名詩集「思ひ出」の眞價

萩原朔太郎





◇新しいものは古くなる。しかし善いものは惡くならない。
 藝術の鑑賞では、これが最も大切な常識である。わが國の文壇では、いつも「新」と「善」とが同字義であり、「舊」と「惡」とが同じ概念を意味してゐる。即ち「古い」といふ言葉は、いつでも「無價値」を意味して居る。これがたいへんの間ちがひである。
◇すべての新しいものは、必然的に古くなる。昨日の新派は必ず今日の古典となる。しかしながら善いものは、常に永遠に善いのであつて、決して時代によつて價値を變へず、常に必ず善いのである。「古い」といふことは、しばしば「善い」といふことと兩立し得る。この常識がわからないものは仕方がない。
◇藝術の眞價を定めるものは、何といつても「時」である。時はすべての善いものと惡いものとを判別する。あらゆる藝術は、それが「新しい」印象をあたへる時には、決して眞價がわかつてゐない。今日世間で大家と言はれ、名作と呼ばれてゐるものが、殆んど大部分はニセモノであり、場當りの山師共であることを考へれば、いかに「今日の評價」がアテにならないことを知るであらう。ただ
◇此等の妖怪共も、時がたてば正體を現はしてくる。そして眞に價値ある藝術だけが、後世に殘つて傳へられる。
 それ故に藝術の眞の評價は、それが新しく感じられる時期を去つて、やや古く、過去のものとして考へられる時代に移り、始めて
◇正鵠を得るのである。しかしてすべての善きものは、古くなるほど益※(二の字点、1-2-22)評價をたかめてくる。丁度ゴマカシやニセモノが、その反對の運命を負ふ如く。

 明治以來、ずゐぶん多數の詩人と詩集とが現はれてゐる。しかし時代の變移を通じて、永遠に善いと思はれるやうなものは極めてすくない。尤も明治時代は、
◇我々のつい昨日であり、その時代の人々は、今日尚生きてゐるのであるから、今日我々の臆測するものは、不變に確實の評價でなくして、尚甚だアテにならない「今日の評價」にすぎない。實の正しい評價は、尚すくなくとも半世紀の時をへて生れるだらう。
 しかしながら明治の評價は、すくなくとも大正(即ち只今)の評價よりも信がおける。只今、ごく
◇最近に續出する詩集については、ただ一時の場當り的價値を言ひ得るのみで、その實の眞價は何人なんぴとにも不明であるが、明治時代のものに就いては、多少いくぶん確實に近い評價をもち得るだらう。
 そこで明治以來、過去に出版された幾百の詩集の中、今日に至つて尚廢滅せず、永くその眞價を傳へてゐるものが數種ある。私の知る限りでは、次の詩集がそれである。
島崎藤村……全詩集中の詩大半
薄田泣菫……暮笛集・ゆく春
蒲原有明……春鳥集・獨絃哀歌
三木露風……廢園・白き手の獵人
北原白秋……邪宗門・思ひ出
(二重圈點◎を附したのは、特に名詩集たるもの。)
 これらは何れも、千古
◇不滅の名詩集であると私は確信する。これらの詩集は、決して時代によつて價値を變ぜず、却つて古くなればなるほど、逆にその光輝を強めてくるものである。現に今日、我々がそれを讀みかへして、尚依然として生命に迫つてくる強い力を感ずるのである。思ふに最近新しく續出する
◇詩集の中、これだけの實質を有するものがいくつあるか? 最近の所謂「新しきもの」は、却つて大概この「古きもの」の半分の魅惑すらも有してゐない。「善いものは永遠に善い」といふことの意味は、此等の過去の名詩集をよむとき、何人なんぴとにもはつきりと合點できるであらう。
(但し此等の名詩集の作家と雖も、いつも必ず
◇善い作を出してゐると限らない。たとへば名詩集「ゆく春」の詩人泣菫は、後に「白羊宮」や「二十五絃」のやうな駄詩集――熱も色氣もないペダンチツクな駄詩集――を出して得意で居るし、神祕冥想の偉才詩人三木露風も、最近羅風と改名してからロクな詩は作つて居ない。北原白秋氏も近頃の詩はコハばつてゐる。さすれば最も多作な天才と雖も、一生に眞の名詩集は僅か一二册しか書いてゐないことがわかる。それ故に益※(二の字点、1-2-22)貴重なのである。)

 さて以上の
◇名詩集に就いて一應所感を述べてみたいが、今手許に本がそろつて居ないし、それに仕事が大きすぎる故、ここには他を略し最も自分と親しみの深い北原白秋氏の「思ひ出」に就いて、簡單に批評をかいて見たい。


 北原白秋氏は過去に四册の詩集を出版してゐる。即ち「邪宗門」「思ひ出」「東京景物詩」「白金の獨樂」であるが、この中、最後の「白金の獨樂」は、作者自ら言ふ如く一日一夜の急作であつて、いかにインスピレーシヨンの激潮に乘つたとはいへ、藝術として重厚のものとは思へない。世評の一致する如く、この詩集は他に比して劣つてゐる。他の
◇三詩集「邪宗門」「思ひ出」「東京景物詩」は、何れも後世に傳ふべき名詩集であるが、就中その最も圓熟せるは「思ひ出」である。
 詩集「思ひ出」は、或る意味に於て、實に白秋氏の出世作であつた。この詩集世に出づるや、當時の
◇文壇は文字通り驚嘆した。(當時の文壇は、今日の如く小説本位でなく、詩歌と散文が竝びに權勢してゐた。今日では、たとへ「思ひ出」のやうな名詩集が現はれても、文壇は全く之れを顧みず、ただ狹い詩壇だけの評判となるにすぎない。この意味で白秋氏は運の好い詩人である。)當時文壇の名家等は、口を極めて「思ひ出」を激賞した。特に
◇思潮界の大權威者であり、且つ詩壇評論のオーソリチイであつた上田敏博士が、これに最大級の讚辭をあたへたことは、一躍して白秋氏を文壇の巨星にし、名詩集の定評を不動にした。
 しかし今から考へるに、當時の一般文壇は、むしろ「名詩集」の美名に醉つて、實には深くその内容を知らなかつた如く思はれる。
◇上田敏先生すら、單に序文を激賞して、内容の詩篇に言を及ぼさなかつた。況んやその他の人々が、果してどれだけ實質を理解したかは疑問である。思ふにこの詩集が、當時の人氣に投じた由緒は、一にはその小唄風の詩曲が、通俗にも解り易く、一般の新しき興味をひいた點にあるだらう。現に今日でも、しばしば詩集「思ひ出」の名が、通俗小唄集の如く思惟されてゐる。そして現に尚さかんに賣れつつあるこの詩集の讀者は、概ね通俗な小唄の味を、これから求めようとしてゐるのである。
◇藝術に於る通俗性の是非については、ここに論ずべき範圍でないから、只次のことを言ふに止めておく。即ち「すべての優秀なる藝術は、必しも通俗的でない。しかし通俗的なるすべてのものが必しも低級を意味しない。」換言すれば「ある藝術品は、高級であつて且つ非民衆的である。又ある藝術品は、
◇高級品であつて然も民衆的である。」そこで「思ひ出」は、大體として勿論後者に屬してゐる。たしかにそれは小唄的通俗性を有してゐる。しかもそのことは、何等詩集の價値に關係しない。「思ひ出」が、もつと徹底的に通俗性を有してゐても、依然としてそれは優秀な藝術である。
 しかしながら「思ひ出」の實の眞價は決してそこにのみ有るのではない。吾人の世間に對する不平は
◇彼等の輿論が、稍もすればその通俗の一面性(小唄氣分)のみを認めて、より重要なる詩集の核心的價値を忘却してゐることにある。いかに久しい間、吾人は名詩集「思ひ出」の名を聞いてゐることぞ! しかもいかに久しい間、一もそれの正しい批評を聞き得なかつたか? 今や漸く、我々の時代の詩壇が、これの正當な評價を試むべき時期ではないか。
◇名詩集「思ひ出」を讀む人は最近の詩壇が發展してゐる一切の詩操の源泉が、そこに嚴として内在してゐる事を知るであらう。即ち最近の詩壇は、一の「思ひ出」の種から生長して自然に枝葉を擴げたものに外ならぬ。併しこの事は、一々説明する必要がない。實に「思ひ出」の驚くべきはその至る所の頁をあけても芳烈無比な詩的靈魂が高調されてゐる事である。





底本:「萩原朔太郎全集 第八卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年7月25日初版発行
底本の親本:「アルスグラフ 第二卷第一、二號」
   1926(大正15)年1、2月号
初出:「アルスグラフ 第二卷第一、二號」
   1926(大正15)年1、2月号
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2021年12月27日作成
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