詩に告別した室生犀星君へ

萩原朔太郎




 先に詩集「鐵集」で、これが最後の詩集であると序文した室生君は、いよいよ雜誌に公開して詩への告別を宣言した。感情詩社の昔から、僕と手をたづさへて詩壇に出て、最初の出發から今日まで、唯一の詩友として同伴して來た室生君が、最後の捨臺詞を殘して告別したのは、僕にとつて心寂しく、跡に一人殘された旅の秋風が身にしみて來る。
 室生君の告別演説には、自己に對する反省と苛責とがあり、それが外部に八當りして、多少皮肉な調子を帶びてゐた。詩は少年や青年の文學だから、中年になつて詩に執するのは未練であり、潔よく捨ててしまふ方が好いと言ふのである。一應それにはちがひないが、ここにはまた室生君自身の場合に於ける、特殊な個人的な事情が指摘される。元來、僕等の作る「詩」といふ文學は、西洋から舶來した抒情詩や敍事詩の飜案で、日本に昔からあつた文學ではない。日本の國粹のポエムは、だれも知つてゐる通り和歌や俳句である。かうした傳統の詩があるところへ、さらに西洋から輸入して、また一の別なポエムを加へた。そこで今の日本には、和歌と、俳句と、歐風詩と、つまり三つの詩があるわけである。
 さてこの最後の歐風詩、即ち僕等が普通に「詩」と呼んでるものは、西洋では「文學の精華」と言はれるほどで、西洋文藝思潮の最も本質的なエスプリを代表してゐる。日本の新しい文壇は、小説に、戲曲に、評論に、明治以來すべて西洋のそれを模倣し、飜案輸入することに勉めたけれども、その中最も根本のものは詩であつて、これに西洋文藝のエキスされた一切の精神があるのだから、詩の飜案と輸入の完全にされない限りは、日本に眞の西洋思潮は移植されないわけである。したがつてその輸入者である詩人といふ連中は、日本の文學者の中でいちばん氣質的に西洋臭く、身體の中からバタの臭ひがするやうなハイカラ人種に限られてゐる。たとへ外貌はどうあらうとも、性格氣質の底に西洋風なキリスト教や、ギリシャ思潮を傾向した人種でなければ、詩の輸入飜案者たる詩人の役目は勤まらない。そして實際にもその通り、日本で詩人と呼ばれる連中は、過去に於ても現在に於ても、どこか他の一般文學者とちがつたところがあり、何かしら日本の風土習俗に馴染まないところの、妙に周圍と調和しないエトランゼのやうな風貌がある。
 近頃或る一部の詩人は言ふ。日本の詩は日本の詩である。西洋の眞似や飜案をする必要はなく、國粹のものを創作する方が好いではないかと。しかし若しそれだつたら、むしろ和歌や俳句を作る方がよく、詩の必要が無いではないかと反問される。實際僕等の詩操の中から、西洋風の趣味や情操を除いてしまへば、必然の結果として、俳句や歌が出來てしまふ。日本人らしい情操を歌ふ爲には、これほど適切なポエムはなく、丁度西洋人は抒情詩リリック敍事詩エピックが適切であるやうに、我々には俳句や和歌が最も自然的にぴつたりしてゐる。詩を必要とする精神は、さうした國粹のポエヂイ(詩的情操)以外に、他の別の物を欲求する意志があるからで、もしそれが無かつたら、日本に詩といふ文學は必要がなく、和歌俳句以外の蛇足である。
 ところで室生犀星君は、この數年來著るしく傳統的な日本趣味に惑溺してゐる。單に趣味ばかりでなく、近年では氣質的な日本人になつてしまつて、昔のハイカラなところは殆んどなくなつてしまつてゐる。室生君は今隨筆を盛んに書き、その方でも小説家以上の名人といふ定評を取つてゐるし、僕等が讀んでも非常に面白い文章であるけれども、その隨筆の精神は全く東洋風のものであつて、芭蕉等の俳句とも共通した情趣をもつものである。かうした心境に住む室生君が、西洋風のリリックやエピックなど書くとすれば、それこそ却つて不自然に感じられる。今の室生君にして、もしポエヂイの表現を求めるならば、當然その詩は俳句や和歌に行くべきである。室生君は「詩」と告別したと言つたけれども、「俳句」と告別したと言はなかつた。即ち室生君の詩といふ言葉の中には、俳句等のポエヂイは加算してないのである。
 先年、靜岡に蒲原有明氏を訪ねた時、有明氏は茶の湯や生花の趣味を愛して居られ、且つ僕にかう語られた。「私も昔はずゐぶんハイカラで、西洋の詩など非常に好んで讀みましたが、今ではちつとも面白くない。それよりずつと日本の俳句などの方が幽玄で好い。若い時の西洋趣味なんか、年を取れば皆なくなつてしまふし、實に詰らんものですね。」と。佛蘭西の新しい近代詩を、初めて日本の詩壇に輸入した有明氏からこの言を聞き、僕も深く考へるところがあつた。僕等の作る西洋まがひの詩なんていふものは、結局青年時代のエキゾチシズム以外の何物でもなく、日本の風土に合はない附燒刃の似而非物ではないかと考へたりした。しかしやはり僕の中には、俳句や和歌で滿足できない或る物がある。すくなくとも僕自身には、まだ詩の必要があると思つた。未來、もし僕に詩の必要がなくなつた時、俳句のポエヂイだけですむ日が來た時、その時僕は初めて純粹の日本人になり、日本の風土氣候に順應することができるやうになつたのである。そしてまたその時、僕は初めて周圍と調和し、住心地の好い家郷を近く身邊に持ち得るのだ。その幸福の日は何時來るだらうと考へたりした。
 室生君の「詩と告別する」を讀んで、僕は蒲原有明氏の言葉を考へ、當時の僕の感慨を、新しくまた繰返して感慨した。詩を必要としなくなつた室生君は、日本の風土氣候にすつかり調和し、身邊に樂しく住心地の好い家郷を持つた幸福人である。僕にとつてみれば、室生君は實に羨やましく、あらゆる幸福人の中の幸福人といふ感じがする。もつとも室生君は一方で、詩を思ふ心は生涯つきまとふだらうと言つてるが、そのポエヂイは、俳句や和歌で表現されるポエヂイである。それは君に風韻の樂しみをあたへはするが、決して君を苦しめ悲劇させることはない。なぜなら僕等の悲劇する原因は、俳句等の傳統する日本の自然と、詩人が調和しないことに存するのだから。
 室生君は尚ほ、詩は青年の文學であるといふ。その通りにちがひない。なぜなら西洋の文學そのものが、元來本質的に「青年の文學」なのである。西洋には「老年の文學」といふものはない。ゲーテは八十歳になつて戀愛詩を書き、トルストイは老年になつて、尚ほ狂氣の如く正義を求め苦しんだ。西洋の文學が本質してゐる精神は、すべてみな「青年の情熱」である。靜かな落付いた觀照や、心の澄み切つた靜寂の境地ではなく、常に動亂し、興奮し、狂熱し、苦惱し、絶叫するところの文學である。あの芭蕉に見るやうな靜かな澄み渡つた深い境地、靜寂の侘びに住んで人生の底を探ぐるといふ風な文學は西洋にない。さうした「老年の文學」は、ただ東洋にだけ發育した。
 それ故に東洋の詩人たちは、概してみな老年になつてから善い詩を作る。李白や、杜甫や、陶淵明やの支那詩人は、すべて皆四十歳から六十歳までの間に、代表的な名詩をたくさん作り、最も油の乘つた活躍をしてゐる。日本でも同じく、芭蕉や、蕪村や、西行や、人麿やの詩人たちが、すべて中年期をすぎてから生涯の全活躍をし、名歌や名句を多く作つた。これに反して西洋の詩人は、概してみな年の若い青春時代に善い詩を作つてゐる。東洋と西洋と、ここが全く正反對にちがふのである。「老年になつても詩を書いてる」といふ言葉の中での「も」は、西洋の文學が意味するのである。日本では反對に、老年になるから俳句や和歌を作るのである。
 前年、徳田秋聲氏の戀愛事件があつた時、日本の文壇諸家はゴシップして、老人のくせにみつともないと言つて惡評した。これがもし西洋だつたら、反對に文學者らしく、如何にも人間的な生活だと言つて賞讚されたにちがひない。西洋では、たとへ老人になつても八十歳になつても、常に「青年らしく」生活することが賞讚され、文學者の文學者らしい生き方と考へられてる。これが反對に日本や支那では、常に「老年らしく」することが尊敬され、文學者の正しい生き方と思惟されてる。東洋では「老」といふ言葉に無限の祝福が含まれて居り、イデアが指示されてゐるからである。かつて室生君が漸くまだ四十歳位の壯年時代に、自分の老を歎息するとか、老を樂しむとかいふやうなことを書いたのを見て、僕は思はず失笑してしまつたが、東洋の文學では老を誇張することさへが、一つの風雅な文人趣味に考へられてゐるほどでもある。文壇ばかりでなく社會的にも、東洋では「老人らしく」することが一般に尊敬される。老人がもし老年らしくしなかつたら、日本では周圍中から惡評され、嘲笑され、道徳的にさへも罪惡として擯斥される。或る雜誌記者は、與謝野晶子氏が老人のくせに戀を語ると言つて嘲笑した。西洋では反對に、ゲーテが八十歳になつて戀をしたと言つて敬嘆された。東洋と西洋と、これほど反對の宇宙があるだらうか。
 詩は「青年の文學」である。それ故に西洋では、詩が文學の帝王として、一切文學のエスプリとして權威されてる。反對に日本では、丁度その同じ理由の故に、詩が文學の中の雜草として輕蔑されてる。日本では「老年の文學」ほど尊ばれ權威される。故に文學の中でのいちばん老成したもの、即ち小説が文壇の王座を占め、次に戲曲、次に評論、そして最後に詩が來るのである。即ち西洋の王樣が日本では下僕になつてゐるわけで、日本に生れて詩人と呼ばれる人間ほど、不運で氣の毒な宿命はない。彼等はすべて日本の風土氣候に合はないところの、季節はづれの連中なのである。
 我が室生君が、この季節はづれの連中に告別して、小説や隨筆の方に專念するやうになつたのは、君自身の心境にその「季節はづれ」がなくなり、日本の風土氣候とぴつたり調和する境地に入つた證左である。その告別の言葉の中で君は言つてる。この頃では詩と隨筆の區別がつかなくなつたと。日本の文壇でいふ「隨筆」とは、西洋のエッセイとは全く別種の物であつて、主として季節の推移に於ける自然の情趣や、日常生活に於ける身邊の述懷などを敍するもので、その文學の本質する精神は、全く俳句のそれと共通してゐる。即ち隨筆とは「散文で書いた俳句」のやうなものであり、室生君の場合に於ては、特にまたさうである。したがつて君の場合に、詩と隨筆との區別がつかなくなつたと言ふのは、君の中にあるポエヂイ(詩的情操)そのものが、本質的に俳句になつてしまつたことを説明してゐる。君にとつて必要な詩は、日本の詩であつて抒情詩リリックではない。西洋風の詩の世界は、もはや君にとつて無用の物になつたのである。今の君の心境は、おそらく蒲原有明氏と共に、次の述懷をしてゐるだらう。「若い時の西洋趣味なんか、今となつて考へれば、實に詰らんものだつたなあ!」と。もつとも君は、今でもまだ多少の西洋趣味を所有してゐて、輕井澤の外人町を喜んだり、ダンスガールのことを小説に書いたりする。その點で言へば、君は僕より却つてずつとモダンボーイである。しかし君の西洋趣味は、そのまま俳句の季節に入れて、句を作ることができる種類の趣味である。換言すれば、外部から鑑賞してゐる趣味であつて、君の生活の中心主體に食ひ込んでる趣味ではない。反對に僕の場合では、外部の趣味にハイカラやモダンが殆んどなく、生活の根柢してゐる精神にだけ、キリスト教的な西洋の蛇が食ひ込んでゐるのである。
 それゆゑ僕には「詩」は止められない。たとへ一篇の詩も書けずにゐても、詩と告別しては生きられない。なぜなら僕には、室生君の如くそれに代る別のポエム、即ち俳句や隨筆がないからである。僕の世界にある文學は、詩とエッセイの外に何物もない。そしてこれは二つ共、日本の風土氣候に合はないのである。僕は今、室生君の告別を見送りながら、一人あとに殘された自分の道を眺めてゐる。その道は無限に遠く、地平線の涯に續いて消え去つてゐる。だれも友だちもなく道づれもない。僕は永久に一人ぽつちで、孤獨の影を蹈みながら歩いて行く。目標もなく、希望もなく、寂しい大時計の振子のやうに、永遠に愁ひながら歩いて行くのだ。





底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年5月25日初版発行
底本の親本:「純正詩論」第一書房
   1935(昭和10)年4月7日発行
初出:「文藝 第二卷第十號」
   1934(昭和9)年10月号
入力:きりんの手紙
校正:岡村和彦
2020年7月27日作成
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