室生犀星に就いて

萩原朔太郎




 たいていの文學者は、何かの動物に譬へられる。例へば佐藤春夫は鹿であり、芥川龍之介は狐であり、谷崎潤一郎は豹であり、辻潤は山猫の族である。ところで、同じ比喩を言ふならば、室生犀星は蝙蝠である。彼はいつでも、自分だけの暗い洞窟に隱れてゐる。彼は鷲や鷹のやうな視覺を持たない。けれども翼の觸覺からして、他の禽獸が知らないところの、微妙な空間を感覺して居る。すくなくとも彼だけの洞窟では壁の裏側に這つてる小蟲や、空氣の濕つぽい臭ひまで、殘る隈なく觸覺してゐる。彼は他の世界に出られない。そこでは盲目になるからである。しかし自分だけの世界に於ては、宇宙第一の智慧者である。

 これからして犀星は、文壇で「感覺派」と呼ばれてゐる。たしかに! 彼は蝙蝠の翼をもつた感覺派である。だが感覺派といふ言葉が、もし感覺主義者を意味するならば、彼の本領は反對である。むしろ本質について言へば、彼は「純情派」の文學者を典型として居る。彼に於てはあらゆる人生が純情によつて眺められる。彼は決して、心から人を憎むことの出來ない男で、何物に對しても涙ぐましく、情緒のいぢらしさで眺めてゐる。自然でさへも、彼はいたはりの眼で觀察してゐる。げにその處女詩集に名付けた如く、犀星は「愛の詩人」なのである。

 彼の性格氣質の中には、多分に東洋的のものが滲み渡つて居る。それは藝術家の生活としても、彼を東洋的の修道院に住まはせてゐる。その東洋文人の修道院で、彼は、「身を修め藝を研く」の古訓を守り孜々として修養して來た。この點で彼の生活樣式は、故芥川龍之介君と同型であり、東洋文人の或る範疇を思はせる。一方で僕自身は、西洋流の文學史に特色してゐる、あのルツソオ的言行矛盾や、ドストイエフスキイ的不身持ちから、生活と藝術とを矛盾さすべく、そこに天才の定義を考へて來た。僕と彼は反對である。

 彼には二つの面がある。子供のやうに單純で無邪氣にまでいぢらしい一面と、文人意識で四角張り、窮屈に肩を張つてる一面である。淺い交際の人たちは彼について後の面にしか見て居ない。その觀察は人を誤まり、犀星を窮屈で氣むづかしく、時に反感を抱かせる迄、傲岸な人物のやうに印象させる。或はまた純東洋風の文人として、花鳥風月の趣味に遊ぶ、悟りすました人物のやうにも印象させる。だがその觀察は淺薄である。深く交際して知つてるものは、彼の本質がその點でなく、無邪氣な子供のやうに純眞であり、むしろ全くは「自然のままの野獸」でさへあることを、だれも觀察してゐるのである。しかも彼は性來の羞かしがりと内氣さからさうした「自然の本位」を人に隱し容易に見せまいと努力してゐる。

 しかしながら犀星は、實際にまた古武士的の典型を多量に持つてる。即ち佐藤惣之助の所謂「金澤藩士」で、氣質の本當の内部にさへも、裃を着た義理堅さや、劍を構へた禮節やがあるのである。犀星の評によれば、僕もまた彼と同じく、馬込村に於ける劍客の一人であるさうだが、僕がもし武士としても、月代をのばした浪人組の部類であつて、彼の藩士の眼から見れば、一個の浮浪人にすぎないだらう。僕は幕末の革命に飛び出したり、時には辻斬強盜などもやる方だが、犀星のは本當の古武士であつて、君主の前で禮節正しく構へてゐる。彼と話をしてゐる時、僕は時に死んだ母方の祖父を思ひ出す。その祖父は人々から、常に古武士の典型と言はれてゐた。僕は幼時からして愛せられ、祖父の膝下で躾けられた。室生はその昔の愛を思ひ出させる。

 彼は堅忍不拔の意志を持つてる。何物にまれ、それを志した以上には、大成に至るまで修養し、克己して坂道をよぢ登つて行く。しかも馳け足で登るのではなく、一歩一歩と大地を蹈みつけ、隱忍自重して進んで行く。彼の文壇に於ける成功も、一つはその天分によるとは言へ、この堅忍不拔の強い意志と、確實な修養法とに存するのである。實に彼は、國定教科書の中にも採用さるべき立志傳中の人物である。それは僕にとつて、憎々しき迄強げに見える、英雄の印象を感じさせる。

 僕は犀星の詩を全部讀んでる。だが彼の小説は、正直に告白して殆んど讀んでないのである。僕にはその方の批評が出來ない。けれども人物について觀察すれば、彼は小説家であるよりも確かにより多く詩人である。(その明白の證據は、彼の友人の大部分が皆詩人であつて、小説家の側には全く知己のないのを見ても推察される。)思ふに彼の小説も、その本質の詩に於てのみ、評價の正しい價値をもつのだらう。彼に於ける散文は、詩の延長であるに過ぎないだらう。

 彼の文章は、時に小學一年生のやうに純眞である。僕は彼の詩の或るものや、感想、隨筆の或るものから、常にそれを感じて微笑してゐる。その特殊な文章は、丁度小學校の一年生が、鉛筆の心を舌で嘗めつけながら、一所懸命で紙の上に書きつけてる、あの片假名の作文を聯想させる。それは舌たらずの片言であり、文法さへも解らないほど、不思議にイグノランスの文章だが、その子供らしさの無邪氣の中に、どんな成人の天才も及び得ない、奇妙な力強い魅力がある。子供が文章の天才である如く、彼もまたその流儀で、ユニツクな文章の天才である。

 彼は田端の家を移り、その庭をさへ破壞して、今や新しき生活に一轉すべく、過去のすべての者に別れを告げてる。室生犀星は新生した。彼はすばらしき勇氣を以て、獅子のやうに身構へて居る。おそらくは近い中に、僕等の全く見ちがへるほど、變身の著るしい犀星を見るであらう。單に變化するばかりでなく、前よりも更に深く、ずつと大きな犀星に成るであらう。僕は友人としての情誼に於ても、彼の未知數の前途を考へ、希望と好奇心に鼓動して居る。

――昭和四年・八月――





底本:「萩原朔太郎全集 第八卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年7月25日初版発行
底本の親本:「春陽堂月報 第二十九號」
   1929(昭和4)年10月号
初出:「春陽堂月報 第二十九號」
   1929(昭和4)年10月号
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2021年7月27日作成
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