室生犀星君の飛躍

萩原朔太郎




 僕は一つの飛躍を見た! 室生犀星君に就いてである。
 最近二三ヶ月の間に、彼は驚くべき跳躍をした。勇敢にも、過去の一切を投げ出し、鷲のやうに空を飛んだ。僕はそれを見て勇氣が起り、慄然とし、人生の力ある意志を感じた。
 實に室生犀星の今日あるは、僕がかつて前に豫感し、且つ言つたのである。(雜誌・椎の木所載・室生犀星君の心境的推移について・參照)それは最近出版された彼の詩集『故郷圖繪集』を見た時、最も明白に直感された。何となればその詩集は、二つの別な方向を目ざす所の、互に矛盾した心境からなつてるもので、二部混亂の不統一を示してゐたから。僕がその詩集を讀んだ時に、矢のやうに來り、早くも心に浮んだものは、室生の心境生活の變化であつた。一方に於て、彼はその風流哲學を徹底させ、身を以て藝術を完成させようとする芭蕉的人生觀を持しながら、一方に於ては之れに裏切り、憤激して一切を破壞しようとする所の、矛盾の止みがたい苦惱があつた。詩集『故郷圖繪集』は、この二つの心境の對立した、苦々しく不調和な表象を讀者にあたへた。
 傷ましいかな! 今や犀星の風流生活は、その必然的の破滅に際してゐる。新しいものが、來るべき生活の展開が、彼について近く起るだらうと、僕はその時以來考へてゐた。そしてそれ故に――實にそれ故に――僕は勇躍して室生犀星論を書き、彼に對する友誼的公開状を發表した。もちろん僕は、それによつて彼を怒らすことを考へてゐた。だが室生は、僕について怒るよりも、むしろ彼自身について怒り、早く既に生活の展開を準備してゐた。今や我が室生犀星は、あらゆる悲痛な勇氣をもつて、その長く築きあげた藝術の城を破壞し、自ら叫んで野獸の如くならうとしてゐる。實に室生犀星の勇敢と正直さとは、彼自ら芥川君について言つた如く、悲壯にもその『風流の假面を肉つきのままで引つぺがした』のである。(この室生の言が、芥川龍之介について言つたのでなく、室生自身について言つたのであることは、少し敏感の讀者になら解る筈だ。彼はいつでも、さういふ物の言ひ方をする。)
 室生犀星はかう言つた。僕はもう庭も要らない。陶器も人にやつてしまふ。僕は過去一切の生活を破壞すると。この言を風聞した時、僕は魂の慄然とした震へを感じた。何となれば僕は、彼がどんなに庭を愛し、どんなに石や陶器を愛してゐたかを、知りすぎるほど知つてゐたから。實にそれらの庭や石やは、彼の單なる道樂でなく、過去に於ける彼の藝術であり、生活そのものであつたのだ。そして、今此等の物を棄てるといふのは、室生にとつてその一切――藝術と生活との一切――を棄てることに外ならない。しかもそれは、過去に長い間かかつて修養し、血を以て築きあげた財産である。今、室生犀星は決然として、眞にその一切を棄てると言ふ。たれか必死の覺悟なしに、この決心が出來るだらうか。僕は悲痛の感なしに居られない。
 しかしながら我が犀星は、それ故にこそ眞の藝術家であり、眞のすぐれたる詩人である。端的に言へば、彼は既に過去の藝術を卒業した。庭や、石や、陶器や、その所謂風流生活から、學ぶべき多くのものを學び盡し、書くべきものを書き盡し、そして發見さるべき哲學を究め通した。彼は多くの讀者を作り、その方での『定評』を得、文壇の賞牌を得、そして要するに完成した。もしこの餘のものがあるとすれば、それの文學的利子による安易な生活で、マンネリズムの惰眠に陷入る外はなからう。室生がもし眞の文學者であるならば、かかる利子的安易な生活には耐へられまい。彼は勇躍して立ち、過去の全財産を捨て、再び素裸の一文學書生となつて、さらに新しい美と生活を創造すべく始めるだらう。そして我が室生犀星は、けなげにも發奮して立ち、新生活への勇ましき門出をしてゐる。今や彼は變化してゐる。すくなくとも或る何物かに、變化しようとしつつある。
 僕は思ふ。室生犀星のかうした變化は、今の藝術家的熱情なく、定評によつて利子的生活をしてゐる世の安易な文壇的大家にまで、たしかに一の啓發であり、衝動でなければならぬと。然るに文壇には、却つて犀星の變化を惜み、甚だしきは大家的品格の輕浮をとがめる者さへある。(この大家的品格といふ觀念ほど、愚劣千萬のものはない。)もとより犀星の過去の讀者は、彼が新しく變ることを好まないだらう。彼等は永久に犀星をして庭や風流を語る所の、十年一日の如き作家であらせたいのだ。けれども作家にとつてみれば、自己は讀者のための存在でなく、自分自身のための作家である。故にすべての詩人や文學者等は、生涯に幾度かの變化に於て、常に昨日の讀者と別れ、別の新しき讀者を迎へる。作家は悲しむわけがない。なぜなら昨日の讀者が去つた後で、今日の新しき別の讀者がくるからである。況んや室生の新境地は、彼にとつてむしろ反性格とも言ふべき過去の風流生活を、その『肉つきの假面のままで引つぺがした』所の、新しき本然性への囘復であるのだから。
 僕のあらゆる眞の興味は、正に嵐の動搖にある現時の室生をその變化の成り行きについて觀察し、來るべき創造への目ざましい發展を見ることである。彼は僕の如き藝術的無能力者と素質を異にし、いやしくも一旦志ざした所へ向つて、努力貫通せねば止まない男で意志と精力の權化である。既にして一歩を踏み出す。必ず何事かを貫通せねば止まないだらう。僕は室生の友人としてひとへにその成果を待つてる。そしてもはや今となつては、過去の彼にあたへた僕の二つの公開状は全然無意味の空文となつてしまつた。僕はそれを恥ぢ自ら潔よく撤囘して好いのである。





底本:「萩原朔太郎全集 第八卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年7月25日初版発行
底本の親本:「文藝春秋 第六卷第四號」
   1928(昭和3)年4月号
初出:「文藝春秋 第六卷第四號」
   1928(昭和3)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2022年10月26日作成
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