昔は多くの詩人たちが、月を題材にして詩を作つた。支那では李白や白楽天やが、特に月の詩人として有名だが、日本では西行や芭蕉を初め、もつと多くの詩人等が月を歌つた。西洋でも、Moonlight の月光を歌つた詩は、東洋に劣らないほど沢山ある。かうした多くの月の詩篇は、すべて皆その情操に、悲しい音楽を聴く時のやうな、無限のノスタルヂアが本質して居り、多くは失恋や孤独の悲哀を、その抒情の背景に揺曳させてゐる。
月とその月光が、何故にかくも昔から、多くの詩人の心を傷心せしめたらうか。思ふにその理由は、月光の青白い光が、メランコリツクな詩的な情緒を、人の心に強く呼び起させることにもよる。だがもつと本質的な原因は、それが広茫極みなき天の穹窿で、無限の遠方にあるといふことである。なぜならすべて遠方にある者は、人の心に一種の憧憬と郷愁を呼び起し、それ自らが抒情詩のセンチメントになるからである。しかもそれは、単に遠方にあるばかりではない。いつも青白い光を放散して、空の灯火の如く煌々と輝やいてゐるのである。そこで自分は、生物の不可思議な本能であるところの、向火性といふことに就いて考へてゐる。
獣類と、鳥類と、昆虫との別を問はず、殆んどすべての生物は、夜の灯火に対して不思議なイメーヂと思慕を持つてゐる。海の魚介類は、漁師の漁る灯火の下に、群をなして集つて来るし、山野に生棲する昆虫類は、人家の
月とその月光とが、古来詩人の心を強く捉へ、他の何物にもまして好個の詩材とされたのは、その夜天の空に輝やく灯火が、人間の向火性を刺戟し、本能的なリリシズムを詩情させたことは疑ひない。西洋の詩では、月と共に星が最も多く歌はれてゐるが、それもやはり同じ理由に基くのである。日本の漢詩人頼山陽は、少年の時に星を見て泣いたと言はれるが、おそらくその少年の日に、星を見て情緒を動かさなかつた人は、すくなくとも文学者の中には無いであらう。星は月よりも光が弱く、メランコリツクな青白い銀光がない。しかし月よりも距離が遠く、さらに尚無限の遠方にあるといふことから、一層及びがたい思慕の郷愁を感じさせる。そして「この及びがたいものへの思慕」といふことは、それ自体が騎士道のプラトニツク・ラヴと関連してゐる。西洋の抒情詩に月よりも星の方が多く、星がそれ自ら恋愛の表象とさへなつてゐるのはこの故である。しかし日本でも、平安朝時代の貴族文化には、西洋の騎士道とやや類似したものがあつた。当時の智識人や武士たちは、自分より身分階級の高い所の、所謂「やんごとなき」貴族の姫君等に対して、心ひそかに思慕の恋情を寄せ、騎士道的崇拝に似たフエミニズムを満足させてゐた。おそらく彼等は、その恋が到底及ばぬものであり、身分ちがひの果敢ないものであるといふことを、自ら卑下して意識することで、一層哀切にやるせないリリシズムを痛感し、物のあはれの行きつめた悲哀の中に、自らその詩操を培養して居たであらう。それ故に日本歌史上に於て、月の歌が最も多く詠まれてゐるのは、実に当時の平安朝時代であつた。特にさうした失恋の動機によつて、山野に漂泊したと言はれる西行には、就中月の歌が極めて多く、且つそれが皆哀切でやるせないフエミニストの思慕を訴へてゐる。
かくの如く、月は昔の詩人の恋人だつた。しかし近代になつてから、西洋でも日本でも、月の詩が甚だ尠なくなつた。近代の詩人は、月を忘れてしまつたのだらうか。思ふにそれには、いろいろな原因があるかも知れない。あまりに数多く、古人によつて歌ひ尽されたことが、その詩材をマンネリズムにしたことなども、おそらく原因の一つであらう。騎士道精神の衰退から、フエミニズムやプラトニツク恋愛の廃つたことなども、同じくその原因の中に入るかも知れない。さらに天文学の発達が、月を
かつて防空演習のあつた晩、すべての家々の灯火が消されて、東京市中が真の闇になつてゐた時、自分は家路をたどりながら、初めて知つた月光の明るさに驚いた。そして満月に近い空の月を沁々と眺め入つた。その時自分は、真に何年ぶりで月を見たといふ思ひがした。実際自分は田舎で育つた少年の時以来、実に十何年もの久しい間、殆んど全く月を忘れて居たのであつた。
「月を忘れてゐた」といふ意味は、何の感動も詩情もなしに、無関心にそれを見て居たといふ意味なのである。そしてその時、自分は久しぶりに月を眺めて、既に長く忘れてゐた数多い古人の歌を思ひ起した。
わが心慰めかねつ更科や姨捨山に照る月を見て
月見れば千々に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど
中庭地白ウシテ樹ニ鴉棲ム。冷露声ナクシテ桂花ヲ湿ス。今夜月明人尽ク望ム。知ラズ秋思誰ガ家ニ在ル。
独リ江楼ニ上テ思ヒ渺然タリ。月光水ノ如ク水天ニ連ル。同ジク来ツテ月ヲ翫スル人何処ゾ。風景依稀トシテ去年ニ似タリ。
かうした古人の詩歌が、月に対していかに無量の感慨を寄せてゐるかも、その真闇な都会の夜に、自分はこと珍らしく知つたのである。つまり自分等の近代人が、月に対して無関心になつてゐたのは、照明科学の進歩によつて、地上があまりに明るくなり過ぎて居た為であつた。すべて明暗の関係は対比による。昔の人がそんなにも月に心をひかれたのは、彼等の住んでゐる夜の地上が、甚だ閑寂として居たからである。暗く寂しい夜の曠野に、遠く輝やく灯を見る時ほど、悲しくなつかしい思ひをすることはない。行灯や蝋燭の微かな灯りが、唯一の照明であつた昔は、平安朝の京都や唐の長安の都でさへ、おそらく今人の想像ができないほど、寂しく真闇なものであつたらう。さうした暗い地上に、
月天心貧しき町を通りけり
といふ蕪村の句で、月が非常に大きな満月の如く印象されるのは、周囲が貧しい裏町であり、深夜の雨戸を閉めた家から、微かな灯が僅かにもれるばかりの、暗く侘しい裏通と対比するからである。この句がもし「月天心都大路を通りけり」だつたら、月が非常に小さな物になり、句の印象から消滅してしまふ。実際に銀座通りを歩いてゐる人々は、空に月があることさへも忘れて居るのだ。ところが近代では、都会も田舎もおしなべて電光化し、事実上の都大路になつてゐるのだから、彼等の詩人に月が閑却されるのは当然である。科学は妖怪変化と共に、月の詩情を奪つてしまつた。
ペルシアの拝火教で、人間の霊魂が火から生まれたことを説いてゐるのは、生物の向火性と対照して、興味の深い哲理を持つてゐる。