室生犀星に與ふ

萩原朔太郎




 室生君!
 君との友情を考へる時、僕は暗然たる涙を感ずる。だがそれは感傷でなく、もつと深い意味のものが、底から湧いてくるやうに思はれる。いかにしても、僕にはその意味が語りつくせない。だが力の及ぶだけ、貧しい表現をつくしてみよう。

 室生君!
 いかに過去に於て、僕が君の詩に魅惑されたか。君の「抒情小曲集」にある斷章や「ふるさと」の詩を、始めて北原白秋氏の雜誌で見た時に、僕は生來かつて知らない詩の幸福を味つた。町を行くときも、野に行くときも、僕は常に君の詩をふところにし、そして絶えず口吟み朗吟してゐた。僕はすつかり、君の小曲を諳誦してしまつた。その頃、丁度同じ北原氏の雜誌に僕も詩を書いてゐた。だが僕は、君によつてすつかり征服され、到頭競爭の念を捨ててしまつた。僕は君の弟子になり、改めて始めから詩を學ばうと決心した。僕は或る日、まだ見ぬ君に對する敬愛と思慕の念に耐へかねて、長い戀文のやうな手紙をかいた。その手紙では、僕は弟子としての禮儀をつくした。僕は君の靴の紐を解くだに足りないもの、數ならぬ砂利の一つだと書いた。それほど君の藝術が、魔力のやうに僕を魅惑してしまつたのだ。
 翌年の春になつて、雪の深い北國の金澤から、君は土筆のやうに旅に出て來た。我々は始めて逢つた。そして櫻の莟が脹んでゐる前橋公園の堤防を、二人は寒さうに竝んで歩いた。君は田舍の野暮つたい文學書生のやうに、髮の毛を垢じみて長くはやし、ステツキをついて肩を四角に怒らせてゐた。單に風采ばかりでなく、君の言行の一切が田舍臭く、野卑の限りをつくしてゐた。どこか君の言行の影に、田舍新聞の印刷インキの臭ひがした。君は絶えず言つた。
「我々は大家です。」
「君の所に記者が來ますか。僕は××新聞の訪問記者に對して、詩に關する談話をしてやつたです。」
 當時白秋氏の厚意によつて、辛うじてその雜誌に投書を掲載してもらつてゐる所の、全然無名な僕等に於て、かうした事實のあるべき道理がないので、君の言ふことがデタラメであり、空想の誇張であるといふことがさすがに世慣れない僕にもすぐ解つた。そして君の金澤における生活が、さうした田舍らしい文學青年の談話の中で、常に環境されてゐるといふことが、すべての言語や動作から推察された。
 明らかに告白すると、當時僕は甚だ不愉快の印象を君から受けた。僕は君の詩風から聯想して、高貴な青白い容貌をした、世慣れない温和の青年を考へてゐた。然るに實際の人物に逢つてみると、意外にも空想が根本から裏切られた。あらゆる點に於て、君は僕の想像に反對だつた。容貌から言へば、君は猪のやうにゴツゴツしてゐたし、おまけに亂暴書生の如く肩を怒らし、ステツキを突いて高下駄を引きずり歩いた。のみならず性格が、丁度またその通りであつた。即ち一言にして言へば、「粗野」といふ言語が君の一切を盡してゐた。しかしそれが、地方雜誌のスレからした投書家などにありがちな、野卑な厭味とキザとで芬々たる臭氣を放つてゐた。
 僕はすつかり失望した。そして君に逢つたことを密かに悔いた。でも折角遠方からして、招くやうに呼びあげた藝術上の親しい知己を、そんなことで無情にするには忍びなかつた。僕はつとめて自分の感情をおしかくし、君の下宿してゐる利根川の岸の家を訪ねた。君は煙草の銀紙で、洋盃さかづきの形を作り、小さな机の上に置いて眺めて居た。
「どうするのですか?」
「僕、これを家の女中に作つてやりました。彼れ、愛すべき少女ですな。今朝僕の部屋を掃除する時、この洋盃さかづきをみて笑ひました。僕、これをそつとしておくですな。」
 今、僕の前に對座してゐる、この如何にも田舍文士然たる粗野の人物が、果してあの青白い貝のやうな詩を作つた、高貴な優しい室生犀星であるだらうか? 僕の心の底には、いくたびか一の解きがたい疑問が浮んだ。
「この男はニセ物ぢやないか。室生犀星の名をかたつて、僕を欺きに來た詐欺師ぢやないか?」
 僕はそつと眼を盜んで、君の机の側にある書状を見た。そこには明らかに「室生犀星樣」と上書きされてる、二三の手紙が這入つてゐた。


 室生君!
 今僕はすべて此等のことを、明らさまに僞らず告白する。僕の君に對する第一印象は、かくたしかに不滿足のものであつた。けれどもその不滿足の原因は、もちろん君になくして僕自身の方にあつた。つまり僕が勝手の空想から、君の實際人物を主觀的に架空して、現實に符合させようとしたのが惡かつたのだ。僕はこの經驗から、人が藝術によつて心象イメージする人物と、現實の作者たる人物とが、常に必しも同一でないといふことを知り、密かにあのニイチエのすぐれた言葉を考へた。
「君等がもし或る書物を好むならば、決してその著者に逢つてはならない。なぜならば著者の祕密は、通常性格の最も深い所に藏つてあり、一度や二度の面識で現はれる機會がないから。著者に逢つた讀者は、その容貌や人物からして、彼自身の豫定しなかつた部分のみを發見し、裏切られた不滿を感じて歸るだらう。」
 けれども僕は、まもなく君に對する前の見解を、根本から一變するやうになつてしまつた。なぜといふに君の性格には、不思議に人を牽きつける魔力的のものがあつたからだ。もちろん君は、依然として粗野であり、依然として垢ぬけない田舍の投書家臭味をもつてゐた。それにもかかはらず、何かしら君の人物には、不思議な魅力を感じさせるものがあつた。そしてこの魅力は、君の荒々しき粗野の性格から、最も強くはつきりと響いてきた。

 室生君!
 一言にして君を僕に評させれば、君は實に「生れたる子供」「生れたる自然人」だ。君の人物の本質には、何とも言語につくせないナイーヴさがある。僕は今の知つてゐる詩人で、千家元麿にこの同じ自然性を感じてゐる。全く言つて、千家元麿は「生れたる子供」「生れたる自然人」だ。けれども君と千家とは、そのナイーヴさの特色に於て、非常にまた著るしくちがつたものが感じられる。だがこの比較論は無用の話だ。もつと君について僕の感想を話して見よう。

 室生君!
 今の君と昔の君とが、いかに甚だしく變つた人物となつてるだらう。いかに今日の君が、立派な堂々とした風采と、藝術的意味での美しき容貌を持つてるだらう。そして況んや、性格が全で昔と一變し、君の所謂「教養ある人物」と成り切つたことだらう。だが僕の觀察する所によれば、君の本質たる眞の性格は、依然として昔のままに今も一貫してゐる。ただ全く變つたものは、生活の變化に伴ふ心境上の氣分である。即ち自然や人生に對する所の、主觀の「感じ方」の相違であり、それが趣味を變化し、心境を移し、藝術を變へ、そして結局、君の人格における外部的な風景を變色して見せるのである。本質の部分について言へば、少しも君に變化したものはありはしない。依然として、君は今日も尚「生れたる自然人」だ。否もつと丁寧には、趣味の深い教養と文明的禮節を有する所の、しかも性格の本質部分におけるナイーヴな子供である。

 室生君!
 そこで僕は、つまりだれよりも君の本質部分について、眞の理解を有する友人と言ふことになるだらう。だから僕をして、もう少し昔の思ひ出を話させてくれ。僕は考へてるのだ。もし僕が、今日かうした君の追憶を書いておかないならば、後世だれも君の眞の氣質を知らず、却つて誤解された室生犀星を文獻上に殘すであらうと。何となれば今日の君は、全然昔と變つて見える故に、何人もその心境の皮相を見て、眞の人物に觸れずにしまふと思ふからだ。

 室生君!
 君は實によく變化した。そして次第に人物が完成してきた。だが僕は君とちがつて、相ひ變らず昔の未熟なままであり、今日尚依然として巷路に彷徨する老書生だ。さうだ! 僕はこの「老書生」といふ言葉が、この頃非常に好きになつた。君は僕を非難して「大家の風格」がないと言ふ。しかし人物の風格なんていふものは、藝術の完成と相俟つて行くべきものだ。つまり藝術が完成される時分には、自然に人物が出來上つてくるものなのだ。然るに僕は――君の聰明な友人芥川龍之介氏が評した通り――藝術上にも未完成の人物なのだ。恐らく思ふに、僕には生涯を通じて完成なんていふ機會はありはしない。僕はいつ迄たつても老書生で、大家になることのできない人間なんだ。

 室生君!
 だが君は、昔はずゐぶん亂暴な人間だつた。いや、亂暴なんて言ふ語は適當でない。君は「自然のまま」を行爲する本能の赤兒だつた。君のあらゆる行爲と生活は、人間社會の常識を超越してゐた。君は野の獸のやうに、何物の理性にも捉はれないで、眞の本能が命ずるままに、純眞の感情生活を送つてゐた。すべての野獸の本能がさうである如く、君は火のやうに嫉妬深かつた。あらゆる異性の接觸に對して、君は看守の如く眼を見張つて、獨りで苛だたしく嫉妬してゐた。君は道で出逢つた若い女が、知己の青年にお辭儀をしたといふだけでも、世界が轉覆するほどの嫉妬を感じ、百の慷慨悲憤をした。當時の酒飮仲間だつた歌人河野愼吾君は、幼ない婚約の妻をもつてゐるといふだけで、君の苛立たしき嫉妬を買ひ、幾度か本郷の街路に組み伏せられ、理由なく下駄で頭を叩き割られた。

 室生君!
 あの頃の君の生活は、言はば「街に放された野の獸」であつた。君は自然の森林から這ひ出してきて、二十世紀の文明都市に迷ひこんだ、不幸な寂しい野獸だつた。君はあらゆるものを破壞した。夜おそく、東京市中の電燈を門竝に叩き壞し、交番の巡査に石を投げて留置所に入れられた。
 君はいつも貧乏で食物がなく、十二月の冬空に單衣を着てゐた。そして路傍で拾つた繩の帶を卷きつけながら、平然として吉原遊廓へ登り込んだ。
 君は或る日、道で牛乳屋と突き當つた。
「氣をつけろ! 乞食奴!」
 と牛乳屋が怒鳴つた。すると怒氣心頭に發した君は、肩をまつ四角にして怒鳴りかへした。
「馬鹿! 室生犀星を知らんか!」
 牛乳屋はびつくりして、暫らく君の顏を見つめてゐた。そして急に背中を向けると、そのまま一散に逃げてしまつた。君は得意になつて大道を闊歩した。だがその翌朝、君は蒼ざめた顏をしてやつてきた。そして昨日の喧嘩した牛乳屋が、夜遲く復讐に來るであらうを考へ、恐怖と心配で寢られなかつたと語つた。
 君は食事の時刻になると、いつも極つて僕の所へ訪ねて來た。そしていつまでも、默つてもじもじと坐り込んでゐた。
「君、飯はまだかね。食つて行き給へ。」
 すると君は必ず答へた。
「うん! もう食つて來たんだ。」
 そのくせ僕が膳を出すと、さも待ち遠ほに掻つこんで歸つて行つた。

 室生君!
 君のあらゆる「自然の行爲」は、人間社會の一切の習俗を超越してゐた。君はいつか、素つ裸で家根裏の部屋にふるへてゐた。その時丁度、米屋やミソ屋の借金取りが、一團となつて君を襲撃してきた。君はいきなり立ちあがつた。そして素つ裸の腰に箒をさし、手に蠅叩きをもつて階上から獸のやうに叫んだ。
「ここへ一疋でも登つてみろ。叩きつぶすぞ!」
 催促に來た商人たちは、眞つ蒼になつてばたばたと逃げ出した。

 室生君!
 何といつても僕たちの強い記憶は、あの千九百何年かの、上野博覽會の時の交遊だつた。夏であつた。僕は毎日のやうに池の端の會場へ行き、夜になればイルミネーシヨンの輝やく不忍池畔で、龍宮の形をした場外の酒場へ飮みに行つた。
 美しい夏の夜。あらゆる博覽會夜景の物音。空に聽える管絃樂。散りばめた電氣の裝飾。至る所のイルミネーシヨン。ああ僕は、今でもあの博覽會夜景の樂しさを忘れない。
 君はいつも酒に醉ひしれて、池の端の賣店をひやかし歩いた。そこには君の戀を感じた娘がゐた。露西亞人の混血兒で金髮に黄色い皮膚をした娘だつた。
 夏の或る暑い白晝、君はその娘を見ようとして、人氣のない池の端の賣店をたづねて行つた。灼きつくやうな午後の暑さに、地面は白く乾いてゐた。太陽は綿雲の下に蓋はれ、人影の散々としてゐる池の端の上空には、博覽會の輕氣球がさびしげに浮んで居た。
 君は十錢銀貨を固く握つて、賣店の前を幾度か往復した。そして娘の手から小布を受取らうとした時、突然、君の身體からだは崩れるやうに倒れてきた。俄然! 物の顛覆する音と一所に、二つの抱擁體が床の上に轉がつた。君の身體は娘の上に重なつてゐた。
「きやあツ!」
 といふ恐ろしい女の悲鳴と、驚くべき異常の騷動とが、夏の白晝まひるの物倦い情景を一變させた。巡査が馳けつけた。群集があつまつてきた。だがその時君の姿は、ステツキをふりつつ鼠のやうに坂を馳けあがつてゐた。君の行爲は實に敏捷だつた。丁度君の崇拜してゐた、あの兇賊チグリスのやうに。


 室生君!
 君の過去の逸話について、僕は書きたいことを澤山もつてる。君のさうしたあらゆる行爲と性情とは、僕にまでアナアキズムの第一原理を感じさせた。君は僕にとつての「英雄ヒーロー」だつた。何よりも人間の自然性がいかに「方則」の上に超越するかと言ふことを、君は僕に教へてくれた。僕はただ一日も、君なしに生活することのできない孤寂を感じた。君と一所に居る時ほど、人生が僕にとつて明るく見えることは無かつた。丁度あの昔の小姓等が、その主君へ特別な愛敬を捧げたやうに、男色の關係からではなく、僕は君を愛し崇拜した。君は僕にとつての愛人であり、そしてまた英雄であつた。
 室生君!
 だが僕はもう語るまい。なぜならば僕のすべての言語や追憶は、今の君を怒らせることを知つてるからだ。君がもしこの原稿をよんだならば、どんなに腹を立てて叫ぶかを想像する。
「怪しからん奴だ。萩原は俺のゴシツプを書きやがる。」
 だが室生君。僕は決して君のゴシツプを書くのぢやない。ゴシツプの興味ならば、對手への中傷や、意地惡やもしくは單なる面白がりの惡戲いたづらにすぎないだらう。所が僕の意志は、丁度その正反對の所にあるのだ。僕は君を愛する故に、君の藝術の背後にある、君の眞人格を世に見せようとして之れを書くのだ。
 室生君!
 君は多くの小説を書いてゐる。そしてその小説には、君の過去の生活の大半が書き盡されてる。だがそれは君を二分した、一方の部分のものにすぎない。君は君の生活から、或る特殊の部分だけを拾ひあげてる。そしてより本質的なる、眞の本然する君らしき部分のものは、てんで書かうとしないのみか、追懷のそれに觸れることすら厭やがつてゐる。君は考へてる。「過去は僕の惡夢だ」と。だから他人の言が、少しでもその部分に觸れる時、君は眞つ赤に腹を立てる。君は叫ぶ。「貴樣はおれを侮辱するか」と。丁度多くの前科者が、前身について言はれることを恐れるやうに、君も病的にそれを恐れ、君の自敍傳から抹殺しようと考へてる。
 室生君!
 だがさうした君の氣持ちは、僕にはよく解つてゐる。君の藝術の出發點は、始めから「反性格」に存してゐるのだ。反性格といふことは、しかし「性格に無いもの」を書くといふ意味ではない。――性格に無いものがどうして書けるか。無から有は生じない。――表現上における反性格とは、實には性格の中に存しながら、觀念が行爲の表象に現はれて來ないもの、したがつて生活の意識下に沈熱して、不斷に爆發の機會をねらつてゐる所の、一の人格的イデヤを意味してゐる。概ねの藝術は、皆この人格的イデヤのあこがれから生れる故に、反性格こそは、すべての藝術の本質的特色だといふことができるだらう。

 室生君! いや失禮した。つい筆がすべつて君の「大嫌ひ」の理窟になつた。君は實に理窟が嫌ひだ。否、理窟といふのではなく、抽象的の言語や觀念が厭ひなのだ。君は常に本能によつて直感する。理智のいかにしても到達できない、深遠祕密の大哲學を「本能によつて」直覺し、自然や人生から隱れたものを觀照する。かういふ點でも、僕は君の性格に「動物的なもの」を感知する。否、動物的といふ言語は撤囘しよう。とにかく「自然のまま」の性情が、概念の至らない祕密を嗅ぎ出してくることで、君は野の獸や鳥のやうな官能の器官を持つてる。――それが君の小説に「感覺派」の定評をあたへるのだ。――
 君のかうした本能性が、一切の理窟を輕蔑し、先天的にそれを惡むのだ。君にとつてみれば、すべて抽象的のものは興味がなく、ただ具象的のもの、レアールのものばかりが眞實なのだ。したがつて君の藝術觀は、始めから理想派に反對して現實派に向つてゐる。すべての自然獸がレアリストである如く、君もまた極端のレアリストで、官能の支配する現實の人生にのみ美を見出してる。そしてこの性情が、君を今日の心境小説に導いて行き、僕の大嫌ひな自然主義的レアリズムにまで、次第に傾向させて行つたのは自然である。
 だが此等のことについては、他日また別の機會で詳論し、大に君に對する僕の反對意見を披瀝しよう。此所ではまた始めにかへり、君の藝術の反性格について話してみよう。

 室生君!
 僕をして端的に言はせれば、君の一切の敍情詩と小説とは、君の性格の表象下に沈熱してゐる所の、一のイデヤに對するあこがれである。だからこの點では、君の藝術は君自身に對する理想派の表現である。實に僕は、之れをはつきりと公言する。君のあらゆる生活は、君自身に對する嫌忌と克服によつて一貫してゐる。何よりも君は、君自身の容貌が嫌ひなのだ。君は自分の顏を鏡に映して、絶えず自分で腹を立ててゐる。思ふにその鏡の中には、君が理想とする容貌――それは君の敍情詩や小説によつて聯想される如き、優にやさしい美少年の顏であらう。――と丁度正反對のものが映つてゐる。

 室生君! 君の如き極端な自己嫌忌者は、君の知る世界に於ては殆んど居ない。どんなに君が、君自身の容貌を惡んでゐるかは、かつて君が鏡を指して
「世界における、僕の最も嫌ひな顏が此所にある。」
 と言つたほどに有名である。だが君の嫌ひなものは、あへてただ君自身の容貌ばかりでないだらう。その容貌に現はれてゐる所の、君の性情そのものが、根本的に君は、大嫌ひなのだ。
 何よりも君は、君自身の性情する「粗野」を惡んでゐる。言つてみれば、その「野獸のやうな自然性」が、君自身にとつて最も嫌厭すべき對象なのだ。そこで君の理想は、昔から君が口癖のやうに言ふ所の、所謂「教養ある人物」なのだ。
「いかにして教養ある人物となるべきか?」
 これが君の觀念生活における、意志の目標する一切だつた。だから君の憧憬は、あらゆる場合に於て文明的なもの、優美なもの、禮節あるもの、典雅なもの、文明紳士的なものに向つて居た。君は「教育」とか「文明」とかいふ語に對しては、盲目的に一も二もなく恐れ入つて居た。何よりも君は、自分の無學を恥ぢ、野性を恥ぢ、文明の禮に習はないのを恥ぢてゐた。丁度森林から出てきた蠻人が、文明世界における自己の裸體を恥ぢるやうに、君は自分自身の超習俗的な自然性を、この上なく羞かしいものに感じてゐた。

 室生君!
 かうした君の心理について、僕は充分の理解をすることができる。何となれば君は、實にその粗野な心の一面に、女のやうな優しい羞恥を持つて居たからだ。否、羞恥心といふ如き世俗の言語は、君の場合に適應してゐない。羞恥心ではなく、或る内氣な、純良な、感じ易い、一言で言へば「いぢらしき心根」だ。さうだ! この「いぢらしき心根」が、實にあの敍情小曲を生み、小説「性に眼覺める頃」を書かしたのだ。

 室生君! 君はそれを自覺してゐるか。君の中にある反性格者、君の中にある藝術家の本體は、實にこの一つの「いぢらしき心根」なのだ。その一つの心根が、遠く旅に出た宿屋の部屋で、つれなき女中に銀紙の洋盃コツプを作つてやり、飢ゑて貧しい都會の空で、故郷を戀ふる哀傷の詩を歌はせ、そして文明社會における君自身の裸體を羞かしく感じさせた。さうだ! それが實に君の藝術的本體の一切なのだ。

 室生君!
 どんなに長い間、君が君自身を征服すべく、自己叛逆の長い苦鬪をつづけて來たか。僕はそれを知つてる。第一に、君は先づ酒を廢した。酒が、あらゆる場合に於て人間の野性を暴露し、先祖の自然獸にまで我々を逆行させるといふことを、君は自ら最もよく自覺してゐた。人が文明紳士になるためには、先づ以て酒を廢しなければならない。(丁度今日のアメリカ人のやうに。)そこで君は酒を廢した。それから次に一切の無節制と放縱を。

 室生君! 丁度その時、君の求める理想の人物が、君の友人として發見された。芥川龍之介氏である。僕はどんな宇宙の對照からも、君と芥川君とにおける如き、それほど鮮明なコントラストを見たことがない。一方は「自然人」の代表であり、一方は「都會人」の代表である。一方は「本能派」の親玉で一方は「理智派」の象徴だ。そして尚且つ、君の習俗を超越した放縱無禮の野蠻に對し、芥川君のいかに禮節正しき人物であることだらう。
 思ふに芥川龍之介こそは、君の昔からイデヤとした「教養ある人物」の、正に現實的に典型されたものでなければならない。この理想の人物を得て、君がいかに悦び、いかに驚異し、いかに滿足したかは想像するにかたくない。君はその新しき友について、先づ僕にかう語つた。
「教養あり、禮節あり、學識あり、先づ彼れの如きは、當代稀れに見る人物だらう。」
 と。それからまた僕に向つて、或る時次のやうな非難をした。
「君の如き、少しも人物が出來て居らんぞ。」


 室生君!
 かくの如くして、君は次第に君自身の「完成」に進んで行つた。この數年間の中に、いかに君が著るしく變貌してしまつたか。容貌にも、態度にも、性情にも、全然どこにも昔の面影を見られなくなつてしまつたほど、それほど君は驚くべき變化をした。
 僕は信ずる。君の最近におけるどんな訪問者も、君の中に「野獸性」や「自然性」を發見することができないだらう。實に君は、全力をあげて自らそれを殺してしまつた。否むしろ、教育によつて訓練してしまつた。今の君は、もはや何人の眼に於ても、森林から出てきた原人ではなく、却つて教養あり、禮節あり、そして典雅の趣味を愛する所の、一個品性高き風韻の好人物である。君は完成した。實に君自身の「理想」に向つて、君自身の自然性を克服し、教育によつて性格を一變させた。君は完成した。人物として完成した。

 室生君!
 しかしながら僕は、さうした君の完成を寂しく思ふ。なぜならば僕の「英雄」は、君の自ら羞恥して克服した所の、昔の天馬空を行く自然性にあつたのだから。今日の「教育された室生犀星」は、依然として昔ながらに僕の愛人ではあるけれども、もはや僕にとつての英雄ではなくなつたのだ。僕は君を愛する。だが昔の小姓のやうに、君を主君として奉仕しようとは思はない。室生君! 僕は寂しいのだ!
 僕はしばしば君に忠告した。
室生君! 君は自分の中での、最も貴重な生命を虐殺してゐる。」
室生君! 君のいふ人物とは、世俗的意味の人物にすぎないのだ。藝術はそこにない。」
 けれども君はかしらをふつた。その答へようとする意味は、思ふに次のやうなものであつた。
「世間的の人物にならないで、どうして小説が書けるか。」
 僕はその言葉を、君の心の中に推察した。そして「詩」と「小説」との、文學上に於ける根本の相違を考へて慄然とした。すくなくとも日本の文壇が、過去に意味してゐる如き小説――自然派末派の流れをくむレアリズムの小説――が、到底本質上に於て詩と兩立できない文藝、詩を殺すに非ずば成立できない俗物主義の文藝であるのを考へ、君のために慄然たる杞憂を感じた。なぜならば君がその詩人的超俗性を持つてゐる間は、到底文壇的意味の小説を書くことができないから。逆に君が小説家として成功し、今の文壇で名人呼ばはりをされる時は、逆に君の中の自然性や純眞性やが、次第に消滅されてゐる時であるのを感知したから。

 室生君!
 僕は君に對する文壇的名聲の嫉妬からして、かかる奇矯の言を爲すものでない。僕の本當の怒は、實に今の文壇そのものに向つてゐるのだ。自然主義的なる一切のものに對して、僕は徹底的に憎惡の牙をむいてる。そして君がこの文壇――實は散文壇――に入り、その不潔な空氣に觸れしめたことが、運命的に腹立たしく呪はしいのだ。實に君は、生活の必要から、妻子を養ふ必要から、止むなくその方に這入つて行つた。だから私の鬱憤は、君をそこに導いた社會に向つて、運命に向つて爆發するのだ。

 室生君!
 しかし君は、いつも嘆息して人に語つてゐる。
「僕は小説書きだ。米鹽のために心にもないことを書いてる、賤しい戲文弄筆の徒だ。僕の本當の創作慾は、淨机に向つて詩を書く時にだけ感じられる。それだけが僕の眞の人生だ。」と。
 さうだ。君は今でも世間竝の小説家ではない。君はやはり詩人だ。天の生んだ氣質の詩人だ。どうして所謂小説家――あの自然派末派の俗物共――に、君のさうした心持ちが解るものか。我々の文壇では、やはり君だけが眞の小説を書いてるのだ。

 室生君!
 だが僕等二人は、何といふ寂しい友人だらう。君の小説の中では、僕はいつも「世間慣れない、物事に無頓着な、おとなしく人の好いお坊つちやん。」として、型で押したやうに書かれて居る。さうだ。君は君の「いぢらしき心根」に映る所の、その部分だけを僕の生活に見て居るのだ。そして單にそれだけをだ。

 室生君! どんなに僕が過去に於て苦悶したか。幾度か自殺を考へたほど、それほど思想上と生活上との、救ひがたい絶望的苦悶に陷入つて居たかを、君は少しも――眞に文字通りに少しも――知つてはくれないのだ。なぜといつて君は、全然思想上の生活について觸れてくれない。何を言つても、何を訴へても、すべて皆君にとつては「理窟」なのだ。
「理窟は止めるこつちや。」
 これで以て、一切の思想的苦悶が一蹴されてしまふのだ。單に思想上のことばかりでない。生活上や家庭上のことに於ても、僕のあらゆる複雜した過去の苦悶、暗く絶望的な運命を忍從したり、それについて戰つたりしたことを、君は全つきり考へてくれないのだ。何となれば僕の生活の大部分は、主として心理上の内面的經過であるのに、君はまた先天的に心理學が嫌ひであつて、問題に觸れることを悦ばないから。心理的にみれば、君ほど人生を單純に一本氣に決定してしまふ人間はない。

 室生君!
 僕の寂しい孤獨の過去は、ただ君一人しか親友を持たなかつた。僕の手紙を書く名宛も、生活の祕密を語る友も、天地にただ君一人しか居なかつた。然るに君は、始めから僕の「いぢらしい部分」の外、何物も見ようとせず、聞かうとも欲して居ないのだ。
「この友人には、これこれの部分は解る。だが他の部分については、始めから默つてゐる方が好い。」
 だれも人々が、その友人等について談話の選定をする如く、僕も君に對して常に談話の選定をした。だから僕は君に對して、生活の餘技的なもの、どうでも好い部分のみを語るべく、いつも餘儀なくされてゐた。僕の眞に訴へようとしてゐる多くの重大な生活事件は、久しい間全く話すべき對手を持たなかつた。僕があの長い間、可成の苦悶にみちた生活を忍從してゐながら、書面上にも談話上にも、一も訴へるべき對手をもたず、獨り寂しく田舍に悲しんでゐたといふ一事は、考へるだけでも腹立たしい運命の皮肉である。そして室生君! 君はそれを少しも知つてはくれないのだ。
 友よ!
 ああ眞に僕等は孤獨だ。なぜならば君は、丁度僕に對してその逆の不平を言つてるからだ。君が僕に對して、常にかうした怨言をしてゐることを、僕は或る人々から確かに聞いた。
萩原は親友でありながら、少しも僕の小説をよんでくれない。否、てんで僕の心境を理解してくれないのだ。」
萩原には何を話しても解らない。まづあの位沒趣味の人間はないだらう。壺を見せても、庭を見せても、陶器を見せても、何を見せても無關心で、彼一流の氣のない返事――「さうかね」――を言ふばかりだ。
 萩原はてんで僕の生活を理解しない。否、理解しようとすら思はないのだ。あんな位友情のない、利己主義な、趣味のわからない人物は居ないだらう。」
 その通りだ。僕はたしかに今の君を理解して居ない。否、理解することを勉めて自ら避けてるのだ。なぜならば君の今の生活や心境には、僕の正面から敵としてゐる自然主義的の人生觀――東洋的なあきらめや、じめじめしておつけ臭い俳句趣味――やがあるからだ。僕がもし君を許すならば、僕が「新しき欲情」の昔から敵として戰つてきた、一切の不潔感を許さなければならなくなる。そして之れ、明白に僕の思想生活の破産だからだ。

 室生君!
 だがかうした思想上の理窟が、また君には理解できないから仕方がない。一切の議論は止めておかう。とにかく我々は、何れにせよ不幸な寂しい人間だ。僕が君を理解しようとしないやうに、君はまた僕を理解しようとしてくれないのだ。
 友よ!
 ああ我々がいかに寂しいかといふことを、終りにもう一度言はせてくれ。僕は今迄、故意にそれを言はないやうに、寂しさから眼をそらした。だが此所ではつきりと言つてしまはう。友よ! 我々は今、明らかに思想上における敵の立場に立つて向つてゐるのだ。君が僕を惡む。そして僕が君を怨む。そこには皆判然たる認識上の理由があるのだ。

 附記。
 この一文を書いたのは、本年五月頃のことであつた。當時原稿のまま、之れを芥川龍之介君に見せた所、余が室生君に對して言はんとする所を、正に適確に言ひ盡したりとの同感を得た。よつて僕の言の必ずしも私情的獨斷でないのが解ると思ふ。事情あつて原稿のまま燒き捨てようと思つたが、最近また考へ直す所があつて發表した。





底本:「萩原朔太郎全集 第八卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年7月25日初版発行
底本の親本:「新潮 第二十五年第一號」
   1928(昭和3)年1月号
初出:「新潮 第二十五年第一號」
   1928(昭和3)年1月号
※「室生君!」の行の前の空行の行数がバラバラなのは、底本通りです。
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2021年7月27日作成
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