そを
電車の中にはマントの上に、
道行く時は
そを見 そを嗅げば、
嬉しさ心に充つ、
悲しくも友に離りて
ひとり
セザンヌはなく、レンブラントはもち去られ、
マチス 心をよろこばさず、
独り 唯ひとり、心に浮ぶ楽しみ、
秘やかにレモンを探り、
色のよき 本を積み重ね、
その上にレモンをのせて見る、
ひとり唯ひとり数歩へだたり
それを眺む、美しきかな、
丸善のほこりの中に、一顆のレモン澄みわたる、
ほほえまいて またそれをとる、冷さは熱ある手に快く
その匂いはやめる胸にしみ入る、
奇しきことぞ 丸善の棚に澄むはレモン
企らみてその前を去り
ほほえみて それを見ず、
秋の日の下、物思いの午後、芝生の上。
取り出せるは、皺 になれる敷島の袋、
残れる一本を、くわえて、火を点ず、
残れる火を、さて敷島の袋にうつす、
秋の日の下、物思いのひるさがり、芝生の上、
めらめらと、袋は燃ゆらし 灰となりゆく、
あわれ、我が肺もこの袋の如、
日に夜に蝕まれゆくか、
秋の日の下、くゆらす煙草のいとからし。
取り出せるは、
残れる一本を、くわえて、火を点ず、
残れる火を、さて敷島の袋にうつす、
秋の日の下、物思いのひるさがり、芝生の上、
めらめらと、袋は燃ゆらし 灰となりゆく、
あわれ、我が肺もこの袋の如、
日に夜に蝕まれゆくか、
秋の日の下、くゆらす煙草のいとからし。
(大正十一年)