大船驛で

萩原朔太郎




 例年の如く詩話會の旅行をする。一時二〇分大船經過の列車で行くから、同驛にて待ち合せよといふ通知が佐藤惣之助君からきた。丁度旅行に出たいと思つてゐた矢先なので、早速同行することに決心した。
 旅行の樂しさは、しかし旅の中になく後にない。旅行のいちばん好いのは、旅に出る前の氣分にある。『旅に出よう!』といふ思ひが、初夏の海風のやうに湧いてくるとき、その思ひの高まる時ほど、實際に樂しいものはないだらう。旅行は一の熱情である。戀や結婚と同じやうに、出發の前に荷造りされてる、人生の妄想に充ちた鞄である。
 二〇分、十五分、七分……。長い飽き飽きした時間の後に、やつと明石行の列車が這入つてきた。これに一行が乘つてゐるのだ。窓からいくつかの顏がのぞいてゐる。すべての出迎へ人がするやうに、一瞬の瞥見から求める顏を探さうとして、私は電光のやうにすばやく視線を窓に貫いた。そこの窓には詩話會の親しい友人、室生や佐藤や川路や福田や、それから就中百田宗治の四角な笑顏がのぞいてゐることを想像してゐた。
『おい! こつちだ。こつちだ。』
 どこかの窓で、さういふ聲が聽えるやうに思はれた。然るに、何といふ意外なる事實だらう。どこの窓にも知つてる顏はのぞいてゐない。二つ三つ殘つてゐた男の顏も、買物をした手と一所に窓の中に消えてしまつた。降りる人もなく乘る人もない。ひつそりとした白晝まひる歩廊ほうむに、巨大な列車が夢のやうに靜止してゐる。
 これでおしまひだ。旅行の空想は破られてしまつた。今から一行の跡を追つた所で、どこで會遇できるか解りはしない。私の痴呆症は先天的だ。それがどこまでも自分を社會的に不遇にする。眞暗な自己嫌忌に囚はれながら、それでも念のためにもう一度歩廊ほうむの時計を見た。不思議! 不思議! 時計はたしかに一時二〇分の時盤を指してゐる。念を入れて凝視した。たしかにちがひない。一行はこの列車に乘つてる筈だ。しかるにだれの姿も見えない。
 急に、或る不快な疑ひが起つてきた。さうだ! 一行はたしかに乘つて居るのだ。それでゐてだれも私のことを忘れて居るのだ。何たる薄情の者共だらう。約束して待ち合はす仲間の存在さへ忘れてゐる。そんな不人情の奴等と旅行して何の面白いことがある。そんな氷のやうな奴等と、かりそめにも同行を約束したことが誤まりだつた。
『だれが奴等と旅行なんかするものか? 勝手にしやあがれ。』
 疑ひの起つた刹那からして、自己嫌忌の念は變じて憤怒と憎惡に身ぶるひした。私は靴を踏みつけながら決心した。友情的にも、今後斷じて詩話會を脱會しようと。それでもプラツトホームを走りながら、念のために車中を一箱づつのぞいて見た。最後の二等車に來た時、出發の汽笛が鳴つて動き出した。私はあわてて飛び乘つた。とにかくも單獨の旅行をしようと思つたからだ。
『いつそ初から一人の方が好かつた。』
 さう思ふと却つて清々する。私は席を選ぶために、二等車から三等車の方へ移つて行つた。
『やあ!』
『やあ! 失敬。』
『失敬! 失敬!』
 車室の向うから大勢ぞろぞろとやつてきた。支那の貿易商人みたいな洋服姿で、佐藤惣之助が先頭にやつてきた。それから福田正夫と室生犀星がつづいてきた。室生は珍らしく洋服をきて、時計の鎖なんかをチヨツキにからましてゐる。
『失敬! 失敬! つい話に耽つて君のことを忘れたんだ。』
 やつぱりさうだ。いまいましい。よくも不人情の奴等ばかりそろつてゐやがる。
『でも最初に僕が氣がついたのだ。』
 流石に室生犀星が辯解した。あたりまへだ。他の人はとにかく、舊友の室生にすら薄情にされてはやり切れない。もし室生が氣が付かないなら、だれも旅行が終るまで知らばつくれて居る氣だつたらう。
 導かれた車室の中には、白鳥省吾、千家元麿、川路柳虹等の諸君が、いつもの親しい顏ぶりでそろつてゐた。皆はいろいろに辯解した。しかし私の内積してゐる鬱憤は、容易に會話の中に溶けなかつた。それが雪のやうに自然と溶けてしまつたのは、旅行の道程が可成進んだ後であつた。歸途に再度大船で別れる時には、もはや心から諸君に握手して禮をのべた。
『お蔭で愉快な旅行をした。諸君、僕の失禮をお詫びします。』





底本:「萩原朔太郎全集 第八卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年7月25日初版発行
底本の親本:「キング 第二卷第七號」
   1926(大正15)年7月号
初出:「キング 第二卷第七號」
   1926(大正15)年7月号
入力:きりんの手紙
校正:岡村和彦
2021年4月27日作成
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