本の未来

富田倫生




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友愛と熱で、いつも私たちをあたためた
平野欣三郎に


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まえがき


 新しい本の話をしよう。
 未来の本の夢を見よう。
 ずいぶん長い間、私たちは本の未来について語らないできた。ヨハネス・グーテンベルクが印刷の技術をまとめたのが、十五世紀の半ば。だからもう、新しい本を語るのをやめて、五百年以上にもなる。
 あの頃天の中心だった地球は、太陽系の第三惑星になり果てた。光の波動を伝えていたエーテルも、今はきれいさっぱり消え去った。それほどの長い時が過ぎてなお、本は変わらなかった。
 時間をかけて練り上げた考えや物語をおさめる、読みやすくて扱いやすい最良の器は、紙を束ねて作った冊子であり続けた。
 けれど今こそ、本の未来について語るべき時だ。

 私たちは、たいていの人が自分のコンピューターを持って、そのすべてがネットワークされる新しい世界に向かいつつある。国の境や距離の重みが薄れ、望むなら、地球の上の誰とでも大脳皮質を直結できるようになるだろう。
 誰も経験したことのない、わくわくするような奇妙な世界が待っている。
 人々の考えや思いや表現は、電子の流れに乗って一瞬に地球を駆けめぐる。そうなってなお、考えをおさめる器が紙の冊子であり続けるとは、私には思えない。
 本はきっと、新しい姿を見つけるに違いない。

 そんな本の新しい姿を、私は夢見たいと思う。

 たとえば私が胸に描くのは、青空の本だ。
 高く澄んだ空に虹色の熱気球で舞い上がった魂が、雲のチョークで大きく書き記す。
「私はここにいます」
 控えめにそうささやく声が耳に届いたら、その場でただ見上げればよい。
 本はいつも空にいて、誰かが読み始めるのを待っている。

 青空の本は時に、山や谷を越えて、高くこだまを響かせる。
 読む人の問い掛けが手に余るとき、未来の本は仲間たちの力を借りる。
 たずねる声が大空を翔ると、彼方から答える声が渡ってくる。
 新しい本の新しい頁が開かれ、問い掛けと答えのハーモニーが空を覆う。

 夢見ることが許されるなら、あなたは胸に、どんな新しい本を開くだろう。
 歌う本だろうか。
 語る本だろうか。
 動き出す絵本、読む者を劇中に誘う物語。
 それとも、あなた一人のために書かれた本だろうか。
 思い描けるなら、夢はきっと未来の本に変わる。

 もしもあなたが聞いてくれるなら、私はそんな新しい本の話をしたい。
 これから私たちが開くことになる、未来の本の話をしたいと思う。
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第一章 面白うてやがて悲しき本の世界



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読みたい本が読めない事情


 あなたには今、読みたい本がありますか?
 本との出合いに、あなたは恵まれているでしょうか。

 これまでに私は、いろいろな本を読んできました。そのうちの何冊かには、大きな心の揺れを覚えました。私が身につけた知識のかなりの部分も、本から得ました。忘れられない出来事や、人との出会いと別れに結び付いた本もあります。
 読んだことの記憶は時に、生きたことの思い出と重なり合って、色合いの深いつづれ織りを成しています。
 本を読む体験の中では、何度か苦労したこともあります。
 実はこの本を書き始める前、書物の歴史を勉強しておこうと図書館に出かけました。何冊かあった関連の本の中でも、リュシアン・フェーブルとアンリ=ジャン・マルタンというフランス人の書いた『書物の出現』には、腰を据えて読んでみたいと思わせる手応えを感じました。
 何かを知りたいというはっきりした目的があって本を読むとき、私はたいてい赤のボールペンを持って、線を引いたり書き込みを入れたりしながら頁をめくります。翻訳本を読んでいると、「著者やその国の読者には常識なのだろうけれど、もっと説明してくれないとわからないな」と感じることがあります。そんな時、私はよく百科事典などを調べて、わからない言葉に自分なりの注を付けていきます。内容が濃いうえに、かなり注のいりそうな『書物の出現』は、書き込みで真っ赤にしながら読んでいきたい類の本でした。
 となるとこれは、買うしかない。
 そこで巻末の奥付を見て、一九八五(昭和六十)年九月三十日という初版の発行日を確認しました。少し古くなると、本はすぐに手に入らなくなるという頭があったからです。
 長く読み継がれる本がある一方で、新しい本が次々と生まれてきますから、限られた書店のスペースで読者との出合いを待てるものは、ほんの一握りに限られます。
 およそ十年前に出た『書物の出現』も、書店ではまず見つからないだろうと思い、発行元の筑摩書房の電話番号をメモしました。問い合わせてみると案の定、在庫はなく、刷り増しする予定もないと言います。

 本作りの工程は、ある程度の部数を一度に作ってしまう前提で成り立っています。印刷用の原版を作るところまでが高くつくため、数をまとめないと割高になるからです。初回の印刷分は、平均して五千部程度。三千部前後の本がないわけではありませんが、数が少なくなればなるほど、定価はより高く付けざるを得ません。
 最初に刷った分が売り切れ、今後もある程度売れ続ける見通しが立つと、増し刷りになります。初回に作っておいた印刷用のフィルムを使い回せるため、再版では一冊あたりの製造コストを抑えられます。とはいえ、まとめて作りたいという事情はここでも付いて回り、増刷も千部程度を最低の単位として行われています。
 いったん作ってしまった本は、出版社にとって資産です。見込みがはずれて売れ残れば、保管代がいる上に税金がかかります。涙をのんで断裁すれば、帳簿上は資産が失われて赤字が発生します。実際に売れる部数を正確に予測して在庫を抑えることは、出版社にとって、商売の成否を分けるポイントです。初版分が一気に売れたのならともかく、長い時間かけてようやく売り切ったものは、なかなか増刷をかけようとはなりません。
 きっと『書物の出現』も、そんな本の一冊だったのでしょう。

 かつて編集の仕事に携わり、何冊か自分でも本を出してきた私は、たくさんの本が増刷の予定のないまま品切れ扱いとされる、こうした背景を承知しています。
 ただ出版業界の事情が分かったとしても、「どうしても読みたい」という読者としての気持ちが変わるわけではありません。やむなく図書館の『書物の出現』を読み始めると、やはり線を引きたくなります。「この本は手許に置きたい」という気持ちも湧いてきて、結局はコピーをとることに決めました。
 それぞれが四百頁近い上下二巻の複写は、半日仕事でした。本のように一まとまりになっていないコピー用紙の束は、扱いにくく、すぐにばらばらになってしまいます。保管にも実に不便です。
 絶版書のコピーには加えて、原稿を用意してくれた人に対する、申し訳ない気持ちがつきまといます。

書き手が受け取る報酬


『書物の出現』は、四人の研究者によって訳されていました。中味を読んでいけば、翻訳の作業は大変だったろうなと、容易に推測がつきます。固い内容の本ですから、初版の部数もきっと多くはなかったでしょう。
 通常、著者や訳者は、本の定価の一割程度に発行部数をかけた金額を、著作物の出版を認める対価として出版社から受け取ります。
 本の定価が千五百円で、印税と呼ばれる報酬の割合が一割だったとすると、一冊あたりの取り分は百五十円。初版発行部数が五千部なら、見返りは七十五万円になります。著者に関しては一割が慣例の印税率ですが、訳者では六分前後が常識的です。
 一部のベストセラー作家は別ですが、概して本を書くことや訳すことは割のいい仕事ではありません。「書きたい」あるいは「日本の読者に紹介したい」といった強い気持ちがなければ、続けていくことの難しい作業です。
 書店で本を買うときは、ほとんどが思い入れを原動力として仕事を続けている書き手に対して、ちゃんと挨拶したような気分でいられます。支払った代金の一割程度は、確実に著者や訳者に渡るからです。ところが絶版書をコピーする際は、その人たちに印税分がいきません。本人の連絡先を確認し、金額を交渉して支払うことは可能かもしれませんが、かなり面倒な話です。わざわざコピーをとってまで読みたいのだから、その本を大切に思い、書き手の仕事を尊重する気持ちはあるのです。それでも支払いに関する約束事が明らかになっておらず、体制もできていないとなると、ついつい読みっぱなしにしてしまいます。
 中味を用意してくれたお礼を、書き手にどう支払うのか。ここを考慮の外に置いて、本を物として売り買いする古書の流通には、この点で抵抗を感じます。
 古書店員の詳しい知識が、調べようとする分野に切り込んでいく際に、大きな手助けとなる。古書流通のネットワークがあるがゆえに、絶版となった手に入りにくい本に巡り会える。貴重な本を、世代を越えて受け継いでいける。
 こうした貢献は間違いなくあるにしても、書かれている中味を本という形に縛り付けて取り扱っている大本のところに、積み残した問題があるように思います。
 中味を書いた人に見返りを与えることは、文化の動力を生み出すエンジンにガソリンを補充することです。書く意欲、訳す意欲、まとめる意欲はやはり、金銭的な裏付けを得てはじめて継続できる物でしょう。少なくとも書き手が新しい仕事に取りかかる意欲を持ち続けているあいだは、金銭的な見返りを与える方が、文化の活力を保つ上で〈得〉でしょう。
 住む場所を決める際に私はいつも、図書館に近いことを判断基準の一つにしてきました。新聞の縮刷版や雑誌のバックナンバーを閲覧するほか、ある分野に関してどんな本があるかは、先ず図書館に行って調べたいからです。ただ手に入る本は、可能な限り買って読んできました。書き込みなしでは読んだ気がしないのに加えて、書き手へのお礼の問題が頭から離れないからです。自分が本を書いているからこだわりが強いのかもしれませんが、私にとって、本は買って読む物です。
 著者や訳者には、たくさんの人に読んで欲しいという願いがあります。かなうなら、より多くの印税を受け取りたいという期待も持っています。読者の側にも、後ろめたい気持ちなしで本に向き合いたいという思いがあるはずです。コピーをとる代金は、たいていの場合、本の値段程度はかかってしまいます。
 書き手と契約して本作りの権利を独占している出版社には、それゆえ「品切れです」の一言ですませるのではなく、読者に届ける責任をかなう限り果たして欲しいと思います。ところが、ある程度まとまった部数を作らなければ採算が成り立ちにくいという出版固有の事情がかかわって、書き手と読み手の願いは時にすれ違ってしまいます。
 本との出合いは、なかなか理想通りには保証されません。
 よく勉強する教師や学生を集めた大学のそばには、コピー業者で製本まで請け負ってくれるところがあります。原稿書きを仕事にしている私は、絶版になった本を探すことが少なくありません。こうした店で、コピーの束を簡易製本してもらうことも、しばしばです。ずらりと並んだコピー機に学生たちが張り付き、吐き出されてきたコピーを専用の機械が製本のためにばたばたと二つに折っていく光景を思い浮かべると、なんだかその様が、書き手と読み手の願いのすれ違いを象徴しているように思えてきます。

本にならない大切な仕事


 貴重な文献が、本になっていないと知って驚いたこともありました。
「どんなコンピューターなら、人は身近に感じ、自由に使いこなすことができるだろう」
 こう考えて、一九七〇年前後から研究に取り組んでいったアラン・ケイという人物のアイディアは、一九八〇年代になって商品に盛り込まれていきます。その後パーソナルコンピューターで主流となる使いこなしの流儀に、彼の考えは大きな影響を与えました。
 一九八三年にアップルコンピュータが発表したリサや、翌年のマッキントッシュの斬新さに驚いた私は、これらに盛り込まれた設計思想がケイの研究成果を汲んでいることを、後になって知りました。
 以来、彼が書いた論文を探したり、日本で行われた講演会を覗いたりと、追っかけの真似事をやりました。そしてある時、一念発起して、彼が書いたものを一から読み直してみようと思い立ったのです。ところがあらためて探してみると、ケイの著書というものは、この世に存在していませんでした。日本語訳が出ていないというだけではありません。彼の本はアメリカでも刊行されていなかったのです。
 そうした事情が飲み込めると、いささか呆然としてしまいました。となると後は、論文の巻末に示された参考文献をたどっていくしか手がありません。
『COMPUTER』という雑誌の一九七七年三月号に載った「パーソナル・ダイナミック・メディア」という記念碑的な論文の最後に、彼がユタ大学に博士論文として提出した「ザ・リアクティブ・エンジン」や、所属していたゼロックス社パロアルト研究所の技術レポートとしてまとめた文献に関する記述がありました。ユタ大学に依頼すると、三百三十三枚の論文のコピーが送られてきました。富士ゼロックスも親切に対応してくれて、総計二百十三枚の複写を送ってくれました。
 その後、アスキーの編集部と制作に携わった関係者の努力によって、ケイの初めての著書は、英語の原書が存在しないまま日本語版としてまとめられます。この『アラン・ケイ』によって、日本の読者は、彼の考え方の流れを容易にたどれるようになりました。ここに収録されなかった論文も、同書の参考文献で確認できます。ただし雑誌に掲載されたものならともかく、博士論文や企業の社内文書となると、関係者の厚意を期待しなければ読むことはできません。手書きで写すしかなかった時代に比べれば、複写機の使える現在、コピーははるかに容易になりました。それでも写したいオリジナルが他人の手許にしかない場合は、依頼の手続きを踏んだり、時には複写に先方の手を煩わせたりと、読むための敷居は低くありません。

 関心を持つ者にとっては実に貴重な文献が、雑誌にも載らず、本にもなっていないことは、そうそう例外的でもないようです。
 実はケイの論文をあさり始めた時期、彼と縁の深い、ダグラス・エンゲルバートというもう一人の研究者の存在を知りました。
「向かい合ったコンピューターに働きかければ、すぐに反応が返ってくる。いわば、打てば響くような使い方を可能にして、人の能力をマシンで強化できないか」
 こう考えてエンゲルバートが一九五〇年代から進めた研究の成果は、ケイにも大きな影響を与えたらしい。画面に窓のような枠を表示するウインドウやマウスも、エンゲルバートが考案したものだと聞いて、彼の書いたものも読んでみようと思い立ちました。ところがエンゲルバートに関しては、状況はケイの場合以上に絶望的で、一般向けの雑誌に掲載された論文すら見つかりません。彼自身が設立した小さな財団から、論文をファイルしたものを入手できると知るまでは、きつねにつままれたような気分が続きました。

書きたい本


 考えをまとめて封じ込めるには格好の器ではあるけれど、まとまった部数を作らないと一冊がとても高くつく。そんな本という器に、あなたは自分自身の物語を盛りたいと思われたことがあるでしょうか。

 あなたには、書きたい本がありますか?
 私にはありました。

 同級生から一年遅れて一九七六(昭和五十一)年に大学を卒業したころ、考えていたのは、とにかく出版社に潜り込むことでした。
 中学の終わり頃から、私は原稿を書く仕事がしたいと考えるようになりました。ただし、漠然とそんなことを思っていても、どうすれば物書きになれるのかは分かりません。とりあえず出版社に入ればライターになる段取りが見えるだろうと考え、求人広告を見つけては履歴書を送りました。けれど、どこも受け入れてくれません。やむなくアルバイトで図書整理の仕事を続け、気にかけてくれたバイト先の人の口利きで、編集プロダクションに紛れ込みました。
 編集にまつわるさまざまな作業の中で、もっぱら手間のかかるめんどうな仕事を下請けでこなすプロダクションには、思い入れを育てる余地はなかなかありませんでした。本や雑誌作りに携わっていられるのはそれでも楽しく、何かあると連日の泊まり込みで仲間たちと仕事の山に立ち向かう日々には、手応えもありました。けれど携わっていた雑誌に、毎月かなりの分量の記事を書くようになり、他の雑誌からも取材を手伝わないかと声がかかりはじめると、なぜ会社に籍を置いているのか、分からなくなりました。
 初心だったはずの〈書く〉体制が整い始めたのなら、一人でやっていこうという考えに傾きました。仲間を置き去りにするような気がして、しばらく後ろ髪を引かれていましたが、とうとう踏ん切りがつきました。
 一九八三(昭和五十八)年五月、会社を辞めて、私は肩書きのない名刺を作りました。

 新前のライターにとって好都合だったのは、当時パーソナルコンピューターという新しい道具の回りに、新しい世界が開けつつあったことです。個人が持てるコンピューターを謳って、日本でも五年ほど前に、むき出しの回路基板から出発したこの分野には、専門家がいませんでした。興味を持った人間がともかくやってみて、一歩一歩開いていったのがこの世界でした。
 一九七〇(昭和四十五)年を前後する我々の高校時代には、世界的な学生運動の熱がみなぎっていました。
 時代の熱にあおられた友人の一人は、六〇年代が終わって騒動がばたばたと片づく中で、向かうべき場所を見つけようとしばらくのあいだもがき続けます。その彼が、パーソナルコンピューターに、心の拠り所を見つけました。
「コンピューターという強力な武器を、国家や大資本が独占する状況がこれで崩せる」
 彼は久しぶりの晴れやかな表情で、そう語りました。
 その友人の影響に加え、所属していたプロダクションの好奇心旺盛な社長に「いっしょに勉強しよう」と誘われたこともあって、私はコンピューター言語のベーシックで、プログラムを書く作業に熱中し始めました。
 自分が普段、何気なくやっている動作をコンピューターに処理させようとすると、意識の下に潜り込んでいる手順を引っぱり出して、はっきり確認していくことが必要になります。そうした作業を続けていくと、自らのさまざまな振る舞いに強い光が当たり、これまでになかった視点から自分自身をとらえられるような気がしてきました。蛋白質でできたロボットであるという自分の一面が、くっきり浮かび上がってきたのです。
 プログラムで記述した小さな世界が、コンピューターの中で動き始めることにも、胸が躍るような喜びを感じました。
「パーソナルコンピューターは一人ひとりの知性を拡大し、人を自由にする」
 一九六〇年代後半に置き忘れてきた精神が蘇ったようなこうした主張にも、琴線が震えました。
 物事その物よりも、意味付けや能書きに過度に傾いてしまい勝ちな性格が災いして、「プログラミングを体験した」という程度以上には、私の技術は進歩しませんでした。それでも専門家のいない分野で、雑誌や本を次々と出していく要請に助けられて、怪しげな新前のライターは仕事のチャンスを得ます。パーソナルコンピューターに興味があってしり込みさえしなければ、原稿は受け取ってもらえました。
 個人営業のライターの看板を掲げた時期は、一般向け科学雑誌のブームにも重なり合いました。ここにも、しり込みさえしなければ、原稿を書かせてくれる市場が生まれていました。
 こうしてある種の科学ブームのどさくさにつけ込んでライターへの転身を果す中で、考えていたのは自分の役割です。
 科学雑誌の編集部から求められていたのは、基本的な知識や新しい発見、我々が捕らわれている常識とは食い違う科学的な視点などを、わかりやすく、かみ砕いて表現することでした。紹介したい科学者は、例外なく研究に没頭している。一般向けの雑誌に、しかも月刊誌の早いサイクルに合わせて原稿を書いてもらうことは、大変難しい。そこで大学や研究所を走り回って、聞いてきた話をまとめるレポーターが求められました。こうした仕事をこなす中で、自分なりに目指したのは、科学なり技術なりが門外漢の普通の人々にとってどのような意味を持つのか、何とかその接点を探りたいという点でした。
 知り合いの編集者から、「情報技術に関連した書き下ろし文庫の一冊を任せたい」とチャンスを与えられたときも、技術そのものではなく、技術と人、技術と社会について考えたいと思いました。
 我々の時代はなぜパーソナルコンピューターを生み出し、育てようとしているのか。パーソナルコンピューターはどんな文化的な流れを汲んで生まれ、自らを育んだ潮流を、今後どこに導こうとするのか。
 納得のいく答えを出す算段が付いていたわけではありません。けれど、ともかくそうした視点を据えて、一冊をまとめてみようと考えました。

ギターとコンピューター


 一九六〇年代の半ばから後半、中学から高校にかけてつかまっていたのは〈うた〉でした。
 音楽に目覚めたきっかけは、ビートルズです。しばらくして、フォークソングの人気を押し上げたPPM(ピーター・ポール&マリー)というグループを案内役にボブ・ディランを聞き始め、そこからピート・シーガー、ウッディー・ガスリーとさかのぼっていきました。
 人種差別に向き合った公民権運動の中で、うたが大きな役割を果たしたことを知りました。アメリカのフォークソングの伝統に学びながら、視野を広くとって自分たちのうたを見つけようとする、いわゆる関西フォークには、どっぷりはまった口です。ギターを抱えて自分でも歌い始めると、気持ちはいっそうフォークソングに傾きました。当時の日本では、よほどの金持ちの子でもない限りアンプやドラムを手に入れるのは難しく、大きな音を出せば出すほど、練習場所にも苦労する事情もかかわっていたのかもしれません。ただ当時の気分を思い起こせば、言葉をメロディーにのせて伝えるのなら、大きな音や派手な仕立ては必要ないと感じていたのだと思います。
 こうして大きくロックからフォークに揺れていく中で、当時は二つの潮流を区別して受けとめていました。それが十五年ほどたってあらためて振り返ると、私の意識はむしろ、ロックとフォークの共通点に向きました。ギターを抱えて、自分の作ったうたを自分のスタイルで表現しようとする点においては、二つは一つではなかったか。そしてロック、フォークの台頭と学生運動の昂揚に象徴される一九六〇年代の百花斉放、百家争鳴の時代精神が、一九七〇年代半ばになって、パーソナルコンピューターとして蘇ったのではないかと、少々強引な仮説を立てたのです。
 本の柱には、二つの物語を据えました。
 一つはパーソナルコンピューターを日本に普及させるにあたって、実に大きな役割を演じたNECのドキュメントです。コンピューターは直接担当しない半導体セクションの、それも販売担当部門が、パーソナルコンピューターを生み、育てることになったという意外な経緯には、ミステリーじみた謎解きの面白さと、時代の歯車がぐるぐる回ってしまう勢いを感じました。
 そしてもう一つの柱には、私にパーソナルコンピューターの面白さを吹き込んだ、友人の物語を据えました。一九七〇年代に入り、時代の熱が急に冷めていく有り様を見送っていた彼は、高校卒業後、財産の私有を否定して一体の集団生活を送る山岸会に活路を求めます。生活を共にしようと志した人との葛藤があり、自分自身の心の穴に足を取られてヤマギシの暮らしからも離れた彼は、パーソナルコンピューターと出合って実に久しぶりに、落ち着いた明るい表情を見せました。
 プログラマーとして働くことは、彼の再出発の手がかりとなったのです。

「挫折と沈滞を余儀なくされていた一つの時代精神が、パーソナルコンピューターという革命児を産み出したのではないか」

 前書きでそう意気込んでから書き始めた、私にとって初めての本は、『パソコン創世記』と名付けました。発行は一九八五(昭和六十)年二月二十五日。出来上がってきた小さな本は、そっと包んだてのひらを暖めながら、にこにこ微笑んでくれました。

 自分の本が、とりわけ初めての著書が書店に並んだときの、気恥ずかしさの混じったうれしさは、どう書き表せば伝わるでしょう。
 あけすけな書き手は、自分の処女作を買い占めて回ったり、目につく場所に移し変えたり、毎日欠かさず売れ行きを定点観測したりといった体験を語っています。そんな原稿を読むたびに、私は『パソコン創世記』が出た直後の自分を思い出してしまいます。初めての著書を出した書き手がやりそうな考えうる愚行の全てを、私は抜かりなく、実に勤勉にやりつくしました。
 さんざやってみて、結果的にはやはり、一人の力では動かせない山もあると実感させられます。
 ただし、ごくわずかではありましたが、読者から寄せられた感想の言葉には、十年分のクリスマスプレゼントをまとめてもらったほど、胸が大きく鳴りました。
 ところがこの本が、全国の書店から一斉に、きれいさっぱり消えてなくなったのです。
 首都圏を中心に、かなり広範に展開していた私のゲリラ的販売促進活動が、みごと功を奏したというわけではありません。版元の出版社が、文庫シリーズ全体に見切りを付けて、廃刊にしてしまったのです。

断裁された初めての本


 受験ものの雑誌や学習参考書の老舗だった版元は、一時期、一般書への進出を狙って、さかんに色々な分野の本を出しました。ところがこの試みがうまく転がらず、『パソコン創世記』が出て間もない時期に、一般書からの撤退が決まります。なかなか面白いものもそろえてあった文庫も、丸ごと廃刊の憂き目を見ました。
 舞い上がりがひどかっただけに、はじめて「廃刊」と聞かされたときは、どっと力が抜けました。せめて在庫分の何十冊かを買い取ろうと思い立ったときには、私の本はすでに断裁されており、曇天模様の心には雨が降り出しました。

「読むに価値あるものを、でき得るだけ楽しく、消化しやすく、読みやすく提供することは出版社の義務である。出版道義を強く信奉せんとしているわが社は、この目的にひたむきに献身するものである」

 なんちゃって。
 廃刊となった文庫の、社長名による「刊行のことば」にそう付け足してみると、一瞬笑えましたが、どうも力は蘇ってきません。

 きれいに文字を組み、写真や図を入れてがっちり製本した書物は、書き手の考えを盛り込む素晴らしい器だ。『パソコン創世記』を手にして、つくづくそう実感した直後に見舞われた文庫廃刊騒動は、素晴らしい器である本のもう一面を、私に突きつけました。
 現在のこの世の中で、本を出す主体となっているのは、企業である出版社です。企業にとって、儲けることは実に大切な課題です。赤字を続けて会社を傾けないことは、出資者と社員と顧客に対する経営者の義務でしょう。加えて本作りには、ある程度の部数をまとめないと効率が悪くなるという制約がつきまといます。書く側には、書き手としての抜き差しならない思い入れがあるでしょう。けれど出す側にも、部数がまとまるかを繰り返し問わざるを得ない事情があり、加えて経営を成り立たせるという決してゆずれない一線があるのです。

 私にとって『パソコン創世記』は、書きたくて書いた本でした。
 もちろんこの本の絶版騒動を体験する以前からも、本作りと普及のための仕組みに資本の論理が貫徹していることは承知していました。けれど自分の心に忠実に沿ってテーマを選んで書いている間、私はそうした事情から自分を切り離しておくことができました。キャンバスを走らせる筆の跡だけに意識を集中する画家や、めまぐるしく動く指先が奏でるメロディーに、ゆったりと意識を浮遊させるピアニストのように、闇の中に浮かんでくる言葉の連なりと無心に向き合うことができました。
 その至福の時が、幻であったとは思いません。けれど絶版騒動は、自分が意識の光を当てないでいた至福の時を支える構造を、目の前に突きつけました。
 出版にはさまざまな制約と、書き手とは無関係な動機が絡んでいる。そして職業として書く道を選ぶことは、意識するとしないとにかかわらず、そうした構造と手を結び、折り合いを付けていくことを意味するのだなと実感させられたのです。

書くことの自分史


 出版という商業的な行為と無縁なところでも、私は書いてきました。
 内容はほとんどまったく記憶しておらず、残念ながら書いたものも残っていませんが、小学校の国語の時間はしばしば作文にあてられていたはずです。宿題にも、作文がありました。
 ある時、「詩を書いてこい」と課題を出された日の夜のことだけは、はっきり覚えています。
「詩」といわれてとまどってしまい、原稿用紙に向かい合ったままいつまでたっても書けませんでした。時間だけが過ぎ、あせりが募って、半泣きで母にすがりつきました。
「自分が感じていることを書けばいいのよ。先ず、自分がどう感じているのか考えて、それを書いていってごらん」
 そうアドバイスを受けて、詩が書けないで焦っている自分の気持ちをそのまままとめると、めずらしくも教師にほめられ、みんなの前で読まされたことを覚えています。なにしろ当時の私は極端に勉強が出来なくて、国語の成績など五段階評価で一でしたから、教室でほめられるなどと言うことは奇跡的な事件でした。
 あらためて振り返れば、この時の母のアドバイスは、書くにあたってその後私が取ろうと努めてきた態度と符合しているように思います。
 広島で過ごした高校時代には、B4裏表をガリ版で刷ったミニ新聞を出しました。『しかし』と名付けた〈落書紙〉の創刊号には、「〈しかし〉は、自分の考えを知ってもらうための私たちの広場だ」とあります。仲間内から有能なガリ切り技術者が育ち、刊行の意義を確信した彼が、実に勤勉に作業にあたってくれたことで、『しかし』は創刊から卒業までの十五か月で三十一号まで発行されました。さらに次の代にも引き継がれ、我々の卒業後もしばらくは出続けました。
 今も私の手許には、すっかり黄ばんでしまった『しかし』が残っています。読み返してみると、それぞれの記事や紙面の細部が一体となって、あのころを思い起こさせます。七〇年安保への反対とベトナム反戦をテーマとしたデモへの参加体験。社会を見通し、自分を確かめる手段としてのうたへの期待。と同時に、うたが政治的な道具として使われることで、人の心を揺り動かす本来の力を失っていくのではないかという懸念が語られました。
 高校の日常からも、さまざまな声が上がっています。我々の高校ではこの時期に初めて採用された、能力別クラス編成への嫌悪を訴えた文章で、書き手は自分自身の直感的な怒りを論理化しようと懸命に試みています。伝統あるサッカー部が全国大会への出場を果たすと、当初は彼らの勝利を讃える原稿が載りました。ところが集められた寄付金で、過去には選手個々人にジャージを買い与えたという噂を聞いた熱心なサポーターは、一転して寄付金の詳しい決算報告と残金の扱いに関する方針の提示を後援会に要求します。学園祭で泊まり込みのフォークキャンプをやろうという呼びかけが載り、その後、許可できないとする学校側との交渉過程が報告されていきました。結局、泊まり込みなしのフォークサークルとして実施されると、二百人ほどの参加者の熱い声を集めた特集号が編まれます。このイヴェントの精神を今後に活かそうという意気込みが語られますが、日常的な学校生活のリズムが戻ってくると、「あれはなんだったんだ」との悲鳴のような訴えかけが紙面を飾りました。卒業を前にすると、別れに直面してやわらかな心のきしむ様をそのまま写した原稿が並びはじめました。
 卒業後も、次世代の仲間は『しかし』を送ってくれました。同級生の急死の報を得て、その夜にまとめられた追悼文の凛とした厳しさには、居住まいを正させる力を感じました。今読んでみても、筆者の死に対する厳粛なおののきと、彼をそこに追いやったものを対象化しようとする精神の張りとの緊張には、胸が締まります。
 一学年下の連中が秋の学園祭で開いた南京大虐殺の写真展には、卒業生である私も顔を出しました。手許にある最後の『しかし』は、この写真展の総括号です。中心になって動いたのは、追悼文の書き手でした。「写された人への配慮を欠いていたこと」、「写真展を貫く明確な主張を打ち出せなかったこと」の二つを根拠に、「この写真展は大失敗だった」と結論づけた書き手は、南京大虐殺から第二次世界大戦、そして広島へと続く流れを自分自身の問題とするには「私自身が事実の中へ入り込んでいくことが、まず必要なのだろう」とし、自分が先に進むために求めていたのは、「この失敗なのだと思う」と締めくくっています。
 一年下のこの書き手とは、高校時代には、話したことがありません。結局そうした機会は今に至るまで持てませんでしたが、背筋のぴんと伸びた彼女の文章には、送られてきた『しかし』を通じて強く引かれました。逆に我々の在校中には、「『しかし』を読んでお前たちと話したがっている先輩がいるよ」と教師から聞かされたことがあります。我々の両親にも、何人か楽しみに読んでくれる人がいました。
 私自身が初めて鉄筆を握り、ガリ版の原紙を切ったのも、『しかし』を出すことになった頃です。しゃれにならない悪筆に加え、下敷きにしたやすりにうまく引っかけて字画を出していくこつがなかなかつかめなかった私は、読むに耐えないかすれた紙面を作って顰蹙を買いました。どうにかガリが切れるようになってからも、同音異義語の誤りや漢字の書き間違いで笑いをとり続けます。結局最後まで、ガリ切りの腕は上がりませんでした。けれど手書きで簡単に印刷用の版が作れて、五百枚程度は素人でも手刷りできる謄写版は、私自身の書いたり訴えようとする気持ちと、その後も常に共にありました。
 大学時代の六畳のアパートには、思い出してみればテレビはありませんでしたが、謄写版は置いてありました。
 日本人にとって、謄写版は誰でも手の届く身近なメディアでした。

草の根のメディアとしての謄写版


 あなたは、謄写版を体験した世代でしょうか?
「謄写」とは、写し取るという意味。謄写版は、明治から、大正、昭和にかけて日本で広く使われた、手軽な印刷機です。
 印刷の手順は、先ず版を作るところから始まります。
 版の元となるのは、蝋を和紙の両面に塗った原紙です。
 やすりの下敷きの上に原紙を置き、軸の先にとがった針の付いた鉄筆で、文字や絵を削るように書いていきます。力を入れてやすりの目に引っかけながら書くと、原紙の両面の蝋が文字の形に合わせて削り取られます。鉄筆には、先が丸くなったものやヘラ状のものなど、太文字や絵を描くのに工夫されたものもありました。原紙には縦横の罫が刷り込んであり、これに合わせて書けば文字の大きさがそろいます。
 鉄筆で原紙に字を書いていくと、やすりに針が引っかかってカッカッ、カッカッと乾いた音を立てます。ガリ版という俗称は、この音から生まれたのでしょう。原紙を手書きで製版していくことを、「ガリを切る」と呼んでいました。
 誤字の訂正には、樹脂をアルコールに溶かした修正液を使います。誤字の上に液を塗って乾かせば、上からもう一度書き直すことができました。
 ガリ切りと文字の確認、修正が終わると、いよいよ印刷です。原紙を据え付ける謄写版の枠には、保護のために絹のスクリーンがはってありました。この枠を引き下ろしてセットしておいた紙にあて、インクを付けたローラを上から押しつけます。すると鉄筆で蝋がはがされたところからインクが染みだして、紙に文字や絵がうつりました。
 一般的には、文字を中心に、せいぜいちょっとしたイラストを入れて一色で刷るのが普通でした。ただし本格的なカラー印刷が普及する前の、大正末期から昭和の初めにかけた一時期には、多色刷りのいわゆる美術謄写がさかんに試みられています。
 後には、ボールペンで少し強めに書いていくだけで版の作れる、特殊な原紙も開発されました。このボールペン原紙を使うと文字の切れは鈍りましたが、経験のない人でも気軽にとりかかれることから、広く使われるようになります。

 こうして、日本で広く普及した謄写版を発明したのは、堀井新治郎、耕造の父子でした。
 一八八三(明治十六)年に堀井家に養子に入った父、新治郎は、内務省の役人として、輸出向けの緑茶の改良など、農産技術の向上に携わっていたと言います。一方幼くして実父を亡くしていた耕造は、長じて三井物産に勤めました。堀井家では代々、家長が新治郎を名乗っており、耕造も後にこの名を継ぐことになります。
 謄写版の歴史をたどった『ガリ版文化史』の共著者、志村章子は、堀井親子が生きた「明治期のオフィス革命は、今日よりも激烈」だったと書いています。
 事務処理の手順が一新され、江戸以来使われてきた大福帳に代わって、洋式の帳簿にペンで書き込むスタイルが普及しはじめました。複写の必要性が意識されるようになり、特に外国との商取り引きを行うところでは、コピーをとって記録を残すことが強く求められます。
 複写への要求は、ヨーロッパやアメリカでは以前から高まっており、これに応えようとさまざまな努力が続けられていました。紙にはさんで筆圧で複写をとるカーボン紙の特許は、すでにイギリスで一八〇六年に成立しています。蝋を塗った原紙をやすりの下敷きの上でこすって製版し、ローラーで刷るという謄写版の柱となる技術も、一八七〇年代からいろいろと工夫が始まっていました。
 コピーイング・プレスと名付けられた圧力式の複写道具は、この時期にはすでに日本にも輸入され、官庁や貿易に携わっている会社で使われていました。原理は、実に単純です。まず専用のインクでしたためた文書に、刷毛で水をつけたコピー用紙を重ねます。これをブドウ絞り機に似たプレスにはさみ、ねじを絞って押しつけます。するとおよそ二時間後、インクが染みてコピーがとれるという寸法。なんとも悠長で、おまけに一部しか複写できませんでしたが、広く世界中で使われていたそうです。
 欧米の国々がいち早く工業化に乗りだし、植民地を拠点に経済圏を大きく拡大していく中で、文書を効率よく処理する要求はますます強まっていきます。コピーイング・プレスのような頼りがいのないシステムが、とりあえずは需要を満たしていた複写の分野でも、新しい技術の開発が活発に進められました。
 文書処理の効率化が求められるこうした流れを、役所や商社で働く中でつかみ取っていたのでしょう。堀井新治郎は一八九三(明治二十六)年一月、職を辞して手軽に使える印刷機の開発に専念し始めました。
『ガリ版文化史』のもう一人の著者、田村紀雄によれば、「堀井父子は、伝統的な染物法の一つ捺染なっせん法と型紙にヒントを得て、雁皮紙に蝋を塗布し、台板(ヤスリの原型)に鉄棒で孔をあけるという方法を考案した」と言います。
 ただ同書自体が明らかにしている、同じ技術が欧米で先に開発されていた経緯や、〈考案〉に至るまでの堀井の振る舞いからも、彼らは謄写版の基本構想を外国の先人から借りたと思われます。
 同年の三月、堀井新治郎は印刷機事情を学ぶためにアメリカに旅立ちました。五月一日からシカゴで開かれる万国博覧会を目指しての旅程でしたが、新治郎は彼の地で、簡易印刷機を巡る事情をつぶさに調べて回ります。ミメオグラフとして販売されていた印刷機を開発したトーマス・エジソンに会えたことは、新治郎にとって生涯、忘れがたい思い出となりました。

ルーツとなったエジソンのミメオグラフ


 当初、電気仕掛けで振動するペンによって、原紙に細かな穴をあける謄写印刷機の特許を取ったエジソンは、その後、ヤスリと鉄筆による製版方法に関して特許を取り直していました。これを商品化したミメオグラフを携えて、堀井新治郎はその年の十一月に帰国します。子の耕造も、父の訪米中に三井物産を退職していました。父子は翌一八九四(明治二十七)年の一月、ミメオグラフをもとにした印刷機を作り上げ、同年七月、東京神田に謄写堂を起こして謄写版の販売を始めます。
 まったく新しい道具を売り始めた堀井父子にとって、創業直後の八月一日に宣戦が布告された日清戦争は、強い追い風となりました。
 先ず官庁や軍に売り込みをはかろうと考えていた謄写堂は、九月、初めての注文を大本営から受けたのです。転戦先に容易に運ぶことができて、簡単に印刷物が作れる謄写版は、軍の要請にぴったりでした。自分たちの手許で作業を終えられることは、機密保持の観点からも有効です。試験的な採用を経て、翌年一月には軍から大量の発注を受け、謄写堂は昼夜兼行で製造にあたりました。
 軍に開いた扉は、民間にも通じていました。田村紀雄は『ガリ版文化史』で、謄写版が広まっていく経緯を次のように書いています。

「日清戦争が終わるや、〈謄写版兵〉たちも、戦線から大量に農村へ復員した。これが、民間・在野でのその後の謄写版の普及・利用に役立ったことは疑いない。
 足尾鉱毒問題での農民のチラシ、小冊子活動はつとに有名だが、明治三十年からは大量のガリ版印刷物が残存している。まさしくガリ版印刷は、こうした民衆運動にとって有効な、紙の弾丸を放つ武器となった」

 軍や、役所、学校など、謄写堂が当初売り込みを狙った市場に加え、企業や新聞社、通信社、加えて農民運動や労働運動などへとじょじょに浸透していった謄写版は、果たして当時の若者の目にどう映ったのか。志村章子は『ガリ版文化を歩く』で、銀座、伊東屋の会長を務めた百歳の伊藤義孝にインタヴューして、印象的な証言を書き留めています。

「中学三年の夏休み(一九一二年=明治四十五)でしたよ。村に帰って四、五人の幼な友だちと話しているうちに〈よその村では文芸雑誌を便利な機械で刷っている〉と言い出した者がいたんだ。しかも実物を見せるものだから、いよいよやってみたくなった。/五人の仲間の中に、役場の給仕をしている藤田って男がいまして、そいつが役場にたった一台だけど、謄写版があると言うんだね。/われわれは、役場の謄写版を借りることにしたんだが、えらい人に怒られはしないかとちょっと心配だった。でも、役場にわからないように刷れば大丈夫ってことになった。原紙やインクは買ったのかって? 無断でもらっちゃった(笑)。夜中に刷ったんだが、面白かったな」

 こうして官民の組織に加え、庶民のあいだでも手軽な印刷機として広がっていった謄写版は、大正に入ると既存の印刷業の裾野に新たな層を生み出していきました。謄写版を使って、比較的部数の少ない冊子の印刷を引き受ける専門の業者が生まれてきたのです。原紙切りを職とする〈孔版家〉が育ち、プロの誇りをかけた新しい書体や技術の開発、器具の改良が進められました。多色刷りを駆使した美術謄写が、さかんに試みられたのはこの時期です。同人誌や機関誌、パンフレットなど、活版で刷ると高くつく少部数の印刷物が、育ってきた高い技術に支えられて謄写版で作られるようになりました。
 印刷産業にも地歩を固めた謄写版は、その後、歴史の中で二度、黄金期を迎えます。
 一度目は、一九二三(大正十二)年九月一日の、関東大震災の後。そして二度目が、一九四五(昭和二十)年八月に、日本が太平洋戦争に破れた後でした。印刷産業の基盤が壊滅したこの二度の時期、軽い足腰で空白を埋めたのは謄写版でした。
 活版印刷業者がじょじょに態勢を立て直すと、謄写版は再び、印刷業の裾野に引き下がります。しかし印刷業における地位の変動はあっても、草の根のメディアとしての謄写版は一貫して、日本人の暮らしに根を張っていました。

普通紙複写機の登場


 私が大学に籍を置いていた一九七〇年代の前半は、この謄写版に、長かった役割を終える兆しが見え始めた時期でした。一九七一(昭和四十六)年に大学に入ったとき、すでに図書館には普通紙複写機が設置してあり、学校の周辺にはコピー屋も見られました。いちいち原紙を切らなければならないガリ版に比べれば、ボタン一押しで複写が取れるコピー機は、実に便利です。ただし在籍していた大学の図書館の一枚十円は例外的な馬鹿安で、普通の大学では三十円、町場のコピー屋では五十円ほどもしていました。国電の初乗りが、三十円だった時期の話です。便利ではありましたが、同じ原稿をまとまった枚数複写する際は、コピーは高嶺の花でした。
 それが七〇年代をかけて、コピーの値段はずいぶん安くなっていきました。ゼロックスの特許に触れない技術の開発にキヤノンが成功し、一九七〇(昭和四十五)年には、国産初の普通紙複写機が同社から発売されます。以降、この分野では、日本のメーカーがゼロックスに盛んに挑戦を仕掛け、競争を通じて値段が下がりました。少部数のミニコミなら、コピーでも作れるようになったのです。

 一九八〇(昭和五十五)年にまとめられた祖母の歌集『蜉蝣かげろう』の本文は、コピーです。
 あとがきで教えられたところによれば、父親が台湾総督府の会計官吏となったために、祖母は小学校一年の時、島原から台湾に渡ったのだそうです。女学校卒業後に加わった短歌の会で二、三年手ほどきを受けますが、結婚後は長く歌から離れていました。三人の子供を育て、結婚した長女に初孫の生まれたのが、敗戦から間もない一九四六(昭和二十一)年一月。この年の春、身一つで台湾から引き上げて、家族は結局、広島に落ち着くことになります。それから十年で、祖父は若くして逝きました。日本画が達者だった祖父の絵を、引き上げの時一枚も持ち帰れなかったことへの悔いを、私は母から何度も聞かされました。敗戦後の混乱と困難の中で、祖父には再び絵筆を取る機会が訪れませんでした。夫を喪い「何もなすなく過す折柄」、祖母は台湾時代の知人と再開し、短歌の会を紹介されて加わったといいます。歌は祖母の心の拠り所となりました。以来、喜寿を迎えたこの年までに詠んだ一千余首の中から、四百八首が選ばれ、百五十二頁の歌集にまとめられました。
 一時は一つ屋根の下で暮らしたこともある祖母でしたが、日常的な立ち居振る舞いの中で、なにを考え、なにを感じていたかはほとんど知りませんでした。祖母の人となりにわずかなりと触れ得たと初めて感じたのは、『蜉蝣』を渡されて読んだときです。
「黒ヘルを讃ふる孫がわが言を 古き明治と諾なふとせず」と歌われたのは、時期から見ても、間違いなく私です。「そんな〈古き明治〉なんてこと言った?」と抗議したくもなりましたし、思うがままに子や孫を評した歌には、かなりどきりともさせられました。とはいえどこか超然として見えた祖母の心のあり様は、手書きの文字面と相まって、一つ一つの歌によく感じとることができました。かくかくとした祖母の字も、和綴じでていねいに仕上げられた『蜉蝣』の、味わいの一つです。
 ただ自らの文字の姿を恥じていた祖母にとって、「思い出のためにも自筆で」との叔父の励ましは苦痛だったようです。悪筆では人後に落ちない私には、「悪戦苦闘の末勇気をふるい」原稿用紙への書き写しを終えたという祖母の気持ちが、良く分かります。最後の一行に書き記した「この健気なる老人を賛美してやって下さい」との言葉には、一首一首を確かめながら清書の作業をやり終えた祖母の感慨が、よく現れているように思いました。

生活綴方が育んだ物


 私たちは文字を覚え、書くことを学びます。自分の感情や置かれている立場を言葉で確かめ、文章に書き記す術を獲得します。書いたものをじっくり吟味すれば、自分はなぜそう感じるのか、そう考えるのか、突き放して調べられることを体験していきます。
 小学生だった豊田正子の作文を集めた『綴方教室』や『続綴方教室』、『粘土のお面』を読み返してみると、書くという行為の積み重ねが一人の少女のものを見る目をどう鍛えていったかが、みずみずしい手触りと共に伝わってきます。
 担任として彼女を指導し、〈著者〉として『綴方教室』を世に出した大木顕一郎と清水幸治は、児童文芸誌『赤い鳥』を主宰した鈴木三重吉に、強い影響を受けていました。島崎藤村、芥川龍之介、小川未明、有島武郎など、当時の一線の文学者に執筆を求め、子供たちに優れた読み物を提供しようと試みた鈴木はもう一方で、子供たち自身の内から創造する力を引き出そうと試みました。『赤い鳥』は子供たちからの作品を求め、鈴木が綴方を、北原白秋が詩を、山本鼎が絵を担当して選び、選評を添えて誌面で紹介していきました。
 一八七二(明治五)年に学制が定められた当初から、文章を書かせることは小学校における国語教育のテーマとして組み込まれていました。国が示したその目的は、見聞きしたことや暮らしの中で必要なことを、簡単、明瞭に書かせることです。
 これに対し鈴木は、綴方をより深くとらえようとしました。「単なる文字上の表現を練習するための学科ではない。私は綴方を、人そのものを作りととのえる、『人間教育』の一分課として取扱っている」(『綴方読本』)とする鈴木の主張は、大正デモクラシーと呼ばれる自由主義的、民主主義的な気運の高まりを体験してきた教師の多くに、強い影響を与えます。
 文学者の鈴木が『赤い鳥』に子供たちの作品を吸い上げていく一方で、現場の国語教師たちの中からも、綴方の新しい試みが広がっていきました。
 先ず子供たちに作文を書かせ、文章を指導する。次に、書き上げられた作品をガリ版刷りの文集にまとめ、子供どうしで読み合い、聞き合い、話し合わさせる。この繰り返しの中で、自分と自分の生活を見つめる目を育て、強く生きる力を育てていく。
 高知県の山村の小学校で、生活綴方と呼ばれるこうした試みを続けた小砂岡ささおか忠義は、一九三〇(昭和五)年から雑誌『綴方生活』の編集に取り組み、この運動が全国的に広まっていくきっかけを作ります。
 世界恐慌のあおりを受けて日本が昭和恐慌に見舞われ、農産物の価格が特に大きく下落したこの時期、農村は疲弊を極めました。農家の娘たちが身売りされ、小作争議が相次いだ時代です。秋田の教師たちが中心となって、同じく一九三〇(昭和五)年に創刊された『北方教育』は、文学的な美意識を物差しとし、方言をマイナスの要素ととらえた『赤い鳥』の綴方を乗り越えようと試みました。上手な作文を標準語で書くことよりもまず、しっかりと目を見開いて自分たちの生活を直視することを優先させようとしたのです。
 北方教育と呼ばれるこうした教育実践が、東北の教師たちに広がっていくその一方で、一九三一(昭和六)年、日本は満州事変を引き起こし、翌年、傀儡政権を立てて満州国の建国を宣言します。中国政府や欧米諸国はこれを認めようとせず、日本は国際連盟から脱退。満州に覇権を打ち立てようとした企ては、日中戦争から太平洋戦争に続く、十五年戦争へと日本を導いていきました。
 この間、一九三二(昭和七)年の五・一五事件、一九三六年の二・二六事件と軍部の青年将校によるクーデターが繰り返される中で、政治に対する軍の影響力は強まっていきます。物心両面で、国民を根こそぎ戦争へ動員しようとする体制が強化され、一九三七年から始まった国民精神総動員運動の中では、共産主義、社会主義にとどまらず、自由主義的な考え方も、反国家的であるとして弾圧の対象となりました。生活綴方を実践していた東北の教師たちも、治安維持法違反容疑で検挙され、書くことを通じて子供たちに時代を直視させようとする試みは押しつぶされていきます。

復活の象徴となった『山びこ学校』


 こうしていったんは途絶えた生活綴方の精神を敗戦後の日本に蘇らせる上で、山形の山村の中学校教師、無着成恭が指導してまとめた『山びこ学校』という文集は、大きな役割を演じました。
 戦前、山形の小学校で生活綴方を指導した児童文学者、国分一太郎によれば、戦後すぐに綴方が復活しなかった最大の要因は、アメリカ流の「新教育への幻想」にあったと言います。(『山びこ学校』百合出版版の解説)
 戦時下の教師たちは、天皇のために死ぬことこそ〈神国〉日本国民の最高の美徳である、と教えました。この反省にたって、一人ひとりの人間の自由を尊重する、合理的、民主的な教育を目指そうと戦後の教育が再出発した時点で、こうした価値を社会的に実現してきた「アメリカ式新教育方法の無批判な、全面的とりいれ」が目指された。その一方で、これまで日本の教師たちが積み重ねてきたさまざまな試みは、「大局において、あやまった教育の方向に奉仕したもの」として切り捨てられたと、国分は指摘しています。
 無着の実践は、こうした空気の中で途絶えたままとなっていた生活綴方を再評価する、大きなきっかけとなりました。
 国語ではなく、社会科を教えていた無着が子供たちに綴方を書かせようと考えたのは、「ほんものの教育をしたいという願い」(『山びこ学校』後書き)からでした。かやぶきの校舎の、暗い、吹雪が吹き込んでくるような教室で、赴任してきた無着は先ず、文部省の与えた教科書に忠実に授業を進めました。その教科書を開くと、「村には普通には小学校と中学校がある。この9年間は義務教育であるから、村で学校を建てて、村に住む子供たちをりっぱに教育するための施設がととのえられている」と書いてあります。ところが教科書から目を起こせば、地図の一枚もないおんぼろ教室の様子は、教科書に嘘が書かれていることを突きつけてくるのです。
 では本当の教育をするためにはなにができるのか。
 無着からこう相談を受けた山形新聞の論説委員、須藤克三は、戦前、小学校教員として生活綴方運動に携わっていました。国分によれば、須藤は生活綴方の体験を語り、「いまの形式主義的でゴッコ遊びみたいな社会科のゆきづまりを打開する道は、生活綴方の方法で開けるかもしれない」と無着に指摘します。そして無着は「社会科で求めているような本物の生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方に求め」、「現実の生活について討議し、考え、行動までも推し進めるための綴方指導」に乗り出していったのです。
 この試みの中から生まれた『山びこ学校』が広く読まれたことは、生活綴方を蘇らせる大きなきっかけになりました。さらに『山びこ学校』に触発されて、大人たちの間にも、暮らしを見つめて書き残していく生活記録運動が広がっていきます。

書くことに人が託そうとする願い


 書きながら考え、書き上げたものをさらして批判を受ける。そこからもう一度考えていく中で、自分自身を高め、状況に働きかける力を養っていく。
 生活綴方が目指したこうした精神の作用は、人を書くことに向かわせる主要な動機の一つでしょう。誰かの高説を借り、論理のはしごに上って高みから説き起こすかわりに、自分自身や、置かれている状況のありのままを見つめるところから始め、そこから書き出す方法にも、単なる方法論以上の意味があると思います。
 私の母は、教育者ではありません。けれど詩という経験したことのない形式にとまどっていた小学生の私に、「自分がどう感じているのか考えて、それを書け」と言ってくれたことは、生活綴方の精神に符合した有効な忠告でした。我が家には、ベストセラーとなった『綴方教室』と『山びこ学校』があったような気がします。台湾から無一文で引き上げ、家業に追われながら二人の子供が心豊かに育つことを強く願い続けた母には、生活綴方になにか感ずるところがあったのかもしれません。
 高校時代に『しかし』を出していた当時、我々はまず、綴方そのものをまったく知りませんでした。豊田正子や北方教育に関しては聞いたこともなく、唯一、無着成恭に「ずうずう弁の教育評論家」といった印象を持っていただけです。無着と教え子たちのその後の四十年を跡付けた、佐野眞一の『遠い山びこ』を読んだのは、四十代になってからでした。
『山びこ学校』に学ぼうとする動きが、教師たちの中に生まれたこと。教員として歩み始めたばかりの無着が、この一冊で戦後民主教育の寵児に押し上げられ、大波にもまれていく顛末。そして出版によって貧困や因襲を暴かれた〈村〉にしっぺ返しをくらい、学校を去ることになった経緯。『山びこ学校』の精神を体現する教え子、佐藤藤三郎との相克。要するに、山村の中学教師が東京の私立学校、明星学園の教師に転じ、「子ども電話相談室」というラジオ番組の名物回答者となる経緯の一切を知りませんでした。
 我々の『しかし』は、勝手に集まった連中が気ままに出していったミニコミで、教師の指導とも無縁です。そもそもその存在自体を知らないのですから、生活綴方や生活記録運動とのどんな具体的なつながりもありません。けれどあらためて、あの運動の跡を振り返ってみると、『しかし』は、ガリ版刷りで産み出された夥しい文集を継ぐ、やんちゃな弟に思えてきます。
 一九五一(昭和二十六)年に中学校を卒業した無着の教え子のうち、高校に進学できた者は四十二人中四人に過ぎませんでした。農業の衰退というその後の大きな流れの中で、力強く育てようと彼らが願った村は、過疎化に向かいます。高度成長の手前で町に出た者たちも、酷薄な労働環境に身をさらすことになりました。ぶれの大きかったその後の無着の歩みや、一部の教え子の中で膨らんでいった反発もまた歴史の事実です。
『山びこ学校』の書かれざるエピローグは、心安らかには読めません。
 けれどたとえそうであったにしても、『山びこ学校』は今も輝きを失ってはいません。人々をがんじがらめに縛り付けていた巨大な価値が転倒し、空白の中で自ら立たざるを得なくなった。その一瞬のタイミングを捉えて生まれたこの試みには、書くことに人が託す願いの、身をすくませるような力があふれています。
 この書くことへの願いにおいて、『しかし』と先に生まれたたくさんの文集とは、通じ合っています。

『パソコン創世記』で、私は自分自身が体験してきたビートルズの革命と、学生が中心となった価値の問い直しの試み、そしてパーソナルコンピューターの誕生とを繋ごうと考えました。その時胸にあったものもまた、同様の書くことへの願いでした。
 初めての本を出すにあたって、私は抜きがたい影響を自分に与えた体験とじっくり向き合いたいと考えました。ビートルズもフォークソングも、学生運動、そしてパーソナルコンピューターも、確かに自分の目で見てはきたのです。いえ、単に見ただけではなく、その渦中に飛び込んで手にも触れ、身体でも感じてきました。ただあらためて振り返れば、個々の出来事を結ぶ糸はぼんやりと見えるような気はしても、自分という存在を貫くがっちりとした骨組みとは意識できませんでした。
 本を書く機会を与えられて、私は自分の骨になったのではないかと思う大切な体験についてあらためて考え、自分自身が、そして読んでくれる他の人たちが納得できるような、明快な構図を与えて書き記したいと思いました。
 人は言葉で語って初めて、体験を腹におさめます。書くことで自分と距離を取ってこそ、感情の激しい波の下に潜り込み、底に潜んでいる本質を見つめられます。
 早くして伴侶を喪った祖母は、歌うことで、暮らしの中で生じる感情のうねりの下に潜り込み、喜怒哀楽を腹におさめて安心を得ました。
『しかし』には何度か、死への恐れを語った文章が載ります。「君たちとつながりあいたい」と訴えるその足下で、何をどう結ぶのかという問いかけが、学校の日常の中でぼろぼろと崩れ落ちてしまうことへの恐怖が、痛切な自己批判と共に語られました。暴風にもてあそばれる難破船のような自我のうねりの中で、彼らは書くことによってなんとか、精神の転覆を免れようとしていたのでしょう。
 社会科の教師であった無着成恭が『山びこ学校』で強く打ち出したように、書くことを書くことに終わらせず、行動の原動力とする力強さを備えた文章も、『しかし』には載りました。フォークキャンプ実現に向けた呼びかけやサッカー部後援会への決算報告要求。女子生徒だけが入試の手伝いに駆り出されることへの抗議と事態の改善要求。そして南京大虐殺写真展の総括文などには、力強く踏み出した足の響きを感じます。
 あらためて整理し直してみれば、私自身を書くことに向かわせてきた力は、多くの人が書くことに寄せてきたこの願いが形作る、大河の一滴に他なりません。

手書きの温もりとフォントのそっけなさ


『しかし』を出していたころも、大学時代たくさんのビラを書いていた時期も、そして物書きを目指して初めての本に取り組んでいたときも、書くことにこめた願いの本質は変わらなかったと思います。
 けれどもう一方で、出来上がってきた『パソコン創世記』を手にしたとき、私はこれまでに体験したことのない、大きな新しい力の存在を感じました。てのひらにのせた出来たての文庫本には、ガリ版やコピーで作ってきた冊子には感じられなかった、がっちりとした手応えがありました。
 ガリ版の手書き文字には、独特の味があります。祖母の筆跡は、それ自体がさまざまな思い出を揺り起こすメッセージです。けれどもう一方で、印刷に使われる文字は、手書きに望めない作用を備えています。統一感を持ってデザインされた印刷用の文字は、フォントと呼ばれます。美しくて読みやすいと言うだけでは、このフォントの作用を十分説明したとはいえません。
 鍵は、フォントの持っている〈そっけなさ〉にあるでしょう。
 手書きでは、同じ人が同じ文字を書いたとしても一つひとつに微妙な差が出ます。こうした文字の揺らぎを、我々はメッセージとして受け取っているはずです。手書きの文字は常に微妙に揺れていて、時には疲労や感情のうねりによって大きく揺らぐ。意識するにしろしないにしろ、そうした変化を我々は感じとっています。
 一方フォントには、揺れがありません。雰囲気は全ての文字で統一されていて、同じ文字はいつでも寸分違わない。こうした特徴のゆえに、私たちは揺らぎという要素をはじめから頭の外に追いやって、文章その物に意識を集中して読んでいけます。
 文章の中味からすれば、字形の揺らぎはいわばノイズです。フォントで読むことは、騒音のない部屋で読書に集中するような効果を与えてくれます。一方手書きには、〈音〉がつきまとっています。慣れないくずし字や乱暴な文字は、読書の妨げとなる騒音です。なつかしさを覚え、美しいと感じる文字で書かれたものを読むことは、心地よい音楽の鳴っている部屋で本に向かい合うようなものでしょう。
 ただし、文章の意味を受け取ろうと読む際は、手書きの揺らぎや味はノイズとして機能します。たとえ美しいメロディーであったとしても、鳴り続ける音は文意を追うことを妨げます。
『パソコン創世記』を開くと、フォントで組んだ文字は紙面にしっかりと落ち着いて見えました。文字を追う視線の走りはなめらかで、意識を集中すれば言葉の連なりが自然に読む側の心に流れ込んでくる気がします。
 自分の書いたものが雑誌に載るようになった時にも、そんな感慨が湧きました。けれど今回は、最初から最後まで全て自分が書いた原稿なのです。
「やはり本はいいな」
 できたての『パソコン創世記』を開いて、私はあらためてそう感じました。

本が与えてくれる物


 本にした原稿の落ちつきには、これまで本作りの歴史の中で蓄積されてきた、たくさんの知恵も与っています。
 紙面全体のどの程度を文字組にあて、どこに配置するのが適当か。本文用の書体は、どんなものが読みやすいか。文字の大きさはどの程度にするか。一行は何文字が適当で、一頁には何行くらいをおさめるべきか。さらに句読点の処理や数字の表記、漢字の使い方、和文の中に欧文を交ぜ書きする際はどうすれば読みやすくなるかといったさまざまな点に関して、本作りに携わる人たちは工夫を重ね、成果を分かち合ってきました。本や雑誌のデザイナーは、こうした蓄積を踏まえた上で、時には常識を裏切ろうと試みます。
 出版社と話を付け、本を出してもらう機会を得ることは、こうした蓄積や才能のきらめきを借りるチャンスでもあります。必要なら、きれいに仕上げた図版や写真を組み込めるのも、手作りには望みにくい長所です。
『パソコン創世記』を手にしたときの喜びの根には、もう一つ、たくさんの人に読まれることへの期待もありました。
 クラスの文集なら生徒の人数分。『しかし』で生徒総数の六百部。祖母の歌集は二、三十部だったのではないでしょうか。個人や数人の仲間が、自分たちの意思で出せる数と言えば、せいぜいその程度でしょう。
 一方出版社から本を出してもらう際は、取次店と呼ばれる本の卸をへて小売り書店に至る、大きな販売網をあてにできます。知ってもらう工夫、配布の手間、読んでもらう努力に関しても、出版社にげたをあずけてしまえます。
『パソコン創世記』の初版発行部数は、二万でした。定価の安い文庫本で出すという事情から、経験も実績もない著者であるにもかかわらず、かなりの数を刷ってくれました。
 しっかりと出来上がった販売網を通して、かなりの部数を商品として流せることは、書き手の受け取る見返りにも跳ね返ってきます。書き下ろし文庫の『パソコン創世記』の定価は三百九十円で、印税率は慣例通りの十パーセントでした。初版部数が二万ですから、私の受け取った印税は、税込みで七十八万円。十パーセントが源泉徴収されて、手取りは七十万二千円でした。
 正月に印刷所や出版社が休むため、暮れが近づくと雑誌のスケジュールは前倒しの年末進行に移ります。これを乗り切った十二月の半ばから集中して書き始め、四百字詰め原稿用紙で三百枚ほどの原稿をひとまず書き終えるまでに、四十日前後かかりました。
 NEC内部の動きに関しては、数か月前に雑誌の仕事でかなり念入りに取材しており、資料の整理やインタヴューの録音テープを書き起こす作業もすませていました。もう一方の柱となる友人からも、あらかじめ長い時間をかけて話を聞いており、録音テープを元にノートを作っていました。こうした準備作業にどのくらい時間をかけたかは、はっきり記憶していません。直接関連する作業だけで、原稿執筆を含めて三か月といったところでしょうか。もちろん自分がパーソナルコンピューターに興味を持って、いろいろな雑誌や本を読んだり、コンピューター言語を学んでプログラミングを試みた時間などは、ここには入っていません。雑誌分の作業では別個に十万円程度の報酬を得ましたが、それを足したとしても三か月休みなしの集中した作業で、報酬は九十万円ほどでした。
 この額が少ないと言いたいのではありません。正直なところ、私も多いとはさらさら思いません。けれどここで確認したかったのは、新米のライターでも、出版社から本を出せばこの程度の報酬は期待できるという点です。
 この本をまとめたいと思った気持ちの根にあったのは、『しかし』を出し、自分のうたを作った挙げ句レコードにまでしてしまい、詩集もどきを作り続けたときと同じ、書くことへの衝動でした。けれど似通った気持ちから始めた作業とは言え、一冊の本としてまとめられるところまで原稿の分量を用意し、質を高めようと自分なりに試みることは、精いっぱいの努力を集中して続けることなしにはとても不可能でした。
 そしてこの作業に全力投球する上では、七十八万円はやはり力強い支えだなと、私は感じました。もしもこうした報酬なしで、生活を支える仕事を別に持った上で、手応えのあるものを書き続けられるだろうか。そう問い直してみると、自分がいかに怠け者であるかを知り尽くしている私としては、否と答えざるを得ませんでした。こうした計算を無意識に行っていたからこそ、書くことに添いたい気持ちの強かった私は、職業として書くことを志しました。
 今では冷や汗なしにはとても読めませんが、それでも自分なりに力を込め、出版業界に蓄積した知恵を借りてフォントで組むことの出来た『パソコン創世記』は、この選択の輝かしい成果でした。二万部が全国の書店に並ぶという点も、商品としての本を書き得たからこそのうれしいご褒美でした。
 ところがこの『パソコン創世記』が、突然消えてなくなったのです。

二つに引き裂かれる書くという行為


 この件があって私はつくづく、「書くことはこの世では二つに引き裂かれているのだな」と意識するようになりました。
 商売の理屈と折り合いをつける覚悟も決めて、じっくりと原稿を練り、しっかりした本を作るのか。それとも自分のペースで、書きたいように書いていくのか。まとめて作らないと効率が悪くなるという紙の冊子の制約があって、書くという行為は現世においては、プロとアマチュアの二つの世界にかなりはっきり引き裂かれてしまう。両者の中間で、いろいろな試みを工夫してみることが難しい。そしてこのうちのどちらを選んだとしても、そこで何かを取り落としてしまうのです。
 そう気づいてみて、私はどうしたのでしょう?
 結局何もしませんでした。
 今になって私は、あの時のことを思いだし、ああでもないこうでもないといろいろなことを書き連ねています。けれどあの時点では、件の出版社の人たちとも何もなかったように付き合い続け、予定していた仕事を予定していたペースで進めました。呆然とした気持ちは悔しさに変わり、内心で尾を引いてはいました。けれど表面上は、嘆くことも悔やむことも、立ち止まることもありませんでした。
 なぜなら、たとえどんなに嘆いてみても、書くことがこの世では二つに引き裂かれてしか存在し得ない事情は変わらなかったからです。
 であるのなら、いずれにしろどちらかの立場を選ぶしかない。その答えを、自分はもう、はっきり出している。とすれば、後はプロの書き手としてある意味で〈強くなっていく〉しかないと考えました。
 しっかりした原稿を書き続けて編集者たちに一目置かせ、そこからさらに手応えのある本を出していく。どうすれば本が売れるかは分からない。けれどちゃんとした本が書ければ、惨敗はないだろう。書き手としての私は、この道で深く仕事を掘り下げることに集中しよう。そうすればきっと、出版社が切って捨てるほどの売れ行きにはならないはずだ。つまりプロの書き手として強くなることで、この世界で生き残ってやろうと考えました。
 本や雑誌の根っこは、商品です。たくさん売れて儲かるものを作りたいと出版社が考えるのは、当然です。売れるテーマ、売れる書名、売れる書き方を出版社なりに考え、書き手に求めることにもなんの不思議もありません。
 私が生き残りを決意したのは、そんな世界でした。
 ですから、以降も『パソコン創世記』絶版事件の小型版は、何度となく体験します。けれどそんなトラブルを繰り返しながらも、私はしだいに、この世界の仕組みになじんでいきました。
 ライターとしての仕事を続ける中で、私は書くことがますます好きになりました。それに連れて、深く書き込んだ原稿をたくさんの人に読んでもらうには、いろいろと問題はあってもこの世界と付き合って行くしかないという考えに、まったく慣れ切っていったのです。
 大切な原稿が本になっていなかったり、重要な本が絶版のまま放置されたりと、本にまつわる世界には問題が多い。紙の冊子作りにまつわる制約で、いろいろと不自由なことが起こる。けれどそれでも本自体は素晴らしいのだから、これでしょうがないじゃないか。
 そう観念しきっていったのです。
 でも、本当にこれしか道はないのだろうか。
 心の配線を固定して、あっけらかんと信じ切っていたことを私が疑い始めたのは、ある毛色の変わった〈本〉を知ってからでした。
 その新しい本は、パーソナルコンピューターの画面の中に収まって、私との出合いを待っていました。

コンピューターの中の新しい本


 画面上に開かれた新しい本を読み始めてすぐに、私は〈本〉という言葉の成り立ちが、自分の意識の中で変わり始めるのに気づきました。
 これまでの私にとって、本とは紙の冊子に文字を印刷したものに他なりませんでした。紙でできた冊子であることは、本という概念と一体となっており、決して切り離しては考えられなかったのです。
 その分かちがたいはずの絆が、あっけなくゆるみ始めました。
 新しいものの誕生を境に、言葉の成り立ちが変わってしまう事態は、これまでにも何度か経験しています。音楽をおさめた丸くて薄い板は、かつては一言「レコード」といっておけばすみました。それがCDが普及し始めると、あえてデジタルの反対語を頭にくっつけて、「アナログレコード」と呼ばないと特定しにくくなりました。マイクを組み込んだタイプの登場を境に、ギターは従来型のアコースティックギターとエレクトリックギターに別れます。アコースティックピアノとエレクトリックピアノしかり。画面上の本を読み進むうちに、「コンピューターで読む新しいものが電子本なら、これまでの紙の本はそのうちに印刷本などと呼ばれるのかな」と思い始めました。
 あらためて電子本と印刷本という二つの言葉を頭に置いてみると、紙の冊子という形は本というものの本質からますます遠ざかっていくような気がしてきます。新しい電子の本は、コンピューターを誰もが利用できるようになったからこそ、生まれてきた。同じ論法でいけば、これまでは誰もが利用できる構造として紙の冊子が最適だったからこそ、本はこの形と結び付いていた。考えてみれば実に当たり前のそうした事情を、あらためて強く意識するようになったのです。
 そして私は、メモ用紙に印刷本と電子本のそれぞれの特徴を書き出してみました。

 まず印刷本は、軽くて持ち運びできる紙の冊子でできている。紙に印刷された文字は、とても読みやすい。書き込みもできる。一方印刷本で不便なのは、複製だ。もう一部だけ欲しいからといって、はじめから印刷の工程をたどり直すことはできない。一から書き写すしかなかった頃に比べれば、複写機の使える今は天国だろう。それでもコピー取りには手間とお金がかかる。あらためて製本してやらないと、ばらばらの用紙の束では扱いにくい。
 これに対して電子本は、コンピューターと結び付いている。持ち運びの求めに応えて、最近では超小型機も作られている。けれど今のところ、主流は机に据え付けて使うタイプだ。印刷本のようにどこでも読めるとはいかず、装置のあるところで読むのがとりあえずは中心となる。紙と比べれば、画面上の文字を長時間読み続けるのはかなりつらい。
 書き込みは、電子本でもできる。文章を作って貼り込んだり、いったん書いた物を変更したり削除したりといった操作は、コンピューターではとても簡単だ。紙の本では手書きになるけれど、電子本では書き込みにもフォントが使える。いったん書いたものを、跡形もなくきれいに消すこともできる。
 印刷本でも、複写機を使えば、文章の一部をコピーすることは容易だ。ただし電子本なら、もっと簡単になる。ある箇所を引用したいのなら、その部分を指定して〈コピー〉するように指示し、自分が書いている文章の上で、貼り付けを意味する〈ペースト〉という操作をすればよい。はさみと糊で貼り付けるよりはるかに簡単に、しかもきれいに処理できる。
 さらに電子本には、コンピューターならではのメリットがいくつも付いてくる。
 例えば、話題になっているマルチメディアという特長もその一つだ。

マルチメディアと電子本


 電子本では、文章がコンピューターの扱えるデジタル形式の情報に置き換えられている。同様に絵や写真、動画、音などいろいろな形の情報も、今はすべてデジタルに変換できる。これまでなら、絵は紙やキャンバスの上、写真は印画紙、動画はフィルムやビデオテープ、音はレコードやCDと、それぞれ専用の〈器〉におさめられていた。ところがデジタルという同じ形にそろえれば、あらゆるものを一つの器に入れられる。
 コンピューターで広く使われている器に、もともと音楽用に開発されたCDの技術を応用した、CD―ROMがある。普及している装置の大半は再生専用で、通常書き込みには使えない。ただしともかくたくさんの情報が入る。大容量の必要な、動画にも対応できる。文章や音、さまざまな映像をあらかじめ焼き込んでおけば、一枚のCD―ROMからそれぞれを引き出せる。
 さらに、異なった形式の情報を結びつけられるようになるのも大きい。
 従来の印刷本でも、内容を連携づけるために注や索引が工夫されてきた。ただし言葉と言葉は結びつけられても、言葉と音、言葉と映像を関連づけるといったことは不可能だった。ビートルズの音楽を解説する本を作るのなら、文章と彼らの演奏とが連携づけられればとても楽しいだろうと、夢は見られる。ある曲の解説を読み始めると、その歌が鳴り出すのだ。小津安二郎の映画の本なら、『麦秋』の解説のそばに小さなスクリーンが付いていて、原節子が動き出せば面白い。
 文章と音や映像を別の器におさめるしかなかった時点では、夢は夢にとどまった。けれどコンピューターを使って器を一つにしたことで、それぞれを自由に連携づける〈マルチメディア〉が可能になった。電子本なら、当然これが活かせる。演奏付きのビートルズ本も、映画入りの小津本も作れる。
 加えてコンピューターでは、おさめられた情報を操作して、別の形式で再生できる。文章を機械に読ませることは、ごく普通に行われている。視覚障害者用のマシンは、キーボードを叩くとどのキーが押されたかを声で教えてくれる。専用の装置を使えば、文章を点字にして打ち出すことも可能だ。こうした機能を使って、電子本は声で読み上げたり、点字に変換したりできるようになるだろう。
 コンピューターによる翻訳も、一種のデータ変換かもしれない。英語の電子本を翻訳ソフトと組み合わせ、日本語で読むようなこともできるかもしれない。
 コンピューターならではの機能は、もっともっと並べ立てられる。
 ノンフィクションの洋書でしばしば感心させられるのは、とても詳しい索引が付いている点だ。一度読んで終わりにするのではなく、参考資料として何度も何度も繰り返し開こうと考える際は、索引が大きな意味を持つ。詳細な索引は、「この本は重要な資料として繰り返し開かれる」という、著者の自信と誇りを表しているように見える。
 概して日本のノンフィクションは、この索引が弱い。用意する側にたつと、一般的な本作りの工程がほぼ山を越えた段階で、そこからやっかいな大仕事をはじめることになるため、索引作りには強い意志がいる。ところがコンピューターにとっては、長い文章の中から指定した言葉を探してくる検索はお手の物だ。この機能を付けておけば、それだけで電子本には完璧な索引が付いたのと同じことになる。
 コンピューターでは、昔から通信回線を通してデータがやり取りされてきた。パーソナルコンピューターでも、通信は当たり前になった。国際電話でも違和感なしに話ができるように、情報は世界中どこでも、ほぼ一瞬に届いてしまう。印刷本を送ろうとすれば国内で数日、外国なら数週間かかるものが、電子本ならどこでもあっと言う間に届く。

電子本の最大のメリットは?


 コンピューターという強い味方と結び付いているだけに、こうして電子本の特長を数え始めるときりがないような気分になりました。まだ見えていないメリットもきっとあるに違いないと、妙な確信が持てました。
 白状すると、最初のメモには、機械翻訳との結びつきは入っていませんでした。パーソナルコンピューターでも機械翻訳が広く使われるようになった最近になって、「ああ、こことも結び付く」と気づきました。同じようにきっとこれからも、まだ誰も気づいていないメリットが、見つかるでしょう。
 ただし電子本の最大のメリットは、すでに明らかになっている気がします。
 それは、作ることと複製することが、とてつもなく簡単な点です。
 印刷本では、書き終えた原稿を本に仕上げるまでに、手間のかかる工程を何段階も踏む必要がありました。活字を使っていた時代には、文選工と呼ばれる印刷所のスタッフが原稿を片手に一字一字活字を拾い、行と行の間に詰め物をはさみながら頁を組んでいきました。
 一九七〇年代に入ってから活版にとって代わったオフセットでも、まず原稿をそばに置いて、写真植字機のオペレーターが一字一字、文字を選んで写真に撮りました。一九八〇年代に入ってパーソナルコンピューターやワードプロセッサーで原稿を書くことが多くなると、工夫すればオペレーターによる作業を省けるようになりました。原稿を書く側が文章をデジタル情報に変えておいてくれるため、これに多少の調整を加えるだけで、印刷用の版の元となるフィルムまでいっぺんに作れるようになったのです。けれどその場合でも、印刷機を回して大量の紙を刷り、製本してようやく本になる事情には変わりがありませんでした。
 コンピューターを利用することで、従来の印刷本を作る工程も、確かにかなり効率化されました。ところがもう一歩進んで電子本に踏み切ってしまえば、本作りは一瞬の操作で、あっけないほど簡単に終わってしまいます。
 あらかじめデジタル化しておいた原稿を、電子本を作るソフトウエアを使って、頁の形式に流し込んでみましょう。数秒後には、作業が終わったことをコンピューターが告げます。本作りはそれで完了です。あまりにあっけなくて拍子抜けすること請け合いですが、それでもう作ったばかりの電子本を読み始めることができます。
 写真やイラストを組み込んだり、頁ごとにレイアウトを変えるには、そのための追加操作が必要です。マルチメディアにこりたいとなると、音や映像の組み込みにも手間がかかります。組み込もうとする素材を、あらかじめ整える作業には、経験も求められるし、かなり膨大な時間も必要になります。ただしごく一般的な、文字だけが並んだものなら、電子本作りは一瞬で終わりです。
 さらに複製となると、これは本作り以上に簡単です。コピーしたい電子本を選んで、コンピューターに「複製を作れ」と指示すれば、数秒後にはもう一冊別の電子本ができあがっています。文字だけの電子本なら、どんなに分量が多くても一般的に使われているフロッピーディスク一枚に、まず余裕を持っておさまります。まとめて買えば、フロッピーディスクは今、四十円はしません。その程度の値段で、人に手渡せる本がどんどん作れます。
 通信費を覚悟すれば、すぐに世界のどこにでも送ることもできるのです。

電子本が切り開く新しい本の世界


 印刷本と電子本の特徴を比較したメモを元に、そこまで考えていく中で、私の中で本の常識は崩れ始めました。
 本は考えをおさめ、人に伝えるための素晴らしい器だ。けれど紙の冊子は、まとめて作らなければ効率が悪い。この構造は、書いて人の前に示すという行為を、二つに引き裂く。
 そして全ての読み手と全ての書き手は、二つの世界の間でなんらかのものを取り落とす。算盤勘定に合わなかったり、発掘のチャンスに恵まれなかったりすれば、優れた作品も本にはならず、ほとんどの人には知られずに終わる。書き手の知名度や人気を背景にして、大量に売れるものが書店の目に付く場所を占領する一方で、じっくりと売れていった優れた本が品切れのまま放置される。出版社に頼らず、自分の手で作品を形にしようと決心した書き手は、読み手にどう知らせるか、どう手渡すかという問題に直面し、結果的には効果的な答えを見いだせずに終わる。
 こうした本にまつわる社会的な構造を、紙の冊子と縁を切った新しい本は根っこから突き崩してしまうのではないか。そして読み手と書き手を縛ってきた鎖を断ち切り、新しい本の世界を開いていくのではないかと思い始めたのです。
 書くことへの願いを胸に宿した個人が、自分一人でしっかり仕上げた本を作ることができる。そして自分の本を、世界中のたくさんの人の前に示すことができる。そんな新しい本の時代が開けたら、いったいどんなことが起こるのだろう。
 私はそう考え始めました。

 豊田正子や山びこ学校の生徒たちの綴方は、印刷された本になるという〈奇跡〉があって初めて、たくさんの読み手の心を揺り動かすことができた。けれど新しい本の世界では、全ての作品が小さな奇跡を起こす可能性を持てるのではないだろうか。
 私はそう思い始めました。

『しかし』を通して、私たちの言葉は仲間を越え、両親や卒業生に届きました。卒業後、送られてくる『しかし』を通して、私は凛々しい魂の声を聞きました。じっくりと話し合い、理解し合う機会を祖母とは持てませんでしたが、残された『蜉蝣』を通じて、今も私は、祖母の言葉に耳を傾けることができます。ごくごくわずかな部数の本を出会いの場としても、書き手の与えてくれる縦糸と、読み手の心が紡ぎ出す横糸を編み、大切な人生の一こまを織りあげることはできるのです。
 こうした小さな織物を、まだ見ぬ誰かとの出会いの中で編む可能性を、電子本は膨らませてくれるのではないか。印刷本になる機会を与えられず、広く読まれないままに終わったもう一人の豊田正子、もう一つの山びこ学校からの声が聞こえてくるのではないか。私たちの『しかし』や祖母の『蜉蝣』に新しい光が当たり、印刷物である限りは決して出合うことのなかったもう何人かの読み手を、獲得できるのではないか。そしてあの『パソコン創世記』も、商売の理屈であっと言う間に消えてなくなるといった過酷な運命を免れ得るのではないか。
 そう考えると私の胸は、なんだかとても久しぶりに熱くなってきました。
 その時から私は、いつかこの本を書きたいと思い始めたのです。
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第二章 コンピューターで読む本がやってきた



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 一九九二(平成四)年の春、私はちょっと変わった本の書評を依頼されました。
 著者はイギリス人の作家、ダグラス・アダムス。『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』というその本は、かなりしっちゃかめっちゃかのSFでした。
 宇宙航行用の高速通路建設のために、ある日突然、乱暴な工事主任によって地球が取り壊しの目に遭う――。
 地球滅亡の仕立てとしては、やや情けないこんな出来事から始まる銀河放浪の物語は、もともとイギリスのBBCで、ラジオドラマとして生まれました。一九七八年の春に六回のシリーズで放送されると、番組には熱狂的なファンが付いたようで、このお話は脚本をまとめたアダムス自身によって、小説に書きあらためられます。
 これがベストセラーとなり、BBCはドラマの続編を作りました。さらに同局でテレビにもなり、アダムスはシリーズを書き続けていきます。
 独り善がりを恐れない、自信と臭みに溢れた諧謔には、たっぷりと文化的なひねりを効かせたお笑い番組、『モンティー・パイソン』に通ずるところを感じます。日本では一作目が風見潤によって訳され、『銀河ヒッチハイク・ガイド』として、一九八二(昭和五十七)年に新潮文庫から出ました。ただし同書はすでに絶版となっていて、少なくとも私が思い返す限り、この作品が大きな話題を呼んだような記憶はありません。
 一方、イギリスに加えてアメリカをはじめとする英語圏では、たくさんのマニアが育ちました。ラジオドラマはテープ化され、後にレコードやCDとしてもリリースされます。テレビ番組も、ビデオやレーザーディスクになりました。ファンのグループの活動も活発で、解説書や絵入りのイラスト版なども出ています。
 日本ではうまく回らなかった翻訳プロジェクトも、オランダやドイツでは成功を収めているようです。

電子本『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』


 タイトルとなっている『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』とは、この作品で重要な役割を演じる、ある〈本〉の名前です。
 書店の旅行ガイドのコーナーにはよく、『地球の歩き方』というシリーズがそろっています。
『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』は、この手のガイドブックの宇宙旅行版という設定です。ただし目的地別には、分かれていません。全一巻で、宇宙のあらゆる領域をカバーしてしまいます。アダムスによれば、それだけの情報を盛り込むには百万頁を要し、普通の紙の本で出版すると数棟の大きなビルに相当する量になってしまうと言います。(ちょっと電卓を叩いてみると、百万頁分なら紙の本の四千、五千冊でおさまると出ます。数棟の大きなビルなど必要ありません。アダムスという人はかなりおおらかな人で、この手の数字の誤りは作品の中にしょっちゅう出てきます)となると、近くを通る宇宙船をヒッチハイクして旅しようとする貧乏旅行者には、とても持ち歩けません。そこで小熊座にあるという出版社は、この本を電子化して出すことに決めました。
 こうして〈マイクロ亜中間子=電子装置〉として刊行された『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』は、少し大きめの電卓のような感じになりました。ここに四×三インチと言いますから、横が十、縦が七・五センチメートル程の、文庫本を一回り小さくしたくらいのディスプレイが付いていて、キーボードには百個ものキーがぎっしり並んでいます。地球で一般的に使われているキーボードとほぼ同数のキーを、小さな本体に組み込んだ構成には、出版元も使い勝手の面でかなり気が咎めていたようです。旅の途中で遭遇する危機に際してのアドバイスもかねて、プラスチックの電子本のカバーには大きく、「あわてるな(Don't panic)」と書いてあります。
 旅行者が必要とするあらゆる知識と知恵の宝庫として評判の高い『ガイド』の本文には、百科事典流の項目別記述が採用されています。
 例えば、情け容赦なく地球を壊滅させたヴォゴン人について調べたいときには、キーボードから「ヴォゴン」と入れます。すると電子本が、百万ページの中から該当する記述を選び出してくれます。見出し項目としては「ヴォゴン開発船団」が立てられているようで、入力した「ヴォゴン」そのままではありません。ただしこの程度のことには、検索システムがうまく対応して、知りたい内容にたどり着けるようになっています。電子本はディスプレイに文字を表示するほか、記載された内容を音声で読み上げる機能も備えています。
「銀河の知識を集成した百科事典」といえば、SFファンの脳裏にはもう一つの大著が、即座に浮かぶでしょう。ある条件を与えたら人はどう振る舞うだろうかを詰めていく、心理シミュレーション小説の傑作、アイザック・アシモフのファウンデーション・シリーズに登場する、『銀河百科大事典』です。
 銀河系の渦状分肢のさらに外縁に孤立する太陽の惑星、テルミナスにこもった三万人の研究者が、何世代にも渡ってえんえんと刊行し続けたというあの事典の存在は、アダムスの頭にもありました。『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』の冒頭で彼は『銀河百科大事典』にも触れていて、遺漏やかなりいい加減な記述があるにも関わらず、『ガイド』が『事典』をしのぐ人気を集め始めた理由を挙げています。一つには、『ガイド』の方が少し安かったこと。そしてもう一つ、原本には格調高く『宇宙船=太陽』のマークを箔押ししてあるという『事典』が、古めかしい装丁を採用しているのに対し、『ガイド』のカバーには、「あわてるな」と書いてあること。
 尻切れトンボの二つ目の理由が気になって、ファウンデーション・シリーズの第一作、『銀河帝国の興亡1』を読み直してみました。超空間をジャンプして恒星間旅行を可能にする宇宙船や、立体映像の再生装置、電子銃、電子銃が噴き出す原子流を吸収してしまう力場防御壁と、SFらしい道具建てはいくつも出てきます。ただし一九五一年に同書を発表した時点で、アシモフは銀河帝国の本の姿を、自分の著書とまったく同じ、紙の冊子に文字を印刷したものとしてイメージしていました。刊行作業の中心となっているテルミナスの百科事典ビルには、植字部という活字を並べていく部門があるのですから、銀河帝国においても、本作りの技術はグーテンベルクの確立した手法からたいして進歩していないものと思われます。
 一方一九七八年と、半導体の技術がかなり進歩してから世に出た『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』では、本は電子化され、大きめの電卓程度におさまっています。
 SFの中に登場した二つの巨大な百科事典は、紙の本から電子本へと移行することで大きく変わりました。膨大な空間をしめる紙の冊子は、電卓並みに小型化されています。きっと紙の本のままでは、索引で関連する項目のありかを調べ、該当する巻にたどり着いて目指すページを開くまでに、とんでもないエネルギーを要したでしょう。それが電子本では、キーボードから綴りを入れてそれで終わりです。さらに、文章を読んでくれるというマルチメディアのおまけまで付きました。

電子本の中の電子本


 書評を依頼された『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』は、シリーズの四作目までをおさめて〈完本〉と銘打ってあります。読むべき本は、編集者が手配して送ってくれました。
「さて読んでみようか」とパッケージを開き、私は中から取り出したフロッピーディスクを小さなコンピューターに差し込みました。ちょっとした操作を終えると、「あわてるな」と書いた『ガイド』のイラストを配した表紙が、ディスプレイに浮かび上がりました。
 私が読むように指示された『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』は、それ自体が電子本化されていたのです。
 出版元は、小熊座の会社ではありません。アメリカという地球上の国の、ボイジャーという会社でした。

 ボイジャーは、一九八五年に設立された若い会社です。海外の質の高い映画をアメリカに紹介してきたジャナス・フィルムと、ビデオ作品の制作にあたっていたボイジャー・プレスの合弁によって、レーザーディスクによる映画やマルチメディア作品の供給を目指して設立されました。代表者となったボブ・スタインは、妻だったアリーン・スタインとボイジャー・プレスを作った人物で、ここから引き継いだ社名は、NASAの惑星探査機から取ったそうです。
 映画に対する強い思い入れを土台として生まれたボイジャーの仕事には、最初からはっきりとした主張が込められていました。
 初めてのタイトルとして『市民ケーン』と『キングコング』を出すにあたって、ボイジャーは、標準、基準を意味するクライテリオンというシリーズ名を掲げます。
 テープの磨耗によって画質が劣化するビデオではなく、デジタルで記録した高いレベルの画像を長く保てるレーザーディスクこそ、映画をおさめる標準の器にふさわしいという主張が一点。加えて標準を標榜するシリーズで彼らは、映画監督がもともとまとめあげたオリジナルの形を、そのまま再現するという姿勢をはっきりと打ち出しました。
 映画のスクリーンとテレビの縦横の比率は、かなり違っています。横長の映画に比べ、テレビの画面は正方形に近い形です。そのためにテレビ画面いっぱいに出そうとすれば、必然的に絵が歪みます。特にシネマスコープといった画面を横長に取った作品では、歪みは大きくならざるを得ません。放映時間の都合で途中をカットされるのもたまらないでしょうが、丹念に一つ一つデザインしていったシーンを無理矢理ねじ曲げられるのは、映画監督にとって、身を切られるような思いでしょう。逆に見る側にとっても、特に映画を愛する気持ちが強くて、監督の抱いたイメージをそのまま受け取りたいと思えばそれだけ、もともとの形で見たいという願いは強くなります。
 ところが家庭用ビデオの業界には、本来のサイズを尊重して結果的にテレビの上下に空白を出すことを避けるという常識が、確固として存在していました。今から振り返ればそんな常識こそ非常識に思えますが、全ての映画をもともとの縦横の比率で記録するとはっきり方針を打ち出したのは、ボイジャーのクライテリオン・シリーズがはじめてでした。
 加えてボイジャーは、デジタルというレーザーディスクの特徴を生かして、作品にさまざまな注釈をつけることを試みました。動画の再生に加え、レーザーディスクなら静止画の表示も可能です。この機能を活かし、『市民ケーン』と『キングコング』には、予告編に加えて、撮影風景の写真や映画評が盛り込まれました。さらに『キングコング』には副音声で、映画評論家によるシーンごとの解説が加えらています。その後のタイトルにも、監督自身や脚本家、評論家などによるコメントや、場面のイメージを絵にしたストーリーボード、撮影台本など、さまざまな資料が組み込まれました。
 オリジナルを忠実に再現した上で、デジタル・メディアの可能性を切り開いていこうとするボイジャーの姿勢は、その後、この会社をコンピューターに接近させていきました。
 マッキントッシュ用に作られたハイパーカードは、「なにか自分でも作ってみたい」という気持ちを使う側から上手に引き出してくれる、実にこのコンピューターらしいソフトウエアです。文字や図形や絵に加え、これで音まで自由に扱えます。すぐに、動画も組み込めるようになりました。しかもハイパーカードでは、それぞれの情報を、自由に結びつけることができたのです。
 物事を整理して考えようとするとき、関連する事項を紙に書き出して重要なつながりを矢印で書き込んでみると、すっきり全体が見えてくることがあります。ハイパーカードでは、この矢印に相当する〈リンク〉を付けることができました。あらかじめリンクを仕込んでおけば、マウスのボタンの操作で、ある項目から一瞬に別の項目にジャンプできるのです。
 一九八七年に発表されると、「これならマルチメディアの土台になる」と、ハイパーカードには大きな期待が集まりました。
 ここにはさらに、CD―ROMから情報を引き出したり、レーザーディスクをコントロールする機能を付け加えることができました。こうした機能とリンクとを組み合わせることで、例えばコンピューターの画面に映画の解説を出しておいて、実際に見てみたいとなればマウスの一押しで、レーザーディスクに再生させるといった使い方ができるようになったのです。
 ボイジャーはこのハイパーカードを使って、先ずコンピューターでコントロールするレーザーディスクを出しました。続いて一九八八年には、楽譜や文字による解説と演奏とを巧みに関連づけた『ベートーヴェン交響曲第九番』を発表します。マルチメディアで実際に何ができるか、いち早く形にして見せたこの作品は、関連の会議やイヴェントでしょっちゅう紹介されていたことを記憶しています。そしてボイジャーはこれ以降、パーソナルコンピューター用のマルチメディア出版を、レーザーディスクに並ぶもう一つの柱として打ち出していきました。

拡張本開発プロジェクト


 パーソナルコンピューターに力を注ぎはじめて間もない、一九九〇年の夏、ボイジャーは少し変わった角度から、コンピューターと自分たちとの関わりを考え直そうとしました。もともと映像を中心に置いて、そこに文字を始めとするさまざまな注釈をつけてきたものを、逆に文章を原点に置こうと発想を切り替えてみたのです。
 彼らは、本を読むという行為を、コンピューターの上に移し替えてみようと考えました。
 コンピューターにおける読み書きのスタイルは、紙の上で経験してきたものとは大きく異なっています。
 原稿用紙にしろノートにしろ、メモ用紙、そして本にしろ、紙には頁が付いて回ります。あるところまで書いたら、新しい紙か新しい頁に移る。最後まで読み終えたら、次の頁をめくるという動作が、必ず挟み込まれました。
 一方コンピューターでは、永遠に続く巻紙のようなものの上で、読み書きが行われてきました。あるところまで書き終えると、ワードプロセッサーは自動的に巻紙の数行を繰り上げて、新しく入力される文字のスペースを確保します。スクロールと呼ばれる、こうした行送り機能の付いた巻紙の上で文章を書いていると、これまでまとめてきた内容がほぼ一定の割合で表示されます。ちなみに、私が今この文章を書いているコンピューターの画面には、およそ一二〇〇字程度が見えています。四〇〇字詰めの原稿用紙に換算すれば、三枚分。原稿用紙を使って書くのに比べ、かなり広い範囲の文章を一度に見渡せる勘定です。原稿用紙からワードプロセッサーに転向した者の実感としては、巻紙は書き物の舞台として、悪い選択ではありません。
 ただし文章を読む際は、巻紙環境は大変にこたえます。ブラウン管の目に与える圧迫感が、ここでは余すところなくその効果を発揮してしまうのです。
 あらためて自分の動作を振り返ってみると、書くときはキーボードの上や机のそこここに、しょっちゅう視線をずらしています。目に強いる緊張をできるだけ和らげようと、私たちは無意識のうちに防護策を講じているようです。
 ところが読むとなると、焦点は常にディスプレイの上に合ったままです。水晶体の厚みを調節する毛様体は、凝り固まったままでいることを強いられます。この状態で巻紙の行送りをかけると、鉛を溶いた目薬でもたらしたような鈍い疲れが、じんわりと瞳の底にたまってきます。
 もともとブラウン管は、目に強いる負担が大きいこと。加えて、書く際にはがまんできる巻紙環境を読む際もそのまま流用してきたことで、画面上で読むという行為はかなりつらいものになってきました。
 より実態に即して書けば、少なくとも長文に関して、画面で読もうとは誰も考えてこなかったというのが本当でしょう。ほとんど例外なく、コンピューターにはプリンターが付いています。「じっくり読むときは紙」という暗黙の了解が、作る側使う側の双方にあって、画面で快適に読む工夫は、これまでほとんど試みられてきませんでした。
 しかし本をコンピューターに移し替えようとすると、この問題はもう、避けては通れません。

 ソフトウエアの工夫によって、本のようなページ形式の読書環境を用意することは、比較的簡単にできます。ボイジャーも先ず、巻紙と縁を切った道具建てを用意して、ページをめくりながら読む実験を行ってみました。
 スクロールの強いる残酷な一撃は、これによって回避されました。しかしブラウン管のぎらつきに長時間付き合うことは、やはり苦痛です。本ならどこにでも持っていってその場で開けるのに、電子本はコンピューターのある場所でしか読めない不自由も、あらためて意識に上りました。「新しいフロンティア・テキスト」と書いたトレーナーやTシャツを作って気分を盛り上げた彼らでしたが、電子本を本格的に商業出版できるようになるのは、画面のぎらつきや携帯性を改善したコンピューターが出てくる、四、五年先になるだろうと結論づけざるを得ませんでした。

パワーブック誕生の衝撃


 ところが翌一九九一年の夏、ボイジャーに送られてきた一台のコンピューターが、彼らの認識を一変させます。
 アップルコンピュータからとどいたのは、パワーブックと名付けられた、とても小さな試作機でした。重さは二キログラム強。ディスプレイには、白黒の液晶が使われています。ここまで軽くなれば、持ち運びに無理はありません。ブラウン管に比べれば、動画の表示にもたつきを感じさせ、めりはりを欠く印象のある液晶ですが、その分、目にはまったくといっていいほど圧迫感を与えないのです。
 パワーブックが着いて三十分もたたないうちに、電子本のプロジェクトに携わっていたスタッフは、お気に入りの本の数頁分を、ハイパーカードに流し込んでみたそうです。チャコールグレーの小さなマシンは、白地の画面に黒い文字を浮かび上がらせました。「これはまさに本じゃないか」いっぺんにそう確信したスタッフは、パワーブックの中の本を、オフィスの仲間たちに見せて回ります。小さなコンピューターの液晶の上で、頁をめくりながら読むことを体験した同僚は皆、本のイメージとの近しさに驚かされました。
 そしてパワーブックの到着から一時間で、ボイジャーは電子化した本を本格的に出していこうと決めたのです。
 パワーブックで読むという想定で、電子本の基本的なあり方を決めて行くにあたって、彼らは先ず、これまでの紙の本の体裁を徹底的に真似ることを目標に置きました。
 万能の物まね機械という性格を持つコンピューターを使うのですから、本とは一線を画した、読むための新しい形を考えてもいいのかもしれません。けれど、紙の本が長い時間をかけて培ってきたスタイルの中には、読むことに最適化した素晴らしい知恵が込められていると、彼らは感じていました。そこで自分たちの電子本も、誰が見ても「本である」と感じられてしかも、機能の面でも電子化によって損なわれるものがないようにしたいと考えたのです。
 具体的には、電子本の実験に着手したときと同様に、巻紙から離れて頁の形式をなぞろうと考えました。
 長い文章の中から、チェックしたいと思う言葉を検索する。引き写したいところを、簡単な操作でコピーするといった、いかにもコンピューターらしい強みは、当然付けようと考えました。
 ハイパーカードに文章を流し込んで作った即席の電子本が、計画に本腰を入れるきっかけでした。このハイパーカードには、検索の機能がもともと備わっています。さらに、カードの一枚一枚は、頁としても使えます。徹底して本をなぞるという目標はこれで達成できるのだから、そのままハイパーカードを使ってしまおうと彼らは考えました。
 ハイパーカードのマルチメディア機能を生かせば、音や動画を組み込むという、新しい特徴も出せます。
 しかしボイジャーのスタッフは、こうしたコンピューターらしさやマルチメディアは、本を電子化することのボーナスに過ぎないのではないかと受けとめていました。自分たちがやろうとしていることの本質は、文章の並んだ本をコンピューターの上に置き換えること、そのものにあると感じていたのです。
 本質的にはこれまで通りの本であり、紙からコンピューターの上に移し替えることで多少機能を付け加えるという意味を込めて、彼らは新しい電子本をエキスパンドブック(拡張本)と名付けました。

『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』を送ってくれた編集者からは、同時にもう二冊のエキスパンドブックを読むよう指示されました。スティーブン・スピルバーグによって映画化された、マイクル・クライトンの『ジュラシック・パーク』と、ルーイス・キャロルのアリス物を集めてたっぷり注釈を付けた『ザ・コンプリート・アノテェイティッド・アリス』です。
 それぞれのパッケージには、エキスパンドブックを刊行する経緯をありのままに、かつ印象的な言葉で綴った、しおりが入っていました。誰もが彼らに、「コンピュータで読書したいなんて思う人がいるでしょうか?」と聞くとあり、「正直言って、まだ私たちにも確信が持てません」と、彼ら自身の気持ちが、迷いも含めてそのままに記してありました。
「ボイジャーがまだ、自分たちの試みの意義を説得力を持って説明できないのなら、なんとか自分なりに電子本の可能性を言葉にしてみたい」
 そう目標を立てて、私は三冊のエキスパンドブックを読み始めました。

 ブックを開く際は、まずフロッピーディスクをマシンに差し込みます。紙の本なら即座に開けばすむものを、電子本は読むための装置を求めます。
 おまけに肝心の読み心地でも、エキスパンドブックはこれまでの本に勝てません。スクロールがないぶん、画面上での改善は認められても、依然として紙とは大きな差があります。
 そんなエキスパンドブックに、何か存在意義があるのでしょうか。
 私の直感は、読んでみて実態を確認した後でもなお「意味はある」との主張を取り下げませんでした。では、雑誌から依頼された原稿は、どうまとめるか。しばらく考えてみて、私は三つの角度から話を進めることにしました。

それでも本を電子化することの意味


 本を電子化する根拠の一つ目は、『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』から借りました。
 たくさんの内容を、小さくまとめられるという特長です。
 はじめてエキスパンドブックを読んだ時点のパワーブックには、『ガイド』ほどの省スペース性は期待できませんでした。ただしそれに近いところには、もう手が届きかけていました。
 標準的に使われているフロッピーディスクの容量は、一・四メガバイトです。メガは百万を意味しますから、一枚で百四十万バイト。日本語一文字は二バイトで表現できるので、七十万字がおさまる勘定です。ざっと計算して、本の五冊くらいは入ります。事実エキスパンドブック版の『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』にも、シリーズの四冊がおさめられていました。
 広く使われるようになってきたCD―ROMならさらに、フロッピーディスクの五百倍近い六百五十メガバイトまで入ります。本の二千〜三千冊分、ざっと五十万ページといったところでしょう。ダグラス・アダムスはおおぼらを吹いたつもりで、本の百万ページ分が入ると書いていますが、CD―ROMはもう、彼の冗談をすっかり台無しにしています。このCD―ROMは、パワーブックのような小型のマシンでも、すぐに使えるようになりました。十五年ほど前のほらは、その時点で現実に変わりました。
 さらに誰かが作ってくれたCD―ROMを読むだけではなく、自分で作ることも簡単にできるようになりました。コンピューターの専門誌を開くと、一枚からCD―ROM作りを引き受けるお店の広告が載っています。CD―ROMを作る装置の値段も、実売価格で十万円を切るところまで落ちてきました。原稿のデジタル化がすんでいるのなら、今日にでも数千冊の本をおさめたCD―ROMを自分で作れるのです。
 枚数のまとまらないうちは、CD―ROMの単価は一枚あたり数千円についてしまいます。考えてみれば、数千冊分の本が、数千円のCD―ROMに入るのだから、この時点でもう「安い」というべきなのかもしれません。それを「数千円もかかる」と思うのは、まとめて作るときの値段が頭に浮かぶからです。原盤からプレスする方式で数百枚まとめれば、一枚三百円前後でケースに収めたCD―ROMが出来上がります。枚数を増やせれば、単価はさらに大幅に下がります。
「一冊の本を読む」ことに話を限定して、紙の本とパワーブックのようなマシンとを比較すれば、手軽さでは文句なく紙が有利です。ただし、二千冊、三千冊の本と比べることが許されるなら、コンピューターは省スペース性において、圧倒的に紙に勝っています。島流しにあうとしても、CD―ROM一枚持っていけば、まず、十年やそこらは読む物に不自由しないでしょう。
 技術の進歩をあてにして良いのなら、話はさらに止めどなく広がって行きます。CD―ROMに代わる今後の標準として期待されるDVDでは、容量はもう一桁上がります。すでに段違いの紙との差は、開く一方です。
 マシンの小型、軽量化もさらに進み、無線通信で繋がっていく流れもはっきりと見えています。ネットワークを基盤に、世界のどこにあるものでも見たいときに見られるようになるのなら、自分自身で〈本〉を持っている必要もなくなるでしょう。「人類の全ての本が、ダイナブックで自由に読めるようになる」とでも言っておかないと、ほらはすぐにほらでなくなってしまいます。
 ただし、将来の可能性や、たくさんの内容を詰め込める点に話をずらして、一冊で比べた時の不利を挽回しようとするだけではどうも弱い。そこで、本を電子化することの二つ目のメリットとして、〈読むことの底上げ〉が図れるという点を上げました。

電子化でいや増す参考図書のありがたみ


 英語を読もうとする気力だけは持っている私ですが、読解力の方はなんとも自信がありません。それでもまだ、ちゃんと筋道を追った論理的な文章ならついて行きやすいのですが、冗談やパロディーの類となると、さっぱりいけません。アダムスの『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』は、いかにもイギリス人らしい持って回った言い方や冗談だらけで、おまけに著者の計算間違いが加わり、私にとっては何とも読みづらい代物でした。読み飛ばしていいしゃれなのか、筋を追う上で頭に残しておくべき本筋なのか、その区別がうまく付きません。結果的にしょっちゅう辞書ばかり引いて、しかもおふざけか否か判然としないまま、宙ぶらりんで読み進むことが何度もありました。
『ザ・コンプリート・アノテェイティッド・アリス』も、もともとのルーイス・キャロルによるお話の不思議さと当時の時代背景に対する私の圧倒的な無知があり、注釈をつけているマーチン・ガードナーの衒学趣味が加わって、辞書の引き続け状態となりました。
 こうして悪戦苦闘しながらエキスパンドブックを読むことになった私は、読むに際して利用する道具をコンピューターの上に統合的に整えていけば、その環境に支えられて、もう少し自由に内容を追えるのではないかと考えたのです。
 普段英語を読むときは、研究社の『リーダーズ英和辞典』が離せません。原稿を書くことを仕事にしている私は、おうおうにして書くために読みます。文章をまとめる際は、『岩波国語辞典』から始まって、『広辞苑』や講談社の『大字典』、平凡社の『大百科事典』、岩波書店の『近代日本総合年表』などを引きづめです。これらの参考図書は、まとまって私の背中あたりに収まっていて、振り返っては調べ、向き直っては書き続けます。念の入ったことに平凡社の百科事典は旧版の『世界大百科事典』まで並んでおり、この二つだけでかなりのスペースを食っています。
 エキスパンドブックと初めて出合った当時、私はこれらの参考図書を、紙の頁をめくって引いていました。しかし繰り返し参照するこうした類の知識は、本の形に仕上げる必要はない。むしろ本にしたのでは使いにくいという気持ちは、その頃から持っていました。
 そう考えはじめたのは、英文ワープロに付いているスペルチェッカーに助けられるようになってからです。スペルチェッカーは、キーボードから入れた単語の綴りに間違いがないか、コンピューターが自動的に確かめてくれる機能です。間違いを見つけるだけでなく、「あなたが書きたかったのはこの単語ではないですか?」と複数の候補も示してくれます。英語を母国語とする人にとっても便利な機能でしょうが、四苦八苦して英文と格闘する人間にとっては、地獄で仏といった存在です。
 このスペルチェッカーの正体は、英語の辞書に検索と候補提示のプログラムを組み合わせたものです。これまで紙の冊子に印刷され、人が頁をめくって確認していた内容が、コンピューターの上に移し替えられています。ところがいったん自動化されると、辞書引きプログラムの手並みがあまりにも素早くて気が利いているために、もう本のイメージなどかけらも浮かびません。事典や辞書におさめるような内容はコンピューターと組み合わせるのが当然で、紙の冊子に詰め込んでいたのは他に方法がなかったための間に合わせだとつくづく痛感するようになりました。
 スペルチェッカーを知ってそう感じ始めた時から、いずれ調べるために開く参考図書の類はみんなコンピューターの上で使うようになると、私は確信していました。もちろん電子辞書を使おうとする際にも、先ずマシンを用意しなければならないという敷居は付いて回ります。けれど少なくとも私は、当時から全ての原稿を機械で書いていました。後は私が愛用している参考図書が電子化され、納得の行く価格で販売されるのを待つだけです。この「納得のいく価格」というところがネックになって、一部の参考図書は未だに紙のまま使っています。けれど、『岩波国語辞典』と『リーダーズ英和辞典』という最も使用頻度の高い二つは、マシンで引いています。いったん移ってしまうと、もう二度と紙には戻れません。

電子化に最適の百科事典


 大部に渡る上に、索引を頼りに異なった巻を開いては内容を確認する必要のある百科事典は、参考図書の中でもとりわけ早くコンピューターに移し替えたいものです。ところが出版社側の非常に納得のいかない商法に反発を感じて、私はまだ相変わらず紙の冊子に書棚の大きなスペースをとらせたままでいます。
 平凡社の『大百科事典』は、一九八五(昭和六十)年六月に初版が出た時点で買いました。奥付を見ると、全十六巻予約特別定価が十一万八千四百円とあります。安い買い物ではありませんでした。
 同社はすでに、この『大百科事典』をCD―ROM化しています。値上がりして十八万六千円になっている紙の版の価格を、当初CD―ROM版は大きく上回っていました。その後値下げになりましたが、それでもまだウインドウズ版の価格は、十四万九千三百五十円についています。
 私が平凡社から買いたかったものは、『大百科事典』におさめられた情報です。買った当時は紙におさめるしか方法がなかったので、その形で受け取りました。その後、彼らはCD―ROM版を用意し、私は別に自分でコンピューターに投資して、電子本の読める環境を整えました。その結果、『大百科事典』をより便利に活用できる準備が整ったのだから、自分が買ったものの器を入れ替えたいと私は考えました。紙の版を返すから、CD―ROM版で戻して欲しいと平凡社にお願いしてみたのです。ただでとは言いません。参考図書の類を作る際は、紙ベースでもいち早くコンピューターの利用が進んだとはいえ、データを電子本の形式に整える際には手間がかかったでしょう。一枚百円程度といっても、CD―ROMをプレスする費用もかかります。パッケージもいくらかにつくでしょう。そうした費用を負担しないとは言いません。けれど出版社の側も、中味に関してはすでに支払ってもらっているのだという点を自覚して、紙の版を持っている人に対しては、できるだけ安く交換プログラムを実施してくれないだろうかと申し出てみました。
 けれど話はまったくかみ合いません。
 中味は同じであるにも関わらず、器を変えるたびに一から値段を付け直すというやり方は、平凡社の専売特許ではありません。岩波書店にしても、研究社にしても考え方は同じです。CD―ROMの製作原価は紙よりよほど安く付くはずなのに、むしろ電子辞書の定価は、おうおうにして従来のものよりも高くなっているありさまです。
 出版社のこうした販売政策は、本来ならどんどん進んで当然の電子辞書の普及にブレーキをかけてきました。けれどコンピューターと紙では、使い勝手に格段の差が付く以上、この流れは止まりません。出版社の側からも、ハードやソフトの会社にまとめ売りして、コンピューターやプログラムの付属機能の格好で、安く提供しようとする動きがようやく出始めました。「二度払い三度払いだな」とぼやきながら、諦めて電子辞書を買い直す私のような人間もいます。せめて紙よりも製作コストが下がった分を定価に反映させてくれれば、電子版の普及にいっそう拍車がかかることは間違いありません。
 販売政策の舵取りによって、普及の足どりは多少変わるにしても、今後、参考図書の電子化は確実に進みます。電子辞書、電子事典の検索を機能として取り込みながら、「書く」という行為はコンピューターの上で、よりまとまった形で進められるようになるでしょう。ざっと書いた原稿に同音異義語の誤りがないかチェックしたり、同じ言葉を近くで繰り返し使っていないかといった確認にも、ソフトウエアの助けを借りるようになるはずです。コンピューターで書き始めた人の多くは、原稿を手渡すときも、通信を利用しはじめています。書いて手渡すまでの流れ全体を電子化によって統合する人は、ますます増えていきます。
 では、読み書きの〈読み〉の方はどうでしょう。
 私はここでも、統合が進んで行くだろうと考えました。
 あらゆる種類の文章を、すぐにコンピューターで読むようになるとは思いません。ただし、参考図書をしょっちゅう引きながら読む、私にとっての英語のようなものや、原稿を書くために資料として読む文章、研究や仕事の関連で、内容をメモしたり要約したりしながら読むようなものに関しては、今後どんどんコンピューターに移っていくのではないか。流し読みの効かないテキストは、参考図書の参照機能を組み込んだ機械仕掛けの書見台の上で読むようになり、読んだ上で書くという連続的な作業が、一貫して画面上で進められるようになると考えました。
 とすると、読むことをコンピューターの上で統合する準備作業としても、本を電子化しておく必要性が生じるだろうと思うようになりました。

 第一に、たくさんの本をフロッピーディスクやCD―ROMのような小さなメディアにおさめられる点。そして第二に、参考資料の閲覧機能や翻訳ソフトなどと組み合わせることで、読むという作業の底上げが図れる可能性。さらにマシンで書くことに繋げて、読み書きを統合的に処理できるようになる点を、私は本を電子化することの根拠として、エキスパンドブックの評価記事に書きました。
 読むこと自体は紙で十分であっても、この二つは取り替えの効かない電子本のメリットとして納得できると思いました。
 短く付け加えた三つ目の理由は、前の二つとは異なった立場からの指摘です。今から振り返ってみると、エキスパンドブックに対する感想としては少し、発想が飛んでいるように思います。どこからそんなことを書く気になったのか、記憶にもありません。
 原稿の最後で〈読む〉立場から、〈作る〉立場に身を置き換えて、「電子本は大量の部数を望めない出版物を少ないリスクで刊行する手段としても活かされるだろう」と私は書きました。

紙から画面への橋渡しとしてのDTP


 一九九二(平成四)年七月号の『マックワールド』誌に載った原稿は、「マッキントッシュで書き、ハイパーカードのページにテキストを流し込み、一冊の本を作る。こうしたケリの付け方は、DTPの輪の、一つの慎ましい閉ざし方だろう」と締めくくりました。
 ここで使っている「DTP」は、デスク・トップ・パブリッシングを略した用語です。そのまま日本語に置き換えれば、「机上出版」。本や雑誌作りにコンピューターを使ってもらおうと、小さな会社を起こしたばかりのポール・ブレイナードという人物が、一九八四年の秋と言いますから、マックが発表されてから半年余りたった時点で思いついた言葉です。

 出版物の制作には、手数のかかる作業を黙々とこなす工程がつきまとってきました。学生時代のミニコミ作りや出版社でのアルバイトでじょじょに慣れていったせいか、私自身はそれほど驚いた記憶はありません。ただ、編集プロダクションに籍を置いていた当時は、経験なしに入ってきたスタッフやアルバイトに、「こんなに手間がかかるんですか」と何度か呆れられました。
 写真やイラストを複雑に組み込んだ頁では、字詰めが細かく変わります。イラストの曲線に行の頭を合わせて文字を組もうなどと考えると、それこそ一行ごとに字詰めをいじらざるを得ません。一字一字印画紙に文字を撮影していく写植オペレーターの都合を考えて、そんなときは、変化する字詰めに合わせて区切りを入れた原稿用紙に文章を書き写したりしました。
 ごく普通の書籍でも、全体の頁数を確認したり、写真やイラストの組み合わせ方を調整するために、文字数を数えながら「ここまでが何頁」と抑えていく場合がありました。
 こうした編集側の準備作業を受けて、印刷所で進める工程にもたっぷり手間がかかります。一字一字文字を選び、指定の字詰めに合わせて仕上げた印画紙を台紙に張り込み、訂正の求めに応じて手作業で文字の張り替えを進めます。
 版を印刷機にかけるまでのこうした工程を、印刷業界ではプリプレスと呼んでいます。後は、機械任せで効率よく刷り、製本へと進んでいけますが、ここまでは人手頼りの労働集約的な世界です。手間のかかる工程を積み重ねていきますから、たとえ途中で気が変わっても、編集者やデザイナーはおいそれとやり直しに踏み切れません。コストの削減の意味でも、試行錯誤していろいろ工夫してみたいという制作上の都合からも、できるなら機械化したい仕事でした。
 このプリプレスのコンピューター化は、まず新聞から始まりました。レイアウトや文字組の処理は、マシンにとってかなり込み入った仕事です。人の頭におさまっている経験からソフトウエアに移し替えなければいけないノウハウが、たくさんありました。大新聞が腹を固め、専用ソフトの開発込みでメーカーに発注し、大型機を使ってようやく実用化にこぎ着けられる大仕事でした。
 そこから高性能のマシンが安く使えるようになる流れに沿って、コンピューター化の試みは広がります。書籍用のシステムが商品化され、印刷所が導入するようになりました。さらにコンピューター科学の研究者の中には、自分のマシンと写植機を繋ぎ、自著の編集と製版を一人でこなすような強者まで現れます。十分に安くて使いやすいシステムが作れれば、編集者やデザイナーに使ってもらい、プリプレスを一からマシン上で行えるようになると期待できました。

 DTPの言い出しっぺが目を付けたのも、ここでした。ルネッサンス期の出版人の名をとって、アルダスと名付ける会社の設立を計画し始めた一九八四年初頭には、どのコンピューター相手にソフトウエアを書くべきか、判断は付いていませんでした。
 そこに発表されたのが、マックです。
 安いのはいいけれど、まだまだ力不足と考えていたパーソナルコンピューターでしたが、ここまで画像処理に強ければ充分考慮に値します。さらにアップルはマック用に、まったく新しい高性能プリンターを開発しているという情報が、ブレイナードの気持ちを固めました。レイアウトが工夫できて、いろいろなフォントが使えるソフトウエアを書いたとしても、これまでのようなギザギザの目立つプリンターしか使えないのでは台無しです。ところが、コピー機の技術を応用して開発が進んでいる〈レーザーライタ〉には、従来とはけた違いの精密な仕上がりが期待できるというのです。
 さらにこのレーザーライタには、DTPの世界を大きく広げようと、新しい仕掛けが組み込まれていました。

DTPの守備範囲を広げたポストスクリプト


 ポストスクリプトと名付けられたその仕組みの開発にあたっていたのも、生まれたばかりのベンチャー企業でした。アドビシステムズという会社を起こしたのは、コンピューターグラフィックスの分野で業績を積み重ねてきた、ジョン・ワーノックです。ユタ大学の大学院ではアラン・ケイの同期で、卒業後はNASAのために飛行士訓練用のフライトシミュレーターの開発に携わっていました。
 操縦席から見た窓外の景色を再現するシステムを作るにあたって、ワーノックたちはこれを、コンピューターの進歩に対応できるものにしようと考えました。先ず、風景を描くための言語を作り、景色に関するデータはこの言語の書式に合わせて書いておきます。後はコンピューターがこれを理解できるようにしてやれば、景色の表示が可能になります。新しい高性能のマシンが使えるようになれば、言語を理解するためのソフトウエアだけを別に準備して、これまでのデータをもとに、より素早く、より細かに表示させようという狙いでした。
 一九七八年、ワーノックはゼロックスのパロアルト研究所に移ります。当時ゼロックスは、レーザーライタなどに繋がっていく、電子プリンターの開発に取り組んでいました。ここに、ワーノックの言語を活かそうという狙いでした。
 文字や図版、写真、イラストなどのデータを、コンピューターはワーノックの言語でまとめてからプリンターに手渡します。この指示をもとに、それぞれのプリンターは自分の最大限の力で印字します。より性能の高いプリンターが使えるようになれば、これまでのデータをそのまま使って、より細密な印字が可能になるというアイディアでした。
 開発が進んできた段階で、この言語をゼロックスの標準技術に採用するよう、ワーノックは繰り返し働きかけました。けれど、製品化は進みません。しびれを切らし、彼は独立の腹を固めます。
 一九八二年十二月にアドビシステムズを設立した時点では、ポストスクリプトと名付けたこの言語をどう売っていくか、方針は固まっていませんでした。ただパーソナルコンピューターに関しては、まだ力不足と候補から外していました。
 翌年初め、ワーノックはアップルコンピュータの創業者、スティーブ・ジョブスと再会します。パロアルト研究所時代、見学に訪れたジョブスに、ワーノックは画面で見た通りをそのままプリントできるという新しい考え方を説明したことがありました。
 マックの追い込みにかかっていたジョブスは、このマシン用に電子プリンターを開発する計画があることを明かします。ワーノックが自分の言語について説明すると、ジョブスはとたんに膝を乗り出して、レーザーライタへの移植を打診しました。
 同じような提案は、他社からも寄せられます。さらに印刷用機器の専門メーカーとも、ポストスクリプト採用の話が進んでいきました。うまくすればこれをプリンターの業界標準言語に仕立て、さらに印刷用機器にも幅広く食い込めるかもしれません。
 DTPという言葉を思いついたポール・ブレイナード自身は、当初「ほとんど印刷物に近い印字品質を提供するもの」と、これを限定的に位置づけていました。守備範囲としては、レーザーライタで打ち出すところまでを念頭に置き、すぐにも写植に取って代わるものとは考えていませんでした。ところが一九八五年一月のレーザーライタの発表に合わせて、アドビは組版システムの専業メーカーであるライノタイプ・ヘル社と共同で、ポストスクリプトに対応した印刷用機器をお披露目します。ライノトロニックと名付けられたその装置にかければ、マックでレイアウトし、レーザーライタで確認したデータからそのまま製版用のフィルムが作れました。同年の七月には、高度なレイアウト処理を可能にするページメーカーと名付けられた編集用ソフトがアルダスから出荷され、DTPの主役がそろいます。
 ニュースリリースなど、文書を作る機会の多い、マーケティングや広報部門のスタッフは、ページメーカーとレーザーライタの組合せに真っ先に目を向けました。印刷に比べれば多少は劣るかもしれませんが、従来のプリンターとはかけ離れた仕上がりです。自分たちの手許ですべての作業を終えられる手軽さと、急なスケジュールや変更に対応できる柔軟性は、他には代えがたい魅力でした。ちょっと見には印刷としか思えないものが簡単に作れるとなると、社内用の文章も多少はレイアウトを工夫して、レーザーライタでプリントしたくなってきます。
 さらにポストスクリプトに対応した機器で、人手を介さず、いっきにプリプレスを片づけようとする動きも進みます。
 これまで印刷のプロたちが担ってきた仕事に正面から張り合おうとすると、当初はあらも目立ちました。ただし高度なDTPには、印刷と出版の業界をまるごと巻き込んだ、大きな市場性が期待できます。電子ガリ版程度と控えめに目標を置いて生まれたDTPは、たちまち高機能化のはしごを掛け上り、プロの道具として進化し始めました。
 その力強い足どりに、私自身はどこか、寂しさに似た気持ちを抱くようになったのです。

DTPは本作りの専門家だけの技術なのか


 一九八七年の夏、私はソフトバンクが創刊する、『ザ・コンピュータ』という雑誌の編集作業に関わっていました。創刊二号目となる十一月号の特集が、DTPでした。
 当時アメリカではすでに、マックを使ったDTPが広がっていました。レーザーライタでプリントしたものをそのまま使う形もあれば、イメージセッターと総称される、ライノトロニックのようなより高度な機器をプリプレスに利用する、新しい試みも始まっていました。DTPで作る雑誌が、生まれていたのです。
 アメリカから数年遅れで変化の波が及んでくる日本では、DTPは本格的なスタートの一歩手前でした。写植機メーカーのモリサワはアドビと提携し、自分たちの持っている漢字フォントを、ポストスクリプトで使えるようにする作業の追い込みにかかっていました。
 ポストスクリプトの強みの一つは、文字の大きさを細かい刻みで自由に変えられる点です。ただしそのためには、文字を輪郭線の組み合わせによって表現する、いわゆるアウトラインフォントを用意しておかなければなりません。文字数の多い漢字をアウトラインフォントに置き換える作業が進められていたこの時期は、業界の半歩先の動きをレポートしようと狙っていたその雑誌が特集を組むには、実に適当なタイミングでした。
 この時のDTP特集のために書いた原稿のことは、いつまでも気持ちの隅に引っかかっていました。編集部に渡した原稿が、雑誌に掲載されなかったからです。
 渡した原稿に書き直しを求められることは、時々あります。しかしあの時には、担当編集者から手直しの依頼も受けませんでした。出来上がった雑誌を開いて驚き、編集者に抗議すると、どうやら手直しを頼む気持ちにもなれないほど筋を外した原稿と受け取られた事情が分かってきました。
 私のものが載るはずだったところには、「究極の印刷システムを構築するデスクトップ・パブリッシング」と題した、〈印刷〉の流れの中でこの技術をとらえようとする原稿が掲載されていました。副題には「グーテンベルクから、ポストスクリプトまで、印刷史におけるDTPを考える」とあります。活版印刷の方式から説き起こし、写植機の誕生からコンピューター化に至る流れを跡付け、その延長上にDTPの登場の意義が位置づけられていました。大学の先生のまとめたその原稿は、DTPを支える新しい技術の動向に広く目を配っていました。
 私の行動パターンから考えて、依頼されて書いた原稿を事前になんの断りもなく没にされれば、かなり凶暴な反応を見せるのが普通です。ところがその時は、代わりに載った原稿をじっくり読んでみて、妙に納得してしまいました。印刷の技術史の中でDTPを位置づけようとするその原稿に照らしてみると、私の書いた内容は確かに、技術紹介の面で弱い。さらにそもそもの立論の出発点が、まったく食い違っているのです。こういう原稿が欲しかったのなら、なるほど私に書き直しを頼む気にはならなかったろうなと、不覚にも合点が行きました。
 私のつけていたタイトルは「信念の統合処理としてのDTP」です。この原稿で確認したかったのは、職業として編集や印刷に携わらない多くの人にとって、DTPは無縁な技術なのだろうかという点でした。
 編集プロダクションという、いろいろやっかいな作業が吹き寄せられてくる下請けで働いていた私は、はさみとのりを使ったプリプレスの手作業に、一般の編集者よりはよほどなじんでいました。徹夜の切り貼りのようなことはしょっちゅうで、果てはカッターを握ってフィルムの修正までやりました。当時は無尽蔵のような気でいた体力で、そんな仕事もこなしていきましたが、根っこのところには「こんなことがやりたいんじゃない」という気持ちがたまります。そうした経験があって、単調で機械的な作業をマシンに任せられるDTPには、大きな期待をかけていました。自分が苦しんできたようなあんな仕事は、もうマシンに任せてしまって欲しいと思ったのです。
 ただしそうした私の思いは、職業としてプリプレスに関わっていたからこそでしょう。
 では仕事として本や雑誌作りに関わらない人には、DTPは関係のない技術なのだろうか。
 そう視点を据えてみて、「いや、そうではない。DTPには全ての人に関わってくる要素が含まれている」と考えたのが、その時の原稿でした。
 手書き文字のようなノイズがなくて、訴えたい中味だけを淡々と伝えてくれるフォントは、ワードプロセッサーで誰もが使えるようになりました。この文書の中に、図や写真や絵などを思うように組み込んでいければ、より表現力をましたものになる。自分の考えをより効果的に人に伝えるためにも、そもそも自分自身が胸にたまっている思いを整理し、脈絡をつけ、納得して腹におさめる上でも、これまで雑誌や書物の中でしか実現できなかった理想の文書を作れるようになる意味は、大きいのではないか。印刷という特殊な領域と結びつけて考えるよりも、人が考え、自分の思いを伝えるというより大きな枠の中で受けとめていった方がいいのではないかと考えたのです。
 そう論を立てる上でもう一つ頭にあったのは、通信との結びつきでした。
 当時はすでに、電話回線を利用した通信が、パーソナルコンピューターでも広く行われていました。表示する文字を、アルファベットの暗号ではさんだようなポストスクリプトのデータは、この通信の仕組みを利用して、そのままやり取りできます。特集のための取材を進めていく過程で、ポストスクリプトに関する技術雑誌がすでに、通信を利用して配布されていることを知りました。アメリカでまとめられたデータが世界各国に回線経由で流れていき、受け取った人がプリンターにかけると、雑誌の頁が打ち出されてくるのです。
 さらにこうしたデータを解釈して、画面に文書を表示できるよう機能を拡張した、ディスプレイ・ポストスクリプトも作られていました。こうした仕組みが普及すれば、コンピューターで作った雑誌をそのまま通信で送り、受け取った側の画面上で読むこともできるのです。
 グラフィックスも組み込めるという意味では、マルチメディアに一歩踏み出した理想の文書を、距離の壁を越えてすぐさま世界中の人に読んでもらえる。やがては、動画を組み込むこともできるだろう。今、DTPと呼ばれている技術の中には、こんな要素が含まれている。
 そう考えていくと、DTPという言葉はむしろ、ドキュメントのトータルなプロセッシングなり信念を意味するドグマのトータル・プロセッシングと読み替えて、万人が思いをまとめ、思いを伝えるメディアのための技術として捉えていった方がいいのではないか。
「信念の統合処理としてのDTP」というタイトルに、私はそんな気持ちを込めていました。

信念の統合処理としてのエキスパンドブック


「マッキントッシュで書き、ハイパーカードのページにテキストを流し込み、一冊の本を作る。こうしたケリの付け方は、DTPの輪の、一つの慎ましい閉ざし方だろう」

 エキスパンドブックの書評をそう締めくくったとき、私が感じていたのも、パーソナルコンピューターをメディアとして使うことへの期待でした。
 DTPがいかに自由に文書をまとめる機会を与えてくれたとしても、紙の冊子に印刷するという枠の中だけでこうした技術を捉えている限り、その影響は本作りに携わる人にしか及ばない。確かに、印刷と編集の世界はこれで変わるだろう。プリプレスの効率化によって、今までより少ない部数で本が出せるようになるかもしれない。ミニコミの質も、間違いなく上がる。ただし紙に縛られている限りは、部数をまとめないと効率が悪くなるという大本の制約からはどこまでいっても逃れられない。紙の本というメディアの質が、根本的に変わってしまうことは、やはりありえない。
 そう考えたがゆえに、DTPに関連した技術の中でも、マルチメディア文書を通信で送れるという側面に注目したいと私は考えました。
 紙から切り離し、画面上で読むと方向付けてみることで、決定的に新しいメディアの誕生を思い描いてみたかったからです。
 ボイジャーの電子本は、通信との結びつきを謳ってはいませんでした。しかし紙の冊子との決別を狙っている点では、私がDTPの延長線上に見ようとしたものと明らかに繋がっていました。
「これからは本を画面で読むことにしよう」
 ただ一言そう宣言することで、二千年近く紙の冊子に縛り付けられていた本というものを、エキスパンドブックは解き放とうとしていると感じました。
 忠実に本をなぞろうとした発想と踏ん切りは見事です。
 ただ同時に、この発想をボイジャーに独占させる手はないとも思いました。
 エキスパンドブックの中味は、ほとんどハイパーカードに文章を流し込んだだけのものです。マルチメディアへの対応や自由な注釈付け、検索といった機能は、土台に使ったハイパーカードがもともと準備しています。ならばエキスパンドブックくらいのものは、それほど苦労せずに作れるだろう。そうなれば、部数をまとめる必要からどうしても敷居の高くなる本作りを、はるかに身近なものにできるはずだ。そんなふうに考えながらも、「DTPの輪の、一つの慎ましい閉ざし方」などと控えめに書いたのは、私自身の中にあった、紙の冊子に仕上げられた本への抜きがたい愛着のゆえでしょう。
 こう結んだ三冊のエキスパンドブックを評した原稿は、一九九二年七月号の『マックワールド』に載りました。

「富田さんが書いていたエキスパンドブックを作るための道具を、ボイジャーが本当に出してきましたよ」
 書評の声をかけてくれた編集者からそう連絡が入ったのは、この年の十二月三日のことでした。
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第三章 電子ガリ版で自分の本を作る



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マックで読む電子ブックを作ろう!


「筆者の履歴書にはこれまで、旺文社から出した『パソコン創世記』が処女作であると書いてきた。一九八五年二月に書き下ろし文庫で出した途端、旺文社文庫その物が出版取りやめとなって、哀れな末路をたどった本だ。だが筆者の思い出の中には、もう一冊〈はじめての本〉がある。一九六九年二月に大学ノートまるまる一冊に書いた、巨大なラヴレターである。ある事件があって「これは完全に振られた」と覚悟した当時十七歳の少年は、それまでベアトリーチェを思いながら書いてきたおびただしい日記と随筆もどき、詩のまがいものを一気にノートに書き写し、当惑する少女に手渡して哀しい初恋にけりを付けようとした。
 今思い返せば、筆者の人生には何冊かの作りたかった本、失いたくなかった本があった。だが余りにも個人的な思いばかりを綴った必要部数わずか一冊のラヴノートを、活字で作る術はなかった。「せっかく書いたのに断裁はむごい」と喉まででかかったが、ある程度の部数がはけて算盤勘定に合わない本を、商業出版社が出版目録に入れておいてくれないことは当然だった。
 自分の本を作るにあたって、越えなければならない壁はかなり高い。一面ではこの壁があればこそ出版物の質はおのずと高まり、本に対する信頼は増している。だが大出版社から大手取次をへて、大型書店に流れる話題性の強い物こそが本なのだと言われれば、それなら〈大〉の字を独占している出版界のそうした連中の頭の中身を検証してやるからここに出してみろとも言いたくなる。当面大部数は望めないにしても、大切な仕事をてのひらで守るようにして続けている書き手は(言うまでもないが私のことではないよ)いくらもいる。さらに専門の書き手以外でも、日々の行き暮れを機として織り上げたかけがえのない思いを、できることならば本に残したいと願う人は多いはずだ。
 では小部数を覚悟してそれでも本を出したいと願う書き手は、自費出版を引き受ける印刷所や編集業者を儲けさせて、懐にずんとひびく〈道楽〉に打って出るしかないのか。必要部数一冊の本を求める者は、悪筆を呪いながら手書きでのぞむしかないのか。
 マッキントッシュを実験場としてマルチメディア作品の開発にあたっているボイジャー社は、「そんなことはない」と主張する。コンピューター上のワードプロセッサーで、我々は新しい〈書き方〉を獲得した。そしてほかならぬボイジャーは新しい電子本の提案によって、コンピューターによる新しい〈読み方〉を確立しようとしてきた。こうした成果を踏まえて、同社は今、新しい本の〈作り方〉を示そうとする。ワードプロセッサーが活字風の文字を取り扱う壁を突き崩したように、コンピューターによる新しい本作りのスタイルによって、出版の壁を叩き壊すことができると我々を誘うのだ。

エキスパンドブックを作る


 一九九二年一月、米ボイジャー社はパワーブック上で読む新しいスタイルの本の刊行を開始した。Expanded Book と名付けられたこの電子本を開発するにあたって、ボイジャーは「電子化で何かが失われたと読者に感じさせないこと」を開発目標に置いたという。その結果、ハイパーカード二・一をベースに開発された Expanded Book は、紙の本のイメージを忠実になぞったものとなった。白い頁に記された黒い文字はスクロールすることなく、キーの操作によって頁をめくりながら読むスタイルが採用された。
 従来の本をなぞったうえで、Expanded Book には電子本ならではの機能も付け加えられていた。余白に書き込みを入れる。頁の端を折ったり、クリップをはさむ。覚えに線を引く。任意の部分を太文字にしたり、下線を引いたりする。こうした紙の本でもできたことをカバーしたうえで、Expanded Book はエンジンとして利用したハイパーカードを活かして、強力な検索機能を提供した。ハイパーカードの旨味はさらに、注釈機能にも活かされていた。本文中の任意の単語にあらかじめ注釈を付けておき、キーの操作一つでこれを呼びだせるのはコンピューターなら当然か。ただし単に文字と文字の結び付けに留まらず、画像、音声、QuickTime による動画など、様々な形の情報とのリンクが可能なハイパーカードを利用したことで、Expanded Book の注釈機能はマルチメディア対応となった。
 この Expanded Book によってコンピューターで読むという世界を開きはじめたボイジャーが新たに打ち出したのが、この電子本を作るためのオーサリングツールである。
 紙の本作りの工程になぞらえれば印刷機や製本機の機能を代行し、植字工や編集者の作業の多くを自動化して受け持つこの製品は、Expanded Book Toolkit と名付けられている。本稿執筆時点の一九九三年一月現在で入手可能なのは、英語版のみ。ただし一九九二年十月に、米ボイジャー社と日本のソフト制作者グループとのジョイントベンチャーによって、日本法人のボイジャージャパン(正式名称、株式会社ボイジャー)が設立されており、一九九三年三月のリリースをめどに日本語化の作業が進められている。同社によれば、英語版購入のユーザーにも実費程度で日本語版を提供するという。ちなみに同社では Expanded Book の日本語名を「エキスパンドブック」とするそうで、これにしたがって本稿でも以下は「エキスパンドブック・ツールキット」と書く。

英語バージョンでも日本語の本が作れる


 エキスパンドブック・ツールキットのソフトウエアは、四つの要素からなっている。第一は電子本作成のためのツールキットの本体。第二はさまざまな電子本の体裁のテンプレート集。第三は電子本を読む際に使われるプログラムの The Library。そして第四が、ノートや引用を読者が書き残しておくための Notebook である。このうち The Library と Notebook は、ツールキットによって作られたエキスパンドブックと共に、読者に配付される。一方ツールキット本体は読む際には必要なく、ボイジャーはこれをコピーしたり配付したりすることを禁じている。
 ツールキットを用いて作った電子本が、商業ベースによらない無料のものであるかぎり、ソフトウエアの購入費用以外、ボイジャーへの追加の支払は必要ない。学校や図書館、博物館がツールキットによる成果物を無料で配付する際には、求められるのはエキスパンドブックと The Library に対するボイジャーの著作権表示を行なうことだけだ。ただし作品が有料である場合には、販売価格の一%(最低で〇・一五ドル以上)のライセンスフィーをボイジャーに支払う必要がある。
 実際の電子本作りに挑戦してみると、マニュアルの流れ、ソフトウエアの仕立てに、誰にとっても初めてとなる作業をスムースに進めさせようとする配慮が行き届いているのがわかる。特にあらかじめ用意されているテンプレートを用いれば、本作りの作業自体には頭をひねる要素はほとんどない。(ただし本作りで最も重要なポイントは、原稿を書く工程にある。まがりなりにも筆者には書きためた原稿が売りたいほどあるので、この作業は省略することができたが、ここにはご存じのとおり頭をひねる要素が山ほどある)加えてツールキットには、かなり本格的な編集作業上の要請に答える機能が用意されている。
 編集者の世界には、特有の美的基準がある。たとえば日本語では、括弧の受けや句読点が行の頭に来ることは許されない。また一文字だけ行の頭にはみ出すことは、首吊りと呼んで禁止事項に数えられることがある。
 今回ツールキットのマニュアルを読んで初めて知ったが、英語の編集の世界にもこうした審美の物差しがある。パラグラフの最初の一行が頁の最後にくるのはオーファン(孤児)、パラグラフの最後の一行が頁の頭にくるのはウィドウ(後家)と呼ばれ、共にみっともないこととされている。そしてこれを救うために、ツールキットにはパラグラフの文字と文字の間のスペースをわずかに伸ばしたり縮めたりして、オーファンやウィドウを避ける機能が組み込まれている。
 現行の英語バージョンにも漢字かな混じり文が流し込めるとはいえ、こうした日本語の禁則には、当然対応していない。フォーマットに流し込んでいけば、句読点や括弧の受けはやがて行頭にくるし、首吊りもおこる。日本語の組み版にはさらに和欧文混植の際の空きのルール(欧文と和文が接するところには、三分の一文字分のスペースをはさむ)など、さまざまな約束事がある。ヘッダの書名と章名が文字化けするといった明らかな問題点の解消に加えて、ツールキット日本語版が我が国の組み版のルールにどこまで対応してくれるかに、大いに期待したい。
 実はツールキットを知ってから、これを使って作りたい本、復活したい本のアイデアがふつふつと湧いてきて、悠長に人の本など読んでいられない心境なのだ」

暗い日に見つけたもの


 ツールキットに対するこの評価記事は、一九九三(平成五)年の一月十五日に書きました。前日までにメモを取りながらソフトを使ってみて、原稿はこの日で片づけています。
 編集者から連絡をもらった日を特定したり、原稿を書くまでの段取りを説明できるのは、当時かなり細かく日常を記録していたからです。
 一九九〇(平成二)年の夏から九三年の秋にかけたおよそ三年余りの間、私は日記を書いていました。
 古い文書ファイルを引っ張り出して読み返したとき、このツールキットの評価記事には明るい調子を感じました。軽くおちゃらけてもいるし、最後のところなど、今にも私家版のエキスパンドブックを量産しそうな勢いです。
 けれど本当のところ、当時の私はかなりしんどい精神状態にありました。日記を手がかりに、当時の心の轍をたどっていくと、この原稿の明るさがむしろ、つらく思えてきます。
 毎日を記録しはじめたきっかけは、病気でした。
 三十八歳になって間もなく、私は自分が病んでいることを知ります。編集プロダクションを辞め、一人で原稿を書き始めてから七年目の、この時も春でした。
 雑誌への連載や単行本の執筆に加え、当時はテレビの構成の仕事にも手を染めていました。いっぱしの仕事中毒のような暮らしを、心の奥では少し得意になって続けていたのだと思います。それが突然、鉛のような病の地肌が浮いてきて、身体が動かなくなりました。
 検査結果が出て病名を告げるとき、最初にかかった地元の病院の医師が困ったような顔をしていたのを覚えています。同じ病気に付き合っていた知人の強い勧めがあって、専門のセクションを持つ病院をたずねると、すぐに入院を指示されました。
 夏の始めから三か月入院して、半年後の春にもう一度、病院に戻ることになりました。
 初夏に退院すると、間もなく父が入院します。故郷の広島に帰って父に付き添うことを決め、義務づけられている毎日の点滴は、その病院で射てるよう手配しました。父が逝き、翌年の春にまた入院。『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』他、三冊のエキスパンドブックの評を書いたのはこの直前で、校正は病院のベッドで読みました。
 三度目となるこの入院には、前向きの気持ちで臨みました。症状の進行を抑えるのが精一杯で、有効な薬がなかったこの病気に、インターフェロンが効果を持つと分かってきたのです。この年、一九九二(平成四)年の一月からは保険適用もはじまり、たくさんの患者がこれを使いだしていました。適用条件に合わず、私自身は高価な薬を自費で打つことになります。それでも病院の門は、「治るかもしれない」と前を向いてくぐることができました。
 インターフェロンは、ヒトの身体が自分で作れる物質です。なんらかのウイルスに潜り込まれると、細胞は警戒警報として機能するインターフェロンを作ります。それ自体にはウイルスを壊す力はありませんが、周囲の細胞はこれを受けて防御を固め、免疫系が活性化されてウイルスの増殖がおさえられます。
 遺伝子工学の手法でインターフェロンを作れるようになると、先ず万能の抗ウイルス薬として期待が膨らみました。身体が作る分に加えて外から補ってやれば、ウイルスをより強力に抑え込めると考えられたのです。この点では期待したほどの効き目は得られませんでしたが、新たに細胞の分裂をおさえる力があると明らかになって、注目の度合いはむしろ高まりました。抗ガン剤に使えると考えられたからです。製薬会社は盛んに投資して、製造技術の開発に取り組みました。ところがここでも期待はずれに終わっていたところに、私がかかっていたC型肝炎に効果があることが分かってきます。患者にとって福音だったことに間違いはありませんが、製薬会社にとっても地獄に仏だったでしょう。
 ただ、この薬にかなり強い副作用がある点は、事前に医師から告げられていました。
 発熱、関節の痛み、頭痛、倦怠感。食欲も落ちて、鬱病うつびょう傾向も見られると言います。
 文字にすれば、副作用はこの通りです。しかし体験に照らせば、この文字面はあまりに表現力を欠いています。特に初めて射った直後の、体中の細胞という細胞が勝手気ままに大声でがなり立てるような狂騒状態は、豊饒とでも評したくなるような奇妙ですさまじいものでした。

狂ったオーケストラの大音響


 注射から二十分くらいで、使い捨てのカイロでも埋め込んだように肝臓のあたりが温かくなってきました。「熱いUFOが浮いている」と、ベッドの中の私は書き残しています。そこからしだいに膝が重くなり、二時間がたったところで身体がふるえだしました。それまで変化のなかった体温が、一気に二度近く跳ね上がっています。坂道を転げ落ちるように、ふるえは強まりました。歯の根があわないほどの寒気に襲われて、身体がベッドの上でエビのように跳ねだします。とにかく経過を書き残しておこうと、手の中で震え続ける体温計を睨むと、ちょうど四十度まできていました。うめきながら熱冷ましの座薬を使いますが、チューニングの狂ったオーケストラが、ばらばらのメロディーをフォルテシモでがなりたてるような狂騒の宴は、そこからさらに一時間近く続きました。
 布団を熱く感じはじめ、汗が噴き出してくるととたんに、喉の乾きに気づきます。よろめきながら洗面所にたどり着き、手ですくって、水を三度飲みました。三十八度まど落ちたところで、地下の自動販売機まで飲み物を買いにおります。看護婦さんが持ってきてくれた氷枕に頭を沈めてから、二本目のカンのプルトップを開けました。干潮に向かって波が引くように次第に熱が下がりはじめると、深い疲労の底から重苦しい胃袋が浮かんできました。
 二日後に射った二度目からは、跳ね上がるほどの発熱はなくなりました。上がっても、たかだか一度くらいです。ただし鉛の固まりを呑んだような倦怠感や節々の痛みは、いつまでも付いて回りました。三か月程度、一気に連日射つのが標準的な使い方でしたが、条件の悪かった私の場合は週に三度、少量ずつ、できるだけ長く使うことになります。退院してからも、横浜の自宅から東京の病院に一日置きに通いました。射った後は翌朝まで、何かしようという気力がわきません。むしろ連日射ってしまった方が身体が慣れるとのことで、一日置きは副作用の面では、負担の大きい選択でした。
 周期的に落ち込んでしまう体調の深い穴にも、悩まされるようになりました。少しからだを使いすぎるとそれが引き金になるのか、ベッドから起きあがれない日が四、五日も続きます。思い当たる理由もなく、突然寝込んでしまうこともありました。
 墨をふくませた筆でコップの水の表に〈死〉と書いて、飲んでしまったことは間違いない。今回はそれがどのタイミングだったのか。本を読む力も出せずに、ベッドの中でそんなことばかり考えていました。
 免疫学者の多田富雄が書いた『免疫の意味論』を読んだときには、自分の身体で体験した狂ったオーケストラの大音響に、別の角度から強い光を与えられた気がして、「ああそうなのか」と深くため息をつきました。
 ウイルスの侵入といった刺激を受けて体内で作られるインターフェロンのような物質の正体は、一九八〇年代の後半に次々と明らかになっていきました。免疫学者にとって驚きだったのは、そうした物質の構造が、すでに知られていた他の働きに関与するものと全く同じだったことです。体内で使われている一つの言葉には、異なったいくつもの意味がありました。つまり、とても〈曖昧な言葉〉が、免疫に関連して使われていたのです。それゆえウイルスの侵入に対抗しようとして作り出した物質は、さまざまな他の変化も引き起こしてしまいます。

「免疫という、中世まで恩寵として捉えられた生命反応を司る分子が、実は、さまざまな作用を持った曖昧な分子であった。それは、炎症とか癌とか神経の成長、さらに造血などにも介入している。ここでインターロイキン(インターフェロンをふくむ、免疫細胞や白血球が作る生物活性物質の総称―注・富田)は、その多目的性、曖昧性、冗長性という本性を現わし、はるかに免疫現象を超えてしまうのである。その先に広がるのは混迷なのか、想像を超えた調和なのか」(『免疫の意味論』)

 発病以来、繰り返しの長期入院や周期的に訪れる体調の悪化で、仕事はあまりできなくなりました。約束事が果たせなくなり、短いコラムをのぞいては、連載の仕事もほとんど中断せざるを得ませんでした。唯一書き続けていたコラムをまとめて本にする話があったのですが、読み返して少しばかり手直しと書き足しをするというそれだけの作業が、気ばかり焦ってもはかどりません。
 ようやく後書きにたどり着いた本は、『青空のリスタート』と名付けました。垂れこめた厚く暗い雲のどこかに切れ目を見つけて、空の青さを望みたいという願いをこめたタイトルです。病院から帰る途中で出くわした小さな出来事に、再出発の願いをこめて、私は後書きにこんなことを書きました。

青空のリスタート


「公園の深い緑に半分飲み込まれたような今のアパートで暮らし始めてから、もう五年近くたった。
 移ってきたのは雨のクリスマスの日で、知らぬ間にいやほど増えていた荷物にもう引越はこりごりだと思ったのを覚えている。だが、冬が過ぎて初めての春が来るころには、新しい環境がすっかり気に入っていた。
 斜面に根を張ったエノキは左右に大きく枝を広げ、窓の向こうの五階の廊下にまで少し先をのぞかせていた。この枝に、春が来て葉が付き始めた。腕を突き出さずとも掌をかざせば、葉っぱを撫でながら歩くことができた。冬にはゲートボール場になっている向かいの広場が見渡せていたのが、葉が育ち、小さな実がなり始めると、ボールを叩く高い音は聞こえても朝起き鳥の元気なプレイヤーの姿は見えなくなった。
 メジロが実をついばんでいるのを窓辺で眺めていると、いつまでも飽きなかった。
 だが母の入院から、緑の中の暮らしを楽しむ心の余裕がなくなった。
 満開の桜が散ったかと思うと、母が死んだ。心に開いた大きな穴から目を反らし続けているうちに、自分自身が厄介な病気にかかっていることを知った。二度目の入院を終えると、今度は父が病院に入った。長く病気を押し返してきた父だったが、今回は力絶えた。父の最期を看取ってから、三度目の入院になった。
 退院は紫陽花の季節だった。
 地域の経済の柱だった造船所を移転で失ってから、この町はすっかり肩を落とし、息をひそめるように生き永らえてきた。町内会の知らせは八十まで生きた年寄りの訃報ばかりで、たくさんのネコが暗い目で欠伸をかみ殺し合っていた。久しぶりに戻ったセピア色の町は雨の中で、紫陽花だけにぽつんと青が浮かんでいた。
 二年の闘病を経てようやく本格的な治療にこぎ付けたのだから、多少は心に薄日が差してくるのではと思いながら、我が家の玄関をくぐった。だが使っている薬の強い副作用が出始めて、その後、気分も体もますます重くなっていった。
 東京の病院に通って、横浜駅から自転車で漕ぎだしたあの日も、ペダルはやけに重かった。おまけに降り出したと思ったとたん、雨は肩を押し合いながら我先に地面を激しく叩き始めた。もうすっかりずぶぬれになってしまってはいたが、セピア色の町に入ったところで、とうとう自転車を漕いでいられなくなった。道路に少し被さった細い枝の下で、オレは灰色の目で落ちる雨を見ていた。立て付けの悪い玄関の戸を引いてバアサンが出てきたのは、その時だった。右手で傘を掲げたバアサンは、左手に例の安っぽい白い傘を持っていた。「ボロだから返すこたないよ」と怒ったように言って、バアサンは傘を押しつけた。
 家の近くまで傘を片手に漕ぎ返ると、ネコ屋敷の軒下に別のバアサンが立っているのが見えた。十匹近いネコに囲まれて、「ミイちゃん、車に気をつけな。ヨッちゃん、キョウちゃんに目ふいてもらいな」と一日中連中とばかりおしゃべりしているネコバアサンだった。ネコが雨に降られやしないかと心配でもしているのか、バアサンは傘を両手で杖のようについて、左右を見回していた。
 そこに、角を曲がってずぶぬれになった小さな女の子が歩いてきた。
 ネコ屋敷に女の子が差しかかったところで、バアサンは「入んな、家はどこだ」とこれも怒ったように言って傘を差し出した。女の子は一瞬ひるんだように立ち止ったが、むき出しの肩をぶるっと震わせてから、びっくりするほど大きな声で「ありがとうございます」と言った。
 雨の向こうに一つの傘におさまったバアサンと女の子が消えていくのを見届けてから、オレはエノキの葉についたしずくをバシバシ払いながら五階の廊下を歩いた。激しく降り出した雨は、バスタオルで頭をゴシゴシ拭き終えたころには唐突に上がりかけていた。黒い雲に覆われた空の西の端には、絵筆で掃いたように青空さえわずかに顔を出していた。
 嫌なこと続きで疎ましく感じ始めていたこの町を、オレはまんざらでもないではないかと思った。
 びしょ濡れになった服をまとめて洗濯機に放り込み、新しい下着にジーパンで机についた。つらいことばかりのここ三年、どうにか書き続けてきたこの原稿を本にまとめる作業は、体調不良で遅れ遅れになっていた。パワーブックのキーを叩いてマシンを起こすと、ディスプレイにかろうじて書き続けることのできた原稿が蘇った。
 各項目に付ける言い訳の原稿が、今日はすいすい書けそうな気がした。
 しばらくキーを叩き続けてふと見上げると、窓の外には抜けるような青空が広がっていた。
 タイトルは『青空のリスタート』だと、オレは唐突に思った。
 この原稿を書いてきた数年来、少なくともオレの目にはパーソナルコンピューターは淀んでいるように見えた。それでも業界の算盤勘定は堅調だったものが、ここに来て日本のメーカーは厳しい不況に直面させられている。創刊以来、世話になってきた『ザ・コンピュータ』とコラムを載せてもらった『パソコン・マガジン』も同時に廃刊になった。
 けれど大丈夫だと、オレは思った。
 窓を開けて雨上がりの気持のいい空気を入れ、「きっと大丈夫だ」とオレは小さな声で言ってみた。
 青空のリスタート・ボタンは、押そうと思えばオレにもあなたにも押せるのだ」

ボタンを押したツールキット


 後書きにそう書いた本は、一九九二(平成四)年の九月末に出しました。
 けれどこの年の大晦日になってようやく作った年賀状には、「青空の約束を本物にする年だ」と、翌年の目標を書かざるを得ませんでした。
 一番恐れていた鬱の副作用が、現れてきたのです。
「これは鬱だ」とはっきり自覚したのは、十一月の半ばが最初でした。出したばかりの本への好意的な書評を読んで、一瞬わき上がってきた弾むような気持ちが、取り逃がした風船のようにすぐに消えました。「ラクダの毛の重いコートを、心に四、五枚重ね着させたような」重苦しい気分に押しつぶされて、ベッドでうずくまっていることしかできません。
 日記を書くというそれだけの仕事もすませられなくなった最悪の症状は、この時は二、三日で消えます。ところが欠かせない用事で日帰りで広島に帰った翌日のクリスマスに、突然深い淵に落ちました。
 励ましたりしかったりすると、本人を追いつめることにしかならないと良く理解していた妻が、きっと歯がゆかったに違いない気持ちを抑えて、そっとしておいたくれた[#「そっとしておいたくれた」はママ]ことは救いでした。それでも年末は、どうしてもすませなければいけない仕事に、重い心を引きずるように向き合っていたものが、年賀状を作り終えた後の空白の中でもう一段深みにはまり込みます。
 正月二日、インターフェロンの注射のために通院して症状を訴えると、医師からは抗鬱剤を飲めと強く指示されました。心のあり方に影響を与えるような薬を飲むことに、以前勧められたときは抵抗を感じました。それが今回は、自分自身を救うために手を貸してくれるものには、何にでもすがりたい心境です。
 ツールキットの評価記事は、正月八日が締め切りでした。
 薬の効果が現れたのか、それとも心が自分ではいあがろうと試みたのか、このあたりから少し気持ちに薄日が差しはじめたようです。けれどまだ、ベッドは抜け出せません。依頼してくれた編集者に断りの電話を入れ、妻が録画してくれていたフランク・キャプラの『或る夜のできごと』と『群衆』を見ました。この頃キャプラの作品をまとめてみるようになった、これがきっかけです。
 それからさらに一週間が過ぎて、ようやく原稿を渡すことができました。

 評価記事の最後に、「これを使って作りたい本、復活したい本のアイデアがふつふつと湧いてきた」と書いたことに嘘はありません。ただ病む前の私なら、そうした気持ちはごく自然に出版に向けていたでしょう。その当然の道を、動かないからだが選ばせてくれませんでした。
 二度目の入院を終えたばかりの一九九一(平成三)年の夏、『パソコン創世記』を読んだと言う、気骨という言葉の似合うヴェテランの編集者が手紙をくれました。旺文社文庫の廃刊によって、「若いパソコン・ユーザーたちがこの労作を読む機会を失うことを非常に残念に思う」と書いてくれたその人は、続編をまとめることを条件に旧版を再刊しようと申し出てくれたのです。願ってもない提案で、続編の執筆も当然考えてよい仕事です。ところが私には、これに取り組む力が出せませんでした。編集者はその後も繰り返し声をかけ、きっかけを作ってくれましたが、とりかかれないままに時間が過ぎていきました。
 けれどそのもう一方で、私はやはり本に関わっていたかったのです。
 ようやくツールキットの原稿を仕上げて一か月ほどで、マッキントッシュのフェアーが、例年通り幕張で開かれました。病むことがなければ、講演や展示のレポートをまとめるために、会場を飛び回っていたでしょう。けれど速報性の高い記事を素早くまとめる自信は、持てませんでした。そうした原稿の依頼もありません。それでも私は、知り合いの編集者に取材証の手配を頼み、幕張まで出かけていきました。本番の原稿を書くあてもないまま、日記にはかなり詳しく取材メモを整理した下書きを残しています。ノンフィクションのライターとして落ちこぼれかけながら、興味を持ってきたパーソナルコンピューターの新しい動きを、私はそれでも見ておきたいと思っていました。
 フェアーの二日目は休日にあたっていて、展示会場は大変な込みようでした。
 目に映る物の全てが、早送りをかけたヴィデオのようにめまぐるしく動いています。会場に溢れる熱気と喧噪の波の底で、私一人が、古めかしい潜水服を着込んで漂っていました。
 視野の左に映ったほんの小さなブースに、ふと意識が止まりました。〈ボイジャージャパン〉という文字を見て、「ああ、あの会社だ」と懐かしさに似た気持ちがわいてきます。近づいていくと、とても聡明そうで、それでいて柔らかな微笑みを浮かべた女性が、パンフレットを手渡してくれました。
 そこには「本年四月発売予定でツールキットの日本語化を進めており、日本オリジナルの出版企画も準備中です」とありました。

ボイジャージャパン


 ボイジャージャパンには、評価記事の件で確かめたい点があって、すでに電話を入れていました。
 スタッフは全員、アメリカに出張しているとのことでしたが、たずねられるままに電話番号を伝えておくと、その夜すぐに、萩野と名乗る人から電話が入りました。日本に戻ったわけではなく、カリフォルニアからかけてくれていると言います。

 旧日本橋区米沢町の老舗の和菓子屋に生まれ、敗戦を中学一年で迎えた小林信彦によれば、関東大震災で失われたとされる江戸文化の名残は、一九四五(昭和二十)年三月十日の大空襲まで残っていたそうです。
 小林の指摘に従えば、ボイジャージャパン社長の萩野正昭さんは、最後まで〈江戸〉を引き継いだ家の生まれです。祖父は墨田区本所亀沢町に起こした薬問屋を成功させ、父は下町で、いかにも大家の跡取りらしく育ちました。
 浅草育ちの母は、判官贔屓を絵に書いたような江戸っ子です。応召した夫に代わって万事を取り仕切り、敗戦の年の冬も、頭上を覆う暗雲に気丈に向き合っていました。多少の寒さでは、大切にためてきた練炭に火を付けることを許しません。そして三月、大空襲を亀沢町で迎え、炎の中を一晩中逃げまどいました。翌朝、一面の焼け野原を、家を求めて歩いているあいだも、極限まで張り詰めた気持ちはゆるみません。それが焼け跡に燃え盛る練炭の山を見つけた途端、冷水でも浴びせられたように失ったものの大きさにうたれ、突き上げる悔しさに胸を焼かれました。
 実家が移っていた麹町区紀尾井町に身を寄せた母は、復員してきた父をここで迎えます。こうして敗戦の翌年、紀尾井町で生まれることになった萩野さんは、直接は江戸の名残に触れてはいません。しかし生後間もなく一家の〈居場所〉であった亀沢町に戻り、物心つく時期を下町で過ごした彼は、サーヴィス精神旺盛な語りの面白さや肌身に染み込んだやせ我慢精神に、粋の血筋を色濃く残しています。
 高校時代から映画にのめり込むようになった萩野さんは、早稲田大学の第一法学部に入学すると稲門シナリオ研究会という伝統のあるサークルに入りました。一九六〇年代の後半に向けて、学生運動の熱が高まっていくこの時期、ドキュメンタリー映画を実際に作っていたサークルのメンバーは、闘争の前面に立ってフィルムを回しました。後にノンフィクション作家となる佐野眞一さんは研究会の同期で、以降長い付き合いが続くことになります。
 卒業は一九六九(昭和四十四)年。ドルショック、石油ショックに高度成長がとどめを刺される手前のこの時期、有名大学の卒業生にとって、就職は売り手市場でした。けれど運動の挫折感や、「なにか社会のために」と言った気持ちに、生来のひねくれ根性が加わって、大企業には気持ちが傾きません。わざと毛色の変わったところを調べていくと、東亜港湾工業という浚渫と埋め立ての会社に目が止まりました。ジョセフ・スタンバーグが自主制作で撮り、チャップリンに高く評価されて公開の運びとなった『救ひを求むる人々』は、浚渫船を舞台とした映画です。あの作品が頭に浮かび、「泥にまみれて川底をさらうなんてのは、ちょっといいんじゃないか」と思ったのだそうです。
 兵庫県の東播磨港に派遣されて体験した現場では、かなりいかがわしい連中とのやり取りも含めて人との出会いを楽しみました。しかし東京に呼び戻されると、所詮サラリーマンとの思いがわいて、さっさと辞表を出してしまいます。その直後、大学時代の友人で、東映の助監督になっていた柳町光男さんから声がかかりました。教育映画部に、欠員ができたと言うのです。助監督見習いとして入ると、まさに水を得た魚のような気分で、やることなす事が面白くてしかたがありませんでした。
 東映という映画会社には、大きく三つの柱がありました。一つ目は、本編と呼ばれる映画館にかける作品。二つ目が、テレビで流すドラマ。そして三つ目が、アニメーション。教育映画部はこのいずれにも属さない、児童劇や教育映画の担当です。規模の点では一番小さくて、太い柱を持たない部署でしたが、映像を使った新しい試みはここに回ってきました。後に独立するヴィデオの部門も、当初は教育映画部が引き受けました。
 萩野さんが教育映画部でメガフォンをとっていた一九七〇年代は、ヴィデオという新しい技術が、制作現場を革新していった時期です。教育映画の制作を通して、普段なら目に見えないものを映像で捉えるという仕事に携わってきた萩野さんは、技術の可能性を信じるタイプの映画人でした。遅々として進まないヴィデオの導入を会社に突き上げる一方で、パイオニアがレーザーディスクという新しい映像技術に取り組んでいると聞くと、興味が募りました。
 デジタル化した一つひとつのコマを、レーザーディスクでは自由にコントロールできると知ると、関心はいっそう深まります。高速度撮影や顕微鏡の利用、医療診断機器を使った特殊撮影などを通して、連続したドラマの一画面としてではなく、独立した映像として一こまを扱う感覚が、萩野さんの中には育っていました。レーザーディスクは、自分が体験してきたこうした世界を盛り込む、よりふさわしい器になるのではと思いはじめたのです。
 パイオニアが出したレーザーディスク用タイトルの制作要員募集に応じて採用となり、東映から移ったのは、一九八一(昭和五十六)年の七月です。十月に予定されていた再生装置の発売は、もう目の前でした。これから大きく普及するはずのヴィデオデッキを飛び越えて、あえてレーザーディスク一本で勝負に出たパイオニアは、タイトルの充実が社運をかけた挑戦の鍵を握ると考えていました。具体的には、映画と音楽がそれぞれ四割、残り二割でその他の新しい分野を切り開く方針です。萩野さんはもっぱら、新分野に取り組みました。特殊撮影技術を集めた『SFXミュージアム』や、映像作家たちの仕事をさらう『映像の先駆者』シリーズの関連で、初めて渡米すると、MIT(マサチューセッツ工科大学)の研究所、メディアラボに籍を置くというボブ・スタインという人物から連絡がありました。

ボブ・スタインとの出会い


 コロンビア大学で心理学を、ハーヴァード大学の修士課程で教育学を専攻したスタインは、エンサイクロペディア・ブリタニカ社の社長にコンサルタントとして雇われていた時期、ヴィデオディスクとコンピューターを組み合わせて、新しい用途を開く研究に取り組みました。
 この時まとめた報告書を、彼はアラン・ケイに読んでもらおうと考えます。いつまでたっても自分たちの研究成果を製品に結びつけようとしない経営陣に嫌気がさして、ケイはゼロックスを去っていました。ヴィデオゲームのアタリ社に招かれると、彼はここで、子供が学ぶことを支援するシステムの開発に取り組みます。こうした学習環境を作るにあたってケイは、大規模な画像のデータベースを提供してくれるヴィデオディスクに注目していました。論文を評価してくれたケイの求めに応じ、スタインはアタリで彼の研究を手伝うことになります。
 このプロジェクトがアタリの財政難で打ちきりになると、ケイはMITのメディアラボに招かれ、スタインもここに移りました。ヴィデオディスクとコンピューターを組み合わせた学習環境に携わったスタインは、こうしたシステムを一般向けに提供する会社を作ろうと考えるようになります。パイオニアのレーザーディスクは、いくつかあったヴィデオディスク方式の最有力候補でした。
 初めてスタインに会ったとき、彼のあまりに翔んだ発想と大胆な話っぷりに、萩野さんは少し警戒する気持ちさえ抱いたと言います。それが再度渡米したとき、「今夜我が家で集まりがあるから」と誘われ、軽い気持ちで出かけていったのが運の尽きとなりました。集まってきた研究者やアーティストたちが、自分の取りかかっている仕事に関して次々と発表し、そのたびに、活発な議論がまき起こります。自分たちが本家であるはずのレーザーディスクの可能性について、あらためて目を開かれる思いでした。
 その後、一九八四年にボイジャーを起こしたスタインは、レーザーディスクの高画質を活かし、さまざまな参考資料を組み込んだクライテリオン・シリーズの刊行を進めます。萩野さんと彼は後に、タイトルの制作子会社としてパイオニアから独立したレーザーディスク株式会社とボイジャー共同のプロジェクトを起こしました。ロサンジェルスの街全体を一枚のディスクに閉じこめようと狙ったこの試みは、難航を極めます。けれどこの作業を通して彼らが共有した新しいメディアへの確信は、萩野さんをボイジャージャパンの設立へと向かわせることになりました。

 初めて電話を入れた人間に、海外からすぐに返事をくれたことへの驚きに加え、歯切れの良い萩野さんの語り口調は、受話器を置いた後も耳に残りました。少し前に『マックライフ』という雑誌のインタビュー記事で読んだコメントにも、心が止まっていました。当面の課題としてツールキットの日本語化を挙げた萩野さんは、「本来なら売れないような本も、これで出版が可能になる。つまり『売れない本を作ってやるぞ』というのが、我々の課題です」と啖呵を切っていました。
 エキスパンドブックを読み、ツールキットを使ってみて自分が感じた可能性を、いち早く確信した人がいる。それも私のように単に感心したり、分かったようなことを書いたりするだけでなく、彼らは会社を起こして日本語化と独自の出版企画に取り組んでいたのです。
 彼らの努力によって日本語化が進めば、『パソコン創世記』を蘇らせる作業も、すんなり片づくでしょう。エキスポ会場に用意したブースは小さかったけれど、意義のある大きな仕事に取り組んでいる、幼なじみに再会したような気分になりました。
「後光がさして観音様に見えた」とか、「思わず五体投地礼を繰り返しそうになった」とか、いろんなところで言いふらしてきましたから、きっと「またか」と嫌がられるでしょう。会場でパンフレットを手渡してくれたのは、創立メンバーの一人である鎌田純子さんでした。ご本人にとっては本当にご迷惑ではあるのですが、鎌田さんを通して、その時の私が癒しとぬくもりの気を受け取ったのは、書き変えることのできない正直な記憶です。

あるがままの自分にできること


 やっかいな病気にかかっていることを突きつけられ、動かなくなった身体を抱えて考えていたのは、治ってもとの自分に戻ることでした。唯一ウイルスを追い出す可能性のある、インターフェロンにこだわったのは、それゆえです。
 なくしたものを取り戻したいと、私は強く強く願っていました。
 数か月おきに繰り返される寝たきりの状態に陥ると、だらしのない自分をベッドの中で叱咤し、それでも起きあがれないでいる情けない自分を、果ては呪いました。
 インターフェロンは、そんな自分と縁を切る、最後の希望でした。ところが副作用にさらされながら半年射ち続けても先が見えず、鬱という難敵に苦しめられるようになりました。
 そこまで追い込まれてみて、きっと私の胸の奥で何かが変わりはじめたのだと思います。
 なくしたものばかりを数えたてるのではなく、病んでいる自分を病んでいる自分として受け入れることはできないのか。もういいではないか。こんなにくたびれている自分を、「だらしない、だらしない」と叱りつけるのは可哀想ではないか。
 裏返して言えば、その時の私に自分を責める力はもう、残されていなかったのかもしれません。溺れかかっている自分を、なりふり構わず助けようと、きっと踏ん切りが付いたのでしょう。
 では、ときどき動かなくなったりふさぎ込んでしまったりする自分をともかく受け入れたとして、そこで何をするのだろう。
 ノンフィクションのプロのライターとしては、やっていけないだろう。それにもしそんなことが可能になったとしても、もとのままの自分に戻ったのでは〈病んだかいがない〉とでもいった気持ちも、どこかに芽生えはじめていました。
 では何をと何度考えてみても、書くこと以外、やりたいと思えることはありません。
 ならば、少しくたびれている自分の立つこの場所で書き、この場所でまとめることはできないか。あるがままの自分が書き、まとめて人に手渡そうとするとき、ツールキットは力を貸してくれるだろう。こんな自分がそれでも伸ばそうとする腕の、きっと手がかりになってくれるはずだ。

 評価記事を書き、萩野さんのインタビュー記事を読み、マックワールドエキスポで鎌田さんからパンフレットを受け取って言葉を交わすという一連の体験を通じて、私の胸の中では、そんな思いが、まだ言葉にはならないままに育ちはじめていたのだと思います。
 ツールキットの日本語版が出たら、書くことの願いに一番素直に添えた気のする『パソコン創世記』を電子本にしようと、私は本気で思うようになりました。
 原稿を見直して手を入れたり誤りを正すくらいのことなら、大丈夫、やれる。少しレイアウトを工夫して写真を入れれば、ちゃんとした感じになるだろう。以前書いたものをまとめ直すという、ただそれだけのことだ。新しいことは、確かになにもない。けれどそれでも良いではないか。先があるのか、これで終わりかは分からない。けれど今の自分が踏み出す一歩、腕を伸ばす手がかりとしては、それで十分ではないか。
 私はそんなふうに思うようになりました。
 エキスポから十日ほどたった二月二十二日には、ハードウエアの会社の新製品発表会に出かけています。先方には、私がたくさん記事を書いていた頃の印象があって、出欠の返事をしないままでいると「是非に」と連絡があり、この日も原稿にする予定もないまま顔を出しました。数日前から用事が続いて警戒はしていたのですが、会場から病院に回ってインターフェロンを射つと、かなりひどい副作用が出ます。寝苦しい夜が明けて、少し疲れの残った身体で目覚めました。『メロディー・メーカー』紙の元編集長で本人とも親交のあったレイ・コールマンの『ジョン・レノン』をだらだら読んでいったこの日の夜、エキスポでもらってきたボイジャージャパンのパンフレットを開いたのは何がきっかけだったのでしょう。
「日本オリジナルの出版企画も準備中」という文字に、もう一度目が止まりました。
 もちろん自分自身で、『パソコン創世記』を電子本化することはできる。けれど「今までなら本にならなかったものを本にする」、「売れない本を作ってやるぞ」と大見得を切るボイジャージャパンから、消えていったあの本を出してもらうことができれば、私にとってはとても美しく感じられる物語りが生まれると、その時私はふと、そう思いました。
 萩野さんに宛ててその夜書いた手紙は、翌日、二冊だけ手許に残った文庫本の一冊を添えて送りました。
「読んだ。やろう」との返事を萩野さんからもらったのは、二週間後です。
 表参道を折れたところにあったマンションの小さな事務所を訪ね、萩野さんに加えて、北村礼明さんと鎌田純子さんにも会うことができました。ボイジャーは、日本語版エキスパンドブックの第一回配本を五月二十五日に予定しているとのこと。時間はありませんが、是非初回に間に合わせたいと思いました。

エキスパンドブック版『パソコン創世記』


 文庫版の『パソコン創世記』は、一九八四(昭和五十九)年の暮れから翌年の初頭にかけて書きました。何もなかったところから8ビットのパーソナルコンピューターが生まれてきた、一九七〇年代後半の出来事を取り上げています。主役に据えたNECはその後、16ビットに移ってからもPC―9800シリーズを大成功させました。その市場独占の経過をたっぷり見てきた後で再刊するのなら、せめて長めの後書きを用意して、PC―9801が市場を制覇する、その後の流れにも触れておきたい。そう考えて、前回お世話になった関係者に連絡し、取材の約束を取り付けていきました。

 この時期にもまだ、インターフェロンの注射は週三回のペースで続けており、胃袋に鉛の固まりを呑んだような副作用は抱え込んだままでした。体調への不安はいつも頭の隅にあって、外出して動き回った後、大きな疲れが残らないですむと、いちいちほっとしていました。ただあらためて日記を読み返してたどると、ひどい気分の落ち込みは、エキスポ以降、体験していないのに気づきます。
 鬱の副作用を持つインターフェロンをはじめるにあたっては、あらかじめ構える気持ちがありました。もともと私には、鬱に落ち込みやすい気質があるように感じていたからです。だからこそ、薬が気持ちを塞がせることを、余計に恐れました。
 けれど今となっては、「インターフェロンの副作用で鬱になった」と言っていいのか、私には自信がありません。薬が関与していたことは、間違いないでしょう。しかしその後の流れを体験してあらためて振り返ってみると、薬に鬱の副作用を発揮させてしまう下地を、私自身の心が準備していたのかもしれないという気がします。引火性を帯びた堂々めぐりの憤怒の吐き出し口を心に開けていたことが、むしろはじまりだったのではないか。インターフェロンは自分自身の喉を詰まらせるその妄念のガスに、火を付ける役割を演じたのではないか、と思うのです。
 私の心に一度きり起こったことは、確かめようがありません。種があったから、薬が育てたのか。それとも薬には、それ自体無害な感情のかけらから鬱を合成してしまう魔力があるのか。その答えを、私は知りません。
 けれどツールキットを知った後に体験した一連の変化は、私の心こそがあらかじめ鬱を準備していたとする仮説に私を誘います。これ以降も四か月近く、私はインターフェロンを射ち続けました。けれど電子本として蘇らせるための作業を一つひとつ進めていくうちに、私の心は少しずつ軽くなっていったのです。
 六月一日、射ちはじめてから一年を迎えたところで、医師から「そろそろ薬を止めよう」と持ちかけられました。「もう少し続ければウイルスを追い払えるのではないか」との未練はありました。けれどこのままの体調では、後書きを片づけられないのではないかとの思いもあり、再刊を優先する気持ちに傾きました。
 この日の日記には、「今回は打ち切り、また道を探ろうと自分を説得する」と書いています。

 日本語版エキスパンドブックの第一弾は、当初の予定から一か月遅れて一九九三(平成五)年六月二十五日の発売と決まります。働きかけにのった他社からのタイトルに加え、ボイジャー自身は、稲垣足穂の『タルホ・フューチュリカ』を準備していました。音やグラフィックスや文章による注釈を付けた彼の作品が、フロッピーディスクに収められました。
 一方『パソコン創世記』は、第一回の配本には間に合いませんでした。
 後書きが、とんでもなくふくらんでいったのです。
 当初は四百字詰めの原稿用紙に換算して五十枚程度と考えていたものが、百枚を超え、二百枚に達しても、ゴールが見えません。だらだらと分量が膨らんだのは、私自身が中味に確信を持てなかったからです。「PC―9801の成功の軌跡をさらりと跡づける」くらいの気持ちではじめてみると、話を聞かせてくれたある人が、驚くような手がかりを与えてくれました。
 アラン・ケイの考えたことに、私が興味を持ったことは書きました。「パーソナル・ダイナミック・メディア」という代表的な論文からたどって彼の書いたものを読み始めたのは、一九八〇年代も半ば近くです。
 ところがNECで8ビット機の開発をリードした、もともとは半導体チップの販売担当者だった後藤富雄さんは、一九七七年の発表時点で論文を読み、それ以来これを「自分のバイブルとしてきた」というのです。8ビットのマシンを作っているあいだも「いつかあそこに書かれたようなものを作ってみたい」と思っていた。さらにPC―9801にとって社内のライバルのような立場にあったPC―100という機械を作るときには、「パーソナル・ダイナミック・メディア」を作ろうと、はっきり意識していたと言います。
 PC―100を知らなかったわけではありません。発表されたとき、「面白い機械だな」と思いました。ただケイの著作を読む前に出合った当時は、何を目指しているのか、全体像はつかめませんでした。当時の事業の責任者に、「PC―9801にPC―100と二つの16ビット機がぶつかって、売りにくくはありませんか」と、図式的な質問をした証拠が残っています。どういう方向にパーソナルコンピューターを育てていくか、異なった二つのイメージがぶつかっていたのだとは気づいていませんでした。
 再取材でそのコメントに巡り合って、PC―100をPC―9801の横に置き、二つの対抗関係を軸に流れを見ていけば、一九八〇年代に起こったことが良く見えるだろうと気付きました。
 けれどその直感に従ってひとまず書き始めて見ると、幾つもの大きな穴が時間の流れのそこここに開いているような気がしてきます。大枠を据えることができたために、何を明らかにしなければならないかがはっきり見えた。手持ちの材料では、とても空白を埋めきれないと、あからさまになってきたのです。
 頭の中で全体の構図がぼんやり像を結びはじめると、書きかけの原稿ではあまりにも骨組みが弱いと感じるようになりました。

 インターフェロンを打ち切ることになった直後、書きかけの後書きは捨てようと決めました。
 記念すべき一回目の配本に間に合わなくなるのは残念でしたが、その時にはもう、浮かんできた構図を確かめながら書いて行くことが、心のあらかたを占めていました。
 面会の約束を取って一人に話を聞くと、新たな疑問が生じ、次に会うべき人の名が浮かび上がります。
 萩野さん自身が「売れない」と太鼓判を押している電子本の取材に、文庫本の再刊という当初の目算から大きく外れて突っ込んで行ったのは、どんな気持ちからだったのか。もしも『パソコン創世記』の著者に話を聞くとすれば、私もそこを明らかにしようとするでしょう。ただそう聞かれても、納得してもらえるような答えは思いつきません。
 発病以来、特に高価なインターフェロンの治療をはじめてから、家計と治療費を全面的に支えてくれた妻が、無謀な挑戦をむしろ励ましてくれたという特殊な条件がありました。
「この機会を逃せば、あの時に起こったことを書き残すチャンスは二度と訪れないだろう」
 あたたかくてねばり強い支えの手に抱かれながら、勝手にも私はただ、そんなふうに感じていたのだと思います。

進化するツールキット


 はじめての日本語版ブックが刊行されて間もない、一九九三(平成五)年七月、ボイジャージャパンは約束していた日本語版ツールキットの出荷にこぎ着けました。ハイパーカードを利用した英語版を、日本語に対応させた製品です。
 これで、日本語の組版ルールに近づいたブックを、かなり簡単に作れるようになりました。
 ただし「読もうと思えば読める」と大きく気持ちを持てば許せるのですが、紙の世界のルールブックと引き比べて点検すると、不合格とせざるを得ない問題点が、なおたくさん生じました。
 テキストを流し込めば、ほとんど一瞬に組版が終わる手軽さに注目するか、細かな問題点が数多く生じることを指摘するのか。私の周りでも、評価が大きく分かれました。
 日本語版でも解消できなかった問題の多くは、土台として使ったハイパーカードに起因しています。これを利用することで、ボイジャーはマルチメディアの電子本を作る道具を、素早く、容易に準備できましたが、いくつかの根本的な問題も同時に抱え込みました。
 追い込みや送りの操作に時間がかかること。禁則処理に関連して、あちらを立てればこちらが立たずとなり、整然とした組みを作りにくいこと。同様の問題が、半角の英語が行末にかかる際にも生じました。

 ツールキットの日本語化をともかく終えたボイジャーは、これを使って電子本を作ってもらおうと、さかんに出版社やデザイナー、作家たちに働きかけます。「売れない本を作ってやる」と宣言する萩野さんらしいなと感心したのは、彼らがプロに働きかける一方で、これまでは書いたものを本にまとめられないできた、潜在的な作家への呼びかけを進めた点です。
「この世界には、あなたの本を読みたい人が必ずいる」と題したカタログのための原稿で、萩野さんはこんなアジテーションを行っていました。

「どこかで必ずあなたの本を待つ人がいる、そう信じることからエキスパンドブックは生まれました。あなたの本は決して多くの人々には読まれない、そう嘆くことからエキスパンドブック・ツールキットは創られました。紙と印刷という人類の偉大な発明がありながら、冷たい機械をとおして言葉を読みとる辛い方法を選ばねばならなかったのは、売れないとわかっても声を発することを諦めたくなかったからです。人間として私達が世に送りだすすべてが祝福されるものばかりではない、しかしその中にも忘れさることの出来ない大切なことが消えずに残されています。どんな方法を使ってもこれらを届けることは、私達の仕事の一つではないでしょうか。テクノロジーを頼る理由がここにあります」

 幅広くツールキットの採用を働きかける中で、ボイジャーはしだいに、エキスパンドブックの可能性を認めようとする人たちを獲得していきました。
 その一方で、縦組みが出来なかった点には批判が集中します。簡単にルビを振れないのも評判が悪く、紙に比べると画面上の文字が実に淡泊で弱々しい点も、あらためて「こんなものか」と指摘されました。
 もう後書きではすまなくなった作業を、いったんご破算にしてから私が組み立て直していた時期、ボイジャーもまた、ツールキットの骨格を一から点検し直すという大きな課題に向き合っていたのです。

 指摘された問題点を克服するにあたって、当初彼らは、すでに日本語化したツールキットの改良を試みました。ハイパーカードには、かなり突っ込んだ機能拡張を受け入れる柔軟性があります。そこで自分たちの用意したモジュールを追加して、縦組みや読みやすさを実現しようと考えました。
 機能モジュールの追加は、パイオニア時代に何度も使ってきた手です。もともとハイパーカードにはレーザーディスクを制御する機能がなく、ここは自分たちで用意するしかありませんでした。その後も「こんなことがやりたい」という制作上の求めに応じて、繰り返し独自モジュールが開発されました。
 一九九四(平成六)年に東芝EMIから発売された『THE COMPLETE OZU』と、ボイジャーから出た『寺山修司/書を捨てよ、町に出よう』という二つのエキスパンドブックは、それまでのものと同じく、ハイパーカードを利用しています。ただし新しく用意したモジュールによって、文章は縦書きで表示されました。加えて、視覚の働きの裏をかくアンチエイリアスと呼ばれる技術を使って、文字をなめらかに見せる拡張もほどこされています。
 この拡張版ツールキットを、当初彼らは、新版として発売しようと考えていました。ところがこれは、ツールキットとしては未発売に終わります。
 最終的にボイジャージャパンはハイパーカードを離れ、独立したソフトウエアとして、一からエキスパンドブックを作りなおそうと決めたのです。
 今あるものを捨てて、しかも日本のボイジャーだけで新規の開発に乗り出すことは、大きな決断でした。ただ私自身、「新しく作りなおす」と聞かされたときは、「それもやむを得ないだろう」と思ったのも事実です。
 ハイパーカードはアップルの製品です。対抗するウインドウズが大きな市場を獲得していく中で、これに依拠し続けることは危険な選択でした。
 アップルがハイパーカードをウインドウズにも対応させるというのなら、話は別でしょう。けれど当時は、ハイパーカードをどう育てて行くつもりなのか不透明だった上に、アップル自身の将来にも懸念が広がっていました。
 ウインドウズという最も大きな市場に対応し、同時にハイパーカードが強いるさまざまな制約を逃れるという意味で、作りなおしは唯一の選択肢のように思えました。
 こうした認識が誤りであったとは、今も思いません。
 しかしその後、ボイジャージャパンの開発を中心で担っている、祝田久さんの特異な個性と言動に触れ、あらためて彼にたずねる機会を得てみると、ツールキット※(ローマ数字2、1-13-22)への転向はやむを得ない選択というだけのものではなかったと気づかされました。
 少なくとも祝田さんにとって、ツールキット※(ローマ数字2、1-13-22)は、かねてからやりたかった〈ハイパーカードへの挑戦〉にうって出る、絶好のチャンスだったのです。

コードの芸術家、祝田久の誕生


 祝田久さんは一九五五年十一月、静岡県浜松市に生まれました。
 自由民主党が結成され、いわゆる五五年体制が固まって、高度成長に向けて歯車が回りはじめた頃です。
 父は文具問屋の会社勤め。進学校の浜松西高校に進んでからは、美術クラブに籍を置きました。当初は絵を描く一方で、美術準備室にたむろして、時には仲間たちと魚を焼いて食べるような、牧歌的、古典的青春を謳歌していたようです。それが、教師から「粘土をやってみると、デッサンするときの物の見方が変わる」とアドバイスを受け、実際に手を染めてみて、思考の座標軸が一本付け足されるような新鮮な変化を体験しました。以来、造形への傾斜が強まり、美大に進もうと心が決まります。教師として歩んだ祖父の人生と息子の希望のバランスをとって、両親は「美術の教師になれ」と勧めました。
 現役の受験となった一九七四(昭和四十九)年、美大には軒並みふられたものの、静岡大学教育学部の美術専攻に受かりました。国立大学への進学は両親にとっては最良の結果でしたが、本人は気乗りがしません。同級生が七十人あまりもここに進み、高校を卒業した気がしなかったのに加え、美術専攻の仲間の顔つきにも、切れを感じませんでした。それに何よりも、このまま進めば教師になる将来が確定してしまいそうで、一月もたつとさっぱり大学に足が向かわなくなります。本人には当初から、教師に向かないとの思いがありました。作品には雄弁に語らせるくせに、言葉ではさっぱり説明しようとしない祝田さんの人となりに触れた人は、この時の彼の選択に、まず間違いなく賛意を示すでしょう。
 二年目の受験では、愛知県立芸術大学から受け入れの表明がありました。
 一九七五(昭和五十)年。アメリカではパーソナルコンピューターの走りとなる、アルテアという組み立てキットが売り出され、その後の大騒動に至る種がまかれた年です。
 祝田さんの志望した彫刻科の定員は、わずか十名でした。全学で五百人もいない小さな大学で、場所も愛知郡長久手町と、町の紹介にまず「古戦場」がくるようなところにあります。最初の下宿は、農家の牛小屋を作りなおした部屋でした。
 ここでも大学にはさっぱり通わなかったそうですが、親元を離れ、アート実験室に仕立てた下宿にこもる暮らしには肌がなじみました。
 実験室への機材搬入の費用は、思わぬところから転がり込んできました。大家の都合で牛小屋から追い出されることになり、立ち退きの補償金が入ったのです。その頃、音楽科の知り合いがいじっていたシンセサイザーには、好奇心の針が触れました。祝田さん自身は、ピアノが弾けたわけではありません。ただシンセサイザーなら、シーケンサーと呼ばれる装置に演奏の手順を入力し、機械に弾かせることが可能です。結局補償金は、ヤマハのシンセサイザーとコルグのシーケンサーに化けました。
 新しいおもちゃをいじり回し、手順を機械になぞらせるシーケンス制御を体験しているうちに、祝田さんはマイクロコンピューターを使ったキット式のシステムが話題になっていることを知りました。コンピューターなら、音楽にとどまらず、いろいろなものをコントロールできるはずです。
 一九七六(昭和五十一)年には日本のメーカーからも組み立てキットが売り出されるようになり、マニアたち自身による雑誌作りが始まります。雑誌の「売ります、買いますコーナー」に近くの人からの投書があるのを見つけ、祝田さんもさっそく日立製のH68という、むき出しの基板そのままのシステムを手に入れました。
 この新しいおもちゃには、アートをやらせようと考えました。H68は、基板に組み込んだ蛍光表示管に、アルファベットと数字を出すように作られています。ただし、テレビと繋ぐためのインターフェイス回路を付け足すと、画面にも表示を出せました。ごくごく粗い像でしたが、ゲームという言語を使ってみると、かなり自由に図形が描けます。しかも電子のキャンバスの上では、動きまで表現できるのです。さらにパターンを表示させたテレビ画面を8ミリで撮影すると、面白い効果が出せると閃きました。多重露光してイメージを重ね合わせると、フィルムの上に見たこともない新しい映像の世界が育ちはじめます。
 その後の祝田さんの仕事を知る人は、そう聞かされてつくづく納得がいくはずです。初めてコンピューターを手にして、彼が先ず試みたのは〈ニルバーナ〉でした。

 通常なら八年間は居座りを許されるところが、公立の愛知芸大では六年で追い出しを食らいます。
 部屋にこもっては、ブラウン管に浮かぶ映像の世界に遊んでいた祝田さんも、この措置の対象となり、一九八一(昭和五十六)年の春には新しい居場所を探すことになりました。
 腰を落ちつけたのは、東京にある特殊効果専門のCM制作会社、アニメーションスタッフルームです。
 会社に入ってみて驚いたのは、下宿でいじっていたようなキット式の安価なシステムをカメラの制御に使い、当時最先端とされていた新しい手法をこなしてしまう、気合いのほどでした。なにからなにまで自分の知恵と工夫で克服し、新しい映像を作っていく日々には手応えを感じます。最新の高価なシステムを使ってみるチャンスにも、ここで恵まれました。ただ、体力の消耗ぶりもそれだけすさまじく、この会社からは二年半で離れています。
 一九八三(昭和五十八)年。8ビットからスタートしたパーソナルコンピューターは、16ビットへの転換を果たそうとしていました。処理能力を高めた新しいマシンを使って、個人でも本格的なグラフィクスに攻め込んでいこうという気運が高まってくる時期です。知り合いのヴィデオ雑誌の編集者に、「テレビの正しい見方シリーズ」という企画を持ちかけてみると、すんなり掲載が決まりました。番組を受信する装置としてではなく、電子のキャンバスとしてブラウン管を使うという「正しい見方」は、時代の流れを先取りしていました。
『ビデオプレイ』という雑誌で連載化されたこのシリーズでは、パーソナルコンピューターを使ってパターンを描き出したり、立体映像を作ったり、時には磁石で画面をこすって、色合いをごちゃごちゃにしてしまうといった乱暴な楽しみ方を伝授していきました。いったん磁化させてしまうと、もう正しい色合いには戻らなくなるため、磁石の回には「拾ってきたテレビで試すこと」と落ちを付けました。
 この連載がディレクターの目にとまり、〈環境デザイナー〉というあやしい肩書きでテレビ朝日の深夜番組にも出ました。さらにこの番組を見たNHKのディレクターの話に乗って、ブラウン管のアーティスト、ナムジュン・パイクと祝田久の二本立てで、子供向けの番組も収録したとのこと。最終的には、「子供向きではない」との判断から、放映には至らなかったそうですが、ライターに加え、グラフィックス関係のプログラミング作業を個人で請け負っていると、暮らしは回っていきました。
 雑誌の記事に引き寄せられて来たのは、テレビだけではありません。
 レーザーディスク株式会社に籍を置いているという、萩野正昭という人物との出会いも、記事がきっかけになりました。

新しいメディアとしてのレーザーディスク


 パイオニアが開発したレーザーディスクは、情報をおさめておく大きな器です。映画や音楽物を、高画質、高音質で記録できるくらいですから、当時パーソナルコンピューターで利用できた記憶装置とは、けた外れの容量を備えていました。おまけに情報は、制御しやすいデジタルです。アナログのヴィデオデッキとは、決定的に異なっています。
 ならば、パーソナルコンピューターでコントロールすることで、レーザーディスクをいろいろ面白く使えるのではないか。頭から映像を流しっぱなしにするのではなく、画像データベースとして、必要なタイミングで必要な映像を引き出せるはずだと考えました。
 実際にアップル※(ローマ数字2、1-13-22)で制御してみる記事が掲載されて間もなく、「萩野」と名乗る人物から電話がありました。「相談したいことがある。実は僕の家は近くだから、今からたずねたい」と、最初から畳み込んできます。
 筺体も付いていない、基板むき出しのアップル※(ローマ数字2、1-13-22)の互換機やPC―9801、シンセサイザーなどでうまった下宿に、さっそく上がり込んできた元気のいいオヤジは、人なつっこそうな笑顔をはさみながら話し始めました。聞けばレーザーディスク株式会社の中にも、新しいメディアとしての可能性を探ろうとする考え方はあるとのこと。音楽と映画という二本柱に加えて、もう一つ大容量のデジタルメディアとして使っていこうとするグループがあり、萩野氏自身がそうした動きを引っ張っているのだといいます。こうした新しい使い方を実現していく上では、コンピューターから操作する形になるだろう。そう考えていたところに、祝田さんの記事を見て、さっそく連絡を取ったとのことでした。
 具体的な仕事の依頼も、その場でありました。
 すでにレーザーディスク化してある料理に関する作品を、パーソナルコンピューターから検索し、制御するプログラムを書いて欲しいというのです。例えば牛肉を使った料理ならこんなもの、中華料理ならこれと、いろいろな角度からリストを出させ、そこで選んだ料理の作り方を画面で見ていこうという狙いでした。
 萩野さん率いるグループとの付き合いが、ここから始まります。
 音楽、映画の二本柱以外を担当するこのグループは、〈その他班〉と呼ばれていました。北村礼明さん、鎌田純子さんは、そのメンバーです。
 何度か異動はあったものの、面白いけれどやっかいで、そのくせさっぱり売れない挑戦的なタイトル作りとなると、決まって彼らが顔をそろえました。
 当初、レーザーディスク株式会社との付き合い方は、仕事一本単位の請負でした。
 ところが親会社のパイオニアが、8ビット・パーソナルコンピューターの標準規格を狙ったMSXプロジェクトに加わったのがきっかけとなって、祝田さんの関与は深まります。
 パイオニアは、レーザーディスクとの連携を、自社のMSXの売り物にしようと考えました。そのためのソフトウエアを、レーザーディスク株式会社が開発することになったのです。
 レーザーディスクの音声トラックに、音に変換したプログラムを入れておく。使うときには、先ずこのプログラムをMSXに読み込んでくる。例えば、レーザーディスクのリアルな映像を背景に置き、迫力のある音を絡ませたゲームのようなものが、これで実現できるだろう。
 こうした発想で企画された〈コンピューター・エンコーディッド・ディスク〉の開発にあたって、技術の元締めとなるべく、祝田さんはレーザーディスク株式会社と嘱託契約を結びます。
 コンピューターとの連携により、新しい可能性を探っていく試みの中で、彼の役割は、次第に大きくなっていきました。

もう一つの〈その他班〉


 レーザーディスクに新しいメディアとしての可能性を見たボブ・スタインのボイジャーは、いわばもう一つのその他班でした。
 一九八七年八月、ボストンで開かれたマックワールドエキスポで発表されたハイパーカードは、日米二つのその他班を、パーソナルコンピューターに一段と近づけました。
 文字や絵にとどまらず、映像や音を打てば響くように組み合わせていく、絶好の土俵が誕生したのです。二つのその他班はその後、競うようにハイパーカードを表に立てた作品に取り組んでいきました。
 一九八八年、ボイジャーが発表したハイパーカードを使った新しい作品は、日本のその他班に向けた深刻な問いかけをはらんでいました。文字による解説や楽譜と、実際の演奏を緊密に連携させ、クラシック音楽を構造的に理解させようとする『ベートーヴェン交響曲第九番』は、フロッピーディスクと音楽CDの組み合わせからなっていました。
 レーザーディスクは、使われていなかったのです。
 この年、アップルは初めてマック用のCD―ROMドライブを売り出しました。大容量のメディアとしてかねてから期待されていたCD―ROMが、ようやくマックで使えるようになります。この装置で、音楽用のCDを聞くこともできました。『交響曲第九番』は、このタイミングを捉えた作品でした。
 量産可能な大容量のデジタルメディアという地位は、レーザーディスクの独占物ではなくなりました。ライバルのCD―ROMははるかに小さく、専用の再生装置もコンパクトに仕上げることができます。
 パイオニアと資本関係を持たないアメリカのその他班は、こうした新しい動きに素早く対応できました。一方、日本のチームにとって、レーザーディスクは決して飛び出せない土俵です。高画質の映像を提供できる点は、相変わらずレーザーディスクの強みでした。ボイジャーも、レーザーディスクの開発をすぐにやめたわけではありません。ところが一九九二年一月になって、動画をマックで扱うクイックタイムという技術が登場してくると、レーザーディスクの存在意義はまた一段と薄れました。
 このクイックタイムの登場と前後して、ボイジャーはエキスパンドブックの刊行を始めます。もう一つ、パーソナルコンピューターに重心を移した試みでした。
 レーザーディスクと心中する気持ちは、萩野さんにはありませんでした。独立を考えたとき、まず頭に浮かんだのはスタインと組むことです。先の見えない話は、当初一人で進めるつもりでした。ところが、ボイジャージャパンの設立を決めてその他班の仲間に打ち明けると、彼らも土俵から飛び出す機会を待っていたと言います。以降、社内のメールシステムを使って、足抜けの段取りが練られました。
 マルチメディアの器としては、レーザーディスクに未来はない。
 この時代の流れが、四人の背を押しました。

ボイジャージャパンでやりたいこと


 ボイジャージャパンの設立直後、一九九二(平成四)年十一月に発表された資料には、三つの活動の柱が掲げられています。
 第一に、米ボイジャーの作品を、英語版のまま売ること。第二に、米ボイジャーの作品を日本語化して売ること。そして第三に、ツールキットを日本語化し、普及をはかっていくことです。
 ただし祝田さんには、もう一つやってみたいことがありました。
「自分なりのハイパーカードを一から作る」という夢に、ここで挑戦したいと考えていたのです。
 ハイパーカードは、祝田さんが強く引き付けられたソフトウエアです。心底惚れ込んで骨までしゃぶるように味わい、ここから多くを学びました。たくさんのタイトルをこれで作り、繰り返し追加モジュールを書いては、機能の拡張にも努めてきました。
 けれど新しい時代を開いたハイパーカードにも、問題がなかったわけではありません。白黒からスタートしたマック用にデザインされたハイパーカードは、当初カラー化を想定していませんでした。その後マックがカラーに対応すると、ハイパーカードも拡張されて、色が付けられるようになります。ただしカラー化の手法は、強引で洗練を欠いていました。透明なシートを一枚、背景にかぶせてデザインを仕上げる手法には感心しましたが、手直しをやりやすくする工夫がもう少しあってもいいとも感じました。
 独立したソフトハウスによって書かれたスーパーカードは、こうしたいくつかの問題を乗り越えようと狙った製品です。最初からカラーに対応しており、スタックと呼ばれるカードのまとまりを巧みに連携させる、構造化の仕組みが盛り込まれていました。ビジネスとして大きく成功したわけではありませんが、ハイパーカードを越えようとする意志と方向付けには納得がいきました。
 スーパーカードという一つの回答が寄せられた段階で、ではもう一つのハイパーカードを目指すとして何が可能なのか。祝田さんの胸には、「ある特定の分野に特化したものなら、意味のある面白いものが作れるかもしれない」との思いが育っていきました。まだ明確には形になっていないこの夢を、彼はその後、〈ダムカードプロジェクト〉と呼ぶようになります。名前のきっかけとなったのは、PC―9801用に書いたハイパーカードを動かすための環境でした。
 ハイパーカードはマック専用です。スタックを作ることも、作ったスタックを動かすことも、マックの上でしかできません。それなら自分でと、日本の標準機のような地位を占めたPC―9801で、ハイパーカードを見られるようにするソフトウエアを作ろうと考えました。一切カードの中味には手を加えられず、ただ動かすだけのこの仕掛けを、祝田さんはダムカードと名付けました。大きなコンピューターにぶら下がって働く、自分だけでは仕事をこなせないダム端末にならった命名です。以来、ハイパーカードを乗り越えようとする試みは、彼の胸の中でダムカードプロジェクトと呼ばれるようになりました。萩野さんと進めることになった独立の計画は、本格的にこれに取り組むチャンスに思えました。
 創立メンバーが集まって、新しい会社の方向付けを議論する場で、祝田さんは「一年間、時間が欲しい。そうすれば、会社の柱になるような、ハイパーカードを越えるものを作ってみせる」と提案しました。結果的には、「一年地下に潜るのは、この会社には無理だろう。先ずは英語版のツールキットを日本語化しよう」という意見が勝って、発表された活動方針が定められます。けれど祝田さん自身には、当初から、過去を切り捨てて一から勝負してみたいという願いがありました。
 この時点では、その試みを電子本の制作ツールに向けると、はっきり絞っていたわけではありません。それがその後、ツールキットの日本語化に取り組んでいく中で、ボイジャーの柱となるスタッフは電子出版に対する確信を強固に育て上げていきました。
 言葉の秘める底無しの魔力を怖れ、自らもその力を巧みにあやつる北村礼明さんは、たまたまコンピューターの世界に足を止めている作家です。マルチメディアというぶよぶよとした概念の中から、捨てるべきものを捨て、ボイジャージャパンが自らを電子本に向けて彫り上げていく過程で、北村さんは鋭利なのみの役割を演じました。
 ハイパーカード版に対する批判に応えて縦組みやアンチエイリアスの機能モジュールを開発していく中で、祝田さん自身の心も「やるのなら電子本に特化したもの」と自然に決まっていきます。
 創業時には、あらかじめ自分のやりたいことを提案するという、常識的な行動にでて失敗した祝田さんでしたが、その後は異なった戦術を取りました。ハイパーカード版の縦組み、アンチエイリアス化という表の仕事と共に、これらの機能モジュールを全く新しい環境で活かす試みも並行して進めたのです。
 改良日本語版を使った『THE COMPLETE OZU』の制作が一段落付いた一九九四(平成六)年の春、祝田さんは仲間たちに「見せたいものがある」と声をかけました。
 昼なお暗い、アトリエといった趣の彼の仕事場に集まると、鮮やかなカラーのグラフィックスを組み込んだ、縦組み、アンチエイリアス表示の頁がモニターに浮かんでいました。彼の言によれば、ハイパーカードによらない、全く新しい仕組みで動いていると言います。
 この新しい環境は、カラーが前提で自由に色が扱える。さらに、一続きの文章を頁単位で見せていく、より適切な表示の仕組みに基づいている。その結果、編集作業中に長く待たされるようなことがなくなり、小気味よく本作りを進めていけると言います。
 電子出版への特化は、スタッフ全員が議論を戦わせる中で選び取った道でした。その大枠には沿いながらも、祝田さんが暴走気味にぶつけてきた独自路線の提案を、仲間たちは大きな流れに沿ったものとして受けとめます。
 ツールキットをビジネスとして成功させる上でも、これで作った本を幅広い人に読んでもらうという観点からも、ウインドウズへの対応は不可欠でした。
 祝田さん自身は、マックに惚れ込んだプログラマーです。試作された新しいソフトウエアも、マック上で書かれていました。けれど独立したアプリケーションなら、自分たちの意思でウインドウズへの移植に踏み出せます。

 この時、デモされたものを磨き上げて製品化したツールキット※(ローマ数字2、1-13-22)(以下、T※(ローマ数字2、1-13-22))を起動すると、オープニングに「Program by Hisashi Hoda」と表示がでました。他のプログラマーも加わって、ウインドウズ版が開発されるまで、作者の表記は続きます。開発者の個人名が表に出るのは、商品としてのプログラムでは異例でしょう。けれど、ハイパーカードと出合ったときから抱き続けてきた、「自分なりの新しいハイパーカードを作りたい」という願いが、T※(ローマ数字2、1-13-22)誕生の原動力だったことをあらためて確認してみると、彼の名前がオープニングから消えた今の方にこそむしろ、違和感を覚えます。
 ボイジャージャパンは、コードの芸術家たる祝田久の作家性を、電子出版に対する確信と決意を腹にためた萩野正昭、北村礼明、鎌田純子という論客とスタッフの全員が、尊敬し、慈しみ、守り抜こうと決意して生まれた集団です。
 改善すべき点をまとめて渡し、「改良版はまだか」と焦っていると、突然「こんなのできたんだけど」と全く関係のない、けれど素晴らしい可能性を感じさせるコードのかけらが送られて来たことは、一度や二度ではありません。ビジネススクールの教材として取り上げられれば、彼らのマネージメントには、間違いなく「悪い見本」との評価が下るでしょう。
 けれどこれこそが、彼らの流儀なのです。
 PC―9801という日本独自の規格が幅を利かせていたところに、一九九〇年代に入って世界の標準仕様がなだれ込んでくると、日本の企業からはソフトウエアに関する新しい試みがほとんど生まれなくなりました。そんな中でT※(ローマ数字2、1-13-22)は、意味のある提案として間違いなく光っています。
 彼らの奇妙なスタイルには、限界もあるでしょう。けれど私には、暴走も含めてぎりぎりまで作家の個性に付き合おうと覚悟した彼らの流儀こそが、T※(ローマ数字2、1-13-22)誕生の欠くべからざる条件だったような気がしてなりません。

新版『パソコン創世記』の誕生


 構想をあらためて一から書き直した原稿を「終えよう」と思ったのは、一九九四(平成六)年の春でした。文庫本の後書きのつもりで手を付けてから、もう一年が過ぎようとしていました。
 あらためて照らし合わせれば、ダムカードプロジェクトの成果が示されて、ボイジャーがT※(ローマ数字2、1-13-22)に向けて舵を切り直そうとした時期にあたっています。

 有人宇宙飛行計画がアメリカでどう始まったかを描いた『ザ・ライト・スタッフ』の著者、トム・ウルフにとって、長い物語りを終えることはとても難しかったと言います。同書の日本語版を訳した中野圭二の後書きには、「ある日家内がもう本は終わりまでいっていると教えてくれなかったら、まだ書いていたかもしれない」とする、彼の述懐が紹介されています。
 この時期私自身も、無限とも思える鉱脈を掘り続ける終わりのないリズムの虜になっていました。
 最も太い柱として中心に置いた物語りは終わりに近づいていましたが、触れていないエピソードを数えはじめれば、あれもこれもといくらでも指が折れました。
 画面の前の置物のようになった私を春の日の公園に誘い、「もう帰っておいで」と嫁さんが声をかけてくれなければ、少なくともあのタイミングでは出てこられなかったでしょう。なお書き続けていっていくつかの節目を迎えたとして、原稿の終わりに「えいやっ」とエピローグを置く踏ん切りが、自分で付けられたかどうか。終わることは始めることよりも、少し難しかった。
『パソコン創世記』を書き続ける作業は私にとって、あるところで当然けりを付けるべき〈仕事〉では、なくなりかけていたのかもしれません。

 ひとまず第一稿をまとめ終えたのは、五月です。
 取材でお世話になった方々に原稿を送り、事実の誤認がないか確認をお願いすると共に、批判を求めました。「重要な要素を見逃している」という指摘には、自分でも納得がいき、追加取材に動きました。「正確に書いて欲しい」との指摘を受けて、原稿の一部を何度も何度も繰り返し電子メールでやり取りしたことを、昨日のように思い出します。押しつけられた分厚い紙の束を読まされた上に、中にはかなり粘っこくなったり、気色ばんだりしたやりとりに付き合ってくださった皆さんに対しては、時間を置いてみるとあらためて「ありがたかったな」という思いがつのります。
 第一稿は、何人かの知人にも読んでもらいました。
 以前、続編の執筆を条件に文庫版の再刊を申し入れてくれた編集者、魚岸勝治さんも、その一人です。
 若干の後書きだったはずのものがずるずると膨らんでいく過程では、私自身の取りかかっている作業が、かつて彼が提案してくれたことそのものであることを、まるで意識していませんでした。画面とにらめっこしたままの一年が過ぎて、ふと顔を上げてはじめて、魚岸さんの顔が浮かびました。
 評価と励ましを与えてくれた彼には早く報告したいと思い、原稿を送りました。
 所属していた会社の倒産があり、その後、スポンサーを見つけて新しい雑誌を起こしていた魚岸さんは、自分の雑誌で一部を連載したいと申し出てくれます。「紙の本も作りなさいよ」と、出版社への紹介をかって出たのも彼でした。
 一九九四(平成六)年の九月号から四回連続で、新しく書き起こした原稿を『ピーシーウェーヴ』誌に連載でき、同年の十二月にTBSブリタニカから書籍として刊行することができたのは、魚岸さんの力添えによる幸せな副産物でした。
 八月にはほぼ決定稿が仕上がっていたにも関わらず、本来の目標であるエキスパンドブックでの出版は、二つの要素が重なって翌年に持ち越しました。
 一つは、T※(ローマ数字2、1-13-22)の開発の遅れです。当初ボイジャーは、同年の十一月発売を予定していました。このタイミングで製品版が出せるなら、もう少し早い時点から『パソコン創世記』を作り始められるだろう。とすれば、T※(ローマ数字2、1-13-22)そのものの発売に合わせて出せるのではないかと考えました。
 ところが開発作業は、当初の目論見通りには進みません。
 加えてもう一つ、私自身が新しい作業を抱え込んでしまったことも、「エキスパンドブック版を後回しにしよう」と決める要因になりました。
 電子本に、動画を入れたくなったのです。

当たり前になってきたCD―ROM


 当初エキスパンドブックとして出し直そうと考えてから、一年あまりをかけて原稿を準備する過程で、電子出版物をめぐる状況はかなり大きく変わってきました。新しい機種のほとんどが、CD―ROMの再生装置付きで売られるようになり、アプリケーションも、ゲームも、電子化した本や写真集の類も、一気に虹色に光る銀色の円盤で供給されるようになったのです。雑誌の付録にCD―ROMが付くようになったのも、この頃です。
 フロッピーディスクの五百倍近い容量を持つCD―ROMが使えるとなると、電子出版物でも動画や音にころうという意識が強まりました。文字だけを扱っていた段階から写真や絵に手を出して、「グラフィックスとはなんと容量を食うものか」と驚いていたところが、動画となると開いた口がふさがらないほどの情報量大爆発に直面させられます。それゆえフロッピーディスクが常識のあいだは、動画を入れたいなどとははなから考えもしません。それがCD―ROMでいけると言われると、とたんに色気が出ます。テレビ並みの画質とはいかないまでも、小さな絵なら映画一本分程度がどうにか一枚におさまるのです。
 こった動画や音が使えるようになると、電子出版物のほとんどは、こうしたマルチメディアの特長をアピールするようになりました。人間の耳と目は新しい刺激には敏感です。電子出版物を出していく企業にとって、売れることはとても大切な課題ですから、開けてみてまず興味を引きやすい〈動き〉で勝負したくなります。映像畑の表現者は途端にはりきるし、制作にあたる担当者も、これまではできなかったことが可能になったのですから、動的な表現には意欲を燃やします。
 そして私自身も、ごく自然に「動画を組み込もう」と思うようになりました。新旧の原稿に写真を組み込んでいくと、すでにその時点で、一枚のフロッピーディスクにはとてもおさまらなくなっていました。
 こう考えたのには、お手本もあったのです。御大のアラン・ケイやダグラス・エンゲルバートに加え、開発に携わった人たちを訪ねてまとめた『マッキントッシュ伝説』というCD―ROMのインタビュー集には、資料映像や取材時の場景がたくさん組み込まれていました。内容的にも私の書いているものと通じ合うところがありましたから、丹念に読みました。この作品の後から出す以上、動画の面でも工夫しなくては恥ずかしいと思うようになりました。読みやすさという決定的なポイントで紙に負けているのだから、少しでもサービスできることはしておきたい。どんどんボーナスを出して、基本給の少なさを補いたいと言った心境です。
 作る側の総大将がはなから「売れない」と宣言している状況ですから、なんでもかんでもボイジャーにげたを預ける気にはなれません。貧乏に負けずにとうちゃんもがんばっているのだから、子供も自立する心がけをもとう、といった調子です。動画に関しても、本文の目途が見えた段階で家庭用の8ミリビデオを買ってきて、操作の練習から始めました。
 あらためて時間を割いてもらい、一人で機材を抱えて敢行した撮影には、反省点ばかりが残っています。それでも、記念碑的なマシンやソフトウエアを動かしてもらって撮った映像が確かに映っているのが確認できると(レベルが低い!)、とても嬉しくなりました。興味深いコメントをもっと良い画質で残しておきたかったと悔いは残りましたが、マルチメディアは電子本のボーナスとして活用できるなとは実感させられました。
 CD―ROMにおさめたエキスパンドブック版の容量は、最終的に六百十メガバイトほどになりました。そのうちの五百八十メガバイトを、動画が占めています。かなり貧弱な画質の小さな絵を、およそ一時間再生するのに、容量の大半を食われてしまいます。あらためて動画とは、なんと情報量を食うものかと呆れます。ただ、ハードウエアを進歩させる側は当然ここを突いて、「もっと贅沢しなさい」と準備を整えて誘惑してくるし、新鮮な刺激にめっぽう弱い目と耳を持った私たちですから、今後もこうした傾向には拍車がかかるでしょう。
 電子本においても、質の高い動画を前面に押し出した作品が登場してくることは間違いありません。とりわけ電子出版を業とする人たちは、動画を駆使して意匠を凝らす圧力を強く受け続けるはずです。

「パワーブックで読む、従来の本を画面上に移し替えたもの」としてエキスパンドブックを旗揚げした米ボイジャーもまた、そうした圧力を受けた一人でした。
 当初ボイジャーは、フロッピーディスクにおさめたエキスパンドブックをどんどん出していきました。ところがCD―ROMの普及に拍車がかかり、商品化される作品の多くが大容量を活用したものになってくると、彼らは自分たちのエキスパンドブックから距離を置くようになりました。他社の提供する開発ツールを利用した作品が、ボイジャーの新作の大半を占めるようになっていったのです。
 彼らが積極的に利用したのは、マルチメディア作品を開発するツールの代表格であるディレクターでした。当初はマック用に開発された製品ですが、後にウインドウズでも使えるようになります。
 これを用いて開発したタイトルは、マックとウインドウズの双方で動かすことができます。ただ、もともとがアニメーションの開発ツールとして生まれたディレクターは、文章の取り扱いには強くありませんでした。動きと音を綿密にコントロールできる代わり、使いこなしにはかなりの技術と習熟を求めます。値段も高い、専門家のための道具です。ただし、ウインドウズ、マックの双方で利用できる華やかなタイトルを作る上では、ディレクターはとても自然な選択でした。

ボイジャージャパンが引き継いだバトン


 米ボイジャーが大きく路線転換する中で、T※(ローマ数字2、1-13-22)の独自開発に取り組んで初心を守ろうとしたのはボイジャージャパンでした。開発の中心となる人材の有無が、日米両グループの進路を分けました。DTPの二の舞を避け、電子ガリ版を発展させようとする道筋が、日本で生き残ります。
 一から新しい環境を用意する困難に加え、作り手である祝田さんのあくまで自らの美意識に沿おうとするこだわりがあって、T※(ローマ数字2、1-13-22)の開発は大幅な遅れを余儀なくされました。いったんは一九九五(平成七)年の一月下旬から出荷すると発表しながら、二月末からのマックエキスポまでにはと後退し、結果的に会場では、マニュアルなしの先行バージョンを販売するにとどまります。正式な出荷が始まったのは、さらに大きく遅れて五月末でした。
 完成がそこまで遅れるくらいですから、エキスパンドブック版の制作に取りかかった一九九四(平成六)年暮れの段階では、T※(ローマ数字2、1-13-22)にはまだたくさんの問題点が残されていました。
 未完成の道具で何かを作ろうとすることは、大変なロスを背負いかねない危険な行為です。ディレクターも使い、旧版のツールキットでブックを作ったこともある人からは、真顔で「完成を待つか、旧版に切り替えた方がいい」と忠告されました。
 二年前のエキスポがきっかけになったこのプロジェクトには、なんとかエキスポでけりを付けたい。そう考えながら、しかもT※(ローマ数字2、1-13-22)を使うことにこだわったのは、電子出版物を作った経験のない私が、未完成のβ版による開発のやっかいさを本当のところ良く分かっていなかったからです。
 私自身は動画の編集にかかりきりとなってしまい、β版をなだめながらの制作作業は、ボイジャージャパンの野口英司さんが全部背負い込んでくれました。地雷でも踏んだように突然トラブルが発生し、せっかくそこまで作ってきたものが何度かおしゃかになりました。泥沼の作業が続く中で、狼狽する私を笑顔で元気づけながら、野口さんは腹の底に諦観を呑んだようなひょうひょうとした調子で作業を続けてくれました。
 まるでアイスクリームでも入っているような雰囲気で、発泡スチロールの型におさまったCD―ROMが届いたのは、エキスポの前日です。
 ボイジャーのスタッフは、準備のために会場に出払っていました。がらんとした事務所で、パッケージに一枚一枚ディスクをつめていると、萩野さんがひょっこり顔を覗かせます。ディスクを一枚手に持って笑顔でかざすと、「なんだ、できたのか」と、意外そうな言葉が返ってきました。いつも前向きに励ましてくれた野口さんでしたが、業務の打ち合わせ時にはきっと「間に合いそうもない」と報告が上がっていたのでしょう。萩野さん曰く「決して間に合うはずのない『パソコン創世記』」はかくして、一九九五(平成七)年二月のマックエキスポで発表することができました。

 初代のツールキットに、私自身は電子本と出合ったことへの新鮮な驚きを感じました。
 けれどあらためて突き放して見れば、縦組みの読みやすい表示は、日本の読者に手渡される電子本にとっては最初に達成しておくべき課題でしょう。その意味では、日本におけるエキスパンドブックの本格的なスタートは、T※(ローマ数字2、1-13-22)によって切られたというのが本当かもしれません。
 あくまで中心に言葉をおき、そこにコンピューターのメリットを加えていくエキスパンドブックの本格的なスタートに『パソコン創世記』を重ねることができたのは、私にとって幾重にも幸せでした。
 自分の捉えた世界を物語って腹におさめることは、人の心にとって、息をすることや物を食べることのように欠かせないのだと書きました。そんな人という存在が、この試みの中で獲得し、見事に育て上げていった道具が言葉です。
 言葉が秘める力に対する怖れと信頼は、コンピューターがどうの、マルチメディアがこうのといかにはやし立てられようと、私自身の中では毫も揺らぎません。
 生物としての〈ヒト〉は、進化の流れの果てに生まれました。ただし膨大な文化的蓄積のただ中に生み落とされる〈人〉にとって、はじめにあるのは言葉です。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた」

 ヨハネによる福音書の冒頭の一節を、私はごく素直に、文字どおりに受けとめます。
 この言葉への信頼を根っこに据えた上で、コンピューターという新しい技術を借りて、紙の本を縛り付けてきたさまざまなくびきを葬り去る。物語りの器となる〈本〉を、より作りやすく、より扱いやすいものにしていく。そのことを通じて、これまで人が積み上げてきた膨大な本の世界を、もう半歩前進させる。
 ボイジャーのコーナーでマシンの一台を借りて、『パソコン創世記』をにこにこ顔で説明し続けた私の胸は、この本の未来探しに加われたことへの喜びで満たされていました。
 あの日私は、確かに言葉と共にありました。
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第四章 インターネットが吹き込む電子本の命



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 小さなステージに上がり、話し始めて間もなく気づいたのは、壇上の私めがけて走る幾筋かの光る視線でした。
 一九九五(平成七)年二月、マックワールドエキスポ/東京。
『パソコン創世記』のCD―ROM版を紹介するために、ブースに用意された小さなステージに立つと、とまどうほどの視線の圧力を感じます。
「本当に穴を抜け出して、人の世に帰ってきたんだな」
 壇上で私は、あらためてそんなことを考えていました。

『パソコン創世記』の原稿に取り組んでいた一年は、暗くて深い穴に、一人ぽっちで閉じこもっていた気がします。
 話を聞かせてもらうために、たくさんの人に会いました。繰り返し時間を割いてもらったことも、しばしばです。ただあらためて振り返れば、話してくださった方一人ひとりとは、深い闇の中で会っていたような気がします。
 文庫版の後書きとして着手してから、ひとまずβ版を書き終えるまで、この作業に直接関係するものの他に、私はほとんど本を読みませんでした。耳や目で確かに受けとめているはずのニュースや出来事は、蝋燭の炎が暗闇に投げる幻のように、ぼんやりゆらめいて見えました。
 そこから原稿の手直しを経て、雑誌の記事や紙の本を作ってもらい、CD―ROMの制作を進めるうちに、精神的なリハビリテーションを進めていたのでしょう。
 病を得てから数えれば、すでに五年近くがたっていました。
 エキスポは、最後まで残っていた下半身を穴から引き抜いて、大きく青空を仰ぐ私の祭りでした。
 CD―ROMの原盤を工場に送ってさすがにほっと一息つき、エキスポでどんなことを話そうかと考える過程で、私は暗くて冷たかった闇の記憶のかけらを払い落としていったのだと思います。
 最後の一片が落ちたのは、足を止めてくれた人を前に話し始め、耳を傾けてくれる人の視線をはっきり意識した、その時だったのでしょう。永い眠りから覚めたように、私はふと、〈仲間〉の息づかいに気づきました。
 エキスパンドブックを見て「これなら自分で電子本を作れる」と実感し、作業に手を染めてこの日に至るまでの間、私が考えてきたのは自分のことだけでした。我が身に起こる意識や体調の変化を楽しみ、どうにか完成にこぎ着けるだけの力を与えてくれたことを、向き合ってきたツールキットに感謝していました。
 けれどエキスパンドブックに力を与えられたのは、私一人ではありません。
 このこともすでに、私の網膜に間違いなく映っていたはずの事実です。
 しかし完全に穴を抜けきるその日まで、私は〈もう一人の私〉の息吹をはっきりと感じとることがありませんでした。

「作家よ来たれ!」


 ツールキットをプロの出版人に紹介していく一方で、ボイジャージャパンはアマチュアの書き手に「この世界には、あなたの本を読みたい人が必ずいる」と働きかけます。アジテーションを行うだけでなく、ボイジャーは、呼びかけに答えた人の作品を並べて販売する、エキスパンドブック横丁と名付けた活動にも乗り出していました。
 決め台詞は、「作家よ来たれ!」。うん、かっこいい。
 一年前のエキスポでも、すでに四十ほどの作品がボイジャーのブースに設けられた販売コーナーに並べられ、私が『パソコン創世記』を発表したこの年、出展作品は五十七に増えていました。

 動物嫌いだったはずの母が、突然連れ帰ってきたシーズー犬と家族の日常を描いた、『ロン吉百までわしゃ九十九まで』という物語の作者は、これまた犬嫌いだったはずの長女です。
 前年のエキスポで発表したこの作品に続いて、著者の小澤真理子さんは『犬と釣り』と題した、続編を出していました。いわゆるバブルがはじけて、ばったり仕事が来なくなった鳶の親方の父は、荒川の土手に出かけて釣り糸をたらすようになります。時計の針が突然止まってしまったような昼下がりの河原で、小澤家の人々が体験する一風変わった人たちの出会いが、飼い犬のロンの目から描かれていました。先行きをいささか暗く考えがちの頭領と、あっけらかんと磊落な姐さんの個性が浮き上がって見えるようで、ロンが現れる前の小澤家の物語も、続けて読みたくなりました。
 漫画家でもないだろうし、イラストレーターにもおさまらない。画面上で、絵と文章を組み合わせてみたり、キャラクターを動かしてみたり。吸う息と吐く息の穏やかなリズムに自然に沿ったような作品を、さらりと生み出していく〈るじるし〉さんは、マックという舞台ができて本当に幸せだったろうと思わせる表現者です。描線のギザギザを浮き上がらせた白黒の作品は、この人の鋭い批評眼と胸の奥に秘めている毒を、柔らかな色彩のそれは、美しいものへの哀しみのまじったあこがれを感じさせます。
 そのるじるしさんは、以前雑誌に載せていた『るじにっき』をエキスパンドブックにまとめて、横丁に出品していました。連載中から楽しみにしていた『るじにっき』でしたが、あらためて画面で読んでみると、添えられたイラストが水を得た魚のように実に鮮やかに、いきいき見えるのに驚かされます。彼女はもともと、ディスプレイの上で作品を描いている。それを紙に移し替える際に失われたものがあったことを、はじめて意識しました。「ああ、このものたちは、もともとここで生まれたんだな」と、画面上の『るじにっき』を見ていると、そんな感慨がわきました。

 横丁には、その他にもいろいろな〈本〉が並んでいます。
 自伝的な小説やエンターティンメントを指向した物語、旅行記、評論、研究論文。写真やイラストとの組み合わせからなる、さまざまな作品。『会社を知るための経理講座』や、医師による『マックで治すアトピー性皮膚炎』といった実用書まで、実に幅広い内容のエキスパンドブックがそろっていました。
 その一つひとつが生み出される過程で、私が感じたのと同様の、「自分の本が作れる」という発見があったに違いありません。
 ブースに設けられたステージに立つと、横丁に作品を寄せた何人かの作り手も、私の話に耳を貸してくれました。
 すでに誕生した数十人の横丁作家、これから生まれるであろう数百人の作り手の、自分自身が一人であることを、私はこの時になってはじめてつくづく腹におさめたのです。

ネットワークとコンピューター


 大阪で胡桃設計を主宰し、住宅中心に取り組んでいる木津田秀雄さんも、エキスパンドブックに可能性を見いだした一人です。
 件の一九九五(平成七)年二月のエキスポには、もう一人の横丁作家である古野信治さんと、エキスパンドブックによる雑誌を出そうと準備を進めていました。ところが出展締め切り直前の一月十七日、阪神大震災が起こってそれどころではなくなってしまいます。
「本を作る」と思うと、腰が重くなる。もっと気軽に、「ぽんと作ろう」という気持ちから『エキスパンドブックでポン!』と名付けた電子雑誌の創刊号は、結局エキスポには間に合いませんでした。その代わりボイジャーのブースには、『ポン!』の読める場所を紹介するビラを置かせてもらいました。
 代表的なパソコン通信の運営会社であるニフティーサーブには、エキスパンドブックに関する意見交換の場として、ボイジャーのサロンが設けられています。ここには別に、プログラムやブックを登録しておいて、希望者に電話回線経由で引き落としてもらうための場所があります。二人は『ポン!』をここに置き、通信で配る道を選びました。

『パソコン創世記』というたこつぼからようやく抜け出した私は、この年の春頃からボイジャーサロンを覗くようになります。『ポン!』もここで見つけました。さらに木津田さんが、『エキスパンドブックでつくる本』という作品を登録していることも知りました。
『エキスパンドブックでつくる本』は、一九九四(平成六)年十月一日付けでまとめられた作品です。日本語版の初代ツールキットが出たのが、この年の七月。ツールキットを買った人の作品としては、もっとも早い段階のものでした。
 この作品を刊行から半年以上過ぎた時点で読んでみて、木津田さんがきわめて早い時点で、実に深いところまで電子本の可能性を見通していたことに気づきました。
 ツールキットを触り始めた途端一気にイメージが広がり、寝ても醒めてもエキスパンドブック一色となった頭でそのまま書き上げた原稿は、編集段階でかなり削ぎ落としたと言います。結果的に十二ページに短くまとめられたこの本を読んで、特に印象に残ったのは、ネットワークを電子本流通の本命として強調している点でした。
 現状を見れば、生まれ落ちた電子本はもっぱら、既存の流通ルートに載ろうと努めている。そもそもボイジャーにしてから、ソフトウエアの卸しや書籍の取次店に取ってもらい、そこからショップや書店にエキスパンドブックを流そうと考えている。しかし個人には、この道は頼み得ない。何らかの他の手段が求められる。
「では、新しい道はあるだろうか」と問いかけて、木津田さんは「きっと開ける」と結論づけていました。
 紙と縁を切った電子化が本づくりを個人に解放するように、流通もまた、物との縁を徹底的に断ち切ることで根底から変わりうる。
 そう考えたのです。
 個人にとっての電子本は、ネットワークによる流通とセットになって初めて、本来秘めている可能性を開花させる。これまではもっぱら、マスメディアの流す情報を浴びているしかなかった個人に、情報の発信者となるチャンスを与える。一方を向いていた社会の情報の流れを、個人を結び合う、双方向的なものに変更しうる。
 木津田さんは、そう主張していました。
 さらにそう書くにとどまらず、木津田さんはネットワークによる電子本の流通にいち早く乗り出していったのです。

サイバーブックセンターへの道


 木津田秀雄さんは、一九六二(昭和三十七)年、兵庫県伊丹市に生まれました。
 小学校時代の一大イヴェントが、一九七〇(昭和四十五)年の大阪万博で、中学に入ってからは、外国のラジオ番組を聞くBCLのブームにはまります。
 パーソナルコンピューターに関心が向いたのは、一九七〇年代の後半、製品化されはじめたマシンに気の早い連中が飛びついた時期でした。高校三年の時、友人の兄がNECのPC―8001を持っていると耳にします。家まで見学に行くと、「子供は触るな」と言い渡されてしまいました。結局後ろから覗くしかできませんでしたが、関心は大きく膨らみます。ベーシックというコンピューター言語を勉強し、自分でも簡単なプログラムを書きました。もちろんマシンはもっていませんから、処理は友人の兄が頼りです。書いたものをお兄さんに渡してもらい、結果を後で教えてもらうという人間バッチ処理で臨みました。
 一九八一(昭和五十六)年に関西大学の工学部建築学科に入学し、先輩たちとオーディオミュージック同好会を作りました。ここの仲間から、シャープの出していたMZ―80Kというマシンを中古で譲ってもらい、しばらくはプログラミングに熱中したそうです。それが一時キーボードに触る気がしなくなったのは、パーソナルコンピューターを道連れに自分たちがどこに行こうとしているのか、見えないと思い出してからでした。確かにプログラムを書くのは面白い。けれど何のためにと問い直してみると、楽しみ以上の意味を見出せませんでした。
 学年が進むに連れて大学には顔を出さなくなり、マンション設計ではかなり力を持っている会社への就職も、自分で決めました。設計のいろはをここでたたき込まれる一方で、会社に転がっていたPC―8001を使って収支計算を処理するプログラムを書き、これがきっかけになって、設計のかたわら業務のコンピューター化を仰せつかります。
 会社に入って五年目、一九九〇(平成二)年に参加したピースボートの韓国クルーズは、大きな転機になりました。仕事の都合で一週間の旅の後ろ半分はキャンセルせざるを得ず、主催者側の手際の悪さも印象に残ります。けれど人との出会いには、恵まれた旅でした。
 設計事務所の日常に戻って間もなく、ピースボートのスタッフから連絡が入ります。「今度、世界一周をやる。一緒に主催者として関わらない?」との誘いでした。
 ピースボートには、運営にあたる会社や恒常的な組織はありません。旅ごとに主催者が集まり、最終的な金銭の責任も負うと決心した人たちによって、どこをどう回るかが決められます。こうして骨格の固まった段階で、参加者が募られるのです。主体的に深く関われば関わるほど、大変だけれど楽しくなるのがこの旅です。
 話によれば、これまではずっと赤字続きで、主催者が頭割りでマイナスを被ってきたと言います。
 ただし今回の世界一周では、精一杯値切って安く調達したギリシャ船籍の船のチャーターだけで五億円。総額で十億円程度かかるとの試算が出ていて、気を引き締めてかからないと大変なことになる。一方それだけに、やりがいも大きいはずだ。
 そう聞かされると、大きな意思決定を自分たちでできるという点に、強く引き付けられました。五千万円の船の頭金に、取りあえず百万円出してくれる主催者が五十人必要との説明を受けて、金をかき集めて誘いにのります。

 出発は、一九九〇(平成二)年十一月一日を予定していました。いったんギリシャまで飛んでそこから船で西に回り、世界一周の後、ギリシャに帰還。翌年の一月末、再び飛行機で日本に戻るスケジュールです。
 この年の八月、イラクがクウェートに侵攻して中東の緊張が高まりました。けれど早期の開戦はないだろうと踏み、ペルシャ湾沖から紅海に入ってスエズ運河を抜けるコースに、土壇場の変更は加えませんでした。
 ところが予定通り出発してみると、年明けの一月十七日に、アメリカを中心とした多国籍軍による空爆がはじまります。二日前にインドを発って、ペルシャ湾沖にかかっていた船を、ではどう進めるのか。日本からのFAXやラジオ放送の情報を元に、情勢を分析しました。遭遇したアメリカ海軍の航空母艦から飛び立った戦闘機は、ピースボートを敵に見立てて、爆撃の練習でもやっているとしか思えない飛び方をします。日本のマスコミからは、船舶電話での現場リポートを求められました。日本の海運業界には、ペルシャ湾奧への航行禁止を申し合わる動きもありましたが、紅海からスエズ運河を抜けるのは危険ではないとの船長の判断があり、最終的には予定通り進むと決めました。
 旅を終えた後、休職扱いにしてもらっていた事務所には戻りませんでした。沖縄でリゾートの設計と開発の管理にあたって欲しいという話があり、これにのったのです。一九八七(昭和六十二)年五月にいわゆるリゾート法が制定され、全国各地が開発計画の花ざかりとなった経緯には、強い違和感がありました。けれどもう一方で、環境との共生意識を持たない連中に設計を任せるくらいなら、計画の中に飛び込んで、自分で取り組んでみようと意欲がわきました。
 ところが実際に移ってみると、この計画がぽしゃります。木津田さんはバブルがはじけていく時期を、沖縄の方言で「いい加減」を意味する、〈てーげー〉に過ごしました。
 最初は、都会にあって沖縄にないものばかりを数える日々が続きましたが、やがて文化、風土、気候と、すべてにおいてここにしかないものが見えてきます。かねてから欲しかったマックを買って、実際に入れ込み始めたのもこの時期でした。
 エキスパンドブックの存在を知ったのは、一九九三(平成五)年の夏です。
『MOP』と言う雑誌を買ってくると、「インタラクティブ・マルチメディアの可能性」と題したインタビュー原稿がエキスパンドブックに仕立てられ、付録のフロッピーディスクに入っていました。ツールキットを使えば、こうした電子本を作れるという点に、気持ちが張り付いて離れなくなります。雑誌にあった通信販売の広告でツールキットを見つけ、買い求めたのが九月。ちょうど仕事が暇だったのが災いして、マニュアルを読んでは実際に操作し、手を止めている間はこれで何ができるだろうと思いを巡らせる、エキスパンドブック漬けの一週間が続きました。この時、一気に書き上げてブックに仕上げたのが『エキスパンドブックでつくる本』です。
 日常を揺さぶってみたい。ポイントを突いて効果的に働きかければ、物事は動くというピースボートで味わった気分を、エキスパンドブックは久しぶりに思い出させてくれました。
 出来上がったブックはさっそく、「建築デザイン」、「在宅ワーキング」、「アプリケーション日本語環境」など、ニフティーで出入りしていたフォーラムに登録しました。この時、「読みました。僕も作ってるんですよ」とさっそくメールをくれたのが、後に『ポン!』を一緒に作る古野信治さんです。
 十一月には、ニフティーにボイジャーのサロンができました。二十一日付の最初の書き込みは木津田さんによるもので、その日のうちに古野さんからのメッセージが続きます。当のボイジャーからオープンの挨拶が寄せられる前に、書き込みの輪はどんどん広がっていました。エキスパンドブックに興味を持ち、いろいろなフォーラムで話題にしていた人たちが、次々と集まってきたのです。

電子出版社の模索


 コンピューター通信の世界では、ハンドルネームという、自分で付けたもう一つの名前を使う人がたくさんいます。〈翡翠〉さんは、サロンに寄せた初めての書き込みで、的の中心をダーツで射抜くように、エキスパンドブックの意義を言葉に定着しています。

「エキスパンドブックが私達の前に提示してみせてくれている可能性は、不幸にして『個人でも手軽に本が作れる』という部分を抜きにして、発達していっている日本のDTPに対するアンチテーゼだと思っています。個人の机から取り上げられ、もうそこに戻すこともできないくらい重く高価なものになってしまったDTPを、再び個人の机の上に取り戻してくれる、そんな気がします。
 書き残していかなければいけないこと、今そうしなければ永久に失われてしまうものがいっぱいあります。出版社に任せていては、それは手遅れになってしまうでしょう」(一九九三年十一月二十七日付け、ボイジャーサロンへの書き込み。番号00010)

 かつてエキスパンドブックの書評に、こうしたまとめ方は「DTPの輪の、一つの慎ましい閉ざし方だろう」と書いたとき、私が考えていたのもこの点です。
 そうした思いは、木津田さんの胸にも宿っていました。
 木津田さんはさらに、紙の出版社がすくい取ってくれないメッセージを残す作業を、電子出版社を起こして、組織的に進められないかと考えを進めました。
 木津田さんの手はすぐに動きます。ピースボートで知り合った研究者やジャーナリスト、自費出版でユニークな本を出している書き手たち三十人ほどに連絡を取り、電子本をどう見るか、出してみる気はないかをたずねて回りました。
 出版社の意向や物理的な制限など、紙の本作りを縛るさまざまな制約を逃れ、より自分の思いに近い姿で作れるのなら面白い。「部数が見込めない」として本にしてもらえなかったものを、形にできるなら興味がある。速報性の高いものを、通信と組み合わせて出すといい。
 そうした肯定的な反応が返ってくるもう一方で、否定的な意見にもさらされました。
「私はコンピューターが嫌い」と最初に言い放たれては、作る側と読む側の双方に機械を求める電子出版を口説く手がかりがつかめません。
 最も根底的な批判は、西表島の〈合鴨農法〉による米作りを、十年かけて一冊にまとめた安渓遊地さんから受けました。農薬を使わず、合鴨に雑草を食わせるというその話を電子本にしないかと誘うと、安渓さんからは言葉の生み出し方そのものへの疑念が返ってきたのです。
「沖縄に一日いれば新聞記事が書ける。一週間なら雑誌記事が、一か月いれば本が書ける」
 安渓さんは、皮肉をこめてそう語りました。
 安渓さんの本が育まれるまでには、十年に及ぶ聞き取りの努力がありました。言葉を吐き出すことが先に目的としてあったのではなく、人の心に潜りこんで生活の実相を記録する長期に渡る実践があり、やがてそれが一つのまとまりを持った言葉に変わる時を得たのです。それを軽々しく、「簡単に本が出せる」などと言ってくれるなという、胃袋に重い指摘でした。
 紙の出版社を批判的に乗り越えるような気でいたけれど、誰か書ける人を見つけてきて原稿を用意してもらうのでは、結局はこれまでと同じことを、コンピューターの上で縮小再生産するのにとどまるのではないか。エキスパンドブックは、暮らしの中で言葉を育んできた本人に可能な限り近いところで、できるならば当人によって生み出されるべきではないか。
 安渓さんの批判を浴びて、木津田さんはそう考えるようになりました。
 では自分自身は、何を成すべきなのか。
『ポン!』の三号には、阪神大震災に際して木津田さんがどう振る舞ったかの記録が、「建物診断ボランティアに参加して」と題して掲載されました。その後も木津田さんは、暮らしの中で育んだ思いを『ポン!』の原稿にまとめています。いずれはまた独立したブックも、出していかれるでしょう。
 ただそうした書き手としての活動に加えて、エキスパンドブックを紹介し、作品を読める場を用意することを、木津田さんは自分の役割として意識するようになりました。そして、電子本に本領を発揮させる欠かせない要素と考えた、ネットワークによる流通の道を付けていこうと心が決まります。
 木津田さんの手は、ここでも再び素早く動きました。
 世界規模の自由なネットワークとして、急成長を始めたインターネットの上に、エキスパンドブックの書店を開こうと準備にかかったのです。

サイバーブックセンターの離陸


 一九九三(平成五)年九月、エキスパンドブックを実際に使ってみて、木津田秀雄さんがネットワークと結びつけて電子本の未来を見通した頃、インターネットは、ワールド・ワイド・ウエッブ(WWW)という新しい補助ロケットを得て急成長の軌道に乗っていました。

 インターネットの成り立ちに触れた本を読むと、その多くが「アメリカの軍用ネットワークが起源だった」と書いています。核攻撃を受けて通信線の一部が途絶えても、全面的なコミュニケーションの途絶に陥らないよう備えた、網の目状の〈打たれ強い〉通信網が原点だったと言うのです。
 ルーツとなった通信網が、軍の予算によって築かれたこと。その際、網の目状のシステムには打たれ強い性格があると強調されたことは事実です。けれど、誰がどのような意識でこうした試みを進めたかをたどってみると、「ルーツは軍事」とする決まり文句となった指摘は、実態からかけ離れているだけでなく、歴史の大きな流れを見誤らせかねないと痛感します。
 一九六〇年代初頭、今役立つものだけでなく、先を見越したコンピューター技術へも投資していこうとする気運が軍の内部で高まったとき、J・C・R・リックライダーという心理学畑の研究者が見直しの責任者として招かれました。人は〈考える〉作業の大半を、資料をまとめたり、参考になるものを探したりといった準備のために使っている。この工程にマシンの支援が受けられれば、人とコンピューターは素晴らしい〈共生体〉を産み出せる。そう考えていたリックライダーは、もう一方でコンピューターをネットワークして使うことことで生じる〈共有感覚〉の目覚めにも、いち早く気づいていました。
 誰もが使える考えることを支援するコンピューターを、ネットワークして使う。
 こんな夢を見たリックライダーの方向付けに従って、資金難にあえいでいたダグラス・エンゲルバートは軍からの援助を受けてプロジェクトを本格化させます。アラン・ケイはその成果を継ぎ、積み上げられたものはパーソナルコンピューターへと手渡されることになりました。
 そしてもう一方、リックライダーを継いだ人たちの手で、インターネットの原点となるネットワークが、アカデミックな研究所や大学を結んで築かれます。この試みは大きな成果を残し、やがてこれに刺激されて、さまざまなネットワークの試みが生まれました。その後、各種のネットワークは互いに結び合うようになり、商用のシステムにも門戸を開いて、インターネットに生まれ変わっていきます。
 今多くの人たちが、マッキントッシュやウインドウズを使ってインターネットを利用していることを、リックライダーは自分の見た夢の実現として受けとめるはずです。
 こうして段階を踏んで成長を遂げてきたインターネットを、一九九〇年代に入って急成長させたのは、WWWでした。各国に関連の施設を持つ、欧州原子核共同研究所(CERN)で、「知識の共有システムを作ろう」として始まった作業がきっかけです。
「あれに関しては誰が知っている」、「あの資料ならあそこにある」といった、情報の在処を示す矢印をネットワークの上で付けられるようにしよう。インターネットで結ばれた研究所の各コンピューターの情報に、自由にリンクが付けられるようになれば、どこに何があるか分からないといった事態を改善できる、という発想から生まれた試みでした。
 リンクをたどりながら情報を見るためのブラウザーと呼ばれる小道具に、モザイクやネットスケープ・ナヴィゲーターといった優れたソフトウエアが生まれると、さまざまな組織や企業、そして夥しい個人が一斉にこの仕掛けを使って自分たちの情報を発信し始めました。

 誰もが利用できる電子ガリ版として生まれたDTPが、プロの本作りを効率化する技術として発展しはじめると、私は大切な物が置き去りにされてしまったような気分にとらわれました。
 自分の物語りを、読みやすく扱いやすい器におさめる術は、誰にとっても有用なものだろう。この技術は紙の本作りの世界に閉じこめられるべきではない。ポストスクリプトで表現し、通信で送れるようにしたネットワーク雑誌のような方向にこそ、進むべき未来があるはずだ。
 ずいぶん先走ってそんなことを書いたのは、DTPがたどりはじめた進化の道筋への、違和感ゆえでした。
 まったく縁のなかったアカデミックな世界から突然現れ、すさまじい勢いで成長しはじめたWWWが実現したのは、その時私がネットワーク雑誌に期待したこと、そのものでした。
 WWWではさらに物や情報を売ろうとする試みが始まり、横並びの激しい競争の中で、音や動画まで送ろうとする工夫が続々と試みられました。

 このインターネットの上で、電子書店を開こうと木津田さんの背を押したのは、二つの要素です。
 先ず痛切に感じたのは、エキスパンドブックの集まってくる拠点、それも自由な広場が欲しいという思いでした。
 ブックが出来上がるとたいていの作り手たちは、読んでくれそうな人にコピーして配り、続いてニフティーサーブなどのネットワークに登録することを考えます。木津田さん自身、はじめてのブックである『エキスパンド・ブックでつくる本』は、よく出入りしていたニフティーのいくつかのフォーラムに登録しました。
 自分の参加するフォーラムは、ネットワーク上の居場所です。例えば〈建築〉であるとか、〈映画〉、〈音楽〉といった、フォーラムの掲げる特定のテーマに関心のある人が集まっています。自分でメッセージを書き込んでいくと、知り合いも増え、気心の通じた人もできてきます。なにか自分の作品をまとめれば、先ず知り合いに見てもらいたい。それがフォーラムのテーマに沿ったブックなら、是非とも仲間に読んでもらいたいと思うのは、自然な気持ちの流れです。
 ただし、エキスパンドブックという毛色の変わった新しい形式が、ためらいを感じさせてしまうことは避けられません。閲覧用のソフトウエアと込みでブックを引き落としてくる振る舞いに、腰を引いてしまう人が多いのも事実です。
 そんな中で生まれたボイジャーのサロンに、木津田さんは期待を持ちました。ここにブックを集めようと思い、自分の作品を置いたほか、別の場所に置いている人を見つけると、サロンを紹介して登録を勧めました。けれどこうしたやり方でも、ニフティーの枠を超えてブックを集め、広めていくことはできません。
 ニフティーでは原則的に商業行為が禁止されており、電子本を自由に売れない点も問題です。
 インターネット上の本屋を目指したもう一つの理由は、立ち読みでした。書店に並んでいる紙の本なら、気軽に手にとって中味を確認し、買うか買わないかを選べます。ところが電子本となると、中味のチェックは、ブック全体を引き落としてはじめて可能になります。なにか特別な工夫を考えないと、気軽な立ち読みができません。
 ニフティーなどの通信システムは、文字だけの取り扱いが前提です。本文を抜粋して中味を紹介することはできても、レイアウトや、写真、図版の類を見せて実際の雰囲気を伝えることはできません。
 一方インターネットを急成長させたWWWなら、頁そのものを、コピーをとるように載せられます。残念ながらここでも、頁をめくりながら話を追う本当の読み方は体験してもらえません。ただし何頁分かコピーが貼り付けてあれば、事前の吟味は可能です。

誰にでも可能になったインターネットへの情報発信


 例えば本屋を開くといった形で、インターネットに向けて情報を発信するためには、常時ネットワークに接続してある回線を確保した上で、コンピューターを常に動かし続けることが必要です。世界中の誰がいつのぞきに来ても即座に対応するには、休んではいられません。「やりたいからやる」といった感覚で個人が切り盛りするには、費用と手間の両面で大きすぎる負担がかかります。
 ところがインターネットの利用希望者の急増を背景に、次々と生まれてきた新しい通信事業者は、個人が情報発信する際の敷居を大幅に引き下げました。
〈繋ぐ〉サーヴィスを提供するという意味から、彼らはプロヴァイダーと呼ばれます。日本では一九九四(平成六)年頃から、活動が本格化しました。主に企業向けに、専用回線による常時接続も提供されましたが、個人相手には、電話回線を介した一時利用が中心でした。繋ぎたいときにだけプロヴァイダーのコンピューターに電話をかけて、ここからインターネットに入ってもらうのです。
 ところがインターネットを体験した人の多くが、情報を受け取るだけでは物足らなく感じるようになりました。自分からも発信したいと思うようになったのです。翌一九九五(平成七)年頃になると、こうした声にこたえる新しいサーヴィスが登場します。常時インターネットに繋がっているプロヴァイダーのコンピューターに、利用者からの情報を置いてくれるようになったのです。たくさんの希望に応じるために、載せられるものの規模には制限がつきました。しかしこうしたサーヴィスが始まったことで、ホームページと呼ばれる情報発信拠点を個人が持つことは、ごく簡単になりました。
 木津田さんもこれで、本屋が開けると考えました。費用を問い合わせてみると、代表的なプロヴァイダーの一つであるIIJでは、十メガバイトの容量を借りるのに一か月で一万円かかると言います。もっと安いところもありましたが、大手企業も利用しているIIJを使うと、彼らのホームページと自分たちのものが肩を並べるという点に魅力を感じました。
 古野信治さんとはじめた『ポン!』には、その後新しい仲間が加わっていました。プログラマーとして働いている辰野雄一さんとは、以前ニフティーの在宅ワーキングフォーラムに顔を出す人たちの集まりで会いました。その辰野さんにマックエキスポで偶然再会し、『ポン!』のことを話しておくと、後日彼からメールが届きます。自分も原稿を書きたい。仲間に加えて欲しいという内容でした。三号からは、辰野さんによる「アメリカ横断日記」の連載が始まります。さらにコンピューターの技術翻訳や原稿執筆にあたっている地家猛さんも、刊行人に加わりました。
 木津田さんの呼びかけにこたえ、『ポン!』の仲間たちは共同で本屋を開こうと決めます。名称は〈サイバーブックセンター〉。取りあえず一年間、試験的に運用してみることとして、IIJに払う年間十二万円の家賃を四人で割って予備費一万円を加え、一人年間四万円で支えると大枠を固めました。
 作り手から送ってもらったブックの十ページ程度を、立ち読み可能な形式で表示し、簡単な解説を付ける。先ずこれを見てもらい、気に入ったらブック全体を引き落とし、手許で読んでもらう。試験運用中のブック登録は、無料。購読者からの代金の受け取りや、作り手への決済に対応できないため、当面は無料のものと利用者の自主的な代金支払いを期待するブックに限るけれど、将来的には販売も進めていく。
 こうした方針を定め、登録案内を用意してボイジャーサロンに告知を流しました。
 開店は、一九九五(平成七)年七月一日です。新しく生まれたホームページを紹介する、NTTの新着情報に登録すると、のぞきに来る人が一挙に増えました。インターネット上の情報を探す各種の検索エンジンにも登録したのが功を奏して、一時の混雑が去った後も、訪れる人は途絶えません。コンピューターに残された訪問者の足跡をたどってみると、かなりの人が立ち読みのコーナーで、一頁一頁読んでくれているのが分かりました。
 無料のブックに取り扱いを限った試験運用は、当初、一年を予定していました。けれど、安定した客足が確保できているという事実に励まされ、ブックの販売に早めに乗り出そうと決めます。
 サーヴィスの内容は、三本立てを想定しました。第一は、フロッピーディスクなりCD―ROMなりに書き込んだブックの販売代行です。あらかじめ作り手から、十〜二十部程度のパッケージを預かり、十頁分を立ち読み用に仕立てておきます。注文してくれた人には、サイバーブックセンターからパッケージを送付。代金の支払いには同封した郵便振替用紙を使ってもらい、手数料を差し引いて作り手と決済します。
 デジタルの電子本を売ろうというのですから、本来なら情報だけを通信で送ってしまうのが自然です。記録媒体という〈物〉におさめて送るのは、本筋からは外れているでしょう。ただし現在の通信速度やコストを考えると、画像やグラフィックスを盛り込んだ大きなブックでは特に、物を送った方が効率的です。〈買う〉という行為が、〈物を所有する〉ということと深く結び付いてきた点を考慮しても、第一歩としてはパッケージを送るのが妥当だろうと判断しました。
 決済に関しても、注文や情報の送付と同時に交換できる電子マネーが確立されていれば、そちらを使いたいのはやまやまです。次善の策であるクレジットカードによる決済も、実績のない小さなところには、カード会社が対応してくれません。実際に自分たちで話を詰めてみると、インターネット上の売買を促進する上で、特に個人や小さな企業が商業行為を行う際には、低コストの電子マネーが大きな鍵を握っていると痛感しました。ただし現状では、「郵便振り替えで」と判断せざるを得ませんでした。
 第二の柱としては、ブックの紹介を据えようと考えました。販売代行するものと同様、立ち読みできるようにしておきますが、注文は版元に直接してもらいます。サイバーブックセンターに、読者向けの広告を出してもらう感覚です。
 そして第三に、無料のブックを自由に引き落としてもらう、これまでのサーヴィスを継続しようと決めました。これに関しては、従来通り作り手にも登録料を求めません。
 電子出版の可能性から説き起こし、これら三本の柱からなるサイバーブックセンターのサーヴィス内容を紹介した案内を、『インターネットで上手にエキスパンドブックを売る方法』と題したブックに仕上げました。
 一九九六(平成八)年二月のマックワールドエキスポで、このブックを横丁作品として売り出し、最終日にあたる二月二十四日をもって、彼らはインターネットでブックを売るという新しい冒険に乗り出していきました。

それぞれのインターネットの発見


 サイバーブックセンターが旗揚げした一九九五(平成七)年には、たくさんの人がインターネットにのめり込んでいきました。
 書肆しょし Dairiqui は、京都でコンピューターを使った本作りを進めているグループです。DTPによる紙の本や、「Dairiqui 通信」と名付けた小冊子も出していますが、エキスパンドブックによる出版が、活動の太い柱になっています。ブックのデザインやグラフィックスの処理、パッケージの仕立てとどこを取ってみても、Dairiqui の作品は、清潔な美意識に支えられた上品な手仕事で貫かれています。使い古しの段ボールや、プリントアウトした書類の裏側を使ったセンスの良いパッケージを手に取ると、ブックを開く前にもう、微笑みが浮かんできます。
『インターネット日記』は、Dairiqui のメンバーである原伸郎さんの作品です。
 この年の八月十四日、修理になんと三か月もかかった原さんのマックが帰ってきたところから、『日記』は始まります。
 久しぶりに京都インターネットに接続してみると、事務局からメールが届いていました。会員はホームページを持てるようになったので、希望者は連絡して欲しいという案内でした。もともと年会費六千円で使い放題と格安の上に、容量がかなり制限されるとはいえ、今度は自分の情報が発信できます。
「Dairiqui のホームページを作ろう」
 メールを読んだ途端、原さんの心は決まりました。
 WWWのホームページは、作り方に約束事があります。HTML(Hyper Text Markup Language)という言語の形式に合わせて書いておくと、これを理解できるように作ったブラウザーが画面を表示してくれるという仕掛けです。ポストスクリプトほど厳密には、レイアウトを決めません。大ざっぱな指示に基づき、画面の大きさといった受け取る側の都合に合わせて、表示を組み立てるのが特徴です。
 原さんはその日のうちに、HTMLの勉強に取りかかりました。インターネットの上には、新しくホームページを作ろうとする人向けに、この言語の使い方を説明してくれるところがいくつもあります。原さんは、以前チェックしていた「猫といっしょに学ぶHTML」にさっそく飛んで、解説を読み始めました。
「言語」と聞くとやっかいそうですが、見出しや文章を記号ではさみ、表示の仕方を指示していけば良いのだとわかると、「意外と簡単そう」と気持ちが軽くなります。参考書も買ってHTMLの勉強を続け、五日後にはもう、Dairiqui のミーティングでホームページ作成プロジェクトが承認されました。後は内容の詰めと、ページ作りの試行錯誤です。これまで電子出版に取り組んできた Dairiqui には、表現の蓄積がありました。ページ作りはどんどん進み、八月二十九日にはもう、ホームページの公開にこぎ着けました。
 ただ一つ残念だったのは、プロヴァイダーに間借りするかたちだったため、どれだけの人がたずねてくれたかを示す、アクセスカウンターが付けられなかった点です。「来訪者の数を知りたい」という要望は強かったようで、京都インターネットはその後、データをとって教えてくれるようになりました。翌年一月の報告では、彼らのホームページのアクセス回数は、月で千を越えていました。

『パソコン創世記』の制作を終えて、ようやく世の中の動きに目が向くようになると、私自身の中でもインターネットへの関心が高まってきました。
 富士通がいかにして大型コンピューター事業を成功させるに至ったか、その中心的な役割を担った人物を追う番組の制作に関わることになり、この年の春にはアメリカ西海岸の取材に出かけました。協力を仰いだコーディネーターは、新しい疑問が浮かぶたびにノートブックコンピューターからインターネットに入り、人の居場所、物の在処を探し当て、事実関係を確認していきます。
 この番組の取材が終わると、彼は宇宙に関する仕事で、ハワイのマウイ島に一か月こもりきりになりました。観測の条件の良いマウナケア山頂には、各国の望遠鏡が集まっています。星もほとんど瞬かなくなると言う、荒涼とした山頂の景色を写真に撮り、彼はホームページの近況報告に添えていました。この夏、はじめての子供が産まれると、彼のページは赤ん坊一色になります。
 そろそろプロヴァイダーと契約して、インターネットを本格的に体験してみようと思いはじめたこの年の夏、同じ共同住宅に住む藤井一寛さんが、すれ違いざまに声をかけてくれました。
 藤井さんとは以前、管理組合の理事として一緒に動きました。我々の住宅に隣接して公共の建物を作る計画が持ち上がり、日照や騒音の問題を巡って長くお役所とやり合ったときの仲間です。
 藤井さんが、コンピューターに関連した仕事に携わっておられることは、なんとなく分かってきました。私の書いたコンピューターをネタにしたコラム集を見つけられ、こっちもまんざらこの方面に縁がなくはないと知れてもいました。
「実は東京インターネットと専用線接続の契約をしたんですよ。よかったらイーサネットでうちのマシンにぶら下がりませんか」と、藤井さんは切り出します。
 今回独立された藤井さんは、住宅内にもう一つ部屋を確保して、新しく起こした自分の会社の事務所として使われるのだといいます。
 基礎的な情報収集の面でも、請け負う仕事に関連しても、インターネットにはまっている時間はとても長くなる。プロヴァイダーに電話をかけて繋ぐ、いわゆるダイヤルアップの方式では、スピードが遅すぎる。急増する利用者に対して、施設はいつも不足気味で、なかなか繋がらないのも困る。世界中から送られたメールを即座に受け取って、すぐに反応を返すといった本格的な使い方も、繋ぎっぱなしにしなければ不可能だ。
 そう判断した結果、大きな費用を負担する覚悟を決めて、専用線を引く道を選ばれたのだといいます。
 こうしてインターネットに直接繋がった藤井さんのマシンと、私のマシンとを接続してやれば、私自身も世界中の膨大なコンピューターと二十四時間繋ぎっぱなしになった、本当の意味でのインターネットを満喫できるのです。もちろんホームページを持つことも可能です。プロヴァイダーに間借りする形ではありませんから、容量の制限もありません。まったくもって、何というありがたいお話でしょう。
 住宅の構造図面を広げて戦略を練り、十一月二十五日、富士山のはっきり見えるよく晴れた朝から、配線作業にかかりました。丸一日の奮闘の後、作業は午後七時をすぎて終了。接続ソフトの設定を終えて、ブラウザーを起動してみると、おお、見事にビットの列がアメリカにあるはずのコンピューターから流れ込んできます。
 さっそくその夜から、あちこちのホームページ行脚が始まりました。これまで名刺には、ニフティーサーブのユーザーIDを書いてきましたが、電子メールの住所も、藤井さんの会社に間借りした新しいものに変更です。二十四時間接続にいたる顛末をレポートにまとめ、アドレス変更届に添えて知人に送っていきました。

エキスパンドブックとインターネット


 書肆 Dairiqui は、コンピューター出版社です。人に見せたいものをたくさん持っている人たちですから、インターネットに発信できるとなると、すぐに自分たちのホームページを作りました。
 木津田秀雄さんは、いわば電子本環境の総合的な整備といったところに関心を持っています。ホームページが持てるとなると、サイバーブックセンターという電子書店を開こう考えました。
 次は、私が答えを出す番です。
 インターネットにどう向き合うのか、そろそろ明確に答えを出さなければならない事情も、私にはありました。

『オヤジ一人で出版社を作る』という仮のタイトルをでっち上げ、この本の企画書を書いて相談を持ちかけると、アスキーの渡辺俊雄さんからは一つ注文がつきました。
 エキスパンドブックも興味深い個人の表現手段だろう。けれど今、たくさんの人が雪崩を打って乗り出しているホームページには、大きな可能性がある。コンピューターを使った個人の情報発信を扱うのなら、WWWについても本腰を据えて書いてみてはというのです。
 木津田さんたちのサイバーブックセンターがスタートした直後にまとめた企画書には、エキスパンドブックをインターネットで売るという項目も加えていました。けれど渡辺さんは、WWWによる表現そのものにも触れろといいます。
 きれいに一本取られたかっこうの、痛い指摘でした。自分自身、ぼんやりと問題の所在を感じながら、後回しにしていた点を、正確に突かれた感じです。
「そうですね。そこも考えましょう」と渡辺さんには答え、「実際にホームページを作ってみて、その中で考えていくのだろうな」と自分の気持ちもひとまずおさめました。
 別に大きな翻訳の仕事に取りかかっていたため、少し書き始めていたこの本の原稿はしばらく置くことになりました。その間に少しずつ考えていこうと、関連する本や雑誌を読みだしたところで実現したのが、我が家のインターネット開きです。
 それまでにもよそ様にお邪魔して、何度かWWWは体験していました。ダイヤルアップで接続した際の、ページ全体が現れるまでののろのろした動きには、かなりいらつきもしました。けれど世界のコンピューターを居ながらにして飛び回るのは、やはり面白い体験です。それを自分のマシンで、しかも軽快なスピードで味わえるようになったのです。ホームページ作りも、後回しにする理由はもう、何もありません。
 WWWを体験し、エキスパンドブックと重ね合わて、答えを出すべき時が来ていました。

 次から次へとリンクをたどり、ホームページを見物して歩くいわゆるネットサーフィンを体験してみて、先ず痛感させられたのは、WWW上に公開された情報の圧倒的な間口と奥行きです。
 それはそれで面白いものも多い個人のため息やつぶやきのようなものから、大変な労力をかけて築き上げられた仕事まで、さまざまな情報が全体像などまるで想像もできないほどの規模で溢れかえっています。
 当時取りかかっていた仕事は、アメリカのボイジャーからこの年の八月に刊行された、『ザ・デイ・アフター・トリニティー』というCD―ROMの翻訳でした。
 物理学者たちは、いかにして原子爆弾を開発するに至ったかを追った、同名のノンフィクション映画を中心にした作品です。実際に開発に携わったたくさんの物理学者にインタビューしてまとめた映画は、一九七五年にテレビで放映されていました。
 制作の過程で、監督のジョン・エルスは貴重な直接証言をたくさんフィルムに収めています。しかしこうした作品の常で、証言者の声はそのわずかな切れ端しか、仕上がった映画には盛り込まれていません。切り捨てざるを得なかった証言をすべて原稿に起こし、かつては秘密扱いとなっていたものも含めて関連の資料を集め、監督自身の作品論を添えて編んだのが、このCD―ROMでした。
 翻訳の作業と並行して、何冊か類書を読みました。がっちりした物理学事典も求めました。それでも、理解できない箇所が少しずつたまっていきます。
 インターネットに繋いだ当初は、雑誌に紹介された面白そうなページを開きました。すぐに検索エンジンと呼ばれる、情報のありかを示す案内システムも使いはじめます。まず検索エンジンで調べ、ひっかかったホームページに飛んでそこからリンクをたどっていくと、確かにいろいろなことが分かってくることに驚かされました。
 当初、昼間は翻訳の仕事、夜になって趣味のネットサーフィンと時間を切りわけていましたが、すぐに翻訳の疑問点解消にもインターネットが使えると気付きました。検索エンジンであたってみると、原子爆弾に関連するページがたくさんリストアップされます。資料の宝庫といった、充実したサイトがみつかり、そこからさらに関連のページにたくさんのリンクが伸びていました。
 調べが付いてみると、アメリカ現代史のキーワードであることがわかって恥ずかしい思いをしましたが、何の説明もなく監督のコメントの中に出てくる〈シカゴセヴン〉が理解できませんでした。何らかの権力犯罪を指しているらしいのですが、その時点で確認できていた検索エンジンをあたってみても、見つかりません。共同で作業していた妻が、いろいろさまよった挙げ句たどり着いたある弁護士のページで、この言葉を見つけました。そこにも解説めいた記述はなかったのですが、夜中に図々しくメールしておくと、翌朝にはもう、返事が届いています。一九六八年、民主党大会が開かれたシカゴでの騒動から始まる事件のあらましを、これで知ることができました。
 さらに、コンピューターに関する情報をあたりはじめると、あまりの膨大さにただただ圧倒されて、笑い出したくなるような気分に襲われました。量だけではない。質も際だっています。コンピューターをここまで押し上げてきた人たちには、当然この技術に対する抵抗感がありません。文章や資料の類も、もともとデジタル化して保存しています。インターネットで試みられる情報交換の新しい仕掛けに、彼らは一番に反応していました。結果的にインターネットには、大きな仕事を成し遂げてきた歴史的人物の記録が、当の本人の手によってたくさん公開されていたのです。報告書や提案書の類も、嫌というほど見つかりました。紙に載せようとすれば、当然一部を抜粋することになったろう、長大なインタヴューも、そのまま掲載されています。さらに当事者自身や深くその問題に携わった人が付けているリンクには、大きな意味があると痛感するようになりました。当面、私自身にはその問題を評価する力がなかったとしても、彼らが「意味あり」として張ったリンクをたどるうちに、その問題に対する土地勘のようなものが育っていくのです。
 知識がネットワークされていくことの意味は、本当に大きいという思いが、ブラウザーを起動するたびに募っていきました。

そしてみんなが眼鏡をかける


 ただもう一方で、ネットサーフィンはとことん目を疲れさせるとも、身を持って痛感することになりました。
 行間を取らずに詰め込んだ画面上の小さな文字をスクロールさせながら読んでいくと、気づかないうちに、頭蓋骨の裏あたりに灰色の疲労の結晶が層を成していきます。昼は翻訳、夜はネットサーフィンとディスプレイに向き合ったまま何日も過ごした挙げ句、結晶が音を立てて崩れだし、脳味噌を圧迫して見ることも考えることもできなくなる〈事故〉も経験しました。
 HTMLという簡単な約束事によって、リンクを仕込んだ文章を手軽に仕立てられるという点で、WWWはとても有効です。けれど大まかなことしか指定しないHTMLでは、画面上での読みやすさが配慮できません。それでも短いものなら、画面で読むこともできるでしょう。しかし、身の安全を優先したいのなら、読む気になったページは紙に打ち出してしまうのが賢明です。特に長いものでは、画面上の文字を追い続けるのは禁物と、骨身に染みて知りました。
 読み手として、こうした体験をしてみると、自分のホームページを作る際も、読みやすさという点を無視できないと思うようになりました。グラフィックスや写真、音楽といったものに関しては、WWWで何の問題もありません。ただ、一まとまりが本になるような長めの原稿を書いている人間にとって、読みやすさを欠いた現在のWWWは、理想的な器とはとても思えませんでした。
 WWWを経験すると、アンチエイリアスのかかった大きめの文字で組み、頁をめくりながら先を追っていくエキスパンドブックの読みやすさが、あらためて大切なものに思えてきます。
 そのもう一方で、しばらくインターネットにはまった目で見返してみると、エキスパンドブックの〈孤立〉もまた強く意識するようになりました。他人の知恵や知識と直接リンクしていくという素晴らしい魅力を、エキスパンドブックは欠いていました。いったん世界のコンピューターとのリンクを体験した後では、紙の本と同様にせいぜい参考文献をリストアップするくらいしかないこの面での力不足が、浮き上がって見えてきたのです。
 WWWのリンク力と、エキスパンドブックの読みやすさ。同時に存在する、WWWの読みにくさと、エキスパンドブックのリンク力の欠如。
 インターネットにも触れよという渡辺さんの宿題に対し、私自身の内側で問題の所在が明らかになっていった直後、実はボイジャーはすでに、この問題に対する解答を寄せようとしていました。

本の未来へと通ずるヒロシマへの道


 一九九五(平成七)年十二月十五日、エキスパンドブックの仕組みを作っている祝田久さんから、メールが届きます。
 ネット・エキスパンドブックという新しい仕掛けを用意したとの、これも突然のお知らせでした。添付された注記によれば、その目指すところはWWWとエキスパンドブックの連携であると言います。
 送ってもらった道具を、さっそく試してみました。先ずは、ホームページを見るときの要領でブラウザーを起動し、一式の中にあったファイルを開きます。HTMLで書かれた、いつも通りのページです。下四行の文字が、青く表示されていました。こんな格好で色変わりになった文字をクリックすると、何らかの動きがあるのが普通です。
 そこでまず、「世界でもっとも高いところにある町々」という一行をクリックしてみました。そのときの新鮮な驚きは、今もはっきり記憶に残っています。エキスパンドブックを読む環境が自動的に起動され、一瞬画面全体が暗転しました。そして画面中央に、世界でもっとも高いところにある町、クスコについて書いたエキスパンドブックが現れたのです。直前まで開かれていたHTMLのページに比べれば、ずいぶん読みやすい印象を受けました。もちろん先を読み進む際はスクロールさせるのではなく、頁をめくります。

 十か月ほど前のマックワールドエキスポで、私は祝田さんに無茶な注文を浴びせていました。我が家のインターネット開きにはるかに先立つその時点では、それほどWWWとエキスパンドブックに付いて整理して考えていたわけではありません。けれど、インターネットが世界全体の情報交換の仕組みとして浮上してきた以上、エキスパンドブックがこれと無縁であっていいとは思えませんでした。
 その時点でぼんやり頭にあったのは、エキスパンドブックその物をWWWのブラウザーの中に表示して、頁をめくって読んでいけないかというシナリオです。ハイパーカードで作った作品やエキスパンドブックのようなものがブラウザーの中で動かせるようになれば、こうした道具を使って自分の作品を作っている人は、ごくごく自然にWWWに入っていけるだろうと思いました。その後木津田さんたちは、立ち読みを実現するために画面のコピーを何枚も貼り付ける方法を選びます。けれどエキスパンドブックそのものをブラウザーの中で操作できるなら、こんなまどろっこしい苦労をする必要はありません。
 祝田さんのその時の答えは、はっきりと記憶していません。
「頁めくりのスピードは、ごくごく遅くても構わない。ブラウザーの中では、本のイメージだけが伝わればよい。そこで読むか読まないか判断してもらえれば、後はブック全体を引き落としてきて読んでもらえればいいのだから」
 そう言って粘った記憶はありますが、明快な返事はもらえなかったと思います。その時私が考えたことが、はっきりと祝田さんに伝わったという確信もありません。それ以来、この件に関しては二度と彼と話すことはありませんでした。ただ確かだったのは、WWWとエキスパンドブックの連携という課題に、ボイジャーがいずれ答えを出さなければならなかったという一点です。
 それから十か月を経て、私は突然、十日早いクリスマスプレゼントを受け取りました。以前私が思い描いたものとは異なり、祝田さんのネット・エキスパンドブックは捨てる物は捨てて、実用的な道具に仕立てられていました。
 ブラウザーの中で見せるのではなく、ブックは別個に外で開かれます。その後の手法の見直しで、写真や図版を組み込んだブックを開けるようにあらためられましたが、当初はテキストの表示に機能が限定されていました。
 ブラウザーの中でも開ければ、もっと望ましいとは思いました。ただこうした仕組みを利用すれば、WWWで文章を読む際の負担は、はるかに軽減できるはずです。
 WWWとエキスパンドブックを結ぶ絆を初めて体験したこの夜、私の興奮は極に達しました。
 誤解に基づく訳の分からないものも含め、祝田さんにメールを書き続けます。読みやすさとリンク力の双方を備えた新しい電子本は、一体何をどう変えるのか。そう考え始めると、次々とアイディアが浮かび、キーボードを叩く手を止められなくなりました。

本を持たなくなる流儀


 インターネットの空に、エキスパンドブックが舞い上がる様を見たその夜、私の胸に一つの疑問が芽生えました。
〈本を持つ作法〉が、突然疑わしく思えてきたのです。
 先駆けとなる変化は、すでに電子辞書で体験していました。
 我が家の愛用の辞書は、研究社の『リーダーズ英和辞典』です。お互いの仕事場に加え、居間や寝室にも転がしておくようになった結果、同じものを四冊持っているあり様です。さらに、ふたの付いた小さな電卓のような電子辞書版が出ると、それも買いました。ちっぽけなディスプレイに表示される文字数が少ないことで、使いにくくはないかとも心配しましたが、綴りを入れるとすぐに意味が現れる操作性の良さには、いっぺんにつかまります。うろ覚えの綴りを途中まで入れると、いろいろな候補を示してくれるなど、参考図書の類を電子化するメリットは大きいとつくづく感心させられました。この辞書にはCD―ROM版もあります。解説の文章を一度にたくさん表示できれば便利だろう。いずれ買おうかと言っているうちに、我が家はインターネット開きを迎えます。間もなく、研究社のホームページで、電子化された『リーダーズ英和辞典』を引けると知りました。辞書そのものは、ずいぶん遠くのコンピューターに置かれているにも関わらず、綴りを入れると一瞬に解説が出てきます。紙の辞書をばたばたさせるよりもはるかに軽快です。一度に解説文全体を見渡せる点では、電子辞書にも勝っていました。当時は翻訳にかかりきりとなっていましたから、さっそくこのホームページを開きっぱなしにして使いはじめました。
 辞書をネットワーク越しに開くようになると、百科事典の類もこの方式に限るとあらためて確信しました。刊行当初の百科事典がたくさんの誤植や誤記を含むのは、現実的には避けられません。けれど読者が本を買って自分で持つのではなく、出版社に置いてあるものを読みに行く形式を取れば、発見できた時点で即座に誤りを正せます。新しい統計数値の差し替え、政治的状況の変化に伴う記述の変更も時をおかずに処理できます。今日の出来事を盛り込むことにも、何の支障もありません。
 ただし参考図書に関してはオンライン化が進むだろうと予測できても、一般の書籍もそうなると、そのまま論を進める気にはなれませんでした。比較的短い解説を読む程度のことなら、画面でも可能でしょう。けれどホームページ行脚に悲鳴を上げる視神経を前にしては、ここで長文を読んでいくことなど想像もしたくなかったからです。
 ところがネット・エキスパンドブックを見た途端、一般的な書籍をオンライン化の対象外に起きたい気持ちが、すっと消えました。必要なとき、ネットワーク越しに読みに行くことに、これならためらいは感じません。
 本を所有し、目の前に置いて読むことがなくなれば、果たしてどんなことが起こるでしょう。
 先ず書庫のような物理的空間は、もう必要なくなるはずです。
 デジタル化された本は、図書館のような施設に置かれたコンピューターの記憶装置に入っている。希望者は、手許のコンピューターから本を読みに行く。誰かが借り出してしまったから読めないとか、貴重な本だから貸し出しも閲覧も許可できないといったことは、もうありません。
 百万ページを収録するという『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』さえ、これで一気に旧世代の遺物になってしまうでしょう。書籍のオンライン化を推し進めていけば、手許のコンピューターでありとあらゆる本が読めるのです。
 こうした流儀は、先の話ではありません。読みやすさという問題は残しながらも、ネットワークを介して本を読みに行くことは、かなり前から現実のものになっていました。インターネット上ではすでに、古典を中心にたくさんの本が公開されてきたのです。

グーテンベルク・プロジェクト


〈グーテンベルク・プロジェクト〉と初めて聞いたときは、先ず魅力的なその名の響きに引き付けられました。この計画のホームページを見つけて、そもそもの成り立ちや狙うところに関して読んでいくと、いっそう興味が募ります。
 主宰者のマイケル・ハートによれば、この試みはなんと一九七一年から始まったと言います。きっかけは、彼がイリノイ大学の材料研究所に設置された大型コンピューターの、オペレーターになったことでした。当初コンピューターはフルに使われていたわけではなかったらしく、四人いたオペレーターは、腕に磨きをかけるためとして、空き時間にマシンを使うことを認められました。
 ハートによれば、彼らが自由にできる時間は、一億ドル分にも相当したと言います。
 普通に計算させていたのでは、どう考えても元はとれそうにありません。ところがその時、ハートにあるアイディアが閃きました。コンピューターを図書館代わりに使えば、取れないはずの元が取れるのではないかと思いついたのです。例えばどこの図書館にも欠かせない類の本を、デジタル化してやります。いったん誰かがこの工程をすませてしまえば、後はいくらでも簡単にコピーがとれます。この複製を手許に引き落としてくる仕組みができていれば、どこの図書館も、ただ同然でこれを〈備品〉にできます。電子化された本なら、検索にも便利でしょう。
 そう考えたハートはさっそく、キーボードを叩いて手始めに独立宣言を入力していきました。そしてネットワークに連なっている人すべてに送りつけたのです。
 当時イリノイ大学はすでに、インターネットのルーツとなるネットワークに連なっていました。ハートによれば、勝手に送付された宣言は、後に〈インターネットウイルス〉と呼ばれるものの走りだったと言います。
 この一件をきっかけに、電子化した文書の共有に関する前向きの論議が起こり、彼はプロジェクトとして本の電子化を進めていこうと決めました。
「電子化は誰かが一度だけ担当すればいい」という哲学に沿って、文書は最もシンプルな形式でそろえようと考えました。どういうレイアウトにするかといった約束事には、一切踏み込みません。イタリックや下線、太字といったものもすべて、大文字に置き換えてしまいます。プロジェクトの側は、あくまで文書を〈素〉のままで扱い、それ以上の味付けが欲しい人には、後から自分で手を加えてもらおうという考え方です。
 こうした原則を据え、著作権の保護期間を過ぎた作品を可能な限り素早く電子化して共有できるようにするという将来的な目標を定めて、ハートはプロジェクトを進めていきました。「本業を犠牲にしない」という姿勢で作業にあたった彼の歩みは、ゆっくりとしたものでしたが、賛同してくれる人の助けを得て、成果が積み上げられていきます。
 できるだけたくさんの人が利用できるものでありたいという基本精神は、デジタル化の優先順位にも貫かれ、人気の高い、古典的な作品から手が付けられました。
 インターネットに連なる人が急拡大してからは、プロジェクトへの関心も高まります。デジタル化の作業にあたるヴォランティアの数も増えて、一九九五年の十月段階で三百五十冊にとどまっていた成果が、一年後には七百に倍増しました。
 ところがこの年、グーテンベルク・プロジェクトは最大の危機に直面させられます。
 一九七一年のスタート時点から、プロジェクトはイリノイ大学のコンピューターを根城にしてきました。それが施設の利用形態を見直そうとする大学の新しい方針によって、ここから追い出しを食ってしまったのです。ネットワークの黎明期からいち早く情報共有化を実践し、いわば〈インターネットの精神〉を先取りしてきたこの試みは、皮肉にも、鐘と太鼓で情報ハイウェイが囃されるまさにその時期になって切り捨てられました。
「情報の通り道は何度も舗装のやり直しを繰り返した挙げ句、とうとう〈歩行者禁止、二輪車禁止、農作業車両禁止〉と〈禁止〉の標識だらけになった。高価な上に保守にも金を食い、そのくせ大した意味のない、動画やステレオ音声や、アイコンとマウスのインターフェイスの化け物ばかりが幅を利かせるようになった」と、締め出しはハートを嘆かせます。
 さらに財政面での支援を続けてきたベネディクティン・カレッジが、今後、資金の提供を行えない見通しとなったこと。プロジェクトによる成果をまとめてCD―ROMを作り、売上げの一部を資金援助にまわしてきたウォルナット・クリーク社の販売成績が落ちてきたといった問題が、一度に噴き出しました。
 プロジェクトを非営利の法人化し、月に二千ドルを見積もっているという資金の提供者を広く求めていくことで、ハートはプロジェクトの生き残りを図ろうと考えています。

 グーテンベルク・プロジェクトが直面した困難は、新しい本の世界を切り開いていくことの難しさを象徴しているように思います。
 印刷本の世界は、五百年以上の長い時間をかけて人が育て上げてきたものです。不都合な点もあるとはいえ、ここにはその間に蓄えられたきた知恵が溢れています。産業として確立されている出版界には、これに携わることで生活を支えている人がたくさんいます。
 一方、コンピューターの上に移し替えることがいかに正しい選択に思えたとしても、電子本の世界にはまだ、草らしい草の一本も生えてはいません。紙の本が育んできた美しいもの、素晴らしいものはその本質を引き取って、電子の本の上でよりよく再生できる。そう慰めたところで、これからそのための作業にあたらなければならないという事情に変わりはありません。夢のような話にはうつつを抜かさず、書庫いっぱいに買いためた本に囲まれて暮らすというのは、本の虫の選択としては確かに賢明な気がします。
 さらに、いくらでも複製が作れて一瞬に移動できるというコンピューター化の本質的なメリットが、「誰もがいつでも利用できるものにしようよ」と、情報の提供者を誘うのも厄介です。
 新しい世界において、本は〈ただ〉になることを望んでいるようです。本を売り物とすることで成り立っているこれまでの世界とは、決定的に対立する要素を、電子本はその根に抱え込んでいます。ちょっと気を許していると、浮き世離れした博愛主義者面で旧体制に挑む羽目になりますから、今後、電子本に味方する側からは、ずいぶん痛い目を見る人がでるでしょう。

 祝田さんからのメールが届いた夜以来、私は途切れることのない時間の糸を手繰るように、そんなことを考え続けていきました。ネット・エキスパンドブックはまだ試作段階にあって、動作が安定していない。読み込んでこられる文章の量も、数十ページ分と限られている。目の前の商品開発が優先されるだろうから、この技術の公開にはもう少し時間がかかるだろう。
 そうした留保条件は付いていましたが、少なくともインターネットとエキスパンドブックを結ぶ技術の道筋だけは、はっきり見えたと確信できました。
 ところがこの時点においてもなお、両者を繋ぐもう一つの道筋を見逃していたことに気づかされ、私は後に、自分自身に呆れ返ることになります。
 世界と結びうる新しい本の片側にしか、この時の私はまだ、目を向けていませんでした。

平岡敬広島市長の陳述


『ザ・ディ・アフター・トリニティー』日本語版の発売開始は、一九九六(平成八)年二月のマックワールドエキスポを目標に据えていました。日本語版のタイトルは、『ヒロシマ・ナガサキのまえに』。年末から年始にかけた時期に、翻訳と制作の胸突き八丁を迎えました。
 この作業に取り組んでみて、あらためて確認させられたのは、原子爆弾という兵器を生み出した大きな歴史の流れです。
 二十世紀への変わり目を前後して、放射能を手がかりに、物理学者は物の成り立ちの基本に迫りはじめた。さまざまな試みによって得られた新しい知識を元に、原子の構造に関する信頼に足るモデルが作られる。さらに加速器という新しい道具を得て、次々と新しい発見が生まれ、ついには核分裂から莫大なエネルギーを取り出せることが明らかになる。この物理学の黄金期を、歴史は世界政治の危機に重なり合わせて置いた。遅れてきた帝国主義国家、ドイツ、イタリア、日本は、ファシズムを国家の機軸に据えて、先を行く帝国主義諸国の覇権を脅かしながら勢力の拡大を試みた。ファシズム諸国は、近代的な国家の形成の過程でヨーロッパが先頭に立って育んできた市民的な価値を否定した。彼らの挑戦を受けた側は、自らの覇権に対する脅威を、文明と自由と個人の尊厳の危機に重ね合わせてとらえた。
 こうした大きなうねりの中で物理学者たちが原子爆弾の開発に向かって行った道筋を、実際に作業に携わった物理学者たちの直接証言によって、ジョン・エルス監督は丹念に浮かび上がらせていました。
 けれど作品が何を目指したかに照らせば当然のこととはいえ、この作品は原子爆弾を落とされた側の声を拾ってはいません。もちろんこの作品には、この作品としての存在価値がある。けれど『ヒロシマ・ナガサキのまえに』という新しいタイトルを付けて、被爆を経験した日本で発表するのなら、この作品はむしろきれいに完結させるべきではない。せめて落とされた側へと向かう道筋だけでも付けておくことはできないか、と考えるようになりました。
 核兵器の違法性を審理する国際司法裁判所で、平岡敬広島市長が行った証言を読んだのは、そんな時期でした。

 オランダ、ハーグにある国連の司法機関、国際司法裁判所は、国連総会と世界保健機関から、核兵器の違法性に関する「勧告的意見」を求められました。審理に着手した同裁判所は、各国の意見を求める口頭陳述を行うと決めます。
 日本政府は陳述に臨むにあたって、被爆地の平岡敬広島市長と伊藤一長長崎市長を証人にしようと考えました。出廷を求められた両市長は、「核兵器は国際法に違反すると考える。法廷でもそう証言する」と事前に外務省に伝えます。
 日米安全保障条約を結び、核兵器を大量に持つアメリカと軍事同盟関係にあることとの整合性を考慮して、政府、外務省はこれまで、核兵器の違法性に言及することを避けてきました。「違法である」と明言するという両市長に対して、そうした陳述を差し控えるよう、外務省は繰り返し求めます。
 一九九五(平成七)年十一月七日、法廷に最初に立った外務省の河村武和軍備管理・科学審議官は、「事実以外の発言があれば、必ずしも政府の見解を表明するものではない」とあえて指摘し、両市長から距離を置く姿勢を示しました。
 これに続いて行われたのが、平岡市長の証言です。
 原子爆弾によって当時女学校一年生だったいとこやたくさんの友人を失い、戦後、広島の新聞社で被爆の傷跡を残す同僚と働き、この町で暮らし続けてきた平岡市長の証言に、私は私自身の故郷でもあるあの町に根をはった、揺るがぬ力を感じました。
「国際司法裁判所における陳述」を『ヒロシマ・ナガサキのまえに』の最後に収録させてもらいたい。この作品から、広島と長崎に続く道を付けておきたいと、私は考えました。制作に携わった全員の了解を得て、すぐに広島市に連絡を入れます。ところが対応にあたった職員からは、数日後、「許可できない」旨の返答がありました。
 広島市相手に、むなしく終わることになる粘り腰を発揮している最中、「そうだ、オープンURLだ」と浮かんだのは、何がきっかけだったのでしょう。発売になって間もないツールキット※(ローマ数字2、1-13-22)の新版に加えられた新しい機能のことが脳裏に浮かび、情けない気分で引きずってきた電話を、途端に切ろうと決めました。
「そっちがそうくるなら、こっちにも考えがあるもんね」と、そんな気分がわいてきたのです。

オープンURLが開くもの


 インターネットのホームページは、それぞれ住所を持っています。URL(ユニフォーム・リソース・ロケーター)は、その番地です。エキスパンドブックの新しい機能、オープンURLは、あらかじめブックの中にホームページの住所を指定しておいて、読者からの指示があったときにそこを自動的に開いてやる機能です。この命令を仕込んだ文字は、色変わりで表示されています。これをクリックすると、WWWのブラウザーが自動的に起動され、仕込んで置いたURLがブラウザー側に手渡されて該当のページが開くという仕組みです。
 広島市のホームページには、陳述の全文が載っています。彼らが「許可しない」と言う以上、収録はできません。けれど、オープンURLを使えば、陳述への道筋は付けられます。例えば「広島への道」いう言葉に、広島市のURLを仕込んでおけば、読者のクリックで陳述のページに飛んでいけるのです。もちろんこの機能を使うためには、読者がインターネットを利用できることが前提となります。誰でも読める形で収録できないのは、返す返すも残念です。ただしここで完全に諦めざるを得ないのと、それでも道筋を示せるのとでは、大きな違いがあります。
『ヒロシマ・ナガサキのまえに』は、二月のマックワールドエキスポに、どうにか間に合わせることができました。広島市長の陳述に加え、長崎市のホームページにあった伊藤市長の陳述にもリンクを張りました。加えて核兵器に関するさまざまな情報を網羅し、たくさんのリンクを伸ばしているページに向けても、オープンURLを仕込みました。
 エキスポ恒例となったエキスパンドブック横丁に、サイバーブックセンターの木津田秀雄さんは、『インターネットで上手にエキスパンドブックを売る方法』を、書肆 Dairiqui の原伸郎さんは『インターネット日記』を出展していました。この二つのブックでも、さっそくオープンURLが活用されています。原さんは、書肆 Dairiqui のホームページに読者を導く手段として使っていました。一方木津田さんはサイバーブックセンターへの道案内に加え、電子出版物のオンライン流通を論じる中で、テーマとして取り上げたさまざまな関連のサイトにリンクを張っていたのです。

 エキスポが終わって間もなく、『パソコン創世記』の作りなおしに着手することになりました。当初エキスパンドブックは、マックで作り、マックで読むことしかできませんでした。ところがツールキット※(ローマ数字2、1-13-22)の新版からは、マックで作ったブックをウインドウズでも読めるようになりました。さらに間もなく、ウインドウズ版の作成ツールも発売される予定になっていました。
 それならここで『パソコン創世記』を両方で読めるように作りなおし、作成ツールの対応に合わせて、エキスパンドブックの世界がウインドウズに広がったことをアピールしていこうとなりました。
 この作品には、たくさんの人と会社が登場します。ただ、あえて主役を求めればNECでしょう。その会社を代表するPC―9801は、日本でも大きな勢力圏を築いたPC互換機と同様に、ウインドウズを採用しています。
 つまりこれでようやく、主人公のマシンを含むほとんどすべてのパーソナルコンピューターで読めるようになるのですから、なんやかや長くかかずらってきたプロジェクトにもこれでようやく一段落がつくと、落ち着く気持ちに傾きました。
 作り直しに必要な作業を洗い出そうと、久しぶりに『パソコン創世記』のCD―ROMを取り出して、ブックを開いてみました。
 このタイトルを発表したのは、ちょうど一年前のエキスポです。当初文庫版の後書きのつもりで着手した原稿を書き上げたのが、二年前の秋。ただしそもそもの文庫版の原稿を書いてからは、もう十年以上がたっています。
 文庫版の冒頭は、NECの会社概要に関する記述です。なんだか肩をいからせたような書き方が、恥ずかしくも懐かしくも感じられましたが、執筆当時の一九八四(昭和五十九)年のデータがそのまま残っているのが気になりました。
「オープンURL」と閃いたのは、「古いな」と感じたその瞬間です。
 さっそくインターネットでNECのホームページを開いてみました。すると、会社概要のページが用意してあって、そこに最新のデータが掲載されています。今、新しいデータが発表されているだけではありません。今後もこのページでは、新しい数値が公表されるたびにデータが更新されていくでしょう。とすれば、『パソコン創世記』の該当の箇所から、このページに道筋さえ付けておけば、読者は常に最新の情報を確認できることになります。
 本をまとめる際は、いわば釣り上げた魚を締める工程が必要です。いつまでも飛び跳ねている魚には、料理の手の施しようがありません。しっかりと締めて、少し時間を置き、肉のうまみが醸された段階で、料理に仕上げる。この釣り上げと締めのタイミングを誤ると、本はすぐに古くなります。一方、歴史の節目をうまく捉えて仕上げた本は、ときどきとんでもなく長い間生き延びます。ただしその際も、いったん締めた以上、細部が古びていくことは避けられません。大幅な改訂を施すチャンスにでも恵まれない限り、こうした定めから本は逃れられません。
 ところがWWW上で新しい情報が更新され続けるならば、オープンURLによってこうしたくびきをすり抜けられるのではないか。
 そう思ったとたん、オープンURLを最大限駆使して、『パソコン創世記』に新しい命が流れ込んでくる仕掛けを組み込んでやろうと、心が決まりました。
 インターネットには、コンピューターの歴史に関する情報がどのくらい集積されているのか。実際に当たりはじめると、次から次へと興味深いサイトが見つかりました。
 日本でパーソナルコンピューターが立ち上がってくる際、実に大きな役割を演じたアスキーのページには、自分たちの歴史を丹念に記録しようとするはっきりとした意志が見て取れました。インテルはマイクロコンピューターの誕生二十五周年を記念して、実に手の込んだ展示ページを用意しています。マイクロソフトのサイトにも、創立二十周年を記念するページがありました。先へ先へと成長を続ける企業であるせいか、全体的に見て同社のページからは、過去を振り返る気持ちの薄さを感じます。かくのごとく、歴史記述に関する各社の意欲には、温度差がありました。しかし全体として見れば、実に膨大な情報が蓄積されていることには間違いありません。
 さらに圧倒されたのは、アメリカの大学や博物館が積み上げているものの量と質です。引っかかりを覚えて立ち止まり、少し読んでいくとどんどん関心が膨らむ。さらにそこから伸びているリンクをたどると、興奮にいっそう拍車がかかるといったありさまで、このままのめり込んでいけば足腰が抜けなくなるのではと、恐れる気持ちさえわいてきます。
 好奇心を刺激されるという意味では、個人のホームページが一番でしょう。労力のかけ方と仕上がりは置くとして、パーソナルコンピューターの誕生初期に西海岸に生まれた、草の根のクラブに顔を出していたメンバーのその後をたどろうとするページには、「わかるわかる」と肩でも叩きたいような親しみを覚えました。実に充実したコンピューター年表を、継続して維持している人がいます。アップル※(ローマ数字2、1-13-22)の歴史に関する、有に一冊の本となるノンフィクションが公開されています。小型機にとどまらず、特別の部屋を用意してミニコンピューターや大型機までコレクションしている人の奥さんは、どんな気持ちで亭主の道楽を受けとめているのか、一度じっくり聞いてみたいような気になりました。
 WWWのどこに、『パソコン創世記』の記述を補強したり、証拠となってくれたり、また時には対立したりする情報が存在するのか。先ずは確認してみようとはじめた今回のネットサーフィンは、一か月以上集中して作業しても一段落の節目が見えませんでした。パーソナルコンピューターが生まれて今日までの歩みの中から、自分のこだわり、自分の立場、自分の問題意識に沿ってなにがしかを記録し、その意味を探ろうとする意志の在処を探す旅は、続けていけばきっと永遠に終わらないのだとそう考えるようになりました。
「僕は、大きな意思を構成する膨大なアトムの一個なんだな」
 悲鳴を上げる視神経をなだめてえんえんとサーフィンを続けていたある夜、私の胸に、ふとそんな思いが芽生えました。
 自分の持ち物である『パソコン創世記』に、永遠の命を吹き込もうとはじめた作業です。その仕掛けを組み込むために、一つひとつつながりを見つけだしては張っていこうと考えたリンクでした。それが、パーソナルコンピューターの誕生から成長に至るさまざまな歴史の断面を記録しようとするたくさんの意志に触れ続けるうちに、私は自分自身が、大きなものに包み込まれるような気分にとらわれはじめました。
「日本電気を中心に歴史の一断面を記録する役割は、たまたま僕に割り振られたんだな」
 そう思った途端、『パソコン創世記』はインターネットの上に広がる大きな海に向かって溶けはじめたのです。

インターネットに溶け出していく本


 私自身は、新しい本の形として、まずエキスパンドブックを選び取った。そこから、インターネットへリンクを張ろうと考えた。けれど、ただ一方的に情報を受け取るだけでは、口を開けて餌をねだり続ける雛のようなものだ。情報が流れ込んでくる仕掛けを組み込んだこの新しい本を、もう一度インターネットの広がりに向けて押し出してはじめて、大きな物の一部として生きるという今の気分はおさまりどころを得る。
 私はそんなふうに感じはじめました。
 押し出す方法は、すでにありました。ネット・エキスパンドブックです。
 この新しい技術を体験してもらうためには、先ずボイジャー自身がサンプルとなるブックを用意する必要があるだろう。そう考えた彼らからは、幸運にも「『パソコン創世記』を使わせてもらえないだろうか」との申し入れがありました。一方で私が、紙の本やCD―ROM版から印税を得ていることを考慮して、「一部分のみを公開する」という提案でしたが、膨らみはじめた新しい妄想と折り合いを付けるためには、是非全体を使ってもらおうと考えました。
 ホームページはこれからも、続々と生まれます。消えていくページもあるでしょう。URLの変更も、覚悟しておかなければなりません。インターネットとリンクさせるという道を選んだ以上、定期的にリンク先の状況を確認して、URLを更新することが必要です。
 CD―ROMにブックを焼き込んで読者に手渡してしまうことは、この点で問題のある選択です。定期的にURLを更新したブックをボイジャーのホームページに置き、読者にネットワーク経由で引き落とし、手許のブックと差し替えてもらうしかありません。
 一方ネット・エキスパンドブックのような形なら、この問題も比較的容易に解決できるでしょう。ホームページに置いたブックを更新したその瞬間から、ここを訪れた読者は最新版を読めるのです。

 ネット・エキスパンドブックを読むためのソフトウエアの小道具一式は、一九九六(平成八)年の夏に、マック版とウインドウズ版の双方がそろいます。これに対応させた『パソコン創世記』は、九月一日、小道具の無料提供開始に合わせて、ボイジャーのホームページで公開することができました。
 その前書きを、私はこんな言葉で締めくくっています。

「『パソコン創世記』では、やりがいのある作業にのめり込めばのめり込むほど金銭との縁が薄れていくというどつぼにはまった。
 おまけにネットワークとの連携を考えはじめてからは、「自分のものだ」という著作権意識まで希薄化しつつある。
 Eメールアドレスなど持たない人のことをデジタルホームレスなどと呼ぶらしいが、インターネットの上にだってホームレスの予備群は立派に育っている。
 サーバー上で公開したい――。
 英語版も用意したい――。
 では書くことを仕事として選んだ自分の暮らしの方は、どうやって立てるのか。
 その帳尻合わせをすぐに迫られると、当然分かってはいる。分かっちゃいるけど、これがどうにも止められそうもない。
 とりあえず先走ってみたい。
 開き直っていえば、そんな愚かとしか言い様のない振る舞いに人を誘うのだから、インターネットはやはりただものではない。
 世の中を変える革新児としては、深く大量に人を狂わせてこそなんぼのもの、というわけだろう。

 インターネットは世界を変えると、たくさんの人と同様に、私もまた直感的にそう信じている。
 世界が変わり、社会が変わるとはつまり、人が変わるということだろう。
 闇雲に駆け出してみて、自分なりの道、自分なりの落ちつきどころを、たどりついた先で見つけろと、私は今、そう言われているのだと思う。昨日までのスタイルにしがみついていないで、新しいあり方を探せよと。
 走り出せ。走り出して、知と情と意の緻密な神経回路網を世界に育てよと、歴史がそういうのなら、私としてはその声に従いたい。
 変わることで、必ず機会をつかめるとは限らない。可能性を閉ざすこともあるだろう。
 個別には〈得〉もあれば、必ず〈損〉もある。
 けれど総計を取れば、私たちはきっと前に進むのだ。
 世界を覆う神経回路網を得た巨大な群としてのヒトの前進を、私は信じることができる。
 そんな浮ついた夢のような話ができて、私は今、本当に幸せだ」

 ブックからWWWへは、オープンURLで。WWWからブックへは、ネット・エキスパンドブックで。ベクトルを異にする二つの連携の絆を得て、エキスパンドブックは自らの未来を示し得た。
 本の未来像はかなりはっきりと望みうるようになった。
 私は今、そう考えています。

 ただし、ボイジャーという一私企業が支えるこの仕組みは、今後間違いなく激しいビジネス競争の波にもまれます。電子出版は、大規模なソフトウエア企業が、いつまでも見逃しておいてくれるような小さな市場ではありません。
 ポストスクリプトを世に出したアドビシステムズは、これを発展させた技術を電子出版の切り札にしようと大攻勢をかけています。これまで紙や印刷用のフィルムに吐き出してきたポストスクリプトのデータを、コンピューターの画面に表示させようとする試みは、アクロバットと名付けられています。あらかじめ印刷物のためにDTPで作った頁が、これでそのまま画面で読めるようになりました。新聞や雑誌、広報資料やカタログを紙で配布し、もう一方でインターネット経由で流して、画面で読んでもらうことが可能です。受け取った側は、手許のプリンターで打ち出すこともできます。紙と画面に橋が架かった格好で、今後、この技術は幅広く利用されて行くでしょう。
 さらに、エキスパンドブックのように完全に画面で読むことに目標を絞った電子本も、アクロバットで作れます。マルチメディアへの対応や、WWWのリンクといった機能も、この土台の上に積み上げられていきます。かつてDTPの誕生期に私が抱いたポストスクリプト通信の夢は、インターネットという足場を得て、今、大きく花開こうとしています。
 あたりを払うようなアドビの勢いに、迫力の面では及ばないかもしれませんが、ボイジャーも立ち止まってはいません。
 一方でT※(ローマ数字3、1-13-23)と名付けた新世代エキスパンドブックの開発を進めながら、彼らはエキスパンドブックを〈本〉の本質的な定義ぎりぎりまで絞り込んでしまおうとする、実にユニークな試みにも着手しています。
 エキスパンドブックは、文章を画面で読んでもらうことにいち早く本気で取り組み、頁形式の仕立てやアンチエイリアスといった技術を積み上げてきました。この〈画面で読む〉技術を、コンピューターによる読み書きの裾野に向けて引き下げることには大きな意味がある。
 彼らは、そう考え始めたのです。
 紙が支えてきたこれまでの世界では、あらかじめ吟味され、かなりの人に読まれると予想できる文章だけが本になる機会を得ました。推考の過程にある原稿や、一時的なもの、ほんの数人のための文章なども、本の形式で読めればそれにこしたことはなかったはずです。とはいえとても算盤勘定が合わないために、現実にはばらばらの紙をまとめた〈書類〉にしかできませんでした。
 けれど電子本の技術を活用すれば、私たちが生み出すありとあらゆる文章を、〈本〉にしてしまうことが可能です。文字だけのものなら、文章がいかにたやすく本に化けるかは、エキスパンドブックを体験した人が皆、等しく痛感するところです。
 今後、文章をコンピューターで作る流れが加速していくことは、間違いありません。私たちの手許には、デジタル形式の文書がますます溢れていきます。通信によって、メールも届きます。WWWには、HTMLで記述された文書が膨大に蓄積されて行くでしょう。
 それらすべてのデジタル文章は、これまでエキスパンドブックのために積み上げてきた技術を用いれば、一瞬に電子本に変わります。
 じっくりと練り上げた電子本を作るのもいい。その一方で、これまでは算盤勘定の都合で書類にするしかなかったものを、読みやすく、扱いやすい本の器に収めることにも大きな意味がある。
 ボイジャーは、そう確信するに至りました。
 エキスパンドブックを読むためのブックブラウザーという小道具を、彼らは無料で公開してきました。ここに新しく付け加えられたテキストビューワーによって、面倒な操作は一切なしに、すべてのテキストとHTML文書を電子本形式で読むことが可能になりました。作った側はただ、ワードプロセッサーやエディターで文書を書いたとしか思わない。発表した側は、単にWWWのページを作ったとしか考えていない。そのすべての〈言葉〉が、受け取る側の意思一つによって一瞬に〈本〉に化けてしまいます。
 エキスパンドブックが持っていた電子ガリ版としての可能性を、究極まで突き詰めたゲリラ精神溢れるこの発想は、インターネット上で加速していく知識の共有化に多大な貢献を成す可能性を秘めています。物事の本質に向かって身を削ぎ落とそうとするこの試みはさらに、関連企業のマーケティング戦略によって重装備化の一途をたどるインターネットに、活を入れてくれるかも知れません。
 標準化に向かって強い風が吹き、結果的に一社の寡占化を招きやすいコンピューターの世界では、彼らのユニークな試みがいつか、吹き飛ばされてしまう可能性は否定できません。しかしたとえそうなったとしても、後から来るものはエキスパンドブックが懸命に押し上げた肩の上に立って、より素早く、より遠く本の未来を望み得るはずです。

 そう確信するもう一方で、痛感させられるのは、未来探しにおける私自身の不器用さです。
 一九九五(平成七)年十二月、ネット・エキスパンドブック誕生の知らせを受け取った時点で、私は本の未来像を組み立てる材料をすべて与えられていました。エキスパンドブックという土台から行き帰りの梯子が伸びて、地球を覆うネットワークと結び付いていく姿はすでに見えていた。後はとっとと、『パソコン創世記』という材料を料理して、本の未来像を具体的に描いてみれば良かったのです。
 そこそこの電子本が用意できたとしても、こちらにはコンピューターという敷居が付いて回る。良いところと悪いところを差し引きして、少しくらい紙に勝った程度では電子本は読まれない。マルチメディアのおまけくらいでは、シーソーはとても動き出さないだろうと、私はつねづね思っていました。
 一人でも本を作ろうと望んだ私にとって、エキスパンドブックは代わるもののない存在です。しかし幅広い人に読んでもらいたいと望むなら、電子本でしか実現できない決定的な何かがいるとも感じていました。その何かを、かなうことなら自分で見つけたい気持ちもあったのです。
 ところが、振り返ってみればわざと目をそらしていたのではないかと思いたくなるほど、私は寄り道を繰り返しています。はっきりとオープンURLの意味をつかむには、『ヒロシマ・ナガサキのまえに』のトラブルを必要としました。そこからあらためて、『パソコン創世記』からリンクを伸ばすことを思いつき、そこでようやくネット・エキスパンドブックを思い出して、「これだ」と全体像を描くに至りました。
 わざわざ目の前に置いてある地図から目をそらし、ごつんごつん周囲の壁に頭をぶつけては、ようやく一段ずつステップを確認していったことが、今となれば不思議でなりません。

 パーソナルコンピューターの未来を切り開いたアラン・ケイは「未来を予測する最良の方法は、それを発明してしまうことである」と語っています。
 もちろん私自身は、何も発明してはいません。
 けれどボイジャーのスタッフをはじめとするたくさんの人々との出会いに恵まれて、本の未来探しには加わることができたように思います。
 そのことを感謝する一方で、古い世界像を取り込んで自己を形成してきた人間にとって、未来を開くとはいかに難しい作業であることか、あらためて痛感せざるを得ません。かろうじてステップを越えてみれば、なぜすべての材料がそろったあの時点で気づかなかったのか、不思議で仕方がない。それほどに、我々は過去と現在に強く縛られているのでしょう。
 けれどそれでも我々は、未来を開くことができる。
 そこら中の壁という壁に頭をぶつけながら、なお考え続けることさえやめなければ、やがて明日は見えてくるはずです。

 私はときどき、インターネット越しに『パソコン創世記』を開こうと思います。
 深くて暗い心の淵にはまりこんでいた私に、再び立ち上がる力をくれた、エキスパンドブックとこの本に感謝するために。
「ここまでこられて良かったね」と、小さな温もりを分かち合うために。
 もう一度、壁に頭をぶちあててみる力を得るために。
 本の未来を、そして私たちの社会の未来を遠く望んでみるために。
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終章 みにくいアヒルの子としてのDTP



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 マインツは、厚い雲の下でした。
 避暑の気分も味わえるかと期待して出かけた旅でしたが、その日の空模様にはむしろ、肌寒ささえ覚えます。途中でデパートを見つけると、妻は長袖のシャツを買いたいと言いました。
 一九九六(平成八)年八月十三日、私たちはドイツ中西部の町マインツを、グーテンベルク博物館目指して歩いていました。
 ライン川とマイン川の合流点に位置するこの町は、古くから交通の要衝として栄えたといいます。この時期はヴァカンスにあたっていて、人通りの少ないせいもあったのでしょう。清潔な町並みには、どこか洗いざらしたような色あせた印象を受けました。
 おまけに、今にも雨が落ちてきそうな雲行きです。

 そんな重苦しい古都の空気が、通りを抜けて聖堂前の広場に出た途端、一瞬にはじけました。
 絵の具箱から色とりどりのチューブを取り出して、思うままに絞っていったパレットのように、あざやかな色彩が広場を埋め尽くしています。
 朝市でした。
 北の国の大切な陽の光をしっかりため込んだ新鮮な花が、彩りを競うように笑顔を振りまいています。しつらえられた台を埋め尽くすのは、みずみずしい野菜。あの長い列のできた、バスを改造した店は何でしょう。ああ、ハムとソーセージが並んでいます。買ったばかりのソーセージに、おじさんはさっそくかぶりつきました。清潔な安宿の女主人が用意してくれた、質も量も豊かな朝食をたらふく食ってきたのが、今となってはなんだか惜しい気がします。ずらりと並んだガラスの瓶に入っているのは、ドイツ風の漬け物でしょう。パンがあります。チーズがあります。香料やドライフラワーも売っています。ニワトリを焼く小さな工場のようになった車からは、なんだかいい匂いが漂ってくるようでした。

 目指す博物館を目の前にして、聖堂を見上げるベンチに腰を下ろし、しばらく朝市の賑わいを味わいました。
 千年の歴史を有する聖堂なら、彼もここでこうしてこの建物を見上げたのだろうか。
 そんな思いが、ふと脳裏をよぎります。
 とそこに、突然の雨。
 あわてて博物館に駆け込むと、半地下に再現された五百五十年前のヨハネス・グーテンベルクの仕事場が、視野の正面に飛び込んできました。

『四十二行聖書』の不思議


 ヨーロッパでどのようにして印刷術が生まれ、広がっていったかを勉強してみて、「なるほどそうだったのか」とつくづく感心させられる点がありました。
 誕生間もない印刷本は、それまで人が手で書き写してきた本の体裁を、徹頭徹尾真似ていたのです。
 マインツの金細工師、ヨハネス・グーテンベルクは、鋳造した活字に油性のインクを塗り、ブドウ絞り機を改良したプレスで印刷するという、活字印刷の技術を確立したとして記憶されています。一四五二年から五五年にかけて、彼がこの手順に沿って初めて刷った本は、一段四十二行の二段組に仕立てられていたことから『四十二行聖書』と呼ばれました。
『四十二行聖書』の最初の頁は、色鮮やかな模様で飾られています。
 欧文の書籍や雑誌には、章や節のはじまりに来る単語の一字目を、イニシャルと呼ばれる特大の飾り文字で組んだものがあります。今に続くこうした流儀は、印刷本に先立って書き写されてきた手写本からの伝統で、『四十二行聖書』もこの形式に従っています。びっしりと隙間なく組まれた本文は、言うまでもなく活字による印刷でした。ただしイニシャルに関しては、彩色絵師の手書きに委ねられています。章の番号や、本の終わりと始まりを示す、伝統的に朱書きされてきた部分も、印刷時には空きのまま残されました。蔦が伸びていったような文様も、絵師の手仕事です。
 せっかく新しく工夫した印刷術を使いながら、イニシャルや文様を手仕事に委ねたのでは、量産というメリットが生かし切れないではないか。
 印刷本に慣れきってしまった私たちは、ごく素直にそう考えます。イニシャル用の特大の飾り活字を用意するか、いっそイニシャルを省くか。文様などなしですませてしまえば、それだけ本の製造コストを下げられるはずです。
 ところが『四十二行聖書』は、専門の研究者でもない限りちょっと目には見分けが付かないほど、手写本のコピーにこれ努めていたのです。

 その引き写しの徹底のほどを、私は自分自身の目で確かめてみたいと思いました。
『四十二行聖書』の実物は、博物館の二階と三階の中程に設けられた、〈中三階〉の特別室におさめられていました。銀行の金庫を思わせる部屋は、左右の入り口を分厚い金属の扉で固めてあります。光で本が焼けるのを恐れてのことでしょう。真っ暗な部屋の中で、ごくごく弱い光がケースに収められた『四十二行聖書』を照らし出しています。
 足を忍ばせるようにして近づき、向き合ってみて先ず驚かされたのは、その大きさでした。
 今なら、特別な写真集か画集にしか使われないくらいの大判で、しかも実に分厚い作りです。巨大といっていいほどの造本に、重厚な皮の装丁。表紙についている引っかけ式の留め具は、いわば本にかける鍵なのでしょう。イニシャルや文様の書き込みにも、確かに念の入った仕事が施してあります。全体から受ける印象は、本というよりもむしろ、彫刻か絵画、名人による工芸品に近いものでした。
 効率の良い新技術による大量生産といった匂いからは、ほど遠いたたずまいです。

手写本文化を支えた修道院


 教会における神への公式の礼拝を、キリスト教では典礼と呼びます。
『四十二行聖書』は、この儀式のために用意された手書きの聖書をお手本として生まれました。
 印刷本の誕生に至るまで、長く書物作りをになってきたのは修道院でした。自らの精神の拠り所である聖書や、儀式に用いる典礼書は、修道院にとって必要不可欠な、いわば〈施設〉でした。いかに費用と手間がかかろうと、聖堂や生活のための建物を用意せざるを得なかったのと同様に、教会は書物を求めました。
 教会の中に設けられた写本工房で本の書き写しを行うことは、修道士たちの日課とされていました。
 本は読み捨てられるものではなく、繰り返し立ち戻るべき、心のいしずえでした。言い換えれば、繰り返し開く必要のあるものだけが、膨大な作業量を要する手写の対象となり、本になりえたのです。
 手写本は修道院の財産として代々受け継がれ、古色は書物に威厳を与えました。
 きわめて貴重な存在である書物は、修道院において、それにふさわしい保管場所を与えられました。数の少ないうちは、壁をくり貫いて作った戸棚や櫃におさめられていたものが、次第に冊数が増えると図書室が設けられるようになります。当初は木造だった図書室は、やがて石造りに変わっていきました。
 手写しを繰り返すことは、伝言ゲームのようにノイズが増大していく危険性を書物に与えます。日常的に修道士たちが参照するものには、最良の版が選ばれて書見台に置かれ、紛失を恐れて鎖で台に繋がれました。
 こうした貴重な財産である書物を、修道院は時に戦乱や略奪によって一挙に失い、失火によって灰にしたのです。

 ヨーロッパにおける印刷本の誕生が、歴史的に果たした役割を詳述した『書物の出現』によれば、こうした書物の〈修道院時代〉を、歴史家は「ローマ帝国の没落から十二世紀に至る七世紀の間」としてきたといいます。
 ところがその本に、十二世紀も終わりに近づくと変化の兆しが現れました。書物は、新たなる〈世俗化時代〉に踏み込んでいったのです。
 遠隔地との交易を活力源として都市が勃興するに連れ、そこに台頭してくる新しい自立的な民衆が、書籍文化を支えるもう一つの柱を形成しはじめます。知的な物事への関心が高まる中で、先ず私塾として誕生した大学は、修道院が必要としたものにとどまらない、より幅広い本を求めました。大学の生まれた町には、書物に関わる専門の業者が現れ、写本を生業とする書士が誕生します。十分に豊かな学生の中からも、書士に本作りを依頼する者が出始めました。
 自らが書物を必要としただけでなく、大学は読書の経験を持った、本を求める人々を輩出し続けます。都市民衆の上層に生まれた読書層は次第に厚みを増し、学術書にとどまらず、より一般的な大衆書の需要を生んでいきました。写本工房からは、文芸書や修養書の類が生み出されるようになったのです。

〈修道院時代〉から〈世俗化時代〉への転換は、書物の需要を膨れ上がらせました。これに対し書士たちは先ず、手写しという技術の枠の中で、生産性を上げるための工夫を積み重ねていきます。
 本文の手写に専念する工房がある中で、イニシャルや朱書きに特化したところが生まれ、文様や装飾画にはまた、別の工房が専門にあたるといった分業化が進んでいきました。なぞるべき原本を何分冊かにわけ、並行して書き写しの作業を進める方式が確立されます。分業による効率化に加え、これによって原本を確定できるようになったことは、伝言ゲームの繰り返しによるノイズの増大を抑える上でも効果がありました。さらに一部には、現在のカーボン用紙に相当する、松脂を利用したコピー紙を工夫して、生産性を上げようとする試みも生まれます。
 ヨーロッパにおける都市民衆の台頭は、書物の頁をめくり上げる風でした。
 彼らは、新しい知識を獲得するための道具や楽しみのための本を求め、写本工房には作業効率化の圧力がかかっていったのです。
 ヨーロッパにおける印刷術は、こうしてすでに量産の圧力が高まりつつあったさなかに生まれました。あらかじめ存在していた需要に応え得たことで、この技術は急速に普及していきます。
 活字を用いた印刷は、グーテンベルクにさかのぼること四百年前、鍛冶屋で錬金術師でもあった中国の畢昇によってすでに試みられていたと言います。
 粘土で整形し、焼いて堅くした陶活字は、松脂や蝋、紙灰を練って作った接着剤を塗った鉄板の上に並べられ、鉄枠で囲まれて固定されました。これを軽く熱してから冷ますと、一枚の活版ができます。印刷後、版を熱し直せば、活字をばらばらにして再利用することも可能でした。
 鋳造活字に話を限っても、朝鮮ではすでに、十五世紀前半にこの技術が生まれていました。李朝三代目の王、太宗は一四〇三年、朝鮮に書物が少ないことを憂えて、数百万個の銅活字の鋳造を数か月で一挙に行わせたといいます。その後も、続く王によって、大規模な活字の鋳造が繰り返されました。
 イタリアに十二世紀に伝えられ、その後ヨーロッパ各地に広まった紙は、動物の皮にとって代わる安価な本の素材として、書物の〈世俗化時代〉を支える柱となります。この紙を、中国は十世紀以上も前から、利用し始めました。後漢時代の宦官、蔡倫は一〇五年、皇帝に紙を献上したことでその発明者として記憶されています。けれど考古学上の新しい知識は、紙がすでに前漢から使われていたことを明らかにしています。
 グーテンベルク以前から、東洋には紙も活字もありました。けれど書物の爆発的な普及は、そこには見られませんでした。鍵は技術にはなかった。書物の普及の原動力は、新しい知識で視野を広げながら、新しい生き方を求めようとする都市民衆の胸の中にこそ生じました。
 印刷術は、すでにくすぶり出していた知識を求める火に注ぐ、油に他ならなかったのです。

『四十二行聖書』のいびつさの根


 印刷術の誕生の時点で、すでに書物を量産化する圧力がかかり始めていたことを確認して、あらためて『四十二行聖書』に立ち返ると、あくまで手写本を真似ようとする姿勢はよりいっそう奇妙に感じられます。
『四十二行聖書』に使われた活字は、当時典礼書を書き写す際に用いられていた書体をそっくりそのまま真似ていました。
 典書書体と呼ばれるこのタイプの活字を用意するにあたって、グーテンベルクはアルファベットそれぞれの大文字と小文字を鋳出すだけですませてはいません。当時の〈お習字〉の規則では、前後の文字や、単語のどの位置におかれるかによって、アルファベットには書き分けられるものがありました。例えばsには三種類、rには二種類があり、グーテンベルクはそのそれぞれを用意したのです。
『グーテンベルク聖書の行方』は『四十二行聖書』を微に入り細をうがって分析しています。
 著者の富田修二によれば、グーテンベルクはさらに、前の文字と隙間なく並ぶ〈繋ぎ文字〉を再現するために、活字の左側をぎりぎりまで削り込んだものを、特定のアルファベットに関して用意したといいます。羊皮紙や紙を節約し、作業を効率化するために、手写本では略記法や短縮記号が一般的に使われていました。グーテンベルクもこれにならって、専用の記号活字を別に用意しました。
 二段組の版面の置き方や、改行なしでぎっちりと詰め込んだ組み方も手写本にならっています。章名や章番号、加えて節にまで番号を振って、本文中に組み込んでしまう現在でも聖書に残されている形式は、引用を試みようとしても写本ごとに何頁目にくるかが皆異なってくるという制約から生まれたものでした。『四十二行聖書』はこの点に関しても、従来の手写本の常識に忠実に沿っています。
 こうして手写本そのままに刷り上げられた『四十二行聖書』は、輸送コストの削減のために、未製本のまま各地に送られました。初期の印刷本は各地の書籍商の手に渡ってから、彩色絵師の手仕事によって仕上げられ、今日の常識からすればきわめてていねいな製本を施され、堅牢で美しく仕上げらたのです。お気に入りの絵師や製本職人を使うために、未製本のまま買われていくこともよくあったといいます。
 その後現実のものとなる大きな発展の可能性をうちに秘めながらも、印刷本は手写本の徹底したコピーとして生まれました。
 それは、なぜだったのでしょうか。
『書物の出現』を書いたアンリ=ジャン・マルタンは、「買い手が印刷術という新しい方法に胡散臭さを感じていた」であるとか「写字生たちに気づかれてその神経を逆なで」しないため、といった諸説を否定してこう結論づけています。

「そもそも写本を印刷本の手本としていた初期印刷業者が、写本とは異なる外観を有する書物の姿など、どうして思い描けたであろう。むしろ印刷本と写本の外見が同一であることが、彼らの目には商業的成功の保証と同時に、技術的勝利の証として映ったのではなかろうか」

 インターネットとリンクした電子本を作るためのすべての鍵を与えられながら、私は半年以上も新しい本の姿を確定できませんでした。「これが本だ」というイメージこそが彼らを縛ったというマルタンの指摘は、私自身に回り道を強いたものをもまた、良く説明しているように思います。
 アヒルの子に囲まれて生まれた白鳥には、自らを先ずは〈みにくいアヒルの子〉と了解するしかないのです。

「私は白鳥である」と印刷本は言った


 厳しい冬を、一人かろうじて耐えきったみにくいアヒルの子は、さわやかな春の日に、自分が白鳥であったことを知ります。
 新しい考え方を凝集し、広く、素早く伝えるメディアとしての自身の本質に印刷本が気づくまでにも、しばらくの間を要することになりました。
『書物の出現』によれば、初期の印刷本はじょじょに行間を広げ、略記法を減らすなどの変化を見せていきます。装丁を簡素化する傾向が広まり、手書きの文様も次第に書き込みの度合いを薄めていきました。こうした体裁上の変化の中でも、際だっていたのは、書体の標準化でした。
 量産された印刷本の中心的な読み手となったのは、ルネサンスの中核となった人文主義者たちです。十五世紀半ばのイタリアから目覚ましく展開した文芸復興の流れの中で、教会を精神的な抑圧装置とした中世封建社会の重苦しい空気を払いのけ、良くも悪しくも人間くさい精神を解き放とうと彼らは試みました。あるがままの人間の存在を先ず肯定的にとらえ、人の可能性を存分にきわめつくそうとした彼らは、精神的な拠り所として、ギリシャ、ローマ文化の再評価を試みます。
 古代の古典を手写本として蘇らせるにあたって、人文主義者は当時一般的だった書体を使おうとはしませんでした。古き良き時代の文字を模して考案されたローマン体を用いることで、彼らは体裁の面でも自分たちの価値観を示そうと試みたのです。印刷本の刊行にあたっても、彼らはローマン体活字の鋳造を進めました。ルネッサンス運動のヨーロッパ全域への波及に連れて、当初はさまざまなものが利用されていた印刷本の書体は、じょじょにローマン体に統一されていきます。
 もともとはギリシャ古典の研究にあたっていた学者で、一四九五年ころイタリアのベネチアに印刷所を起こした出版人、アルドゥス・マヌティウスは、印刷本が新しい書物のイメージを確立するにあたっていくつか大きな貢献を成しています。彼が作らせたローマン体活字は、その後の活字職人たちの手本となりました。同じく彼が彫らせた、イタリックと名付けられた幅の狭い斜めの書体も、広く流行することになります。
 マヌティウスはさらに、書物を手軽に持ち運べるものへと変貌させたことでも記憶されています。古典を広く普及させることを目指して、彼は当時の常識からすれば超小型の携帯版シリーズの刊行に着手しました。この試みはその後、多くの追随者を生んで書物の普及に拍車をかけることになります。書物の頁ごとに、連続する数字をふったのも、彼でした。
 手写本のイメージを完璧になぞって生まれた印刷本はこうして、量産が可能で書物の値段を大幅に引き下げられるという自らの本質に沿った体裁を、じょじょに獲得していきます。

 中世封建社会の精神的なたがとして機能したキリスト教に対し、人文主義者は古典への回帰を表にたてて反旗を翻しました。これと前後して、キリスト教の枠の中からも、教会権威の腐敗を撃とうとする改革運動が起こります。
 共に既存の秩序意識を問い直そうとする二つの流れの中で、印刷術は大きな役割を演じました。
 宗教改革を主導したドイツ、ヴィッテンベルクの神学者、マルティン・ルターは、一五一七年十月三十一日、ローマ法王にあてた『九十五ヶ条の意見書』を公開して運動に火を付けます。この意見書は、前もって印刷され、ドイツ各地に配布されていました。その後もルターは、新約聖書をドイツ語にした『ルター訳聖書』や自著を印刷し、聖書に立ち返って教会権威を問い直そうとする思想を伝播させました。
 中世のヨーロッパが近代的な資本主義国家へと向かって歩み始める、大きな歴史のうねりの中で、社会変革の力の源泉となったのは、繰り返し人とは何かを問い直そうとする精神の機能です。
 印刷本はこれを促進する触媒として、大きな役割を演じていきました。

 十五世紀に誕生した印刷術は、従来の本の概念にはひとまず手を触れず、その製造の工程に食い込みました。
 当初は手写本を完全になぞり、そこからやがて量産性という技術の本質に沿って、本は一歩ずつ変わりはじめます。書物の本質が決定的に変化するまでには、本を変えることを恐れなかったいく人もの出版人による発見の積み重ねが必要でした。
 彼らは、新しい何かを獲得しただけではありません。
 手写本が備えていた美を破壊し、根絶やしにしたのも彼らです。
 装飾的なイニシャルや文様のかもし出す手写本の工芸的な美しさに、中世の読書人たちは深い愛着を覚えていたでしょう。堅牢な皮の装丁に慣れた彼らに現在の印刷本を見せれば、あまりの粗末さに呆れ返るはずです。大理石を思わせる頁から、のみで削ったような漆黒の文字が立ち上がってくる羊皮紙に比べれば、紙はいかにも粗末な代用品です。同じ文字の書き分けや綴り字の決めごとは、文化の本質にも関わる大切な規範として意識されていたでしょう。
 画家の筆が直に下りたタブローには堂々と高い値札を付ける画商も、版画には控えめな価格を付けざるを得ません。印刷されたアートの取り扱いを、彼らは画材店にまかせてしまいます。そうしたオリジナルへのこだわりは、一字一字を人が書き取った手写本に対しても生じていたでしょう。
 けれど器その物の細部へのこだわりは、物語や考えをより効率的に交換するという本質的な機能の前にあっては、長期的には無力でした。

本とは一体何であるのか


 人は永遠に、本を求め続けるでしょう。
 我々は体験したり聞き及んだりする出来事を、言葉によって物語ってはじめて胸におさめ、安心を得る生き物です。
「あれがこうだから、そうなり、結局こうなった」という起承転結のドラマは、我々の精神を持続的に立たせる支柱です。
 人々の幅広い経験と知識を集め、そこから普遍的な物語の骨格を抽象化する人物は、理論家と呼ばれます。個別の体験や、イマジネーションの生み出した小世界を徹底して深く掘ることで物語ろうとする者は、文学者と呼ばれるでしょう。再現可能な手法で自然を腑分けし、その奥に潜む物語を暴き出そうとする者を、人は科学者と呼びます。十分な登場人物を配するだけの対象への知識がなければ、超越的な〈神〉にでもお出まし願い、訳の分からないところはすべて彼に預けてでも、人はともかく物語ってきました。

 書物の本質は、言葉によって綴られるこの物語を、一まとめにしておさめておく器です。
 印刷術は、この器を紙の上に量産化する技術に他なりません。手で書き写すのに比べれば、複製ははるかに容易になり、そのためのコストも低下しました。けれど印刷術は、紙でできた冊子という構造物と分かちがたく結び付いていました。
 そして今我々は、本作りの工程にコンピューターを持ち込もうとしています。
 コンピューターが物語の器に成しうる本質的な貢献とは、ではあらためて何でしょう。
 複製に関していえば、コンピューター上の作業は、印刷の工程が難行苦行の手写しに思えてくるほど容易です。加えて新しい器には、ネットワークを介してきわめて素早く移動させうるという、古い器になかった際だった特長があります。物語同士を有機的に結ぶリンクも、決定的に新しい貢献です。
 DTPが捨てきれないでいる紙への未練を断てば、こうしたメリットは直接新しい本づくりに活かせます。DTPという名のもう一羽のみにくいアヒルの子は、白鳥としての自己を発見して初めて、電脳空間に旅だつことができるでしょう。

 印刷物に比べればはるかに雑なくせに、場所ばかり食う大きな画面と向き合っている我々には、まだまだ成すべきことがあります。ハードウエアとソフトウエアの双方を改良して、より読みやすく、扱いやすい電子本を作ることが不可欠です。
 理想の電子本は、まだ我々の手の内にはありません。
 しかし少なくとも、白鳥の姿をはっきりと思い描きうるところまで、我々は進みました。目指すべき理想の本を脳裏に描いて、もう一度紙の本を振り返ったとき、愛すべき旧友もまた、多くを欠いていることは明らかです。
 であるのなら、やはり語るべきは本の未来でしょう。

 人は空気と共に物語を吸って生きる動物であると書きました。
 加えて人の胸の奥には、自分自身の物語をいつか吐き出してみたいという願いが潜んでいます。
 出版に必要なコストを落とせるだけ落とし、万人の胸に宿る「物語ることへの願い」を開放することによって、新しい本は総体としての人から大きな表現のエネルギーを引き出すでしょう。
 その力を得て、我々はここではないどこかに向かうのです。

 印刷本は、中世を越えようとする精神が勃興する中で生まれ、その活性を高める触媒として機能しました。時代を変えたのは技術ではありません。新しいメディアが唯一成しうることは、時代精神に応えて変化を促進することだけです。
 では果たして、世界の知識と結びあった新しい本を生み出そうとするかに見える我々には、新しい時代を開く必然とエネルギーとがあるのでしょうか。
 そう問い直してみるとき、考えることを支援する道具を一人ひとりが持ち、そのそれぞれをネットワークするという試みがどこから来たのかを、私は思い返さざるを得ません。
 原点は、原子爆弾の開発を統括した男が抱いた、巨大化する科学への危機感と、深く考えることへの最後の期待でした。
 人を豊かにした科学は、原爆という残虐な兵器をもまた生み出した。しかし人類が争いによって自滅する前に、他ならぬ科学によって明日が開けるかも知れない。莫大な記録を集め、過去をもっと明確に振り返り、現在の問題をより客観的に分析するための装置が作れるかも知れない。
 マンハッタン計画を組織した科学行政官、ヴァネーヴァー・ブッシュがまとめ、原爆投下直前に発表することになった〈考えるための機械〉を論じる原稿は、レイテ島で本国への帰還船を待っていた若きダグラス・エンゲルバートの胸に、小さな灯をともしました。J・C・R・リックライダーという支援者を得て育った灯火は、アラン・ケイに引き継がれ、もう一方でリックライダーはネットワークの種をまきます。
 国家が当然のこととして主張する〈自衛〉の論理が、ついに人類そのものを滅亡させかねない兵器を生み出したところから、我々は歩みはじめました。
 インターネット世界の原点は、国家を支える精神が天井を打ったところに生まれたのです。
 この新しいメディアが加速する情報の混淆によって、言語や宗教の同一性を基礎とし、帝国主義的な支配、被支配の構図の中で強化されてきた国家意識を突き崩せるか。突き崩したところに、地球規模で共有できる新しい精神を育み得るのかを、私たちはこれから問われていくのでしょう。

「僕が、みにくいアヒルの子だったときは、このような多くの幸福は夢にも思わなかった!」(『アンデルセン童話集』)

 印刷本をなぞるみにくいアヒルの子として生まれたDTPはやがて、こう叫ぶでしょう。
 そして電子ネットワーク環境に自らの物語を開いたとき、多くの人もまた自らが白鳥として大空に舞い立ったような喜びに包まれるに違いありません。

 我々は誰も、自分自身の中に白鳥を見つけだしたい。
 そして我々の歴史もまた、新しい白鳥の目覚めを待ち受けているのだと、私は今、信じています。
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あとがきに代えて


 本書は、全体で一つのあとがきのようなものになっている。
 物書きとして歩き出して間もなく、小さな文庫本を書いた。これを足がかりに仕事を続けているうち、自分が病んでいることを知った。うずくまり、やがて膝を抱えていることもできなくなったとき、かろうじて伸ばした手に触れたのが電子本だった。
 コンピューターで読む本なら、目の前のコンピューターで作れる。がたのきた自分にも、これなら手が届くのではないかと、もう一度本作りに心が向いた。前向きになった気持ちから力がわいて、毛色の変わった新しい本ができた。新しい本は、目覚ましい勢いで成長し始めたコンピューターのネットワークと結び付いて、もう一化けしつつある。
 その過程で考えてきたことを、素のままに書き連ねていったのが、この本だ。
 普段だったらあとがきにこっそり滑り込ませておくくらいの、少し気恥ずかしい感慨や柔らかな心の地肌が、本文のそこここにのぞいている。
 ネットワークと電子本の結びつきは、今も試行錯誤の段階にある。宿題も残っている。その意味では、「中間報告」が正確かも知れない。だが柔らかさというか、だらしなさの度合いにおいて、本書はやはり「全体で一つのあとがき」にふさわしいように思う。
 手に取った本は、私もしょっちゅうあとがきから開く。
 姿勢を正した本文からはうかがえない等身大の書き手が、ひょっこり顔をのぞかせていたりするのが面白い。けれど始めから終わりまで、すっかり軽装で通してしまったこの本では、あえて最後になって打ち明けたいような話は残っていない。
 冒頭の、短いまえがきを読んでみて下さい。
 ここを開いて期待されたようなことは、あそこから最後まで続いています。

 今手にとっておられる紙でできた『本の未来』は、これでおしまいだ。ただし本書には、CD−ROMが付いている。これに関しては、もう少し言っておきたいことがある。誘惑もしたい。残りのスペースは、「終える」ためにではなく、「始める」ために使って、本当の締めくくりにしよう。
 この銀色の円盤には、電子本にしたもう一つの『本の未来』(Honmirai)が入っている。原稿自体は変わらないが、開いてみての印象は、だいぶ違うはずだ。
 コンピューターを準備するのは厄介だが、あちらは話したり動いたり、世界を一瞬に駆け回ったりする。難しい作業にならないよう、気をつけたつもりだ。マッキントッシュとウインドウズ95に対応しているから、たいていの機種で読めるだろう。周りの人から借りられる力を借りて、ともかく機械に突っ込んで指示に従っていけば、「新しい本」が体験できるはずだ。これまでコンピューターには触らないできた人が、これをきっかけに一度画面の前に座ってくれれば、それも私にとっては嬉しいご褒美だ。
 CD−ROMの中には、『マルチメディアサンプルブック』(Mmbook)も入っている。音や画像と組み合わせると、本の世界はどんなことになるのか、ためしに作ってみたものだ。あっちは絵が動くだけでなく、下手な歌まで聞こえてくる。
 数年前、スタジオでとっていたデジタルのテープを再生する装置がなくて、今回よそで使わせてもらった機器でも、電子本に貼り付けるための処理は結局うまくいかなかった。そこを、マルチメディアのプロの翡翠さんが救ってくれた。ウインドウズでもマッキントッシュでもかかるCD―ROMに仕立てるところでは、ボイジャーの野口英司さんから、また大きな力を借りた。
 ただ『本の未来』、『サンプルブック』とも、電子本の制作自体は私一人でやった。
 どこをとっても素人臭い作りだが、むしろそのゆるみのようなものが、電子本の可能性をよく示していると、私自身は居直っている。振り返ってみれば、コンピューターと付き合い始めてずいぶんたつが、やってきたのはもっぱら書くことだ。基本的に向上心というものが欠けていて、いつまでたってもさっぱり詳しくはならない。目もかすみ、覚えも悪くなる一方だ。そんなオヤジでも、どうにかこのくらいのものは作れる。
 そこが示したかった。
 CD−ROMには、エキスハンドブックを読むためのブラウザー(BookBrowser)に加えて、ボイジャージャパンの厚意によって、本作りの道具のお試し版を入れることができた。作れる本のページ数に制限があるが、すべての機能が備わっている。
 この際、読んだついでに、自分の原稿を電子本にしてみるというのはどうだろう。
 さらに本文で触れた木津田秀雄さんの『エキスバンド・ブックでつくる本』と、木津田さん、古野信治さん、辰野雄一さん、地家猛さんの四人で発行している『ニューポン! 3』も、収録させてもらった。前者はマッキントッシュでしか読めないが、後者はウインドウズでも大丈夫だ。この号では、インターネット上の書店、サイバーブックセンターの到達点と直面する困難が、深く率直に語られている。

『サンプルブック』の中では、文中で触れている同窓会のスライド上映のために集められた写真を使った。幹事を引き受けてくれている鈴木祥子さんには、スライドの貸与と、提供者の確認に際してお世話になった。写真を提供された川本健さん、北垣内滋子さん、佐伯彩路さん、長沼毅さん、細井明子さん、細井真人さんには了承を得たが、本来の著作権者の同意を得ないまま使っているものがあるかもしれない。第六十一回卒業生のみなさん、撮影者の特定が難しくなっている事情を汲み、知らぬ間にご出演いただいている点も合わせてお許し下さい。『サンプルブック』九ページの『陽の光は躍る』は、ちょうど四半世紀前に青戸高さん(ヴァイブ)、高野麻由美さん(ヴォーカル)、塚本俊明さん(ギター)とやったものだ。大昔の電波がラジオに飛び込んできた感じを頭に置いて、貧弱な音で入れた。三十七ページの『楽園の王様』は、上田恵子さん(ヴォーカル、ピアノ)、金子好一さん(ギター、コーラス)、藤井悦子さん(ドラムス、コーラス)、宮堂譲さん(ベース、コーラス)、諸星公勇さん(コーラス)の構成で、富田倫生がヴォーカルとギターで加わっている。いいスピーカーを繋げば、こちらはいい音で聞ける。残念ながら、技量に関しては選択の余地がなかった。曲はどちらも、自作である。

 倍近い分量のあった初稿では、パーソナルコンピューターの歴史やDTPの流れ、電子出版の系譜、インターネットの形成史といった話題に詳しく触れていた。エキスパンドブックに関しても、もっと技術的な内容に踏み込んで書いた。
 コンピューターにはあまり縁のない、本の好きな人に向かって書こう。できるだけ薄い本を作ろうと目指しながら、これまでやってきた仕事の勢いや自分自身の好奇心に引きずられて、当初の想定からはかなり外れて突っ込んだ。そのはみ出し分をすべて切り捨てて整理し直せと残酷な要求を突きつけたのは、最初の読者になってくれた富田晶子さんだった。私に対してそんな冷酷なことが言える人間は、世界広しといえどおそらく彼女だけだろう。
 仕上がったものを見ると、私もあらためて「これでよかった」と思う。
 ハインラインじゃないけれど、「厳格な女性教師」とは偉大なものである。
 ただしアスキーというコンピューター分野に専門性を持つ出版社にとって、この選択は諸手を上げて賛成とは行かないものだった。企画を受け入れ、重要な示唆を与えて本書を導き、原稿の遅れに耐えてくれた第一書籍編集部の渡辺俊雄さんには、最後の段階でもう一度、難しい調整に力をふるっていただいた。
 技術の話を捨てるのか、個人的な「暗い話」を切るのか。煮詰まったところで、「病気の話は大切だと思う」と書いてくれた八巻美恵さんのメールには、勇気づけられた。
 北村礼明さん、木津田秀雄さん、萩野正昭さん、祝田久さんには、長時間のインタビューに応じていただいた。
 考えるテーマと成すべきことを与えてくれた、ボイジャージャパンの試みに尊敬と感謝を。
 ニフティーサーブのボイジャーサロン(go smss1)に集う皆さん。お読みいただければ明らかなとおり、本書は皆さんのメッセージを糧として生まれました。

 窓の向こうには、かすかだが今日も富士山が見える。
 青空のリスタート・ボタンは、きっと押せたのだろう。

一九九七年一月十九日
富田倫生
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参考文献


序章

『書物の出現』リュシアン・フェーブル、アンリ=ジャン・マルタン著、関根素子、長谷川輝夫、宮下志朗、月村辰雄訳、筑摩書房、一九八五年
Kay, Alan and Goldberg, Adele,"Personal Dynamic Media,"Computer,IEEE Computer Society,March 1977
Kay, Alan,"The Reactive Engine,"Doctor Dissertation,University of Utah,September 1969
Learing Research Group,"Pesonal Dynamic Medeia,"Technical Report No.SSL 76-1,Xerox Palo Alto Research Center,March 1976
『アラン・ケイ』アラン・ケイ著、鶴岡雄二訳、浜野保樹監修、アスキー、一九九二年
Engelbart, Douglas C.,"The Augmentation Papers : A collection since 1960,"The Bootstrap Institute,April 1993
『パソコン創世記』富田倫生、旺文社、一九八五年
『ガリ版文化史』田村紀雄、志村章子著、新宿書房、一九八五年
『ガリ版文化を歩く』志村章子著、新宿書房、一九九五年
『共生戦略 キヤノンの実践経営』山路敬三、東洋経済新報社、一九九三年
『蜉蝣』森下玉江、一九八〇年
『綴方教室』大木顕一郎、清水幸治著、中央公論社、一九三七年
『続綴方教室』豊田正子著、大木顕一郎編、中央公論社、一九三九年
『粘土のお面』豊田正子、中央公論社、一九四一年
『綴方読本』鈴木三重吉、中央公論社、一九三五年
『山びこ学校』無着成恭編、青銅社、一九五一年
『山びこ学校』無着成恭編、百合出版、一九五六年
『遠い山びこ』佐野眞一、文藝春秋、一九九二年

第二章

『銀河ヒッチハイク・ガイド』ダグラス・アダムス著、風見潤訳、新潮社、一九八二年
Hughes, Nathan,"The alt.fan.douglas-adams FAQ," http://www.umd.umich.edu/~nhughes/dna/faqs/dnafaq.html#sec1
『銀河帝国の興亡1』アイザック・アシモフ著、厚木淳訳、東京創元社、一九六八年
"A Brief History of Voyager," http://www.voyagerco.com/aboutvoyager/history.html
"The Annotated Movie," http://www.voyagerco.com/criterion/about/annotated.html
"Superior Image and Sound," http://www.voyagerco.com/criterion/about/superior.html
『エキスパンドブック・ツールキット※(ローマ数字2、1-13-22)ユーザーズガイド』ボイジャー、一九九五年
『アラン・ケイ』アラン・ケイ著、鶴岡雄二訳、浜野保樹監修、アスキー、一九九二年
「メディアの将来を語る電子ブック」富田倫生『マックワールド』マックワールド・コミュニケーションズ・ジャパン、一九九二年七月号所収
「本場アメリカDTPトレンドの日本上陸―― Aldus 社 Paul Brainerd 氏に聞く」『マックライフ』河出書房新社、一九八八年十一月号所収
『マッキントッシュ物語 僕らを変えたコンピュータ』スティーブン・レヴィ著、武舎広幸訳、翔泳社、一九九四年
「表現革命をもたらすか、『ポストスクリプト』」『ザ・コンピュータ』日本ソフトバンク、一九八七年十一月号所収
「KEYMAN U.S.A. 日本に期待をかけるグラフィックスの革命家 アドビシステムズ会長『ジョン・ワーノック』」『ザ・コンピュータ』日本ソフトバンク、一九九〇年三月号所収

第三章

「Macで読む電子ブックを作ろう!」富田倫生『マックワールド』マックワールド・コミュニケーションズ・ジャパン、一九九三年三月号所収
『免疫の意味論』多田富雄、青土社、一九九三年
『青空のリスタート』富田倫生、ソフトバンク、一九九二年
『和菓子屋の息子――ある自伝的試み』小林信彦、新潮社、一九九六年
「マルチメディアの冒険航海者 VOYAGER 社 Robert Stein 氏インタビュー」『マックライフ』ビー・エヌ・エヌ、一九八九年九月号所収
「特集 QuickTime と CD-ROM 創作編/インタビュー/ Voyager + Voyager Japan パソコンで読む文学 Expanded Books シリーズ」『マックライフ』ビー・エヌ・エヌ、一九九三年二月号所収
『アラン・ケイ』アラン・ケイ著、鶴岡雄二訳、浜野保樹監修、アスキー、一九九二年
「電子メディアは人間に与えられた新しい機会」『マックライフ』ビー・エヌ・エヌ、一九九三年二月号所収
「この世界には、あなたの本を読みたい人が必ずいる」萩野正昭「エキスパンド・ブック・ツールキット日本語版カタログ」一九九三年
『ザ・ライト・スタッフ』トム・ウルフ著、中野圭二、加藤弘和訳、中央公論社、一九八一年
『マッキントッシュ伝説』斎藤由多加、オープンブック、一九九四年
『新訳聖書』日本聖書協会、一九五四年改訳

第四章

『ロン吉百までわしゃ九十九まで』小澤真理子、オフィス・タント、一九九四年
『犬と釣り』小澤真理子、オフィス・タント、一九九五年
『るじにっき』るじるし、江村留美子、一九九五年
『エキスパンドブックでポン!』創刊号、古野信治、木津田秀雄、一九九五年
『エキスパンド・ブックでつくる本』木津田秀雄、一九九三年
Hauben, Michael,"Behind the Net: The untold history of the ARPANET," http://www.niksula.cs.hut.fi/~snabb/News/arpanet.history
Rheingold, Howard,"The Virtual Community: Chapter Three: Visionaries and Convergences: The Accidental History of the Net," http://www.eg.bucknell.edu/~kapolka/cs240/vc/vcbook3.html
「人間とコンピューターの共生」J・C・R・リックライダー『ワークステーション原点』、浜田俊夫訳、村井純監訳、ACMプレス編、アスキー出版局、一九九〇年所収
「知識増大ワークショップ」ダグ・エンゲルバート、『ワークステーション原点』、浜田俊夫訳、村井純監訳、ACMプレス編、アスキー出版局、一九九〇年所収
『インターネット』村井純、岩波新書、一九九五年
Berners-Lee, Tim,"Information Management: A Proposal," http://www.w3.org/pub/WWW/History/1989/proposal.html
「CyberBook Center の現状と将来」『ニューポン!3』サイバーブックセンター、一九九六年所収
『インターネットで上手にエキスパンドブックを売る方法』サイバーブックセンター、飛口栄子、一九九六年
『インターネット日記』原伸郎、書肆 Dairiqui、一九九六年
「猫といっしょに学ぶHTML」有限会社アムリス、http://www.iijnet.or.jp/amris/html_pp/easyhtml.html
『本はどのように消えてゆくのか』津野海太郎、晶文社、一九九六年
Hart, Michael S.,"What is Project Gutenberg? ," http://www.promo.net/pg/history.html
Hart, Michael S.,"Project Gutenberg NEEDS YOUR HELP MORE THAN EVER!," http://www.promo.net/pg/nl/pgny_nov96.html

終章

『書物の出現』リュシアン・フェーブル、アンリ=ジャン・マルタン著、関根素子、長谷川輝夫、宮下志朗、月村辰雄訳、筑摩書房、一九八五年
『完訳 アンデルセン童話集(二)』ハンス・クリスチャン・アンデルセン著、大畑末吉訳、岩波書店、一九八四年





底本:「本の未来」アスキー
   1997(平成9)年3月1日初版発行
入力:富田倫生
校正:富田倫生
2013年8月16日作成
2013年9月18日修正

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