經つくゑ
樋口一葉
哀れ
手向の
花一
枝に千
年のちぎり
萬年の
情をつくして、
誰れに
操の
身はひとり
住、あたら
美形を
月花にそむけて、
世は
何時ぞとも
知らず
顏に、
繰るや
珠數の
緒の
引かれては
御佛輪廻にまよひぬべし、ありしは
何時の七
夕の
夜、なにと
盟ひて
比翼の
鳥の
片羽をうらみ、
無常の
風を
連理の
枝に
憤りつ、
此處閑窓のうち
机上の
香爐に
絶えぬ
烟りの
主はと
問へば、
答へは
ぽろり襦袢の
袖に
露を
置きて、
言はぬ
素性の
聞きたきは
無理か、かくすに
顯はるヽが
世の
常ぞかし。
さすれば
夢のあともなけれど、
悟らぬ
先の
誰れも
誰れも
思ひを
寄せしは
名か
其人か、
醫科大學の
評判男に
松島忠雄と
呼ばれて
其頃二十七か八か、
名を
聞けば
束髮の
薔薇の
花やがて
笑みを
作り、
首卷のはんけち
俄かに
影を
消して、
途上の
默禮とも千
歳の
名譽とうれしがられ、
娘もつ
親幾人に
仇敵の
思ひをさせて
我が
聟がねにと
夫れも
道理なり、
故郷は
靜岡の
流石に
士族出だけ
人品高尚にて
男振申
分なく、
才あり
學あり
天晴れの
人物、
今こそ
内科の
助手といへども
行末の
望みは十
指のさす
處なるを、これほどの
人他人に
取られて
成るまじとの
意氣ごみにて、
聟さま
拂底の
世の
中なればにや
華族の
姫君、
高等官の
令孃、
大商人の
持參金つきなど
彼れよ
是れよと申
込みの
口
より、
小町が
色を
衒らふ
島田髷の
寫眞鏡、
式部が
才にほこる
英文和譯、つんで
机上にうづたかけれども
此男なんの
望み
有りてか
有らずか、
仲人が
百さへづり
聞ながしにして
夫れなりけりとは
不審しからずや、うたがひは
懸かる
柳闇花明の
里の
夕べ、うかるヽ
先きの
有りやと
見れど
品行方正の
受合人多ければ
事はいよいよ
闇黒になりぬ、さりながら
怪しきは
退院がけに
何時も
立寄る
某れの
家、
雨はふれど
雪は
降れど
其處に
轅棒おろさぬ
事なしと
口さがなき
車夫の
誰れに申せしやら、
某から
某と
傳はりて
想像のかたまりは
影となり
形となり
種々の
噂となり、
人知れず
氣をもみ
給ふ
御方もありし、
其中に
別けて
苦勞性のあるお
人しのびやかに
跡をやつけ
給ひし、
探ぐりに
探ぐれば
扨も
燈臺のもと
暗らさよ、
本郷の
森川町とかや
神社のうしろ
新坂通りに
幾搆への
生垣ゆひ
廻せし
中、
押せば
開らく
片折戸に
香月そのと
女名まへの
表札かけて
折々もるヽ
琴のしのび
音、
軒端の
梅に
鶯はづかしき
美音をば
春の
月夜のおぼろげに
聞くばかり、ちらり
姿は
夏の
簾ごし
憎くや
誰れゆゑ
惜しみてか
藥師さまの
御縁日にそヾろあるきをするでもなく、
人まち
顏の
立姿かどに
拜みし
事もなけれど
美人と
言ふ
名この
近傍にかくれなしと
聞くは、
扨こそ
彌々學士の
外妾か、よしや
令孃ぶればとてお
里はいづれ
知れたもの、
其樣なものに
鼻毛よまれて
果は
跡あしの
砂の
御用心さりとてはお
笑止やなどヽ
憎くまれ
口いひちらせど
眞の
處は
妬し
妬しの
積り、かヽる
人々の
瞋恚のほむらが
火柱などヽ
立昇つて
罪もない
世上をおどろかすなるべし。
黒ぬり
塀の
表かまへとお
勝手むきの
經濟は
別ものぞかし、
推はかりに
人の
上は
羨やまぬ
物よ、
香月左門といひし
舊幕臣、
彼の
學士の
父親とは


の
肩をならべし
間なるが、
維新の
變に
彼れは
靜岡のお
供、これは
東臺の
五月雨にながす
血汐の
赤き
心を
首尾よく
顯はして
露とや
消えし、
水さかづきして
別れし
限りの
妻へ
形見が
此美人なり、
人の
不幸は
生れながらに
後家さまの
親を
持ちて、すがる
乳房の
甘へながらも
父といふ
味夢にも
知ず、
物ごヽろ
知るにつけて
親といへば
二人ある
他人のさまの
羨やましさに、いとしき
事とひかけては
幾度母の
袖しぼらせしが、その
母にも
又十四といふとし
果敢なく
別れて
今は
身一つのいたはしさ、かの
學士どの
其病床に
不圖まねかれて
盡力したるが
原因となり、くり
返す
昔しのゆかりも
捨てがたく、
引つヾいて
行通しけるが、
見るにも
聞くにも
可愛想なり
氣のどくなり、これが
若しもお
侠ん
娘の
飛びかへりなどならば
知らぬ
事、
世といはヾ
門の
戸の
外をも
見ず、
母さまとならではお
湯にも
行かじ、
觀音さまのお
參りもいやよ、
芝居も
花見も
母さま
御一
處ならではと
此一トもとのかげに
隱くれて、
姿こそ
嶋田の
大人づくらせたれど
正の
處は
人形だいて
遊びたきほどの
嬰兒さまが
俄かに
落し
木の
下の
猿同やう、
涙のほかに
何の
考へもなくお
民と
呼ぶ
老婢の
袖にすがつて、
私しも一
處に
棺に
入れよとて
聞きわけもなく
泣き
入りし
姿のあくまであどけなきが
不愍にて、
素より
誰れたのまねば
義務といふ
筋もなく、
恩をきせての
野心もなけれど
夫れより
以來の
百事萬端、
身に
引うけて
世話をすること
眞の
兄弟も
出來ぬ
業なり、これを
色眼鏡の
世の
人にはほろ
醉の
膝まくらに
耳の
垢でも
取らせる
處が
見ゆるやら、さりとは
學士さま
寃罪の
訴へどころもなし。
今の
世の
女子教育を
賛成といひがたき
心よりお
園にも
學校がよひ
爲せたくなく、
廻り
路でもなき
歸宅がけの一
時間を
此家に
寄りては
讀書算術、
思ふやうに
教へて
見れば
記憶もよく
分りも
早く、
學士はいよ/\
可愛がりしが、お
園すこしの
感じもなく、
有がたし
嬉しなど
口の
先に
出すどころか
顏を
見るさへ
嫌やがりて、
日
の
稽古にも
書物の
事より
外に
問ふことの
無きは
勿論、
返來をさへ
打とけて
言ひし
事はなく、
強て
問へば
泣き
出しさうな
景色を
見るお
民きの
毒さかぎりなく、
何歳までも
嬰兒さまで
致しかたが
御座りませぬ、
流石に
氣のおけるお
他人には
少し
大人らしくお
成り
遊ばせど、お
心安だての
我まヽか、
甘へ
氣味であの
通りの
御遠慮なさ、ちと
御呵り
遊ばして
下さりませと
極り
文句に
花を
持たすれど
學士は
更に
氣にも
止めず、その
幼なきが
尊ときなり、
反對に
跳かへられなばお
民どのにも
療治が六ツかしからん、
園さま
我れに
遠慮は
入らず、
嫌やな
時は
嫌やといふがよし、
我れを
他人の
男と
思はず
母樣同やう
甘へ
給へと
優しく
慰さめて
日毎に
通へば、なほさら
五月蠅く
厭はしく
車のおとの
門に
止るを
何よりも
氣にして、それお
出と
聞がいなや、
勝手もとの
箒に
手拭をかぶらせぬ。
お
民は
此家に十
年あまり
奉公して
主人といへど
今は
我が
子に
替らず、
何とぞ
此人を
立派に
仕あげて
我れも
世間に
誇りたき
願ひより、
やきもきと
氣を
揉むほど
何心なきお
園の
体のもどかしく、どうした
物と
考へ、
困つたものと
歎き、はては
意見に
小言を
交ぜて
或る
日さまざま
言ひ
聞かせぬ。
何時かは
言はふと
存じたれど、お
前さまといふ
御人には
呆れまする、
是れが
五つや
十の
子供ではなし、十六といへばお
子樣もつ
人もありますぞや、まあ
考へて
御覽なされお
母樣がお
病沒から
此かた、
足かけ三
年の
長の
間に
松島さまが
何れほど
盡して
下されたと
思しめす、
私しでさへ
涙がこぼれるほど
嬉しきにお
前さまは
木か
石か、さりとは
不人情と申ものなり、お
覺えがある
筈なれど一々申さねばお
分りになるまじ、お
身寄り
便りのなきお
前さまの
身を
案じて、
人は
教へが
肝賢の
[#「肝賢の」はママ]ものなるに
言はヾ
園さまなどは
今が
白糸、
何の
色にも
染まりやすければ、
學校かよひに
宜からぬ
友でも
出來てはならず、一
切我れに
任かせてまあ
見て
居てくれと
親切に
仰しやつてお
師匠さまから
毎日のお
出稽古、
月謝を
出して
附け
屆けして
御馳走して
車を
出して、あがめ
奉る
先生でも
雪や
雨には
勿論の
事、三
度に一
度はお
斷りが
常のものなり、それを
何ぞや
駄々つ
子樣の
御機嫌とり/″\、
此本一
冊よみ
終らば
御褒美には
何を
參らせん、
手ならひが
能く
出來たれば
此次には
文を
書きて
見せ給へと
勿体ない
奉書の
繪半切れを
手遊に
下された
事忘れはなさるまい、
斯う申さばお
前さまのお
心には
何の
彼んな
物たヽきつけて
返したしと
思しめすか
知らねど、
紙一
枚にも
眞實のこもるお
志しを
頂く
物ぞかし、
其御恩を
何とも
思はず、一
年[#ルビの「れん」はママ]といふ三百六十五日
打通して、
好い
顏どころか
普通の
暑い
寒いも
滿足には
仰しやらず、
必竟あの
方なればこそお
腹もたてず
氣にも
懸けず
可愛がつて
下さるものヽ、
第一
天道さまの
罸が
當らずには
居りませぬ、
昨日も
此近傍の
噂を
聞けば
松島さまは
世間で
評判の
方、
奧さま
持たうなら
撰り
取り
見どりに
山ほどなれど
何方もお
斷りで
此方へのお
出は
孃樣の
上にばかり
日の
照りが
違うか、
何といふお
幸福と
燒もちやいて
羨みますぞや、そのお
人に
捨てられたらお
前さままあ
何と
遊ばす、お
泣きなさるはお
腹がたつか、お
怒りになつてもよし、
民は申だけは申ます、
惡るくお
聞き
遊ばせば
夫れまで、さりとは
方圖のなきお
我まヽと
思ひ
切つて
呵りつけしが
是れも
主思ひの一
部なり、もとよりお
園に
惡る
氣のあるではなく
唯おさな
子の
人ぎらひして、
抱かれるを
嫌やがり、あやされヽば
泣くと
同じく、
何故か
其人に
氣が
合はず
去りとて
格別に
仇をして
困らせんなどヽ
念の
入りし
憎くさでもなく、まこと
世間見ずの
我まヽから
起りし
處爲なれば、
言はれるにつけて
何と
言譯の
理由もなく、
口惜しきか
悲しきか
恥かしきか
無茶苦茶に
泣いて
顏もあげぬを、お
民なほも
何事をかいはんとする
折門にとまる
例の
車の
音、それお
出なり
今日こそはお
優しく
遊ばせよ。
園さまはどうなされた
今日はまだ
顏が
見えぬと
問はれてまさかに、
今までこれ/\で
次の
間に
泣いて
居られますとも
言ひがたければ、
少々御不加※[#「冫+咸」、U+51CF、102-9]で、
然しもう
宜しう
御座りませうほどに、まあお
茶を一つなどヽ
民は其塲をつくろひぬ。
學士眉を
皺めて
夫れは
困つたもの、
全体が
健康といふ
質でなければ
時候の
替り
目などは
殊さら
注意せねば
惡るし、お
民どの
不養生をさせ給ふな、さてと
我れも
急に
白羽の
矢が
立ちて、
遠方へ
左遷と
事が
極まり
今日は
御風聽ながらの御
告別なりと
譯もなくいへばお
民あきれて、
御串談をおつしやりますな、いや
串談ではなし
札幌の
病院長に
任じられて
都合次第明日にも
出立せねばならず、
尤も
突然といふではなく
斯うとは
大底しれて
居りしが、
何か
驚かせるが
苦るしさに
結局いはねばならぬ
事を
今日までも
默つて
居りしなり、三
年か五
年で
歸るつもりなれども
其ほどは
如何か
分らねばまづ
當分お
別れの
覺悟、それにつけても
案じられるは
園樣のこと、
何の
余計の
世話ながら
何故か
最初から
可愛くて
眞實の
處一日
見ぬも
氣になる
位なれど、さりとて
何時來ても
喜ばれるでもなく、
結局あれほど
厭やがるものを
氣の
毒なと
氣のつかぬでもなけれど、
如何かして
天晴れの淑女に
育てヽ
見たく、
自惚れの
言ひ
分と
笑ひ
給はんが
兎に
角今日まで
嫌やがられに
來しなり、まづ
學問といふた
處が
女は
大底あんなもの、
理化學政法などヽ
延びられては、お
嫁さまの
口にいよ/\
遠ざかるべし、
第一
皮相の
學問は
枯木に
造り
花したも
同じにて
眞心の
人は
悦はぬもの、よしや
深山がくれでも
天眞の
花の
色は
都人を
床しがらする
道理なれば、
此うへは
優美の
性をやしなつて
徳をみがく
樣に
教へ給へ、
我れ
此地に
居たりとて
根からさつぱり
談合の
膝にも
成るまじきが、これからはいよ/\お
民どの
大役なり、
前門の
虎、
後門の
狼、
右にも
左にも
怕らしき
奴の
多き
世の
中、あたら
美玉に

をつけ
給ふは、
園さまにも
言ひきかせたきこと
多くあれど
我が
口よりいはヾ
又耳に
兩手なるべし、
不思議に
縁のない
人に
縁があるか
馬鹿らしきほど
置いてゆくが
嫌やな
氣持と、
笑つてのけながら
調子がいつもほど
冴えては
聞えず。
散々のお
民が
異見に
少し
我が
非を
知り
初し
揚句、その
人は
俄かに
別れといふ、
幼なき
心には
我が
失禮の
我まヽを
憎くみて
夫故に
遠國へでも
行かれるやうに
悲しく、
侘がしたれけれど
障子一
重を
出る
時機がなく、お
民が
最初に
呼んで
呉れし
時すこし
ひねくれてより
拍子ぬけがして
今更には
馳け
出しもされず、
其うちにお
歸りにならば
何とせん、もう
逢つては
下さらぬかなどヽ
敷居の
際にすり
寄つてお
園の
泣けるも
知らず、
學士はその
時つと
起つて、
今日はお
名殘なるに
切めては
笑ひ
顏でも
見せて
給はれと
さらり障子を
明くれば、おヽ
此處にか。
左樣ないてくれては
困る、お
民どのも
同じやうに
何の
事ぞ、もう
逢はれぬと
言ふでもなきに
心細き
事いひ
給ふな、
園さま
何も
詫びらるヽ
事はなし、お
前さまの
事は
宜しくお
民が
承知して
居れば
少しも
心配の
事はあらず、
唯これまでと
違ひて
段々と
大人になり
世間の
交際も
知らねばならず、
第一に六づかしきは
人の
機嫌なり、さりとて
諂ひの
草履とりも
餘りほめた
話しではなけれど
處が
工合ものにて、
清淨なり
無垢なり
潔白なりのお
前樣などが、
右をむくとも
左を
向くとも
憎くむ
人は
無き
筈なれど
夫れでは
世が
渡られず、
我れも
矢張り
其中間の一
枚板[#ルビの「ヽ」は底本では上下逆]にて
使ひ
道が
不向きなれども
流石に
年の
功といふものか
少しはお
前さまより
人が
惡るし、さりとて
惡るく
成り
過ぎては
困れど
過不及の
取かぢは
心一つよく
考へて
應用なされ、
實の
處出立は
明後日、
支度も
大方出來たれば
最早お
目にかヽるまじく
隨分身躰をいとひて
煩ひ給ふな、
此上にお
頼みは
萬々見送りなどして
下さるな、さらでだに
泣き
男の
我れ
朋友の
手前もあるに
何かをかしく
察られてもお
互に
詰らず、さりながらお
寫眞あらば一
枚形見に
頂きたし
此次出京する
頃には
最はや
立派の
奧樣かも
知れず、それでも
又逢つて
給はるかと
顏をのぞけば、
膝に
泣き
伏して
正体もなし、
夫れほど
別れるがお
嫌やかと
背を
撫せられて
默頭づく
可愛さ、三
年目の
今日今さらに
寧いつもの
愁らきが
増しなり。
柔かき
人ほど
氣はつよく
學士人々の
涙の
雨に
路どめもされず、
今宵は
切めてと
取らへる
袂を
優しく
振切つて
我家へ
歸れば、お
民手の
物を
取られしほど
力を
落して、よしや千
里が
萬里はなれるとも
眞實の
親子兄弟ならば
何時歸つて
何うといふ
樂しみもあれど、ほんの
親切といふ一
筋の
糸にかヽつて
居し
身なれば、
遠ざかるが
最期もう
縁の
切れしも
同じこと
取りつく
島の
頼みもなしと、
我れ
振りすてられしやうな
歎きにお
園いよ/\
心細く、
母親の
別れに
悲しき
事を
知り
盡して
膓もみ
切るほど
泣きに
泣きしが
今日の
思ひは
夫れとも
變りて、
親切勿体なし、
殘念などヽいふ
感念が
右往左往に
胸の
中を
掻き
廻して
何が
何やら
夢の
心地、さりとて
其夜は
寐らるヽところならず、
強ひて
床へは
入りしものヽ
寐間着も
着かへず
横にもならず、さてつく/″\と
考へれば
目の
前に
晝間の
樣々が
浮かびて、
我れは
知らねど
胸にや
刻まれし
學士が
言ひし
詞一
言半句も
忘れず、
歸り
際は
此袖をかく
捉らへて
待つとし
聞かば
今かへり
來んと
笑ひながらに
仰せられし
被のお
聲も
最う
聞くことは
出來ず、
明日からは
車のおとも
止まるまじ、
思へば
何故に
彼の
人のあの
樣に
嫌やなりしかと
長き
袂を
打かへし
打かへし
見る
途端、
紅絹の八ツ
口ころ/\と
洩れて
燈下に
耀やく
黄金の
指輪、
學士が
左の
藥指に
[#「藥指に」は底本では「樂指に」]先のほどまで
光りしものなり。
莟みと
思ひし
梢の
花も
春雨一
夜だしぬけにこれはこれはと
驚かるヽ
物なり、
時機といふものヽ
可笑しさにはお
園の
少さき
胸に
何を
感ぜしか、
學士が
出立後の一日二日より
爲る
處業どことなく
大人びて
今までの
樣に
我まヽも
言はず、
縫はり
仕事よみ
書の
外、
以前に
増して
身をつヽしみ
誘ふ
人ありとも
人寄せ
芝居の
浮きし
事に
足も
向けねば、
折ふしは
遂ひに
今まで
見し
事もなき
日本全圖などヽいふ
物をお
民がお
使ひの
留間の
間に
繰り
開けて
居る
事もあり、
新聞紙の
上にも
札幌とか
北海道とか
言ふ
文字には
逸はやく
目のつく
樣子、
或日お
民氣が
付いて
見れば
右の
指にあり/\と
耀やくものあり。
さても
秋風の
桐の
葉は
人の
身か、
知らねばこそあれ
雪佛の
堂塔いかめしく
造らんとか
立派にせんとか、あはれ
草臥もうけに
成るが
多し、
文化とか
開明とかの
餘光に
何事も
根から
葉から
堀かへして百
年千
年むかしの
人の
心の
中まで
解剖する
世に、これを
職掌の
醫道の
妙にも
我が
天授の
齡ひは
何うもならず、
學士札幌へ
趣きし
歳の
秋、
診察せし
窒扶斯患者に
感染して、
惜しや
三十路にたらぬ
若ざかりを
北海道の
土に
成しぬ、
風の
便りにこれを
聞きしお
園の
心。
空蝉の
世の
中すてヽ
思へば
黒染に
[#「黒染に」はママ]袖の
色かへるまでもなく、
花もなし
紅葉もなし、
丈にあまる
黒髮きり
拂へばとて
夫れは
見る
目の
菩提心、
人前づくりの
後家さまが
處爲ぞかし、うき
世の
飾りの
紅をしろいこそ
入らぬ
物と
洗ひ
髮の
投け
島田に
元結一
筋きつて
放せし
姿、
色このむ
者の
目には
又一
段の
美とたヽえて
聟にゆかん
嫁にとらん、
家名相續は
何ともすべしと
言ひ
寄る
人一人二人ならず、ある
時學士が
親友なりし
某、
當時醫學部に
有名の
教授どの
人をもつて
法の
如く
言ひ
込みしを、お
民上もなき
縁と
喜びてお
前さまも
今が
花のさかり
散りがたに
成つては
呼んで
歩行とも
賣れる
事でなし、
大底にお
心を
定め
給へ、
松島さまに
恩はありとも
何のお
束約が
[#「お束約が」はママ]ありしでもなく、よし
有りたりとも
再縁する
人さへ
世には
多し、
何處へ
憚かりのある
事ならねばとて
説諭せしに、お
園にこやかに
笑ひて
口先の
約束は
解くにとかれもせん、
眞の
愛なき
契りは
捨てヽ
再縁する
人も
有べし、
素より
彼の
人に
約束の
覺えなく
増して
操の
立てやうもなけれど、
何處とも
知らず
染みたる
思ひは
此身ある
限り
忘れ
難ければ、
萬一かの
教授さま
達て
妻にと
仰せのあらば、
形だけは
參りもせん
心は
容易くたてまつり
難しと
傳へ
給へと、
事もなく
言ひて
聞きいれる
景色のなきに、お
民いひ
甲斐なしと
斷念して
夫れよりは
又進めずとぞ、
經机の
由縁かくの
如し。
或る
口の
惡るきお
人これを
聞きて、
扨もひねくれし
女かな、
今もし
學士が
世にありて
札幌にもゆかず
以前の
通り
生やさしく
出入りをなさば、
虫づのはしるほど
嫌やがる
事うたがひなしと
苦笑ひして
仰せられしが『ある
時はありのすさびに
憎くかりき、
無くてぞ
人は
戀しかりける』とにも
角にも
意地わるの
世や
意地惡るの
世や。

をはり

●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
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