所得人 室生犀星

萩原朔太郎




 世には二種屬の人間がある。一方の種屬の者は、いつもムダな死金を使ひ、時間を空費し、無益に精力を消耗して、人生を虚妄の悔恨に終つてしまふ。彼等は「人生の浪費者」である。反對に他の者は、物質上にも精神上にも、巧みにそれの最高能率を利用して、人生を最も有意義に處世する。彼等は「人生の所得者」である。
 ところでこの前者の範疇は僕であり、後者の典型は室生犀星である。室生犀星は、自ら風流人を以て任じ、且つ風流の幽玄な哲理をよく説いてる。僕は風流について深く知らない。だがもし――或る人が利休に關して述べたやうに――風流といふことの生活的レアリチイが、經濟學的利用價値に於ける美の創造(廢物利用としての簡易美的生活)と言ふことになるとしたら、わが室生犀星の生活樣式などは、全く風流の極意を捉へたものである。物質上でも、時間上でも、室生ほど人生をよく利用し、一分のムダもなく生活してゐる人間はない。この意味で、彼の人生は全くエコノミカルである。しかしこの場合でのエコノミストは、世俗のいはゆる「しまり家」とは意味がちがふ。反對に彼は享樂家であり、人生の快樂すべきこと、遊戲すべきこと、美を樂しむべきことをよく知つてる。その上金づかひも鷹揚であり、友人への義理も厚く、ケチなところは少しもない。それで居て、彼の使ふすべての金が、一錢のムダもなく利用されてる。つまり彼は、決して「死金」を使はないのである。しかもそれは意識的に、彼の經濟學的觀念――彼にはそんな觀念が少しもない――でするのでなく、天性の生れついた本能から、無意識の動物叡智でやつてるのである。
 昔、ひどく窮乏してゐた書生時代から、彼はさういふやり方で生活して居た。その頃本郷の或る家に間借りして居た彼は、三度の食事にも缺乏するほどの貧しい身分で、金一錢の餘裕を見つけ、どこかで一本の西洋蝋燭を買つて來る。そして清潔によく掃除をした、何一物もない部屋の中で、それを机の上に立てて置くのである。するとその白い蝋燭が、簡素で明淨な部屋と調和し、いかにも貴重で藝術的なものに見えるのである。
「どうだ。おれは金一錢で人生を樂しむ術を知つてる。」
 と、その頃よく彼は自慢をしたが、つまり彼は天性的に、風流といふことの極意(エコノミカル・ヒロソヒイ)を知つてゐるのだ。
 その頃彼の机の上には、時々また色々な變つたものが置いてあつた。或る時は玩具の鳩笛が置いてあつた。子供の吹く素燒の笛で、駄菓子屋で三錢ぐらゐで賣つてる品だが、室生はそれをれいれいしく、寶物のやうにして机の上に飾つて置くのだ。そして人が訪ねて來ると、時々その笛をポーポーと鳴らしながら、
「こいつを吹いとると、人生の寂しさを忘れるわえ。」
 といふやうなことを言ひながら、勿體らしくまた机の上に飾つておくのだ。飢餓と窮乏に惱まされてた當時の詩人犀星が、その鳩笛を鳴らしてる樣子は、實際また寂しく悲しさうであつた。そのため笛の音が、妙にリリカルの調子を帶びて、特殊な藝術的なものに聽えるのである。
「あの笛が欲しいなあ!」
 と、當時の友人や訪問者が、だれも皆心の中で考へたほど、室生の机の上にある時、それは魅力ある高價な藝術品のやうに見えた。當時白秋氏の高弟であつた歌人、河野愼吾君の如きは、到頭それを原價の何倍かで讓つてくれと室生にせがんだ。さういふ時また室生は、手製の紙箱などを造つて、金三錢也の玩具の笛を、さも貴重品か何かのやうにし、恭々しく包裝して讓り渡すのである。ところがそれをもらつた人が、後で自分の机に置くと、普通の平凡なガラクタ道具に變つてしまふ。
「あんな物を高く買つて、馬鹿を見たよ。」
 と後で河野君が僕に口説いた。メーテルリンクの青い鳥は、月光の下で見ると青い鳥だが、それを捉へて晝間見ると、普通の平凡の鳥になつてる。室生の場合の所持品が、すべて皆その通りである。今でも彼は、どこかの農家で古い寺子机のやうな物を求めて來て、僕等の來客がある毎に、それを食卓代りにする。古雅で仲々風流の味があるので、ちよつと欲しさうな顏をすると、どうだ、君に一脚讓らう! と氣前の好い所を見せてくれる。しかし僕は、いつでも「まあ好いよ。」と言つて斷つてる。なぜならその古机でさへが、やはり彼の居間の中で、彼の家族たちと一緒に、彼の構成してゐる家のアトモスフィアの中でのみ、始めて藝術的に美しく調和するので、單獨に引き離してしまつては、普通の平凡なガラクタ道具に變つてしまふからである。
 田端に住むやうになつてからも、彼はやはり窮乏して居た。その頃ミカン箱の空箱を集めて、手製の本棚を造つて居たが、どこかで赤い露西亞更紗の古布を買つて、その本棚のカーテンにした。これが彼にはひどく自慢であつたが、或る日毒舌家の尾山篤二郎君が訪ねて來て、
「何だそりやあ。カチューシャのふんどしか。」
 と一笑したので、室生が怒つて即座に絶交を宣言したといふ話がある。谷崎潤一郎君が訪ねて來て、ミカン箱の本箱を見て吃驚し、「詩人といふ奴は、妙なことをするものだなあ!」と、逢ふ人毎に語つたといふのも、やはりその頃の話である。
「風流とは君。廢物利用のことか?」
 と僕が改めて質問したのは、彼が金澤の舊家である古寺から、煤で黒くなつたまひら戸を引きずり出し、玄關や茶座敷の戸にしたのを見た時であつた。今でも彼は、近所の寺から倒れた地藏尊などを買つて來て、手際よく庭の裝飾に利用する。古寺の隅に轉がつてるやうな地藏樣が、奇態に彼の庭では美しく藝術的なものに見えるのである。人事萬端、彼の如く物の利用價値を知つてる男はない。昔の窮乏時代には、一錢の蝋燭を一圓の價値に使つた。そして今の生活では、十圓の庭石を百圓の價値に利用して居る。彼は月々いくらで生活して居るか知らないが、おそらく同じ生活費で、普通の人の十倍も豐かな生活をして居るにちがひない。買物をしても、珈琲店に行つても、彼は決して死金といふものを使はない。彼が使つた金は、いつもその十倍になつて戻つて來るのだ。
 物質上のことばかりでなく、精神上のことに於ても、彼は決して人生を無益に浪費しない。彼の日課は、極めてタイムテーブルがはつきりして居る。即ち早朝に起きて一運動し、午食までの間に仕事――それがまた一日何枚とほぼ極つて居る――をし、午後は訪問客と話したり、庭を弄つたりして休養する。この間に快よく腹がすくので、晩酌の一合がすつかり利くといふわけである。その勢で夜の町を一歩きし、疲れてぐつすり安眠する。先日島崎藤村氏を訪問したら、大作「夜明け前」を執筆中の氏の生活法が、殆んど室生君の日課とよく似て居るらしいので、僕も成程と感ずる所があつた。その一生涯に、偉大な文學的の仕事をしようとする人々は、だれも皆かうした生活をするのだらう。でなければ到底連續的な長い仕事に耐へられない。僕の如く間歇的な情熱に興奮して、三日も四日も不眠不休で書き續けたり、さうかと思ふと一月も二月も遊んでしまひ、何もしないでゴロゴロして居たりする人間には、到底大きな仕事のできる筈がない。だから僕のやうな人間には、短かいアフォリズムや抒情詩しか書けないのである。
 室生の生活の羨ましさは、時間上にムダがないといふこと、一日の四六時間が、隅から隅まで有用に利用されてると言ふことである。物質上に於けると同じく、この點の生活法でも、彼は極めてエコノミカルである。しかもそのエコノミカルは、四六時中忙がしげに、コセコセ働らくといふ意味のエコノミイではない。物質上に於て、彼は極めて鷹揚であると同じく、時間上に於ても、彼は極めて餘裕綽々として呑氣である。つまり彼は、働らく時間と休む時間とを、タイムテーブルによつてはつきり區別し、頭腦の能率を最も經濟的によく利用するのである。庭をいぢる時間も、子供と遊ぶ時間も、珈琲店を夜歩きする時間も、彼にとつては皆「頭腦の營養」のためであり、仕事への心がけた準備なのである。だから彼の生活では、時間の隅々までが利用され、少しの浪費もないといふことになる。しかも彼の場合は、それを意識的に計畫してやるのでなく、先天的の體質や趣味性から、本能的行爲でやつてるのであるから、世にこれほど幸福な人間はないといふことになる。故芥川龍之介が、室生を羨んで文壇第一の「幸福人」と言つたのはこの故である。
 幸福人といふことは、室生の場合に於てはそれだけでなく、その性格と生活環境との、矛盾のない調和状態を指してるのである。一度室生犀星を訪ねた人は、彼の家庭が如何に和氣藹々たる春風にみち、理想の桃源境であるかをよく知つてゐる。そこの家では、妻と子供と主人とが、一家協力して或る特殊な樂しいアトモスフィアを、具體的に構成してゐるやうに思はれる。その渾然たる家庭的空氣の中で、室生は机を清め、硯を洗ひ、端然として靜かに物を書いてるのである。世の多くの文士たちは、概して宿命的に不幸な家庭人で、わざわざ家を離れてさへ仕事をするのに、反對にその家庭的空氣の中でなければ、落着いて仕事が出來ないといふ犀星こそ、まことに幸福人と言はねばならない。
 しかし室生自身に言はせれば、かうした幸福や家庭生活やは、決して偶然の所産でなく、彼自身の努力によつて、意志的に構成したものなのである。肉親の愛さへも知らないほど、不遇な逆境に育つた彼が、少年の時から夢に描いてこがれたものは、和氣藹々たる家庭生活の實現だつた。さうした彼の意志と熱情とが、不斷の努力によつて昔の夢を實現したのだ。それは決して偶然ではない。しかし世の多くの人々は、小さな夢の破片でさへも、果敢なく實現しないで死んで居るのだ。自分の理念する生活を、自分の意志で實現し得るところの人々は、それ自身で既に「英雄」であり、「成功者」たる素質を持つてる。そしてその素質を持つて生れたといふことが、何よりも天與の惠まれた幸運なのだ。
 室生の幸福は、單にまたそればかりではない。彼は自分の所有する才能を藝術上で百パーセントに殘りなく使用して居る。人生の運不運は、現在に於ける境遇の幸不幸でなく、その人の天賦された所有物(才能、財産、人徳など)を、どれだけ完全に利用したか、どれだけ無益に浪費したかといふ、最後の利合分數によつて計算される。例へば天質的に愚鈍であつたり、先天的に懶惰であつたりする男が、生涯不幸の境遇に終ることは、宿命的に止むを得ない事情である。これに反して天性惠まれた才能をもち、充分の活動力をもつてる人が、惡しき時代や環境に生れた爲、生涯その才能を發揮し得ないで死んだとすれば、これはあきらめがたく不運である。(徳川時代には、すぐれた獨創力や發明力をもつた多くの人々が、幕府の壓迫に虐げられ、何も出來ないで空しく浪費的に死んで行つた。)
 人生の幸福人とは、自己の所有權に屬する全財産を、自由に完全に利用し盡して、心殘りなく死んで行く人を言ふのである。ところで室生犀星は、單に經濟と時間の上で、人生をエコノミカルに生活して居るばかりでなく、藝術上の仕事の上でも、自己の天與された全財産の才能を、最も能率的にあます所なく、百パーセント以上にさへも利用して居る。
 人間の欲深さは、自分に無いものを他人に見て、他人の幸福ばかりを羨望する。僕が室生を幸福人と呼ぶ時、逆に室生は僕を幸福人と言ひ返す。これはどつちが本當であるか、おそらく神樣の外には解らない。しかしながらとにかく、人生を一分一厘のムダもなく、隅々まで完全に利用し盡し、しかも完全に享樂して生きる人は、萬人の批判から見て眞の「幸福人」にちがひない。況んやこの世の中には僕の如く、物質上にも精神上にも、無益な浪費ばかりをして、何一つ所得するところもなく、人生を悔恨に終る人々がすくなくないのだ。芥川龍之介や生田春月の自殺でさへ、或る意味で「浪費した人生への悔恨」だつた。もしその悔恨のない人生があるとしたら、それは室生君の場合の如く、浪費を知らない人の人生である。僕が彼を羨望して、人生の「所得人」と言ふのはこの爲である。





底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年5月25日初版発行
底本の親本:「廊下と室房」第一書房
   1936(昭和11)年5月15日発行
初出:「文藝 第四卷第六號」
   1936(昭和11)年6月号
入力:きりんの手紙
校正:岡村和彦
2021年2月26日作成
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