涯になった。その後、呉中の良医である保御氏を頼って、戒律を厳守すること十余年にして亡くなる。錦樹林と云う原野を墓所として娑婆苦を脱し、五感満足の楽をけたと云う。玉京の厭離穢土おんりえど欣求仏地ごんぐぶっちこころはどれ程のものがあったであろう。三年の努力によって舌血ぜっけつで法華経を写し、自ら文を作ってこれを序に記す。この事は保御の冥福のために行ったことではあるが、道心の厚いことを知ることが出来る。梅村集に錦樹林玉京道人の墓をぎるという詩があり、

恵山々下 茱萸しゅゆの節、
泉響 ※(「王+爭」、第4水準2-80-78)※(「王+宗」、第3水準1-88-11)そうそうとして 流れて尽きず。
ただ 鉛華を洗いて 愁いを洗わず、
形影 空潭くうたん 離別を照らす。
(恵山の下は茱萸ぐみの季節、その中に泉は錚々と響き流れて尽きない。化粧を落とし道人とは成ったが、いまだ愁いは残る。人気ひとけのない淵は離別の悲しみを映している。)

という冒頭の四句から、

紫台一たび去って 魂何いづくにか在る、
青鳥孤飛こひして まことに還えらず。
となえるなかれ 当時の渡江の曲を、
桃根桃葉 誰に向ってか攀じむ。
(旧居を去って、貴方の魂は何処に行ったのか、貴方はひとり飛んで行き元の所へはえらない。歌うなかれ当時の別れの曲を、貴方は誰に向って行ったのか。)

という終わりの四句まで、ことばはまことに麗しく、こころはまことに哀しい。桃葉は王献之おうけんしの愛人で、桃根はその妹である。献之がかつて渡し場において歌って桃葉を送ったことから、後の人はその地を名付けて桃葉渡と云う。その地は風流のさとに属し、また玉京の旧居に近いのでそう云ったのであろう。玉京の入道(道門に入る)を送る詩は梅村だけでなく周肇しゅうちょうにも七律詩がある。玉京の人となりはこのようである。自然と文人詞客から愛重されたのであろう。
 ※[#「寇」の「攴」に代えて「女」、U+5BBC、173-12]白門もまた美を以て当時鳴らした名妓である。朱保国公が白門をれる時は、甲士五千人を共に添え、赤い紗灯しゃとうを光り輝かせて白昼のようであったと云う。朱の愚かさには呆れるが、白門の愛重されたことが想像できる。さぞかし当時の男子は朱の仕業しわざさかんであるとし、女子は白門は栄光を大きいとしたことであろう。清の軍が南下して天下がついに平定されると明の諸官は没落し、朱家も大いに衰えて、家の歌姫を売ることになって、白門もまた出されることになる。その時白門は朱に云う、「私を人に譲られても、得るところは数百金にすぎません。しかし私を放して南京へ帰して頂ければ、一ト月の間に万金を得て御恩に報います」と云えば、朱も仕方なくその意向に任せたが、白門は元の地に帰って程なく万金を得て朱に贈ったと云う。姿色才芸人に勝れ、当時の花形であったことが想われる。梅村が白門に贈った詩の句に、「一舸いっか西施せいしはかりごとおのずから深し、」と云うのは、まさにこの事を指して云うのである。
 玉京と白門の二人は「桃花扇伝奇」においては脇役に過ぎない。可もなく不可も無い。鄭妥娘などを作者はこれをノロマだと云い、醜愚極まりない女だとしている。何んでこのようにしたのか作者のおもいが分らない。妥娘、名は如英、才思は風流、詩を能くし、手から片時も書を離さず、朝夕に香を焚いて誦唱すると云えば、その人となりが分ろう。玉京や白門に風雅のおもいが無いとは云えないが、詩文集を成してはいない。妥娘は詩文の才能が最も豊かである。如皐じょこう冒伯※ぼうはくりん[#「鹿/吝」」、U+9E90、174-12]はかつて妥娘と馬湘蘭や趙令燕や秦朱玉の作を集めて、「秦淮四美人選稿」を選集する。妥娘をもう(ウスノロ)とするとは孔云亭も実にもう(愚か)である。妓女子は論ずるに足りないと云えども、これを侮蔑し欺くとはどういうこころか。詩人は敦厚を尊ぶべきで、孔云亭の心構えもまた浅いと云える。私は作者が妥娘を酷評することに疑問を感じている。
(大正五年七月)

注解

・洪稗畦:洪昇、中国、稗畦と名乗る。中国・清の戯曲作家。
・伎女:中国における遊女もしくは芸妓。
・双眸:両目
・尚書:文書をつかさどる大臣
・厭離穢土欣求仏地:穢れた国土を厭い離れて浄土仏地に往くことを欣び求める。
・王献之:中国・東晋の書家。
・赤い紗灯:赤い薄絹を張った灯籠。
・一舸西施、計おのずから深し:一人の美人(白門)の計画は考えが深い。
[#改丁]


幽夢


 中国・宋の詩人では、蘇東坡や黄山谷以外では、陸放翁が勝れている。その詩は雄大なところや厳粛なところは少ないが、真情の流露して出来る自然なその詩は入りやすく学び易いように思われて、後の低俗な者の拠りどころとなった為に、放翁も同じように軽視されているが、これは濡れ衣というものである。真似する者の醜態によって放翁の美が損なわれることは無い。
 放翁、名はゆうあだな(通称)は務観むかん、越州山陰の人、「※(「土へん+婢のつくり」、第3水準1-15-49)雅」や「礼象」や「春秋後伝」等二百四十二巻の書を著わした儒学者陸佃りくでんの孫である。陸佃が貧困の中で勉学に努め、灯りの油も買えずに月光の力を借りて書物を読んだことは、後の人の深く感じ入るところである。陸佃は王荊公を師としていた。しかし荊公が新政を布こうとすると、「今の法が悪い訳ではありません。ただ、施行が法の当初の趣旨に外れる為に、人心を乱しているのです。」と云う、その見識を窺い知ることが出来る。哲宗が位についたために荊公一派は駆逐され、荊公は死去する。その時陸佃は諸生を率いてこく(大声で泣き悲しむ儀式)して之を弔う。その情誼に厚いことは尊敬すべきものがある。陸佃の子はさいあざな元鈞げんきんもまた学問の人で、父の遺志を継いで「春秋後伝補遺」を著わしたという。放翁はこの宰の子である。母はどのような人であったか知らないが、しかし詩を理解し文を好んだことは疑いない。なぜかと云うと放翁はその母が秦少游しんしょうゆうを夢に見て生まれたので、秦少游のあざなを名とし、その名をあざなとしたことによっても推測することが出来る。秦は観、字は少游、放翁は游、字は務観である。少游はおよそ放翁の祖父の陸佃の頃の人で、才知勝れた正義の人で、好んで兵書を読む。しかもその才能と性質は玲瓏れいろうとして甚だ詞章に巧みで、王荊公に、「その詩は清新で、鮑照や謝霊運に似る」と評され、蘇東坡には、「その賦は俊逸で、屈原や宋玉に近い」と云われ、死んでは東坡に、「哀しいかな、世にこのような人がまたと現れるであろうか」と嘆かせた。才能の勝れることこのようで、詩の麗しいこと並び無く、当時の一美姫に見る前の恋にあこがれさせ、会った後は思い死させたとの話さえ伝わる。であれば放翁の母が淮海わいかい先生(少游)を夢に見たというのも、「淮海集」が日常から母の寝室に在ったことを思われる。生まれ変わりと信じることはできないが、性格や才能はよく似ている。少游も詩を善くし、放翁も詩を善くし、少游も軍事を喜び、放翁も軍事を喜ぶ、慷慨の気、風流の情、思えば両者は似ている。まことに奇異の因縁である。
 放翁はこのような家に、このような母から生まれる。そのため十二才で既に詩文の才は人の認めるところとなる。その初期においては秦檜しんかいに憎まれて官職に着くこと遅く、晩期には韓侘冑かんたくちゅうの巻き添えになって批判されて故郷に帰る。宋の衰退期にあって、或る時は王炎のために進取の策をべて、ひそかに天下国家の経営におもいを馳せ、また或る時はきんとの和睦に際して健康や臨安の地勢を論じ、また或る時は高宗帝の為に家臣の珍品買いを弾劾するなど、忠義の心の浅くない人である。ただし生まれついての詩人なので一日として吟じない日は無いことで、その風雅の心の醇厚なことが分かる。文字の礼法にこだわらなので頽廃放恣たいはいほうし(不健全で気まま)であると批判されて、自ら放翁と称したことなどにも、その心の大きなことが分かる。范成大が蜀の長官になると参議官としてこれに随い、蜀の風土を楽しんで留まること数年、終に一生において作ったところの詩稿に剣南の名を用いる。いかにも詩の世界の人であると言える。
 放翁が若く、まだ放翁と名乗らなかった務観の時の事、母方の血筋を引く唐氏をめとって妻とする。夫婦の語らい濃やかに、仲睦まじく暮らしたが、嫁姑の間は難しく、折り合い悪く、親を尊び孝行を重んじる当時の風習によって、ち難い恩愛の絆をかどのある冷たい義理のやいばり放のし、ついには唐氏を離縁する。夫を失った妻の日月はもとより黒かろうが、妻を無くした男の酒茶しゅちゃもまた味が無かろう。
 唐氏は人の勧めを断り難くまた他家へ嫁いで行ったが、務観は猶も侘しい日を重ねる中に、花はなさけあるように憂愁の家にも咲き、蝶は心無いようだが無聊ぶりょうの人にも訪れる。やもめ男に春が来た。鳥の歌、風の光、人皆そぞろ浮き立つ季節にあって、垂れ籠めているよりは、昔の夢を水に流して、新しい楽しみを季節に得ようと、あちらこちら歩いた末に沈氏の花園に入った。園は禹跡寺うせきじと云う寺の南に在って、花樹が深く蔭を作って、あずまやが趣味好く配置されて、まことに人の心を伸び伸びとさせる。務観も流石さすがに楽しく思いノンビリ逍遥していると、フト緑や桃の紅の彼方に人影が見えて、その姿かたちは朧気ながらまさしく吾が前の妻である。忘れもしない人を思いがけず見ては男でも胸の波が騒ぐものを、まして女はおもてに火さえ燃えようではないか、唐氏はハタと驚いて、足下も覚束なく木蔭に姿を消した。心懐かしい昔の事、面映ゆい今の思い、問いもし問われもし、語りもし語られもしたいは互いの胸に余るほどだが、えにしの断えた仲、ちぎりの破れたあいだであれば、魂は惑い乱れ、はらわたは結ばれて、しかも女は新しい夫に伴われているのであれば、言葉を出すことも目を向けることも出来ない。ただ僅かに、夫に事情を語って酒肴を務観に贈り届けようとの、心の奥の情を見せて、悄然しょうぜんと沈園を去って行った。花香かこうは酒に入り柳色りゅうしょくたくに迫り、女の情けに春を愛でる杯を挙げながらも、独り吾を相手の恨みは自然と長く、務観はしばし恨み悲しんでいたが、思い余って釵頭鳳きとうほううたを作って園の白壁に書き付ける。

紅酥こうその手、
黄藤こうとうの酒、
満城の春の色、
宮墻きゅうしょうの柳、
東風とうふう 悪しく、
歓情かんじょう 薄し。
一懐の愁緒うれいうれい
幾年の離索わかれわかれ
さく、錯、錯。
(美しく艶やかな手、黄藤の酒、街は春の気配に満ち、柳の緑は家々の垣根に沿う、春風は往時を偲ばせて憎らしく、恋心は果敢ない。憂いの心を懐いて何年別れ別れで居ることか、アア、間違いだ、間違いだ。)

春はむかしの如く、
人は空しく痩せたり。
涙の痕 くれないうるんで 鮫※(「糸+悄のつくり」、第3水準1-90-6)透る。
桃の花は落ち、
池閣ちかく しずかなり。
山盟さんめいは在りと雖も、
錦書きんしょことづけ難し。
ばく、莫、莫。
(春は昔と変わらず、人は空しく痩せて、頬紅を濡らした涙の痕が、添えられた薄絹のハンカチに沁みている、桃の花は散り落ちて池畔の高殿は静かに建っている。(結婚時の)ちかいの思いは今でも在るが、この思いを託すことは難しい、アア、空しい、空しい。)

「月やあらぬ、春はむかしの、春ならぬ」と詠んだ人の歌にも似た、大層あわれなこころうちを思いやるだけでも堪え難い。やるせなく思い乱れた味気なく淋しい錯莫としたありさま、これを何んと云えよう。この人のこのことばはその時のその心を表わして、尽していると云えよう。であれば、のち陽羨ようせん萬紅友ばんこうもこれを評して、「この詞の精粋な麗しさは、俗手の能くするところではない」と云う。紅友また評す、「この詞は、前に手と酒と柳の字を用いて、後に旧と痩と透の三ツの去声の字を用いる。何んとその作法に厳しく細心なことか」と。即席の作ではあるが、才人の真情から出た心のにおいは素晴らしく、声の響きも自然とすずしい感じがする。唐氏はこの詞を得てどれほどの涙を流したか知らないが、まもなく満ち足りない思いを抱いて亡くなったと云う。
 沈園での出会いは、どれほど深く詩人の心に沁み入ったことであろう、沈園の主はその後替わったけれども、務観の恨みは長くのこって尽きなかった。後にまた禹跡寺に登って眺望した詩を作り、云う、

落日に城の南 鼓角こかく哀しみ、
沈園も またもとの池台にあらず。
心を傷ましむ 橋の下の春の波の緑、
かつて驚鴻きょうこうの影を照らせるを見来れり。
(落日の町の南に、時を告げる角笛つのぶえの音も哀しく、沈園もまた昔と同じでは無い。心を傷ませる橋の下の春の水の緑の波も、嘗ては美しい彼女の姿が映るのを見せたものだが。)

と。驚鴻とは言うまでも無くその人を指す。物移り景色がかわるのは世の習い、さしも優雅な沈氏の園も、月日を替えて衰えすたれれば、吟情は寂しく動いて、またまた詩がある。

楓の葉は初めてあかくして ※(「木+解」、第3水準1-86-22)の葉は黄ばみ、
河陽かようの愁いのびんは 新たなる霜におびゆ。
林亭にむかしを感じて 空しく首を回らすも、
泉路 誰にりてか はらわたてるを説かむ。
くずれし壁の酔題よいしふでのあと 塵漠々たり、
ちぎれし雲の霊夢はかなきゆめ 事茫々たり。
年来の俗念 消除しょうじょし難し、
回向す 蒲龕ほがん※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)いっしゅの香。
(楓の葉は赤く色づきはじめ※(「木+解」、第3水準1-86-22)の葉は黄ばみ、昔の河陽長官(潘岳)が愁いたように、白髪の増えることを恐れる。林の中のあずまやに昔をしのんで空しく思い還しても、誰を頼んであの世の人(前妻)にこの断腸の思いを伝えたらよいのか、壊れた壁に残る酔って書き付けた昔の筆の跡は塵に汚れて読み取れない。ちぎれ雲となった果敢ない夢のように、昔の事が朦朧と残る。永年の俗念は消し難く、回向して蒲龕ほがんに手向ける一本の香。)

 壊壁断雲の対句、アアまことに悲しいではないか。しかも詩人の深情はついに之にとどまらず、その人が死んでも猶これを忘れず、その園が荒れてもこれを懐かしみ、その時の人と園は共に皆雲烟の彼方に消えて、今は尋ねることもできないが、情魂詩魄の漂う夢の中で、沈氏の園に再び遊び、消え残る灯火の中で一人悲しみ、覚めては後に、二章の詩をつくる。

路は城南に近くして すでに行くをおそる、
沈家の園のうち 更に情を傷ましむ。
香は客の袖を穿うがちて 梅の花在り、
緑は寺の橋を※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)ひたして 春の水生ず。
(道が城南に近づくと、最早行くことを躊躇ためらう気持ちになる。沈園の中に入り更に心を傷ませる。梅の花の香は私の袖を穿ち、緑は寺の橋を浸して春の水を生じる。)

城南の小陌しょうはく また春に逢う、
只梅花を見るのみにして 人を見ず。
玉の骨は久しく成りぬ 泉下の土と、
墨の痕は猶しとざす。
(城南の小道に春は再び来たが、只梅花を見るだけで、あの人は居ない。玉の骨は泉下の土となって久しく、書き付けた墨の痕は壁の塵となって猶も残る。)

 どれほど忘れがたい深い情懐おもいであったことか。世にもあわれな物語となった。
 相思相愛の仲を放翁の母にわれた唐氏の事と関係が有るか無いか知らないが、「剣南詩稿」巻十四を読むと、夏の夜の舟の中に水鳥の声が甚だ哀しんで姑悪こあくと云うように聞えて、感じて詩を作ると題した篇が有る。水鳥は即ち姑悪鳥こあくちょうで、また姑獲鳥こかくちょうとも云う。鳴く声によって名付けられたと言われている。上代かみよに婦人が居て、そのしゅうとめしいたげられて悲観して死に、生まれ変わってこの鳥になったという。来元成らいげんせいに句があって云う、「そのそんを改めず称してという、一字をおとしめて名付けて悪という」と。放翁の詩に云う、

じょ 生まれて 深閨しんけいる、
未だ曽て檣藩しょうはんを窺わず。
車の上って 天とする所に移れば、
父も母も 它門たもんとなりぬ。
しょうが身は 甚だ愚かなりと雖も、
亦知る 君がしゅうとめの尊きを。
しょうを下る 頭鶏とうけいの鳴くに、
かみいて 襦裙じゅくんを着く。
堂上に 灑掃さいそうを奉じ、
厨中に 盤さんを具す。
青々 ※(「くさかんむり/見」、第3水準1-90-89)きけんを摘み、
恨むらくは美なる※(「足へん+番」、第4水準2-89-49)ゆうはんならざるを。
姑の色 少しくよろこばざれば、
衣袂いぺい 涙の痕 湿める。
こいねがうところは しょうが男を生まんことを、
庶幾こいねがわくは 姑も孫を弄せん。
此の志 ついに 蹉※(「足へん+它」、第3水準1-92-33)たり、
薄命にして 讒言ざんげんを来たしぬ。
放ち棄てられしは 敢て怨みざれど、
悲しむところは 大恩にそむけること。
古き路 陂沢ひたくい、
微雨こさめふりて 鬼火くらし。
君聴けや 姑悪の声、
すなわさらられしおんなの魂なる無からんや。
(娘は深窓に生まれ育って、未だかつて外界を知らない。車に乗って夫のもとに嫁げば、父も母も他家よその人となる。私は甚だ愚かと云えども、貴方のおかあさまの尊いことは知っている。寝床を下りて一番鶏の声を聞けば、髪を梳いて着物に着替え座敷の掃除をして、台所では食事の支度をする。青々とした野菜を摘んでは、熊のほど美味しくないのを残念に思う。おかあさまの顔に悦びの色が無い時は、着物のたもとも涙の痕で湿りました。願うは私が男の子を生んでおかあさまが孫をあやせるようになること。この願いはついに叶うこと無く、不幸にもお小言を受けました。離縁されたことを怨みはしませんが、悲しいのは大恩に背いた事。古い道は沼地に沿って小雨が降り、鬼火がチラチラして道は暗い。貴方聴いて下さいな姑悪の声を、あれは離縁された妻の魂では無いでしょうか。)

 反復してこれを味わえば、惻々そくそくの情、綿々めんめんの恨み、自然と人を動かすものがある。あるいは唐氏の当時の面影がこの中に在りはしないか。
 昔の人が早婚なのは日本も中国もそうであった。放翁の年二十の頃はすでに唐氏を得ていたかどうか知らないが、「剣南詩稿」巻十九に、「余が年二十の時に嘗て菊枕きくちんの詩を作り、すこぶる世の評判となる。今秋たまたま再び菊を採って枕嚢ちんのう(枕)を縫わせた。凄然とした感がしたので詩を作った」として詩が二章ある。云う、

黄花を採り得て 枕嚢ちんのうを作る、
曲屏きょくへい 深幌しんこう 幽香を※(「門<必」、第3水準1-93-47)む。
喚囘よびかえす 四十三年の夢、
ともしび暗くして人無し 断腸を説くに。
(菊の花を採り集めて枕を作る、折り屏風の厚い帷に幽香が幽かに漂う。想い返す四十三年前の夢、断腸の思いを説いても、灯は暗くあの人は居ない。)

 叉

少日わかきひかつて題しぬ 菊枕の詩、
蠧編とへん残藁ざんこう 蛛糸しゅしとざさる。
人間万事 消磨しょうまし尽す、
只有り 清香の旧時に似たる。
(若き日にかつて書き付けた菊枕の詩も、虫に食われて文字は蜘蛛の巣に隠される。人事は消磨し尽くされて、只有るのは、あの時に似た清らかな香りだけ。)

 その昔の菊花の枕は、唐氏の細腕で裁縫されたものと思われる。
 放翁の薄倖はこれだけでなく、その後、蜀に行く時に或る宿に泊まると壁に詩が書いてある。筆遣いは正しく女性で、詩も悪くない。

玉のはし[#「土へん+皆」、U+5826、187-1]のもとの蟋蟀こおろぎは、すずしき夜にさわぎ、
こがねの井のほとりの悟桐きりのはは りし枝をる。
一枕凄まじくさみしくして 眠り得ず、
灯を呼びて起ちて作る 秋をおもう詩を。
(床下の下のコオロギは、涼しい夜に騒ぎ、黄金の井戸のほとりの悟桐は古い枝を落とす。眠ろうとするが寂しさ凄まじく、眠れないので灯りを点けて秋を思う詩を作る。)

とある。どのような人が書いたのかとこれを問えば、身分の低い宿の娘だという。美しいかどうかは知らないが、その才を愛してであろう、放翁はこれをれてしょうとして召し使う。詩人と才女との唱和の朝夕、かりそめの談笑も趣き多いことであったろう。しかし明るい月は雲を呼び、好事は魔を惹いて、唐氏の後の夫人は嫉妬が深く、半年ばかりで之をい出す。「剣南詩稿」巻二十五に載せる。妾を逐うにあたって生査子調せいさしちょうの詞を賦して別れると。うたに云う、

只知る 眉に愁いの上るを、
識らず 愁いの来たる路を。
窓の外に 芭蕉あり、
陣々たり 黄昏の雨。
暁に起きて 残妝ざんそうを理め、
整えととのえて 愁いをして去らしむ。
まさに春の山を画くべかざり、
旧に依りて 愁いを留めてとどむれば。
(何故か知らないが愁いが眉に上る。窓外の芭蕉の葉には、黄昏の雨が陣々と降り注いでいる。朝早く起き身仕舞いをして気を整え愁いを払うが、正に春の山のような眉は描けない。今までどおりに愁いの雲が去らないのであれば。)

 芭蕉を打つ黄昏の雨音の悲しさに、愁いは眉の上に来て、身仕舞いをしても眉を画けば、春山しゅんざんの青き辺りに愁いの雲は再び留まる。想えば女の明け暮れの情景が浮き出して見える。前には唐氏を失い後にはこの女性を失う。放翁はまことに艶福の無い人である。
 放翁の言葉に、「一言をもって身を終るまで之を行うものはじょであろうか、これは孔門の一字銘いちじめい(優れた一字)である」と。恕とは現在の日本語に云うところの「おもいやり」である。一字銘の言葉とは云い得て素晴らしい。思うに放翁は深く恕字について悟るところがあったものと見える。
(大正四年八月)

注解

・秦少游:秦観、字は少游、号は淮海居士。中国・北宋の詩人、政治家、蘇軾の門下。
・秦檜:中国・南宋の宰相。金との講和を進め和議を結ぶ。
・韓侘冑:中国・南宋の外戚、官人。
・王炎:中国・南宋の詞人。字は晦叔。号は双渓。
・健康や臨安の地勢を論じ:
・高宗帝の為に家臣の珍品買いを弾劾する:
・范成大:中国・南宋の詩人。
・月やあらぬ春はむかしの春ならぬ:古今和歌集・在原業平の歌
[#改丁]


訳者あとがき


読みやすくするために、蛇足ですが詩の後に原作には無い口語訳を付けました。





翻訳の底本:「露伴全集 第六巻」岩波書店
   1952(昭和28)年12月20日第1刷発行
   1978(昭和53)年7月18日第2刷発行
原作者:幸田露伴
翻訳者:中村喜治
   2022(令和4)年11月1日
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 4.0 国際 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by-nc/4.0/deed.ja)の下で公開されています。
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2023年6月12日作成
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●表記について

「歹+帶」、U+6BA2    101-5
「金+成」、U+92EE    108-2、170-7
「口+自」、U+54B1    135-6
「金+焦」、U+940E    160-8
「車+餠のつくり」、U+8F27    164-1
「寇」の「攴」に代えて「女」、U+5BBC    171-2、171-6、173-12
「鹿/吝」」、U+9E90    174-12
「土へん+皆」、U+5826    187-1


●図書カード