見渡すかぎり地は銀沙を敷きて、舞ふや
蝴蝶の
羽そで軽く、枯木も春の
六花の眺めを、世にある人は歌にも詠み詩にも作り、月花に並べて
称ゆらん
浦山しさよ、あはれ忘れがたき昔しを思へば、降りに降る雪くちをしく悲しく、
悔の
八千度その甲斐もなけれど、
勿躰なや父祖累代
墳墓の地を捨てゝ、養育の恩ふかき伯母君にも
背き、我が名の珠に恥かしき
今日、親は
瑕なかれとこそ名づけ給ひけめ、瓦に劣る世を
経よとは
思しも置かじを、そもや谷川の水おちて流がれて、清からぬ身に成り終りし、
其あやまちは
幼気の、迷ひは我れか、
媒は過ぎし雪の日ぞかし。
我が故郷は某の山里、草ぶかき小村なり、我が
薄井の家は土地に聞えし名家にて、身は
其一つぶもの成りしも、不幸は父母はやく
亡せて、
他家に嫁ぎし伯母の是れも
良人を失なひたるが、立帰りて我をば
生したて給ひにき、さりながら三歳といふより手しほに懸け給へば、我れを見ること
真実の子の如く、蝶花の愛
親といふ
共これには過ぎまじく、七歳よりぞ手習ひ学問の師を
撰らみて、
糸竹の芸は御身づから心を尽くし給ひき。
扨もたつ年に関守なく、腰
揚とれて細眉つくり、幅びろの帯うれしと
締めしも、今にして思へば其頃の愚かさ、都乙女の利発には
比らぶべくも非らず、姿ばかりは年齢ほどに延びたれど、男女の差別なきばかり幼なくて、何ごとの憂きもなく思慮もなく明し暮らす十五の冬、我れさへ知らぬ心の色を
何方の誰れか見とめけん、吹く風つたへて伯母君の耳にも入りしは、これや生れて初めての、
仇名ぐさ恋すてふ風説なりけり。
世は
誤の世なるかも、無き名とり川波かけ衣、ぬれにし袖の相手といふは、桂木一郎とて我が通学せし学校の師なり、東京の人なりとて
容貌うるはしく、心やさしければ生徒なつきて、桂木先生と誰れも褒めしが、下宿は十町ばかり我が家の北に、法正寺と呼ぶ寺の
離室を
仮ずみなりけり、幼なきより教へを受くれば、
習慣うせがたく我を愛し給ふこと人に越えて、折ふしは我が家をも訪ひ又下宿にも伴なひて、おもしろき物がたりの中に様々教へを含くめつ、さながら妹の如くもてなし給へば、
同胞なき身の我れも嬉しく、学校にての肩身も広かりしが、今はた思へば
実に人目には怪しかりけん、よしや二人が心は
行水の色なくとも、
結ふや嶋田髷これも
小児ならぬに、師は三十に三つあまり、七歳にしてと書物の上には学びたるを、忘れ忘られて睦みけん愚かさ。
見る目は人の
咎にして、有るまじき事と思ひながらも、立ちし浮名の消ゆる時なくば、
可惜白玉の
瑕に成りて、其身一生の不幸のみか、あれ見よ伯母そだてにて投げやりなれば、薄井の娘が
不品行さ、両親あれば
彼の
様にも成らじ物と、云ひたきは人の口ぞかし、思ふも涙は
其方が母、
臨終の枕に我れを拝がみて。姉様お
願は珠が事をと。
幽かに言ひし一言あはれ千万無量の思ひを籠めて、まこと闇路に迷ひぬべき事なるを、引受けし我れ
其甲斐もなく、世の
嗤笑に為しも終らば、第一は亡き妹に対し我が薄井の家名に対し、伯母が身は
抑も何とすべき。と御声ひくゝ
四壁を憚りて、口数すくなき伯母君が
思し
合はすることありてか、しみじみと
諭し給ひき、我れ初めは
一向夢の様に迷ひて何ごとゝも思ひ分かざりしが、
漸々伯母君の詞するどく。よく聞けよお珠、桂木様は其方を愛で給ふならん、其方も又慕はしかるべし、されども此処に
法ありて、我が薄井の家には昔しより他郷の人と縁を組まず、
況てや如何に学問は長じ給ふとも、桂木様は何者の子何者の種とも知らぬを、
門閥家なる我が薄井の聟とも言ひがたく嫁にも
遣りがたし、よし恋にても
然かぞかし、無き名なりせば
猶さらのこと、今よりは構へて
往来もし給ふな、稽古もいらぬ事なり、其方大切なればこそお師匠様と
追従もしたれ、
益も無き他人を珍重には非らず、
年来美事に育だて上げて、人にも褒められ我れも誇りし物を、口惜しき
濡れ
衣きせられしは
彼の人ゆゑなり、今までは今までとして、
以来は
断然と行ひを改ため、其方が名をも
雪ぎ我が心をも安めくれよ、
兎角に其方が仇は彼の人なれば、家を思ひ伯母を思はゞ、桂木とも
思すな一郎とも思すな、彼の
門すぎる
共寄り給ふな。と畳みかけて
仰する時我が
腸は
断ゆる
斗に成りて、何の涙ぞ
睚に堪へがたく、袖につゝみて
音に泣きしや
幾時。
口惜しかりしなり其内心の、いかに世の人とり沙汰うるさく一村
挙りて我れを捨つるとも、育て給ひし伯母君の眼に我が清濁は見ゆらんものを、
汚れたりとや思す恨らめしの御詞、師の君とても昨日今日の交りならねば、正しき品行は御覧じ知る
筈を、誰が
讒言に動かされてか打捨て給ふ情なさよ、成らば此胸かきさばきても身の潔白の
顕はしたやと哭きしが、其心の底何者の潜みけん、
駒の狂ひに手綱の
術も知らざりしなり。
小簾のすきかげ隔てといへば、一重ばかりも
疾ましきを、此処十町の間に人目の関きびしく成れば、頃は木がらしの風に付けても、散りかふ紅葉のさま浦山しく、行くは
何処までと遠く
詠むれば、見ゆる森かげ我を招くかも、彼の村外れは師の君のと、住居のさま面かげに浮かんで、夕暮ひゞく法正寺の鐘の音かなしく、さしも心は空に通へど
流石に戒しめ重ければ、
足は其方に向けも得せず、せめては師の君訪ひ来ませと待てど、立つ名は此処にのみならで、憚りあればにや
音信もなく、と
絶えし中に千秋を重ねて、
万代いわふ
新玉の、歳たちかへつて七日の日
来りき、伯母君は隣村の親族がり年始の礼にと趣き給ひしが、朝より曇り勝の空いや暗らく成るまゝに、吹く風絶へたれど寒さ骨にしみて、引入るばかり物心ぼそく
不図ながむる空に白き物ちら/\、
扨こそ雪に成りぬるなれ、伯母様さぞや寒からんと
炬燵のもとに思ひやれば、いとど降る雪
用捨なく綿をなげて、時の間に隠くれけり庭も
籬も、我が
肘かけ窓ほそく開らけば一目に見ゆる裏の耕地の、田もかくれぬ畑もかくれぬ、日毎に眺むる彼の森も空と
同一の色に成りぬ、あゝ師の君はと是れや
抑々まよひなりけり。
禍ひの神といふ者もしあらば、
正しく我身さそはれしなり、此時の心何を思ひけん、
善とも知らず
悪しとも知らず、唯懐かしの念に迫まられて身は前後無差別に、
免がれ
出しなり薄井の家を。
是れや名残と思はねば馴れし軒ばを見も返へらず、心いそぎて庭口を
出しに、嬢様この雪ふりに
何処へとて、お傘をも持たずにかと驚ろかせしは、作男の平助とて
老実に愚かなる男なりし、伯母様のお迎ひにと偽れば、否や今宵はお泊りなるべし、是非お迎ひにとならば
老僕が参らん、
先待給へと止めらるゝ憎くさ、
真実は此雪に
宜くこそと賞められたく、是非に我が身行きたければ、其方は知らぬ顔にて居よかしと言ふに、
取しめなく高笑ひして、お子達は扨らちも無きもの、さらば傘を持給へとて、其身の持ちしを我れに渡しつ、転ろばぬ様に行き給へと言ひけり、
由縁あれば武蔵野の原こひしきならひ、此一
ト言さへ
思ひ
出らるゝを、
無情かりしも我が為、厳しかりしも我が為、
末宜かれとて尽くし給ひしを、思ふも勿躰なきは伯母君のことなり。
斯くまでに師は恋しかりしかど、夢さら此人を
良人と呼びて、共に他郷の地を踏まんとは、かけても思ひ寄らざりしを、
行方なしや迷ひ、窓の
呉竹ふる雪に心
下折れて我れも人も、罪は誠の罪に成りぬ、我が故郷を離れしも我が伯母君を捨てたりしも、此雪の日の夢ぞかし。
今さらに我が夫を恨らみんも
果敢なし、都は花の見る目うるはしきに、
深山木の我れ立ち並らぶ方なく、草木の冬と一人しりて、袖の涙に昔しを問へば、何ごとも
総べて誤なりき、故郷の風の便りを聞けば、伯母君は我が上を歎げき歎げきて、其歳の秋かなしき数に入り給ひしとか、悔こそ物の終りなれ、今は浮世に何事も絶えぬ、つれなき人に操を守りて知られぬ
節を
保たんのみ、思へば誠と式部が歌の、ふれば憂さのみ増さる世を、知らじな雪の今歳も又、我が破れ垣をつくろひて、見よとや誇る我れは昔しの恋しき物を
(完)