初めてドストイェフスキイを讀んだ頃

萩原朔太郎




 初めてドストイェフスキイを讀んだのは、何でも僕が二十七、八歳位の時であつた。それ以前によんだ西洋の文學は、主にポオとニイチェとであつた。その他にもトルストイなど少し讀んだが、僕にはどうもぴつたりしないので、記憶に殘るといふほどでもなく、から讀にして通つてしまつた。後々迄も影響し、僕の文學的體質を構成するほど、眞に身に沁みて讀んだ本は、ポオとニイチェと、それからドストイェフスキイの三つであつた。僕はポオから「詩」を學び、ニイチェから「哲學」を學び、ドストイェフスキイから「心理學」を學んだ。
 僕がドストイェフスキイを讀んだ頃は、丁度「白樺」の一派が活躍して、人道主義が一世を風靡した時代であつた。その白樺派の人たちは、トルストイとドストイェフスキイとを竝立させて、文學の二大神樣のやうに崇拜して居た。僕がド氏の名を初めて知り、その作品を讀む機縁になつたのも、實は白樺派の人に教はつた爲であつた。しかしそれを讀んだ後に、僕は白樺派の文學論を輕蔑した。なぜならド氏の小説とトルストイとは、氣質的に全く對蹠する別物であり、一を好む者は他を好まず、他を愛する者は一を取らずといふほど、本質的にはつきりした宇宙の兩極であつたからだ。單に人道主義といふ如き感傷觀で、二者を無差別に崇拜する白樺派のヒロイズムは、僕にとつてあまり子供らしく淺薄に思はれた。

 僕が初めて讀んだド氏の小説は、例の「カラマゾフの兄弟」であつた。勿論飜譯であつたが、僕はすつかりこれに打たれてしまつた。あの厖大な小説を、二晝夜もかかつて一氣に讀み了り、夢から醒めたやうにぼんやりした。當時僕がどんなに深く感動したかは、その時讀んだ本の各頁に、鉛筆で無數の書き入れや朱線がしてあるので、今もその古い本を見る毎に、新しい追憶の感銘が興るほどだ。イワンもドミトリイも、すべての人物が面白かつたが、特にあの氣味の惡い白痴の下男と、長老ゾシマの神祕的な宗教觀が面白かつた。
 次に讀んだ本は「罪と罰」であつた。これにはまたカラマゾフ以上に感激させられた。主人公ラスコリニコフの心理と言行とが、小説の最初から大尾まで、魔法のやうに僕の心を引き捉へて居た。當時僕はニイチェを讀んで居たので、あの主人公の大學生が、ナポレオン的超人にならうとイデアした思想の哲學的心境がよく解り、一層意味深く讀み味へた。その讀後の深い印象から、僕はラスコリニコフを以て自ら氣取り、滑稽にもその小説的風貌を眞似たりした。夜は夜で、夢の中に老婆殺しの恐ろしい幻影を見た。
 この時以來、僕は完全なドストイェフスキイ・マニアにかかつた。それから彼の文庫を渉獵して、日本語の飜譯がある限り、一つ殘さず讀み耽つた。しかし多くの物の中で、就中最も感銘が深かつたのは、彼のシベリア流刑記を自傳した「死人の家」であつた。これと前記の二作とは、おそらくド氏の三部代表作であるだらう。ただ「惡靈」だけは、どういふものか興味がないので途中で止めた。「白痴」を讀んだ時は、主人公の精神病的な異常氣質が、たまたま僕とよく酷似してゐる點があるので怖くなつた。僕がそれほど強くドストイェフスキイに魅力された原因も、おそらく作者との氣質的、血液類似型的の生理關係にあるのか知れない。もつとも僕の讀書の仕方は、すべて皆生理的である。ポオも、ニイチェも、ショーペンハウエルも、僕はすべて我流の仕方で、神經生理學的に讀むのであり、さうでない限り、僕に讀書の興味はないのであるが、ドストイェフスキイの場合は、僕との氣質的類似の機縁で、特にそれがはつきりして居た。
 當時僕は詩を作り、初めて文壇的に出發したので、二三の友人と共に同人雜誌を發行して居た。それは「感情」といふ名前の雜誌で、同人には室生犀星、山村暮鳥等の詩人が居た。前にも書いた通り、この時代は白樺派の活躍した全盛時代だつたので、自然その影響を受けたらしく、山村君や室生君等やの詩にも、多少人道主義的傾向が現れ、トルストイズムの臭氣が濃厚だつた。然るに僕はトルストイが嫌ひであり、且つ白樺派のジャーナリズムに輕侮の反感を抱いて居たので、此等の友人等に向つて、僕は大いにドストイェフスキイの惡靈的神祕文學を推薦した。僕の推薦した意味は、人道主義などといふ淺薄のものを捨てて、ドストイェフスキイから深刻な文學を學べといふ意味だつた。
 トルストイの愛讀者であつた山村君や室生君は、直ちに僕の言をいれてドストイェフスキイを讀み始め、後には全く僕以上の熱愛讀者になつてしまつた。しかし本來僕と人間的氣質を異にし、且つ生理的にも健康性を多分に持つてる二人の詩人が、僕と同じ仕方でドストイェフスキイを讀む筈が無かつた。僕の讀み方によるドストイェフスキイは、心理上でポオと共通し、思想上でニイチェ、ショーペンハウエルと類縁するところの作家であつたが、友人たちの見たドストイェフスキイは、やはり白樺派の人と同じく、人道主義的に見たそれであつた。そこで僕は、自然に思想上で彼等と別れ、雜誌の發行にも興味を失つてしまつたのであつた。丁度その時、僕は處女詩集「月に吠える」を出し、室生犀星君もまた第一詩集「愛の詩集」を發行した。前者の詩篇には、僕の見たド氏の生理的内臟圖が描かれてあり、後者の詩集には、室生君の見たド氏の人道的な肖像が描かれて居た。

 僕が出發した當時の文壇は、ドストイェフスキイの名が最も高く呼ばれて居り、一つの文壇的流行でさへあつたにかかはらず、事實全く理解されてなかつたのである。單にドストイェフスキイばかりでなく、白樺派の偶像としてあれほど流行したトルストイさへ、少しも本質的には理解されて居なかつた。世界の文豪である大トルストイが、救世軍的人道主義者として擔がれたり、通俗モラルのセンチメンタリストとして、女學生の涙劇的ヒロイズムの對象であつたりしたことを考へると、今から考へて全く馬鹿馬鹿しく滑稽である。ゲーテも、ハイネも、ニイチェも、日本では早くから名が叫ばれて流行し、その文學的概論さへ解らない中に、既に「流行おくれ」となつてバタ屋の紙屑箱に賣られて行つた。昭和三年頃の或る雜誌に、近頃トルストイやドストイェフスキイを言ふのは時代遲れだと書いた人がある。大正九年頃の或る雜誌に、今頃ニイチェを論ずるのは流行遲れで古臭いが云々と書いてあつた。しかも昭和十年頃の最近になつて、それらのもつと古臭いゲーテやハイネが、漸く少しばかり本體を知られて來たのである。
 要するに日本の文壇は、過去に於て女學生と中學生との文壇だつた。最近漸く大學豫科の一年生位に入門して來た。そこで初めてドストイェフスキイが、眞の文學的本質によつて理解される機縁が來た。日本の再建される文壇は、再度もはや過去のやうに、流行のハシリを追ふ稚態を止め、正しい認識によつて外國の古典文學を讀むべきである。





底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年5月25日初版1刷発行
   1987(昭和62)年6月10日補訂版1刷発行
初出:「ヴレーミヤ 第二號」三笠書房
   1935(昭和10)年11月
入力:石波峻一
校正:土屋隆
2010年2月16日作成
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