外来語所感

九鬼周造




 ついこの間のことである。私はあるところで「こよみ」を見せてほしいといった。すると「こよみ」とはあなたらしくもない。運勢でも調べるのですかと問われた。来月の某日が何曜日になるかを見たいのだと答えると、それならば「カレンダー」で間に合うでしょうというのである。私はなるほど「カレンダー」かなと思ったが、いくぶんか呆気あっけにとられた。もっとも私自身も郵便を投函する必要のあるとき自動車の運転手に「郵便函があったら留めてくれ」といおうか「ポストがあったらストップしてくれ」といおうか、どっちがよくわかるだろうかと咄嗟とっさに迷うことがある。
「パパ、ママ」排撃を事新しく持ち出すわけではないが、外来語の横行もこんなになってくると深く考えさせられる。もう七年前になるがヨーロッパ滞在から私が帰朝した昭和四年の春、新聞記者が来て何か感想はないかというので、私は往来を歩いてみても到るところ看板その他に英語が書いてあってまるでシンガポールかコロンボか、そういう植民地のような印象を受ける、新聞をちょっと読んでも外来語があとからあとへ出てきて何だか恥かしく思うというようなことを述べた。記者はあまり面白くもない感想だといった顔をしながら万年筆を走らせていた。しかし足かけ九年ぶりに日本へ帰ってきた当時のことであるから、故国の文化に対する私の印象はかなり新鮮なものではあったと思う。それ以来、私は筆をとっても特に止むを得ない場合のほかはなるべく外来語を用いないことにしている。
 一昨年の夏のことであった。夕方ぶらりと上野公園から根岸の方へ歩いて行ってみると「根岸盆踊」という広告が方々に貼ってあった。やがて広場に出ると囃子はやしのやぐらや周囲の踊場が提燈ちょうちんや幕で美しく飾られていた。踊はまだ始まっていなかったが老若男女がかなり集まっていた。私には少年時代に父に伴われて有馬温泉の近在で見た盆踊のことが懐しく思い出された。するとすぐわきに「蠅取はえとりデー 七月二十日」という掲示がチラリと目についた。この貼紙一つで情調がすっかり破られてしまった。「デー」は如何いかにも醜悪である。沢瀉久孝おもだかひさたか博士をして「何デー」「何デー」「ナンデイ」「ナンデイ」「ナニヲ云ッテヤガルンデイ」、日の神の「日」という美しい言葉を持ちながら何を苦しんで「デー」などという紅毛の国のダミ言葉を使うのかと憤慨させるのも誠に道理がある。外来語は山紫水明の古都までも無遠慮に侵入している。平安朝このかた一千年の伝統をだらりの帯に染め出しているような京の舞妓まいこに「オープンでドライヴおしやしたらどうどす」などといわれると腹の底までくすぐったい感じがする。
 ニュース、センセーション、サーヴィス、サボタージュ、カムフラージュ、インテリ、サラリーマン、ルンペン、ビルディング、デパート、アパート、ヒュッテ、スポーツ、ハイキング、ピクニック、ギャング、アナウンサー、メンバー、マスター、ファン、シーズン、チャンス、ステートメント、メッセージ、リード、マッチ、スローガン、ブロック等々の言葉は既に常識化されてしまった。
 近頃は日本にも外来語の字引がぼつぼつ出来てきたが、ドイツには早くから十数種の外来語辞典があるほど外来語が多い。私がドイツへ行ったのは世界大戦の直後であったからドイツ全国民を挙げて外来語の排撃につとめている時であった。ハイデルベルクでもベデッカーの案内記にはグランド・ホテルとなっている旅館もハイデルベルゲル・ホーフと改名していた。料理の献立を見てもソースのことをテウンケなどと書いてあった。テウンケはドイツ人にもわかりにくいということであった。テレフォーンのことはフェルンシュプレッヘルといい、ラジオのことはルンドフンクといった風であった。日本でも外来語の整理が全国民の関心事となるのは欧米との戦争というような犠牲を払った後でなければ期しがたいのであろうか。
 外来語の整理、統制ということには反対の意見もある。第一の反対理由は、我々の日常使用している言語の大部分は外来語であるから今更、外来語を不浄扱いして排斥しないでもよかろうというのである。これは一理あるようであるが、漢語や梵語ぼんごの輸入された時代の日本と現代の日本との文化の程度の相違ということを考慮に入れるならば決して一律には論じられないと思う。原始的状態にあった昔の日本が外来語を入れたからといって、現代の日本も外来語に対して無抵抗主義を取れという理窟は立たない。まして東洋と西洋ということには文化的に大きい相違がある。東洋語としての日本語の統体が欧米語によってわずらわされること今日のごとく甚しい場合に、我々の日用語が大部分外来語だといって無関心をきめ込むのは識見においていささか欠けるところがありはしないだろうか。
 第二の反対理由は、特殊な語感が日本語では出ない場合があるという点である。たとえば「デー」は「日」よりも、「ゴー・ストップ」は「進め、止まれ」よりも語感が強くて効果的である。「テロ」を「恐怖手段」といい、「ギャング」を「殺人強奪隊」といっては感じが出ない。エロ・百パーセントも「色気たっぷり」では近代色を欠いている。外国の文化が新しくはいってくれば、外国語もそれに伴ってはいるのが当然である。西洋文明に対して広く門戸を開いている日本の現状では外来語の排斥は到底できないというのである。この理由はかなり強い反対理由である。ことにある種の語は特殊の情調を備えていて外来語として受け入れるより他に方法のないと考えられるものもある。私といえども一切の外来語を全部排斥せよなどと極端なことをいうのではない。そのようなことはいってみたところで決して行われ得ることではない。
 我々は西洋文明からも大いに学ぶべきところがあり、従っていくぶんかの外来語を不可欠的悪として見逃がすだけの雅量をもっていなければならない。しかしこれも程度の問題である。語感の強弱というくらいのことを外来語採用の標準とすることは断じてゆるせないと思う。英語やドイツ語は日本語に較べてたいていの場合に語感が強い。現代の日本人が語感の強い語を喜ぶとすれば、いっそ日本語を捨てて英語やドイツ語ばかり用いたらいいということにまでなってしまいそうである。「試験」などとなまやさしくいうよりは「エクザーメン」といった方が試験の感情当価はよほどよく表現されている。「わが祖国」というよりは「マイン・ファーターランド」といった方がはるかに荘重に響く。
 第三の反対理由は言語の世界にも適者生存の自然淘汰とうたが行われている、人為的な強制などでは、言語の改廃は困難であるというのである。ガラスだのベルだのコップだのは生活上の必要から言馴れてもうすっかり落ついてしまったではないか。ジュバン(襦袢)などになると完全に時効にかかってしまって外来臭を脱している。もとはポルトガル語だといい聞かされて初めてそうかと知るくらいのものである。便利が中心であるから外来語でもほっておけば完全に同化されてしまう。また社会民衆は賢明であるから不用な外来語は時の経過と共に廃滅する。こういうのである。この言語学上の事実は私もある程度において認めはするが、この事実を理由として外来語の統制に反対する自由主義の立場に賛意を表することは私にはできない。
 日本語を欧米の侵入に対して防禦することを私は現代の日本人の課題の一つと考えたい。満洲へ軍隊を送るばかりが国防ではない。挙国一致して日本語の国民性を擁護すべきであろう。故松田文相の外来語排撃の旗印は文教の府の首班として確かに卓見であった。我々はしかし文部省あたりの調査や審議に任せて安心しているわけにはゆかない。外来語の整理、統制の問題はかくべつ調査や審議を要する問題ではない。要はただ実行にある。社会民衆の恣意しいに任せて安堵あんどしているのも間違っている。民衆は賢明なところもあるが愚昧ぐまいなところもある。用もないのにむやみに外来語を使いたがる稚気と、わずかばかりの外国語の知識をやたらにふりまわしたがる衒気げんきとが民衆にないとは決していえない。
 映画アーベントなどという広告をよく新聞に見る。アーベントという言葉を用いたのは明治の終りか大正の初めころ、帝大の山上御殿ではじめて開かれた哲学会のカント・アーベントあたりが最初であったろうと思う。カント・アーベントには相当に意味があるが、映画アーベントに至っては笑止の極みである。そのうちに映画のソアレエなどといい出してフランス風を吹かせるようになるかもしれない。「喫茶店」が「サロン・ド・テー」になりかけているけはいもみえる。花道へ現れた紙屋治兵衛に「モダンボーイ」と呼びかける弥次馬の声などもただ笑って聞いてばかりもいられないような気がする。「なが子」が「ロング」、「おもん」が「ゲート」、「小栄竜」が「スモール・プロスペラス・ドラゴン」などと名乗って嬉しそうにしているのは罪がなくていいが、新聞に堂々と「サタデーサーヴィス」「ひな人形セット」「呉服ソルド市」「今シーズン第一の名画」「愛とユーモアの明るい避暑地」「このチャンスを逃さず本日只今ただいま申込まれよ」などと広告が出ているのを見ると何だか人を馬鹿にしているような気がして私は腹立たしいほど嫌悪を感じる。いったい誰れに向って広告をしているのだ。お互に日本人ではないかといいたくなる。いわんや新聞に「ブック・レヴュー」とか「ホーム・セクション」とかいう欄が設けられているのは私には全く不可解である。
 如何いかに外来語が好んで用いられるかは、最近の新聞記事に「スラムのブルジョア、ルンペン群中のクイーン」と書いてあった一例によってだけでもわかる。また仮りに『文藝春秋』五月号を開いてみても大臣または大臣級の人たちが「労働者はない、しかるにメンタルの働き手というものは余っているという訳だな。それで高等教育と国の事情とがマッチしないですな」とか「高橋さんの性格の長所たりし恬淡てんたんがスプールロース・フェルローレン!〔あとかたもなく消えてしまった〕 実に意外の感があった」などといっている。これらは何の必要があって外国語を用いるのか私は了解に苦しむのである。
 欧米語に対する社会一般の軽薄な好奇心を統制して大和やまと言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎がひろく日本精神の鼓吹にあることはいうまでもない。基礎さえ出来れば外来語はおのずから影をうすくするであろう。基礎が出来なくては何もならない。基礎を前提すると共に基礎の建設に貢献すべき言語統制の方法としては、文筆に携わるものが必要のない外来語は断然用いない決意を強固にし、まず新しい外国語がはいってきかけた場合には自己の好奇心を抑圧して直ちに適当な訳語をつくること、またいったん通用してしまった場合にはなるべく早く訳語をつくって原語を社会の識閾しきいきから駆逐する事を計らなければならない。
 いったん、外来語が社会的識閾へ上って常識化されてしまうと便利であるから誰しも使うようになる。それ故に常識化されるまでに一般的通用を阻止することに全力をそそがなくてはならない。そして不幸にも既に言語の通貨となりすましてしまったならば贋金にせがねを根絶することに必死の努力を払うべきである。失望するには当らない。「オールドゥーヴル」は「前菜」に殆ど駆逐されたかたちである。「ベースボール」は「野球」に完全に駆逐されてしまった。これらの事実は我々に勇気と希望とを与える。新しい言語内容に関して外国語をそのまま用いればなるほど一番世話はない。好奇心を満足させることも事実である。しかしそれではあまりにも自国語に対する愛と民族的義務とに欠けている。
 西洋哲学の術語などは明治以来諸先輩の努力によって殆どすべて翻訳され尽している。範疇はんちゅう、当為、止揚、妥当などというむつかしい言葉も今日ではもう日用語になりきってしまった。哲学上の言葉は概念的抽象的であるからある意味ではかえって翻訳とその通用とが容易であるとも考えられる。すべて言語の内容が客観的知的である場合には翻訳が成立しやすく、主観的情的である場合には翻訳がうまくいかないことは事実である。
 生活と密接な具体的関係にある言葉は雰囲気の情調を満喫していて他国語への翻訳が困難であるには相違ないが、それも程度の問題であって、外来語の国訳へ向って出来得る限りの努力が払われなくてはならない。知識階級が全面的に誠意ある努力をこの点に払うならば必ず社会民衆が納得して使用するような新鮮味ある訳語が出来てくると信ずる。
 日本人は一日も早く西洋崇拝を根柢から断絶すべきである。ことに文筆の上で国民指導の位置にある学者と文士と新聞雑誌記者とが民族意識に深く目覚めて、国語の純化に努力し、外来語の排撃に奮闘し、社会の趣味を高きへ導くことを心掛けなければならない。





底本:「九鬼周造随筆集」菅野昭正編、岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年9月17日第1刷発行
   1992(平成4)年9月20日第3刷発行
底本の親本:「九鬼周造全集 第五巻」岩波書店
   1991(平成3)年2月第2刷
入力:鈴木厚司
校正:松永正敏
2003年8月22日作成
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