昔はベンジャミン・フランクリン、自序伝をものして、その子孫の
戒めとなせり。操行に高潔にして、業務に勤勉なるこの人の如きは、
真に尊き
亀鑑を後世に
遺せしものとこそ言うべけれ。
妾の如き、
如何に心の
驕れることありとも、いかで得て
企つべしと言わんや。
世に罪深き人を問わば、妾は実にその随一ならん、世に
愚鈍なる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。
齢人生の
六分に達し、今にして過ぎ
来し
方を
顧みれば、行いし事として罪悪ならぬはなく、
謀慮りし事として
誤謬ならぬはなきぞかし。
羞悪懺悔、次ぐに
苦悶懊悩を
以てす、
妾が、回顧を
充たすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみ
也。
懺悔の苦悶、これを
愈すの道はただ
己れを改むるより
他にはあらじ。されど
如何にしてかその己れを改むべきか、これ
将た
一の苦悶なり。苦悶の上の苦悶なり、苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上また苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、
生憎に他の苦悶来り、
妾や今実に苦悶の
合囲の内にあるなり。されば、この書を
著すは、
素よりこの苦悶を忘れんとての
業には
非ず、
否筆を
執るその事もなかなか苦悶の
種たるなり、一字は一字より、一行は一行より、苦悶は
弥勝るのみ。
苦悶はいよいよ勝るのみ、されど、
妾強ちにこれを忘れんことを願わず、
否昔
懐かしの想いは、その一字に一行に苦悩と共に
弥増すなり。懐かしや、わが苦悶の回顧。
顧えば女性の身の
自ら
揣らず、年
少くして民権自由の声に
狂し、
行途の
蹉跌再三再四、
漸く
後の
半生を家庭に
托するを得たりしかど、一家の
計いまだ成らざるに、身は早く
寡となりぬ。人の世のあじきなさ、しみじみと骨にも
透るばかりなり。もし妾のために同情の
一掬を
注がるるものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
妾が過ぎ
来し
方は
蹉跌の上の蹉跌なりき。されど妾は常に
戦えり、蹉跌のためにかつて
一度も
怯みし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり。この天職を自覚すればこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔も
懐かしくは思うなれ。
妾の
懺悔、懺悔の苦悶これを
愈すの道は、ただただ苦悶にあり。妾が天職によりて、世と
己れとの罪悪と戦うにあり。
先に政権の独占を
憤れる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は
赤心資本の独占に抗して、不幸なる
貧者の救済に
傾けるなり。妾が
烏滸の
譏りを忘れて、
敢えて半生の経歴を
極めて率直に少しく隠す所なく
叙せんとするは、
強ちに罪滅ぼしの
懺悔に
代えんとには
非ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。
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妾は八、九歳の時、
屋敷内にて
怜悧なる娘と
誉めそやされ、学校の先生たちには、活発なる無邪気なる子と可愛がられ、十一、二歳の時には、県令学務委員等の
臨める試験場にて、特に撰抜せられて『十八史略』や、『日本外史』の講義をなし、これを無上の光栄と喜びつつ、世に妾ほど怜悧なる者はあるまじなど、心
私かに
郷党に誇りたりき。
十五歳にして学校の助教諭を托せられ、三円の給料を受けて子弟を訓導するの任に当り、日々勤務の
傍ら、復習を名として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校を
凌がんばかりの隆盛を致せり。
学校に通う途中、妾は常に
蛮貊小僧らのために「マガイ」が通る「マガイ」が通ると
罵られき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時
妾は実に「マガイ」なりしなり。「マガイ」とは
馬爪を
鼈甲に似たらしめたるにて、現今の
護謨を
象牙に
擬せると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの
如何ばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、
起居振舞のお
転婆なりしは言うまでもなく、修業中は髪を
結う
暇だに
惜しき
心地せられて、
一向に書を読む事を好みければ、十六歳までは髪を
剪りて前部を左右に分け、衣服まで
悉く
男生の如くに
装い、
加も学校へは女生と
伴うて通いにき。近所の
小供らのこれを
観て異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとは罵りしなるべし。これを
懐うごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう
世心の付き
初めて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて
束髪の仲間入りはしたりける。
十七歳の時は
妾に取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の
論客多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、
葉石久米雄氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の
戯れに物せし
大津絵ぶしあり。
すめらみの、おためとて、備前岡山を始めとし、数多の国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣、親や妻子を振り捨てて。(詩入)「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲や霞もほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」
尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に
狂せる時なりければ、
妾の
月琴に和してこれを
唄うを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、
生花、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く
挙動いし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を
和らぐるに
若かずとて、
八雲琴、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと
夜に入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。
十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想に
適わずとて、謝絶しければ、父母も
困じ果てて、ある日
妾に向かい、家の生計意の如くならずして、倒産の
憂き目さえやがて落ちかからん有様なるに、
御身とて
何時までか父母の家に
留まり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いと
切めたる
御言葉なり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその
御恵みによりてもはや自活の道を得たれば、
仮令今よりこの家を
逐わるるとも、
糊口に事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままに
永く
膝下に
侍せしめ給え、学校より得る収入は
悉く食費として
捧げ
参らせ
聊か
困厄の万一を補わんと、心より申し
出でけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は
沙汰止みとなりにき。
ああ世にはかくの如く、父兄に
威圧せられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、
如何でこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くも
刻み付けられたる願いなりける。
結婚
沙汰の
止みてより、妾は一層学芸に心を
籠め、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切
懇到に教授しければ、さらぬだに祖先より
代々教導を以て任とし
来れるわが
家の名は、
忽ち
近郷にまで伝えられ、入学の者日に増して、間もなく一家は尊敬の
焼点となりぬ。
依りてある寺を借り受けて教場を開き、
夜は更に昼間就学の
暇なき婦女、
貧家の子弟に教え、母上は習字を兄上は算術を受け持ちて妾を助け、土曜日には討論会、演説会を開きて知識の交換を
謀り、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採りぬ。
その
歳有名なる
岸田俊子女史(
故中島信行氏夫人)漫遊し
来りて、三日間わが
郷に演説会を開きしに、聴衆雲の如く会場
立錐の地だも
余さざりき。
実にや女史がその
流暢の弁舌もて、
滔々女権拡張の大義を唱道せられし時の如き
妾も奮慨おく
能わず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等に
議りて、女子懇親会を組織し、諸国に
率先して、婦人の団結を
謀り、しばしば志士
論客を
請じては
天賦人権自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の
陋習を破らん事を務めしに、風潮の向かう所入会者引きも切らず、会はいよいよ盛大に
赴きぬ。
同じ年の夏、自由党員の納涼会を朝日川に催すこととなり、女子懇親会にも同遊を交渉し
来りければ、元老女史竹内、
津下の両女史と
謀りてこれに応じ、同日夕刻より船を朝日川に
泛ぶ。会員楽器に和して、自由の歌を合奏す、悲壮の
音水を渡りて、無限の感に打たれしことの今もなおこの記憶に残れるよ。折しも向かいの船に声こそあれ、白由党員の
一人、
甲板の上に立ち上りて演説をなせるなり。殺気
凜烈人をして
慄然たらしむ。市中ならんには警察官の中止解散を受くる
際ならんに、水上これ無政府の心
易さは
何人の妨害もなくて、
興に乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せるこの時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現われて、会に中止解散を命じぬ。
図らざりきこの船遊びを
胡乱に思い、恐るべき警官が、水に
潜みてその挙動を
伺い居たらんとは。船中の人々は今を興
闌の時なりければ、
河童を殺せ、なぐり殺せと
犇めき合い、荒立ちしが、
長者の
言に従いて、皆々
穏やかに解散し、
大事に至らざりしこそ幸いなれ。されど
妾の学校はその翌日、時の県令
高崎某より、「
詮議の
次第有之停止候事」、との命を
蒙りたり。詮議の次第とは何事ぞ、その筋に向かいて詰問する所ありしかど
何故か答えなければ、妾の
姉婿某が県会議員常置委員たりしに
頼りてその故を
尋ねしめけるに、理由は妾が自由党員と船遊びを共にしたりというにありて、姉婿さえ
譴責を加えられ、
暫く
謹慎を表する身の上とはなりぬ。
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政府が人権を
蹂躙し、抑圧を
逞しうして
憚らざるはこれにても
明らけし。さては、平常先輩の説く処、
洵にその
所以ありけるよ。かかる私政に服従するの義務
何処にかあらん、この身は女子なれども、
如何でこの
弊制悪法を除かずして
止むべきやと、
妾は怒りに怒り、
りに
りて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都に
出でて有志の士に
謀らばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家を
距る三里ばかりなる親友
山田小竹女の
許より、
明日村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、
切なる招待の状
来れり。そのまま東都に
奔らんにいと
序でよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも
誘いて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に
詣で、
暫く
黙祷して妾が
志を祖先に告げぬ。
初秋のいと
爽やかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に
背き、恩愛厚き父母の
膝下を離れんとする苦しさは、
偲ぶとすれど胸に余りて、
外貌にや表われけん、帰るさの
途上も、母上は妾の挙動を
怪しみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の
御許しこそなけれ母は
御身を片田舎の
埋木となすを惜しむ者、如何で
折角の志を
沮むべき、
安んじて
仔細を語れよと、さりとは慈愛深き
御仰せかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底
御許容なきを知ればなり。かくて
先ず
志士仁人に謀りて学資の
輔助を乞い、しかる上にて遊学の
途に
上らばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし
大和の豪農
土倉庄三郎氏に懇願せんとて、先ずその地を志し
窃かに
出立の用意をなすほどに、自由党解党の議起り、
板垣伯を始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも
下阪し、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機
逸すべからずとて、
遂に母上までも
欺き参らせ、親友の招きに応ずと言い
繕いて、一週間ばかりの
暇を乞い、翌日家の
軒端を立ち
出でぬ。実に明治十七年の
初秋なりき。
友人の家に
著くより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど
兼ての決心なり、明くれば友人の
懇ろに引き止むるをも聴かず、
暇乞いして大阪に向かいぬ。しかるに
妾と室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、
頻りに妾の生地を尋ねつつ
此方の顔のみ注視する
体なるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには
非ざる
乎と、
一旦は少なからず
危ぶめるものから、もと妾の
郷を出づるは
不束ながら日頃の志望を
遂げんとてなり、かの
墻を越えて
奔るなどの
猥りがましき類ならねば、
将た何をか包み
秘さんとて、
頓て東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を
洩らしけるに、さらばその親戚は
誰れ町名番地は
如何になど、
執拗ねく問わるることの
蒼蝿くて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし
乎、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、
倉皇起って事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は
妾の
何人なるかを問い
究むる暇もなく、その人に
牽れて来り見れば、何ぞ
図らん
従妹の妾なりけるに、更に思い寄らぬ
体にて、
何故の東上にや、両親には許可を得たりやなど、
畳みかけて問い出でぬ。
固より承諾を得たりとは、その場合われと心を
欺ける答えなりしが、果ては質問の
箭の堪えがたなく、
最とど苦しき胸を押さえ
額を
擦りて、
眩暈に
托言せ、
委しくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時
漸う大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を
歓び迎え、しかも妾の新来を
訝しうも思えるなるべし。その
夕妾は
遂に藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。
妻は深く同情を寄せくれたり、藤井も共に
尽力せんと誓いぬ。
その翌日直ちに土倉氏を
銀水楼に訪れけるに、氏はいまだ
出阪しおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に
詮様もなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその
寓所に訪れしに、葉石氏は
妾が出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、
懇ろなる教訓を
垂れ給いき。されど妾の一念
翻すべくもあらずと見てか、
強いても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を
陳べよとあるに、妾は
諾いて遂に伯に
謁し、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて
御身が東上の意思を貫徹せしめん、幸いに
邦家のため、人道のために
勉めよとの
御言葉なり。世にも
有難くて
感涙に
咽べるその日、
図らざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、
不肖ながら学資を供せんとの意味を含みし
書翰にてありしかば、天にも昇る心地して
従弟にもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、
倉皇土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を
陳べ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、
一向に東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に
依りて学資をさえ
給せらるるの幸福を無視するは
勿体なしとて、
終に公然東上の希望を
容れたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。
それより
数日を経て、
板伯よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、
御身と同伴の事を頼み置きたり、
直ぐに
来よ紹介せんとの事に、取り
敢えず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし
佐藤貞幹氏にてありければ、
妾はいよいよ安心して、翌日神戸
出帆の船に同乗し、船の初旅も
恙なく
将た横浜よりの汽車の初旅も
障りなく東京に
着して、
兼ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『
自由燈新聞』記者
坂崎斌氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて
築地なる
新栄女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、
傍ら坂崎氏に
就きて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、
一日朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、
端なくも妾の
書窓を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、
外に対しては卑屈これ事とし、国家の
恥辱を
賭して、
偏に一時の栄華を
衒い、百年の
患いを
遺して、ただ一身の
苟安を
冀うに
汲々たる有様を見ては、いとど感情にのみ
奔るの
癖ある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、
遂に
巾幗の身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および
惰民の眠りを
覚しくれでは
已むまじの心となりしこそ
端たなき限りなりしか。
ああかくの如くにして
妾は断然書を
擲つの不幸を
来せるなりけり。当時妾の感情を
洩らせる
一片の
文あり、
素より
狂者の言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、
左に
抜萃することを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の
驕傲を憂うると共に、また
昔時死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を
厭えり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に
抵るまでも
已まざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、
頻りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、
漸くかの私欲私利に
汲々たる帝国主義者の
云為を厭わしめぬ。
ああ学識なくして、
徒に感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は
憂世愛国の
女志士として、人も
容されき、妾も許しき。
姑らく女志士として語らしめよ。
獄中述懐(
明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳)
元来
儂は我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の
陋習に慣れ、
卑々屈々男子の
奴隷たるを
甘んじ、
天賦自由の権利あるを知らず
己れがために
如何なる弊制悪法あるも
恬として意に介せず、一身の小楽に安んじ
錦衣玉食するを以て、人生最大の幸福名誉となす
而已、
豈事体の何物たるを知らんや、いわんや
邦家の
休戚をや。いまだかつて念頭に
懸けざるは、
滔々たる日本婦女皆これにして、あたかも
度外物の如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし
一も顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、
偏に女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、
儂は同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これ
固より儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆
競いて国政に参し、決して国の危急を
余所に見るなく、
己れのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を
誘い、
能く事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよ
切なるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を
厭忌し、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を
注告し、早く立憲の政体を立て、人民をして
政に参せしめざる時は、憂国の余情
溢れて、
如何なる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、
馬耳東風たる
而已ならず憂国の
志士仁人が、誤って
法網に
触れしを、無情にも長く獄窓に
坤吟せしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に
枚挙に
遑あらず。
就中儂の、最も感情を
惹起せしは、新聞、集会、言論の条例を設け、
天賦の三大自由権を
剥奪し、
剰え
儂らの
生来かつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に
奉勅云々の語を付し、
畏れ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶
懊悩の余り、
暫し
数行の
血涙滾々たるを覚え、寒からざるに、
肌に
粟粒を覚ゆる事
数なり。
須臾にして、
惟らくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税
収歛の
酷なるを
怨み、
如何の感を惹起せん、恐るべくも、
積怨の余情溢れて
終に
惨酷比類なき
仏国革命の際の如く、あるいは露国
虚無党の
謀図する如き、
惨憺悲愴の挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを
未萌に
削除せざるを得ずと、
即ち
曩日に政府に向かって忠告したる
所以なり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、
固より現当路者の
旧蹟あるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意に
悖り、
剰え日清談判の如く、
国辱を受くる等の事ある上は、もはや当路者を
顧みるの
遑なし、我が国の危急を
如何せんと、益
政府の改良に熱心したる
所以なり。
儂熟考うるに、今や外交日に開け、
表に
相親睦するの状態なりといえども、
腹中各針を
蓄え、優勝劣敗、弱肉強食、日々に
鷙強の欲を
逞しうし、
頻りに東洋を
蚕食するの
兆あり、しかして、
内我が国外交の状態につき、近く
儂の感ずる処を
拳ぐれば、
曩日に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。
加之、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも
明らけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人も
私かに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、
血涙淋漓、
鉄腸寸断、
石心分裂の思い、愛国の情、
転た切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき
乎、ああこの国辱を
雪がんと欲するの烈士、三千七百万中
一人も非ざる乎、条約改正なき、また
宜なる
哉と、内を思い、
外を想うて、悲哀
転輾、
懊悩に
堪えず。ああ
如何して可ならん、
仮令女子たりといえども、
固より日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、
独り
愁然、苦悶に沈みたりき。
何となれば、他に
謀るの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、
暫く一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、
儂は修業中なるを以て、小林の
寓所を
訪う事も
甚だ
稀なりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書を
擲ちたり。また小林は
予ての持論に、
仮令如何に親密なる
間柄たるも、決して、人の意を
枉げしめて、
己れの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて
満腔の思想を、陳述する者なりと、何事においても、
総てかくの如くなりし。しかるに、
忽ち朝鮮一件より日清の関係となるや、
儂は
曩日に述べし如く、我が国の
安危旦夕に迫れり、
豈読書の時ならんやと、奮然書を
擲ち、先ず小林の処に至り、この際
如何の計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方
言を尽して、
数その心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、
漸く、今回事件の計画中、その
端緒を聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の
素志を果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる
而已との言に
儂は大いに感奮する所あり、
如何にもして、幾分の
金を
調え、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち
不恤緯会社を設立するを名とし、
相模地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用に
充つる
能わず、ただ
有志士の
奔走費位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々
砕心粉骨すといえども、悲しい
哉、処女の身、
如何ぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底
儂の如きは、
金員を以て、男子の万分の一助たらんと欲するも
難しと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段を
謀れり。しかる処、
偶日清も平和に談判
調いたりとの報あり。この報たる実に
儂らのために
頗る凶報なるを以て、やや失望すといえども、
何ぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を
来すも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために
奇貨なるなからん
乎、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を
択び、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるに
如かずと、ここにおいて
檄文を造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に
合力して、
辮髪奴を国外に
放逐し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、
曩日に政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のために
辱めを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する
而已ならず、
一は以て
内政府を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよ
速やかにこの挙あらん事を
渇望し、かつ種々心胆を
砕くといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発する
能わず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。
暫くして、大井は中途にして帰京し、小林
独り
止まりしが、
漸くその尽力により、金額
成就せしを以て、いよいよ
磯山らは渡行の事に決定し、その
発足前に当り、磯山
儂に告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、
彼是間の通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これを
諾す。もっとも儂は、
曩日に東京を
出立するの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと
希図したりしが、当地(大阪)にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、
弥出立というその前日
逃奔し、更にその
潜所を知る
能わず。
故を以て
已むなく
新井代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、
儂に同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と
分袂し、新井と共に渡航の
途に就き、
崎陽に至り、
仁川行の
出帆を待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に
紛紜を生じ、渡航を
拒むの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの
慮りなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際
儂は新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中を
窺うに、堂々たる男子にして、私情を
挟み、公事を
抛たんとするの意あり、しかして
君の
代任を
忌むの
風あり、誠に
邦家のために
歎ずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に
止まる
方好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる
乎、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ
多人数を要せん。わが諸君に対するの義務は、
畢竟一身を
抛擲して、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。
儂この言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、
内事は
総て大井、小林の任ずる所なれば、
敢えて関せず、我は
啻その義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、
全うする者と、
暫し讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、この
行決死せざれば、到底充分
平常希望する処の目的を達する
能わず。かつ儂今回の同行、
偏に通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。
儂今
仮令異国の鬼となるも、
事幸いに
成就せば、
儂平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるに
如かずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の
身腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。
仮令身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士に
譲らんや。かつ
惟らく、
儂は
固より無智無識なり、しかるに今回の
行は、実に大任にして、内は政府の改良を
図るの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を
抛擲するの栄を受く、ああ何ぞ
万死を惜しまんやと、決意する所あり。即ち
崎陽において、小林に贈るの書中にも、
仮令国土を
異にするも、共に国のため、道のために尽し、
輓近東洋に、自由の新境域を
勃興せんと、
暗に永別の書を贈りし
所以なり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情
親子を
棄てて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえども
豈公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、
他なし、
啻愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する
能わず。
空しく
獄裏に
呻吟するの不幸に遭遇し、国の安危を
余所に見る悲しさを、儂
固より愛国の
丹心万死を
軽んず、永く牢獄にあるも、敢えて
怨むの意なしといえども、
啻国恩に
報酬する能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、
転た
潸然たるのみ。ああいずれの日か
儂が素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署において
大阪府警部補 広沢鉄郎 印
かく
冗長なる述懐書を
獄吏に呈して、廻らぬ筆に
仕たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に
奔る青春の人々は、くれぐれも
妾に
観て、
警むる所あれかし、と願うもまた
端たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の
浪に
弄ばれて、深く深く不遇の
淵底に沈み、果ては運命の
測るべからざる
恨みに泣きて、
煩悶遂に死の安慰を得べく覚悟したりしその
後の妾に比して、人格の上の差異
如何ばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の
涙の
禁めがたきを
奈何せん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を
擲たんとしたりしは、
一は名誉の念に
駆られたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時
拙作あり、
愛国丹心万死軽 剣華弾雨亦何驚
誰言巾幗不成事 曾記神功赫々名
これより先
妾は坂崎氏の家にありて、一心勉学の
傍ら、
何とかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、
富井於菟女史と
謀りて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の
途つきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と
齟齬して、富井女史は故郷に帰るの不幸に
遇えり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。
富井於菟女史は
播州竜野の人、
醤油屋に生れ、
一人の兄と
一人の妹とあり。
幼より学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の
丹精して同所の中学校に入れ、やがて業を
卒えて
後、その地の
碩儒に就きて漢学を修め、また
岸田俊子女史の名を聞きて、
一度その家の
学婢たりしかど、同女史より漢学の益を受くる
能わざるを知ると共に、女史が
中島信行氏と結婚の約成りし際なりしかば、
暫時にしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、
絵入自由燈新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に
於菟女史を以て
嚆矢とすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事に
勉めしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、
遂に姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、
万秘密を
厭い善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲
益急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また
如何で
空しく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断を
慨き、心
私かに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気を
興さんとて、坂崎氏には
一片の謝状を
遺して、妾と共に神奈川地方に
奔りぬ。実に明治十八年の春なり。両人神奈川県
荻野町に
着し、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局
醵金して
重井(変名)、
葉石等志士の運動を助けんと
企てしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き
若干を出金せしめんとて、ただ一人帰郷の
途に就きぬ、旅費は両人の衣類を
典して
調えしなりけり。
女史と相別れし
後、
妾は
土倉氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に
貴賤なし、
均しく皆神聖なり、身には
襤褸を
纏うとも心に
錦の美を飾りつつ、
姑らく自活の道を立て、やがて
霹靂一声、世を
轟かす事業を
遂げて見せばやと、ある時は
髪結となり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広き
都に知る人なき心
易さは、なかなかに自活の
業の苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じ
煩いつつ、
居て待たんよりは、むしろ行きて見るに
若かずと、これを葉石氏に
議りしに、心変りならば行くも
詮なし、さなくばおるも消息のなからんやという。
実にさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかと
認めたる一封の書は
来りぬ。見れば
怨めしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に「アアしくじったり誤りたり
取餅桶に
陥りたり
今日はもはや
曩日の
富井にあらず
妹は一死以て
君に謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙の
能く尽す処にあらずただただ二階の一隅に
推しこめられて日々なす事もなく恋しき東の空を
眺め悲哀に胸を
焦すのみ余は記する
能わず幸いに
諒せよ」とあり。
言は簡なれども、事情の大方は
推せられつ。さて何とか救済の道もがなと
千々に心を
砕きけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より
慕い来りける門弟のありしを
対手として日々髪結洗濯の
業をいそしみ、
僅かに
糊口を
凌ぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。
しかるにその年の九月初旬
妾が一室を借り受けたる家の主人は、
朝未明に二階下より妾を呼びて、
景山さん景山さんといと
慌ただし。
暁の夢のいまだ
覚めやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは
現の中に問い
反せしに、女のお客さんがありますという。
何という方ぞと重ねて問えば富井さんと
仰有いますと答う。なに富井さん! 妾は
床を
蹶りて飛び起きたるなり。階段を
奔り
下りるも
夢心地なりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて
抱きつき、
暫しは無言の涙なりき。
懐かしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの
熱苦しき空を、
汗臭く
無下に
汚れたる
浴衣を着して、妙齢の処女のさすがに人目
羞かしげなる
風情にて、
茫然と庭に
佇めるなりけり。さてあるべきに
非ざれば、二階に
扶け
上げて先ず無事を祝し、別れし
後の事ども何くれと
尋ねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、
御身に別れてより、無事郷里に着き、母上
兄妹の
恙なきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は
最と感じ入りたる
体にて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、
遂に調金の事を申し出でしに、
図らざりき感嘆の体と見えしは
妾の
胆太さを
呆れたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、
徐かに沈みたる
底気味わるき調子もて、かかる
大それたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を
未萌に
防がずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの
遣る
瀬なく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、
卑怯にも警察
[#「警察」は底本では「驚察」]に告訴して有志の士を
傷つけんとは、何たる怖ろしき
人非人ぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する
而已と覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事に
与せしは全く妾の心得違いなりき、今こそ
御諭によりて
悔悟したれ、以後は
仰せのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室に
閉じ
籠めの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にも
優りて、
御身のさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。
漸う妹を
賺して、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、
委しき有様を書き
記すべき
暇もなかりき。定めて心変りよと
爪弾きせらるるならんと
口惜しさ悲しさに胸は張り
裂くる思いにて、
夜もおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りて
徐ろに身の振り方を定めんものと今度漸く
出奔の期を得たるなり。そは両三日前妹が
中元の祝いにと、
他より四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを
路費として、
夜半寝巻のままに家を
脱け
出で、これより
耶蘇教に身を
委ね神に
事えて
妾が志を
貫かんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約に
背くの不義を
咎むることなく長く
交誼を許してよという。その情義の
篤き志を知りては、妾も
如何で
感泣の涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売り
恬として顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き
心地ぞや。妾が
敬慕の念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日
女梁山泊を以て任ずる妾の寓所にて
種々と話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れに
臨みてお互いに尽す道は
異なれども、必ず初志を
貫きて早晩自由の新天地に握手せんと言い
交わし、またの会合を約してさらばとばかり
袂を
分ちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知る
由なかりき。
[#改ページ]
ある日同志なる
石塚重平氏
来り、渡韓の準備
整いたれば、
御身をも具するはずなりとて、その理由およびそれについての方法等を説き明かされぬ。
固より信ずる所に
捧げたる身の
如何でかは
躊躇うべき、直ちにその用意に取りかかりけるに、かの友愛の心厚き
中田光子は、
妾の常ならぬ挙動を察してその
仔細を知りたげなる模様なりき。されど彼女に
禍を及ぼさんは本意なしと思いければ、石塚重平氏に
托して彼に勉学を
勧めさせ、また
於菟女史に書を送りて今回の渡航を告げ、
後事を托し、これにて思い残す事なしと、心静かに渡韓の
途に
上りけるは、明治十八年の十月なり。
同伴者は
新井章吾、
稲垣示の両氏なりしが、壮士連の中には、三々五々
赤毛布にくるまりつつ船中に寝転ぶ者あるを見たりき。同伴者は皆互いに見知らぬ
風を
装えるなり、その退屈さと心配さとはなかなか筆紙に尽しがたし。妾がこの行に加わりしは、爆発物の運搬に際し、婦人の携帯品として、他の注目を避くることに決したるより、
乃ち
妾をして携帯の任に当らしめたるなり。かくて妾は爆発物の原料たる薬品
悉皆を磯山の手より受け取り、
支那鞄に入れて普通の手荷物の如くに装い、始終
傍らに置きて、ある時はこれを枕に、
仮寝の夢を
貪りたりしが、やがて大阪に着しければ、
安藤久次郎氏の宅にて同志の人を呼び
窃かに包み替えんとするほどに、
金硫黄という薬の少し
湿りたるを発見せしかば、
鑵より取り出して、
暫し
乾さんとせしに、空気に
触るるや否や、一面に青き火となり、今や大事に至らんとせしを、安藤氏来りて、直ちに消し止めたり、
遉がは多年薬剤を研究し薬剤師の免状を得て、その当時
薬舗を営み居たる
甲斐ありと人々皆氏を称讃したりき。さりながら今より思い合わすれば、
如何に
盲目蛇物に
怖じずとはいいながら、かかる危険
極まれる薬品を枕にして
能くも安々と
睡り得しことよと、身の毛を
逆竪つばかりなり。
殊に
神戸停車場にて、この
鞄を
秤にかけし時の如き、中にてがらがらと音のしたるを駅員らの怪しみて、これは
如何なる品物なりやと問われしに傷持つ足の、ハッと驚きしかど、さあらぬ
体にて、田舎への
土産にとて、小供の
玩具を入れ置きたるに、車の揺れの余りに
烈しかりしため、かく
壊されしことの口惜しさよと、わざわざ振り試みるに、駅夫も
首肯きて、
強いては開き見んともせざりき。今にして当時を顧みれば、なお
冷汗の背を
湿おすを覚ゆるぞかし、安藤氏は
代々薬屋にて、当時熱心なる自由党員なりしが、今は内務省
検疫官として
頗る
精励の聞えあるよし。先年
板垣伯の内務大臣たりし時、多年国事に
奔走せし功を
愛でられてか内務省の高等官となり、
爾来内閣の
幾変遷を
経つつも、専門技術の素養ある
甲斐には、他の無能の
豪傑連とその
撰を
異にし、当局者のために
頗る調法がられおるとなん。
大阪なる安藤氏の宅に
寓居すること
数日にして、
妾は八軒屋という
船付きの宿屋に
居を移し、ひたすらに渡韓の日を待ちたりしに、
一日磯山より
葉石の
来阪を報じ
来り急ぎその旅寓に来れよとの事に、何事かと
訝りつつも行きて見れば、同志ら今や
酒宴の
半ばにて、
酌に
侍せる
妓のいと
艶めかしうそうどき立ちたり。かかる
会合に加わりし事なき
身の
如何にしてよからんかとただ恐縮の
外はなかりき。さるにても、同志は
如何様の余裕ありて、かくは
豪奢を尽すにかあらん、ここぞ
詰問の試みどころと、葉石氏に向かい
今日の宴会は妾ほとほとその心を得ず、磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合せなるべしと思い
測れるには似もやらず、
痴呆の振舞、目にするだに
汚らわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、他の血気の壮士らが、
遊廓通いの
外に余念なきこそ道理なれ、さりとては
歎かわしさの
極みなるかな。かかる席に
列なりては、
口利くだに
慚ずかしきものを、いざさらば帰るべしとて、思うままに言い
罵り、やおら
畳を
蹶立てて帰り去りぬ。こはかかる有様を見せしめなば妾の所感
如何あらんとて、磯山が
好奇にも
特に妾を呼びしなりしに、妾の怒り思いの
外なりしかば、同志はいうも
更なり、
絃妓らまでも、
衷心大いに
愧ずる所あり、一座
白け渡りて、そこそこ宴を終りしとぞ。
それより
数日にして爆発物も出来上りたり、いよいよ出立という前の日、磯山の所在分らずなりぬ。しかるにその
甥なる
田崎某妾に向かいて、ある遊廓に
潜めるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、
待合の
女将出で来りて、あらずと弁ず。
好し
他の人にはさも答えよ、妾は磯山が
股肱の者なり、この家に磯山のあるを知り、急用ありて来れるものを、磯山にして妾と知らば、必ず
匿れざるべしと
重ねて述べしに、女将
首肯きて、「それは誠にすみまへんが、
何誰がおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、おかくしもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんは
女はんじゃ、さかい、おこりはりゃ、しまへんじゃろ」とて、妾を奥の奥のずーッと奥の
愛妓八重と差し向かえる魔室に
導きぬ。彼は
素より
女将に厳命せし事のかくも
容易すく破れんとは知るよしもなく、人のけはいをばただ女将とのみ思いなせりしに、
図らずも妾の顔の
顕われしを見ては、
如何で
慌てふためかざらん。されど妾は先日の如き殺風景を繰り返すを好まず、かえって彼に同情を寄せ、ともかくもなだめ
賺して新井、葉石に面会せしむるには
如かずとて、
種々と
言辞を設け、ようよう魔室より
誘い出して
腕車に
載せ、共に葉石の寓居に向かいしに、途中にて同志の家を
尋ね、その人をも
伴わんという。
詐りとは思いも寄らねば、その心に任せけるに、さても世には
卑怯の男もあるものかな、彼はそのまま
奔竄して、
遂に
行衛を
晦ましたり。彼が持ち逃げせる金の内には
大功は
細瑾を顧みずちょう豪語を
楯となせる神奈川県の志士が、郡役所の徴税を
掠めんとして失敗し、更に財産家に押し入りて大義のためにその良心を
欺きつつ、
強いて
工面せる金も混じりしぞや。しかるに彼はこの志士が血の涙の金を
私費して
淫楽に
耽り、公道正義を
無視して、一遊妓の
甘心を買う、何たる
烏滸の
白徒ぞ。
宜なる
哉、
縲絏の
辱めを受けて獄中にあるや、同志よりは背徳者として
擯斥せられ、牢獄の役員にも
嗤笑せられて、やがて公判開廷の時ある壮士のために傷つけられぬ。因果応報の恐るべきをば、彼もその時思い知りたりしなるべし。
かくて磯山は
奔竄しぬ、同志の軍用金は
攫われたり。差し当りて
其処此処に宿泊せしめ置きたる壮士の手当てを
如何にせんとの先決問題起り、直ちに東都に打電したる上、石塚氏を使いとしてその状を
具陳せしめ、ひたすらに
重井の
来阪を
促しけるに、
頓て来りて善後策を
整え、また帰京して金策に従事したり。その間壮士らの宿料をば、無理算段して
埋め合せ、
辛うじて無銭宿泊の難を
免れたれども、さて今後幾日を
経ば調金の見込み立つべきや否や、
将た
如何にしてその間を切り抜くべきや。むしろ一家を借り受けて二、三十人の壮士を一団となし置くこそ上策なれとの説も出でしが、かくては警察の目を免れ得じとて、
妾の
発意にて
山本憲氏に
議り、同氏の塾生として一家を借り受け、これをば
梅清処塾の分室と称しぬ。それより妾は
俄に世話女房気取りとなり、
一人の同志を伴いて、台所道具や種々の家具を求め来り、
自炊に慣れし壮士をして、代る代る炊事を
執らしめ、表面は読書に余念なきが如くに
装わせつつ、同志
窃かに
此処に
集いては第二の計画を建て、磯山
逃奔すとも
争で志士の志の屈すべきや、一日も早く渡韓費を
調えて出立の準備をなすに
如かずと、日夜
肝胆を
砕くこと十数日、血気の壮士らのやや
倦厭の状あるを察しければ、ある時は珍しき
肴を
携えて、彼らを
訪い、ある時は妾炊事を自らして婦女の天職を
味わい、あるいは
味噌漉を
提げて
豆腐屋に
通い、またある時は米屋の借金のいい
訳は婦人に限るなど、
唆かされて
詫びに行き、存外
口籠りて赤面したる事もあり。
凡そ大阪にて無一文の時二、三十人の壮士をして無賃宿泊の訴えを免れしめ、
梅清処塾の書生として事なく三週間ばかりを消過せしめしは男子よりはむしろ妾の力
与りて功ありしならんと信ず。今日に至るも妾はこの計画の
能くその当を得たるを自覚し、折々語り出でては友人間に誇る事ぞかし。もし妾にして富豪の家に生れ
窮苦の何物たるを知らざらしめば、
十九や
二十歳の身の、
如何でかかる
細事に心留むべきぞ、幸いにして
貧窶の
中に
成長り、なお遊学中独立の覚悟を定め居たればこそ、かかる苦策も
咄嗟の
間には出でたるなれ。己れ炊事を
親らするの覚悟なくば
彼の豪壮なる壮士の
輩のいかで
賤業を
諾わん、私利私欲を
棄ててこそ、
鬼神をも服従せしむべきなりけれ。
妾をして常にこの心を失わざらしめば、
不束ながらも大きなる過失は、なかりしならんに、
志薄く行い弱くして、
竜頭蛇尾に終りたること、わが身ながら
腑甲斐なくて、
口惜しさの限り知られず。
右の如き、
窮厄におりながら、いわゆる
喉元過ぎて、熱さを忘るるの
慣い、
憂たてや血気の壮士は言うも
更なり、
重井、
葉石、
新井、
稲垣の諸氏までも、この
艱難を
余所にして金が
調えりといいては
青楼に登り
絃妓を
擁しぬ。かかる時には、妾はいつも一人ぽっちにて、宿屋の一室に
端座し、過去を思い、現在を
慮りて、深き憂いに沈み、婦女の身の
最とど
果敢なきを感じて、つまらぬ
愚痴に同志を
恨むの念も起りたりしが、
復た思いかえして、妾は彼らのために身を尽さんとには
非ず、国のため、同胞のためなれば、などか中途にして
挫折すべき、アア富井女史だにあらばなどと、またしても
遣る
瀬なき思いに
悶えて、ある時
詠み出でし
腰折一首
かくまでに濁るもうしや飛鳥川
そも源をただせ汲む人
愁いの糸のいとど払いがたかりしある日の事なり、八軒屋の旅宿にありて、ただ一人二階なる居間の
障子を打ち開き、階下に
集える
塵取船を
眺めたりしに、女乞食の二、三歳なる小供を負いたるが、
頻りに
塵の中より
紙屑を拾い出し、これをば
籠に入れ居たり。背なる小供は母の背に
屈まりたるに、胸を押されて、その苦しさに堪えずやありけん、今にも
窒息せんばかりなる声を出して、泣き叫びけれども、母は聞えぬ
体にて、なお余念なく
漁り尽し、果ては
魚の
腹腸、鳥の
臓腑様の物など拾い取りてこれを洗い、また料理する
様のいじらしさに、妾は思わず歎息して、アアさても人の世はかばかり悲惨のものなりけるか、妾貧しけれども、なおこの乞食には
優るべし、思えば気の毒の母よ子よと
惻隠の心
禁めがたくて、覚えず階上より声をかけつつ、妾には当時大金なりける五十銭紙幣に
重錘をつけて投げ与えけるに、彼女は何物が天より
降り来りしとように驚きつつ、拾いとりてまた
暫し
躊躇いたり。妾は
重ねて、それを小供に与えよと言いけるに、始めて
安堵したるらしく、
幾度か押し
戴くさまの見るに堪えず、障子をしめて
中に入り、
暫くして外出せんとしたるに、宿の主婦は
訝りつつ、「あんたはんじゃおまへんか
先刻女の乞食にお金をやりはったのは」という。さなりと妾は
首肯きたるに、「いんまさき小供を
負ぶって、涙を流しながら、ここの女のお客はんが裏の二階からおぜぜを投げてくだはったさかい、ちょっとお礼に出ました、お名前を聞かしてくれといいましたが、乞食にお名まえを聞かす事かいと思いましたさかいに、ただ伝えてやろと申してかえしました、まあとんだ
御散財でおました」という。慈善は人のためならず、妾は近頃になく心の
清々しさを感ぜしものから、
譬えば
眼を過ぐる
雲煙の、再び思いも浮べざりしに、
図らずも
他日この女乞食と、思い
儲けぬ処に
邂逅いて、小説らしき
一場の物語とは成りたるよ。ついでなれば
記し付くべし。
その年の十二月大事発覚して、長崎の旅舎に捕われ、転じて大阪(中の島)の監獄に
幽せらるるや、国事犯者として、普通の罪人よりも優待せられ、未決中は、
伝告者即ち女監の頭領となりて、初犯者および未成年者を収容する
監倉を
司ることとなりぬ。
依りて初犯者をば改化
遷善の道に
赴かしむるよう誘導の労を
執り、また未成年者には読書習字を教えなどして、獄中ながらこれらの者より先生先生と
敬われつつ、未決中無事に三年を打ち過ぎしほどなれば、その
間随分種々の罪人に
遇いしが、その罪人の中にはまたかかる好人物もあるなり、かかる処にてかかる
看板を附けおらざりせば、
誰かはこれをさるものと思うべき。世にはこれよりも更に
大なる悪、大なる罪を犯しながら白昼大手を振りて、
大道を
濶歩する者も多かるに、
大を
遺れて
小を拾う、何たる片手落ちの処置ぞやなど感ぜし事も
数なりき。
穴賢、この感情は、
一度入獄の苦を
嘗めし人ならでは語るに足らず、語るも耳を
掩わんのみ。かくて
妾は世の人より大罪人大悪人と呼ばるる
無頼の婦女子と室を同じうし、
起臥飲食を共にして、ある時はその親ともなり、ある時はその友ともなりて互いに
睦み合うほどに、彼らの妾を敬慕すること、かのいわゆる
娑婆における学校教師と子弟との情は物かは、
倶にこの小天地に落ちぬるちょう同情同感の力もて、
能く相一致せる真情は、これを肉身に求めてなお得がたき思いなりき。かかるほどに、獄中常に
自ずからの春ありて、
靄然たる
和気の立ち
籠めし翌年四、五月の頃と覚ゆ、ある日看守は例の如く
監倉の
鍵を鳴らして来り、それ
新入があるぞといいつつ、一人の
垢染みたる二十五、六の婦人を引きて、今や監倉の戸を開かんとせし時、婦人は監外より妾の顔を一目見て、物をもいわず、わっとばかりに泣き出しけり。
何故とは知るよしもなけれど、ただこの監獄の
様の
厳めしう、
怖ろしきに心
怯えて、かつはこれよりの苦を
偲び出でしにやあらんなど、
大方に
推し
測りて、心
私かに同情の涙を
湛えしに、婦人はやがて妾に向かいて、あなた様には
御覚えなきか知らねど、私はかつて一日とてもあなた様を思い忘れしことなし。
御顔も
能く覚えたり。あなた様は、先年八軒屋の宿屋にて、女乞食に金員を恵まれし事あるべし、その時の女乞食こそは私なれ、何の
因縁にてか、再びかかる処にて
御目にはかかりたるぞ、これも
良人や小供の引き合せにて私の罪を
悔いさせ、あなた様に先年の
御礼を申し上げよとの事ならん。あなた様が
憐れみて五十銭を恵み給いし小供は、悪性の
疱瘡にかかり、一週間前に世を去りぬ、
今日はその
一七日なれば線香なりと
手向けやらんと、その
病の伝染して顔もまだこの通りの
様ながら
紙屑拾いに
出でたるに、病後の身の遠くへは
得も行かれず、
籠の物も
殖えざれば、これでは線香どころか、一度の食事さえ
覚束なしと、
悶え苦しみつつふと見れば、
人気なき処に着物
乾したる家あり。背に腹は
換えられず、つい道ならぬ欲に迷いしために、
忽ち
覿面の
天罰受けて、かくも見苦しき有様となり、
御目にかかりしことの恥かしさよと、
生体なきまで泣き沈み、
御恵みに
与りし時は、
病床にありし
良人へも委細を語りて、これも天の
御加護ならんと、薬も買いぬ、小供に菓子も
買うて
遣りぬ、親子三人久し振りにて笑い顔をも見せ合いしに、良人の
病はなお
重り行きて、
敢えなき
最期、弱る心を
励まして、私は小供
対手にやはり紙屑拾いをばその日の
業となしたりしに、
天道さまも聞えませぬ、貧乏こそすれ、
露いささか
悪しき道には踏み込まざりし
私母子に病を
降して、
遂に最愛の者を奪い、かかる始末に至らしむるとは、何たる無情のなされ
方ぞなど、
果しもなき涙に
掻き暮れぬ。妾は既にその奇遇に驚き、またこの憐れなる人の身の上に泣きてありしが、かくてあるべきならねば、
他の囚徒と共にいろいろと慰めつつ、この上は一日も早く出獄して
良人や子供の
菩提を
弔い給えなど力を添えつ。一週間ばかりにして彼は既決に編入せられぬ。されどひたすらに妾との別れを悲しみ、
娑婆に出でて再び
餓に泣かんよりは、今少し重き罪を犯し、いつまでもあなた様のお
側にてお世話になりたしなど、心も狂おしう打ち
歎つなりき。
実にや人の世の苦しさは、この心弱き者をして、なかなかに監倉の苦を甘んぜしめんとするなり、これをしも誰か悲惨ならずとはいうや。当局者は
能く罪を罰するを知れり、乞い問う、罪を
贖い得たる者を救助するの法ありや、再び
饑餓の前に
晒して、むしろ監獄の楽しみを想わしむることなきを
保し得るや。
これより先、
重井らは、東京にての金策
成就し、渡韓の費用を得たるをもて、直ちに稲垣と共に
下阪してそが準備を
調え、
梅清処塾にありし壮士は早や三々五々渡韓の
途に
上りぬ。妾は古井、稲垣両氏と長崎に至る約にてその用意を取り急ぎおりしに、出立の一両日前、重井、葉石、古井の三氏および今回出資せる
越中富山の米相場師某ら稲垣と共に新町遊廓に豪遊を試み、妾も
図らずその席に招かれぬ。
志士仁人もまたかかる醜態を演じて、しかも
交誼を厚うする方便なりというか、大事の前に小欲を捨つる
能わず、前途近からざるの事業を控えて、
嚢底多からざるの資金を
濫費す、妾の不満と心痛とは、妾を引いて早くも失望の
淵に立たしめんとはしたり。出立の日
重井の発言によりて
大鯰の料理を命じ、
私かに大官吏を暗殺して内外の福利を進めんことを祝しぬ。かくて午後七時頃神戸行きの船に
搭ぜしは古井、稲垣および妾の三人なりき。瀬戸内の波いと穏やかに
馬関に着きしに、当時大阪に流行病あり、
漸く
蔓延の
兆ありしかば、ここにも
検疫の事行われ、一行の着物は
愚か荷物も所持の品々も
悉く消毒所に送られぬ。消毒の方法は
硫黄にて
燻べるなりとぞ、さてはと三人顔を見合すべき処なれど、初めより他の注目を恐れてただ乗合の如くに
装いたれば、
他の
雑沓に
紛れて
咄嗟の間にそれとなく言葉を交え、爆発物は妾の所持品にせんといいたるに、
否拙者の所持品となさん、もし発覚せばそれまでなり、
潔く
縛に
就かんのみ、
構えて同伴者たることを
看破せらるる
勿れと古井氏はいう。決心動かしがたしと見えたれば妾も
否み兼ねて
終に同氏の手荷物となし、それより港に
上りて、消毒の間
唯ある料理店に登り、三人それぞれに
晩餐を命じけれども、心ここにあらざれば
如何なる美味も
喉を
下らず、今や
捕吏の来らんか、今や爆発の
響聞えん
乎と、三十分がほどを
千日とも待ち
詫びつ、やがて一時間ばかりを
経て宿屋の
若僕三人の荷物を肩に帰り来りぬ。再生の思いとはこの時の事なるべし。消毒終りて、衣類も己れの物と着換え、それより長崎行の船に乗りて名に高き
玄海灘の波を破り、無事長崎に着きたるは十一月の下旬なり。
ここにて朝鮮行の出船を待つほどに、ある日無名氏より「荷物
濡れた東に帰れ」との電報あり。もし渡韓の際政府の注目
甚だしく、大事発露の恐れありと認むる時は、誰よりなりとも「荷物濡れた」の暗号電報を発して、互いに警告すべしとは、かつて磯山らと約しおきたる所なりき。さては磯山の潜伏中大事発覚してかくは警戒し来れるにや、あるいは磯山自ら
卑怯にも
逃奔せし
恥辱を
糊塗せんために、かくは
姑息の
籌を
運らして我らの行を
妨げ、あわよくば
縛に就かしめんと
謀りしには
非ざる
乎と種々評議を
凝せしかど、
終に要領を得ず、東京に打電して
重井に
質さんか、出船の期の迫りし今日そもまた真意を知りがたからん、とかくは打ち棄てて顧みず、向かうべき
方に進まんのみと、古井より
他の壮士にこの
旨を伝えしに、彼らの
中には古井が磯山に代りしを
忌むの
風ありて議
諧わず、やや不調和の気味ありければ、かかる人々は
潔く帰東せしむべし、何ぞ
多人数を要せん、われは万人に敵する利器を有せり、敢えて男子に譲らんやと、古井に同意を表して稲垣をば東京に帰らしめ、決死の壮士十数名を
率いて渡韓する事に決しぬ。これにて妾も心安く、一日長崎の公園に遊びて有名なる丸山など見物し、帰途
勧工場に入りて
筆紙墨を買い
調え、
薄暮旅宿に帰りけるに、稲垣はあらずして、古井
独り何か
憂悶の
体なりしが、妾の帰れるを見て、共に晩餐を
喫しつつ、
午刻のほどより丸山に
赴ける稲垣の今に至りてなお帰らず、彼は一行の渡航費を持ちて行きたるなれば、その帰るまではわれら
一歩も
他に移す
能わず、
特に差し当りて佐賀に至り、
江藤新作氏に面したき要件の出来たるに、早く帰宿してくれずやという。その夜十時頃までも稲垣は帰り来らず、もはや
詮方なしとて、それぞれ
臥床に入りしが、妾は渡韓の期も、既に
今明日に迫りたり、いざさらば今回の拳につきて、決心の事情を
葉石に申し送り、
遺憾の念なき旨を表し置かんと、独り燈下に
細書を
認め、ようよう十二時頃書き終りて、今や
寝に就かんとするほど、稲垣は帰り来りぬ。
古井は直ちに起きて佐賀へ出立の用意を急ぎ、真夜中宿を立ち出でたり。残るは稲垣と妾とのみ、稲垣は遊び疲れの出でたればにや、横になるより
快く
睡りけるが、妾は
一度渡韓せば、生きて再び
故国の土を踏むべきに
非ず、彼ら同志にして、果して遊廓に遊ばんほどの
余資あらば、これをば借りて、
途すがら郷里に立ち寄り、
切めては父母
兄弟に
余所ながらの
暇乞いもなすべかりしになど、様々の思いに
耽りて、睡るとにはあらぬ
現心に、何か騒がしき物音を感じぬ。
何気なく
閉じたる目を見開けば、こはそも
如何に警部巡査ら十数名手に手に警察の
提燈振り照らしつつ、われらが城壁と
恃める室内に
闖入したるなりけり。アナヤと驚き
起たんとすれば、宿屋の主人来りて、旅客
検なりという。さてこそ大事去りたれと、覚悟はしたれど、これ妾
一人の身の上ならねば、出来得る限りは言いぬけんと、巡査の問いに答えて、更に何事をも解せざる
様を装い、ただ稲垣と同伴せる
旨をいいしに、警部は
首肯きて、稲垣には
縄をかけ、妾をば別に
咎めざるべき模様なりしに、
宵のほど
認め置きし葉石への
手書の、寝床の内より現われしこそ口惜しかりしか。警部の
温顔俄に
厳めしうなりて、この者をも
拘引せよと
犇くに、巡査は承りてともかくも警察に来るべし、寒くなきよう
支度せよなどなお情けらしう注意するなりき。
抗うべき
術もなくて、言わるるままに持ち合せの衣類取り出し、あるほどの者を巻きつくれば、身はごろごろと
芋虫の如くになりて、
頓て巡査に
伴われ行く
途上の歩みの息苦しかりしよ。警察署に着くや否や、先ず国事
探偵より種々の質問を受けしが、その口振りによりて昼のほど公園に遊び帰途
勧工場に立ち寄りて
筆紙墨を買いたりし事まで既に残りのう探り尽されたるを知り、従ってわれらがなお安全と夢みたりしその前々日より大事は早くも破れ居たりしことを
覚りぬ。
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訊問卒えて
後、拘留所に留置せられしが、その
監倉こそは、実に演劇にて見たりし
牢屋の
体にて、
妾の入牢せしはあたかも午前三時頃なりけり。世の物音の沈み果てたる真夜中に、牢の入口なる
閂の取り
外さるる
響いとど
怪しう
凄まじさは、さすがに覚悟せる妾をして身の毛の
逆竪つまでに怖れしめ、
生来心臓の力弱き妾は
忽ち
心悸の
昂進を支え得ず、鼓動乱れて、今にも
窒息せんず思いなるを、警官は
容赦なく
窃盗同様に
待遇らいつつ、この内に
這入れとばかり妾を
真暗闇の室内に突き入れて、また
閂を
鎖し固めたり。何たる無情ぞ、
好しこのままに死なば死ね、
争でかかる無法の制裁に甘んじ得んや。となかなかに涙も出でず、
素より女ながら一死を
賭して、
暴虐なる政府に抗せんと志したる
妾、勝てば官軍
敗くれば
賊と昔より相場の
極れるを、虐待の、無情のと、今更の如く
愚痴をこぼせしことの恥かしさよと、それよりは心を静め思いを転じて、
生ながら死せる気になり、
万感を排除する事に
勉めしかば宿屋よりも獄中の夢安く、翌朝
目覚めしは他の監房にて既に食事の
済みし頃なりき。
先にここに入りし際は、穴のように思いしに、夜明けて見れば
天井高く、なかなか首をつるべきかかりもなし。窓はほんの
光線取りにして、鉄の棒を
廻らし
如何なる
剛力の者来ればとて、
破牢など思いも寄らぬ
体、いと堅牢なり。水を乞うて、
手水をつかえば、やがて
小さき窓より朝の物を差し入れられぬ。到底
喉を
下るまじと思いしに、案外にも
味わい
旨くて瞬間に
喫べ尽しつ、われながら
胆太きに
呆れたり。食事終りて牢内を歩むに、ふと厚き板の間の
隙より、
床下の見ゆるに心付き、試みに
眸を
凝らせば、アア
其処に我が同志の
赤毛布を
纏いつつ、同じく散歩するが見えたり。妾と相隣りて入牢せるは、
内藤六四郎氏の声なり。稲垣、古井はいずれの獄に拘留せられしにやあらん。地獄の
裡に
堕ちながら、慣るるにつれて、身の
苦艱の薄らぐままに、ひたすら想い出でらるるは、故郷の父母さては東京、大阪の有志が上なり、一念ここに及ぶごとに熱涙の
迸るを覚ゆるなりき。
翌朝食事終りて
後、訊問所に引き
出されて、住所、職業、身分、年齢、
出生の地の事ども訊問せられ、
遂にこの
度当地に来りし理由を
質されて、ただ漫遊なりと答えけるに、かく
汝らを
拘引するは、
確乎たる
見込ありての事なり、未練らしう包み隠さずして、
有休に申し立ててこそ汝らが
平生の振舞にも似合わしけれとありければ、
尤もの事と思い、
終に述懐書にあるが如き意見にて大事に
与せる事を申し立てぬ。
警察署にての
訊問果てし
後、大阪に護送せらるることとなり、
夜の八、九時頃にやありけん、
珠数繋ぎにて警察の門を出でたり。
迅きようにても女の足の
後れがちにて、途中は左右の
腰縄に引き
摺られつつ、
辛うじて
波止場に到り、それより船に移し入れらる。巡査の護衛せるを見て、乗客は
胆をつぶしたらんが如く、
眼を
円らにして、
殊に女の身の
妾を
視る。良心に恥ずる所なしとはいいながら、何とやら、
面伏せにて同志とすら言葉を
交すべき勇気も
失せ、穴へも入りたかりし一昼夜を過ぎて、
漸く神戸に着く。例の如く諸所の旅舎より番頭小僧ども乗り込み来りて、「ヘイ
蓬莱屋で
御座い、ヘイ西村で御座い」と呼びつつ、手に手に屋号の
提燈をひらめかし、われらに向かいて
頻りに宿泊を勧めたるが、ふと巡査の護衛するを見、また腰縄のつけるに
一驚を
喫して、あきれ顔に口を
噤めるも
可笑しく、かつは世の人の心の
様も見え
透きて、言うばかりなく浅まし。
その夜は大阪府警察署の
拘留場に入りたるに、船中の疲労やら、心痛やらにて
心地悪しく、
最とど苦悶を感じおりしに、妾を護衛せる巡査は両人にて、一人は五十未満、他は二十五、六歳ばかりなるが、いと気の毒がり、女なればとて
特に拘留所を設け、
其処に入れて
懇ろに
介抱しくれたり。当所に来りてよりは、長崎なる拘留所の、いと
凄まじかりしに引き換え、
総てわが家の座敷牢などに入れられしほどの待遇にて、この両人の内、代る代る護衛しながら常に妾と雑話をなし、また食事の折々は暖かき料理をこしらえては妾に
侑める
抔、
万に親切なりけるが、約二週間を経て中の島監獄へ送られし
後も国事犯者を以て遇せられ、その待遇長崎の
厳酷なりし比に非ず。長崎警察署の
不仁なる、人を
視る事
宛然犬猫なりしかば、一時は非常に憤慨せしも
昔徳川幕府が維新の
鴻業に
与りて力ある志士を
虐待せし例を思い浮べ、深く思い
諦めたりしが、今大阪にては、
有繋に通常罪人を以て遇せず言葉も
丁寧に監守長の如きも時々見廻りて、
特に談話をなすを喜び、中には用もなきに話しかけては、ひたすら妾の意を迎えんとせし看守もありけり。
ここにおかしきは妾と室を共にせる眉目
麗しき
一婦人あり、天性
賤しからずして、
頻りに読書習字の教えを求むるままに、妾もその志に
愛でて
何角教え導きけるに、彼はいよいよ妾を
敬い、妾はまた彼を愛して、
果は互いに思い思われ、妾の入浴するごとに彼は来りて
垢を流しくれ、また夜に
入れば
床を同じうして
寒天に
凍るばかりの
蒲団をば体温にて暖め、なお妾と互い違いに
臥して妾の
両足をば自分の両
腋下に
夾み、
如何なる
寒気もこの
隙に入ることなからしめたる、その真心の有りがたさ。この婦人は大阪の生れにて先祖は相当に暮したる人なりしが、親の
代に至りて
家道俄に
衰え、婦人は当地の慣習とて、ある紳士の外妾となりしに、その紳士は太く短こう世を渡らんと心掛くる強盗の
兇漢なりしかば、その外妾となれるこの婦人も定めてこの情を知りつらんとの嫌疑を受けつ、既に一年有余の
永き日をば
徒に未決監に送り来れる者なりとよ。この事情を聞きて、妾は同情の念とどめがたく、典獄の巡回あるごとに、その状を具陳して、婦人のために
寃枉を訴えけるに、その
効なりしや
否やは知らねど、妾が三重県に移りける
後、婦人は果して無罪の宣告を受けたりとの
吉報を耳にしき。しかるにかくこの婦人と相親しめりし事の、意外にも奇怪
千万なる
寃罪の因となりて、一時妾と彼女と引き離されし
滑稽談あり、当時の監獄の真相を
審らかにするの一例ともなるべければ、今その大概を記して、
大方の参考に供せん。
妾が彼女を愛し、彼女が妾を
敬慕せるは
上に述べたるが如き事情なり。世には
淫猥無頼の婦人多かるに、
独り彼女の境遇のいと悲惨なるを
憐れむの余り、妾の同情も自然彼女に集中して、
宛然親の子に対するが如き有様なりしかど、あたかも同じ年頃の、親子といいがたきは
勿論、また兄弟姉妹の間柄とも異なりて、
他所目には
如何に見えけん、当時妾はひたすらに虚栄心功名心にあくがれつつ、「ジャンダーク」を理想の人とし
露西亜の虚無党をば
無二の味方と心得たる頃なれば、
両人の
交情の如何に
他所目には見ゆるとも、妾の
与り知らざる所、
将た、知らんとも思わざりし所なりき。妾はただ彼女の親切に感じ自分も出来得る限り彼に教えて彼の親切に
報いんことを
勉めけるに、ある日看守来りて、突然彼女に向かい所持品を持ち監外に
出でよという。さては無罪の宣告ありて、今日こそ放免せらるるならめ、何にもせよ嬉しきことよと、喜ぶにつけて別れの悲しく、互いに
暗涙に
咽びけるに、さはなくて彼女は妾らの室を
隔つる、
二間ばかりの室に移されしなりき。彼女の驚きは妾と同じく余りの事に涙も出でず、当局者の無法もほどこそあれと、腹立たしきよりは先ず
呆れられて、更に
何故とも
解きかねたる折から、
他の看守来りて妾に向かい、「
景山さん今夜からさぞ
淋しかろう」と
冷笑う。妾は何の意味とも知らず、今夜どころか、
只今より淋しくて悲しくて心細さの
遣る
瀬なき
旨を答え、何故なればかく無情の処置をなし改化
遷善の道を
遮り給うぞ、監獄署の処置余りといえば奇怪なるに、署長の巡回あらん時、
徐ろに質問すべき事こそあれと、
予めその願意を通じ置きしに、看守は
莞然笑いながら、
細君を離したら、困るであろう悲しいだろうと、またしても
揶揄うなりき。その
語気の人もなげなるが口惜しくて、われにもあらず
怫然として
憤りしが、なお彼らが想像せる
寃罪には心付くべくもあらずして、実に監獄は罪人を改心せしむるとよりは、罪人を一層悪に導く処なりと
罵りしに、彼は
僅かに苦笑して、とかくは自分の胸に問うべしと答えぬ。妾は益
気昂りて自分の胸に問えとは、妾に何か失策のありしにや、罪あらば聞かまほし、親しみ深き彼女を遠ざけられし理由聞かまほし、と迫りけれども、
平生悪人をのみ取り扱うに慣れたる看守どもの、
一図に何か誤解せる有様にて、妾の言葉には耳だも
仮さず、いよいよ
嘲り
気味に打ち笑いつつ立ち去りたれば、妾は署長の巡廻を待って、
具にこの状を語り妾の罪を確かめんと思いおりしに、彼女も
他の監房に転じたる悲しさに、
慎み深き日頃のたしなみをも忘れて、看守の影の遠ざかれるごとに、先生先生
何故にかく
離隔せられしにや、何とぞ早くその故を
質して始めの如く同室に入らしめよと、打ち
喞つに、
素より署長の巡廻だにあらば、直ちに
愁訴して、互いの志を達すべし、
暫く忍びがたきを忍べかしなど慰めたることの
幾度なりしか。
囚人より署長に直訴するは、ほとんど破格の事として許しがたき無礼の振舞に
算えらるる
由なるも、
妾は少しもその事を知らず、ある日巡廻し来れる署長を呼び止めしに、署長も意外の感ありしものの如くなりしが、
他の罪人と同一ならぬ理由を以て妾の直訴を聞き取り、更に意外の感ありし様子にて、彼女をも訊問の上、黙して帰署したりと思うやがての事、彼女は願いの如く、妾の室に帰り来りぬ。あとにて聞けばこの事の真相こそ
実に筆にするだに
汚らわしき限りなれ。
今日は知らずその当時は長き年月の
無聊の余りにやあらん、
男囚の間には
男色盛んに行われ、女囚もまた互いに
同気を求めて夫婦の如き関係を生じ、両女の中の割合に心
雄々しきは
夫の如き気風となり、
優しき方は妻らしく、かくて
不倫の愛に楽しみ
耽りて、
永年の束縛を忘れ、一朝変心する者あれば、男女間における
嫉妬の心を生じて、人を
傷い自ら殺すなどの
椿事を
惹き起すを常としたりき。現に
厠に入りて、職業用の
鋏刀もて自殺を
企てし女囚をば妾も
目の当りに見て親しく知れりき。されば
無智蒙昧の監守どもが、妾の品性を認め得ず、純潔なる
慈しみの振舞を以て、直ちに
破倫非道の罪悪と速断しけるもまた
強ちに無理ならねど、さりとては余りに
可笑しく、腹立たしくて、今もなお忘れがたき記念の一つぞこれなる。
[#改ページ]
中の島未決監獄にある事一年有余にして、堀川監獄の既決監に移されぬ。なお未決ながら公判開廷の期の近づきしままに、護送の便宜上
客分としてかくは取り
斗らわれしなりけり。
退っ
引きならぬ彼女との別離は来りぬ、事件の進行して罪否いずれにか決する時の近づきしをば、
切めてもの心やりにして。堀川にてはある一室の全部を開放して、
妾を待てり。中の島未決監よりは、監房また
更に清潔にして、部屋というも恥かしからぬほどなり、ここに移れる妾は、ようよう
娑婆に近づきたらん
心地もしつ。
此処にても親しき友は間もなく妾の前に現われぬ、彼らは若き永年囚なりけり。いずれも妾の歓心を得べく、夜ごとに妾の足を
撫でさすり、また肩など
揉みて及ぶ限りの親切を尽しぬ。妾は親の
膝下にありて厳重なる教育を受けし事とて、かかる親しみと愛とを以て遇せらるるごとに、親よりもなお
懐かしとの念を禁ぜざるなりき。
ここにお政とて大阪監獄きって評判の終身囚ありけり。
容姿優れて美しく才気あり万事に
敏き
性なりければ、
誘工の事
総てお政ならでは目が
開かぬとまでに
称えられ、永年の誘工者、伝告者として衆囚より
敬い
冊かれけるが、彼女もまた妾のここに移りてより、何くれと親しみ寄りつ、
読書に疲れたる頃を
見斗いては、
己が買い入れたる菓子その他の
食物を持ち来り、算術を教え給え、算用数字は
如何に書くにやなど、
暇さえあればその事の
外に余念もなく、ある時は運動がてら、
水撒なども
気散じなるべしとて、自ら水を
荷い来りて、
切に運動を勧めしこともありき。彼女は
西京の生れにて、相当の家に成長せしかど、
如何なる
因縁にや、女性にして
数芸者狂いをなし、その望みを達せんとて、
数万の金を盗みし
酬いは
忽ちここに
憂き年月を送る身となりつ。当時は今日の刑法と異なり、盗みし金の高によりて刑期に長短を付けし時なりければ、彼は単の
窃盗にしてしかも終身刑を受けけるなり。その
才物なるは
一目瞭然たることにて、実に目より鼻へ抜ける人とはかかる人をやいうならん、惜しい
哉、人道以外に
堕落して、同じく
人倫破壊者の
一人なりしよし聞きし時は、妾も覚えず
慄然たりしが、さりながら、
素と鋭敏の性なりければ、
能く獄則を
遵守して勤勉
怠らざりし功により、数等を減刑せられ、無事出獄して、大いに
悔悟する処あり、
遂に
円頂黒衣に
赤心を表わし、一、二度は妾が東京の寓所にも来りし事あり、また演劇にも「
島津政懺悔録」と題して仕組まれ、自ら舞台に現われしこともありしが、その
後は
如何になりけん、消息を聞かず。
かく
妾は入獄中毎日読書に耽りしとはいえ、自由の身ならば新著の書籍を差し入れもらいて、大いに学術の研究も出来たるならんに、漢籍は『論語』『大学』位その他は『
原人論』とか、『聖書』とかの宗教の書を許可せられしのみなりければ、ある時は英学を独習せんことを思い立ち、少しく西洋人に学びしことあるを
基として、日々
勉励したりしかど、やはり堂に
昇らずして
止みたるは恥かしき次第なり。在獄中に出獄せば
如何にせん
志を達せばかくなさんと、種々の空想に耽りしも、出獄
間もなくその空想は全く
仇となり、失望の
極われとはなしに
堕落して、
半生を夢と過ごしたることの口惜しさよ。せめては今後を人間らしう送らんとの念はかく
懺悔の
隙もいと
切なり。
妾が在獄中別に悲しと思いし事もなく
浮かと日を明かし暮らせしも無理ならず。功名心に熱したる当時の事なれば、毎日署長看守長、さては看守らの来りては種々の事どもを話しかけられ慰められ、また信書を
認むる時などには、若き看守の
好奇にも監督を名として監房に来りては、
楽書などして、妾の赤面するを面白がり、なお本気の
沙汰とも覚えぬ振舞に渡りて、妾を
弄ばんとするものもあり、中には真実
籠めし
艶書を贈りて
好き返事をと促すもあり、また「君
徐世賓たらばわれ
奈翁たらん」などと遠廻しに
諷するもありて、諸役人皆
妾の
一顰一笑を
窺えるの観ありしも
可笑しからずや。されば女監取締りの如きすら、妾の
眷顧を得んとて、
私かに食物菓子などを贈るという有様なれば、獄中の生活はなかなか不自由がちの
娑婆に
優る事数等にて、裁判の事など少しも心に
懸らず、覚えずまたも一年ばかりを暮せしが、十九年の十一月頃、ふと
風邪に
冒され、
漸次熱発甚だしく、さては腸
窒扶斯病との診断にて、病監に移され、治療
怠りなかりしかど、熱気いよいよ強く
頗る
危篤に
陥りしかば、典獄署長らの心配
一方ならず、弁護士よりは、保釈を願い出で、なお岡山の両親に病気危篤の
旨を打電したりければ、岡山にてはもはや妾を
亡きものと覚悟し、電報到着の
夜より、
親戚故旧打ち寄りて、妾の不運を悲しみ、
遺屍引き取りの相談までなせしとの事なりしも、幸いにして幾ほどもなく快方に向かい、
数十日を経て
漸く本監に帰りたる
嬉しさは、今に
得も忘られぬ所ぞかし。他の囚人らも妾のために、日夜全快を祈りおりたりしとの事にて、妾の帰監するを見るより、
宛然父母の再生を迎うるが如くに喜びくれぬ。これも妾が今も感謝に堪えぬ所なり。不自由なる牢獄にて大患に
罹りし事とて、一時全快はなしたるものから、衰弱の度甚だしく、病気よりは疲労にて
斃るることもやと心配せしに、これすら
漸く回復して、
遂には病前よりも一層の肥満を来し、その当時の写真を見ては、一驚を
喫するほどなり。
それより
数日を経て翌二十年五月二十五日公判開廷の際には、あたかも健康回復の期にありて、頭髪
悉く抜け落ち、
薬罐頭の
醜さは人に見らるるも恥かしき思いなりしが、
後にて聞けば
妾の親愛なる
富井於菟女史は、この時
娑婆にありて妾と同病に
罹り、
薬石効なく
遂に
冥府の人となりけるなり。さても頼みがたきは人の
生命かな、女史は妾らの入獄せしより、ひたすら
謹慎の意を表し、
耶蘇教に入りて、伝道師たるべく、大いに聖書を研究し居たりしなるに、迷心執着の妾は
活きて、信念堅固の女史は
逝きぬ。逝ける女史を不幸とすべきか、生ける妾を
幸というべきか、この報を聞きたる時、妾は実に無限の感に打たれにき。
ここにまた一つ
記し付くべき事あり。かかる事は
仮令真実なりとも、
忌むべく
憚るべきこととして、大方の人の黙して
止むべき所なるべけれど、一つは生理学および生理と心理との関係を
究むる人々のために、一つは当時の妾が、女とよりはむしろ男らしかりしことの
証しにもならんかとて、
敢えて身の
羞恥をば打ち明くるなり。読む者
強ちに、はしたなき
業とのみ落しめ給うことなくば幸いなり。さて
記すべき事とは
何にぞ、そは妾の身体の普通ならずして、牢獄にありし二十二歳の当時まで、女にはあるべき月のものを知らざりし事なり。普通の女子は、大抵十五歳前後より、その物のあるものぞと聞くに、妾は常に母上の心配し給える如く、生れ付き男子の如く、殺風景にて、婦人のしおらしき
風情とては露ほどもなく、男子と漢籍の
講莚に列してなお少しも
羞しと思いし事なし。さるからに、母上は妾の将来を気遣う余り、時々「恋せずば人の心はなからまし、物の哀れはこれよりぞ知る」という古歌を読み聞かせては、妾の
所為を
誡め給いしほどなれば、
幼友達の皆
人に
嫁して、子を
挙ぐる頃となりても、妾のみは、いまだあるべきものをだに見ざるを知りて、母上はいよいよ安からず、もしくば世にいう
石女の
類にやなど思い悩み給いにき。しかるに今獄中にありて或る日突然その事あり、その時の驚きは今更に言うの要なかるべし。妾の
容子の常になく
包ましげなるに、顔色さえ
悪しかりしを、
親しめる女囚に
怪しまれて、しばしば問われて、秘めおくによしなく、
遂に事
云々と告げけるに、彼女の驚きはなかなか妾にも
勝りたりき。
かくの如く男らしき
妾の発達は早かりしかど、女としての妾は、極めて
晩き
方なりき。
但し女としては
早晩夫を持つべきはずの者なれば、もし妾にして、夫を
撰ぶの時機来らば、威名
赫々の
英傑に配すべしとは、これより先、既に妾の胸に
抱かれし理想なりしかど、
素より世間見ずの小天地に
棲息しては、鳥なき里の
蝙蝠とは知らんようなく、これこそ天下の豪傑なれと信じ込みて、最初は師としてその人より自由民権の説を聴き、敬慕の念
漸く長じて、卒然夫婦の契約をなしたりしは
葉石なり。されどいまだ「ホーム」を
形造るべき境遇ならねば、父母
兄弟にその意志を語りて、他日の参考に供し、自分らはひたすら国家のために
尽瘁せん事を誓いおりしに、
図らずも妾が自活の
途たる学舎は停止せられて、東上するの不幸に
陥り、なお右の如き種々の計画に
与りて、ほとんど
一身を犠牲となし、
果は身の置き所なき有様とさえなりてよりは、
朝夕の
糊口の
途に苦しみつつ、他の壮士らが
重井、葉石らの助力を仰ぎしにも似ず、妾は
髪結洗濯を業として、とにもかくにも露の
生命を
繋ぐほどに、朝鮮の事件始まりて、長崎に至る
途すがら、妾と夫婦の契約をなしたる葉石は、いうまでもなく、
妻子眷属を
国許に
遺し置きたる人々さえ、様々の口実を設けては
賤妓を
弄ぶを
恥とせず、
終には磯山の如き、
破廉恥の
所為を
敢えてするに至りしを思い、かかる私欲の
充ちたる人にして、
如何で大事を成し得んと大いに反省する所あり、さてこそ長崎において永別の書をば葉石に贈りしなれ。しかるに今公判開廷の報に接しては、さきに
一旦の感情に駆られて、葉石に
宛てたりし永別の書が、
端なくも世に発表せられしことを思いてわれながら面目なく、また葉石に対し何となく気の毒なる情も起り、葉石にしてもしこの書を見ば、定めて良心に恥じ入りたらん、妾の軽率を
憤りもしたらん、妾は余りに一徹なりき、彼が
皎潔の愛を
汚し、神聖なる恋を
蹂躙せしをば、
如何にしても
黙止しがたく、もはや一週間内にて、死する身なれば、この胸中に思うだけをば、
遺憾なく言い
遺し置かんとの覚悟にて、かの
書翰は
認めしなれば、
義気ある人、
涙ある人もしこれを読まば、必ず
一掬同情の涙に
咽ぶべきなれど、葉石はそもこれを何とか見るらん、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。彼はこの書翰のために、有志の面目をも損ずるなるべし、威厳をも
傷うなるべし、さても気の毒の至りなるかな。妾とても再び彼ら同志に
逢わざるべきを、予想したればこそ、かく夫婦の契約あることを発表せしなれ、
今日の境遇あるを予知せば、もはや愛の冷却せる者に向かいて、
強いて旧事を発表し、相互の不利益を
醸すが如き、愚をばなさざりしならんに。さりながら妾は実に、同志の無情を嘆ぜしなり、
特に葉石の無情を
怨みしなり、生きて再び恋愛の
奴となり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじ
順うよりは、むしろ
潔く、自由民権の犠牲たれと決心して、かくも彼の反省を求めしなるに、同志の手には落ちずして、かえって警察官の手に入らんとは、かえすがえすも
面伏せなる
業なりけり。いでや公判開廷の日には、
病と称して、出廷を避くべきかなど、種々に心を苦しめしかど、その
甲斐遂にあらざりき。
[#改ページ]
いよいよその日ともなれば、また三年振りにて、
娑婆の空気に触るる事の嬉しく、かつは郷里より、親戚
知己の来り会して
懐かしき両親の消息を
齎すこともやと、これを楽しみに看守に
護られ、
腕車に乗りて、監獄の門を出づれば、署の門前より、
江戸堀公判廷に至るの間はあたかも人をもて
塀を築きたらんが如く、その
雑沓名状すべくもあらず。聞く大阪市民は
由来政治の何物たるを解せざりしに、この事件ありてより、
漸く政治思想を開発するに至れりとか、また以て
妾らの公判が
如何に市民の
耳目を動かしたるかを知るに足るべし。
明治十八年十二月頃には、嫌疑者それよりそれと増し加わりて、総数二百名との事なりしが、多くは予審の
笊の目に
漉し去られて、公判開廷の当時残る被告は六十三名となりたり。されどなお近来
未曾有の
大獄にて、一度に総数を入るる法廷なければ、仮に六十三名を
九組に分ちて各組に三名ずつの弁護士を附し、さていよいよ廷は開かれぬ。先ず公訴状朗読の事ありしに、「これより先、
磯山清兵衛は(中略)
重井、
葉石らの冷淡なる、共に事をなすに足る者に
非ず」
云々の所に至るや第三列に控えたる被告人
氏家直国氏は、憤然として怒気満面に
潮し、肩を
聳やかして、挙動穏やかならずと見えしが、果して十五ページ上段七行目の「右議決の
旨を長崎滞在の先発者
田代季吉云々」の処に至り、突然第一列にある、磯山清兵衛氏に飛びかかり、
一喝して首筋を
掴みたる様子にて、
場の内外
一方ならず
騒擾し、表門警護の看守巡査は、いずれも
抜剣にて非常を
戒めしほどなりき。とかくする内
看守、
押丁ら打ち寄りて、漸く氏家を磯山より引き離したり。この時氏家は何か申し立てんとせしも、裁判長は看守押丁らに命じて、氏家を退廷せしめ、裁判長もまたこの事柄につき、相談すべき事ありとて
一先ず廷を閉じ、午後に至りて更に開廷せり。
爾来公判は引き続きて開かれしかど、最初の日の如く六十三名打ち
揃いたる事はなく、大抵一組とこれに添いたる看守とのみ出廷したり。しかもなお傍聴者は毎日午前三時頃より正門に詰めかけ、三、四日も通い来りて漸く傍聴席に入る事を得たる有様にて、われわれの通路は常に人の山を築けるなりき。
かかる中にも葉石は、時々看守の目を
偸みて、
紙盤にその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるを
詰るを例とせり。(
紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられこれに意志を認めて公判廷に持参しかくて弁論の材料となせるなり)さりながら妾は長崎にて決心せし以来再び同志の言を信ぜず、
御身は愛を二、三にも四、五にもする
偽君子なり、ここに
如何ぞ純潔の愛を
玩ばしめんやと、いつも冷淡に回答しやりたりき。意外なりしは重井より心情を
籠めし書状を送り来りし事なり。東京在住中、
妾は
数その
邸に行きて、富井女史救い出しの件につき、旅費補助の事まで頼みし事ありしが、当時氏は女のさし出がましきを
厭い
将た妾らが国事に奔走するを
忌むの
風ありしに、思いきや今その真心に妾を思うこと
切なるよしを言い越されんとは。妾は更に
合点行かず、ただ女珍しの好奇心に出でたるものと大方に見過して、いつも返事をなさざりしに、
終には挙動にまで、その思いの表われて、
如何にも
怪しう思わるるに、かくまでの心入れを、
如何でこのままにやはあるべきと、
聊か
慰藉の文を草して答えけるに、
爾来両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石に
懲りし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。これぞ
実に妾が半生を不幸不運の
淵に沈めたる導火線なりけると、今より思えばただ恐ろしく口惜しかれど、その当時は
素よりかかる
成行きを予知すべくもあらず、
一向に名声
赫々の豪傑を
良人に持ちし思いにて、その以後は毎日公判廷に
出づるを楽しみ、かの人を待ち
焦れしぞかつは怪しき。かくて妾は
宛然甘酒に酔いたる如くに興奮し、結ばれがちの精神も引き立ちて、互いに尊敬の念も起り、時には
氤たる
口気に接して
自ずから
野鄙の情も
失せ、心ざま
俄に高く品性も
勝れたるよう覚えつつ、公判も楽しき夢の
間に閉じられ、妾は一年有余の
軽禁錮を申し渡されたり。重井、葉石らの
重だちたる人々は、有期流刑とか無期とかの重罪なりければ、いずれも上告の申し立てをなしたれども、妾のみは既決に編入せられつ。なお同志の人々と同じ大阪にあるを頼みにて、時にはかの人の消息を聞く事もあらんなど、それをのみ楽しみに思いしに、やがて三重県津市に転監せらるると聞きし時の失望は、木より落ちたる
猿のそれにも似たらんかし。
[#改ページ]
伊勢へは我々一年半の刑を受けし人のみにて、十数人の同行者あり。常ならば東海道の五十三
駅詩にもなるべき景色ならんに、柿色の
筒袖に腰縄さえ付きて、巡査に護送せらるる身は、われながら興さめて、
駄句だに
出でず、
剰え大阪より附き添い来りし巡査は皆
草津にて交代となりければ、
切めてもの顔
馴染もなくなりて、
憂きが中に三重県津市の監獄に着く。到着せしは
黄昏の頃なりしが、典獄は
兼ねて報知に接し居たりと見え、特に出勤して、一同を控所に呼び集め、今も忘れやらざる大声にて、「拙者は当典獄
平松宜棟である、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に
伝逓に相成りたる被告人らである、当典獄の配下の
許に来りし上は申すまでもなく
能く獄則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはその
方らの身分職業姓名を申し立てよ」と、一同をして名乗らしめ、さて
妾の番になりし時、「お前はいわんでも分る、
景山英であろう、妙齢の身にしてかかる大事を企て、今
拙者の前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう、アア今頃は
何処にどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前の事を心配しているに相違ない、お前も親を思わぬではなかろう、
一朝国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ」と同情の涙を
籠めての
訓誨に、悲哀の念急に迫りて、同志の手前これまで
堪えに堪え来りたる望郷の涙は、
宛然に
堰を破りたらんが如く、われながら
暫しは顔も得上げざりき。典獄は
沈思してそうあろうそうあろう、察し申す、ただこの上は獄則を謹守し、なお
無頼の女囚を改化遷善の道に
赴かしむるよう導き教え、同胞の暗愚を訓誨し、
御身が
素志たる忠君愛国の実を挙げ給え、
仮令刑期は一年半たりとも減刑の恩典なきにしもあらねば一日も早く出獄すべき方法を講じ、父母の
膝下にありて孝を尽せかしなど、その後も巡回の折々種々に
劬りくれられたれば、
遂には身の軽禁錮たることをも忘れて、ひたすら他の女囚の善導に力を致しぬ。
朝も五時に起きて
仕度をなし、女監取締りの監房を開きに来るごとに、他の者と共に静坐して礼義を施し、次いで
井戸端に至りて順次顔を洗い、終りて
役場にて食事をなし、それよりいよいよその日の
役につきて、あるいは赤き着物を
縫い、あるいは
機を織り糸を
紡ぐ。先ず着物の
定役を
記さんに赤き筒袖の着物は
単衣ならば三枚、
袷ならば二枚、綿入れならば一枚半、また
股引は
四足縫い上ぐるを定めとし、古き直し物も修繕の大小によりて
予め定数あり、女監取締り一々これを割り渡すなり。
妾は
固より定役なき身の
仮令終日
書を
伴とすればとて、
敢えて拒む者はあらざるも、せめては、婦女の職分をも尽して、世間の
誤謬を
解かん者と、進んで定役ある女囚と伍し、毎日定役とせる物を仕上げてさて二時間位は
罷役より前にわが監房に帰り、読書をなすを例とせり。されば妾出獄の時は相応の工賃を払い渡され、小遣い余りの分のみにてもなお十円以上に
上りぬ。これは
重禁錮の者は、官に七分を収めて三分を自分の所有とするが例なるに、妾はこれに反して三分を官に収め七分を自分の
有となしければ、在監もし長からんには相応の貯蓄も出来て、出獄の上はひとかどの用に立ちしならん。
妾の
幸福は、
何処の獄にありても必ず両三人の同情者を得て
陰に
陽に
庇護せられしことなり。中にも青木女監取締りの如きは妾の
倦労を気遣いて毎度菓子を紙に包みて持ち来り、妾の
独り読書に
耽るをいと
羨ましげに
見惚れ居たりき。されば妾もこの人をば母とも思いて万事
隔てなく交わりければ、出獄の
後も忘るる
能わず、同女が
藤堂伯爵邸の老女となりて、東京に来りし時、妾は直ちに訪れて旧時を語り合い、何とか報恩の道もがなと、
千々に心を
砕きし
後、同女の次女を養い取りて
聊か学芸を
授けやりぬ。
妾の在監中、十六歳と十八歳の二少女ありけり、年下なるはお花、年上なるはお
菊と呼べり。この
二人を
特に典獄より預けられて、読み書き
算盤の技は更なり、人の道ということをも、説き聞かせて、及ぶ限りの世話をなすほどに、
頓て両女がここに来れる
仔細を知りぬ。お花は心の
様さして悪しからず、ただ貧しき家に生れて、
一年村の祭礼の折とかや、兄弟多くして
晴衣の用意なく、遊び友達の良き着物着るを見るにつけても、わが
纏える
襤褸の
恨めしく、
少女心の
浅墓にも、近所の家に
掛けありし着物を盗みたるなりとぞ。またお菊は幼少の時
孤児となり
叔父の家に養われたりしが、生れ付きか、あるいは虐遇せられし結果にや、しばしば
邪の
径に走りて、既に七回も監獄に来り、出獄の日ただ一日を青天の
下に暮せし事もありしよし。打ち見たる処、両女とも、十人
並の容貌を具えたるにいとど
可憫[#「可憫」はママ]の加わりて、
如何で無事出獄の日には、わが郷里の家に養い取りて、
一身の方向を授けやらばやと、両女を左右に置きて、同じく読書習字を教え、
露些かも
偏頗なく扱いやりしに、両女もいつか妾に
懐きて、互いに競うて妾を
劬わり、あるいは肩を
揉み脚を
按り、あるいは妾の
嗜む物をば、
己れの欲を節して妾に
侑むるなど、いじらしきほどの親切に、かかる美徳を備えながら、
何故盗みの罪は犯したりしぞと、いとど深き哀れを催し、彼らにしてもし妾より先に自由の身とならば、妾の出獄を当署にて聞き合せ、必ず迎えに来るようにと言い含め置きたりしも、両女は
終に来らざりき。妾出獄の
後監獄より聞きし所によれば、両女ともその後再び来らず、お花は当市近在の者にて、出獄後間もなく名古屋へ
娼妓に売られたり、またお
菊は
叔父の家にも来らず、その所在を知るに
由なしとの事なりき。ともかくも妾の到る処
何処の監獄にてもかかる事の起りしは、知らず
如何なる
因縁にや。あるいはこの不自由なる小天地に長く
跼蹐せる反響として、かく人心の一致集注を見るならんも、その集中点の必ず妾に存せるは、妾に一種の魔力あるがためならずや。もし果してさるものありとせば、
好しこの身自由となりし時、
所有不幸不遇の人をも吸収して、彼らに
一縷の光明を授けんこと、
強ちに
難からざるべしとは、当時の妾が感想なりき。
当市の監獄には、大阪のそれと
異なりて、女囚中無学無識の者多く、女監取締りの如きも大概は看守の
寡婦などが
糊口の勤めとなせるなりき。されば何事も自己の
愛憎に走りて
囚徒を取り扱うの道を知らず。
偏に
定役の
多寡を以て賞罰の
目安となせし
風なれば、囚徒は
何日まで入獄せしとて改化
遷善の道に
赴かんこと思いもよらず、悪しき者は益
悪に陥りて、専心取締りの
甘心を迎え、
漸く
狡獪陰険の風を助長するのみ。
故に監獄の改良を計らんとせば、相当の給料を仕払いて、品性高き人物をば、女監取締りとなすに
勉むべし。もしなおかかる者をして囚徒を取り締らしめんには、囚徒は常に軽蔑を以て取締りを迎え、
表に謹慎を表して
陰に舌を吐かんとす、これをしも、改化遷善を勧諭する良法となすべきやは。
独り青木氏の如きは、天性慈善の心に
富たるにや、別に学識ありとも見えざりしにかかわらず、かかる悲惨の境涯を見るに忍びずして、常に早くこの職を
退きたしと語りたりしが妾の出獄後、果して間もなく辞職して、
藤堂氏の老女となりぬ。今なお健在なりや否や。
それはさて置き
妾は苦役一年にして
賞標四個を与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典あらんとせる、ある日の事、
小塚義太郎氏大阪より来りて面会を求めらる。大阪よりと聞きて、かつは喜びかつは
動悸めきながら、看守に伴われて面接所に行き見れば、小塚氏は微笑を以て妾を迎え、
久々の
疎音を謝して、さていうよう、自分は今回有志者の依頼を受けて、入獄者一同を見廻りおり、今度の紀元節を以て、憲法を発布あらせらるべき
詔勅下り、かつ
辱くも入獄者一同に恩典……といいかけしに、看守は
遮りてその筋よりいまだ何らの
達なし、めったな事を言うべからずと注意したり。小塚氏はなお語を継ぎて、
貴女は何にも御存知なき様子、しかし早晩御通知あらん、いずれ
明日にも面会に出頭せん、衣類等は
如何になりおるや、早速にも間に合うよう相成りおるや否やなど、種々厚き注意をなして、その日はそのまま引き取りたり。妾は寝耳に水の感にて、何か
今明日に喜ばしき
御沙汰あるに相違なし、とにかくその用意をなし置かんと、髪を
梳り置きしに、果して夕刻書物など持ちて典獄の処に
出で来るようにと看守の命あり。さてこそと天にも昇る
心地にて、控所に伴われ行きしに、典獄署長ら
居並びて、
謹んで
大赦文を読み聞かされたり。なお典獄は威儀
厳かに、
御身の罪は大赦令によりて全く消除せられたれば、今日より自由の身たるべし。今後は益
国家のために
励まれよとの訓言あり。聞くや否や奇怪の感はふと妾の胸に浮び出でぬ。昨日までも今日までも、国賊として
使役せられたる身の、一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生
幻の如しとは、そもや
誰がいいそめけんと
一時はただ
茫然たりしが、小塚氏の厚き注意にて、衣類も新調せられたるを着換え、同志六名と共に三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅館に着きぬ。
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旅館には既にそれぞれの用意ありし事とて、実に涙がこぼれるほどの待遇なり。
夜はまた当地有志者の慰労会ありとて、その地の有名なる料理亭に招待せられ、翌日は
釜をかけるとてある人より特に招かれたれば、午後より
其処に至りしに、令嬢の手前にて、
薄茶のもてなしあり。更に自分にも一服との
所望ありしかば、
妾は
覚束なき
平手まえを立ておわりぬ。
貧家にこそ生い立ちたれ、母上の慈悲にて、
聊かながらかかる
業をも習い覚えしなりき。さなくば面目を失わんになど、今更の如く親の恩を思えるもおかし。
爾来かかる事に思わぬ日を経て、
遂に同地の有志者
長井氏克氏らに送られつつ、
鈴鹿峠に至り、それより徒歩あるいは汽車にて大阪に
出づるの途中、
植木枝盛氏の出迎えあり、妾に美しき
薔薇花の花束を贈らる、一同へもそれぞれの贈り物あり。
大阪梅田
停車場に着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同志の無事出獄を祝して万歳の声天地も
震うばかりなり。
停車場に着くや否や、諸有志のわれも花束を贈らんとて互いに先を争う中に、なつかしや、七年前別れ参らせし父上が、病後衰弱の身をも
厭わせられず、親類の者に
扶けられつつ、ここに来り居まさんとは。オオ父上かと、人前をも恥じず涙に
濡める声を振り
絞りしに、皆々さこそあらめとて、これも同情の涙に
咽ばれぬ。かくてあるべきならねば、同志の士に伴われ、父上と手を
別ちて用意の整えるある場所に至り、更に志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎すとか、種々の文字を記せる紅白の
大旗に護られ、大阪市中を
腕車に乗りて引き廻されけるに、当地まで迎えに来りし父上は、妾の無事出獄の喜びと、当地市民の狂するばかりなる歓迎の有様を目撃したる無限の感とに打たれ、今日までの心配もこれにて全く忘れたり、このまま死すも残り惜しき事なし、かくまで諸氏の厚遇に預かり、市民に
款待せられんことは、思い設けぬ所なりしといいつつも、故
中江兆民先生、
栗原亮一氏らの厚遇を受け給いぬ。夜に入りて旅館に帰り、ようよう
一息入れんとせしに、来訪者引きも切らず、
拠なく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさ目も廻らんばかりなり。翌日は、
重井、
葉石、
古井らの諸氏が名古屋より到着のはずなりければ、さきに
着阪せる同志と共に
停車場まで出迎えしに、間もなく到着して妾らより贈れる花束を受け、それより徒歩して
東雲新聞社に至らんとせるに、
数万の見物人および出迎人にて、さしもに広き梅田
停車場もほとんど
立錐の地を余さず、妾らも重井、葉石らと共に一団となりて人々に
擁せられ、足も地に着かずして中天にぶらさがりながら、
辛うじて
東雲新聞社に入る。新聞社の前にも見物人山の如くなれば、戸を閉じて所要ある人のみを通す事としたるに、門外には重井万歳出獄者万歳の声引きも切らず、花火は上る剣舞は始まる、中江先生は今日は女尊男卑なり、君をば
満緑叢中紅一点ともいいつべく、男子に交りての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして
卓子の上に座せしめ、
其処にて種々の
饗応あり。終りて
各旅宿に帰りしは早や
黄昏の頃なりけり。
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それより重井、葉石、古井の諸氏は
松卯、
妾は
原平に宿泊し、その他の諸氏も
各旅宿を定め、数日間は
此処の招待、
彼処の宴会と日夜を分たざりしが、郷里の歓迎上都合もある事とて、それぞれ
好きほどにて引き別るることとなり、妾も
弥明日岡山へ向け出立というその夜なりき、重井より、是非相談あれば松卯に来りくれよと申し来りぬ。何事かと行きて見れば、重井も葉石もあらず、
詮方なく帰宿せんとする折しも、重井
独り帰りて、妾の訪れしを喜び、さて入獄以来の厚情は
得も忘られず、今回互いに無事出獄せるこそ幸いなれ、ここに決心して結婚の約を
履まんという。こは
予てよりの覚悟なりけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに、両三日来
中江先生、
栗原亮一氏ら
頻りにわれに説きて、
汝と
葉石と結婚せしむべきことを勧められぬ、依っていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべしと答えおきたりとあり。妾がこれを聞きたる時の驚きは、
青天の
霹靂にも
喩うべくや、
所詮は中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、
一図に妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。さあれ
覆水争でか盆に
復えるべき、父上にはいずれ帰国の上、申し上ぐることあるべしと答え置き、それより中江、栗原両氏に会いて事情を具し、
妾にその意なきことを
謝りしかば、両氏も始めて
己れらの誤解なることを
覚り、その後さることは再び口にせざるに至りき。かくて妾の決心は堅かりしかど、さすがに
幼馴染の葉石の、今は昔互いに
睦み親しみつつ
旦暮訪いつ訪われつ教えを受けし事さえ多かりしを
懐い、また今の葉石とて妾に対して
露悪意のあるに
非ざるを察しやりては、この際重井と結婚を約するは情において忍びざる所なきに非ず、
情緒乱れて糸の如しといいけん、妾もそれの、思い定めがたくて、いずれ帰国の上父母とも相談してと答えけるに、
素より葉石との関係を知れる彼は、容易に
諾わず、もし葉石と共に帰国せば、他の
斡旋に余儀なくせられて、
強いて握手することともならんずらん、今の時を失いてはとて、なお妾を
催して
止まず、
遂に軽率とは思いながらに、ともかくも承知の旨を答えたりしぞ妾が終生の誤りなりける。
それより葉石および親戚の者五、六名と共に船にて帰郷の
途につきしが、
頓て
三番港に到着するや、某地の有志家わが学校の生徒およびその父兄ら約数百名の出迎いありて、
雑沓言わん
方もなく、上陸して
船宿に
抵れば、
其処にはなつかしき母上の飛び出で給いて、やれ無事に帰りしか、大病を
悩らいしというに、かく
健やかなる顔を見ることの嬉しさよと涙片手に取り
縋られ、アア今日は
芽出たき日ゆえ泣くまじと思いしに、覚えず嬉し涙がこぼれしとて、兄弟
甥姪を呼びて、それぞれに喜びを分ち給う。
挨拶終りて、ふと
傍らに一青年のあるに心付き、この人よ、船中にても
種々親切に世話しくれたり、彼はそも
何人なりやと
尋ねしに、そは
何にをいう、弟
淳造を忘れしかといわれて
一驚を
喫し、さても変れば変る者かな、
妾の郷を出でしは七年の昔、彼が十三、四の
蛮貊盛りなりし頃なり、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばるる身の上なりとか。
実に人の最も変化するは十三歳頃より十七、八歳の頃にぞある、見違えしも
宜ならずやなど笑い興じて、共に
腕車に打ち乗り、岡山有志家の催しにかかる慰労の宴に
臨まんため、岡山公園なる
観楓閣指して
出立つ。
この公園は旧三十五万石を領せる池田侯爵の
後園にして、四時の
眺め尽せぬ日本三公園の一なり。宴の
発企者は岡山屈指の富豪野崎氏その他知名の諸氏にしてわれわれおよび父母親戚を招待せられ、席上諸氏の演説あり、また有名の楽師を招きて、「自由の歌」と題せる
慷慨悲壮の新体詩をば、二面の
洋琴に和して歌わしむ。これを聴ける時、妾は思わず手を
扼して、アアこの自由のためならば、死するもなどか惜しまんなど、無量の感に
撃たれたり。唱歌終りて葉石の答礼あり、それより酒宴は開かれ、
各歓を尽して帰路につきたるは、
頓て
点燈頃なりき。
かくて
妾は母、兄弟らに護られつつ、絶えて久しき故郷の家に帰る。想えばここを去りし時の
淋しく悲しかりしに引き換えて、今は多くの人々に附き
纏われ、
賑々しくも帰れることよ。
今昔の感
坐ろに
湧きて、幼児の時や、友達の事など夢の如く
幻の如く、はては
走馬燈の如くにぞ胸に
往き
来う。我が家に近き町はずれよりは、
軒ごとに
紅燈の影美しく飾られて
宛然敷地祭礼の如くなり。これはた
誰がための催しぞと思うに、穴にも入りたき心地ぞする、死したらんにはなかなか心易かるべしとも思いぬ。アアかかる
款待を受けながら、妾が将来は
如何に、
重井と
私かに結婚を約せるならずや、そも妾は如何にしてこの厚意に報いんとはすらんなど、人知れず
悶え苦しみしぞかし。
我が家にては親戚故旧を招きて一大盛宴を張りぬ。
絃妓も来り、舞子も来りて、一家狂するばかりなり。宴終りて
後、種々しめやかなる話しも出で、
暁に至りて興はなお尽きざりき。七年の
来し
方を、一夜に語り一夜に聴かんと
れるなるべし。
明くれば郷里の有志者および新聞記者諸氏の
発起にかかる慰労会あり、
魚久という料理店に招かれて、朝鮮鶴の料理あり、妾らの関係せしかの事件に
因めるなりとかや。かくて
数日の間は
此処の宴会
彼処の招待に日も足らず、
平生疎遠なりし親族さえ、妾を見んとてわれがちに
集い寄るほどに、妾の評判は遠近に伝わりて、三歳の童子すらも、なお
景山英の名を口にせざるはなかりしぞ憂き。
それより一、二カ月を経て、東京より重井ら大同団結遊説のため
阪地を経て中国を遊説するとの報あり。しかして妾には大阪なる重井の
親戚某方に来りくるるようとの特信ありければ、今は
躊躇の場合に非ずと、始めて重井との関係を両親に打ち明け、かつ今仮に内縁を結ぶとも、公然の
批露は、ある時機を待たざるべからず、そは重井には現に妻女のあるあり、明治十七年以来発狂して人事を
弁えず、余儀なく生家に帰さんとの内意あれども、
仮初めならぬ人のために終身の
謀だになしやらずして今急に離縁せん事思いも寄らず。されば重井もその職業とする弁護事務の好成績を積み、その内大事件の勝訴となりて
数万の
金を得ん時、彼に贈りて一生を安からしめ、さて後に縁を絶たんといえり。さもあるべき事と思いければ、
姑らく内縁を結ぶの約をなしたるなり、御意見
如何があるべきやと
尋ねけるに、両親ともにあたかも妾の虚名に酔える時なりしかば、ともかくも
御身の意見に任すべしと
諾われなお重井にして当地に来りなば、宅に招待して親戚にも面会させ、その他の兄弟とも
余所ながらの
杯させん
抔、なかなかに勇み立たれければ、妾も安心して、大阪なる友人を
訪うを名とし重井に面して両親の意向を告げしに、その喜び
一方ならず、この上は直ちに御両親に
見えんとて、
相挈えて岡山に来り、我が家の招待に応じて両親らとも妾の身の上を語り定めたる
後、貴重なる
指環をば親しく妾の指に
嵌めて立ち帰りしこそ、残る
方なき扱いなれとて、妾は
素より両親も
頗る満足の
体に見受けられき。
爾来東京に大阪に
将た神戸に、妾は表面同志として重井と相伴い、演説会に懇親会に姿を並べつ、その交情日と共にいよいよ
重なり行きぬ。
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その頃
妾の召し連れし一女生あり。越後の生れにて、あたかも妙齢十七の処女なるにも似ず、何故か髪を
断りて男の姿を学び、
白金巾の
兵児帯太く巻きつけて、
一見田舎の百姓息子の如く
扮装ちたるが、重井を頼りて上京し、是非とも
景山の弟子にならんとの願いなれば、書生として使いくれよとの重井の頼み
辞みがたく、先ずその
旨を承諾して、さて何故にかかる
変性男子の真似をなすにやと
詰りたるに、
貴女は男の如き
気性なりと聞く、さらばかくの如き姿にて行かざらんには、必ずお気に入るまじと確信し、ことさらに長き黒髪を切り捨て、男の着る着物に
換えたりという。さては世間の妾を
視ること、かくまでに誤れるにや、それとも心付かずしてあくまでも男子を
凌がんとする
驕慢疎野の女よと
指弾きせらるることの面目なさよ。
有体にいえば、妾は幼時の男装を恥じて以来、天の女性に賜わりし特色をもて
些かなりとも世に尽さん考えなりしに、
図らずも殺風景の事件に
与したればこそ、かかる誤認をも招きたるならめ。さきに男のすなる事にも
関いしは
事国家の
休戚に関し、女子たりとも
袖手傍観すべきに
非ず、もし幸いにして、妾にも女の通性とする優しき情と愛とあらば、これを以て有為の士を
奨め
励まし、及ばずながら常に男子に後援たらんとせしに
外ならず、かの男子と共に力を争い、
将た功を闘わさんなどは妾の思いも寄らぬ所なり。女は
何処までも女たれ男は何処までも男たれ、かくて両性互いに
相輔け相補うてこそ始めて男女の要はあれと確信せるものなるに、
図らずもかかる
錯誤を招きたるは、妾の
甚だ悲しむ所、はた甚だ快しとせざる所なるをもて、妾は女生に向かいて
諄々その非を
諭し、やがて髪を延ばさせ、着物をも女の物に換えしめけるに、あわれ
眉目艶麗の一美人と生れ変りて、ほどなく郷里に帰り、他に
嫁して美しき細君とはなりき。当時送り来りし新夫婦の写真今なおあり、これに対するごとにわれながら
坐ろに微笑の浮ぶを覚えつ。
その頃なお一層の奇談あり。妾が東京に家を
卜せしある日の事、福岡県人菊池某とて当時
耶蘇教伝道師となり、普教に
勉めつつありたるが、時の衆議院議員、
嘉悦氏房氏の紹介状を
携え来りて、妾に面会せん事を求めぬ。
固より
如何なる人にても、かつて面会を
拒みし事のなき妾は、直ちに書生をして
客室に
請ぜしめ、
頓て出でて面せしに、何思いけん氏は妾の顔を
凝視しつつ、口の内にてこれは意外これは意外といい、
頗る
狼狽の
体にて妾の
挨拶に答礼だも
施さず、
茫然としていよいよ妾を凝視するのみ。妾は初め
怪しみ、
遂には恐れて、こは狂人なるべし、狂人を紹介せる嘉悦氏もまた無礼ならずやと、心に七分の
憤りを含みながら、なお忍びに忍びて狂人のせんようを見てありしに、客は
忽ち
慚愧の体にて
容を改め、貴嬢願わくはこの書を一覧あれとの事に、
何心なく
披き見れば、思いもよらぬ結婚申し込みの書なりけり。その文に
曰く(中略)貴嬢の朝鮮事件に
与して一死を
擲たんとせるの心意を察するに、葉石との交情旧の如くならず、他に婚を求むるも
容貌醜矮突額短鼻一目鬼女怪物と
異ならねば、この際身を
棄つる方
優るらんと覚悟し、かくも決死の壮挙を企てたるなり。
可憐の嬢が成行きかな。我不幸にして先妻は
姦夫と
奔り、孤独の身なり、かかる醜婦と結婚せば、かかる悲哀に沈む事なく、家庭も
睦まじく神に仕えらるるならんと
云々。かく読み終れる妾の顔に包むとすれど不快の色や見えたりけん、客はいとど面目なき体にて、アア
誤てり
疎忽千万なりき。ただ貴嬢の振舞を聞きて、直ちに醜婦と思い取れる事の恥かしさよ。わが想像の
仇となれるを思うに、
凡そ貴嬢を知るほどの者は必ず貴嬢を
娶らんと
希う者なるべし。さあれ貴嬢にしてもしわが
志を
酌み給わずば、われは
遂に悲哀の
淵に沈み果てなん。アア口惜しの有様やとて、ほとんど自失せし様子なりしが、
忽ち
小刀をポッケットに
探りて、妾に投げつけ、また
卓子に突き立てて妾を脅迫し、
強いて結婚を承諾せしめんとは試みつ。さてこそ遂に狂したれと、妾は急ぎ書生を呼び、
好きほどに
待遇わしめつつ、座を
退きてその後の成行きを
窺う
中、書生は客を
賺し
宥めて屋外に
誘い、
自ら
築地なる某教会に送り届けたりき。
これより先、大阪滞在中和歌山市有志の招待を得て、
重井と同行する事に決し、
畝下熊野(
現代議士山口熊野)、
小池平一郎、
前川虎造の諸氏と共に同地に至り同所有志の
発起に
係る懇親会に
臨みて、重井その他の演説あり。妾にも
一場の演説をとの勧め
否みがたく、ともかくもして
責めを
塞ぎ、更に婦人の設立にかかる婦人
矯風会に臨みて再び
拙き談話を試み、一同と共に撮影しおわりて、前川虎造氏の
誘引により
和歌の
浦を見物し、翌日は
田辺という所にて、またも演説会の催しあり、有志者の歓迎と厚き待遇とを受けて大いに面目を
施したりき。かく重井と共に諸所に遊説しおる内に、わが郷里附近よりも
数招待を受けたり。この時世間にては、妾と葉石との間に結婚の約の継続しおることを信じ居たれば、葉石との同行誠に心苦しかりけれど、既に重井と諸所を遊説せし身の
特に葉石との同行を
辞まんようなく、かつは
旧誼上何となく不人情のように思われければ、重井の東京に帰るを機として妾も
一旦帰郷し、
暫し当所の慰労会懇親会に臨みたり。とかくして滞在中
川上音二郎の
一行、岡山市
柳川座に乗り込み、大阪事件を芝居に仕組みて開場のはずなれば、是非見物し給われとの事に、
厚意黙止がたく、一日両親を伴いて行き見るに、その技芸
素より
今日の如く発達しおらぬ時の事とて、
科といい、
白といい、ほとんど滑稽に近く、全然
一見の
価なきものなりき。しかも当時大阪事件が
如何に世の
耳目を
惹きたりしかは、
市の子女をしてこの芝居を見ざれば、人に
非ずとまでに思わしめ、場内毎日
立錐の余地なき盛況を
現ぜしにても知らるべし、不思議というも
愚かならずや。その興業中川上は
数わが学校に来りて、その一座の重なる者と共に、生徒に講談を聴かせ、あるいは菓子を贈るなど
頗る親切
叮嚀なりしが、ある日
特に
小介をして大きなる新調の
引幕を持ち来らしめ、こは自分が自由民権の大義を講演する時に限りて用うべき幕なれば、何とぞわが敬慕する
尊姉の名を記入されたく、即ち表面上尊姉より贈られたるものとして、
聊か自分の面目を
施したしという。妾は当時の川上が
性行を
諒知し居たるを以て、まさかに
新駒や
家橘の
輩に引幕を贈ると同一には
視らるることもあるまじとて、その事を
諾いしに、この事を聞きたる同地の有志家連は、
身自由平等を主張なしながら、いまだ階級思想を打破し得ざりしと見え、
忽ち妾に反対して
頗る穏やかならぬ形勢ありければ、余儀なくその意を川上に
洩らして署名を謝絶しけるに、彼は
激昂して穏やかならぬ
書翰を残し、即日岡山を立ち去りぬ。しかるにその翌二十三年かあるいは四年の頃と覚ゆ、妾も東上して
本郷切り
通しを通行の際、ふと川上一座と
襟に
染めぬきたる
印半天を着せる者に逢い、思わずその人を熟視せしに、これぞ
外ならぬ川上にして、彼も大いに驚きたるものの如く、
一別以来の
挨拶振りも、前年の悪感情を抱きたる様子なく、今度
浅草鳥越において興業することに決し、御覧の如く一座の者と共に広告に
奔走せるなり、前年と違いよほど
苦辛を重ねたれば少しは技術も進歩せりと思う、
江藤新平を演ずるはずなれば、是非御家族を
伴い御来観ありたしという。
数日を経て果して案内状を送り来りければ、両親および学生友人を
誘いて見物せしに、なるほど一座の進歩驚くばかりなり、前年半ばは有志半ばは俳優なりし彼は
終に
爾く純然たる新俳優となりすませるなりき。彼はいえり、昔は拝顔さえ
叶わざりし宮様方の、
勿体なくも御観劇ありし際
特に
優旨を以て
御膝下近くまで
御招きに預かり、
御言葉を
賜わるさえ勿体なきに、なお親しく握手せさせ給えりと、語り来りて彼は
随喜の
涙に
咽び、これも俳優となりたるお
蔭なりと誇り顔なり。アア彼もしわれらに親善ならんには彼の成功はなかりしならん、彼の成功は、全く自分の主義を
棄て、意気を失いしより得たる
賜ものなりけり。さるにても人の心の頼めがたきは
実に
翻覆手にも似たるかな、昨日の壮士は今日の俳優、妾また何をか言わん。聞く彼は近年細君のお蔭にて大勲位侯爵の
幇間となり、上流紳士と称するある一部の歓心を求むる
外にまた余念あらずとか。彼もなかなか世渡りの上手なる
漢と見えたり。この流の軟腸者
豈独り川上のみならんや。
[#改ページ]
これより先、妾のなお郷地に滞在せし時、
葉石との関係につき
他より正式の申し込みあり、葉石よりも直接に旧情を温めたき
旨申し来るなど、心も心ならざるより、東京なる
重井に
柬してその承諾を受け、父母にも告げて再び上京の
途に
就きしは二十二年七月下旬なり。この頃より妾の
容体尋常ならず、日を経るに従い胸悪く
頻りに
嘔吐を催しければ、さてはと心に
悟る所あり、出京後重井に打ち明けて、郷里なる両親に
謀らんとせしに彼は許さず、
暫く秘して人に知らしむる
勿れとの事に、妾は不快の念に
堪えざりしかど、かかる不自由の身となりては、今更に
詮方もなく、彼の言うがままに従うに
如かずと閑静なる処に
寓居を
構え、
下婢と書生の三人暮しにていよいよ世間婦人の常道を歩み始めんとの
心構えなりしに、事実はこれに反して、重井は最初妾に誓い、
将た両親に誓いしことをも忘れし如く、妾を遇することかの口にするだも
忌わしき外妾同様の姿なるは何事ぞや。
如何なる事情あるかは知らざれども、妾をかかる悲境に沈ましめ、
殊に胎児にまで世の
謗りを受けしむるを
慮らずとは、これをしも親の情というべきかと、会合の
都度切に言い聞えけるに、彼もさすがに憂慮の
体にて、今暫く発表を
見合しくれよ、今郷里の両親に
御身懐胎の事を報ぜんには、両親とても直ちに結婚発表を迫らるべし、発表は容易なれども、自分の位地として、また御身の位地として相当の準備なくては
叶わず、第一病婦の始末だに、なお付きがたき今日の場合、
如何ともせんようなきを察し給え。目下弁護事務にて
頗る有望の事件を担当しおり、この事件にして
成就せば、
数万の
報酬を得んこと容易なれば、その上にて
総て花々しく処断すべし、何とぞ暫しの苦悶を忍びて、胎児を大切に注意しくれよと
他事もなき頼みなり。
素より彼を信ずればこそこの百年の生命をも任したるなれ、かくまで事を分けられて、なおしもそは偽りならん、一時
遁れの
間に
合せならんなど、疑うべき妾にはあらず、他日両親の
憤りを受くるとも、言い
解く
術のなからんやと、事に
托して
叔母なる人の上京を乞い、事情を打ち明けて
一身の始末を托し、ひたすら胎児の健全を祈り、自ら堅く外出を
戒めしほどに、
景山は今
何処にいるぞ、一時を驚動せし彼女の所在こそ聞かまほしけれなど、新聞紙上にさえ
謳わるるに至りぬ。
その間の苦悶そもいくばくなりしぞや。面白からぬ月日を重ねて翌二十三年三月上旬一男子を
挙ぐ。名はいわざるべし、
悔ある堕落の
化身を母として、
明らさまに世の
耳目を
惹かせんは、子の
行末のため、決して
好き事にはあらざるべきを思うてなり。ただその命名につきて
一場の奇談あり、迷信の
謗り
免かれずとも、事実なれば
記しおくべし。その子の身に宿りしより常に殺気を帯べる夢のみ多く、ある時は
深山に迷い込みて
数千の
狼に
囲まれ、一生懸命の勇を
鼓して、その首領なる
老狼を引き倒し、
上顎と
下顎に手をかけて、口より身体までを両断せしに、
他の狼児は
狼狽して
悉く
遁失せ、またある時は幼時かつて講読したりし、『十八史略』中の事実、即ち「
禹江を渡る時、
蛟竜船を追う、
舟中の人皆
慴る、
禹天を仰いで、嘆じて
曰く、我
命を天に
享く、力を尽して、万民を労す、生は寄なり、死は帰なりと、
竜を見る事、
蜿の如く、
眼色変ぜず、竜
首を
俯し尾を
垂れて、
遁る。」といえる有様の
歴々と目前に現われ、しかも妾は禹の位置に立ちて、禹の言葉を口に
誦し、竜をして
遂に
辟易せしめぬ。しかるに
分娩の際は非常なる難産にして苦悶二昼夜にわたり、医師の手術によらずば、分娩
覚束なしなど人々立ち騒げる折しも、あたかも陣痛起りて、それと同時に
大雨篠を乱しかけ、
鳴神おどろおどろしく、はためき渡りたるその
刹那に、
児の
初声は
挙りて、さしも
盆を
覆さんばかりの大雨も
忽ちにして
霽れ
上りぬ。
後にて書生の語る所によれば、その日雨の降りしきれる時、世にいう
竜まきなるものありて、その
蛇の如き細き長き物の天上するを見たりきという。妾は児の
重ね
重ね竜に縁あるを奇として、それに
因める名をば
命けつ、
生い先の
幸多かれと
祷れるなりき。
児を分娩すると同時に、またも
一の苦悶は出で来りぬ。そは重井と公然の夫婦ならねば、児の籍をば
如何にせんとの事なりき。幸いなるかな、妾の妊娠中しばしば診察を頼みし医師は重井と同郷の人にして、日頃重井の名声を敬慕し、彼と
交誼を結ばん事を望み居たれば、この人によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に
謀る所ありしに、
義侠に富める人なりければ直ちに承諾し、己れいまだ
一子だになきを幸い、
嫡男として役所に届け出でられぬ。かくて両人とも
辛うじて世の
耳目を免かれ、死よりもつらしと思える難関を打ち越えて、ヤレ嬉しやと思う間もなく、郷里より母上
危篤の電報は来りぬ。
分娩後いまだ三十日とは過ぎざりしほどなりければ、遠路の旅行危険なりと医師は
切に忠告したり。されど今回の分娩は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言い分けがたく、
殊には母上の病気とあるに、
争で
余所にやは見過ごすべき、
仮し途中にて死なば死ね、思い
止まるべくもあらずとて、人々の
諌むるを聞かず、
叔母と
乳母とに小児を托して引かるる後ろ髪を切り払い、書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は
如何になしおるやらんと、心は
千々に砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。
実に人生の悲しみは
頑是なき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら
強いて堪えねばならぬとは、これも
偏に秘密を
契りし罪悪の罰ならんと、われと心を取り直して、ただ一人心細き旅路に
上りけるに、車中
片岡直温氏が
嫂某女と同行せられしに逢い、同女が
嬰児を
懐に抱きて
愛撫一方ならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の
不憫さ、探りなれたる母の乳房に離れて、
俄に牛乳を与えらるるさえあるに、哺乳器の
哺みがたくて、今頃は
如何に泣き悲しみてやあらん、
汝が恋うる乳房はここにあるものを、そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の
雄々しき心は
失せて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも
一層女々しうなりしぞかし。さしも
気遣いたりし身体には
障りもなくて、神戸直行と聞きたる汽車の、俄に静岡に停車する事となりしかば、その夜は片岡氏の家族と共に、
停車場近き旅宿に投じぬ。宿泊帳には
故意と偽名を
書したれば、片岡氏も妾をば
景山英とは気付かざりしならん。
翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞いしに、
危篤なりし病気の、ようよう
怠りたりと聞くぞ嬉しき。久し振りの妾が帰郷を聞きて、
親戚ども打ち寄りしが、母上よりはかえって妾の顔色の常ならぬに驚きて、
何様尋常にてはあらぬらし、医師を迎えよと口々に勧めくれぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩の事発覚せば、妾はともかく、
折角怠りたる母上の病気の、またはそれがために
募り行きて、
悔ゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障りなき旨を答え、胸の苦痛を忍び忍びて、ひたすら母上の全快を祈るほどに、追々
薄紙を
剥ぐが如くに
癒え行きて、はては、
床の上に起き上られ、妾の
月琴と兄上の
八雲琴に和して、
健やかに
今様を歌い出で給う。
春のなかばに病み臥して、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近き老の身を、うからやからのあつまりて、日々にみとりし甲斐ありて、病はいつか怠りぬ、実に子宝の尊きは、医薬の効にも優るらん、
滞在一週間ばかりにて、母上の病気全く癒えければ、児を見たき心の
矢竹にはやり来て、今は思い止まるべくもあらねば、われにもあらず、
能きほどの口実を設けて帰京の
旨を告げ、かつ妾も思う
仔細あれば、遠からず父上母上を迎え取り、
膝下に
奉仕することとなすべきなど語り聞えて東京に帰り、
先ず愛児の健やかなる顔を見て、始めて十数日来の
憂さを
霽しぬ。
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妾の留守中、
重井は
数来りて小児を見舞いしよし、いまだ実子とてはなき境涯なれば、今かく健全の男子を得たるを見ては、
如何で楽しくも思わざらん、ただ世間を
憚ればこそ、その愛情を押し包みつつ、朝夕に見たき心を忍ぶなるべし。いざや今一応約束の決行を
促さばやと、ある日面会せしを幸いかく
何日までも世間を
欺き小供にまで恥辱を与うるは親として余り冷酷に過ぎたり、早く発表して妾の面目を立て給え。もしこのままにて自然この秘密の発覚することもあらば、妾は生きて再び両親にも
見えがたかるべしなど、涙と共に
掻口説き、その
後また
文して訴えけるに、彼も内心穏やかならず
頗る苦慮の
体なりしが、ある時は何思いけん
児を
抱き上げて、その容貌を熟視しつつハラハラと
熱き涙を
濺ぎたりき。されど少しもその意中を語らず、かつその日よりして、児を見に来る事もやや
疎くなり行きて、何事か不満の事情あるように見受けられければ、妾も事の破れんことを恐れ、一日
説くに女学校設立の意を以てし、彼をして五百金を支出せしめたる後、郷里の父母兄弟に
柬して
挙家上京の事に決せしめぬ。
アア
妾はただ自分の都合によりて、先祖代々師と仰がれし旧家をば一朝その郷関より立ち
退かしめ
住も慣れざる東の空にさまよわしめたるなり。その罪の恐ろしさは、なかなか
贖うべき
術のあるべきに
非ず、今もなお亡き父上や兄上に向かいて、心に
謝びぬ日とてはなし。されどその当時にありては、両親の喜び
一方ならず、東京にて日を暮し得るとは何たる
果報の身の上ぞや、これも全く
英子が朝鮮事件に
与りたる余光なりとて、進まぬ兄上を
因循なりと叱りつつ、一家打ち連れて東京に永住することとなりしは明治二十四年の十月なりき。上京の途中は大阪の知人を
尋ね、
西京見物に日を
費し、神戸よりは船に打ち乗りて、両親および兄弟両夫婦および東京より迎えに行きたる妾と弟の子の
乳母と都合八人いずれも打ち興じつつ、長き
海路も
恙なく無事横浜に着、直ちに汽車にて上京し、
神田錦町の
寓居に入りけるに、一年余りも先に来り居たる叔母は大いに喜び、一同を
労わり慰めて、絶えて久しき物語に余念とてはなかりけり。
家族の東京に集まりてより、重井の挙動全く一変し、非常に不満の
体にて
訪い来る事も
稀々なりしが、妾はなおそれとは気付かず、ただただ両親兄弟に対し前約を
履行せざるを恥ずるが故とのみ思い取りしかば、しばしば彼に告ぐるに両親の悪意なきことを以てしけれども、なお
言を左右に托して来らず、ようよう疎遠の姿となりて、
果はその消息さえ絶えなんとはしたり。こは大いに理由ある事にて、彼は全く変心せしなり、彼は
妾の帰国中妾の親友たりし
泉富子と情を通じ、妾を
疎隔せんと
謀りしなり。
ここに泉富子(
目下農学博士某の妻なり)の来歴を述べんに、彼女は
素備前の
産れなり。父なる人ある府庁に勤務中
看守盗の罪を犯して入獄せしかば、弁護士岡崎某の妻となり、その縁によりて父の弁護を頼みぬ。されば岡崎氏は彼女に取りて忘るべからざる恩人にて、妾が出獄せし際の如きも岡崎氏と
相挈え、
特に妾を迎えて郷里に同行するなど、妾との間柄もほとんど姉妹の如くなりしに、岡崎氏の家計
不如意となるに及びて、彼女はこれを
厭い、当時全盛に全盛を極めたる重井の虚名に
恋々して、
遂に
良人たり恩人たる岡崎氏を棄て、心強くも東京に
奔りて重井と交際し、果はその愛を
偸み得たりしなり。かかる野心のありとも知らず、妾はなお昔の如く相親しみ
相睦み合いしに、ある日重井よりの
書翰あり、読みもて行くに更に
何事とも解し得ざりしこそ道理なれ、富子は
何日か
懐胎してある病院に入院し子を分娩したるなり。さればその書翰は、入院中の彼女に送るべきものなりしに、重井の軽率にも、妾への書面と取り
違えたるなりとは、天罰とこそいうべけれ。かくと知りたる妾の胸中は、今ここに
記すまでもなきことなり、直ちに重井と泉に向かってその不徳を
詰責せしに、重井は益
その不徳の
本性を現わしたりけれど、泉は女だけにさすがに
後悔せしにやあらん、その後久しく消息を聞かざりしが、またも例の
幻術をもて
首尾よく農学博士の
令室となりすまし、いと安らかに、楽しく清き家庭を
整えおらるるとか。聞くが如きは、重井と彼女との間に生れたる男子は、彼女の実兄泉某の手に育てられしが、その兄発狂して頼みがたくなれるをもて、重井を
尋ねて、身を托せんと思い立ちしに、その妾お
柳のために
一言にして
跳付けられ、
已むなく博士某の
邸に生みの母なる富子夫人を尋ぬれば、これまた面会すらも断わられて、
爾来行く処を知らずとぞ。年齢はなお十三、四歳なるべし。しかも
辛苦の内に成長したればか、非常にませし容貌なりとの事を耳にしたれば、アア何たる無情ぞ何たる罪悪ぞ、父母共に人に
優れし教育を受けながら、己れの虚名心に駆られて、将来有為の男児をば
無残々々浮世の風に
晒し、なお一片
可憐なりとの
情も浮ばず、ようよう尋ね寄りたる子を追い返すとは、何たる
邪慳非道の鬼ぞやと、妾は同情の念
已みがたく、
如何にもしてその所在を知り、及ばずながら、世話して見んと心掛くるものから、いまだその生死をだに知るの道なきこそ
遺憾なれ。
ここにおいて
妾は全く重井のために
弄ばれ、
果は全く
欺かれしを知りて、わが
憤怨の情は何ともあれ、差し当りて両親兄弟への申し訳を
如何にすべきと、ほとほと狂すべき思いなりしをわれを
励まし、かつて生死をさえ共にせんと誓いたりし同志中、
特に徳義深しと聞えたるある人に面会し、一部始終を語りて、その
斡旋を求めけるに、さても人の心の頼めがたさよ、彼
曰く既に心変りのしたる者を、如何に説けばとて、
責むればとて、
詮もなからん。むしろ早く思い棄てて
更に良縁を求むるこそ
良けれ、世間
自ずから有為の男子に乏しからざるを、彼一人のために
齷齪する事の
愚かしさよと、思いも寄らぬ勧告の腹立たしく、さては君も今代議士の栄職を
荷いたれば、最初の志望は棄てて、かつて政敵たりし政府の
権門家に屈従するにこそ、世間
自ずから栄達の道に乏しからざるを、
大義のために齷齪することの愚かしさよとや
悟り給うらん。アア堂々たる男子も
一旦志を得れば、その
難有味の忘れがたくて如何なる屈辱をも甘んぜんとす、さりとては
褻らわしの人の心やと、
当面りに言い
罵り、その醜悪を極めけれども、彼
重井の変心を機として妾を
誑惑さんの下心あるが如くなお落ち着き払いて、この
熱罵をば微笑もて受け流しつつ、その
後も
数訪い寄りては、かにかくと甘き
辞を
弄し、また家人にも取り入りてそが歓心を得んと
勉めたる心の内、よく見え
透きて、
憫れにもまた
可笑しかりし。
否彼がためにその細君より疑い受けて、そのまま今日に及べるこそ思えば
口惜しく腹立たしき限りなれ。かくわが朝鮮事件に関せし有志者は、出獄後郷里の有志者より
数年の辛苦を徳とせられ、
大抵代議士に撰抜せられて、一時に得意の世となりたるなり。
復た当年の
苦艱を
顧みる者なく、そが細君すらも
悉く虚名虚位に
恋々して、
昔年唱えたりし主義も本領も失い果し、一念その身の
栄耀に
汲々として借金
賄賂これ本職たるの有様となりたれば、かの時代の志士ほど、世に堕落したる者はなしなど世の人にも
謡わるるなり。さる薄志弱行の人なればこそ、
妾が重井のために無上の恥辱を
蒙りたるをば、なかなかに乗ずべき機なりとなし、
厭になったら、また
善いのを求むべし、これが当世なりとは、さても横に
裂けたる口かな。何たる教訓ぞや。
見よ彼らが家庭の
紊乱せる有様を、
数年間苦節を守りし最愛の妻をして、
良人の出獄、やれ嬉しやと思う間もなく、かえって入獄中の心配よりも一層の
苦悶を覚えしめ、
淫酒に
耽り公徳を害して、わがままの振舞いやが上に増長すると共に、細君もまた失望の余り、自暴自棄の心となりて、良人と同じく色に
溺れ、
果はその子にまで無限の苦痛を
嘗めしむるもの
比々として皆しかりとかや、アアかかるものを頼めるこそ
過ちなりけれ。この上は
自ら重井との関係を断ち
翻然悔悟してこの一身をば愛児のために
捧ぐべし。妾
不肖なりといえどもわが子はわが手にて養育せん、誓って
一文たりとも彼が保護をば仰がじと
発心し、その
旨言い送りてここに全く彼と絶ち、家計の保護をも謝して全く独立の歩調を
執り、さて両親にもこの事情を語りて、その承諾を求めしに、非常に
激昂せられて、人を以て厳しく談判せんなど言い
罵られけるを、かかる不徳不義の者と知らざりしは全く妾の過ちなり、今更
如何に
責めたりともその
効あらんようなく、かえって恥をひけらかすに
止まるべしと、かつ
諌めかつ
宥めけるに、ようように
得心し給う。
それより
妾は女子実業学校なる者を設立して、幸いに諸方の賛助を得たれば、家族一同これに従事し、母上は習字科を兄上は読書算術科を父上は会計を
嫂は
刺繍科
裁縫科を弟は図画科を弟の妻は英学科をそれぞれに分担し親切に教授しけるに、東京市内は勿論
近郷よりも続々入学者ありて、一時は満員の姿となり、ありし昔の家風を復して、再び純潔なる生活を送りたりしにさても人の世の
憂たてさよ、明治二十五年の冬父上
風邪の
心地にて仮りの
床に
臥し給えるに、心臓の
病さえ併発して医薬の効なく
遂に
遠逝せられ、涙ながらに
野辺送りを済ましてよりいまだ四十日を出でざるに、叔母上またもその
跡を追われぬ。この叔母上は妾が妊娠の当時より非常の心配をかけたるにその恩義に報ゆるの
間もなくて早くも世を去り給えるは、今に遺憾
遣る
方もなし。その翌年四月には大切なる兄上さえ世を捨てられ、
僅かの月日の内に三度まで葬儀を営める事とて、本来
貧窮の家計は、ほとほと
詮術もなき悲惨の
淵に沈みたりしを、有志者諸氏の好意によりて、
辛くも持ち支え再び開校の準備は成りけれども、
杖柱とも頼みたる父上兄上には別れ、
嫂は子供を残して実家に帰れるなどの事情によりて、容易に授業を始むべくもあらず、一家再び倒産の
憐れを告げければ、妾は身の不幸不運を
悔むより
外の涙もなく、この上は海外にも
赴きてこの
志を
貫かんと思い立ち、
徐ろに不在中の家族に対する方法を講じつつありし時よ、天いまだ妾を捨て給わざりけん
端なくも
後日妾の敬愛せる
福田友作と
邂逅の機を与え給えり。
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これより先、明治二十三年の春、
新井章吾氏の宅にて、一度福田と面会せし事はありしが、当時
妾は重井との関係ありし頃にて、福田の事は別に記憶にも存せざりしが、彼は妾の身の上を知り、
一度交誼を結ばんとの念はありしなるべし。ある日
関東倶楽部に一友人を
尋ねし時、
一紳士の微笑しつつ、
好処にてお目にかかれり、是非お宅へ御尋ね申したき事ありというを冒頭に、妾の
方に近づき来りて、
慇懃に挨拶せるは福田なり。そは
如何なる御用にやと問い
反せしに、彼は妾の学校の当時なお存しおる者と思い居たるが如く、今回郷里なる親戚の小供の出京するにつきては、是非とも御依頼せんと思うなりという。依って妾は目下都合ありて閉校せることを告げ、
尤も表面学校生活はなしおらざるも、両三人自宅に同居して読書習字の手ほどきをなしおれり、それにて差し支えなくば
御越しなさるるも
宜しけれど、実の処、
一方ならぬ困窮に
陥りて学校らしき体面をすら装う
能わずと話しけるに、彼は何事にか大いに感じたる
体なりしも道理、その際彼も米国より帰朝以来、
小石川竹早町なる
同人社の講師として
頗る
尽瘁する所ありしに、不幸にして校主
敬宇先生の
遠逝に
遭い閉校の
止むなき有様となりたるなり。その境遇あたかも妾と同じかりければ、彼は同情の念に堪えざるが如く、
頻りに妾の不運を慰めしが、その
後両親との意見
相和せずして、益
不幸の境に沈むと同時に、同情相憐れむの念いよいよ深く、
果は妾に向かい再び海外に渡航して、かの国にて世を終らんかなどの事をさえ打ち明くるに至りければ、妾もまたその情に撃たれつつ、
御身は妾と異なりて、財産家の
嫡男に生れ給い、
一度洋行してミシガン大学の業を
卒え、今は法学士の免状を得て、
芽出たく帰朝せられし身ならずや、
何故なればかかる悲痛の言をなし給うぞ。妾の如く貧家に生れ
今日重ねてこの不運に
遇いて、あわや活路を失わんずるものとは、
同日の談にあらざるべしと
詰りしに、実に彼は
貧よりもなおなおつらき境遇に
彷徨えるにてありき。彼は
忽ち眼中に涙を浮べて、財産家に生るるが幸福なりとか、
御身の言葉
違えり、
仮令ばその
日暮しのいと
便なきものなりとも、一家
団欒の楽しみあらば、人の世に取りて
如何ばかりか幸福ならん。
素と自分の洋行せしは、親より
強いて従妹なる者と結婚せしめられ、初めより
一毫の愛とてもなきものを、さりとは押し付けの至りなるが腹立たしく、
自暴より思い付ける遊学なりき。されば両親も自ら
覚る所ありてか遊学中も学資を送り来りて、七年の修業を積むことを
得、先に帰朝の後は自分の理想を家庭に施す事を得んと楽しみたりしに、
志はまた事と違いて、昔に
優る両親の処置の
情けなさ、かかる家庭にあるも心苦しくて
他出することの
数なりしにつれて、覚えずも魔の道に踏み迷い、借財山の如くになりて
遂に父上の怒りに触れ、かかる
放蕩者の
行末ぞ
覚束なき、勘当せんと
敦圉き給えるよし聞きたれば、心ならずも再びかの国に渡航して身を終らんと覚悟せるなりと物語る。アア妾もまた不幸
落魄の身なり、不徳不義なる日本紳士の
中に立ち交らんよりは、知らぬ他郷こそ恋しけれといいけるに、彼は
忽ち
活々しく、さらば自分と同行するの意はなきや、幸い十年足らずかの地に遊学せし身なれば、かの地の事情に精通せりなど、
真心より打ち
出されて、遠き
沙漠の旅路に清き泉を得たらんが如く、嬉しさ
慕わしさの余りより、その後
数相会しては、身にしみじみと世の
果敢なさを語り語らるる
交情となりぬ。ある日彼は改めて
御身にさえ異存なくば、この際結婚してさて渡航の準備に着手せんといい出でぬ。妾も心中この人ならばと思い定めたる
折柄とて、直ちに承諾の
旨を答え、いよいよ結婚の約を結びて、母上にも事情を告げ、彼も公然その友人らに
披露して、それより
同棲することとなり、一時
睦まじき家庭を造りぬ。
その頃の新聞紙上には、豪農の息子
景山英と結婚すなどの記事も見えけるが、その実
福田友作は着のみ着のままの貧書生たりしなり。彼は帰朝以来、今のいわゆるハイカラーなりしかば、有志といえる
偽豪傑連よりは、
酒色を以て
誘われ、その高利の借金に対する証人または
連借人たる事を承諾せしめられ、
果は
数万の借財を
負いて両親に
譴責せられ、今は家に帰るを
厭いおる時なりき。彼は
亜米利加より法学士の免状を持ち帰りし名誉を
顧みるの
遑だになく、貴重の免状も
反古同様となりて、戸棚の隅に
鼠の巣とはなれるなりき。
可哀さの余りにか
将た
憎さにか、困らせなば帰国するならん、東京にて役人などになって
貰わんとて、学問はさせしに
非ずと、
実に親の身としては、忍びざるほどの恥辱苦悶を子に
嘗めさせ、なお帰らねば
廃嫡せんなど、種々の難題を持ち出せしかど、財産のために我が
抱負理想を
枉ぐべきに
非ずとて、彼は
諾う
気色だになければ、さしもの両親も
倦み果てて、そがなすままに打ち任せつつ居たるなりき。かくて彼は差し当り独立の
計をなさん者と友人にも
謀りて英語教師となり、自宅にて
教鞭を
執りしに、肩書きのある
甲斐には、生徒の
数ようように
殖えまさり、生計の営みに事を欠かぬに至りけるに、さては彼、東京に永住せんとするにやあらん、棄て置きなば、いよいよ帰国の念を減ぜしむべしとて、
国許より父の病気に托して帰国を
促し来ることいと
頻りなり。
已むなく帰省して見れば、両親は
交々身の老衰を打ち
喞ち、家事を監督する気力も
失せたれば何とぞ
家居して万事を処理しくれよという。
素より情には
脆き彼なれば、非道なる圧制にこそ反抗もすれ、
事を分けたる親の言葉の前には我慢の角も折れ尽し、そのまま家におらんかとも考えしかど、多額の借財を負える身の、今家に帰らんか、父さては家に
累いを及ぼさんは眼の前なりと思い返し、財産は弟に譲るも遺憾なし、自分は思う
仔細あれば、多年の苦学を
空しうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに、両親の
機嫌見る見る変りて、不孝者よ、恩知らずよと
叱責したり。
已むなく前言を取り消して、永く
膝下にあるべき
旨を答えしものから、七年の苦学を無にして
田夫野人と共に
耒鋤を
執り、貴重の
光陰を
徒費せんこと、
如何にしても口惜しく、また妾の将来とても、到底農家に来りて
馴れぬ養蚕
機織りの
業を執り得べき身ならねば、一日も早く資金を造りて、
各長ずる道により、世に立つこそよけれと
悟りければ、再び両親に向かいて、財産は弟に譲り自分は独立の生計を求めんと決心せるよしを述べ、さて
少許の資本の
分与を乞いしに、思いも寄らぬ有様にて、家を思わぬ人でなしと
罵られ、
忽ち出で行けがしに遇せられければ、大いに覚悟する所あり、
遂に再び
流浪の
客となりて東京に来り、友人の
斡旋によりて
万朝報社の社員となりぬ。彼が月給を受けたるは、これが始めての終りなりき。
これより
漸く
米塩の資を得たれども、彼が出京せし当時はほとんど着のみ着のままにて、諸道具は一切
屑屋に売り払い、
遂には火鉢の
五徳までに手を附けて、
僅かに
餓死を免がるるなど、その境遇の悲惨なるなかなか
筆紙の尽し得る所にあらざりしかど、富豪の家に人となりし彼の、別に苦情を訴うることもなく、むしろ清貧に安んじたりし有様は、
妾をして、
坐ろ気の毒の感に堪えざらしめき。妾はこれに引き換えて、
素より
貧窶に
馴れたる身なり、そのかつて得んと望める相愛の情を得てよりは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めける
権門の令夫人よ、
御身が偽善的儀式の愛に
欺かれて、終生浮ぶ
瀬のなき
凌辱を
蒙りながら、なお儒教的教訓の圧制に余儀なくせられて、
窃かに愛の欠乏に泣きつつあるは、妾の境遇に比して、その幸不幸
如何なりやなど、少なからぬ快感を楽しむなりき。妾は愛に
貴賤の別なきを知る、
智愚の
分別なきを知る。さればその夫にして他に愛を分ち我を恥かしむる行為あらば、我は男子が
姦婦に対するの処置を以てまた
姦夫に臨まんことを望むものなり。東洋の女子
特に独立自営の力なき婦人に取りて、この主義は余り極端なるが如くなれども、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進せしむべき者、男子は時と場合とによりて、いわゆる都合によりてその愛を四方八方に立ち寄らしむるを得る者といわば、誰かその片手落ちなるに驚かざらんや。人道を重んずる人にして、なおこの不公平なる所置を怪しまず、衆口同音婦人を責むるの
惨酷なる事、古来習慣のしからしむる所といわばいえ、二十世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地なきなり。さりながら、こは
独り男子の罪のみに
非ず、婦人の卑屈なる依頼心、また最も
与りて悪風習の因となれるなるべし。彼らは常にその良人に見捨てられては、
忽ち路頭に迷わんとの
鬼胎を
懐き、何でも
噛り付きて離れまじとは
勉むるなり。故にその愛は良人に非ずして、我が身にあり、我が身の
饑渇を恐るるにあり、浅ましいかな彼らの愛や、男子の
狼藉に
遭いて、黙従の
外なきはかえすがえすも口惜しからずや。思うに夫婦は両者相愛の情一致して、ここに始めて成立すべき関係なるが故に、人と人との手にて結び合わせたる形式の結婚は
妾の
首肯する
能わざる所、されば妾の福田と結婚の約を結ぶや、翌日より衣食の
途なきを知らざるに非ざりしかど、結婚の要求は相愛にありて、衣服に非ざることもまた知れり、衣服の
顧みるに足らざることもまた知れり、常識なき
痴情に
溺れたりという
莫れ、妾が良人の
深厚なる愛は、かつて少しも衰えざりし、彼は妾と同棲せるがために
数万の財を棄つること、あたかも
敝履の如くなりき。結婚の一条件たりし洋行の事は、夫婦の一日も忘れざる所なりしも、調金の道いまだ成らざるに、妾は
尋常ならぬ身となり、事皆
志と
差いて、貧しき内に男子を挙げ、名を
哲郎とは命じぬ。
しかるに生れて
二月とはたたざる内に、小児は
毛細気管支炎という難病にかかり、とかくする中、危篤の有様に陥りければ、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚にかえりて、風の日も雨の日も
厭うことなく、住居を
離る十町ばかりの
築土八幡宮に
参詣して、愛児の病気を救わせ給えと
祷り、
平生嗜める食物娯楽をさえに
断ちたるに、それがためとにはあらざるべけれど、それよりは
漸次快方に
赴きければ、
単に神の
賜物なりとて、夫婦とも感謝の意を表し、その
後久しく参詣を怠らざりき。
妾
幼より芝居
寄席に至るを
好み、また最も
浄瑠璃を
嗜めり。されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、
機に触れては勧め
誘いたれど、既に無形の娯楽を得たり、
復た
形骸を要せずと
辞みて応ぜず。ただわが家庭を
如何にして
安穏に経過せしめんかと心はそれのみに
奔りて、苦悶の
中に日を送りつつも、福田の苦心を思いやりて共に力を
協せ、
僅かに職を得たりと喜べば、
忽ち郷里に帰るの事情起る等にて、彼が身心の過労
一方ならず、彼やこれやの間に、
可借壮健の身を屈托せしめて、なすこともなく日を送ることの心
許なさ。
かくては前途のため
善からじと思案して、ある日
将来の事ども相談し、かついろいろと運動する所ありしに、
機よくも朝鮮政府の法律顧問なる資格にて、かの地へ渡航するの
便を得たるを以て、これ幸いと郷里にも告げず、旅費等は
半ば友人より、その他は非常の手だてにて
調え、渡韓の準備全く
整いぬ。当時朝鮮政府に大改革ありて、一時日本に亡命の
客たりし
朴泳孝氏らも
大政に参与し、威権
赫々たる時なりければ、日本よりも
星亨、
岡本柳之助氏ら、その
聘に応じて朝廷の顧問となり、既にして更に
西園寺侯爵もまた
勅を帯びて渡韓したりき。故に福田はこれらの人によりてかの国有志の
重立ちたる人々に交わりを求むるも
難からず、またかの国法務大臣
徐洪範は、かつて米国遊学中の同窓の友なれば重ね重ね便宜ありと勇みすすみて、いよいよ
出立の日妾に向かい、内地にては常に郷里のために目的を
妨げられ、万事に失敗して
御身にまで非常の心痛をかけたりしが、今回の
行によりて、
聊かそを
償い得べし。御身に病児を托す、願わくは
珍重にせよかしとて、決然
袂を
分ちしに、その
後二週間ばかりにして、またもや彼が頭上に一大災厄の起らんとは、
実にも悲しき運命なるかな。
これより先、郷里の両親らは福田が渡韓の事を聞きて彼を郷里に呼び返すことのいよいよ
難きを
憂い、その極
高利貸をして、福田が
家資分産の訴えを起さしめ、かくして彼の
一身を
縛り、また公権をさえ
褫奪して彼をして官途に
就く
能わざらしめ、結局
落魄して郷里に帰るの
外に
途なからしめんと企てたり。されば彼の
仁川港に着するや、右の宣告書は
忽ち領事館より彼が頭上に投げ
出されぬ。彼はその両親の慈愛が、かくまで極端なるべしとは、夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほどの苦しき
金をも調達して最愛の妻や病児をも
跡に残して、あかぬ別れを
敢えてしたるなるに、慈愛はなかなか
仇となりて、他に語るも恥かしと、帰京後男泣きに泣かれし時の悲哀そもいくばくなりしぞ。実に彼は死よりもつらき不面目を
担いつつ、
折角新調したりし寒防具その他の手荷物を売り払いて旅費を
調え、
漸く帰京の
途にはつき得たるなりき。
横浜に着すると同時に、
妾にちょっと当地まで来れよとの通信ありければ、病児をば人に托して直ちに旅館に至りしに、彼が
顔色常ならず、身に附くものとては、ただ一着の洋服のみとなりて、いとど帰国の
本意なき事を語り出でられぬ。妻の手前ながら定めて
断腸の思いなりしならんに、日頃
耐忍強き人なりければ、この上はもはや
詮方なし、自分は死せる
心算にて郷里に帰り、
田夫野人と
伍して一生を終うるの覚悟をなさん。かく
志を
貫く
能わずして、再び帰郷するの
止むなきに至れるは、
卿に対しまた
朋友に対して面目なき次第なるも、
如何せん両親の慈愛その度に過ぎ、われをして
遂に
膝下に
仕えしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじて
児のために犠牲とならん、何とぞこの
切なる心を察して、
姑らく時機を待ちくれよという。今は妾も
否みがたくて、
終に別居の策を講ぜしに、かの
子煩悩なる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも
一子を分ちて、家庭の
冷やかさを忘れしめよとあるに、これ
将た
辞みがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛を
和げんよすがにもと、
遂に哲郎をば彼の手に
委ねつ。その当時の悲痛を思うに、今も
坐ろに
熱涙の
湧くを覚ゆるぞかし。
かくて彼は再び鉄面を
被り愛児までを
伴いて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極
帰家せしを喜び、
何とかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、
毫も慈母の
撫育に
異なることなく、終日その
傍に
絆されて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心の
体にて
親ら愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、
妾に対してさえ、毎月
若干の手当てを送るに至りけるが、夫婦
相思の情は日一日に
弥増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男
侠太の
誕生間もなく、親族の者より、妾に
来郷の事を
促し来りぬ、されば彼はこれに反して、
私かに来らぬこそ
好けれと言い送れり。そは妾にして
仮し彼の家の如き冷酷の家庭に
入るとも到底長く
留まる
能わざるを予知すればなりき。妾とてもまた衣裳や金の持参なくして、
遥かに
身体一つを投ずるは、他の家ならば知らず、この場合においては、
徒に彼を悩ますの具となるに過ぎざることを知りければ、始めは固く
辞みて行かざりしに、親族は
躍気になりて来郷を促し、子供のために、
枉げて来り給えなどいと
切めて勧めけるに、
良人と
児との愛に引かれて、
覚束なくも、
舅姑の
機嫌を取り、裁縫やら子供の世話やらに
齷齪することとなりたるぞ、思えば変る人の身の上なりける。
されど妾の如き異分子の、
争でか長くかかる家庭に留まり得べき。
特に
舅姑の福田に対する挙動の、
如何に
冷やかにかつ
無残なるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受くるを
覚りては、針の
筵のそれよりも心苦しく、
仮い
一旦の
憤りを招かば招け、かえって互いのためなるべしとて、ある日幼児を背負いて、
窃かに帰京せんと
謀りけるに、中途にして親族の人に支えられ、その目的を達する
能わざりしが、彼も妾の意を察して、一家の和合望みなきを覚りしと見え、今回は断然
廃嫡の事を親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めんとの事に、妾もこれに賛して、十万の資産何かあらんと、相談の上、妾
先ず帰京して彼の決行果して
成就するや否やを気遣いしに、一カ月を経て親族会議の結果嫡男哲郎を祖父母の
膝下に留め、彼は出京して夫婦始めて、
愁眉を開き、暖かき家庭を造り得たるを喜びつつ、いでや結婚当時の約束を
履行せん下心なりしに、悲しい
哉、彼は百事の失敗に撃たれて脳の
病を
惹き起し、最後に出京せし頃には病既に
膏肓に入りて、ほとんど
治すべからざるに至り、
時々狂気じみたる挙動さえ
著しかりければ、知友にも勧誘を乞いて、鎌倉、
平塚辺に静養せしむべしと、その用意おさおさ
怠りなかりしに、積年の病
終に医する
能わず、
末子千秋の
出生と同時に、人事不省に
陥りて終に
起たず、三十六歳を
一期として、そのまま
永の別れとなりぬ。
[#改ページ]
アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるより
甚だしきはなかるべし。
妾も
一旦は悲痛の余り
墨染の
衣をも着けんかと思いしかど、福田実家の冷酷なる、亡夫の存生中より、既にその意の得ざる処置多く、病中の費用を
調うるを名として、
別家の際、
分与したる田畑をば親族の名に書き換え、即ちこれに売り渡したる
体に持て
做して、その実は再び
本家の
有となしたるなど、少しも油断なりがたく、彼の死後は
殊更遺族の
饑餓をも
顧みず、
一列投げやりの有様なれば、今は子らに対して
独り重任を負える身の、自ら世を捨て、
呑気の生涯を送るべきに
非ずと思い返し、亡夫の家を守りて、その日の
糊口に苦しみ居たるを、友人知己は見るに忍びず、わざわざ実家に
舅姑を
訪いて遺族の手当てを請求しけるに、彼らは少しの同情もなく、
漸く若干の小遣い
銭を送らんと約しぬ。かかる有様なれば、妾は
嬰児を
哺育するの
外、なお二児の教育の
忽せになしがたきさえありて、
苦悶懊悩の
裡に日を送る
中、神経衰弱にかかりて、
臥褥の日多く、医師より心を転ぜよ、しからざれば、健全に復しがたからんなどの注意さえ受くるに至りぬ。死はむしろ幸いならん、ただ子らのなお幼くして、
妾もしあらずば、
如何になり行くらん。さらば今一度元気を鼓舞して、三児を健全に養育してこそ、妾の責任も全く、良人の愛に
酬ゆるの道も立てと、自ら大いに
悔悟して、
女々しかりし心恥かしく、ひたすらに身の健康を祈りて、療養怠りなかりしに、やがて元気も旧に復し、浮世の荒浪に泳ぎ出づるとも、決して
溺れざるべしとの覚悟さえ生じければ、亡夫が一週年の
忌明けを以て、自他
相輔くるの策を講じ、ここに再び活動を開始せり。そは婦女子に実業的の修養をなすの要用ありと確信し、その
所思を有志に
謀りしに、大いに賛同せられければ、即ち亡夫の命日を以て、
角筈女子工芸学校なるものを起し、またこの校の維持を助くべく、
日本女子恒産会を起して、特志家の賛助を乞い、
貸費生の製作品を買い上げもらうことに定めたるなり。恒産会の趣旨は左の如し。
日本女子恒産会設立趣旨書
恒の
産なければ恒の心なく、
貧すれば
乱すちょう事は人の
常情にして、
勢い
已むを得ざるものなり。この故に人をしてその任務のある所を尽さしめんとせば、先ずこれに
恒の産を与うるの道を講ぜざるべからず。しからずして、ただその品位を保ち、その
本生を
全うせしめんとするは
譬えば車なくして陸を行き、舟なくして水を渡らんとするが如く、永くその目的を達する
能わざるなり。
今や我が国
都鄙到る処として
庠序の設けあらざるはなく、
寒村僻地といえどもなお
唔の声を聴くことを
得、
特に女子教育の如きも近来
長足の進歩をなし、女子の品位を高め、婦人の本性を発揮するに至れるは、妾らの大いに
欣ぶ所なり。されど
現時一般女学校の有様を見るに、その学科は
徒に高尚に走り、そのいわゆる工芸科なる者もまた優美を
旨とし以て
奢侈贅沢の用に供せらるるも、実際生計の助けとなる者あらず、以て
権門勢家の
令閨となる者を養うべきも、中流以下の家政を取るの賢婦人を
出すに足らず。これ実に
昭代の
一欠事にして、しかして妾らの
窃かに憂慮
措く
能わざる
所以なり。
それ世の婦女たるもの、人の妻となりて家庭を組織し、
能くその
所天を
援けて
後顧の
憂いなからしめ、あるいは一朝不幸にして、その
所天に
訣るることあるも、独立の生計を営みて、
毅然その操節を
清うするもの、その
平生涵養停蓄する所の智識と精神とに
因るべきは
勿論なれども、妾らを以てこれを考うれば、むしろ
飢寒困窮のその身を
襲うなく、
艱難辛苦のその心を痛むるなく、
泰然としてその境に安んずることを得るがためならずんばあらざるなり。
しかりといえども女子に適切なる職業に至りてはその数極めて少なし、やや望みを
嘱すべきものは
絹手巾の
刺繍これなり。絹手巾はその輸出かつて隆盛を極め、その年額百万
打その原価ほとんど三百余万円に
上り我が国産中実に重要の地位を占めたる者なりき。しかるにその
後の
趨勢は
頓に一変して貿易市場における信用全く地に落ち、輸出高
益減退するの悲況を呈するに至れり。これ
固と種々なる原因の存するものなるべしといえども、製作品の
不斉一なると、品質の粗悪なるとは、けだしその主なるものなるべきなり。しかしてその不斉一その粗悪なるは、その製出者と営業者とに徳義心を欠くが故なりというも
可なり、
鑑みざるべけんや。
そもそも文明の進み分業の行わるるに従い、機械的
大仕掛の製造盛んに行われ、
低廉なる価格を以て、
能く人々の要に応じ得べきに至るといえども、元来機械製造のものたる、
千篇一律風致なく
神韻を欠くを以て、
単に実用に供するに
止まり、美術品として
愛翫措く
能わざらしむる事なし。しかるに経済社会の
進捗し
富財の
饒多となるに従って、昨日の
贅沢品も
今日は実用品と化し去り、贅沢品として愛翫せらるるものは、勢い
手工の妙技を
逞しうせる
天真爛漫たるものに
外ならざるに至るなり、故を以て衣食住の程度低き我が国において、我が国産たる絹布を用い、これに加うるに手工
細技に
天稟の妙を有する我が国女工を以てす、あたかも
竜に
翼を添うが如し、以て精巧にこれを製出し、世界の市場に雄飛す、天下
如何ぞこれに抗争するの敵あるを得んや。しかるに事実のこれと反したるは、妾らの悲しみに堪えざる処なり、故にもし今大資本家に依りて製品の
斉一を計り、かつ
姑息の利を
貪らずして品質の精良を致さば、その成功は期して待つべきなり。
妾らここに見るあり
曩日に女子工芸学校を創立して妙齢の女子を
貧窶の
中に救い、これに
授くるに生計の方法を以てし、
恒の
産を得て恒の心あらしめ、小にしては
一身の
謀をなし、大にしては日本婦人たるの任務を尽さしめんとす、しかして事ややその
緒に
就けり。
乃ちここに本会を組織し、その製作品の輸出に付いて特別なる便利を与えんと欲す。顧みるに妾ら学浅く、才
拙なり、加うるに微力なすあるに足らず、しかしてなおこの大事を企つるは、誠に一片の
衷情禁ぜんとして禁ずる
能わざるものあればなり。
希わくは世の兄弟姉妹よ、血あり
涙あらば、来りてこれを賛助せられん事を。
明治三十四年十一月三日
設立者謹述
この事業はいまだ
半途にして
如何になり行くべきや、常なき人の世のことは
予めいいがたし、ただこの趣意を
貫かんこそ、
妾が将来の務めなれ。
* * *
三十余年の半生涯、顧みればただ夢の如きかな。アア妾は今
覚めたるか、覚めてまた新しき夢に入るか、妾はこの世を棄てん
乎、この世妾を棄つる乎。進まん乎、妾に資と才とあらず。
退かん乎、
襲うて
寒と
饑とは来らん。
生死の
岸頭に立って人の
執るべき道はただ
一、誠を尽して天命を待つのみ。