鈴子は、ひとり、帳場に坐って、ぼんやり表通りを眺めていた。晩春の午後の温かさが、まるで湯の中にでも浸っているように体の存在意識を忘却させて魂だけが宙に浮いているように頼り無く感じさせた。その頼り無さの感じが段々強くなると鈴子の胸を気持ち悪く圧え付けて来るので、彼女はわれ知らずふらふらと立ち上って裏の堀の縁へ降りて行った。
材木堀が家を南横から東後へと取巻いて、東北地方や
彼女は、七八歳の子供の頃、店の小僧に手伝って貰って、たもを持ってよく金魚や
今日もまた、堀の水が半濁りに濁って、表面には薄く機械油が膜を張り、そこに午後の陽の光線が七彩の色を明滅させている。それに視線を奪われまいと、彼女はしきりに
ただ一匹、たとえ小鮒でも見られさえすれば彼女は不思議と気持が納まり、胸の苦しさも消えるのだったが……鈴子が必死になって魚を見たがるのと反対に、此頃では堀の水は濁り勝ちで、それに製板所で使う機械油が絶えず流れ込むので魚の姿は仲々現われなかった。
魚を見付けられぬ日は鈴子は淋しかった。落ち付けなかった。胸のわだかまりが彼女を夜ふけまで眠らせなかった。魚と、鈴子の胸のわだかまりに何の関係があるのかさえ彼女は識別しようともしなかったが……鈴子は二十歳を三つ過ぎてもまだ嫁入るべき適当な相手が見付からなかった。山の手に家の在る女学校時代の友達から、卒業と共に比較的智識階級の男と次ぎ次ぎに縁組みして行く知らせを受けて、鈴子は下町の
うっとりとした晩春の空気を驚かして西隣に在る製板所の
「鈴ちゃん、また堀を覗いている。そんなに魚が
忙がしく母親が呼ぶ声を聞いて鈴子は「あ、またか」と思った。六歳になる一人の弟の順一が昨年の春、百日咳にかかって以来、喘息持ちになって、
このお守りさんの為めにも鈴子は姉として母親代りに面倒を見なければならなかった。女学校を出て既に三四年もたち、自分の体を早くどうにか片付けなければならない大事な時期だというのに、弟のお守りなんかに日を送っていることはつらかった。
「誰も、私の気持ちなんか、本当に考えていて呉れない」
鈴子はそう心に呟き乍らまだ堀へ眼を向けている。
「鈴ちゃん、順ちゃんが苦しんでいるって言っているのに判らないかい」
母親の嘆くような声が再び聞えると鈴子はしぶしぶ立ち上って「私だって苦しいんだわ」とやけに思った。しかし、いつまでしぶってもいられなかった。彼女は、急にしゃがんで小石を拾うと先刻ボラのような魚の現われた辺を目がけて投げ込んだ。すると、変な可笑しさがこみ上げて来た。鈴子は少し青ざめて、くくと笑い乍ら弟の様子を見に家へは入って行った。