午前運動の
為め亀井戸までゆき。やや十二時すぐる頃
帰て来ると。妻はあわてて予を迎え。今少し前に巡査がきまして牛舎を
見廻りました。虎毛が少し
涎をたらしていました
故鵞口瘡かも知れぬと申して。男共に鼻をとらして口中をよおく見ました。どうも判然はわからぬけれど念のため獣医を呼んで一応見せるがよかろうと申して。今帰ったばかりです どうしましょうと
云う。予はすぐ
其の足で牛舎へはいって虎毛を見た。異状は少しもない。老牛で歯が
稍鈍くなっているから。はみかえしをやる
度自然
涎を出すのである。
此牛はきょうにかぎらずいつでもはみかえしをやる度に
涎を出すのはきまって居るのだ。それと角へかけて結びつけたなわの節が。ちょうど右の眼にさわるようになっていたので涙を流していた。巡査先生
之を見て
怪んだのである。獣医を呼ぶまでもなしと予が
云うたので。家内安心した
午後二時頃深谷きたる。当区内の
鵞口瘡は
此六日を
以て
悉皆主治したとの話をした
午前警視庁の巡回獣医来る 健康診断のためである。例の
如く消毒衣に服を着かえて。くつを下駄にはきかえて牛舎を
見廻った。予は獣医に府下
鵞口瘡の模様を問うた。本月二日以来新患の
届出でがないから。もう心配なことはなかろうとの獣医の答であった
午前二時朝乳を搾るべき時間であるから。妻は男共をおこしに往った。牛舎で常と変った叫ごえがする。どれか子をうみやがったなと思うていると。
果して妻は
糟毛がお産をしました。親の乳も余りはりません
犢も小さい。月が少し早いようですと報告した。予も起きて往て見ると母牛のうしろ
一間許はなれて。ばり板の上に
犢はすわっていて耳をふっていた。背のあたりに白斑二つ三つある赤毛のめす子である。母牛はしきりにふりかえって
犢の方を見ては
鳴ている。八ヶ月位であろう どうか育ちそうでもあるから。急に男共に手当をさして。まず例に
依って暖かい
味噌湯を母牛に飲ませ。寝わらを充分に
敷せ
犢を母牛の前へ持来らしめた。とりあえず母牛の乳を搾りとって。フラソコ瓶で
犢に乳を飲せようとしたけれど。どうしても
犢は乳を飲まない。よくよく見ると余程衰弱して居る。月たらずであるのに生れて二三時間手当なしであった
故。寒気のためによわったのであろうと思われた。それから一時間半ばかりたって遂に絶命した。予は
猶母牛の注意を男共に示して
置て寝てしまった
夜明けて後男共は
今暁の
死犢を食料にせんことを請求してきた。全く
或る故障より起った早産で母牛も壮健であるのだから食うても少しも
差支はない。空しく埋めてしまうのは惜しいと
云う理由であった。女達はしきりに気もちわるがってよせよせと
云う。予は
勿論有毒なものではあるまいから
喰いたいならそちらへ持て往て
喰えと命じた。やがて男共は料理して
盛にやったらしかった。なかなかうまいです少々
如何ですかと
云って。一
椀を予の所へ持て来たけれども。予は
遂に一口を試むるの勇気もなかった
暖かであるから出産牛のあと消毒を行わせた。きょうは
午后から
鵞口瘡疫の事に
就て。組合本部の役員会がある
筈なれど
差支える事があって往をやめた
朝根室
分娩牡犢である。例に
依て母牛に
視せずして
犢を遠く移した 母牛は壮健である。杉山発情午後交尾さした。アンヤ陰部より出血 十三日頃発情したのであるを見損じたのである。次回のさかりの時をあやまるなと男共及び妻に注意した
前夜より寺島の
犢がしきりに鳴く。
午后の乳搾る頃になりてますます鳴く。どうしたのじゃ飼の足らぬのじゃないかと
云えば。飼は充分やってあるのです 又よく
喰うのです。なんでもあいつは。十五日朝はなれて母牛の乳を一廻残らず飲みましてそれから
鳴のです。ですからあれは母牛の乳をまだ
飲たがって
鳴のでしょうと男等は
云った。日くれになってもまだ鳴いている。気になるから
徃って見たが。どうでもない
矢張男等が
云う通りにちがいないようであった
明治34年2月『ほとゝぎす』
署名 本所 さちを