池に
咲く
菖蒲かきつばたの
鏡に
映る
花二本ゆかりの
色の
薄むらさきか
濃むらさきならぬ
白元結きつて
放せし
文金の
高髷も
好みは
同じ
丈長の
櫻もやう
淡泊として
色を
含む
姿に
高下なく
心に
隔てなく
墻にせめぐ
同胞はづかしきまで
思へば
思はるゝ
水と
魚の
君さま
無くは
我れ
何とせんイヤ
汝こそは
大事なれと
頼みにしつ
頼まれつ
松の
梢の
藤の
花房かゝる
主從の
中またと
有りや
梨本何某といふ
富家の
娘に
優子と
呼ばるゝ
容貌よし
色白の
細おもてにして
眉は
※[#「霞」の「コ」に代えて「マ」、1-10]の
遠山がた
花といはゞと
比喩を
引くもこぢたけれど二
月ばかりの
薄紅梅あわ
雪といふか
何か
知らねど
濃からぬほどの
白粉に
玉虫いろの
口紅を
品よしと
喜こぶ
人ありけり十九といへど
深窓の
育ちは
室咲きも
同じこと
世の
風知らねど
松風[#ルビの「まつ ぜ」はママ]の
響きは
通ふ
瓜琴の
[#「瓜琴の」はママ]しらべに
長き
春日を
短かしと
暮す
心は
如何ばかり
長閑けかるらん
頃は
落花の三
月盡ちればぞ
誘ふ
朝あらしに
庭は
吹雪のしろ
妙も
流石に
袖は
寒からで
蝶の
羽うらの
麗朗とせし
雨あがり
露椽先に
飼猫のたま
輕く
抱きて
首玉の
絞り
放し
結ひ
換ゆるものは
侍女のお
八重とて
歳は
優子に一
ツ劣れど
劣らず
負けぬ
愛敬の
片靨誰れゆゑ
寄する
目元のしほの
莞爾として
手を
放しつ
不圖見返りて
眉を
寄せしが
又故にホヽと
笑つて
孃さま
一寸と
御覽遊ばせ
此マア
樣子の
可笑しいことよと
面白げに
誘はれて
何ぞとばかり
立出る
優子お
八重は
何故に
其樣なことが
可笑しいぞ
私しには
何とも
無きをと
惱ましげにて
子猫のヂヤレるは
見もやらで
庭を
眺めて
茫然たり
孃さま
今日もお
不快御坐いますか
否や
左樣も
無けれど
何うも
此處がと
押して
見する
胸の
中には
何がありや
思ふ
思ひを
知られじとか
詞をかへて
八重やお
前に
問ふことがある
春につきての
花鳥で
比べて
見て
何が
好きぞ
扨も
變つたお
尋ね
夫は
心々でも
御坐いませうが
歸鴈が
憐れに
存じられます
左りとては
異なことぞ
都の
春を
見捨てゝ
行く
情なしがお
前は
好きか
憐れといへば
深山がくれの
花の
心が
嘸かしと
察しられる
世にも
知られず
人にも
知られず
咲て
散るが
本意であらうか
同じ
嵐に
誘はれても
思ふ
人の
宿に
咲きて
思ふ
人に
思はれたら
散るとも
恨みは
有るまいもの
谷間の
水の
便りがなくは
流れて
知られる
頼みもなし
マアどの
位悲しからうと
入らぬ
事ながら
苦勞ぞかしとて
流石に
笑へば
テモ[#「テモ」はママ]孃さまは
花の
心を
宜く
御存じ
私しが
歸鴈を
好きと
云ふは
我身ながら
何故か
知らねど
花の
山の
曉月夜さては
春雨の
夜半の
床に
鳴て
過ぎる
聲の
別れがしみ/″\と
身にしみて
悲しい
樣な
淋しいやうな
又來る
秋の
契りを
思へば
頼母しいやうにもあり
故郷へ
歸るといふからして
亡き
親の
事が
思はれますと
打しほるれば
夫は
道理わたしでさへも
乳母の
事は
少しも
忘れず
今も
在世なら
甘へるものをと
何ぞにつけて
戀しければ
子の
身では
如何ばかり
心ぼそくも
悲しくも
有らうなれど
及ばずながら
私しは
力になる
心姉と
思ふてよと
頼むは
可笑しけれど
歳上なれば
其約束ぞ
何時も/\
云ふことながら
私しは
眞實の
同胞と
思ひますと
慰められて
嬉しげに
御縁あればこそ
親どもばかりか
私しまでめぐり
廻つて
又の
御恩海とも
山とも
口には
如何も申されねどお
前さまのお
優さしさは
身にしみて
忘れませぬ
勿躰なけれどお
主樣といふ
遠慮もなく
新參の
身のほども
忘れて
云ひたいまゝの
我儘ばかり
兩親の
傍なればとて
此上は
御座いませぬ
左りながら
悔しきは
生來の
鈍きゆゑ
到底も
御相談の
相手にはなされて
下さる
筈もなし
別ものに
遊ばすと
知りながらお
恨みも申されぬ
身の
不束が
恨めしう
存じますとホロリとこぼす
膝の
露を
優子不審しげに
打まもりて
八重は
何が
氣に
障つてか
思ひもよらぬ
怨み
言つもりて
見よかし
何の
隔てゞ
隱しだてをするものぞ
母さまにさへ
申さぬことも
遂ひに
話さぬ
時はなきを
今日に
限つて
其やうな
事いはれる
覺えは
何もなけれど
マア何と
思ふてぞといふ
顏じつと
打仰ぎて
夫々それが
矢ツ張りお
隔て
何故その
樣にお
藏くし
遊ばす
兄弟と
仰しやつたはお
僞りか、
僞りでは
無けれど
隱くすとは
何を、
デハ私しから
申しませう
深山がくれの
花のお
心と
云ひさして
莞爾とすれば、
アレ笑ふては
云はぬぞよ
思ひ
入る
路は一
ト筋なれと
夏引きの
手引きの
糸の
乱れぐるしきは
戀なるかや
優子元來才はじけならず
柔和しけれど
悧發にて
物の
道理あきらかに
分別ながら
闇らきは
晴れぬ
胸の
雲にうつ/\として
日を
暮らすをお
八重しかぞと
見て
取りぬ
我れも
思ひの
無き
身ならねば
他人ごとなりとも
悲しきを
假初ならぬ三
世の
縁おなじ
乳房の
寄りし
身なり
山川遠く
隔たりし
故郷に
在りし
其の
日さへ
東の
方に
足な
向けそ
受けし
御恩は
斯々此々母の
世にては
送りもあえぬに
和女わすれてなるまいぞと
寐もの
語に
云ひ
聞かされ
幼な
心の
最初より
胸に
刻みしお
主の
事ましてや
續く
不仕合に
寄る
方もなき
浮草の
我れ
孤子の
流浪の
身の
力と
頼むは
外になし
女子だてらに
心太く
都會の
地へと
志ざし
其目的には
譯もあれど
思ひはいすかのはしも
無く
尋ぬる
人を
引かへて
尋ねぬならねど
身に
恥づれば
我れとは
訪はれぬお
主のもとへ
又見出されて二
度の
恩あるが
中にも
取分けて
孃さまの
御慈愛は
山の
中の
峯たかきが
上も
高く
海の
中の
沖深きが
上も
深しお
可愛や
誰れ
人を
彼のやうに
思しめして
御苦勞なき
身の
御苦勞やら
我身新參の
勝手も
知らずお
手もと
用のみ
勤めれば
出入のお
人多くも
見知らず
想像には
此人かと
見ゆるも
無けれど
好みは
人の
心々何がお
氣に
染しやら
云はで
思ふは
山吹の
下ゆく
水のわき
返りて
胸ぐるしさも
嘸なるべしお
愼み
深さはさることなれど
御病氣にでも
萬一ならば
取かへしのなるべきならず
主は
誰人えぞ
知らねど
此戀なんとしても
叶へ
參らせたし
孃さまほどの
御身ならば
世界に
苦もなく
憂ひもなく
御心安くあるべき
筈をさりとては
又苦の
世の
中やと
我身に
比べて
最憐がり
心の
限り
慰められ
優子眞實たのもしく
深くぞ
染めし
初花ごろも
色には
出じとつゝみしは
和女への
隔心ならず
有樣は
打明てと
幾たびも
口元までは
出しものゝ
恥かしさに
ツイ云ひそゝくれぬ
和女はまだ
昨日今日とて
見參らせし
事も
無きならんが
婢女どもは
蔭口にお
名は
呼ばずて
光氏さまといふとかやお
姿は
察せよかし
夫に
引かれてゞは
無けれど
彼の
人は
父さま
無二の
御懇意とて
恥かしき
手前に
薄茶一
服參らせ
初しが
中々の
物思ひにて
帛紗さばきの
靜こゝろなく
成りぬるなり
扨もお
姿に
似ぬ
物がたき
御氣象とや
今の
代の
若者に
珍らしとて
父樣のお
褒め
遊ばす
毎に
我ことならねど
面て
赤みて
其坐にも
得堪ねど
慕はしさの
數は
増りぬ
左りながら
和女にすら
云ふは
始めて
云はぬ
心は
描かぬ
畫もおなじ
事御覽じ
知る
筈もあらねば
萬一やの
頼みも
無きぞかし
笑はるゝか
知らねども
思ひ
初し
最初より
此願ひ
叶はずは一
生一人で
過ぐす
心憂きに
送る
月日のほどに
思ひこがれて
死ねばよし
命が
若しも
無情くて
如何に
美るはしき
夫人むかへ
給ひぬとも
愛らしき
兒生れ
給ふとも
聞く
身のつらさが
思るゝぞとてほろ/\と
打泣けばお
八重かなしく
身を
寄せてお
前さまは
何故そのやうに
御心よわい
事仰せられるぞ
八重は
元來愚鈍なり
相談してからが
甲斐なしと
思しめしてか
馴れぬ
御使ひも一
心は一
心先方さまどの
樣な
御情しらずで
有らうとも
貫かぬといふ
事ある
樣なし
何ともしてお
望み
屹度叶へさせますものを
御内端すぎてのお
物思ひくよ/\
斗り
遊ばせばこそ
昨日今日は
御顏色もわるし
御病ひでも
遊ばしたら
御兩親さまは
更なる
事なり
申すも
慮外ながら
妹と
思ぞとての御
慈愛に
身は
姉上をもうけし
心お
前さま
大切なほどお
案じ申さずには
居りませぬを
忌はしや
何ごとぞ
一生一人で
世を
送るの
死んで
思ひを
遁がれたしのと
突きつめた
御心に
必らずお
成り
遊ばすなと
宥める
身さへ
眼はうるみぬ、
堪忍せよかし
和女にまで
苦をかけてあらぬ
思ひに
心を
盡くすが
我が
身ながら
口惜しきなり
左りとても
彼の
人の
事斷念がたきは
何ゆゑぞ
云はで
止まんの
决心なりしが
親切な
詞きくにつけて
日頃の
愼みも
失なりぬと
漸々せまりくる
娘氣に
涙に
咽びて
良時ありしが、
八重さぞ
打つけなと
惘れもせんが
一生の
願ひぞよ
此心傳へては
給はるまじや
嬉しき
御返事聞きたしとは
努々思はねど
誰れ
故みじかき
命ぞとも
知られて
果てなば
本望ぞかしと
打しほるれば、
又しても
其樣なこと
御前さま
此々とお
傳へ申さば
好きお
返事は
知れた
事なり
最早くよ/\とは
思しめすな、
否や/\それは
八重が
知らねばぞ
杉原さまは
其やうな
柔弱な
放なお
人で
無ければ申
出してからが
心配なり
不埒者いたづら
者と
御怒りにならば
何とせん、
夫は
餘りのお
取こし
苦勞岩木の
中にも
思ひのなきかは
無情き
仰せの
有る
筈なし
扨も
御戀人は
杉原さまとやお
名は
何とぞ、
三郎さまと申のなり
此頃來給ひしは
和女が
丁度不在の
時よ一
ト足違ひに
御歸宅ゆゑ
知らぬのは
道理と
云ひかけてお
八重の
顏さしのぞき
此願ひ
若し
叶はゞ
生涯の
大恩ぞかし
諄うは
云はぬ
心は
是よと
合はす
手に
嬉しき
色はあらはれたり
雲雀のあがる
麥生なゝめに
見渡しながら
岡のすみれを
摘あらそひし
昔しは
何の
苦か
有りし
野河の
岸に
菊の
花手折とて
流れ
一筋かち
渡りし
給ふ
時我はるかに
歳下の
身のコマシヤクレにも
君さまの
袂ぬれるとて
袖※[#「ころもへん+攀」、U+897B、11-10]かけて
參らせしを
如何に
人にも
笑はれけん
思へば
其頃が
浦山し
君さま
東京へ
歸給ひし
後さま/″\
續く
不仕合に
身代は
亂離骨廢あるが
上に二
タ親引つゞきての
病死といひ
憂きこと
重なる
神無月袖にもかゝる
時雨空に
心のしめる
我れを
取らへて
郡長の
忰づらが
些少の
恩鼻にかけての
無理難題やり
返して
遣りたけれど
女子の
身は
左樣もならず
柳にうけるを
宜きことにして
金やらん
妾になれ
行々は
妻にもせんと
口惜しき
事の
限り
聞くにつけても
君さまのことが
懷かしく
或る
夜にまぎれて
國を
出でつ
漸々東京へは
着きし
物の
當處なければ
御行衛更に
知るよしなく
樣々の
憂き
艱難も
御目にかゝる
折の
褒められ
種にと
且つは
心に
樂しみつゝ
賤しい
仕業も
身は
清し
行ひさへ
汚がれずばと
都乙女の
錦の
中へ
木綿衣類に
管笠[#「管笠」はママ]脚袢はづかしや
女子の
身不似合の
菓もの
賣りも
一重に
活計の
爲のみならず
便りもがな
尋ねたやの一
心なりしが
縁しあやしく
引く
方ありて
不圖呼び
入れられし
黒塗塀お
勝手もとに
商ひせし
時後にて
聞けば
御稽古がへりとや
孃さまの
乘したる
車勢ひよく
御門内へ
引入るゝとて
出でんとする
我と
行違ひしが
何に
觸れけん
我がさしたる
櫛車の
前にはたと
落しを
知らず
曵しかばなど
堪るべき
微塵になりて
恨みを
地に
殘しぬ
孃さま
御覽じつけて
氣の
毒がり
給ひ
此そこねたるは
我身に
取らせよ
代りには
新らしきのを
取らすべしとの
給ひしかど
元來落せしは
我が
粗忽なり
曵かれしも
道理破損しとて
恨みもあらず
况てや
代りをとの
望みもなし
是れは
亡母が
紀念のなれば
他人に
奉るべき
物ならずとて
拾ひ
納めて
懷にせしをいとゞしく
御不愍がり
扨は
親も
無き
人か
憐れのことや
先庭口より
我が
部屋まで
來よ
身の
上も
聞きたしとて
連れ
給ひぬ
今こそ
目馴れたれ
御座敷の
結搆お
庭のたゝずまひ
華族さまにやと
疑がひしは
一に
孃さまの
御言語容姿にも
依りし
物か
其お
美くしき
孃さま
御親切にも
女子同志は
互ひぞとて
御優しき
御詞我もしきりに
嬉しくて
尋ぬる
人ありとこそ
明さゞりしが
種々との
物語に
和女の
母御は
斯々の
人ならずやと
思ひ
寄らぬ
御問ひ
誠に
若かぞ
何として
御存じと
云へば
忘れて
成るべきか
和女と
我れとは
兄弟ぞかし
我れは
梨本の
優なるをとて
手を
取りての
御喜び
扨は
母が
乳を
參らせたる
君なりしか
御目にかゝりし
嬉しさに
添へて
落ぶれし
身はづかしと
打泣きしに
榮枯は
時なるものを
歎く
事かは
萬は
我れに
委せよかし
惡るき
樣にはなすまじければ
今日より
此處に
身を
落つけずや
母樣には
我れ
願はんとて
放し
給はず
夫樣も
又くれ/″\の
仰せに
其まゝの
御奉公都會なれぬ
身とて
何ごとも
不束なるを
彼は
彼此は
此と
陰になりてのお
指圖に
古參の
婢女も
侮どらず
明日の
[#「明日の」はママ]我れ
忘れし
樣な
樂な
身になりたるは
孃さまの
御情一
ツなり
此御恩何として
送るべき
彼の
君さまに
廻り
逢はゞ
二人共々心を
合せてお
話し
相手に
成るべきをと
何につけても
忍ばるゝは
又彼の
人の
事なりしが
思ひきや
孃さま
明日今日の
[#「明日今日の」はママ]お
物思ひ
命にかけてお
慕ひなさるゝ
主はと
問へば
杉原三
郎どのとや
三輪の
山本しるしは
無けれど
尋ぬる
人ぞと
知る
悲しさ
御存じ
無ければこそ
召使ひの
我れふし
拜みてのお
頼み
孃さま
不憫やと
思はぬならねど
彼の
人何として
取持たるべき
受合ては
立ちし
物の
此文には
何の
文言どういふ
風に
書きて
有るにや
表書きの
常盤木のきみまゐるとは
無情ひとへといふ
事か
岩間の
清水と
心細げには
書き
給へど
扨も/\
御手のうるはしさお
姿は申すも
更なり
御心だてと
云ひお
學問と
云ひ
欠け
處なき
御方さまに
思はれて
嫌やとはよもや
仰せられまじ
我れ
深山育ちの
身として
比べ
物になる
心はなけれど
今日までの
憂き
苦勞は
何ゆゑぞ
逢はんと
思ふ
夫一
ツに
萬の
願ひをかけ
置きしに
今目の
前に
逢ふ
日は
來ても
逢ふが
悲しき
事義に
成りぬ
孃さまの
御恩は
泰山の
高きも
物の
數かはよしや
蒼海に
珠を
探れと
仰せらるゝとも
夫に
違背はすまじけれど
我が
戀人周旋んことどう
斷念めてもなる
事ならず
御恩は
御恩これは
是なり
寧そお
文取次いだる
体にして
此まゝになすべきか
否や/\
夫にては
道がたゝず
實は
斯々の
中なりとて
打明けなば
孃さま
御得心の
行くべきか
我こそは
夫で
宜けれど
彼れほどまでに
思しめし
入れたもの
左らばと
云ひて
斷念のつく
筈なし
我身の
願ひが
叶へばとて
現在お
心知りながら
夫もつらし
是れも
憂しと
迷ひに
心も
夕暮の
空お
八重つく/″\
詠むれば
明日も
晴日か
西の
方のみ
紅ゐの
雲たな
引きぬ
男も
女も
法師も
童も
容貌よきが
好きぞとは
誰れ
色好みの
言の
葉なりけん
杉原三
郎と
呼ばるゝ
人面ざし
清らかに
擧止優雅たが
目に
見ても
美男ぞと
見ゆればこそは
罪つくりなれ
我ゆゑに
人二人まで
同じ
思ひにくるしむ
共いざやしら
樫の
若葉の
露かぜに
散る
夕ぐれの
散歩がてら
梨本の
娘病氣にて
別莊に
出養生とや
見舞てやらんとて
柴の
戸おとづれしにお
八重はじめて
對面したり
逢はゞ
云はんの
千言百言うさもつらさも
胸に
呑みて
恩とも
言はず
義理とも
言はず
沸かへる
涙も
人事にして
御不憫や
孃さま
此程よりのお
煩ひのもとはと
云はゞ
何ゆゑならず
柔和しき御
生質とて
口へとては
出し
給はぬほど
猶さらに
御いとほしお
心は
中々我が
云ふやうな
物にはあらず
此お
文御覽ぜばお
分りになるべけれど
御前さま
無情お
返事もし
遊ばされなば
彼のまゝに
居給ふまじき
御决心ぞと
見る
目は
如何につらからぬ
事か
久し
振にて
御目にかゝりし
我身の
願ひ
是れ一
ツなり
叶へさせ
給はゞ
嬉しかるべきをとて
取次ぐ
文の
思ひ
切りても
涙ほろほろ
膝に
落ちぬ
義理といふもの
世に
無かりせば
云ひたきこといと
多し
別れしよりの
辛苦は
如何に
或る
時はあらぬ
人に
迫まられて
身の
遁ればの
無かりし
時操はおもし
命は
鵞毛の
雪の
夜に
刄手に
取りしことも
有けり
或時はお
行衛たづね
詫て
恨みは
長し
大河の
水に
沈む
覺悟も
極めしかど
引れし
後ろ
髮の
千筋にはあらで
一筋に
逢ふといふ
日を
頼みにして
今日までも
過せし
身なりと
云ひたけれど
孃さまの
戀も
我が
戀にも
淺さ
深さのあるべきならず
我れまだ
其事を
口にせねば
入譯御存じなきこそよけれ
御恩がへしにはお
望み
叶へさせまして
悦び
給ふを
見るが
樂しみぞと
我れを
捨ての
周旋なるを
他しごとは
思ふまじ
左るにても
君さまのお
心氣づかはしと
仰ぎ
見れば
端なくも
男はじつと
直視ゐたり
ハツと
俯向く
櫨紅葉のかげ
美るはしき
秋の
山里に
茸がりして
遊びし
昔しは
蝶々髷の
夢とたちて
姿やさしき
都風たれに
劣らん
色なるかは
愁ひを
含めど
愛らしき
雨の
撫子しほれて
床し三
郎の
心何と
知らねど
優子の
文を
手にとりつ
淺からぬお
心辱けなしとて三
郎喜こびしと
傳たへ
給へ
外ならぬ
人の
取次こと
更に
嬉しければ
此文は
賜はりて
歸宅すべしとて
懷中に
押いれつゝ
又こそと
坐を
立つに
扨は
孃さまの
心汲とり
給ひてかと
嬉しきにも
心ぽそく
[#「心ぽそく」はママ]立上る
男の
顏そと
窺ひて
ホロリとこぼす
涕を
藏くし
孃さまにも
嘸ぞお
喜び
我身とても
其通りなり
御返事屹度まちますと
云えば
點頭ながら
立出る
廻り
椽のきばの
橘そでに
薫りて
何時か
月に
中垣のほとり
吹のぼる
若竹の
葉風さら/\として
初ほとゝぎす
待べき
夜なりとやをら
降たつ
後姿見送る
物はお
八重のみならず
優子も
部屋の
障子細目に
明けて
言はれぬ
心を三
郎一人すゞしげに
行々吟ずる
詩きゝたし
便りまつ
間の
一日二日嬉しきやうな
氣づかひな
八重に
遠慮は
入らぬものゝ
又言ひ
出すかと
思はるゝも
恥かしくじつと
堪ゆる
返事の
安否もしやと
思へば
萬一やになるなり
八重は
大丈夫と
受合へど
夫は
氣やすめの
詞なるべし
彼の
文とても
御受取になりしやならずや
其塲で
其ま
御突き
戻しになりたるを
我れに
力落させまじとて
八重の
繕ひて
居るにはあらずや
否や/\
八重として
其樣のことある
筈なし
人を
疑がふは
罪ふかき
事なり
一日二日待給へ
好き
御返事の
參るは
定ぞと
言ひしに
違ひは
無かるべし
若しさうならば
何とせん
八重は
上もなき
恩人なれば
何ごとなり
共氣に
入ることして
悦ばせたし
歳は
下なれど
分別ある
人とて
言少なゝれば
願ひは
有や
望みはなしや
知れ
難きを
何とせん
扨も
人妻となりての
心得は
娘の
時とは
異なる
物とか
御氣に
入らば
宜けれど
若し
飽かれなば
悲しき
事よ
先それよりも
覺束なきは
彼の
文の
御返事なり
御覽にはなりたり
共其まゝ
押まろめ
給ひしやら
却りて
御機嫌をそこねもして
愛想づかしの
種にもならば
云はぬに
増る
愁らさぞかし
君さまこそ
無情とも
思ふ
心に二
ツは
無し
不孝か
知らねど
父樣母さま
何と
仰せらるゝとも
他處ほかの
誰れ
良人に
持べき
八重は
一生良人は
持たずと
云ふものから
我が
身とは
自ら
異りて
關係はることなく
心安かるべし
浦山しやと
浦山るゝ
我をば
知らで
吐息をもらしぬお
八重はつく/″\
有し
日の
事を
思ふに
男心の
頼みがたさよ
我れ
周旋する
身として
事整ふは
嬉しけれど
優子どのゝ
心宜く
見えたり三
郎喜こびしと
傳へ
給へとは
餘りといへど
昔しを
忘れ
給ひしお
詞なり
トおもふは
我が
身の
妬みにやお
主樣ゆゑには
身を
殺して
忠義を
盡くす
人さへ
有るを
我一人にて
憂きをしのばゞ
何處も
事なく
納まるべきなり
何氣なき
孃さまが
八重や
八重やと
相談相手に
遊ばすを
御恨み申は
罪のほども
恐ろしゝ
何ごとも
殘さず
忘れてお
主さまこそ二
代の
御恩なれ
杉原三
郎といふお
人元來のお
知人にもあらず
况てや
契りし
事も
何もなし
昨日今日逢しばかり
若かもお
主さまの
戀人に
未練のつながる
筈はなし
御縁首尾よく
整のへて
睦ましく
暮し
給ふを
見るが
切めての
樂しみなり
我れは
望みとて
無き
身なれば
生涯この
家に
御奉公して
御二
タ方さま
朝夕の
御世話さては
嬰子さま
生まれ
給ひての
御抱き
守り
何にもあれ
心を
責めて
仕へんか
夫は
何としてもなる
事ならず
兎ても
角ても
憂き
世なれば
人訪はぬ
深山の
奧にかき
籠りて
松風に
耳を
澄まさば
宜かるべけれど
夫すら
彼の
人見捨てゝは
入り
難かるべしとてつく/″\と
打歎けど
人に
見すべき
涙ならねば
作り
笑顏の
片頬さびしく
物案じの
主慰めながら
我れ
先づ
乱るゝ
蓴の
戀はくるしき
物なるにや
成るとは
見えて
覺束なき
人の
便りをまつとは
云はず
杉原さまはお廿四とやお
歳よりは
老けて
見え
給ふなり
和女は
何と
思ふぞとて
朧氣なこと
云ふて
見る
心や
流石に
通じけんお
八重一日莞爾やかに
孃さまお
喜び
遊ばす
事あり
當てゝ
御覽じろと
久し
振りの
戯れ
言さりとは
餘りに
廣すぎて
取り
處が
分らぬなりと
微笑ば
左らば
端を
少し
聞かし
參らせんお
前さま
何より
何よりお
嬉しと
思しめす
事が
有べし
夫なりとて
容易は
言ひもせず
夫ぞとは
知れど
猶も
知らぬ
顏に
八重が
例に
似ぬことよ
先づ
云ふて
聞かしても
宜さそうなと
打怨ずれば
其やうに
御いそぎなされますなと
打笑ひながら
彼の
君より
御返事が
參りしなり
是がお
嬉しからぬ
事かと
かれて
耳の
根くわつと
熱くなりつ
胸とヾろかれて
[#「とヾろかれて」はママ]噛む
袖の
下に
密と
置く
藻しほぐさ
俄には
手にも
取らぬをお
八重察して
進めつゝ
取まかなひて
封を
切らすに
文にはあらで
一枚の
短冊なりけり
兩女ひとしく
見る
雲形
茂りあふわか葉にくらき迷ひかな
みるべきものを空の月かげ
意味の
存する
處何方ぞや
茫として
闇きわか
葉のかげいとゞ
迷ひは
茂り
合ふばかり
晴るゝよし
無き
空の
月の
心に
判じて
見れど
何れ
眞意と
得ぞわき
難く
喜こぶべきか
歎くべきかお
八重はお
八重優子は
優子斯く
云はれなば
斯くせんの
决心互に
堅けれど
思ひの
外なる
返しには
何と
定めて
何とせん
未練は
流石ありそ
海のおきて
見つ
又取りて
見つながめに
飽かねど
吐息されて
八重は
マア何と
思ふぞと
人の
詞を
待て
見るあな
覺束なの
三十一文字や
怪しや三
郎の
便りふつと
聞えず
成りぬ
待つには
一日も
侘しきを
不審しかりし
返事の
後今日や
來給ふ
明日こそはと
空だのめなる
日を
重ねて
十日半月さては
廿日憂き
身につらき
卯月も
過たり
五月雨ごろのしめり
勝に
軒の
忍艸は
我が
類ひの
引きては
葺かねど
池のあやめの
根ながき
思ひにかき
暮らされて
袖にも
水かさの
増さりやすらん
此處は
別莊の
人氣も
少くなく
氣に
入りの
八重を
置ては
別莊守りの
夫婦のみなれど
最愛の
娘病氣との
事なり
本宅よりの
使ひ
絶ま
無ければ
事によそへて
杉原のこと
問はするに
本宅にも
此頃さらに
參り
給はずといふ
左るにても
何とし
給ひしにや
我心をさなくて
卒爾に
文など
參らせたるを
如何に
厭はしと
思しながら
返しせざらんも
情なしとて
彼れよりは
夫となく
御出のなきか
此頃のお
哥の
心は
如何に
茂るわか
葉の
今こそは
闇らけれど
時節を
待たば
空の
月の
逢みるべきぞとならば
嬉しけれど
若しやの
願ひに
左樣見ゆるにや
寧そ
愁らからば一
筋ならで
頼みのある
丈まどはるゝなり
扨もお
便りの
聞えぬは
何故我れ
厭はせ
給ひなば
此處へこそ
御入來なく
共本宅へまで
御踈遠とは
不審しゝ
夫ほどまでに
御嫌ひになるほどなら
優しげな
御詞なぜ
仰せおかれけん
八重が
思ふも
恥かしきまで
彼の
時は
嬉しかりしを
此まゝに
見返りもし
給はずは
今さら
面ても
向けがたし
悲しき
事よと
娘氣に
頼みをかけて
見つ
又ときつ
思案にもつるゝ
撚糸の
八重が
歎きは
又異なり
茂る
若葉の
妨げと
仰せられしは
我が
事ならずや
闇き
迷ひと
歎じ
給へど
夫れ
悟りたればこその
御取持ちなれ
思ひ
合ふ
中のお
兩方に
我が
生涯の
望みも
頼みも
御讓り申して
思ひ
置くこと
些少なきを
何はゞかりての
御遠慮ぞや
身を
觀ずれば
御恨みも
未練も
何もあらずお二
タ方さま
首尾とゝのひし
曉には
潔よく
斯々して
流石は
貞操を
立るとだけ
君さまに
知られなば
夫を
思での
我れなるに
此身ある
故に
孃さまの
戀叶はずとせば
何とせん
身退ぞくは
知らぬならねど
義理ゆゑ
斯くと
御存じにならば
御情ぶかき
御心として
人は
兎もあれ
我よくばと
仰せらるゝ
物でなし
左らでも
御弱きお
生質なるに
如何つきつめた
御覺悟をも
遊ばすまじき
物ならず
御最愛のお
一人娘とて
八重や
何分たのむぞと
嚴格い
大旦那さまさへ
我身風情に
仰せらるゝは
御大事さのあまりなるべし
彼につけ
是につけ
氣づかはしきは
彼の
人の
事よ
有りし
日の
對面の
時此處に
居給ふとは
思ひがけず
郷里のことは
我れ
聞きたり
辛苦さこそなるべけれど
奉公大切に
勉め
給へと
仰せられしが
耳に
殘りて
忘られぬなり
彼れほどにお
優しからずば
是れほどまでにも
歎かじと
斷ち
難き
絆つらしとて
人見ぬ
暇には
部屋のうちに
伏し
沈づみぬ
何れ
劣らぬ
双美人に
慕はるゝ
身嬉しかるべきを
何を
厭ふてか三
郎かき
絶て
影も
見せず
疑念は
重なる
五月雨のくも、
薄らぐべき
由もなくて、
世をうみ
梅實の
落る
音もそゞろ
淋しき
日を
幾日、をぐらき
窓のあけくれに、をち
返りなく
山時鳥の、から
紅ゐにはふり
出でねど、
涙に
袖の
色かはるまで
同じ
歎きを
別に
知る
主從の
思ひさても
果敢なし
優子はいとゞ
世を
知らぬ
身のお
八重が
素振り
得も
察せず
氣の
毒や
我身大事にかけるとて
痩せ
見ゆるほど
心配させし
和女の
情は
忘れぬなり
左りながら
如何ほど
盡くしてくるゝ
共なるまじき
願ひぞとは
漸に
斷念たり
夫につきて
又別に
父樣[#ルビの「と さま」はママ]母さまへの
御願ひあれど
御二
タ方なり
和女なりに
歎きをかくるが
愁らきぞとてしみ/″\と
物語りつお
八重の
膝に
身をなげ
伏して
隱くしもやらぬ
口説ごとにお
八重われを
忘れて
抱き
合ひ
詞もなくよゝと
泣きしがお
前さまに
其やうな
御覺悟させますほどなら
此苦勞はいたしませぬ
御入來の
無きは
不審しけれど
無情き
御返事といふにもあらぬを
早まつての
御考へは
御前さまの
樣にも
無し
今しばしの
御辛抱ぞ
其うちには
何ともして
屹度お
喜こばせ申べし
八重が一
心を
憐れとも
思しめして
其やうな
悲しいことお
聞かせ
遊ばすなとて
力を
添へぬ
優子嬉しく
手に
手を
取りて
前の
世では
何でありしやら
兄弟にもなき
親切この
後とも
頼むぞや
是よりは
別しての
事何ごとも
汝の
異見に
隨がはん
最早今のやうな
事云ふまじければ
免してよと
詫らるゝも
勿体なく
待てば
甘露と申ますぞやと
輕るげに
云へど
義理は
重し
袖に
晴れ
間は
見えぬ
物の
限りあればにや
今日珍づらしく
鳶なきて
雨の
餘波に
軒ばの
露に
照る
日あたらしく
玉をみがきて
庭の
木かげも
心地よげなるを
籠居てのみ
居給ふは
御躰にも
毒なる
物をとお
八重さま/″\に
誘ひて
邊りちかき
野の
景色田面の
庵の
侘たるも
又をかしかるべし
御覽ぜずやとわりなくすゝめて
柴の
戸めづらしく
伴ひ
出でぬ
人の
心のうやむやは
知らずや
茂る
木立すゞしく
袖に
吹く
風むねに
欲しゝ
植はたす
小田の
早苗青々として
處々に
鳴き
立つ
蛙の
聲さま/″\なる
彼れも
歌かや
可笑しとて
ホヽ笑む
主に
我れも
嬉しく
彼方の
萱ぶき
此の
垣根お
庭の
中に
欲しきやうなり
彼の
花は
何ならんと
小走りして
進み
寄りつ
一枝手折りて一
輪は
主一
輪は
我れかざして
見るも
機嫌取りなり
互の
心は
得ぞしらず
畔道づたひ
行返りて
遊ぶ
共なく
暮す
日の
鳥も
寐に
歸る
夕べの
空に
行く
雲水の
僧一人たゝく
月下の
門は
何方ぞ
浦山しの
身の
上やと
見送くれば
見かへる
笠のはづれ
兩女ひとしく
ヲヽと
※[#「口+斗」、U+544C、30-12]びぬ