日本の文學に對して、僕は常に或る滿たされない不滿を持つて居た。それは僕の觀念する「文學」が、日本の現存してゐる文學とどこか本質に於て食ひちがつて居り、別種に屬して居たからである。然るに梶井君の作品集「檸檬」を讀み、始めて僕は、日本に於ける「文學」の實在觀念を發見した。勿論「檸檬」の作品は、小説といふべきよりは、小品もしくは散文詩の範疇に屬すべきものであるか知れない。しかしながらこの精神は、すべての文學を通じて普遍さるべき、絶對根本のものであり、僕の常に觀念して居る「文學」の正觀と符節して居る。
僕は考へる。文學の條件すべき要素は、單なる理智でもなく、觀照でもなく、またもとより、單なる感覺や趣味でもない。文學の眞の本質は、生への動物的な烈しい衝動(意志)に發足して居り、且つその意志が、對象に向つて切り込むところの、本質の比較解剖學的摘出でなければならない。即ちゲーテの言ふ如く、すべての文學者は、素質の詩人と素質の哲學者とを、性格に於て要素して居る人物でなければならぬ。そしてしかも、日本にはかうした文學者が少ないのである。
梶井基次郎君は、日本の現文壇に於ては、稀れに見る眞の本質的文學者であつた。彼は最も烈しい
近頃になつて、梶井君の夭折がまたつくづくと惜しまれる。梶井君がもし大成したら、晩年にはドストイエフスキイのやうな作家になつたか知れない。或はまたポオのやうな詩人的作家になつたかも知れない。どつちに行つても大變なものである。
梶井君とは僅かの交際だが、その人物にも色々な複雜な多面性があり、ちよつと得體がわからず氣味の惡いやうな男であつた。尾崎士郎氏は、その或る小説の中で、梶井君のことを「古狸」と書いてるが、たしかに食へないやうな所があり、油斷の出來ない感じがした。一見トボケてゐるやうであつて、實は何もかも鋭く見ぬいてゐるのである。その性格にはドストイエフスキイのやうな破倫性と病理學的憂鬱性とがあり、また一面ポオのやうな詩的浪漫性と聰明さとがあつた。そして一番本質してゐる人間的素質は、宗教的にさへも近いところの純情性であつた。
梶井君のやうな男は、友人としてはちよつとやりきれない男である。やりきれないといふのは、こつちが神經的に疲れてしまふのである。ドストイエフスキイやボードレエルは、多くの友人から鼻つまみにされたと言ふ話だが、一體藝術の天才といふ奴は、東西古今を通じて人づきあひが惡く、厄介な持てあましものである。ただ梶井君が、一人の三好達治君を親友に持つて居たことは、同君のために生涯の幸福だつた。梶井君と三好君との交際は、側で見てさへ羨ましいほど親密で、しかも涙ぐましいほどに純情だつた。僕の見たところでは、梶井君は三好君に對してのみ、一切の純情性を捧げて、娘が母に對するやうに甘つたれて居た。おそらくあの不幸な孤獨の男は、一人の三好君にのみ、魂の祕密な隱れ家を見付けたのであらう。