室生犀星の印象

萩原朔太郎




 室生とはあまり知りすぎて居るので、却つて印象といふやうな者がない。私が始めて彼の名を知つたのは、北原白秋氏の雜誌ザムボア(今のザムボアではない)で、彼の敍情小曲を見た時からだ。その時分は僕等もまた少年時代の心もちがぬけないで、たいさう純樸な若々しい情緒をもつて居たので、お互に浪漫的ロマンチツクな小曲をかいてゐた。言はば此の時代は、あの「コサツク」を書いたトルストイ、「貧しき人々」を書いたドストイエフスキイの時代であらう。
 室生のリズムが、どういふものかすつかり氣に入つてしまつて、たまらなく感心したのでたうとう未見の彼と逢ふことになつた。郷里の停車場で始めて逢つた時の室生は、詩から聯想してゐたイメーヂとは、全でちがつた人間であつた。私は貴族的の風貌と、青白い魚のやうな皮膚を心貌しんばうに畫いて居た。然るに事實は全く思ひがけないものであつた。妙に肩を怒らした眼のこはい男が現はれた時、私にはどうしてもそれが小曲詩人の室生犀星とは思へなかつた。
 かういふわけで、室生の最初の印象は甚だ惡かつた。容貌ばかりでなく、全體の態度や、言葉づかいや、言行からして、何となく田舍新聞の記者とかゴロツキ書生とかいふ類の者を思はせる所があつた。然るに不思議なことは、その後益※(二の字点、1-2-22)彼と親しんでくるに從つて、彼の容貌や、そのユニツクな人格や態度が、奇體に藝術的な美しさを以て見られてきた。「愛とは美なり」といふことは、實際どんな場合にも事實である。彼と私との友情が如はるに[#「如はるに」はママ]順つて、始め不快であつた彼の怪異な風采が、次第次第に快美なリズムに變つてきたのは不思議である。今の室生は勿論、全體に於て昔の金澤時代の彼とは變つて居るが、とにかく彼の容貌には、どこかヱルレエヌやベトーベンに見るやうな、藝術的の「深みある美しさ」があることを、近來になつてしみじみと感じてゐる。ほんとの美といふものは、矢張人格や心性からくる者であつて、單なる皮膚や肉づきから生れる者ではないやうだ。「偉人の容貌には奧深き美がある」といふことは、たしかに眞實である。
 室生のやうなユニツクな個性をもつた人間は、百萬人に一人も居ないと思ふ。北原氏は室生を評して「自然兒」と言つてゐるが、この言葉は彼の性格のある一面を最もよく説明してゐる。ホイツトマンでも、ヱルレエヌでも、詩人の性格にはどこか皆純樸な子供らしさや、ナイーヴな野蠻めいた所や、エゴの強いお坊つちやんらしい所のある者だが、とりわけ室生にはさうした方面の傾向が烈しいやうだ。併し彼はまた一面に非常に涙もろい處女のやうな優しい心をもつた男だ。それは彼が長い間逆境にあつて苦勞したためである。苦勞した人間と、苦勞しない人間(世間的生活的の意味でいふ)とは、他人に對する「思ひやり」や、氣の毒な人たちに對する心のもち方ですぐわかつてしまふ。同じエゴイストでも、苦勞した人はどこか他人に對する「思ひやり」が深い。之れに反して、世間的の苦勞を知らない人は、よほど善良な人でも、かうした博愛的の感情をもたない。心の中でもさうしたことを考へてゐても實際の行爲では仲々できないのである。トルストイとドストイエフスキイの相違も實にここにあるのだ。そして室生は、この點でドストイエフスキイ系に屬する他愛的エゴイストである。
 室生を知つてゐる人は、だれでも皆彼を賞めるが、よく知らない人や、一度か二度位しか逢つたことのない人は、たいてい變な顏をして、一種の怪奇な人物のやうに彼の噂をする。それは彼の性格が、あまりにざつくばらんで、あまりにナイーヴでありすぎるからだ。彼には遠慮とか氣がねとかいふ世間的の感情は殆んどない。電車の中でも何でも、大きな聲で婦人の月旦をする。そのくせ非常に神經質で小さいことに氣のつくことは驚くほどだ。たいていの詩人は、皆ナイーヴな自然兒らしい一面と、非常に神經質な感覺的の一面とをもつてゐて、その兩方からリズムを組み立てて行くのだが、室生の如きも、この點で申し分のない詩人的天稟をもつた人間である。
 室生の詩には、ほんとの生きたリズムが出てゐる。彼のリズムを粗暴だといふ人があるが、それはほんとに新しい言葉のリズムがわかつてゐないからだ。詩の微妙なリズムといふものは、決して妙な息づまるやうな語句の美にあるのではない。室生の「雨の詩」のリズムのやうな者は、實に何とも言へない音樂的の者だ。彼の神經過敏なことと、その感受性の鋭敏なことは、彼の詩のリズムによく現はれてゐる。一見無技巧のやうな言葉の中にこそ、近代人の鋭どい感性が働いてゐるのだ。かうした眞のリズムは、手先の技巧では作れないことだ。之れは全く天稟であり、神經である。ただ最近の詩に見る概念的の人道主義は、リズムとしても、思想としても、彼としてはやや良心を失つた者ではないかと思ふ。
 併し室生のほんとの印象は、到底、こんな斷片的な者では言ひつくせない。何れ機を見て私の知つてゐる詩人室生犀星なる者を、世間に紹介してみたいと思つてゐる。





底本:「萩原朔太郎全集 第八卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年7月25日初版発行
底本の親本:「秀才文壇 第十八年第六號」
   1918(大正7)年6月号
初出:「秀才文壇 第十八年第六號」
   1918(大正7)年6月号
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2022年2月25日作成
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