別れ霜
樋口一葉
莊子が
蝶の
夢といふ
世に
義理や
誠は
邪魔くさし
覺め
際まではと
引しむる
利慾の
心の
秤には
黄金といふ
字に
重りつきて
増す
寶なき
子寶のうへも
忘るゝ
小利大損いまに
初めぬ
覆車のそしりも
我が
梶棒には
心もつかず
握つて
放さぬ
熊鷹主義に
理窟はいつも
筋違なる
内神田連雀町とかや、
友囀りの
喧しきならで
客足しげき
呉服店あり、
賣れ
口よければ
仕入あたらしく
新田と
呼ぶ
苗字そのまゝ
暖簾にそめて
帳場格子にやに
下るあるじの
運平不惑といふ
四十男赤ら
顏にして
骨たくましきは
薄醤油の
鱚鰈に
育ちて
世のせち
辛さなめ
試みぬ
附け
渡りの
旦那株とは
覺えざりけり、
妻はいつ
頃なくなりけん、
形見に
娘只一人親に
似ぬを
鬼子とよべど
鳶が
産んだるおたかとて
今年二八のつぼみの
花色ゆたかにして
匂濃やかに
天晴れ
當代の
小町衣通ひめと
世間に
出さぬも
道理か
荒き
風に
當りもせばあの
柳腰なにとせんと
仇口にさへ
噂し
連れて
五十稻荷の
縁日に
後姿のみも
拜し
得たる
若ものは
榮譽幸福上やあらん
卒業試驗の
優等證は
何のものかは
國曾議員の
椅子にならべて
生涯の
希望の
一つに
數へいるゝ
學生もありけり、さればこそ
一たび
見たるは
先づ
驚かれ
再び
見たるは
頭やましく
駿河臺の
杏雲堂に
其頃腦病患者の
多かりしこと
一つに
此娘が
原因とは
商人のする
掛直なるべけれど
兎に
角其美は
爭はれず、
姿形のうるはしきのみならで
心ざまのやさしさ
情の
深さ
絲竹の
道に
長けたる
上に
手は
瀧本の
流れを
吸みてはしり
書うるはしく
四書五經の
角々しきはわざとさけて
伊勢源氏のなつかしきやまと
文明暮文机のほとりを
離さず、さればとて
香爐峯の
雪に
簾をまくの
才女めきたる
行ひはいさゝかも
無く
深窓の
春深くこもりて
針仕事に
女性の
本分を
盡す
心懸け
誠に
殊勝なりき、
家に
居て
孝順なるは
出て
必らず
貞節なりとか、これが
所夫と
仰がれぬべく
定まりたるは
天下の
果報の
一人じめ
前生の
功徳いか
許り
積みたるにかと
世にも
人にも
羨まるゝはさしなみの
隣町に
同商中の
老舖と
知られし
松澤儀右衞門が
一人息子に
芳之助と
呼ばるゝ
優男、
契りは
深き
祖先の
縁に
引かれて
樫の
實の
一人子同志、いひなづけの
約成立しはお
高がみどりの
振分髮をお
煙草盆にゆひ
初むる
頃なりしとか、さりとては
長かりし
年月、ことしは
芳之助もはや
廿歳今一兩年經たる
上は
公に
夫とよび
妻と
呼ばるゝ
身ぞと
想へば
嬉しさに
胸をどりて
友達の
嬲ごとも
恥かしく、わざと
知らず
顏つくりながらも
潮す
紅の
我しらず
掩ふ
袖屏風にいとゞ
心のうちあらはれて
今更泣きたる
事もあり
人みぬひまの
手習に
松澤たかとかいて
見て
又塗隱すあどけなさ
利發に
見えても
未通女氣[#「未通女氣」は底本では「末通女氣」]なり
同じ
心の
芳之助も
射る
矢の
如しと
口にはいへど
待つ
歳月はわが
爲に
弦たゆみしやうに
覺えて
明かし
暮らす
程のまどろかしさよ、
高殿に
見る
月の
夕影を
分つはいつぞとしのび、
花の
下ふむ
露のあした
双ぶる
翅の
胡蝶うらやましく
用事にかこつけて
折々の
訪おとづれに
餘所ながら
見る
花の
面わが
物ながら
許されぬ
一重垣にしみ/″\とは
物言交すひまもなく
兎角うらめしき
月日なり
隙行く
駒に
形もあらば
我れ
手綱を
取り
鞭を
揚げていそがさばやとまで
思ひ
渡りぬ、されども
天は
美人を
生んで
美人を
惠まず
多くは
良配を
得ざらしむとかいへり、
彌生の
花は
風必ずさそひ
十五夜の
月雲かゝらぬはまことに
稀なり、
覺束なしや
才子佳人かがなべて
待つ
歡びの
日のいつか
來べき、あし
分船のさはり
多き
世なればこそ
親にゆるされ
世にゆるされ
彼も
願ひ
此も
請ひよしや
魔神のうかゞへばとてぬば
玉の
髮一筋さしはさむべき
間も
見えぬを
若此縁結ばれずとせばそは
天災か
將た
地變か。
隴を
得て
蜀を
望むは
夫れ
人情の
常なるかも、
百に
至れば
千をと
願ひ
千にいたれば
又萬をと
諸願休む
時なければ
心常に
安からず、つら/\
思へば
無一物ほど
氣樂なるはあらざるべし、
大抵が
五十年と
定まつた
命の
相場黄金を
以て
狂はせる
譯には
行かず、
花降り
樂きこえて
紫雲の
來迎する
曉には
代人料にて
事調はずとは
誰もかねて
知れたる
話、
鶴千年龜萬年人間常住いつも
月夜に
米の
飯ならんを
願ひ
假にも
無常を
觀ずるなかれとは
大福長者と
成るべき
人の
肝心肝要かなめ
石の
固く
執つて
動かぬ
所なりとか、そも
松澤新田らが
祖先と
聞えしは
神風の
伊勢の
人にて
夙に
大江戸に
志を
立てゝ
糶呉服の
見るかげもなかりしが
六間間口に
黒ぬり
土藏時のまに
身代たち
上りて
男の
子二人の
内兄は
無論家の
相續弟には
母方の
絶たる
姓を
興させて
新田とは
名告らすれど
諸事は
別家の
格に
准じて
子々孫々の
末迄も
同心協力事を
處し
相隔離すべからずといふ
遺旨かたく
奉戴して
代々交りをかさね
來しが
當代の
新田のあるじは
家につきて
血統ならず
一人娘に
入夫の
身なりしかば
相思ふの
心も
深からず
且は
利にのみ
走る
曲者なればかねては
松澤が
隆盛をたのみてあやにかけたる
許嫁のえにし
親なり
子なり
同舅同士なり
不足の
品あらば
持ち
給へと
彼方にばかり
親切を
盡さして
引入れし
利も
少なからず
世は
塞翁がうまき
事して
幾歳すぎし
朝日のかげ
昇るが
如き
今の
榮は
皆松澤が
庇護なるものから
喉元すぐれば
忘るゝ
熱さ
斯く
對等の
地位に
至れば
目の
上の
瘤うるさくなりて
獨りつく/″\
案ずるやう
徑十町を
距てぬ
處に
同商業を
營むが
上に
彼れは
本家とて
世の
用ひも
重かるべく
我とて
信用薄きならねど
彼方に
七分の
益ある
時こゝには
僅かに
三分の
利のみ
我が
家繁榮長久の
策は
彼れ
松澤の
無きにしかず
且つは
娘の
容色世に
勝れたれば
是とても
又一つの
金庫芳之助とのえにし
絶えなば
通り
町の
角地面持參の
聟もなきにはあらじ
一擧兩得とはこれなんめりと
思ふ
心は
娘にも
祕め
同氣求むる
番頭の
勘藏にのみ
割て
明かせば
横手を
拍つて
賛成し
主從日夜額をあつめて
其方法を
講じ
居たりき、
時なる
哉松澤はさる
歳商法上の
都合に
依り
新田より
一時借り
入れし
二千許の
金ことしは
既に
期限ながら
一兩年引つゞきての
不景氣に
流石の
老舖も
手元豐かならず
殊に
織元その
外にも
仕拂ふべき
金いと
多ければ
新田は
親族の
間柄なり
且は
是迄我が
方より
立かへし
分も
少からねばよもや
事情打あけて
延期を
乞はゞゆるさじと
言ひもすまじ
他人に
内兜を
見すかされ
機械仕掛のあやつり
身上松澤ももう
下り
坂よと
囃されんは
口惜しく
脊なる
新田は
後廻し
腹の
織元其他へ
有金大方取あつめて
仕拂ひたる
噂こそ
耳よりのことなれと
平生ねらひすませし
的彼方より
延期をいひ
出さぬ
間に、
切て
放して
急催促に
言譯すべき
程もなく
忽ち
表向きの
訴訟沙汰とは
成れりける
素松澤は
數代の
家柄世の
信用も
厚ければ
僅々千や
二千の
金何方にても
調達は
出來得べしと
世人の
思ふは
反對にて
玉子の
四角まだ
萬國博覽曾にも
陳列の
沙汰をきかねど
晦日に
月の
出る
世の
中十五夜の
闇もなくてやは
奧は
朦朧のいかなる
手段ありしか
新田が
畫策極めて
妙にしていさゝかの
融通もならず
示談を
請はゞやと
奔走せしかどそれすらも
調はずして
新田は
首尾よく
勝を
制し
凱歌の
聲いさましく
引揚げしにそれとかはりて
松澤が
周章狼狽まこと
寐耳に
出水の
騷動おどろくといふ
暇もなく
巧みに
巧みし
計略に
爭ふかひなく
敗訴となり
家藏のみか
數代續きし
暖簾までも
皆かれが
手に
歸したれば
木より
落たる
山猿同樣たのむ
木蔭の
雨森新七といふ
番頭の
白鼠去年生國へ
歸りし
後は
十露盤玉と
筆先に
帳尻つくろふ
溝鼠のみなりけん
主家一大事の
今日も
申合せたるやうに
富士見西行きめ
込み
見返るものさへあらざれば
無念の
涙を
手荷物にして
名のみ
床しき
妻戀坂下同朋町といふ
處に
親子三人雨露を
凌ぐばかりの
家を
借りて
辛く
膝をば
入れたりけり、
海ならず
山ならぬ
人世の
行路難今初めて
思ひ
當り
淵瀬ことなる
飛鳥川の
明日よりは
何とせん、もと
富家に
人となりて
柔弱にのみ
育ちし
身は
是れと
覺えし
藝もなく
手に
十露盤は
取りならへど
物に
當りし
事なければ
時の
用には
立ちもせず
坐して
喰へば
空しくなる
山高帽子半靴と
明日かざりし
身の
廻りも
一つ
賣り
二つ
賣りはては
晦日の
勘定さへ
胸につかふる
程にもなりぬ。
一人並の
男になりながら
何の
腑甲斐ない
車夫風情にまで
落魄ずともの
事外に
仕樣のあらうものをと
大言吐きし
昔の
心の
恥かしさよ
誰れが
好んで
牛馬の
代りに
油汗ながし
塵埃の
中馳せ
廻るものぞ
仕樣模樣の
竭きはてたればこそ
恥も
外聞もなひまぜにからめて
捨てた
身のつまり
無念も
殘念も
饅頭笠のうちに
包みて
參りませうと
聲低に
勸める
心いらぬとばかりもぎだうに
過ぎ
行く
人それはまだしもなりうるさいはと
叱りつけられて
我知らずあとじさりする
意氣地なさまだ
霜こほる
夜嵐に
辻待の
提燈の
火の
消えかへる
迄案じらるゝは
二親のことなり
馴れぬ
貧苦に
責めらるゝと
懷舊の
情のやる
方なさとが
老體の
毒になりてや
涙がちに
同じやうな
煩ひ
方それも
御尤もなり
我さへ
無念に
膓の
沸え
納まらぬものを
胸さける
程にも
思召すなるべし
憎きは
新田なり
恨めしきは
運平なりよしや
血をすゝり
肉をつくすとも

るべき
奴ならずと
冷凍る
拳握りつめて
當處もなしに
睨みもしつ
思ひ
返せばそれも
愚痴なり
恨みは
人の
上ならず
我れに
男らしき
器量あらば
是れ
程までには
窮しもすまじアヽと
歎ずれば
吐く
息しろく
見えて
身を
切る
夜風に
破れ
屏風の
内心配になりて
絞つて
歸るから
車財布のものゝ
少き
程苦勞のたかの
多くなりてまたぐ
我家の
閾の
高さ、アヽお
歸りかと
起返る
母、お
父さんは
御寢なツてゞすかさぞ
御不自由で
御座いましたらう
何もお
變りは
御座いませんかと
裏問ふ
心は
疵もつ
足、オヽお
前の
留守に
差配どのが
見えられてといひさしてしばたゝく
瞼の
露白岡鬼平といふ
有名の
無慈悲もの
惡鬼よ
羅刹よと
蔭口するは
澁團扇の
縁はなれぬ
店子共が
得手勝手家賃奇麗に
拂ひて
盆暮の
砂糖袋甘き
汁さへ
吸はし
置かば
下ぐる
目尻と
諸共に
眉毛の
名によぶ
地藏顏にも
見ゆべけれど、
今の
身の
上には
憎くし
剛慾もの
事情あくまで
知りぬきながら
知らず
顏の
烟草ふか/\
身に
過りあればこそ
疊に
額ほり
埋めて
歎願も
吹出だす
烟の
輪と
消して、
言譯きく
耳はなし
家賃をさめるか
店を
明けるか
道は
二つぞ
何方にでもなされとぽんとはたく
其煙管で
打わつてやりたい
面がまち
目的なしに
今日までと
日を
延べしは
重々此方が
惡けれど
母上とらへて
何言居つたかお
耳に
入れまいと
思へばこそ
樣々の
苦勞もするなれさらでもの
御病氣にいとゞ
重さを
添へたやうなものはて
困つたと
言ひはせで
低頭く
心思案にくれぬ、
差配どのが
見えられてと
母は
詞[#ルビの「ことば」は底本では「こゝば」]を
繰返して
何か
譯は
知らねど
今直ぐに
此家を
立て
一寸の
猶豫もならぬとそれは/\
畫にもかゝれぬ
談じやうお
前にも
料簡あることゝやうやうに
言延べて
歸ります
迄と
頼んでは
置いたれどマアどうしたら
宜からうか
思案して
見てくだされと
小聲ながらもおろ/\
涙お
案じなされますな
何うにかなります
今夜は
大分更けましたから
明日早々出向きまして
談合ひをつけませうナニ
少しの
行違ひでそれほどの
事では
御座いませんと
我が
親にまでいつはるとはさても
後のよ
恐ろしゝ、
寢ぬに
明くる
夜明け
烏もこうと
鳴きて
反哺の
教となるものを
生甲斐なや
五尺の
身に
父母の
恩荷ひ
切れずましてや
暖簾の
色むかしに
染めかへさんはさて
置きて
朝四暮三のやつ/\しさにつく/″\
浮世いやになりて
我身捨てたき
折々もあれど
病勞れし
兩親の
寢顏さし
覗くごとに
我なくば
何とし
給はん
勿體なしと
思ひ
返せど
沸くは
涙か
藥鍋の
下炭火とろ/\と
消え
勝の
生計とて
良醫の
手にもかゝられねば
見す/\
重り
行く
心ぐるしさよ
思へば
天も
地も
神も
佛も
我爲には
皆仇か
今この
場合を
見すぐしにするとは
何の
事ぞ
新田こそ
運平こそ
大惡人の
骨頂なれ
娘ばかりはよもやと
思へどそれもこれも
心の
迷ひか
姿こそ
詞こそやさしけれ
瓜の
蔓に
生らぬ
茄子父親と
同じ
心になつて
今の
我身に
愛想が
盡きて、
人傳の
文一通それすらもよこさぬとは
外面如菩薩、
内心はあれも
如夜叉め。
他人はとまれお
前さまばかりは
高が
心御存じと
思ふたは
空だのめか
情ないお
詞お
前さまと
縁きれて
生存へる
私と
思召すか
恨みを
申さば
其お
心が
恨みなり
父樣が
惡計それお
責め
遊ばすにお
答への
詞もなけれど
其くやしさも
悲しさもお
前さまに
劣ることかは
人知らぬ
夜の
家具の
襟何故にぬるゝものぞ
涙に
色のもしあらば
此袖ひとつにお
疑ひは
晴れやうもの
一つ
穴の
獸とは
餘りの
仰せつもりても
御覽ぜよ
繋がれねど
身は
籠の
鳥も
同じこと
風呂屋に
行くも
稽古ごとも
一人あるきゆるされねば
御目にかゝる
折もなく
文あげたけれど
御住所誰に
問ひもならず
心にばかり
泣て
泣て
居りましたを
薄情もの
義理しらずと
押くるめてのお
詞お
道理なれど
御無理なり
此身一つに
科があらば
打たれもせん
突かれもせん
膝ともといふ
談合相手に
遊ばしてよと
涙ながら
控へる
袂を
鋭く
拂つてお
高どの
詞ばかりは
嬉しけれど
眞實やら
何やら
心まで
見る
目は
芳之助あやにく
持たず
父御の
心も
大方は
知れてあり
甲斐性なしの
我れ
嫌になりて
縁の
絶ちどが
無さに
計略三昧かゝりし
我等は
罠のうちの
獸ぞ
手を
打て
笑はるゝ
筈を
何の
涙お
化粧がはげては
氣の
毒なり
牛に
乘換へるうまき
話も
内々は
有ることならんを
家藏持參の
業平男に
見せ
給ふ
顏我等づれに
勿體なしお
退きなされよ
見たくもなしとつれなしや
後むき
憎らしき
事の
限り
並べられても
口惜しきはそれならず
解けぬ
心にあらはれぬ
胸うらめしく
君樣こそは
何とも
思召すまじけれど
物ごゝろ
知る
其頃よりさま/″\のこと
苦勞にして
身だしなみ
物學び
彼れか
此れかお
氣に
入りたや
飽かれまじと
心のたけは
君樣故に
使はれて
片時安き
思ひもせずお
友達遊びも
芝居行きもお
嫌ひと
知れば
大方は
斷りいふて
僻物と
笑はれしは
誰れの
爲をさな
遊びの
昔は
知らず
睦じき
中にも
恥かしさが
楯に
成りて
思ふこと
思ふまゝにも
得いはざりしを
淺き
心と
思召すか
假令どのやうな
事あればとて
仇し
人に
何のその
笑顏見せてならうことかは
山ほどの
恨みも
受くる
筋あれば
詮方なし
君樣に
愛想つきての
計略かとはお
詞ながら
餘りなり
親につながるゝ
子罪は
同じと
覺悟ながら
其名ばかりはゆるし
給へよしや
父樣にどのやうなお
憎しみあればとて
渝らぬ
心の
私こそ
君樣の
妻なるものを
何とげ/\しい
他人あしらひ
聞えぬお
心やといひたさを
押ゆる
涙袖に
置きてモシと
止めれば
振拂ふ
羽織のすそエヽ
何さるゝ
邪魔くさし
我はお
前さまの
手遊ならずお
伽になるは
嬉しからず
其方は
大家の
娘御暇もあるべしその
日暮しの
身は
時間もをしく
誰れぞ
相手をお
探しなされと
振はらへば
又すがり
芳さまそれは
御眞實かと
見上ぐる
面睨みかへして
嘘いつはりはお
前さまなどのなさること
義理人情のある
世ならよもやと
思ふ
生正直から
飼ひ
犬同樣な
人でなしに
手をかまれて
暖簾に
見る
恥は
誰れゆゑぞ
原を
正せば
根分けの
菊親子の
中に
知らぬといふ
道理はなしよし
知らぬにせよ
知るにせよそれは
其方の
御勝手なり
仇敵の
子を
妻にもせられず
嫁にもすまじ
言ふこともなし
聞くことも
無し
恨みつらみを
並べ
立てなば
力車に
牛の
汗何の
積み
載せきれるものかは
言はぬが
花ぞお
前さまは
盛りの
身春めき
給ふは
今の
間なるべし
薦かぶりながら
見送らんと
詞叮嚀に
氣込あらく
齒の
根きり/\と
喰ひしばりて
釣り
上ぐる
眉根おそろしく
散髮斜めに
拂ひあげて
白き
面に
紅の
色さしも
優しき
常には
似ず
止めれば
振きる
袖袂まづ
今しばしと
詫びつ
恨みつ
取りつく
手先うるさしと
立蹴にはたと
蹴倒されわつと
泣く
聲我れとわが
耳に
入りて
起き
返るは
何處、
平常の
部屋に
倚りかゝる
文机の
湖月抄こてふの
卷の
果敢なく
覺めて
又思ひそふ
一睡の
夢夕日かたぶく
窓の
簾風にあほれる
音も
淋し。
お
珍らしやお
高さま
今日の
御入來は
如何いふ
風の
吹まはしか
一昨日のお
稽古にも
其前もお
顏つひにお
見せなさらずお
師匠さまも
皆さまも
大抵でないお
案じ
日がな
一日お
噂して
居ましたと
嬉しげに
出迎ふ
稽古朋輩錦野はな
子と
呼ばれて
醫學士の
妹博愛仁慈の
聞えたかき
兄を
見眞似か
温順しづくり
何某學校通學生中に
萬緑叢中一點の
紅と
稱へられて
根あがりの
高髷に
被布扮粧廿歳を
越しての
肩縫あげ
可愛らしき
人品なりお
高さま
御覽なされ
老人なき
家の
埒のなさ
兄は
兄とて
男の
事家内のことはとんと
棄物私一人が
拍つも
舞ふもほんに
埃だらけで
御座いますと
笑ひて
誘ふ
座蒲團の
上おかまひ
遊ばすなと
沈み
聲にお
高うやむやの
胸の
關所たれに
打明けん
相手もなし
朋友の
誰れ
彼れ
睦まじきもあれどそれは
春秋の
花紅葉對にして

す
簪の
造物ならねど
當座の
交際姿こそはやさしげなれ
智慧宏大と
聞くは
此人すがりて
見ばやとこれも
稚氣さりながら
姿に
知れぬは
人の
心笑ひものにされなばそれも
恥かし
何とせんと
思ふほど
兄弟ある
人羨ましくなりてお
兄樣はおやさしいとかお
前さま
羨ましと
口を
洩るれば
花子少し
笑みを
含んでこればかりは
私の
幸福さりとて
喧嘩する
時もあり
無理な
小言いはれまして
腹立ち
合ふこともあれど
跡も
無し
先もなし
海鼠のやうなと
笑はれます
此頃は
施療に
暇がなうて
芝居も
寄席もとんと
御無沙汰その
内にお
誘ひ
申します
兄はお
前さまをといひかけて
笑ひ
消す
詞何としらねどお
施しとはお
情深い
事さぞかし
可哀さうのも
御座いませうと
思ふことあれば
察しも
深し
花子煙草は
嫌ひと
聞しが
傍の
煙管とりあげて
一服あわたゞしく
押やりつそれはもうさま/″\ツイ
二日計前のこと
極貧の
裏屋の
者が
難産に
苦みまして
兄の
手術に
母子とも
安全ではありましたれど
赤子に
着せる
物がないとか
聞きませば
平常の
心に
承知がならず
其の
夜通して
針仕事着るもの
二つ
遣はしましたと
得意顏の
物語り
徳は
陰なるこそよけれとか
聞しが
怪しのことよと
疑ふ
胸に
相談せばやの
心は
消えぬ
花子さま/″\の
患者の
話に
昨日往診し
同朋町とやら
若しやと
聞けばつゆ
違はぬ
樣子なりそれほどまでにはよもやと
思へど
正しくならば
何とせん
實否くはしく
聞きたしと
思へど
咎むる
心に
詞つまりて
應答何やらうろうろになりぬお
高さま
御ゆるりなされ
今兄も
戻りまする
先それよりはお
目に
懸けたきもの
往日お
話し
申せし
兄が
祕藏の
畫帖イエお
前さまに
御覽に
入るゝに
賞められこそすれ
何として
小言聞くことではなしお
待遊ばせよと
待遇ぶり
詞滑かの
人とて
中々に
歸しもせず
枝に
枝そふ
物がたり
花子いとゞ
眞面目になりて
斯う
申してはをかしけれどお
前さまはお
一人子私とても
兄ばかり
女の
同胞もちませねば
淋しさは
同じこと
何かにつけて
心細し
御不足かは
知らねど
妹と
思召してよと
底にものある
詞遣ひそれは
私より
願ふことゝいふ
詞聞きも
畢らずそれならばお
話ありお
聽き
下さりますかと
怪しの
根問ひお
高さまお
前さまのお
胸一つ
伺へば
譯のすむ
事外でもなし
實の
姉さまにおなり
下さらぬかと
決然いはれて
御串戯[#ルビの「ごじやうだん」は底本では「ごじやだん」]私こそ
實の
妹と
思召してと
言ふを
遮りそれでは
未だ
御存じの
無きならん
父御さまと
兄との
中にお
話し
成立つてお
前さまさへ
御承知ならば
明日にも
眞實の
姉樣お
厭か/\お
厭ならばお
厭でよしと
薄氣味わろき
優しげの
聲嘘か
實か
餘りといへば
餘りのこと、
亂るゝ
心を
流石に
靜めて
花子さま
仰せまだ
私には
呑込めませぬお
答へも
何も
追てのこと
今日は
先づお
暇と
立たんとするを
強ても
止めず
然らばお
歸りか
好きお
返事お
待申しますと
送り
出す
玄關先左樣ならばを
跡になして
乘り
出す
車の
掛聲に
走り
退く
一人の
男あれは
何方の
藥取憐れの
姿やと
見返れば
彼方よりも
見返る
顏オヽ
芳さま
詞の
未だ
轉び
出でぬ
間に
車は
轣轆として
轍のあと
遠く
地に
印されぬ。
中硝子の
障子ごしに
中庭の
松の
姿をかしと
見し
絹布の
四布蒲團すつぽりと
炬燵の
内あたゝかに、
美人の
酌の
舌鼓うつゝなく、
門を
走る
樽ひろひあれは
何處の
小僧どん
雪中の
一つ
景物おもしろし、とても
積らば
五尺六尺雨戸明けられぬ
程に
降らして
常闇の
長夜の
宴、
張りて
見たしと
縺れ
舌に
譫言の
給ふちろ/\
目にも
六花の
眺望に
別は
無けれど、
身にしむ
寒さは
降かゝりての
後ならで
知れぬ
事なり、うそ
寒しと
云ひしも
二日三日朝來もよほす
薄墨色の
空模樣に
頭痛もちの
天氣豫報相違なく
西北の
風ゆふ
暮かけて
鵞毛か
柳絮かはやちら/\と
降り
出でぬ、
入相の
鐘の
聲陰に
響きて
塒にいそぐ
友烏今宵の
宿りの
侘しげなるに
誰が
空せみの
夢の
見初め、
待合の
奧二階の
爪彈きの
三下り
簾を
洩るゝ
笑ひ
聲低く
聞えて
思はず
停る
行人の
足元、
狂ふ
煩惱の
犬の
尻尾、しまつたりと
飛び
退きて
畜生めとはまこと
踏みつけの
詞なり、
我が
物なれば
重からぬ
傘の
白ゆき
往來も
多くはあらぬ
片側町の
薄ぐらきに
悄然とせし
提燈の
影かぜに
瞬くも
心細げなる
一輛の
車あり、
齒代の
安さ
顯はれて
剥げたる
塗り
破れし
母衣、
夜目なればこそ
未だしもなれ
晝はづかしき
古毛布に
乘客の
品も
嘸ぞと
知られて
多くは
取れぬ
痩せ
田作り
米の
代ほど
有りや
無しや
九尺二間の
煙の
綱あはれ
手中にかゝる
此人腕力おぼつかなき
細作りに
車夫めかぬ
人柄華奢といふて
賞めもせられぬ
力役社會に
生ひ
立つた
身とは
請取れず
履歴は
如何に
聞きたしと
問ふ
人なければ
我れと
唇開きもならず、アヽと
出る
溜息を
噛しめる
齒の
根寒さにふるひて
打仰ぐ
面を
見れば
扨も
美男子色こそは
黒みたれ
眉目やさしく
口元柔和に
歳は
漸く
二十か
一か
繼々の
筒袖着物糸織ぞろへに
改めて
帶に
卷く
金鎖りきらびやかの
姿させて
見たし
流行の
花形俳優何として
及びもないこと
大家の
若旦那それ
至當の
役なるべし、さりとては
是れ
程の
人品備へながら
身に
覺えた
藝は
無きか
取上げて
用ひる
人は
無きか
憐れのことやとは
目の
前の
感じなり
心情さら/\
知れたものならず
美くしき
花に
刺もあり
柔和の
面に
案外の
所爲なきにもあらじ
恐ろしと
思へばそんなもの、
贔負目には
雪中の
梅春待つまの
身過ぎ
世過ぎ
小節に
關はらぬが
大勇なり
辻待の
暇に
原書繙いて
居さうなものと
色眼鏡かけて
見る
世上の
物映るは
自己が
眼鏡がらなり、
夜はまだ
更けねど
降しきる
雪に
人足大方絶々になりて
戸を
下す
商家こゝかしこ
遠く
引く
按摩の
聲に
近く
交る
犬の
子の
叫びそれすらも
淋しきを
路傍の
柳にさつと
吹く
風になよ/\と
靡いて
散るは
粉雪、
物思ひ
顏の
若者が
襟のあたり
冷いやりとしてハツと
振拂へば
半面を
射る
瓦斯燈の
光蒼白し、
行く
人はなし
乘る
人は
猶更なからんを
何を
待つとか
馬鹿らしさよと
他目には
見ゆるゐものからまだ
立去りもせず
前後に
目を
配るは
人待つ
心の
絶えぬなるべし、
凍る
手先を
提燈の
火に
暖めてホツと
一息力なく
四邊を
見廻し
又一息此處に
車を
下してより
三度目に
聞く
時の
鐘、
今はと
決心の
臍固まりけんツト
立上りしが
又懷中に
手をさし
入れて
一思案アヽ
困つたと
我知らず
歎息の
詞唇をもれて
其儘に
身はもとの
通り
舌打の
音續けて
聞えぬ、
雪はいよ/\
降り
積るとも
歇むべき
氣色少しも
見えず
往來は
到底なきことかと
落膽の
耳に
嬉しや
足音辱しと
顧みれば
角燈の
光り
雪に
映じ
巡囘の
査公怪しげに
目を
注いで
行き
過ぎられし
後に
又人音この
度こそはと
見れげ
情なし
三軒許手前なる
家に
入りぬ、
流石に
氣根も
竭果てけん
茫然として
立つくす
折しも
最少し
參ると
御座いませうと
話し
聲して
黒き
影目に
映りぬ、
天の
與へ
人こそ
來つれ
外すまじと
勇み
立て
進み
寄ればはて
何とせん、
過たるは
及ばざる
二人連とは
生憎や、
車は
一人乘りなるを。
心苛られのさるゝものは
散曾過ぎて
來ぬ
迎ひの
車と
數へ
入れたし、
待たせて
置きても
宜かりしを
供待ちの
雜沓遠慮して
時間早めに
吩咐て
還せしもの
何としての
相違ぞやよもや
忘れて
來ぬにはあらじ
家にても
其通り
何時まで
迎ひ
出さずには
置かれまじ、
例の
酒癖何處の
店にか
醉ひ
倒れて
寢入りても
仕舞しものかそれなればいよいよ
困りしことなり
家にても
嘸お
案じ
此家へも
亦氣の
毒なり
何とせんと
思ふ
程より
積る
雪いとゞ
心細く
燭涙ながるゝ
表二階に
一人取殘されし
新田のお
高、げにも
浮世か
音曲の
師匠の
許に
然るべき
曾の
催し
斷りいはれぬ
筋ならねどつらきものは
義理の
柵是非と
待たれて
此日の
午後より、
飾る
錦の
裏はと
問はゞ
涙ばかりぞ
薄化粧に
深き
苦勞の
色を
隱して
友が
無邪氣の
物語りを
笑ふて
聞く
胸ぐるしさ
思ひに
痩し
手首に
取りすがりてお
羨ましやお
高さまのお
手の
細さよお
酢めし
上りしか
御傳授聞きたしと
眞面目に
問ふ
人可笑しくはなくて
其心根羨ましくなりぬ
其の
人々歸り
果てゝより
一時間許待つには
長き
時間ながら
車の
音門にも
聞えず
捨置かれなば
未だしもなれどお
茶參らせよお
菓子あがれ
夜はまだそれほど
深くもなしお
迎ひも
今參らん
御ゆるりなされと
好遇さるゝ
程猶更氣の
毒さ
堪へ
難くなりて
何時まで
待ちても
果て
見えませねば
憚りながら
車一つ
願ひたしと
婢女に
周旋のほど
頼み
入ればそれは
何の
造作もなきことなれどつひ
行き
違ひにお
迎ひの
參るまじとも
申されず
今少しお
待なされてはと
澁々にいふは
車もとめに
行くがつらさになるべし、それも
道理雪の
夜道押してとは
言ひかねて
心ならねど
又暫時二度目に
入れし
茶の
香り
薄らぐ
頃になりても
音もなければ
今は
來ぬものか
來るものか
當てにもならず
當てにして
何時といふ
際限もなし
行き
違ひになるともそれはよし
兎に
角車願ひたしと
押かへして
頼み
入るゝに
師匠實にもと
氣の
毒がりて
然らばお
止め
申すまじとてもお
歸りなさるゝに
夜が
更けてはよろしからず
車大急ぎに
申して
來よと
主の
命令には
詮方なくてや
恨めしげながら
承はりて
梯子あわたゞしく
馳せ
下りしが
水口を
出づる
大黒傘の
上に
雪つもるといふ
間もなきばかり
速かに
立歸りて
出入の
車宿名殘なく
出拂ひて
挽子一人も
居ませねばお
氣の
毒さまながらと
女房が
口上其まゝの
返り
事に
然らば
何とせんお
宅にお
案じはあるまじきに
明早朝の
御歸館となされよなど
親切に
止められるれど
左樣もならず、
雪こそふれ
夜はまだそれほどに
御座りませねばと
歸り
支度とゝのへるにそれならば
誰ぞ
供にお
連なされお
歩行御迷惑ながら
此邊には
車鳥渡むづかしからん
大通り
近くまで
御難澁なるべし
家内にてすら
火桶少しも
放されぬに
夜氣に
當つてお
風めすな
失禮も
何もなしこゝより
直にお
頭巾召せ
誰れぞお
肩掛お
着せ
申せと
總掛りに
支度手傳はれて
憚りさまといひも
敢ず
更けぬ
内にお
急ぎなされなまなかお
止め
申さずば
是れ
程に
積るまいものお
氣の
毒のこといたしたりお
詫はいづれと
送り
出す
門口犬の
子の
聲恐ろしけれど
送りの
女中が
骨たくましきに
心強くて
軒下傳ひ
三町ばかり
御覽なされませあの
提灯は
屹度車今少しの
御辛防と
引く
手も
引かるゝ
手も
氷りつくやうなり
嬉しやと
近づいて
見ればさても
破れ
車モシと
聲はかけしが
後退さりする
送りの
女中ソツとお
高の
袖引きてもう
少し
參りませうあまりといへばと
跡は
小聲なり
折しも
降しきる
雪にお
高洋傘を
傾けて
見返るともなく
見返る
途端目に
映るは
何物蓬頭亂面の
青年車夫なりお
高夜風の
身にしみてかぶる/\と
震へて
立止りつゝ
此雪にては
先へ
行きても
有るか
無きか
知れませねば
何にてもよし
此の
車お
頼みなされてよと
俄に
足元重げになりぬあの
此樣な
車にお
乘しなさるとかあの
此樣な
車にと
二度三度お
高輕く
點頭きて
詞なし
我れも
雪中の
隨行難儀の
折とて
求むるまゝに
言附くる
那の
車さりとては
不似合なり
錦の
上着につゞれの
袴つぎ
合したやうなと
心をかしく
挽出すを
見送つて
御機嫌よう
車夫さんよくお
氣をつけ
申して。
馳せ
出す
車一散、さりながら
降り
積る
雪車輪にねばりてか
車上の
動搖する
割に
合せて
道のはかは
行かず
萬世橋に
來し
頃には
鐵道馬車の
喇叭の
聲はやく
絶えて
京屋が
時計の
十時を
報ずる
響空に
高し、
萬世橋へ
參りましたがお
宅は
何方と
軾を
控へて
佇む
車夫、
車上の
人は
聲ひくゝ
鍋町までと
只一言、
車夫は
聞きも
敢へず
力を
籠めて
今一勢と
挽き
出しぬ、
皚々たる
雪夜の
景に
異りはなけれど
大通りは
流石に
人足足えず
[#「足えず」はママ]雪に
照り
合ふ
瓦斯燈の
光り
皎々として、
肌をさす
寒氣の
堪へがたければにや、
車上の
人は
肩掛深く
引あげて
人目に
見ゆるは
頭巾の
色と
肩掛の
派手模樣のみ、
車は
如法の
破れ
車なり
母衣は
雪を
防ぐに
足らねば、
洋傘に
辛く
前面を
掩ひて
行くこと
幾町、
鍋町は
裏の
方で
御座いますかと
見返れば
否鍋町ではなし、
本銀町なりといふ、
然らばとばかり
馳せ
出す
又一町、
曲りませうかと
問へば、
眞直にと
答へて
此處にも
車を
止めんとはせず
日本橋迄行きたしといふに
何かは
知らねど
詞の
通り、
河岸につきて
曲りてくれよ、とは
何方右か
左か、
左へいや
右の
方へと
又一横町、お
氣の
毒なれど
此處を
折れて
眞直に
行て
欲しゝと
小路に
入りぬ、
何の
事ぞ
此路は
突當り、
外に
曲らん
路も
見えねば、モシお
宅はどの
邊でと
覺束なげに
問んとする
時、
何とせん
道を
間違へたり
引返してと
復跡戻り、
大路に
出れば
小路に
入らせ
小路を
縫ては
大路に
出で
走幾走、
轉幾轉、
蹴立る
雪に
轍のあと
長く
引てめぐり
出れば
又以前の
道なり、
薄暗き
町の
片角に
車夫は
茫然と
車を
控へて、
仰の
通りに
參りましたら
又以前の
道に
出ましたが
若しやお
間違ひでは
御座いますまいか
此角を
曲ると
先程の
糸屋の
前眞直に
行けば
大通りへ
出て
仕舞ひますたしか
裏通りと
仰せで
御座いましたが
町名は
何と
申しますか
夫次第大抵は
分りませうと
問掛けたり、
車上の
人は
言葉少に
兎に
角曲つて
見て
下され、たしか
此道と
思ふやうなりとて
梶棒を
向きかへさせぬ、
御覽なされまし
矢張りこゝは
元の
道これで
宜しう
御座いますかと
訝しみて
問ふ
車夫の
言葉に、ほんにこれは
違ひたりもう
一つ
跡の
横町がそれなりしかも
知れずと
曖昧の
答へ
方、さればといふて
挽き
返す
一横町こゝにもあらず
今少し
先へといふ
提燈搖り
消して
商家に
火を
借りしも
二度三度車夫亦道に
委しからずやあらん
未だ
此職に
馴れざるにやあらん
同じ
道行返りて
困じ
果てもしたらんに
強くいひても
辭しもせず
示すが
儘の
道を
取りぬ、
夜は
漸々に
深くならんとす
人影ちらほらと
稀になるを
雪はこゝ
一段と
勢をまして
降りに
降れど
隱れぬものは
鍋燒饂飩の
細く
哀れなる
聲戸を
下す
商家の
荒く
高き
音、さては
按摩の
笛犬の
聲小路一つ
隔てゝ
遠く
聞ゆるが
猶更に
淋し、さても
怪しや
車上の
人萬世橋にもあらず
鍋町にもあらず
本銀町も
過ぎたり
日本橋にも
止まらず
大路小路幾通りそも
何方に
行かんとするにか
洋行して
歸朝の
後に
妻を
忘るゝ
人ありとか
聞きしがこれは
又いかに
歸るべき
家を
忘れたるか
歳もまだ
若かるを
笑止といはゞ
笑止思へば
扨も
訝しき
事なり、
今度は
京橋へと
急がせぬ、
裏道傳ひ
二町三町町名は
何と
知れねど
少し
引き
入りし
二階建に
掛行燈の
光り
朧々として
主はありやなしや
入口に
並べし
下駄二三足料理番が
欠伸催すべき
見世がゝりの
割烹店あり、
車上の
人は
目早く
認めて、オヽ
此處なり
此處へ
一寸と
俄の
指圖に
一聲勇ましく
引入れる
車門口に
下ろす
梶棒と
共にホツト
一息内には
女共が
口々に
入らつしやいまし。
勢ひよく
引入れしが
客を
下ろして
扨おもへば
恥かしゝ、
記憶に
存る
店がまへ
今の
我が
身には
往昔ながら
世の
人は
未だ
昨日といふ
去年一昨年、
同商中の
組合曾議或は
何某の
懇親曾に
登りなれし
梯子なり、それと
知れば
俄に
肩すぼめられて
見る
人なければ
遽しく
片蔭のある
薄暗がりに
車も
我も
寄せて
憩ひつ、
靜かに
顧みれば
是れも
笹原走るたぐひ、
誰が
目に
覺えて
知るものぞ
松澤の
若大將と
稱へられて
席を
上座に
設けられし
身が
我れすらみすぼらしき
此服裝よしや
面に
覺えが
有ればとて
他人の
空肖、それもあるならひなり
況してや
替りたる
雪と
墨おろかなこと
雲と
泥ほど
懸隔のおびたゞしさ
如何に
有爲轉變の
世とはいへ
是れほどの
相違誰れが
何として
氣のつくべき
心の
鬼に
見知り
越しの
人目厭はしく
態と
横町に
道を
避けて
見られじとする
氣あつかひも
他人は
何の
感じもなく
摺れ
違つて
見合はす
眼の
電光、ハツと
思ふは
我ればかり、
態とつくるかまこと
見忘れてか
知らず
顏に
過ぎ
行かれて、
撫で
下ろす
胸にむら/\と
感じるはさても
人情こそ
薄きものなれ
紙といはゞ
吉の
紙見えすいたやうな
世の
中なり、
知り
顏して
欲しきにもあらず
詞かけられては
身の
置場もなけれどそれにも
何か
色のあるもの、
物いはゞ
振切らんず
袖がまへ
嘲るやうな
尻目遣ひ
口惜しと
見るも
心の
僻みか
召使ひの
者出入のもの
指折れば
少からぬ
人數ながら
誰れ
一人として
我れ
相談の
相手にと
名告出づるものなし、
富貴には
寄る
親類顏幾代先きの
誰樣に
何の
縁故ありとかなしとか
猫の
子の
貰ひ
主までが
實家あしらひのえせ
追從、
槌で
掃く
庭石の
周旋を
手はじめに
引き
入れる
工夫算段はじいて
見ねば
知れぬものゝ
割りにも
合はぬ
品いくら
冠せて
上穗は
自己が
内懷中ぬく/\とせし
絹布ぞろひは
誰れ
故に
着し
物とも
思はずお
庇護に
建ちましたと
空拜みせし
新築の
二階造り
其の
詞は
三年先の
阿房鳥か、
今の
零落を
高見に
見下して
全體意氣地が
無さすぎると
言ひしとか
酷と
思ふは
心がらなり、
他人が
聞けば
適當の
評といはれやせん
別家も
同じき
新田にまで
計らるゝ
程の
油斷のありしは
家の
運の
傾く
時かさるにても
憎きは
新田の
娘なり、うつくしき
顏に
似合ぬは
心小學校通ひに
紫袱紗對にせし
頃年上の
生徒に
喧嘩まけて
無念の
拳を
我れ
握る
時同じやうに
涙を
目に
持ちて、
口惜しげに
相手を
睨みしこともありしがそれは
無心の
昔なり
我れ
性來の
虚弱とて
假初の
風邪にも
十日廿日新田の
訪問懈れば
彼處にも
亦一人の
病人心配に
食事も
進まず
稽古ごとに
行きもせぬとか、お
前さまお
一人のお
煩ひはお
兩人のお
惱みと
婢女共に
笑はれて
嬉しと
聞きしが
今更おもへば
故らに
言はせしか
知れたものならず
此頃見しは
錦野の
玄關先うつくしく
粧ふた
身に
比べて
見て
我れより
詞は
掛けられねど
無言に
行過ぎるとは
不埒ならずや
身こそ
零落たれ
許嫁の
縁きれしならずまこと
其心なら
美くしく
立派に
切れてやりたし
切れるといへば
貧乏世帶のカンテラの
油、
今宵の
用ひだけありしか
如何に、さらでも
御不自由のお
兩親が
燈火なくば
嘸お
困り
早く
歸りて
樣子知りたきもの、
今の
客人の
氣の
長さまだ
車代くれんともせず
何時まで
待たする
心にやさりとてまさかに
促りもされまじ
何としたものぞとさし
覗く
奧の
方廊下を
歩む
足音にも
面赫と
熱くなりて
我知らず
又蔭に
入る、
思へば
待たるゝやうな
待たれぬやうな
萬一車代を
渡す
人知りし
顏の
女中ならば
何とせん
詞がけられなば
何といはん
恥の
上塗りは
要なきことなり
車代といふも
知れたもの
受けずともよし
此まゝに
歸らんか
否是れ
欲しければこそ
雪の
夜を
二時三時恥も
外聞も
親には
換へられたものならず、はて
誰れでも
出て
來よ
此姿に
何として
見覺えがあるものかと
自問自答折しも
樓婢のかなきり
聲に、
池の
端から
來た
車夫さんはお
前さんですか。
それは
何ぞのお
間違ひなるべし
私お
客樣にお
懇親はなし
池の
端よりお
供せしに
相違は
無けれど
車代賜るより
外に
御用ありとは
覺えず
其譯仰せられて
車代の
頂戴お
願ひ
下されたしと
一歩も
動かんとせぬ
芳之助を
誘ふ
樓婢は
笑みを
含み、お
間違ひやら
何やら
私等の
知る
事ならねど
只お
客さまの
仰せには
今の
車夫に
用事がある
足を
洗はせて
此室へ
呼びたしと
仰せられたに
相違はなし
兎に
角お
上りなされよと
洗足の
湯まで
汲んでくるゝはよも
串戯にはあらざるべし
僞りならずとせば
眞以て
奇怪、
何人が
何用ありて
逢ひたしといふにや
親戚朋友の
間柄にてさへ
面背ける
我に
對して
一面の
識なく
一語の
交はりなき
然かも
婦人が
所用とは
何事逢たしとは
何故人違ひと
思へば
譯もなければ
彼處といひ
此處といひ
乘り
廻りし
方角の
不審しさそれすら
事の
不思議なるに
頼みたきことあり
足を
洗ひて
上りくれよとは
扨も
意外わからぬといへば
是れ
程わからぬ
話はなし
何とせば
宜からんかと
佇立たるまゝ
躊躇へば
樓婢はもどかしげに
急がしたてゝ、お
客さまも
嘸お
待ちかねお
逢にならば
譯はどの
道知れる
筈なり
先づお
出なされよと
手をとらへて
引立つるに
然らば
參るべしお
手お
放しなされ
大方は
人違ひと
思へどお
目にかゝりし
上ならではお
疑ひ
晴れ
難からん
御案内お
頼み
申すと
明瞭に
答へながら
心の
裡は
依然濛々漠々、
靜かに
足を
淨め
了りていざとばかりに
誘はれぬ、
流石なり
商賣がら
燦として
家内を
照らす
電燈の
光りに
襤褸の
針の
目いちじるく
見えて
時は
今極寒の
夜ともいはず
背に
汗の
流るぞ
苦しき、お
客さまはお
二階なりといふ
伴はるゝ
梯子の
一段又一段浮世の
憂きといふ
事知らで
昇り
降りせしこともありし
其時の
酌取り
女我が
前離れず
喋々しく
待したるが
彼の
女もし
居らば
彌々面目なき
限りなり
其頃の
朋友今も
遊びに
來んは
定の
物何ぞのはしに
我がこと
引き
出して
斯々云々とも
物語りなば
何處まで
知らるゝ
恥ならんと
思へば
何故に
登樓たるか
今更に
詮なき
事してけりと
思ふほど
胸さわがれて
足ふるひぬ、
案内はかねて
知る
梯子を
登り
果てゝ
右手の
小座敷、お
客さまは
此處にと
示したるまゝ
樓婢は
急ぎ
下り
行きたり
障子の
外に
暫時たゆたひしが
果つべきことならずと
身を
低くして
靜かに
明くる
座敷の
内これは
如何に
頭巾に
見えざりし
面肩掛につゝみし
身今ぞ
明らかに
現はれぬ、
寤寐にも
離れず
起居にも
忘れぬ
我が
後來の
半身二世の
妻新田が
娘のお
高なり、
芳之助はそれと
見るより
何思ひけん
前後無差別、
踵を
囘してツト
馳出づればお
高走り
寄つて
無言に
引止むる
帶の
端振拂へば
取すがり
突き
放せば
纒ひつき
芳さまお
腹だちは
御尤もなれども
暫時、お
長うとは
申しませぬ
申しあげたきこと
一通りと
詞きれ/″\に
涙漲りて
引止むる
腕ほそけれど
懸命の
心は
蜘蛛の
圍の
千筋百筋力なき
力拂ひかねて
五尺の
身なよ/\となれど
態と
荒々しく
突き
退けてお
人違ひならん
其樣な
仰せ
承はる
私にはあらず
池の
端よりお
供せし
車夫の
耳には
何のことやら
理由すこしも
分りませぬ
車代賜はる
外御用はなき
筈御串戯はお
措き
下されと
言ひ
拂つてすつくと
立てば、あんまりなり
芳さま
其お
心ならそれでよし
私にも
覺悟ありと
涙を
拂つてきつとなるお
高、オヽおもしろし
覺悟とは
何の
覺悟許嫁の
約束解いて
欲しゝとのお
望みかそれは
此方よりも
願ふ
事なり
何の
迂りくどい
申上ぐることの
候の
一通りも
二通りも
入ることならず
後とはいはず
目の
前にて
切れて
遣るべし
切れて
遣らん
他人になるは
造作もなしと
嘲笑ふ
胸の
内に
沸くは
何物、お
高涙の
顏恨めしげに、お
情なしまだ
其樣なこと
自由にならば
此胸の
中斷ち
割つて
御覽に
入れたし。
又逢ふ
場所は
某の
辻某の
處に
待給へ
必らずよと
契りて
別れし
其夜のこと
誰れ
知るべきならねば
心安けれど
心安からぬは
松澤が
今の
境涯あらましは
察しても
居たものゝそれ
程までとは
思ひも
寄らざりしが
其御難儀も
誰がせし
業ならず
勿躰なけれど
我が
親うらみなり
聞かれぬまでも
諫めて
見んか
否父はともあれ
勘藏といふものある
以上なまなかの
事言出して
疑ひの
種になるまじとも
言ひ
難しお
爲にならぬばかりかは
彼の
人との
逢瀬のはしあやなく
絶もせば
何かせん
然るべき
途のなからずやと
惑ふは
心つゝむ
色目に
何ごとも
顯はれねど
出嫌ひと
聞えしお
高昨日は
池の
端の
師匠のもとへ
今日は
駿河臺の
錦野へと
駒下駄直さする
日の
多かるを
不審といはゞ
不審もたつべきながら
子故にくらきは
親の
眼鏡運平が
邪智ふかき
心にも
娘は
何時も
無邪氣の
子供伸びしは
脊丈ばかりと
思ふか
若しやの
掛念少しもなくハテ
中の
好かりしは
昔のことなり
今の
芳之助に
何として
愛想の
盡ぬものがあらうか
娘はまして
孝心ふかし
親の
命令ること
背く
筈なし
心配無用と
勘藏が
注意をさへ
取りあげもせず
錦野が
懇望恰もよし
彼れは
有徳の
醫師なりといふ
故郷某の
地には
少からぬ
地所をさへ
持てりと
聞くに
娘の
爲にも
我が
爲にも
行末わろき
縁組ならずとより/\の
相談も
洩れきく
身の
腹だゝしさ
縱令身分は
昔の
通りならずとも
現在ゆるせし
良人ある
身に
忌はしき
嫁入沙汰きくも
厭なり
表にかざる
仁者顏は
畢竟何事かの
手段かも
知れたことならず
優しげな
妹御も
當てにならぬよし
折々見たこともあり
毒蛇のやうな
人々信用なさるお
心には
何ごと
申すとも
甲斐はあるまじさりとて
此儘に
日を
送らば
悲しきことの
來んは
目の
前なり
聞かせて
心配さするも
憂ければ
頼むは
彼の
人の
力のみ
男の
智慧には
良き
考へもなからずやと
思ひたてば
心は
矢竹、はやるほど
猶落附てお
友達の
誰さま
御病氣ときく
格別に
中の
好き
人ではあり
是非お
見舞申したく
存じますがと
許容を
請へば
平常の
氣だてに
有るべき
願ひとて
疑ひもなく
運平點頭きて
然らば
疾く
行きて
疾くかへれ
病人の
處に
長居はせぬもの
供には
鍋なりと
連れて
行きなされと
氣をつくればイエそれには
及びませぬ
裏通りを
行けばつい
其處なり
鍋も
家のことが
忙しう
御座いますツイ
行てツイ
歸るに
供などゝは
大層すぎます
支度も
何も
入りませぬ、
此儘すぐにとそこ/\
身仕度して
庭口出でんとする
途端孃さま
今日もお
出かけか
何處へぞと
勘藏がぎろ/\
目恐ろしけれど
臆してなるまじと
態とつくる
笑顏愛らしく
今日もとは
勘藏酷いぞや
今日はと
言はねばてにをはが
違ふ
所ぞとほゝ
笑みて
何氣もなしに
家を
出でぬ
約束の
辻往つ
返りつ
待てどもまてども
今日はいかにしけん
影も
見えず
誰れに
聞かんもうしろめたし
何とせん
必ず
訪ひ
給ふな
我家知られんは
恥かしとて
丁所つげ
給はねど
曩に
錦野にてそれとなく
聞きしはうろ
覺えながら
覺えあり
縱しお
怒りにふれゝばそれまで、
空しく
物をおもふよりは
寧お
目にかゝりしうへにて
兎も
角もせんと
心に
答へて
妻戀下とばかり
當所なしにこゝの
裏屋かしこの
裏屋さりとては
雲掴むやうな
尋ねものも
思ふ
心がしるべにや
松澤といふか
何か
知らねど
老人の
病人二人ありて
年若き
車夫の
家ならば
此裏の
突當りから
三軒目溝板の
外れし
所がそれなりとまで
教へられぬ
時は
夕暮の
薄くらきに
迷ふ
心もかき
暮されて
何と
言入れん
戸のすき
間よりさし
覗く
家内のいたましさよ
頭巾肩掛に
身はつゝめど
目をもるものは
紅の
涙。
さらでも
老ては
僻むものとか
況んや
貧にやつれ
苦にやつれ
人恨めしく
世の
中つらく
明けては
歎き
暮れては
怒り
心晴間なければさまでには
無き
病氣ながら
何時癒るべき
景色もなくあはれ
枯木に
似たる
儀右衞門夫婦待ちわびしきは
春ならで
芳之助の
歸宅の
遲さよ
好き
[#「好き」は底本では「好さ」]客ありて
遠くまで
行きたるにやそれにしても
最う
歸りさうなもの
日沒まへに
一度づゝ
樣子見に
戻るが
常なるを
何として
今日はと
頸を
延ばす
心は
同じ
表のお
高も
路次口顧みつ
家内を
覗きつ
芳さまはどうでもお
留守らしく
御相談すること
山ほどあるをお
目に
懸らでは
戻らるゝことかはさるにても
此病人のうへに
此お
生計右も
左もお
身一つに
降りかゝる
芳さまが
御心配は
嘸なるべし
尋常ならば
御兩親の
見取り
看護もすべき
身が
餘所に
見聞く
苦しさよと
沸き
返る
涙胸に
呑みて
差のぞかんとする
二枚戸を
内より
明けて
面を
出すは
見違へねども
昔は
殘らぬ
芳之助の
母が
姿なり
待つ
人ならで
待たぬ
人の
思ひも
寄らず
佇むかげに
驚かされて
物をいはず
見つむる
目元も
疎くなりてや
不審げに
誰何さまぞと
問はるゝもつらしお
高頭巾を
手早く
取りてお
忘れ
遊ばしたかと
取すがりて
啼く
音に
知るゝ
燒野の
雉子我子ならねど
繋がる
縁とて
母は
女の
心も
弱くオヽお
高か
否お
高どのか
何として
此樣な
處へ
何う
尋ねて
知れましたとおろ/\
涙の
聲きゝ
附けてや
膝行出づる
儀右衞門はくぼみし
眼にキツと
睨みてコレ
何を
云つて
居るぞ
夕方は
別して
風が
寒し
其うへに
風でも
引かば
芳之助に
對しても
濟むまいぞやといふ
詞の
尾に
附いてお
高おそる/\
顏をあげ
御病氣といふことを
人傳に
聞きましてお
怒りにふれるとは
知るも
御樣子が
伺ひたさに
出にくい
所を
繕つて
漸うの
思ひで
參りましたお
父樣にもお
執成をとしほ/\として
言出づるを
取次ぐ
母が
詞も
待たず
儀右衞門冷笑つて
聞かんともせずさりとは
口賢くさま/″\の
事がいへたものかな
父親に
薫陶れては
其筈の
事ながらもう
其手に
乘りはせぬぞよ
餘計な
口に
風引かさんより
早く
歸宅くさるゝが
宜さゝうなもの
誠と
思ひて
聞くものは
此家の
内に
一人もなし
老婆さまも
眉毛よまれるなと
憎々しく
言ひ
放つて
見返りもせずそれは
御尤の
御立腹ながら
是れまでのこと
露ばかりも
私知りての
事はなしお
憎しみはさることなれど
申譯の
一通りお
聞き
遊ばして
昔の
通りに
思召してよと
詫入る
詞聞きも
敢へず
何といふぞ
父親の
罪は
我れは
知らぬ
今まで
通り
嫁舅になりたしとか
聞て
呆れるなり
考へて
見よ
人非人の
運平の
娘を
妻に
持つ
芳之助と
思ふかよしや
芳之助が
持つといふとも
我れある
以上は
嫁にすること
毛頭ならぬ
汚らはしゝ
運平の
名思ひ
出しても
胸が
沸くなり
況てやそれが
娘を
嫁になんど
思ひも
寄らぬことなり
詞かはすも
忌はしきに
疾々歸らずやお
歸りなされエヽ
何をうぢ/\
老婆さま
其處を
閉めなさいと
詞づかひも
荒々しく
怒りの
面色すさまじきを
母は
見かねてそれはあまりに
短氣なりあの
子の
詞も
一通りは
聞てお
遣りなされませぬかと
執成すをハタと
睨んで
汝までが
同じやうに
何の
囈語最早何事聞く
耳もなし
汝が
追ひ
出さずば
我れ
自身にと
止むる
妻を
突のけつゝ
病勞れても
老の
一徹上りがまちに
泣頽れしお
高が
細腕むづと
取りつ
力を
極めて
押出す
門口お
慈悲に
一言お
聞き
入れをと
詫るも
泣くも
何の
用捨あらくれし
詞に
怒りを
籠めて
嫁でなし
舅でなし
阿伽の
他人の
來る
家でなし
何といふとももう
逢はぬぞ、ハタとたて
切る
雨戸の
閾くちしは
溝か
立端もなくわつと
泣く
空に
闇を
縫ひ
行く
烏の
兩三聲。
覺悟の
身に
今更の
涙見苦しゝと
勵ますは
詞ばかり
我れまづ
拂ふ
瞼の
露の
消えんとする
命か
扨もはかなし
此處松澤新田が
先祖累代の
墓所晝猶暗き
樹木の
茂みを
吹拂ふ
夜風いとゞ
悲慘の
聲をそへて
梟の
叫び
一段と
物すごしお
高決心の
眼光たじろがずお
心怯れかさりとては
御未練なり
高が
心は
先ほども
申す
通り
決めし
覺悟の
道は
一つ
二人の
身を
犧牲にしてもお
前さまのお
心伺ふ
先に
生きて
還る
念はなし
父御さまの
今日の
仰せ
人非人の
運平が
娘を
嫁になどゝは
思ひも
寄らぬことなり
芳之助は
兎もあれ
我れ
許さずと
御立腹の
數々それいさゝかも
御無理ならねどお
前さまと
縁きれて
此世何の
樂しからずつらき
錦野がこともあり
所詮は
此命一つぞと
覺悟の
道も
同じやうに
行逢つてお
前さまのお
心伺へば
其通りとか
今更御違背のある
筈なし
私は
嬉しう
存じますをと
美事に
言放つて
噛む
襦袢の
袖、
未練などがあることかは
我れ
男の
一疋ながら
虚弱の
身の
力及ばず
只にもあらで
病ひに
臥す
兩親にさへ
孝養、
抱持の
不十分さ
甲斐なき
身恨めしくなりて
捨てたしと
思ひしは
咋日今日ならず
我々二人斯くと
聞かば
流石運平が
邪慳の
角も
折れる
心になるは
定なり
我が
親とても
其の
通り
一徹の
心和らぎ
寄らば
兩家の
幸福この
上やある
我々二人世にありては
如何に
千辛萬苦するとも
運平に
後悔の
念も
出まじく
況してや
手を
下げての
詫ごと
何としてするべきならずよしや
膝を
屈げればとて
我親決して
肯れはなすまじく
乞食非人と
落魄るとも
新田如きに
此口腐れても
助けを
求むることはせずとそれ
平生の
詞なるもの
盡未來この
不和の
中解ける
筈なし
數代續きし
兩家のよしみ
一朝にして
絶やさんこと
先祖の
遺旨にも
違ふことなり
世の
人は
愚とも
笑はん
痴とも
見ん、さりながら
先祖に
對し
家に
對する
孝は
二人が
命なり
捨てゝ
榮ある
身ぞと
思へば
何處に
殘る
未練もなしいざ
身支度をと
最期の
用意あはれ
短き
契りなるかな
井筒にかけし
丈くらべ
振わけ
髮のかみならねば
斯くとも
如何しら
紙にあね
樣こさへて
遊びし
頃これは
君さまこれは
我今日は
芝居へ
行くのなり
否花見の
方が
我れは
宜しと
戯れ
交はせしそれ
一つも
願ひの
叶ひしことはなく
待にまちし
長日月のめぐり
來て
見れば
果敢なしや
世は
桑田の
海ともならねど
變るは
現在親の
心、ましてや
他人の
底ふかき
計略の
淵知るべきならねば
陷れられて
後の
一悔恨空しく
呑む
涙の
晴れ
間は
無くて
降りかゝる
憂苦と
繋がるゝ
情緒に
思慮分別も
烏羽玉の
闇くらき
中にも
星明りに
目と
目見合せて
莞爾とばかり
名殘の
笑顏うら
淋しくいざと
促せばいざと
答へて
流石にたゆたはるゝ
幾分時思ひ
定めてツト
立よりつ
用意の
短刀とり
直せば
後の
藪に
何やら
物音人もや
來つると
耳を
澄ますに
吹き
渡る
風定かに
聞えぬ
扨[#「扨」は底本では「扨て]追手にもあらざりけりお
高支度は
調ひしか
取亂さんは
亡き
後までの
恥なるべし
心靜かにと
誡める
身も
詞ふるひぬ
慘ましゝ
可惜青年の
身花といはゞ
莟の
枝に
今や
吹き
起らん
夜半の
狂風、お
高が
胸先くつろげんとする
此時はやし
間一髮、まち
給へとばかり
後の
藪垣まろび
出でゝ
利腕しつかと
取る
男誰れぞ
放して
死なしてと
脆弱き
身にも
一心に
振切らんとするをいつかな
放さず、いや
放しませぬ
放されませぬお
前さま
殺しては
旦那さまへ
濟みませぬといふは
正しく
勘藏か、とお
高の
詞の
畢らぬ
内闇にきらめく
白刄の
電光アツと
一聲一刹那はかなく
枯れぬ
連理の
片枝は。
こぼれ
松葉の
土になるまで
二人ともにと
契りしものを
我ばかり
何として
後るべきと
足ずりして
歎きしが
命果敢なく
止められて
再び
見んとも
思はざりし
六疊敷の
我が
部屋をその
儘の
座敷牢縁の
障子の
開閉にも
乳母が
見張りの
目は
離れず
況してや
勘藏が
注意周到翼あらば
知らぬこと
飛ぶ
鳥ならぬ
身に
何方ぬけ
出でん
隙もなしあはれ
刄物一つ
手に
入れたや
處は
異れど
同じ
道に
後れはせじの
娘の
目色見てとる
運平が
氣遣はしさ
錦野との
縁談も
今が
今と
運びし
中に
此こと
知られなば
皆畫餠なるべし
包まるゝだけはと
祕しかくして
宥めてみつ
賺してみつ
意見に
手をかへ
品をかふれど
袖の
涙晴れんともせず
兎もすれば
我も
倶にと
決死の
素振に
油斷ならず
何はしかれ
命ありての
物だねなり
娘の
心落附かすに
若くはなしと
押しては
婚儀をすゝめもなさず
去るものは
日々に
疎しの
俚諺もあり
日をだに
經れば
芳之助を
追慕の
念も
薄らぐは
必定なるべし
心ながく
時を
待て
春の
氷に
朝日かげおのづから
解けわたる
折ならでは
何事の
甲斐ありとも
覺えず
誰れも/\
異見は
言ふな
心の
浮く
話に
氣をなぐさめて
面白き
世をおもしろしと
思はするのが
肝要ぞと
我先立ちて
機嫌を
取りつ
慰めつ
一方は
心を
浮かせんと
力め
一方は
見張りを
嚴にして
細ひも
一筋小刀一挺お
高が
眼に
觸れさせるな
夜は
別して
氣をつけよと
氣配り
眼配り
大方ならねば
召使ひの
者も
心を
得て
風の
音をも
只には
聞かず
鼠の
荒れにも
耳そばだてつ
疑心は
暗鬼を
生ずる
奧の
間に
其人現在坐すを
見ながら
孃さまは
何處へぞお
姿が
見えぬやうなりと
人騷がせするもあり
乳母は
夜の
目ろく/\
合さずお
高が
傍に
寢床を
並べ
浮世雜談に
諷諫の
意をこめつ
可笑しく
面白く
物がたりながら
沈みがちなる
主の
心根いぢらしくも
氣遣はしく
離れぬ
守りにこれも
一つの
關所なり
如何にしてか
越えらるべき
如何にしてか
遁るべきお
高髮とりあげず
化粧もせず
粧ひし
昔の
紅白粉は
誰れが
爲の
色ならず
君におくれて
鏡の
影に
合す
面つれなしとて
伽羅の
油の
香りも
留めず
亂れ
次第の
花の
姿やつれる
身を
我と
頼母しく、ならば
此儘に
死にたしと
願へど
命は
心のまゝならず
病むともなく
煩ふともなくつく/″\と
眺めてつくづくと
泣く
涙と
空とを
意中の
友として
送らねど
迎へねど
來るものは
月改まるは
歳ちりて
返らぬ
君を
思へば
何ぞ
櫻の
春しり
顏に
今歳も
咲ける
面にくさよ
又しても
聞く
堀切りの
菖蒲だより
車をつらねて
見に
行きしはそもいつの
世の
夢になりて
精靈棚の
眞こもの
上にも
表だちては
祀られずさりとては
世の
中うらめしゝ
照る
月の
秋の
夜草葉に
脆き
白玉の
露と
答へて
消えかぬる
身を
何と
御覽じて
何とお
恨みなさるべきにや
過ぎし
雪の
夜の
邂逅に
二つなき
貞心嬉しきぞとてホロリとし
給ひし
涙の
顏今も
眼の
前に
存るやうなりさりながら
思ふ
心は
幽冥の
境にまでは
通ずまじきにや
無情く
悲しく
引止められし
命を
未練に
惜みてとも
思召さん
苦しさよと
思ひやりては
伏し
沈み
思ひ
出してはむせ
返り
笑みとは
何ぞ
夢にも
忘れて
知るものは
人生の
憂きといふ
憂きの
數々來るものは
無意無心の
春夏秋冬落花流水ちりて
流れて
寄せ
返る
波の
年又年今日は
心の
解けやする
明日は
思ひの
離れやするあはれ
榮花の
身にしたし
娘にも
綺羅かざらせて
我れも
安心の
樂隱居願はくは
家運長久なれ
子孫繁昌なれ
兎角は
身の
上に
凶事あらせじとの
親心に
引かへし
願ひも
逆さまながら
今日身をすてんか
明日こそはと
窺ふ
心に
怠りなけれど
人目の
關守何として
隙あるべき
此處に
七年身はまだ
籠中の
鳥。
お
父樣にも
勘藏にも
乳母には
別しての
事いろ/\と
苦勞をかけまして
今更おもへば
恥かしいやらお
氣の
毒やら
幼心のあと
先見ずに
程のない
無分別さりながら
盡きぬ
命かや
事も
無く
助かりしを
嬉しいとは
思ひもせでよしなき
義理だてに
心ぐるしく
芳さまのお
跡追ふてと
思ひしは
幾たびかさりとては
命二つあるかのやうに
輕々しい
思案なりしと
後悔して
見れば
今までの
事口惜しくこれからの
身が
大切になりました
阿房らしい
死んだ
人への
操だて
何に
成ことでもなきを
何時まで
獨身で
居る
心が
數へる
歳の
心細さ
是ほどならばなぜ
昔お
詞そむいて
厭ひしか
我れと
我が
身知れませぬ
母さまなしのお
手一つに
御苦勞たんと
懸けまして
上の
上にも
又幾年お
心休めぬ
不料簡不孝のお
詫は
向後さつぱり
芳さまのこと
思ひ
切つて
何方への
縁組なれ
仰せに
違背はいたしませぬ
勘藏も
乳母も
長の
間の
心づかひ
嘸かしと
氣の
毒な
私の
心は
今もいふ
通り
晴てみれば
迷ひは
雲霧これまでの
氣は
少しもなし
必ず
必ず
心配して
下さるなよと
流石に
心の
弱ればにや
後悔の
涙を
目にたゝへてお
高斯くとは
言出しぬ
歳月心を
配りし
甲斐に
漸く
此詞にまづ
安心とは
思ふものゝ
運平なほも
油斷をなさず
起居につけて
目をそゝぐにお
高は
詞に
違ひもなく
愁の
眉いつしかとけて
昨日にかはるまめ/\しさ
父のもの
我がもの
云へば
更に
手代小僧の
衣類の
世話縫ひほどきにまで
氣を
用ひて
浮々とせし
樣子に
扨は
眞に
悔悟して
其心にもなりぬるかと
落附くは
運平のみならず
内外のものも
同じこと
少し
枕を
安んじけりさるにても
訝しきは
松澤夫婦が
上にこそ
芳之助在世の
時だに
引窓の
烟たえ/″\なりしを
今はたいかに
其日を
送るや
可惜若木の
花におくれて
死ぬべき
病は
癒たるものゝ
僅か
手内職の
五錢六錢露命をつなぐ
術はあらじを
怪しのことよと
尋ねるに
澆季の
世とは
聞くものゝ
猶陰徳者なきならで
此薄命を
憐みてや
惠むともなき
惠みに
浴して
鹽噌の
苦勞は
知らずといふなるそは
又何處の
誰れなるにや
扨も
怪むべく
尊むべき
此慈善家の
姓氏といはず
心情といはず
義理の
柵さこそと
知るは
唯りお
高の
乳母あるのみ
忍び/\の
貢のものそれからそれと
人手を
換へて
誰れと
知らさぬ
用心は
昔氣質の
一こくを
立通さする
遠慮心痛おいたはしや
右に
左に
御苦勞ばかり
世が
世ならばお
嫁さまなり
舅御なり
御孝行に
御遠慮は
入らぬ
筈をと
或時泣きしにお
高同じく
涙になりて
私の
心知るものは
和女ばかり
芳さまのことは
思ひ
切りても
御兩親の
行末が
心配なり
明日が
日我が
身縁に
附きなば
兎に
角自由は
叶ふまじ
其時たのむは
和女ぞかし
父さまのお
心よく
取りて
松澤さまとの
中昔の
通りにして
欲しゝ
是れ
一つがお
頼みぞとて
兩手を
合せて
伏し
拜みぬ
失せし
芳之助を
悼まぬならねど
主の
身の
上猶さらに
氣づかはしく
陰になり
日向になり
意見の
數々貫きてや
今日此頃の
袖のけしき
涙も
心も
晴れゆきて
縁にもつくべし
嫁にも
行かんと
言出でし
詞に
心うれしく
七年越しの
苦も
消えて
夢安らかに
寢る
夜幾夜ある
明方の
風あらく
枕ひいやりとして
眼覺れば
縁側の
雨戸一枚はづれて
並べし
床はもぬけの
殼なりアナヤとばかり
蹴かへして
起つ
枕元の
行燈有明のかげふつと
消えて
乳母が
涙の
聲あわたゞしく
孃さまが
孃さまが。
渝らぬ
契りの
誰れなれや
千年の
松風颯々として
血汐は
殘らぬ
草葉の
緑と
枯れわたる
霜の
色かなしく
照らし
出だす
月一片何の
恨みや
吊ふらん
此處鴛鴦の
塚の
上に。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。