妾の半生涯

福田英子




はしがき


 昔はベンジャミン・フランクリン、自序伝をものして、その子孫のいましめとなせり。操行に高潔にして、業務に勤勉なるこの人の如きは、まことに尊き亀鑑きかんを後世にのこせしものとこそ言うべけれ。しょうの如き、如何いかに心のおごれることありとも、いかで得てくわだつべしと言わんや。
 世に罪深き人を問わば、妾は実にその随一ならん、世に愚鈍おろかなる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。よわい人生の六分ろくぶに達し、今にして過ぎかたかえりみれば、行いし事として罪悪ならぬはなく、謀慮おもんばかりし事として誤謬ごびゅうならぬはなきぞかし。羞悪しゅうお懺悔ざんげ、次ぐに苦悶くもん懊悩おうのうもってす、しょうが、回顧をたすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみなり
 懺悔の苦悶、これをいやすの道はただおのれを改むるよりにはあらじ。されど如何いかにしてかその己れを改むべきか、これいつの苦悶なり。苦悶の上の苦悶なり、苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上また苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎あやにくに他の苦悶来り、しょうや今実に苦悶の合囲ごういの内にあるなり。されば、この書をあらわすは、もとよりこの苦悶を忘れんとてのわざにはあらず、いな筆をるその事もなかなか苦悶のたねたるなり、一字は一字より、一行は一行より、苦悶は※(二の字点、1-2-22)いよいよまさるのみ。
 苦悶くもんはいよいよ勝るのみ、されど、しょうあながちにこれを忘れんことを願わず、いななつかしの想いは、その一字に一行に苦悩と共に弥増いやますなり。懐かしや、わが苦悶の回顧。
 おもえば女性の身のみずかはからず、年わかくして民権自由の声にきょうし、行途こうと蹉跌さてつ再三再四、ようやのち半生はんせいを家庭にたくするを得たりしかど、一家のはかりごといまだ成らざるに、身は早くとなりぬ。人の世のあじきなさ、しみじみと骨にもとおるばかりなり。もし妾のために同情の一掬いっきくそそがるるものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
 しょうが過ぎかた蹉跌さてつの上の蹉跌なりき。されど妾は常にたたかえり、蹉跌のためにかつて一度ひとたびひるみし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり。この天職を自覚すればこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔もなつかしくは思うなれ。
 妾の懺悔ざんげ、懺悔の苦悶これをいやすの道は、ただただ苦悶にあり。妾が天職によりて、世とおのれとの罪悪と戦うにあり。
 先に政権の独占をいきどおれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心せきしん資本の独占に抗して、不幸なる貧者ひんしゃの救済にかたむけるなり。妾が烏滸おこそしりを忘れて、えて半生の経歴をきわめて率直に少しく隠す所なくじょせんとするは、あながちに罪滅ぼしの懺悔ざんげえんとにはあらずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。
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第一 家庭



一 まがいもの

 しょうは八、九歳の時、屋敷内やしきうちにて怜悧れいりなる娘とめそやされ、学校の先生たちには、活発なる無邪気なる子と可愛がられ、十一、二歳の時には、県令学務委員等ののぞめる試験場にて、特に撰抜せられて『十八史略』や、『日本外史』の講義をなし、これを無上の光栄と喜びつつ、世に妾ほど怜悧なる者はあるまじなど、心ひそかに郷党きょうとうに誇りたりき。
 十五歳にして学校の助教諭を托せられ、三円の給料を受けて子弟を訓導するの任に当り、日々勤務のかたわら、復習を名として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校をしのがんばかりの隆盛を致せり。
 学校に通う途中、妾は常に蛮貊わんぱく小僧らのために「マガイ」が通る「マガイ」が通るとののしられき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時しょうは実に「マガイ」なりしなり。「マガイ」とは馬爪ばづ鼈甲べっこうに似たらしめたるにて、現今の護謨ゴム象牙ぞうげせると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如何いかばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、起居ききょ振舞ふるまいのお転婆てんばなりしは言うまでもなく、修業中は髪をいとまだにしき心地ここちせられて、一向ひたぶるに書を読む事を好みければ、十六歳までは髪をりて前部を左右に分け、衣服までことごと男生だんせいの如くによそおい、しかも学校へは女生ととものうて通いにき。近所の小供こどもらのこれをて異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとは罵りしなるべし。これをおもうごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう世心よごころの付きめて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて束髪そくはつの仲間入りはしたりける。

二 自由民権

 十七歳の時はしょうに取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論客ろんかく多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉石久米雄はいしくめお氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上のたわむれに物せし大津絵おおつえぶしあり。
すめらみの、おためとて、備前びぜん岡山を始めとし、数多あまたの国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣たびごろも、親や妻子つまこを振り捨てて。(詩入しいり)「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲やかすみもほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」
 尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論にきょうせる時なりければ、しょう月琴げっきんに和してこれをうたうを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生花いけばな、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙動ふるまいし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心をやわらぐるにかずとて、八雲琴やくもごと、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれとに入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。

三 縁談えんだん

 十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想にかなわずとて、謝絶しければ、父母もこうじ果てて、ある日しょうに向かい、家の生計意の如くならずして、倒産のき目さえやがて落ちかからん有様なるに、御身おんみとて何時いつまでか父母の家にとどまり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いとめたる御言葉おんことばなり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御恵おんめぐみによりてもはや自活の道を得たれば、仮令たとい今よりこの家をわるるとも、糊口ここうに事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままになが膝下しっかせしめ給え、学校より得る収入はことごとく食費としてささまいらせいささ困厄こんやくの万一を補わんと、心より申しでけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は沙汰止さたやみとなりにき。
 ああ世にはかくの如く、父兄に威圧いあつせられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、如何いかでこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くもきざみ付けられたる願いなりける。
 結婚沙汰ざたみてより、妾は一層学芸に心をめ、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切懇到こんとうに教授しければ、さらぬだに祖先より代々よよ教導を以て任としきたれるわがいえの名は、たちま近郷きんごうにまで伝えられ、入学の者日に増して、間もなく一家は尊敬の焼点しょうてんとなりぬ。りてある寺を借り受けて教場を開き、は更に昼間就学のいとまなき婦女、貧家ひんかの子弟に教え、母上は習字を兄上は算術を受け持ちて妾を助け、土曜日には討論会、演説会を開きて知識の交換をはかり、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採りぬ。


四 岸田女史きた

 そのとし有名なる岸田俊子きしだとしこ女史(故中島信行氏夫人)漫遊しきたりて、三日間わがきょうに演説会を開きしに、聴衆雲の如く会場立錐りっすいの地だもあまさざりき。にや女史がその流暢りゅうちょうの弁舌もて、滔々とうとう女権拡張の大義を唱道せられし時の如きしょうも奮慨おくあたわず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等にはかりて、女子懇親会を組織し、諸国に率先そっせんして、婦人の団結をはかり、しばしば志士論客ろんかくしょうじては天賦てんぷ人権自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の陋習ろうしゅうを破らん事を務めしに、風潮の向かう所入会者引きも切らず、会はいよいよ盛大におもむきぬ。

五 納涼会

 同じ年の夏、自由党員の納涼会を朝日川に催すこととなり、女子懇親会にも同遊を交渉しきたりければ、元老女史竹内、津下つげの両女史とはかりてこれに応じ、同日夕刻より船を朝日川にうかぶ。会員楽器に和して、自由の歌を合奏す、悲壮のおん水を渡りて、無限の感に打たれしことの今もなおこの記憶に残れるよ。折しも向かいの船に声こそあれ、白由党員の一人いちにん甲板かんぱんの上に立ち上りて演説をなせるなり。殺気凜烈りんれつ人をして慄然りつぜんたらしむ。市中ならんには警察官の中止解散を受くるきわならんに、水上これ無政府の心やすさは何人なんびとの妨害もなくて、きょうに乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せるこの時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現われて、会に中止解散を命じぬ。はからざりきこの船遊びを胡乱うろんに思い、恐るべき警官が、水にひそみてその挙動をうかがい居たらんとは。船中の人々は今を興たけなわの時なりければ、河童かっぱを殺せ、なぐり殺せとひしめき合い、荒立ちしが、長者ちょうじゃげんに従いて、皆々おだやかに解散し、大事だいじに至らざりしこそ幸いなれ。されどしょうの学校はその翌日、時の県令高崎たかさき某より、「詮議せんぎ次第しだい有之これあり停止ていし候事そうろうこと」、との命をこうむりたり。詮議の次第とは何事ぞ、その筋に向かいて詰問する所ありしかど何故なにゆえか答えなければ、妾の姉婿しせい某が県会議員常置委員たりしにりてその故をたずねしめけるに、理由は妾が自由党員と船遊びを共にしたりというにありて、姉婿さえ譴責けんせきを加えられ、しばら謹慎きんしんを表する身の上とはなりぬ。
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第二 上京



一 故郷を捨つ

 政府が人権を蹂躙じゅうりんし、抑圧をたくましうしてはばからざるはこれにてもあきらけし。さては、平常先輩の説く処、まことにその所以ゆえありけるよ。かかる私政に服従するの義務何処いずくにかあらん、この身は女子なれども、如何いかでこの弊制へいせい悪法を除かずしてむべきやと、しょうは怒りに怒り、※(「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2-89-92)はやりに※(「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2-89-92)りて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都にでて有志の士にはからばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家をる三里ばかりなる親友山田小竹女やまだこたけじょもとより、明日みょうにち村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、せつなる招待の状きたれり。そのまま東都にはしらんにいとついでよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をもいざないて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺にもうで、しばら黙祷もくとうして妾がこころざしを祖先に告げぬ。初秋はつあきのいとさわやかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家にそむき、恩愛厚き父母の膝下しっかを離れんとする苦しさは、しのぶとすれど胸に余りて、外貌おもてにや表われけん、帰るさの途上みちみちも、母上は妾の挙動をあやしみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御許おんゆるしこそなけれ母は御身おんみを片田舎の埋木うもれぎとなすを惜しむ者、如何で折角せっかくの志をはばむべき、やすんじて仔細しさいを語れよと、さりとは慈愛深き御仰おんおおせかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底御許容おんゆるしなきを知ればなり。かくて志士しし仁人じんじんに謀りて学資の輔助ほじょを乞い、しかる上にて遊学ののぼらばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大和やまとの豪農土倉庄三郎どくらしょうざぶろう氏に懇願せんとて、先ずその地を志しひそかに出立しゅったつの用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板垣伯いたがきはくを始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下阪げはんし、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機いっすべからずとて、ついに母上までもあざむき参らせ、親友の招きに応ずと言いつくろいて、一週間ばかりのいとまを乞い、翌日家の軒端のきばを立ちでぬ。実に明治十七年の初秋はつあきなりき。

二 板垣伯にえっ

 友人の家にくより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されどかねての決心なり、明くれば友人のねんごろに引き止むるをも聴かず、暇乞いとまごいして大阪に向かいぬ。しかるにしょうと室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、しきりに妾の生地を尋ねつつ此方こなたの顔のみ注視するていなるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるにはあらざると、一旦いったんは少なからずあやぶめるものから、もと妾のきょうを出づるは不束ふつつかながら日頃の志望をげんとてなり、かのかきを越えてはしるなどのみだりがましき類ならねば、た何をか包みかくさんとて、やがて東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意をらしけるに、さらばその親戚はれ町名番地は如何いかになど、執拗しゅうねく問わるることの蒼蝿うるさくて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉皇そうこうって事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井はしょう何人なんびとなるかを問いきわむる暇もなく、その人にひかれて来り見れば、何ぞはからん従妹じゅうまいの妾なりけるに、更に思い寄らぬていにて、何故なにゆえの東上にや、両親には許可を得たりやなど、たたみかけて問い出でぬ。もとより承諾を得たりとは、その場合われと心をあざむける答えなりしが、果ては質問のの堪えがたなく、とど苦しき胸を押さえひたいさすりて、眩暈めまい托言ことよせ、くわしくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時ようよう大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅をよろこび迎え、しかも妾の新来をいぶかしうも思えるなるべし。そのゆうべ妾はついに藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。さいは深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽力じんりょくせんと誓いぬ。
 その翌日直ちに土倉氏を銀水楼ぎんすいろうに訪れけるに、氏はいまだ出阪しゅっぱんしおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮様せんようもなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓所ぐうしょに訪れしに、葉石氏はしょうが出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、ねんごろなる教訓をれ給いき。されど妾の一念ひるがえすべくもあらずと見てか、いても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意をべよとあるに、妾はうべないて遂に伯にえっし、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御身おんみが東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦家ほうかのため、人道のためにつとめよとの御言葉おんことばなり。世にも有難ありがたくて感涙かんるいむせべるその日、はからざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不肖ふしょうながら学資を供せんとの意味を含みし書翰しょかんにてありしかば、天にも昇る心地して従弟いとこにもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉皇そうこう土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞をべ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一向ひたぶるに東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意にりて学資をさえきゅうせらるるの幸福を無視するは勿体もったいなしとて、ついに公然東上の希望をれたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。

三 書窓しょそうの警報

 それより数日すじつを経て、板伯はんはくよりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御身おんみと同伴の事を頼み置きたり、ぐによ紹介せんとの事に、取りえず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹さとうていかん氏にてありければ、しょうはいよいよ安心して、翌日神戸出帆しゅっぱんの船に同乗し、船の初旅もつつがなくた横浜よりの汽車の初旅もさわりなく東京にちゃくして、ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『自由燈じゆうのともしび新聞』記者坂崎斌さかざきさかん氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築地つきじなる新栄しんさかえ女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、かたわら坂崎氏にきて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一日あるひ朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、はしなくも妾の書窓しょそうを驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、ほかに対しては卑屈これ事とし、国家の恥辱ちじょくして、ひとえに一時の栄華をてらい、百年のうれいをのこして、ただ一身の苟安こうあんこいねがうに汲々きゅうきゅうたる有様を見ては、いとど感情にのみはしるのくせある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、つい巾幗きんこくの身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰民だみんの眠りをさましくれではむまじの心となりしこそはしたなき限りなりしか。

四 当時の所感

 ああかくの如くにしてしょうは断然書をなげうつの不幸をきたせるなりけり。当時妾の感情をらせる一片いっぺんぶんあり、もとより狂者きょうしゃの言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、抜萃ばっすいすることを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕傲きょうごうを憂うると共に、また昔時せきじ死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄をいとえり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死にいたるまでもまざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、しきりに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、ようやくかの私欲私利に汲々きゅうきゅうたる帝国主義者の云為うんいを厭わしめぬ。
 ああ学識なくして、いたずらに感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂世ゆうせい愛国の女志士じょししとして、人もゆるされき、妾も許しき。しばらく女志士として語らしめよ。

   獄中ごくちゅう述懐じゅっかい明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳
元来のうは我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習ろうしゅうに慣れ、卑々屈々ひひくつくつ男子の奴隷どれいたるをあまんじ、天賦てんぷ自由の権利あるを知らずおのれがために如何いかなる弊制悪法あるもてんとして意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣きんい玉食ぎょくしょくするを以て、人生最大の幸福名誉となす而已のみあに事体の何物たるを知らんや、いわんや邦家ほうか休戚きゅうせきをや。いまだかつて念頭にけざるは、滔々とうとうたる日本婦女皆これにして、あたかも度外物どがいぶつの如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となしいつも顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、ひとえに女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、のうは同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これもとより儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆きそいて国政に参し、決して国の危急を余所よそに見るなく、おのれのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化をいざない、く事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよせつなるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌えんきし、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告ちゅうこくし、早く立憲の政体を立て、人民をしてまつりごとに参せしめざる時は、憂国の余情あふれて、如何いかなる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬耳東風はじとうふうたる而已のみならず憂国の志士しし仁人じんじんが、誤って法網ほうもうれしを、無情にも長く獄窓に坤吟しんぎんせしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙まいきょいとまあらず。就中なかんずく儂の、最も感情を惹起じゃっきせしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦てんぷの三大自由権を剥奪はくだつし、あまつさのうらの生来せいらいかつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に奉勅ほうちょく云々うんぬんの語を付し、おそれ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶懊悩おうのうの余り、しば数行すこう血涙けつるい滾々こんこんたるを覚え、寒からざるに、はだえ粟粒ぞくりゅうを覚ゆる事※(二の字点、1-2-22)しばしばなり。須臾しゅゆにして、おもえらくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛しゅうれんこくなるをうらみ、如何いかんの感を惹起せん、恐るべくも、積怨せきえんの余情溢れてつい惨酷ざんこく比類なき仏国ふっこく革命の際の如く、あるいは露国虚無党きょむとう謀図ぼうとする如き、惨憺悲愴さんたんひそうの挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを未萌みほう削除さくじょせざるを得ずと、すなわ曩日さきに政府に向かって忠告したる所以ゆえんなり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、もとより現当路者の旧蹟きゅうせきあるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意にもとり、あまつさえ日清談判の如く、国辱こくじょくを受くる等の事ある上は、もはや当路者をかえりみるのいとまなし、我が国の危急を如何いかんせんと、益※(二の字点、1-2-22)政府の改良に熱心したる所以ゆえんなり。のう※(二の字点、1-2-22)つらつら考うるに、今や外交日に開け、おもて相親睦あいしんぼくするの状態なりといえども、腹中ふくちゅう※(二の字点、1-2-22)おのおの針をたくわえ、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強しきょうの欲をたくましうし、しきりに東洋を蚕食さんしょくするのちょうあり、しかして、うち我が国外交の状態につき、近くのうの感ずる処をぐれば、曩日さきに朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。加之しかのみならず、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりもあきらけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人もひそかに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、血涙けつるい淋漓りんり鉄腸てっちょう寸断すんだん石心せきしん分裂ぶんれつの思い、愛国の情、うたた切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき、ああこの国辱をそそがんと欲するの烈士、三千七百万中一人いちにんも非ざる乎、条約改正なき、またむべなるかなと、内を思い、ほかを想うて、悲哀転輾てんてん懊悩おうのうえず。ああ如何いかんして可ならん、仮令たとい女子たりといえども、もとより日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、ひと愁然しゅうぜん、苦悶に沈みたりき。なんとなれば、他にはかるの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、しばらく一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、のうは修業中なるを以て、小林の寓所ぐうしょう事もはなはまれなりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書をなげうちたり。また小林はかねての持論に、仮令たとい如何いかに親密なる間柄あいだがらたるも、決して、人の意をげしめて、おのれの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて満腔まんこうの思想を、陳述する者なりと、何事においても、すべてかくの如くなりし。しかるに、たちまち朝鮮一件より日清の関係となるや、のう曩日さきに述べし如く、我が国の安危あんき旦夕たんせきに迫れり、あに読書の時ならんやと、奮然書をなげうち、先ず小林の処に至り、この際如何いかんの計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方げんを尽して、※(二の字点、1-2-22)しばしばその心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、ようやく、今回事件の計画中、その端緒たんちょを聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の素志そしを果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる而已のみとの言にのうは大いに感奮する所あり、如何いかにもして、幾分のきん調ととのえ、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち不恤緯ふじゅつい会社を設立するを名とし、相模さがみ地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用につるあたわず、ただ有志士ゆうしし奔走費ほんそうひ位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々砕心粉骨さいしんふんこつすといえども、悲しいかな、処女の身、如何いかんぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底のうの如きは、金員きんいんを以て、男子の万分の一助たらんと欲するもかたしと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段をはかれり。しかる処、※(二の字点、1-2-22)たまたま日清も平和に談判調ととのいたりとの報あり。この報たる実にのうらのためにすこぶる凶報なるを以て、やや失望すといえども、なんぞ中途にして廃せん、なお一層の困難をきたすも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために奇貨きかなるなからん、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士をえらび、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるにかずと、ここにおいて檄文げきぶんを造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に合力ごうりょくして、辮髪奴べんぱつどを国外に放逐ほうちくし、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩日さきに政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のためにはずかしめを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する而已のみならず、いつは以てうち政府せいふを改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよすみやかにこの挙あらん事を渇望かつぼうし、かつ種々心胆をくだくといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発するあたわず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。しばらくして、大井は中途にして帰京し、小林ひととどまりしが、ようやくその尽力により、金額成就じょうじゅせしを以て、いよいよ磯山いそやまらは渡行の事に決定し、その発足前ほつそくぜんに当り、磯山のうに告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、彼是間ひしかんの通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これをだくす。もっとも儂は、曩日さきに東京を出立しゅったつするの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと希図きとしたりしが、当地(大阪)にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、※(二の字点、1-2-22)いよいよ出立というその前日逃奔とうほんし、更にその潜所せんしょを知るあたわず。ゆえを以てむなく新井あらい代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、のうに同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と分袂ぶんべいし、新井と共に渡航のに就き、崎陽きように至り、仁川行じんせんこう出帆しゅっぱんを待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜ふんぬんを生じ、渡航をこばむの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるのおもんばかりなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際のうは新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中をうかがうに、堂々たる男子にして、私情をさしはさみ、公事をなげうたんとするの意あり、しかしてきみ代任だいにんむのふうあり、誠に邦家ほうかのためにたんずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地にとどまるかた好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数たにんずを要せん。わが諸君に対するの義務は、畢竟ひっきょう一身を抛擲ほうてきして、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。のうこの言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、内事ないじすべて大井、小林の任ずる所なれば、えて関せず、我はただその義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、まっとうする者と、しばし讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、このこう決死せざれば、到底充分平常へいぜい希望する処の目的を達するあたわず。かつ儂今回の同行、ひとえに通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。のう仮令たとい異国の鬼となるも、こと幸いに成就じょうじゅせば、のう平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるにかずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。仮令たとい身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士にゆずらんや。かつおもえらく、のうもとより無智無識なり、しかるに今回のこうは、実に大任にして、内は政府の改良をはかるの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を抛擲ほうてきするの栄を受く、ああ何ぞ万死ばんしを惜しまんやと、決意する所あり。即ち崎陽きようにおいて、小林に贈るの書中にも、仮令たとい国土をことにするも、共に国のため、道のために尽し、輓近ばんきん東洋に、自由の新境域を勃興ぼっこうせんと、あんに永別の書を贈りし所以ゆえんなり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子しんしてて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえどもあに公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、なし、ただ愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達するあたわず。むなしく獄裏ごくり呻吟しんぎんするの不幸に遭遇し、国の安危を余所よそに見る悲しさを、儂もとより愛国の丹心たんしん万死をかろんず、永く牢獄にあるも、敢えてうらむの意なしといえども、ただ国恩に報酬ほうしゅうする能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、うた潸然さんぜんたるのみ。ああいずれの日かのうが素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署において
大阪府警部補 広沢鉄郎ひろさわてつろう 印

 かく冗長じょうちょうなる述懐書を獄吏ごくりに呈して、廻らぬ筆にたり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情にはしる青春の人々は、くれぐれもしょうて、いましむる所あれかし、と願うもまたはしたなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世のなみあそばれて、深く深く不遇の淵底えんていに沈み、果ては運命のはかるべからざるうらみに泣きて、煩悶はんもんついに死の安慰を得べく覚悟したりしそののちの妾に比して、人格の上の差異如何いかばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧のなんだとどめがたきを奈何いかにせん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命をなげうたんとしたりしは、いつは名誉の念にられたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時拙作せっさくあり、
愛国あいこくの丹心たんしん万死ばんしかろし   剣華けんか弾雨だんうまたなんぞおどろかん
たれかいう巾幗きんこく不成事ことをなさずと   かつてきす神功じんごう赫々かくかくの

五 不恤緯ふじゅっい会社

 これより先しょうは坂崎氏の家にありて、一心勉学のかたわら、なにとかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富井於菟とみいおと女史とはかりて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集のみちつきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と齟齬そごして、富井女史は故郷に帰るの不幸にえり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。

六 於菟おと女史

 富井於菟女史は播州ばんしゅう竜野たつのの人、醤油しょうゆ屋に生れ、一人いちにんの兄と一人いちにんの妹とあり。おさなきより学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の丹精たんせいして同所の中学校に入れ、やがて業をえてのち、その地の碩儒せきじゅに就きて漢学を修め、また岸田俊子きしだとしこ女史の名を聞きて、一度ひとたびその家の学婢がくひたりしかど、同女史より漢学の益を受くるあたわざるを知ると共に、女史が中島信行なかじまのぶゆき氏と結婚の約成りし際なりしかば、暫時ざんじにしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、絵入えいり自由燈じゆうのともしび新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に於菟おと女史を以て嚆矢こうしとすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事につとめしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、ついに姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、よろず秘密をいとい善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲ますます急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また如何いかむなしく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断をなげき、心ひそかに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気をおこさんとて、坂崎氏には一片いっぺんの謝状をのこして、妾と共に神奈川地方にはしりぬ。実に明治十八年の春なり。両人神奈川県荻野おぎの町にちゃくし、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局醵金きょきんして重井おもい(変名)、葉石はいし等志士の運動を助けんとくわだてしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き若干じゃっかんを出金せしめんとて、ただ一人帰郷のに就きぬ、旅費は両人の衣類をてんして調ととのえしなりけり。

七 髪結洗濯

 女史と相別れしのちしょう土倉どくら氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に貴賤きせんなし、ひとしく皆神聖なり、身には襤褸らんるまとうとも心ににしきの美を飾りつつ、しばらく自活の道を立て、やがて霹靂へきれき一声いっせい、世をとどろかす事業をげて見せばやと、ある時は髪結かみゆいとなり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広きみやこに知る人なき心やすさは、なかなかに自活のわざの苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じわずらいつつ、て待たんよりは、むしろ行きて見るにかずと、これを葉石氏にはかりしに、心変りならば行くもせんなし、さなくばおるも消息のなからんやという。にさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかとしたためたる一封の書はきたりぬ。見ればうらめしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に「アアしくじったり誤りたり取餅桶とりもちおけおちいりたり今日こんにちはもはや曩日さき富井とみいにあらずまいは一死以てきみに謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙のく尽す処にあらずただただ二階の一隅にしこめられて日々なす事もなく恋しき東の空をながめ悲哀に胸をこがすのみ余は記するあたわず幸いにりょうせよ」とあり。ことは簡なれども、事情の大方はすいせられつ。さて何とか救済の道もがなと千々ちぢに心をくだきけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里よりしたい来りける門弟のありしを対手あいてとして日々髪結洗濯のわざをいそしみ、わずかに糊口ここうしのぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。

八 暁夢を破る

 しかるにその年の九月初旬しょうが一室を借り受けたる家の主人は、朝未明あさまだきに二階下より妾を呼びて、景山かげやまさん景山さんといとあわただし。あかつきの夢のいまだめやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばはうつつの中に問いかえせしに、女のお客さんがありますという。なんという方ぞと重ねて問えば富井さんと仰有おっしゃいますと答う。なに富井さん! 妾はとこりて飛び起きたるなり。階段をはしりるも夢心地ゆめごこちなりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れていだきつき、しばしは無言の涙なりき。なつかしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱苦あつくるしき空を、汗臭あせくさ無下むげよごれたる浴衣ゆかたを着して、妙齢の処女のさすがに人目はずかしげなる風情ふぜいにて、茫然ぼうぜんと庭にたたずめるなりけり。さてあるべきにあらざれば、二階にたすげて先ず無事を祝し、別れしのちの事ども何くれとたずねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御身おんみに別れてより、無事郷里に着き、母上兄妹けいまいつつがなきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄はと感じ入りたるていにて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、ついに調金の事を申し出でしに、はからざりき感嘆の体と見えしはしょう胆太きもふとさをあきれたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、しずかに沈みたるそこ気味わるき調子もて、かかるだいそれたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未萌みほうふせがずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさのなく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑怯ひきょうにも警察[#「警察」は底本では「驚察」]に告訴して有志の士をきずつけんとは、何たる怖ろしき人非人にんぴにんぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する而已のみと覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事にくみせしは全く妾の心得違いなりき、今こそ御諭おんさとしによりて悔悟かいごしたれ、以後はおおせのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室にめの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にもまさりて、御身おんみのさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。ようよう妹をすかして、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、くわしき有様を書きしるすべきひまもなかりき。定めて心変りよと爪弾つまはじきせらるるならんと口惜くちおしさ悲しさに胸は張りくる思いにて、もおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りておもむろに身の振り方を定めんものと今度漸く出奔しゅっぽんの期を得たるなり。そは両三日前妹が中元ちゅうげんの祝いにと、より四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを路費ろひとして、夜半やはん寝巻のままに家をで、これより耶蘇ヤソ教に身をゆだね神につかえてしょうが志をつらぬかんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約にそむくの不義をとがむることなく長く交誼こうぎを許してよという。その情義のあつき志を知りては、妾も如何いか感泣かんきゅうの涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売りてんとして顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き心地ここちぞや。妾が敬慕けいぼの念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日女梁山泊おんなりょうざんぱくを以て任ずる妾の寓所にて種々いろいろと話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れにのぞみてお互いに尽す道はことなれども、必ず初志をつらぬきて早晩自由の新天地に握手せんと言いわし、またの会合を約してさらばとばかりたもとわかちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知るよしなかりき。
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第三 渡韓の計画



一 妾の任務

 ある日同志なる石塚重平いしづかじゅうへいきたり、渡韓の準備ととのいたれば、御身おんみをも具するはずなりとて、その理由およびそれについての方法等を説き明かされぬ。もとより信ずる所にささげたる身の如何いかでかは躊躇ためらうべき、直ちにその用意に取りかかりけるに、かの友愛の心厚き中田光子なかだみつこは、しょうの常ならぬ挙動を察してその仔細しさいを知りたげなる模様なりき。されど彼女にわざわいを及ぼさんは本意なしと思いければ、石塚重平氏にたくして彼に勉学をすすめさせ、また於菟おと女史に書を送りて今回の渡航を告げ、後事こうじを托し、これにて思い残す事なしと、心静かに渡韓ののぼりけるは、明治十八年の十月なり。

二 かばんの爆発物

 同伴者は新井章吾あらいしょうご稲垣示いながきしめすの両氏なりしが、壮士連の中には、三々五々赤毛布あかげっとにくるまりつつ船中に寝転ぶ者あるを見たりき。同伴者は皆互いに見知らぬふうよそおえるなり、その退屈さと心配さとはなかなか筆紙に尽しがたし。妾がこの行に加わりしは、爆発物の運搬に際し、婦人の携帯品として、他の注目を避くることに決したるより、すなわしょうをして携帯の任に当らしめたるなり。かくて妾は爆発物の原料たる薬品悉皆しっかいを磯山の手より受け取り、支那鞄しなかばんに入れて普通の手荷物の如くに装い、始終かたわらに置きて、ある時はこれを枕に、仮寝うたたねの夢をむさぼりたりしが、やがて大阪に着しければ、安藤久次郎あんどうきゅうじろう氏の宅にて同志の人を呼びひそかに包み替えんとするほどに、金硫黄きんいおうという薬の少し湿しめりたるを発見せしかば、かんより取り出して、しばさんとせしに、空気にるるや否や、一面に青き火となり、今や大事に至らんとせしを、安藤氏来りて、直ちに消し止めたり、さすがは多年薬剤を研究し薬剤師の免状を得て、その当時薬舗やくほを営み居たる甲斐かいありと人々皆氏を称讃したりき。さりながら今より思い合わすれば、如何いか盲目めくらへび物にじずとはいいながら、かかる危険きわまれる薬品を枕にしてくも安々とねむり得しことよと、身の毛を逆竪さかだつばかりなり。こと神戸こうべ停車場ステーションにて、このかばんはかりにかけし時の如き、中にてがらがらと音のしたるを駅員らの怪しみて、これは如何いかなる品物なりやと問われしに傷持つ足の、ハッと驚きしかど、さあらぬていにて、田舎への土産みやげにとて、小供の玩具おもちゃを入れ置きたるに、車の揺れの余りにはげしかりしため、かくこわされしことの口惜しさよと、わざわざ振り試みるに、駅夫も首肯うなずきて、いては開き見んともせざりき。今にして当時を顧みれば、なお冷汗ひやあせの背を湿うるおすを覚ゆるぞかし、安藤氏は代々よよ薬屋にて、当時熱心なる自由党員なりしが、今は内務省検疫官けんえきかんとしてすこぶ精励せいれいの聞えあるよし。先年板垣伯いたがきはくの内務大臣たりし時、多年国事に奔走ほんそうせし功をでられてか内務省の高等官となり、爾来じらい内閣の幾変遷いくへんせんつつも、専門技術の素養ある甲斐かいには、他の無能の豪傑ごうけつ連とそのせんことにし、当局者のためにすこぶる調法がられおるとなん。

三 八軒屋

 大阪なる安藤氏の宅に寓居ぐうきょすること数日すじつにして、しょうは八軒屋という船付ふなつきの宿屋にきょを移し、ひたすらに渡韓の日を待ちたりしに、一日あるひ磯山いそやまより葉石はいし来阪らいはんを報じきたり急ぎその旅寓に来れよとの事に、何事かといぶかりつつも行きて見れば、同志ら今や酒宴しゅえんなかばにて、しゃくせるひとのいとなまめかしうそうどき立ちたり。かかる会合まどいに加わりし事なき如何いかにしてよからんかとただ恐縮のほかはなかりき。さるにても、同志は如何様いかようの余裕ありて、かくは豪奢ごうしゃを尽すにかあらん、ここぞ詰問きつもんの試みどころと、葉石氏に向かい今日こんにちの宴会は妾ほとほとその心を得ず、磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合せなるべしと思いほかれるには似もやらず、痴呆たわけの振舞、目にするだにけがらわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、他の血気の壮士らが、遊廓通ゆうかくがよいのほかに余念なきこそ道理なれ、さりとてはなげかわしさのきわみなるかな。かかる席につらなりては、口利くちきくだにずかしきものを、いざさらば帰るべしとて、思うままに言いののしり、やおらたたみ蹶立けたてて帰り去りぬ。こはかかる有様を見せしめなば妾の所感如何いかがあらんとて、磯山が好奇ものずきにもことに妾を呼びしなりしに、妾の怒り思いのほかなりしかば、同志はいうもさらなり、絃妓げんぎらまでも、衷心ちゅうしん大いにずる所あり、一座しらけ渡りて、そこそこ宴を終りしとぞ。

四 磯山の失踪しっそう

 それより数日すじつにして爆発物も出来上りたり、いよいよ出立という前の日、磯山の所在分らずなりぬ。しかるにそのおいなる田崎某たざきぼう妾に向かいて、ある遊廓にひそめるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、待合まちあい女将おかみで来りて、あらずと弁ず。の人にはさも答えよ、妾は磯山が股肱ここうの者なり、この家に磯山のあるを知り、急用ありて来れるものを、磯山にして妾と知らば、必ずかくれざるべしとかさねて述べしに、女将首肯うなずきて、「それは誠にすみまへんが、何誰どなたがおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、おかくしもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんはおなごはんじゃ、さかい、おこりはりゃ、しまへんじゃろ」とて、妾を奥の奥のずーッと奥の愛妓あいぎ八重やえと差し向かえる魔室にみちびきぬ。彼はもとより女将おかみに厳命せし事のかくも容易たやすく破れんとは知るよしもなく、人のけはいをばただ女将とのみ思いなせりしに、はからずも妾の顔のあらわれしを見ては、如何いかあわてふためかざらん。されど妾は先日の如き殺風景を繰り返すを好まず、かえって彼に同情を寄せ、ともかくもなだめすかして新井、葉石に面会せしむるにはかずとて、種々いろいろ言辞ことばを設け、ようよう魔室よりさそい出して腕車くるませ、共に葉石の寓居に向かいしに、途中にて同志の家をたずね、その人をもともなわんという。いつわりとは思いも寄らねば、その心に任せけるに、さても世には卑怯ひきょうの男もあるものかな、彼はそのまま奔竄ほんざんして、つい行衛ゆくえくらましたり。彼が持ち逃げせる金の内には大功たいこう細瑾さいきんを顧みずちょう豪語をたてとなせる神奈川県の志士が、郡役所の徴税をかすめんとして失敗し、更に財産家に押し入りて大義のためにその良心をあざむきつつ、いて工面くめんせる金も混じりしぞや。しかるに彼はこの志士が血の涙の金を私費しひして淫楽いんらくふけり、公道正義を無視なみして、一遊妓の甘心かんしんを買う、何たる烏滸おこ白徒しれものぞ。むべなるかな縲絏るいせつはずかしめを受けて獄中にあるや、同志よりは背徳者として擯斥ひんせきせられ、牢獄の役員にも嗤笑ししょうせられて、やがて公判開廷の時ある壮士のために傷つけられぬ。因果応報の恐るべきをば、彼もその時思い知りたりしなるべし。

五 かく

 かくて磯山は奔竄ほんざんしぬ、同志の軍用金はさらわれたり。差し当りて其処此処そこここに宿泊せしめ置きたる壮士の手当てを如何いかにせんとの先決問題起り、直ちに東都に打電したる上、石塚氏を使いとしてその状を具陳ぐちんせしめ、ひたすらに重井おもい来阪らいはんうながしけるに、やがて来りて善後策をととのえ、また帰京して金策に従事したり。その間壮士らの宿料をば、無理算段してめ合せ、かろうじて無銭宿泊の難をまぬがれたれども、さて今後幾日をば調金の見込み立つべきや否や、如何いかにしてその間を切り抜くべきや。むしろ一家を借り受けて二、三十人の壮士を一団となし置くこそ上策なれとの説も出でしが、かくては警察の目を免れ得じとて、しょう発意ほついにて山本憲やまもとけん氏にはかり、同氏の塾生として一家を借り受け、これをば梅清処塾ばいせいしょじゅくの分室と称しぬ。それより妾はにわかに世話女房気取りとなり、一人いちにんの同志を伴いて、台所道具や種々の家具を求め来り、自炊じすいに慣れし壮士をして、代る代る炊事をらしめ、表面は読書に余念なきが如くによそおわせつつ、同志ひそかに此処ここつどいては第二の計画を建て、磯山逃奔とうほんすともいかで志士の志の屈すべきや、一日も早く渡韓費を調ととのえて出立の準備をなすにかずと、日夜肝胆かんたんくだくこと十数日、血気の壮士らのやや倦厭けんえんの状あるを察しければ、ある時は珍しきさかなたずさえて、彼らをい、ある時は妾炊事を自らして婦女の天職をあじわい、あるいは味噌漉みそこしげて豆腐とうふ屋にかよい、またある時は米屋の借金のいいわけは婦人に限るなど、そそのかされてびに行き、存外口籠くちごもりて赤面したる事もあり。およそ大阪にて無一文の時二、三十人の壮士をして無賃宿泊の訴えを免れしめ、梅清処塾ばいせいしょじゅくの書生として事なく三週間ばかりを消過せしめしは男子よりはむしろ妾の力あずかりて功ありしならんと信ず。今日に至るも妾はこの計画のくその当を得たるを自覚し、折々語り出でては友人間に誇る事ぞかし。もし妾にして富豪の家に生れ窮苦きゅうくの何物たるを知らざらしめば、十九つづ二十歳はたちの身の、如何いかでかかる細事さいじに心留むべきぞ、幸いにして貧窶ひんるうち成長ひととなり、なお遊学中独立の覚悟を定め居たればこそ、かかる苦策も咄嗟とっさかんには出でたるなれ。己れ炊事をみずからするの覚悟なくばの豪壮なる壮士のはいのいかで賤業せんぎょううべなわん、私利私欲をててこそ、鬼神きしんをも服従せしむべきなりけれ。しょうをして常にこの心を失わざらしめば、不束ふつつかながらも大きなる過失は、なかりしならんに、こころざし薄く行い弱くして、竜頭蛇尾りゅうとうだびに終りたること、わが身ながら腑甲斐ふがいなくて、口惜くちおしさの限り知られず。

六 なき思い

 右の如き、窮厄きゅうやくにおりながら、いわゆる喉元のどもと過ぎて、熱さを忘るるのならい、たてや血気の壮士は言うもさらなり、重井おもい葉石はいし新井あらい稲垣いながきの諸氏までも、この艱難かんなん余所よそにして金が調ととのえりといいては青楼せいろうに登り絃妓げんぎようしぬ。かかる時には、妾はいつも一人ぽっちにて、宿屋の一室に端座たんざし、過去を思い、現在をおもんばかりて、深き憂いに沈み、婦女の身のとど果敢はかなきを感じて、つまらぬ愚痴ぐちに同志をうらむの念も起りたりしが、た思いかえして、妾は彼らのために身を尽さんとにはあらず、国のため、同胞のためなれば、などか中途にして挫折ざせつすべき、アア富井女史だにあらばなどと、またしてもなき思いにもだえて、ある時み出でし腰折こしおれ一首いっしゅ
かくまでににごるもうしや飛鳥川あすかがわ
     そもみなもとをただせむ人

七 女乞食

 うれいの糸のいとど払いがたかりしある日の事なり、八軒屋の旅宿にありて、ただ一人二階なる居間の障子しょうじを打ち開き、階下につどえる塵取船ちりとりぶねながめたりしに、女乞食の二、三歳なる小供を負いたるが、しきりにちりの中より紙屑かみくずを拾い出し、これをばかごに入れ居たり。背なる小供は母の背にかがまりたるに、胸を押されて、その苦しさに堪えずやありけん、今にも窒息ちっそくせんばかりなる声を出して、泣き叫びけれども、母は聞えぬていにて、なお余念なくあさり尽し、果てはうお腹腸はらわた、鳥の臓腑様ぞうふようの物など拾い取りてこれを洗い、また料理するさまのいじらしさに、妾は思わず歎息して、アアさても人の世はかばかり悲惨のものなりけるか、妾貧しけれども、なおこの乞食にはまさるべし、思えば気の毒の母よ子よと惻隠そくいんの心とどめがたくて、覚えず階上より声をかけつつ、妾には当時大金なりける五十銭紙幣に重錘おもりをつけて投げ与えけるに、彼女は何物が天よりり来りしとように驚きつつ、拾いとりてまたしば躊躇ためらいたり。妾はかさねて、それを小供に与えよと言いけるに、始めて安堵あんどしたるらしく、幾度いくたびか押しいただくさまの見るに堪えず、障子をしめてうちに入り、しばらくして外出せんとしたるに、宿の主婦はいぶかりつつ、「あんたはんじゃおまへんか先刻さっき女の乞食にお金をやりはったのは」という。さなりと妾は首肯うなずきたるに、「いんまさき小供をぶって、涙を流しながら、ここの女のお客はんが裏の二階からおぜぜを投げてくだはったさかい、ちょっとお礼に出ました、お名前を聞かしてくれといいましたが、乞食にお名まえを聞かす事かいと思いましたさかいに、ただ伝えてやろと申してかえしました、まあとんだ御散財ごさんざいでおました」という。慈善は人のためならず、妾は近頃になく心の清々すかすがしさを感ぜしものから、たとえばまなこを過ぐる雲煙うんえんの、再び思いも浮べざりしに、はからずも他日たじつこの女乞食と、思いもうけぬ処に邂逅であいて、小説らしき一場いちじょうの物語とは成りたるよ。ついでなればしるし付くべし。

八 一場いちじょうの悲劇

 その年の十二月大事発覚して、長崎の旅舎に捕われ、転じて大阪(中の島)の監獄にゆうせらるるや、国事犯者として、普通の罪人よりも優待せられ、未決中は、伝告者でんこくしゃ即ち女監の頭領となりて、初犯者および未成年者を収容する監倉かんそうつかさどることとなりぬ。りて初犯者をば改化遷善せんぜんの道におもむかしむるよう誘導の労をり、また未成年者には読書習字を教えなどして、獄中ながらこれらの者より先生先生とうやまわれつつ、未決中無事に三年を打ち過ぎしほどなれば、そのあいだ随分種々の罪人にいしが、その罪人の中にはまたかかる好人物もあるなり、かかる処にてかかる看板かんばんを附けおらざりせば、たれかはこれをさるものと思うべき。世にはこれよりも更にだいなる悪、大なる罪を犯しながら白昼大手を振りて、大道だいどう濶歩かっぽする者も多かるに、だいわすれてしょうを拾う、何たる片手落ちの処置ぞやなど感ぜし事も※(二の字点、1-2-22)しばしばなりき。穴賢あなかしこ、この感情は、一度ひとたび入獄の苦をめし人ならでは語るに足らず、語るも耳をおおわんのみ。かくてしょうは世の人より大罪人大悪人と呼ばるる無頼ぶらいの婦女子と室を同じうし、起臥きが飲食を共にして、ある時はその親ともなり、ある時はその友ともなりて互いにむつみ合うほどに、彼らの妾を敬慕すること、かのいわゆる娑婆しゃばにおける学校教師と子弟との情は物かは、ともにこの小天地に落ちぬるちょう同情同感の力もて、く相一致せる真情は、これを肉身に求めてなお得がたき思いなりき。かかるほどに、獄中常におのずからの春ありて、靄然あいぜんたる和気わきの立ちめし翌年四、五月の頃と覚ゆ、ある日看守は例の如く監倉かんそうかぎを鳴らして来り、それ新入しんにゅうがあるぞといいつつ、一人の垢染あかじみたる二十五、六の婦人を引きて、今や監倉の戸を開かんとせし時、婦人は監外より妾の顔を一目見て、物をもいわず、わっとばかりに泣き出しけり。何故なにゆえとは知るよしもなけれど、ただこの監獄のさまいかめしう、おそろしきに心おびえて、かつはこれよりの苦をしのび出でしにやあらんなど、大方おおかたはかりて、心ひそかに同情の涙をたたえしに、婦人はやがて妾に向かいて、あなた様には御覚おんおぼえなきか知らねど、私はかつて一日とてもあなた様を思い忘れしことなし。御顔おんかおく覚えたり。あなた様は、先年八軒屋の宿屋にて、女乞食に金員を恵まれし事あるべし、その時の女乞食こそは私なれ、何の因縁いんねんにてか、再びかかる処にて御目おんめにはかかりたるぞ、これも良人おっとや小供の引き合せにて私の罪をいさせ、あなた様に先年の御礼おんれいを申し上げよとの事ならん。あなた様があわれみて五十銭を恵み給いし小供は、悪性の疱瘡ほうそうにかかり、一週間前に世を去りぬ、今日こんにちはその一七日ひとなのかなれば線香なりと手向たむけやらんと、そのやまいの伝染して顔もまだこの通りのさまながら紙屑かみくず拾いにでたるに、病後の身の遠くへはも行かれず、かごの物もえざれば、これでは線香どころか、一度の食事さえ覚束おぼつかなしと、もだえ苦しみつつふと見れば、人気ひとけなき処に着物したる家あり。背に腹はえられず、つい道ならぬ欲に迷いしために、たちま覿面てきめん天罰てんばつ受けて、かくも見苦しき有様となり、御目おんめにかかりしことの恥かしさよと、生体しょうたいなきまで泣き沈み、御恵おんめぐみにあずかりし時は、病床びょうしょうにありし良人おっとへも委細を語りて、これも天の御加護おかごならんと、薬も買いぬ、小供に菓子もうてりぬ、親子三人久し振りにて笑い顔をも見せ合いしに、良人のやまいはなおおもり行きて、えなき最期さいご、弱る心をはげまして、私は小供対手あいてにやはり紙屑拾いをばその日のわざとなしたりしに、天道てんどうさまも聞えませぬ、貧乏こそすれ、つゆいささかしき道には踏み込まざりしわたくし母子おやこに病をくだして、ついに最愛の者を奪い、かかる始末に至らしむるとは、何たる無情のなされかたぞなど、はてしもなき涙にき暮れぬ。妾は既にその奇遇に驚き、またこの憐れなる人の身の上に泣きてありしが、かくてあるべきならねば、の囚徒と共にいろいろと慰めつつ、この上は一日も早く出獄して良人おっとや子供の菩提ぼだいとむらい給えなど力を添えつ。一週間ばかりにして彼は既決に編入せられぬ。されどひたすらに妾との別れを悲しみ、娑婆しゃばに出でて再びうえに泣かんよりは、今少し重き罪を犯し、いつまでもあなた様のおそばにてお世話になりたしなど、心も狂おしう打ちかこつなりき。
 にや人の世の苦しさは、この心弱き者をして、なかなかに監倉の苦を甘んぜしめんとするなり、これをしも誰か悲惨ならずとはいうや。当局者はく罪を罰するを知れり、乞い問う、罪をあがない得たる者を救助するの法ありや、再び饑餓きがの前にさらして、むしろ監獄の楽しみを想わしむることなきをし得るや。

九 爆発物の検査

 これより先、重井おもいらは、東京にての金策成就じょうじゅし、渡韓の費用を得たるをもて、直ちに稲垣と共に下阪げはんしてそが準備を調ととのえ、梅清処塾ばいせいしょじゅくにありし壮士は早や三々五々渡韓ののぼりぬ。妾は古井、稲垣両氏と長崎に至る約にてその用意を取り急ぎおりしに、出立の一両日前、重井、葉石、古井の三氏および今回出資せる越中えっちゅう富山の米相場師某ら稲垣と共に新町遊廓に豪遊を試み、妾もはからずその席に招かれぬ。志士しし仁人じんじんもまたかかる醜態を演じて、しかも交誼こうぎを厚うする方便なりというか、大事の前に小欲を捨つるあたわず、前途近からざるの事業を控えて、嚢底のうてい多からざるの資金を濫費らんぴす、妾の不満と心痛とは、妾を引いて早くも失望のふちに立たしめんとはしたり。出立の日重井おもいの発言によりて大鯰おおなまずの料理を命じ、ひそかに大官吏を暗殺して内外の福利を進めんことを祝しぬ。かくて午後七時頃神戸行きの船にとうぜしは古井、稲垣および妾の三人なりき。瀬戸内の波いと穏やかに馬関ばかんに着きしに、当時大阪に流行病あり、ようや蔓延まんえんちょうありしかば、ここにも検疫けんえきの事行われ、一行の着物はおろか荷物も所持の品々もことごとく消毒所に送られぬ。消毒の方法は硫黄いおうにてくすべるなりとぞ、さてはと三人顔を見合すべき処なれど、初めより他の注目を恐れてただ乗合の如くによそおいたれば、雑沓ざっとうまぎれて咄嗟とっさの間にそれとなく言葉を交え、爆発物は妾の所持品にせんといいたるに、いな拙者せっしゃの所持品となさん、もし発覚せばそれまでなり、いさぎよばくかんのみ、かまえて同伴者たることを看破かんぱせらるるなかれと古井氏はいう。決心動かしがたしと見えたれば妾もいなみ兼ねてついに同氏の手荷物となし、それより港にあがりて、消毒の間ある料理店に登り、三人それぞれに晩餐ばんさんを命じけれども、心ここにあらざれば如何いかなる美味ものんどくだらず、今や捕吏ほりの来らんか、今や爆発のひびき聞えんと、三十分がほどを千日せんにちとも待ちびつ、やがて一時間ばかりをて宿屋の若僕わかもの三人の荷物を肩に帰り来りぬ。再生の思いとはこの時の事なるべし。消毒終りて、衣類も己れの物と着換え、それより長崎行の船に乗りて名に高き玄海灘げんかいなだの波を破り、無事長崎に着きたるは十一月の下旬なり。

十 絶縁の書

 ここにて朝鮮行の出船を待つほどに、ある日無名氏より「荷物れた東に帰れ」との電報あり。もし渡韓の際政府の注目はなはだしく、大事発露の恐れありと認むる時は、誰よりなりとも「荷物濡れた」の暗号電報を発して、互いに警告すべしとは、かつて磯山らと約しおきたる所なりき。さては磯山の潜伏中大事発覚してかくは警戒し来れるにや、あるいは磯山自ら卑怯ひきょうにも逃奔とうほんせし恥辱ちじょく糊塗ことせんために、かくは姑息こそくはかりごとめぐらして我らの行をさまたげ、あわよくばばくに就かしめんとはかりしにはあらざると種々評議をこらせしかど、ついに要領を得ず、東京に打電して重井おもいたださんか、出船の期の迫りし今日そもまた真意を知りがたからん、とかくは打ち棄てて顧みず、向かうべきかたに進まんのみと、古井よりの壮士にこのむねを伝えしに、彼らのうちには古井が磯山に代りしをむのふうありて議かなわず、やや不調和の気味ありければ、かかる人々はいさぎよく帰東せしむべし、何ぞ多人数たにんずを要せん、われは万人に敵する利器を有せり、敢えて男子に譲らんやと、古井に同意を表して稲垣をば東京に帰らしめ、決死の壮士十数名をひきいて渡韓する事に決しぬ。これにて妾も心安く、一日長崎の公園に遊びて有名なる丸山など見物し、帰途勧工場かんこうばに入りて筆紙墨ひっしぼくを買い調ととのえ、薄暮はくぼ旅宿に帰りけるに、稲垣はあらずして、古井ひとり何か憂悶ゆうもんていなりしが、妾の帰れるを見て、共に晩餐をきっしつつ、午刻ひるのほどより丸山におもむける稲垣の今に至りてなお帰らず、彼は一行の渡航費を持ちて行きたるなれば、その帰るまではわれら一歩ひとあしに移すあたわず、ことに差し当りて佐賀に至り、江藤新作えとうしんさく氏に面したき要件の出来たるに、早く帰宿してくれずやという。その夜十時頃までも稲垣は帰り来らず、もはや詮方せんかたなしとて、それぞれ臥床ふしどに入りしが、妾は渡韓の期も、既に今明日こんみょうにちに迫りたり、いざさらば今回の拳につきて、決心の事情を葉石はいしに申し送り、遺憾いかんの念なき旨を表し置かんと、独り燈下に細書さいしょしたため、ようよう十二時頃書き終りて、今やしんに就かんとするほど、稲垣は帰り来りぬ。

十一 発覚拘引こういん

 古井は直ちに起きて佐賀へ出立の用意を急ぎ、真夜中宿を立ち出でたり。残るは稲垣と妾とのみ、稲垣は遊び疲れの出でたればにや、横になるよりこころよねむりけるが、妾は一度ひとたび渡韓とかんせば、生きて再び故国ここくの土を踏むべきにあらず、彼ら同志にして、果して遊廓に遊ばんほどの余資よしあらば、これをば借りて、みちすがら郷里に立ち寄り、めては父母兄弟けいてい余所よそながらの暇乞いとまごいもなすべかりしになど、様々の思いにふけりて、睡るとにはあらぬ現心うつつごころに、何か騒がしき物音を感じぬ。何気なにげなくじたる目を見開けば、こはそも如何いかに警部巡査ら十数名手に手に警察の提燈ちょうちん振り照らしつつ、われらが城壁とたのめる室内に闖入ちんにゅうしたるなりけり。アナヤと驚きたんとすれば、宿屋の主人来りて、旅客しらべなりという。さてこそ大事去りたれと、覚悟はしたれど、これ妾一人いちにんの身の上ならねば、出来得る限りは言いぬけんと、巡査の問いに答えて、更に何事をも解せざるさまを装い、ただ稲垣と同伴せるむねをいいしに、警部は首肯うなずきて、稲垣にはなわをかけ、妾をば別にとがめざるべき模様なりしに、よいのほどしたため置きし葉石への手書てがみの、寝床の内より現われしこそ口惜しかりしか。警部の温顔おんがんにわかいかめしうなりて、この者をも拘引こういんせよとひしめくに、巡査は承りてともかくも警察に来るべし、寒くなきよう支度したくせよなどなお情けらしう注意するなりき。あらがうべきすべもなくて、言わるるままに持ち合せの衣類取り出し、あるほどの者を巻きつくれば、身はごろごろと芋虫いもむしの如くになりて、やがて巡査にともなわれ行く途上みちの歩みの息苦しかりしよ。警察署に着くや否や、先ず国事探偵たんていより種々の質問を受けしが、その口振りによりて昼のほど公園に遊び帰途勧工場かんこうばに立ち寄りて筆紙墨ひっしぼくを買いたりし事まで既に残りのう探り尽されたるを知り、従ってわれらがなお安全と夢みたりしその前々日より大事は早くも破れ居たりしことをさとりぬ。
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第四 未決監



一 ほとんど窒息ちっそく

 訊問じんもんえてのち、拘留所に留置せられしが、その監倉かんそうこそは、実に演劇にて見たりし牢屋ろうやていにて、しょうの入牢せしはあたかも午前三時頃なりけり。世の物音の沈み果てたる真夜中に、牢の入口なるかんぬきの取りはずさるるひびきいとどあやしうすさまじさは、さすがに覚悟せる妾をして身の毛の逆竪よだつまでに怖れしめ、生来せいらい心臓の力弱き妾はたちま心悸しんき昂進こうしんを支え得ず、鼓動乱れて、今にも窒息ちっそくせんず思いなるを、警官は容赦ようしゃなく窃盗せっとう同様に待遇あしらいつつ、この内に這入はいれとばかり妾を真暗闇まっくらやみの室内に突き入れて、またかんぬきし固めたり。何たる無情ぞ、しこのままに死なば死ね、いかでかかる無法の制裁に甘んじ得んや。となかなかに涙も出でず、もとより女ながら一死をして、暴虐ぼうぎゃくなる政府に抗せんと志したるわらわ、勝てば官軍くればぞくと昔より相場のきまれるを、虐待の、無情のと、今更の如く愚痴ぐちをこぼせしことの恥かしさよと、それよりは心を静め思いを転じて、いきながら死せる気になり、万感まんかんを排除する事につとめしかば宿屋よりも獄中の夢安く、翌朝目覚めざめしは他の監房にて既に食事のみし頃なりき。

二 同志の顔

 先にここに入りし際は、穴のように思いしに、夜明けて見れば天井てんじょう高く、なかなか首をつるべきかかりもなし。窓はほんの光線取あかりとりにして、鉄の棒をめぐらし如何いかなる剛力ごうりきの者来ればとて、破牢はろうなど思いも寄らぬてい、いと堅牢なり。水を乞うて、手水ちょうずをつかえば、やがてさき窓より朝の物を差し入れられぬ。到底のんどくだるまじと思いしに、案外にもあじわいくて瞬間にべ尽しつ、われながら胆太きもふときにあきれたり。食事終りて牢内を歩むに、ふと厚き板の間のすきより、床下ゆかしたの見ゆるに心付き、試みにひとみらせば、アア其処そこに我が同志の赤毛布あかげっとまといつつ、同じく散歩するが見えたり。妾と相隣りて入牢せるは、内藤六四郎ないとうろくしろう氏の声なり。稲垣、古井はいずれの獄に拘留せられしにやあらん。地獄のうちちながら、慣るるにつれて、身の苦艱くげんの薄らぐままに、ひたすら想い出でらるるは、故郷の父母さては東京、大阪の有志が上なり、一念ここに及ぶごとに熱涙のほとばしるを覚ゆるなりき。
 翌朝食事終りてのち、訊問所に引きいだされて、住所、職業、身分、年齢、出生しゅっしょうの地の事ども訊問せられ、ついにこのたび当地に来りし理由をただされて、ただ漫遊なりと答えけるに、かくなんじらを拘引こういんするは、確乎かっこたる見込みこみありての事なり、未練らしう包み隠さずして、有休ありていに申し立ててこそ汝らが平生へいぜいの振舞にも似合わしけれとありければ、もっともの事と思い、ついに述懐書にあるが如き意見にて大事にくみせる事を申し立てぬ。

三 大阪護送

 警察署にての訊問じんもん果てしのち、大阪に護送せらるることとなり、の八、九時頃にやありけん、珠数繋ずずつなぎにて警察の門を出でたり。はやきようにても女の足のおくれがちにて、途中は左右の腰縄こしなわに引きられつつ、かろうじて波止場はとばに到り、それより船に移し入れらる。巡査の護衛せるを見て、乗客はきもをつぶしたらんが如く、まなこつぶらにして、ことに女の身のしょうる。良心に恥ずる所なしとはいいながら、何とやら、面伏おもぶせにて同志とすら言葉をかわすべき勇気もせ、穴へも入りたかりし一昼夜を過ぎて、ようやく神戸に着く。例の如く諸所の旅舎より番頭小僧ども乗り込み来りて、「ヘイ蓬莱屋ほうらいや御座ござい、ヘイ西村で御座い」と呼びつつ、手に手に屋号の提燈ちょうちんをひらめかし、われらに向かいてしきりに宿泊を勧めたるが、ふと巡査の護衛するを見、また腰縄のつけるに一驚いっきょうきっして、あきれ顔に口をつぐめるも可笑おかしく、かつは世の人の心のさまも見えきて、言うばかりなく浅まし。
 その夜は大阪府警察署の拘留場こうりゅうばに入りたるに、船中の疲労やら、心痛やらにて心地悪ここちあしく、とど苦悶を感じおりしに、妾を護衛せる巡査は両人にて、一人は五十未満、他は二十五、六歳ばかりなるが、いと気の毒がり、女なればとてことに拘留所を設け、其処そこに入れてねんごろに介抱かいほうしくれたり。当所に来りてよりは、長崎なる拘留所の、いとすさまじかりしに引き換え、すべてわが家の座敷牢などに入れられしほどの待遇にて、この両人の内、代る代る護衛しながら常に妾と雑話をなし、また食事の折々は暖かき料理をこしらえては妾にすすめるなどよろずに親切なりけるが、約二週間を経て中の島監獄へ送られしのちも国事犯者を以て遇せられ、その待遇長崎の厳酷げんこくなりし比に非ず。長崎警察署の不仁ふじんなる、人をる事宛然さながら犬猫なりしかば、一時は非常に憤慨せしもむかし徳川幕府が維新の鴻業こうぎょうあずかりて力ある志士を虐待ぎゃくたいせし例を思い浮べ、深く思いあきらめたりしが、今大阪にては、有繋さすがに通常罪人を以て遇せず言葉も丁寧ていねいに監守長の如きも時々見廻りて、ことに談話をなすを喜び、中には用もなきに話しかけては、ひたすら妾の意を迎えんとせし看守もありけり。

四 眉目みめよき一婦人

 ここにおかしきは妾と室を共にせる眉目うるわしき一婦人いっぷじんあり、天性いやしからずして、しきりに読書習字の教えを求むるままに、妾もその志にでて何角なにかと教え導きけるに、彼はいよいよ妾をうやまい、妾はまた彼を愛して、はては互いに思い思われ、妾の入浴するごとに彼は来りてあかを流しくれ、また夜にればとこを同じうして寒天さむぞらこおるばかりの蒲団ふとんをば体温にて暖め、なお妾と互い違いにして妾の両足りょうそくをば自分の両腋下えきかはさみ、如何いかなる寒気かんきもこのすきに入ることなからしめたる、その真心の有りがたさ。この婦人は大阪の生れにて先祖は相当に暮したる人なりしが、親のに至りて家道かどうにわかおとろえ、婦人は当地の慣習とて、ある紳士の外妾となりしに、その紳士は太く短こう世を渡らんと心掛くる強盗の兇漢きょうかんなりしかば、その外妾となれるこの婦人も定めてこの情を知りつらんとの嫌疑を受けつ、既に一年有余のながき日をばいたずらに未決監に送り来れる者なりとよ。この事情を聞きて、妾は同情の念とどめがたく、典獄の巡回あるごとに、その状を具陳して、婦人のために寃枉えんおうを訴えけるに、そのしるしなりしやいなやは知らねど、妾が三重県に移りけるのち、婦人は果して無罪の宣告を受けたりとの吉報きっぽうを耳にしき。しかるにかくこの婦人と相親しめりし事の、意外にも奇怪千万せんばんなる寃罪えんざいの因となりて、一時妾と彼女と引き離されし滑稽談こっけいだんあり、当時の監獄の真相をつまびらかにするの一例ともなるべければ、今その大概を記して、大方たいほうの参考に供せん。

五 不思議の濡衣ぬれぎぬ

 しょうが彼女を愛し、彼女が妾を敬慕けいぼせるはかみに述べたるが如き事情なり。世には淫猥いんわい無頼ぶらいの婦人多かるに、ひとり彼女の境遇のいと悲惨なるをあわれむの余り、妾の同情も自然彼女に集中して、宛然さながら親の子に対するが如き有様なりしかど、あたかも同じ年頃の、親子といいがたきは勿論もちろん、また兄弟姉妹の間柄とも異なりて、他所目よそめには如何いかに見えけん、当時妾はひたすらに虚栄心功名心にあくがれつつ、「ジャンダーク」を理想の人とし露西亜ロシアの虚無党をば無二むにの味方と心得たる頃なれば、両人ふたり交情あいだの如何に他所目よそめには見ゆるとも、妾のあずかり知らざる所、た、知らんとも思わざりし所なりき。妾はただ彼女の親切に感じ自分も出来得る限り彼に教えて彼の親切にむくいんことをつとめけるに、ある日看守来りて、突然彼女に向かい所持品を持ち監外にでよという。さては無罪の宣告ありて、今日こそ放免せらるるならめ、何にもせよ嬉しきことよと、喜ぶにつけて別れの悲しく、互いに暗涙あんるいむせびけるに、さはなくて彼女は妾らの室をへだつる、二間けんばかりの室に移されしなりき。彼女の驚きは妾と同じく余りの事に涙も出でず、当局者の無法もほどこそあれと、腹立たしきよりは先ずあきれられて、更に何故なにゆえともきかねたる折から、の看守来りて妾に向かい、「景山かげやまさん今夜からさぞさびしかろう」と冷笑あざわらう。妾は何の意味とも知らず、今夜どころか、只今ただいまより淋しくて悲しくて心細さのなきむねを答え、何故なればかく無情の処置をなし改化遷善せんぜんの道をさえぎり給うぞ、監獄署の処置余りといえば奇怪なるに、署長の巡回あらん時、おもむろに質問すべき事こそあれと、あらかじめその願意を通じ置きしに、看守は莞然にこにこ笑いながら、細君さいくんを離したら、困るであろう悲しいだろうと、またしても揶揄からかうなりき。その語気ごきの人もなげなるが口惜しくて、われにもあらず怫然ふつぜんとしていきどおりしが、なお彼らが想像せる寃罪えんざいには心付くべくもあらずして、実に監獄は罪人を改心せしむるとよりは、罪人を一層悪に導く処なりとののしりしに、彼はわずかに苦笑して、とかくは自分の胸に問うべしと答えぬ。妾は益※(二の字点、1-2-22)気昂けあがりて自分の胸に問えとは、妾に何か失策のありしにや、罪あらば聞かまほし、親しみ深き彼女を遠ざけられし理由聞かまほし、と迫りけれども、平生へいぜい悪人をのみ取り扱うに慣れたる看守どもの、一図いちずに何か誤解せる有様にて、妾の言葉には耳だもさず、いよいよあざけ気味ぎみに打ち笑いつつ立ち去りたれば、妾は署長の巡廻を待って、つぶさにこの状を語り妾の罪を確かめんと思いおりしに、彼女もの監房に転じたる悲しさに、つつしみ深き日頃のたしなみをも忘れて、看守の影の遠ざかれるごとに、先生先生何故なにゆえにかく離隔りかくせられしにや、何とぞ早くその故をただして始めの如く同室に入らしめよと、打ちかこつに、もとより署長の巡廻だにあらば、直ちに愁訴しゅうそして、互いの志を達すべし、しばらく忍びがたきを忍べかしなど慰めたることの幾度いくたびなりしか。

六 直訴

 囚人より署長に直訴するは、ほとんど破格の事として許しがたき無礼の振舞にかぞえらるるよしなるも、しょうは少しもその事を知らず、ある日巡廻し来れる署長を呼び止めしに、署長も意外の感ありしものの如くなりしが、の罪人と同一ならぬ理由を以て妾の直訴を聞き取り、更に意外の感ありし様子にて、彼女をも訊問の上、黙して帰署したりと思うやがての事、彼女は願いの如く、妾の室に帰り来りぬ。あとにて聞けばこの事の真相こそに筆にするだにけがらわしき限りなれ。今日こんにちは知らずその当時は長き年月の無聊むりょうの余りにやあらん、男囚だんしゅうの間には男色だんしょく盛んに行われ、女囚もまた互いに同気どうきを求めて夫婦の如き関係を生じ、両女の中の割合に心雄々おおしきはおっとの如き気風となり、やさしき方は妻らしく、かくて不倫ふりんの愛に楽しみふけりて、永年えいねんの束縛を忘れ、一朝変心する者あれば、男女間における嫉妬しっとの心を生じて、人をそこない自ら殺すなどの椿事ちんじき起すを常としたりき。現にかわやに入りて、職業用の鋏刀はさみもて自殺をくわだてし女囚をば妾もの当りに見て親しく知れりき。されば無智蒙昧むちもうまいの監守どもが、妾の品性を認め得ず、純潔なるいつくしみの振舞を以て、直ちに破倫はりん非道の罪悪と速断しけるもまたあながちに無理ならねど、さりとては余りに可笑おかしく、腹立たしくて、今もなお忘れがたき記念の一つぞこれなる。
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第五 既決監



一 監房清潔

 中の島未決監獄にある事一年有余にして、堀川監獄の既決監に移されぬ。なお未決ながら公判開廷の期の近づきしままに、護送の便宜上客分きゃくぶんとしてかくは取りはからわれしなりけり。退きならぬ彼女との別離は来りぬ、事件の進行して罪否いずれにか決する時の近づきしをば、めてもの心やりにして。堀川にてはある一室の全部を開放して、しょうを待てり。中の島未決監よりは、監房またさらに清潔にして、部屋というも恥かしからぬほどなり、ここに移れる妾は、ようよう娑婆しゃばに近づきたらん心地ここちもしつ。此処ここにても親しき友は間もなく妾の前に現われぬ、彼らは若き永年囚なりけり。いずれも妾の歓心を得べく、夜ごとに妾の足をでさすり、また肩などみて及ぶ限りの親切を尽しぬ。妾は親の膝下しっかにありて厳重なる教育を受けし事とて、かかる親しみと愛とを以て遇せらるるごとに、親よりもなおなつかしとの念を禁ぜざるなりき。

二 おまさ

 ここにお政とて大阪監獄きって評判の終身囚ありけり。容姿ようしすぐれて美しく才気あり万事にさとせいなりければ、誘工ゆうこうの事すべてお政ならでは目がかぬとまでにたたえられ、永年の誘工者、伝告者として衆囚よりうやまかしずかれけるが、彼女もまた妾のここに移りてより、何くれと親しみ寄りつ、読書とくしょに疲れたる頃を見斗みはからいては、おのが買い入れたる菓子その他の食物しょくもつを持ち来り、算術を教え給え、算用数字は如何いかに書くにやなど、ひまさえあればその事のほかに余念もなく、ある時は運動がてら、水撒みずまきなども気散きさんじなるべしとて、自ら水をにない来りて、せつに運動を勧めしこともありき。彼女は西京さいきょうの生れにて、相当の家に成長せしかど、如何いかなる因縁いんねんにや、女性にして※(二の字点、1-2-22)しばしば芸者狂いをなし、その望みを達せんとて、数万すまんの金を盗みしむくいはたちまちここにき年月を送る身となりつ。当時は今日の刑法と異なり、盗みし金の高によりて刑期に長短を付けし時なりければ、彼は単の窃盗せっとうにしてしかも終身刑を受けけるなり。その才物さいぶつなるは一目いちもく瞭然りょうぜんたることにて、実に目より鼻へ抜ける人とはかかる人をやいうならん、惜しいかな、人道以外に堕落だらくして、同じく人倫じんりん破壊者の一人いちにんなりしよし聞きし時は、妾も覚えず慄然りつぜんたりしが、さりながら、と鋭敏の性なりければ、く獄則を遵守じゅんしゅして勤勉おこたらざりし功により、数等を減刑せられ、無事出獄して、大いに悔悟かいごする処あり、つい円頂黒衣えんちょうこくい赤心せきしんを表わし、一、二度は妾が東京の寓所にも来りし事あり、また演劇にも「島津政懺悔録しまずまさざんげろく」と題して仕組まれ、自ら舞台に現われしこともありしが、そののち如何いかになりけん、消息を聞かず。

三 空想にふけ

 かくしょうは入獄中毎日読書に耽りしとはいえ、自由の身ならば新著の書籍を差し入れもらいて、大いに学術の研究も出来たるならんに、漢籍は『論語』『大学』位その他は『原人論げんじんろん』とか、『聖書』とかの宗教の書を許可せられしのみなりければ、ある時は英学を独習せんことを思い立ち、少しく西洋人に学びしことあるをもととして、日々勉励べんれいしたりしかど、やはり堂にのぼらずしてみたるは恥かしき次第なり。在獄中に出獄せば如何いかにせんこころざしを達せばかくなさんと、種々の空想に耽りしも、出獄もなくその空想は全くあだとなり、失望のきょくわれとはなしに堕落だらくして、半生はんせいを夢と過ごしたることの口惜しさよ。せめては今後を人間らしう送らんとの念はかく懺悔ざんげひまもいとせつなり。

四 獄吏の真相

 妾が在獄中別に悲しと思いし事もなくかと日を明かし暮らせしも無理ならず。功名心に熱したる当時の事なれば、毎日署長看守長、さては看守らの来りては種々の事どもを話しかけられ慰められ、また信書をしたたむる時などには、若き看守の好奇ものずきにも監督を名として監房に来りては、楽書らくがきなどして、妾の赤面するを面白がり、なお本気の沙汰さたとも覚えぬ振舞に渡りて、妾をもてあそばんとするものもあり、中には真実めし艶書えんしょを贈りてき返事をと促すもあり、また「君徐世賓じょせいひんたらばわれ奈翁ナポレオンたらん」などと遠廻しにふうするもありて、諸役人皆しょう一顰一笑いっぴんいっしょううかがえるの観ありしも可笑おかしからずや。されば女監取締りの如きすら、妾の眷顧けんこを得んとて、ひそかに食物菓子などを贈るという有様なれば、獄中の生活はなかなか不自由がちの娑婆しゃばまさる事数等にて、裁判の事など少しも心にかからず、覚えずまたも一年ばかりを暮せしが、十九年の十一月頃、ふと風邪ふうじゃおかされ、漸次ぜんじ熱発はつねつはなはだしく、さては腸窒扶斯チブス病との診断にて、病監に移され、治療おこたりなかりしかど、熱気いよいよ強くすこぶ危篤きとくおちいりしかば、典獄署長らの心配一方ひとかたならず、弁護士よりは、保釈を願い出で、なお岡山の両親に病気危篤のむねを打電したりければ、岡山にてはもはや妾をきものと覚悟し、電報到着のより、親戚しんせき故旧こきゅう打ち寄りて、妾の不運を悲しみ、遺屍いし引き取りの相談までなせしとの事なりしも、幸いにして幾ほどもなく快方に向かい、数十日すじゅうにちを経てようやく本監に帰りたるうれしさは、今にも忘られぬ所ぞかし。他の囚人らも妾のために、日夜全快を祈りおりたりしとの事にて、妾の帰監するを見るより、宛然さながら父母の再生を迎うるが如くに喜びくれぬ。これも妾が今も感謝に堪えぬ所なり。不自由なる牢獄にて大患にかかりし事とて、一時全快はなしたるものから、衰弱の度甚だしく、病気よりは疲労にてたおるることもやと心配せしに、これすらようやく回復して、ついには病前よりも一層の肥満を来し、その当時の写真を見ては、一驚をきっするほどなり。

五 女史の訃音ふおん

 それより数日すじつを経て翌二十年五月二十五日公判開廷の際には、あたかも健康回復の期にありて、頭髪ことごとく抜け落ち、薬罐頭やかんあたまみにくさは人に見らるるも恥かしき思いなりしが、あとにて聞けばしょうの親愛なる富井於菟とみいおと女史は、この時娑婆しゃばにありて妾と同病にかかり、薬石効やくせきこうなくつい冥府めいふの人となりけるなり。さても頼みがたきは人の生命いのちかな、女史は妾らの入獄せしより、ひたすら謹慎きんしんの意を表し、耶蘇ヤソ教に入りて、伝道師たるべく、大いに聖書を研究し居たりしなるに、迷心執着の妾はきて、信念堅固の女史はきぬ。逝ける女史を不幸とすべきか、生ける妾をこうというべきか、この報を聞きたる時、妾は実に無限の感に打たれにき。

六 生理上の一変象

 ここにまた一つしるし付くべき事あり。かかる事は仮令たとえ真実なりとも、むべくはばかるべきこととして、大方の人の黙してむべき所なるべけれど、一つは生理学および生理と心理との関係をきわむる人々のために、一つは当時の妾が、女とよりはむしろ男らしかりしことのあかしにもならんかとて、えて身の羞恥はじをば打ち明くるなり。読む者あながちに、はしたなきわざとのみ落しめ給うことなくば幸いなり。さてすべき事とはにぞ、そは妾の身体の普通ならずして、牢獄にありし二十二歳の当時まで、女にはあるべき月のものを知らざりし事なり。普通の女子は、大抵十五歳前後より、その物のあるものぞと聞くに、妾は常に母上の心配し給える如く、生れ付き男子の如く、殺風景にて、婦人のしおらしき風情ふぜいとては露ほどもなく、男子と漢籍の講莚こうえんに列してなお少しもはずかしと思いし事なし。さるからに、母上は妾の将来を気遣う余り、時々「恋せずば人の心はなからまし、物の哀れはこれよりぞ知る」という古歌を読み聞かせては、妾の所為しょいいましめ給いしほどなれば、幼友達おさなともだちの皆ひとして、子をぐる頃となりても、妾のみは、いまだあるべきものをだに見ざるを知りて、母上はいよいよ安からず、もしくば世にいう石女いしめたぐいにやなど思い悩み給いにき。しかるに今獄中にありて或る日突然その事あり、その時の驚きは今更に言うの要なかるべし。妾の容子ようすの常になくつつましげなるに、顔色さえしかりしを、したしめる女囚にあやしまれて、しばしば問われて、秘めおくによしなく、ついに事云々しかじかと告げけるに、彼女の驚きはなかなか妾にもまさりたりき。

七 理想の夫

 かくの如く男らしきしょうの発達は早かりしかど、女としての妾は、極めておそかたなりき。ただし女としては早晩そうばんおっとを持つべきはずの者なれば、もし妾にして、夫をえらぶの時機来らば、威名赫々かくかく英傑えいけつに配すべしとは、これより先、既に妾の胸にいだかれし理想なりしかど、もとより世間見ずの小天地に棲息せいそくしては、鳥なき里の蝙蝠かわほりとは知らんようなく、これこそ天下の豪傑なれと信じ込みて、最初は師としてその人より自由民権の説を聴き、敬慕の念ようやく長じて、卒然夫婦の契約をなしたりしは葉石はいしなり。されどいまだ「ホーム」を形造かたちづくるべき境遇ならねば、父母兄弟けいていにその意志を語りて、他日の参考に供し、自分らはひたすら国家のために尽瘁じんすいせん事を誓いおりしに、はからずも妾が自活のみちたる学舎は停止せられて、東上するの不幸におちいり、なお右の如き種々の計画にあずかりて、ほとんど一身いっしんを犠牲となし、はては身の置き所なき有様とさえなりてよりは、朝夕ちょうせき糊口ここうみちに苦しみつつ、他の壮士らが重井おもい、葉石らの助力を仰ぎしにも似ず、妾は髪結かみゆい洗濯を業として、とにもかくにも露の生命いのちつなぐほどに、朝鮮の事件始まりて、長崎に至るみちすがら、妾と夫婦の契約をなしたる葉石は、いうまでもなく、妻子さいし眷属けんぞく国許くにもとのこし置きたる人々さえ、様々の口実を設けては賤妓せんぎもてあそぶをはじとせず、ついには磯山の如き、破廉恥はれんち所為しょいえてするに至りしを思い、かかる私欲のちたる人にして、如何いかで大事を成し得んと大いに反省する所あり、さてこそ長崎において永別の書をば葉石に贈りしなれ。しかるに今公判開廷の報に接しては、さきに一旦いったんの感情に駆られて、葉石にてたりし永別の書が、はしなくも世に発表せられしことを思いてわれながら面目なく、また葉石に対し何となく気の毒なる情も起り、葉石にしてもしこの書を見ば、定めて良心に恥じ入りたらん、妾の軽率をいきどおりもしたらん、妾は余りに一徹なりき、彼が皎潔こうけつの愛をけがし、神聖なる恋を蹂躙じゅうりんせしをば、如何いかにしても黙止もくししがたく、もはや一週間内にて、死する身なれば、この胸中に思うだけをば、遺憾いかんなく言いのこし置かんとの覚悟にて、かの書翰しょかんしたためしなれば、義気ぎきある人、なんだある人もしこれを読まば、必ず一掬いっきく同情の涙にむせぶべきなれど、葉石はそもこれを何とか見るらん、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。彼はこの書翰のために、有志の面目をも損ずるなるべし、威厳をもそこなうなるべし、さても気の毒の至りなるかな。妾とても再び彼ら同志にわざるべきを、予想したればこそ、かく夫婦の契約あることを発表せしなれ、今日こんにちの境遇あるを予知せば、もはや愛の冷却せる者に向かいて、いて旧事を発表し、相互の不利益をかもすが如き、愚をばなさざりしならんに。さりながら妾は実に、同志の無情を嘆ぜしなり、ことに葉石の無情をうらみしなり、生きて再び恋愛のやっことなり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじしたがうよりは、むしろいさぎよく、自由民権の犠牲たれと決心して、かくも彼の反省を求めしなるに、同志の手には落ちずして、かえって警察官の手に入らんとは、かえすがえすも面伏おもぶせなるわざなりけり。いでや公判開廷の日には、やまいと称して、出廷を避くべきかなど、種々に心を苦しめしかど、その甲斐かいついにあらざりき。
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第六 公判



一 護送の途上

 いよいよその日ともなれば、また三年振りにて、娑婆しゃばの空気に触るる事の嬉しく、かつは郷里より、親戚知己ちきの来り会してなつかしき両親の消息をもたらすこともやと、これを楽しみに看守にまもられ、腕車わんしゃに乗りて、監獄の門を出づれば、署の門前より、江戸堀えどぼり公判廷に至るの間はあたかも人をもてへいを築きたらんが如く、その雑沓ざっとう名状めいじょうすべくもあらず。聞く大阪市民は由来ゆらい政治の何物たるを解せざりしに、この事件ありてより、ようやく政治思想を開発するに至れりとか、また以てしょうらの公判が如何いかに市民の耳目じもくを動かしたるかを知るに足るべし。

二 公廷の椿事ちんじ

 明治十八年十二月頃には、嫌疑者それよりそれと増し加わりて、総数二百名との事なりしが、多くは予審のざるの目にし去られて、公判開廷の当時残る被告は六十三名となりたり。されどなお近来未曾有みぞう大獄たいごくにて、一度に総数を入るる法廷なければ、仮に六十三名を九組ここのくみに分ちて各組に三名ずつの弁護士を附し、さていよいよ廷は開かれぬ。先ず公訴状朗読の事ありしに、「これより先、磯山清兵衛いそやませいべえは(中略)重井おもい葉石はいしらの冷淡なる、共に事をなすに足る者にあらず」云々うんねんの所に至るや第三列に控えたる被告人氏家直国うじいえなおくに氏は、憤然として怒気満面にちょうし、肩をそびやかして、挙動穏やかならずと見えしが、果して十五ページ上段七行目の「右議決のむねを長崎滞在の先発者田代季吉たしろすえきち云々」の処に至り、突然第一列にある、磯山清兵衛氏に飛びかかり、一喝いっかつして首筋をつかみたる様子にて、じょうの内外一方ひとかたならず騒擾そうじょうし、表門警護の看守巡査は、いずれも抜剣ばっけんにて非常をいましめしほどなりき。とかくする内看守かんしゅ押丁おうていら打ち寄りて、漸く氏家を磯山より引き離したり。この時氏家は何か申し立てんとせしも、裁判長は看守押丁らに命じて、氏家を退廷せしめ、裁判長もまたこの事柄につき、相談すべき事ありとて一先ひとまず廷を閉じ、午後に至りて更に開廷せり。爾来じらい公判は引き続きて開かれしかど、最初の日の如く六十三名打ちそろいたる事はなく、大抵一組とこれに添いたる看守とのみ出廷したり。しかもなお傍聴者は毎日午前三時頃より正門に詰めかけ、三、四日も通い来りて漸く傍聴席に入る事を得たる有様にて、われわれの通路は常に人の山を築けるなりき。

三 重井の情書

 かかる中にも葉石は、時々看守の目をぬすみて、紙盤しばんにその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるをなじるを例とせり。(紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられこれに意志を認めて公判廷に持参しかくて弁論の材料となせるなり)さりながら妾は長崎にて決心せし以来再び同志の言を信ぜず、御身おんみは愛を二、三にも四、五にもする偽君子ぎくんしなり、ここに如何いかんぞ純潔の愛をもてあそばしめんやと、いつも冷淡に回答しやりたりき。意外なりしは重井より心情をめし書状を送り来りし事なり。東京在住中、しょう※(二の字点、1-2-22)しばしばそのていに行きて、富井女史救い出しの件につき、旅費補助の事まで頼みし事ありしが、当時氏は女のさし出がましきをいとた妾らが国事に奔走するをむのふうありしに、思いきや今その真心に妾を思うことせつなるよしを言い越されんとは。妾は更に合点がてん行かず、ただ女珍しの好奇心に出でたるものと大方に見過して、いつも返事をなさざりしに、ついには挙動にまで、その思いの表われて、如何いかにもあやしう思わるるに、かくまでの心入れを、如何いかでこのままにやはあるべきと、いささ慰藉いしゃの文を草して答えけるに、爾来じらい両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石にりし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。これぞに妾が半生を不幸不運のふちに沈めたる導火線なりけると、今より思えばただ恐ろしく口惜しかれど、その当時はもとよりかかる成行なりゆきを予知すべくもあらず、一向ひたぶるに名声赫々かくかくの豪傑を良人おっとに持ちし思いにて、その以後は毎日公判廷にづるを楽しみ、かの人を待ちこがれしぞかつは怪しき。かくて妾は宛然さながら甘酒に酔いたる如くに興奮し、結ばれがちの精神も引き立ちて、互いに尊敬の念も起り、時には※(「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48)いんうんたる口気こうきに接しておのずから野鄙やひの情もせ、心ざまにわかに高く品性もすぐれたるよう覚えつつ、公判も楽しき夢のに閉じられ、妾は一年有余の軽禁錮けいきんこを申し渡されたり。重井、葉石らのおもだちたる人々は、有期流刑とか無期とかの重罪なりければ、いずれも上告の申し立てをなしたれども、妾のみは既決に編入せられつ。なお同志の人々と同じ大阪にあるを頼みにて、時にはかの人の消息を聞く事もあらんなど、それをのみ楽しみに思いしに、やがて三重県津市に転監せらるると聞きし時の失望は、木より落ちたるましらのそれにも似たらんかし。
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第七 就役



一 典獄の訓誨くんかい

 伊勢へは我々一年半の刑を受けし人のみにて、十数人の同行者あり。常ならば東海道の五十三つき詩にもなるべき景色ならんに、柿色の筒袖つつそでに腰縄さえ付きて、巡査に護送せらるる身は、われながら興さめて、駄句だくだにでず、あまつさえ大阪より附き添い来りし巡査は皆草津くさつにて交代となりければ、めてもの顔馴染なじみもなくなりて、きが中に三重県津市の監獄に着く。到着せしは黄昏こうこんの頃なりしが、典獄はねて報知に接し居たりと見え、特に出勤して、一同を控所に呼び集め、今も忘れやらざる大声にて、「拙者は当典獄平松宜棟ひらまつぎとうである、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に伝逓でんていに相成りたる被告人らである、当典獄の配下のもとに来りし上は申すまでもなくく獄則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはそのほうらの身分職業姓名を申し立てよ」と、一同をして名乗らしめ、さてしょうの番になりし時、「お前はいわんでも分る、景山英かげやまひでであろう、妙齢の身にしてかかる大事を企て、今拙者せっしゃの前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう、アア今頃は何処どこにどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前の事を心配しているに相違ない、お前も親を思わぬではなかろう、一朝いっちょう国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ」と同情の涙をめての訓誨くんかいに、悲哀の念急に迫りて、同志の手前これまでこらえに堪え来りたる望郷の涙は、宛然さながらせきを破りたらんが如く、われながらしばしは顔も得上げざりき。典獄は沈思ちんししてそうあろうそうあろう、察し申す、ただこの上は獄則を謹守し、なお無頼ぶらいの女囚を改化遷善の道におもむかしむるよう導き教え、同胞の暗愚を訓誨し、御身おんみ素志そしたる忠君愛国の実を挙げ給え、仮令たとい刑期は一年半たりとも減刑の恩典なきにしもあらねば一日も早く出獄すべき方法を講じ、父母の膝下しっかにありて孝を尽せかしなど、その後も巡回の折々種々にいたわりくれられたれば、ついには身の軽禁錮たることをも忘れて、ひたすら他の女囚の善導に力を致しぬ。

二 女監の工役

 朝も五時に起きて仕度したくをなし、女監取締りの監房を開きに来るごとに、他の者と共に静坐して礼義を施し、次いで井戸端いどばたに至りて順次顔を洗い、終りて役場えきじょうにて食事をなし、それよりいよいよその日のえきにつきて、あるいは赤き着物をい、あるいははたを織り糸をつむぐ。先ず着物の定役ていえきしるさんに赤き筒袖の着物は単衣ひとえものならば三枚、あわせならば二枚、綿入れならば一枚半、また股引ももひき四足しそく縫い上ぐるを定めとし、古き直し物も修繕の大小によりてあらかじめ定数あり、女監取締り一々これを割り渡すなり。しょうもとより定役なき身の仮令たとい終日しょともとすればとて、えて拒む者はあらざるも、せめては、婦女の職分をも尽して、世間の誤謬ごびゅうかん者と、進んで定役ある女囚と伍し、毎日定役とせる物を仕上げてさて二時間位は罷役ひえきより前にわが監房に帰り、読書をなすを例とせり。されば妾出獄の時は相応の工賃を払い渡され、小遣い余りの分のみにてもなお十円以上にのぼりぬ。これは重禁錮じゅうきんこの者は、官に七分を収めて三分を自分の所有とするが例なるに、妾はこれに反して三分を官に収め七分を自分のゆうとなしければ、在監もし長からんには相応の貯蓄も出来て、出獄の上はひとかどの用に立ちしならん。

三 藤堂とうどう家の老女

 妾の幸福さいわいは、何処どこの獄にありても必ず両三人の同情者を得ていんよう庇護ひごせられしことなり。中にも青木女監取締りの如きは妾の倦労けんろうを気遣いて毎度菓子を紙に包みて持ち来り、妾のひとり読書にふけるをいとうらやましげに見惚みとれ居たりき。されば妾もこの人をば母とも思いて万事へだてなく交わりければ、出獄ののちも忘るるあたわず、同女が藤堂とうどう伯爵邸はくしゃくていの老女となりて、東京に来りし時、妾は直ちに訪れて旧時を語り合い、何とか報恩の道もがなと、千々ちぢに心をくだきしのち、同女の次女を養い取りていささか学芸をさずけやりぬ。

四 少女

 しょうの在監中、十六歳と十八歳の二少女ありけり、年下なるはお花、年上なるはおきくと呼べり。この二人ににんことに典獄より預けられて、読み書き算盤そろばんの技は更なり、人の道ということをも、説き聞かせて、及ぶ限りの世話をなすほどに、やがて両女がここに来れる仔細しさいを知りぬ。お花は心のさまさして悪しからず、ただ貧しき家に生れて、一年ひととせ村の祭礼の折とかや、兄弟多くして晴衣はれぎの用意なく、遊び友達の良き着物着るを見るにつけても、わがまとえる襤褸つづれうらめしく、少女心おとめごころ浅墓あさはかにも、近所の家にけありし着物を盗みたるなりとぞ。またお菊は幼少の時孤児みなしごとなり叔父おじの家に養われたりしが、生れ付きか、あるいは虐遇せられし結果にや、しばしばよこしまみちに走りて、既に七回も監獄に来り、出獄の日ただ一日を青天のもとに暮せし事もありしよし。打ち見たる処、両女とも、十人なみの容貌を具えたるにいとど可憫ふびん[#「可憫ふびん」はママ]の加わりて、如何いかで無事出獄の日には、わが郷里の家に養い取りて、一身いっしんの方向を授けやらばやと、両女を左右に置きて、同じく読書習字を教え、露些つゆいささかも偏頗へんぱなく扱いやりしに、両女もいつか妾になつきて、互いに競うて妾をいたわり、あるいは肩をみ脚をさすり、あるいは妾のたしなむ物をば、おのれの欲を節して妾にすすむるなど、いじらしきほどの親切に、かかる美徳を備えながら、何故なにゆえ盗みの罪は犯したりしぞと、いとど深き哀れを催し、彼らにしてもし妾より先に自由の身とならば、妾の出獄を当署にて聞き合せ、必ず迎えに来るようにと言い含め置きたりしも、両女はついに来らざりき。妾出獄ののち監獄より聞きし所によれば、両女ともその後再び来らず、お花は当市近在の者にて、出獄後間もなく名古屋へ娼妓しょうぎに売られたり、またおきく叔父おじの家にも来らず、その所在を知るによしなしとの事なりき。ともかくも妾の到る処何処いずこの監獄にてもかかる事の起りしは、知らず如何いかなる因縁いんねんにや。あるいはこの不自由なる小天地に長く跼蹐きょくせきせる反響として、かく人心の一致集注を見るならんも、その集中点の必ず妾に存せるは、妾に一種の魔力あるがためならずや。もし果してさるものありとせば、しこの身自由となりし時、所有あらゆる不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷いちるの光明を授けんこと、あながちにかたからざるべしとは、当時の妾が感想なりき。

五 看守の無学無識

 当市の監獄には、大阪のそれとことなりて、女囚中無学無識の者多く、女監取締りの如きも大概は看守の寡婦かふなどが糊口ここうの勤めとなせるなりき。されば何事も自己の愛憎あいぞうに走りて囚徒しゅうとを取り扱うの道を知らず。ひとえ定役ていえき多寡たかを以て賞罰の目安めやすとなせしふうなれば、囚徒は何日いつまで入獄せしとて改化遷善せんぜんの道におもむかんこと思いもよらず、悪しき者は益※(二の字点、1-2-22)悪に陥りて、専心取締りの甘心かんしんを迎え、ようや狡獪こうかい陰険の風を助長するのみ。ゆえに監獄の改良を計らんとせば、相当の給料を仕払いて、品性高き人物をば、女監取締りとなすにつとむべし。もしなおかかる者をして囚徒を取り締らしめんには、囚徒は常に軽蔑を以て取締りを迎え、おもてに謹慎を表していんに舌を吐かんとす、これをしも、改化遷善を勧諭する良法となすべきやは。ひとり青木氏の如きは、天性慈善の心にとみたるにや、別に学識ありとも見えざりしにかかわらず、かかる悲惨の境涯を見るに忍びずして、常に早くこの職を退しりぞきたしと語りたりしが妾の出獄後、果して間もなく辞職して、藤堂とうどう氏の老女となりぬ。今なお健在なりや否や。

六 憲法発布と大赦たいしゃ

 それはさて置きしょうは苦役一年にして賞標しょうひょう四個しこを与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典あらんとせる、ある日の事、小塚義太郎こづかぎたろう氏大阪より来りて面会を求めらる。大阪よりと聞きて、かつは喜びかつは動悸ときめきながら、看守に伴われて面接所に行き見れば、小塚氏は微笑を以て妾を迎え、久々ひさびさ疎音そいんを謝して、さていうよう、自分は今回有志者の依頼を受けて、入獄者一同を見廻りおり、今度の紀元節を以て、憲法を発布あらせらるべき詔勅しょうちょく下り、かつかたじけなくも入獄者一同に恩典……といいかけしに、看守はさえぎりてその筋よりいまだ何らのたっしなし、めったな事を言うべからずと注意したり。小塚氏はなお語を継ぎて、貴女あなたは何にも御存知なき様子、しかし早晩御通知あらん、いずれ明日みょうにちにも面会に出頭せん、衣類等は如何いかになりおるや、早速にも間に合うよう相成りおるや否やなど、種々厚き注意をなして、その日はそのまま引き取りたり。妾は寝耳に水の感にて、何か今明日こんみょうにちに喜ばしき御沙汰ごさたあるに相違なし、とにかくその用意をなし置かんと、髪をくしけずり置きしに、果して夕刻書物など持ちて典獄の処にで来るようにと看守の命あり。さてこそと天にも昇る心地ここちにて、控所に伴われ行きしに、典獄署長ら居並いならびて、つつしんで大赦文たいしゃぶんを読み聞かされたり。なお典獄は威儀おごそかに、御身おんみの罪は大赦令によりて全く消除せられたれば、今日より自由の身たるべし。今後は益※(二の字点、1-2-22)国家のためにはげまれよとの訓言あり。聞くや否や奇怪の感はふと妾の胸に浮び出でぬ。昨日までも今日までも、国賊として使役しえきせられたる身の、一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生まぼろしの如しとは、そもやがいいそめけんと一時いちじはただ茫然ぼうぜんたりしが、小塚氏の厚き注意にて、衣類も新調せられたるを着換え、同志六名と共に三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅館に着きぬ。
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第八 出獄



一 令嬢の手前

 旅館には既にそれぞれの用意ありし事とて、実に涙がこぼれるほどの待遇なり。はまた当地有志者の慰労会ありとて、その地の有名なる料理亭に招待せられ、翌日はかまをかけるとてある人より特に招かれたれば、午後より其処そこに至りしに、令嬢の手前にて、薄茶うすちゃのもてなしあり。更に自分にも一服との所望しょもうありしかば、しょう覚束おぼつかなき平手ひらてまえを立ておわりぬ。貧家ひんかにこそ生い立ちたれ、母上の慈悲にて、いささかながらかかるわざをも習い覚えしなりき。さなくば面目を失わんになど、今更の如く親の恩を思えるもおかし。爾来じらいかかる事に思わぬ日を経て、ついに同地の有志者長井氏克ながいうじかつ氏らに送られつつ、鈴鹿峠すずかとうげに至り、それより徒歩あるいは汽車にて大阪にづるの途中、植木枝盛うえきえもり氏の出迎えあり、妾に美しき薔薇花ばらの花束を贈らる、一同へもそれぞれの贈り物あり。

二 大阪の大歓迎

 大阪梅田停車場ステーションに着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同志の無事出獄を祝して万歳の声天地もふるうばかりなり。停車場ステーションに着くや否や、諸有志のわれも花束を贈らんとて互いに先を争う中に、なつかしや、七年前別れ参らせし父上が、病後衰弱の身をもいとわせられず、親類の者にたすけられつつ、ここに来り居まさんとは。オオ父上かと、人前をも恥じず涙にめる声を振りしぼりしに、皆々さこそあらめとて、これも同情の涙にむせばれぬ。かくてあるべきならねば、同志の士に伴われ、父上と手をわかちて用意の整えるある場所に至り、更に志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎すとか、種々の文字を記せる紅白の大旗たいきに護られ、大阪市中を腕車わんしゃに乗りて引き廻されけるに、当地まで迎えに来りし父上は、妾の無事出獄の喜びと、当地市民の狂するばかりなる歓迎の有様を目撃したる無限の感とに打たれ、今日までの心配もこれにて全く忘れたり、このまま死すも残り惜しき事なし、かくまで諸氏の厚遇に預かり、市民に款待かんたいせられんことは、思い設けぬ所なりしといいつつも、故中江兆民なかえちょうみん先生、栗原亮一くりはらりょういち氏らの厚遇を受け給いぬ。夜に入りて旅館に帰り、ようよう一息ひといき入れんとせしに、来訪者引きも切らず、よんどころなく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさ目も廻らんばかりなり。翌日は、重井おもい葉石はいし古井ふるいらの諸氏が名古屋より到着のはずなりければ、さきに着阪ちゃくはんせる同志と共に停車場ステーションまで出迎えしに、間もなく到着して妾らより贈れる花束を受け、それより徒歩して東雲しののめ新聞社に至らんとせるに、数万すまんの見物人および出迎人にて、さしもに広き梅田停車場ステーションもほとんど立錐りっすいの地を余さず、妾らも重井、葉石らと共に一団となりて人々にようせられ、足も地に着かずして中天にぶらさがりながら、かろうじて東雲しののめ新聞社に入る。新聞社の前にも見物人山の如くなれば、戸を閉じて所要ある人のみを通す事としたるに、門外には重井万歳出獄者万歳の声引きも切らず、花火は上る剣舞は始まる、中江先生は今日は女尊男卑なり、君をば満緑まんりょく叢中そうちゅう紅一点こういってんともいいつべく、男子に交りての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして卓子テーブルの上に座せしめ、其処そこにて種々の饗応きょうおうあり。終りて※(二の字点、1-2-22)おのおの旅宿に帰りしは早や黄昏たそがれの頃なりけり。
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第九 重井との関係



一 結婚をだく

 それより重井、葉石、古井の諸氏は松卯まつうしょう原平はらへいに宿泊し、その他の諸氏も※(二の字点、1-2-22)おのおの旅宿を定め、数日間は此処ここの招待、彼処かしこの宴会と日夜を分たざりしが、郷里の歓迎上都合もある事とて、それぞれきほどにて引き別るることとなり、妾も※(二の字点、1-2-22)いよいよ明日岡山へ向け出立というその夜なりき、重井より、是非相談あれば松卯に来りくれよと申し来りぬ。何事かと行きて見れば、重井も葉石もあらず、詮方せんかたなく帰宿せんとする折しも、重井ひとり帰りて、妾の訪れしを喜び、さて入獄以来の厚情はも忘られず、今回互いに無事出獄せるこそ幸いなれ、ここに決心して結婚の約をまんという。こはかねてよりの覚悟なりけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに、両三日来中江なかえ先生、栗原亮一くりはらりょういち氏らしきりにわれに説きて、おんみ葉石はいしと結婚せしむべきことを勧められぬ、依っていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべしと答えおきたりとあり。妾がこれを聞きたる時の驚きは、青天せいてん霹靂へきれきにもたとうべくや、所詮しょせんは中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、一図いちずに妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。さあれ覆水ふくすいいかでか盆にえるべき、父上にはいずれ帰国の上、申し上ぐることあるべしと答え置き、それより中江、栗原両氏に会いて事情を具し、しょうにその意なきことをことわりしかば、両氏も始めておのれらの誤解なることをさとり、その後さることは再び口にせざるに至りき。かくて妾の決心は堅かりしかど、さすがに幼馴染おさななじみの葉石の、今は昔互いにむつみ親しみつつ旦暮あけくれいつ訪われつ教えを受けし事さえ多かりしをおもい、また今の葉石とて妾に対してつゆ悪意のあるにあらざるを察しやりては、この際重井と結婚を約するは情において忍びざる所なきに非ず、情緒じょうちょ乱れて糸の如しといいけん、妾もそれの、思い定めがたくて、いずれ帰国の上父母とも相談してと答えけるに、もとより葉石との関係を知れる彼は、容易にうべなわず、もし葉石と共に帰国せば、他の斡旋あっせんに余儀なくせられて、いて握手することともならんずらん、今の時を失いてはとて、なお妾をうながしてまず、ついに軽率とは思いながらに、ともかくも承知の旨を答えたりしぞ妾が終生の誤りなりける。

二 一家の出迎い

 それより葉石および親戚の者五、六名と共に船にて帰郷のにつきしが、やが三番港さんばんみなとに到着するや、某地の有志家わが学校の生徒およびその父兄ら約数百名の出迎いありて、雑沓ざっとう言わんかたもなく、上陸して船宿ふなやどいたれば、其処そこにはなつかしき母上の飛び出で給いて、やれ無事に帰りしか、大病をわずらいしというに、かくすこやかなる顔を見ることの嬉しさよと涙片手に取りすがられ、アア今日は芽出めでたき日ゆえ泣くまじと思いしに、覚えず嬉し涙がこぼれしとて、兄弟甥姪おいめいを呼びて、それぞれに喜びを分ち給う。挨拶あいさつ終りて、ふとかたわらに一青年のあるに心付き、この人よ、船中にても種々いろいろ親切に世話しくれたり、彼はそも何人なんぴとなりやとたずねしに、そはにをいう、弟淳造じゅんぞうを忘れしかといわれて一驚いっきょうきっし、さても変れば変る者かな、しょうの郷を出でしは七年の昔、彼が十三、四の蛮貊盛わんぱくざかりなりし頃なり、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばるる身の上なりとか。に人の最も変化するは十三歳頃より十七、八歳の頃にぞある、見違えしもむべならずやなど笑い興じて、共に腕車わんしゃに打ち乗り、岡山有志家の催しにかかる慰労の宴にのぞまんため、岡山公園なる観楓閣かんぷうかく指して出立いでたつ。
 この公園は旧三十五万石を領せる池田侯爵の後園こうえんにして、四時のながめ尽せぬ日本三公園の一なり。宴の発企ほっき者は岡山屈指の富豪野崎氏その他知名の諸氏にしてわれわれおよび父母親戚を招待せられ、席上諸氏の演説あり、また有名の楽師を招きて、「自由の歌」と題せる慷慨こうがい悲壮の新体詩をば、二面の洋琴ようきんに和して歌わしむ。これを聴ける時、妾は思わず手をやくして、アアこの自由のためならば、死するもなどか惜しまんなど、無量の感にたれたり。唱歌終りて葉石の答礼あり、それより酒宴は開かれ、※(二の字点、1-2-22)おのおの歓を尽して帰路につきたるは、やが点燈頃ひともしごろなりき。

三 久し振りの帰郷

 かくてしょうは母、兄弟らに護られつつ、絶えて久しき故郷の家に帰る。想えばここを去りし時のさびしく悲しかりしに引き換えて、今は多くの人々に附きまとわれ、賑々にぎにぎしくも帰れることよ。今昔こんじゃくの感そぞろにきて、幼児の時や、友達の事など夢の如くまぼろしの如く、はては走馬燈まわりあんどんの如くにぞ胸にう。我が家に近き町はずれよりは、のきごとに紅燈こうとうの影美しく飾られて宛然さながら敷地祭礼の如くなり。これはたたれがための催しぞと思うに、穴にも入りたき心地ぞする、死したらんにはなかなか心易かるべしとも思いぬ。アアかかる款待かんたいを受けながら、妾が将来は如何いかに、重井おもいひそかに結婚を約せるならずや、そも妾は如何にしてこの厚意に報いんとはすらんなど、人知れずもだえ苦しみしぞかし。

四 大評判

 我が家にては親戚故旧を招きて一大盛宴を張りぬ。絃妓げんぎも来り、舞子も来りて、一家狂するばかりなり。宴終りてのち、種々しめやかなる話しも出で、あかつきに至りて興はなお尽きざりき。七年のかたを、一夜に語り一夜に聴かんと※(「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2-89-92)はやれるなるべし。
 くれば郷里の有志者および新聞記者諸氏の発起ほっきにかかる慰労会あり、魚久うおきゅうという料理店に招かれて、朝鮮鶴の料理あり、妾らの関係せしかの事件にちなめるなりとかや。かくて数日すじつの間は此処ここの宴会彼処かしこの招待に日も足らず、平生へいぜい疎遠なりし親族さえ、妾を見んとてわれがちにつどい寄るほどに、妾の評判は遠近に伝わりて、三歳の童子すらも、なお景山英かげやまひでの名を口にせざるはなかりしぞ憂き。

五 内縁

 それより一、二カ月を経て、東京より重井ら大同団結遊説のため阪地はんちを経て中国を遊説するとの報あり。しかして妾には大阪なる重井の親戚しんせき某方ぼうかたに来りくるるようとの特信ありければ、今は躊躇ちゅうちょの場合に非ずと、始めて重井との関係を両親に打ち明け、かつ今仮に内縁を結ぶとも、公然の批露ひろうは、ある時機を待たざるべからず、そは重井には現に妻女のあるあり、明治十七年以来発狂して人事をわきまえず、余儀なく生家に帰さんとの内意あれども、仮初かりそめならぬ人のために終身のはかりごとだになしやらずして今急に離縁せん事思いも寄らず。されば重井もその職業とする弁護事務の好成績を積み、その内大事件の勝訴となりて数万すまんきんを得ん時、彼に贈りて一生を安からしめ、さて後に縁を絶たんといえり。さもあるべき事と思いければ、しばらく内縁を結ぶの約をなしたるなり、御意見如何いかがあるべきやとたずねけるに、両親ともにあたかも妾の虚名に酔える時なりしかば、ともかくも御身おんみの意見に任すべしとうべなわれなお重井にして当地に来りなば、宅に招待して親戚にも面会させ、その他の兄弟とも余所よそながらのさかずきさせんなど、なかなかに勇み立たれければ、妾も安心して、大阪なる友人をうを名とし重井に面して両親の意向を告げしに、その喜び一方ひとかたならず、この上は直ちに御両親にまみえんとて、相挈あいたずさえて岡山に来り、我が家の招待に応じて両親らとも妾の身の上を語り定めたるのち、貴重なる指環ゆびわをば親しく妾の指にめて立ち帰りしこそ、残るかたなき扱いなれとて、妾はもとより両親もすこぶる満足のていに見受けられき。爾来じらい東京に大阪にた神戸に、妾は表面同志として重井と相伴い、演説会に懇親会に姿を並べつ、その交情日と共にいよいよかさなり行きぬ。
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第十 閑話三則



一 一女生

 その頃しょうの召し連れし一女生あり。越後の生れにて、あたかも妙齢十七の処女なるにも似ず、何故か髪をりて男の姿を学び、白金巾しろかなきん兵児帯へこおび太く巻きつけて、一見いっけん田舎の百姓息子の如く扮装いでたちたるが、重井を頼りて上京し、是非とも景山かげやまの弟子にならんとの願いなれば、書生として使いくれよとの重井の頼みいなみがたく、先ずそのむねを承諾して、さて何故にかかる変性男子へんしょうだんしの真似をなすにやとなじりたるに、貴女あなたは男の如き気性きしょうなりと聞く、さらばかくの如き姿にて行かざらんには、必ずお気に入るまじと確信し、ことさらに長き黒髪を切り捨て、男の着る着物にえたりという。さては世間の妾をること、かくまでに誤れるにや、それとも心付かずしてあくまでも男子をしのがんとする驕慢きょうまん疎野そやの女よと指弾つまはじきせらるることの面目なさよ。有体ありていにいえば、妾は幼時の男装を恥じて以来、天の女性に賜わりし特色をもていささかなりとも世に尽さん考えなりしに、はからずも殺風景の事件にくみしたればこそ、かかる誤認をも招きたるならめ。さきに男のすなる事にもかかずらいしはこと国家の休戚きゅうせきに関し、女子たりとも袖手しゅうしゅ傍観すべきにあらず、もし幸いにして、妾にも女の通性とする優しき情と愛とあらば、これを以て有為の士をすすはげまし、及ばずながら常に男子に後援たらんとせしにほかならず、かの男子と共に力を争い、た功を闘わさんなどは妾の思いも寄らぬ所なり。女は何処どこまでも女たれ男は何処までも男たれ、かくて両性互いに相輔あいたすけ相補うてこそ始めて男女の要はあれと確信せるものなるに、はからずもかかる錯誤さくごを招きたるは、妾のはなはだ悲しむ所、はた甚だ快しとせざる所なるをもて、妾は女生に向かいて諄々じゅんじゅんその非をさとし、やがて髪を延ばさせ、着物をも女の物に換えしめけるに、あわれ眉目びもく艶麗えんれいの一美人と生れ変りて、ほどなく郷里に帰り、他にして美しき細君とはなりき。当時送り来りし新夫婦の写真今なおあり、これに対するごとにわれながらそぞろに微笑の浮ぶを覚えつ。

二 大奇談

 その頃なお一層の奇談あり。妾が東京に家をぼくせしある日の事、福岡県人菊池某とて当時耶蘇ヤソ教伝道師となり、普教につとめつつありたるが、時の衆議院議員、嘉悦氏房かえつうじふさ氏の紹介状をたずさえ来りて、妾に面会せん事を求めぬ。もとより如何いかなる人にても、かつて面会をこばみし事のなき妾は、直ちに書生をして客室かくしつしょうぜしめ、やがて出でて面せしに、何思いけん氏は妾の顔を凝視ぎょうししつつ、口の内にてこれは意外これは意外といい、すこぶ狼狽ろうばいていにて妾の挨拶あいさつに答礼だもほどこさず、茫然ぼうぜんとしていよいよ妾を凝視するのみ。妾は初めあやしみ、ついには恐れて、こは狂人なるべし、狂人を紹介せる嘉悦氏もまた無礼ならずやと、心に七分のいきどおりを含みながら、なお忍びに忍びて狂人のせんようを見てありしに、客はたちま慚愧ざんきの体にてかたちを改め、貴嬢願わくはこの書を一覧あれとの事に、何心なにごころなくひらき見れば、思いもよらぬ結婚申し込みの書なりけり。その文にいわく(中略)貴嬢の朝鮮事件にくみして一死をなげうたんとせるの心意を察するに、葉石との交情旧の如くならず、他に婚を求むるも容貌ようぼう醜矮しゅうわい突額とつがく短鼻たんび一目いちもく鬼女きじょ怪物かいぶつことならねば、この際身をつる方まさるらんと覚悟し、かくも決死の壮挙を企てたるなり。可憐かれんの嬢が成行きかな。我不幸にして先妻は姦夫かんぷはしり、孤独の身なり、かかる醜婦と結婚せば、かかる悲哀に沈む事なく、家庭もむつまじく神に仕えらるるならんと云々うんぬん。かく読み終れる妾の顔に包むとすれど不快の色や見えたりけん、客はいとど面目なき体にて、アアあやまてり疎忽そこつ千万せんばんなりき。ただ貴嬢の振舞を聞きて、直ちに醜婦と思い取れる事の恥かしさよ。わが想像のあだとなれるを思うに、およそ貴嬢を知るほどの者は必ず貴嬢をめとらんとねがう者なるべし。さあれ貴嬢にしてもしわがこころざしみ給わずば、われはついに悲哀のふちに沈み果てなん。アア口惜しの有様やとて、ほとんど自失せし様子なりしが、たちま小刀ナイフをポッケットにさぐりて、妾に投げつけ、また卓子テーブルに突き立てて妾を脅迫し、いて結婚を承諾せしめんとは試みつ。さてこそ遂に狂したれと、妾は急ぎ書生を呼び、きほどに待遇あしらわしめつつ、座を退しりぞきてその後の成行きをうかがうち、書生は客をすかなだめて屋外にいざない、みずか築地つきじなる某教会に送り届けたりき。

三 川上音二郎かわかみおとじろう

 これより先、大阪滞在中和歌山市有志の招待を得て、重井おもいと同行する事に決し、畝下熊野はたしたゆや現代議士山口熊野)、小池平一郎こいけへいいちろう前川虎造まえかわとらぞうの諸氏と共に同地に至り同所有志の発起ほっきかかる懇親会にのぞみて、重井その他の演説あり。妾にも一場いちじょうの演説をとの勧めいなみがたく、ともかくもしてめをふさぎ、更に婦人の設立にかかる婦人矯風会きょうふうかいに臨みて再びつたなき談話を試み、一同と共に撮影しおわりて、前川虎造氏の誘引ゆういんにより和歌わかうらを見物し、翌日は田辺たなべという所にて、またも演説会の催しあり、有志者の歓迎と厚き待遇とを受けて大いに面目をほどこしたりき。かく重井と共に諸所に遊説しおる内に、わが郷里附近よりも※(二の字点、1-2-22)しばしば招待を受けたり。この時世間にては、妾と葉石との間に結婚の約の継続しおることを信じ居たれば、葉石との同行誠に心苦しかりけれど、既に重井と諸所を遊説せし身のことに葉石との同行をいなまんようなく、かつは旧誼上きゅうぎじょう何となく不人情のように思われければ、重井の東京に帰るを機として妾も一旦いったん帰郷し、しばし当所の慰労会懇親会に臨みたり。とかくして滞在中川上音二郎かわかみおとじろう一行いっこう、岡山市柳川座やながわざに乗り込み、大阪事件を芝居に仕組みて開場のはずなれば、是非見物し給われとの事に、厚意こうい黙止もだしがたく、一日両親を伴いて行き見るに、その技芸もとより今日こんにちの如く発達しおらぬ時の事とて、しぐさといい、せりふといい、ほとんど滑稽に近く、全然一見いっけんあたいなきものなりき。しかも当時大阪事件が如何いかに世の耳目じもくきたりしかは、の子女をしてこの芝居を見ざれば、人にあらずとまでに思わしめ、場内毎日立錐りっすいの余地なき盛況をげんぜしにても知らるべし、不思議というもおろかならずや。その興業中川上は※(二の字点、1-2-22)しばしばわが学校に来りて、その一座の重なる者と共に、生徒に講談を聴かせ、あるいは菓子を贈るなどすこぶる親切叮嚀ていねいなりしが、ある日こと小介こものをして大きなる新調の引幕ひきまくを持ち来らしめ、こは自分が自由民権の大義を講演する時に限りて用うべき幕なれば、何とぞわが敬慕する尊姉そんしの名を記入されたく、即ち表面上尊姉より贈られたるものとして、いささか自分の面目をほどこしたしという。妾は当時の川上が性行せいこう諒知りょうちし居たるを以て、まさかに新駒しんこま家橘かきつはいに引幕を贈ると同一にはらるることもあるまじとて、その事をうべないしに、この事を聞きたる同地の有志家連は、自由平等を主張なしながら、いまだ階級思想を打破し得ざりしと見え、たちまち妾に反対してすこぶる穏やかならぬ形勢ありければ、余儀なくその意を川上にらして署名を謝絶しけるに、彼は激昂げっこうして穏やかならぬ書翰しょかんを残し、即日岡山を立ち去りぬ。しかるにその翌二十三年かあるいは四年の頃と覚ゆ、妾も東上して本郷ほんごうどおしを通行の際、ふと川上一座とえりめぬきたる印半天しるしばんてんを着せる者に逢い、思わずその人を熟視せしに、これぞほかならぬ川上にして、彼も大いに驚きたるものの如く、一別いちべつ以来の挨拶振あいさつぶりも、前年の悪感情を抱きたる様子なく、今度浅草鳥越あさくさとりごえにおいて興業することに決し、御覧の如く一座の者と共に広告に奔走ほんそうせるなり、前年と違いよほど苦辛くしんを重ねたれば少しは技術も進歩せりと思う、江藤新平えとうしんぺいを演ずるはずなれば、是非御家族をともない御来観ありたしという。数日すじつを経て果して案内状を送り来りければ、両親および学生友人をいざないて見物せしに、なるほど一座の進歩驚くばかりなり、前年半ばは有志半ばは俳優なりし彼はついしかく純然たる新俳優となりすませるなりき。彼はいえり、昔は拝顔さえかなわざりし宮様方の、勿体もったいなくも御観劇ありし際こと優旨ゆうしを以て御膝下おんひざもと近くまで御招おんまねきに預かり、御言葉おんことばたまわるさえ勿体なきに、なお親しく握手せさせ給えりと、語り来りて彼は随喜ずいきなんだむせび、これも俳優となりたるおかげなりと誇り顔なり。アア彼もしわれらに親善ならんには彼の成功はなかりしならん、彼の成功は、全く自分の主義をて、意気を失いしより得たるたまものなりけり。さるにても人の心の頼めがたきは翻覆手ほんぷくしゅにも似たるかな、昨日の壮士は今日の俳優、妾また何をか言わん。聞く彼は近年細君のお蔭にて大勲位侯爵の幇間ほうかんとなり、上流紳士と称するある一部の歓心を求むるほかにまた余念あらずとか。彼もなかなか世渡りの上手なるおとこと見えたり。この流の軟腸者あにひとり川上のみならんや。
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第十一 母となる



一 妊娠

 これより先、妾のなお郷地に滞在せし時、葉石はいしとの関係につきより正式の申し込みあり、葉石よりも直接に旧情を温めたきむね申し来るなど、心も心ならざるより、東京なる重井おもいかんしてその承諾を受け、父母にも告げて再び上京のきしは二十二年七月下旬なり。この頃より妾の容体ようだい尋常ただならず、日を経るに従い胸悪くしきりに嘔吐おうどを催しければ、さてはと心にさとる所あり、出京後重井に打ち明けて、郷里なる両親にはからんとせしに彼は許さず、しばらく秘して人に知らしむるなかれとの事に、妾は不快の念にえざりしかど、かかる不自由の身となりては、今更に詮方せんかたもなく、彼の言うがままに従うにかずと閑静なる処に寓居ぐうきょかまえ、下婢かひと書生の三人暮しにていよいよ世間婦人の常道を歩み始めんとの心構こころがまえなりしに、事実はこれに反して、重井は最初妾に誓い、た両親に誓いしことをも忘れし如く、妾を遇することかの口にするだもいまわしき外妾同様の姿なるは何事ぞや。如何いかなる事情あるかは知らざれども、妾をかかる悲境に沈ましめ、ことに胎児にまで世のそしりを受けしむるをおもんばからずとは、これをしも親の情というべきかと、会合の都度つどせつに言い聞えけるに、彼もさすがに憂慮のていにて、今暫く発表を見合みあわしくれよ、今郷里の両親に御身おんみ懐胎かいたいの事を報ぜんには、両親とても直ちに結婚発表を迫らるべし、発表は容易なれども、自分の位地として、また御身の位地として相当の準備なくてはかなわず、第一病婦の始末だに、なお付きがたき今日の場合、如何いかんともせんようなきを察し給え。目下弁護事務にてすこぶる有望の事件を担当しおり、この事件にして成就じょうじゅせば、数万すまん報酬ほうしゅうを得んこと容易なれば、その上にてすべて花々しく処断すべし、何とぞ暫しの苦悶を忍びて、胎児を大切に注意しくれよと他事たじもなき頼みなり。もとより彼を信ずればこそこの百年の生命をも任したるなれ、かくまで事を分けられて、なおしもそは偽りならん、一時のがれのあわせならんなど、疑うべき妾にはあらず、他日両親のいきどおりを受くるとも、言いすべのなからんやと、事にたくして叔母おばなる人の上京を乞い、事情を打ち明けて一身いっしんの始末を托し、ひたすら胎児の健全を祈り、自ら堅く外出をいましめしほどに、景山かげやまは今何処いずくにいるぞ、一時を驚動せし彼女の所在こそ聞かまほしけれなど、新聞紙上にさえうたわるるに至りぬ。

二 分娩ぶんべん、奇夢

 その間の苦悶そもいくばくなりしぞや。面白からぬ月日を重ねて翌二十三年三月上旬一男子をぐ。名はいわざるべし、くいある堕落の化身けしんを母として、あからさまに世の耳目じもくかせんは、子の行末ゆくすえのため、決してき事にはあらざるべきを思うてなり。ただその命名につきて一場いちじょうの奇談あり、迷信のそしまぬかれずとも、事実なればしるしおくべし。その子の身に宿りしより常に殺気を帯べる夢のみ多く、ある時は深山しんざんに迷い込みて数千すせんおおかみかこまれ、一生懸命の勇をならして、その首領なる老狼ろうろうを引き倒し、上顎うわあご下顎したあごに手をかけて、口より身体までを両断せしに、の狼児は狼狽ろうばいしてことごと遁失にげうせ、またある時は幼時かつて講読したりし、『十八史略』中の事実、即ち「こうを渡る時、蛟竜こうりょう船を追う、舟中しゅうちゅうの人皆おそる、天を仰いで、嘆じていわく、我めいを天にく、力を尽して、万民を労す、生は寄なり、死は帰なりと、りょうを見る事、※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)えんていの如く、眼色がんしょく変ぜず、竜こうべし尾をれて、のがる。」といえる有様の歴々ありありと目前に現われ、しかも妾は禹の位置に立ちて、禹の言葉を口にしょうし、竜をしてつい辟易へきえきせしめぬ。しかるに分娩ぶんべんの際は非常なる難産にして苦悶二昼夜にわたり、医師の手術によらずば、分娩覚束おぼつかなしなど人々立ち騒げる折しも、あたかも陣痛起りて、それと同時に大雨たいうしのを乱しかけ、鳴神なるかみおどろおどろしく、はためき渡りたるその刹那せつなに、初声うぶこえあがりて、さしもぼんくつがえさんばかりの大雨もたちまちにしてあがりぬ。あとにて書生の語る所によれば、その日雨の降りしきれる時、世にいうたつまきなるものありて、そのへびの如き細き長き物の天上するを見たりきという。妾は児のかさがさね竜に縁あるを奇として、それにちなめる名をばけつ、い先のさち多かれといのれるなりき。

三 の入籍

 児を分娩すると同時に、またもいつの苦悶は出で来りぬ。そは重井と公然の夫婦ならねば、児の籍をば如何いかにせんとの事なりき。幸いなるかな、妾の妊娠中しばしば診察を頼みし医師は重井と同郷の人にして、日頃重井の名声を敬慕し、彼と交誼こうぎを結ばん事を望み居たれば、この人によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医にはかる所ありしに、義侠ぎきょうに富める人なりければ直ちに承諾し、己れいまだ一子いっしだになきを幸い、嫡男ちゃくなんとして役所に届け出でられぬ。かくて両人ともかろうじて世の耳目じもくを免かれ、死よりもつらしと思える難関を打ち越えて、ヤレ嬉しやと思う間もなく、郷里より母上危篤きとくの電報は来りぬ。

四 愛着

 分娩後いまだ三十日とは過ぎざりしほどなりければ、遠路の旅行危険なりと医師はせつに忠告したり。されど今回の分娩は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言い分けがたく、ことには母上の病気とあるに、いか余所よそにやは見過ごすべき、し途中にて死なば死ね、思いまるべくもあらずとて、人々のいさむるを聞かず、叔母おば乳母うばとに小児を托して引かるる後ろ髪を切り払い、書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は如何いかになしおるやらんと、心は千々ちぢに砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。に人生の悲しみは頑是がんぜなき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすらいて堪えねばならぬとは、これもひとえに秘密をちぎりし罪悪の罰ならんと、われと心を取り直して、ただ一人心細き旅路にのぼりけるに、車中片岡直温かたおかなおはる氏があによめ某女と同行せられしに逢い、同女が嬰児えいじふところに抱きて愛撫あいぶ一方ひとかたならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫ふびんさ、探りなれたる母の乳房に離れて、にわかに牛乳を与えらるるさえあるに、哺乳器のふくみがたくて、今頃は如何いかに泣き悲しみてやあらん、なれが恋うる乳房はここにあるものを、そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の雄々おおしき心はせて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも一層ひとしお女々めめしうなりしぞかし。さしも気遣きづかいたりし身体にはさわりもなくて、神戸直行と聞きたる汽車の、俄に静岡に停車する事となりしかば、その夜は片岡氏の家族と共に、停車場ステーション近き旅宿に投じぬ。宿泊帳には故意わざと偽名をしょしたれば、片岡氏も妾をば景山英かげやまひでとは気付かざりしならん。

五 一大事

 翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞いしに、危篤きとくなりし病気の、ようようおこたりたりと聞くぞ嬉しき。久し振りの妾が帰郷を聞きて、親戚しんせきども打ち寄りしが、母上よりはかえって妾の顔色の常ならぬに驚きて、何様なにさま尋常じんじょうにてはあらぬらし、医師を迎えよと口々に勧めくれぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩の事発覚せば、妾はともかく、折角せっかく怠りたる母上の病気の、またはそれがためにつのり行きて、ゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障りなき旨を答え、胸の苦痛を忍び忍びて、ひたすら母上の全快を祈るほどに、追々薄紙はくしぐが如くにえ行きて、はては、とこの上に起き上られ、妾の月琴げっきんと兄上の八雲琴やくもごとに和して、すこやかに今様いまようを歌い出で給う。
春のなかばに病みして、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近きおいの身を、うからやからのあつまりて、日々にみとりし甲斐かいありて、やまいはいつか怠りぬ、に子宝の尊きは、医薬の効にもまさるらん、
 滞在一週間ばかりにて、母上の病気全く癒えければ、児を見たき心の矢竹やたけにはやり来て、今は思い止まるべくもあらねば、われにもあらず、きほどの口実を設けて帰京のむねを告げ、かつ妾も思う仔細しさいあれば、遠からず父上母上を迎え取り、膝下しっか奉仕ほうじすることとなすべきなど語り聞えて東京に帰り、ず愛児の健やかなる顔を見て、始めて十数日来のさをはらしぬ。
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第十二 重井の変心



一 再び約束履行りこうを迫る

 しょうの留守中、重井おもい※(二の字点、1-2-22)しばしば来りて小児を見舞いしよし、いまだ実子とてはなき境涯なれば、今かく健全の男子を得たるを見ては、如何いかで楽しくも思わざらん、ただ世間をはばかればこそ、その愛情を押し包みつつ、朝夕に見たき心を忍ぶなるべし。いざや今一応約束の決行をうながさばやと、ある日面会せしを幸いかく何日いつまでも世間をあざむき小供にまで恥辱を与うるは親として余り冷酷に過ぎたり、早く発表して妾の面目を立て給え。もしこのままにて自然この秘密の発覚することもあらば、妾は生きて再び両親にもまみえがたかるべしなど、涙と共に掻口説かきくどき、そののちまたふみして訴えけるに、彼も内心穏やかならずすこぶる苦慮のていなりしが、ある時は何思いけんいだき上げて、その容貌を熟視しつつハラハラとあつき涙をそそぎたりき。されど少しもその意中を語らず、かつその日よりして、児を見に来る事もややうとくなり行きて、何事か不満の事情あるように見受けられければ、妾も事の破れんことを恐れ、一日くに女学校設立の意を以てし、彼をして五百金を支出せしめたる後、郷里の父母兄弟にかんして挙家きょか上京の事に決せしめぬ。

二 挙家上京

 アアしょうはただ自分の都合によりて、先祖代々師と仰がれし旧家をば一朝その郷関より立ち退かしめすみも慣れざる東の空にさまよわしめたるなり。その罪の恐ろしさは、なかなかあがなうべきすべのあるべきにあらず、今もなお亡き父上や兄上に向かいて、心にびぬ日とてはなし。されどその当時にありては、両親の喜び一方ひとかたならず、東京にて日を暮し得るとは何たる果報かほうの身の上ぞや、これも全く英子ひでこが朝鮮事件にあずかりたる余光なりとて、進まぬ兄上を因循いんじゅんなりと叱りつつ、一家打ち連れて東京に永住することとなりしは明治二十四年の十月なりき。上京の途中は大阪の知人をたずね、西京さいきょう見物に日をついやし、神戸よりは船に打ち乗りて、両親および兄弟両夫婦および東京より迎えに行きたる妾と弟の子の乳母うばと都合八人いずれも打ち興じつつ、長き海路うみじつつがなく無事横浜に着、直ちに汽車にて上京し、神田かんだ錦町にしきちょう寓居ぐうきょに入りけるに、一年余りも先に来り居たる叔母は大いに喜び、一同をいたわり慰めて、絶えて久しき物語に余念とてはなかりけり。

三 変心の理由

 家族の東京に集まりてより、重井の挙動全く一変し、非常に不満のていにてい来る事も稀々まれまれなりしが、妾はなおそれとは気付かず、ただただ両親兄弟に対し前約を履行りこうせざるを恥ずるが故とのみ思い取りしかば、しばしば彼に告ぐるに両親の悪意なきことを以てしけれども、なおことばを左右に托して来らず、ようよう疎遠の姿となりて、はてはその消息さえ絶えなんとはしたり。こは大いに理由ある事にて、彼は全く変心せしなり、彼はしょうの帰国中妾の親友たりし泉富子いずみとみこと情を通じ、妾を疎隔そかくせんとはかりしなり。

四 泉富子(変名)

 ここに泉富子(目下農学博士某の妻なり)の来歴を述べんに、彼女はもと備前のうまれなり。父なる人ある府庁に勤務中看守盗かんしゅとうの罪を犯して入獄せしかば、弁護士岡崎某の妻となり、その縁によりて父の弁護を頼みぬ。されば岡崎氏は彼女に取りて忘るべからざる恩人にて、妾が出獄せし際の如きも岡崎氏と相挈あいたずさえ、ことに妾を迎えて郷里に同行するなど、妾との間柄もほとんど姉妹の如くなりしに、岡崎氏の家計不如意ふにょいとなるに及びて、彼女はこれをいとい、当時全盛に全盛を極めたる重井の虚名に恋々れんれんして、つい良人りょうじんたり恩人たる岡崎氏を棄て、心強くも東京にはしりて重井と交際し、果はその愛をぬすみ得たりしなり。かかる野心のありとも知らず、妾はなお昔の如く相親しみ相睦あいむつみ合いしに、ある日重井よりの書翰しょかんあり、読みもて行くに更に何事なにごととも解し得ざりしこそ道理なれ、富子は何日いつ懐胎かいたいしてある病院に入院し子を分娩したるなり。さればその書翰は、入院中の彼女に送るべきものなりしに、重井の軽率にも、妾への書面と取りちがえたるなりとは、天罰とこそいうべけれ。かくと知りたる妾の胸中は、今ここにしるすまでもなきことなり、直ちに重井と泉に向かってその不徳を詰責きっせきせしに、重井は益※(二の字点、1-2-22)その不徳の本性ほんしょうを現わしたりけれど、泉は女だけにさすがに後悔こうかいせしにやあらん、その後久しく消息を聞かざりしが、またも例の幻術げんじゅつをもて首尾しゅびよく農学博士の令室れいしつとなりすまし、いと安らかに、楽しく清き家庭をととのえおらるるとか。聞くが如きは、重井と彼女との間に生れたる男子は、彼女の実兄泉某の手に育てられしが、その兄発狂して頼みがたくなれるをもて、重井をたずねて、身を托せんと思い立ちしに、その妾おりゅうのために一言いちごんにして跳付はねつけられ、むなく博士某のていに生みの母なる富子夫人を尋ぬれば、これまた面会すらも断わられて、爾来じらい行く処を知らずとぞ。年齢はなお十三、四歳なるべし。しかも辛苦しんくの内に成長したればか、非常にませし容貌なりとの事を耳にしたれば、アア何たる無情ぞ何たる罪悪ぞ、父母共に人にすぐれし教育を受けながら、己れの虚名心に駆られて、将来有為の男児をば無残々々むざむざ浮世の風にさらし、なお一片可憐かれんなりとのこころも浮ばず、ようよう尋ね寄りたる子を追い返すとは、何たる邪慳じゃけん非道ひどうの鬼ぞやと、妾は同情の念みがたく、如何いかにもしてその所在を知り、及ばずながら、世話して見んと心掛くるものから、いまだその生死をだに知るの道なきこそ遺憾いかんなれ。

五 驚くべき相談対手あいて

 ここにおいてしょうは全く重井のためにもてあそばれ、はては全くあざむかれしを知りて、わが憤怨ふんえんの情は何ともあれ、差し当りて両親兄弟への申し訳を如何いかにすべきと、ほとほと狂すべき思いなりしをわれをはげまし、かつて生死をさえ共にせんと誓いたりし同志中、ことに徳義深しと聞えたるある人に面会し、一部始終を語りて、その斡旋あっせんを求めけるに、さても人の心の頼めがたさよ、彼いわく既に心変りのしたる者を、如何に説けばとて、むればとて、せんもなからん。むしろ早く思い棄ててさらに良縁を求むるこそけれ、世間おのずから有為の男子に乏しからざるを、彼一人のために齷齪あくせくする事のおろかしさよと、思いも寄らぬ勧告の腹立たしく、さては君も今代議士の栄職をにないたれば、最初の志望は棄てて、かつて政敵たりし政府の権門家けんもんかに屈従するにこそ、世間おのずから栄達の道に乏しからざるを、大義たいぎのために齷齪することの愚かしさよとやさとり給うらん。アア堂々たる男子も一旦いったんこころざしを得れば、その難有味ありがたみの忘れがたくて如何なる屈辱をも甘んぜんとす、さりとてはけがらわしの人の心やと、当面まのあたりに言いののしり、その醜悪を極めけれども、彼重井おもいの変心を機として妾を誑惑たぶらかさんの下心あるが如くなお落ち着き払いて、この熱罵ねつばをば微笑もて受け流しつつ、そののち※(二の字点、1-2-22)しばしばい寄りては、かにかくと甘きことばろうし、また家人にも取り入りてそが歓心を得んとつとめたる心の内、よく見えきて、あわれにもまた可笑おかしかりし。いな彼がためにその細君より疑い受けて、そのまま今日に及べるこそ思えば口惜くちおしく腹立たしき限りなれ。かくわが朝鮮事件に関せし有志者は、出獄後郷里の有志者より数年すねんの辛苦を徳とせられ、大抵たいてい代議士に撰抜せられて、一時に得意の世となりたるなり。た当年の苦艱くかんかえりみる者なく、そが細君すらもことごとく虚名虚位に恋々れんれんして、昔年せきねん唱えたりし主義も本領も失い果し、一念その身の栄耀えいよう汲々きゅうきゅうとして借金賄賂わいろこれ本職たるの有様となりたれば、かの時代の志士ほど、世に堕落したる者はなしなど世の人にもうたわるるなり。さる薄志弱行の人なればこそ、しょうが重井のために無上の恥辱をこうむりたるをば、なかなかに乗ずべき機なりとなし、いやになったら、またいのを求むべし、これが当世なりとは、さても横にけたる口かな。何たる教訓ぞや。

六 重井と

 見よ彼らが家庭の紊乱びんらんせる有様を、数年間すねんかん苦節を守りし最愛の妻をして、良人りょうじんの出獄、やれ嬉しやと思う間もなく、かえって入獄中の心配よりも一層の苦悶くもんを覚えしめ、淫酒いんしゅふけり公徳を害して、わがままの振舞いやが上に増長すると共に、細君もまた失望の余り、自暴自棄の心となりて、良人と同じく色におぼれ、はてはその子にまで無限の苦痛をめしむるもの比々ひひとして皆しかりとかや、アアかかるものを頼めるこそあやまちなりけれ。この上はみずから重井との関係を断ち翻然ほんぜん悔悟かいごしてこの一身をば愛児のためにささぐべし。妾不肖ふしょうなりといえどもわが子はわが手にて養育せん、誓って一文いちもんたりとも彼が保護をば仰がじと発心ほっしんし、そのむね言い送りてここに全く彼と絶ち、家計の保護をも謝して全く独立の歩調をり、さて両親にもこの事情を語りて、その承諾を求めしに、非常に激昂げっこうせられて、人を以て厳しく談判せんなど言いののしられけるを、かかる不徳不義の者と知らざりしは全く妾の過ちなり、今更如何いかめたりともそのかいあらんようなく、かえって恥をひけらかすにとどまるべしと、かついさめかつなだめけるに、ようように得心とくしんし給う。

七 災厄しきりに至る

 それよりしょうは女子実業学校なる者を設立して、幸いに諸方の賛助を得たれば、家族一同これに従事し、母上は習字科を兄上は読書算術科を父上は会計をあによめ刺繍ししゅう裁縫さいほう科を弟は図画科を弟の妻は英学科をそれぞれに分担し親切に教授しけるに、東京市内は勿論近郷きんきょうよりも続々入学者ありて、一時は満員の姿となり、ありし昔の家風を復して、再び純潔なる生活を送りたりしにさても人の世のたてさよ、明治二十五年の冬父上風邪ふうじゃ心地ここちにて仮りのとこし給えるに、心臓のやまいさえ併発して医薬の効なくつい遠逝えんせいせられ、涙ながらに野辺送のべおくりを済ましてよりいまだ四十日を出でざるに、叔母上またもそのあとを追われぬ。この叔母上は妾が妊娠の当時より非常の心配をかけたるにその恩義に報ゆるのひまもなくて早くも世を去り給えるは、今に遺憾かたもなし。その翌年四月には大切なる兄上さえ世を捨てられ、わずかの月日の内に三度まで葬儀を営める事とて、本来貧窮ひんきゅうの家計は、ほとほとせんすべもなき悲惨のふちに沈みたりしを、有志者諸氏の好意によりて、からくも持ち支え再び開校の準備は成りけれども、杖柱つえはしらとも頼みたる父上兄上には別れ、あによめは子供を残して実家に帰れるなどの事情によりて、容易に授業を始むべくもあらず、一家再び倒産のあわれを告げければ、妾は身の不幸不運をくやむよりほかの涙もなく、この上は海外にもおもむきてこのこころざしつらぬかんと思い立ち、おもむろに不在中の家族に対する方法を講じつつありし時よ、天いまだ妾を捨て給わざりけんはしなくも後日こじつ妾の敬愛せる福田友作ふくだともさく邂逅かいこうの機を与え給えり。
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第十三 良人



一 同情相憐れむ

 これより先、明治二十三年の春、新井章吾あらいしょうご氏の宅にて、一度福田と面会せし事はありしが、当時しょうは重井との関係ありし頃にて、福田の事は別に記憶にも存せざりしが、彼は妾の身の上を知り、一度ひとたび交誼こうぎを結ばんとの念はありしなるべし。ある日関東倶楽部かんとうくらぶに一友人をたずねし時、一紳士いつしんしの微笑しつつ、好処よいところにてお目にかかれり、是非お宅へ御尋ね申したき事ありというを冒頭に、妾のほうに近づき来りて、慇懃いんぎんに挨拶せるは福田なり。そは如何いかなる御用にやと問いかえせしに、彼は妾の学校の当時なお存しおる者と思い居たるが如く、今回郷里なる親戚の小供の出京するにつきては、是非とも御依頼せんと思うなりという。依って妾は目下都合ありて閉校せることを告げ、もっとも表面学校生活はなしおらざるも、両三人自宅に同居して読書習字の手ほどきをなしおれり、それにて差し支えなくば御越おんこしなさるるもよろしけれど、実の処、一方ひとかたならぬ困窮におちいりて学校らしき体面をすら装うあたわずと話しけるに、彼は何事にか大いに感じたるていなりしも道理、その際彼も米国より帰朝以来、小石川こいしかわ竹早町たけはやちょうなる同人社どうにんしゃの講師としてすこぶ尽瘁じんすいする所ありしに、不幸にして校主敬宇けいう先生の遠逝えんせいい閉校のむなき有様となりたるなり。その境遇あたかも妾と同じかりければ、彼は同情の念に堪えざるが如く、しきりに妾の不運を慰めしが、そののち両親との意見相和あいわせずして、益※(二の字点、1-2-22)不幸の境に沈むと同時に、同情相憐れむの念いよいよ深く、はては妾に向かい再び海外に渡航して、かの国にて世を終らんかなどの事をさえ打ち明くるに至りければ、妾もまたその情に撃たれつつ、御身おんみは妾と異なりて、財産家の嫡男ちゃくなんに生れ給い、一度ひとたび洋行してミシガン大学の業をえ、今は法学士の免状を得て、芽出めでたく帰朝せられし身ならずや、何故なにゆえなればかかる悲痛の言をなし給うぞ。妾の如く貧家に生れ今日こんにち重ねてこの不運にいて、あわや活路を失わんずるものとは、同日どうじつの談にあらざるべしとなじりしに、実に彼はひんよりもなおなおつらき境遇に彷徨さまよえるにてありき。彼はたちまち眼中に涙を浮べて、財産家に生るるが幸福なりとか、御身おんみの言葉たがえり、仮令たとえばその日暮ひぐらしのいと便びんなきものなりとも、一家団欒だんらんの楽しみあらば、人の世に取りて如何いかばかりか幸福ならん。と自分の洋行せしは、親よりいて従妹なる者と結婚せしめられ、初めより一毫いちごうの愛とてもなきものを、さりとは押し付けの至りなるが腹立たしく、自暴やけより思い付ける遊学なりき。されば両親も自らさとる所ありてか遊学中も学資を送り来りて、七年の修業を積むことを、先に帰朝の後は自分の理想を家庭に施す事を得んと楽しみたりしに、こころざしはまた事と違いて、昔にまさる両親の処置のなさけなさ、かかる家庭にあるも心苦しくて他出たしゅつすることの※(二の字点、1-2-22)しばしばなりしにつれて、覚えずも魔の道に踏み迷い、借財山の如くになりてついに父上の怒りに触れ、かかる放蕩ほうとう者の行末ゆくすえ覚束おぼつかなき、勘当せんと敦圉いきまき給えるよし聞きたれば、心ならずも再びかの国に渡航して身を終らんと覚悟せるなりと物語る。アア妾もまた不幸落魄らくはくの身なり、不徳不義なる日本紳士のうちに立ち交らんよりは、知らぬ他郷こそ恋しけれといいけるに、彼はたちま活々いきいきしく、さらば自分と同行するの意はなきや、幸い十年足らずかの地に遊学せし身なれば、かの地の事情に精通せりなど、真心まごころより打ちいだされて、遠き沙漠さばくの旅路に清き泉を得たらんが如く、嬉しさしたわしさの余りより、その後※(二の字点、1-2-22)しばしば相会しては、身にしみじみと世の果敢はかなさを語り語らるる交情なからいとなりぬ。ある日彼は改めて御身おんみにさえ異存なくば、この際結婚してさて渡航の準備に着手せんといい出でぬ。妾も心中この人ならばと思い定めたる折柄おりからとて、直ちに承諾のむねを答え、いよいよ結婚の約を結びて、母上にも事情を告げ、彼も公然その友人らに披露ひろうして、それより同棲どうせいすることとなり、一時むつまじき家庭を造りぬ。

二 貧書生ひんしょせい

 その頃の新聞紙上には、豪農の息子景山英かげやまひでと結婚すなどの記事も見えけるが、その実福田友作ふくだともさくは着のみ着のままの貧書生たりしなり。彼は帰朝以来、今のいわゆるハイカラーなりしかば、有志といえる偽豪傑連にせごうけつれんよりは、酒色しゅしょくを以ていざなわれ、その高利の借金に対する証人または連借人れんしゃくにんたる事を承諾せしめられ、はて数万すまんの借財をいて両親に譴責けんせきせられ、今は家に帰るをいといおる時なりき。彼は亜米利加アメリカより法学士の免状を持ち帰りし名誉をかえりみるのいとまだになく、貴重の免状も反古ほご同様となりて、戸棚の隅にねずみの巣とはなれるなりき。可哀かわいさの余りにかにくさにか、困らせなば帰国するならん、東京にて役人などになってもらわんとて、学問はさせしにあらずと、に親の身としては、忍びざるほどの恥辱苦悶を子にめさせ、なお帰らねば廃嫡はいちゃくせんなど、種々の難題を持ち出せしかど、財産のために我が抱負ほうふ理想をぐべきにあらずとて、彼はうべな気色けしきだになければ、さしもの両親もあぐみ果てて、そがなすままに打ち任せつつ居たるなりき。かくて彼は差し当り独立のはかりごとをなさん者と友人にもはかりて英語教師となり、自宅にて教鞭きょうべんりしに、肩書きのある甲斐かいには、生徒のかずようようにえまさり、生計の営みに事を欠かぬに至りけるに、さては彼、東京に永住せんとするにやあらん、棄て置きなば、いよいよ帰国の念を減ぜしむべしとて、国許くにもとより父の病気に托して帰国をうながし来ることいとしきりなり。むなく帰省して見れば、両親は交々こもごも身の老衰を打ちかこち、家事を監督する気力もせたれば何とぞ家居かきょして万事を処理しくれよという。もとより情にはもろき彼なれば、非道なる圧制にこそ反抗もすれ、ことを分けたる親の言葉の前には我慢の角も折れ尽し、そのまま家におらんかとも考えしかど、多額の借財を負える身の、今家に帰らんか、父さては家にわずらいを及ぼさんは眼の前なりと思い返し、財産は弟に譲るも遺憾なし、自分は思う仔細しさいあれば、多年の苦学をむなしうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに、両親の機嫌きげん見る見る変りて、不孝者よ、恩知らずよと叱責しっせきしたり。むなく前言を取り消して、永く膝下しっかにあるべきむねを答えしものから、七年の苦学を無にして田夫野人でんぷやじんと共に耒鋤らいじょり、貴重の光陰こういん徒費とひせんこと、如何いかにしても口惜しく、また妾の将来とても、到底農家に来りてれぬ養蚕機織はたおりのわざを執り得べき身ならねば、一日も早く資金を造りて、※(二の字点、1-2-22)おのおの長ずる道により、世に立つこそよけれとさとりければ、再び両親に向かいて、財産は弟に譲り自分は独立の生計を求めんと決心せるよしを述べ、さて少許しょうきょの資本の分与ぶんよを乞いしに、思いも寄らぬ有様にて、家を思わぬ人でなしとののしられ、たちまち出で行けがしに遇せられければ、大いに覚悟する所あり、ついに再び流浪るろうかくとなりて東京に来り、友人の斡旋あっせんによりて万朝報社よろずちょうほうしゃの社員となりぬ。彼が月給を受けたるは、これが始めての終りなりき。

三 夫婦相愛

 これよりようや米塩べいえんの資を得たれども、彼が出京せし当時はほとんど着のみ着のままにて、諸道具は一切屑屋くずやに売り払い、ついには火鉢の五徳ごとくまでに手を附けて、わずかに餓死がしを免がるるなど、その境遇の悲惨なるなかなか筆紙ひっしの尽し得る所にあらざりしかど、富豪の家に人となりし彼の、別に苦情を訴うることもなく、むしろ清貧に安んじたりし有様は、しょうをして、そぞろ気の毒の感に堪えざらしめき。妾はこれに引き換えて、もとより貧窶ひんるれたる身なり、そのかつて得んと望める相愛の情を得てよりは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めける権門けんもんの令夫人よ、御身おんみが偽善的儀式の愛にあざむかれて、終生浮ぶのなき凌辱りょうじょくこうむりながら、なお儒教的教訓の圧制に余儀なくせられて、ひそかに愛の欠乏に泣きつつあるは、妾の境遇に比して、その幸不幸如何いかなりやなど、少なからぬ快感を楽しむなりき。妾は愛に貴賤きせんの別なきを知る、智愚ちぐ分別ふんべつなきを知る。さればその夫にして他に愛を分ち我を恥かしむる行為あらば、我は男子が姦婦かんぷに対するの処置を以てまた姦夫かんぷに臨まんことを望むものなり。東洋の女子ことに独立自営の力なき婦人に取りて、この主義は余り極端なるが如くなれども、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進せしむべき者、男子は時と場合とによりて、いわゆる都合によりてその愛を四方八方に立ち寄らしむるを得る者といわば、誰かその片手落ちなるに驚かざらんや。人道を重んずる人にして、なおこの不公平なる所置を怪しまず、衆口同音婦人を責むるの惨酷ざんこくなる事、古来習慣のしからしむる所といわばいえ、二十世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地なきなり。さりながら、こはひとり男子の罪のみにあらず、婦人の卑屈なる依頼心、また最もあずかりて悪風習の因となれるなるべし。彼らは常にその良人に見捨てられては、たちまち路頭に迷わんとの鬼胎おそれいだき、何でもかじり付きて離れまじとはつとむるなり。故にその愛は良人に非ずして、我が身にあり、我が身の饑渇きかつを恐るるにあり、浅ましいかな彼らの愛や、男子の狼藉ろうぜきいて、黙従のほかなきはかえすがえすも口惜しからずや。思うに夫婦は両者相愛の情一致して、ここに始めて成立すべき関係なるが故に、人と人との手にて結び合わせたる形式の結婚はしょう首肯しゅこうするあたわざる所、されば妾の福田と結婚の約を結ぶや、翌日より衣食のみちなきを知らざるに非ざりしかど、結婚の要求は相愛にありて、衣服に非ざることもまた知れり、衣服のかえりみるに足らざることもまた知れり、常識なき痴情ちじょうおぼれたりというなかれ、妾が良人の深厚しんこうなる愛は、かつて少しも衰えざりし、彼は妾と同棲せるがために数万すまんの財を棄つること、あたかも敝履へいりの如くなりき。結婚の一条件たりし洋行の事は、夫婦の一日も忘れざる所なりしも、調金の道いまだ成らざるに、妾は尋常ただならぬ身となり、事皆こころざしちがいて、貧しき内に男子を挙げ、名を哲郎てつろうとは命じぬ。

四 神頼み

 しかるに生れて二月ふたつきとはたたざる内に、小児は毛細気管支炎もうさいきかんしえんという難病にかかり、とかくする中、危篤の有様に陥りければ、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚にかえりて、風の日も雨の日もいとうことなく、住居をる十町ばかりの築土八幡宮つくどはちまんぐう参詣さんけいして、愛児の病気を救わせ給えといのり、平生へいぜいたしなめる食物娯楽をさえにちたるに、それがためとにはあらざるべけれど、それよりは漸次ぜんじ快方におもむきければ、ひとえに神の賜物たまものなりとて、夫婦とも感謝の意を表し、そののち久しく参詣を怠らざりき。

五 有形無形

 妾ようより芝居寄席よせに至るをこのみ、また最も浄瑠璃じょうるりたしなめり。されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、おりに触れては勧めいざないたれど、既に無形の娯楽を得たり、形骸けいがいを要せずといなみて応ぜず。ただわが家庭を如何いかにして安穏あんおんに経過せしめんかと心はそれのみにはしりて、苦悶のうちに日を送りつつも、福田の苦心を思いやりて共に力をあわせ、わずかに職を得たりと喜べば、たちまち郷里に帰るの事情起る等にて、彼が身心の過労一方ひとかたならず、彼やこれやの間に、可借あたら壮健の身を屈托せしめて、なすこともなく日を送ることの心もとなさ。

六 渡韓の計画

 かくては前途のためからじと思案して、ある日将来ゆくすえの事ども相談し、かついろいろと運動する所ありしに、おりよくも朝鮮政府の法律顧問なる資格にて、かの地へ渡航するの便びんを得たるを以て、これ幸いと郷里にも告げず、旅費等はなかば友人より、その他は非常の手だてにて調ととのえ、渡韓の準備全くととのいぬ。当時朝鮮政府に大改革ありて、一時日本に亡命のかくたりし朴泳孝ぼくえいこう氏らも大政たいせいに参与し、威権赫々かくかくたる時なりければ、日本よりも星亨ほしとおる岡本柳之助おかもとりゅうのすけ氏ら、そのへいに応じて朝廷の顧問となり、既にして更に西園寺さいおんじ侯爵こうしゃくもまたちょくを帯びて渡韓したりき。故に福田はこれらの人によりてかの国有志の重立おもだちたる人々に交わりを求むるもかたからず、またかの国法務大臣徐洪範じょこうはんは、かつて米国遊学中の同窓の友なれば重ね重ね便宜ありと勇みすすみて、いよいよ出立しゅったつの日妾に向かい、内地にては常に郷里のために目的をさまたげられ、万事に失敗して御身おんみにまで非常の心痛をかけたりしが、今回のこうによりて、いささかそをつぐない得べし。御身に病児を托す、願わくは珍重ちんちょうにせよかしとて、決然たもとわかちしに、そののち二週間ばかりにして、またもや彼が頭上に一大災厄の起らんとは、にも悲しき運命なるかな。

七 妨害運動

 これより先、郷里の両親らは福田が渡韓の事を聞きて彼を郷里に呼び返すことのいよいよかたきをうれい、その極高利貸こうりかしをして、福田が家資分産かしぶんさんの訴えを起さしめ、かくして彼の一身いっしんしばり、また公権をさえ褫奪ちだつして彼をして官途にあたわざらしめ、結局落魄らくはくして郷里に帰るのほかみちなからしめんと企てたり。されば彼の仁川じんせん港に着するや、右の宣告書はたちまち領事館より彼が頭上に投げいだされぬ。彼はその両親の慈愛が、かくまで極端なるべしとは、夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほどの苦しきかねをも調達して最愛の妻や病児をもあとに残して、あかぬ別れをえてしたるなるに、慈愛はなかなかあだとなりて、他に語るも恥かしと、帰京後男泣きに泣かれし時の悲哀そもいくばくなりしぞ。実に彼は死よりもつらき不面目をにないつつ、折角せっかく新調したりし寒防具その他の手荷物を売り払いて旅費を調ととのえ、ようやく帰京のにはつき得たるなりき。

八 血を吐く思い

 横浜に着すると同時に、しょうにちょっと当地まで来れよとの通信ありければ、病児をば人に托して直ちに旅館に至りしに、彼が顔色がんしょく常ならず、身に附くものとては、ただ一着の洋服のみとなりて、いとど帰国の本意ほいなき事を語り出でられぬ。妻の手前ながら定めて断腸だんちょうの思いなりしならんに、日頃耐忍たいにん強き人なりければ、この上はもはや詮方せんかたなし、自分は死せる心算しんさんにて郷里に帰り、田夫野人でんぷやじんして一生を終うるの覚悟をなさん。かくこころざしつらぬあたわずして、再び帰郷するのむなきに至れるは、おんみに対しまた朋友ほうゆうに対して面目なき次第なるも、如何いかんせん両親の慈愛その度に過ぎ、われをしてつい膝下しっかつかえしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじてのために犠牲とならん、何とぞこのせつなる心を察して、しばらく時機を待ちくれよという。今は妾もいなみがたくて、ついに別居の策を講ぜしに、かの子煩悩こぼんのうなる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一子いっしを分ちて、家庭のひややかさを忘れしめよとあるに、これいなみがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛をやわらげんよすがにもと、ついに哲郎をば彼の手にゆだねつ。その当時の悲痛を思うに、今もそぞろに熱涙ねつるいくを覚ゆるぞかし。

九 新生活

 かくて彼は再び鉄面をかぶり愛児までをともないて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極帰家きかせしを喜び、なにとかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、ごうも慈母の撫育ぶいくことなることなく、終日そのかたわらほだされて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心のていにてみずから愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、しょうに対してさえ、毎月若干じゃっかんの手当てを送るに至りけるが、夫婦相思そうしの情は日一日にいや増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男侠太きょうた誕生たんじょう間もなく、親族の者より、妾に来郷らいきょうの事をうながし来りぬ、されば彼はこれに反して、ひそかに来らぬこそけれと言い送れり。そは妾にしてし彼の家の如き冷酷の家庭にるとも到底長くとどまるあたわざるを予知すればなりき。妾とてもまた衣裳や金の持参なくして、はるかに身体からだ一つを投ずるは、他の家ならば知らず、この場合においては、いたずらに彼を悩ますの具となるに過ぎざることを知りければ、始めは固くいなみて行かざりしに、親族は躍気やっきになりて来郷を促し、子供のために、げて来り給えなどいとめて勧めけるに、良人りょうじんとの愛に引かれて、覚束おぼつかなくも、舅姑きゅうこ機嫌きげんを取り、裁縫やら子供の世話やらに齷齪あくせくすることとなりたるぞ、思えば変る人の身の上なりける。

十 ああ死別

 されど妾の如き異分子の、いかでか長くかかる家庭に留まり得べき。こと舅姑きゅうこの福田に対する挙動の、如何いかひややかにかつ無残むざんなるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受くるをさとりては、針のむしろのそれよりも心苦しく、たと一旦いったんいきどおりを招かば招け、かえって互いのためなるべしとて、ある日幼児を背負いて、ひそかに帰京せんとはかりけるに、中途にして親族の人に支えられ、その目的を達するあたわざりしが、彼も妾の意を察して、一家の和合望みなきを覚りしと見え、今回は断然廃嫡はいちゃくの事を親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めんとの事に、妾もこれに賛して、十万の資産何かあらんと、相談の上、妾ず帰京して彼の決行果して成就じょうじゅするや否やを気遣いしに、一カ月を経て親族会議の結果嫡男哲郎を祖父母の膝下しっかに留め、彼は出京して夫婦始めて、愁眉しゅうびを開き、暖かき家庭を造り得たるを喜びつつ、いでや結婚当時の約束を履行りこうせん下心なりしに、悲しいかな、彼は百事の失敗に撃たれて脳のやまいき起し、最後に出京せし頃には病既に膏肓こうこうに入りて、ほとんどすべからざるに至り、時々じじ狂気じみたる挙動さえいちじるしかりければ、知友にも勧誘を乞いて、鎌倉、平塚ひらつか辺に静養せしむべしと、その用意おさおさおこたりなかりしに、積年の病ついに医するあたわず、末子ばっし千秋ちあき出生しゅっしょうと同時に、人事不省におちいりて終にたず、三十六歳を一期いちごとして、そのままながの別れとなりぬ。
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第十四 大覚悟



 アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるよりはなはだしきはなかるべし。しょう一旦いったんは悲痛の余り墨染すみぞめころもをも着けんかと思いしかど、福田実家の冷酷なる、亡夫の存生中より、既にその意の得ざる処置多く、病中の費用を調ととのうるを名として、別家べっけの際、分与ぶんよしたる田畑をば親族の名に書き換え、即ちこれに売り渡したるていに持てして、その実は再び本家ほんけゆうとなしたるなど、少しも油断なりがたく、彼の死後は殊更ことさら遺族の饑餓きがをもかえりみず、一列いっさい投げやりの有様なれば、今は子らに対してひとり重任を負える身の、自ら世を捨て、呑気のんきの生涯を送るべきにあらずと思い返し、亡夫の家を守りて、その日の糊口ここうに苦しみ居たるを、友人知己は見るに忍びず、わざわざ実家に舅姑きゅうこいて遺族の手当てを請求しけるに、彼らは少しの同情もなく、ようやく若干の小遣いせんを送らんと約しぬ。かかる有様なれば、妾は嬰児えいじ哺育ほいくするのほか、なお二児の教育のゆるがせになしがたきさえありて、苦悶くもん懊悩おうのううちに日を送るうち、神経衰弱にかかりて、臥褥がじょくの日多く、医師より心を転ぜよ、しからざれば、健全に復しがたからんなどの注意さえ受くるに至りぬ。死はむしろ幸いならん、ただ子らのなお幼くして、しょうもしあらずば、如何いかになり行くらん。さらば今一度元気を鼓舞して、三児を健全に養育してこそ、妾の責任も全く、良人の愛にむくゆるの道も立てと、自ら大いに悔悟かいごして、女々めめしかりし心恥かしく、ひたすらに身の健康を祈りて、療養怠りなかりしに、やがて元気も旧に復し、浮世の荒浪に泳ぎ出づるとも、決しておばれざるべしとの覚悟さえ生じければ、亡夫が一週年の忌明きあけを以て、自他相輔あいたすくるの策を講じ、ここに再び活動を開始せり。そは婦女子に実業的の修養をなすの要用ありと確信し、その所思しょしを有志にはかりしに、大いに賛同せられければ、即ち亡夫の命日を以て、角筈つのはず女子工芸学校なるものを起し、またこの校の維持を助くべく、日本女子恒産会にほんじょしこうさんかいを起して、特志家の賛助を乞い、貸費生たいひせいの製作品を買い上げもらうことに定めたるなり。恒産会の趣旨は左の如し。

   日本女子恒産会設立趣旨書

つねさんなければ恒の心なく、ひんすればらんすちょう事は人の常情じょうじょうにして、いきおむを得ざるものなり。この故に人をしてその任務のある所を尽さしめんとせば、先ずこれにつねの産を与うるの道を講ぜざるべからず。しからずして、ただその品位を保ち、その本生ほんせいまっとうせしめんとするはたとえば車なくして陸を行き、舟なくして水を渡らんとするが如く、永くその目的を達するあたわざるなり。
今や我が国都鄙とひいたる処として庠序しょうじょの設けあらざるはなく、寒村かんそん僻地へきちといえどもなお※(「口+伊」、第4水準2-3-85)いごの声を聴くことをことに女子教育の如きも近来長足ちょうそくの進歩をなし、女子の品位を高め、婦人の本性を発揮するに至れるは、妾らの大いによろこぶ所なり。されど現時げんじ一般女学校の有様を見るに、その学科はいたずらに高尚に走り、そのいわゆる工芸科なる者もまた優美をむねとし以て奢侈しゃし贅沢ぜいたくの用に供せらるるも、実際生計の助けとなる者あらず、以て権門勢家けんもんせいか令閨れいけいとなる者を養うべきも、中流以下の家政を取るの賢婦人をいだすに足らず。これ実に昭代しょうだい一欠事いつけつじにして、しかして妾らのひそかに憂慮あたわざる所以ゆえんなり。
それ世の婦女たるもの、人の妻となりて家庭を組織し、くその所天おっとたすけて後顧こうこうれいなからしめ、あるいは一朝不幸にして、その所天おっとわかるることあるも、独立の生計を営みて、毅然きぜんその操節をきようするもの、その平生へいぜい涵養かんよう停蓄ていちくする所の智識と精神とにるべきは勿論もちろんなれども、妾らを以てこれを考うれば、むしろ飢寒きかん困窮こんきゅうのその身をおそうなく、艱難辛苦かんなんしんくのその心を痛むるなく、泰然たいぜんとしてその境に安んずることを得るがためならずんばあらざるなり。
しかりといえども女子に適切なる職業に至りてはその数極めて少なし、やや望みをしょくすべきものは絹手巾きぬはんけち刺繍ししゅうこれなり。絹手巾はその輸出かつて隆盛を極め、その年額百万ダースその原価ほとんど三百余万円にのぼり我が国産中実に重要の地位を占めたる者なりき。しかるにそののち趨勢すうせいとみに一変して貿易市場における信用全く地に落ち、輸出高※(二の字点、1-2-22)ますます減退するの悲況を呈するに至れり。これと種々なる原因の存するものなるべしといえども、製作品の不斉一ふせいいつなると、品質の粗悪なるとは、けだしその主なるものなるべきなり。しかしてその不斉一その粗悪なるは、その製出者と営業者とに徳義心を欠くが故なりというもなり、かんがみざるべけんや。
そもそも文明の進み分業の行わるるに従い、機械的大仕掛おおじかけの製造盛んに行われ、低廉ていれんなる価格を以て、く人々の要に応じ得べきに至るといえども、元来機械製造のものたる、千篇一律せんぺんいちりつ風致ふうちなく神韻しんいんを欠くを以て、ひとえに実用に供するにとどまり、美術品として愛翫あいがんあたわざらしむる事なし。しかるに経済社会の進捗しんちょく富財ふざい饒多じょうたとなるに従って、昨日の贅沢品ぜいたくひん今日こんにちは実用品と化し去り、贅沢品として愛翫せらるるものは、勢い手工しゅこうの妙技をたくましうせる天真爛漫てんしんらんまんたるものにほかならざるに至るなり、故を以て衣食住の程度低き我が国において、我が国産たる絹布を用い、これに加うるに手工細技さいぎ天稟てんりんの妙を有する我が国女工を以てす、あたかもりょうつばさを添うが如し、以て精巧にこれを製出し、世界の市場に雄飛す、天下如何いかんぞこれに抗争するの敵あるを得んや。しかるに事実のこれと反したるは、妾らの悲しみに堪えざる処なり、故にもし今大資本家に依りて製品の斉一せいいつを計り、かつ姑息こそくの利をむさぼらずして品質の精良を致さば、その成功は期して待つべきなり。
妾らここに見るあり曩日さきに女子工芸学校を創立して妙齢の女子を貧窶ひんるうちに救い、これにさずくるに生計の方法を以てし、つねさんを得て恒の心あらしめ、小にしては一身いっしんはかりごとをなし、大にしては日本婦人たるの任務を尽さしめんとす、しかして事ややそのちょけり。
すなわちここに本会を組織し、その製作品の輸出に付いて特別なる便利を与えんと欲す。顧みるに妾ら学浅く、才せつなり、加うるに微力なすあるに足らず、しかしてなおこの大事を企つるは、誠に一片の衷情ちゅうじょう禁ぜんとして禁ずるあたわざるものあればなり。こいねがわくは世の兄弟姉妹よ、血ありなんだあらば、来りてこれを賛助せられん事を。
  明治三十四年十一月三日
設立者謹述きんじゅつ

 この事業はいまだ半途はんとにして如何いかになり行くべきや、常なき人の世のことはあらかじめいいがたし、ただこの趣意をつらぬかんこそ、わらわが将来の務めなれ。

     *         *         *

 三十余年の半生涯、顧みればただ夢の如きかな。アア妾は今めたるか、覚めてまた新しき夢に入るか、妾はこの世を棄てん、この世妾を棄つる乎。進まん乎、妾に資と才とあらず。退しりぞかん乎、おそうてかんとは来らん。生死しょうし岸頭がんとうに立って人のるべき道はただいつ、誠を尽して天命を待つのみ。





底本:「妾の半生涯」岩波文庫、岩波書店
   1958(昭和33)年4月25日第1刷発行
   1983(昭和57)年10月17日第25刷改版発行
   2001(平成13)年11月7日第28刷発行
底本の親本:「妾の半生涯」岩波文庫、岩波書店
   1958(昭和33)年4月25日第1刷発行
初出:「妾の半生涯」東京堂
   1904(明治37)年10月25日
※底本では、二行どりの小見出しの下から、本文が組みはじめられています。
※表題は、底本では「わらわ半生涯はんせいがい」となっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2005年6月25日公開
2022年2月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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