常識家の非常識

萩原朔太郎




 僕等の如き所謂詩人が、一般に缺乏してゐるものは「常識」である。この常識の缺乏から、僕等は常に小説家等に輕蔑される。それで僕等自身もまた、その缺點を自覺してゐることから、常に常識的なものに畏敬し、常識學の修養につとめて居る。
 この意味から、僕は常に「文藝春秋」を愛讀してゐる。文藝春秋といふ雜誌は、文壇稀れに見る「頭腦あたまの好い雜誌」であつて、編輯がキビキビとして居り、詰將棋の名手を見るやうな痛快さがある。しかしそんなことよりも、この雜誌の特色はその常識學の徹底にある。常識とは何ぞや、常識的精神の價値とは何ぞやといふことを、もし眞に知らうとする人があるならば、先づ文藝春秋を讀むが好い。それで僕は、ずつと前からこの雜誌を「常識のメンタルテスト」として、一種の特別な敬意を表してゐた。丁度僕のこの敬意は、我々詩人が時に小説家に對して抱く所の、或る種の畏敬と同じ性質の者であつた。
 所が偶然にも、最近この文藝春秋の記事からして、僕の常識に對する見解に大なる動搖が生じて來た。すくなくとも僕が、從來「常識の價値」を高く買ひかぶりすぎたことに氣がついて來た。と言ふわけは、最近この雜誌の文藝春秋子が、二囘に亙つて書いた僕の毒舌を讀んだからである。もちろん僕は、雜誌の六號記事がゴシツプ的に書く漫罵なので、神經質に抗議する男ではない。此所に言はうとするのはそれでなく、小説家的常識の價値(それを小説家は常に誇つてゐる)が、案外くだらぬ安物にすぎないことを、それによつて始めて知つたからである。
 文藝春秋の六號子は、前に僕の書いた芥川龍之介君の追悼文で、僕を無理解に惡口し、第二の島田清次郎にたとへてゐる。春秋子の理解によれば、僕のあの文(改造所載芥川龍之介の死)は、芥川君に對する冒涜であり、自己尊大であり、故人を恥かしめたものであるさうだ。それを讀んだ時、僕は世にも意外な讀者があるものだと思つて、自ら事の意外に呆然とした。僕は芥川君を詩人でない――詩を熱情する小説家だ――と言つたけれ共、それが何等芥川君に對する侮蔑でなく、反對に高い程度の尊敬と愛情とで、あの人の悲壯な精神に感激を込めた言であるのは、常識を有する限り、だれでもあの文章の讀者に解る筈だ。僕は文藝春秋子の毒舌をよんで先づ「常識家の非常識」といふことを考へた。
 所が二月號の同じ雜誌に、同じ文藝春秋子がまた僕の毒舌を、僕の新潮所載の文(室生犀星に與ふ)について書いてる。それによると、僕のあの文章は室生君の舊惡をあばいたもので、故意に友人を陷入れ、他人の過去を恥かしめ、以て獨り自ら正義を賣らうとするものであるさうだ。何たる意外の言だらう。之れにもまた僕は呆然としてしまつた。僕にとつてみれば、室生君の過去は一の英雄的生活であつた故に、その囘想を書くことは、友の傳記における讚美であつた。僕はあの文章の前半を、傳記記者の熱情と讚美で書いた。そしてその精神は、常識を有する限り、どんな讀者にも解る筈だ。僕は室生君に對して、自己と容れない人生觀を爭ひ、あくまでその抗議を提出したけれども、かりにもあの文章をよんだものは、その精神が親友に對する熱愛に充ちてることを知る筈だ。他のことはとにかく、あれが友人を陷入れるための、女らしい邪智の惡意で書いたものと解されては、僕として到底がまんできない。世に之れほどひどい曲解があるだらうか。況んやそれによつて僕が正義を賣るとは何事だ。いかに六號記事とは言ひながら、之れほどひどく曲解されては、遂に默つて居られない。
 僕は今迄、自分の書いた詩論や感想が、他から誤解されたことがしばしばあつた。しかし最近文藝春秋子に書かれたほど、自分の文が意外な誤解を受けたのは始めてだ。何故に、どうしてこれほど思ひがけない、不思議な曲解的な意味に、いつも僕の文章が取られるのだらう。僕はその不思議を考へた。そして結局、一つの或る發見に到達した。即ちそれは、文藝春秋子(及び之れによつて代表される常識的聰明人の一般)が、僕等の文學の本質たる「詩」を理解できないからである。
 前の芥川君の追悼文でも、今度の室生君への公開状でも、僕の文章の本質となつてるものは、常に「詩人の感情」であつて「小説家の感情」でない。換言すれば、あれらの文章の根柢となつてるものは、一の主觀的なる切實の訴へである。僕は小説家のするやうに、それによつて他を描くのでなく、自分自身の詩を訴へてゐるのである。例へばあの芥川君の追悼文で、僕が何を熱情し、何を人生について憂鬱し、且つ欲情し、且つ訴へ嘆いてゐるかを、あれについて讀み得る讀者は、僕の「詩」を知り得たのである。そして僕の文章から常に、僕の詩を讀み得るものは、僕の眞の理解者であり讀者である。反對に、僕の詩について心を觸れ得ず、詩の精神を理解できない所の人にとつて、僕の文章は不可解であり、時には全く意外なる、反對の意味にさへ曲解される。
 文藝春秋子の意外な誤解が、結局してこの點にあることがはつきり解つた。文藝春秋子(僕はそれを以て常識的聰明人の代表と見る。)は、常識的なる限りに於てのみ、聰明な正しき批判を有してゐる。だが「詩」の精神は、常に常識の上に立脚してゐる。僕等が詩を思ふ時は、常に常識を一歩踏みはづし、日常生活の「健全なる判斷力」を、どこかで取り落して居るのである。小説家的聰明さ(即ち常識)では、決してどんな詩も作れはしない。否さうした頭腦の中には、詩情そのものが宿らないのである。だからその種の人々には、小説家の書いた文章は解るけれ共、詩人の書いた文章は解らないのだ。そして此所に詩人といふのは、もちろん僕ばかりでなく、一般の詩人についても言ふのである。
 かうしたことによつて、僕は常識の價値が甚だ疑はしくなつてきた。常識的聰明は、結果して常識の程度しか理解できない。だから詩人の仲間にとつて「常識ですら」解るものが、しばしば彼等にとつては常識ですら解らない。してみれば常識的聰明といふこと(今の小説家等が唯一の得意とするのはそれである。)は、必しも僕等にとつて恐ろしいものでない。否むしろ低級視さるべき、愚劣な馬鹿馬鹿しいものである。僕は「常識のメンタルテスト」文藝春秋子から惡口されて、始めて常識の實價を知つた。すくなくとも今後の僕等は、常識及び常識的聰明者に對して、詩人らしき内氣な恥らひと屈辱とを捨て、もつと大膽に、彼等を侮蔑してかかるであらう。





底本:「萩原朔太郎全集 第八卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年7月25日初版発行
底本の親本:「不同調 第六卷第三號」
   1928(昭和3)年3月号
初出:「不同調 第六卷第三號」
   1928(昭和3)年3月号
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2021年10月27日作成
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