明けくれに昔こひしきこころもて生く
る世もはたゆめのうきはし (晶子)
「小野の辺にお知り合いの所がありますか」
と薫は尋ねた。
「そうです。それは古くなった家なのでございます。私に
「あの辺は近年まで住宅も相応にあったそうですが、このごろは家が少なくなったそうですね」
と言ったあとで、薫は座を進めて低い声になり、
「確かなこととも思われませんし、またあなたへお尋ねしましては、なぜ私がそれを深く知ろうとするのかと不思議にお思いになるであろうしとはばかられるのですが、その山里のお
と薫は言った。僧都は予期のとおりあの人はただの家の娘ではなかった。
「どういうことでこんなことが起こりましたかと、昨年来不思議にばかり思われていました方のことかと思われます」
と言い、
「小野の母と妹の尼が
こう物語った。いよいよ事実であったのかと薫は、小宰相から少し聞いた話から山へまで遠く僧都を尋ねて来たのではあるが、全然死んだと思っていた人が、確かにこの世に存在していたのかという驚きをまたも覚えて、夢の中の気持ちがし、心の打たれたことによって涙ぐまれるのを、高僧を前に置いてこんな弱さを見せるものでないと反省され、冷静なふうを作っていたが僧都には、薫の感じていることがわかり、これほどにも愛していた人を、生きていても死んだのと同じような尼の身に自分はしてしまったと過失をした気になり、罪を作ったという自責も覚えて、
「悪いものに
と僧都は問うてみた。
「王族の端とまあいうほどの人です。私も妻として結婚をしたのではありません。あることが動機になって恋愛がそこへまで進んでしまった間柄でした。がしかし、そんなにまで人の好意にすがって養われねばならぬような待遇を私はしていたのではありませんのに、不思議に跡かたもなくなってしまったものですから、身を投げたかなどと、それによってまたいろいろな想像もしていたわけです。罪の軽くなる御処置をお取りくだすったのですから、安心のできたことと私は思うのですが、母親である人が非常に恋しがり悲しがっておりますから、それだけには知らせてもやりたく思いますものの、その結果長く隠しておいでになりました尼様の御本意に違い、断ち切れぬ親子の情で訪ねて行ったりすることになるかもしれぬと思われます」
などと薫は言ったあとで、
「御迷惑なことと思いますが、その坂本までいっしょにお下りくださいませんでしょうか。細かい事実を承ることができましたあとで、なおそのまま捨てておいてよい人では初めからなかったのですから、夢のようなことを、この話を承った時を機としても話し合いたいと私は思うのです」
こう言う様子に、その人を深く思うことのうかがわれるため、出家
「下山しますことは今日明日さしつかえます。日が変わりましたらまいりまして、あちらからお手紙をお差し上げになるように計らいましょう」
こう答えた。薫はたよりない気もするのであったが、ぜひなどとしいることは、にわかにあせりだしたことに見られて恥ずかしいと思い、それではと言って帰ろうとした。姫君の異父弟は供の中にいた。他の兄弟よりも美しいその子を大将は近くへ呼んで、
「これがその人と近い身内の者です。この少年をせめて使いに出しましょう、短いお手紙を一つお書きください。私とは初めからお言いにならずに、だれか尋ね求めている人があるということをお書きください」
と薫が言うと、
「そのお手引きをいたすことで私は必ず罪に
僧都はこう言うのであった。薫は笑って、
「あなたの罪になるようなお手引きを願ったと取っておいでになるのは誤解ですよ。私は今日まで俗の姿でおりますだけでも怪しいほど信仰を深く持つ男です。少年の時代から遁世の志を持っているのですが、三条の宮様がお一人きりで、私のような者一人をたよりに思召すのが断ち切れぬ
と、昔から仏の教えを奉じることの深さを
「この少年に持たせてやります手紙に彼女の昔の知人のことをほのめかしておいてください」
と薫が言ったので、僧都はさっそく手紙を書いた。
「ときどきは山へも登って来て遊んで行きなさい。私にあなたは縁がないのでもないからね」
などとも言った。少年は縁のあるという理由がわからないのであるが、手紙を受け取ってすぐに供の中へまじった。
坂本へ近くなった所で、
「前駆の者は列を分かれ分かれにして声も低くして行くように」
と大将は注意した。
小野では深く
「どなたがお通りになるのでしょう。前駆の人がたくさんなように見えますね。昼間
「大将さんというのは今の
などと言っているのも、世間に通じない
あの人たちが言うように実際大将が通るのであろうかと浮舟が思っている時に、かつてこれに似た
薫は常陸の子を帰途にすぐ小野の家へやろうと思ったのであるが、従えている人の多いために避けて
「おまえの亡くなった姉様の顔は覚えているか、もう死んだ人だとあきらめていたのだが、確かに生きていられるのだよ。ほかの人たちには知らしたくないと思っているのだから、おまえが行って逢って来るがいい。母にはまだ今のうちは言わないほうがいい。驚いて大騒ぎをするだろうから、そんなことはかえって知らない人にまでいろいろなことを知らせてしまうことになるよ。母の悲しみを思って私はあの人を捜し出すのにこんなに骨を折っているのだ。ある時までは口外するな」
といましめるのを聞いて、子供心にも、兄弟は多いが上の姫君の美に及ぶ人はだれもないと思い込んでいたところが、死んでしまったと聞き非常に悲しいことであるといつもいつも思っているのに、こんなうれしい話を知ったのであるから感激して涙もこぼれてくるのを、恥ずかしいと思い、
「はあい」
と荒々しい声を出して紛らした。
小野の家へはまだ早朝に僧都の所から、
昨夜大将のお使いで小君 がおいでになりましたか。お家のことなどくわしいお話を伺って茫然 となり、恐縮しておりますと姫君に申し上げてください。私自身がまいって申し上げたいこともたくさんあるのですが、今日明日を過ごしてから伺います。
こんな手紙が尼君へ来た。驚いて姫君の所へ持って来て見せるとその人は顔を赤くして、自分のことが明らかに知れてしまったのであろうか、物隠しをし続けたと尼君に恨まれてもしかたのない義理の立たぬことであると思うと、返辞のしようもなくそのまま黙っていると、「今でもいいのですから言ってください。恨めしいお心ですね、私に隔てをお持ちになって」
と恨めしがるのであるが、何がどうであるかの理解はまだできないで、尼君はただわくわくとしているうちに、
「山の僧都のお手紙を持っておいでになった方があります」
と女房がしらせに来た。怪しく尼君は思うのであるが、今度のがものを分明にしてくれる兄の手紙であろう、使いでもあろうと思い、
「こちらへ」
と言わせると、きれいなきゃしゃな姿で美装した
「こんなふうなお取り扱いは受けないでいいように僧都はおっしゃったのでしたが」
その子はこう言った。尼君が自身で応接に出た。持参された僧都の手紙を受け取って見ると、入道の姫君の御方へ、山よりとして署名が正しくしてあった。
まちがいではないかということもできぬ気がして姫君は奥のほうへ引っ込んで、人に顔も見合わせない。平生も晴れ晴れしくふるまう人ではないが、こんなふうであるために、
「どうしたことでしょう」
などと言い、尼君が僧都の手紙を開いて読むと、
「あの小君は何にあたる方ですか、恨めしい方、今になってもお隠しなさるのね」
と尼君に責められて、少し外のほうを向いて見ると、来た小君は自殺の決心をした夕べにも恋しく思われた弟であった。同じ家にいたころはまだわんぱくで、両親の愛におごっていて、憎らしいところもあったが、母が非常に愛していて、宇治へもときどきつれて来たので、そのうち少し大きくもなっていて双方で
「御
と尼君が言う。それには及ばぬ、もう自分は死んだものとだれも思ってしまったのであろうのに、今さら尼という変わった姿になって、身内の者に逢うのは恥ずかしいと浮舟は思い、しばらく黙っていたあとで、
「身の上をくらましておきますために、いろいろなことを言うかとお思いになるのが恥ずかしくて、何もこれまでは申されなかったのですよ。想像もできませんような生きた
と浮舟の姫君は言った。
「むずかしいことだと思いますね。僧都さんの性質は僧というものはそんなものであるという以上に公明正大なのですからね、もう何の虚偽もまじらぬお話をお伝えしてしまいなすったでしょうよ。隠そうとしましてもほかからずんずん事実が証明されてゆきますよ。それに御身分が並み並みのお姫様ではいらっしゃらないのだし」
この尼君から聞き、姫君が
「ひどく気のお強いことになりますから」
皆で言い合わせて浮舟のいる
「もう一つ別なお手紙も持って来ているのですが、僧都のお言葉によってすべてが明らかになっていますのに、どうしてこんなに白々しくお扱いになりますか」
とだけ伏し目になって言った。
「まあ御覧なさい、かわいらしい方ね」
などと尼君は女房に言い、
「お手紙を御覧になる方はここにいらっしゃるとまあ申してよいのですよ。こうしてあつかましく出ていますわれわれはまだ何がどうであったのかも理解できないでおります。だからあなたから私たちに話してください。お小さい方をこうしたお使いにお選びになりましたのにはわけもあることでしょう」
と少年に言った。
「知らない者のようにお扱いになる方の所ではお話のしようもありません。お愛しくださらなくなった私からはもう何も申し上げません。ただこのお手紙は人づてでなく差し上げるようにと仰せつけられて来たのですから、ぜひ手ずからお渡しさせてください」
こう小君が言うと、
「もっともじゃありませんか、そんなに意地をかたく張るものではありませんよ。あなたは優しい方だのに、一方では手のつけられぬ方ですね」
と尼君は言い、いろいろに言葉を変えて勧め、几帳のきわへ押し寄せたのを知らず知らずそのままになってすわっている人の様子が、他人でないことは直感されるために、そこへ手紙を差し入れた。
「お返事を早くいただいて帰りたいと思います」
うといふうを見せられることが恨めしく、少年は急ぐように言う。尼君は大将の手紙を解いて姫君に見せるのであった。昔のままの手跡で、紙のにおいは並みはずれなまでに高い。ほのかにのぞき見をして風流好きな尼君は美しいものと思った。
尼におなりになったという、なんとも言いようのない、私にとっては罪なお心も、僧都の高潔な心に逢って、私もお許しする気になって、そのことにはもう触れずに、過去のあの時の悲しみがどんなものであったかということだけでも話し合いたいとあせる心はわれながらもあき足らず見えます。まして他人の目にはどんなふうに映るでしょう。
と書きも終わっていないで次の歌がある。
この人をお見忘れになったでしょうか。私は行くえを失った方の形見にそば近く置いて慰めにながめている少年です。
とも書かれてあった。こう詳細に知って書いてある人に存在の紛らしようもない自分ではないか、そうかといってその人にも、願わぬことにもかかわらず変わった姿を見つけられた時の恥ずかしさはどうであろうと「あまりに並みをはずれた御様子ね」
と言い、尼君は困っていた。どうお返事を言えばいいのかと責められて、
「今は心がかき乱されています。少し冷静になりましてから返事をいたしましょう。昔のことを思い出しましても少しもお話しするようなことは見いだせません。ですから落ち着きましたらこのお手紙の心のわかることがあるかもしれません。今日はこのまま持ってお帰しください。ひょっといただく人が違っていたりしては片腹痛いではございませんか」
と姫君は言い、手紙は
「それでは困るではありませんか。あまりに失礼な態度をお見せになるのでは、そばにいる人も申しわけがありません」
多くの言葉でこんなことの言われるのも不快で、顔までも上に着た物の中へ引き入れて浮舟は寝ていた。
主人の尼君は少年の話し相手に出て、
「
などと語っていた。山里相応な
「私がお使いに選ばれて来ましたことに対しても何かひと言だけは言ってくださいませんか」
「ほんとうに」
と言い、それを伝えたが、姫君はものも言われないふうであるのに、尼君は失望して、
「ただこんなようにたよりないふうでおいでになったと御報告をなさるほかはありますまい。はるかに雲が隔てるというほどの山でもないのですから、山風は吹きましてもまた必ずお立ち寄りくださるでしょう」
と
大将は少年の帰りを今か今かと思って待っていたのであったが、こうした要領を得ないふうで帰って来たのに失望し、その人のために持つ悲しみはかえって深められた気がして、いろいろなことも想像されるのであった。だれかがひそかに恋人として置いてあるのではあるまいかなどと、あのころ恨めしいあまりに