自分は人通りを
耳がシーンと鳴っている。夢中にあるいている。自分はどの道をどう来たのかも知らない。つく杖の音が
ここは何という町かそれもわからない。道を曲って、曲って、暗い道、暗い道をあるいて来たのである。新京極から逃げて来てからあまり時間を経たとも思わない。しかし何分
暗い道の辻を曲った時、うどんそば手打と書いた赤い行燈を見て、ふと「手打ちだ!」と思い出すともなく思ったあの瞬間を思い出した。それは抜打ちだった。「抜く手も見せず」というような言葉の聯想が湧いてくる。
杖をコツ・コツと突いている。あの男を撲った時はも少し高い音がしたと思う。コツ・コツ。それ程の音だ。何しろかたいものがかたいものに
「糞!」とも「畜生!」とも云わずに、この間の抜けた「阿呆!」という言葉は、人に手を加える時の切パ詰った気持を洩らす無意識の掛声だった。
巡査がやってくる。自分はぎくっとする。路を曲がれたら。駄目だ。何げない顔をして通る方がいい。そうだ、何にもなかったような顔をして口笛をでも吹いて。巡査はちらとゆきすぎる。
自分は自分の馬鹿を悔いる。自分はすこしも悪いことはしなかったつもりだ。撲ぐられた男こそは生きる資格もない卑劣漢だ。
道は暗い。みな寝しずまっている。
俺は巡査が変に気味が悪い。
自分は鑑札のない自転車にのって二度巡査につかまった。そして二度警察へ行った。未丁年で煙草を喫っていて巡査に年をきかれた。それからこちら、巡査に出喰わす毎に、怪しまれるというような予感が自分を襲った。
去年奥さんと二人連れで道をあるいていた時だった。交番の前で、巡査に叱られるような気がしたといったら、花子さんは悪いことをしているつもりでいるのかときいた。
道は暗い。何町だかわからない。ごみためのにおいがするようだ。気は少し鎮まって来た。撲った時は勿論撲ってからこちら自分には策略というような気持になれなかった。かっと逆上
しかしあるく毎になにか高くに上ってしまったものが少しずつ下って来たような気がする。一体何のための昂奮なんだろう。
シャツとさるまたの若者達が道の真中で棒押しをしている。そのあちらには明るい通りがある。それは市場だった。奥さんと一緒に
何だか追手がくるような気がする。追手がきたって平気なはずであるのに俺はなぜこんなことまで怖れているのかと思う。しかし自分には対手にまた出喰わすとか追手につかまるとかいう事の漠とした恐怖がある。自分は自分の方の正義の意識と独立に、そういう事柄に対する恐怖を持っているのだ。漠然としているが変に
白い運動肌衣の男が二人肩を並べて走ってくる。互に途切れ途切れに話しをしている。自分にはその親和の
人に怨みを買った経験に乏しい自分が二人の敵をつくってしまった。そして敵は平気で卑劣なことが出来る男だ。笑いながら復讐を謀っているその男の一味の顔さえ目に浮んだ。どんな復讐をするかわからない。いや、死んでもあんな奴等に敗けていては堪らない。しかしあんな奴等といがみあうのは堕落を意味する。断然殺してしまわねば死ぬまでまといつくような蛇にも思われる。あの男が一生俺につきまとう。そして心の平和を害する。
悪い犬に吠えられるのを、いまいましがるようなものさ。あんな男達と本気で喧嘩をするなんて問題にも何にもならないよといって誰かが鼻で
真摯な友達などはどうしているだろう。
自分は下宿を出てから三晩目だ。毎晩酒を飲んでいた。そして今夜は一文もなかったんだ。下腹で空腹の時のような痛みがする。
先程の酒場で直ぐ来るといって別れたKの所へ行きたい。心待ちに待っているに違いない。直ぐ行くと云ったものの、直ぐには行けないようになってしまった。撲ったのはその酒場の前の石畳の上だった。Kはその気配におどろいただろう。その快くかたい音を同じように快くきいただろう。きいてどう思っただろう。あのKなら自分と同じ世界に住んでいる。自分はこんな荒んだ気持で下宿へは帰りたくない。あのKと今夜この不愉快な気持を語りたい。そして自分の心を少しでも明るい方へ向けたい。しかし直ぐあの酒場には行けない。あの怖しい男がそこで介抱をうけているかもしれない。
道は暗く、時刻も分らなかった。しめきった家並は黒く寝しずまっている。心にはややゆとりが出来たが、足は前と同じ歩調ですたすたと歩いている。
ずっと先きを電車が
光と人の目をおそれる心をはげまして電車道へ出た。そこは四条通りであった。人々があるいているのが楽しそうだ。
自分は何げない顔をして
美しい娘が母らしい人と歩いて来る。俺の顔は青ざめているだろうか。こんな太い桜の杖をついて恐ろしい学生だと思うだろうか。
気持は少しくつろいだ。撲った時のあの顔を一度鏡で写して見て置くんだったと思った。もう顔のかたい線も和んだだろう。泰然としていなければいけない。
京極はすぐだ。○○堂の前。店員の怪しむような眼を睨みかえして油絵を見た。荒いブラッシの使いようである。片眼を半分閉じて見る。右の
突然自分はぎょっとした。何げなくしかも速かに横を向いてあるいた。急がないように急いで又暗い道へ入った。三人の男が立ち話をしていたんだ。近寄って見る勇気もない。あの中の二人が似ている。
蹴り上げられた心臓が
道をつきあたればE子の家になる。Dという友達の恋人の家である。男と女が通り過ぎる。
あの眼鏡屋の時計は十時前だ。活動を出たのが八時半頃で酒場へ行ったのは九時前だった。喧嘩をしてからまだ一時間程しか経たない。何時間も経ったような気がする。
E子は何というわからない女なんだろう。Dは東京で寂しがっている。俺の留守の下宿へまたセンティメンタルな手紙がきているにちがいない、早く返事をかいてやらねば可哀そうだ。
性のよくない男と喧嘩をして街をさまよった挙句E子の家の前までやって来た。君が胸を躍らせながら俺と毎晩あるいたあの眼鏡屋の通りを偶然今歩いてると書いてやったらどう思うだろう。あの事件があって以来DはE子を憎んでいる。自分がE子の家の前を通るのは、もしE子や家の人がこれを知ったら、Dに変に気をまわすかも知れない。しかし通らなければならない。俺は散歩をしているんだ。杖をついて散歩だ。真直ぐあるいているのだ。
巡査があるいてくる。これがさきの巡査だったら怪しく思うだろう。何しろ俺は散歩をしているんだ。
道は暗く空には星が一面にちらばっている。東へ曲った時東山の上に
俺はあるいている。
だが蒼い顔をした学生が散歩しているとしか見えないのだ。
眼蓋がひくひく痙攣する。
俺には何が善だか悪だかわからない。
わかっていなくとも通常の生活では胡麻化して来ることが出来たような気がする。しかし今夜こそ駄目だ。俺は怒りにまかせて人を撲った。それからそれへと平気ではいられないものが絶えず連続してゆく。しかも自分はわからない。それが苦しい。
一つの問題に悩んでいる自分の前に、問題が次々と山のように積まれてくる。そして自分はその内の一つも解き得ないでいる。それが苦しい。
鋭利な解剖刀のような普遍的法則が、それさえあればこの拷問的の荒縄を涙が出る
ああ、それさえあれば。
思えば自分はそのエルサレムへ急ぐ巡礼だった。
ハハハ。おいその巡礼が酒をのみに行ったんだ。それから杖で人を撲ったんだ。たたなわる葡萄畠や古い町々を涙を流して過ぎるかわりに、巡査と睨みあいながらバビロンをほっつきまわってるんだ。それは外道の道だ。
馬鹿、悪魔。これは俺の巡礼だ。通らなきゃならなかった路だ。そして通って来た路だ。この路は聖地に通ずる。
しかし自分の声には力が枯れていた。
このいまわしい経験を裏返えしても自分を力付けるような温い運命の微笑がにおい出ることはなかろう。
これには臆病のにおいがしみ通っている。
人を撲ったということがこんなにも苦しいことなんだろうか。堪え難い面罵にも自分はたえられるだけ堪えた。
止めれば止める程喧嘩を吹きかけて来る。敵手は少し酔っていたようだった。最後に自分は河原へ敵を誘った。堪え切れなかった侮辱のため投げられたガウントレットを拾い上げたのだ。
それから敵手が少しひるんで見えた。和解しようとした。しかし自分には胡麻化されないという気があった。敵はその酒場を出るや否や自分の
撲りつけたのはその手を振りもぎった刹那だった。
それはいかにも必然な喧嘩だった。原因といえば自分がその男の酒をのまないと云ったことであった。平常から自分はその男に悪感をもよおしていた。
それは一寸も心を苦しめるような喧嘩じゃない。お前の内で苦しんでいるのは臆病の虫だけなんだ。雄々しく決闘しろ。
負傷を恐れるな。その傷口からふき出す血でお前の臆病も流れ出てしまう。
気がつくとその路を自分は今夜三回も通っていた。交番がある路だった。
巡査さん。扇子屋がこの辺にあったはずですが。さっきから見つからなくって。ありました、ありました。
なにげないふりをして、自分は扇子屋の前に立止る。そして交番へ目を注ぐ。これは豊国のかいた近江八景の絵です。左様。豊国は有名な浮世絵師です。
活動写真がはねたのか、たくさんの人が通る。酒が臭ってくる、暗い静かな町を通って来た自分にはそれがよくわかる。辻待ちの車夫の溜りで車屋が手をねじ合いしている。又一人の車夫が笑いながらなんとか云っている。当人同志もげらげら笑っている。
そして今度は帽子の奪い合いをしている。
車夫は呑気なものだと思う。皺の寄った顔をして、学生帽のような帽子をかむって。
時計は十時前だ。一時間余りもおびえながら街をあるきまわっていた。何故自分は遠くへ逃げなかったんだろう。ここは京極通りの裏ではないか。自分は酒場で会う約束をしたKと一緒になろうという気が絶えず自分を引っ張っていたのを知った。Kは自分に、喧嘩を避けてどこかで脱けてやって来給え。東京以来の話をしようと云った。この荒まじい気をKは和げてくれる。
あの酒場にはいずれにしてもあの男等はいまい。撲られたままでその酒場にいるとは思えない。しかも出る時他の一人が勘定をしたのを自分はしっている。
細い道を横切って思い切って賑やかな京極へ出る。酒場はそのあちら側の裏だ。
白線を巻いた生徒を見ると誰かじゃないかと思う。誰か友達があるいていたら一緒になろうという気がある。
活動の小屋の横を通る。三味線の流しがきこえてくる。自分は桜の杖が棄ててしまいたかった。気持は最も落付いていた。夏服が冷く肌に応える。辻を曲る。酒場は二軒目だ。垣根ごしにのぞいて見る。
急に冷いものが背中を通った。それからはなんだか夢の中で活動する人間のような気がした。女の叫声を背にきいたような気がする。走れない。しかも呼吸が切れている。
杖が先きまで震えている。石畳の路上を横にそれようとする途端黒い人がつきあたった。
杖が落ちた。次に自分は
俺は正しい。俺は正しい。
黒い男は何とも云わずに自分をつきとばした。
(大正十一年)