酒に就いて

萩原朔太郎




 酒といふものが、人身の健康に有害であるか無害であるか、もとより私には醫學上の批判ができない。だが私自身の場合でいへば、たしかに疑ひもなく有益であり、如何なる他の醫藥にもまさつて、私の健康を助けてくれた。私がもし酒を飮まなかつたら、多分おそらく三十歳以前に死んだであらう。青年時代の私は、非常に神經質の人間であり、絶えず病的な幻想や強迫觀念に惱まされてゐた。そのため生きることが苦しくなり、不斷に自殺のことばかり考へてゐた。その上生理的にも病身であり、一年の半ばは病床にゐるほどだつた。それが酒を飮み始めてから、次第に氣分が明るくなり、身體からだの調子もよくなつて來た。
 酒は「憂ひを掃ふ玉帚」といふが、私の場合などでは、全くその玉帚のお蔭でばかり、今日まで生き續けて來たやうなものである。神經衰弱といふ病氣は、醫學上でどういふ性質のものか知らないが、私の場合の經驗からいへば、たしかに酒によつて治療され得る病氣である。一時的には勿論のこと、それを長く續ける場合、體質の根本から醫療されて來るのである。つまり飮酒の習慣からして、次第に神經が圖太くなり、物事に無頓着になり、詰らぬことにくよくよしなくなつて來るのである。惡くいへば、それだけ心が荒んで來るのであらうが、神經質すぎる人にとつては、それで丁度中庸が取れることになつてゐるのである。
 アメリカ合衆國では、一時法律によつて酒を禁じ、ためにギャングの横行を見るに至つたが、今日の神經衰弱時代を表象する文明人の生活で、酒なしに暮し得るといふことは考へられない。一體酒を罪惡視する思想は、ヤンキイ的ピューリタンの人道主義にもとづいてる。ところでこのピューリタンといふ奴が、元來文化的情操のデリカを知らない粗野の精神に屬してゐる。ピューリタンの精神は、ヘレニズムの文化に對する野蠻主義の抗爭である。すべての基督教の中で、これが最も非哲學的、非インテリ的な卑俗實用主義の宗教である。そこで救世軍等の宗教が、いかに街頭に太鼓を鳴らし、百度酒の害を説いたところで、文化人であるところの僕等藝術家が、一向にそれを聽かないのは當然である。
 一般にいはれる如く、酒が性慾を昂奮させるといふのは嘘である。むしろ多くの場合に、酒はその反對の作用をさへも持つてる。この事實については、僕は自分を實驗にして經驗した。それはまちがひのないことである。しかしだれも知る通り、酒は制止作用を失はさせる。そのため平常克服してゐたところの性慾が、意志の覊絆きづなを離れて奔放に暴れ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。そこで外觀上には、酒が性慾を亢進させるやうに見えるのである。實際のことをいへば、酒を飮んだ時の性慾は、質量の點で遙か平常に劣つてる。その上に粗野で感覺のデリカを缺いてる。眞の好色を樂しむ者は、決して酒を飮まないのである。
 酒が意志の制止力を無くさせるといふ特色は、酒の萬能の效能であるけれども、同時にまたそれが道徳的に非難される理由になる。實際醉中にしたすべての行爲は、破倫といふほどのことでなくとも、自己嫌忌を感じさせるほどに醜劣である。酒はそれに醉つてる中が好いのであつて、醒めてからの記憶は皆苦痛である。だが苦痛を伴はない快樂といふものは一つもない。醒めてからの悔恨を恐れるほどなら、始めから酒を飮まない方が好いのである。酒を飮むといふことは、他の事業や投機と同じく、人生に於ける一つの冒險的行爲である。そしてまた酒への強い誘惑が、實にその冒險の面白さにも存するのだ。平常素面しらふの意識では出來ないことが、所謂酒の力を借りて出來るところに、飮んだくれ共のロマンチックな飛翔がある。一年の生計費を一夜の遊興に費ひ果してしまつた男は、泥醉から醒めて翌日に、生涯決して酒を飮まないことを誓ふであらう。その悔恨は鞭のやうに痛々しい。だがしかし、彼がもし酒を飮まなかつたら、生涯そんな豪遊をすることも無かつたらう。そして律義者の意識に追ひ使はれ、平凡で味氣のない一生を終らねばならなかつた。酒を飮んで失敗するのは、始めからその冒險の中に意味をもつてる。夢とロマンスの人生を知らないものは、酒盃に手を觸れない方が好いのである。
 酒飮み共の人生は、二重人格者としての人生である。平常素面しらふで居る時には、謹嚴無比な徳望家である先生たちが、醉中では始末におへない好色家になり、卑猥な本能獸に變つたりする。前の人格者はヂキール博士で、後の人格者はハイドである。そしてこの二人の人物は憎み合つてる。ヂキールはハイドを殺さうとし、ハイドはヂキールを殺さうとする。醒めて醉中の自己を考へる時ほど、宇宙に醜惡な憎惡を感じさせるものはない。私がもし醒めてゐる時、醉つてる時の自分と道に逢つたら、唾を吐きかけるどころでなく、動物的な嫌厭と憤怒に驅られて、直ちに撲り殺してしまふであらう。この心理を巧みに映畫で描いたものが、チャップリンの近作「街の灯」であつた。
 この映畫には二人の主役人物が登場する。一人は金持ちの百萬長者で、一人は乞食同樣のルンペンである。百萬長者の紳士は、不貞の妻に家出をされ、黄金の中に埋れながら、人生の無意義を知つて怏々として居る。そして自暴自棄になり、毎夜の如く市中の酒場を飮み※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、無茶苦茶にバカの浪費をして、自殺の場所を探してゐる。それは人間の最も深い悲哀を知つてるところの、憑かれた惡靈のやうな人物だつた。そこで或る街の深夜に、ぐでぐでに醉つて死場所を探してゐる不幸な紳士が、場末の薄暗い地下室で、チャップリンの扮してゐる乞食ルンペンと邂逅する。ルンペンもまた紳士と同じく、但し紳士とはちがつた事情によつて、人生にすつかり絶望してゐる種類の人間である。そこで二人はすつかり仲好しになり、互に「兄弟」と呼んで抱擁し、髯面をつけて接吻さへする。醉つぱらつた紳士は、ルンペンを自宅へ伴ひ、深夜に雇人を起して大酒宴をする。タキシードを着た富豪の下僕や雇人等は、乞食の客人を見て吃驚し、主人の制止も聞かないふりで、戸外へ掴み出さうとするのである。しかし紳士は有頂天で、一瓶百フランもする酒をがぶがぶ飮ませ、おまけに自分のベッドへ無理に寢かせ、互に抱擁して眠るのである。
 朝が來て目が醒めた時、紳士はすつかり正氣になる。そして自分の側に寢てゐるルンペンを見て、不潔な憎惡から身ぶるひする。彼は大聲で下僕を呼び、すぐに此奴を戸外おもてへ掴み出せと怒鳴るのである。彼は自殺用のピストルをいぢりながら、昨夜の馬鹿氣た行爲を後悔し、毒蛇のやうな自己嫌忌に惱まされる。彼は自分に向つて「恥知らず。馬鹿! ケダモノ!」と叫ぶのである。
 けれどもまた夜になると、紳士は大酒を飮んでヘベレケになり、場末の暗い街々を徘徊して、再度また昨夜の乞食ルンペンに邂逅する。そこでまたすつかり感激し、「おお兄弟」と呼んで握手をする。それから自動車に乘せて家へ連れ込み、金庫をあけて有りつたけの札束をすつかり相手にやつてしまふ。だがその翌朝、再度平常の紳士意識に歸つた時、大金をもつてるルンペンを見て、この泥坊野郎奴と罵るのである。そしてこの生活が、毎晩同じやうに繰返されて續くのである。
 宿命詩人チャップリンの意圖したものは、この紳士によつて自己の半身(百萬長者としてのチャップリン氏と、その社會的名士としての紳士生活)を表象し、他の乞食ルンペンによつて、永遠に不幸な漂泊者であるところの、虚妄な悲しい藝術家としての自己を表象したのである。つまりこの映畫に於ける二人の主役人物は、共にチャップリンの半身であり、生活の鏡に映つた一人二役の姿であつた。しかもその一方の紳士は、自己の半身であるところのルンペンを憎惡し、不潔な動物のやうに嫌厭してゐる。それでゐて彼の魂が詩を思ふ時、彼は乞食の中に自己の眞實の姿を見出し、漂泊のルンペンと抱擁して悲しむのである。
 チャップリンの悲劇は深刻である。だが天才でない平凡人でも、かうした二重人格の矛盾と悲劇は常に知つてる。特に就中、酒を飮む人たちはよく知つてる。すべての酒を飮む人たちは、映畫「街の灯」に現れて來る紳士である。夜になつて泥醉し、女に大金をあたへて豪語する紳士は、朝になつて悔恨し、自分で金をあたへた女を、まるで泥坊かのやうに憎むのである。醉つて見知らぬ男と友人になつたり、兄弟と呼んで接吻した醉漢は、朝になつて百度も唾を吐いてうがひをする。そして髮の毛をむしりながら、あらゆる嫌厭と憎惡とを、自分自身に向つて痛感する。
 すべての酒飮みたちが願ふところは、醉中にしたところの自己の行爲を、翌朝になつて記憶にとどめず、忘れてしまひたいといふ願望である。即ちハイドがジキールにしたやうに、自己の一方の人格が、他の一方の人格を抹殺して、記憶から喪失させてしまひたいのだ。しかしこのもつともな願望は、それが實現した場合を考へる時、非常に不安で氣味わるく危險である。現にかつて私自身が、それを經驗した時のことを語らう。或る朝、寢床の中で目醒めた時、私は左の腕が痛く、ひどくづきづきするのを感じた。私はどこかで怪我をしたのだ。そこで昨夜の記憶を注意深く尋ねて見たが、一切がただ茫漠として、少しも思ひ出す原因がない。後になつて友人に聞いたら、醉つて自動車に衝突し、舖道に倒れたといふのである。もつとひどいのは、或る夜行きつけの珈琲店に行つたら、女給が「昨夜遲くなつてお歸りが困つたでせう」といふ。昨夜その店へ來た覺えがないので、私が妙に思つて反問すると、女給の方が吃驚して「あら! だつて昨夜來たくせに」といふ。不思議に思つてだんだん聞くと、たしかに昨夜來て居たことが、少しづつ記憶を囘復して解つて來た。それがはつきり解つた時、私は不思議な氣味わるさから、眞蒼になつて震へてしまつた。今一つの例を話さう。
 或る朝三越呉服店から、大きな買物包を配達して來た。家人が出て何事か言ひ爭つてる。家人の方では、そんな買物をした覺えがなく、よその間ちがひだらうといふのである。配達人の方では、頑として間ちがひでないことを主張してゐる。そこで結局、僕が呼び出されることになつた。だが僕も買物をした記憶がなく、家人と一緒に間ちがひ説を主張した。しかもその買物は、代金先拂ひになつてるのである。尚さら以て受取るわけに行かないのである。しかし配達人の方では、あくまで頑固に主張するので、私も少し懸念になり、だんだんよく昨夜の記憶をたぐつて見ると、たしかに、やはり私がそれを買つたのだつた。その晩私は醉つぱらつて、夜間營業の店へ這入つた。すると平常欲しがつてゐた品々が、明るい電氣の下に陳列され、夢のやうに魅惑的に見えた。酒に醉つてゐた私は、醉人一流のパッションと無計算とで、皆それを買ひたく思ひ、代金先拂ひにして自宅へ屆けさせたのだつた。そしてしかも、翌日すつかり忘れてゐたのだ。
 かうした記憶の喪失ほど、不安で氣味のわるいものはない。なぜなら或る時間内に於ける自己の行爲が、一切不明に失喪して、神かくしになつてしまふからである。昨夜の自己がどこで何をしてゐたか、どこを歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、何を行動してゐたかといふことが、自分で解らない時の氣味わるさは、言語にいへない種類のものだ。夢遊病にかかつた人は、自己の行爲に對して記憶を持たず、病氣が治つた後で、その過去の生活と、その半身の自己とをすつかり忘れてしまつてる。ウヰリアム・ゼームスの心理學書には、かうした夢遊病者と人格分裂者の實例がたくさん出てゐる。或る患者等は、病氣中の自己をB氏といふ他人名で呼び、自分とすつかり別の人物として語つてゐる。しかもそれを批判し、罵倒し、その生活について客觀的の見方をしてゐる。すべての酒飮み人種は、一時的の夢遊病者であり、人格分裂者であるのだ。
 シャルル・ボードレエルは、酒と阿片とアシッシュとに就いて、その藥物學的比較觀察をした後で、酒がいちばん健全であり、毒物的危險性がない上に、意志を強くするといつて推奬してゐる。阿片やアシッシュに比べれば、酒はたしかに生理的であり、神仙と共に太初から有つたところの、自然の天與した飮物である。猿のやうな動物でさへも、自らかもして酒を飮むのだ。支那人が酒の精を猩々に象徴し、自然と共に悠遊する神仙の目出度さに譬へたのは、まことに支那人らしく老莊風の思想である。この「酒の目出度さ」といふ思想が、キリスト教の西洋人には解らない。そこで彼等のピューリタン等は、酒を惡魔のやうに憎惡するのだ。酒の宗教的神聖の意味を知つてるのは、世界で支那人と日本人としか無いであらう。





底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年5月25日初版発行
底本の親本:「廊下と室房」第一書房
   1936(昭和11)年5月15日発行
※「基督教」と「キリスト教」の混在は、底本通りです。
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2021年4月27日作成
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