おい木村さん
信さん寄つてお
出よ、お寄りといつたら寄つても
宜いではないか、又素通りで
二葉やへ行く気だらう、
押かけて
行つて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにお
湯なら帰りにきつとよつておくれよ、
嘘つ
吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて
馴染らしき
突かけ下駄の男をとらへて
小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら
後刻に後刻にと
行過るあとを、
一寸舌打しながら見送つて
後にも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて
閾をまたぎながら
一人言をいへば、
高ちやん
大分御述懐だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい
焼棒杭と
何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで
呪でもして待つが
宜いさと慰めるやうな
朋輩の
口振、
力ちやんと違つて
私しには
技倆が無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か、何たら事だ面白くもないと
肝癪まぎれに
店前へ腰をかけて
駒下駄のうしろでとんとんと土間を
蹴るは二十の上を七つか十か
引眉毛に作り
生際、
白粉べつたりとつけて
唇は人喰ふ犬の
如く、かくては
紅も
厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の
背恰好すらりつとして洗ひ髪の
大嶋田に新わらのさわやかさ、
頸もとばかりの白粉も
栄えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに
乳のあたりまで胸くつろげて、
烟草すぱすぱ
長烟管に
立膝の
無沙法さも
咎める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる
大形の
裕衣に
引かけ帯は
黒繻子と何やらのまがひ物、
緋の
平ぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり、お
高といへるは洋銀の
簪で天神がへしの
髷の下を
掻きながら思ひ出したやうに力ちやん
先刻の手紙お出しかといふ、はあと気のない返事をして、どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つてゐるに、
大底におしよ巻紙
二尋も書いて二枚切手の
大封じがお愛想で出来る物かな、そしてあの人は赤坂
以来の馴染ではないか、少しやそつとの
紛雑があろうとも縁切れになつてたまる物か、お前の出かた一つでどうでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら
宜かろ、あんまり
冥利がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして
私はどうもあんな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前などはその我ままが通るから豪勢さ、この身になつては仕方がないと
団扇を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし
可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。
店は二
間間口の二階作り、軒には御神燈さげて
盛り
塩景気よく、
空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処もみゆ、勝手元には七輪を
煽ぐ音折々に騒がしく、
女主が手づから寄せ
鍋茶椀むし位はなるも
道理、表にかかげし看板を見れば子細らしく
御料理とぞしたためける、さりとて仕出し頼みに
行たらば何とかいふらん、
俄に
今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商売がらを心得て口取り
焼肴とあつらへに来る田舎ものもあらざりき、お力といふはこの
家の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まま至極の身の振舞、少し
容貌の自慢かと思へば
小面が憎くいと
蔭口いふ朋輩もありけれど、
交際ては存の
外やさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、ああ心とて仕方のないもの
面ざしが
何処となく
冴へて見へるはあの子の本性が現はれるのであらう、
誰しも
新開へ
這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの
娘のお蔭で新開の光りが添はつた、
抱へ
主は神棚へささげて置いても
宜いとて軒並びの
羨やみ
種になりぬ。
お高は
往来の人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて気にしてもゐまいけれど、私は身につまされて
源さんの事が思はれる、それは今の身分に落ぶれては根つから宜いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年が
違をが子があろがさ、ねへさうではないか、お
内儀さんがあるといつて別れられる物かね、
搆ふ事はない呼出してお
遣り、私しのなぞといつたら野郎が根から心替りがして顔を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうで
諦め物で別口へかかるのだがお前のはそれとは違ふ、
了簡一つでは今のお
内儀さんに
三下り
半をも遣られるのだけれど、お前は気位が高いから源さんと
一処にならうとは思ふまい、それだもの
猶の事呼ぶ分に子細があるものか、手紙をお書き今に三河やの御用聞きが来るだろうからあの子僧に使ひやさんを
為せるが
宜い、
何の人お嬢様ではあるまいし御遠慮ばかり
申てなる物かな、お前は思ひ切りが宜すぎるからいけないともかく手紙をやつて御覧、源さんも可愛さうだわなと言ひながらお力を見れば烟管掃除に余念のなきか
俯向たるまま物いはず。
やがて
雁首を奇麗に
拭いて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら気をつけておくれ店先で言はれると人聞きが悪いではないか、菊の井のお力は土方の手伝ひを
情夫に持つなどと
考違へをされてもならない、それは昔しの夢がたりさ、何の今は忘れてしまつて
源とも七とも思ひ出されぬ、もうその話しは
止め止めといひながら立あがる時表を通る
兵児帯の一むれ、これ石川さん村岡さんお力の店をお忘れなされたかと呼べば、いや相変らず豪傑の声がかり、素通りもなるまいとてずつと這入るに、
忽ち廊下にばたばたといふ足おと、
姉さんお銚子と声をかければ、お肴は何をと答ふ、
三味の
音景気よく聞えて乱舞の足音これよりぞ聞え
初ぬ。
さる雨の日のつれづれに表を通る山高帽子の三十男、あれなりと
捉らずんばこの降りに客の足とまるまじとお力かけ出して
袂にすがり、どうでも遣りませぬと駄々をこねれば、
容貌よき身の一徳、例になき子細らしきお客を呼入れて二階の六畳に
三味線なしのしめやかなる物語、年を問はれて名を問はれてその次は親もとの調べ、士族かといへばそれは言はれませぬといふ、平民かと問へばどうござんしようかと答ふ、そんなら華族と笑ひながら聞くに、まあさうおもふてゐて下され、お華族の
姫様が手づからのお酌、かたじけなく御受けなされとて波々とつぐに、さりとは
無左法な置つぎといふが有る物か、それは小笠原か、何流ぞといふに、お力流とて菊の井一家の左法、畳に酒のまする
流気もあれば、
大平の
蓋であほらする流気もあり、いやなお人にはお酌をせぬといふが大詰めの
極りでござんすとて
臆したるさまもなきに、客はいよいよ面白がりて履歴をはなして聞かせよ定めて
凄ましい物語があるに相違なし、
唯の娘あがりとは思はれぬどうだとあるに、御覧なさりませ
未だ
鬢の間に角も生へませず、そのやうに甲羅は経ませぬとてころころと笑ふを、さうぬけてはいけぬ、真実の処を話して聞かせよ、素性が言へずは目的でもいへとて責める、むづかしうござんすね、いふたら
貴君びつくりなさりましよ天下を望む
大伴の
黒主とは
私が事とていよいよ笑ふに、これはどうもならぬそのやうに
茶利ばかり言はで少し
真実の処を聞かしてくれ、いかに
朝夕を嘘の中に送るからとてちつとは誠も交る
筈、
良人はあつたか、それとも親
故かと
真に成つて聞かれるにお力かなしく成りて、私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする、親は早くになくなつて今は
真実の手と足ばかり、こんな者なれど女房に持たうといふて下さるも無いではなけれど
未だ良人をば持ませぬ、どうで下品に育ちました身なればこんな事して終るのでござんしよと投出したやうな
詞に無量の感があふれてあだなる姿の浮気らしきに似ず一
節さむろう様子のみゆるに、何も下品に育つたからとて良人の持てぬ事はあるまい、
殊にお前のやうな
別品さむではあり、一
足とびに
玉の
輿にも乗れさうなもの、それともそのやうな奥様あつかひ虫が好かでやはり
伝法肌の三尺帯が気に入るかなと問へば、どうで
其処らが
落でござりましよ、
此方で思ふやうなは先様が
嫌なり、来いといつて下さるお人の気に入るもなし、浮気のやうに
思召ましようがその日送りでござんすといふ、いやさうは言はさぬ相手のない事はあるまい、今店先で
誰れやらがよろしく言ふたと
他の女が
言伝たでは無いか、いづれ面白い事があらう何とだといふに、ああ
貴君もいたり
穿索なさります、馴染はざら一面、手紙のやりとりは
反古の取かへツこ、書けと
仰しやれば起証でも誓紙でもお好み次第さし上ませう、
女夫やくそくなどと言つても
此方で破るよりは
先方様の性根なし、主人もちなら主人が
怕く親もちなら親の言ひなり、振向ひて見てくれねば
此方も追ひかけて袖を捉らへるに及ばず、それなら
廃せとてそれぎりに成りまする、相手はいくらもあれども一生を頼む人が無いのでござんすとて寄る辺なげなる
風情、もうこんな話しは廃しにして陽気にお遊びなさりまし、私は何も沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騒ぎぬかうと思ひますとて手を
扣いて朋輩を呼べば力ちやん大分おしめやかだねと三十女の厚化粧が来るに、おいこの
娘の可愛い人は何といふ名だと
突然に問はれて、はあ私はまだお名前を承りませんでしたといふ、嘘をいふと盆が来るに
焔魔様へお参りが出来まいぞと笑へば、それだとつて貴君今日お目にかかつたばかりでは御坐りませんか、今改めて伺ひに出やうとしてゐましたといふ、それは何の事だ、貴君のお名をさと揚げられて、馬鹿々々お力が怒るぞと大景気、無駄ばなしの取りやりに調子づいて旦那のお商売を当て見ませうかとお高がいふ、
何分願ひますと手のひらを差出せば、いゑそれには及びませぬ人相で見まするとて
如何にも
落つきたる顔つき、よせよせじつと眺められて棚おろしでも始まつてはたまらぬ、かう見えても僕は官員だといふ、嘘を仰しやれ日曜のほかに遊んであるく官員様があります物か、力ちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ではいらつしやらないよと鼻の先で言つて分つた人に
御褒賞だと
懐中から紙入れを
出せば、お力笑ひながら高ちやん失礼をいつてはならないこのお方は
御大身の御華族様おしのびあるきの御遊興さ、何の商売などがおありなさらう、そんなのでは無いと言ひながら
蒲団の上に乗せて置きし紙入れを取あげて、お
相方の高尾にこれをばお預けなされまし、みなの者に祝義でも
遣はしませうとて答へも聞かずずんずんと
引出すを、客は柱に寄かかつて眺めながら小言もいはず、諸事おまかせ申すと寛大の人なり。
お高はあきれて力ちやん大底におしよといへども、何
宜いのさ、これはお前にこれは姉さんに、大きいので帳場の払ひを取つて残りは
一同にやつても宜いと仰しやる、お礼を
申て頂いてお出でと
蒔散らせば、これをこの
娘の十八番に馴れたる事とてさのみは遠慮もいふてはゐず、旦那よろしいのでございますかと駄目を押して、有がたうございますと
掻きさらつて行くうしろ姿、十九にしては
更けてるねと旦那どの笑ひ出すに、人の悪るい事を仰しやるとてお力は
起つて障子を明け、
手摺りに寄つて頭痛をたたくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、
此品さへ頂けば何よりと帯の間から客の名刺をとり出して頂くまねをすれば、
何時の間に引出した、お取かへには写真をくれとねだる、この次の土曜日に来て下されば御一処にうつしませうとて帰りかかる客をさのみは止めもせず、うしろに廻りて羽織をきせながら、今日は失礼を致しました、またのお
出を待ますといふ、おい程の宜い事をいふまいぞ、
空誓文は御免だと笑ひながらさつさつと立つて
階段を下りるに、お力帽子を手にして
後から追ひすがり、嘘か誠か九十九
夜の辛棒をなさりませ、菊の井のお力は
鋳型に入つた女でござんせぬ、又
形のかはる事もありまするといふ、旦那お帰りと聞て朋輩の女、帳場の
女主もかけ出して唯今は有がたうと同音の御礼、頼んで置いた車が
来しとて
此処からして乗り出せば、
家中表へ送り出してお出を待まするの愛想、御祝義の
余光としられて、
後には力ちやん大明神様これにも有がたうの御礼山々。
客は
結城朝之助とて、自ら道楽ものとは名のれども
実体なる処折々に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈強なる年頃なればにやこれを初めに一週には二三度の通ひ
路、お力も
何処となく
懐かしく思ふかして三日見えねば
文をやるほどの様子を、
朋輩の
女子ども岡焼ながら
弄かひては、力ちやんお楽しみであらうね、
男振はよし気前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない、その時はお前の事を奥様とでもいふのであらうに今つから少し気をつけて足を出したり
湯呑であほるだけは
廃めにおし人がらが悪いやねと言ふもあり、源さんが聞たらどうだらう気違ひになるかも知れないとて
冷評もあり、ああ馬車にのつて来る時都合が悪るいから道普請からして
貰いたいね、こんな
溝板のがたつく様な店先へそれこそ人がらが
悪くて横づけにもされないではないか、お前方ももう少しお行義を直してお給仕に出られるやう心がけておくれとずばずばといふに、ヱヱ憎くらしいそのものいひを少し直さずは奥様らしく聞へまい、結城さんが来たら思ふさまいふて、小言をいはせて見せようとて朝之助の顔を見るよりこんな事を申てゐまする、どうしても私共の手にのらぬ
やんちやなれば
貴君から
叱つて下され、第一湯呑みで呑むは毒でござりましよと
告口するに、結城は真面目になりてお力酒だけは少しひかへろとの厳命、ああ貴君のやうにもないお力が無理にも商売してゐられるはこの
力と思し召さぬか、私に
酒気が離れたら坐敷は
三昧堂のやうに成りませう、ちつと察して下されといふに成程々々とて結城は二
言といはざりき。
或る夜の月に
下坐敷へは何処やらの工場の一
連れ、
丼たたいて
甚九かつぽれの大騒ぎに大方の
女子は寄集まつて、例の二階の小坐敷には結城とお力の二人ぎりなり、朝之助は寝ころんで愉快らしく話しを仕かけるを、お力はうるささうに生返事をして何やらん考へてゐる様子、どうかしたか、又頭痛でもはじまつたかと聞かれて、何頭痛も何もしませぬけれど
頻に持病が起つたのですといふ、お前の持病は
肝癪か、いいゑ、血の道か、いいゑ、それでは何だと聞かれて、どうも言ふ事は出来ませぬ、でも
他の人ではなし僕ではないかどんな事でも言ふて宜さそうなもの、まあ何の病気だといふに、病気ではござんせぬ、唯こんな風になつてこんな事を思ふのですといふ、困つた人だな
種々秘密があると見える、お
父さんはと聞けば言はれませぬといふ、お
母さんはと問へばそれも同じく、これまでの履歴はといふに貴君には言はれぬといふ、まあ
嘘でも
宜いさよしんば作り言にしろ、かういふ身の
不幸だとか大底の
女はいはねばならぬ、しかも一度や二度あふのではなしその位の事を発表しても子細はなからう、よし口に出して言はなからうともお前に思ふ事がある位めくら
按摩に探ぐらせても知れた事、聞かずとも知れてゐるが、それをば聞くのだ、どつち道同じ事だから持病といふのを先きに聞きたいといふ、およしなさいまし、お聞きになつてもつまらぬ事でござんすとてお力は更に取あはず。
折から下坐敷より杯盤を運びきし女の何やらお力に耳打してともかくも下までお
出よといふ、いや行きたくないからよしておくれ、今夜はお客が大変に酔ひましたからお目にかかつたとてお話しも出来ませぬと断つておくれ、ああ困つた人だねと
眉を寄せるに、お前それでも
宜いのかへ、はあ宜いのさとて
膝の上で
撥を
弄べば、女は不思議さうに立つてゆくを客は聞すまして笑ひながら御遠慮には及ばない、
逢つて来たら宜からう、何もそんなに体裁には及ばぬではないか、可愛い人を
素戻しもひどからう、追ひかけて逢ふが宜い、何なら此処へでも呼び給へ、片隅へ寄つて話しの邪魔はすまいからといふに、
串談はぬきにして結城さん貴君に隠くしたとて仕方がないから
申ますが町内で少しは
巾もあつた蒲団やの源七といふ人、久しい
馴染でござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さな
家にまいまいつぶろの様になつていまする、
女房もあり子供もあり、私がやうな者に逢ひに来る
歳ではなけれど、縁があるか
未だに折ふし何のかのといつて、今も下坐敷へ来たのでござんせう、何も今さら突出すといふ訳ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らず
障らず帰した方が好いのでござんす、恨まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて、撥を畳に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかと
嬲る、ああもう帰つたと見えますとて
茫然としてゐるに、持病といふのはそれかと切込まれて、まあそんな処でござんせう、お医者様でも草津の湯でもと
薄淋しく笑つてゐるに、御本尊を拝みたいな
俳優で行つたら誰れの処だといへば、見たら
吃驚でござりませう色の黒い背の高い不動さまの名代といふ、では心意気かと問はれて、こんな店で
身上はたくほどの人、人の
好いばかり取得とては皆無でござんす、面白くも
可笑しくも何ともない人といふに、それにお前はどうして
逆上せた、これは聞き処と客は起かへる、大方
逆上性なのでござんせう、貴君の事をもこの頃は夢に見ない
夜はござんせぬ、奥様のお出来なされた処を見たり、ぴつたりと御出のとまつた処を見たり、まだまだ
一層かなしい夢を見て
枕紙がびつしよりに成つた事もござんす、高ちやんなぞは夜る
寐るからとても枕を取るよりはやく
鼾の声たかく、
宜い心持らしいがどんなに
浦山しうござんせう、私はどんな疲れた時でも床へ
這入ると目が
冴へてそれはそれは色々の事を思ひます、貴君は私に思ふ事があるだらうと察してゐて下さるから嬉しいけれど、よもや私が何をおもふかそれこそはお分りに成りますまい、考へたとて仕方がない
故人前ばかりの大陽気、菊の井のお力は
行ぬけの締りなしだ、苦労といふ事はしるまいと言ふお客様もござります、ほんに因果とでもいふものか私が身位かなしい者はあるまいと思ひますとて
潜然とするに、珍らしい事陰気のはなしを聞かせられる、慰めたいにも
本末をしらぬから
方がつかぬ、夢に見てくれるほど
実があらば奥様にしてくれろ位いひそうな物だに根つからお声がかりも無いはどういふ物だ、古風に出るが
袖ふり合ふもさ、こんな商売を
嫌だと思ふなら遠慮なく打明けばなしを
為るが宜い、僕は又お前のやうな気では
寧気楽だとかいふ考へで浮いて渡る事かと思つたに、それでは何か理屈があつて
止むを得ずといふ次第か、苦しからずは承りたい物だといふに、貴君には聞いて頂かうとこの間から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、
何故々々、何故でもいけませぬ、私が我まま故、
申まいと思ふ時はどうしても嫌やでござんすとて、ついと立つて
椽がはへ
出るに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町に
からころと
駒下駄の音さして
行かふ人のかげ
分明なり、結城さんと呼ぶに、何だとて
傍へゆけば、まあ此処へお座りなさいと手を取りて、あの水菓子屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛らしき四つばかりの、
彼子が
先刻の人のでござんす、あの小さな
子心にもよくよく憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあそんな悪者に見えまするかとて、空を見あげてホツと息をつくさま、
堪へかねたる様子は五
音の調子にあらはれぬ。
同じ新開の町はづれに八百屋と
髪結床が
庇合のやうな細露路、雨が降る日は傘もさされぬ窮屈さに、足もととては
処々に
溝板の落し穴あやふげなるを中にして、両側に立てたる
棟割長屋、突当りの
芥溜わきに
九尺二
間の
上り
框朽ちて、雨戸はいつも不用心のたてつけ、さすがに
一方口にはあらで山の手の
仕合は三尺ばかりの椽の先に草ぼうぼうの空地面、それが
端を少し囲つて
青紫蘇、ゑぞ菊、隠元豆の
蔓などを竹のあら垣に
搦ませたるがお力が処縁の源七が家なり、女房はお
初といひて二十八か九にもなるべし、貧にやつれたれば七つも年の多く見えて、お
歯黒はまだらに生へ次第の
眉毛みるかげもなく、洗ひざらしの
鳴海の
裕衣を前と後を切りかへて膝のあたりは目立ぬやうに小針のつぎ当、
狭帯きりりと締めて
蝉表の内職、盆前よりかけて暑さの時分をこれが時よと大汗になりての勉強せはしなく、
揃へたる
籘を天井から釣下げて、しばしの手数も省かんとて数のあがるを楽しみに
脇目もふらぬ様あはれなり。もう日が暮れたに
太吉は何故かへつて来ぬ、源さんも又
何処を歩いてゐるかしらんとて仕事を片づけて一服吸つけ、苦労らしく目をぱちつかせて、更に
土瓶の下を
穿くり、蚊いぶし火鉢に火を取分けて三尺の椽に
持出し、拾ひ集めの杉の葉を
冠せてふうふうと
吹立れば、ふすふすと
烟たちのぼりて
軒場にのがれる蚊の声
悽まじし、太吉はがたがたと溝板の音をさせて
母さん今戻つた、お
父さんも連れて来たよと
門口から
呼立るに、大層おそいではないかお寺の山へでも
行はしないかとどの位案じたらう、早くお
這入といふに太吉を先に立てて源七は元気なくぬつと上る、おやお前さんお帰りか、今日はどんなに暑かつたでせう、定めて帰りが早からうと思うて行水を沸かして置ました、ざつと汗を流したらどうでござんす、太吉もお
湯に這入なといへば、あいと言つて帯を解く、お待お待、今加減を見てやるとて流しもとに
盥を据へて
釜の湯を
汲出し、かき廻して
手拭を入れて、さあお前さんこの子をもいれて遣つて下され、何をぐたりと
為てお
出なさる、暑さにでも障りはしませぬか、さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳あがれ、太吉が待つてゐますからといふに、おおさうだと思ひ出したやうに帯を解いて流しへ下りれば、そぞろに昔しの我身が思はれて九尺二間の台処で行水つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方の手伝ひして車の
跡押にと親は
生つけても下さるまじ、ああつまらぬ夢を見たばかりにと、ぢつと身にしみて湯もつかはねば、
父ちやん
脊中洗つておくれと太吉は無心に催促する、お前さん蚊が喰ひますから
早々とお上りなされと妻も気をつくるに、おいおいと返事しながら太吉にも遣はせ我れも浴びて、上にあがれば洗ひ
晒せしさばさばの裕衣を出して、お着かへなさいましと言ふ、帯まきつけて風の
透く処へゆけば、妻は
能代の膳のはげかかりて足はよろめく古物に、お前の好きな
冷奴にしましたとて
小丼に豆腐を浮かせて青紫蘇の
香たかく持出せば、太吉は
何時しか台より
飯櫃取おろして、
よつちよいよつちよい[#「よつちよいよつちよい」は底本では「よつちよいよつちよい」]と
担ぎ出す、坊主は
我れが
傍に来いとて
頭を
撫でつつ
箸を取るに、心は何を思ふとなけれど舌に覚えの無くて
咽の穴はれたる
如く、もう
止めにするとて
茶椀を置けば、そんな事があります物か、
力業をする人が三膳の御飯のたべられぬと言ふ事はなし、気合ひでも悪うござんすか、それとも
酷く疲れてかと問ふ、いや何処も何とも無いやうなれど
唯たべる気にならぬといふに、妻は悲しさうな目をしてお前さん又例のが起りましたらう、それは菊の井の
鉢肴は
甘くもありましたらうけれど、今の身分で思ひ出した処が何となりまする、先は売物買物お金さへ出来たら昔しのやうに可愛がつてもくれませう、表を通つて見ても知れる、
白粉つけて
美い
衣類きて迷ふて来る人を
誰れかれなしに丸めるがあの人達が商売、ああ
我れが貧乏に成つたから
搆いつけてくれぬなと思へば何の事なく
済ましよう、恨みにでも思ふだけがお前さんが未練でござんす、裏町の酒屋の若い者知つてお
出なさらう、二葉やのお
角に
心から落込んで、かけ先を残らず使ひ込み、それを埋めやうとて
雷神虎が
盆筵の
端についたが身の詰り、次第に悪るい事が
染みて
終ひには土蔵やぶりまでしたさうな、
当時男は監獄入りして
もつそう飯たべていやうけれど、相手のお角は平気なもの、おもしろ
可笑しく世を渡るに
咎める人なく
美事繁昌してゐまする、あれを思ふに商売人の一徳、だまされたは
此方の罪、考へたとて始まる事ではござんせぬ、それよりは気を取直して
稼業に精を出して少しの元手も
拵へるやうに心がけて下され、お前に弱られては私もこの子もどうする事もならで、それこそ路頭に迷はねば成りませぬ、男らしく思ひ切る時あきらめてお金さへ出来ようならお力はおろか
小紫でも
揚巻でも別荘こしらへて囲うたら宜うござりましよう、もうそんな考へ事は
止めにして機嫌よく御膳あがつて下され、坊主までが陰気らしう沈んでしまいましたといふに、みれば茶椀と箸を
其処に置いて父と母との顔をば見くらべて何とは知らず気になる様子、こんな可愛い者さへあるに、あのやうな
狸の忘れられぬは何の因果かと胸の中かき廻されるやうなるに、我れながら未練ものめと
叱りつけて、いや
我れだとてその様に
何時までも馬鹿ではいぬ、お力などと名ばかりもいつてくれるな、いはれると
以前の
不出来しを考へ出していよいよ顔があげられぬ、何のこの身になつて今更何をおもふ物か、
食がくへぬとてもそれは
身体の加減であらう、何も格別案じてくれるには及ばぬ故小僧も十分にやつてくれとて、ころりと横になつて胸のあたりをはたはたと打あふぐ、
蚊遣の
烟にむせばぬまでも思ひにもえて身の暑げなり。
誰れ
白鬼とは名をつけし、
無間地獄のそこはかとなく景色づくり、何処にからくりのあるとも見えねど、逆さ落しの血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出でよと甘へる声も蛇くふ
雉子と恐ろしくなりぬ、さりとも胎内
十月の同じ事して、母の乳房にすがりし頃は
手打々々あわわの可愛げに、
紙幣と菓子との二つ取りにはおこしをおくれと手を出したる物なれば、今の稼業に誠はなくとも百人の中の一人に真からの涙をこぼして、聞いておくれ染物やの
辰さんが事を、
昨日も川田やが店でおちやつぴいのお六めと
悪戯まわして、見たくもない往来へまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた
了簡で末が遂げられやうか、まあ
幾歳だとおもふ三十は
一昨年、
宜い加減に
家でも拵へる
仕覚をしておくれと
逢ふ度に異見をするが、その時限りおいおいと
空返事して根つから気にも止めてはくれぬ、
父さんは年をとつて、
母さんと言ふは目の悪るい人だから心配をさせないやうに早く締つてくれれば
宜いが、
私はこれでもあの人の
半纒をば洗濯して、
股引のほころびでも縫つて見たいと思つてゐるに、あんな浮いた心では何時引取つてくれるだらう、考へるとつくづく奉公が
嫌やになつてお客を呼ぶに張合もない、ああくさくさするとて常は人をも
欺す口で人の
愁らきを恨みの言葉、頭痛を押へて思案に暮れるもあり、ああ今日は盆の十六日だ、お
焔魔様へのお参りに連れ立つて通る子供達の奇麗な着物きて
小遣ひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定めて定めて二人
揃つて
甲斐性のある親をば持つてゐるのであろ、私が息子の
与太郎は今日の休みに御主人から暇が出て何処へ
行つてどんな事して遊ばうとも定めし人が
羨しかろ、
父さんは
呑ぬけ、いまだに宿とても定まるまじく、母はこんな身になつて恥かしい紅白粉、よし居処が分つたとてあの子は逢ひに来てもくれまじ、去年
向島の花見の時女房づくりして
丸髷に結つて
朋輩と共に遊びあるきしに土手の茶屋であの子に逢つて、これこれと声をかけしにさへ私の若く
成しに
呆れて、お
母さんでござりますかと驚きし様子、ましてやこの大島田に折ふしは
時好の
花簪さしひらめかしてお客を
捉らへて
串談いふ処を聞かば子心には悲しくも思ふべし、去年あひたる時今は
駒形の
蝋燭やに奉公してゐまする、私はどんな
愁らき事ありとも必らず辛抱しとげて一人前の男になり、
父さんをもお前をも今に楽をばお
為せ申ます、どうぞそれまで何なりと
堅気の事をして一人で世渡りをしてゐて下され、人の女房にだけはならずにゐて下されと異見を言はれしが、悲しきは
女子の身の
寸燐の箱はりして
一人口過しがたく、さりとて人の台処を這ふも柔弱の
身体なれば勤めがたくて、同じ
憂き中にも身の楽なれば、こんな事して日を送る、夢さら浮いた心では無けれど
言甲斐のないお袋とあの子は定めし
爪はじきするであらう、常は何とも思はぬ島田が今日ばかりは恥かしいと夕ぐれの鏡の前に
涕ぐむもあるべし、菊の井のお力とても悪魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこそ
此処の流れに落こんで
嘘のありたけ串談にその日を送つて、
情は
吉野紙の薄物に、
蛍の光ぴつかりとするばかり、人の涕は百年も我まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまと
脇を向くつらさ
他処目も養ひつらめ、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたたまつて、泣くにも人目を恥れば二階座敷の床の間に身を
投ふして忍び
音の憂き涕、これをば友朋輩にも
洩らさじと包むに
根生のしつかりした、気のつよい子といふ者はあれど、障れば絶ゆる
蛛の糸のはかない処を知る人はなかりき、七月十六日の
夜は何処の店にも
客人入込みて
都々一端歌の景気よく、菊の井の
下座敷にはお
店者五六人寄集まりて調子の外れし
紀伊の
国、自まんも恐ろしき
胴間声に
霞の
衣衣紋坂と気取るもあり、力ちやんはどうした心意気を聞かせないか、やつたやつたと責められるに、お名はささねどこの坐の中にと
普通の嬉しがらせを言つて、やんややんやと喜ばれる中から、我恋は
細谷川の丸木橋わたるにや
怕し渡らねばと
謳ひかけしが、何をか思ひ出したやうにああ私は
一寸無礼をします、御免なさいよとて
三味線を置いて立つに、何処へゆく何処へゆく、逃げてはならないと坐中の騒ぐに
照ちやん高さん少し頼むよ、
直き帰るからとてずつと廊下へ急ぎ足に
出しが、何をも見かへらず店口から下駄を履いて筋向ふの横町の
闇へ姿をかくしぬ。
お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに
唐天竺の果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない
処へ
行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、
何時まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて
暫時そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい、
父さんも踏かへして落ておしまいなされ、
祖父さんも同じ事であつたといふ、どうで幾代もの恨みを
背負て出た私なれば
為るだけの事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても
誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商売がらを嫌ふかと一ト口に言はれてしまう、ゑゑどうなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずかそんな事も思ふまい、思ふたとてどうなる物ぞ、こんな身でこんな
業体で、こんな
宿世で、どうしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦労するだけ間違ひであろ、ああ陰気らしい何だとてこんな処に立つてゐるのか、何しにこんな
処へ出て来たのか、馬鹿らしい気違じみた、我身ながら分らぬ、もうもう
皈りませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる
小路を気まぎらしにとぶらぶら歩るけば、行かよふ人の顔小さく小さく擦れ違ふ人の顔さへも
遥とほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがりゐる
如く、がやがやといふ声は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の声は、人の声、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも気のまぎれる物なく、
人立おびただしき
夫婦あらそひの
軒先などを過ぐるとも、
唯我れのみは
広野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、気にかかる景色にも覚えぬは、我れながら
酷く
逆上て人心のないのにと
覚束なく、気が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何処へ行くとて肩を打つ人あり。
十六日は必らず待まする来て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城の朝之助に
不図出合て、あれと驚きし顔つきの例に似合ぬ
狼狽かたがをかしきとて、からからと男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いてゐたれば不意のやうに
惶ててしまいました、よく今夜は来て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは
不心中とせめられるに、何なりと
仰しやれ、言訳は
後にしまするとて手を取りて引けば弥次馬がうるさいと気をつける、どうなり勝手に言はせませう、
此方は此方と
人中を分けて伴ひぬ。
下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力の中座をしたるに
不興して
喧しかりし折から、店口にておやお
皈りかの声を聞くより、客を置ざりに中坐するといふ法があるか、皈つたらば此処へ来い、顔を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので
御酒の相手は出来ませぬ、大勢の中に居れば御酒の
香に酔ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んでその
後は知らず、今は御免なさりませと断りを言ふてやるに、それで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のお
店ものの
白瓜がどんな事を
仕出しませう、怒るなら怒れでござんすとて
小女に言ひつけてお銚子の支度、来るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて気が変つてゐまするほどにその気で附合てゐて下され、御酒を思ひ切つて
呑みまするから止めて下さるな、酔ふたらば介抱して下されといふに、君が酔つたを
未だに見た事がない、気が晴れるほど呑むは
宜いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何がそんなに
逆鱗にふれた事がある、僕らに言つては悪るい事かと問はれるに、いゑ
貴君には聞て頂きたいのでござんす、酔ふと
申ますから驚いてはいけませぬと
嫣然として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。
常にはさのみに心も留まらざりし結城の
風采の
今宵は何となく
尋常ならず思はれて、
肩巾のありて背のいかにも高き処より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの
凄くて人を射るやうなるも威厳の備はれるかと嬉しく、濃き髪の毛を短かく刈あげて
頸足のくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりしてゐると問はれて、貴君のお顔を見てゐますのさと言へば、
此奴めがと
睨みつけられて、おお
怕いお方と笑つてゐるに、
串談はのけ、今夜は様子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つて
湧いた事もなければ、人との
紛雑などはよし有つたにしろそれは常の事、気にもかからねば何しに物を思ひませう、私の時より気まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの浅ましい訳がござんす、私はこんな
賤しい身の上、貴君は立派なお方様、思ふ事は
反対にお聞きになつても
汲んで下さるか下さらぬか
其処ほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂きたく、今夜は残らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口が
利かれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。
何より先に私が身の自堕落を承知してゐて下され、もとより箱入りの
生娘ならねば少しは察してもゐて下さろうが、口奇麗な事はいひますともこのあたりの人に泥の中の
蓮とやら、
悪業に染まらぬ
女子があらば、繁昌どころか見に来る人もあるまじ、貴君は別物、私が処へ来る人とても
大底はそれと
思しめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるも
寧九尺二間でも
極まつた
良人といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、それが私は出来ませぬ、それかと言つて来るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、
見初ましたのと
出鱈目のお世辞をも言はねばならず、数の中には
真にうけてこんな
厄種を
女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分りませぬ、そもそもの
最初から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたらどうでござんしよか、持たれるは嫌なり
他処ながらは慕はしし、一ト口に言はれたら浮気者でござんせう、ああこんな浮気者には
誰れがしたと
思召、三代伝はつての出来そこね、
親父が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、その親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、
祖父は四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない
反古紙をこしらへしに、版をばお
上から止められたとやら、ゆるされぬとかにて断食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで
仕出来したる事なく、
終は人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住
歎いたを子供の頃より聞知つておりました、私の父といふは三つの
歳に
椽から落て片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて
居職に
飾の
金物をこしらへましたれど、気位たかくて
人愛のなければ
贔負にしてくれる人もなく、ああ私が覚えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら
古裕衣で、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つ
竈に
破れ
鍋かけて私にさる物を買ひに行けといふ、味噌こし下げて
端たのお
銭を手に握つて米屋の
門までは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足も
亀かみたれば五六軒隔てし
溝板の上の氷にすべり、
足溜りなく
転ける
機会に手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざらざらと
翻れ入れば、下は
行水きたなき
溝泥なり、
幾度も
覗いては見たれどこれをば何として拾はれませう、その時私は七つであつたれど
家の
内の様子、
父母の心をも知れてあるにお米は途中で落しましたと
空の味噌こしさげて家には帰られず、
立てしばらく泣いていたれどどうしたと問ふてくれる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は
猶更なし、あの時近処に川なり池なりあらうなら私は
定し身を投げてしまひましたろ、話しは誠の百分一、私はその頃から気が狂つたのでござんす、
皈りの遅きを母の親案じて尋ねに来てくれたをば
時機に家へは戻つたれど、母も物いはず
父親も無言に、
誰れ一人私をば
叱る物もなく、
家の内
森として折々
溜息の声のもれるに私は身を切られるより情なく、今日は一日断食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。
いひさしてお力は
溢れ
出る涙の止め難ければ
紅ひの
手巾かほに押当てその端を喰ひしめつつ物いはぬ事
小半時、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ。
顔をあげし時は
頬に涙の
痕はみゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私はその様な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜もこんな分らぬ事いひ出してさぞ貴君御迷惑で御座んしてしよ、もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽気にしませうかと問へば、いや遠慮は無沙汰、その
父親は早くに
死くなつてか、はあ
母さんが肺結核といふを
煩つて
死なりましてから一週忌の来ぬほどに跡を追ひました、今居りましても
未だ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふても
宜い人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついたは何にもなる事は出来ないので御座んせう、我身の上にも知られまするとて物思はしき
風情、お前は出世を望むなと
突然に朝之助に言はれて、ゑツと驚きし様子に見えしが、私等が身にて望んだ処が味噌こしが
落、何の
玉の
輿までは思ひがけませぬといふ、
嘘をいふは人に
依る始めから何も見知つてゐるに隠すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれやれとあるに、あれそのやうなけしかけ
詞はよして下され、どうでこんな身でござんするにと打しほれて又もの言はず。
今宵もいたく
更けぬ、下坐敷の人はいつか帰りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて帰り支度するを、お力はどうでも泊らするといふ、いつしか下駄をも
蔵させたれば、足を取られて幽霊ならぬ身の戸のすき間より
出る事もなるまじとて今宵は
此処に泊る事となりぬ、雨戸を
鎖す音一しきり
賑はしく、
後には透きもる
燈火のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。
思ひ出したとて今更にどうなる物ぞ、忘れてしまへ
諦めてしまへと思案は
極めながら、去年の盆には
揃ひの
浴衣をこしらへて二人一処に
蔵前へ
参詣したる事なんど思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事に
出る
張もなく、お前さんそれではならぬぞへと
諫め立てる女房の
詞も耳うるさく、エエ何も言ふな黙つてゐろとて横になるを、黙つてゐてはこの日が
過されませぬ、
身体が悪るくば薬も呑むがよし、御医者にかかるも仕方がなけれど、お前の病ひはそれではなしに気さへ持直せば
何処に悪い処があろう、少しは正気になつて勉強をして下されといふ、いつでも同じ事は耳にたこが出来て気の薬にはならぬ、酒でも買て来てくれ気まぎれに呑んで見やうと言ふ、お前さんそのお酒が買へるほどなら嫌やとお言ひなさるを無理に仕事に出て下されとは頼みませぬ、私が内職とて朝から
夜にかけて十五銭が関の山、親子三人口おも湯も満足には呑まれぬ中で酒を買へとは
能く能くお前
無茶助になりなさんした、お盆だといふに
昨日らも小僧には白玉一つこしらへても喰べさせず、お
精霊さまのお
店かざりも
拵へくれねば
御燈明一つで御先祖様へお
詫びを
申てゐるも
誰が仕業だとお思ひなさる、お前が
阿房を尽してお力づらめに釣られたから起つた事、いふては悪るけれどお前は親不孝子不孝、少しはあの子の行末をも思ふて真人間になつて下され、
御酒を
呑で気を晴らすは一
時、真から改心して下さらねば心元なく思はれますとて女房打なげくに、返事はなくて吐息折々に太く身動きもせず
仰向ふしたる心根の
愁さ、その身になつてもお力が事の忘れられぬか、十年つれそふて子供まで
儲けし我れに心かぎりの
辛苦をさせて、子には
襤褸を下げさせ家とては二畳一間のこんな犬小屋、世間一体から馬鹿にされて別物にされて、よしや
春秋の
彼岸が来ればとて、隣近処に
牡丹もち団子と配り歩く中を、源七が家へは
遣らぬが能い、返礼が気の毒なとて、
心切かは知らねど十軒長屋の一軒は
除け物、男は
外出がちなればいささか心に懸るまじけれど女心には遣る瀬のなきほど切なく悲しく、おのづと肩身せばまりて
朝夕の
挨拶も人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、それをば思はで我が
情婦の上ばかりを思ひつづけ、
無情き人の心の底がそれほどまでに恋しいか、昼も夢に見て
独言にいふ情なさ、女房の事も子の事も忘れはててお力一人に命をも遣る心か、浅ましい
口惜しい
愁らい人と思ふに中々言葉は
出ずして恨みの露を目の中にふくみぬ。
物いはねば狭き
家の
内も何となくうら淋しく、くれゆく空のたどたどしきに裏屋はまして薄暗く、
燈火をつけて
蚊遣りふすべて、お初は心細く戸の外をながむれば、いそいそと帰り来る太吉郎の姿、何やらん大袋を両手に抱へて
母さん母さんこれを
貰つて来たと
莞爾として駆け込むに、見れば新開の日の出やがかすていら、おやこんな
好いお菓子を誰れに貰つて来た、よくお礼を言つたかと問へば、ああ能くお辞儀をして貰つて来た、これは菊の井の鬼姉さんがくれたのと言ふ、母は顔色をかへて図太い奴めがこれほどの
淵に投げ込んで
未だいぢめ方が足りぬと思ふか、現在の子を使ひに
父さんの心を動かしに
遣しおる、何といふて遣したと言へば、表通りの賑やかな処に遊んでゐたらば何処のか伯父さんと一処に来て、菓子を買つてやるから一処にお出といつて、
我らは入らぬと言つたけれど抱いて
行つて買つてくれた、喰べては悪るいかへとさすがに母の心を
斗りかね、顔をのぞいて
猶予するに、ああ年がゆかぬとて何たら訳の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父さんを
怠惰者にした鬼ではないか、お前の
衣類のなくなつたも、お前の家のなくなつたも皆あの鬼めがした仕事、
喰ひついても飽き足らぬ悪魔にお菓子を貰つた喰べても
能いかと聞くだけが情ない、汚い
穢いこんな菓子、家へ置くのも腹がたつ、
捨てしまいな、捨ておしまい、お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎めと
罵りながら袋をつかんで裏の空地へ
投出せば、紙は破れて
転び出る菓子の、竹のあら垣打こえて
溝の中にも落込むめり、源七はむくりと起きてお初と一声大きくいふに何か御用かよ、
尻目にかけて振むかふともせぬ横顔を
睨んで、能い加減に人を馬鹿にしろ、黙つてゐれば能い事にして悪口雑言は何の事だ、
知人なら菓子位子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が悪るい、馬鹿野郎呼はりは太吉をかこつけに
我れへの当こすり、子に向つて
父親の
讒訴をいふ女房
気質を
誰れが教へた、お力が鬼なら手前は魔王、商売人のだましは知れてゐれど、妻たる身の
不貞腐れをいふて済むと思ふか、土方をせうが車を引かうが亭主は亭主の権がある、気に入らぬ奴を家には置かぬ、何処へなりとも出てゆけ、出てゆけ、面白くもない
女郎めと叱りつけられて、それはお前無理だ、邪推が過る、何しにお前に当つけよう、この子が余り分らぬと、お力の仕方が憎くらしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて出てゆけとまでは
惨う御座んす、家の為をおもへばこそ気に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどならこんな貧乏世帯の苦労をば忍んではゐませぬと泣くに貧乏世帯に飽きがきたなら勝手に何処なり行つて貰はう、手前が居ぬからとて乞食にもなるまじく太吉が手足の延ばされぬ事はなし、明けても暮れても
我れが
店おろしかお力への
妬み、つくづく聞き飽きてもう
厭やに成つた、貴様が出ずば
何ら道同じ事をしくもない九尺二間、
我れが小僧を連れて出やう、さうならば十分に我鳴り立る都合もよからう、さあ貴様が
行くか、
我れが出ようかと
烈しく言はれて、お前はそんなら
真実に私を離縁する心かへ、知れた事よと
例の源七にはあらざりき。
お初は
口惜しく悲しく情なく、口も利かれぬほど
込上る
涕を呑込んで、これは私が悪う御座んした、
堪忍をして下され、お力が親切で志してくれたものを捨てしまつたは重々悪う御座いました、成程お力を鬼といふたから私は魔王で御座んせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決してお力の事につきてこの
後とやかく言ひませず、
蔭の
噂しますまい
故離縁だけは堪忍して下され、改めて言ふまでは無けれど私には親もなし兄弟もなし、差配の伯父さんを
仲人なり里なりに立てて来た者なれば、離縁されての行き処とてはありませぬ、どうぞ堪忍して置いて下され、私は憎くかろうとこの子に免じて置いて下され、謝りますとて手を突いて泣けども、イヤどうしても置かれぬとてその後は物言はず壁に向ひてお初が言葉は耳に
入らぬ体、これほど
邪慳の人ではなかりしをと女房あきれて、女に魂を奪はるればこれほどまでも浅ましくなる物か、女房が歎きは更なり、
遂ひには
可愛き子をも餓へ死させるかも知れぬ人、今詫びたからとて
甲斐はなしと覚悟して、太吉、太吉と傍へ呼んで、お前は
父さんの傍と
母さんと
何処が好い、言ふて見ろと言はれて、
我らはお
父さんは嫌い、何にも買つてくれない物と
真正直をいふに、そんなら母さんの行く処へ何処へも一処に行く気かへ、ああ行くともとて何とも思はぬ様子に、お前さんお聞きか、太吉は私につくといひまする、男の子なればお前も欲しからうけれどこの子はお前の手には置かれぬ、何処までも私が貰つて連れて行きます、よう御座んすか貰ひまするといふに、勝手にしろ、子も何も入らぬ、連れて行きたくば何処へでも連れて行け、
家も道具も何も入らぬ、どうなりともしろとて
寐転びしまま振向んともせぬに、何の家も道具も無い癖に勝手にしろもないもの、これから身一つになつて仕たいままの道楽なり何なりお尽しなされ、もういくらこの子を欲しいと言つても返す事では御座んせぬぞ、返しはしませぬぞと念を押して、押入れ探ぐつて何やらの小風呂敷
取出し、これはこの子の
寐間着の
袷、はらがけと三尺だけ貰つて行まする、御酒の上といふでもなければ、
醒めての思案もありますまいけれど、よく考へて見て下され、たとへどのやうな貧苦の中でも二人
双つて育てる子は長者の暮しといひまする、別れれば片親、何につけても
不憫なはこの子とお思ひなさらぬか、ああ
腸が腐た人は子の可愛さも分りはすまい、もうお別れ申ますと風呂敷さげて表へ
出れば、早くゆけゆけとて呼かへしてはくれざりし。
魂祭り過ぎて
幾日、まだ
盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは
駕にて一つはさし
担ぎにて、駕は菊の井の隠居処よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、あの子もとんだ運のわるいつまらぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをしてゐたといふ確かな証人もござります、女も
逆上てゐた男の事なれば義理にせまつて遣つたので御座ろといふもあり、何のあの
阿魔が義理はりを知らうぞ湯屋の帰りに男に
逢ふたれば、さすがに振はなして逃る事もならず、一処に歩いて話しはしてもゐたらうなれど、切られたは
後袈裟、
頬先のかすり
疵、
頸筋の
突疵など色々あれども、たしかに逃げる処を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、
蒲団やの時代からさのみの男と思はなんだがあれこそは
死花、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、かの子には
結搆な旦那がついた
筈、取にがしては残念であらうと人の
愁ひを
串談に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、
恨は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ。