われから
樋口一葉
霜夜ふけたる
枕もとに
吹くと
無き
風つま
戸の
隙より
入りて
障子の
紙の
かさこそと
音するも
哀れに
淋しき
旦那樣の
御留守、
寢間の
時計の十二を
打つまで
奧方はいかにするとも
睡る
事の
無くて
幾そ
度の
寢がへり
少しは
肝の
氣味にもなれば、
入らぬ
浮世のさま/″\より、
旦那樣が
去歳の
今頃は
紅葉舘にひたと
通ひつめて、
御自分はかくし
給へども、
他所行着のお
袂より
縫とりべりの
手巾を
見つけ
出したる
時の
憎くさ、
散々といぢめていぢめて、
困め
拔いて、
最う
是れからは
決して
行かぬ、
同藩の
澤木が
言葉の
いと
ゑを
違へぬ
世は
來るとも、
此約束は
決して
違へぬ、
堪忍せよと
謝罪てお
出遊したる
時の
氣味のよさとては、
月頃の
痞へが
下りて、
胸のすくほと
嬉しう
思ひしに、
又かや
此頃折ふしのお
宿り、
水曜會のお
人達や、
倶樂部のお
仲間にいたづらな
御方の
多ければ
夫れに
引かれて
自づと
身持の
惡う
成り
給ふ、
朱に
交はればといふ
事を
花のお
師匠が
癖にして
言ひ
出せども
本にあれは
嘘ならぬ
事、
昔しは
彼のやうに
口先の
方ならで、
今日は
何處
處で
藝者をあげて、
此樣な
不思議な
踊を
見て
來たのと、お
腹のよれるやうな
可笑しき
事をば
眞面目に
成りて
仰しやりし
物なれども、
今日此頃のお
人の
惡るさ、
憎くいほどお
利口な
事ばかりお
言ひ
遊して、
私のやうな
世間見ずをば
手の
平で
揉んで
丸めて、
夫れは
夫れは
押へ
處の
無いお
方、まあ
今宵は
何處へお
泊りにて、
昨日はどのやうな
嘘いふてお
歸り
遊ばすか、
夕かた
倶部樂へ
[#「倶部樂へ」はママ]電話をかけしに三
時頃にお
歸りとの
事、
又芳原の
[#「芳原の」はママ]式部がもとへでは
無きか、
彼れも
縁切りと
仰しやつてから
最う五
年、
旦那樣ばかり
惡いのでは
無うて、
暑寒のお
遣いものなど、
憎くらしい
處置をして
見[#ルビの「せ」はママ]せるに、お
心がつひ
浮かれて、
自づと
足をも
向け
給ふ、
本に
商賣人とて
憎くらしい
物と
次第におもふ
事の
多くなれば、いよ/\
寢かねて
奧方は
縮緬の
抱卷打はふりて
郡内の
蒲團の
上に
起上り
給ひぬ。
八
疊の
座敷に六
枚屏風たてゝ、お
枕もとには
桐胴の
火鉢にお
煎茶の
道具、
烟草盆は
紫檀にて
朱羅宇の
烟管そのさま
可笑しく、
枕ぶとんの
派手摸樣より
枕の
總の
紅ひも
常の
好みの
大方に
顯はれて、
蘭奢にむせぶ
部やの
内、
燈籠臺の
光かすかなり。
奧方は
火鉢を
引寄せて、
火の
氣のありやと
試みるに、
宵に
小間使ひが
埋け
參らせたる、
櫻炭の
半は
灰に
成りて、よくも
起さで
埋けつるは
黒きまゝにて
冷えしもあり、
烟管を
取上げて一二
服、
烟りを
吹いて
耳を
立つれば
折から
此室の
軒ばに
移りて
妻戀ひありく
猫の
聲、あれは
玉では
有るまいか、まあ
此霜夜に
屋根傳ひ、
何日のやうな
風ひきに
成りて
苦るしさうな
咽をするので
有らう、あれも
矢つ
張いたづら
者と
烟管を
置いて
立あがる、
女猫よびにと
雪灯に
火を
移し
平常着の八
丈の
書生羽織しどけなく
引かけて、
腰引ゆへる
縮緬の、
淺黄はことに
美くしく
見えぬ。
踏むに
冷めたき
板の
間を
引裾ながく
縁がはに
出でゝ、
用心口より
顏さし
出し、
玉よ、
玉よ、と二タ
聲ばかり
呼んで、
戀に
狂ひてあくがるゝ
身は
主人が
聲も
聞分けぬ。
身にしむやうな
媚めかしい
聲に
大屋根の
方へと
啼いて
行く。ゑゝ
言ふ
事を
聞かぬ
我まゝ
者め、
何うともお
爲と
捨てぜりふ
言ひて
心ともなく
庭を
見るに、ぬば
玉の
闇たちおほふて、
物の
黒白も
見え
分かぬに、
山茶花の
咲く
垣根をもれて、
書生部屋の
戸の
隙より
僅かに
光りのほのめくは、おゝまだ
千葉は
寢ぬさうな。
用心口を
鎖してお
寢間へ
戻り
給ひしが
再度立つてお
菓子戸棚のびすけつとの
瓶とり
出し、お
鼻紙の
上へ
明けて
押ひねり、
雪灯を
片手に
縁へ
出れば
天井の
鼠がた/\と
荒れて、
鼬にても
入りしか
きゝといふ
聲もの
凄し。しるべの
燈火かげゆれて、
廊下の
闇に
恐ろしきを
馴れし
我家の
何とも
思はず、
侍女下婢が
夢の
最中に
奧さま
書生の
部屋へとおはしぬ。
お
前はまだ
寐ないのかえ、と
障子の
外から
聲をかけて、
奧さまずつと
入り
玉へば、
室内なる
男は
讀書の
腦を
驚かされて、
思ひがけぬやうな
惘れ
顏をかしう、
奧さま
笑ふて
立ち
玉へり。
机は
有りふれの
白木作りに
白天竺をかけて、
勸工塲ものゝ
筆立てに
晋唐小楷の、
栗鼠毛の、ペンも
洋刀も一ツに
入れて、
首の
缺けた
龜の
子の
水入れに、
赤墨汁の
瓶がおし
並び、
齒みかきの
箱我れもと
威を
張りて、
割據の
机の
上に
寄りかゝつて、
今まで
洋書を
繙て
居たは
年頃二十歳あまり三とは
成るまじ、
丸頭の五
分刈にて
顏も
長からず
角ならず、
眉毛は
濃くて
目は
黒目がちに、一
體の
容顏好い
方なれども、いかにもいかにもの
田舍風、
午房縞[#「午房縞」はママ]の
綿入れに
論なく
白木綿の
帶、
青き
毛布を
膝の
下に、
前こゞみに
成りて
兩手に
頭をしかと
押へし。
奧さまは
無言にびすけつとを
机の
上へ
乘せて、お
前夜ふかしをするなら
爲るやうにして
寒さの
凌ぎをして
置いたら
宜からうに、
湯わかしは
水に
成つて、お
火と
言つたら
螢火のやうな、よく
是れで
寒く
無いのう、お
節介なれど
私がおこして
遣りませう、
炭取を
此處へと
仰しやるに、
書生はおそれ
入りて、
何時も
無精を
致しまする、
申譯の
無い
事でと
有難いを
迷惑らしう、
炭取をさし
出して
我れは
中皿へ
桃を
盛つた
姿、これは
私が
蕩樂さと
奧さま
炭つぎにかゝられぬ。
自慢も
交じる
親切に
螢火大事さうに
挾み
上げて、
積み
立てし
炭の
上にのせ、
四邊の
新聞みつ四つに
折りて、
隅の
方よりそよ/\と
煽ぐに、いつしか
是れより
彼れに
移りて、ぱちぱちと
言ふ
音いさましく、
青き
火ひら/\と
燃へて
火鉢の
縁のやゝ
熱うなれば、
奧さまは
何のやうな
働きをでも
遊したかのやうに、
千葉もお
翳りと
少し
押やりて、
今宵は
分けて
寒い
物をと、
指輪のかゝやく
白き
指先を、
籐編みの
火鉢の
縁にぞ
懸けたる。
書生の
千葉いとゞしう
恐れ
入りて、これは
何うも、これはと
頭を
下げるばかり、
故郷に
有りし
時、
姉なる
人が
母に
代りて
可愛がりて
呉れたりし、
其折其頃の
有さまを
思ひ
起して、もとより
奧樣が
派手作りに
田舍ものゝ
姉者人がいさゝか
似たるよしは
無けれど、
中學校の
試驗前に
夜明しをつゞけし
頃、
此やうな
事を
言ふて、
此やうな
處作をして、
其上には
蕎麥掻きの
御馳走、あたゝまるやうにと
言ふて
呉れし
時も
有し、
懷かしきは
其昔し、
有難きは
今の
奧樣が
情と、
平常お
世話に
成りぬる
事さへ
取添へて、
怒り
肩もすぼまるばかり
畏まりて
有るさまを、
奧さま
寒さうなと
御覽じて、お
前羽織はまだ
出來ぬかえ、
仲に
頼んで
大急ぎに
仕立てゝ
貰ふやうにお
爲、
此寒い
夜に
綿入一つで
辛棒のなる
筈は
無い、
風でも
引いたら
何うお
爲だ、
本當に
身體を
厭はねばいけませぬぞえ、
此前に
居た
原田といふ
勉強ものが
矢つ
張お
前の
通り
明けても
暮れても
紙魚のやうで、
遊びにも
行かなければ、
寄席一つ
聞かうでもなしに、それはそれは
感心と
言はふか
恐ろしいほどで、
特別認可の
卒業と
言ふ
間際まで
疵なしに
行つてのけたを、
惜しい
事にお
前、
腦病に
成つたでは
無からうか、
國元から
母さんを
呼んで
此處の
家で二
月も
介抱をさせたのだけれど、
終ひには
何が
何やら
無我無中になつて、
思ひ
出しても
情ない、
言はゞ
狂死をしたのだね、
私は
夫れを
見て
居た
故、
勉強家は
氣か
引ける、
懶怠られては
困るけれど、
煩はぬやうに
心がけてお
呉れ、
別けてお
前は一
粒物、
親なし、
兄弟なしと
言ふでは
無いか、
千葉家を
負ふて
立つ
大黒柱に
異状が
有つては
立直しが
出來ぬ、さうでは
無いかと
奧樣身に
比べて
言へば、はッ、はッ、と
答へて
詞は
無かりき。
奧樣は
立上がつて、
私は
大層邪魔をしました、
夫ならば
成るべく
早く
休むやうにお
爲、
私は
行つて
寢るばかりの
身體、
部やへ
行く
間の
事は
寒いとても
仔細はなきに、
搆ひませぬから
此れを
着てお
出、
遠慮をされると
憎くゝ
成るほどに
何事も
默つて
年上の
言ふ
事は
聞く
物と
奧樣すつとお
羽織をぬぎて、
千葉の
背後より
打着せ
給ふに、
人肌のぬくみ
背に
氣味わるく、
麝香のかをり
滿身を
襲ひて、お
禮も
何といひかぬるを、よう
似合のうと
笑ひながら、
雪灯手にして
立出給へば、
蝋燭いつか三
分の一ほどに
成りて、
軒端に
高し
木がらしの
風。
落葉たくなる
烟の
末か、
夫れかあらぬか
冬がれの
庭木立をかすめて、
裏通りの
町屋の
方へ
朝毎に
靡くを、
夫れ
金村の
奧樣がお
目覺だと
人わる
口の一つに
數へれども、
習慣の
恐ろしきは
朝飯前の一
風呂、これの
濟までは
箸も
取られず、一日
怠る
事のあれば
終日氣持の
唯ならず、
物足らぬやうに
氣に
成るといふも、
聞く
人の
耳には
洒落者の
蕩樂と
取られぬべき
事、
其身に
成りては
誠に
詮なき
癖をつけて、
今更難義と
思ふ
時もあれど、
召使ひの
人々心を
得て
御命令なきに
眞柴折くべ、お
加※[#「冫+咸」、U+51CF、5-14]が
宜しう
御座りますと
朝床のもとへ
告げて
來れば、
最う
廢しませうと
幾度か
思ひつゝ、
猶相かはらぬ
贅澤の一つ、さなご
入れたる
糠袋にみがき
上て
出れば
更に
濃い
化粧の
白ぎく、
是れも
今更やめられぬやうな
肌になりぬ。
年を
言はゞ二十六、
遲れ
咲の
花も
梢にしぼむ
頃なれど、
扮裝のよきと
天然の
美くしきと二つ
合せて五つほどは
若う
見られぬる
徳の
性、お
子樣なき
故と
髮結の
留は
言ひしが、あらばいさゝか
沈着くべし、いまだに
娘の
心が
失せで、
金齒入れたる
口元に
何う
爲い、
彼う
爲い、
子細らしく
數多の
奴婢をも
使へども、
旦那さま
進めて十
軒店に
人形を
買ひに
行くなど、一
家の
妻のやうには
無く、お
高僧頭巾に
肩掛引まとひ、
良人の
君もろ
共川崎の
大師に
參詣の
道すがら
停車塲の
群集に、あれは
新橋か、
何處ので
有らうと

かれて、
奧樣とも
言はれぬる
身ながら
是れを
淺からず
嬉しうて、いつしか
好みも
其樣に、一つは
容貌のさせし
業なり。
目鼻だちより
髮のかゝり、
齒ならびの
宜い
所まで
似たとは
愚か
毋樣を
其まゝの
生れつき、
奧樣の
父御といひしは
赤鬼の
與四
郎とて、十
年の
以前までは
物すごい
目を
光らせて
在したる
物なれど、
人の
生血をしぼりたる
報ひか、五十にも
足らで
急病の
腦充血、一
朝に
此世の
税を
納めて、よしや
葬儀の
造花、
派手に
美事な
造りはするとも、
辻に
立つて
見る
人に
爪はぢきをされて
後生いかゞと
思はるゝ
樣成し。
此人始めは
大藏省に
月俸八
圓頂戴して、
兀ちよろけの
洋服に
毛繻子の
洋傘さしかざし、
大雨の
折にも
車の
贅はやられぬ
身成しを、一
念發起して
帽子も
靴も
取つて
捨て、
今川橋の
際に
夜明しの
蕎麥掻きを
賣り
初し
頃の
勢ひは千
鈞の
重きを
提げて
大海をも
跳り
越えつべく、
知る
限りの
人舌を
卷いて
驚くもあれば、
猪武者の
向ふ
見ず、やがて
元も
子も
摺つて
情なき
樣子が
思はるゝと
後言も
有けらし、
須彌も
出たつ
足もとの、
其當時の
事少しいはゞや、
茨につらぬく
露の
玉この
與四
郎にも
戀は
有けり、
幼馴染の
妻に
美尾といふ
身がらに
合せて
高品に
美くしき
其とし十七ばかり
成しを
天にも
地にも二つなき
物と
捧げ
持ちて、
役處がへりの
竹の
皮、
人にはしたゝれるほど
濕つぽき
姿と
後指さゝれながら、
妻や
待らん
夕烏の
聲に
二人とり
膳の
菜の
物を
買ふて
來るやら、
朝の
出がけに
水瓶の
底を
掃除して、一日
手桶を
持たせぬほどの
汲込み、
貴郎お
晝だきで
御座いますと
言へば、おいと
答へて
米かし
桶に
量り
出すほどの
惚ろさ、
斯くて
終らば
千歳も
美くしき
夢の
中に
過ぬべうぞ
見えし。
さるほどに
相添ひてより五
年目の
春、
梅咲く
頃のそゞろあるき、
土曜日の
午後より
同僚二三
人打つれ
立ちて、
葛飾わたりの
梅屋敷廻り
歸りは
廣小路あたりの
小料理やに、
酒も
深くは
呑ぬ
質なれば、
淡泊と
仕舞ふて
殊更に
土産の
折を
調へさせ、
友には
冷評の
言葉を
聞きながら、
一人別れてとぼ/\と
本郷附木店の
我家へ
戻るに、
格子戸には
締りもなくして、
上へあがるに
燈火はもとよりの
事、
火鉢の
火は
黒く
成りて
灰の
外に
轉々と
凄まじく、まだ
如月の
小夜嵐引まどの
明放しより
入りて
身に
染む
事も
堪えがたし、いかなる
故とも
思はれぬに
洋燈を
取出してつく/″\と
思案に
暮るれば、
物音を
聞つけて
璧隣の
小學教員の
妻、いそがはしく
表より
廻り
來て、お
歸りに
成ましたか、
御新造は
先刻、三
時過ぎでも
御座りましたろか、お
實家からのお
迎ひとて
奇麗な
車が
見えましたに、
留守は
何分たのむと
仰しやつて
其まゝお
出かけに
成ました、お
火が
無くば
取りにお
出なされ、お
湯も
沸いて
居まするからと
忠實/\しう
世話を
燒かるゝにも、
不審の
雲は
胸の
内にふさがりて、
何ういふ
樣子何のやうな
事をいふて
行きましたかとも
問ひたけれど
悋氣男と
忖度らるゝも
口惜しく、
夫れは
種々御厄介で
御座りました、
私が
戻りましたからは
御心配なくお
就蓐下されと
洒然といひて
隣の
妻を
歸しやり、
一人淋しく
洋燈の
光りに
烟草を
吸ひて、
忌々しき
土産の
折は
鼠も
喰べよとこぐ
繩のまゝ
勝手元に
投出し、
其夜は
床に
入りしかども、さりとは
肝癪のやる
瀬なく、よしや
如何なる
用事ありとても、
我れなき
留守に
無斷の
外出、
殊更家内あけ
放しにして、
是れが
人の
妻の
仕業かと
思ふに
餘りの
事と
胸は
沸くやうに
成りぬ。
明くれは
日曜、
終日寢て
居ても
咎むる
人は
無し、
枕を
相手に
芋虫を
眞似びて、
表の
格子には
錠をおろしたまゝ、
人訪へとも
音もせず、いたづらに
午後四
時といふ
頃に
成ぬれば、
車の
門に
止まりて
優しき
駒下駄の
音の
聞ゆるを、
論なく
夫れとは
知れども
知らぬ
顏に
虚寢を
作れば、
美尾は
格子を
押て
見て、これは
如何な
事、
錠がおりてあると
獨り
言をいつて、
隣家の
松の
垣根に
添ひて、
水口の
方へと
間道を
入りぬ。
昨日の
午後より
谷中の
母さんが
急病、
癪氣で
御座んすさうな、つよく
胸先へさし
込みまして、一
時はとても
此世の
物では
有るまいと
言ふたれど、お
醫者さまの
皮下注射やら
何やらにて、
何事も
無く
納りのつき、
今日は
一人でお
厠にも
行かれるやうに
成ました、
右の
譯故の
手間どり、
昨日家を
出まする
時も、
氣がわく/\して
何事も
思はれず、
後にて
思へば
締りも
付けず、
庭口も
明け
放して、
嘸かし
貴郎のお
怒り
遊した
事と
氣が
氣では
無かつたなれど、
病人見捨てゝ
歸る
事もならず、
今日も
此やうに
遲くまで
居りまして、
何處までも
私が
惡う
御座んするほどに、
此通り
謝罪ますほどに、
何うぞ
御免し
遊して、いつもの
樣に
打解けた
顏を
見せて
下され、
御嫌機[#「御嫌機」はママ]直して
下されと
詫ぶるに、さては
左樣かと
少し
我の
折れて、
夫れならば
其樣に、
何故はがきでも
越しはせぬ、
馬鹿の
奴がと
叱りつけて、
母親は
無病壯健の
人とばかり
思ふて
居たが、
癪といふは
始めてかと
睦しう
談り
合ひて、
與四
郎は
何事の
秘密ありとも
知らざりき。
浮世に
鏡といふ
物のなくば、
我が
妍きも
醜きも
知らで、
分に
安じたる
思ひ、九
尺二
間に
楊貴妃小町を
隱くして、
美色の
前だれ
掛奧床しうて
過ぎぬべし、
萬づに
淡々しき
女子心を
來て
搖する
樣な
人の
賞め
詞に、
思はず
赫と
上氣して、
昨日までは
打すてし
髮の
毛つやらしう
結びあげ、
端折つゞみ
取上げて
見れば、いかう
眉毛も
生えつゞきぬ、
隣より
剃刀をかりて
顏をこしらゆる
心、そも/\
見て
呉れの
浮氣に
成りて、
襦袢の
袖も
欲しう、
半天の
襟の
觀光が
糸ばかりに
成しを
淋しがる
思ひ、
與四
郎が
妻の
美尾とても一つは
世間の
持上しなり、
身分は
高からずとも
誠ある
良人の
情心うれしく、六
疊、四
疊二
間の
家を、
金殿とも
玉樓とも
心得て、いつぞや四
丁目の
藥師樣にて
買ふて
貰ひし
洋銀の
指輪を
大事らしう
白魚のやうな、
指にはめ、
馬爪のさし
櫛も
世にある
人の
本甲ほどには
嬉しがりし
物なれども、
見る
人毎に
賞めそやして、これほどの
容貌を
埋れ
木とは
可惜しいもの、
出て
居る
人で
有うなら
恐らく
島原切つての
美人、
比べ
物はあるまいとて
口に
税が
出ねば
我おもしろに
人の
女房を
評したてる
白痴もあり、
豆腐かふとて
岡持さげて
表へ
出れば、
通りすがりの
若い
輩に
振かへられて、
惜しい
女に
服粧が
惡るいなど
哄然と
笑はれる、
思へば
綿銘仙の
糸の
寄りしに
色の
腿めたる
紫めりんすの
幅狹き
帶、八
圓どりの
等外が
妻としては
是れより
以上に
粧はるべきならねども、
若き
心には
情なく
※[#「竹かんむり/匝」、U+2B079、9-5]のゆるびし
岡持に
豆腐の
露のしたゝるよりも
不覺に
袖をやしぼりけん、
兎角に
心のゆら/\と
襟袖口のみ
見らるゝをかてゝ
加へて
此前の
年、
春雨はれての
後一日、
今日ならではの
花盛りに、
上野をはじめ
墨田川へかけて
夫婦づれを
樂しみ、
隨分とも
有る
限りの
体裁をつくりて、
取つて
置きの一てう
羅も
良人は
黒紬の
紋つき
羽織、
女房は
唯一
筋の
博多の
帶しめて、
昨日甘へて
買ふて
貰ひし
黒ぬりの
駒下駄、よしや
疊は
擬ひ
南部にもせよ、
比ぶる
物なき
時は
嬉しくて
立出ぬ、さても
東叡山の
春四
月、
雲に
見紛ふ
木の
間の
花も
今日明日ばかりの十七日
成りければ、
廣小路より
眺むるに、
石段を
下り
昇る
人のさま、さながら
蟻の
塔を
築き
立つるが
如く、
木の
間の
花に
衣類の
綺羅をきそひて、
心なく
見る
目には
保養この
上も
無き
景色なりき、
二人は
櫻が
岡に
昇りて
今の
櫻雲臺が
傍近く
來し
時、
向ふより五六
輛の
車かけ
聲いさましくして
來るを、
諸人立止まりてあれ/\と
言ふ、
見れば
何處の
華族樣なるべき、
若き
老ひたる
扱き
交ぜに、
派手なるは
曙の
振袖緋無垢を
重ねて、
老け
形なるは
花の
木の
間の
松の
色、いつ
見ても
飽かぬは
黒出たちに
鼈甲のさし
物、
今樣ならば
襟の
間に
金ぐさりのちらつくべきなりし、
車は
八百膳に
止まりて
人は
奧深く
居るを、
憎くさげな
評いふて
見送るもあり、
唯大方にお
立派なといひて
行過ぐるも
有しが、
美尾はいかに
感じてか、
茫然と
立ちて
眺め
入りし
風情、うすら
淋しき
樣に
物おもはしげにて、
何れ
華族であらうお
化粧が
濃厚だと
與四
郎の
振かへりて
言ふを
耳にも
入れぬらしき
樣にて、
我れと
我が
身を
打ながめ
唯悄然としてあるに
與四
郎心ならず、
何うかしたかと
氣遣ひて
問へば、
俄に
氣分が
勝れませぬ、
私は
向島へ
行くのは
廢めて、
此處から
直ぐに
歸りたいと
思ひます、
貴郎はゆるりと
御覽なりませ、お
先へ
車で
歸りますと
力なさゝうに
凋れて
言へは、
夫れはと
與四
郎案じ
始めて、
一人では
何も
面白くは
無い、
又來るとして
今日は
廢めにせうと
美尾がいふまゝ
優しう
同意して
呉れる
嬉しさも、
此折何とも
思はれず、
切めて
歸りは
鳥でも
喰べてと
機嫌を
取られるほど
物がなしく、
逃げ
出すやうにして一
散に
家路を
急げば、
興こと/\く
盡きて
與四
郎は
唯お
美尾が
身の
病氣に
胸をいためぬ。
はかなき
夢に
心の
狂ひてより、お
美尾は
有し
我れにもあらず、
人目無ければ
涙に
袖をおし
浸し、
誰れを
戀ふると
無けれども
大空に
物の
思はれて、
勿体なき
事とは
知りながら
與四
郎への
待遇きのふには
似ず、うるさき
時は
生返事して、
男の
怒れば
我れも
腹たゝしく、お
氣に
入らぬ
物なら
離縁して
下され、
無理にも
置いてはと
頼みませぬ、
私にも
生れた
家が
御座んするとて
威丈高になるに
男も
堪えず
箒を
振廻して、さあ
出て
行けと
時の
拍子危ふくなれば、
流石に
女氣の
悲しき
事胸に
迫りて、
貴郎は
私をいぢめ
出さうと
爲さるので
御座んすか、
私が
身はそも/\から
貴郎に
上げた
物なれば、
憎くゝば
打つて
下され、
殺して
下され、
此處を
死に
塲に
來た
私なれば、
殺されても
此處は
退きませぬ、さあ
何となりして
下されと
泣いて、
袖に
取すがりて
身を
悶ゆるに、もとより
憎くゝは
有らぬ
妻の
事、
離別などゝは
時の
威嚇のみなれば、
縺りて
泣くを
好い
時機に、
我まゝ
者奴の
言ひじらけ、
心安きまゝの
駄々と
免して
可愛さは
猶日頃に
増るべし。
與四
郎が
方に
變る
心なければ、一日も百
年も
同じ
日を
送れども
其頃より
美尾が
樣子の
兎に
角に
怪しく、ぼんやりと
空を
眺めて
物の
手につかぬ
不審しさ。
與四
郎心をつけて
物事を
見るに、さながら
戀に
心をうばゝれて
空虚に
成し
人の
如く、お
美尾お
美尾と
呼べば
何えと
答ゆる
詞の
力なさ、
何うでも
日々を
義務ばかりに
送りて
身は
此處に
心は
何處の
空を
佯らん、一
氣にかゝる
事ども、
我が
女房を
人に
取られて
知らぬは
良人の
鼻の
下と
指さゝれんも
口惜しく、いよ/\
眞に
其事あらばと
恐ろしき
思案をさへ
定めて
美尾が
影身とつき
添ふ
如く
守りぬ。
されども
是れぞの
跡もなく、
唯うか/\と
物おもふらしく
或時はしみ/″\と
泣いて、お
前樣いつまで
是れだけの
月給取つてお
出遊ばすお
心ぞ、お
向ふ
邸の
旦那さまは、
其昔し
大部屋あるきのお
人成しを一
念ばかりにて
彼の
御出世、
馬車に
乘つてのお
姿は
何のやうの
髭武者だとて
立派らしう
見えるでは
御座んせぬか、お
前樣も
男なりや、
少しも
早く
此樣な
古洋服にお
辨當さげる
事をやめて、
道を
行くに
人の
振かへるほど
立派のお
人に
成つて
下され、
私に
竹の
皮づゝみ
持つて
來て
下さる
眞實が
有らば、お
役處がへりに
夜學なり
何なりして、
何うぞ
世間の
人に
負けぬやうに、一ッぱしの
豪い
方に
成つて
下され、
後生で
御座んす、
私は
其爲になら
内職なりともして
御菜の
物のお
手傳ひはしましよ、
何うぞ
勉強して
下され、
拜みますと
心から
泣いて、
此ある
甲斐なき
活計を
數へれば、
與四
郎は
我が
身を
罵られし
事と
腹たゝしく、お
爲ごかしの
夜學沙汰は、
我れを
留守にして
身の
樂しみを
思ふ
故ぞと一
圖にくやしく、
何うで
我れは
此樣な
活地なし、
馬車は
思ひも
寄らぬ
事、
此後辻車ひくやら
知れた
物で
無ければ、
今のうち
身の
納りを
考へて、
利口で
物の
出來る、
學者で
好男子で、
年の
若いに
乘かへるが
隨一であらう、
向ふの
主人もお
前の
姿を
褒めて
居るさうに
聞いたぞと、
録でもなき
根すり
言、
懶怠者だ
懶怠者だ、
我れは
懶怠者の
活地なしだと
大の
字に
寐そべつて、
夜學はもとよりの
事明日は
勤めに
出るさへ
憂がりて、一
寸もお
美尾の
傍を
放れじとするに、あゝお
前樣は
何故その
樣に
聞分けては
下さらぬぞと
淺ましく、
互ひの
思ひ
そはそはに
成りて、
物言へば
頓て
爭ひの
糸口を
引出し、
泣いて
恨んで
摺れ/\の
中に、さりとも
憎くからぬ
夫婦は
折ふしの
仕こなし
忘れがたく、
貴郎斯うなされ、
彼あなされと
言へば、お
美尾お
美尾と
目の
中へも
入れたき
思ひ、
近處合壁つゝき
合ひて
物爭ひに
口を
利く
者は
無かりし。
ありし
梅見の
留守のほど、
實家の
迎ひとて
金紋の
車の
來し
頃よりの
事、お
美尾は
兎角に
物おもひ
靜まりて、
深くは
良人を
諫めもせず、うつ/\と
日を
送つて
實家への
足いとゞしう
近く、
歸れば
襟に
腮を
埋めてしのびやかに
吐息をつく、
良人の
不審を
立つれば、
何うも
心惡う
御座んすからとて
食もようは
喰べられず、
晝寢がちに
氣不精に
成りて、
次第に
顏の
色の
青きを、一
向きに
病氣とばかり
思ひぬれば、
與四
郎限りもなく
傷ましくて、
醫者にかゝれの、
藥を
呑めのと
悋氣は
忘れて
此事に
心を
盡しぬ。
されどもお
美尾が
病氣はお
目出度かた
成き、三四
月の
頃より
夫れとは
定かに
成りて、いつしか
梅の
實落る
五月雨の
頃にも
成れば、
隣近處の
人々よりおめで
度う
御座りますと
明らかに
言はれて、
折から
少し
暑くるしくとも
半天のぬがれぬ
恥かしさ、
與四
郎は
珍らしく
嬉しきを、
夢かとばかり
辿られて、
此十
月が
當る
月とあるを、
人には
言はれねども
指をる
思ひ、
男にてもあれかしと
敢果なき
事を
占なひて、
表面は
無情つくれども、
子安のお
守り
何くれと、
人より
聞きて
來た
事を
其まゝ、
不案内の
男の
身なれば
間違ひだらけ
取添へて、
美尾が
母に
萬端を
頼めば、お
前さんより
私の
方が
少し
功者さ、と
參られて、
成るほど
成るほどと
口を
噤みぬ。
月給の八
圓はまだ
昇給の
沙汰も
無し、
此上小兒が
生れて
物入りが
嵩んで、
人手が
入るやうに
成つたら、お
前がたが
何とする、
美尾は
虚弱の
身體なり、
良人を
助けて
手内職といふも六ツかしかるべく、三
人居縮んで
乞食のやうな
活計をするも、
餘り
賞めた
事では
無し、
何なりと
口を
見つけて、
今の
内から
心がけ
最う
少しお
金になる
職業に
取かへずば、
行々お
前がたの
身の
振かたは
無く、
第一
子を
育つる
事もなるまじ、
美尾は
私が
一人娘、やるからには
私が
終りも
見て
貰ひたく、
贅澤を
言ふのでは
無けれど、お
寺參りの
小遣ひ
位、
出しても
貰はう、
上げませうの
約束でよこしたのなれども、
元來くれられぬは
横着ならで、
何うでも
爲る
事のならぬ
活地の
無さ
故、
夫れは
思ひ
絶つて
私は
私の
口を
濡らすだけに、
此年をして
人樣の
口入れやら
手傳ひやら、
老耻ながらも
詮の
無き
世を
經まする、
左れども
當て
無しに
苦勞は
出來ぬもの、つく/″\お
前夫婦の
働きを
見るに、
私の
手足が
働かぬ
時に
成りて
何分のお
世話をお
頼み
申さねば
成らぬ
曉、
月給八
圓で
何う
成らう、
夫れを
思ふと
今のうち
覺悟を
極めて、
少しは
互ひに
愁らき
事なりとも
當分夫婦別れして、
美尾は
子ぐるめ
私の
手に
預り、お
前さんは
獨身に
成りて、
官員さまのみには
限らず、
草鞋を
履いてなりとも一
廉の
働きをして、
人並の
世の
過ごされる
樣に
心かけたが
宜からうでは
無いか、
美尾は
私が
娘なれば
私の
思ふやうに
成らぬ
事は
有るまじ、
何もお
前さんの
思案一つと
母親お
美尾の
産前よりかけて、
萬づの
世話にと
此家へ
入り
込みつゝ、
兎もすれば
與四
郎を
責めるに、
齒ぎしりするほど
腹立しく、
此老婆はり
仆すに
事は
無けれど、
唯ならぬ
身の
美尾が
心痛、
引いては
子にまで
及ぼすべき
大事と
胸をさすりて、
私とても
男子の
端で
御座りますれば、
女房子位過ぐされぬ
事も
御座りますまいし、一
生は
長う
御座ります。
墓へ
這入るまで八
圓の
月給では
有るまいと
思ひますに、
其邊格別の
御心配なくと
見事に
言へば、
母親はまだらに
殘る
黒き
齒を
出して、
成るほど/\
宜く
立派に
聞えました、
左樣いふて
呉れねば
嬉しう
無い、
流石は
男一
疋、その
位の
考は
持つて
居て
呉れるであらう、
成るほど
成るほどと
面白くも
無い
默頭やうを
爲る
憎くさ、
美尾は
母さん
其やうな
事は
言ふて
下さりますな、
家の
人の
機嫌そこなうても
困りますと
迂路/\するに、
與四
郎は
心おごりて、
馬鹿婆めが、
何のやうに
引割かうとすればとて、
美尾は
我が
物、
親の
指圖なればとて
別れる
樣な
薄情にて
有るべきや、
殊更今より
可愛き
物さへ
出來んに
二人が
中は
萬々歳、
天の
原ふみとゞろかし
鳴神かと
高々と
止まれば、
母を
眼下に
視下して、
放れぬ
物に
我れ
一人さだめぬ。
十
月中の五
日、
與四
郎が
退出間近に
安らかに
女の
子生れぬ、
男と
願ひし
夫れには
違へども、
可愛さは
何處に
變りのあるべき、やれお
歸りかと
母親出むかふて、
流石に
初孫の
嬉しきは、
頬のあたりの
皺にもしるく、これ
見て
下され、
何と
好い
子では
無いか、
此まあ
赤い
事と
指つけられて、
今更ながらまご/\と
嬉しく、
手をさし
出すもいさゝか
恥かしければ、
毋親に
抱かせたるまゝさし
覗いて
見るに、
誰れに
似たるか
彼れに
似しか、
其差別も
思ひ
分ねども、
何とは
知らず
怪しう
可愛くて、
其啼く
聲は
昨日まで
隣の
家に
聞きたるのと
同じ
物には
思はれず、さしも
危ふく
思ひし
事の
左りとは
事なしに
終りしかと
重荷の
下りたるやうにも
覺ゆれば、
産婦の
樣子いかにやと
覗いて
見るに、
高枕にかゝりて
鉢卷にみだれ
髮の
姿、
傷ましきまで
疲れたれど
其美くしさは
神々しき
樣に
成りぬ。
七
夜の、
枕直しの、
宮參りの、
唯あわたゞしうて
過ぎぬ、
子の
名は
紙へ
書きつけて
産土神の
前に
神鬮の
樣にして
引けば、
常盤のまつ、たけ、
蓬莱の、つる、かめ、
夫れ
等は
探ぐりも
當てずして、
與四
郎が
假の
筆ずさびに、
此樣な
名も
呼よい
物と
書いて
入れたる
町といふをば
引出しぬ、
女は
容貌の
好きにこそ
諸人の
愛を
受けて
果報この
上も
無き
物なれ、
小野の
夫れならねどお
町は
美くしい
名と
家内いさみて、
町や、
町や、と
手から
手へ
渡りぬ。
お
町は
高笑ひするやうに
成りて、
時は
新玉の
春に
成りぬ、お
美尾は
日々に
安からぬ
面もち、
折には
涕にくるゝ
事もあるを、
血の
道の
故と
自身いへば、
與四
郎は
左のみに
物も
疑はず、
只この
子の
成長ならん
事をのみ
語りて、
例の
洋服すがた
美事ならぬ
勤めに、
手辨當さげて
昨日も
今日も
出ぬ。
お
美尾の
母は
東京の
住居も
物うく、はした
無き
朝夕を
送るに
飽きたれば、一つはお
前樣がたの
世話をも
省くべき
爲、つね/″\
御懇命うけましたる
從三
位の
軍人樣の、
西の
京に
御榮轉の
事ありて、お
邸彼方へ
建築られしを
幸ひ、
處の
女中頭として
勤めは
生涯のつもり、
老らくをも
養ふて
給はるべき
約束さだまりたれば、
最う
此地には
居ませぬ、
又來る
事があらば一
泊はさせて
下され、その
外の
御厄介には
成りませぬと
言ふに、
與四
郎は
左りとも
一人の
母親なれば、
美尾が
心細さも
思ひやりて、お
前も
御老年のこと、いかに
勤めよきとても、
他人塲の
奉公といふ
事させましては、
子たる
我々が
申譯の
言葉なし、
是非に
止まり
給へと
言へども、いや/\
其樣の
事はお
前樣出世の
曉にいふて
下され、
今は
聞ませぬとて
孤身の
風呂敷づゝみ、
谷中の
家は
貸家の
札はられて、
舟路ゆたかに
彼の
地へと
向ひぬ。
越えて一ト
月、
雲黒く
月くらき
夕べ、
與四
郎は
居殘りの
調べ
物ありて、
家に
歸りしは
日くれの八
時、
例は
薄くらき
洋燈のもとに
風車犬張子取ちらして、まだ
母親の
名も
似合ぬ
美尾が
懷おしくつろげ、
小兒に
添へ
乳の
美くしきさま
見るべきを、
格子の
外より
伺ふに
燈火ぼんやりとして
障子に
映[#ルビの「うる」はママ]るかげも
無し、お
美尾お
美尾と
呼ながら
入るに、
答へは
隣の
方に
聞えて、
今參りますと
言ふ
句は
似たれど
言葉は
有らぬ
人なりき。
隣の
妻の
入來るを
見るに、
懷には
町を
抱きたり、
與四
郎胸さわぎのして、
美尾は
何處へ
參りました、
此日暮れに
燈火をつけ
放しで、
買物にでも
行きましたかと
問へば、
隣の
妻は
眉を
寄せて、さあ
其事で
御座んすとて、
睡り
覺めたる
懷中の
町がくすりくすりと
嘩泣るを、おゝ
好い
子好い
子と、ゆすぶつて
言葉絶えぬ。
燈火は
私が
唯今點けたので
御座んす、
誠は
今までお
留守居をして
居ましだ
[#「居ましだ」はママ]のなれど、
家のやんちやが六ツかしやを
言ふに
小言いふとて
明けました、
御親造は
今日の
晝前、
通りまで
買物に
行つて
來まする、
歸りまで
此子の
世話をお
頼みと
仰しやつて、
唯しばらくの
事と
思ひしに、二
時になれども三
時はうてども、
音も
無くて
今まで
影の
見えられぬは、
何處まで
物買ひにお
出なされしやら、
留守たのまれまして
日の
暮れし
程心づかひな
物は
無し、まあ
何うなされたので
御座んしよな、と
問ひかけられて、それは
我れより
尋ねたき
思ひ、
平常着のまゝで
御座りましたかと
問へば、はあ
羽織だけ
替えて
行かれたやうで
御座んす、
何か
持つて
行ましたか、いゑ
其やうには
覺えませぬと
有るに、はてなと
腕の
組まれて、
此遲くまで
何處にと
覺束なし。
無器用なお
前樣が
此子いぢくる
譯にも
行くまじ、お
歸りに
成るまで
私が
乳を
上げませうと、
有さまを
見かねて、
隣の
妻の
子を
抱いて
行くに、
何分お
頼み
申ますと
言ひながら、
美尾の
行衞に
心を
取られてお
町が
事はうはの
空に
成ぬ。
よもや、よもや、と
思へども、
晴れぬ
不審は
疑ひの
雲に
成りて、
唯一ト
棹の
箪笥の
引出しより、
柳行李の
低はかと
無く
調べて、もし
其跡の
見ゆるかと
探ぐるに、
塵一はしの
置塲も
變らず、つね/″\
寳のやうに
大事がりて、
身につく
物の
隨一
好き
成りし
手綱染の
帶あげも
其まゝに
有けり、いつも
小遣ひの
入れ
塲處なる
鏡臺の
引出しを
明けて
見るに、これは
何とせし
事ぞ
手の
切れるやうな
新紙幣をばかり、
其數およそ二十も
重ねて
上に一
通、
與四
郎は
見るより
仰天の
思ひに
成りて、
胸は
大波の
立つ
如く、
扨こそ
子細は
有けれと
狂ふて、
其文開けば
唯一ト
言、
美尾は
死にたる
物に
御座候、
行衞をお
求め
下さるまじく、
此金は
町に
乳の
粉をとの
願ひに
御座候。
與四
郎は
忽ち
顏の
色青く
赤く、
唇を
震はせて
惡婆、と
※[#「口+斗」、U+544C、16-14]びしが、
怒氣心頭に
起つて、
身よりは
黒烟りの
立つ
如く、
紙幣も
文も
寸斷/\に
裂いて
捨てゝ、
直然と
立しさま
人見なば
如何なりけん。
浮世の
欲を
金に
集めて、十五
年がほどの
足掻きかたとては、
人には
赤鬼と
仇名を
負せられて、五十に
足らぬ
生涯のほどを
死灰のやうに
終りたる、それが
餘波の
幾万金、
今の
玉村恭助ぬしは、
其與四
郎が
聟なりけり。
彼の
人あれ
程の
身にて
人の
性[#「性」はママ]をば
名告らずともと
誹りしも
有けれど、
心安う
志す
道に
走つて、
内を
顧みる
疚しさの
無きは、これ
皆養父が
賜物ぞかし、されば
奧方の
町子おのづから
寵愛の
手の
平に
乘つて、
強ち
良人を
侮るとなけれども、
舅姑おはしまして
萬づ
窮屈に
堅くるしき
嫁御寮の
身と
異なり、
見たしと
思はゞ
替り
目毎の
芝居行きも
誰れかは
苦情を
申べき、
花見、
月見に
旦那さま
催し
立てゝ、
共に
連らぬる
袖を
樂しみ、お
歸りの
遲き
時は
何處までも
電話をかけて、
夜は
更くるとも
寐給はず、
餘りに
戀しう
懷かしき
折は
自ら
少しは
恥かしき
思ひ、
如何なる
故ともしるに
難けれど、
且那さま
在しまさぬ
時は
心細さ
堪へがたう、
兄とも
親とも
頼母しき
方に
思はれぬ。
左りながら
折ふし
地方遊説などゝて三
月半年のお
留守もあり、
湯治塲あるきの
夫れと
異なれば、
此時には
甘ゆる
事もならで、
唯徒らの
御文通、
互ひの
封のうち
人には
見せられぬ
事多かるべし。
此御中に
何とてお
子の
無き、
相添ひて十
年餘り、
夢にも
左樣の
氣色はなくて、
清水堂のお
木偶さま
幾度空しき
願ひに
成けん、
旦那さま
淋しき
餘りに
貰ひ
子せばやと
仰しやるなれども、
奧さまの
好み六づかしけれど、
是れも
御縁は
無くて
過ぎゆく、
落葉の
霜の
朝な/\
深くて、
吹く
風いとゞ
身に
寒く、
時雨の
宵は
女子ども
炬燵の
間に
集めて、
浮世物がたりに
小説のうわさ、ざれたる
婢女は
輕口の
落しばなしして、お
氣に
入る
時は
御褒賞の
何や
彼や、
人に
物を
遣り
給ふ
事は
幼少よりの
蕩樂にて、これを
父親二もなく
憂がりし、一ト
口に
言はゞ
機嫌かちの
質なりや、一ト
言心に
染まる
事のあれば
跡先も
無く
其者可愛ゆう、
車夫の
茂助が
一人子の
與太郎に、
此新年旦那さま
召おろしの
斜子の
羽織を
遣はされしも
深くの
理由は
無き
事なり、
假初の
愚痴に
新年着の
御座りませぬよし
大方に
申せしを、
頓て
憐みての
賜り
物、
茂助は
天地に
拜して、
人は
鷹の
羽の
定紋いたづらに
目をつけぬ、
何事も
無くて
奧樣、
書生の
千葉が
寒かるべきを
思しやり、
物縫ひの
仲といふに
命令て、
仰せければ
背くによし
無く、
少しは
投やりの
氣味にて
有りし、
飛白の
綿入れ
羽織ときの
間に
仕立させ、
彼の
明る
夜は
着せ
給ふに、
千葉は
御恩のあたゝかく、
口に
數々のお
禮は
言はねども、
氣の
弱き
男なれば
涙さへさしぐまれて、
仲働きの
福に
頼みてお
禮しかるべくと
言ひたるに、
渡り
者の
口車よく
廻りて、
斯樣/\しか/″\で、
千葉は
貴孃泣いて
居りますと
言上すれば、おゝ
可愛い
男と
奧樣御贔負の
増りて、お
心づけのほど
今までよりはいとゞしう
成りぬ。
十一
月の二十八
日は
旦那さまお
誕生日なりければ、
年毎お
友達の
方々招き
參らせて、
坐の
周旋はそんじよ
夫れ
者の
美くしきを
撰りぬき、
珍味佳肴に
打とけの
大愉快を
盡させ
給へば、
髭むしやの
鳥居さまが
口から、
逢ふた
初手から
可愛さがと
恐れ
入るやうな
御詞をうかゞふのも、
例の
澤木さまが
落人の
梅川を
遊して、お
前の
父さん
孫いもんさむとお
國元を
顯はし
給ふも
皆この
折の
隱し
藝なり、されば
派手者の
奧さま
此日を
晴れにして、
新調の三
枚着に
今歳の
流行を
知らしめ
給ふ、
世は
冬なれど
陽春三
月のおもかげ、
落り
過ぎたる
紅葉に
庭は
淋しけれど、
垣の
山茶花折しり
顏に
匂ひて、
松の
緑のこまやかに、
醉ひすゝまぬ
人なき
日なりける。
今歳は
別きてお
客樣の
數多く、
午後三
時よりとの
招待状一つも
空しう
成りしは
無くて、
暮れ
過ぐるほどの
賑ひは
坐敷に
溢れて
茶室の
隅へ
逃るゝもあり、二
階の
手摺りに
洋服のお
輕女郎、
目鏡が
中だと
笑はるゝもありき、
町子はいとゞ
方々の
持はやし
五月蠅く、
奧さん
奧さんと
御盃の
雨の
降るに、
御免遊ばせ、
私は
能う
頂きませぬほどにと
盃洗の
水に
流して、さりとも一
盞二
盞は
逃れがたければ、いつしか
耳の
根あつう
成りて、
胸の
動悸のくるしう
成るに、
外づしては
濟まねども
人しらぬうちにと
庭へ
出でゝ
池の
石橋を
渡つて
築山の
背後の、お
稻荷さまが
社前なるお
賽錢箱へ
假初に
腰をかけぬ。
此家は
町子が十二の
歳、
父の
與四
郎低當[#「低當」はママ]ながれに
取りて、
夫れより
修膳は
加へたれども、
水の
流れ、
山のたゝずまい、
松の
木がらし
小高き
聲も
唯その
昔のまゝ
成けり、
町子は
醉ごゝち
夢のごとく
頭をかへして
背後を
見るに、
雲間の
月のほの
明るく、
社前の
鈴のふりたるさま、
紅白の
綱ながく
垂れて
古鏡の
光り
神さびたるもみゆ、
夜あらしさつと
喜連格子に
音づるれば、
人なきに
鈴の
音からんとして、
幣束の
紙ゆらぐも
淋し。
町子は
俄かに
物のおそろしく、
立あがつて二
足三
足、
母屋の
方へ
歸らんと
爲たりしが、
引止められるやうに
立止まつて、
此度は
狛犬の
臺石に
寄かゝり、
木の
間もれ
來る
坐敷の
騷[#ルビの「わさ」はママ]ぎを
遙かに
聞いて、あゝあの
聲は
旦那樣、三
味線は
小梅さうな、いつの
間に
彼のやうな
意氣な
洒落ものに
成り
給ひし、
由斷のならぬと
思ふと
共に、
心細き
事堪えがたう
成りて、
締つけられるやうな
苦るしさは、
胸の
中の
何處とも
無く
沸き
出ぬ。
良久しうありて
奧さま
大方醉も
覺めぬれば、
萬におのが
亂るゝ
怪しき
心を
我れと
叱りて、
歸れば
盃盤狼藉の
有さま、
人々が
迎ひの
車門前に
綺羅星とならびて、
何某樣お
立ちの
聲にぎはしく、
散會の
後は
時雨に
成りぬ。
恭助は
太く
疲れて
禮服ぬぎも
敢へず
横に
成るを、あれ
貴郎お
召物だけはお
替へ
遊ばせ、
夫れではいけませぬと
羽織をぬがせて、
帶をも
奧さま
手づから
解きて、
糸織のなへたるにふらんねるを
重ねし
寐間着の
小袖めさせかへ、いざ
御就蓐と
手をとりて
助ければ、
何其樣に
醉ふては
居ないと
仰しやつて、
滄浪ながら
寐間へと
入給ふ。
奧さま
火のもとの
用心をと
言ひ
渡し、
誰れも
彼れも
寐よと
仰しやつて、
同じう
寐間へは
入給へど、
何故となう
安からぬ
思ひのありて、
言はねども
面持の
唯ならぬを、
且那さま
半睡の
目に
御覽じて、
何故寐ぬか、
何を
考へて
居るぞと
尋ね
給ふに、
奧さま
何とお
返事の
聞かせ
參らする
事もあらねど、
唯々不思議な
心地が
致しまする、
何う
致したので
御座りませう、
私にも
分りませぬと
言へば、
旦那さま
笑つて、
餘り
心を
遣ひ
過ぎた
結果であらう、
氣さへ
落つければ
直ぐ
癒る
筈と
仰しやるに、
否それでも
私は
言ふに
言はれぬ
淋しい
心地がするので
御座ります、
餘り
先刻みな
樣のお
強い
遊ばすが
五月蠅さに、
一人庭へと
逃げまして、お
稻荷さまのお
社の
所で
醉ひを
覺まして
居りましたに、
私は
變な
變な、をかしい
事を
思ひよりまして、
笑つて
下さりますな、
何うも
何とも
言はれぬ
氣持に
成ました、
貴郎には
笑はれて、
叱かられる
樣な
事で
御座りましよと
下を
向いて
在するに、
見れば
涙の
露の
玉、
膝にこぼれて
怪しう
思はれぬ。
奧さまは
例に
似合ず
沈みに
沈んで、
私は
貴君に
捨てられは
爲ぬかと
存じまして、
夫れで
此樣に
淋しう
思ひますると
言ひ
出れば、
又かと
且那さま
無造作に
笑つて、
誰れが
何を
言ふたか、
一人で
考へたか、
其樣なつまらぬ
事の
有る
筈は
無い、お
前の
思ふて
呉れるほど
世間は
我しを
思ふて
呉れぬから、まあ
安心して
居るが
宜いと
子細も
無い
事に
言ひ
捨つれば、
夫れでも
私は
其やうな
悋氣沙汰で
申のでは
御座りませぬ、
今日の
會席の
賑かに、
種々の
方々御出の
中に
誰れとて
世間に
名の
聞えぬも
無く、
此やうのお
人達みな
貴郎さまの
御友達かと
思ひますれば、
嬉しさ
胸の
中におさへがたく、
蔭ながら
拜んで
居ても
宜いほどの
辱さなれど、つく/″\
我が
身の
上を
思ひまするに、
貴郎はこれより
彌ます/\の
御出世を
遊して、
世の
中廣うなれば
次第に
御器量まし
給ふ、
今宵小梅が三
味に
合せて
勸進帳の一くさり、
悋氣では
無けれど
彼れほどの
御修業つみしも
知らで、
何時も
昔しの
貴郎とおもひ、
淺き
心の
底はかと
無く
知られまする
内、
御厭はしさの
種も
交るべし、
限りも
知れず
廣き
世に
立ちては
耳さへ
目[#ルビの「こ」はママ]さへ
肥え
給ふ
道理、
有限だけの
家の
内に
朝夕物おもひの
苦も
知らで、
唯ぼんやりと
過しまする
身の、
遂ひには
倦かれまするやうに
成りて、
悲しかるべき
事今おもふても
愁らし、
私は
貴郎のほかに
頼母しき
親兄弟も
無し、
有りてから
父の
與四
郎在世のさまは
知り
給ふ
如く、
私をば
母親似の
面ざし
見るに
肝の
種とて
寄せつけも
致されず、
朝夕さびしうて
暮しましたるを、
嬉しき
縁にて
今斯く
私が
我まゝをも
免し
給ひ、
思ふ
事なき
今日此頃、それは
勿體ないほどの
有難さも、
萬一身にそぐなはぬ
事ならばと
案じられまして、
此事をおもふに
今宵の
淋しき
事、
居ても
起ちてもあられぬほどの
情なさより、
言ふてはならぬと
存じましたれど、
遂ひ
此樣に
申上て
仕舞ました、
夫れは
孰れも
取止めの
無き
取こし
苦勞で
御座りませうけれど、
何うでも
此樣な
氣のするを
何としたら
宜う
御座りますか、
唯々心ぼそう
御座りますとて
打なくに、
旦那さま
愚痴の
僻見の
跡先なき
事なるを
思召、
悋氣よりぞと
可笑しくも有ける。
我れと
我が
身に
持て
腦みて
奧さま
不覺に
打まどひぬ、
此明くれの
空の
色は、
晴れたる
時も
曇れる
如く、
日の
色身にしみて
怪しき
思ひあり、
時雨ふる
夜の
風の
音は
人來て
扉をたゝくに
似て、
淋しきまゝに
琴取出し
獨り
好みの
曲を
奏でるに、
我れと
我が
調哀れに
成りて、いかにするとも
彈くに
得堪えず、
涙ふりこぼして
押やりぬ。ある
時は
婦女どもに
凝る
肩をたゝかせて、
心うかれる
樣な
戀[#ルビの「こゑ」はママ]のはなしなどさせて
聞くに、
人は
腮のはづるゝ
可笑しさとて
笑ひ
轉ける
樣な
埒のなきさへ、
身には一々
哀れにて、
我れも
思ひの
燃ゆるに
似たり、一
夜仲働きの
福こゑを
改めて、
言はねば
人の
知らぬ
事、いふて
私の
徳にも
成らぬを、
無言にいられませぬは
饒舌の
癖、お
聞きに
成つても
知らぬ
顏に
居て
下さりませ、
此處にをかしき一
條の
物がたりと
少し
乘地に
聲をはづますれば。
夫れは
何ぞや。お
聞なされませ
書生の
千葉が
初戀の
哀れ、
國もとに
居りました
時そと
見初めたが
御座りましたさうな、
田舍物の
事なれば
鎌を
腰へさして
藁草履で、
手拭ひに
草束ねを
包んでと
思召ませうが、
中々左樣では
御座りませぬ
美くしいにて、
村長の
妹といふやうな
人ださうで
御座ります、
小學校へ
通ふうちに
淺からず
思ひましてと
言へば、
夫れは
何方からと
小間使ひの
米口を
出すに、
默つてお
聞、
無論千葉さんの
方からさとあるに、おやあの
無骨さんがとて
笑ひ
出すに、
奧樣苦笑ひして
可憐さうに
失敗の
昔し
話しを
探り
出したのかと
仰しやれば、いゑ
中々其やうに
遠方の
事ばかりでは
御座りませぬ、
未だ
追々にと
衣紋を
突いて
咳拂ひすれば、
小間使ひ
少し
顏を
赤くして
似合頃の
身の
上、
惡口の
福が
何を
言ひ
出すやらと
尻目に
眺めば、
夫れに
構はず
唇を
甞めて、まあお
聞遊ばせ、
千葉が
其子を
見初ましてからの
事、
朝學校へ
行まする
時は
必ず
其家の
窓下を
過ぎて、
聲がするか、
最う
行つたか、
見たい、
聞たい、
話したい、
種々の
事を
思ふたと
思し
召せ、
學校にては
物も
言ひましたろ、
顏も
見ましたろ、
夫れだけでは
面白う
無うて
心いられのするに、
日曜の
時は
其家の
前の
川へ
必らず
釣をしに
行きましたさうな、
鮒やたなごは
宜い
迷惑な、
釣るほどに
釣るほどに、
夕日が
西へ
落ちても
歸るが
惜しく、
其子出て
來よ
殘り
無くお
魚を
遣つて、
喜ぶ
顏を
見たいとでも
思ふたので
御座りましよ、あゝは
見えますれど
彼れで
中々の
苦勞人といふに、
夫れはまあ
幾歳のとし
其戀出來てかと
奧樣おつしやれば、
當てゝ
御覽あそばせ
先方は
村長の
妹、
此方は
水計めし
上るお
百姓、
雲にかけ
橋、
霞に
千鳥などゝ
奇麗事では
間に
合ひませぬほどに、
手短かに
申さうなら
提燈に
釣鐘、
大分其處に
隔てが
御座りまするけれど、
戀に
上下の
無い
物なれば、まあ
出來たと
思しめしますか、お
米どん
何とゝ
題を
出されて、
何か
言はせて
笑ふつもりと
惡推をすれば、
私は
知らぬと
横を
向く、
奧樣少し
打笑ひ、
成り
立たねばこそ
今日の
身であろ、
其樣なが
萬一あるなら、あの
打かぶりの
亂れ
髮、
洒落氣なしでは
居られぬ
筈、
勉強家にしたは
其自狂からかと
仰しやるに、
中々もちまして
彼男が
貴孃自狂など
起すやうな
男で
御座りましよか、
無常を
悟つたので
御座りますと
言ふに、そんなら
其子は
亡くなつてか、
可憐さうなと
奧さま
憐がり
給ふ、
福は
得意に、
此戀いふも
言はぬも
御座りませぬ、
子供の
事なれば
心にばかり
思ふて、
表向きには
何とも
無い
月日を
大凡どの
位送つた
物で
御座んすか、
今の
千葉が
樣子を
御覽じても、
彼れの
子供の
時ならばと
大底にお
合點が
行ましよ、
病氣して
煩つて、お
寺の
物に
成ましたを、
其後何と
思へばとて
答へる
物は
松の
風で、
何うも
仕方が
無からうでは
御座んせぬか、さて
夫からが
本文で
御座んすとて
笑ふに、
福が
能い
加減なこしらへ
言、
似つこらしい
嘘を
言ふと
奧さま
爪はじき
遊ばせば、あれ
何しに
嘘を
申ませう、
左りながらこれをお
耳に
入れたといふと
少し
私が
困りの
筋、これは
當人の
口から
聞いたので
御座りますと
言へば、
嘘をお
言ひ、
彼男が
何うして
其樣な
事を
言はふ、よし
有つてからが、
苦い
顏でおし
默つて
居るべき
筈、いよ/\の
嘘と
仰しやれば、さても
情ない
事その
樣に
私の
事を
信仰して
下[#ルビの「くた」はママ]さりませぬは、
昨日の
朝千葉が
私を
呼びまして、
奧樣が
此四五
日御すぐれ
無い
樣に
見上げられる、
何うぞ
遊してかと
如何にも
心配らしく
申ますので、
奧樣はお
血の
故で
折ふし
鬱ぎ
症にもお
成り
遊すし
眞實お
惡い
時は
暗い
處で
泣いて
居らつしやるがお
持前と
言ふたらば、
何んなにか
貴孃吃驚致しまして、
飛んでも
無い
事、それは
大層な
神經質で、
惡るくすると
取かへしの
付かぬ
事になると
申まして、
夫れで
其時申ました、
私が
郷里の
幼な
友達に
是れ/\
斯う
言ふ
娘が
有つて、
肝もちの、はつきりとして、
此邸の
奧樣に
何うも
能く
似て
居た
人で
有つた、
繼母で
有つたので
平常の
我慢が
大底ではなく、
積つて
病死した
可憐な
子と
何れ
彼の
男の
事で
御座りますから、
眞面目な
顏であり/\を
言ひましたを、
私がはぎ
合せて
考へると
今申た
樣な
事に
成るので
御座ります、
其子に
奧樣が
似ていらつしやると
申たのは
夫れは
嘘では
御座りませぬけれど、
露顯しますと
彼男に
私が
叱られます、
御存じないお
積りでと
舌を
廻して、たゝき
立る
太皷の
音さりとは
賑はしう
聞え
渡りぬ。
今歳も
今日十二
月の十五
日、
世間おしつまりて
人の
往來大路にいそがはしく、お
出人の
町人お
歳暮持參するものお
勝手に
賑々しく、
急ぎたる
家には
餠つきのおとさへ
聞ゆるに、
此邸にては
煤取の
笹の
葉座敷にこぼれて、
冷めし
草履こゝかしこの
廊下に
散みだれ、お
雜巾かけまする
物、お
疊たゝく
物、
家内の
調度になひ
廻るも
有れば、お
振舞の
酒に
醉ふて、これが
荷物に
成るもあり、
御懇命うけまするお
出入の
人々お
手傳お
手傳ひとて
五月蠅きを
半は
斷りて
集まりし
人だけに
瓶のぞきの
手ぬぐひ、それ、と
切つて
分け
給へば、一
同手に
手に
打冠り、
姉さま
唐茄子、
頬かふり、
吉原かふりをするも
有り、
且那さま
朝よりお
留守にて、お
指圖し
給ふ
奧さまの
風を
見れば、
小褄かた
手に
友仙の
長襦袢下に
長く、
赤き
鼻緒の
麻裏を
召て、あれよ、これよと
仰せらる、一しきり
終りての
午後、お
茶ぐわし
山と
擔ぎ
込めば
大皿の
鐵砲まき
分捕次第と
沙汰ありて、
奧樣は
暫時のほど二
階の
小間に
氣づかれを
休め
給ふ、
血の
道のつよき
人なれば
胸ぐるしさ
堪えがたうて、
枕に
小抱卷仮初にふし
給ひしを、
小間づかひの
米よりほか、
絶えて
知る
者あらざりき。
奧さまとろ/\としてお
目覺れば、
枕もとの
縁がはに
男女の
話し
聲さのみ
憚かる
景色も
無く、
此宿の
旦的の、
奧洲のと、
車宿の二
階で
言ふやうなるは、
奧さま
此處にと
夢にも
人は
思はぬなるべし。
一方は
仲働の
福のこゑ、
叮嚀に
叮嚀にと
仰しやるけれど、一
日業に
何うして
左樣は
行渡らりよう、
隅々隈々やつて
居てお
溜りが
有らうかえ、
目に
立つ
處をざつと
働いて、あとは
何れも
野となれさ、
夫れで
丁度能い
加※[#「冫+咸」、U+51CF、24-12]に
疲れて
仕舞、そんなにお
前正直で
務る
物かと
嘲笑ふやうに
言へば、
大きにさといふ、
相手は
茂助がもとの
安五
郎がこゑなり、
正直といえば
此處の
旦的が一
件物、
飯田町のお
波が
事を
知つてかと
問ひかけるに、お
福は百
年も
前からと
言はぬばかりにして、
夫れを
御存じの
無いは
此處の
奧樣お一
方、
知らぬは
亭主の
反對だね、まだ
私は
見た
事は
無いが、
色の
淺黒い
面長で、
品が
好いといふでは
無いか、お
前は
親方の
代りにお
供を
申すこともある、
拜んだ
事が
有るかと
問へば、
見た
段か
格子戸に
鈴の
音がすると
坊ちやんが
先立で
驅け
出して
來る、
續いて
顯はれるが
例物さ、
髮の
毛自慢の
櫛卷で、
薄化粧のあつさり
物、
半襟つきの
前だれ
掛とくだけて、おや
貴郎と
言ふだらうでは
無いか、すると
此處のがでれりと
御座つて、
久しう
無沙汰をした、
免るせ、かなんかで、
入口の
敷居に
腰をかける、
例のが
驅け
下りて
靴をぬがせる、
見とも
無いほど
睦ましいと
言ふは
彼れの
事、
旦那が
奧へ
通ると
小戻りして、お
供さん
御苦勞、これで
烟草でも
買つてと
言つて、
夫れ
鼻藥の
出る
次第さ、あれがお
前[#ルビの「まへ」の「へ」は底本では左に九十度傾いている]素人だから
感心だと
賞めるに、
素人も
素人、
生無垢の
娘あがりだと
言ふでは
無いか、
旦那とは十
何年の
中で、
坊ちやんが
歳もことしは
十歳か十一には
成う、
都合の
惡るいは
此處の
家には
一人も
子寳が
無うて、
彼方に
立派の
男の
子といふ
物だから、
行々を
考へるとお
氣の
毒なは
此處の
奧さま、
何うも
是れも
授り
物だからと
一人が
言ふに、
仕方が
無い、十
分先の
大旦那がしぼり
取つた
身上だから、
人の
物に
成ると
言つても
理屈は
有るまい、だけれどお
前、
不正直は
此處の
旦那で
有らうと
言ふに、
男は
皆あんな
物、
氣が
多いからとお
福の
笑ひ
出すに、
惡く
當つ
擦りなさる、
耳が
痛いでは
無いか、
己れは
斯う
見えても
不義理と
土用干は
仕た
事の
無い
人間だ、
女房をだまくらかして
妾の
處へ
注ぎ
込む
樣な
不人情は
仕度ても
出來ない、あれ
丈腹の
太い
豪いのでは
有らうが、
考へると
此處の
旦那も
鬼の
性さ、二
代つゞきて
彌々根が
張らうと、
聞人なげに
遠慮なき
高聲、
福も
相槌例の
調子に、もう一ト
働きやつて
除けよう、
安さんは
下廻りを
頼みます、
私はも一
度此處を
拭いて、
今度はお
藏だとて、
雜巾がけしつ/\と
始めれば、
奧さまは
唯この
隔てを
命にして、
明けずに
去ねかし、
顏みらるゝ
事愁らやと
思しぬ。
十六
日の
朝ぼらけ
昨日の
掃除のあと
清き、
納戸めきたる六
疊の
間に、
置炬燵して
旦那さま
奧さま
差向ひ、
今朝の
新聞おし
開きつゝ、
政界の
事、
文界の
事、
語るに
答へもつきなからず、
他處目うら
山しう
見えて、
面白げ
成しが、
旦那さま
好き
頃と
見はからひの
御積りなるべく、
年來足らぬ
事なき
家に
子の
無きをばかり
口惜しく、
其方に
有らば
重疊の
喜びなれど
萬一いよ/\
出來ぬ
物ならば、
今より
貰うて
心に
任せし
教育をしたらばと
是れを
明くれ
心がくれども、
未だに
良きも
見當らず、
年たてば
我れも
初老の四十の
坂、じみなる
事を
言ふやうなれども
家の
根つぎの
極まらざるは
何かにつけて
心細く、
此ほど
中の
其方のやうに、
淋しい
淋しいの
言ひづめも
爲では
有られぬやうな
事あるべし、
幸ひ
海軍の
鳥居が
知人の
子に
素性も
惡るからで
利發に
生れつきたる
男の
子あるよし、
其方に
異存なければ
其れを
貰ふて
丹精したらばと
思はるゝ、
悉皆の
引受けは
鳥居がして、
里かたにも
彼の
家にて
成るよし、
年は十一、
容貌はよいさうなと
言ふに、
奧さま
顏をあげて
旦那の
面樣いかにと
覘ひしが、
成程それは
宜い
思し
召より、
私にかれこれは
御座りませぬ、
宜いと
覺しめさばお
取極め
下さりませ、
此家は
貴郎のお
家で
御座りまする
物、
何となり
思しめしのまゝにと
安らかには
言ひながら、
萬一その
子にて
有りたらばと
無情おもひ、おのづから
顏色に
顯はるれば、
何取いそぐ
事でも
無い、よく
思案して
氣に
叶ふたらば
其時の
事、あまり
氣を
欝々として
病氣でもしては
成らんから、
少しは
慰めにもと
思ふたのなれど、
夫れも
餘り
輕卒の
事、
人形や
雛では
無し、
人一人翫弄物にする
譯には
行くまじ、
出來そこねたとて
塵塚の
隅へ
捨てられぬ、
家の
礎に
貰ふのなれば、
今一
應聞定めもし、
取調べても
見た
上の
事、
唯この
頃の
樣に
欝いで
居たら
身體の
爲に
成るまいと
思はれる、これは
急がぬ
事として、ちと
寄席きゝにでも
行つたら
何うか、
播摩が
近い
處へかゝつて
居る、
今夜は
何うであらう
行かんかなと
機嫌を
取り
給ふに、
貴郎は
何故そんな
優しらしい
事を
仰しやります、
私は
决して
其やうな
事は
伺ひたいと
思ひませぬ、
欝ぐ
時は
鬱がせて
置いて
下され、
笑ふ
時は
笑ひますから、
心任かせにして
置いて
下されと、
言ひて
流石打つけには
恨みも
言ひ
敢へず、
心に
籠めて
愁はしけの
體にてあるを、
良人は
淺からず
氣にかけて、
何故その
樣な
捨てばるは
言ふぞ、
此間から
何かと
奧齒に
物の
挾まりて一々
心にかゝる
事多し、
人には
取違へもある
物、
何をか
下心に
含んで
隱しだてゞは
無いか、
此間の
小梅の
事、あれでは
無いかな、
夫れならば
大間違ひの
上なし、
何の
氣も
無い
事だに
心配は
無用、
小梅は
八木田が
年來の
持物で、
人には
指をもさゝしはせぬ、ことには
彼の
痩せがれ、
花は
疾くに
散つて
紫蘇葉につゝまれようと
言ふ
物だに、
何れほどの
物好きなれば
手出しを
仕樣ぞ、
邪推も
大底にして
置いて
呉れ、あの
事ならば
清淨無垢、
潔白な
者だと
微笑[#ルビの「びよう」はママ]を
含んで
口髭を
捻らせ
給ふ。
飯田町の
格子戸は
音にも
知らじと
思召、
是れが
備へは
立てもせず、
防禦の
策は
取らざりき。
さま/″\
物をおもひ
給へば、
奧樣時々[#ルビの「とき/\」はママ]お
癪の
起る
癖つきて、はげしき
時は
仰向に
仆れて、
今にも
絶え
入るばかりの
苦るしみ、
始は
皮下注射など
醫者の
手をも
待ちけれど、
日毎夜毎に
度かさなれば、
力ある
手につよく
押へて、一
時を
兎角まぎらはす
事なり、
男ならでは
甲斐のなきに、
其事あれば
夜といはず
夜中と
言はず、やがて
千葉をば
呼立てゝ、
反かへる
背を
押へさするに、
無骨一
遍律義男の
身を
忘れての
介抱人の
目にあやしく、しのびやかの

き
頓て
無沙汰に
成るぞかし、
隱れの
方の六
疊をば
人奧樣の
癪部屋と
名付けて、
亂行あさましきやうに
取なせば、
見る
目がらかや
此間の
事いぶかしう、
更に
霜夜の
御憐れみ、
羽織の
事さへ
取添へて、
仰々しくも
成ぬるかな、あとなき
風も
騷ぐ
世に
忍ぶが
原の
虫の
聲、
露ほどの
事あらはれて、
奧樣いとゞ
憂き
身に
成りぬ。
中働きの
福かねてあら/\
心組みの、
奧樣お
着下しの
本結城、あれこそは
我が
物の
頼み
空しう、いろ/\
千葉の
厄介に
成たればとて、これを
新年着に
仕立てゝ
遣はされし、
其恨み
骨髓に
徹りてそれよりの
見る
目横にか
逆にか、
女髮結の
留を
捉らへて
珍事唯今出來の
顏つきに、
例の
口車くる/\とやれば、
此電信の
何處までかゝりて、一
町毎に
風説は
太りけん、いつしか
恭助ぬしが
耳に
入れば、
安からぬ
事に
胸さわがれぬ、
家つきならずは
施すべき
道もあれども、
浮世の
聞え、これを
別居と
引離つこと、
如何にもしのびぬ
思ひあり、さりとて
此まゝさし
置かんに、
内政のみだれ
世の
攻撃の
種に
成りて、
淺からぬ
難義現在の
身の
上にかゝれば、いかさまに
爲ばやと
持てなやみぬ、
我まゝも
其まゝ、
氣隨も
其まゝ、
何かはことごとして
咎めだてなどなさんやは、
金村が
妻と
立ちて、
世に
耻かしき
事なからずはと
覺せども、さし
置がたき
沙汰とにかくに
暄しく、
親しき
友など
打つれての
勸告に、
今日は
今日はと
思ひ
立ちながら、
猶其事に
及ばずして
過行く、
年立かへる
朝より、
松の
内過ぎなばと
思ひ、
松とり
捨つれば十五
日ばかりの
程にはとおもふ、
二十日も
過ぎて一
月空しく、二
月は
梅にも
心の
急がれず、
來る
月は
小學校の
定期試驗とて
飯田町のかたに、
笑みかたまけて
急ぎ
合へるを、
見れども
心は
樂しからず、
家のさま、
町子の
上、いかさまにせん、と
斗おもふ、
谷中に
知人の
家を
買ひて、
調度萬端おさめさせ、
此處へと
思ふに
町子が
生涯あはれなる
事いふはかりなく、
暗涙にくれては
我が
身が
不徳を
思しゝる
筋なきにあらねど、
今はと
思ひ
斷ちて四
月のはじめつ
方、
浮世は
花に
春の
雨ふる
夜、
別居の
旨をいひ
渡しぬ。
かねてぞ
千葉は
放たれぬ。
汨羅の
屈原ならざれば、
恨みは
何とかこつべき、
大川の
水清からぬ
名を
負ひて、
永代よりの
汽船に
乘込みの
歸國姿、まさしう
見たりと
言ふ
物ありし。
* * * * * *
* * * * *
憂かりしはその
夜のさまなり、
車の
用意何くれと
調へさせて
後、いふべき
事あり
此方へと
良人のいふに、
今さら
恐ろしうて
書齋の
外にいたれば、
今宵より
其方は
谷中へ
移るべきぞ、
此家をば
家とおもふべからず、
立歸らるゝ
物と
思ふな、
罪はおのづから
知りたるべし、はや
立て、とあるに、
夫れは
餘りのお
言葉、
我に
惡き
事あらば
何とて
小言は
言ひ
給はぬ、
出しぬけの
仰せは
聞ませぬとて
[#「聞ませぬとて」はママ]泣くを、
恭助振向いて
見んともせず、
理由あればこそ、
人並ならぬ
事ともなせ、一々の
罪状いひ
立んは
憂かるべし、
車の
用意もなしてあり、
唯のり
移るばかりと
言ひて、つと
立ちて
部やの
外へ
出給ふを、
追ひすがりて
袖をとれば、
放さぬか
不埒者と
振切るを、お
前樣どうでも
左樣なさるので
御座んするか、
私を
浮世の
捨て
物になさりまするお
氣か、
私は
一人もの、
世には
助くる
人も
無し、
此小さき
身すて
給ふに
仔細はあるまじ、
美事すてゝ
此家を
君の
物にし
給ふお
氣か、
取りて
見給へ、
我れをば
捨てゝ
御覽ぜよ、一
念が
御座りまするとて、はたと
白睨むを、
突のけてあとをも
見ず、
町、もう
逢はぬぞ。

完

底本:「文藝倶樂部 第二卷第六編」博文館
1896(明治29)年5月10日
初出:「文藝倶樂部 第二卷第六編」博文館
1896(明治29)年5月10日
※初出時の署名は、「樋口一葉女」です。
※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。
※「母」と「毋」、「加減」と「加[#「冫+咸」、U+51CF]」、「欝」と「鬱」、「手傳ひ」と「手傳」の混在は、底本通りです。
※「與四郎」の「與」に対するルビの「よ」と「よし」、「男」に対するルビの「をとこ」と「おとこ」、「女房」に対するルビの「にようぼ」と「にようぼう」、「可愛さ」に対するルビの「かわい」と「かはゆ」の混在は、底本通りです。
入力:万波通彦
校正:Juki
2019年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「冫+咸」、U+51CF
|
|
5-14、24-12 |
「竹かんむり/匝」、U+2B079
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9-5 |
「口+斗」、U+544C
|
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16-14 |
「冫+咸」
|
|
U+51CF |