一
日本留学生小田島春作は女友イベットに呼び寄せられ、前夜
壮麗な石造りの間の処どころへ
小田島は近頃、巴里で読んだ巴里画報の記事を思い出した。カプユルタンのマハラニがドーヴィル大懸賞の競馬見物に乗って出る
暁の空に負けて赤黄いろく
小さい靴の
彼女は小田島が彼女の様子を見届けたのを知ると裳を元通り降して立ち上り、老紳士に云った。
――今日のお昼は小海老 を喰べに行きますの、オンフルールの、サン・シメオンへ。
――承知しました、マドモアゼル。
――あら、あたし独 でですわ。
――妙ですね。浮気?
――いいえ、たった一人でセーヌ河口が見度 いのですわ。
――ホホウ、ヒステリーの起った風景画家というところですな。では晩まで遠慮しましょう。
――その代り、晩は十時にシロで晩御飯。それから賭博場 のバカラへ行きましょう。
イベットは老紳士との会話で小田島に知らせるランデヴウの場所(サン・シメオン)を聞かせた。小田島は二人が二階へ昇って仕舞ってから帳場係に聞いた。――あの紳士は誰だい。
――ドーヴィル市長、ムッシュウ・マシップ(仮名)です。
小田島はいつぞや巴里で彼女がほのめかした通り、イベットは本当にスペイン国事探偵として、このドーヴィルに喰い込んで居るのかと、内心驚いた。二
太陽が
疲れが深い
――御免なさい。あたし、お部屋を間違えたのよ。
――あたし、東洋の方、大変、好き。この儘 ここに居さしてね。
小田島は急いでベッドから半身起し、手を振って云った。――駄目ですよ。僕は真面目な旅行者ですよ。
女は、案外思い切りよくまた扉口へ戻って、云った。――あんた、もし相手が欲しかったら、四百九十三号室に居るわたしを呼んでね。あたし本当はあなた方の相手するような廉 い女じゃ無いんだけど、すっかりこれでしょう。
女は何の飾も無くなった素の手首を見せて――だからあんたから阿片 でも貰 って、やけに呑んで見ようと思って。
小田島は苦笑し乍ら云った。――生憎 と僕は支那人じゃ無いのです。
だが、女はまだ疑って居るようだ。――この土地にはね、死ぬ処を、アッシュや阿片で止めた女が沢山居るのよ。
三
太陽、大河口。かもめ――ドーヴィルから適当な距離のオンフルール海岸は、ドーヴィル賭博人の敗北の
レストラン、サン・シメオンの野天のテーブルで小海老を小田島に
――あなた、突然の電報で驚いた?
――別に驚きもし無いがね。だが一たい僕をこんな贅沢 な処へ呼んで、どうしようって云うんだい。
彼女は「物」からただの女になりふふんとまともに押しても決して彼女が素直な返事をしないことを小田島は知り切って居た。と云ってカマをかけて
――君はこの土地へ、探偵に来たのだろう。
――ふふん、それが何 う仕 たというの。
イベットは少しぎょっとしたが、子供らしくとぼけ、胸を反らして小田島に逆らう様な――腕を借してよ、小田島。私に縋 らしてよ、こんな商売、私、随分、寂しいのよ。
イベットは両手で小田島の腕を握り、毛織物を通して感じられる日本人独特の筋肉が円く盛上った上膊にこの料理店自慢の鳥に詰物をした料理を給仕男が持って来たが、こういう卓上風景には馴れて居るので音を立てぬようにそっと行って仕舞った。
子供が乳房を吸って仕舞ったあとのようなぽかんとした顔をして、イベットはやがて男の腕から顔を上げた。
――あなた、カジノの賭博から、フランス政府はいくら取上げるのだと思って?
――知らないね。
小田島は経済学を専攻して居てもまだ賭博に――カジノでやる賭博で、「シュマン・ド・フェル(賭博の一種)」は五パーセント、カジノでテラ銭を取るのよ。その五パーセントの中からフランス政府は三パーセント取るのよ。それから「バカラ」では親元がはねる手数料三千フランずつに就て政府は六十五パーセントずつ取るのよ。一寸考えても御覧なさい。随分大きいでしょう。
――成程 ね。大きいや。
小田島は驚いた。彼もフランスの財政が賭博税で補われて居る位はうすうす聴いて居た。しかし、それ程一々の賭博から多く取上げて行くことは知らなかった。フランス国内に勢力を持って居る多くの風教団体がフランスの不名誉として賭博税を、また人道の不名誉として賭博場の全廃を、あらゆる精力を費して叫んで来たが一向行われ無い。――で、一体フランス政府へは一年に何 のくらい賭博から這入 るのだろう。
――それが簡単に判る位だったら、わたしこんなに苦労はしなかったのよ。なかなか判らないからまたわたしの商売にもなるのよ。
小田島は彼女の顔をあらためて見た。彼が三年前彼女と巴里の共和祭の踊場で知り合って以来、彼女は随分職業を変えた。ジャン・パトウのマネキン娘。愛犬倶楽部の書記助手。四
人を
ダンス床を取捲いた二百五十組の食卓の一つへ小田島は仕方なしに四百九十三号室の女と席を取った。女は小田島がオンフルールでイベットに別れ、夕方帰って一休みして居ると、
――米 のビスケット……………ふふふ……大変 、旨い 。
彼女の行儀わるく踏みはだけた棒の様な両脚に、商売女の――フランスの女はね。自殺する間際まで喰べものの事を考えて居るのよ。男には失恋しても喰物には絶対に失恋し度くないのよ。
女はこんな訳の分らぬことを云ってますます――わたし今夜ご飯喰べられないのよ。あんた晩ご飯おごってよ。あたし払いが出来なくなって、おっ払われたんだから独じゃこのホテルの食堂へは入れないのよ。
小田島は絶体絶命という気がした。――じゃ、まあ、僕と一緒に来給え。
すると女は急にあたりまえだという顔をしてずんずん先に立って食堂へは入って来て仕舞ったのだ。女は座席に
――ちょいと。何かぱっと眼の覚めるようなものを持ってお出 で、コニャックでも。それから鵞鳥の脂肪 を少し余計持っといで。あたしちっと精力をつけなくっちゃ。
という調子だ。次々に女は勝手な料理を誂えて喰べながら、機嫌の好いままに、小田島に場内の説明をした。あのアメリカ人は傍のあの紳士を前ウイスキーをしたたか呑んで、だんだん酔の廻って来る女と一緒に人仲に居るのも気がさすので、小田島は部屋へ引取ろうとして立ち上ると女は急に彼を
――へん、イベットならオンフルールくんだりまで行った癖に…………。
女の言葉には妙に性根があった。――君は、どうしてそれを知ってるの。
――蛇の道ゃへびさ、ふん。
女は横を向いてせせら笑ったが、今度は前より一層――わたしゃ、いつだってあのイベットに男を取られちまうんだよ。
女の睨みが五
午前一時過ぎのドーヴィル賭博場内だ。
牛乳色に
煙草のけむりと、香水の匂いとで疲れて居る光の中に、賭博台が幾つも漂って居る。それにぎっしり人がたかって居る。難破したボートに人がたかって居るように見える。あまりに縁へのしかかり、沈んで仕舞った様にも見える人がある。
二千フランのテーブルでは大賭博団スタンレー一派が戦を開いて居る。
細くてキチンと服装を整えた男、背中を丸出しの女、二人とも揃って肥った体に宝石を
――あまり
――そうら。遂々 また見付けた!
四百九十三号室の女である。小田島は腹立たしくなった。この女は、まるで誰かに頼まれでも仕た様に、この土地へ来てから自分の行く先々に付いて廻る。実に面白くも無い
だが女は、小田島がそんな腹で居ようが居まいがという調子でぐんぐん男の腕を捲いて仕舞った。仕方がない! 酔って居ないのがまだしもだ、なまじい
――イベットが居る。あんた、イベットが見度くって来たんだろう。ちゃんと知ってる。
五百フランのテーブルにイベットが居た。「親元」に立って居る老紳士の真向いのテーブルに女王のような取り済し方で臨んで居る。彼女は顔に非常に似合う好い色の着物を着て居る。テーブルの組の人達もみんな彼女にその権威を許し彼女の機嫌に調子を合せて居るように見える。中でも彼女の隣の猪首で年盛りの男は卑屈なほど彼女の世話を焼いて居る。イベットも小田島の来たのを認めた。すると
――あたし口惜 しい。あたし、またあいつに負けちゃった。あの小娘なんて人の頭を抑える電気が強いんだろう。
女は涙をぽろぽろ恐ろしく長い酒場の台。客は四五人しか居なかった。
――東洋人の奥さん、旦那にはもう翡翠 の簪 でもねだったかね。
彼は、他の客とずっと離れた椅子へ掛けた二人に近寄り女に冗談を云った。――お黙り、フレデリー、生憎 とこの人は支那人じゃ無いよ。
――ハアハア…………。
男は――あんた、あのフレデリーね、フランスカクテール界のキングって云われる腕前なのよ。
と小田島に教えて置いてまた向うへ――フレデリー、腕を振って調合したのを持って来て。
横柄に誂を出した女はそれで落ち付くとまた愚痴に顔を歪め、イベットの事を云い出す。――あんた、イベットのあの大した服装を見た? ちょいと見は何でも無いようで、あのローズ・ド・ラジェフって色、今までフランスのどんな腕の宜い布地屋でも出せなかった色よ。それをあいつ、何時 の間にか着ちまってる、何という魔ものだ。
女は口惜しがる度に小田島を強く小突く。彼は――あんた、後生だから、あの女にだけは惚れないでよ。他の女ならあたし、手伝っても仲をこしらえて上げるから。
なお女の言うところに依るとイベットはまだ年の割に子供である。その癖甘い毒を持って居て彼女に係わる男を大抵麻痺状態に陥れる。男達も始は玩具のつもりで段々親身になり、何でも彼女の云いなりになる。彼女の我儘には困り切り乍ら結局それを――だから、あんた。あんな女にエトランジェのあんたが引かかっちゃいけ無い。私なら、その場限りの女で……
女は一言も云い逆らわ無い小田島に人々の話によると賭博台はいよいよ盛になり、スタンレー賭博団は千フランのテーブルに席を移し、「オープン・バンク」を開始した。この賭博法は千フラン以上どれ程巨額な相手にでも親になり賭を引受ける。この親は少なくとも百万フランはテーブルに置き、尚、二百万フランを控えに持って居る必要がある。昨夜から賭け続けて来た自動車王シトロエンがもう千万フラン近く持ち越したという話はコップを持つ人達の手を控えさせ息を引かせた。その時若い夫を連れて入って来たのは、小田島も幾度か巴里の劇場で見たことのあるフランスの名女優セシル・ソレルだ。六十に近い
――あたし達はあなたの材料になる為に席を茲 へ取ったようなものねほほ……。
こんな風に場の空気が――へん、また一人イベットの御親類筋が来たな。
女はその老人の白髭に握み掛ろうとした。革命前のロシヤ皇室の探偵隊首領、現ドーヴィル詐欺賭博取締係長の老人はにこにこし乍らその手を捉え、身体を押えてずるずる女を高い椅子から引き降した。
小田島はいよいよ女から逃げ度くなった。隙をねらって急いで酒場の扉口を出ると女はあたふた追って来た。
――あたしは、あんたを東洋迄も追馳けるよ。誰がイベットに渡すもんか。
賭博場を取巻く角や菱形に区切られた花園は夜露に濡れ、窓から射す燈に照らされ、ゴムを塗った造花の様に――不思議、々々々。もっとやってよ。あたしこんな所痛むの始めて、好い気持ちよ。
小田島はしんから困った。疲れて頭がぼんやりして来た。女は女で遂々酔いが極度に発し腕は小田島の腕へしっかりしがみ付き乍ら首を小田島の肩に載せ、こんこんと眠りに落ちて行こうとする。イベットにあわよくば会えようと思って出て来たことも忘れ、彼は前後の考えもなくなり、何もかも面倒になって女をノルマンジーホテルの自分の部屋へ連れ込んで寝かして仕舞った。六
女は小田島の寝台へ投げ込まれ、前後不覚に眠込んで仕舞ったが、彼は女の傍で到底眠る気になれない。彼は長椅子を壁際に押して行き、毛布を掛けてその上へ横になると、疲れが直ぐに深い眠に彼を引き入れて行った。
小田島が長椅子の上から醒めたのは、朝も余程
小田島は廊下へ抜け出し、イベットの泊って居る部屋附のボーイにいくらか金を握らせ、彼女の様子を聞いて見た。ボーイの答えによると彼女は今しがたカジノからホテルへ乗馬服と着替えに帰って来て、
浜には今年流行の背中の下まで割れた海水着の娘や腰だけ
遊覧客相手の贅沢品屋は防火扉をおろしてまだ深々と眠って居た。扉に白いチョークで、
イギリス、対アメリカのポロ最終競技が今日午後にある。アメリカ選手達の予備練習の馬群が浪の泡立つ様にさっと寄ってはさっと引返す間に、緑の
――お早う。これはマドモアゼル・イベットの馬じゃ無いですか。マドモアゼル・イベットは今、何処に居られますか。
男は別に意外な顔もせず答えた。――ほう、あなたはマドモアゼル・イベットを御存じですか。マドモアゼルは今、其処 の崖を降りてお寺へ行って居ます。坊さんに知り合いがあるので賽銭の上り高を聞くのだと仰 ってでした。あの娘さんは実に熱心な社会学者ですな。
彼も――そうですな。本当に熱心な社会学者ですな。
同時にこの物知り顔の男に――市長マシップ氏にも用があるんですが、何処に居られますか。
――市長ですか、市長は今朝五時半まであの娘さんとスコットランドの金持ちミスター・ジョージと三人でルイジで小夜食を喰べ乍ら一緒に居ました。三人は今夜西班牙へ出掛けるつもりです。それで市長は用意の支度に家へ帰りました。
小田島は彼女に喰い尽された残骸としてのドーヴィルを眼の前に感じた。彼女はもう西班牙へ発つのか。ドーヴィルにはもう用は無いのか――小田島はしばらく呆然自分の靴を眺めて居ると男は今度はけげん相に訊く。――貴方はマドモアゼルのお友達ですか。
小田島に突然、イベットを憎む衝動が起きた。イベットは、そんな緊急な事態の矢先きに何故自分をこんな処へ呼び寄せたんだ。彼は腹立ちまぎれに無茶が云い度かった。――これでも僕は彼女の恋人ですよ。
すると男は、今までの柔和に似ず鋭い笑いを見せて云った。――あの娘と知り合いになる程の者はみんな恋人でしょうな。しかし本当の恋人になり得る者は誰でしょうな。私が二十年間、カジノの切符台から女を見た経験から云いますと、あの娘さんはまず見て味う女でしょうな。あまり深入りするとまあ身の破滅というたちの女でしょうな。
小田島は何のことやら判らないで云った。――御忠告有難う。兎 も角 、イベットに会って来ましょう。
小田島のイベットに対する怒りはもう消えて居た。彼はしみじみとした気持ちでイベットに逢うため崖に付いた一筋の道を寺の方へ降りて行った。七
寺の役僧に礼を云ってイベットは小さい手帳を乗馬服の内隠しに仕舞った。それから役僧の姿が祭壇の横の扉に隠れたのを見届け小田島に近寄って来た。
――よくお出掛けになってね。私も急にあなたにお目にかかり度い事情が出来たの。けど先刻ホテルに帰って聞いた時お部屋は閉ってあなたはまだ寝てらしった御様子よ。
薄暗い祭壇の長い――君は発つんですってね。
――まあ、何処から聞いて来て?……そうなの、急に、今朝がたそれが極 ったような訳なの。
――何うしてそんなに急に極まったの。誰かが極めたの。君自身が?
――みんなが極めたんですわ、市長さん始めこのドーヴィルの人達が。
――今日の夕方発つんだってね。彼処 で馬を番してるお喋舌 の男に聞いたんだ。
――ええ、あの男お喋舌だけど割合いに親切で正直者よ。――で私、急に今朝あなたにお目に掛ろうとしたの。それからモンブラン(白山という馬の名)にも乗り納めのお名残が惜しみ度かったのよ。
彼女は殆ど小田島に寄り添って来た。――そして、もう調べはついたの?
――ええ、大たい――
彼女は廻りを見廻して小さい声になり――そろそろ歩き乍ら話しましょう…………フランスの大蔵省が秘密にして居る賭博場からの揚り高の大体の見当がついたわ。もっとも数字は百以上ある賭博場 の中の主な九つだけに就いて判っただけだけれど、それだけでも判ればあとの予想はつく訳よ。あなたそれは如何 位あると思って? 去年のたった九つだけの賭博場からの揚り高でも総額二億六千万フラン以上よ。
二億六千万フラン! それを日本平価に換算すれば二千万円以上の見当だ。それが九つの――マドモアゼル・イベット! 君は折角 探ったそういう秘密を、どうして僕にそう喋舌っちまうんだ。それから僕をこんな訳も判ら無い贅沢地へ連れ出してなぶるような目にばかり逢せて置いて何が面白いんだ。君が僕に要求するのは一体何だ。
小田島の言葉には来る早々からあんな女に――矢張り、あなたも、そう云う事をいう方だったの。
彼女は――東洋人も西洋人と同じ様に矢張り謎に堪えられ無いのでしょうか。
近くでつくづく見るイベットの身体は、乗馬服の毛織地を通してもその胸と腰とのふくらみに何処か「女」になり切れ無い小児性体質が感じられる。それがまた異様な魅力となって小田島の愛感を急き立てる。彼はぐっとイベットの手首と肩を押え、苦しそうな声を出した。――云って呉れ給え。もっと、はっきり云って呉れ給え。僕には君の云うことが、まだはっきり判らない。
――ムッシュウ・小田島! もう最後だから、何もかも私に云わして。
――最後って、此処で別れたからって何も君と僕とこれから逢えない訳は無いじゃ無いか。
――いいえ、最後よ。私、何も彼 もお話しすれば判りますわ…………さ、其処へ掛けましょう小田島。
彼女は少し離れた崖際の木の下にあまり雨にも濡れずに置き捨てられた様な一つの古いベンチを見出した。二人は掛けた。四方は森閑として居る。折々遠方でポロ競技場の馬群に浴せる歓声が聞える。――私の性質に私の今までの仕事がぴったり合って居たと思って、小田島。私、仕事なんかに向く女じゃ無いのよ。今度の仕事なんかも私が腕がある女と見込んだのより却って私の子供っぽい性質が人に好かれたり人を油断させたりするのが、命令した人達の目の着け所だったのよ。
――それは僕にも判る。
――私のこの性質が私を或点まではどの仕事の時にも私を仕合 にしたり私に面白い目を見せて呉れたのよ。でも結局は仕事ですもの。仕事となれば何だって辛 いのよ。だから、私の辛い時の愚痴や溜息や、私のたまに気がはずんで得意になってするお喋舌や、それから慰めが欲しくなってするいたずらなんかを、黙って受けいれて呉れる人が欲しかったのよ。でなけれや、私の生きる根が無くなっちまうのよ。
――ふむ。
――でも欧洲人には誰一人そんなことに堪えて呉れる人は無かったのよ。欧洲人というものは理解無しには何事にも肩を入れて呉れない性質の人種よ。私のこんな妙な性質は説明したところでなかなか理解しては呉れ無いのよ。また説明して理解して貰っちまうと今度は私に対して父親や母親のような気構えになって、あんまり単純に甘やかし初めるのよ。贅沢を云う様だけど私の望んで居る「条件」を男としてかなえて呉れる魅力を無くして仕舞うのよ。私沢山の欧洲人に失望してあなたを見付けたのよ。
――うむ。だんだん君の話が判って来たよ、イベット。
――まあ聞いてて…………今まであなたは私のすることに無関心であるらしい程黙って私に何でも勝手を為 せて呉れたわね。それで居て全然私に興味が無いという素振りでも無かったわね。あなたこそ私の妙な慾望に堪えて呉れるただ一人の男だと、私心の中で感謝して居たの。
――判った。イベット。よく判った。
――まあ聞いてて…………まったくあなたは今まで私の気儘な謎に何の説明も求めずつき合って下さったわね。私ね、それが東洋人のあなたの性質の特徴かと思って居たのよ。
――ちょっと待って、イベット。
小田島は額の汗を急いで拭くとイベットの肩をしっかり掴んで揺ぶった。――悪かった。僕は矢張り君に対して今迄の僕で居ようね、イベット。
――ええ、有難う…………でもあなたの真当 の処が判って見れば…………それにもう何もかも最後のお別れだわ。
――済ま無い、悪かった。
――いいえ、私こそひとをそんな勝手な相手にして置こうなんて虫が好過ぎたのよ。私こそ済まなかったのよ。でも私、幾度も云うようだけど上べはこんな勝気で陽気な女だけど、どうかすると、まるで堅い人間の壁の様になる時があるのよ。そしてその中へ孤独の自分を閉じ込めて息を吐かせない時があるのよ。
――僕もそういう時の君によく出逢った。僕は陽気な君より、そういう時の冷たい君が好きだった。
小田島は、ごくりと一つ――ねえ、イベット。国事探偵なんて君にはあんまり大役ですよ。君はもうそんな危険から抜け出してもっと気楽な身分になりなさい。君の為に遺産の遺言状まで書いて居るお爺さんさえ有る相じゃないか。早く巴里へ行ってそのお爺さんの養女にでもなって気楽な身分におなんなさい。
イベットがそっと眼に当てたハンカチが、涙を拭いて居るように小田島には見えた。――有難う。でも何もかももう晩いのよ。私はもうフランスには居られ無いの。国事女探としてフランスの黒表に載って仕舞ったのよ。私送還されるのよ、西班牙へ。そして国元の西班牙へ返されたところで私に探偵を命令した反プリモ党は何時天下を覆 えされるか判ら無いのよ。どっちみち、塀の前の楡 の木の下で私が銃殺の刑に会うことは知れ切ったことなのよ。
――イベット、それは本当か?
――ええ、本当ですとも。
イベットは一寸あたりを見廻した。人は居なかった。が、イベットは――スペインの前の執権、プリモ・ド・リヴェラは、正義振って遊楽地の賭博を禁止したのよ。で、政府に収入がなくなったばかりで無く、遊楽地という遊楽地は火の消えた様に寂 れる仕末…………ここから海岸伝いで国境を越えたサン・セバスチアンが宜い例ですよ。何年かあの港は賑な遊び場だったのに、禁止後忽 ちスペインのなかでも極 平凡な工業港に変っちまいました。それで今度の政府は大々的に賭博の復興をもくろんだの。私の秘密な任務は、その復興策の参考の為に、フランス遊楽地の繁栄策を探ることだったの。そしてまあ、私のやれる迄はやったのですけど第一番に賭博場 の探偵長ボリス・ナーデルの眼についたらしいのよ。
――ふうむ。それで君、何うしても今夜スペインへ送還されるの。
――ええ、どうしてもよ。そして帰った処で今も云った様に政変は明日起るかも知れないスペインなんです。私はあなたにいま一生の最後のさよならを云って置くのが利口だと思うのよ。
彼女はしげしげ小田島の顔を見乍ら手を差し出した。彼もその手を握り返したが、力は無かった。――仕方が無いなあ、それが君の運命なら。
イベットは顔の緊張を解いてベンチから立ち上った。そして乗馬服の胴を撫で、スカートを軽く二つ三つ叩くと俯向き加減に歩き出した。が、ベンチから未だ腰を揚げ得ないで思案に暮れて居る小田島を再び振り返ったイベットは、もういつもの快活なイベットの張のある顔に返って居た。そしてその顔へ少しの――ムッシュウ・小田島! あなた私に、何か欲しいものは無い?
彼はだしぬけに云われて――ほ、ほ、ほ、ほ、判らない? ムッシュウ・小田島。
小田島は手足まで赫くした。――……………………。
――私、どうしても嫌いな男や、私に何も呉れ無かった男にはいくら最後でも何にも遣る気はしないけど、あなたは可成 、私の望みにかなって下さったわね。ムッシュウ・小田島。
小田島は更に赫くなった。――私あなたにお礼をするわ。今日十時半から十二時までの間…………私あなたのお部屋へ訪ねて行くわ、ね、よくって? 小田島。
八
突然、イベットに永訣しなければならなくなった世にも憐れな落胆者小田島は、また同時に世にも
小田島がホテルの自分の部屋の扉を開けると、今まで意識から抜け切って居た女がまだ部屋に居た。女は
女は彼を見ると、それでも沓下だけは大急ぎで
――あんた帰って来ないもんだから、一人で朝飯始めたのよ。まあ朝の御挨拶をしましょうね。ボン・ジュール・モン・プチ。
そしてナプキンを彼の胸に挟んだ。――ところであんた、何を喰べるの。散歩したんでお腹が空いたでしょう。
彼には今、怒る勇気も抵抗する気力も無いのだ。――僕はこれが好い。
小田島はグラスに酒をついで呑んだ。一杯では胸の渇きは納まらない。黒パンにチーズを塗り乍ら、じっと彼が酒を
――やっぱりそうだ。この人はイベットに逢って来たんだ。
小田島はすこしてれた様子で手を止めず、ぐいぐいグラスを呑み干すので、女はいくらか気を呑まれて呆然と見て居た。が、やがて椅子を離れてしょんぼり着物を着初めた。――まあ宜いだろう。折角喰べかけたご飯だけでも喰べてからにしたら。
斯う云う小田島に女は何の返事もし無いで、すっかり着物を着てしまい、髪も手早く直した。そして小田島の傍に来て手を差し出した。――如何 したと云うんだい。あんまりおとなしくなり過ぎたじゃ無いか。
――すっかり判ってるのよ。イベットが追付けこの部屋へ来るんでしょ。そしてこの部屋の女王になるんでしょう。その時まであたしがこの部屋に残っていたら、あたしあいつにどんな憎しみを持って居ても、腰元の様に愛想よく使われなけりゃならないから。
小田島は少し驚いた。イベットがこの部屋へ来ることをこの女がどうして知って居るのだろう。――あたしを追い出すのは、いつもあの花よ。
女は鏡の前の花瓶のゼラニュウムの花を指して斯う云った。この花は、いつもこの女に邂り合せの悪い花であった。この花は、いつもイベットが男に最後のものを許す時、その部屋に飾る花である。この女が持とうとするほどの男が、いつもイベットに行って仕舞う。時々この女からイベットの持とうとする男に小田島は耳ではかなり
時計が十時を打った。すると女は突然あらあらしく扉口の方へ出て行った。小田島は少し
――イベットは今夜ここを発ってスペインへ帰るのだよ。もう永久にフランスへ帰って来ないんだよ。
振り返った女は顎を突き出し、当の相手が小田島ででもあるかのように云う。――じゃ、あたしもスペインへ行く。あっちの男をイベットと張り合ってやる!
九
初秋の午前の陽が、窓から
イベットは男に口をきくのを許さなかった。
――いま二人は「物」よ。ただそれだけ。「物」が最上の価値を出している。ただそれだけ。
たとえそれだけにしろ、たとえ礼心だけにしろ、イベットが今の小田島に対して、男に対する女になることを努めて居るのが、小田島にはいじらしくて仕様が無かった。小田島はしきりに溜息をした。そして一言でも云い掛けると、唄でイベットはまぎらした。
小田島はいつの間にか、眠って仕舞った。
一時間半は過ぎた。何かに自分を根こそぎ持って行かれるような気持ちを、夢うつつの間に覚え、はっとして彼が半身を起すと、もうイベットは彼の傍には居無かった。
イベットが出発する夜の時間に小田島はホテルの玄関に停って居た。
迎えの自動車が来た。しかし、それには市長も金持ちも乗って居なかった。その代り探偵長ボリス・ナーデルが旅行服で乗って居た。多勢のホテルの使用人達に付き添われて出て来たイベットは落付いた色の軽快な服装の為に寂しい威厳まで加わった。
――マドモアゼル。お気の毒ですが市長マシップ氏も、ミスター・ジョージも西班牙 へ御同行出来ません。その代り私が国境までお見送りする。この花は市長マシップ氏と、ミスター・ジョージとの贈物です。お二人とも宜しくと云われました。それからも一つの花束は当ドーヴィル警察署からの贈物です。
――警察?
流石にイベットは顔色を変えた。しかし、直ぐ態度を取り直した。――判りました。皆さまの御厚意に厚く御礼申上げます。
彼女は車にゆったり乗った。探偵長を横に坐らせて彼女は平常よりも権威のある胸の張り方をした。小田島の挨拶にはもう通り一遍の目礼だけしかしなかった。車が動き出そうとする時、賭博場の切符台の男があたふた駆けつけて来た。男はボンボン菓子をイベットに差出した。
――御機嫌宜う、マドモアゼル。何卒 、途中お体をお大切に。
これに対してもイベットは形式だけの答礼をした。この時また、転ぶ様に馳けつけて来た女、この二日間小田島に纏り続け、彼の前でイベットを目の
――イベット、あんた本当に西班牙に帰されるの。じゃ、あたしも帰る。イベット。あんたが居ないんじゃあたし一人此処に居たって詰 んない。私も連れて帰ってお呉れね。イベット。
するとイベットの代りに探偵長ボリス・ナーデルが少し厳格な調子で云った。――そうは行かない。イベットの車は特別仕立てなのだ。
女はいつもの――では私、汽車で帰る……だけど私今、お金ちっとも持たないの。イベット、済まないけど今居る安宿の諸払いとマドリッドまでの汽車賃とそれから当座のお小使だけあたしに呉れない。
イベットは何にも云わない。殆ど女の方を振り向いて見無かったが、女の言葉が終ると黙って――有難うよ、イベット。じゃ、あたし仕度出来次第に早く此処を発つ。ね、マドリッドで逢いましょうよ。ね屹度 。またあたし、あんたの旧の家へ直ぐ訪ねるわ、ね。
女は一人で承知してまた馳けるように帰って行った。勿論、あれ程つき纏った小田島が直ぐ眼の前に居ようが女は車を見送ったホテルの使用人達は皆引込んで行った。が、小田島はまだ大円柱の蔭に停んでイベットが残して行った
――可哀相ですね、イベットは。とうとう国事探偵の嫌疑で国境まで追放です。
小田島は何か相槌を打とうとした声が咽喉へ詰った。――惜しい娘だがこれ以上、ドーヴィルへあの娘を置くことは出来ません。あの可愛い利口な娘にかかっては、フランスが盗まれてなら無いものまで根こそぎ盗まれて仕舞いますからな。
――あなたはあの娘が、何か盗んだことでも知って居るんですか。
――は、は、は…………あまい恋人だね、あなたはフランス人というものをよく御存じ無いんですね。殊にこのドーヴィルの人間をね。市長始めわたし達はとうからあの娘が探偵だって事はよく知ってましたよ。
――それでよく今日まで、あの娘を此処へ置きましたね。
――しかし、直ぐ追い出しちまうにはあんまり可愛ゆい娘でしたからな。妙に魅力のある娘でしたからな。それであんまり害になら無いところまで此処に置いてやりました。ドーヴィルの花園の装飾にはいろいろ翼の模様の変った胡蝶が必要ですからな。
――あなたは随分長く、あの娘と交際 いましたか。
――ええ、あの娘が此処へ来ると間もなくからね。わたし達は知って居てあの娘の技巧にも乗ってやりました。賭博場 の秘密も教えてやりました。フランスの致命傷になら無い程度の秘密まではね。あの胡蝶は只の胡蝶と違ってそういう餌を必要としましたから…………お蔭であの娘の居た三ヶ月間、このドーヴィルは浮き浮きとして金も余計に落ちました。だが此処の季節ももう直き閉じますし、それにこの上あの可愛ゆい娘に居られたらわたし達は愛国心に反 くまで娘に国情を探らしてやることになりそうです。そこで衆議一決追放、ということに極りましてね。
小田島は呆れた後から――老獪 だな。全く老獪だなフランス人は……探偵に来たイベットを、あべこべにドーヴィルで利用したんだな。馬鹿にしてるな、まったく。
――は、は、は、怒っちゃ気が早いよ、あなた。わたし達ドーヴィルの人間は商売気を離れてあの娘を愛して居たってことをよく聞き取って下さいよ。フランス人の打算と純情の間に線を引くのはなかなか難かしい。ね、今日わざわざ探偵長に国境まで娘を送らせたのも国探としてフランス黒表に載って仕舞ったあの娘が途中で捉 まったりし無い保護をしたんですよ。それからあの娘が居無くなるので、市長始め、みんなどんなに気を落して寂しがることでしょう。で、今夜市長の邸 であの娘を好いて居た連中が集り、あの娘をしのぶ会をやるんです。ジンの熱いやつでも って、嘸 、男同志が溜息をつき合うことでしょう。